2017-04

10・31(金)METライブビューイング ヴェルディ:「マクベス」

   東劇  6時半

 新シーズンの「METライブ」第1弾は、エイドリアン・ノーブル演出によるヴェルディの「マクベス」。
 去る10月11日の上演映像で、新演出ではないけれどもMETらしく中庸を得て、安定感と熱気とを併せ持った舞台だ。マーク・トンプソンの装置・衣装ともに、近現代のスタイルでまとめられている。

 今回の何よりの魅力は、豪華な配役にあるだろう。
 マクベス役のジェリコ・ルチッチは、ジャック・ニコルスンばりの悪役的風貌と、堂々たる体格が見事に生きている。マクベス夫人のアンナ・ネトレプコも、このドラマティックな役柄としては予想以上の出来で、特に顔の表情の演技には凄味を増した。
 バンクォーのルネ・パーペは独特の容貌で一癖ある演技を見せ、とりわけ亡霊となってからの不気味さがいい。マクダフのジョセフ・カレーヤも、若いわりには貫録のある舞台姿である。

 歌唱については、皆もう、実に見事なものだ。ただネトレプコのみ、悪女としての歌唱表現は、演技ほどの凄味には不足・・・・という面もないではないが、なにしろ並外れて華のある美女だから、文句は控えよう。

 そして今回の指揮はMETの首席指揮者ファビオ・ルイージ━━さすがにイタリア・オペラとなるとこの人、鮮やかな指揮ぶりである。リズム感がかなり明快なので、それはこのリズミカルな要素の濃い「マクベス」の音楽には合う。バンクォーとマクダフが王暗殺を知って恐怖に駆られ飛び出して来るくだりなど、あのくらいのリズム感があればサマになるだろう。

 METのオーケストラの出来も素晴らしい。中継がある時には演奏者のアドレナリンもいっそう━━とか何とかピーター・ゲルブ総支配人が語っていたけれど、たしかにこの日は、演奏にも総力を挙げていたのだろう。いつもそうとは限らないのは、現地で数日間続けて通ってみると判ることだが・・・・。

 とにかく、この「マクベス」は、見もの、聴きものである。休憩1回を含み、上演時間は約3時間15分。7日まで上映とのこと。

10・30(木)ラドミル・エリシュカ指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場コンサートホール  7時

 人気のエリシュカが読響に客演するのは、意外にも今回が最初とのこと。
 プログラムはスメタナの「売られた花嫁」序曲、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番」(ソリストは河村尚子)、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」。

 これは読響の定期ではなく、東京芸術劇場の「世界のマエストロ・シリーズ」の一環。だからといって何も今更「新世界」でなくても、と聴く前は思っていたが、いざ聴いてみれば、やはりこのエリシュカの指揮する「新世界」は、図抜けて凄いものであった。圧倒的なとか、ド迫力とかいう意味ではなく、温かく美しく、懐かしさを呼び起こす情感を湛えて、深々と心に染み入って来る演奏なのである。

 おおらかでたっぷりした響きを持ちながら、細部の表情は実に緻密だ。第2楽章の最初、イングリッシュ・ホルンがあの有名な主題を奏し始める直前の弦楽器群(第5~7小節)のふっくらとした和音の美しさ。あるいは第4楽章再現部第2主題でのチェロ(第230~234小節、第238~241小節)の大きく息づく、ふくよかな音色の美しさ。

 随所に、このようなハッとさせられる恍惚的な美しさが満ち溢れている。やはりこの曲はいい曲だ━━と、そう感じさせられることこそ、至福の演奏にめぐりあった証しだろう。味も素っ気もないようなルーティン演奏からは、絶対に体験できないものだ。残念ながら、こういうヒューマンな音楽をつくる巨匠は、当節、次第に少なくなって行く。

 1曲目の「売られた花嫁」序曲でも、冒頭から凄まじいエネルギーが噴出する。読響はもともと音量の豊かなオーケストラだが、今日はふだんにも増して、よく鳴り渡った。ただし前半に聴いた2階センターの5列目あたりでは、妙にティンパニが大きく唸り過ぎ、オケをさえマスクしてしまう傾向があったので、あまり楽しめなかったのだが・・・・。
 協奏曲では、河村尚子が鮮やかなソロを聴かせてくれた。第3楽章のテンポの、何という爽快さ。胸のすくような快演であった。

10・29(木)ブルネロとルケシーニのベートーヴェン 第2日

    紀尾井ホール  7時

 昨日の続き。「《魔笛》の主題による7つの変奏曲」に始まり、次いでソナタの「第3番」、休憩を挟んで「第4番」と「第5番」。

 変奏曲での、チェロの温かく気品のある音色と、一つ一つの音符を慈しむように柔らかくゆっくりと歌って行く演奏に先ず心を打たれる。ブルネロの面目躍如だ。
 続く「ソナタ第3番」の冒頭でも同様。イ長調の大きな気宇を備えた主題は、ふつうは第25小節からの決然たるフォルテを早くも予想するように弾かれるところだが、ブルネロは、あたかも沈思しながら独白するように、聞こえるか聞こえないかという最弱音で弾きはじめる。おそらく、この個所がスコアではpの「ドルチェ」と指定されていることに着目、その性格を浮き彫りにする意図があるのだろう。

 静のブルネロ、動のルケシーニ━━などと言うのは少し乱暴な話だが、その均衡と不均衡(?)の狭間にあって、「第4番」の緩徐部分における2人の朗々たるカンタービレの昂揚は、この日の演奏の白眉ともいうべきものだった。
 昨日の演奏でもそうだったが、ブルネロは、最初のうちピアノに主導権を譲りつつ抑制気味に弾きはじめ、最終楽章あたりになると、猛然とそれを奪い返して高みに昇って行くという癖があるようだ。これは、今回のようなナマのステージでなければ聴けない大技だろう。

 ともあれこの2日間にわたるツィクルスは、ベートーヴェンの音楽のヒューマンな面を最大限に浮き彫りにした、素晴らしく美しいコンサートだった。

10・28(水)ブルネロとルケシーニのベートーヴェン 第1日

   紀尾井ホール  7時

 2日連続の「ベートーヴェン チェロ・ソナタ&変奏曲 全曲演奏会」の初日は、ソナタの「第1番」と「第2番」、その間に「モーツァルトの《魔笛》の主題による12の変奏曲」と、「ヘンデルの《ユダス・マカベウス》の《見よ勇者は還る》による12の変奏曲」というプログラム。

 マリオ・ブルネロのチェロは、相変わらず音色が美しくて温かい。
 もともと大きな音を出す人ではないが、今日はさらに抑制気味にして、pやppの叙情感に重点を置いて弾いていたのかもしれない。アンドレア・ルケシーニのピアノが極めて響きがいいので、全体にチェロはマスクされる傾向があった。
 もともと今日の2つのソナタの、特に「第1番」は、ピアノのパートがチェロより雄弁なつくりになっている作品だが、それにしてもチェロが聴き取りにくかったのは、少々もどかしい。

 もっともこれは、1階席の中央やや右寄りで聴いての話。場所によっては異なって来ることもあるから、断定的なことは言えない。いずれにせよ、これまで協演を重ねている練達の名手同士、それなりの考えがあってのバランスだろう。チェロもピアノも美しかったことには変わりはない。

10・27(月)細川俊夫の「大鴉」日本初演

    津田ホール  7時

 「大鴉」は、エドガー・アラン・ポーの原作。
 ある夜に主人公が独り、死んだ恋人の追想に耽っているところへ、巨大な黒いカラスがやって来る。カラスが喋るのはただ一言、「Never more」という言葉のみ。主人公と鴉の、不思議な、奇怪な一夜が過ぎて行く━━いかにもポーらしく、現実と幻想、理性と狂気が交錯する物語だ。細川俊夫は、これをメゾ・ソプラノと12の奏者のためのモノ・ドラマ(英語版)として作曲した。

 今日の日本初演は、演奏会形式によるものである。
 演奏は、ルクセンブルクを拠点とする現代音楽の専門グループ、アンサンブル・ルシリン。女声ソロはシャルロッテ・ヘレカント。指揮は、「班女」をはじめ、これまで細川の作品をたびたび指揮している川瀬賢太郎。
 そして演奏に先立ち、横内正がポーの原作を日本語で朗読した。

 メゾ・ソプラノ歌手は、この物語を、語り、歌う。それを支える「室内オーケストラ」は、細川らしい精妙で多彩なオーケストレーションにあふれ、音楽の起伏も非常に大きい。それは演技や舞台の動きを描写的に描くものではなく、主人公の心の動きを投影した音楽なのだが、神秘的であると同時に、充分に激しく劇的である。特に今回は現代音楽アンサンブルを起用しての演奏だけに、その音楽も極めて鋭角的な表情になる。

 アンサンブル・ルシリンの演奏が実に巧い。ヘレカントの歌唱も、もう異論を唱えようもないくらい素晴らしい。川瀬賢太郎も充分その責任を果たしていたはずだから、カーテンコールであんなに遠慮したジェスチュアを見せるのは、かえっておかしいだろう。
 今回は照明演出として、佐藤美晴の名がクレジットされていた。が、津田ホールのあのステージでは、趣向の凝らしようがなかったのでは? 
 日本初演にもかかわらず、作曲者がカーテンコールに登場しなかったのはいささか奇異な感だったが、あとで聞いたところによると、ご本人は帰国が間に合わなかった由。

 なお、この「大鴉」は、プログラムの第2部で上演されたものだった。
 第1部では、アンサンブル・ルシリンのメンバーの演奏で、現代音楽が4曲取り上げられていた。プログラムは、クロード・レナースの「弦楽三重奏のための《稲妻の向こうで、赤》」(1991年)、トリスタン・ミュライユの「フルート、ヴァイオリン、チェロとピアノための《鐘の音を渡る葉ずえ》」(1998)、マルセル・ロイターの「クラリネット、ヴィオラ、ピアノのための《インターリュード》」(2007)、ブルーノ・マントヴァーニの「フルートとペタンク球のための《ホップラ》」。
 選曲が良く、演奏も鮮やかなので、どれもこの上なく新鮮なイメージと美しさとにあふれていた。

※この項にコメントをお寄せ下さった「匿名」の方、いつも御親切に情報をお知らせいただいて、あつく御礼を申し上げます。特殊な問題なので、直接ご返事を差し上げたいと思うのですが、非公開指定のメール形式でもう一度ご投稿願えませんでしょうか? あるいは、アドレスだけを非公開で投稿していただいても結構です。お待ちしています。

