2017-05

12・22(月)青柳晋リサイタル 「リストのいる部屋」Vol.9

     浜離宮朝日ホール  7時

 前半にドビュッシーで、「忘れられた映像」からの「レント」、「版画」、「夜想曲」、「牧神の午後への前奏曲」(青柳編曲)、「喜びの島」。後半がリストで、「婚礼」「哀歌Ⅱ」「エステ荘の噴水」「ダンテを読んで」━━というプログラム構成。

 これは、今年の9月10日に五反田のサロン・コンサートで演奏されたプログラムとほぼ同じだが、聴きものだったのは、今夜もやはり、リストの作品集だ。
 リストの音楽にあまり共感が持てない私にさえ、この作曲家のピアノ曲がいかに色彩豊富で瑞々しさに満ちているか━━を教えてくれる演奏なのである。

12・18(木)シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団

    サントリーホール  7時

 デュトワが客演した12月定期の、これはB定期。
 ドビュッシーの「サラバンド」と「舞曲」(いずれもラヴェル編曲)、ファリャの「スペインの庭の夜」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲という、なかなか面白い流れを持った選曲だ。

 A定期の「ペレアスとメリザンド」が素晴らしい演奏だったので、今日も大いに期待したのだが、━━たしかに「デュトワ&N響」らしい美音は随所に聞かれたけれど、演奏そのものは、いわゆる陶酔感に誘われるような情感には乏しいという、N響によくあるタイプの演奏にとどまったように思われる。今日は2日目で、テレビもFMも入っていなかったので、ルーティン的演奏になったか? 

 ピアノのソロは2曲ともユジャ・ワン。独り若々しいアニマートなソロで気を吐いたが、それでも常よりは「それほど燃えない」抑制した演奏になっていたかもしれない。
 ファリャと、休憩を挟んで演奏したラヴェルの協奏曲とで、彼女は衣装を替えて登場した。ラヴェルでは右の裾が全部割れるという例のドレス姿で、━━角度によっては水着同然に見えなくもない彼女の衣装に、デュトワをはじめ、日ごろ謹厳なN響の弦のオジサンたちの顔が今日は妙に和んでいる様子が、何とも面白かった。

12・16(火)METライブビューイング 「カルメン」

  東劇  6時45分

 去る11月1日上演のライヴ映像。
 リチャード・エア演出、パブロ・エラス=カサド指揮、アニータ・ラチヴェリシュヴィリ(カルメン)、アレクサンドロス・アントネンコ(ドン・ホセ)、イルダール・アブドラザコフ(エスカミーリョ)、アニータ・ハーティグ(ミカエラ)ほかの出演。

 これは昨年2月、現地で新演出の「パルジファル」と「リゴレット」を観た時に、「ついでに」観たプロダクションだった。
 装置(ロブ・ハウェル)は大掛かりだが、特に第4幕の「闘牛士の入場」場面など、狭いスペースに人物をぎっしり詰め込んでいたので、舞台全体の景観としては、METにしては比較的地味な舞台に見えた。それゆえ、さほど印象に残っていなかったプロダクションだったのである。
 それにあの時は━━テレビ中継も入っていなかったし、上演そのものが一種のルーティン公演みたいな雰囲気だったので、舞台に緊張感が欠けていたのかもしれない。

 ただし今回、クローズアップの多い映像で観てみると、だいぶ印象は異なる。つまりMETの巨大な空間との比較を意識せずに済み、舞台の重要なポイントだけが観られるので、その点では無難に愉しめると言えるかもしれない。
 舞台の動きも演奏も、昨年よりもずっと引き締まっているように感じられるのは、ライブビューイングの中継が入っているため皆が張り切っていたためでもあろう。

 主役4人のうち、題名役のラチヴェリシュヴィリだけは前回に続く出演で、今回は演技も歌唱もずっとこなれていた。ただし彼女のカルメンは、いわゆる奔放な女とか、妖婦的とかいうイメージは薄く、むしろ温かい雰囲気がある。それは、もしかしたらエアの演出に基づくものかもしれない。

