2017-02

8・30(土)サントリー芸術財団サマーフェスティバル2014
シュトックハウゼン:「歴年」洋楽版 日本初演

   サントリーホール  6時

 同じ曲を、初日には雅楽器、2日目には洋楽器で演奏し分ける━━などという例は、そうたびたびあることではなかろう。
 今回の洋楽器は、木管、打楽器、シンセサイザー、電子ハープシコード、ギターという編成である。当然ながら2日前の演奏とは響きもかなり違うが、一定の音程を長く保持するといった手法など、雅楽のイメージをそのまま残した部分もかなり多い。雅楽版に比べ、新たな魅力を感じたかと訊かれたら、部分的にはそうだったと答えたい。

 一昨日の雅楽版上演では、演出家には木戸敏郎と佐藤信の2人の名がクレジットされていたが、今日の洋楽版日本初演では、佐藤信の名のみが記載されていた。
 舞人の衣装も邦楽版とは違うため、ダンスの形もかなり違うが、基本のコンセプトは同じである。舞台には「1977」の替わりに「2014」の数字が拡がっているものの、「ライオン」も「ソーセージ」も、「賞金の1千万円札」の看板も同じであり、寸劇も基本的には全く同じ内容である。

 大きく異なる点と言えば、こちらでは悪魔ルツィファー(松平敬)と天使ミヒャエル(鈴木准)とが生身で登場し、背景のスクリーンに投映された姿も含め、悪魔の誘惑と天使の宣揚とを、より具体的に語らせることであろう。一昨日の「奉行」に比べ、レフェリー(高橋淳)の演技も増えた。

 だが、「1977(年)」が「2014(年)」になったからには、「歴年」もそれに対応して描かれるのかと期待していたのだが、何とそうではなかった。ここでも「1977年」で歴年は一応止まってしまい、そのあとの37年間分は、いわばエピローグのような、ジョークのような、つまり「付け足し」のような構成になっていたのだ。
 結局、今回の舞台は、いわば1977年のあとは、ほとんど更新されない「歴年」だったのである。

 これでは、期待外れも甚だしい。プログラム掲載のシュトックハウゼンによる「展望」の項には、1978年以降の舞人の動きについても若干触れられているので、たとえ音楽の枠はそのままであっても、演出の上でも、いろいろやりようがあったのではなかろうかと思う。舞台上の数字が「2014」に替わっただけで、内容が「1977年+α」なのでは、シュトックハウゼンが夢見た「毎年大晦日に上演される」ことなど、とても出来ない相談なのではないか?

 第2部のプログラムは、一昨日と同様、「歴年」への「お答えソング」のような位置付けを持ったものだろう。今日は三輪眞弘の新作「59049年カウンター」(サントリー芸術財団委嘱)の世界初演。木管、弦、打楽器、シンセサイザー、という編成のアンサンブルと、松平敬および高橋淳の「詠人」、および演技者たち10人(桁人)による作品。

 こちらは2011(年)━━いうまでもなく3・11を象徴する年だ━━からスタートするが、「西暦○○年」の数字の変化と、舞台上の桁人たちの動きとは、象徴的な関連づけに留まっている。レインスティックを持った詠人が歌を詠み上げる声を包んでリズミカルに繰り返される音楽は、やや冗長さを感じさせなくもないが、かなり起伏も大きく、かつ宗教的なイメージをさえ生み出していた。
 シェイカーを持ってリズムを刻み続ける桁人たちの衣装はビニールのレインコートのように見えるが、室井尚氏がネットで書いておられるようにそれを「防護服」とまで連想することは、私にはできなかった。彼らの演技は、あたかも御遍路のそれのようにも見え、これもまた祈りのようなイメージを感じさせていた。

8・28(木)サントリー芸術財団サマーフェスティバル2014
シュトックハウゼン:「歴年」雅楽版

  サントリーホール  7時

 1977年秋に国立劇場で初演された「歴年(JAHRESLAUF)」雅楽版の、37年ぶりの再演。

 私は観ていなかったが、何しろ初演の時は、音楽評論家軍団からはクソミソに叩かれたそうだ。当時の新聞評のいくつかや、「音楽の友」の演奏会評などを調べてみると、なるほど酷評の洪水である。シュトックハウゼンの音楽を非難しているのか、舞台演出を非難しているのか、それらをごちゃまぜにしているのか判らないような論調もあるが、とにかく罵詈雑言の嵐だ。

 プロデューサーの木戸敏郎がネットで公開している長文を読むと、当時、この作品を委嘱した当の国立劇場でも、評議員のリーダー格だった某評論家が、この作品は「伝統の破壊」であり、国立劇場は二度とこんなものは取り上げるべきではないと力説、多くの委員が自分では聴いてもいず、観てもいないのに、その評論家の意見と、外部の有力な評論家たちの意見をそのまま鵜呑みにしてしまった━━という経緯もあったという。今でもありそうな話だ。

 今回のプログラムには、「新演出」とクレジットされている。が、当時の資料(「音楽芸術」78年1月号掲載の舞台写真と松平頼暁氏のレポート)と照合すると、演出の細部は多少変更になっているものの、概して基本的には当時の舞台をほぼ忠実に再現したものと言っていいようである。 「1977」(初演の年)という数字が舞台床に大きく描かれ、その数字に向かって歴年が進んで行き、エピソード風の寸劇も再現されるという具合だ。

 だが、なるほどこれでは、━━ライオンが暴れ回ったり、ウェイターがソーセージの皿を乗せたテーブルを押して出て来て舞人たちに勧めたり、猿がオートバイを駆って舞台を走り回ったりするのでは、37年前という時代には、みんなが面食らったのも無理はなかろう(1977年と言えば、バイロイトであのパトリス・シェローが先鋭的な「指環」を演出、喧々諤々の議論が起こった翌年だ)。
 ましてこういう演出が、こともあろうに雅楽と一緒に、日本の伝統芸術の聖堂たる国立劇場で上演されれば、当時の謹厳な音楽評論家のお歴々の呆れ返った表情も想像できようというものである。

 その意味で、今回のこれは、非常に興味深い上演ではあった。しかし、37年という時の流れは恐ろしいものである。さまざまな演出のオペラを知ってしまった私たちにとっては、今やこの舞台が、もはや何とも古臭くて、平凡なものに感じられるまでになってしまったのだ。それは、あたかも、博物館の展示品を見るような思いであった。
 それゆえ、この大作に今日的な意味を求めるなら、いっそ当時の舞台を再現するのではなく、本当の新演出を徹底的に施して上演するべきではなかったか?

