2017-09

9・29(月)インゴ・メッツマッハー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時15分

 新日本フィルのConductor in Residenceを務めるメッツマッハーの指揮、7月定期に続くベルント・アロイス・ツィンマーマンの作品シリーズは、「大オーケストラのための《フォトプトシス》」および「ユビュ王の晩餐のための音楽」。そして休憩後にベートーヴェンの「第7交響曲」が入る、というプログラムである。

 アルミンク時代から新日本フィルの定期会員は現代音楽には慣れているだろうに、今日は入りがよろしくない。私は主催者でも何でもないけれども、業界人の末端に連なる者として、会場を見回して落胆。定期を「名曲主義」に留めることなくレパートリーを開拓し意欲的な選曲を行なっているこのようなオーケストラに対しては、もっと支持が寄せられていいと思うのだが・・・・。特にこのツィンマーマンの作品は━━少し騒がしいのは確かだが━━聴いてみれば面白いこと請け合いなのだが・・・・。

 最初の「フォトプトシス」は、いかにもこの作曲家らしい、剛直に構築された重厚で巨大な音響が炸裂し保持される作品だ。トランペットに閃くスクリャービンの「法悦の詩」のモティーフなど、過去の名曲の断片がいろいろ引用されているはずなのだが、それも分厚い音の咆哮の中に押し流され埋没して聞こえなくなるほど。胸苦しくなるほどの凄まじい圧迫感に襲われる。

 「ユビュ王の晩餐のための音楽」は、昨年7月の定期で、大野和士の指揮で取り上げられたばかりの作品だ。
 ただし今回は、日本語のナレーターが参加している。青森の「弘前劇場」を主宰する劇作家・演出家の長谷川孝治が、自ら書き下ろした台本を読む。この作品では、演奏される国によって、それぞれの政治や文学を題材にした朗読を入れていいことになっているからである。演劇調のナレーションには青森弁まで入っていて、すこぶる風変りだ。それらは音楽の流れと必ずしも一致していたとも思えなかったが、主旨としては面白いものであった。

 音楽はユーモアとアイロニーの見本のようなもので、「怒りの日」、「田園交響曲」、「断頭台への行進」、シューベルトの「軍隊行進曲」、あるいは「ヴァルキューレの騎行」などの断片が例の大音響の中に乱れながら押し流されて行くといった、愉しい作品だ。最後の曲での、ティンパニが行進曲のリズムをリズミカルに延々と反復するところなど、何度聴いても愉快なものである。

 これらツィンマーマンの2作品におけるメッツマッハーの指揮は、言いようもないほど鮮やかである。全体を一分の隙もなく均衡を維持してまとめ上げる手腕は、さすが欧州の現代音楽界で鳴らした練達の士にふさわしい。新日本フィルも、今回は沸騰するような快演。

 この2曲に対し、後半のベートーヴェンの「7番」は、少々目の粗い演奏だったかもしれない。もちろん、雑だったとか、ミスが多かったとかいうことではない。メッツマッハーらしく、いい意味で音が刺々しくなり、音楽がキザギザとして、刺激的な「ベト7」になっていたのは事実だ。だが何となく、その前のツィンマーマンの毒気に当てられ、精を抜かれてしまったような演奏に感じられてしまったのである。いや、しかし、それは聴いているこちらの方が毒気に当てられたために、勝手にそう思ったのかもしれないが・・・・。

9・28(日)丹波明:楽劇「白峯」 井崎正浩指揮セントラル愛知響

    すみだトリフォニーホール  2時

 セントラル愛知交響楽団の東京公演。26日のしらかわホールでの初演に続き、今日が東京初演となった丹波明の新作オペラ。
 演奏会形式上演だが、登場人物は役柄に即した衣装をつけている。

 「白峯」とは、四国の讃岐国、崇徳天皇の御陵がある場所(ここに白峯寺がある)のこと。
 オペラは、この白峯を訪れた西行法師(大塚博章)が、崇徳天皇(大野徹也)の亡霊と出逢い、保元の乱を中心とした白河法皇(加賀清孝)、鳥羽上皇(中鉢聡)、美福門院(飯田みち代)、待賢門院(伊藤晴)らとの争いの顛末が語られるのを聞き、今なお怨念に猛り狂う崇徳院の霊を鎮めようと試みる━━という内容だ。
 上田秋成の「雨月物語」などを基としているそうだが、台本は丹波明自身によるものである。全3幕12場構成で、上演時間は正味約2時間半弱。

 オペラの中で西行は、「万乗の君も怨念の虜となりて、今は廻り廻りてこの世に留まり、阿修羅のごとく駆け廻り、悪、憎しみ、陰謀と諍いを繰り返し・・・・」と、崇徳院を非難する。
 もしかしたら作者の胸には、現代の世にも果てしなく続く憎悪、恨み、復讐の連鎖が、もしやだれかの怨霊のなせる業なら━━それをすべて崇徳上皇に押しつけるのは少々酷だろうが━━せめてその怨念を鎮めることにより平安の世が訪れれば、という願いもあったのかもしれない。

 音楽は極めて色彩的で幻影的だ。オンド・マルトノ(原田節、市橋若菜)をも加えた全管弦楽のグリッサンド的な奏法が多用され、強い印象を残す。特にそれが漸弱となって総休止に至る形の時には、瓢風一過というか、あたかも怨霊や幻影がフッと遠ざかり姿を消すような音の効果を生んで面白い(シェーンベルクの「期待」の最後の音を思い出させる)。各楽器が交錯しつつ上下するその目眩く色彩感も神秘的で、なかなかの魅力だ。

 だが、━━問題はその音楽が、崇徳天皇の怨念のモティーフとかいったものにとどまらず、保元の乱までの天皇家の内紛の場面すべてにわたり、延々と同じように繰り返されることにある。これでは、如何にいい音色の動きであっても、食傷気味になるだろう。まさかそれが、「万世一系」のモティーフだったというわけでもあるまい(?)。
 またもうひとつ、歌詞の語尾がいつも高く上がって引き延ばされるのも、声楽パートがやや単調に感じられた原因ではなかろうか。

 井崎正浩(客演)が指揮するセントラル愛知響と、白峯セントラル愛知合唱団と、藤原頼長役の大久保光哉をはじめ脇役を含めた大勢の歌手陣は大健闘した。地方都市オーケストラの東京公演としては、並外れた規模の企画による力演である。

 いちばん残念だったのは、この格調高い擬古文による歌詞が、ほとんど聞き取れなかったことだ。オケの音が大きかったとかいうわけではない。聞き慣れない言葉を明快に歌うということが、そもそも難しい。飯田みち代のように発音の明快な人の歌でさえ、ほんの一部しか解らない。台本はプログラムに掲載されていたが、場内が暗くては読むすべもない。こういう旧い文体を理解するには、耳だけでなく、目の助けをも借りた方がいい。
 それゆえ、やはり舞台上に、字幕をつけるべきだったと思う。字幕は今回、歌詞や経文などを部分的に表示する方法を採っていたが、それがかえってアンバランスな演出効果を生むもととなっていた。

9・27(土)三ツ橋敬子指揮日本フィルハーモニー交響楽団

    横浜みなとみらいホール  6時

 これは日本フィルの横浜定期第300回。ちなみに第1回は1973年5月8日(分裂の1年後ということになる)で、山岡重信の指揮するベートーヴェン・プロだったそうだ。

 記念すべき今回の定期では、若手の三ツ橋敬子を指揮台に招いていた。プログラムは、ロッシーニの「セビリャの理髪師」序曲、モーツァルトのピアノ協奏曲「戴冠式」(ソロは菊池洋子)、プッチーニの「マノン・レスコー」第3幕への間奏曲、レスピーギの「ローマの松」。

 三ツ橋敬子━━魅力的な若手だからずっと注目し続けているのだが、しかし、たとえば今日の演奏などを聴くと、何か慎重すぎるというか、おとなしいというか。精魂込めて指揮しているのは解るが、かんじんの演奏から、心を揺り動かす燃える情熱といったものがあまり伝わって来ないのがもどかしい。
 「マノン・レスコー」など、デュナミークの変化だけでなく、テンポの微細な動きを含めたしなやかな流動感のようなものがもっと欲しい気がするのだが・・・・。テンポの遅い個所━━たとえば「ローマの松」の「ジャニコロの松」のくだりなど━━でも、その遅いテンポがやや硬直気味で、緊迫度が薄れてしまっているように聞こえるのだ。
 「戴冠式」にしても、第1楽章提示部からして、きちんとはしているものの、こんなに淡々と平坦な演奏では、いかに菊池洋子といえども調子が出ないのでは? 

