2017-11

7・30(水)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 今年の「フェスタサマーミューザ」は、7月26日(土)から8月10日(日)まで開催。ホスト・オケの東京交響楽団を中心に在京オケ8団体と神奈川フィル、洗足学園音大や昭和音大のオケ、その他ビッグバンドなどが出演。このミューザ川崎と、一部は昭和音大のテアトロ・ジーリオ・ショウワで行なわれる。

 今日のプログラムは、ワーグナーの「ジークフリート牧歌」とブルックナーの「第7交響曲」。良い取り合わせだ。
 演奏も予想通り、揺るぎなく構築された剛直なものになっていた。「ジークフリート牧歌」がこれほど生真面目な表情で演奏されたのを聴いたのは、ナマでは初めてかもしれない。おっとりやられると眠くなる曲だから、こういう強面のアプローチもたまにはいいだろう。

 一方、ブルックナーの「7番」では、この集中性が余すところなく生きて来る。隙間なく組み立てられた堅固な構造体ともいうべき、息も詰まるほどの緊張感を持ったブルックナーだ。
 ただ、インバルと都響が得意とする、あの鉄壁のようなアンサンブルや均衡に、わずかながらも緩みのようなものが感じられたのは、やはりステイタスたる定期のステージではないためか。第2楽章以降には常のような引き締まったアンサンブルが戻ったが、ホルン群とワーグナー・テューバ群だけは、今日は終始、あまりまとまっていなかったようだ。特に第2楽章最後のワーグナーへの挽歌を奏でる個所では、聴かせどころにもかかわらず、快演の足を引っ張った感があったのは惜しい。

 むしろ輝かしかったのは、1番トランペットだ。第3楽章のスケルツォの第1部の最後で、1番と2番がオクターヴ高く上がって終止を決める個所(【90】の2つ前)など、なるほどこの曲の演奏はかくあるべしと思えるほど、鮮やかなフォルティシモであった。

 インバルはこの春を以って都響の首席指揮者のポストからは退いたが、まだまだこれからも聴きたい指揮者である。

 それと、━━いつも思うのだが、都響、演奏が終って指揮者が答礼する際に、楽員の全員が客席に顔を向けて立つ、という姿勢にそろそろ変更してもいい頃ではないか? 今の姿勢では、いかにも「われわれはみなさんがどう聴いたかには関心がありません、ただわれわれのやりたいように演奏しただけですから」とでも言っているように感じられるのである。

7・27(日)山響&仙台フィル 合同演奏会 小泉和裕指揮

   山形市民会館  4時

 同じ指揮者と同じオーケストラ、同じプログラムによる合同演奏会だが、こちらに来ると演奏会タイトルのオケの名称の順序が、当然ながら逆になる。巨人・阪神と阪神・巨人、早慶戦と慶早戦、の類か。

 今日の会場は、客席数1202の山形市民会館。昨日と同様、お客の入りがあまり芳しくないのが残念だ。ただ、演奏後における聴衆の拍手とブラヴォーはこちら山形の方がやや盛んのようである。スタンディング・オヴェイションを続けている人も少なからず見受けられた。

 演奏の出来についても、やはり2日目とあって、昨日よりもさらにまとまりが良くなっていた。
 「ローマの祭」の第1曲と第4曲における暴力的な激しさの阿鼻叫喚が、これほど均衡ある音で響いていたのも稀だし、「ローマの松」第3曲における夜の静寂の描写がこれほど美しく行われた演奏も、滅多に聴けないものであった。小泉の音づくりの巧みさと、2つのオーケストラが気持をぴったり合わせて演奏したことの成果が見事に実を結んだものと言っていいだろう。

 バンダは、「祭」第1曲では客席下手側出口付近に置かれ、3本のトランペットの上手さとバランスと良さとで、凶暴なスペクタクルの場面を描くのに貢献していた。ただし「アッピア街道の松」の方では、客席最後方に金管群が一列に配置されたが、入りの個所で2回のミスがあった(昨日は完璧だったのに)のは何とも惜しい。
 またクライマックスでは、客席下手側寄りに座っていたわれわれには、バンダは舞台上のオケの強力さにマスクされ、ほとんど聞こえなかったという状態も生じていた。━━聞こえすぎるのも困るが、聞こえないのも困る。舞台との距離感を出すという狙いだけでは解決できぬ問題である。