 今回面白かったのは、アニータ・ハーティグのミカエラだ。第3幕、狂乱状態になったホセを故郷の街へ連れ戻すべく、彼女が「もう一言だけ!これが最後だから」と叫ぶくだりを、ハーティグは、普通歌われる哀願調でなく、びっくりするほどドラマティックな声で表現した。しかも、それまでおどおどとしていた様子をかなぐり捨て、中央の一段高い岩の上へ仁王立ちになって歌ったのである。
 弱々しく恐怖に慄いていた女性が、突然その場すべてを支配する強い存在と化す。この一言で、ホセやカルメンだけでなく、ざわめいていたジプシーたちまでが、ぴたりと動きを止めてしまう。それが演出家の注文によるものか、ハーティグ独自の解釈か、指揮者の意向によるものかは判らないけれど、なるほど、ミカエラの扱いについて、こういう解釈もあったのかと改めて感心させられた次第であった。ほんの一瞬に過ぎなかったが、これは、「タンホイザー」第2幕後半でのエリーザベトに共通する存在感といえようか。

 休憩10分1回を含み、上映終了は10時少し過ぎ。

12・14(日)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル・ブレーメン
「ブラームス・シンフォニック・クロノロジー」第4日

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 パーヴォとドイツ・カンマーフィルによるブラームス・ツィクルスの、これが最終日。今日も客席は満杯である。
 プログラムは、「悲劇的序曲」、「二重協奏曲」、「交響曲第4番」。協奏曲でのソロは、ヴァイオリンのクリスティアン・テツラフ、チェロのターニャ・テツラフ。

 圧巻は、やはり「二重協奏曲」だった。ブラームス晩年の、瞑想的で渋い曲調を持っていると言われて来たこの作品が、今回の演奏では、非常に躍動的で勢いにあふれた音楽として立ち現れた。瞑想的で渋いのもそれはそれで素晴らしい魅力だが、この日のようなアプローチでこの曲を聴くのも新鮮で愉しいものである。

 「第4交響曲」も悪くない演奏だったが、「1番」や「2番」の演奏に比べると、それらで聴かれたような斬新な「破竹の進撃」(?)のイメージがやや薄れていた・・・・よく言えば温厚、悪く言えば常套的な範囲に留まっていたような印象も受けた━━印象だからアテにはならないが。

 しかしとにかく、彼らの演奏には、音楽が活力で燃え立っているという愉しさがある。綺麗にまとまっていても音楽の歓びが感じられないような演奏より、どれだけ好いか。

 この演奏会から2時間置いてサントリーホールで行なわれるポゴレリッチのリサイタルをも聴きたかったが、なにしろ咳を堪えるのが苦しい。あの凄まじい緊迫感がホール中を覆い尽くす彼のコンサートで咳など連発しようものなら、どんなことになるかわからない。遠慮する。

12・13(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団 ブルックナー「3番」

      サントリーホール  6時

 マチネーはシベリウス、夜はブルックナー。両方とも私が熱狂的に好きな作曲家だから、とびきりの料理の連続というわけだ。
 一昨日あたりから咽喉と鼻に炎症を起こし、マスクをして必死に咳を押し殺しながら演奏を聴くという情けない状態だが、それでも疲れないのは、ひとえに音楽の素晴らしさゆえだろう。いや、こちら、ノットと東京響の演奏も実に素晴らしかった。

 ワーグナーの「ジークフリート牧歌」は、やや遅めのテンポで、しっとりとした軽やかな羽毛のような音で演奏され、この作品に籠められた愛と安らぎの情感が余すところなく描き出された。現代音楽を指揮する時には鋭角的なスタイルになるノットも、ロマン派の優しい情感を描く時には、見事にソフトな表現になる━━これは、今年6月に「夏の夜」(ベルリオーズ)で聴かせたのと全く同様だ。東京響の弦も管も美しく、特にホルンのソロは、今日は冴えていた。

 ブルックナーの「第3交響曲」は、珍しく1873年の第1稿が使われた。第3稿より15分近く長い。ブルックナー・マニアにとっては、改訂版との聴き比べだけでも楽しめるものではあるが、
 しかし曲は、盛り上がるかと思うとパッと総休止をし、このまま終りまで行くかと思えば総休止して別の主題が始まるし、しかもその間、いろいろな主題が断片的に出ては引っ込み、出ては引っ込み、というわけで・・・・。初めて聴くお客さんは退屈して、ブルックナーなんか2度と聞くものか、なんて思うのではないかと心配になってしまう━━なにも私が心配したって何にもならないのだが。

 とにかく、この曲がウィーンで初演された際、ブルックナーの指揮も未熟だったろうが、曲が終った時には聴衆が25人くらいしか残っていなかった・・・・という伝説も、さもありなんと思われる。しかし、この散漫な第1稿を、ノットと東京響は、驚くほど見事に、しかも美しく演奏してくれた。

