2017-09

1・31(土)マーティン・ブラビンズ指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団

    愛知県芸術劇場コンサートホール  4時

 29日と30日の演奏会取材も欠席せざるを得なかったその風邪も抜けず、咳まで残るというわけで、体調甚だよろしからずだが、とにかく10時半からの早稲田大学エクステンション・センターのオペラ入門講座の今期最終回を12時半に完了後、東京駅午後1時半発の新幹線に飛び乗って名古屋へ向かう。音楽の友の演奏会評と、日本芸術文化振興基金の事後調査を兼ねてのものである。

 名古屋フィルの今シーズンのテーマ「ファースト」シリーズも、残すところ、今回を含め3回の由。多少のこじつけはあっても、何が何でも「最初の1番」の作品にこだわっていた先ごろまでの選曲に比べると、多少定義が緩やかになったり、オマケをつけたりする傾向も見えてきたようだが・・・・。
 それはともかく、この1月定期のプログラムは、R・シュトラウスの「セレナード変ホ長調作品7」、ブリテンの「シンプル・シンフォニー」、ワーグナーの「ワルキューレ」第1幕全曲(演奏会形式)というものだった。これ自体は、極めてリキの入った選曲ではある。

 R・シュトラウスの、管楽器アンサンブルのための作品「セレナード変ホ長調作品7」では、13人の奏者は立ったままで演奏。ブラビンズの念入りな指揮により、見事な均衡を保った演奏が繰り広げられた。
 惜しむらくは、慎重に過ぎたとでもいうか、音響的に美しいのは確かながら、生き生きとした起伏と表情に些か不足し、この曲の寛いだ温かさがこちらにあまり伝わって来なかったことか。

 続くブリテンの「シンプル・シンフォニー」は、一転して弦楽器のみの編成。チェロ群以外の奏者たちが立ったまま演奏した。2曲におけるこれらの配置は、オーケストラの演奏会としてはちょっとばかり凝った演出と言えるだろう。
 この曲でもブラビンズの実に丁寧な音楽づくりが目立ち、一風変わった「シンプル・シンフォニー」となった。通常の演奏よりも沈潜した叙情味といったものに重点が置かれた解釈━━とでもなるか。

 第1楽章は最弱音を強調した「ささやくような」音づくりが多く、原曲の副題「騒がしいブーレ」を、むしろアイロニカルに解釈したものと言えるかもしれない。さらに第3楽章(感傷的なサラバンド)では、極度に遅いテンポを採り、万感こめてじっくりと歌い、特にあの旋律美にあふれた中間部(私の好きな個所だ)では、音楽の構築感さえ曖昧にするほどの、失速寸前(?)のテンポを採っていた。
 英国作品を指揮するブラビンズの手腕については私もこれまで賛辞を惜しまなかったつもりだが、あそこまで思い入れたっぷりにやられると、ちょっとね・・・・というのが本音。

 第2部での「ワルキューレ」第1幕は、スーザン・ブロック(ジークリンデ)、リチャード・バークレー=スティール(ジークムント)、小鉄和広(フンディング)が協演。
 予想通り丁寧な、オーケストラの響きに念入りな均衡を保たせた演奏で、もともと叙情性の濃いこの第1幕の音楽が、いっそうその性格を強くする。終結にかけては音楽もそれにふさわしく昂揚して行ったが、そこがブラビンズの感性ゆえか、あるいは日本のオケの特徴がここにも現れたか、音楽の官能性や熱狂、露骨さなどはやはり控えめで、総じて坦々とした演奏となっていた。

 たとえばジークムントとジークリンデが目を見かわしたとたんに各々の心に起きる感情の揺れ、ジークリンデが剣の刺さっているトネリコを目で示す瞬間の彼女の感情の起伏、そして2人の愛情の高まりなど、それらをワーグナーはもっと精緻に表情豊かに、劇的に音楽で描いているのではなかったか? そういった個所の音楽があまりに淡々として、なだらか過ぎるのである。
 ブラビンズのワーグナーが精密で丁寧で綿密なことには異論の余地がなかろうが、もし彼の指揮で全曲を聴いたなら、おそらくスリルのない冷静な「ワルキューレ」になってしまうのではないか、と・・・・。