 シュトックハウゼンの音楽の方は、演出と異なって「賞味期限」の長い音楽の強みで、まだまだその特質の探索への道は多様に残されているように思われる。
 彼の行なったことが、結果的に雅楽を既存のイメージから解放することにあったか、それよりも単に彼の流儀での雅楽器へのアプローチに過ぎないものだったか、あるいは単に雅楽器をひとつの素材として考えていたにすぎなかったのか、その辺は解釈の違いもあるだろうが、いずれにせよ興味深いものには変わりない。
 明後日には、この作品が洋楽版で上演(日本初演)されることになっているので、そこで新たな回答への指針を与えられるかもしれない。

 なお、第2部では、一柳慧の「時の佇まい 雅楽のための」(サントリー音楽財団委嘱作品)が世界初演された。
 この方は、さすがに日本人作曲家の手によるものだから、雅楽の音響の多様さが鮮やかに浮かび上がって来る。そして、作曲者が述べているように、「シュトックハウゼンのコンセプトに拮抗する別の発想・・・・東洋ないしは日本的な考え方を生かした発想」の中で、雅楽を既存のものから「脱構築」することを狙った姿勢も、明確に感じられたのだった。私にはそれが、あたかも第1部の「歴年」を補完━━もしくは修正━━するような音楽にさえ感じられ、非常に面白かった。

 但し、今日は聴いた席がRB後方で、舞台両翼に拡がった雅楽器のアンサンブルのバランスを正しく聴くには著しく不適当な位置だったので、これ以上の印象を述べるのは避けておきたい。
 なお、木戸が「歴年」について、当時一世を風靡していた「構造主義」に基づき、在来の音楽を脱構築、再構造化するという主張を述べているのに対し、一柳が自作紹介の文章の中で、「既存の技術を再構築」という文章の前に一言、「音楽の感性・・・・」という文言を入れているのが、目を惹いた。

8・27(水)「Lost Memory Theatre」

  KAAT神奈川芸術劇場  7時

 この劇場で上演される芝居は、宮本亜門・前芸術監督の時代にミュージカルを2つ3つ観に行ったことがあるが、彼の後任として(ただしアーティスティック・スーパーバイザーという肩書)白井晃が就任してからは、今回が初めての訪問になる。

 今夜上演されたのはオペラでもミュージカルでもなく、生バンドの演奏と歌による三宅純の音楽と、そこから創り出された断片的な場面(テキスト・谷賢一、構成演出・白井晃)が連続する舞台である。
 「記憶」なるものが失われ、蘇り、交換され、盗まれ、縦横に交錯して行くというテーマはあるが、実際に繰り広げられるのは、観客個々に任されたイメージの舞台だ。ストーリーは何だとか、論理的にどうだとか、そういう理屈っぽいことを考えながら観たら墓穴を掘ることになるだろう。

 出演は山本耕史、美波、森山開次、江波杏子、白井晃、歌手はリサ・パピノーと勝沼恭子、ダンサーは伊藤さよ子ら4人。
 だが、印象から言えば、本当の主役は、やはり三宅純の音楽であろう。その方面の音楽ジャンルには全く詳しくない私だが、愉しめた。但し、サックスをマイクに向けた時のPAの大音量には、毎度のことながら辟易するが。

8・25(月)第35回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル
ポピュラー・コンサート  

   草津音楽の森コンサートホール  8時

 草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル(音楽監督・西村朗、事務局長・井阪紘)の主催は関信越音楽協会と群馬県草津町だが、その中でこの特別演奏会「ポピュラー・コンサート」は、有志の支援グループともいうべきアカデミーの「友の会」(法人15件、個人394名)が主催している由。
 ホールにあるオルガンやピアノは、この「友の会」の尽力により備えられたそうである。

 さて、「ポピュラー・コンサート」というには、プログラムが比較的ハイ・ブロウだが、これもこのフェスティヴァルの水準の高さを示すものか。出演者も、夕方のレギュラー・コンサートに劣らず多彩だ。
 まずブリツィが「友の会」寄贈のオルガンでレーガーの「トッカータ ニ短調」を弾くと、岡田博美がシュトラウスのピアノ曲を3曲弾き、替わってアンドラーシュ・アドリアンがパノハ弦楽四重奏団のメンバーとモーツァルトの「フルート四重奏曲第1番」を演奏。

 後半には、サシコ・ガブリロフ(vn)、沼田園子(vn)、クラウス・シュトール(cb)およびブリツィ(cem)がグルックの「トリオ・ソナタ ハ長調」を演奏、続いてペーター・シュミードル(cl)と岡田知子(pf)がルドルフ大公(!)の「ロッシーニの主題による変奏曲」抜粋を演奏、最後に高橋アキと佐藤祐介がシューベルトの「幻想曲」とシュトラウスの「フーガ」をピアノ・デュオで演奏してお開きとなった。

 聴き応えがあったのは、演奏も含めて、モーツァルトとグルックの作品であった。ルドルフ大公の作品は日本初演の由で、私も聞いたのは初めてである。抜粋とはいえ結構長く、終りそうでいてなかなか終らない、愛らしいが変な曲だ。

 午後のコンサートと同様、前トーク(プレではなく、本番に入ってから)がある。その都度ユニークな、奇抜なデザインのTシャツを着て出て来る井阪紘さんの名調子が聞ける。ただ、10~15分というのはチト長いんじゃなかろうか?
 夕方から強く降り始めた雨は、夜にかけてますます強くなった。客の出足が少し鈍かったのは、そのためなのか、それとも開演時間が遅いせいか? 気温は20度以下だろう。肌寒いくらいである。

8・25(月)第35回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル
ジェンマ・ベルタニョッリ ソプラノ・リサイタル

    草津音楽の森コンサートホール  4時

 メイン・コンサートはすべて午後4時の開演。ホールの基本客席数は約600、明るく清潔で美しく、雰囲気も良いし、音響も良い。ほぼ満席の状態だ。

 今年のテーマは「リヒャルト・シュトラウス生誕150周年~ミュンヘン、ウィーン、ドレスデン」。
 R・シュトラウスの作品を中心としてはいるものの、それにかなり幅広く関連づけられた作曲家や作品がプログラムに組まれている。今日のコンサートも同様だ。
 このジェンマ・ベルタニョッリ(イタリア出身)のリサイタルも、リサイタルというには、協演者の顔ぶれもすこぶる多彩である。このアカデミー&フェスティヴァルの講師陣をはじめゲストたちの層の厚さを物語る━━とも言えよう。

 彼女が歌ったのは、「献呈」を含むR・シュトラウスの歌曲6曲と、ヘンデルの「グローリア」、モーツァルトの「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」。
 このうち、歌曲ではピアノのアントニー・シピリ(アンソニー・スピリ)が、またヘンデルとモーツァルトではオルケストラ・ダ・カメラ・ディ・ペルージャが協演した。しかもシュトラウスの「あした(Morgen)」はヴァイオリンのパートを入れた編曲版で歌われ、それをヴェルナー・ヒンク(ウィーン・フィル)が弾くというオマケつきである。

 さらにディ・ペルージャは、バッハの「オルガン協奏曲BWV1058」を演奏。オルガンのクラウディオ・ブリツィもこのオケとの協演の他に、冒頭にレーガーの「序奏とパッサカリア」を演奏した。ピアノのシピリも、ソロでシュトラウスの珍しいピアノ曲をいくつか演奏した。

 メイン・パーソナリティともいうべきベルタニョッリは、聞いた話では、レッスンの際にも受講生をみんな明るく楽しい気持にさせてしまう人だそうである。ステージ上でも、協演のアーティストたち相手に、いかにも音楽を愉しんでいるという空気をあふれさせ、高原のコンサートを盛り上げていた。
 歌い方は少し鷹揚なところがあるが、どの曲にも温かい雰囲気を感じさせる。いわば「南国的な」R・シュトラウスとでもいった感。バロック音楽をとりわけ得意なレパートリーとすると言われるにしては、ヘンデルの「グローリア」など、極めて柔らかく、なだらかな曲線を描くような歌い方で聴かせていた。モーツァルトでも同様である。
     ☞モーストリー・クラシック11月号公演Reviws