 オーケストラには、完璧な均衡が保たれている。整然たる構築、均整の美━━いかにも「日本のオーケストラならではの美感」だ。昼間聴いた大野和士&東京都響とは全く違ったスタイルだが、それぞれが素晴らしい。
 先日のシンポジウムに出席していた欧米の辛口の同業者たちが、今日も2階最前列に陣取って聴いていた。彼らがどう思ったかは訊きそびれたけれども、これが日本のオーケストラの美点の一つ(12月10日の項参照)なのだから、少しは認識を改めてもらいたいものだ。
 
 ノットは、バンベルク響を相手の時よりも、東京響を指揮する時の方が、彼の思い通りにオーケストラを動かせるようである(まあ、ペクール氏とビューニング女史の表現を借りれば「指揮者には従順な」日本のオケだから当然だろうが)。彼と東京響とのコンビは、きっとうまく行くだろう。

 12月の日本のオーケストラ界、読響、都響、東京響━━と快調である。

12・13(土)大野和士指揮東京都交響楽団 シベリウス・プロ

    東京芸術劇場コンサートホール  2時

 先日(8日)のバルトークとフランツ・シュミットも見事だったが、今日のシベリウスもさらに鮮やかだった━━大野と都響の蜜月状態の幕開きというべきだろう。プログラムは、「レミンカイネンの帰郷」、「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは三浦文彰)、「交響曲第5番」。

 1曲目の「レミンカイネンの帰郷」からして、演奏の隈取りの明晰さ、転調の明快さに胸が躍る。
 この曲、嵐を衝いてレミンカイネンが母とともに故郷に向かう模様を劇的に描いたものだが、冒頭の暗く激しいハ短調から最後の勝ち誇った変ホ長調の歓呼にいたるまで、さまざまに色合いを変えて転調しつつ疾走していくその過程が明確に描き出されていてこそ、故郷に着いた時の喜びの感情が再現されるのだ。

 一般に生演奏でこの「レミンカイネン」全曲を聴くと、長丁場でオケが疲れてしまうのか、最後のこの曲が雑な演奏になってしまい、何だか判らない音楽になることが多い。
 だが、今日は流石に違った。高音部だけでなく低音部まで明快にきっちりと構築され、作品の多彩な音色の変化と転調がはっきりと浮かび上がって、大団円が鮮やかに描き出されていた。見事なものである。

 この変ホ長調のエンディングの輝かしさを導入として、最後の「第5交響曲」の変ホ長調に結びつけたところがにくい。
 この「5番」も、霧の晴れ間を縫って進んでいくような色合いの変化が、極めて多彩に再現された演奏だった。第1楽章のコーダは、熱狂的でありながら引き締まった構築。フィナーレでは、次第に大団円に近づいて行く音楽の変化の過程が、精妙に再現されていた。

 そして「ヴァイオリン協奏曲」も、オーケストラがこれだけがっちりと組み立てられ、しかも大きな気宇に満ちた演奏も、なかなか聴けないだろう。
 若い(まだ20歳を出たばかり)三浦文彰のソロも、ひたむきで厳しく、緊迫感豊かで見事だが、ただ、あまりに生真面目すぎる感もなくはない。

 都響は、弦も管も今日は快調そのものだ。マエストロ大野の表現を借りれば、「音が(ヨーロッパのオケみたいに)ギザギザしていて素晴らしい」ということになるのだろう。これから、いろいろな展開が楽しめそうである。

12・12(金)佐渡裕指揮ケルン放送交響楽団 「第9」

   サントリーホール  7時

 東日本大震災の直後、佐渡裕は、ケルン放送響とデュッセルドルフ響とを振って(「合同演奏」と解説には書いてあるが、そうなのか?)両市でベートーヴェンの「第9」のチャリティ・コンサートを行なったそうだ。また彼は、ケルン放送響には2010年以来、何度か客演しているとのこと。

 それらの縁で、今回は東京・川崎で計7回、大阪で3回、「第9」を演奏することになったという。協演は、スザンネ・ベルンハルト(S)、マリオン・エクシュタイン(A)、西村悟(T)、アンドレアス・バウアー(Bs)、東京オペラシンガーズ、晋友会合唱団。
 さすが人気の佐渡だけあって、客席は満杯。

 演奏は、第4楽章では予想どおり盛り上がったが、前半2楽章では、もう少し白熱したものがあってもいいように思う。第1楽章および第2楽章の魔性的な世界と、束の間の安息たる第3楽章を経て、第4楽章の全人的な歓喜に至るというのがベートーヴェンのイデーだとするなら、今日の前半での演奏は、かなり物足りなかった、といえるだろう。

