2017-06

11・30(日)秋山和慶指揮東京交響楽団

   東京オペラシティコンサートホール  2時

 東京響の桂冠指揮者となっている秋山和慶の指揮。
 プログラムは、ショスタコーヴィチの「黄金時代」、アレクサンドル・アルチュニアンの「トランペット協奏曲」、そしてチャイコフスキーの第1交響曲「冬の日の幻想」。

 秋山らしい割り切った指揮で、それだけに前半の2曲の方が愉しめた。特にアルチュニアンの協奏曲では、澤田真人(東京響首席奏者)のソロも痛快だった。「黄金時代」にはもう少しのしゃれっ気があれば、さらに面白くなったであろう。

 後半の「冬の日の幻想」は、特に第2楽章におけるオーボエ・ソロと、楽章後半の盛り上がりを飾ったホルン群が見事。
 ただし全体の演奏からいえば、いわゆるロシアの雪の光景━━といっても、私も実際にはほんの数えるほどの機会にしか見たことはないが、あの形容しがたい重量感のある雪の光景には強烈な印象が残っているので━━を連想させられるタイプのものではない。
 この曲が、そういう「民族的な香り」のないアプローチで演奏された場合には、果たして作品の魅力が成り立つのかどうか怪しいものだ、と私は日ごろから思っているのだが・・・・。アンコールに演奏されたスークの「弦楽セレナード」第1楽章の方が、よほど「冬の日」のイメージを感じさせる演奏に聞こえた。

 これまでにも紫綬褒章、旭日小綬章を受賞している秋山和慶氏は、今年、文化功労者にも選ばれた。心からお祝い申し上げる。来年2月11日には「指揮者生活50周年記念」(実際のデビューは1964年)のコンサートを東京交響楽団と開催するとのこと。そこで氏が指揮する「ダフニスとクロエ」は、彼のもっとも得意とするレパートリーだ。聴きものになるだろう。

11・29(土)小山実稚恵ピアノ・リサイタル

   オーチャードホール  3時

 2006年から春秋1回ずつ、2017年までの全24回シリーズを掲げて開始された、このホールでの定例リサイタル。
 始まった頃には、これは遠大な計画だ・・・・と畏怖するような思いで見つめていたものだが、年月の経つのは早いものだ。今日が、第18回とは相成った。

 今回は、「粋な短編小説のように」と題されたプログラムで、スカルラッティのソナタから「嬰ハ短調L.256」と「257」、シューマンの「ノヴェレッテン」から第1、2、4、8番、ショパンの「スケルツォ第2番」と「バラード第1番」、アルベニスの「イベリア」から「エボカシオン」と「エル・プエルト」、リストの「エステ荘の噴水」、ドビュッシーの「グラナダの夕暮」と「喜びの島」━━という、なるほどこれは粋な選曲であった。

 彼女らしい強靭なタッチの、明快で鮮やかな隈取りのある音が躍動し、どの作品においても明晰な光が交錯乱舞しているといった感覚を聴き手に呼び覚ます。
 ピアノは、おそらくいつも通り、オーケストラ・ピットの位置になるのだろうか、正舞台より手前の一段下がったステージの上に置かれており、それだけ聴衆から見て身近な場所に感じられることになるだろう。

 ただし今回は、こちらの聴いた席のせいかもしれないが(1階席真ん中あたり)概して音が極めて鋭く、余韻が感じられず、潤いと翳りとを欠いた、乾いたものに聞こえたのだが━━前回はどうだったかしら? もちろん、彼女は作品によって微細にその表情や音色を弾き分けているので、程度はさまざまではあるけれども。

 ホールは今日も満席。しかも圧倒的に女性客が多い。小山実稚恵の人気は、常に不動だ。

11・27(木)新国立劇場 ヴェルディ:「ドン・カルロ」

    新国立劇場オペラパレス  6時30分

 2006年9月のシーズン開幕にプレミエされた、マルコ・アルトゥーロ・マレッリ演出のプロダクション(4幕版)の再演。

 今回は、ピエトロ・リッツォの指揮、ラファウ・シヴェク(スペイン国王フィリッポ2世)、セルジオ・エスコバル(王子ドン・カルロ)、マルクス・ヴェルバ(ポーサ侯爵ロドリーゴ)、セレーナ・ファルノッキア(王妃エリザベッタ)、ソニア・ガナッシ(エヴォリ公女)、妻屋秀和(宗教裁判長)、大塚博章(修道士)、山下牧子(テバルド)、村上敏明(レルマ伯爵)、鵜木絵里(天よりの声)他。東京フィル、新国立劇場合唱団。

 舞台装置は、巨大な正方形の箱型の壁を動かすだけの━━その配列はしばしば十字架のイメージを生むが━━シンプルなものだが、それらが格好の反響板の役目を果たしていたためもあってか、歌手の声はよく響く。
 ただでさえ大きな声のエスコバルは、割れ鐘のような声になって、これはちょっと吠え過ぎの感があるだろう。所謂「テノールなんとか」の感がしないでもない歌い方だ。
 シヴェクも負けず劣らずビンビン響く強靭な声だが、こちらは声に深みと表現力が備わっているので、音楽として聴きやすい。

 この2人と絡むと、声の面では他の主役たちは少々分が悪くなるけれども、歌唱の質そのものにおいては決して引けは取らない。
 歌唱表現で最も巧味があったのはロドリーゴ役のヴェルバだ。もちろんガナッシもファルノッキアも、それぞれ第3幕と第4幕の有名なアリアで、最良の歌を聴かせてくれた。
 妻屋は第3幕でシヴェクと内容的には対等に渡り合い、大塚も重みのある修道士役を聴かせていた。

 こういう歌手陣を相手なら、オーケストラはどれだけ鳴っても決してマイナスにはならないだろう。リッツォが指揮する東京フィルはめずらしく開放的に響き渡り、このドラマの音楽の流れをリードして行った。グランドオペラとしての性格は、このくらいオーケストラが発言力を強くしていなければ成り立たない。
 というわけで今回の上演は、音楽面ではかなり充実していたと言っていい。

 一方、演出そのものはさほどドラマトゥルグを感じさせるものではない。人物の動きや出入りに関しては、些か納得の行かぬところも少なくない。
 エヴォリのアリア「呪わしき美貌」のさなかに、エリザベッタとエヴォリを何となく和解させるような演出は、それ自体は悪くないと思うが、音楽への聴き手の集中力を逸らしかねないという欠点はあるだろう。宗教裁判長の歩行困難な状態を極度に強調することも、その場の音楽の緊迫感と不気味さを薄めさせる結果を招くのではないか。

 こういう、なくてもいいところに細工をするのなら、ラストシーンでカルロ5世の亡霊におびえるフィリッポ2世や宗教裁判長や兵士たちの演技の方にもっと微細な演出を施してほしいものだ。親友ロドリーゴの死を前にしながらのカルロの「な~んにもしない」動作についても同様である。
 ついでながら、大聖堂前広場の場面で、火刑用の薪束を女性までが(自主的に)運んで行くという設定は、マレッリのそれなりのコンセプトもあるのだろうが、ずいぶん惨酷な光景だろう。

 30分の休憩1回を挟み、終演は10時少し過ぎとなった。

11・25(火)マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団

     サントリーホール  7時

 ブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」(ソロはクリスチャン・ツィメルマン)は21日のプロと同じだが、後半はR・シュトラウスの「ドン・ファン」と「ばらの騎士」組曲。私の好みとしてはこちらのプログラム。