 スーザン・ブロックが、表情豊かに美しく歌ってくれた。彼女のステージでの歌唱は、日本でもこれまで新国立劇場の「ジークフリート」(プレミエ時)やデ・ワールト指揮N響の「指環」などで聴く機会があったが、それらでのブリュンヒルデとは違い、今回のジークリンデ役での歌唱は彼女の声に合っているだろう。

 バークレー=スティールは、出だしは良かったのだが、2重唱の終りに近づくに従い、声に力強さや精彩を失なって行ったように聞こえたのは残念だった。前夜と今日午後の連続で疲れたか? いっぽう小鉄は、よく響く声で、悪役フンディングとしての責任を果たしていた。
 今回はもちろん演奏会形式だが、指揮台の下手側に立ったブロックとバークレー=スティールは、適切な範囲の演技を取り混ぜて歌った。これに対し、上手側に位置した小鉄は、終始泰然たる挙止。

 名フィルは、メリハリの点を別とすれば、柔らかい音で美しいワーグナーを紡いでいた。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 良い音楽と、ひつまぶしの賞味のおかげで一時は薄らいでいた風邪が、名古屋市内の猛烈な冷えのために、またもや頭をもたげて来る。明日は広島へ廻り、細川俊夫の「リアの物語」の新演出・能舞台上演を観に行くつもりだったが、もしかしたら諦めて東京へ引返すことになるかも。
       ⇒別稿 音楽の友3月号 演奏会評

1・27(火)ワシーリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・リヴァプール・フィル

    サントリーホール  7時

 ワシーリー・ペトレンコは、昨年3月にはオスロ・フィルと来日していた。が、今回はその時と違い、ロシア20世紀の作品のみを携えて来ている。これはV・ペトレンコの本領を知るには絶好のプログラムだろう。

 いつものように骨太な音の、しかも時には無造作に聞こえるほどの荒々しい音の構築だが、それがツボにはまると実にダイナミックで痛快無類の音楽になる。ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲では「魔王カスチェイの踊り」で豪壮な迫力を全開、また「春の祭典」では速めのテンポで大音響のエネルギーを噴出させた。

 この2曲の間に演奏したプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロは辻井伸行)でもV・ペトレンコは遠慮せずにオーケストラを咆哮させる。しかし、この曲のオーケストラ・パートが、こんなにも雄弁多彩で荒々しい━━若きプロコフィエフの奔放な情熱が暴れ回るように面白く聞こえたのは、滅多にないことであった。

 感心したのは、これだけラフ・ファイター的な音楽づくりだったのにもかかわらず、各楽器のパートが荒々しい躍動の裡にも明晰に浮かび上がり、オーケストラの音がほとんど混濁していなかったことだ。
 ロイヤル・リヴァプール・フィルという楽団は、技術的にはいわば日本の在京オケ群の第5番目あたりに相当する力量かと思われるが、たたきつけるエネルギーの強さ、明確な音色のコントラストなどに関しては、さすがのものを感じさせるだろう。V・ペトレンコとの相性も━━その演奏の特徴への好みは別として━━なかなか良いようである。

 最後のアンコールは、エルガーの「朝の歌」、リムスキー=コルサコフの「道化師の踊り」、ブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」の3曲。V・ペトレンコはその都度聴衆の方を向き、手を胸の前で動かし、「もう1曲やる? 聴きたい? ホント?」というようなジェスチュアを笑顔で繰り返す、という愛嬌ぶりであった。

 辻井伸行のピアノは、このアクの強いV・ペトレンコの指揮と比較してしまうと、ずいぶん清澄で透明で、日本的な美しい叙情のしみとおった演奏に聞こえる。2階席センターの7列目あたりで聴くと、やはりオーケストラの怒号の中に隠れてしまうことも多い。といっても、そもそもコンチェルトでこんなに大きな音を出す指揮者は稀なのだが━━それなりの面白さがあることは前に述べたとおりだが。
 それゆえ辻井の本領は、むしろアンコールで弾いたラフマニノフの「前奏曲作品32の12」と、「パガニーニの主題による狂詩曲」の第18変奏を辻井自身が編曲したという小品(この編曲、最後の方をもう一工夫していただきたい)に、より強く顕われていたといっていいだろう。