 彼の指揮を聴いていると、第1ヴァイオリンのカンタービレのみが重視されて、ハーモニーの妙味は二の次になっているように感じられる(少なくともそう聞こえる)。同じように合唱も、ソプラノばかりが異様に絶叫気味で、和声的な美しさが蔑ろにされているきらいがあるだろう。それに1階席で聴いた所為もあるのか、弦のみが前面に出て、管が浮き上がって来ない。オーケストラの演奏に力感が乏しかったのは、そのためではなかろうか。
 しかし、その特徴ゆえに成功していたのは、叙情的な美しさが目立つ第3楽章だった。

 声楽ソリストのうち、バスのアンドレアス・バウアーが、最初のレチタティーヴォの個所で両手を少し拡げ、左右を軽く見回しつつ歌っていたのには、ちょっと可笑しくなった。
 以前、尾高&札響の「第9」の時に、その時の外国人のバス歌手が、やはり同じようなジェスチュアを更に大きく、オペラみたいに派手にやっていたのを見たことがある。
 しかし、考えてみるとこの個所はシラーの作ではなく、ベートーヴェン自身の作によるものだし、広く世界中の友に「もっと歓びに満ちて・・・・しようじゃないか」と呼びかけているわけだから、こういう身振りで演奏家たちや聴衆に呼びかけたとしても、理屈は充分合うだろう(これは以前にも書いたことがある)。

12・11(水)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル・ブレーメン
「ブラームス・シンフォニック・クロノロジー」第2日

     東京オペラシティコンサートホール  7時

 「ハイドンの主題による変奏曲」で始まり、クリスティアン・テツラフがソロを弾く「ヴァイオリン協奏曲」を挟んで、最後が「交響曲第2番」。アンコールは昨夜同様「ハンガリー舞曲」からで、今日は「第3番」と「第5番」。

 パーヴォ・ヤルヴィが指揮するドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンは、相変わらず熱っぽく活気にあふれ、躍動的にブラームスを高鳴らせた。
 昔は、ブラームスといえば、しんねりむっつりの代表格のようなイメージが流布していたものだが、このドイツ・カンマーフィルのような演奏を聴けば、それは根底から覆されるのではなかろうか。「ハイドンの主題による変奏曲」での闊達さといい、「ヴァイオリン協奏曲」でのエネルギッシュな推進性といい、「第2交響曲」フィナーレでの熱狂といい、いずれもこの作曲家の若々しい気概を存分に伝えてくれるのである。

 ただ、このフィナーレの最後の10小節間における今回の演奏は、音響的な面から言うと、些か狂騒的であり、━━ここまでマーラー的に羽目を外してしまうブラームスは、ちょっとどうかな、という感がしないでもない。
 しかし、今回のパーヴォとカンマーフィルが、ただそんな解放的な演奏ばかりしていたのかというと、決してそうではない。

 むしろ息を呑まされたのは、交響曲の第2楽章終り近く、第84小節あたりからほぼ10小節間における、異様に陰影の濃い、激しい緊迫感に富んだ演奏だった。この穏やかなアダージョ・ノン・トロッポの楽章に、こんな魔性的なものが秘められていたのか・・・・と、改めて感心させられてしまう。
 こういう、新しい発見をもたらしてくれる演奏は、素晴らしい。

 協奏曲でのクリスティアン・テツラフの鮮烈な演奏については、改めて云々する要もないほどだ。第1楽章の、オーケストラのみの長い提示部が演奏されている間、彼は身動き一つしない。ソロの出るべきほんの1小節ほど前になって、突然楽器を構えたかと思うと、躍り上がるような身振りで、電光のごとき素早さで弾きはじめる。その演奏の強烈で、毅然として、切り込むような鋭さに満ちて物凄いこと! 
 まさに全曲、一分の隙もない緊迫の世界だ。これにパーヴォとオーケストラが、丁々発止と応酬する。ブラームスの協奏曲がかくも鋭角的に再現された例は、決して多くはなかろう。4年前にテツラフが、ノット指揮するバンベルク響と協演した演奏よりも、さらにスリルに富んだ演奏だった。

 テツラフとの協演は、もう1曲、14日に「二重協奏曲」がある。聞き逃せない。
       ⇒モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

12・10(水)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル・ブレーメン
「ブラームス・シンフォニック・クロノロジー」第1日