 ミューザ川崎とこちらとではホールのアコースティックが違うから、オケの音も変わって来ることは自明の理だが、それにしても違いが大きい。川崎で聴いたような、攻撃的で鋭い硬質な表情は影を潜め、今日はもっとたっぷりとして厚みのある、余裕と風格にあふれた演奏というイメージになっていた。いかにもドイツのオーケストラだな、という感である。
 ヤンソンスの指揮ぶりも、川崎でのような戦闘的な身振りでなく、もっとなだらかな動きで、ゆったりとしていたように見える。演奏スタイルが公演ごとに変わるのは、よくあることだ。

 「ピアノ協奏曲」では、バイエルン放送響の演奏には、このオケが本来備えている重厚で密度の濃い響きが復活していた━━もちろん北ドイツのオケとは異なるし、ヤンソンスの個性も反映していて、すっきりした透明な感覚も混じっているけれど、やはりこれは紛れもないドイツのオケならではのものだ(ブラームスの場合には、やはりこういう音で聴く方が、私は気が楽だ)。

 ツィメルマンの演奏も、川崎の時よりも、ある意味では慎重、もしくは、過度に闘争的ではなく、ゆったりしたものだったと言えるのではないか。だが第1楽章半ば、音楽が穏やかな夢想から覚め、決然たる力を取り戻す瞬間での切り込むような鋭さなどは、彼ならではの真骨頂である。

 ともあれ、特に第3楽章でツィメルマンとヤンソンスとバイエルン放送響がつくり出していた音楽の風格の大きさは、相変わらず驚異的であった。剣士が丁々発止と武器を交えるような緊張感がみなぎっていた川崎での演奏、強豪同士が互いを見極めた余裕ある決闘といった今日の演奏━━いずれも卓越した名人のそれであった。

 後半のR・シュトラウス。「ドン・ファン」の豊麗なこと。オーボエが思い切り遅いテンポで綿々と吹く女性主題と、その周囲に醸し出される弦のゆったりした響きの、何と豊かな、ふっくらとした響き。
 私はかつてマイケル・ティルソン・トーマスがオーケストラに言ったというあの言葉を思い出した━━「みんな、僕の指揮を見なくていいから、あのオーボエの素晴らしいソロについて行ってくれたまえ!」。ヤンソンスとバイエルン放送響も、そうした境地で演奏していたのではあるまいか。

 「ばらの騎士」組曲は、予想どおり、オケの威力が十全に発揮された演奏となった。ワルツの個所には、もう少し洒落っ気があってもいいような気もしたが━━ないものねだりをしても意味はない。
 アンコールは、1曲目に、あの金管と打楽器が顔を覗かせる「ピチカート・ポルカ」。2曲目は珍しい曲で、リゲティの「ルーマニア協奏曲」の第4楽章だとか。エネスクの「ルーマニア狂詩曲」を現代風にしたような曲である。コンサートマスターが鮮やかな民族舞曲風ソロで大活躍、変幻自在な曲だった。
    モーストリー・クラシック2月号 公演Reviews

11・24(月)東京二期会 カールマン:「チャールダシュの女王」 

    日生劇場  2時

 今回は日本語上演。
 訳詞が池田直樹、台本と演出が田尾下哲、装置は幹子S・マックアダムス。三ツ橋敬子が東京交響楽団を指揮。
 歌手陣は、ダブルキャスト4回公演のうちのAキャストの2日目で、腰越満美(シルヴァ)、小貫岩夫(エドウィン)、村上公太(ボニ)、湯浅桃子(シュタージ)、小森輝彦(フェリ・バーチ)、志村文彦(レオポルト)、加納悦子(アンヒルテ)。全日共通は、篠木純一(オイゲン)ほかの人々。合唱は二期会合唱団。

 田尾下哲の台本は、オリジナルに基づいてはいるが、今日風に多少変えてある。
 また演出も、この作品を単なる天下泰平なオペレッタではなく、「身分」や「職業」の格差意識に弄ばれる人々を浮き彫りにすることを重視しているようである。もちろん、そうしたコンセプトは、本来このオペレッタにも織り込まれているものだ。

 それに、現代では職業貴賤の問題などはもう意識されないものだと思っていたが、折も折とてつい最近、銀座のクラブでバイトをやった女性が大テレビ局から「傷がついた」とか「清廉でない」とか難癖をつけられ、女子アナ採用内定を取り消される事件もあり、このオペレッタのストーリーがにわかに現実味を帯びて来たりして、観客もそれぞれの思いを胸に抱いたのではあるまいか。
 この物語では、「芸人ふぜいの女を息子の嫁にすることなどまかりならぬ」と息巻いていた貴族が、自分の夫人も以前はその同じ「芸人」だったことが判明してペシャンコになり、かくてナンセンスな職業貴賤の問題などはどこかに吹っ飛び、ハッピーエンドになるという流れになっているわけだが━━。

 そういう演出の狙いは、その「キャバレーの人気歌姫」シルヴァ役の腰越満美の巧みな演技で、完璧に実現されていたであろう。
 愛するエドウィンが所詮は階級意識から抜け出せぬ男であると見抜いた時の━━多分それは物語の冒頭から始まっていたと思うが━━失望、諦め、怒り、口惜しさなどを表現した一連の演技は、ことのほか見事だった。彼から離れてアメリカへ行くと言いながらも周囲から引き止められ、その都度迷うあたりの演技もいい。

 また、仕切り役ともいうべきフェリ・バーチを演じた小森輝彦の「おとなの」演技も、実に映えていた。この2人が、今日の舞台の核となっていたことは、どこから見ても明らかであろう。

 ただ、その演出の狙いには充分理解も出来るし、共感もいだくのだけれど、それにしても、もう少し全体に華やかさ━━騒々しさではない。馬鹿騒ぎでもない━━があってもいいようにも思う・・・・兵庫県立芸術文化センターの「メリー・ウィドウ」のような熱っぽい舞台とまでは言わないが、たとえばセリフの「間」とか、芝居のテンポとかによって、ある程度までは改善できるだろう。

 三ツ橋敬子が指揮する東京交響楽団の演奏にも、もっとしなやかさ、明るさ、躍動感が欲しい。そもそも冒頭のロマ的な郷愁・哀愁感をたたえているはずの音楽が、何だか重く暗く、まるで悲劇の幕開きのような雰囲気になってしまっていたのは、いかがなものかと思う。オーケストラ・パートのクライマックスに時々出現する総休止の「間」は、「休み」でなく、活かされたものであるべきだろう。

 歌手陣。腰越満美は、前述のように、歌唱、舞台姿など充分。凄味を効かせるところなどさすがの貫録であり、何より華を感じさせる人だ。
 小森輝彦も同様、この人はシリアスでスマートな役柄がよく似合う。
 志村文彦(レオポルト)は、力のあるバスによるセリフが効いていた。その夫人アンヒルテ役の加納悦子が、侯爵夫人ながら「昔は歌手だった」杵柄として、余興に「カルメン」の「ハバネラ」を歌ったのは面白い・・・・このオペラが日本語訳で歌われるのを聴いたのは何十年ぶり(?)か。

 セリフが重要な役割を果たすオペレッタでは、国内制作なら、やはり日本語上演に限る。
 幸い、歌手たちみんな、発音はかなり明確なので、すこぶる解りやすかった。セリフまわしも、昔のように頭のてっぺんから声を出すような、歌うような、わざとらしい発声をする人がいなかったのはうれしい。世代も変わったものだと思う。
 今回のセリフの中には、時事ネタやジョークがあまりなかった。これも田尾下哲のシリアスなコンセプトの一環だろうか。侯爵夫妻が交わす「孫が出来るなら、保険に入らなきゃな」「では日生に・・・・」くらいだろう、目だったのは。