 なお、つまらない話だが、どういうわけか昨日も今日も、コンサートの最後の最後の「アッピア街道の松」のさなかに席を立って出て行くご老体が各1人いた。それでも昨日は、そっと脇の出口から出て行ったからまだましだが、今日の御仁と来たら、客席中央通路を堂々と後方の、しかも演奏中の(!)バンダの方へ向かって行ったのだから、どういう神経の持主だか。いちばんの聴きどころで聴衆の気を散らした責任は大きく、腹立たしい限りである。

 まあ、そういう余計な出来事があったものの、演奏自体はすこぶる聴きごたえのある水準に達しており、遠路遥々聴きに行って決して損はしなかったのは確かである。
 この合同演奏会は、2年前の飯森範親指揮によるマーラーの「復活」(東日本大震災復興祈念)に続く今回が第2回で、当面は2年に1度実施して行く計画の由。集客の問題さえ解決できれば、その意義も十全のものとなることは間違いない。

 7時31分発の「つばさ」で帰京。今日の山形は風もあり、予想外に暑くならなかったのはありがたかった。深夜の東京も意外に暑くないことにとりあえず安堵。
       ⇒モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews

7・26(土)仙台フィル&山響 合同演奏会 小泉和裕指揮

     東京エレクトロンホール宮城  3時

 伊丹空港内の大阪空港ホテル━━ここは清潔で便利だ━━に一泊、9時45分のANAで仙台へ飛ぶ。仙台空港からは仙台駅へ直通の鉄道があるので便利だ、と聞いていたその電車に今回初めて乗ってみたが、車両編成は小さいし、なんと1時間にたった2本というダイヤだ。車内はラッシュ時並みの混雑。これでは不便だろう。

 今回は、芸術文化振興基金助成の事後調査も兼ねての取材。
 会場は「東京エレクトロンホール宮城」というから、何かの大きなイベント会場かと思っていたら、何のことはない、昔からあった宮城県民会館のことだった。地下鉄の勾当台駅や県庁に近く、繁華街の定禅寺通りに面した古い建物だが、内部は改装されたそうで、現在の客席は1590。

 これは、仙台フィルハーモニー管弦楽団(常任指揮者パスカル・ヴェロ)と山形交響楽団(音楽監督・飯森範親)の合同演奏会。今日はここ仙台で、明日は山形で開催される。

 合同演奏とはいっても、必ずしも両団体の全員が顔見せのためにステージに乗っているわけではなく、パートによっては降り番もあるとのことで、弦16型という、アンサンブルのバランスを重視した編成が採られているのは好ましい。コンサートマスターは、仙台フィルの西本幸弘と、山形響の犬伏亜里が、曲により交互に務めている。
 今年の指揮は、仙台フィルの首席客演指揮者・小泉和裕。プログラムはレスピーギの「ローマ3部作」で、「噴水」「祭」「松」の順に演奏された。

 ホールの音響はあまりクラシック音楽向きとは思えないものの、そこはオーケストラのバランスを整える巧さにかけては昔から定評のある小泉和裕である。管弦楽全体を見事な均衡で響かせ、ダイナミックな迫力をつくり出しただけでなく、ピアニッシモにおいても明晰な音色を失わせなかった。レスピーギ特有の色彩感という点では少し物足りなかったとはいえ、残響の少ない、音も拡散する傾向の会場でこれだけの量感のある演奏ができたとあれば、まず御の字というべきだろう。

 ただし、演奏は良かったのに、お客の入りが芳しくなかったのは惜しまれる。猛暑の土曜日の午後のせいか、それとも? 地方ではこのプログラムは意外に集客が難しいものなのだ、という意見もあったそうである。

 「祭」の1曲目「チェルチェンセス」と「松」の4曲目「アッピア街道の松」でのバンダ〈トランペット他〉は下手側花道に配置されていた。リハーサルの時にあちこち位置を動かしてテストし、結局そこに落ち着いたということだが、しかしこれは1階席中央から下手寄りに座っている聴き手にとっては、聴感上、極めて厳しいものがあった。
 客席(もしくはそれに近い位置)にバンダを配置するのは当たり前のように行われる手だが、それはいったいだれのための方法なのか、と私は以前から疑問に思えてならなかった。演奏者(特に指揮者)にとっての良いバランスがすなわち聴衆にとっても良いバランスだとは限らないのである。何より、演奏というものは、まず聴衆のために行われるものではないのか?