10・26(日)関西二期会 ヴェルディ:「ドン・カルロ」

    兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール  2時

 西宮に移動。
 兵庫県立芸術文化センターでは、関西二期会創立50周年記念の力作プロダクション、「ドン・カルロ」が上演されている。今日が2日目の公演だ。関西二期会にとっては、1968年5月に大阪毎日ホールで「カルメン」(指揮・秋山和慶、演出・栗山昌良)により旗揚げして以来、今回が第81回の公演になる由。
 4幕版の上演で、まさに同カンパニーが総力を挙げた、記念公演にふさわしいプロダクションの上演だったということができよう。

 指揮はダニエレ・アジマン、演出がカルロ・アントニオ・デ・ルチア(舞台装置と衣装の担当はクレジットされていないが、どちらも彼とのことである)。
 今日のキャストは、ドン・カルロを松本薫平、エリザベッタを平野雅世、ロドリーゴを晴雅彦、フィリッポ2世をセルゲイ・ウズン、エボリ公女を西村薫、宗教裁判長をフルヴィオ・ヴァレンティ、その他。関西フィルハーモニー管弦楽団と関西二期会合唱団。

 舞台には、中世風の衣装と、一部映像を使用した大掛かりな装置。演出もいわゆる伝統的な「決まりの型」を優先した手法で、歌手には概して正面を向いて歌わせるというスタイルである。
 登場人物の心理の微細な動きを描き出すことに興味を持つ観客からすれば、大いにまだるっこしく、腑に落ちない点も少なくないが、あれこれ演出の意味を考えるなどという余計なことに神経を使わず観ていられるという面では、手頃な舞台といえるかもしれない。

 指揮者アジマンは、現在ミラノ・ヴェルディ音楽院指揮科教授を務めている人で、関西二期会公演ではすでに「アドリアーナ・ルクヴルール」と「夢遊病の女」を指揮しているそうだが、ヴェルディのこの作品では、テンポにもう少し劇的な起伏といったものが欲しかった。各幕における頂点への盛り上げや、たとえば第3幕の劇的なエボリのアリアなどでの彼女の感情の高まりの個所などでは、もっとドラマティックな演奏構築が必要であろう。

 なお第3幕で、ロドリーゴが暗殺されたところで幕を終らせてしまい━━そのあとの、国王がカルロを許し、ロドリーゴの死を悼む場面や、民衆が宗教裁判長に対してあっけなく平伏、王権と教会の各々の権力の差を描き出す場面など、ドラマにとって重要なくだりをカットしてしまったのは、やはり具合が悪い。第一、エボリ公女の助けでカルロが牢獄から脱出する場面がカットされてしまっていては、牢にいたはずの彼が何故いきなりサン・ジュスト修道院に現われるのか、説明がつかない。

 関西フィルは、冒頭のホルンはともかくとして、アジマンの大河のような音楽づくりに応えて、いい演奏をしていた。
 歌手陣の中では、晴雅彦がさすがに安定度の高い歌唱と演技を示し、舞台を引き締めていた。次いで平野雅世が出色の出来で、第4幕でのアリア「世の空しさを知る神よ」は見事だった。良いプリマになるだろう。
 5年前に「ルクリーシア(の凌辱)」の題名役で健闘していた西村薫も、久しぶりにエボリ公女役で観ることができた。エボリとしては少し可憐だったが、ひたむきな女としての表現は好かったのではないかと思う。

 関西二期会の公演に接したのは、2009年のその「ルクリーシア」と「フィデリオ」以来、実に5年ぶりになる。そうたびたび観に来られるわけではないけれど、この力作上演をひとつの里程標として、今後とも隆盛を祈りたい。ちなみに来年のオペラ公演は、「夕鶴」「アンドレア・シェニエ」「ウィンザーの陽気な女房たち」とのことである。

10・25(土)マーティン・ブラビンズ指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団

     愛知県芸術劇場コンサートホール  4時

 早稲田大学で行っているオープンカレッジのオペラ講座の講演を午後0時10分に終えたあと、4時から名古屋の愛知県芸術劇場で名古屋フィルの演奏会を聴く━━などというスケジュールが簡単にこなせるようになったのだから、便利な時代というべきか、慌ただしい時代というべきか。

 名古屋フィルの定期は、年間テーマを設定していることでも知られている。
 今シーズンのテーマは「《ファースト》シリーズ」というもので、これはいろいろな作曲家の「第1番」や「作品1」の他に、世界初演、日本初演、初版楽譜の演奏、名古屋フィルでの初演奏などの作品なども含む選曲の由。
 ちょっとこじつけの感もなくはないが、まあ、そういうのもあり━━のユニークな企画とは言えるだろう。少なくとも「第1番」や「作品1」を選曲することは、各作曲家の若書きの意欲的な姿勢を読み取ることにもなるから。

 この10月定期は、常任指揮者マーティン・ブラビンズの指揮だ。
 ベートーヴェンの「交響曲第1番」とショスタコーヴィチの「交響曲第1番」前後に据え、その間にカレヴィ・アホの「トロンボーン協奏曲」の日本初演と、名古屋フィルコンポーザー・イン・レジデンスの藤倉大の「バニツァ・グルーヴ!」同楽団初演奏━━を置くというプログラムだった。

 ブラビンズの指揮は、先日の東京都響客演でも聴いたばかりだが、どんな激しい昂揚の個所でも均衡を保ち、些かも容を崩すことはない。それゆえ、作曲者若き日の大胆で野心的な作風をも、なにか分別を備えたおとなの作品というイメージにつくり上げてしまうという、微笑ましい傾向になることがなくもない。
 1曲目のベートーヴェンなどもそうで、細部まで慎重に組み上げた演奏になっていた。そのこと自体は悪くはないけれど、ただ、「ファースト」らしい・・・・若きベートーヴェンの熱気が噴出するというには、少々おとなしい演奏に聞こえたのである。

 ショスタコーヴィチの「第1交響曲」の方も、なにかえらく立派な風格を備えた作品として演奏された。19歳の作曲家の大胆不敵な作風さえも、むしろ落ち着いたユーモアといったものに化していたように感じられる。
 ただ、そういう解釈は別として、ここでの名古屋フィルの演奏は、密度も濃く、実に素晴らしかった。

 カレヴィ・アホの「トロンボーン協奏曲」(2012年)は、この作曲家ならではの、多彩な局面を備えた作品である。
 ソリストは、オランダの名手ヨルゲン・ファン・ライエン(コンセルトヘボウ管弦楽団首席奏者)。2種の楽器を使い、ありとあらゆる奏法を駆使した素晴らしいソロを展開する。その多彩な音色とテクニックは圧倒的なものがあり、30分以上かかる長大な作品を息づまる緊張の裡に聴かせてくれた。

 一方、藤倉大の「バニツァ・グルーヴ!」は、ちょっとしゃれた小品である。作曲者のノートによれば、「バニツァ」はブルガリア料理のパイとのこと。ウィーン・リング・アンサンブルのために書いた小品を管弦楽版にしたものという。今回はプログラムの第2部冒頭に演奏されたが、その寛ぎ感のある曲想は、躍動的なショスタコーヴィチの交響曲への前奏曲的なイメージとなったのは事実だろう━━作曲者の意図は別にしてだが。

 それにしても名古屋フィル、いい演奏だった。特色ある現代音楽を紹介する意欲的なプログラミングにも賞賛を贈ろう。また、こういうプログラムでもお客さんが集まる(1400名以上入っていた由)のにも感銘を受けた。

 オーケストラが引き上げた後に、ファン・ライエンがソロで、フローリアン・マグヌス・マイアーというドイツの作曲家の「スリップ・ストリーム」という曲を演奏するというオマケがついた。この作曲家は、フラメンコ・ギターやヘビメタ・ギターにも秀でた作曲家だそうである。
 曲は、「トロンボーンとループ・ステーションのための作品」と銘打たれていた。ループ・ステーションとは、たった今ナマで演奏したばかりの音をメモリー機能で録音、再生、消去しながら、更にナマ演奏と組み合わせて行くことができる小さな電気機器だ。
 従って演奏も、ほとんど偶然性音楽のそれに近くなるだろう。さまざまな音型やフレーズが次第にふくれ上がって行く音が面白い。15分弱の演奏が、実に楽しいエンターテインメントになっていた。このオマケを聴かなかった人は、大損をしたというべきだろう。

 なお、開演前の会場では、ケータイ音などの注意のお決まりの場内アナウンスのあと、わざわざスタッフが舞台袖に現れ、もう一度「ケータイ、私語、飴の紙」の音にいたるまで事細かに客席へ注意を促していた。
 おそろしく念入りにやっているので、これは最近何事か事件があったのかなと思ったが、案の定、名古屋在住のTさんが後でメールで教えてくれた情報によると、7月定期の小山実稚恵さんの出演の際にケータイや補聴器のハウリングなど、大変な騒ぎが起こったのだとのこと。・・・・どこも悩みの種である。

 ついでに更なる事件(?)。ショスタコーヴィチの第4楽章終わり頃、ゲネラル・パウゼでいち早く自信満々、大きな拍手を始めた人がいた。勘違いしたのなら仕方がないが、演奏が続いたのに気づいたなら、手を叩くのをすぐやめて欲しいものである。だが私はむしろ、全曲最後の音の残響がまだ消えぬうちに「本当の終りはここなんだ、覚えとけ」といわんばかりのブラヴォーを叫んでみせた男に、より不快を感じた。そういう物知り顔をひけらかす御仁は、困ったことに、時々いるものである。

10・24(金)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団

    サントリーホール  7時

 朝6時50分発の新幹線で帰京。午後4時から新宿で大学時代の友人たちと会食、満腹してサントリーホールに向かう。ラザレフの指揮でチャイコフスキーの「弦楽セレナード」とショスタコーヴィチの「交響曲第4番」を聴くからには、このくらいの体力をつけておかないと、とても太刀打ちできない。

 予想通り、今日は火を吐くような演奏になった。
 「弦楽セレナード」冒頭から猛烈な気魄で音楽が開始されるという具合で、猛将ラザレフの面目充分。「セレナード」などという域を超えて、「弦楽のためのシンフォニー」という様相だ。速めのテンポで滔々と押し、低音弦に豪壮な力感を込め、重厚に構築する。

 日本フィルの弦が素晴らしい。その厚みといい、密度の濃さといい、輝かしくヴィヴィッドな表情といい、以前の日本フィルからは想像もできなかったほどの壮大なスケール感だ。
 ふつう、日本のオーケストラがこの曲を演奏すると、しっとりした小奇麗なスタイルになったり、優麗な出来になったりするものだが、今回のこれは、怒涛のセレナードとでも言った感であった。この曲の場合、演奏のあとに客席から熱烈なブラヴォーがいくつも飛ぶという例は珍しい。いかに凄い演奏だったかを証明するものではないか?