 終演は5時半頃。お客さんがもう少し入っているかと思ったのだが・・・・。
      音楽の友新年号 演奏会評

11・22(土)ヘルムート・ヴィンシャーマン指揮大阪フィル「マタイ受難曲」

     フェスティバルホール  3時

 ヘルムート・ヴィンシャーマン、今年94歳。

 歩く速度は4年前あるいは2年前に比べ、ゆっくりにはなったが、聴衆に向かって手を振りつつ登場・退場し、指揮も時には椅子に座るものの、要所では立ち上がるという、元気そのものの姿であるのはうれしい。
 彼が日本で「マタイ受難曲」を指揮するのは、2010年9月30日(トリフォニーホール)以来である。

 ところで、現役最高齢指揮者の御大ヴィンシャーマンの方は元気に来日したものの、なんと、もっとずっと若い━━エヴァンゲリスト(福音史家)を歌うはずだったヤン・コーボウの方が、急病のためキャンセルするという事態に相成った。
 そこで、もともとテナーのアリアを受け持つことになっていた櫻田亮が、掛け持ちでエヴァンゲリストを歌うという、負担の大きい重責を見事に果たした。もっとも彼は、ヴィンシャーマンの指揮でエヴァンゲリストを歌うのは、これが初めてではない。欧州ではどうか知らないけれども、日本では前述の2010年の演奏に続いての、2度目のことである。前回も鈴木寛一の代役で急遽歌ったわけだから、思えば不思議な因縁ではある。

 その他の演奏者は、声楽ソロが三原剛(イエス)、秦茂子(ソプラノ)、福原寿美枝(アルト)、青山貴(バリトン)、森雅史(バス)。合唱が大阪フィルハーモニー合唱団、京都バッハ合唱団、和歌山児童合唱団。合唱指揮は本山秀毅。

 ヴィンシャーマンのバッハは、いつものように温かい。
 悲劇的な緊張感に満たされている第1曲からさえ、オーケストラの柔らかい厚みのあるヒューマンな音楽がいっぱいに拡がりはじめるといった感である。この、心に染み入って来るような、愛情と共感にあふれた演奏を聴くと、目頭がじんと潤んで来るほどの感動が湧き上って来る。

 今日は2階席前方で聴いたが、ここでは1階席より音がふくよかに聞こえるようだ。大阪フィルも、曲が進むにしたがって、演奏の響きに豊かさが増した。合唱も最初のうちは、児童合唱(リピエーノ)を含めてバランスがだいぶ気になったが、第1部の後半あたりからは、いいコラールが聴けるようになった。

 楽器のソロ奏者は、その都度起立して演奏し、かつ歌手と一緒に指揮者の前まで出て来て演奏することも多い。
 2群に分かれたオーケストラの、片方のコンサートマスターは崔文沫(首席客演コンマス)で、第39曲のアリア「われを憐れみたまえ」では見事なソロを聴かせてくれた。またもう一つのオケのコンマス渡辺美穂(大阪フィルのコンマス)も第42曲のアリア「私のイエスをかえせ」で、これも見事なソロを聴かせた(ただし身振りには、コンチェルトでも弾いているような大見得も少々混じっていたが)。
 管のソロも、いずれも素晴らしかった。

 アリアを受け持つ歌手も、着席位置からその都度、指揮者の前まで出て来て歌っていた。
 掛け持ちした櫻田は奮闘、彼の声質と個性などから、比較的物静かなエヴァンゲリストとなっており、これが今回の「マタイ」の演奏全体を穏やかなものにしていた一因かもしれない。だが、もともとヴィンシャーマンの指揮が比較的穏健な方だから、これでも良かったのかもしれない。

 イエス役の三原剛も良く歌った。秦も清澄なソプラノを聴かせてくれた。福原は以前の「マタイ」および「ヨハネ受難曲」と同様、発音がもっと明晰であれば、さらに感動的な音楽がつくれたはずである。声は悲劇的な情感に適しているし、「トリスタン」のブランゲーネなどでも素晴らしい歌唱を聴かせていた人なのだから━━。

 演奏終了後のヴィンシャーマン、ステッキをついて出て来て、それでもあちこち歩き回ったりして、元気にカーテンコール。4年前のようにステージ上でランニングの真似をして見せるところまでは行かなくなったし、カーテンコールのさなかに一度は椅子に腰を下ろして一休みという光景もあったが、しかし、矍鑠たるものであった。

 20分程度の休憩1回を挟み、演奏終了は6時15分。


※KEN様より、第62曲のコラールが通例に反してア・カペラで歌われたことについてのコメント(コメント欄参照)を頂戴しました。大変重要なご指摘だと思います。ありがとうございました。

 実は私も、そこを聴いていてハッとしました。オーケストラが沈黙を守っているため、聴き慣れた響きと違い、まるで無防備のまま空間に投げ出されたような、形容しがたい孤独感、寂寥感に襲われてしまいました。これは多分、その前のイエスの最後の言葉の時に、それまで常に寄り添って来た高貴な弦楽器の響きが消えてしまっているのを受けての、イエスの孤独な悲しみを共有しようとするヴィンシャーマンの解釈かな、とその時は想像したものです。

 念のため大阪フィルの福山修・演奏事業部長兼事務局次長に確認したところ、たしかにヴィンシャーマン氏自身が、「文献や楽譜にこだわらず、作品を真実の人間のドラマとして理解したい、悲しみにあふれた人々の気持を純粋な形で表現するには、ここはア・カペラで演奏するほうが適切である」という意味のことを指示していたそうです。

 私の推察ですが、これは特にメンデルスゾーンのロマン派的な解釈とか、メンゲルベルクの解釈に倣ったとかいうものではなく、あくまでヴィンシャーマンの独自の感性に基づいた演奏であろうと思います。ちなみに私も、KEN様のおっしゃるとおり、ア・カペラで歌われた場合の方が、より衝撃的で、感動が高まると思いました。

11・21(金)マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 クリスチャン・ツィメルマンをソリストにブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」、第2部にムソルグスキー~ラヴェルの「展覧会の絵」。

 ヤンソンスとバイエルン放送響の演奏は、このホールで聴くと、非常にシャープなリズム感にあふれた、躍動的なものに聞こえる。協奏曲など、極めて明晰、明快なブラームス像であり、ヤンソンスならではの強靭で真摯な集中力も、それは見事なものだ。
 バイエルン放響も力感は充分、第2楽章での沈潜した叙情性も素晴らしい。

 かたやツィメルマンの演奏も、音色は相変わらず綺麗ながら、そのフォルティシモは切り込むように鋭角的だ。先頃この曲を聴いたペーター・レーゼルとは対極の位置にある演奏とも言えるが、もちろんこちらも、別の意味で素晴らしい。
 演奏の推進力が目覚ましいため、時おりオケとピアノがずれることもあったが、そんなことはどうでもいい.。━━第3楽章など、煽るヤンソンスとオケに、ツィメルマンの引き締まったピアノとが相まって、凄まじいエネルギーを噴出する演奏となっていた。

 一方、「展覧会の絵」は・・・・実は私には大変苦手な曲で、もしかしたら「3大・嫌いな曲」の一つかもしれず・・・・と言ってはミもフタもないが、ましてこのヤンソンスとバイエルン放送響のような、どちらかといえば強面の演奏で聴くと、やはり面白くないという気持が先に立ってしまうのである。
 とにかくこれは、細部に至るまで音を綿密に組み立てた、しかもあまり標題にはこだわらない、むしろシンフォニックなアプローチの演奏だろう。たとえば「ビドロ」ではそれが効果的に生き、バイエルン放送響の重厚な威力が余すところなく発揮される。「カタコンブ」での、一種グロテスクな表現も物凄い。