1・26(月)METライブビューイング ロッシーニ:「セビリャの理髪師」

    東劇  7時

 バートレット・シャー(Bartlet Sher)━━日本語資料での表記はそうなっているが、案内役のデボラ・ヴォイトは「シェア」と発音していた。私も「シェア」の方がいいと思うのだが如何━━の演出によるプロダクションの再演。昨年11月22日の上演ライヴだ。何年か前の上演の際にも、ライブビューイングで上映されたように思う。

 今回の指揮はミケーレ・マリオッティ。配役は、フィガロがクリストファー・マルトマン、ロジーナがイザベル・レナード、アルマヴィーヴァ伯爵がローレンス・ブラウンリー、ドン・バルトロがマウリツィオ・ムラーロ、ドン・バジリオがパータ・ブルチュラーゼ、その他。

 何といっても、イザベル・レナードが可愛い。METの映像ではすでにケルビーノ(フィガロの結婚)やドラベッラ(コジ・ファン・トゥッテ)が紹介されているし、また2013年のサイトウ・キネン・フェスティバル松本で、活発な子供(子供と魔法)と色気満々の時計屋の女房(スペインの時)とを見事に演じ分け━━別の歌手が演じているのかと思ったくらいだ━━わが国にもおなじみである。ロジーナとしての歌唱には未だそれほど強烈な個性は感じられないが、キャラクターの愛らしさは舞台映えする。

 ローレンス・ブラウンリーは、全曲幕切れの長大なアリアを素晴らしく歌った。ムラーロのバルトロも、なかなかの貫録だ。これらに対し、指揮のマリオッティが、何かおとなしい音楽づくりで、ロッシーニのユーモアとアイロニーを描き出すには物足りなかったのが残念である。
 とはいえ、ロッシーニの音楽の本来の良さと、シェアの流れのいい演出とで、まずは楽しめる「セビリャ」だろう。

 終映は10時15分頃。
 この東劇、座席にクッションが設置された。これはいい、と思ったが、訊けば期間限定の由。次の「マイスタージンガー」までは在るらしい。

1・25(日)藤原歌劇団創立80周年記念公演「ファルスタッフ」

    東京文化会館大ホール  3時

 「オリイ伯爵」「蝶々夫人」「ラ・ボエーム」と進んで来た藤原歌劇団の創立80周年を記念する一連のオペラ上演も、このヴェルディの「ファルスタッフ」で千秋楽。ラインナップが全部イタリア・オペラであることが、いかにも藤原オペラらしい。名匠アルベルト・ゼッダを指揮に招き、粟国淳の丁寧な演出を施して盛り上げた。

 ダブルキャスト・2回公演の今日は2日目で、タイトルロールに折江忠道、フォードに森口賢二、フェントンに中井亮一、アリーチェに佐藤亜希子、ナンネッタに清水理恵、メグに日向由子、クイックリー夫人に牧野真由美、その他の歌手陣による上演。
 美術は横田あつみ、衣装はアレッサンドロ・チャンマルーギ、照明は笠原俊幸といった顔ぶれである。

 見事だったのは、何といってもやはり、ゼッダの滋味あふれる指揮だ。東京フィルの音が、まとまってバランスよく聞こえる。とりわけ大きな音ではないけれども、音楽の表情が豊かなのである。もう少し躍動感があればもっと良かったかなと思ったが・・・・。
 しかし「行け、老いたるジョン」の個所で、歌詞にふさわしく対応した音楽が突然威厳のあるリズムを力強く刻みはじめるあたりなど、東京フィルもゼッダの指揮によく反応していたと思う。

 そして当たり前のことだが、指揮が良いと、声楽陣がぴたりと決まるのだ。セリフがそのまま歌になったようなこのオペラの音楽を、日本人歌手たちが実に生き生きと歌っていた━━。

1・24(土)山田和樹指揮日本フィル マーラー・ツィクルス第1回

     オーチャードホール  3時

 また咳が出始めたため、周囲への迷惑を恐れて22日のジャナンドレア・ノセダ指揮のN響と、23日の都響の「一柳慧の第9交響曲初演」を棒に振ったのは痛恨事だったが、今日はなんとか午前中に早稲田大学エクステンション・センターでのオペラ入門講座(第3日)をこなし、次いでこの「ヤマカズのマーラー」初回を聴きに行く。

 今回の山田和樹&日本フィルのマーラー・ツィクルスは、2017年6月までの3年がかりのもので、交響曲の全9曲を演奏する。
 組み合わせるのはすべて武満徹の作品で、この選曲は、いいアイディアだろう。音楽の上でのいろいろな意味での関連性と、もうひとつは、日本の指揮者とオーケストラが行なうツィクルス━━という点においてである。