 後半は、ショスタコーヴィチの「第4交響曲」だ。プログラムの第1部では出番のなかった「休養充分」の管楽器群と打楽器群が、待ってましたとばかり咆哮する。
 ラザレフも日本フィルを煽りに煽って、ホールも崩れ落ちんばかりの大音響でショスタコーヴィチの音楽のエネルギーを解放、激烈な怒号のシンフォニーをつくりあげた。彼の獅子奮迅の情熱的な指揮、日本フィルの総力を挙げた大熱演など、それら自体は実に見事なものであったということが出来よう。ファゴット、オーボエ、トロンボーン、トランペットなど、管のソロも映えていた。

 ただ、その炸裂する音響に、今一つ、魂の慟哭のようなもの、あるいは悲劇的な情感といったようなものが欲しいと感じたのは、私だけだったろうか? 凶暴なほどの咆哮にもかかわらず、デモーニッシュな要素は、意外に希薄だった。
 このあたりに、ラザレフと日本フィルが今後取り組むべき課題があるような気もするのだが、━━とはいっても、この日は初日の演奏。日本フィルの定期は、大体2日目の方が演奏も充実するという傾向があるから、2日目には、上記の問題は解決されていたかもしれない。

 金曜日の公演ではあったが、客席は結構埋まっていた。慶賀の至りである。

10・23(木)井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

    フェスティバルホール 7時

  午後、大阪に入る。
 ウィルス性喉頭がんを克服した井上道義の「快気祝」復帰定期演奏会。

 4月の首席指揮者就任披露以来の大阪フィル定期登場だが、この間、彼が振る定期はなかったわけだから、スケジュールは当初の予定通りということになる。少し痩せたというけれども、血色も相変わらずいいし、動作も機敏で、客席から見る限り、すべてにおいてエネルギッシュな雰囲気を横溢させている。踊るような指揮のジェスチュアも以前と変わらず、今日もドラマティックな(?)動きを見せていた。

 なにはともあれ、めでたいことだ。あまり無理をせず、活動するにしても、徐々にスピードを上げて行っていただきたいものである。

 今回は、4月定期と同様にロシア・プログラムで、ショスタコーヴィチの「ロシアとキルギスの主題による序曲」、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロはユリアンナ・アウデーエワ)、チャイコフスキーの「交響曲第4番」。

 特に前半の2曲は、気魄に富んだ素晴らしい演奏だった。
 「序曲」は、ショスタコーヴィチの作品の持つ活力が充分に再現され、痛快な昂揚をつくった。また「協奏曲」では、アウデーエワの鋭い切り込みと、思い切りのいいリズム感にあふれた強靭な意志力を感じさせるソロと相まって、これも胸のすくような快演となった。

 チャイコフスキーの「第4交響曲」も豪壮な熱演で、あたかも病と闘う井上自身の姿を作品に投影したかのような━━「ダモクレスの剣」の脅威との闘争と勝利のドラマを連想させるような演奏となっていた。
 ただし、この曲での、ホルン群および木管のソロの一部の不安定さは、大阪フィルの現在の状態に些か不安を抱かせるものであり、それに細部の仕上げにも少々粗さが目立つという点で、十全の演奏とは言いがたかったであろう。定期2日目の明日の演奏会では改善されているといいけれども。

 前回、4月の定期を聴いた時には1階中央18列あたりの席だったが、今日は2階席2列目中央で聴いた。ここに座ったのは杮落しの「オテロ」に続く2度目だが、今の段階では、どうやら1階よりはこの2階の方が、音がまとまって聞こえるようである。短いとはいえ、ある適度の残響も伴って聞こえるし、オーケストラの量感も伝わって来る。
  ⇒音楽の友12月号 演奏会評 

10・22(水)レ・ヴァン・フランセ

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 5時半過ぎに終った「ドン・ジョヴァンニ」に続き、7時からの「レ・ヴァン・フランセ」の演奏会が、棟続きの建物の中で行なわれるのがありがたい。特に今夜のような雨の場合、濡れずに移動できるのが助かる。

 レ・ヴァン・フランセLes Vents Français、メンバーはエマニュエル・パユ(フルート)、フランソワ・ルルー(オーボエ)、ポール・メイエ(クラリネット)、ラドヴァン・ヴラトコヴィチ(ホルン)、ジルベール・オダン(バソン)、エリック・ル・サージュ(ピアノ)。
 これだけの名手が揃えば、演奏を批評することさえ愚かだろう。

 プログラムは、ルーセルの「ディヴェルティスマン作品6」、マデリーン・ドリング(1923~77)の「フルート、オーボエ、ピアノのための三重奏曲」、ベートーヴェンの「ピアノと管楽のための五重奏曲」、アンドレ・カプレの「ピアノと木管のための五重奏曲ニ長調」、プーランクの「六重奏曲」。

 その美しさ、洗練された軽やかな音楽の表情、鮮やかな技巧のソリとアンサンブルの均衡。どこをとっても素晴らしく、聴いていると名状し難い陶酔感に引き込まれてしまう。カプレの曲の第4楽章での湧き立つような昂揚感など、ただ彼ら名手たちのみが為し得る世界ではなかろうか━━。

10・22(水)新国立劇場 モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」

    新国立劇場オペラパレス  2時

 2008年にプレミエされたグリシャ・アサガロフ演出による、新国立劇場の定番となっているプロダクション。

 今回はラルフ・ヴァイケルトが指揮した。
 序曲冒頭、かなり切れ味のいい表情で始まったものの、その後はやはり、比較的重い演奏に終始した感がある。この指揮者、3年前の「サロメ」で、ベテランらしく重厚な安定した演奏を聴かせてくれたことがあるから、モーツァルトでも重くなるのは当然、ということか。

 しかも全体に遅めのイン・テンポで、特にレチタティーヴォをゆったりと歌わせる傾向があるため、ドラマとしての緊迫感が希薄になる傾向がある。
 最も疑問に思えるのは、ドラマの局面に応じて刻々と変化するはずの、モーツァルトの見事な起伏に富んだ音楽が、坦々と同じ表情で続いてしまい、劇的な盛り上がりに欠けるということだろう。第2幕で大勢がレポレッロを囲んで責め立てる場面など、演奏があまりに落ち着き過ぎていて、その前後の場面の音楽との対比が明確でないのには、もどかしくなったほどである。

 ただその代わり、彼の指揮するモーツァルトは、丁寧で、美しいという美点がある。特にこの時期のモーツァルトが好んで使った木管の妙なるハーモニーを、これだけ精妙に美しく響かせてくれた指揮者は、そうそういるものではない。
 東京フィルも、今日は格段の綺麗な演奏だった(ホルンの部分的な不安定さには、今日は気にしないことにしよう)。

 アサガロフの演出は、この演出では、非常にストレートだ。冒頭場面でドンナ・アンナがドン・ジョヴァンニに屈服(?)してしまっていることは具体的に描かれ、それが父親の死と絡まって大きなトラウマになっていることは、彼女の最後のアリアにおける演技で如実に独白されるが、それ以外には、とりわけ捻った解釈は見られない。
 ルイジ・ペーレゴの舞台美術と衣装、マーティン・ゲプハルトの照明も美しく、定番プロダクションにふさわしい舞台である。

 題名役は、アドリアン・エレートが歌い演じた。彼のバイロイトの「マイスタージンガー」におけるベックメッサーは未だに忘れられない快演であったが、このドン・ジョヴァンニは、ちょっと線が細く(痩躯であることとは違う意味でだが)、しかも演技が何か中途半端な印象もあって、どう見ても色男然とした風格に乏しい。
 休憩時間にある女性に「あまり男が惚れるドン・ジョヴァンニとはいえないなあ」と言ったら、「女も惚れないかも」という返事が返って来た。エレート、闊達にやろうとすればいくらでも巧く出来る人だから、今回は指揮者のテンポとの確執とか、演出家(演出助手?)との齟齬とか、なにかそんな食い違いでもあったのではなかろうか?

 共演歌手陣は、マルコ・ヴィンコ(レポレッロ)、カルメラ・レミージョ(ドンナ・アンナ)、パオロ・ファナーレ(ドン・オッターヴィオ)、アガ・ミコライ(ドンナ・エルヴィーラ)、妻屋秀和(騎士長)、町英和(マゼット)、鷲尾麻衣(ツェルリーナ)。
 外人勢はみんなそれなりに実績も実力もある歌手ばかりだから、全体に安定はしていたが、今一つ熱気と劇的な昂揚に不足する印象だったのが惜しい。指揮者のテンポにもっと躍動感があったなら、歌唱だけでなく、演技にも更なる闊達さが生まれていたかもしれない。

10・21(火)プレトニョフ指揮東京フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 ミハイル・プレトニョフは、指揮者として東京フィルとは殊更相性が良いようで、この10年来しばしば客演している。今回はショパンの「ピアノ協奏曲第1番」と、スクリャービンの「交響曲第1番」というプログラム。

 ショパンの第1協奏曲は、プレトニョフが独自にオーケストレーションを改訂した版ということでも興味を呼んだ。私はそのヴァージョンを聴くのは今回が初めてなのだが、たとえば原譜からトロンボーンを削除したことなど、オーケストラの響きを軽くし、エレガントで流麗なニュアンスを強める、という効果を生んでいるだろう。
 第1楽章提示部では、あのカンタービレ主題(第61小節以降)を演奏する第1ヴァイオリンをクラリネットに変更し、私たちの度肝を抜く。

 ことほどさように、全曲いたる所で意外な音色が聴かれるわけだが、正直言って私には、プレトニョフが何か余計なことをしているようにしか思えず、些か賛成しかねる。しかし、それを聴けたこと自体は、貴重なことだった。

 ソロはチョ・ソンジン。昨年、あるいは4年前の演奏を聴いて、彼が端整な演奏と激烈自由な演奏とを使い分けることのできる大胆な若手であることは承知しており、またショパンの作品ではかなり起伏の激しい演奏を聴かせることも知っていた。
 しかし今日の演奏は、大先輩のプレトニョフに遠慮したわけでもあるまいが、極めて整然たる、造型的な演奏を繰り広げていた(昨年チョン・ミョンフンの指揮で演奏した他のコンチェルトの時にも、えらく端整なスタイルで演奏したことがある)。
 アンコールで弾いたショパンの「ノクターン嬰ハ短調」もすっきりした演奏だったのは予想外だったが、最後の締め括りでちょっとしゃれた感じを出したところは、さすが注目の若手ならではの度胸か。演奏はいずれも瑞々しい。