 ブラームスと同様、各音符は鋭角的に扱われ、しなやかではあるが筋肉質に響く。
 今回は打楽器が極度に強調され、ティンパニやバス・ドラムやタムタムの強打は凄まじいほどだ。ヤンソンスは、6年前にコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮したCD(RCO-LIVE KKC-5306)でも、「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」や「カタコンブ」の一部、「バーバ・ヤガーの小屋」などで、ある程度打楽器群を強調していたが、今夜の演奏は、それを遥かに凌ぐ大がかりなものだった。「キエフの大門」では本物の鐘が使われ、これもすこぶるシャープな音だった。

 アンコールは、ヨハン&ヨーゼフ・シュトラウスの「ピチカート・ポルカ」、ドヴォルジャークの「スラヴ舞曲ハ長調作品72の7」。前者はタンバリン入りの版による、おそろしく無骨なポルカに化けた演奏。後者は、鮮やかで闊達な演奏である。

 なお、この演奏会は、(川崎)市制90周年記念事業、ホール開館10周年記念事業と題されていた。
     ⇒モーストリー・クラシック2月号 公演Reviews

11・20(木)ポール・マクリーシュ指揮東京都交響楽団

   サントリーホール  7時

 もともとはクリストファー・ホグウッドが指揮することになっていた定期。彼の急逝のため、ポール・マクリーシュが代わって来日し、指揮台に立った。

 ただしプログラムは、ホグウッドで予定されていた3曲がそのまま生かされていた━━コープランドの「アパラチアの春」(オリジナル版)、R・シュトラウスの「13管楽器のためのセレナード」、メンデルスゾーンの交響曲「宗教改革」(ホグウッド校訂版)。

 折角マクリーシュが初客演するのなら、彼らしいプログラムに変更してくれればいいのに、などと思いながら聴きに行ったのだが、しかし実際に聴いてみると、このプログラムはやはり面白い。「ホグウッドの思い出」という意味を含めてもいい選曲だったし、演奏も素晴らしいものだった。

 「アパラチアの春」は、13の楽器のための版による演奏。この編成で聴くと、響きはいっそう静謐で繊細で清澄になり、洒落た曲というイメージが強くなる。40分近い長さで、山場といったものがあまりないけれども、矢部達哉をコンマスとする都響の、特に小編成の弦の音色が映えていた。
 休憩後のシュトラウスの「セレナード」では、今度は都響の管楽器群が冴える。

 「宗教改革」では、楽譜の指定通り、古い楽器「セルバン」が復活されて演奏されるという、滅多にない機会となった。大蛇みたいな形の楽器である。ただしこれはコントラファゴットとともに第4楽章のコラールに参加するものだったから、ソロとしてどんな音かを聴くわけには行かない。
 といっても、管楽器パートの音が、いつも聴くこの曲とは、今夜はかなり違ったものに━━何と表現したらいいか、適切な言葉が見つからないのだが、ピリオド楽器的な音色に近いものになっていたことはたしかである。

 全体に極めて穏健な、清楚な、透き通ったような音色の演奏だったが、たいへん美しく、実に新鮮に聞こえた。第4楽章コーダでのストレッタの呼吸も素晴らしい。都響の良さと併せ、マクリーシュ独特の透明な音づくりも愉しく味わえた定期であった。

11・18(火)「太陽の記憶━━卑弥呼」

    サントリーホール  7時

 札幌コンサートホール、福岡シンフォニーホール、サントリーホール共同制作による「古代祝祭劇 太陽の記憶━━卑弥呼」と題された大規模な舞台作品。
 皆既日蝕により消えては復活する偉大な太陽と、人々を救済する永遠の女性・卑弥呼とを重ね合わせた物語だ。

 作曲は菅野由弘、演出は中村福助だが、所謂オペラのような構成ではなく、音楽と舞踊により進められる形を採る。
 菅野みずから指揮するオーケストラは、洋楽器としてはソロ・ヴァイオリン(大谷康子)およびチェロ・コントラバスの合奏、打楽器という編成に、笙(宮田まゆみ)をはじめ能管、龍笛、尺八、中棹三味線、琵琶、箏、邦楽打楽器等を含む和楽器群からなる、かなりの大編成だ。
 それに、日本書紀と古事記の一部などをテキストとした声明(大本山増上寺式師会16人)と、神道的な衣装をつけての日本の舞踊(中村児太郎、中村梅彌他)が加わる(和楽器と洋楽器、神道と仏教の一体化の概念は面白い)。

 オルガン席には装置が組まれ、卑弥呼は其処彼処に位置を変えながら出現し、踊り、また声明や舞踊群は舞台上のみならず客席をも動き回る。
 大谷康子も「卑弥呼のテーマ」を弾き、自らも舞台上で卑弥呼と絡み、「祭」の場面では客席で踊りながらヴァイオリンを弾く、という華やかさだが、彼女は今回、菅野、中村福助、常磐津文字兵衛とともに「企画者」として名を連ねる存在なのである。

 かように、すこぶる大規模な作品だが、第1部は些か解り難い。7つの場面は「開闢」「生成」「卑弥呼誕生前夜」「波と凪」「黄泉の國」などと題された部分から成る━━とプログラムには記載されているが、これを完全に記憶しておくほどこちらは頭がよくないし、といって音楽と舞台から、どの場がそれにあたるのかを判断するのも、甚だ難しい。各場面の題名を、字幕とか、または他の方法で表示してもらえれば、第1部だけで50分間もかかる長尺ものを、もっと愉しめたかもしれないが・・・・。

 ただし第2部になると、卑弥呼とすぐ分かる踊り手が登場する「卑弥呼誕生」や、客席を巻き込んでの賑やかな「祭り」、あるいは卑弥呼が病人を奇蹟で治癒する「鬼道を行い衆を惑わす」、黒い衣装を着た踊り手が明るい衣装の卑弥呼を連れ去る「日蝕」、あるいはすべてが光に包まれる「復活:光の舞」などといった光景が、舞台上の動きで極めて解りやすく描かれるので、観ていても愉しいものがある。

 菅野由弘の音楽は、邦楽と洋楽とを「洋楽的な流れ」の中に一体化させているが、何しろ全曲合計正味1時間40分ほどの長丁場、もう少し音楽を起伏や音色の変化に富ませるというわけには行かなかっただろうか。
 20分の休憩1回を挟んで各50分ずつのパート━━とロビーにはタイム・スケジュールが掲示されていたが、実際の終演は9時15分頃になった。

11・17(月)METライブビューイング 「フィガロの結婚」

    東劇  6時45分

 10月18日MET上演の映像。
 リチャード・エア演出による今シーズンの新プロダクションで、ジェイムズ・レヴァインが指揮、イルダール・アブドラザコフ(フィガロ)、マルリス・ペーターゼン(スザンナ)、ペーター・マッテイ(アルマヴィーヴァ伯爵)、アマンダ・マジェスキ(伯爵夫人)、イザベル・レナード(ケルビーノ)、イン・ファン(バルバリーナ)他の出演。

 映像で観る限り、今回の舞台は全く隙のない出来と言っても言い過ぎではなかろう。
 エアは、ドラマの舞台を1930年代に移したというが、そのこと自体は今日ではさほど重要な問題ではない。演出も極めてストレートな範疇に納まるもので、概してト書き通りの舞台だし、アリアの個所では歌手は客席を向いて歌う。
 しかし、むしろ重要なのは、歌手たち全員の演技の細かさ、巧さだ。