 3時35分終演。
 明日の山形公演取材に備え、夜、バスで山形に移動。このバスは15分に1本というダイヤで、宮城県庁前と山形駅とを75分前後で結ぶという、便利な定期バスである。
         ⇒モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews

7・25(金)モーツァルト:「コジ・ファン・トゥッテ」佐渡裕指揮

     兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール  2時

 芸術監督佐渡裕がプロデュースするオペラ、今年は第10作にあたる由。「魔笛」以来7年ぶりのモーツァルトは、「コジ・ファン・トゥッテ」となった。

 7月18日から27日までの間に計8回の上演、すべて午後2時からのマチネー上演である。歌手陣は「インターナショナル組」と「アジア組」とのダブルキャストで、各々交互に4回の上演を受け持つ。前者の組にはスザンナ・フィリップスやロッド・ギルフリーらが登場して結構な人気らしく、4回の上演はすべて完売の由。後者の組は日本、韓国、中国の歌手の出演で、こちらは残念ながら完売とまでは行かなかったようだ。
 今日はアジア組だったが、そういえば1階席の最後方2、3列ほどは空いていたようである(空いていたといってもせいぜいそんな程度だ、よく入っていたことには変わりない)。

 演出はデイヴィッド・ニース。となれば、観る前からどんな舞台かはもう見当がついてしまう。いくら守旧派演出家ではあっても、その中にたとえ一つでも何か新しい発見を与えてくれるのであれば、それなりの価値も出ようが、この人の演出は常に旧態依然として過去のスタイルをなぞるばかりで、進歩というものが全くないのである。今回の「コジ」もごく穏健にして無難、良くも悪くも定番的な舞台だ。
 ただ、その範囲ではそれなりにまとまっているのはたしかであり、それゆえ誰かが指摘していたように、こういう路線だからこそ、ふだんオペラを観る機会の全くない人たちが安心して観ることができ、愉しんで帰ることができ、したがって8回もの公演が完売になる━━という状況も成り立つのであろう。

 とにかく、この演出では、最大の論議を巻き起こすべきラストシーンでも、何事も起こらない。もともと滅茶苦茶なストーリーを理屈で分析してみよう━━というのがこのオペラの通常の演出の理念と言ってもよいが、ニースのは、滅茶苦茶なストーリーは滅茶苦茶なままにしておけばよかろう━━という演出だ。シルエットだけが美しく残って、幕が降りる。

 結局、何よりも素晴らしいのは、やはりモーツァルトの音楽である。佐渡裕の指揮は極めてストレートなスタイルで、厚みのある柔らかい響きの弦を前面に押し出し、管楽器群をその中に包み込む。
 私自身はこのオペラの木管の和音が透明清澄な音色で浮き彫りにされるスタイルの演奏が好きなのだが、それとは少し違う。とはいえ、この少し重い(今日通常の演奏に比較すれば、だが)響きのモーツァルトも、聴いていて気持のいいことには変わりない。兵庫芸術文化センター管弦楽団も落ち着いた演奏を繰り広げていて、聴きやすかった。

 歌手陣は、次の通りである━━小川里美(フィオルディリージ)、フィリン・チュウ(ドラベッラ)、ジョン・健・ヌッツォ(フェルランド)、キュウ・ウォン・ハン(グリエルモ)、田村麻子(デスピーナ)、町英和(ドン・アルフォンソ)。

 うれしい驚きは、モーツァルトは久しぶりで、しかもこの役はデビューだという小川里美の活躍である。今日が3日目で、次第に調子を上げて来たらしく、ご本人も今日が一番気持よく歌えたと語っていたが、事実、2つの大アリアを含め、声も広い音域にわたって実に美しく安定して伸びていたのが素晴らしい。ドラマティックな性格も備わる声が、毅然とした決意を歌うアリアではよく生きていた。貞節で落ち着きのある上品な姉娘というフィオルディリージの性格には、ぴったりであろう。何しろ上背があり、容姿にも演技にも気品がある人だから、先日の「こうもり」でのロザリンデと同様、舞台映えも充分である。「メリー・ウィドウ」のハンナなども、早く観てみたい気がする。