 今日の1曲目は、武満徹の30分近い長大な作品「オリオンとプレアデス」。静謐さと、透明感と、澄んだ色彩とが交錯するこの曲を、山田と日本フィルが素晴らしく再現してくれた。
 チェロのソロを菊地知也が受け持ってのこの演奏、眼を閉じて聴いていると、無限の空間の中にチェロ(もしくは何か不思議なもの)が浮遊しているような、形容しがたい夢幻の世界に引き込まれるような感に襲われ、はっとしてしまった瞬間がある。

 マーラーの「交響曲第1番《巨人》」は、一般に演奏される「現行版」でなく、「1893年ハンブルク版」が使われると予告されていた。
 ただし、プレトークでのマエストロ山田の解説によれば、今回演奏するのは、以前にあった「ハンブルク稿」の楽譜(手稿)ではなく、「第2ハンブルク版」ともいうべき、「改訂されたハンブルク稿」で、すでに印刷された楽譜であるとのこと。

 なるほど、実際に演奏を聴いてみると、かつて若杉弘と東京都響の演奏で聴き、現行版とのあまりの違いに衝撃を受けた「ハンブルク稿」(フォンテックからライヴCDが出ていた)とは全く違う。「花の章」は入っているものの、他の4つの楽章はむしろ現行版に近い形状という印象を受ける。
 ただ、このオーチャードホールは、1階席中央で聴くと非常に残響が多く、オーケストラ全体が飽和的な音になるため、細部が判り難いきらいもあるのだが━━。

 結局これは、先頃ヘンゲルブロックの指揮で出たCD(ソニークラシカル SICC30169)で演奏されていたものと同じ版で、早く言えばマーラーが「ハンブルク稿」を演奏したあとに改訂した版━━であるとのこと。印刷された楽譜には「UNIVERSAL」の表紙がついており、間もなく国際マーラー協会から正式出版されるとも聞いた。

 演奏そのものは、極めて瑞々しく、宏大な趣を備えたものだった。それは引き締まって切迫した、神経質な情熱を感じさせる演奏というよりは、情熱的だが大らかな、波のうねりの如きダイナミックな流動性を感じさせる演奏だった。
 少なくとも私には今のところ、山田和樹が打ち立てようとしているマーラー像がどのようなものであるかは、未だ明確に把握できていない。このあとのツィクルス━━2月22日の「2番」、28日の「3番」を聴いてみれば、だんだん解って来るだろう。だが、今後に大きな期待を持たせる第1回の「巨人」であったことは疑いない。

 オーケストラは、すこぶる素晴らしかった。その中でも、「花の章」で美しいソロを聴かせたトランペットのオッタヴィアーノ・クリストーフォリを筆頭として、ホルン群、フルートやオーボエのソロ、コントラバスのソロ、ヴィオラ群(第4楽章)には、とりわけ大きな拍手を贈りたい。「日本フィルは、今日は一致団結」(終演後の袖でのマエストロ山田談)だったのである。

 客席は満杯。「ヤマカズのマーラー」がいかに大きな注目を集めているかが判る。ただし、カーテンコールでは、山田和樹への拍手とブラヴォ―に混じってピーピー口笛を吹き鳴らす輩がいた。彼のファンの中にそういう手合いがいるのかと思うと、ちょっと複雑な気持になる。

1・21(水)新国立劇場 ワーグナー:「さまよえるオランダ人」(2日目)

     新国立劇場オペラパレス  2時

 2007年2月にプレミエされたマティアス・フォン・シュテークマン演出によるプロダクション。そのあと2012年3月にも上演され、今回が3度目の上演だ。指揮は飯守泰次郎。

 だがもう、この閃きのない演出は今回限りにして、次にこの作品を上演する際には、新しい演出に切り替えていただきたいものである。この演出でアイディアが見える個所は、唯一、全曲の幕切れ部分で、ゼンタの方が幽霊船とともに沈み、オランダ人が地上に取り残されるという読み替え設定の場面だけだ。堀尾幸男の美術と磯野睦の照明も、今となっては随分寂しいものに見える。
 これが地方のオペラだったら「非常に頑張っている」と称賛もできようが、天下の新国立劇場の上演水準とは言えない。