 アリアの個所でさえ、歌手は素晴らしく精妙な表情を見せている。何より舌を巻かされるのは、登場人物たちが大勢で絡み合う場面での、全員の呼吸の合った細密、完璧な応酬ぶりである。
 エアは「そこで右へ動いて、今度は左へ動いて・・・・などと指示を出すようなタイプの人じゃない、素晴らしい演出家」(イザベル・レナード)だそうだが、しかしいかに彼が細かく指示しようとも、やはり歌手たち自身がそれぞれ自分の役柄表現を考え抜き、互いに自ら動きをつくらなければ、かように生き生きした人間模様は描かれないのではなかろうか。
 もうこうなれば、読み替えがどうだとか、舞台のスタイルが新しいとか古臭いとかなどという議論は、二の次、三の次ではないかという気がする。

 歌手たちは、歌唱の面でも、予想どおり、みんな勢いが良く、素晴らしかった。
 しかし、むしろ驚かされたのはレヴァインの指揮だ。ひところ━━体調が悪かった頃━━音楽に緊張感が全く失われていた時期もあったが、今や彼も完全に復調した・・・・いや、以前より情感豊かな指揮者になったのではないか? テンポは目覚ましく速めで、追い込みも鮮やかで、歌手たちを見事に「乗せて」いるのはもちろん、オーケストラが笑い、飛び跳ね、怒り、愛する━━それらの表情はこの「フィガロの結婚」の演奏になくてはならないものだが、病から復帰したレヴァインは、ついにそのワザを会得した境地に達したのではないかという気もする。

 舞台美術はロブ・ハウエル。回転舞台を巧妙に使って場面転換を成功させた。ただしこれは、映像で観るよりも、ナマで観た方が、印象も強くなるだろう。

 案内役はルネ・フレミング。要を得た司会ぶりはいつに変わらず見事。増田恵子の字幕も解りやすく、これも完璧である。終映は10時前。

11・16(日)ゴリホフ:オペラ「アイナダマール」

    日生劇場  2時

 日生劇場制作のオペラのシリーズの一環。2年連続のライマンのオペラのあと、今年はアルゼンチンの現代作曲家オスバルド・ゴリホフ(1960~)のオペラ「アイナダマール」(涙の泉)が取り上げられた。
 実に意欲的な企画で、日生劇場の姿勢を偉としたい。こんな連続企画は、この劇場でなければできないおおわざだろう。

 このオペラは、2003年に初演されたもの。台本は東洋系アメリカの劇作家デイヴィッド・ヘンリー・ウォン。
 ファシストに銃殺されたスペインの劇作家・詩人のフェデリコ・ガルシア・ロルカ(1898~1936)にまつわる物語である。ロルカの書いた演劇で主演女優を務めこともあり、友人でもあったマルガリータ・シルグ(1888~1969)をヒロインとして登場させ、彼女の口を通してロルカの生涯やその悲劇的なエピソードを描き出す━━という構成だ。

 上演時間は約80分。広上淳一指揮の読売日本交響楽団がピットに入った。演出は粟國淳、美術が横田あつみ、照明が大島祐夫、衣装がアレッサンドロ・チャンマルーギ。今日(2日目)のソロ歌手陣は、飯田みち代、馬原裕子、向野由美子、石塚隆充、小田桐貴樹、鹿野浩史、佐藤望。合唱がC.ヴィレッジシンガーズ、ダンスはアクセル・アルベリシ他。

 オペラというよりは劇的オラトリオと言ってもいいような、しかもリアルなドラマというよりは幻想的に構築された物語を、粟國淳が巧く舞台化していた。
 歌手の演技を抑制し、映像、効果音、ダンスをも総動員して、象徴的に暴動や弾圧などのエピソードを進めて行く。舞台には、印象的な場面がいくつもあった。

 ゴリホフ━━以前はゴリショフと表記されていたのではなかったか?━━の音楽は、ごく中庸を得たスタイルで、私にとっては必ずしも魅惑的なものとも言えないけれども、しかしオーケストラに現われる叙情的な曲想の部分と、合唱の部分は特に美しい。
 演奏にはギターとカホンも使われ、この2種の楽器がつくり出すラテン系の民族色豊かな楽想も、なかなか魅力的だった。広上の指揮も、読響の演奏も好かったが━━。

 問題は、肝心の「歌」だ。
 今回は歌手の声にPAが付加されていたが、これがこの劇場のスペースではどうも中途半端な効果しか生まず、また1階席前方では少し金属的な音質に聞こえたりして、些か聞きにくい印象になってしまった。歌手たちも、PAに頼りすぎたせいか、あるいは遠慮したせいか、中途半端な声量と表情で歌うので、歌唱は著しく迫真力を欠く。

 おまけに1階席ではPAとナマ声とが同時に聞こえるので、そのバランスの悪さに、なおさら苛々させられるというわけだ。さりとてシンセサイザーや効果音(これまた耳障りな音だ)も使った大音響の中で、PAなしのナマ声で歌を聞かせられるかとなると、われわれ外野席連中としては、はっきりしたことは言えぬ。
 まあ、劇場としては考えた挙句の試みだろうと思うけれど、次にこういう上演を行なう際には、音質とバランスの点について、御一考を賜りたい。

 なお、このオペラ上演の前に、「第1部 オペラへのプロローグ」として、ロルカに関する紹介が、田尾下哲の台本構成、長谷川初範他の演技とセリフによる「演劇スタイル」により行われた。30分ほどの長さではあったが、やや冗長という印象がなくもなかった。

11・15(土)ペーター・レーゼル&紀尾井シンフォニエッタ東京

     紀尾井ホール  2時

 これはオラフ・ヘンツォルトが客演指揮する紀尾井シンフォニエッタ東京の定期公演。前半にはブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」と「セレナード第2番」が置かれ、後半にペーター・レーゼルが登場して、ブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」が演奏された。

 とはいうものの、こちらは所用のため遅れ、聴けたのは「セレナード」の第2楽章から。
 レセプショニストに案内されて客席後方のドアから滑り込み、耳を傾けた途端に、いつもの紀尾井シンフォニエッタとは違う、旧東ドイツのオーケストラみたいな音が響き出すのに驚き、心を打たれた。
 指揮者ヘンツォルトは、旧東独時代のライプツィヒに生れ、ドレスデンで学んだ人である。あの2つの古都の香りが、今も彼の精神の中に生き続けているのかもしれない。

 彼の指揮は、2006年2月に新国立劇場の「コジ・ファン・トゥッテ」で聴いたことがあるが、その時の印象として「真面目で才気に不足するが、東京交響楽団があれほどきれいな音を出したのは彼の功績に違いない」というメモが残っている。
 多分、今でも、彼がモーツァルトを指揮すれば同じ印象になるかもしれないが、しかし今日のようなブラームスの作品においては、彼の指揮の特徴は、100%の美点として生きる。重厚で、しかも落ち着いた美しい陰翳に富んだ響きだ。それは快く、何か懐かしい感を与える。

 昔、旧東独系の演奏家が出していたこういう真摯な音色は、政治体制の変化とともに雲散霧消してしまったが、それでもこのようにそのDNAを脈々と受け継いでいる演奏家が少なからずいるのは、うれしいことだ。この「セレナード第2番」、私はフィナーレが妙に好きなこともあって、すこぶる快い気分になった。

 「ピアノ協奏曲第1番」でも同様、ヘンツォルトの生真面目で重厚な指揮が最大限に生きる。紀尾井シンフォニエッタ東京も、いい音楽をつくった。このオーケストラがこのホールでこれだけ雄大な、しかも翳りがあって引き締まった音を奏でたのは、めったになかったことだろう。
 そしてソリストは、これも旧東独出身のレーゼル。彼の真摯で深みのある情感、独特の温かみを感じさせる語り口、安んじて心を委ねられる演奏は、もちろんモーツァルトやベートーヴェンなどでも感動を呼び起こしてくれていたが、ブラームスの音楽では、それがいっそう強いものになる。