8・25(月)第35回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル
「子供のためのコンサート」 

  天狗山レストハウス  午前10時30分

 「今年新たにお子様向けのコンサートを企画いたしました」とプログラム表に記載されているので、取材かたがた覗いて見る。
 天狗山レストハウスのレストランにステージと客席を設えた30分の無料特別コンサートだ。幼児と親を併せて250人ほどの客。

 天羽明惠が司会をやりながら歌い、岡田知子、高橋アキ、佐藤祐介、西野ゆか、山田百子、前野尚規ほかがルロイ・アンダーソンの「トランペット吹きの休日」やモンティの「チャルダーシュ」など各国の曲を演奏して行く趣向である。
 外に広がる雨上がりの緑に包まれた草津国際スキー場の光景を眺めながら耳を傾けていたら、どの国の音楽よりも、天羽が歌う「夏の思い出」がいちばん胸に沁みた。
 開演の合図に客席の3方から吹き鳴らされたアルペン・ホルンの響きも、高原の音楽祭らしくて、いい。

8・23(土)三善晃:オペラ「遠い帆」

   新国立劇場中劇場  3時

 1999年に仙台で初演された、高橋睦郎台本・三善晃作曲になるオペラ。
 仙台藩主・伊達政宗がイスパニアに派遣した支倉常長らの使節団をテーマにした1時間ほどの長さの作品だ。
 すでに昨年(2013年)、慶長遣欧使節出版400年記念として、仙台で新プロダクションを12月に上演しており、それを東京に持って来たのが、今日と明日の公演ということになる。主催は仙台市と、公益財団法人仙台市市民文化事業団。

 2000年に東京文化会館で上演されたプロダクションは、私も観たような気がするのだが、どうも細かい記憶がはっきりせず、資料も見つからない。
 とにかく、初演の際に演出を行なった佐藤信に替わって、今回は岩田達宗が演出した。全篇出ずっぱりの合唱団を雄弁かつ表情豊かに歌わせ演技させたのは、彼が先年会津若松で演出した「白虎」と共通する手法で、成功を収めている。

 この合唱団は、「オペラ《遠い帆》合唱団」と呼ばれ、オーディションを経て結成されたもので、実に2年もの練習を積んだという。作品に対する愛情と共感があふれ、極めて充実した演奏になっていた。数え歌を歌うNHK仙台少年少女合唱隊も見事だった。
 このオペラでの主役はもちろん支倉常長(小森輝彦)だが、音楽的にもドラマ的にも、主役はむしろ合唱という感がある。2つの合唱団はその重責を完璧に果たしていたと言って間違いない。

 ソリスト歌手陣は、その小森輝彦を筆頭に、小山陽二郎(ソテロ)、井上雅人(徳川家康)、金沢平(伊達政宗)、平野雅世(影)といった人たち。

 ピットに入ったのは、佐藤正浩指揮の仙台フィル。編成が大きいのでこの劇場のピットには入り切れず、弦の数を大幅に減らし、打楽器の一部を舞台裏に移し、PAを使用してオケと合せる方法を採ったという。だが、客席中央あたりで聴いた範囲では、危惧された音のバランスや音色は、全く問題なかった。その話を知らずに聴いていれば、気にもならなかったはずである。
 しかし、合唱もオーケストラも全曲を通じて咆哮の連続で、これでは音楽が単調に感じられてしまう傾向なきにしもあらず。三善晃の作品としては異様なほどにダイナミックな作風になっているが、それにしても、いつもの彼なら、もう少し音楽の構成に起伏を持たせるはずだろうに・・・・。

 ともあれ、再演されると、以前には気づかなかったいろいろないい点が見えて来るものだ。悲運の支倉常長を、単なる切支丹を超える高みに達した人間として描いた作品の狙いもいいし、特定の宗教色から切り離して設定した今回の演出も好ましい。
 今回は字幕付き上演で、歌詞も解りやすくて助かった。

 「遠い帆」は仙台発のオペラです━━と、プレトークで総監督・宮田慶子(新国立劇場演劇芸術監督)が明言していた。そういう形で、さまざまな創作オペラに光を当てて行くのは良いことだろう。となれば、前述の「白虎」も、会津発のオペラとして取り上げてほしいものである。

8・22(金)サイトウ・キネン・フェスティバル松本2014
ヴェルディ:「ファルスタッフ」

   まつもと市民芸術館 主ホール  7時

 松本も暑いが、東京のように火照るような空気でなく、風も少しあるのが幸いだ。4時半、松本駅に着く。

 構内から駅前広場に出る階段のところに、サイトウ・キネン・フェスティバル松本の大きなポスターがかかっている。広場と街の中には音楽祭のフラッグ。
 このフェスティバルが開始された1992年には、駅前のスピーカーからブラームスの「第4交響曲」などが流れ、市をあげてのフェスティバルという、湧き立つような雰囲気があって、感動したものである。20年余も経てば、雰囲気も少し変わってしまうのも仕方がないかもしれない。しかしこの音楽祭はやはり、松本の夏の大行事であるという不動の存在感を持ち続けている。来年からはフェスティバルの名称も新しくなる。

 今日は「ファルスタッフ」の2日目。
 今年のオペラは、最初から発表されていたように、小澤征爾は指揮しない。ファビオ・ルイジがタクトを執った。イタリア・オペラにかけては練達の名指揮者だから、悪いわけはない。

 だが、この客席の寂しさはどうしたことか。1階席は大体埋まっているが、両側のバルコン席は、無人である。入場制限でもしているのかと思ったが、2人か3人は客らしい姿が見えたから、そうでもないらしい。小澤征爾が指揮するとしないとでは、こんなにも客の入りが違うのだ━━もっともこれは、今に始まったことではない。この音楽祭の抱えている大問題の一つが、今回またもや露呈されたようである。

 知人の話では、「安いC席」はある程度埋まっていたそうだから、入場料の問題も絡まっているのだろうけれども(今回のチケット価格設定は、1万円から3万円の間にある)。小澤征爾が指揮していた時には、オペラ公演は常に客席が溢れ返るほどに一杯で、華やかな熱気が渦巻いていたものだった。だが彼が指揮していないと、場内には何か形容しがたい静けさのようなものが漂う。

 小澤が指揮しない時の、サイトウ・キネン・オーケストラの演奏にも、問題がないわけではない。相変わらず力感充分ではあるが、音にもっと色彩感とニュアンスの変化が欲しいのである。よく鳴ってはいるのだが、演奏がどうも無表情で不愛想で、作品への共感といったものが、あまり感じられないのだ。
 もともとファビオ・ルイジも、そう熱気のある音楽をつくる人ではないから、演奏は終始、淡白なものであった。あまり面白味のない「ファルスタッフ」の音楽になっていたのは、何とも残念である。

 歌手陣は、特にスター的な存在の人はいないものの、手堅く歌っていた。
 題名役のクイン・ケルシーはまだ若い人で、この複雑な性格の肥大漢ファルスタッフを描き出すには少し陰翳に不足するのは致し方ないが、それでも精一杯の歌唱だろう。男性陣ではフォード役のマッシモ・カヴァレッティが、第2幕第1場の最後の怒りのモノローグの個所で、オーケストラが鳴っている最中に大きな拍手を浴びていた。フェントンには代役でパオロ・ファナーレ。
 女声陣は、フォード夫人アリーチェにマイテ・アルベローラ、メグにジェイミー・バートン、クイックリー夫人にジェーン・ヘンシェル。3人とも偉大な存在感である。ナンネッタにモーリン・マッケイ。