 後半のスクリャービンでは、プレトニョフは暗譜で指揮していた。最初のうちは、最強奏の個所において、鋭角的で硬質な響きが目立っていたが、最終部分の壮大な「芸術讃歌」が近づくにつれ、それが次第に豊麗な響きに変わって行くあたり、プレトニョフの綿密な演奏設計に基づいていたのかもしれない。
 東京フィルも好演。「芸術讃歌」の部分では、新国立劇場合唱団と、小山由美、福井敬が協演し、骨太な表現を聴かせてくれた。

10・20(月)マーティン・ブラビンズ指揮東京都交響楽団

   サントリーホール  7時

 名古屋フィルの常任指揮者をも努める英国の指揮者マーティン・ブラビンズが東京都響に登場、ヴォーン・ウィリアムズの「ノーフォーク狂詩曲第1番」、ブリテンの「ピアノ協奏曲」(改訂版)、ウォルトンの「交響曲第2番」という、完全英国プログラムを指揮した。

 珍しい曲ばかり。実に意欲的な選曲である。東京都響の定期公演におけるレパートリーの拡大は目覚ましく、しかもプログラミングの巧みさが目立つ。

 ウォルトンの「第2交響曲」など、私はナマで聴くのは初めてだが、あの重厚なエネルギーを噴出させる音響の魅力は、やはりナマで味わうに越したことはない。時に凶暴な怒号にも近い力感ながら、ブラビンズは、これ見よがしの誇張も行なわず、整然たる均衡を保ちつつ、しかも豪快なエネルギー感を以って全曲をまとめて行く。
 都響が、また上手い。あれだけの大音響を聴かせながら、なお音にふくよかさを失わないのは立派なものである。

 休憩前に演奏されたブリテンの協奏曲では、スティーヴン・オズボーンが活気あるソロを聴かせてくれた。この曲もナマで聴くと、終楽章でのオケとピアノ・ソロとの猛烈な応酬が丁々発止といっそうリアルに感じられ、思わず笑い出したくなるくらい、やたらめったら面白いのである。ブラビンズの指揮は、ここでも「端然たる力感」を漲らせて見事だった。

 こうなったら、来月4日の「ノーフォーク狂詩曲第2番」(ホッガー補完版の日本初演)とウォルトンの「第1交響曲」などによるコンサートも、どうしても聴きたくなる。ブラビンズの指揮は、それとは別に、今週土曜日に名古屋フィルとの演奏会も聴くことにしているのだが、これも楽しみである。

10・19(日)飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団東京特別演奏会

     サントリーホール  3時

 日本センチュリー交響楽団(旧大阪センチュリー交響楽団)が創立25周年記念として、首席指揮者・飯森範親とともに東京特別演奏会を開催した。これは一昨日大阪のザ・シンフォニーホールで「第195回定期演奏会」として行なったものと同一の内容である。

 曲は、マーラーの「第2交響曲《復活》」。協演は、飯森が音楽監督を務める山形交響楽団。合唱は大阪センチュリー合唱団、山響アマデウスコア、混声合唱団コーロ・フォレスタ。声楽ソロは安藤赴美子とアンナ・クオ。
 ドレスデン・フィルの第1コンマス、ハイケ・ヤニッケが、ゲスト・コンサートミストレスとしてトップに座った。山響の首席コンサートミストレス犬伏亜里もトップサイドに座るという布陣だった。

 日本センチュリー響の楽員数は54名(2013年の資料による)、これに山響49名(同)のうち40名強が共演するという具合だから、事実上の「合同演奏」というべきものだろう。ただし、そう表記してあるところはプログラムの内ページだけで、表紙及び事前のPR資料などでは、山響の方は遠慮したのか、えらく控えめになっていた。

 首席に座っていたのは大体センチュリーの楽員だから、主役はやはり「創立25周年」のオケの方であることは解る。あるいは、費用の持ち分とか何とか、楽屋裏の事情も影響しているのかもしれないが、その辺は知らない。ただ印象としては、何となく、「やり手の関西」と、「おとなしい東北」━━という雰囲気で・・・・。

 それはともかく、まず飯森が獅子奮迅、渾身入魂の熱演指揮だ。その気魄が演奏に表れて、全曲を通じて逞しい力が漲っていた。彼らしい骨太で剛直な音楽づくりが、この「復活」では成功していた。
 第5楽章最後の頂点にはもうひとつ法悦的なものというか、陶酔的な感覚が欲しかったものの、熱気は充分だった。

 オーケストラも、2つの団体の合同でありながら、それを感じさせぬほどの音の均衡を保っていたが、これは飯森が双方のオケのシェフを兼任している事実もさることながら、彼の統率力の良さゆえであることは、もちろんであろう。
 オーボエの1番奏者、トランペットの1番奏者(いずれも日本センチュリー響)は、とりわけ素晴らしかった。先日のブラームスに比べると、日本センチュリー響は、格段の快演であった。

 合唱は、P席全部を埋める大編成で、健闘していた。にもかかわらず、最後の圧倒的な昂揚個所では、オーケストラに消される傾向がなくもなく、またアンサンブルに精密さがやや不足していたことは、否定できまい。

 冒頭から板付きになっていたのは、作品の性格からして当然だが、しかし、いくら長丁場だからといっても、合唱団の下手側うしろから2番目の列の中央にいた髪の長いお嬢さん、演奏者なのだから、お客の前であんなに派手な居眠りをしてはいけません。舞台の品格にかかわります(周囲のメンバーも注意してあげればいいのに)。

10・18(土)クシシュトフ・ウルバンスキ指揮東京交響楽団

    サントリーホール  6時

 庄司紗矢香の弾くドヴォルジャークの「ヴァイオリン協奏曲」を真ん中に、前後をキラルの交響詩「クシェサニ」とルトスワフスキの「管弦楽のための協奏曲」で固めた、ちょっと渋いプログラムだったが、東京響とその首席客演指揮者ウルバンスキの熱演は壮烈を極めた。
 こういう意欲的なプログラミングは賞賛されて然るべきだし、その演奏も鮮やかな出来である。東京響とウルバンスキの組み合わせは、成功を重ねている。

 「クシェサニ」(1974年)は、キラルらしい大管弦楽の猛然たる坩堝だが、一見騒然たる響きの中に、あたかも偶数小節ずつから成るようなバランスのいい構築が保たれているのが快い(私は8ビートなり16ビートなりのリズムを思い浮かべてしまった)。
 また混沌たる響きの中に、ある民謡調の旋律が一貫して流れている(これまた《ワルツィング・マチルダ》を連想してしまった)のが面白い。特に終り近く、その「陰に隠れていた」主題が突然前面に現われ、それがまた臆面もなく俗っぽいフシ(悪い意味で言っているのではない)なので、実に愉しくなる。
 わが国にはキラル・ファンも多いから、この演奏は大いに喜ばれたのではなかろうか。

 この曲があまりに大音響なので、それが耳に慣れてしまい、次のドヴォルジャークの協奏曲の冒頭の劇的な開始が、えらくおとなしく、物静かに聞こえてしまった。
 こういう効果を生んでしまうのは、プログラムの配列としては、あまり好ましいことではないだろう。昔、小澤征爾と日本フィルが、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」の金管の咆哮のあとにブルックナーの「第4交響曲」を演奏して失敗した如くである。
 だがそれでも、このドヴォルジャークでは、東京響の弦の音色が美しく、また管楽器群の演奏も素晴らしかった。そして何より、庄司紗矢香のソロが毅然として瑞々しく、緊迫感の豊かな、集中力に富んだ見事なものだった。所謂民族主義的な色彩こそないものの、非常に聴き応えのある快演であった。彼女のアンコール曲、パガニーニの「《うつろな心》による変奏曲」の一節も洒落たもの。

 プログラムは、ルトスワフスキのシリアスな作品で閉じられる。暗譜で指揮するウルバンスキの確信に満ちた音楽づくりが伝わって来る。第2楽章で金管群と木管群がだぶる個所でつくり出された音色は、不思議な陰影に富んでいた・・・・。東京響はここでも快演。

10・17(金)ペトル・ヴロンスキー指揮読売日本交響楽団

   サントリーホール  7時

 チェコの指揮者ヴロンスキー。3年前の5月、ズデニェク・マカルの代役として来日、マーラーの「第5交響曲」を指揮して、予想外の快演を聴かせたことがある。
 たしか「代役で来ているくせにオケをギリギリ絞り上げるので、楽員がブーブー言っている」という話をその時に聴いた記憶もある。しかし、演奏を聴いた人の評判は、すこぶる良かった。

 今回も「絞り上げた」かどうかは知らないけれども、最初のスークの「弦楽のためのセレナード変ホ長調」では大編成の弦がしっとりして美しい響きを出し、快い演奏をつくり上げていた(読響の弦であれば、このくらいは容易いだろうが)。

 しかし、後半のマーラーの「第1交響曲《巨人》」の方は、どういうわけか、演奏の構築が些か粗い。オーケストラとしても、先週のスクロヴァチェフスキの指揮の緊張から解放されたためなのか、特にホルン群があちこち不安定だったので、演奏全体がやや落ち着かない印象になってしまっていた。

 前回の「5番」と比べると、出来にかなりの差がある。つまり、読響といえども完璧な時ばかりではないよ、ということだろうが、それでも第3楽章冒頭のコントラバスのソロは素晴らしく美しかったし、それに続くファゴットも見事なカンタービレを聴かせてくれるなど、ハッとさせられるような個所もあった。
 ヴロンスキーの指揮も、今回はだいぶ野暮ったいものに感じられたが、しかしフィナーレでのフォルティシモは強靭だった。読響を思い切り鳴らし(トランペットの1番は大活躍だった)、痛快な頂点をつくり上げていた。

 昨日までの3日間の超美食に比べると、今日は広島のお好み焼き、といった感か。まずいという意味ではなく、ダイナミックで荒っぽいつくり、という意味で。

10・16(木)ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団

    サントリーホール  7時

 モントリオール(モンレアル)響の来日は、今回で10度目。現・音楽監督ケント・ナガノとのコンビでは、これが6年ぶり2度目の来日。

 今日のプログラムは、前半にドビュッシーの「海」、ストラヴィンスキーの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは五嶋龍)、後半にラヴェルの「ダフニスとクロエ」抜粋と「ボレロ」。アンコールにはベルリオーズの序曲「海賊」、本居長世の「青い目の人形」、最後がビゼーの「ファランドール」・・・・という盛沢山の内容で、終演はやはり9時半を回った。