 しかし、音楽の面では、2007年のミヒャエル・ボーダー指揮、2012年のトマーシュ・ネトピル指揮の時に比べ、今回の飯守泰次郎は、最良の演奏をつくったといえるだろう。最近の指揮者がよくやる即物的なワーグナー演奏ではなく、良き時代の伝統を引き継ぐ、温かい、ヒューマンな音楽のスタイルである。

 ただ、そういうスタイルの演奏の場合には、オーケストラの弦がよほどしっかりしていないとサマにならない。その点からいうと、ピットに入った東京交響楽団は━━過去2回の演奏と同様に━━残念ながら弦が脆弱だった。
 序曲と第1幕では金管が咆哮し過ぎた感もあったが、これは弦が量感たっぷりに鳴らないため生じたアンバランスだったというべきであろう。弱音の個所では弦はふくよかな響きを出していたのだから、求められるのは,ただ力強さである。
 ホルンは、だいぶ不調のようだ。今日の演奏では、音を外したのは10回近かったのではないか? 1度や2度なら「人間のやることだから」で済むけれども・・・・。

 前回の上演で酷かった歌手陣は、今回は充実していた。おそらく、第1回上演の際に歌ったユハ・ウーシタロ、アニア・カンペ、松位浩らの歌唱に匹敵、もしくはそれを上回るする水準かもしれない。
 オランダ人役のトーマス・ヨハネス・マイヤー、ゼンタ役のリカルダ・メルベート、ダーラント役のラファウ・シヴェク、いずれも力強い声と陰影に富む歌唱表現で、それぞれのキャラクターの性格を見事に再現してくれていた。
 特にメルベートは「ゼンタのバラード」を豊かな感情をこめて歌い、飯守と東京響の神秘的で美しい演奏とともに、この日随一と言ってもいいほどの素晴らしい時間をつくり出していた。

 エリック役のダニエル・キルヒだけは、時に走り気味の所も聞かれ、存在感も今一つというところだろう。マリー役の竹本節子は落ち着きのある表現、舵手役の望月哲也は勢いで押した歌唱。

 そしていうまでもなく、素晴らしかったのは、三澤博史が率いる新国立劇場合唱団である。男声合唱は非の打ちどころがない。女声も「糸紡ぎの合唱」でいいところを聴かせたが、たったひとつ、「ゼンタのバラード」の終り近くでの最弱音のアンサンブルの個所で、ソプラノのパートにフラットな声が聞かれたことだけは惜しい。

 序曲は「救済の動機」無しの版による終結だが、第3幕最後は「あり」の版が使用される。第2幕最後の3重唱の一部にカット個所あり。第1幕を完奏する版で休憩に入る。第2幕と第3幕は連続して演奏する版だ。以上は、前回、前々回と同様である。
 終演は4時半過ぎと予告されていたが、実際にカーテンコールを終えてロビーに出て時計を見た時には、5時近かった。

1・18(日)北海道二期会50周年記念「アイーダ」

    札幌コンサートホールKitara  2時

 雪害を警戒して前夜に札幌へ入るつもりだったが、北海道はすでに猛吹雪とかで、夜の便は軒並み欠航、大混乱。私が乗る予定だったANA079便(夜8時発)だけは、1時間遅れで出発する、と頑張っていたものの、夜9時直前になって、結局欠航を決めた。乗客一同、粛々と出発カウンターまで歩き、手続きのため延々長蛇の列をつくる。
 私の方は、いち早く今日(18日)朝8時発のANAを予約し直す。一夜明けて、幸いにもこのほうは飛んでくれた。とはいえ、新千歳空港上空で旋回しつつ待機すること約45分。到着ロビーに着けたのは10時55分頃。札幌行のJR「エアポート」も大幅に間引き運転中だったが、何とか11時08分の列車に飛び乗る。かくて正午近く、やっと札幌市内に到着、という有様であった。

 昨年秋、関西二期会が創立50周年を「ドン・カルロ」上演で祝った。今回は北海道二期会が、50周年記念を「アイーダ」で祝う。
 ただし札幌には、グランドオペラを上演できるような劇場が未だない。それゆえKitaraでの、その大きな空間を活用してのセミ・ステージ形式上演になる。字幕付き原語上演である。