 演出は、━━またまたここでもデイヴィッド・ニースだ。舞台装置(ロバート・パージオーラ)も含め、博物館から引っ張り出して来たような舞台である。
 もちろん、それなりにまとまりはあるので、愉しんでいた人も大勢いたのは判る。しかしそれにしても、フェスティバルのオペラ制作としては、これはあまりに「後ろ向き」の姿勢ではないのか? たとえトラディショナルな舞台装置ではあっても、人間模様や、個々の人物像の描き方に何か新発見をもたらすような演出があるのなら、まだ良いとは思うのだが・・・・。
 今回は、ナンネッタがファルスタッフとアリーチェの「情事」を興味津々、覗き見るなどの細かい芝居を入れていたのは一つの機軸かと思われたが、上演全体を振り返れば、相変わらず昔ながらの舞台をなぞったものという印象は拭い難いのである。

 休憩1回を含み、終演は9時35分。

8・16(土)川瀬賢太郎指揮読売日本交響楽団「3大交響曲」

     サントリーホール  2時

 「3大交響曲」━━「未完成」「運命」「新世界」となると、やはり大変な人気があるようだ。しかも土曜日の午後。客席はあらかた埋まっている。読響の夏の定番である。前回のこれを聴いたのは3年前、山田和樹の指揮だったが、今回は川瀬賢太郎の指揮だ。

 いいオーケストラとの共演で聴くと、この人の指揮は、作品全体のバランスを整える感覚が実にいい、ということがわかる。しかもメリハリのある、がっしりした構築の音楽をつくることの出来る人だ。
 ベートーヴェンの「5番」では、第1楽章での重厚な力感もなかなかのものだったし、第4楽章冒頭でエネルギーを一気に解放しての剛直な主題の響かせ方も優れていた。その第4楽章での和音の反復の個所も、全身で叩きつけるような強靭さに満ちていた。━━ただし全曲最後の決めの個所よりは、展開部の終り(【H】)のところの方がまとまりも良く、痛快味もあったが。
 ティンパニをしばしばクレッシェンドさせたりアクセントを強めたりするのも、川瀬の心の裡に波打つ感情の動きを表わすものだろう。

 「未完成交響曲」の第1主題での弦のゆらめきに起伏をつけるのは、だれかもやっていた手法だったが━━スダーンだったか?━━悪くない。
 「新世界交響曲」第4楽章のコーダで、それまで高まっていた力感を更に一押しするところは、彼が以前東京フィルでショスタコーヴィチの「5番」を指揮した時にもフィナーレの最後で聴かせたこともある大技であった。

 こういう丁寧な音楽のつくりを、作品全体のバランスを失わせることなく行えるのが、川瀬のよい持ち味でもあろう。
 もっとも、それを彼が常任指揮者を務めているオーケストラでなく、読響で実現できているということは、━━「読響は自分でやっちゃうオケだからな」(自主的に音楽をつくり、気に入った指揮者を援けるという意味らしい)と、某オーケストラの事務局の人が言っていたが、━━まあ、それもあるだろうけれども、いいではないか。

 ただ、川瀬の指揮、かようにデュナミークの変化が聴き応えに富んでいるにもかかわらず、いつも何か几帳面すぎるというか、慎重というか、堅苦しい印象が抜け切れないのが、これからの課題だろう。もしかしたら、イン・テンポにすぎて、自在な伸縮の呼吸といったものにやや不足するからなのかもしれない。ダイナミックな個所では力感を発揮するのだが、弱音の個所になると、しばしば緊張が薄くなる傾向もある。こういった点が、早く解決できれば、と思う。

 しかし、彼の指揮のジェスチュアも、最近とみに、獅子奮迅の熱演になって来たようだ。「5番」第4楽章での第1主題の2小節目(G音)で、拳を握った左手を天まで届けとばかり衝き上げ、力感を身体いっぱいに表わしたり、15小節目以降では跳躍しながらリズミカルな音楽の進行を強調させたりする情熱が、若い指揮者らしくて微笑ましく、好ましい。「新世界交響曲」も含め、昂揚した音のところでの「左手」の表情豊かな動きが目立つ。
 ステージに出て来る際にも、以前のようにうつむき加減で遠慮がちに歩いて来るのではなく、オケに起立を促しつつ両手をあげて颯爽と出て来るようになった。読響のプログラムにも、全身全霊を込めて指揮をする顔の写真が載りはじめている。イメージ・チェンジか? 演奏の中身を含めて、大いに若武者ぶりを発揮していただきたい。
      モーストリー・クラシック11月号 公演Reviws

8・7(木)佐渡裕指揮PMFオーケストラ東京公演

  サントリーホール  7時

 札幌のPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)は、私も1997年から2010年までの間は毎年取材に訪れ、特に2000年前後にはアドヴァイザー委員や評議員なども務めて入れ込んでいたほどだったが、近ごろはもうご無沙汰で、オーケストラの東京公演を聴くだけになってしまった。

 今年は創設25年記念とあって、大規模に行われたようだ。
 公式プログラムを見ると、指揮者陣だけでも━━マゼールは周知のように来られなかったものの━━オスモ・ヴァンスカ、ジョン・ネルソン、ガエタノ・デスピノーサ、ドミンゴ・インドヤン、佐渡裕、沼尻竜典ら錚々たる顔ぶれが並んでいる。教授陣にもおなじみのライナー・キュッヒルをはじめ、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、あるいはシカゴ響やメトロポリタン歌劇場管などからおなじみのメンバーが30人近く顔を揃えている。
 演奏会の数も、例年と比べると、目の回るほど多い。アカデミー生(122人)も忙しかったろう。このスケジュール表を見ると、今年は教育音楽祭としてより、公演音楽祭としての性格が強くなっていたように思われる。

 さて、今年の東京公演は、佐渡裕が指揮した。彼がPMFオケに登場するのは13年ぶりだという。創設者レナード・バーンスタインの弟子のひとりとして、90年代にはこの音楽祭のレジデント・コンダクターを務めていた佐渡である。久しぶりの復帰に、さぞや感無量だったのではなかろうか。
 プログラムは、バーンスタインの「キャンディード」序曲、チャイコフスキーの「ロココ風主題による変奏曲」、ショスタコーヴィチの「交響曲第5番」であった。

 「キャンディード」序曲は、まさに「恩師」の指揮を思わせる演奏だろう。沸騰する躍動感で開始され、後半も熱狂と興奮で盛り上がる。先日のスラットキンとリヨン管より、よほど張りのあるダイナミックな演奏である。
 これに対し「ロココ」では一転して、泡立ちクリームのように柔らかい音色がステージを満たす。PMFオーケストラがこれだけ優しい響きを聴かせたことは、私の聴いて来た範囲では、そう多くはなかった。チェロのソロを弾いたセルゲイ・アントノフ(1983年モスクワ生れ、2007年チャイコフスキー国際コンクールチェロ部門優勝)も素晴らしい。艶やかな、しかも引き締まった芯の強い演奏を聴かせてくれた。