 しかしその一方では、「ボルゲーゼ荘の松」の最後の追い込みや、「アッピア街道の松」でのエネルギーを一気に解放した盛り上がりの豪快な力感などではなかなかいいものをつくる指揮者なのである。であれば、作品全体に、もっと吹っ切れた自由さが感じられる指揮が聴きたいものである。

 その点、アンコールでのレスピーギの「ヴィーナスの誕生」(「ボッティチェッリの三連画」第3曲)の、しなやかで官能的な色彩感にあふれた表情は、今夜の演奏の中では出色のものであった。このあたりの曲が、彼女が最も良さを発揮するレパートリーなのかも。
 
 なお今夜の日本フィルは、レスピーギの2作品において、極めて均衡の豊かな演奏を聴かせていた。単に綻びがないということではなく、ソリとアンサンブルとに、しっとりとした調和が聴かれるようになって来たという意味である。これは既に先日(13日)の山田和樹指揮の東京定期でも聴かれた特徴だが、日本フィルの復調が今度こそ本物であることを祈る。

 菊池洋子が弾いたソロ・アンコールは、モーツァルト~リストの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。

9・25(木)ドゥダメル指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

     サントリーホール  7時

 恒例のウィーン・フィル日本公演。今年は、いま飛ぶ鳥落とす勢いの若手グスターボ・ドゥダメル(ベネズエラ生、34歳)を指揮者に据えた。
 今日のプログラムは、R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」とシベリウスの「交響曲第2番」。

 どんな指揮者が客演に来ようと、おのれの個性を決して失わぬウィーン・フィル。それゆえ、その指揮者の個性とオーケストラの個性とのせめぎ合いのようなものが、常に大きな興味の的となる。ティーレマンがベートーヴェン・ツィクルスを指揮した昨年も、両者の丁々発止の駆け引きが実に面白かったが━━。

 さて今年、「ツァラトゥストラ」では、若きドゥダメルは、ウィーン・フィルから極めてブリリアントなサウンドを引き出した。最強奏の個所では金管楽器群を炸裂させ、この曲のダイナミックなパワーを存分に楽しんでいる。
 この名門オケは、もちろんこれまでにもこのような色彩的な音を響かせたことはあるが、しかし今回はそこに一種の粘り気のある、アクの強さが感じられたところに、ドゥダメルの個性が反映していたのではなかろうか。
 一方、「舞踏の歌」のような、弦が叙情的なカンタービレを聴かせるような個所になると、途端にウィーン・フィル独特のあの洒落た色気のような表情が前面に躍り出て来るという具合だ。

 いわば、作品をマッスとしてダイナミックに構築するドゥダメルと、あくまで気品のある独自の音色で対抗するウィーン・フィルとがせめぎ合った演奏が、この「ツァラトゥストラ」ではなかったろうか。
 それにしてもドゥダメルという指揮者は、たしかにこういう華麗な、躍動的な曲を手がけると、上手く構築してまとめる人だな、と感心する。

 後半はシベリウスの「第2交響曲」━━今回のツアーでは、ウィーン・フィルとしては少々異色なプログラミングが行なわれているが、この曲もその例の一つだろう。しかも南国の指揮者が北欧のシベリウスを振る、というわけで、私は興味津々だった。
 いざ聴いてみると、先ほどとは正反対に、弦を量感たっぷりに鳴らす落ち着いた音色での演奏に一変しているのに驚いた。トランペットなどはクライマックスで凄まじい音量を響かせるけれど、全体としてはかなり翳りの濃い音色の演奏だ。なるほど、こういう路線で来たか、と、これまたドゥダメルの変わり身の早さに感心した次第ではある。

 だが、それにしてもこれは、ずいぶん厚ぼったい、重い音だった。こういう━━失礼な言い方かもしれぬが━━ねちっこい、透明感の全くない音色のシベリウスには、私は些か辟易させられる。第4楽章最後の雄大な頂点では、トランペットの壮絶極まる昂揚もあって、それはもう見事な力感ではあったものの、やはり未だ音響的なスペクタクル性にのみ留まっていたところに、ドゥダメルの若さから来る限界があろう。「ツァラトゥストラ」での演奏に比べると、壮大ではあったが、甚だ色合いに乏しい演奏であったという印象は拭えまい。

 青年ドゥダメル、老舗の名門オケを相手に、若いなりに端倪すべからざる力量を示した。その意味では、一昨年に日本でもこのオケを振ったアンドリス・ネルソンスと共通するところがあろう。一方、意地悪い見方をすれば、名門ウィーン・フィルの助けを得て、彼は日本で「シリアスな面での評価と人気」を得ることができたと言えるかもしれない。

 アンコールには、ヨハン・シュトラウス1世の「アンネン・ポルカ」と、ヨハン2世の「雷鳴と電光」。ここでウィーン・フィルが、彼らのカラーを取り戻す。そのカラーは、何とも言えないほど魅力的だ。どんな指揮者が来てどういじくろうと、おのれの優れた個性を厳然として守り抜けるオーケストラは、天下広しといえど、このオケだけだろう。シュトラウス・ファミリーの作品のような、彼らだけの「名刺」を持っていることも、何よりの強みである。
    モーストリー・クラシック12月号 演奏会Reviews

9・22(月)日本モーツァルト協会2014年9月例会(第561回例会)
~仲道郁代 ピアノ・ソナタの真髄~

   津田ホール  7時

 私は日本モーツァルト協会員ではないが、今回はあるきっかけで例会の演奏会を聴ける機会を得たので、初めて出かけてみた。

 昔、もう半世紀近く前だが、「モーツァルト協会に入りたい」とある人を通じて打診したら、「今はケッヘル番号(=会員番号)がいっぱいだからだめ」と門前払いを食ったことがある。それ以来、特に入る気持も起こらなくなったままに、現在に至った。
 最近はその「ケッヘル番号」にも少し余裕ができているという話だが、詳細は聞きそびれた。いずれにせよ、今日は私にとって、日本モーツァルト協会へのエキストラ初参加。

 会場の津田ホールは490席、これがほぼ満席である。さすが、人気の仲道郁代。
 演奏されたのはソナタの「イ長調K331(300ⅰ)《トルコ行進曲付》」「イ短調K310(300d)」「変ロ長調K281(189f)」「ヘ長調K332(300k)」、アンコールに「きらきら星変奏曲」。彼女独特の柔らかい口調による優しい解説トークを入れながらの演奏で、特に「ヘ長調」は温かい気持のこもった快演だった。
 話の中には楽譜の問題や、「トルコ行進曲付ソナタ」における昔の楽器と今の楽器の違いに基づく演奏法の違いなどの話も出たが、協会の「例会」なのだから、そのいろいろな差異を実際に演奏で比較例示してくれたらさらに面白かったろうと思う。

 拝見したところ、日本モーツァルト協会の例会は、なかなか盛んである。11月は11日にデュオ・アマルのピアノ・デュオ、12月は15日にフォーレ四重奏団によるピアノ四重奏の演奏会がある由。講演会もあるが、演奏会が多くを占める。
 羨ましいのは、モーツァルトのレパートリーは広いから、ピアノ1台の演奏会だって例会として可能、ということだ。ワーグナー協会の場合には、そうは行かない━━。

9・21(日)準・メルクル指揮東京交響楽団 名曲全集第100回

    ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 早坂文雄の「左方の舞と右方の舞」、R・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、メンデルスゾーンの「交響曲第4番《イタリア》」というプログラム。

 早坂作品は、意外なほど渋い地味な音色で演奏された。もう少し雅やかな香りをまき散らす演奏であってもいいのでは、と思ったが・・・・。「ティル」も、やはり定期のステージでの演奏とはちょっと雰囲気が違う、なんか一つ引き締まったものが欲しいね、という感が否めなかった。

 休憩後の「イタリア」は、さすがに快調に発進。が、第1楽章提示部のリピートに入ったあたりから、ちょっと密度が薄いな、という気も━━。
 と、そのさなか、2CB席の私の近くの最前列に座っていた初老の男性が突然身体を隣に倒れかかるようにしながら、ホール中に響き渡るような大きな鼾をかきはじめたのである。これは明らかに容易ならぬ症状で、演奏中ではあったが周囲の人たちも騒然となり、「医者を」と呼ぶ人もいた。同じフロアの離れた客席にいた東京響の大野順二・楽団長が、いち早く出口のドアの方へ向かって行くのが見えた。
 しかし、不思議にもしばらくたつとその男性は目が覚めたようにしっかりと姿勢を立て直し、「大丈夫です」と周囲に言って、そのあとは結局「イタリア」をもアンコール曲をも全部聴き、拍手もしていたのである。何だかよくわからないが、周囲の人たちもホッと一安心、といったところであった。