 デスピーナを歌った田村麻子はニューヨーク在住で、欧米での歌劇場での活躍も目覚ましいとのこと。声量のある声と、思い切りのいい表現が魅力を感じさせる。今後もいろいろな役柄を聴いてみたい。
 ドラベッラ役のフィリン・チュウ(上海出身)も、低い音域などなかなかの凄味を発揮する人だ。今回は「はねっ返りのお嬢さん」的な表現をもう少し強く見せてもいいのではないかと思われたが、いい味を持っている人だろう。というわけで、女性軍は全員好調。

 ジョン・健・ヌッツォは、持ち前のリリカルな、しかし張りのある声で気を吐いた。ソット・ヴォーチェで躊躇う感情を歌う部分ではやや声に安定を欠いたものの、ドラマティックな個所では見事な迫力を示していた。彼も今は昔の快調さを取り戻したようである。10月のびわ湖ホールの「リゴレット」にも出る。これも期待できよう。

 一方キュウ・ウォン・ハン(ソウル出身)は、時に聴かせた最強音に張りと力があるので、更に闊達に演じればもっと演技にも歌にも面白さを出せた人ではないかという気がする。この軍人役2人、ともにアルバニアだかの謎の貴族に化けてからの方が生き生きとしていた。
 老哲学者ドン・アルフォンソ役の町英和には、もう少し「腹に一物」の曲者ぶりが求められよう。このオペラでは、彼が黒幕なのである。したがって、この役にずしりとした重みと説得力がなければ、他の5人がバカみたいな存在になってしまうだろう。

 なお装置と衣装はロバート・パージオラ。中幕や緞帳に使われた自然主義的絵画のデザインは美しかった。
 5時半終演。お客さんには女性が多い。よく笑うところが関西の良さか。デスピーナが医者に化けたり公証人に化けたりして登場するところでは、笑いながら「あれ、女中なのよ」と隣の人に教えたりしていた。オペラでそういうお客さんを観たのは久しぶりだ。こんな風に、映画を観に来るような気安さでオペラを観に来る人がもっと増えれば、と思う。

7・24(木)アラン・ブリバエフ指揮日本センチュリー交響楽団

 ザ・シンフォニーホール  7時

 首席指揮者・小泉和裕、首席客演指揮者・沼尻竜典という体制のあとを受け、今年4月からは飯森範親とアラン・ブリバエフがそれぞれポストを継いだ日本センチュリー響。

 飯森の就任記念演奏会(ブラームス)は4月に聴いたが、今回は首席客演指揮者アラン・ブリバエフの就任記念定期だ。ブリバエフは、カザフスタン生まれの35歳。ダブリンのRTE国立響首席指揮者を務めている。わが国のオーケストラにはすでに何度も客演している人だが、私はナマで聴くのはこれが初めてである。

 プログラムは、レスピーギの「鳥」、デリク・ブルジョワの「トロンボーン協奏曲Op.114」(ソリストはイアン・バウスフィールド)、シベリウスの「トゥオネラの白鳥」、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」という、すこぶるユニークなものであった。一見突飛な選曲のようにも見えるが、「マ・メール・ロワ」は英語では「マザー・グース」、つまり「鵞鳥母さん」だから、今日のプログラムのテーマは「鳥」ということになるのだろう。

 指揮者の大いなる意欲がうかがえるプログラムだが、しかし、なんとも難しい曲を選んだものである。こういう、「鳥」とか「マ・メール・ロワ」といったような洒落たセンスを備えた曲になると、日本のオケは━━失礼ながら━━なかなかその味はうまく出せないことが多く・・・・。
 この日も、「マ・メール・ロワ」の方はそれなりにまとまった演奏にはなっていたものの、それでも作品特有の精妙な楽器の絡み合いや、詩的で甘美な情感を描き出すには、少々堅苦しいところがあった。

 冒頭の「鳥」では、まだ指揮者とオケとの呼吸が合っていなかったのか、「前奏曲」や「めんどり」がえらく闘争的に描かれていたのは解釈の一つなのかもしれないけれども、「夜鶯」のように木管群が精妙なバランスでニュアンス豊かに交錯する曲となると、アンサンブルにも更なる精度が求められるだろう。フルートがもう少し明確に浮き出し、ファゴットが背景を安定したリズムで彩るという具合になっていれば・・・・と思われる。もっとも、ホルンは、今日は素晴らしかった。
 「トゥオネラの白鳥」は、シリアスな雰囲気をあふれさせた作品だから、まず問題(?)はない。いいソロを吹いたイングリッシュ・ホルンの奏者の名は、やはりプログラムの曲目表にもクレジットしてあげた方がよかったのではないだろうか。