 北海道二期会は、1964年に「二期会札幌分室」(通称「札幌二期会」)として発足、67年からの「二期会北海道支部」を経て、1984年から現在の名称としている。最初の上演作品は「フィガロの結婚」で、67年5月18日、札幌市民会館でのことだった由。
 以降、「魔笛」や「ドン・ジョヴァンニ」「カルメン」「ラ・ボエーム」「愛の妙薬」「ヘンゼルとグレーテル」「霊媒」「カルメル派修道女の対話」などといったレパートリーに取り組み、「修善寺物語」や「夕鶴」「人買太郎兵衛」「河童譚」などの邦人作品にも力を入れて来た。上演リストを見ただけでも、道二期会が、会場の制約と団体の規模とを勘案しつつ、それに即した意欲的な活動を行なって来ていることが解る。

 Kitaraを会場にしてのセミ・ステージ形式上演━━サントリーホールと同様、「ホールオペラ」という呼び方が使われている━━としては、道二期会は、これまでにも「トゥーランドット」「修道女アンジェリカ&カヴァレリア・ルスティカーナ」「カルメン」「ラ・ボエーム」という順で取り上げて来た。そして今回はついに、同団体初のヴェルディものとして、大掛かりなグランドオペラ「アイーダ」に挑んだ━━というわけである。

 とにかくこれは、現在の道二期会の総力を挙げた、驚くべき意欲作といえるだろう。
 演出は、ホールオペラには手慣れた手腕を示す岩田達宗が担当。ワインヤード型の宏大なKitaraを巧みに活用して効果をあげた。
 オーケストラはステージ上に配置され、歌手たちが演技を行なう舞台はオーケストラの後方を主に、一部はステージ最前方に設置される。合唱はすべてP席に配置され、黒服で演技無し、つまり「コロス」のような役割に徹している。

 歌手陣はすべて「いわゆる《アイーダ》風の」衣装・扮装付で、小道具・持道具の類も最小限は用意されている。凱旋の場面ではさすがに「兵士の大行進」はないけれども、若干の兵士や捕虜も登場させ、1階客席をも活用して、それらしきイメージを巧みにつくり出していた。照明は少々手際のよくないところもあったが、なにしろたった1回の会場練習、たった1回の本番なのだから、多くを注文しても酷だろうと思う。

 オーケストラは、大平まゆみをコンサートマスターとする札幌交響楽団で、この上演の音楽的水準を高めた最大の功績者と言っても過言ではないだろう。
 指揮は、ベテランの牧村邦彦。歌手たちを巧く支える手腕には定評があるが、欲を言えばドラマの変転に応じた音楽のテンポや心理的な表現、色彩などにもっと多彩な変化が欲しいところ。些か長すぎる感のあるゲネラル・パウゼ(総休止)を含め、時に緊迫度が希薄になったり、一つの場面から次の場面に移るあたりの音楽の変化が単調に聞こえたりする傾向がなくもなかった。

 歌手陣は、ほとんど全部が北海道勢だとかいう話も聞いたが、よく健闘していた。
 将軍ラダメスを歌った岡崎正治は、声も風格も充分であり、エジプト軍の英雄としての役柄を見事に表現していた。
 エチオピア王女アイーダ役の菅原利美は体当り的な歌唱と演技で、声にも明るさと輝かしさがあり、これからの躍進が期待されるだろう。

 エジプト王女アムネリスを歌った荊木成子は、前半では声が伸びずに不安を感じさせたが、後半で盛り返した。第4幕のラダメスとの応酬の場面では息づまる迫力を聴かせたし(ここは牧村の指揮も良かった)、これだけの歌唱が出来る人なら、オペラの舞台に慣れさえすれば、良い性格派メゾ・ソプラノとして活躍できるはずである。
 エチオピア王アモナズロ役の岡本敦司も、力強い存在感をあふれさせた歌唱と演技で印象に残る。

 その他、エジプト王に原慎一郎、祭司長ランフィスに内田智一、巫女に浅原富希子、使者に江川佳郎。中にはイタリア語の発音が非常にあいまいに聞こえる人もおり、このあたりは重要な問題なので、研鑽を積まれることを期待する。もっとも、前半よりは後半で調子を上げて行っていた内田智一のような人もいるから、要するに経験、だろう。
 もう3年か4年経つと、札幌にもオペラをちゃんと上演できる劇場が出来るとのことだし、そのバランスのいい音響の会場で歌い続けることができれば、今夜の歌手陣ももっと腕をあげられることだろう。