 なおこの一件、ホールのレセプショニストの初動対応は非常に悪い。周囲の客が「ちょっと」とか「お願いします」と慌ただしく手をあげたり、呼んだりしているのになかなか来ず、しかも近くまで来ながら立ち止まって様子を窺ったり(!)、なかなか事情が呑み込めず反応が鈍かったり、という始末である。ホール内には2、3人のレセプショニストが配置されているのだから、もしぼんやりしていなかったのなら、彼女らにも客のただならぬ様子は見えていたであろう。
 そういう対応は自分たちの役目ではない、とか、マニュアルにない、などと思っているのなら大変な心得違いである。ホール内で病人が出た場合のマニュアル訓練はどうなっているのか、尋ねたいところだ。今回はその人が無事で済んだからいいようなものだが。

 この間、演奏は続いていた。客席に背を向けていたメルクルは、もちろんこの騒ぎには気づかなかったであろう。楽員たちも、テンポの速い第1楽章だから、果たして何人がこちら2階席の騒ぎに気づいたろうか。いずれにせよ、これで第1楽章の大半はわれわれの耳から完全に飛んでしまったが、一段落して、ふと演奏に注意を向け直した時、不思議にもその演奏が先ほどとは違い、何か引き締まって、著しく勢いを増していたように思えたのである。事実、そのあとの演奏は尻上がりに緊迫度を増し、特に第4楽章では、疾風のようなプレストが充分な迫力を感じさせていたのであった。

 もともとプログラムが短いため、3時25分には全部の演奏が終ってしまったが、さすがにこれではというわけか、アンコールとして、同じメンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」が演奏された。
 ところが、これが実にユニークで面白い演奏で、「アレグロ・モデラート」をかなり遅めのテンポで開始したが、以降「波が荒れる」描写の3つの個所のみ猛烈にテンポを速めて大きな盛り上げをつくるという、極めて起伏に富んだメルクルの解釈だったのである。東京響も━━音色はこれも地味だったが━━劇的で緊迫感のある演奏を聴かせてくれた。この曲も10分そこそこの長さではあるが、充分に「聴いた気」がしたのであった。
 かくして、終わり良ければすべて良し、というコンサートになった。だが、やはり先ほどの一件が頭の中に残っているせいだろう、なにかえらく疲れたな、と知人と話しながら駅へ向かう。
    音楽の友11月号 演奏会評

9・19(金)ハインツ・ホリガーと新日本フィルハーモニー交響楽団

    すみだトリフォニーホール  7時

 「スーパー・ソリストmeets新日本フィル」シリーズの一環。今回は、オーボエの名手であり指揮者でもあるハインツ・ホリガーが登場。
 ハイドンの「オーボエ協奏曲ハ長調」を吹き振りで演奏、そのあとに自作の「クリスティアン・モルゲンシュテルンの詩による6つの歌」と、マーラーの「交響曲第4番」を指揮した。

 指揮者としてのホリガーの音づくりは既に知られている。彼のイメージとは少し違う(?)非常に安定感のある、どちらかといえば剛直な、しかもアクセントの鋭い音の構築が持ち味だ。
 肝心の彼のオーボエの音色そのものは、私はあまり好きではないのだが、しかし演奏にこめられたヒューマンな情感には魅力を感じる。ハイドンでは、豊嶋泰嗣をコンマスとする新日本フィルが、しっかりした音でホリガーのソロを支えていた。

 自作の歌曲は、1956~57年にソプラノとピアノのために作曲され、2003年に管弦楽版とされたものという(八木宏之氏のプログラム解説による)。非常に色彩的で美しい響きを持ち、しかもオーボエの扱いも際立つ作品で、━━冒頭など、まるでベルクかシェーンベルクの初期の作品を思わせるところもあるし、全曲の中ではラヴェルやベルリオーズなどの遠いエコーのようなものも聴けるという音楽でもある。
 日本初演は2010年に彼自身が名古屋フィルを指揮して行なったそうだが、その時に歌ったソプラノの秦茂子が、今日も見事な歌唱を聴かせてくれた。

 マーラーの「第4交響曲」は、実にユニークな解釈である。全ての個所でというほどではないけれど、オーケストラをマッスとして捉えるよりも、個々の楽器(特にオーボエやクラリネットなどの木管楽器!)を際立たせ、それらの音色を目覚ましく対比させつつ音楽を進めて行くといったようなところのある指揮だ。したがって音楽は極度に凹凸が激しく、極端に言えば「不調和の連鎖」とでいった構築になる。
 良くも悪くも、これほど神経質で刺激的な「マーラーの4番」は、滅多に聴けないだろう。非常に面白いが、正直なところ、聴いていて少々疲れた。第4楽章でのソプラノ・ソロも秦茂子。

9・16(火)下野竜也指揮読売日本交響楽団のフサ他

    サントリーホール  7時

 「名曲シリーズ」ながら、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第24番」(ソロ・小川典子)はともかく、他に松村禎三の「ゲッセマネの夜に」、バッハ~ストコフスキーの「ゲッセマネのわが主よ」、カレル・フサの「この地球を神と崇める」とは、何とも物凄いプログラムを組んだものである。
 しかしこれらの曲も、また下野竜也と読響の演奏も、一種の凄絶さを噴出させた圧倒的なもので、まさにこのコンビならではの意欲的な演奏会であったということができよう。

 松村の「ゲッセマネの夜に」は、息の長い、緊迫感を徐々に加えつつ叫喚の情景に達するという壮大な曲だ。
 聴きながら、昔、故・武満徹氏が「松村さんて人はね、おれは生涯、浅間山みたいなでっかいスケールの曲を書くぞ、おい武満、お前も一つくらいそういう曲を書いてみろ、なんてこと言うんだよ」と苦笑していたことを思い出した。「ゲッセマネ」などという素材からこういう雄大な曲想と構築を思いつくのはいかにも松村らしい、と改めて感慨に浸った次第である。下野の、クライマックスへ持って行く演奏設計もまた巧い。

 そのあとに演奏された小川典子のモーツァルトが、実に対照的に、白夜的な清澄さをたたえて、これまた不思議な凄味を感じさせる。プログラミングの妙味とはこのことだろう。

 休憩後には、バッハとフサが切れ目なしに演奏されたが、このアイディアもいい。ストコフスキーの編曲は、ヴィオラとチェロがつくり出す沈潜した音色が印象的だが、あまりに濃厚な音が、何か一種の甘ったるい味のようなものを感じさせるのが、良くも悪くもこの人の癖だろう。そして最後のカレル・フサ(1921~ チェコ)の「この地球を神と崇める Apotheosis of this Earth」という曲、今回は合唱付の大管弦楽版による演奏(日本初演の由)で、これが凄かった。吹奏楽版は以前何かの録音で聴いた記憶もあるが、それとは比較にならない迫力である。

 (最初の松村作品と同じように━━巧みなプログラム構成だ)聞こえないほどの弱音から時間をかけて音がふくれ上がり、ついに凶暴な阿鼻叫喚に達する。殺戮、自然災害などを象徴するというこの激烈な怒号は長大で、これでもかとばかり執拗に続き、その中に繰り広げられるオーケストラのあくなき狂乱の躍動、カデンツァ風な動きで炸裂し続ける打楽器群、長く保持される合唱(というより人間の声を楽器的に扱った音響と言うべきか)などは壮絶を極める。怒涛の全合奏の中に閃くグリッサンドのような音の動きも衝撃的だし、合唱団が手で、オーケストラが足でつくるリズムもスペクタクルな趣だ。
 息苦しくなるような緊迫感に満たされた曲だが、全曲の最後は安息か、人類の破滅か、母なる地球への感傷か? 白々とした静寂の中に消えて行く。

 合唱は、上野学園大学合唱団が健闘した。これは下野が教授を務める大学の合唱団の由で、混声合唱でのプロのオケとの協演は今回が初めてとのことだが、難しい複雑な唱法をよくマスターしていたものだと思う。

 とにかく、下野竜也と読響の演奏は見事だった。こんな大がかりな作品を取り上げることのできる指揮者とオーケストラは、現今の日本の音楽界では、このコンビだけだろう。両者の意欲的な姿勢を讃えたい。