 このオーケストラも、本当に美しい音をもっている。デュトワ時代にはもう少し華麗な色彩感があったが、今のモントリオール響は、その色彩感に加え、しっとりした落ち着きのような表情が増しているような気がする。ケントがシェフに就任して8年、これが彼とこのオケが共に築いた個性なのだと言っていいだろう。

 私の意見では、ケントがこれまでシェフを歴任して来た数多くのオーケストラの中では、このモントリオール響がいちばん彼の良さを出しているのではないかと思う。ただし今のところ、ベートーヴェンの交響曲などはCDでだけしか聴いていないし、ナマの演奏会ではフランス音楽のレパートリーにしか接していないから、そう簡単に結論づけるのは避けるべきだとは思うが・・・・。

 今日の演奏でも、「海」の第2楽章終り近くのところ、前回の来日でも魅了されたあの「泡立ちクリームのような芳醇さ」が、再び響いていた。何度聴いても引き込まれる素晴らしさである。
 それに「ダフニスとクロエ」での精妙で官能的なほどの豊潤さ。それは感覚的な美しさにとどまるとはいえ、フランス音楽の魅力を心ゆくまで味わわせてくれるものであることは間違いない。

 ケントは、やはり我を忘れて熱狂したりするタイプの指揮者ではない。「ダフニス」の華麗なる終結個所においても、完璧なイン・テンポと不動の風格で最後まで押し切った「ボレロ」でも、あるいは「ファランドール」の終結でも、どこかに抑制された、生真面目なものがある。

 昨夜に続いて、美音のオーケストラの演奏会。美食の饗宴だ。

10・15(水)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団

    サントリーホール  7時

 ストラヴィンスキーの「3大バレエ曲」の、「火の鳥」組曲版および「ペトルーシュカ」「春の祭典」を一晩のプログラムに組む例は他にないでもない(今回のマリインスキーも福岡でやっている)。
 しかし、その「火の鳥」を、組曲でなく、長い全曲版の方にするなどという大変なことをやる指揮者とオーケストラは、このゲルギエフとマリインスキー管をおいて他にあるだろうか?

 それにしてもこれは、おそるべき演奏だった。
 オーケストラの響きには昨夜と同様、完璧な均衡が保たれ、しかもそれが自在に揺れ動き、沸き立ちながら躍動する。その凄まじさたるや、何か魔性的なイメージをも感じさせるほどだ。ゲルギエフがこのオーケストラを、いかに完璧に自己の楽器としてつくりあげたか、それを余すところなく証明したのが今夜の演奏だろう。
 若い楽員を燃え立たせる彼のカリスマ性に関しては、以前PMFオーケストラを指揮した時のチャイコフスキーの「第5交響曲」でも思い知らされたものだが、このマリインスキーのオーケストラは、すでに完成品と言ってもいいほどである。

 楽器も昔に比べ格段に良くなっているので、音色の良さも抜群ということになる。弦は、何と第1ヴァイオリン13人、第2ヴァイオリン11人・・・・という数(但しコントラバスは7人)に過ぎず、この大きいとは言えない編成で、見事に4管編成の金管と対等に張り合うのだから、これもまた驚異的だ。

 プログラムの第1部で演奏された「火の鳥」(1910年全曲版)は、まさに微細で緻密な設計と、目眩くような色彩感にあふれた快演だった。しかもゲルギエフは、バレエの物語に応じてその音楽の表情を多彩に変化させるが、その呼吸もまた唖然とさせられるほどの巧みさである。
 「ストラヴィンスキーは、リムスキー=コルサコフ門下から育った作曲家。私は彼を純然たるロシアの作曲家というアプローチで指揮したい」とゲルギエフが語ったのはもう十数年前のことだった。こういう演奏を聴くと、その言葉が決して看板倒れになっていないことが感じ取れる。私がこれまでにナマで聴いた「火の鳥」全曲版で、これほど豪華で多彩で劇的な演奏は、かつてなかった。

 そのゲルギエフの見事なアプローチは、休憩後の1曲目の「ペトルーシュカ」でも、十全に発揮された。今回は4管編成の1911年版が使われた。この分厚く豊麗な響きを持った版での演奏は、ロシアの色彩感を甦らせる。
 このオーケストラは、昔のロシアの地方色を感じさせるような野性的な響きとは全く性格を異にし、洗練されたモダンな感覚を備えていることは昨日も書いたが、それでもやはりロシア音楽ならではの渦巻く色彩と、ひた押しに押す壮烈なエネルギー感を存分に再現してくれるのである。

 「ペトルーシュカ」。傍若無人の勢いで突進するかと思うと、鮮やかに身をひるがえす、といった変化の妙。トランペットや木管のソロの上手さが映える。
 後半、あの有名なロシア民謡が出て来る直前、金管群を浮かび上がらせて管弦楽の色彩感を全く別のものにしてしまうゲルギエフの大技には、呆然とさせられた。ゲルギエフの指揮に少しでも疑問を持っていた人でも、この演奏を聴けば、かくあるものかと納得させられるだろう。そのくらい見事な演奏だったのである。

 これまで聴いたことのないような凄い演奏の「ペトルーシュカ」のあとには、やはりほんの少しでもいいから気分転換の時間が欲しかったが、あのタフなゲルギエフとマリインスキーのオーケストラは、3回ほどのカーテンコールをやったあと、何と、直ちに「春の祭典」の演奏に入ってしまった。
 他の人たちはどうか知らないが、私は前の2曲の演奏の感銘があまりに大きかったために、気分の切り替えが難しかった。というより、聴くのに没頭し過ぎたために、疲れてしまった。そのせいかどうか、結論から言うと、この「春の祭典」は、少々感銘が薄かったのだが・・・・。

 演奏にも、ちょっと腑に落ちないところがあった。ゲルギエフは、部分的に、異常に速いテンポを採っていた。あたかもマリインスキー管の若き名手たちの腕の良さを愉しむかのようなアプローチではあったが、しかしやはり、さすがのオケも、あまりの速いテンポのために、明晰さを欠いた面もあったのである。
 演奏時間も、およそ31分ほどだったろうか。1999年録音のCDでは35分ほどだったし、重戦車が驀進するような演奏が素晴らしかったのだが、今回は疾風怒濤の、何とも慌ただしい「春の祭典」であった。
 ゲルギエフにしても当然、3曲のバランスを考えていたのだろう。重厚壮大な「火の鳥」に対し、スケルツォ的な「ペトルーシュカ」。しかし、そうすると「春の祭典」は━━?

 3曲の演奏が終った時点で、時計は9時31分を指していたが、しかしゲルギエフとマリインスキー管は、なおそのあとにアンコールとして、リャードフの奇怪な曲想をもった小品「バーバ・ヤガー」を演奏した。
 9時40分過ぎに、コンサートは終った。昨日とほぼ同じ終了時間ではあったものの、今日は何しろ、濃厚無比なロシア料理を満腹状態まで味わったような思い。

 10年ほど前には、サンクトペテルブルクの「白夜の星・音楽祭」で、もっと凄いスケジュールに朝まで付き合ったこともある私だが、残念ながら、もう体力がついて行かないのを感じる。こんな程度で疲れていては、われながら不甲斐ない。
 ちなみにゲルギエフたちは今朝も3時頃まで飲んで騒いでいて、しかも朝のアウトリーチの活動は、ちゃんと予定通りこなしていた、と事務局のスタッフが話していた。

10・14(火)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団

    サントリーホール  7時

 日本ツアーの第6日。ネルソン・フレイレをソリストにしたブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第8番」というプログラム。
 フレイレはソロ・アンコールにグルックの「精霊の踊り」(ジョヴァンニ・ズガンバーティ編曲)を弾き、またゲルギエフとオーケストラはアンコールにワーグナーの「ローエングリン」第1幕前奏曲(!)を演奏したので、終演は9時50分頃になった。

 ゲルギエフの演奏の構築は、ショスタコーヴィチはもちろん、ブラームスでも、相変わらず精妙を極めて見事というほかはない。ここぞというところで音楽全体をぐいと引き締め、クライマックスへ持って行くその呼吸の巧さは、彼の卓越した劇的感覚のなせる業だろう。
 それに加え、特に感心したのは、オーケストラの美しい音色、完璧なほどの均衡だ。叙情的な個所や、弱音の個所では、とりわけ素晴らしい。

 昔、ゲルギエフが着任した頃には、この劇場のオーケストラには、パレフかマトリョーシュカのデザインに見られるような陰影の濃い色彩感があり、ロシアのオーケストラのローカル的な特色を感じさせて、それはそれで良かった。だが、今日ではもはやそのようなロシア的な色合いは薄れ、インターナショナルなカラーを備えるオーケストラに一変している。

 そういった特徴は、90年代後半から強くなって来ていた。ただ、今世紀に入っての最初の数年ほどは、変化期特有の混乱があったようである。
 2011年2月の「トロイ人たち」の公演の後だったと思うが、私がオーケストラのクォリティを賞賛した時、ゲルギエフが「若い楽員を育てて、ここまで来るのに5年かかった」と答えていた。そしてそれが現在、ついに最良の状態にまで達したのではないかと思う。
 ブラームスでの弦の豊麗さ、ショスタコーヴィチの全曲大詰におけるハーモニーの玲瓏たる音色など、どこをとっても陶然とさせられるほどである。

 フレイレも、相変わらず元気で演奏を繰り広げてくれている。その音楽には何か孤独に思索するような沈潜した表情も感じられるが、素晴らしいブラームスだった。

10・14(火)「ジュリアス・シーザー」

   彩の国さいたま芸術劇場大ホール  1時30分

 これはオペラに非ずして、彩の国さいたま芸術劇場開館20周年記念、彩の国シェイクスピア・シリーズ第29弾、蜷川幸雄演出による演劇である。
 阿部寛(ブルータス)、藤原竜也(アントニー)、横田栄司(シーザー)、吉田鋼太郎(キャシアス)、浅野望(ポーシャ)他の出演。

 舞台上の巨大な階段から客席まで、幅広い空間をダイナミックに動く主役たちや群衆が観客に刺激を与える。これこそがナマの舞台芸術の醍醐味だ。「熱い」人間たちを描いたドラマの迫力でもある。
 ただ、俳優たちの怒鳴りっぱなしの早口のセリフには些か疲れる。オペラなら、音楽の上で昂揚と沈潜、緊張と弛緩とが交錯して行くため、大きな起伏と変化が感じられるものなのだが、こちらでは終始、絶叫が続く。━━しかもその絶叫型セリフの発音があまり明確でない場合には、ますます神経が疲れてしまう。