     東京オペラシティコンサートホール  7時

 昨日のシンポジウムでは、外国勢の批評家たち━━マーク・スウェッド(米)、アンドリュー・クレメンツ(英)、エレオノーレ・ビュニング(独)、アントワーヌ・ペクール(仏)━━が、「日本のオーケストラは、演奏に活気が、楽員に自発性と積極性が不足している」と、ほぼ一致して指摘していた。

 詳細をここで報告する時間も余裕もないが、しかし彼らが西欧のオケの基準と比較して指摘するさまざまな「問題点」の中には、日本的な「特徴」━━緻密さ、均質性、叙情性などを含む━━も混じっているはずであり、いつの日かそれらの特徴が「美点」として世界のオーケストラ界に重要な発言権を持てる時代が来る可能性もあるのではないか、というのが、席上で私が行なった反論の趣旨だった。
 ただしこれには、隣に座っていたクラシック音楽新興国のアメリカのスウェッド氏だけは「全面的に賛成するよ」とささやいてくれたが、長い伝統を誇る独・仏・英の御三方は、「さあて、どうかなあ」という顔つき。。

 それはともかく、その点から言えば、今日のドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンなどは、その「活気」と「自発性」のカタマリみたいなオーケストラであることは間違いなかろう。楽員たちが全身で弾き、吹き、叩くステージでの姿も壮烈だ。
 聞くところによると、リハーサルでは、楽員たちは、指揮者に完全服従するよりも、自分たちであれこれ議論しあう。そしてメンデルゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」のような有名な曲をやる時でさえも、ゲネプロが終ってからもまだ議論を続けているのだという(ビューニング女史、読売新聞記者・松本氏らの話による)。

 今日のプログラムは、ブラームス・ツィクルスの第1日で、「ピアノ協奏曲第1番」(ソロはラルス・フォークト)と「交響曲第1番」だったが、とにかく強烈な活力とエネルギーに満ちた演奏である。
 特に交響曲の方は、冒頭の序奏からしてアジタート(激して)な趣であり(スコアの指定はUn poco sostenutoという、およそ正反対のイメージ)、そのあとも全曲にわたり、すこぶる攻撃的な演奏になっていた。

 これを聴くと、ブラームスという人が、謹厳実直で保守的な作曲家どころか、むしろ大胆先鋭で革新的な気魄にあふれた作曲家に感じられ、「たたかうブラームス」といったイメージすら湧き起こって来る。たしかにこの壮大な交響曲には、そういった激しい解釈をも可能にする要素が充分に内蔵されているのではないか。これを完成した時のブラームスは43歳、まだ壮年の時期だったのだ。そこに着目したパーヴォ・ヤルヴィは、やはりただものではない。

 「ピアノ協奏曲第1番」の作曲時期は、さらに若く、20代後半である。青年の若き情熱をいっぱいにぶつけた作品だ。今日のパーヴォ、カンマーフィル、フォークトの演奏も、それにふさわしいものだった。
 この協奏曲の冒頭はティンパニの猛烈な連打で始まるが、パーヴォは、交響曲の冒頭で連打されるティンパニのリズムをも、他の全管弦楽を圧するほどの音量でクローズアップしていた。「第1協奏曲」と「第1交響曲」とは、パーヴォの解釈の中で、こうして完全な「対」の作品として位置づけられているのではなかろうか。
     ⇒モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

12・8(月)大野和士指揮東京都交響楽団 バルトーク&シュミット

    東京文化会館大ホール  7時

 バルトークの「弦と打楽器とチェレスタのための音楽」と、フランツ・シュミットの「交響曲第4番ハ長調」を組み合わせたプログラム。

 こんなハイブロウ(?)な選曲は、なかなかできないものだろう。間もなく第5代音楽監督に就任する人気の大野和士が指揮するコンサートだからこそ、そして特に最近、強気の攻勢に出はじめた東京都響の定期だからこそ、可能なプログラムであるとも言えるだろう。

 演奏は、素晴らしかった。緻密で精妙で、がっちり固められて隙が無い。
 バルトークの作品では交錯する各パートの動きがしなやかに再現され、いっぽう長大な(45分間切れ目なし!)シュミットの交響曲では、一種の魔性的な暗い力が緊迫感をもって再現されていた。
 実は私も、このシュミットの「4番」をナマで聴いたのは今回が最初なのだ。こんなに多彩な変化にあふれた曲想の作品だったとは・・・・と、遅まきながら感動した次第である。