 ショスタコーヴィチの「5番」は、アカデミー生全員が舞台に乗ったのではないかと思われるほどの超大編成。私の席からではよく確認できなかったが、第1ヴァイオリンも11プルト(=22人)くらいだったのでは?(21人だったと言う人も)。
 しかし、この大編成が、ガリガリ弾いて徒に怒号するのではなく、余裕を持った音量で、たっぷりと美しく鳴っていたところがいい。もちろん第4楽章の大詰では壮烈に咆哮していたけれども、オーケストラの響きには、節度と均衡がしっかりと保たれていた。管も上手いし、打楽器群もよかった。

 この音楽祭の受講者の演奏技術水準の高さはいつもながらのものだが、それが短い間にここまでオーケストラとしてのまとまりを示すにいたるのだから見事なものだ。今年はいろいろ異なった指揮者による本番の回数が多かったことが、むしろ役に立ったのだろうか? その楽員たちの自発性と、リハーサルで仕上げたものを本番で自由に発揮させるのが主義という佐渡の指揮とが相まって成功したのが、今日の演奏であろう。

 アンコールに、例の「PMF賛歌」━━ホルストの「惑星」を田中カレンが編曲したもので、昨年のメルクル指揮の東京公演では管弦楽版が演奏されていた━━をまたやってくれるかなと期待していたのだが、当てが外れた。
 ともあれ、これが今年のPMFの千秋楽。
       北海道新聞 演奏会評

8・5(火)「平和の夕べ」コンサート アルミンク指揮広島交響楽団

     広島国際会議場フェニックスホール  6時45分

 1時間40分で広島に着く。雨が降り始めている広島、明日の平和記念式典を控え、市内はすでに大混雑。ホテルも満杯で、1か月前に予約したのだが、辛うじて部屋を取れたという状態であった。会う人ごとに「よくホテルが取れましたね」と言われる。小さなホテルだが、部屋に入ると、ベッドの上に平和祈念の折鶴が飾ってあり、ちょっと感動する。

 コンサートは、平和記念公園にある巨大な「国際会議場」の中のフェニックスホールで行なわれた。ロビーのあるコーナーの壁面には、子供たちが書き込んだメッセージの紙片が張られ、「平和の日」行事の一環としての演奏会であることが示されている。
 ホール内部は、左右にバルコン席も備わり、センター席も3階まであるという大きな空間だが、ライティングテーブル付きの椅子が大きくゆったりしている構造のため、収容は1504席にとどまる。

 音響は永田音響設計による由。残響そのものは短いが、予想外によく響いて聴きやすい。広響が現在本拠地としている広島文化学園HBGホール(=広島市文化交流会館大ホール、旧・広島厚生年金会館大ホール)よりよほど雰囲気のあるアコースティックのように感じられる。ただし、ホール中央で聴いてさえ、オーケストラがやや遠く聞こえることはたしかだから、レパートリーにもよりけりだが。 

 今日は、広島交響楽団にクリスティアン・アルミンクが初の客演指揮。プログラムはマーラーの「第9交響曲」。

 アルミンクを聴いたのは、昨年の今頃、新日本フィルとの告別演奏会以来だ。
 彼のマーラーは、これまで聴いて来た演奏と、基本的には変わりない。濃厚な表現とは正反対の位置にある、淡々として端整な、贅肉を削ぎ落とした演奏である。極度に悲劇的な情感とか、狂おしい興奮とか、彼岸に向かうような神秘性とかいった要素は、ほとんど感じられない。
 もちろん、彼なりの情感はこめているのだが、それが決して深刻にならず、情念にのめり込むことから距離を置いた演奏になっているのである。全体に軽量ですっきりした響きなので、第4楽章の弦楽器群にあふれる壮絶でデモーニッシュな表情も、比較的淡々としたものとなる。

 だがそうは言っても、その演奏が、決してドライで殺風景なものに堕していないのは、アルミンクの指揮が持つもう一つの特徴たる、瑞々しいしなやかな表情が全曲に生きているからだろう。
 平和祈念の演奏会としてこの曲を聴くのなら、このまっすぐな、屈託しない、率直な爽やかさに満ちた演奏は、むしろそれにふさわしかったといえるかもしれない━━悲愴感たっぷり、大仰に陰々滅々と演奏されたら、とても「平和祈念」にはなるまいから。

 なおこのコンサートでは、「曲の最後で照明を落すので、その照明が再び明るくなるまで拍手はお控えくださるように」というアナウンスがあった。
 最後の数小節で舞台の照明が次第に落ちはじめ、曲が終ると同時に、左右舞台奥に装飾されている大きな白色のカーテンの裏にある照明を除いて舞台はほぼ暗転、そのカーテンを背景にコントラバス群などがシルエットになって浮かび上がった。なかなか美しい光景だった。その後、あまり間をおかずに再び明るくなって、場内は大拍手に包まれた。

 これは、フライング拍手を防ぎ、またこの交響曲の少しわかりにくい終結を明らかにするという点では、すこぶる効果的な手段かもしれぬ。誰が考案したのかは知らないけれど、なかなかの知恵者のわざだろう。もっともこれは、イベント的な演奏会でないと、ちょっとやりにくい演出ではあるが。
    ⇒モーストリー・クラシック10月号 公演Reviws

8・5(火)コンヴィチュニー オペラ・アカデミー in びわ湖 (7日目)

    びわ湖ホール リハーサル室  午前10時

 コンヴィチュニー演出セミナーの続き、ヴェルディの「椿姫」。
 今日の午前のコマは、最初に第3幕後半の演出づくり、次いで第3幕全部の通し、そして第2幕の「ヴィオレッタとジョルジョ・ジェルモンの場」の補足。

 第3幕フィナーレでは、ヴィオレッタ(中村洋美)の動きが激しく、臨終間近い人とは思えぬ歌唱と演技を示していたが、これは「ヴィオレッタは悲しんでいない。取り乱しているのは他の人々である」というコンヴィチュニーの設定に基づいてのものらしい。
 死の場面では、彼女は倒れず、独り背景の幕の中に姿を消す。一方、アルフレード(水口健次)やその父親ジェルモン(西條智之)、アンニーナ(乾ひろこ)、医者(五島真澄)といった者たちは、客席を通って逃げ出して行く。人間はすべて死ぬ時は独りであり、残された者たちはただ死への恐怖に慄くのみ、ということの象徴だろう。

 いずれにせよこれは「泣けない」幕切れである。コンヴィチュニーはすべての悲劇を「涙を催すことのできない悲劇」にしてしまう、と昨日も書いたが、これもまたその一例だ。死に行く人を崇高な美しさで描くことは、いい。だが彼は、残された者たちの複雑な心理を、あまりに惨酷な手法で抉り出し過ぎる。

 第2幕の前半は、別キャストだ。ジョルジョ・ジェルモン(砂場拓也)とヴィオレッタ(宮澤尚子)が対決する場面は、部分的な演出をちらりと見ただけだが、これもいかにもコンヴィチュニーらしい手法であった。
 ここで父ジェルモンが、「娼婦だったあなたが息子アルフレードと一緒にいると世間体が悪く、娘の縁談に差しさわりがあるから身を引け」とヴィオレッタに迫る場面で、彼はその当の「娘」(つまりアルフレードの妹)を連れて来る。そして、この「おとなしい、おどおどとした幼い妹」が、父の言葉の酷さに、逆にヴィオレッタに同情してしまい、怒った父親から顔を張られて突き飛ばされる━━という流れになるのは、予想された通りだ。