 このドラマでは、「考え深い高潔の士」ブルータスが全体を引き締める存在だろうと思うのだが、阿部寛の声量と発音は、こういう熱血型人物の群像の中では、残念ながら(私はこの人のファンなので尚更だ)どうもあまり引き立たないような感じがする。
 その点、さすがに見事だったのは、吉田鋼太郎と横田栄司。早口で叫び続けるセリフも、少しも曖昧にならない。それゆえ今回のドラマの印象は、「シーザーとキャシアス」とでもいうべきものになった。

 観客には、圧倒的に女性━━それも幅広い世代の━━が多い。

10・12(日)沼尻竜典オペラセレクション ヴェルディ:「リゴレット」

     びわ湖ホール  2時

 休憩2回を入れての上演。
 最近の上演形態としては比較的珍しい。休憩が多ければ、大スポンサーの叶匠壽庵の売り上げに貢献できるからやろ、などとわれわれ業界スズメどもがさえずる。ロビーに設置された菓子売り場は賑わっており、開演前には臨時の茶席(椅子)まで設えられ、作法通りにお茶を飲んでいる人たちもいた。いい雰囲気だ。
 それはともかくとしても、ヴェルディのオペラは各幕の上演時間が短いので、楽である。

 今回の「リゴレット」、演出は田尾下哲。いわゆる読み替え演出ではないけれど、「リゴレット」の台本の雑駁さを衝き、ユーゴーの原作をも念頭に入れて部分的に新解釈を施したという、かなり興味深い舞台だ。
 たとえば、チェプラーノ伯爵夫人をモンテローネ伯爵の娘に設定して、台本では全く曖昧になっている第1幕での人物関係を解き明かそうとしていることもそのひとつ。

 また、第3幕の殺し場では、台本のようにスパラフチーレがジルダを殺害するというシンプルな形ではなく、リゴレット殺害を図るチェプラーノ伯ら廷臣たちの一味(ジョヴァンナを買収して彼の居所を知る)が、男装のジルダをリゴレットと思い込んで襲い、━━結局一同も誤りに気づいて躊躇ったものの、リゴレットへの恨みに燃えるチェプラーノがジルダを殺害する、という、非常に凝った設定がなされていた。
 ただしこれらの設定は、いきなり舞台を見ただけでは、些か解りにくい憾みがある。特に殺し場のこの設定は、屋外と屋内で大勢の人物が入り乱れるばかりで、スパラフチーレ以外はだれがだれだかよく判らず、意味がよく呑み込めない。もう少し練ってくれれば、観客にも広く納得してもらえるだろう。

 指揮はもちろん、すっかりびわ湖ホールの「顔」になった沼尻竜典。今回は「昔のパートナー」日本センチュリー響を率いての演奏。彼の指揮は、第2幕最後の「復讐の2重唱」のようにかなりテンポを煽る場面もあったが、どちらかといえば、熱っぽい劇的さよりも、叙情的な美しさの方が浮き彫りになっていた。すっきりとした、瑞々しいヴェルディである。
 第2幕終り近く、リゴレットが「娘よ、泣くがいい」と慰めるシーンの演奏など、牧野正人(リゴレット)の歌唱とともに、豊かな情感がこもっていて見事なものだった。

 オーケストラはところどころ音に厚みを欠くきらいもあったが、多くの個所でたっぷりと鳴り響き、好演であった。知人の話によれば、昨日の初日よりも今日の方が出来がいい、とのこと。

 リゴレット役のベテラン牧野正人は、悪役(以前の「ラ・ジョコンダ」の密偵バルナバなど良かった)を含め、こういうアクの強いキャラクターをやると、巧味を発揮する人だ。声もよく響くし、舞台上の存在感もある。好演だが、前記の「復讐の2重唱」などでは、いくらテンポが速いとはいえ、3連音符をもう少し正確に歌ってもらわないと、折角の聴かせどころの凄味がフイになってしまう。

 一方、ジルダ役の森谷真理は、METの「魔笛」の夜の女王で絶賛を浴び、今はリンツ歌劇場専属とのこと。素晴らしくきれいな高音域の声を持っており、「慕わしき御名」のコロラトゥーラ個所など実に美しく歌い上げていた。
 とはいえそこでは、あまりにも正確に歌おうとしている慎重さが目立ち、歌唱に生き生きした躍動が感じられなかったのも、残念ながら事実だろう。美しい人形のような歌唱でなく、血の通った表情が欲しい。これらの点を克服して、自由さと、温かさと、情熱とが歌唱に満たされるようになって来れば、素晴らしいプリマになれる人だろう。

 マントヴァ公爵を歌い演じたジョン・健・ヌッツオは、最近の彼の舞台の中では最も「キマっていた」出来であった。彼にはこういうイタリア・オペラのリリコ系のキャラクターが似合っている。演技も、彼ならさらに微細な表現が出来るはずだ。
 殺し屋スパラフチーレを歌ったデニス・ビシュニアは、粗暴な演技表現ともに、この役に嵌っていた。また、出番は少ないが、マッダレーナ役の小林由佳と、モンテローネ伯爵役の青山貴が存在感を示していた。

 字幕は、今回は演出家が自ら担当したという。字幕は演出の一部であり、ドラマを字で表現するものである。観客はそれを物語として続けて読むのだから、内容もスムースな流れを感じさせなければならない。その意味では、今回の訳文は、ドラマの「解釈」にこだわり過ぎたきらいもあり、生きた言葉の流れを欠いていたように感じられた。

 「沼尻竜典オペラセレクション」、来年は5月に、沼尻自作の「竹取物語」をいよいよ舞台上演するという。一方、神奈川県民ホールでも上演する3月の「びわ湖ホール プロデュースオペラ」は、ヴェルディの「オテロ」である。
    モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

10・11(土)首都オペラ R・シュトラウス:「アラベラ」

   神奈川県民ホール  2時

 首都オペラの第23回公演。今回は、なかなかの力作である。
 若手の佐藤美晴による新演出、指揮が中橋健太郎左衛門、管弦楽が神奈川フィル、合唱が首都オペラ合唱団。歌手陣は、津山恵(アラベラ)、山口佳子(ズデンカ)、月野進(マンドリカ)、内山信吾(マッテオ)、佐藤泰弘(ヴァルトナー)、佐伯葉子(アデライーデ)他。

 松生紘子の装置デザイン、奥畑康夫の照明デザインを含む佐藤美晴の演出は、下手側半分に大きな階段を設置した比較的シンプルな構築のステージを、背景を含めた照明の変化により登場人物の心理の変化を描き出すといった舞台。
 保守的ではないにしてもごく穏健な舞台といった印象で、その意味では、余計な気を遣わずに観て楽しめる舞台にはなっていた。あまり佐藤美晴らしくない演出とも言えるが、まあ、こういうスタイルも時にはあるだろう。

 全3幕のうち、第2幕を「夢の中心軸」とする意図は、観ている側でも汲み取ることができた。ただ、ラストシーンでの照明の演出は、何となくすっぽらかしのような印象も与える・・・・「これから何が起こるのか」という問題提起の演出コンセプトが、単なるハッピーエンドを謳歌するような照明の中にぼかされてしまったように感じられた、という意味で。

 話は戻るが、良くも悪くも穏健な舞台に見えたのは、主役歌手たちのうちの何人かの演技が類型的で、生々しい人間像といったものに不足していたからかもしれない。
 特にアラベラは、いくら育ちがいいと言っても頭のいい女性なのだから、第3幕でズデンカの企みが露見した瞬間からあとの演技などには、もっと微細な表情の変化が欲しいものである。マッテオにしても同様、その場面では大体だれの演出でもボケーッと突っ立っているパターンが多いものだが、それならそれで、もっと「茫然自失」の雰囲気を顔と身体とで表現した方がいいのではないか? 

 マンドリカ役の月野進は、事の次第が呑み込めてからのうろたえぶりはある程度顔の表情でよく表現していたと思うが、これももう少し身体全体で表現した方が、観客にも解りやすいだろう。
 ひとり出色の出来だったのは、ズデンカ役の山口佳子であった。少年に変装している時も、女性に戻ったあとも、演技は非常に微細で、演劇的なセンスも充分と思われた。今後の一層の活躍を楽しみにしたい。

 脇役たちの演技は、概ね良く出来ていた。なお、歌手陣の歌唱は、一部を除いては、極めて手堅いものだった。
 中橋健太郎左衛門の指揮と神奈川フィルの演奏は、安定して、なかなか豊麗な音になっていた。

10・10(金)五嶋みどり 協奏曲の夕べ 

   サントリーホール  7時

 シリーズ最終日。新日本フィルとの協演で、バッハの「協奏曲ニ短調BMV1052R」(チェンバロ協奏曲からの復元)、シュニトケの「ヴァイオリンと室内オーケストラのためのソナタ」、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」、バッハの「ヴァイオリン協奏曲第2番」というプログラム。

 彼女の演奏は、先日のリサイタルと同じく、あまり大きくはないがふくらみのある音、しかも凛然たる佇まいの瑞々しい表情が素晴らしい。
 だが、今日の指揮者のヘルマン・ボイマーという人が、もう少しオーケストラを巧く鳴らしてくれたら、彼女の音はもっとはっきりと浮かび上がったのではなかろうか。ベルクの協奏曲「ある天使の思い出に」など、指揮者が響かせる音は、些か無神経な音量に過ぎたように思う。
 昨年春、シャイー指揮のゲヴァントハウス管と協演したメンデルスゾーンの協奏曲では、彼女のソロとオーケストラとは、絶妙なバランスで響いていたではないか。すべては指揮者の力量しだいである。

 今夜の演奏の中では、シュニトケの作品と、バッハの「2番」とが最も良かったような気がする。

10・9(木)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 1週間前の誕生日で91歳を迎えたスクロヴァチェフスキ。相変わらず元気そのものである。足取りもしっかりしているし、動作も敏捷、すべて暗譜で指揮する。つくり出す音楽も、いつもながらの精悍な表情だ。速めのテンポ、要所で聴かせる猛烈なアッチェルランド、強靭なアクセント。もはや気魄の権化である。

 今日のプログラムは、ブルックナーの「交響曲第0番」と、ベートーヴェンの「交響曲第7番」。
 前者は作曲者若書きの変な曲だが、紛れもないブルックナー節(ぶし)が其処此処に顔を見せる、ブルックナー好きにとっては愛すべき交響曲だ。一見まとまりのないこの作品を、これだけ集中力を以って再現できるというのも、練達の名匠スクロヴァチェフスキならではであろう。特に第3楽章での緊迫感は見事なものがあった。
 ダイナミックで、低音域に力があり、そして少しラフではあるが攻撃的な音づくりになっているのは、スクロヴァチェフスキのいつもながらのブルックナー演奏スタイルでもある。