9・15(月)大坂秋の陣 飯森範親指揮日本センチュリー響の逆襲

     ザ・シンフォニーホール 5時

 それにしても、同じホールの同じ席で、ほとんど時間をおかずに2つのオーケストラを続けざまに聴くと、本当にその性格の違いが手に取るように感じられ、興味深い。
 後攻の飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団が演奏したのは、モーツァルトの交響曲「リンツ」と、チャイコフスキーの「第5交響曲」。

 山形響でツィクルスの場数を踏んだ飯森のモーツァルトはさすがに力のこもったもので、小編成のオーケストラを念入りに彫琢、極めて緻密微細に作品を構築していた。第1楽章など、もう少し生気にあふれていてもいいのではないかと思ったが、楽章を追うに従い、熱気も上がって行った。

 一方「5番」は、極めてボルテージの高い情熱的な演奏だった。ただ━━S列あたりで聴いた範囲では━━あのくらい金管群とティンパニを強奏させるのなら、弦の数ももう少し増やさないとバランスが悪いのではないかという気がする。特に舞台最奥部に配置されたコントラバス(5本)は、金管にマスクされてあまり聞こえず、それゆえ低音域が薄くなり、攻撃的なイメージをさらに強めていたように感じられたのである。
 もっとも、飯森の狙いがそこにあったというのなら、また話は別だ。

 今回の大阪の、いや「大坂」の陣を独断と偏見で判定すれば━━こんな聴き方はふだんしないものだが、演奏会の狙いが「対戦、対決、秋の陣」だから、釣られて言えば、だ━━モーツァルトでは飯森&日本センチュリー響に、チャイコフスキーでは藤岡&関西フィルに軍配を上げさせていただこうか。総合点では引き分けというところ(無難な言い方だ)。
 聴いた感じでは、このザ・シンフォニーホールの音響の癖を知悉し、オケを巧く鳴らす点では、ここを本拠とする関西フィルの指揮者をすでに15年務めている藤岡の方に「一日の長」があったのではないかという気もする。

 ただ、あらためてこうやって聴いてみると、両楽団とも、ソロの技量やアンサンブルの密度に、さらなるアップグレードが欲しい。歯に衣着せず言えば、今のままでは、日本全国のオケの水準の中では、少々苦しい位置にあると言わざるを得まい。

 コンサートは6時35分頃終演。「サッチーとノリチカ」を囲んで沸いているホワイエで、2人に次回への期待を告げて挨拶し、辞す。7時30分の「のぞみ」で帰京。

9・15(月)大坂秋の陣 藤岡幸夫指揮関西フィルの猛襲

     ザ・シンフォニーホール  2時

 「大阪」でなく、戦国時代風の「大坂」。凝っている。
 「秋の陣」とは、2つのオーケストラの「対抗戦」だ。藤岡幸夫指揮の関西フィルハーモニー管弦楽団と、飯森範親指揮の日本センチュリー交響楽団が、同じ日に同じホールで、連続して同系統のレパートリーを「競演」する。

 親友同士の藤岡と飯森が「関西クラシックで何か面白いことをやろう」と意気投合して立てた企画なのだそうな。狙いは、その奇抜な話題性を以ってクラシック・ファンの裾野を拡げようということにある。私も民放FM出身の人間だから、こういう突拍子もない「イベント」には大いに興味を示す癖が今でもある。どんなものかと覗きに行った。

 事前には関西の各新聞にもいろいろ記事は載ったらしいけれども、しかし期待を裏切って、客足は今一つ。満席になるほどではなかった。
 主催者側でも原因を分析して、来年3月の「春の陣」に生かす由。2つのコンサートの合計時間が休憩含み延べ5時間というのは長すぎるのか、通し券代6000~8000円は高すぎるのか、といったところなども検討材料とのことである。

 確かに、私の印象でも、今回の形では、思ったほどの新味は感じられなかった。たとえば2つのコンサートそれぞれに、プレコンサートを双方のオケから2人ずつ出たチェロのカルテットで行なったり、トークを飯森と藤岡が漫才みたいに行なったりという趣向も加えられてはいたものの、「2 in 1」というイメージがあまりなく、別々のオケがマチネーとソワレで各々コンサートをやるだけ━━という感に留まっていた・・・・。
 これでは、ふだんここでこのオーケストラを聴いている地元のお客さんには、特に目新しいものは感じられなかったのではなかろうか。

 いけなかったのは、3時半前に終わった関西フィルの演奏会のあと、客をホールから一度追い出してしまったことだ。クロークの荷物まで引き取れと言うので、こちらは重い荷物をガラガラ引きずって外へ出なければならない。外へ出てもわずかに公園のベンチがあるだけだし、ホール周辺にはドトールやスターバックスはおろか、まともな珈琲店一つあるわけじゃなし(一つ大きないいカフェが近くにあったのだが、6月末で閉店してしまったらしい)休む場所もない。
 客席を閉めるのはバイロイトでもそうだが、あそこはクロークやトイレまで閉めるわけじゃないし、ホワイエは開いているし、レストランも開いているから、客は退屈しないものだ。
 今回もせめて2階のホワイエのティールームくらい開いて客に供すれば、「休憩を挟んで2つのオケを聴く」イメージが強く出るだろうに。ドリンクの売り上げだって伸びるだろう。ホールも気が利かない。

 ━━もっとも、こういった問題点についても、主催者はすでに気がついており、次の「春の陣」では全体を3時間ほどに圧縮し、通し券代も4000~6000円に値下げして、再度試みるそうである。公演時間を短くすれば「割高」と取られるかもしれないし、難しいところだが・・・・。
 とにかくこういう新企画は、一般のお客さんの数が増えなければ何にもならないので、いろいろ改善しながら継続して行っていただきたいものだ。

 ところで演奏は、やはりいつもの単独公演とは違うためか、対抗意識の表われというのか━━関西の各オケをそれぞれ年に2度くらいしか聴けない私が言うのもおかしいことだが━━演奏にもひときわ力が入り、引き締まっていたように感じられた。
 先攻の藤岡と関西フィルが演奏したのは、モーツァルトの交響曲「ハフナー」とチャイコフスキーの「悲愴交響曲」だったが、比較的大編成で演奏した「ハフナー」には伸びやかさと瑞々しさがあり、「悲愴」にはバランスの良い構築が聴かれた。特に後者は終楽章が絶品で、第2主題には深い情感と美しさが感じられ、また終結近くタムタムの一撃に向かって音楽が急激に深淵に落ち込んで行くあたり(第133小節以降)の呼吸は見事というほかなかった。良い「悲愴」であったと思う。

9・14(日)武生国際音楽祭2014 ファイナル・コンサート

     越前市文化センター  4時

 3たびタクシーを呼び、会場に戻る。本当に地方都市は、クルマがないと動きが取れぬところだ。

 4時からは、今年の音楽祭の最終コンサート。
 プログラムは、細川俊夫の「ヴァルターのために~弧のうたⅡ」、ブラームスの「弦楽六重奏曲第1番」、ジョン・ラター(英、1945~)の「グローリア」。
 演奏者は、「弧のうたⅡ」が大石将紀(サックス)大宅さおり〈ピアノ〉、葛西友子(打楽器)。「六重奏曲」が山根一仁・会田莉凡(ヴァイオリン)、牧野葵美・赤坂智子(ヴィオラ)、横坂源とヨーリス・ヴァン・デン・ベルヒ(チェロ)。いずれも第一線で活躍する腕利きの奏者ばかりだ。
 前者は素晴らしい緊張感を以って演奏され、後者は作品本来の美しさを十分に再現した演奏となった。

 「グローリア」は、40年前の作品だが、現代ものにしては至極ストレートな、耳あたりのいい曲想である。演奏はリューディガー・ボーン指揮のフェスティバル・アンサンブルとフェスティバル合唱団。

 この音楽祭、細川俊夫が音楽監督を務めるだけあって、メイン・コンサートのプログラムにも、圧倒的に近代・現代の作品が多い。地方の音楽祭としては、破天荒と言ってもいいほどの内容だろう。
 そのユニークな特色と、意欲的な姿勢には、ただもう頭を下げるしかないが、これでお客がどのくらい来るのかというのが少々心配になる。客席数約1200のホールに、この「ファイナル・コンサート」はおよそ6割(目測)、昼間の「ヒリヤード・アンサンブル」が250人か300人程度(目測)の入り。その他のコンサートについては知らないが、とにかく頑張っていただきたいところだ。
 主催は武生国際音楽祭推進会議と公益財団法人越前市文化振興・施設管理事業団。私の方は、芸術文化振興基金調査を兼ねての取材だった。