 3人を荒々しく動き回らせる演出は、この場面の音楽に含まれる激情的な部分を強調したものとして、理解はできる。ただ、そのドタバタとした動きは、少々煩わしい向きもあるだろう。
 その黙役の妹役を演じたのは南美里という、合唱団受講生として参加している人だったが、黙り役なのに、ずば抜けてカンがよく、演技も巧い。最優秀助演賞を贈呈したいほどであった。

 そしてなにより、ここでヴィオレッタを歌い演じた宮澤尚子が素晴らしい。
 インディアンの娘みたいな扮装(田舎に引っ込んだヴィオレッタだからこういう姿をしているんだというコン大先生の指示なる由)は、野暮ったすぎてどうかと思うが、演技の表現力、そのリアルな表情、張りのある声の安定感、歌唱の表現力など、どれをとっても抜群の存在感で、観客の目と耳をくぎ付けにしてしまった。あのコンヴィチュニーがリハーサル中に、「ジェルモンの無体な要求に唇を震わせるあなたの素晴らしい演技には感動してしまいました」と絶賛の言葉を贈ったほどである。

 彼女がふだんどんな活動をしているのか、私は存じ上げないけれども、東京芸大卒でまだ20代の若さとのこと。日本のオペラ・プロデューサーは、今のうちに彼女と契約しておいた方がいいのでは? 
 リハーサル中にある経緯から「コジ・ファン・トゥッテ」の「フィオルディリージのアリア」の話が出て、コンヴィチュニーが突然「だれかこれを歌える人は?」と受講生たちを見まわした時に、瞬時に名乗りを上げてレパートリーをアピールした、そういう積極性も高く評価したいところだ。

 なお、今回使われているピアノは、びわ湖ホール前芸術監督、故・若杉弘氏が愛用していた楽器で、夫人から寄贈されたものとか。土曜日夜に行われたロビー・コンサートで、現・芸術監督の沼尻竜典が弾いていた楽器もそれだった。その話は、日曜日の朝にホールのスタッフからセミナーの会場で一同に伝えられた。それを聞いて一同、粛然たる面持。

 午前のコマが午後1時に終了したところで、失礼する。京都駅から午後2時の新幹線で、広島に向かう。 

8・4(月)コンヴィチュニー オペラ・アカデミー in びわ湖 (6日目)

    びわ湖ホール リハーサル室  午前10時

 昨日の続き。
 第3幕の最初から、アルフレードとヴィオレッタの2重唱までがリハーサルされた。第2幕の最後で一同が狂乱状態の裡に倒れ伏したのを受け、ヴィオレッタのみがそのまま舞台に残って第3幕の病の床の場面に移る、という具合。
 演出の指示は昨日よりもさらに詳細を極め、歌詞や動作の一つ一つにその理由、背景、心理などを説明して演技表現を理解させる。見上げた徹底ぶりだが、彼の話は以前より少々長くなり、そのテンポもやや遅くなったような気もする。

 いかにもコンヴィチュニーらしいと思われた発想の一つは、医師グランヴィルが早朝7時にヴィオレッタの診察に訪れた際に、カーニヴァルの前夜祭で飲み過ぎて酔っぱらっているという設定だ。
 一見、小細工のように思われるが、その狙いは、孤独の身であるヴィオレッタはたとえ相手が医師であろうとも精神的に頼りたい心境にあるはずであり、しかし医師の方は惨酷な診断の結果を侍女アンニーナに伝えなければならない・・・・そのギャップの冷酷さを和らげるために、医師を酩酊させ、千鳥足の演技をさせるというコミックなシーンを挿入した━━ということなのだそうだ。

 なるほど細かいアイディアだとも思うが、しかしどんな理由があるにせよ、カーニヴァルの素っ頓狂な衣装の酩酊状態の医者をこの場に登場させることが、ヴィオレッタの運命に涙している観客の心理に果たして合うものかどうか? 
 コンヴィチュニーの演出は、あまりに過剰な策を講じすぎるあまり、どんな悲劇的なオペラさえも、涙を催させる悲劇ではなくしてしまう傾向があるが、これなどもその一例ではあるまいか。

 異論と反発ついでに、もうひとつ言わせてもらうことにする。
 この第3幕でコンヴィチュニーは、2か所の音楽をカットした。
 1つは、ヴィオレッタがアンニーナに手持ちの金を計算させ、20ルイのうちの半分を「貧しい人たちにあげてちょうだい」と命じる個所。
 もう1つは、手紙を読んだ後に窓外から聞こえて来る謝肉祭の陽気な合唱「バッカナール」である。

 前者は、「ヴィオレッタを親切な女性に見せかけて、当時の検閲をくぐりぬけさせるため挿入したに過ぎない個所なので」カット。
 また後者は、「このオペラでは合唱の役目は第2幕までですでに終わっている」のでカット━━ということなのだそうだ。
 それらが、全く当を得ていない解釈だというのではない。しかし、だからといって、ヴェルディの書いた音楽を、演出家がそんな理由をつけて勝手にカットするなどというのは、思い上がりも甚だしいというべきではないか? 

 これは、コンヴィチュニーがかつて「マイスタージンガー」や「コジ・ファン・トゥッテ」や「ドン・ジョヴァンニ」で、演奏を途中でストップさせて議論を挿入するなどして、もとの素晴らしい音楽の流れを完全に破壊してしまった手法と、ある意味では共通している。
 私がこれまでコンヴィチュニーの演出に20作以上も接し、いつもその意表を衝いた発想に舌を巻きつつも、未だにコンヴィチュニー信者になれないままでいる理由のひとつは、「音楽を大切にする」と言いながら、しばしば音楽を破壊させることを敢えてするという、彼の演出手法にあるのだ。

 しかし、━━こんなことを、あの熱気渦巻く演出セミナーの場所で、しかもコンヴィチュニーの演出指導を必死に咀嚼しようとしている100人近い人々の中で口にでもしようものなら、どんな目に遭うかわからぬ。

 今日の配役は昨日と基本的に同じで、アルフレードのみ水口健次に替わった。やや怒鳴り過ぎだし、もう少し正確に歌ってもらいたいものである。
 ヴィオレッタ役の中村洋美は昨日に続く出演で、ほとんど出ずっぱりで1日中歌うというハードな役回りだったが、強靭な声で最後まで歌い切ったのは偉としたい。

8・3(日)コンヴィチュニー オペラ・アカデミー in びわ湖 (5日目)

    びわ湖ホール リハーサル室  午前10時

 びわ湖ホールを会場として開かれている、名演出家ペーター・コンヴィチュニーのオペラ演出セミナー。
 「蝶々夫人」(2010年)、「ラ・ボエーム」(2011年)、「魔笛」(2013年)と続いて来たこのシリーズも、今年が惜しくも最終回になるとのこと。企画と主催の当事者の昭和音楽大学で2009年に行われた「魔弾の射手」等から通算すれば5回におよんだセミナーだ。