 ベートーヴェンでは、冒頭のイ長調の一撃から、うって変わって、たっぷりした響きになる。堂々たる風格だ。スクロヴァチェフスキは、こうしてプログラムの2曲を対比させて性格づけるのである。アレグレット楽章など、飾り気のないテンポながら情感がこもっていて、私は久しぶりにこの楽章のしみじみした美しさに引き込まれてしまった。
 全曲にわたりデュナミークの対比は強烈で、しばしば思いがけぬところに━━たとえば第1楽章展開部終り近くの主要リズム動機の弱拍の個所とか、第4楽章リピート直前のティンパニのリズム動機とか━━に物凄いアクセントを施して聴き手に衝撃を与えるのもスクロヴァチェフスキのお家芸だ。

 テンポは相変わらず胸のすくような速さだが、スコアのリピート指定を忠実に守っているので、演奏時間は予想よりも延びた。第4楽章最後の頂点などは、昔のスクロヴァチェフスキならもう少し攻撃的だったような記憶があるのだが、それでも91歳の指揮者がこれだけ煽りに煽る演奏を聴かせること自体、やはり図抜けたパワーだと言っていいだろう。
 また聴きたい。必ずまた来て下さい。

10・8(水)ピエール=ロラン・エマール 「平均律クラヴィーア曲集第1巻」

     紀尾井ホール  7時

 「Voyage with J.S.Bach」と題された3回シリーズの第3回。今夜はバッハの「平均律クラヴィーア曲集第1巻」である。
 チラシなどでは「休憩なし」と予告されていて、まあ聴き方としてはそれがいいだろうなあ、と思っていたのだが、ホールに着いたら「演奏者の強い希望により」休憩が入るという告知がされていた。たしかに本番では、こちら聴く側でもあまりに神経を集中して演奏と向き合ったために、やはり全24曲の連続2時間は少々辛く、休憩を入れてもらって助かったかな、という気がしたことは事実であった。

 エマールの「平均律」、つい先月、「第1巻」の国内新譜(グラモフォン UCCG-1672~3、今年3月録音)が出たばかりである。今夜の演奏では、「第1番」が前奏曲とフーガともども、CDでの演奏より格段に遅い自由なテンポで弾き出された。しかし、「第2番」に入るや、演奏は一変して怒涛澎湃の勢いになった。しかもテンポもデュナミークも、それらを含む表情全体が非常にしなやかで自由な動きに富んでいるので、実に生き生きとした、血の通ったバッハ像が再現されるのである。

 CDでの演奏も瑞々しく素晴らしかったが、今日のステージでの演奏はそれ以上に巨大で、息詰まるような生々しい緊迫感にあふれ、かつ人間的な温かさにも富んでいた。「第2番」以降のテンポは録音よりもむしろ速いのではないかとさえ感じられたものの、それでも実際の演奏時間はCDのそれよりも2、3分は多くかかっていたのではないだろうか(譜めくりの時間や「間」はそれほど長かったとも思えない)。

 20分ほどの休憩をおいて再開された「第13番」以降の演奏にはさらにエネルギー感が増していて、大石急坂を下る勢いの中に、バッハの音楽に備わっている一種の魔性的な要素をさえ浮かび上がらせた。ただ、終結近く沈潜度を増して行ったせいか、演奏時間はこれもCDより2,3分延びていた。見事な演奏だった。終演時間は9時半近くになった。

 今夜は皆既月蝕。ホールの近くでも、はっきりと見えた。欠けて行く部分が異様に荒々しく、物凄い形相に見える。大昔の人が恐れ戦いたのも無理はなかろう。開演前には私もじっくりと眺めたが、休憩時間にはホールの外へ見物に行った人も多かった。
 KAJOMOTOのI氏からあとで聞いたのだが、実は休憩時間にエマールも月蝕のことを初めて教えられ、「今、見えるのか?」と、楽屋から街路へ飛び出して行ったのだそうだ。第2部で演奏が異様なほどのエネルギーを増していたのは、さては月の魔力のためだったか? 
 ステージで生真面目な表情をしてバッハを弾いていたエマールと、通りで夢中になって月蝕を見物していたエマールとは、どうもイメージが結びつかない。ただし、休憩を入れたいと彼が「強い希望」を出したのは、月蝕が見たいからというわけではなかったらしい。

10・7(火)五嶋みどり ヴァイオリン・リサイタル

    サントリーホール  7時

 「サントリーホール スペシャルステージ2014」と題された、マスタークラスを含む5日連続のステージの、今夜は第2夜。演奏会としては初日になる。

 オズガー・アイディンのピアノとの協演で、プログラムはシューベルトの「ソナチネ ニ長調D384」、シューマンの「ソナタ第2番」、モーツァルトの「ソナタ ホ短調K304」、R・シュトラウスの「ソナタ変ホ長調」の4曲。アンコールにはドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」が演奏された。

 すべての作品でソット・ヴォーチェの美しさが発揮されるが、それらを貫いている集中力は、実に強靭なものがある。その演奏が伸びやかでありながら、聴き手を強い緊迫感に引き込んで離さないのは、そのためだろう。
 それでいながら、今夜の演奏には、何か形容しがたい官能的な力のようなものが感じられた。その意味でいちばん面白かったのは、シューマンのソナタである。この曲がこんなに妖艶なものに思えたのは、今夜が初めてだった。

10・5(日)飯森範親指揮山形交響楽団「アマデウスへの旅」第23回

     山形テルサホール  4時

 台風18号は未だ遠くにいるが、午前11時の「つばさ」で発つ時には、東京はすでに土砂降り状態。山形県に入ると雨は降っていない。紅葉も未だ始まっていない。

 「アマデウスへの旅」は、飯森&山響の8年・全24回にわたるモーツァルトの全交響曲を核とした連続演奏会である。始まった頃には、「近いうち聴きに来るからね」とマエストロ飯森に言いながら、他の定期ばかり聴きに来て、結局一度もこのシリーズには来ていなかった。かくて8年は矢のように過ぎた。あっという間にトシをとったということだが、とにかく「残り2回」になって、せめて一度だけでも、とやって来たわけである。

 客席数806の山形テルサホールは、ほぼ満席。プレトークでの飯森の問いに応じ、これまで全部を聴いて来たと挙手で応えた人は、1階席だけでも20人を下らなかったであろう。驚くべき熱心さである。

 で、今日の第23回のプログラムは、交響曲は「第17番K129」と「第41番《ジュピター》」で、その間に小林美樹がソロを弾く「ヴァイオリン協奏曲第2番」が挟まれた。
 「第17番」が始まった瞬間、オーケストラが響かせる闊達な表情に心を打たれる。ホルンにも古楽器を使い、ピリオド楽器オケに近い奏法を採っているために、演奏はエネルギー感に満ちており、音のメリハリもリズム感も、推進力も備わっている。

 「ジュピター」も、気魄のこもった快演だった。飯森と山響は、モーツァルトがその最後の交響曲に籠めた安息と瞑想を象徴するかのような演奏の第2楽章を挟み、それを振り払って毅然たる勝利を謳うかのような演奏とした3つの楽章を対比させ、壮大な「ジュピター」をつくった。

 また今夜は、小林美樹━━3年前にヴィエニアフスキ国際コンクール第2位になっている━━のソロが素晴らしかった。伸び伸びとして明快な表情の、しかも非常に芯の強いソロを、確信に満ちて繰り広げる。ちょっと地味なこの2番のコンチェルトが、目覚ましく生き生きとした表情で響いた。いいソリストを招いたものである。ソロ・アンコールで演奏したイザイの「無伴奏ソナタ第4番」第1楽章も快演。

 6時終演。本当は、せっかく山形まで行ったのだから、たまには温泉にでも、と上山温泉の「古窯」なる旅館を予約しておいたのだが、台風が来れば翌朝の帰京が危ないと諦めキャンセル、7時31分の「つばさ」で逃げ帰る。

10・4(土)サントゥ=マティアス・ロウヴァリ指揮東京交響楽団

     サントリーホール  6時

 プロコフィエフ・プログラム。「古典交響曲」、「ヴァイオリン協奏曲第2番」、「ロメオとジュリエット」抜粋。

 1985年11月生まれというから、未だ28歳。すでにフィンランドのタンペリ・フィルの首席指揮者だ。栗色のアフロ・ヘアと、細めの長い脚を躍動させる様子は、後ろから眺めると,何となく「魔女に化けたサイモン・ラトル」。
 とにかく、彼の動作の、せわしく、慌ただしいことといったら・・・・。指揮台でお辞儀をする際にも、カーテンコールの際も、一時もじっとしていることなく、身体全体を忙しく動かしているので、客席からも笑いが漏れる。指揮姿も、足を交錯させたり、しゃがみ込むように身体を縮めたりという賑やかさ。2階席中央あたりにいた私にさえ、彼が第1ヴァイオリンの方を向いて振る時には彼の体の右側(!)が見え、その反対の時には・・・・といった具合だ。若者らしくて微笑ましい。

 ただ、このロウヴァリの熱烈な大暴れの指揮のわりには、東京響の方はそれほど熱狂せず、どちらかといえば冷静さを保っていたような━━そういう雰囲気が、少なくともこちらからは感じられたのだが、どうでしょう。
 「古典交響曲」の第1楽章では、テンポが比較的ゆっくりだったためもあってか、さほど躍動感のないまま進んで行った。第4楽章は活気に満ちて決まったものの、全体には、もう少し引き締まって張り切った演奏を期待していたのだが・・・・。この曲のアイロニーとシャレを巧く再現するのは、だれが振っても難しいらしい。

 その点、曲自体が劇的な「ロメオとジュリエット」の音楽の方は、自然体で演奏してもサマになる。今日は、組曲からの抜粋(全12曲)。あの激烈な「タイボルトの死」の場面さえも、この日はあまり狂暴にも攻撃的にもならず、中庸を得たダイナミズムを以って演奏されていた。ロウヴァリの獅子奮迅の指揮姿と、このやや落ち着いた、均衡を保った演奏とのギャップは、少々不思議である。

 これら2つの作品での東京響は、ファゴットのリズムが何か重く感じられ、またホルンの一部がしばしば不安定さを示していたのが気になる。とはいっても、演奏全体としては、まとまっていた方だろう。