 コンサートは5時40分頃終演。またタクシーを呼んで(今日4回目!)武生駅へ向かい、6時55分の「サンダーバード」で大阪へ回る。

9・14(日)ヒリヤード・アンサンブル最後の来日~武生国際音楽祭

     越前市文化センター  午前11時

 あの素晴らしい男声クァルテット、ヒリヤード・アンサンブルが、今年末で解散してしまう。
 今回は最後の訪日で、東京での演奏会は即時完売、武生では9日に行われた「ヒリヤード・アンサンブル・ソングブック」演奏会および今日のステージ、残るは広島1回のみ━━というツアーだ。
 今日は「ヒリヤード・アンサンブル ワークショップコンサート」と題されていたので、彼らとアカデミー生かだれかとの合同コンサートかと思っていたが、結局彼らの歌だけの演奏会になっていた。

 プログラムでは、フェデリコ・ガルデッラ(今回も招待作曲家として来ている)の「無名の動物寓話集によるミニアチュール」(世界初演)、星谷丈生の「4声のための《枯蓮》」、金井勇の「Something there」(世界初演)と予告されていたが、最後のものは「彼らの声に合わない」と判断されたため(音楽祭の音楽監督・細川俊夫の挨拶と説明による)演奏されず、代わりに細川俊夫の「3つの日本民謡」(今年1月、シドニー・フェスティヴァルでヒリヤード・アンサンブルにより世界初演)が歌われた。

 最初の2曲は、大ヒットした「オフィチウム」や、アルヴォ・ペルトのような息の長いフレーズを持った曲ではないので、いわゆる「ヒリヤードぶし」は最後の細川作品で味わえたというわけだが、無限の空間に拡がるような彼ら特有のハーモニーの美しさは、どの曲でも堪能できた。音のピッチをほんの少しずらせて和声をつくるあの巧さは、相変わらず見事なものである。
 わずか50分程度のコンサートだったが、これがヒリヤード・アンサンブルをナマで聴く最後のステージだと思えば、感無量でもあった。

 彼らの神秘的な、囁くような美しいハーモニーが拡がっているさなかに、最前列に座っていた1人の中年男が、いきなり立ち上がって下手側客席を横切り、出て行った。演奏中に出て行くこと自体が礼儀知らずだとみんな呆れたが、なんとその男は、少し経ってからまた演奏中に、今度は花束を持って足音を立てながら入って来て、再び最前列まで行って座り、がさがさ紙の音をさせていたのである。演奏後に花束を渡すのかと思ったが、そうでもなし。結局何だか判らず。
 終演後に、客席にいた細川さんが血相を変え、怒りの表情でその男に詰め寄っていたが、男はなにごとか大声で悪態をついて、花束を持ったまま帰って行った。とにかく、大変な奴がいるものである。

 この音楽祭は今年が第25回。その中で行われる「武生国際作曲ワークショップ」は第14回、「武生国際夏期アカデミー」は第10回になる。9月7日に始まり、今日14日が最終日である。
 パンフレットによれば、伊藤恵をプロデューサーとする「メイン・コンサート」は、1日1~3回行われた。一方「作曲ワークショップ」は、細川俊夫、イザベル・ムンドリー、伊藤弘之、望月京らを講師に、その他招待作曲家を多数揃え、38人(名簿上)の受講生を相手に行われたという。さすが、作曲家・細川俊夫率いる音楽祭だけのことはある。
 その他アカデミーとして、フルート、クラリネット、尺八、ピアノの各コースのレッスンがあり、こちらの方は、受講生は計9人程度の規模だったという。

 正午前に終演になってしまったので、夕方のコンサートまで時間をつぶさなくてはならなかったが、ホールのレストランは休み、ホールの傍にはラーメン店とうどん店が1軒ずつある程度で、これではどうしようもない。主催者や受付嬢たち(ヴォランティアか?)に訊いても「さあ、このへんは・・・・」と言うだけで、何も教えてくれない。
 仕方なくタクシーを呼び、運転手氏に「どこか適当な場所へ」と頼んだら、考えながらかなり走り、ある店へ「ここで食事をしてから、道の反対側の喫茶店で時間をつぶせばよろしかろう」と親切に案内してくれた。その「喫茶店」なるものは、北陸道武生インターに近い「SANMARINO」というカフェ&レストランで、店内には大きなガラス窓のケージがあり、中に可愛い小鳥が多数飛び回っていることでも知られているそうだ。気が癒される。
 武生は快晴で爽やかで、快い。

9・13(土)山田和樹指揮 日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  2時

 正指揮者・山田和樹の指揮で、シェーンベルクの「浄められた夜」を中に、前後をR・シュトラウスの作品━━「ばらの騎士」の「ワルツ第1番」及び交響詩「ドン・キホーテ」で挟むプログラムが組まれた。いい選曲である。

 この中で、出色の演奏だったのは、まず「ドン・キホーテ」だ。
 山田和樹の設計も絶妙で、各エピソードの性格の対比が鮮やかであり、作品全体に豊かな色合いの変化と起伏を与えている。またそれらが巧みに接続されて行くので、作品全体が実にいい流れを以って聴けるのである。

 またこの演奏では、山田のオーケストラ・サウンドづくりの非凡さも立証された。日本フィルが、本当に良い音を出した。もちろん弦も濃密な音だったが、とりわけ金管と木管の柔らかく豊麗な響きは、ふだんの日本フィルからはほとんど聴けたことのなかったようなもので、特に叙情的な個所では驚嘆すべき美しさが聴けたのであった。オーボエとフルートは、とりわけ見事だった。

 変な言い方で申し訳ないが、この演奏を聴いて私は、日本フィルが完全に成熟したオーケストラになった、という印象を得て、うれしくなった。先頃までは、ラザレフが指揮した時には日本フィルは良いオケになる・・・・などと言われていたものであったが、今やラザレフとは全く異なるタイプの演奏においても、美しい演奏が聴けるようになったのである。

 ソロは、チェロが菊地知也、ヴィオラがパウリーネ・ザクセ、ヴァイオリンがコンマスの扇谷泰朋。このドン・キホーテは、荒々しい情熱の騎士ではなく、ごく穏健な騎士といったイメージの演奏に聞こえたが、これはこちらの聴いた位置が下手側のL席で、ソロの位置とは非常に遠い位置だったせいかもしれない。

 これに次いでは「浄められた夜」が強い印象を残した。大編成の弦楽器群による官能詩といったイメージの演奏だ。濃厚な中にも清澄さを湛えて、極めて美しい。
 一方、「ばらの騎士」はやや硬質な音で、必ずしも美しいR・シュトラウスとは言えなかったが、それはあくまで他の2曲の豊麗な音色と比較しての話である。ホルンの強奏は痛快だったが、あれがもう少し豊満な音色だったら、と残念な気も。
 とはいえ山田と日本フィル、今や呼吸もぴったり合って来たという感である。来年のマーラー・ツィクルスは期待できよう。

 武生国際音楽祭取材のため、「ひかり」と「しらさぎ」を米原で乗り継ぎ、とりあえずの宿泊先、鯖江に向かう。夜11時頃到着。
     ⇒モーストリークラシック12月号 公演Reviews


9・12(金)東京二期会 モーツァルト:「イドメネオ」初日

    新国立劇場オペラパレス  3時

 演出はダミアーノ・ミキエレット。アン・デア・ウィーン劇場との共同制作で、同劇場では2013年11月13日にプレミエされたもの。

 オペラの舞台は、オリジナルのクレタ島から、長い戦争が終結した「現代のある国」に変更されている。指導者イドメネオは、戦争のトラウマをかかえて血の幻影におびえ、登場人物たちはいずれも精神的に大きな傷を負っている。だが、最終的には愛が勝利する――という演出コンセプトだと聞いていた。

 今回の演出、大音響で雑音を立てる煩わしさを除けば、比較的よく出来ているだろう。舞台に一貫性もまとまりもあり、辻褄も合っている。舞台装置はパオロ・ファンティン、照明はアレッサンドロ・カルレッティ。少し野暮ったいところもなくはないが、悪くない。