 また、第1幕と第2幕には、札幌舞踊会によるバレエも入った━━これは「エジプト風の衣装」ではなかったようである。綺麗な踊りだったが、スペースの関係で、ちょっと中途半端なものに感じられたのが惜しい。
 合唱は札幌アカデミー合唱団、ホクレングリーンコール、北海道二期会メモリアルコール。安定して力感も充分な歌唱であった。
 第2幕の「凱旋の場面」でのバンダには、陸上自衛隊北部方面音楽隊のメンバーが20人以上出演していたが、これがなかなかの実力で、お見事。「アイーダ・トランペット」のパートでは少々ミスも出たが、わが国のこれまでの上演の中では、あのくらいで済んでいれば御の字だろう。

 なお、舞台美術デザインは福田恭一、照明デザインは宮崎貴弘。字幕は岩田達宗自ら担当、解りやすかったが、ちょっと心配だったのは、字が小さすぎたのではないか、ということ。

 休憩1回を挟み、終演は5時少し過ぎ。雪の札幌を飾った北海道二期会の力作であった。
        ⇒別稿 北海道新聞

1・16(金)ワーグナー:「さまよえるオランダ人」(演奏会形式特別版)

     新国立劇場中劇場  7時

 18日から新国立劇場オペラパレスで上演が始まる「さまよえるオランダ人」を前に、そのカバー歌手(アンダー)として名を連ねている日本人歌手たちが出演し、ピアノ伴奏で同曲を演奏するという特別企画。

 カバー歌手といっても、すでに国内でこの曲を「表の主役」として歌ったことのある人たちも多いので、演奏はしっかりしたものだ。
 出演は次の人たちである━━小森輝彦(オランダ人)、橋爪ゆか(ゼンタ)、長谷川顯(ダーラント)、片寄純也(エリック)、山下牧子(マリー)、土崎譲(舵手)。指揮は城谷正博、ピアノは木下志寿子。

 合唱はないので、抜粋上演かと思ったらさにあらず。たしかに第3幕前半のような合唱が主役の場面は省略しているが、場面によっては合唱のパートだけをカットしたりして、いずれも前後を巧く接続している。そのため、全曲よりは少し短い程度の演奏時間を要するものとなっていた。

 歌唱もなかなかのもので、特に第2幕でのオランダ人とゼンタの長い2重唱は、音楽の良さとともに、すっかり聞き惚れてしまったくらいである。
 小森と橋爪は、山形で飯森範親指揮の山形響がこの曲を演奏会形式で上演した際(2012年11月25日)に見事な歌唱を聴かせたコンビでもある。
 小森はあの時と同様に、この役の暗い性格を浮き彫りにして、当たり役だ。
 橋爪は、山形では「夢見る少女」から「情熱的な女性」への変化を出して、素晴らしいゼンタだと思ったのだが、今回はなぜか終始力み返り過ぎという感もあり、またフォルテの時に一音一音をクレッシェンド気味に歌うのも気になった。2重唱なり3重唱なりの時には、もう少しアンサンブルという面にも留意したほうがいいのではないか。

 暗譜で自信満々指揮した城谷正博は、全曲を見事に流れよくまとめていた。そして、長い全曲を━━特に第2幕と第3幕は続けて演奏する版で━━ぶっ続けにピアノを弾いた木下志寿子のエネルギーには頭を下げたい。

1・15(木)樫本大進(ヴァイオリン)&エリック・ル・サージュ(ピアノ)

   サントリーホール  7時

 ベルリン・フィルの第1コンサートマスターでもある樫本大進が、今回はフランスの名匠エリック・ル・サージュと組んで、フランス(系)のプログラムを披露した。
 演奏されたのは、フォーレの「ソナタ第1番」、プーランクの「ソナタ」、フォーレの「ロマンス変ロ長調」、フランクの「ソナタ」。アンコール曲もフランスもので、フォーレの「子守歌」とマスネの「タイースの瞑想曲」であった。

 ル・サージュ相手のフランス・プロとなると、いかにわれらの樫本大進といえど、どうしても他流試合という感になってしまうだろう。1曲目のフォーレのソナタなど、まさに「ヴァイオリンのオブリガート付きのピアノ・ソナタ」という趣を呈していた。今夜が2人の初顔合わせではなく、国内ツアーも今日が4日目だから、樫本の調子が出なかったわけでもあるまい。ル・サージュがそれだけ凄かったのだ、ということかもしれない。