 ただ、私は、この演奏を翌日のサントリーホールで━━豊かな残響を伴った空間的な拡がりをもったホールで聴いてみたかったという気もする。さすれば、もう少し瑞々しい豊麗な音が加わり、演奏の印象、ひいては作品の印象まで違って聞こえたかと思う。
 東京文化会館の明晰なアコースティックは、それを好む人も多いが、残響は短いから、ちょっと難しいところもある。会場そのものはいつ見ても素敵だし、オペラ公演も観やすく聴きやすいホールなのだが・・・・。

 明夜のサントリーホールに行けぬ理由は、文化庁と日本オーケストラ連盟主催のオーケストラ・シンポジウムが国際フォーラムで開催され、米・英・独・仏の評論家が各1人ずつパネリストとして出席するのに合わせ、僭越にも私が日本側代表として出席を依頼されたことによる。
 欧米の批評家諸氏は、4日~8日に行われる日本のオーケストラの定期を聴き、それについての批評をシンポジウムで発表することになっている。彼らはお国柄で、歯に衣着せずズケズケ批評するはずだから、日本側代表を受け持つ私としては、ある程度日本のオケの擁護にまわらなければならぬかもしれぬ。

12・7(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団 「千人の交響曲」

     ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 マーラーの第8交響曲「千人の交響曲」。「ミューザ川崎シンフォニーホール開館10周年記念コンサート」と題されている。

 思えば、このホールの杮落しコンサート(2004年7月1日)も、秋山和慶指揮東京響の演奏によるこの同じ曲だった。
 10年前のその演奏の時は、コーラスだけでも1千人以上いたかもしれない。2階席のRAとLAまでを埋め尽くしたコーラスが冒頭いっせいに「Veni!」と叫び始めた時には、2階正面最前列で聴いていたこちらは、本当に難聴になるんじゃないかと思ったほどだったが━━。

 しかし今回は、P席の正面と両翼に配置された東響コーラスと、ステージ後方に配置された東京少年少女合唱隊が呼応して歌う程度の数になっていたのはありがたい。こちらが聴いていたのは3階席正面の最前列なので、巨大な釜の中から湧き上って来る大オーケストラと、それを囲む大合唱という感じで、音響的、音量的にもちょうどいいバランスに聞こえる。

 共演の声楽ソリストは、エリン・ウォール(S)、メラニー・ディーナー(S)、アニカ・ゲルハルズ(S)、イヴォンヌ・ナエフ(A)、ゲルヒルト・ロンベルガー(A)、ニコライ・シューコフ(T)、デトレフ・ロス(Br)、リアン・リ(Bs)という顔ぶれ。パイプオルガンは近藤岳。バンダはバルコニー席の3RAと3LAに配置された。

 言っては何だが、私は、この交響曲の前半部分には、どうも共感が持てない。好いと思うのは、第2部の中ほど以降、つまり音楽に叙情的な、神秘的な曲想があふれるようになって以降の部分だけである。
 全曲最後の個所は、たしかに、あの第2交響曲「復活」を上回る忘我的な音響上での陶酔感がある。特に今日のノットと東京響のように、完璧なほどの均衡を保った轟々たるクライマックスがつくられる演奏の場合には、まさに快感ものといえよう。本当に、今日は見事だった━━。
 しかしそれでも、曲の性格ゆえに、感情を根底から揺さぶれるまでには至らないのだ。仕方がない。

12・6(土)いずみホール・オペラ モーツァルト:「フィガロの結婚」

   いずみホール  2時

 大阪城公園近くにあるいずみホールの恒例のオペラシリーズ。昨年12月の「イドメネオ」は演奏会形式上演だったが、今年の「フィガロの結婚」は、再びセミステージ形式による上演に戻った。
 ノーカット上演━━つまり第4幕のマルチェリーナのアリアも、バジリオのアリアも、いずれも省略されずに演奏されるという形である。

 演出は粟国淳。オーケストラ後方に小規模なステージを造り、簡素な小道具を使って、オペラのストーリーを理解するに充分な程度の演技を加えている。狭いステージでただ1回限りの上演だから、少々の手違いもあったようにも見えたが、セミステージ形式上演としては、まずよくまとまっていたと思う。

 演奏は、ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団。河原忠之がチェンバロも弾きながらの指揮。通奏低音部分は細部までよく考えられている。
 オーケストラはもちろん小編成ながら、たっぷりした厚みのある音が、ホールに美しく響く。所謂「柔らかい」演奏スタイルだが、モーツァルトのオーケストラの細部の多彩さ、美しさも、よく再現されていた。
 冒頭、序曲での演奏がやや平板だったので・・・・正直言って先行きが少々心配されたのだが、その後は演奏にも活気が加わり、特に休憩後の第3,4幕では、劇的な追い込みも充分になった。