 舞台には、戦乱の悲惨さを表わす血もあり、塗炭の苦しみを表わす泥濘もあって、いわゆるきれいごとのオペラからは程遠いものではあるが、最近の欧州のオペラ上演の主流はこういう路線にあるという事実は━━好みは別として━━認めなくてはならない。また、こういう舞台を日本に紹介する試みも貴重であろう。ただし、この路線を日本の演出家が踏襲することが適切かどうかというのは、また別の話だが。
 前もって見た写真では、舞台一面に戦争で破壊された瓦礫が散乱しているのかと思ったが、これは無数の靴(の残骸)が散らばっているのであった。荒廃、または死屍累々、の象徴だろう。

 全篇、疫病や戦乱に苦しむ人民と、無情な神の圧力に苦悩する国家指導者とが描かれて行くが、その中には「親から子への愛」が基本コンセプトとして置かれている。
 冒頭、スクリーンに映写されるのは、幼い息子の身支度を整えてやり、去って行く父親の姿だ。これが本編の、父親であるイドメネオと、父思いの勇敢なイダマンテのドラマへの序となっていることは明らかだ。
 最後は、イダマンテと、敵国の王女イリアとの間に子供が誕生するという、オリジナルにはない解釈で結ばれる。荒廃した世界にも、親から子への愛の絆は永遠に続く━━ということだろう。

 大詰では、息を引き取ったイドメネオを人民たちが篤く弔うというヒューマンな解釈の演出となっている。もっとも、ここで人民が新指導者イダマンテを讃えて歓呼するなどというシーンを入れなかったところが、ミソなのかもしれない・・・・。この「エピローグ」の場面では、オペラに付随しているバレエ音楽が有効に生かされていた。いいアイディアだという気がする。

 今回の指揮は準・メルクル。明快で、実に見通しのいい構築の指揮だった。東京交響楽団の演奏も張りがあって歯切れがいい。この「イドメネオ」は、平凡な演奏だと実につまらない曲になりかねないのだが、今日はモーツァルトの音楽の良さを十二分に味わうことができた。メルクルには、もっと日本でオペラの指揮をする機会を増やしてもらいたいものである。

 今日は初日なので、歌手陣はAキャスト。イドメネオを与儀巧、イダマンテを山下牧子、イリアを新垣有希子、エレットラを大隅智佳子、アルバーチェを大川信之、大祭司を羽山晁生、声(海神)を倉本晋児(共通)らの人々。
 与儀と山下は、演技・歌唱ともに正統的で安定した好演。山下のズボン役もなかなか良かった。
 大隅は、3枚目を加味したアバズレ女風の不思議な解釈のエレットラで(エヴァ・マルトン演ずるオルトルートにも似た怖い女の雰囲気も)、最後のアリアも物凄い馬力で決めた。馬力といえば、最後にPAで流れる海神の声を歌った倉本も、ドスの利いた迫力ある声で、これも面白かった。この役はこういう声でないと締まらない。

 今日の歌手陣、みんな大健闘していたことは確かだが、ただ、第1幕では良かったものの、第2幕になったら妙に平板な歌唱になってしまった人も見受けられたのは惜しかった。━━今年になってからの東京二期会のオペラ公演は、歌手陣にやや緩みのようなものが感じられなくもないのだが、如何なものか。ベテランと若手をもう少し巧く組み合わせたらどうなのかという気もするのだが・・・・。
 6時15分頃終演。

9・11(木)辻井伸行&オーケストラ・アンサンブル金沢 

    オーチャードホール  7時

 マルク・ミンコフスキの来日中止は、痛恨の一事。今年8月の都響客演の時に聴けなかっただけに、今回は楽しみにしていたのだが━━。

 もっとも、今日のコンサートの主役はむしろソリストの辻井伸行であり、コンサート・タイトルも「辻井伸行、ラヴェルを弾く!」だったので、結果的にはまあ、御大ミンコフスキの出馬をわざわざ仰がなくても・・・・という感もあったけれども。

 第1部で辻井伸行が弾いたのは、ラヴェルの「ソナチネ」「亡き王女のためのパヴァーヌ」「水の戯れ」「ピアノ協奏曲ト長調」。アンコールはドビュッシーの「アラベスク第1番」とラヴェルの「オンディーヌ」であった。彼特有の粒立ちのいい、小さな宝石のようにきらきら輝く音が曲のすべてに散りばめられている。

 ただし、昨夜の金沢公演はこのオケの定期だった。したがって辻井の演奏はラヴェルの「協奏曲」と「パヴァーヌ」のみ(※)、OEKは主役としてフォーレの「ペレアスとメリザンド」組曲およびビゼーの「交響曲ハ長調」をも併せて演奏するというプログラムだったのである(当初はこれを金沢へ聴きに行く予定だったのだが・・・・)。

 ミンコフスキの代役として急遽登場したのは、同じフランス人指揮者のパスカル・ロフェ。ロワール管弦楽団音楽監督を務める人で、すこぶるエネルギッシュな指揮をする。前出の「協奏曲」とビゼーの「交響曲」を指揮したが、おそろしく勢いのいい音楽づくりである。
 ただ、元気がいいのはいいけれど、つくりは粗い。オケのアンサンブルもかなり粗く、細部の仕上げも雑なところも多かった。私がこれまでに聴いたOEKの数多い東京公演の中では、残念ながら、今夜の演奏は異様にラフなものであった、と言わざるを得まい。指揮者変更と、「お座敷」演奏会だったからか? アンコールでのフォーレの「シシリエンヌ」にしても同様、この美しい秘めやかな曲は、もう少しこまやかに演奏してほしいところであったが。

※金沢の「パヴァーヌ」は、オケ版だったそうです。コメントを頂戴しました。ありがとうございました。

9・10(水)青柳晋ピアノ・リサイタル

    G-Call Clubサロン  7時

 サロン・コンサートというのは最近ほとんど行ったことがなかったが、今回は偶然、直前になって聴く機会を得た。

 五反田駅前にある「東京デザインセンター」5階にあるG-Call Clubサロンという会場。棚には美術品等も陳列されている長方形の広いサロンの中央にベーゼンドルファーのピアノを置き、両側を聴衆が挟むように囲むという配置だ。
 ピアノは蓋を外してある。高音域の特定の音の強奏だけが何かひどく共鳴するのは気になるけれども、弱音は美しく響く。

 客は数十人の規模だから、きわめてアットホームな、インティメートな雰囲気があって、大変気持がいい。ここではコンサート(10月には鈴木理恵子、若林顕、下山静香らの演奏会も)だけでなく、高座、医学セミナー、ボジョレーヌーボーパーティ、お取り寄せ試食会なども開催されているとか。
 今日のお客さんにも常連が多いと見え、それもピアニストの人気からか、圧倒的に女性が多いので、結構雰囲気が明るい(どこでもそうだが、女性に比べ男性客はあまり笑わずに押し黙っているので、雰囲気は大体暗くなる。私などは、齢に似合わずすぐ吹き出すタイプなのだが、隣に厳かな中年以上の紳士が居られると、笑うのも憚られることが多いのだ)。

 余談はともかく、今日の青柳晋のリサイタルのプログラムは、ベートーヴェンの「ソナタ第30番」に始まり、ドビュッシーの「版画」「牧神の午後への前奏曲」「喜びの島」と続き、休憩を挟んでリストの「巡礼の年」から「婚礼」「哀歌Ⅱ」「エステ荘の噴水」「ダンテを読んで」というもの。「サロン・コンサートにしてはヘビーなプログラムでしたが」と、演奏者自身もトークで語っていたが、なかなか濃い曲目編成だ。
 リストを核にして、前後(ベートーヴェンとドビュッシー)からそこに音楽が流れ込む、というイメージのプログラムである。

 しかも、青柳晋が今力を入れているというリストが、実に素晴らしい。決して外面的な技巧を感じさせず、心の内部から自然に昂揚し、起伏を繰り返す。どちらかというとリスト嫌いの私だが、これほどリストの音楽に抵抗なく心を開けたことは、これまでほとんどなかった。
 それは、必ずしもサロン・コンサートという温かい雰囲気のせいだけからではないだろう。彼は12月22日に浜離宮朝日ホールでドビュッシーとリストの作品によるリサイタルをやる予定というので、これは聴きに行った方がいいかもしれない。

9・9(火)下野竜也指揮読売日本交響楽団 ブルックナー「9番」

    サントリーホール  7時

 ブルックナーの「交響曲第9番」の前に、ハイドンの「交響曲第9番」という珍しい曲が置かれていたのだが、開演前にホールのすぐ近くで自分のクルマのバッテリーが(寿命で)ダウンしてしまい━━何せ23年間、20万キロ以上も乗り続けている旧いVOLVO240で、ボディは頑丈そのものながら、電気系統がのべつ怪しくなる━━JAFの世話になるなどしたため、そのハイドンは聞き逃した。