 英国の作曲家ブルジョワ(1941~)の「トロンボーン協奏曲」は、1989年のロンドンにおけるトロンボーン・フェスティバルで、クリスティアン・リンドベルイが吹くために作曲されたものの由(服部智行氏の解説文による)。冒頭の一節を聴いただけで、いかにも英国だな、という雰囲気を感じさせる曲だ。民謡風の温かい情感を持った個所もあり、技巧を駆使して昂揚に追い込んで行く個所もあり、何とも気持のいい協奏曲である。ソリストのバウスフィールドも英国生まれ、写真で見れば謹厳な風貌ながら、ステージではノリのいい身振りで吹きまくる、これまた実に楽しい雰囲気であった。

 この日のプログラムのうち、この協奏曲の演奏だけが最も熱狂的な拍手を呼んだというのは、曲の性格と、ソリストの力量などからいって無理もないかもしれないが、新任の首席客演指揮者にとっては、少々気の毒と言えぬこともない。
 しかし、日本センチュリー響とブリバエフとの協同作業は、これから実を結んで行くだろう。ブリバエフは、10月にもいずみホールでのコンサートで振る。

7・20(日)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団 マーラー「10番」

    サントリーホール  2時

 インバルと都響が2012年9月から繰り広げて来たマーラーの交響曲ツィクルス、その最終回。
 都響としては3月の「交響曲第9番」を以ってツィクルスの完了と考えていたが、インバル自身はやはりこの「10番」でこそ締めたいと思っていた━━ということを、以前、都響の事務局から聞いたことがある。

 今回の「交響曲第10番」は、デリック・クック補筆完成版による演奏だったが、それが1976年版か1989年版か、ということになると、少々複雑のようである。
 詳しい筋の知人から聞いたところによると、インバルは「76年版」の方を気に入っており、今回はオケのパート譜は仕方なく現在流布している「89年版」の方を使ったものの、そこに「76年版」から採った然るべき部分を加えて演奏したのだそうである。

 いつかグラモフォンから出たハーディングとウィーン・フィルのCDでも似たような方法が採られていたことを思い出す。結局、現在クック版を使用するとなると、指揮者たちは、多かれ少なかれ、そのような折衷版を採りたくなるのだろう。
 純粋な(?)「76年版」を聴くには、やはり昔LPで出たウィン・モリス指揮のレコードあたりを聴いた方がいいのかもしれない。今度時間が空いたら、棚から引っ張り出して来て、じっくり聴き直してみることにしよう。

 それはともかく、インバルの巧みな指揮と、都響の水準の高さもあって、今日の「10番」は、実に精妙無比な音楽となっていた。第3楽章(ブルガトリオ=煉獄)の冒頭など、まさにこの世ならざる幻想的で豊麗な音色であった。第5楽章最後の、弦楽器群の大きな大きなグリッサンドを経て終結の安息と諦念の和音に解決するまでの個所も、何と感動的な演奏だったことか。
 都響の巧さもさることながら、インバルの、少しも無味乾燥に陥ることのない指揮、豊かな情感を厳しい造型に収めて構築した緊張感に満ちた指揮は、見事というほかはない。おそらく、インバルと都響のこれまでの協演の中で、これは最高の演奏の一つとなったのではなかろうか。

 ほぼ満席の聴衆は、それこそ息を呑んで聴き入った。終演後の拍手の音量の大きさと厚みのある音は、あのスクロヴァチェフスキと読響のブルックナーの「7番」(2010年10月16日)のそれをすら凌ぐものだったであろう。今日は本当にインバルと都響を、そしてマーラーを愛する人ばかりが集まっていたのではないか、とさえ思われたのである。

7・18(金)インゴ・メッツマッハー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     すみだトリフォニーホール  7時15分

 先週の演奏会があまりに面白かったので、この定期も聴きに行く。
 ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲と「交響曲第5番《運命》」の間にツィンマーマンの「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」という作品を挟んでのプログラム。