 アンコールには、何とモーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番」の第2楽章が演奏された。たっぷりと遅いテンポを採ってじっくりと歌い上げたその演奏は、むしろ耽美的なほどであり、底知れぬ陶酔感を与えてくれた。ソロとオーケストラを含めて、これだけ深い味のあるブラームスとモーツァルトをナマで聴ける機会は、もう私には二度とないかもしれない。

11・14(金)ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団

    サントリーホール  7時

 首席客演指揮者インキネンの「シベリウス&マーラー」シリーズの一環で、前半にシベリウスの交響詩「大洋の女神」、後半にマーラーの「交響曲第7番《夜の歌》」。

 聴いていて、明日(2日目)の(演奏の出来栄えの)方はもっといいだろうな、と思ったのは他でもない、日本フィルの定期はいつも2日目の方がまとまりも良い演奏になる、という傾向があるからである。
 といっても今回は、今日の初日の演奏がだめだったなどと言っているのではない。それどころか、すこぶるヴォルテージの高い熱演である。

 インキネンと日本フィルの相性の良さは、これまで聴いた多くの演奏からも感じ取ることができる。そしてまた、彼と、首席指揮者ラザレフと、正指揮者の山田和樹との3人の指揮者を擁して、近年目覚ましい上昇線を辿っている日本フィルの意欲的な情熱が反映された演奏であったことも確かであろう。

 「大洋の女神」は、インキネン得意のダイナミックなスタイルのシベリウスだ。この曲、もともとそう派手なつくりではないけれども、彼の指揮で聴くと、あたかも大海の巨大な波濤がごうごうと押し寄せて来るような迫真力が生まれて来る。
 その荒波に似て、演奏も多少荒かったものの、根っからのシベリウス・ファンとしては、これでも充分愉しめるというものだ。2本のフルートが美しい。

 マーラーの「7番」で面白かったのは、インキネンが第1楽章をかなりエネルジーコに解釈していたこと。━━この曲の終楽章が非常に狂騒的で、先立つ4つの楽章と異質な性格であることはしばしば指摘されるところだが、第1楽章が今日のように神秘的な怪奇性を払拭され、荒々しい活力を以って演奏された場合には、この5つの楽章は、怪奇なスケルツォの第3楽章を真ん中に、前後を夜曲で、さらにその外側を2つの狂騒で━━という具合に、すべてが見事にシンメトリー的に形成されているのだ、ということに気づかされる。
 それは、第1楽章を「緩やかに」と指定したマーラー自身も意識していなかったことかもしれない。いずれにせよ、若いインキネンの演奏構築の設計には、たしかに個性的な、立派な主張がある。

 その第1楽章の演奏はやはりガサガサしていて、明日の方がいいだろうなと思った理由のひとつでもあったが、しかし楽章を追ってまとまりは良くなり、特に第5楽章では白熱の盛り上がりに達していた。
 いつもは鮮やかなトランペットが今日は少々不安定だったとはいえ、ホルンとトロンボーンは快調であり、金管群の咆哮にも不足はなかった。活躍するテノール・ホルンは、今日はユーフォニウムで代用されたとのことで(私の席からはコントラバスの陰に隠れてよく見えなかったのである)これもなかなか良かった。

 演奏終了後にはインキネンによるアフタートークも行われ、来年はシベリウスの生誕150年を記念する意味でも、彼の作品を数多く取り上げる予定ということが発表されていた。個人的にも楽しみなことである。

11・13(木)マレイ・ペライア&アカデミー室内管弦楽団

    サントリーホール  7時

 プログラムは、メンデルスゾーンの「弦楽のための交響曲第7番ニ短調」、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番ハ長調」、バッハの「ピアノ協奏曲第7番ト短調BWV1058」、ハイドンの「交響曲第94番《驚愕》」という、見方によってはすこぶる個性的なもの。ただし、アンコールは無し。

 アカデミー、久しぶりにナマで聴く。オーケストラの弦は8・6・4・4・2。いい音だ。艶があって、しかも落ち着いて気品があり、生き生きした明るさに満ちている。
 メンデルスゾーンのみは指揮者なしで演奏された。そのステージを眺めていたら、1972年春にこのオーケストラが初来日した時、未だ若かったネヴィル・マリナーが弦のトップにリーダーとして座り、颯爽と弾いていた光景を思い出した(※)。
 当時のメンバーはもう残っていないだろう.。しかし、その流れがこのオケに立派に引き継がれているのは羨ましい。THE ACADEMYは、健在である。

 4曲を通して、弦の美しさは際立っていた。こういう厚みのある━━誤解を恐れずに言えばある意味でロマンティックな音色の━━弦のオーケストラでバッハを聴くのも実に久しぶりだが、それが決して古色蒼然たるものに聞こえず、むしろ新鮮でヒューマンな香りを以って響いて来るのが印象的だった。

 これに対し「驚愕」では、首席客演指揮者ペライアがその役目を果たしていたが、指揮者の好みなのか、第2楽章の「驚愕個所」を境に、演奏はハイドンとしては非常にワイルドなものとなり、特にティンパニは、少し乱暴じゃないかと思うようなアジタートな叩き方になっていた。今日の演奏の中ではこれだけがちょっと、という感で・・・・。なんか他の曲を聴きたかったな、とも思わないでもない。

 その意味でも、ペライアは、やはり2つのピアノ協奏曲が圧巻だった。透明清澄な音色は昔からのペライアの持ち味だが、今はこれに深い滋味と、鋭い集中力が加わっている。モーツァルトのカデンツァは、第1楽章にはペライア自身の、第3楽章にはブゾーニのものを使っていた。これらの個所でもペライアの精妙な美しさが最大限に発揮されていた。
 バッハの協奏曲をピアノで聴くのも何か久しぶりという感で、私はこのスタイルはもともとあまり好きではないのだけれど、今日のペライアのような演奏を聴くと、悪くないなという気もする。

 それにしても、これだけ緻密でしかも伸びやかで、そのバランスが絶妙に保たれた演奏を聴かせるペライアが、いざ指揮者として交響曲を演奏するとなると、なぜあんなに激した音楽をつくるのか、不思議である━━今日のプログラムを聴いた範囲での話だが。

 ところで今夜のサントリーホールは、学生の団体鑑賞も入って(愉しんでくれただろうか?)ほぼ満席状態だったが、なぜか少し換気が悪かったのではなかろうか? ホール内の空気が、何となく湿気を含んで、いつもとは違うにおいになっていた。ティンパニ奏者がのべつ調律に気を遣っていたように見えたのはそのせいかな、という気がしたものの、別に確証があるわけではない。

(※)アカデミー初来日の際の「火事騒ぎ」については、「マエストロへのオマージュ」を。

11・12(水)佐渡裕指揮東京フィルハーモニー交響楽団

    サントリーホール  7時

 プログラムは、ハイドンの「交響曲第6番《朝》」と、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」。

 佐渡裕は、9月の兵庫県立文化センター管弦楽団定期でもこの「4番」を指揮していたはずである。
 今日の東京フィルとの演奏を聴くと、彼の指揮するブルックナーは、ある意味で純粋な、素朴なものに感じられる。高貴で壮大な世界とか、宗教的な法悦の昂揚感とかにこだわることなく、ごく自然な音楽の流れの中にブルックナーの精神を見つけて行く━━といったものだろうか? 
 もっともこれはこちらが勝手に想像しただけで、彼がそういう音楽づくりの中に完成を求めているのかどうかまでは、今の段階では、私には判断しかねる。