 で、ブルックナーのみ聴くことになったが、これは聴いておいてよかったと思う。下野=読響のブルックナーの中では、いつかの「5番」を遥かにしのぎ、「4番」をも上回る演奏だったのではないか。

 第1楽章はチェリビダッケもかくやの遅いテンポを基本に構築され(それでも30分には達していなかったが)、下野らしい力感豊かで剛直な音楽が創られていた。金管が轟々と響いていたのも好ましい。
 コーダの最後でのトランペットもあのくらい鳴ればまず御の字、あそこの空虚5度もデモーニッシュな迫力を感じさせたといえようか。アダージョの第3楽章も含め、下野の指揮が遅いテンポの個所でも全く弛緩する気配を感じさせなかったというのがうれしく、それは彼の成長を物語るものでもあろう。

 物足りなかったところを敢えて言えば━━これは2階正面7列目やや上手側寄りの席という位置のせいだったからかもしれないが、コントラバスなど低音域が意外に響いて来ないので、量感たっぷりの音とはいえ、重量感には些か不足していたように聞こえた、ということ。
 それと、金管や木管の細部に粗雑さが時々聞かれたのは、読響らしからぬことであった。 
 第2楽章が粗っぽかったという感想も聞いたが、たしかにそうだったかもしれないが、あの楽章を激情的に演奏すれば、ある程度はやむを得ないことだろう。

9・8(月)ヤクブ・フルシャ指揮東京都交響楽団のマルティヌー

    サントリーホール  7時

 首席客演指揮者フルシャがマルティヌーを振る。都響ならではの強みだ。

 予想通り、卓抜の演奏になった。第1部での「交響曲第4番」も、第2部でのカンタータ「花束」も、これらの作品の素晴らしさを余すところなく浮き彫りにした演奏だった。
 「花束」というカンタータは、題名に似合わず陰惨なエピソードが盛り込まれている曲だが、音楽は美しい。それが叙情的な表情で繙かれ、またあのユニークな楽器編成のスコアが実に美しく、完璧な均衡で響かせられたのには、心底舌を巻いた。フルシャの卓越した感性ももちろんだが、都響のふくよかな音色も感銘深く、とりわけ弦楽器群の豊饒さはわが国のオーケストラの中でも一際抜きん出た存在であると言って間違いない。
 フルシャと都響の、最も成功した演奏の一例である。

 なお「花束」での協演者は、シュレイモヴァー金城由起子(ソプラノ)、マルケータ・ツクロヴァー(メゾ・ソプラノ)、ペテル・ベルゲル(テノール)、アダム・プラヘトカ(バス)、新国立劇場合唱団、東京少年少女合唱隊。いずれも見事な好演。

9・6(土)ヴェルディ:「ドン・カルロス」パリ初演版(演奏会形式)

    東京芸術劇場コンサートホール 3時

 フランス語版上演なので、「ドン・カルロ」ではなく「ドン・カルロス」。5幕版の演奏会形式上演である。

 上演ごとに異なった版がある━━というのは誇張に過ぎるとしても、少なくとも数種の版があり、細部の省略やら何やらを含めれば、それこそ「決定版」は無いに等しいのがこのオペラの特徴だ。
 今回のは「パリ初演版」と銘打たれていたが、それでもあのパッパーノが指揮したEMI盤とは、大筋では一致していながら、細部には少々違いがある━━たとえばパッパーノ盤の第4幕第1場でエリザベートがエボリに「十字架を返せ」と言う個所は、今回の演奏ではレルマ伯爵がそれを伝えるという形になっており、またパッパーノ盤の同幕大詰でエボリが「(カルロス救出のため)街を駆け回って群衆を集め、蜂起させました」とエリザベートに告げる場面は、今回の演奏には入ってなかった。

 プログラム掲載の岸純信さんの解説を読みなおしてみたら、「今回の日本初演では、パリで世界初演されたスコアを底本にしているが、演奏時間の短縮のため細部を少しずつ切り詰めており・・・・その一方、初演前にカットされたページを部分的に復元、5年後の改訂稿(1872年ナポリ版)の音楽も・・・・少しだけ反映」となっていた。なるほど、と思った次第である。

 ともあれ、こうした「初演版」等と、現行版(4幕制あるいは5幕制)とを比べると、その違いは台本と音楽の両面で非常に大きい。牢獄内での王とカルロスの応酬場面をはじめ、全く別の作品に近くなっている個所が山ほどある。ヴェルディがよくまああれほど加筆、削除、改訂して来たものだと、改めて驚いたり感心したりしてしまう。そしてそのどれもが、「これもなかなかいいところがあるじゃないか」と思わせてしまうのだから、ヴェルディも凄いものである。

 ただ、やはりフランス語版とイタリア語版との違いで面食らうのは、旋律線の形まで変わってしまうことだろう。
 たとえば、フィリッポ(フィリップ)2世の有名なアリア「独り静かに眠ろう」の感動的なクライマックス。イタリア語版では「amor per me non ha!」 だから、「amor」の旋律線は「A-E」となるが、フランス語版では「Elle ne m’aime pas!」なので、「Elle」がA音なしにいきなりE音から始まる。なんとなく唐突な感だ。そのあとの個所は、フランス語版でも同じく3連音符で歌われているので、余計に奇異な感じがする。まあ、訳語版にはよくある話だが。

 今回は完全な演奏会形式上演だったので、視覚的にあれこれ乱されることなく、音楽に没頭できた。20分の休憩2回を入れて終演は7時過ぎという長丁場だったが、音楽の良さと、歌手陣の健闘のおかげで、聴きながら気分がだれるということは全くなかった。
 歌手陣も、第1幕(フォンテーヌブローの森の場面)では少々心配になるところもなくはなかったが、概して幕を追うごとに、歌唱に熱気を増して行った。

 特に第2幕第2場になって小山由美(エボリ公女)がパワフルかつ劇的に歌を聴かせ、カルロ・コロンバーラ(フィリップ2世)が底力のある声で威圧的な権力者の存在感を発揮しはじめると、演奏も盛り上がる。堀内康雄(ロドリーグ)、佐野成宏(ドン・カルロス)も調子を上げた。
 浜田理恵(エリザベート)の表現力はとりわけ見事で、第1幕最初で「スペインの方なら心配要りませぬ」と小姓にきっと言う瞬間の威厳と風格からしてすばらしいものがあった。ドラマ後半での、エボリとエリザベートのそれぞれのアリアのあとでは、しばし拍手が鳴りやまなかったほどである。

 出演はほかに妻屋秀和(宗教裁判長)、鷲尾麻衣(ティボー)、佐藤美枝子(天の声)、ジョルジュ・ゴーティエ(レルマ伯爵)、ジョン・ハオ(修道士、シャルル5世)。管弦楽がザ・オペラ・バンド、合唱が武蔵野音楽大学、指揮は佐藤正浩。
 オーケストラはあまり大きくない編成だったが、よく響くこのホールでの演奏には、これで充分な規模。指揮にも、欲を言えば各シーンのあとの「間」の採り方などにはもう少し流れの良さや畳み掛けといったものが欲しく、またグランドオペラ的な(いい意味での)ハッタリもあっていいのでは、とは思ったが、丁寧な指揮ぶりによる盛り上げもそれなりにあり、何より音楽の魅力を充分に再現してくれたのは立派だった。

 なおこれは、「東京芸術劇場コンサートオペラ」の第2回。「東京芸術劇場シアターオペラ」のシリーズとは別もの。

9・4(木)ジョン・リル ピアノ・リサイタル

   HAKUJU HALL  7時

 英国のピアニスト、ジョン・リルを聴くのは、私は13年ぶりだ。
 2001年に尾高忠明と札幌交響楽団が英国旅行をした時、私は取材に同行し、彼がゲスト・ソリストとして、バーミンガム、ロンドン、カーディフなどでモーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番」を協演したのを聴いたことがある。その際にインタビューもしたが、抱腹絶倒の話も織り込んで応えてくれるという、実に如才ないおじさんだった。今年70歳になるはずだが、ステージに見るその雰囲気は、昔と全く同じである。

 今日のプログラムは、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」に始まり、シューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」、プロコフィエフの「トッカータ 作品11」と続き、後半はショパンの「バラード第4番」、ブラームスの「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」。