 若手の歌手と演出家を対象に、コンヴィチュニーが一つのオペラを題材として微に入り細を穿つ演出の実地指導を行なうというこのセミナーは、彼独特の解釈をも加味した、極めて興味深いものであった。
 コンヴィチュニーと言えば、突拍子もない読み替え演出をやる奇才演出家というイメージが一般に広まっている人だし、たしかに彼の演出にはそういう要素も色濃く出ているのは事実であろう。
 しかし彼は、演技の基本については、極めて正統的な表現をしっかりとおさえている人だ。そしてこのセミナーは、概してその基本的なドラマ解釈と正確な演技を、演出家と歌手に叩きこむスタイルを採っているのである。

 ドラマトゥルギーに基づく掘り下げた作品解釈と細部にわたる演技指導をここまで系統的に行なう講座は、多分日本には他にないだろう。その意味でも非常に意義深いものがある。こういう演出教育は、本当は日本のオペラ界に今一番必要なものだと思われるのだが、今のところ、まだ正規の教育課程として取り上げる音楽大学もないようだ。何より音大そのものがこのセミナーに対して公式的にも興味を示さない、という状況が続いているのが、なんとも嘆かわしいことではなかろうか。毎年の受講者は、ほとんど例外なく、目からウロコといった思いを胸に帰って行くというのに━━。

 今年は、ヴェルディの「椿姫」が取り上げられている。それは7月30日から始まり、8月8日まで続くセミナーである。朝10時から、1時間半の昼休みを挟み、夕方6時近くまでびっしり続くという、濃密きわまる長丁場だ。
 受講歌手はオーディションで選ばれた16名、受講合唱メンバーは13名、受講演出家は14名(ただし1名は欠席)。公開形式なので、一般の人々も聴講生として参加することができる。今年は54名が登録されているが、大部分は音楽関係の人々のようで、大勢がスコアやヴォーカル・スコアを拡げ、熱心にメモを書き込んでいた。

 歌手たちは、森香織の指揮と、岡本佐紀子のピアノにより歌う。
 演出の指示を事細かに出すのはもちろんコンヴィチュニー自身だが、若手の木川田直聡と佐藤美晴━━いずれもこのセミナーの門下生でもあり、すでに演出家として場数も踏んでいる人たちだ━━が演出助手として補佐している。
 毎回ドイツ語の通訳を担当している蔵原順子が果たしている役割も、大きい。単に機械的に通訳するのでなく、コンヴィチュニーの言わんとするところを、時にはそれを補いつつ、全員に解りやすく伝えるという役目を果たしているのが彼女だ。この素早い、正確かつ明確な通訳があってこそ、受講生たちがきびきびと動けるのである。

 今日は、第2幕のフィナーレにあたる「フローラの夜会の場」が取り上げられていた。
 例えばそこでコンヴィチュニーは、夜会の客たちがヴィオレッタとアルフレードが別れたことを聞いて驚く冒頭のシーンでは、単に類型的な演技をするのではなく、スキャンダルを楽しむ社交界の連中の心理をはっきりと描き出し、「他人の不幸は蜜の味」の心理を表現することを歌手たちに要求する。
 そして、夜会に独りでやって来たアルフレードが「アルフレード、君か」とみんなに呼び掛けられて応える時には、「そうだよ、諸君」という簡単な歌詞のうちにも、「そうだ、おれだ、文句あるか」という不貞腐れた、荒んだ彼の心境をいかに口調と身振りで表現するかを、執拗に教え込む。

 次いで、一同の「ヴィオレッタはどうした?」という問いに「知らんよ」とアルフレードが自棄的に答えるのを聞いた全員が「ブラヴォ」と言うが、この短い一言の中にも「これから面白いことになるぞ」というスキャンダルへの期待をこめた心理を表現しなくてはならないことを指導する。
 あるいはアルフレードとドゥフォール男爵の短い応酬の中に、「君とおれと、どっちが彼女(ヴィオレッタ)を夜のベッドで喜ばせることができるか、勝負して見ようじゃないか」という生々しい感情をも含めなければならない、と指示をする━━といった具合である。

 いずれも巧みな心理分析だ。観ているわれわれも、このオペラへの新たなる興味をかき立てられることになるだろう。もっとも、第2幕の最後では、夜会の客全員がナイフとフォークを手に━━彼らは食事の最中にアルフレードに呼び出されたのだから━━幻想に陥って異常な狂態を示しはじめ、「舞台全体に何か悪魔か地獄のような雰囲気があふれて行く」ことを表現するあたりは、例のコンヴィチュニー・スタイルと言えるだろう。面白いと言えば面白いが、また始まったという冷めた気も起させるところである。

 受講生の歌手たちは、長丁場をみんなよく頑張っていた。特にアルフレード役の前川健生(二期会研修生)は声もよく伸びるし、演技にも熱がこもって、将来に期待を持たせる人だ。
 フローラ役の鮎澤由香里も、歌唱と演技に温かさがあっていい。ヴィオレッタ役の中村洋美は、ヴィブラートの多い発声が少し気にかかるが、声にはいいものがある。ただし演技の表現力においてはもっと修行が必要だろう。
 ほかにドビニー侯爵役の服部英生(関西二期会)が、以前の「ラ・ボエーム」の時と同様、独特のヒューマンないい味を出していた。

8・2(土)沼尻竜典のロビーコンサート

  びわ湖ホール ロビー  6時15分

 これは「びわ湖ホールなつフェスタ ロビーコンサート」の一環、「プレミアム ロビーコンサート」と題された、無料の演奏会。
 先ほどのオーケストラ・コンサートの指揮を終わったばかりの沼尻竜典が、トークを交えつつ、自らピアノを弾く。

 ソリストは中嶋康子(ソプラノ)と迎肇聡(バリトン)。いずれも大阪音大出身で、びわ湖ホール声楽アンサンブル・ソロ登録メンバーであり、すこぶる優れた歌唱を聴かせてくれる。特に迎(むかい)は、これから広く注目される存在になるだろう。

 プログラムは、團伊玖磨の「夕鶴」から「つうのアリア」、林光の「森は生きている」から「おまえは今日、わたしらと出会った」、それに沼尻自作のオペラ「竹取物語」からアリアとデュエットなど計5曲、という構成。
 この「竹取物語」は、先頃横浜でセミ・ステージ形式により彼自身の指揮で初演されたものだ。来年早々ハノイで本名徹次指揮により舞台形式世界初演、次いでびわ湖ホールで同日本初演が予定されているそうである。彼の説明によれば、音楽には昭和の歌謡曲の精神を導入したとのこと。「半分はドビュッシー、半分は千昌夫」と、いかにも沼尻らしいアイロニカルな表現のトークを入れながらの演奏だった。彼のトークも、最近は芝居気があって、なかなか巧い。

 ロビーには300人もの聴衆が詰めかけ、熱心に聞き入っていた。びわ湖ホールの芸術監督としてこの7年間、優れた上演を積み重ねて来た沼尻に対するここでの人気の高さが、はっきりと感じられる客席の雰囲気であった。

8・2(土)沼尻竜典指揮日本センチュリー交響楽団&中村恵理

   びわ湖ホール  3時

 恒例のペーター・コンヴィチュニーの演出セミナーを明朝から取材するため、今日の夜に大津へ入るつもりだったが、標記の演奏会が行われるということを知り、急遽時間を繰り上げ、昼過ぎに入る。
 これは日本センチュリー響の「びわ湖定期公演Vol.7」と題された公演である。前・首席客演指揮者の沼尻竜典が、モーツァルトとメンデルスゾーンを振る。