 ともあれ、東京フィルの演奏を含めて言えば、今日は3回公演の初日ゆえ、その所為もあってか、第1楽章などは少しガサガサした鳴りになっていたが、次第にまとまりを取り戻した。
 第3楽章など、スケルツォでのあのホルンとトランペット、フルートとクラリネットによるややこしい応答の個所は、前半では少々気を揉ませられたものの、ダ・カーポしてからはそれもうまくまとまり、特に【N】からの最後の頂点に向かっての追い込みの個所では、オーケストラの演奏は極めて見事な均衡を示していて、すこぶる快かった。

 それからもう一つ、第4楽章再現部の後半、低弦のピッチカートのリズムの上にフルート、オーボエ、クラリネットが奏する第2主題の個所【S】━━ここはこんなにもメロディアスだったのか、と、改めて認識させられた次第である。また今日は、この曲で最も活躍するホルンも、なかなか快調だった。

11・11(火)アントニオ・パッパーノ指揮
ローマ・サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団

     サントリーホール  7時

 音楽院と国立アカデミーとは別もの――ということがやっと徹底して、このところ「音楽院管弦楽団」などという呼称が消え、「国立アカデミー管弦楽団」という表記が定着したのは慶賀の至り。
 17年前、「日本の皆さんは、音楽院とアカデミーとを混同しておられるようですな」と笑ったアカデミーのブルーノ・カッリ総裁も、やっと安心してくれたろう。プログラムに掲載されているカッリ総裁の肩書も、今回はめでたく「国立アカデミー総裁」という訳語になっていた。

 さてその国立アカデミー管、今回も音楽監督アントニオ・パッパーノとともに来日。
 解放的な明るさ、闊達さをみなぎらせた演奏は、オケと指揮者との呼吸がぴったり合い、楽員も音楽を心から愉しんでいることの表れではなかろうか。
 前回のロシア・プロよりもずっと瑞々しい演奏に感じられたし、またこれまで聴いたこのオケの演奏――ガッティ、ティーレマン、チョン・ミョンフンら、どの指揮者との演奏よりも、生き生きした演奏に思えたのである。

 今日はその来日公演の5日目。ロッシーニの「セビリャの理髪師」序曲、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」というプログラムだった。

 「セビリャの理髪師」は、お手のものだろう。実に明るい、闊達華麗な演奏だった。ただ、ロッシーニの序曲をやってくれるのはありがたいが、イタリア最高のオケが日本公演をやるのなら、たとえば「コリントの包囲」とか、せめて「アルジェのイタリア女」とか、もっとシンフォニックな、日本ではあまりナマで聴けないような曲を選んでもらいたかったものである。もちろん、演奏は悪くないけれども。

 面白くなったのは、次のブルッフの「第1協奏曲」になってからである。さすが、ドイツ・ロマン派の作品になると、パッパーノと国立アカデミー管は、低音域を強く出し、重量感を押し出して来る。
 ソロの諏訪内晶子が素晴らしかった。彼女がこの曲を演奏するのを聴いたのは、3年前の尾高&札響との協演以来2度目だ。あの時、彼女が非常にメリハリの強い、鋭いアクセントで弾いていたのにちょっと驚き、その話をご本人にしたところ、「あれでも今日は少し柔らかく弾いた方なんですけど」と言われた記憶がある。なるほど、ふだん外国のオケと協演していると、なだらかな音の日本のオケと演奏するのとは違って、やはりメリハリが強くなるのか、と納得したものである。

 そして今日の演奏は、あの時を遥かに上回るアクの強いほどの濃厚な表情をみなぎらせた、攻撃的な鋭いアクセントをも備えたものになっていた。特に第3楽章など、煽り立てて来るパッパーノとオーケストラの猛攻に対し、一歩も退かずに押し返すその気魄は全く息を呑むほどで、響きのいい名器を駆使しての朗々たる演奏は、オーケストラの音量に勝るとも劣らぬスケール感を示す見事なものだった。
 かりに日本のオケとの協演でこういう演奏をしたら、異様に浮き上がってしまうだろうが、欧州のオケ相手の場合には、このくらいの濃い表情を持つソロでないと拮抗できない。痛快無類なソロだった。

 「アルプス交響曲」は、まさにこのオケがエネルギーを全開した演奏――と言えたであろう。パッパーノは、安定したテンポで、殊更にハッタリを利かせることなく、自然体でアルプスの1日を描く。主人公の登山者は、山の光景に対してとりわけ感傷に浸ることなく、自然な足取りで進む。だがその中でも、パッパーノの劇的感覚は、華麗な滝の水しぶきや、危険な岩場での緊張感などを見事に描き出して、実に鮮やかである。

 オケも美しい音だった。これだけブリリアントな「アルプス交響曲」は、それほど多くはないだろう。輝かしい音色で咆哮するトランペット群、すすり泣くような甘美な音を出す1番オーボエ、派手な身振りで叩いては「どうだ」と言わんばかりのジェスチュアを示す首席ティンパニなど、ステージも聴き応え、見応え満載である。

 オルガン奏者が、出番のない時にはこちら客席の方を向いて座っているというのも珍しいし、嵐の場面の頂点で、とつぜん1人の打楽器奏者が中央近くの位置から上手側隅の方へ全力疾走し、体当り同然にサンダーマシンを叩く――という光景は、何とも可笑しみをそそる光景だった。初めからそういう分担だったのか、それとも忘れていたので慌てて飛んで行ったのか、判らないけれど。ラテン系のオケだな、という感。

 オケのアンコールは、ロッシーニの「ウィリアム・テル」からのバレエ音楽と、序曲の最後の「スイス軍隊の行進」の部分。オケは、重量感から、再び軽快な響きとリズムに戻った。演奏はまさに、「これぞ自家薬籠中の物」といった感。
 なお、諏訪内晶子のソロ・アンコールは、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」の第2楽章「ルール」で、これもレガートを利かせた濃い演奏だった。

  ⇒モーストリー・クラシック2月号 公演Reviews

11・7(金)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

    すみだトリフォニーホール  7時15分

 メッツマッハーが来年春で任期終了、ハーディングはさらに契約を延長して2016年春までの任期となったとの旨、オーケストラから発表された。
 とはいってもハーディングが振る定期は、この11月のあとは、来年7月までは無い。シェフの指揮する機会の少ないオーケストラは、どうしても不安定になりがちなもの。新日本フィルには頑張ってもらわねばならぬ。

 そのハーディング、11月の2回の定期では、マーラーとブルックナーを振り分けた。
 彼のマーラーはこれまでにもいくつか聴いて来たが(ただし2日のサントリー定期は風邪気味のため聞き逃した。今日も未だ風邪は抜けたわけではないが)、ブルックナーは滅多に聴く機会がない――。

 今回、実際に聴いたブルックナーの「第5交響曲」は、まあ、予想した通りというか、いわゆる既存のブルックナー演奏のイメージに比較すれば、少々風変わりなブルックナー・サウンドになっていた。俗にいう重厚壮大なブルックナーではなく、したがって高峰を仰ぎ見るようなブルックナーでもない。
 具体的には、全合奏の個所では、金管の咆哮よりも弦楽器群が織り成す波のような動きを前面に浮かび上がらせ、この作品から巨大性と威圧感とを取り去った演奏――とでも言うか。ただしこれは、1階の真ん中、下手寄りの席で聴いたバランスに由る印象だが。

 全体にあまり「磨き抜かれた音」でなく、粗っぽいアンサンブルという感ではあったものの、第2楽章あたりからは弦の音色が次第に瑞々しさを増して行った。第4楽章で弦の各パートが交錯し、ざわめく個所などでは、ブルックナーの音楽が持つ柔らかい叙情がいっぺんに流れ出して来たような快さ、懐かしさを感じたものである。