 細かい点ながら、たとえば第4幕のフィナーレの終り近く、激怒する伯爵を前に、フィガロとスザンナが口々に「Perdono、perdono!」と表向きだけは謝ってみせる個所━━このあたりの音楽の流れの良さと、管弦楽の多彩な表情は、モーツァルトの底知れぬ天才ぶりを余すところなく示すところだ━━での低弦の4分音符のリズムが、今日の演奏ではきわめて明快に刻まれていた。そのため、音楽にたたみこむような重心が生まれ、ドラマに追い込みの緊迫感が加わるという結果になっていたのだった。そこでは、このいずみホールのよく響くアコースティックも効果的に生きていたことにも触れておかなくてはならない。

 歌手陣。
 アルマヴィーヴァ伯爵は黒田博。紳士的な表現の伯爵だが、いつもながら風格充分で見事。
 伯爵夫人の澤畑恵美は、プリマの貫録だ。最初のうちはスザンナと同じように少女っぽい性格もあった伯爵夫人が、最後には落ち着いた威厳を持つにいたるといった変化が感じられたのは面白い。「この1日の騒動」が彼女を「おとなの女性」に変えたという演出だったとすれば、彼女の演技は見事だった。

 フィガロの西尾岳史は闊達に躍動していた。最近活躍目覚ましい石橋栄美も、愛すべきスザンナ像を巧く表現。ケルビーノの向野由美子は、容姿がこの役によく向いていて、すこぶるカッコいい。
 福原寿美枝は、これはもうマルチェリーナにぴったりだろう。「マタイ受難曲」の時と同様、発音が明確でないのが気になるが、凄みは充分だ。但し第4幕のアリアでの歌唱は、ちょっとモーツァルトには異質だったのではないか? 

 バルバリーナ役の四方典子は、「小娘」にしては立派な容姿。庭師アントニオは晴雅彦、先日の「ドン・カルロ」のロドリーゴとはうって変わった喜劇的な表現(この人、演技の幅が素晴らしく広い)。声のパワーも立派だし、歌にはちょっと走り気味の個所はあったが、存在感のある脇役ぶりであった。バルトロ役の折江忠道も、バジリオとクルツィオ役を掛け持ちの清原邦仁もいい。
 今回はこのように、脇役までバランスよくそろった、良い歌手陣であった。なお合唱(8人)は関西二期会のメンバー。

 モーツァルトの音楽の素晴らしさが愉しめた演奏。昨夜のN響の「ペレアス」と同様、オーケストラがステージに乗ると、そのオペラのオーケストラ・パートの素晴らしさを、心ゆくまで堪能することができる。
         音楽の友2月号 演奏会評

12・5(金)シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団
ドビュッシー:「ペレアスとメリザンド」

     NHKホール  6時

 今シーズン期待の大物の一つ、「デュトワのペレアス」である。
 演奏会形式上演で、配役はペレアスをステファーノ・デグー、メリザンドをカレン・ヴルチ、ゴローをヴァンサン・ル・テクシエ、アルケルをフランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ、イニョルドをカトゥーナ・ガデリア、医師をデイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン、ジュヌヴィエーヴにナタリー・シュトゥッツマン(!)、羊飼に浅井隆仁。合唱は東京音楽大学。

 歌手陣が、主役から脇役まで、見事にバランスよく揃っているのが素晴らしい。最初の3人の歌唱表現の巧さはもちろん、ちょっと異質かなと思われたヨーゼフ・ゼーリヒも、重厚な声で父王の役を貫録充分に歌ってくれたし、ウィルソン=ジョンソンも出番は短いながら実に存在感のある医師役を披露した。ガデリアも良かった。
 ナタリー・シュトゥッツマンは、「特別出演」かもしれないが、それにしても、ちょっとしか出て来ない役柄にしては、贅沢な配役である。

 デュトワが指揮するN響の演奏も、予想どおり魅惑的だ。1990年にモントリオールでレコーディングした演奏(デッカCD)と同じような洗練された美音を、デュトワは今日のN響からも、特に弱音個所を中心に引き出していた。
 しかも、このオペラでは稀にしか来ないドラマティックな部分━━たとえば不気味な地下の穴倉の場面、ゴローがメリザンドを罵倒する場面など━━での音楽の緊張感という点では、今回の方がはるかに優れていたのではなかろうか。