 圧巻だったのはやはり、これが日本初演となったツィンマーマンの大作(演奏時間約40分)だ。
 大編成のオーケストラに、エレキ・ギターから新聞紙、段ボールにいたるまでが使われて異様な音響をつくり、コントラバスの一部は電気的増幅まで行われる。上階客席3か所にはバンダが配置される。金管と打楽器が圧倒的な力を発揮、音楽は鋭く荒々しく、まさに衝撃の連続だ。メッツマッハーの重厚で強靭な力をもった指揮のもと、新日本フィルも見事な演奏を繰り広げていた。

 この曲には、旧約聖書や、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」などから採られた悲劇的な内容のテキストが使われる。指揮者の横に立つバス歌手(ローマン・トレーケル)と、オルガン両側の高所にそれぞれ立つ2人の語り手(松原友、多田羅迪夫)がそれらを歌い、語って行く。
 バスのパートは、時にオーケストラの強奏に消されるというハンデがあったため、むしろ2人の語り手の存在感の方が強くなっていただろう。語り手は腕を拡げて跳躍したり膝まづいたり、アクションも交えての奮闘だ。

 テキストはもちろんドイツ語だが、幕切れに近く挿入されるアドリブ個所に突然日本語(訳)も混じって来るくだりも印象的で、そこでは指揮者も語り手も腰を掛けて瞑想的な姿勢になっている。
 バスの最後の歌詞は「(倒れても)起してくれる友のない人は不幸だ」である。そしてオーケストラに突然バッハのコラールがデフォルメされて出現し━━この瞬間はシェーンベルクの「ワルソーの生き残り」の最後にも似た衝撃を生むだろう━━、その祈りを根こそぎ破壊するようなフル・オーケストラの暴力的な一瞬の強奏で、全曲が閉じられる。
 なんとも暗い、不気味なエンディングである。この曲を書き上げて間もなく作曲者がピストル自殺を遂げてしまったことを思い起こすと、なにか身の毛のよだつような恐怖をさえ感じさせるだろう。

 この曲を挟んで、意志の強いベートーヴェンの作品━━1曲はハ長調で始まり、他の1曲はハ長調で終る━━が演奏されたことは、プログラムの意図として、すこぶる意味深長なものがあった。
 「第5交響曲」では、両端楽章は猛烈なテンポでひたすら突進、驀進、ティンパニの豪打も凄まじく、重量感もろとも大詰へ殺到する。アンサンブルの細部よりも音楽自体のエネルギーを再現することに重点を置いた演奏だ。こういうのもありかな、とは思ったものの、些か辟易させられたのは事実であった。

 それゆえ、演奏としては、「プロメテウスの創造物」序曲の方が完成度は高い。
 冒頭に断続して強奏される和音群が、大きく弧を描くような関連性を以ってハ長調に向かって行く見事さ。なるほどベートーヴェンはここをこのような構想で作曲したのだな、と解らせるような設計の演奏である。そのあとのアダージョの主題部分でも、各フレーズがおのおの応答しあうような意味合いで演奏され、一つの大きな起伏をつくりつつ主部に向かって動いて行くさまを感じさせたのであった。
 この短い導入部をこれだけ念入りに考え抜いて演奏した例は滅多にないだろう。メッツマッハー恐るべし、である。

※一部記憶違いの個所を削除しました。コメントで指摘して下さった方に御礼申し上げます。

7・17(木)レナード・スラットキン指揮リヨン国立管弦楽団

     サントリーホール  7時

 改めて言うまでもなく、先ごろ来日した、大野和士が率いる歌劇場のオーケストラとは別の団体。1905年創設のコンサート協会を母体とするものの、現在のオケの創立は1969年で、歴史は意外に新しい。
 歴代の音楽監督にはフレモー、ボド、クリヴィヌ、メルクルらの名が見える。現在の音楽監督スラットキンは2011年9月からである。

 1979年に初来日した時には、「火の鳥」の最後の方で金管が全部落ちるという事故があって唖然とさせられたが、「フランスのオケでも、ローカルとなるとあんなもんですかね」と、このオケの内情に詳しかった人に訊いたら、「現状はあんなもんですよ、仕方ないです」という返事が返って来たのを記憶している。もちろん、昔の話だ。今はもう堂々たる美音のオーケストラである。

