2007-10

10・18(木)ベルリン州立歌劇場来日公演「モーゼとアロン」

 東京文化会館

 先日の「トリスタン」でのバレンボイムとシュターツカペ・ベルリンの演奏は、ナマで聴いた中では、これまでのいかなる「トリスタン」をもしのぐ感銘深いものだと断言してもよいほどだが、この「モーゼとアロン」の演奏も、過去の二つの体験に次ぐものだった。

 「二つ」というのは、1996年にザルツブルク音楽祭でピエール・ブーレーズが指揮した時と、99年にこれもブーレーズがベルリンでシカゴ響を指揮した演奏会形式上演のこと。特に後者は、管弦楽のすべてのパートが聞こえるほどの明晰さと、厚みのある壮麗さという、相反する要素が両立した、驚嘆すべき演奏だった。それらに比較すると、バレンボイムとシュターツカペレ・ベルリンの演奏は、もっと翳りの濃い、苦悩が感じられるような音楽である。それはそれで、すばらしい。

 シュプレヒゲザングで全曲を押し通すモーゼを演じたのは、ジークフリート・フォーゲル。底力のある声で、これは立派なものだろう。
 それに対し、アロン役のトーマス・モーザーには、この高音域は少し苦しかったようだ。表現も叙情に傾いたような気もする。以前この役を得意としていたクリス・メリットの、あの細身で張りのある声の、知的で狡猾で詭弁家的なキャラクターがいかに貴重だったかを思い起す。とはいってもこのオペラでのアロンという人物には、私は昔からすこぶる共感と同情を覚えてしまうのだが。

 ペーター・ムスバッハの演出・美術は、博物館か劇場のホワイエを思わせる暗い空間でドラマを展開させるという、息苦しさをさえ感じさせる舞台である。火も、いばらの茂みも、モーゼの杖も、蛇も現われてこない。われわれは、モーゼが言う「神」と同様、それらを「想像」しなければならない。
 しかしその中で、モーゼを震撼させる「黄金の像」(オリジナルでは黄金の仔牛。この舞台では唯一「色」を持っている)と、モーゼが山から携えてきた「十戒」を印した石板(黒い上着に包まれている)の二つだけが、いずれも「偶像」にすぎないことを示して「形」に具象化されている。これは、実に理に叶った演出だ。

 登場人物たちは、男も女も、モーゼもアロンも、すべて黒色のスーツにサングラス、オールバックの髪型だ。要するにタモリみたいなのが、舞台一杯、クローンのごとくあふれるという具合である(カーテンコールの際、一人ずつ出てくる歌手がすべて同じ格好をしているのが、何とも面白い)。
 全員が同一の扮装で、個人の「顔」が見えないというのは、群集心理を描く点では絶好だ。が、彼らの心理状態が変化していく過程を示すという面ではやはり単調に過ぎ、些か物足りぬものを感じさせる。
 それに、モーゼとアロンが同一の姿をしているのも、この2人の主義の違いを考えれば、いかがなものか。しかし、2人は表裏一体、実は同一人物の異なる側面を表わすというねらいなら、それもまた皮肉な宗教観で面白い。二つの主義の葛藤を「永遠の課題」として残すなら、アロンが敗北するという第3幕(台本のみ)は、確かに不要になる。

 ダイナミックな群集の動きという点で思い出されるのは、1970年の大阪万博参加公演で、ベルリン・ドイツ・オペラが日本初演したルドルフ・ゼルナーの演出(当時のわれわれには破天荒で衝撃的なものに思えた)と、前述の96年ザルツブルクでのペーター・シュタイン演出の舞台。あの二つは、本当に凄かった。
 その他、動きはあまりないけれども群衆の表情の面白さでは、2003年シュトゥットガルト州立劇場でのヨッシ・ヴィーラーとセルジョ・モラビトによる演出。アロンが映してみせる映画に人々が興奮して我を失っていく、という風変わりな舞台だった。

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