 ペレアスとゴローが穴倉から地上に出て来て、不安な緊張感がパッと消え、音楽に陽光が漲りはじめる瞬間などにおけるオーケストラの音色の変化も、鮮やかだった。
 彼が振るオペラをナマで聴く機会は決して多くないが、それにしても、彼もやはり「持って行き方」が上手い指揮者だな━━と改めて感心させられた次第である。

 この「ペレアスとメリザンド」を、ナマのステージにおける演奏会形式で聴けたのは、何という喜びだろうか。ドビュッシーの精妙な、この上なくニュアンスに富んだオーケストラの抒情美は、ピットからの音でなく、このようなステージでの演奏でこそ、完璧に再現され得るだろう。それに、舞台のさまざまな光景に煩わされず、音楽にのみ集中できるという良さは、何ものにも換えがたいものがある。

 30分の休憩時間1回を挟み、演奏終了は9時16分頃。カーテンコールが終ったのは9時25分頃だった。
          音楽の友2月号 演奏会評

12・4(木)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団
メシアン:トゥーランガリラ交響曲 

   サントリーホール  7時

 読響委嘱作品、酒井健治作曲の「ブルーコンチェルト」世界初演と、メシアンの「トウーランガリラ交響曲」を組み合わせた重量感たっぷりのプログラム。
 カンブルランと読響は、来年春の欧州旅行(ベルリン、ケルン、ユトレヒト、ブリュッセルなど)に、この2曲を持って行くという。
 今夜の「トゥーランガリラ」では、ピアノにアンジェラ・ヒューイット、オンド・マルトノにシンシア・ミラーが協演していた。

 カンブルランと読響の「トゥーランガリラ」といえば、思い起こす2006年の12月15日、このサントリーホールで行われた、両者初共演の際の演奏だ。当時の日記を繰ってみると、比較的あっさりしていて、最後は何となくスッと終ってしまった、しかし実に華麗な演奏だった・・・・などというメモが残っている。

 今回の演奏も、たしかに華麗ではあるが、決して濃厚なものではない。あまり毒々しくも凶暴でもなく、むしろその端整なほどの美しさが強く印象に残る。ストラヴィンスキー的な凶暴な狂乱でなく、洗練された調和が守られているという点では、やはりドビュッシーやラヴェルの流れを引く、まさしくフランス音楽の潮流の中に位置する「トゥーランガリラ」と言えるかもしれない。

 オーケストラの響きには完璧な均衡が保たれ、金管群の咆哮もあまり突出することなく、オーケストラ全体の調和の中に溶け込んでいるといった感がある。その一方では、この曲の演奏ではとかく薄れがちな旋律的な美しさも、思いがけなく浮き彫りにされるといった具合だ。
 これ見よがしに絶叫する「虎狩交響曲」の演奏は、私はあまり好きではないので、この日の演奏は、私には大いに快かった。これほど美しい「トウーランガリラ」の演奏は、そう多くはあるまい。
 今回は練習時間が非常に少なかったそうで、中には1回通しただけの楽章もあったという話だが、それにもかかわらずこれだけの演奏水準を示したカンブルランと読響の力量には感嘆の極みである。

 ヒューイットのピアノは音の明晰さ、表情の豊かさとともに非常に際立った個性を示し、時にはピアノ・コンチェルトのような存在感を誇示していた。
 ミラーによるオンド・マルトノも、昔のこの楽器とはだいぶ違い、まろやかで美しい。「昔の楽器はピーピーうるさかったね」と、隣で聴いていた金子建志さんに言ったら、「今の楽器はアンプが違うからね」と。

 ところで、前半に演奏されたのは、ベルリン在住の若手作曲家、酒井健治の「ブルーコンチェルト」。多くの打楽器も取り入れた大編成の、20分近い長さのオーケストラ曲だ。
 多彩で変化にとんだ音色、興味深いさまざまな手の混んだ構築など、管弦楽の機能を余すところなく発揮させようという意気込みが感じられる作品である。
 ありとあらゆる手法を総動員したような作品だな、という印象だったが、残念ながら私は、この念入りな曲を、たった1回、スコアも見ずに聴いただけであれこれ云々する力は持ち合わせていない。

 いつか単独でこの曲をもう一度聴いてみれば、もっとたくさんのことがつかめるであろう━━と思ったのはほかでもない、「トゥーランガリラ」という巨大な交響曲の前に、それとほとんど同じような傾向をもった濃密な音の(「メシアンへのオマージュである」と酒井氏もプログラム解説で述べている)、しかも20分近い長大なオーケストラ曲を聴くことは、感覚的には何とも過重なものである。これは、コンサートとしても、あまり賢明なプログラミングではないのではないか、とさえ思う。

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