 今回の日本ツアーは、7月9日から19日までの間に、岩手から福岡まで9回のステージをこなすというスケジュールだ。今日のプログラムは、バーンスタインの「キャンディード」序曲、ラロの「スペイン交響曲」(ヴァイオリン・ソロは五嶋龍)、ベルリオーズの「幻想交響曲」。
 最初の「キャンディード」が少々粗っぽい音だったので落胆しかけたが、そのあとのフランスものでは見事にしっとりした柔らかい味を出していたので、安堵。アメリカ生まれのスラットキンが指揮しているのに、アメリカの曲ではアンサンブルが粗っぽくなり(曲が曲だから仕方がないか)、フランスのレパートリーでは綺麗な音になるというのも不思議だが、とにかくどれもスラットキンらしい、滑らかでバランスのいい響きがつくられていたことはたしかである。

 「幻想交響曲」は、第1楽章提示部反復を含め、演奏時間は約55分、テンポはゆっくり目ということだろう。第1楽章序奏や第3楽章冒頭と終結の個所などでは、かなりじっくりとオケを歌わせていた。ただ、それらがあまりにきっちりと几帳面に演奏されていて、幻想に陥っている主人公の心の苛立ちや不安がほとんど感じられない、という特徴もある。

 スラットキンはたしかに、この曲の標題音楽としての性格には、あまり重きを置いていないように思える。
 第3楽章最後での「牧笛」と「雷鳴」は、あくまでコール・アングレとティンパニとの対比に過ぎず、それ以上のものではない,といった感じの演奏。第5楽章第414小節以降の「怒りの日」の個所も、「悪魔たちの歓呼」より以前に、「金管群の最強奏」に過ぎない、という演奏である。その他「、魔女たちの笑い声」にしても同様だ。
 第3楽章でのそのコール・アングレが、いかにも譜面通りに、アクセント付きの4分音符+スタッカートの16分音符━━休止符━━同様の4分音符+16分音符・・・・と、几帳面にはっきりと分けて吹かれて行ったのには少々驚いた。この明快さでは、広い野に寂しく響く牧笛と、それを聞く主人公の孤独感といったものは、ほとんど滲み出て来ないだろう。

 それがスラットキンの個性であり芸風なのだから、それはそれでいいのだろうけれども、私にとってはあまり面白くない「幻想交響曲」であった。
 なお、第3楽章で「遠方の牧笛」を受け持つオーボエは、今回はRB席後方の高い場所に立って吹いていた。こういうやり方は、指揮者やオケや1階席の客にとってはいいだろうが、2階のR側に近い位置で聴いている客にとっては、全然意味がない。

 「スペイン交響曲」も、整然とした演奏だった。五嶋龍も、正確にきちんと弾く。情熱は充分ながら、音楽としての形をあくまで優先するといった演奏である。あまり「スペイン」らしからぬ演奏になっていたものの、これはスラットキンに合わせた音楽づくりか?
 それにしても、五嶋龍は立派な大人の青年になった。あの小さな坊やだったのがつい昨日のことのような気がする・・・・。

 アンコールは、スラットキン自身の解説入りで、ビゼーの「カルメン」から2曲。「第3幕への間奏曲」(フルートの入ったあれだ)は、実に瑞々しく膨らみがあって美しい演奏。次の「前奏曲」は、スラットキンの父君フェリクスが編曲した「カルメンズ・フーダウン」とかいう、ウェスタン風の、「フィドル・ファドル」スタイルの賑やかな音楽に化けていた。見事なご愛嬌である。

 なお読響の事務局から聞いた話では 首席ティンパニ奏者のブノワ・カンブルランは、あのシルヴァン・カンブルランの弟にあたる人だそうだ。そういえば、兄シルヴァンも、もともとはこのオケのトロンボーン奏者だったことを思い出した。1975年には指揮者に転じていたから、前出の「金管総落ち」の時には、あの場には居なかったはず。
       ⇒音楽の友9月号 演奏会評

7・16(水)工藤セシリア ピアノ・デビュー・リサイタル

   ヤマハホール  7時

 本名は工藤セシリア祐意。セシリアはクリスチャン・ネームの由。
 プログラムには、前半にデュティユーの「対比の戯れ」、モーツァルトの「ソナタ ハ短調K457」、ショパンの「スケルツォ第3番」、後半にドビュッシーの「子供の領分」、「映像第1集」、「前奏曲集」から「亜麻色の髪の乙女」「霧」「花火」が組まれていた。