 協奏曲のソリストはマイケル・バレンボイム。やはり━━と言ってはおかしいが、あのダニエル・バレンボイムの子息なる由。ロウヴァリと同年の1985年生まれとのこと。
 今回初めて聴いたので全貌は掴みにくいが、思いのほか造型を崩さない、きちんとしたプロコフィエフという感のある演奏をする若者だ。第3楽章など、多くのヴァイオリニストが結構煽るところだが、マイケルはむしろ、楽譜に指定された「ベン・マルカート(音の一つ一つを強調して明確に響かせる)」に従っていたように思われる。
 ソロ・アンコールで弾いたクライスラーの「レチタティーヴォとスケルツォ・カプリース」も正確な演奏だったが、ただこちらは曲の性格に応じて、華やかさも充分に加えていた。
       ⇒音楽の友12月号 演奏会評

10・4(土)インゴ・メッツマッハー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     すみだトリフォニーホール  2時

 ツィンマーマンの「管弦楽のスケッチ《静寂と反転 Stille und Umkehr》の日本初演と、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」とが組み合わされた。いかにもメッツマッハーらしいプログラムだ。

 しかもこの2曲は、休憩をおかず、「間」もおかず、完全なアタッカで演奏された。後者で協演した声楽陣━━栗友会合唱団およびスザンネ・ベルンハルト(ソプラノ)、マリー=クロード・シャピュイ(メゾ・ソプラノ)、マクシミリアン・シュミット(テノール)、トーマス・タッツル(バリトン)━━も、ツインマーマンの作品が演奏されている時から、すでに板付きになっていたのである。

 この「静寂と反転」は、ツィンマーマンが自ら命を絶った年に作曲されたものという。極めて静謐な、神秘的な信号が連続するようかのような10分ほどの作品で、曲中では固定楽想のように(極端に言えば、あたかも断続する耳鳴りのように)、D(ニ)の音が響いている。
 したがって、この曲が終ったか終らないかも意識せぬうちに、ベートーヴェンのニ長調の「ミサ・ソレムニス」の冒頭の音が鳴りはじめた時の、その目くるめくような衝撃感といったら━━。一種のハーモニー的な安堵感も綯い交ぜになって、不思議な陶酔の瞬間であった。音楽というものは凄いものだという感慨が、改めて沸き上がる。

 「ミサ・ソレムニス」は、メッツマッハーらしい剛直な構築感がみなぎっていて、しかも重量感があり、すこぶる聴き応えのある演奏になった。
 この人の指揮には、昨年の「ヴァルキューレ」第1幕でもそうだったが、一つ一つの音に明晰さを残しつつも、常に全体を巨大な建築物の如く豪壮に構築するという傾向が聴かれるようである。しかもオーケストラ全体をバランスよく響かせるので、なおのこと重量感に富む音楽がつくり出される。

 「アニュス・デイ」の、トランペットとティンパニが怒号する個所(第326小節以降、特に338~344小節)など、得てしてこの2つの楽器がリアルに叫びすぎて音楽がバラバラになることが多いものだが、メッツマッハーは管弦楽全体の中からこの2つの楽器がエコーを伴って浮かび上がる、といったイメージで、実に巧みに響かせた。
 またその少し前、アレグロ・アッサイから最初のテンポに戻った個所(第178小節以降)での全弦楽器のトレモロも、これだけ厚みたっぷりに響かせられれば、この「ミサ・ソレムニス」の途方もない巨大な性格を表わすには充分と言えよう。こういうトレモロをつくる指揮者は、ドイツの指揮者といえども、最近はあまり聴かれなくなった。

 もちろん彼も、ただ力一辺倒で音楽を構築しているわけではない。「アニュス・デイ」前半の憂愁感など、実に見事であった。総じて、メッツマッハーらしい鋭角的な演奏が今日も聴けたのである。
 この人のベートーヴェン、悪くない。今日の歌手陣も手堅く、粒のそろった歌唱を聴かせてくれた。

10・2(木)新国立劇場新制作 ワーグナー:「パルジファル」初日

      新国立劇場オペラパラレス  4時

 新シーズン初日。飯守泰次郎の新国立劇場オペラ芸術監督就任第1作、ハリー・クプファー演出による新制作。
 見事な出来栄えだった。大成功である。

 クプファーの演出は、特に旧式でも、過激でもない。ベテラン演出家の、おとなの演出とでもいうべきか。
 今回はセリなどの舞台機構を大幅に有効に使い、劇的効果を出した。この舞台装置を担当したのは、これもベテランのハンス・シャヴェルノッホ。新国立劇場のプロダクションとしては久しぶりに大がかりな、見ごたえのある舞台だった(相当の制作費がかかっただろうと思う)。第1幕や第3幕では、この転換される舞台が轟々たる音楽と合致して、相当な迫力を生み出していた。

 舞台には、奥から手前に向かって傾斜して来る、クプファーが言う「光の道」が設定されている。これはジグザグの形状をしており、明らかに「迷いの道」であることが解る。
 幕が開いている第1幕前奏曲のさなかには、この「光の道」に、アムフォルタス、グルネマンツ、クンドリー、クリングゾルらが倒れている。第3幕前奏曲では、当然パルジファルが倒れている。主要人物全員が、ある救済(たとえば聖杯)を目指しつつも行きつけない、ということの暗示だろう。

 この「光の道」の行く手に、あたかも彼らを待ち受けるように、3人の仏教の僧侶が座しているのが目を惹く。ワーグナーが晩年に仏教への関心を高め、「パルジファル」にも仏教的要素を内含させていることに着目した演出だ。昨年METでプレミエされた映画監督フランソワ・ジラール演出の「パルジファル」もこの仏教的な性格を強調しようとしていたが、今回のクプファー演出はもっと徹底的である。

 第3幕では、その僧侶の存在の意味が明らかになる。前奏曲のさなか、呪いを受けて彷徨い続けて疲れ切ったパルジファルが、道端の貧者から水を分けてもらい、蘇生した気持になって笑顔を浮かべ、礼として自分の上着を貧者に贈る。すると、今まで身動きせずに座っていた僧侶たちが突然立ち上がり、その1人が自分の法衣をパルジファルに与えて、彼を「救う」のである。「愛」への報い、ということだろう。

 そしてパルジファルは、キリスト教の「聖槍」を、仏教の法衣に包んで、聖杯の国に辿り着くのだ! しかも彼はラストシーンでこれを3つに裂き、1枚をグルネマンツに、1枚をクンドリーに与え、残りを自ら身につける。かくしてこの3人は、その姿のまま「救済を求めて光の道を歩んで」行く。キリスト教と仏教とは、かくして共同体となる━━ということだろうか? クプファー、やってくれたな、という感だ。

 この「光の道」の存在は、すこぶる印象的である。映像(担当はトーマス・ライマー)によりさまざまな色に変化、各所がセリで上下し、段差や陥没をつくり、道を時に断絶させる。
 ただ、この「道」、重量のある人物が歩くと、靴裏との摩擦のせいか、常時ミシミシと音を立てるのが耳障りで、それが唯一の欠陥であった。ちなみに、「聖杯の広間」は、その途絶えた道の間の地下からセリで上がって来る。

 音楽。飯守泰次郎の指揮、さすがに滋味のあるワーグナーで、少しも無機的な表情にならず、常にヒューマンな情感を湛えているのが何より素晴らしい。ワーグナー晩年の叙情と魔性を余すところなく再現、「パルジファル」の音楽の素晴らしさを心ゆくまで堪能させてくれた。
 また、東京フィルが予想をはるかに超えた演奏をしてくれたのもありがたい。ホルンが最初のうち多少頼りない感もあって、第1幕前奏曲から第1幕前半までは先行きが危惧されたが、第1幕の場面転換のところあたりからは、俄然音楽が聳え立って来た。先年の東京二期会公演「パルジファル」における読売日響のスケール感には及ばなかったが、これだけ引き締まった壮大な音を響かせてくれるとは予想外だった。東京フィルも、ここのピットで、いつもこういう音を出してくれていれば文句ないのだが・・・・。
 欲を言えば、もっとたっぷりした厚みのある音が欲しく、特に最強奏ではもっと豊満な法悦感が欲しいところではあった。

 歌手陣。
 パルジファルをクリスティアン・フランツ、老騎士グルネマンツをジョン・トムリンソン、謎の女クンドリーをエヴェリン・ヘルリツィウス、魔人クリングゾルをロバート・ボーク、聖杯騎士団の王アムフォルタスをエギリス・シリンス、先代の王ティトゥレルを長谷川顕、第1幕のアルト・ソロを池田香織。まず充分な配役と言えよう。
 トムリンソンの声は既に峠を越したようだ(揺れる歌いぶりは昔のヨーゼフ・グラインドルを思い出させる)が、その人間的で滋味ある表現は、昔とは少しも変わっていない。ヘルリツィウスも第2幕で本領を発揮したが、今回は比較的すっきりした歌唱に終始していたように思われる。

 こういう人たちの舞台上の存在感に比べると、脇役の聖杯騎士(村上公太、北川辰彦)、小姓(九嶋香奈枝、國光ともこ、鈴木准、小原啓楼)たちには、もう少し演技力が欲しいと感じられてしまうのだが・・・・。
 花の乙女たちは、舞台上はすべてダンサーのみ。小林沙羅、三宅理恵、鵜木絵里ら錚々たる日本勢を擁した歌手陣は舞台に現われず、陰歌だった。
 なお男声合唱(新国立劇場合唱団、二期会合唱団)には、なぜか思ったほどの力感がなく、第1幕と第3幕では少々物足りなさを感じさせたのが残念だ。「エネルギーを失った騎士団」というイメージは出ていたかもしれないが、本来はこの合唱がもっとデモーニッシュな圧力を感じさせないと、この作品の聴きどころのひとつが弱められてしまうだろう。

 45分と35分の休憩各1回を挟み、9時45分終演(つまり総上演時間は5時間45分)。第1幕の後には慣習により拍手をしない観客も多かったが、何とすぐにカーテンコールが始まったため、当然拍手は大きくなった。クプファーはプログラムに「《パルジファル》上演の場はミサでも教会でもない。どの幕でも拍手をしていただいて結構」と書いていたのである。

 なお、今回の特別協賛社はJR東海とのことで、ホワイエでは「パルジファル」の公演日限定で駅弁を売り出していた。買うつもりはなかったけれど、第1幕後の休憩時間の終り頃に覗きに行ったら、すでに売り切れていた。面白い余興だろう。これに「パルジファル弁当」とか「クリングゾルめし」とか「クンドリー茶」とか命名して、いつかの「指環」や「愛の妙薬」の時のようなジョークを加えるくらいの余裕があってもよかろう。
 新国立劇場の新シーズン、客の入りも含め、まずは滑り出し上々。

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