 ハーディングのこうしたブルックナーへの感性はすこぶる興味深いものだが、その反面、聴いていて、何かひとつ、張り合いがない。何故だろう、と考えていたら、終演後、ある人が「この演奏、待ってました!ここが山場だ!と思わせる場所がないんだよな」と苦笑していた。なるほどこれは、実に巧い表現だ。

 ハーディングが欧州のオケと日本のオケとでスタイルをガラリと変えて指揮するのは今始まったことではないから、もしこの「5番」を欧州のオケで指揮したら、もっと何か大胆不敵なアプローチを押し出すのかもしれない。

 演奏後にはブラヴォーの声も少なからず飛んでいた。
 あの「ブラヴォ━━━ォ」と長く引き延ばす声を最近あまり聞く機会がなかったので、何か寂しかったが、久しぶりに聞いた。あの声は、本当にどこからともなく響いて来る声で、客席をすべて見渡せるサントリーホールにおいてさえも、その発声源を特定するのは不可能である、という実に不思議な物理的特性を備えた声なので、私には妙に面白くてたまらないのだ。少なくとも、拍手に先んじてよく発せられるあの良く言えば落ち着いた、悪く言えば不景気な声のブラヴォーよりは、よほど愉しいものがある。

11・4(火)マーティン・ブラビンズ指揮東京都交響楽団の英国プロ2

     東京芸術劇場コンサートホール  7時

 10月20日に続く、ブラビンズと東京都響の英国プロ。今日はヴォーン・ウィリアムズの「ノーフォーク狂詩曲第2番」(1906年完成)、ディーリアスの「ヴァイオリン協奏曲」(1916)、ウォルトンの「交響曲第1番」(1935)。

 ホールと、聴いた席の位置(2階正面最前列)の所為もあってか、都響としては、前回のサントリーホールの時とは些か異なる、総じて硬質な音色の演奏という印象。ではあったが、3人の英国の作曲家の魅力は、充分に愉しめた。

 「ノーフォーク狂詩曲第2番」は、自筆譜の脱落していた僅かな個所(スケルツォの直前の個所とのこと)を、スティーヴン・ホッガーが補作した版で演奏された。これまで英国外での演奏は認められなかったが、今回は「都響からの強いアプローチにより」演奏できたとのこと。「国外初演」になる。よくそこまで漕ぎつけたものだ。
 冒頭がチェロの上行音で始まり、まるで「ウィリアム・テル」序曲の開始部にそっくりなのには苦笑させられるが、実に美しい曲で、不思議な懐かしさのような感情に引き込まれる。陶酔的な作品だ。

 ディーリアスの「ヴァイオリン協奏曲」では、英国の女性奏者クロエ・ハンスリップがソリストに迎えられていた。以前より更にふっくらとした容姿になったと見えたが、その演奏も以前よりずっと野太く逞しくなったのではないか。ディーリアスの協奏曲が、いつもの叙情的で流麗なイメージよりも、不思議にごつごつした、硬派の姿として聞こえた。それはむしろ新鮮で、興味深く感じられる。

 ウォルトンの「第1交響曲」の、特に第1楽章は━━私の好きなシベリウスの「レミンカイネンとサーリの乙女たち」そっくりの表情に、ブルックナーの「第3交響曲」第1楽章のクレッシェンド手法を加味したような雰囲気があって面白い。また全曲いたるところに、プロコフィエフの「鉄と鋼の作風の時代」のオーケストラを思わせる、攻撃的で硬質な響きも聴かれる。
 といっても、ウォルトンのこの作品が、単なる寄せ集めのものという意味ではない。それらの影響を色濃く受けながらも彼独特の押しの強い世界をつくり上げたということなのである。また随所に出て来るホルン群には、彼の映画音楽「リチャード3世」とも共通する響きが聴かれて、これも何か愉しい思いにさせられる。

 ブラビンズの指揮には、ここでも節度と均衡が保たれている。第1楽章終結などは、かつて若きプレヴィンがロンドン響との録音で聴かせたようなダイナミックな熱狂とは異なる、もっと落ち着いた演奏である。しかしそれでも、全曲におけるウォルトンの音楽の強靭な力は、充分に浮き彫りにされていた。

 聞けば、この難曲ぶりには、流石の東京都響も手を焼いたとのこと。だが、それは単に、この曲に慣れていなかったためだろう。第1楽章など、あの独特のリズムが何か生硬で座りが悪い気もしたものの、第1楽章途中から突如弦の音色がいつもの都響のそれを取り戻し、全体の響きも安定してきたように感じられた。第3楽章での弦の美しさも印象的であった。

 「第1交響曲」が終った後の上層階からのブラヴォーの声は一際盛んなものだった。ブラビンズの英国ものは、東京のファンの心をすっかりとりこにしたようである。

11・1(土)藤原歌劇団創立80周年記念「ラ・ボエーム」

    BUNKAMURAオーチャードホール  3時

 Aキャストのミミは、バルバラ・フリットリ。
 貧しいお針子の役だから、そう華やかな動きはなく、むしろおっとりとした演技表現だったが、音楽面では第3幕(アンフェール門の前の場)を中心にさすがの歌唱を聴かせてくれた。もちろんこれも病身の娘の役だから、かなり抑制した歌唱だったけれど、ここぞという個所での安定感は見事なものだった。

 詩人ロドルフォ役にはジュゼッペ・フィリアノーティが出演したものの、今日は声の調子が必ずしも良くなかったのではないかという気がする。それにこのテナー、演技はからきしダメだ。せっかく堀内康雄(マルチェッロ)や森口賢二(ショナール)、久保田真澄(コッリーネ)、小川里美(ムゼッタ)、折江忠道(ベノア)ら日本人勢が細かい演技で舞台を盛り上げているのに、本来なら主役であるはずのロドルフォに多感な詩人としての役柄表現が不足しているので、舞台がそこだけ空白を生じたような感になってしまう。

 ベテラン堀内康雄は、滋味あふれる歌唱と演技で絶好調。今日の舞台を支えた事実上の主役━━立役者といっても過言ではあるまい。
 小川里美も「ムゼッタのワルツ」で伸びのある声を聞かせ、演技の面でも、第4幕での「優しいムゼッタ」の表現に見事なものを示した━━特にミミに飲ませようと薬を混ぜる時の演技は絶品で、こういう目立たないところをもきちんとまとめる人は素晴らしい。

 その演出は、岩田達宗。7年前に彼が藤原オペラにデビューした際のプロダクションの再々演である。穏健なストレート路線で、必ずしも理詰めの演出とはいえないまでも、よくまとまっているだろう。

 ただ、第4幕でのコッリーネのアリオーゾ「古い外套よ」では、歌い出した時(つまり観客の注意がそちらに向けられた時)からすでに外套を手に丸めて持ってしまっているので、初めて観る観客にとっては、何を物々しく「別れの歌」を歌っているのか、意味が解らないこともあるかもしれない。
 また、第2幕(カルティエ・ラタンの場面)の、幕切れのオーケストラの和音の最後の音に群衆の歓声をかぶせ、その声を和音のあとにまで中途半端に一瞬残したのは、ここの音楽が要求している「歯切れのいい」性格に対して、納得の行かぬものがある。

 指揮は沼尻竜典、管弦楽は東京フィル。良い演奏だった。
 沼尻の「ラ・ボエーム」は、4年前にも神奈川県民ホールで聴いたことがあるが、今回はつくる音楽にも瑞々しさとしなやかさを増し、たっぷりと鳴らしたオーケストラからも極めてふくよかな表情を引き出していた。びわ湖ホール芸術監督やリューベック歌劇場音楽総監督としてのキャリアは、間違いなく彼にオペラ指揮者としての進境をもたらしていると思われる。

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