 演奏の方は、昔はこんなスタイルだったかなあ、と訝りたくなるような、一風変わったものだ。
 大きく間を取った遅いテンポで沈思黙考するように開始された「悲愴ソナタ」は、力感とスケール感たっぷりに演奏され、それはそれで納得が行ったのだが、一方、シューマンとショパンでは、極端なテヌートとフォルティシモとが多用され、異様に押しの強い、強引な演奏が繰り広げられることになった。その代り、プロコフィエフでは、戦車が大爆音を轟かせて驀進するような迫力を感じさせたが、その重量感をみなぎらせた分、ヒステリックな絶叫は中和されていたという良さがあったことは確かだろう。

 それにしても、「悲愴」のゆったりしたアダージョで開始しておいて、次第に「トッカータ」の熱狂的な轟音にまで昂揚させて行くという流れの構成、そしてブラームスの作品においても変奏ごとにアッチェルランドをかけて盛り上げて行くという構築など、彼は非常に細かい設計をプログラムの中で行なっているようである。
 「ヘンデル・ヴァリエーション」は私の大好きな曲だが、今日はこの曲の悠揚迫らざる「風格」よりも、異様に急き込んで喋るブラームスに遭遇したかのようで、少々戸惑った。

9・3(水)コルネリウス・マイスター指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場コンサートホール  7時

 ウィーン放送響の首席指揮者コルネリウス・マイスター。
 前回聴いたのは2年前の3月、そのウィーン放送響との来日だった。その時には、中庸を得た指揮表現と、弱音のつくりの美しさといった特徴が記憶に残っただけだったが、━━彼はこの夏、ザルツブルク音楽祭にも登場したほどだから、近年の進境が著しいのか。あるいは読響との相性がいいのか。とにかく、なかなかいい演奏を聴かせてくれた。
 プログラムは、アリス=紗良・オットをソリストに迎えたベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」と、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」である。

 「アルプス交響曲」では、マイスターは速めのテンポで、オーケストラを小気味よく鳴らし、ダイナミックな山の音楽を創り上げた。
 この演奏では、主人公の「登山者」は、スピーディな足取りで山に登る。マイスターの指揮にはわざとらしい誇張がないだけに、刻々と変化する森や山や断崖の光景は、見通しよく描かれる。頂上での歓喜の場面や、嵐を衝いての下山の場面など、なかなかにドラマティックで、起伏が大きい。2年前のハーディングとサイトウ・キネン・オーケストラによる大スペクタクルには及ばぬまでも、すこぶる痛快な「アルペン・シンフォニー」だったことは間違いない。なお読響は、今日はケルンWDR放送響コンサートマスターの荻原尚子を客演コンマスに迎えていた。

 前半のベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」では、 マイスターと読響もこのコンチェルトでは美しい弱音を聴かせて━━第1楽章第1主題、2小節目の最初の4分音符、4小節目の2つ目の4分音符、あるいは4小節目の最初の4分音符を、スッと漸弱気味に響かせるあたり、なかなか洒落てるじゃないの、という感だ。
 ゲスト・ソリストは、アリス=紗良・オット。繊細華奢なところもあるが、カデンツァを含む要所では、非常にスケールの大きな、豪快なほどの演奏を聴かせてくれる。良いピアニストである。アンコールに「エリーゼのために」を弾いたが、これも(久しぶりに)実に「いい曲」に聞こえた。

9・2(火)小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ 「幻想交響曲」

    キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 7時

 何はともあれ、小澤征爾が元気で指揮をしてくれていたことを慶びたい。

 今日は、指揮台で、椅子に座ったり立ち上がったりして指揮をしていた。「幻想交響曲」の第2楽章と第3楽章それぞれのあとでは、指揮台から降りて別の椅子に腰を下ろし、水分の補給などをしていたところを見ると、まだ疲れは出るのかなと思わせたが、少なくとも演奏を聴く限り、彼の音楽は、彼のスタイルにおいて、完璧に仕上げられていた。
 以前の彼の「幻想交響曲」には、瑞々しさとしなやかさがあふれていたものだが、今日はそれよりもっと鋭い、アグレッシヴな表情の方が強かったのではなかろうか。作品の標題的な面から言えば、「阿片を飲んだ芸術家が、夢の中でも神経をハリネズミのごとく逆立て、殺気立っている」といった具合だ。

 とにかくこの日の「幻想」には、一種の異様な凄さがみなぎっていたことはたしかである。サイトウ・キネン・オーケストラをかように鼓舞し、燃え立たせる小澤のカリスマ的な気魄は、年齢を重ねていよいよ増して来た、といえるかもしれない。

 これは同時に、サイトウ・キネン・オーケストラのメンバーの小澤に寄せる愛情が、昔よりさらに深まったからだとも言えるだろう。彼が一時的にせよ戦列から離れたことで、彼の存在感はむしろ大きくなり、そして彼が病から復帰したことへの喜びで、両者の絆は以前よりいっそう強まったはずである。
 カーテンコールの時に繰り広げられた、彼の誕生日(9月1日)を祝う自然発生的な盛り上がりなどに見られるように、オケのメンバーの小澤への愛情は、並々ならぬものがある。それは、微笑ましいほどの温かい光景であった。
 また満員の客席も、マエストロに対し、熱狂的な盛り上がりを示していた。

 プログラムの前半では、指揮者なしで、モーツァルトの「グラン・パルティータk361(370a)」━━いわゆる「13管楽器のためのセレナード」が演奏された。13人の奏者のうち、オーボエのフィリップ・トーンドゥルをはじめ、5人が外国人である。とにかく、見事に上手い。鮮やかすぎるほど鮮やかな演奏だ。巧さという点だけからすれば、これは世界でも最高のレベルに在る演奏だろう。

 ところで、さっきの、小澤征爾のカリスマ的な存在感と、サイトウ・キネン・オーケストラの彼に寄せる愛情の強さが演奏を熱気で包んでいるという話の続きだが、━━それは素晴らしいことには違いないものの、同時にそれは、このフェスティバルにとって、諸刃の剣のようなもの、とも言えるものだろう。
 つまり、もしわれらのオザワが指揮しなくなったら、このフェスティバルはどうなるのか・・・・という思いが、ますます強くなって来るのだ。現在でさえ、彼が振らない時のオペラ公演では、すでにその危惧が現実のものになっているのだから。

 この問題については、私ごときが云々したって何にもなるまい。ただ、創設以来23年間通い続けて来た熱心な聴衆の1人として、次のことくらいは言っても許されるだろう。
 私が一番気にしているのは、小澤と一緒にこのフェスティバルの中核をなしている、サイトウ・キネン・オーケストラのことなのである。この音楽祭には客演指揮者が何人も登場したが、その演奏に、果たしていくつ、素晴らしいものがあっただろうか? つまり、小澤征爾がいなければ、このサイトウ・キネン・オーケストラは、単に技術的な上手さを誇るだけのオケに陥りかねない、ということなのである。

 周知のとおりこのオーケストラは、故・齋藤秀雄の弟子たちの集団だった時には、同じ釜の飯を食った人たち特有の連帯意識があった。小澤征爾とともに音楽するというその絆で強く引き締められていた。
 だが年月が経ち、その弟子たちが次第に姿を消して行くと、もともと常設ではないこのオーケストラは、今は齋藤秀雄と関係のない音楽家たちが、小澤征爾というカリスマ指揮者のもとで、年に1回だけ、彼と音楽をするということのために集まるオーケストラに変質してしまったのである。言ってみれば、「サイトウ・メモリアル・オーケストラ」の理念を継ぐ意味での「サイトウ・キネン・オーケストラ」は、もう何年も前から存在しないのも同然なのだ。

 となれば、そのシンボルである小澤征爾がもし現場から引くような時代が来たら、常設でないこのオーケストラの楽員は、何の「旗」のもとに集まるのだろう? いや、集まれるだろうか? 小澤に替わる吸引力を持つ指揮者など、そう簡単には見つかるものではない。それは、だれもが感じていることだ。
 私はそれゆえ、このフェスティバルが引き続き保持されるためには、まず何よりも、フェスティバルの中核となる「サイトウ・キネン・オーケストラ」が━━特にその中核となる日本人メンバーたちが、自ら意識を変えてもらわなくては、という気がしてならない。つまり、今も、将来も、小澤征爾が指揮しない時であっても、常に全身全霊を込めた演奏を聴衆に聴かせてほしいのである。

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