 この劇場で本格的なオーケストラ・コンサートを聴いたのは、私はこれが初めてだ。
 反響版が設置されたステージの景観は、落ち着いた上品なもので、なかなか良い。しかも、濃茶色の反響版と、特に黒銀色(?)の床は、ちょっとザルツブルク祝祭大劇場を小型にしたような雰囲気を思わせる。
 音響は、1階席のP列あたりで聴く範囲では、歌劇場にしては随分よく響くアコースティックだなと思う。ただ、その音色はあまり清澄ではなく、やや混濁したものに聞こえるのも否定できないのだが・・・・もっともこれは、場所によって、また異なるイメージを得るだろう。

 プログラムは、前半はモーツァルトのオペラ3つから━━「フィガロの結婚」から「序曲」とスザンナのアリア「さあ、膝まづいて」、「魔笛」から「序曲」とパミーナのアリア「愛の喜びは露と消え」、「コジ・ファン・トゥッテ」から、「序曲」とフィオルディリージのアリア「岩のように動かずに」という選曲となっていた。
 沼尻のオペラの指揮は、昔よりもさらに自信満々、強靭な1本の芯で貫かれたような構築を感じさせる。細かいアンサンブルに拘泥するよりむしろ目覚ましい推進力、自由な躍動感に重点を置いた演奏になっているように感じられる。その活力ある音楽づくりは素晴らしい。このあたり、ドイツのリューベック歌劇場音楽総監督としての成果の表れなのかもしれない。

 もっとも、プログラムの後半に置かれたメンデルスゾーンの「第5交響曲《宗教改革》」では、エクストンのCD録音が入っていたため、まさにレコーディング向けといったような、威儀を正した几帳面な演奏に転換してしまった。それは立派な演奏には違いなかったが、聴いていると、どうも何か肩が凝って来るような演奏で━━。
 アンコールでのモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」第1楽章は、前半のプログラムと同様、レコーディングの対象外だったようである。すると、演奏にも再び素晴らしい活気と解放感があふれはじめたのであった。
 
 今回の声楽ソリストとして登場したのは、バイエルン州立歌劇場専属の中村恵理である。
 彼女の素晴らしさについては、私はこれまで何度も絶賛して来た。一昨年そのミュンヘンで聴いた「ラ・チェネレントラ」のクロリンダと、「ニーベルングの指環」のヴォークリンデでの見事な歌唱と演技に驚嘆したあまり、その後東京で行われた彼女のリサイタルのチラシには、欣んで一文を書いたほどである。
 今日も、その正確で些かも崩れぬ音程と、芯の強い表現力によるモーツァルトは、実に聴きごたえがあった。

 日本で彼女のオペラのステージになかなか接することができないのは残念である。それは、バイエルン州立歌劇場との専属契約の問題があるためとも聞く。とはいえ、ドイツ最高の歌劇場で活躍できるというのは彼女にとってもベストなことであろう。そういう意味では、日本での私たちは、当面はせめてリサイタルで我慢しなければなるまい。

8・22(金)サイトウ・キネン・フェスティバル松本2014
ヴェルディ:「ファルスタッフ」

   まつもと市民芸術館 主ホール  7時

 松本も暑いが、東京のように火照るような空気でなく、風も少しあるのが幸いだ。4時半、松本駅に着く。

 構内から駅前広場に出る階段のところに、サイトウ・キネン・フェスティバル松本の大きなポスターがかかっている。広場と街の中には音楽祭のフラッグ。
 このフェスティバルが開始された1992年には、駅前のスピーカーからブラームスの「第4交響曲」などが流れ、市をあげてのフェスティバルという、湧き立つような雰囲気があって、感動したものである。20年余も経てば、雰囲気も少し変わってしまうのも仕方がないかもしれない。しかしこの音楽祭はやはり、松本の夏の大行事のひとつであるという存在感は不動のようである。来年からはフェスティバルの名称も変わる。

 今日は「ファルスタッフ」の2日目。
 今年のオペラは、最初から発表されていたように、小澤征爾は指揮しない。ファビオ・ルイジがタクトを執った。イタリア・オペラにかけては練達といわれる名指揮者だから、悪いわけはない。

 だが、この客席の寂しさはどうしたことか。1階席は大体埋まっているが、両側のバルコン席は、無人である。入場制限でもしているのかと思ったが、2人か3人は客らしい姿が見えたから、そうでもないらしい。小澤征爾が指揮するとしないとでは、こんなにも客の入りが違うのだ━━もっともこれは、今に始まったことではない。この音楽祭の抱えている大問題の一つが、今回またもや露呈されたようである。

 知人の話では、「安いC席」はある程度埋まっていたそうだから、入場料の問題も絡まっているのだろうけれども(今回のチケット価格設定は、1万円から3万円の間にある)。小澤征爾が指揮していた時には、オペラ公演は常に客席が溢れ返るほどに一杯で、華やかな熱気が渦巻いていたものだった。だが彼が指揮していないと、場内には何か形容しがたい静けさのようなものが漂う。

 大問題の第二は、小澤が指揮しない時の、サイトウ・キネン・オーケストラの演奏だ。相変わらず力感充分ではあるが、音にもっと色彩感とニュアンスの変化が欲しいものだと思う。よく鳴ってはいるのだが、演奏がいかにも無表情で不愛想で、湧き立つ情熱があまり感じられないのである。
 もともとファビオ・ルイジも、そう熱気のある音楽をつくる人ではないから、演奏は終始、淡白なものであった。あまり面白味のない「ファルスタッフ」の音楽になっていたのは、何とも残念である。

 歌手陣は、特にスター的な存在の人はいないものの、手堅く歌っていた。
 題名役のクイン・ケルシーはまだ若い人で、この複雑な性格の肥大漢ファルスタッフを描き出すには少し陰翳に不足するのは致し方ないが、それでも精一杯の歌唱だろう。男性陣ではフォード役のマッシモ・カヴァレッティが、第2幕第1場の最後の怒りのモノローグの個所で、オーケストラが鳴っている最中に大きな拍手を浴びていた。フェントンには代役でパオロ・ファナーレ。
 女声陣は、フォード夫人アリーチェにマイテ・アルベローラ、メグにジェイミー・バートン、クイックリー夫人にジェーン・ヘンシェル。3人とも偉大な存在感である。ナンネッタにモーリン・マッケイ。

 演出は、━━またまたここでもデイヴィッド・ニースだ。舞台装置(ロバート・パージオーラ)も含め、博物館から引っ張り出して来たような舞台である。
 もちろん、それなりにまとまりはあるので、愉しんでいた人も大勢いたのは判る。しかしそれにしても、フェスティバルのオペラ制作としては、これはあまりに「後ろ向き」の姿勢ではないのか? たとえトラディショナルな舞台装置ではあっても、人間模様や、個々の人物像の描き方に何か新発見をもたらすような演出があるのなら、まだ良いとは思うのだが・・・・。
 今回は、ナンネッタがファルスタッフとアリーチェの「情事」を興味津々、覗き見るなどの細かい芝居を入れていたのは一つの機軸かと思われたが、上演全体を振り返れば、相変わらず昔ながらの舞台をなぞったものという印象は拭い難いのである。

 休憩1回を含み、終演は9時35分。

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