 樫本が盛り返したのは後半のプロ、とりわけフランクのソナタにおいてだった。この曲の、優雅さと構築性とを併せ持った性格━━「ドイツ人のダイナミックな叙情性とフランスの厳格で敏感な明晰さとの融和」(ロラン・マニュエル、吉田秀和訳)の曲想が、コンサートマスターとして場数を踏んだ樫本の生真面目な演奏スタイルと合致したともいえるだろう。

1・13(火)阪哲朗指揮東京フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時

 阪哲朗の指揮を久しぶりに聴く。

 ドイツのレーゲンスブルク歌劇場音楽総監督としての彼の活躍ぶりが日本にはなかなか伝わってこないのが残念だが、今年は11月に二期会の「ウィーン気質」を指揮する予定もあるから、彼の近年のオペラ指揮の片鱗が日本のファンに披露される日も近い。
 今日はしかしオペラでなく、東京フィルへの客演コンサートで、ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」とベートーヴェンの「交響曲第7番」を指揮した。

 コンチェルトのソリストは、ベテランの堤剛である。音量は決して大きくはないが、温かいまろやかな音色と滋味あふれる表情で聴かせてくれる。どちらかといえば、「温厚なドボルジャーク像」である。阪と東京フィルも、叙情的な個所ではそのソロに美しく寄り添った。ただ、音楽が自在に揺れ動く個所では、合わせ不足なのか、些かチグハグな感が少なくなかったようだ。堤の演奏は、ソロ・アンコールとして弾いたバッハの「無伴奏チェロ組曲第3番」の「ブーレ」での、天鵞絨のようなチェロが最大の聴きものとなった。

 阪の本領は、後半のベートーヴェンの「7番」で、やっと発揮されたといえようか。速めのテンポで軽快に、直截にたたみかけるスタイルで、第3楽章など見事な緊迫感を聴かせてくれた。テンポの設定や楽章内の起伏のバランスなどにも細かい配慮がなされており、特に第2楽章では、遅いテンポで開始した冒頭から次第にテンポを速めて頂点をつくり、やがて次第にテンポを落して終結に向かうという巧みな構築が、明快に聞き取れた。
 またこの楽章で阪が行なった、波打つようなリズム構築も印象的で、第1楽章展開部の終り近くにおけるリズムの細かいアクセントづけなどとともに、彼の細かい設計を聴きとることができる。

 とはいえ、オーケストラともども、ちょっと残念だったのは第4楽章。エネルギッシュに煽ったのはよかったが、それが精一杯━━だったのか、コーダのファイナル・ステージで、あと一押し・・・・の力感が聴かれなかったこと。あそこで最後のダメ押しの盛り上げが出ていれば、聴衆のブラヴォーももう少し盛んになったと思われる。

 一方、東京フィルの方も、第4楽章では速いテンポに息切れしてしまった感がなくもない。それに、全体にもう少し瑞々しい、緻密な陰翳をもった響きが欲しいものだ・・・・。オケがそれを独自に発揮していれば、阪の軽快なエネルギー感をもった指揮との、絶妙な配合が聴かれたのではないかと思うのだが・・・・。

2015・1・10(土)準・メルクル指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場コンサートホール  2時

 準・メルクル、読響へはこれが初客演。

 前半はワーグナーの作品集で、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲、「ローエングリン」から「遥かな国」(ソロ:永田峰雄)と第3幕前奏曲、「タンホイザー」から「歌の殿堂」(ソロ:安藤赴美子)と序曲。後半はチャイコフスキーで、「くるみ割り人形」から4曲、「ロココの主題による変奏曲」(ソロ:ダニエル・ミュラー=ショット)、「イタリア奇想曲」。

 まだ正月気分、というか、お屠蘇気分が抜け切れぬ、というか━━こちらがそうでなければ読響がそうなのか、とにかく、いつも聴き慣れた読響とは全く違う、粗くてバランスの悪い音がした。ミュラー=ショットをソリストに迎えた「ロココの主題による変奏曲」だけは綺麗だったが・・・・。
 やはり、正月のマチネーというとこんなものか。16日の演奏会は定期だからちゃんとした演奏が聴けるかもしれないが、残念ながらその日は都合で聴けない。

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