 良かったのはショパンと、ドビュッシーの「映像第1集」。特に後者は演奏に強い確信が感じられた。
 ヤマハのCFXが使われており、こちらの聴いた席が1階の上手側端だったせいもあったのか、ピアノの音色が妙にこもって重く、ドビュッシーの清澄繊細な世界が伝わって来ないのがもどかしかったが、しかし「亜麻色の髪の乙女」に入った瞬間に音色が突然明るくなったところからすると、席の位置から来る印象ではなく、すべてが意図的に弾かれていたということになるのだろう。

 いずれにせよ、演奏の単調さを避けるためには、多様な曲想に応じての音色や表情の変化、自らの感動の表現などがもっと欲しいものである。なお、あのバレリーナみたいな衣装は、おとなの美しい女性のリサイタルには不似合いだ。

7・15(火)ハルトムート・ヘンヒェン指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 ドレスデン生れのヘンヒェンが読響に初客演、ベートーヴェンの「第5交響曲《運命》」とショスタコーヴィチの「第8交響曲」という、2つの「ハ短調交響曲」を指揮。

 「5番」は、近年では比較的珍しい16型弦編成と倍管(原譜での木管2本編成を4本に倍加する)による演奏だったが、その分厚く重量感豊かな音は、歯切れのいいリズムと速めのテンポに乗って、すこぶる力感豊かなベートーヴェンをつくり出していた。
 かように何一つ誇張のない、まっとうな演奏の「運命」を聴いたのも、久しぶりである。読響が良い音だし、しかも上手い。たまにはこういう、昔ながらの大編成のベートーヴェンもいいものだな、と思いながら、どっしりした音に浸っていた。

 後半のプログラム、ショスタコーヴィチの「8番」も、実に力のこもった激烈な、劇的な演奏となった。
 これはまさに、「激怒し、敢然と己を主張するショスタコーヴィチ」の姿を描き出すかのような演奏の「第8交響曲」である。そして、この曲が作曲された年と同じ1943年にドレスデンで生まれ、幼時に悲惨な戦災を体験したヘンヒェンとしては、無慈悲で無意味な戦争に対する怒りを、この大交響曲を借りて訴えかけていたのかもしれない。
 耳をつんざく全管弦楽の爆発はホールを揺るがせんばかり。読響の底力が余すところなく発揮された演奏であった。各パートのソリも、みんな上手い。

 とはいうものの━━この鋭角的な、高音域の鋭い絶叫に、そろそろ耳が追いついて行けなくなって来たのは、やはり私もトシということか。
 以前は、この「8番」は、「4番」とともに、ショスタコーヴィチの交響曲の中では最も好きな作品だったのだ。それが今や、木管群の高音域での怒号が、えらくヒステリックで、しつこく、しかもうるさく感じられるようになってしまった・・・・。

7・14(月)アンドレア・バッケッティ ピアノ・リサイタル

   トッパンホール  7時

 イタリア生れ、痩躯のピアニスト。
 この招聘元は概してアーティストの生年を公式発表せぬ主義らしいので(外国の資料でも年齢や係累は書かないのが多い)、年齢は不詳。中年だろう。しかし、何とも不思議な、個性的なピアニストだ。

 第1部がバッハの「トッカータ ホ短調BWV914」と「ゴルトベルク変奏曲」、第2部がモーツァルトの「幻想曲ニ短調」と「ソナタ第10番ハ長調K330」というプログラム。

 「ゴルトベルク変奏曲」は、「繰り返し」なしで、テンポも速い。演奏時間も、何と35分前後ではなかったろうか。
 だが、音の躍動は物凄い。古典的な造型よりも、激しい感情をそのままぶつけたような、変幻自在の演奏である。「激動のゴルトベルク」とでもいった趣だ。これほど面白い(?)「ゴルトベルク変奏曲」はかつて聴いたことがない。
 というわけで、私自身は大いに新鮮な気分を味わったのだが、休憩時間に通路を歩いていた時には、「こんなバッハは嫌だ」という声も耳に入って来た。

 モーツァルトも、ユニークな演奏だった。そもそも「ハ長調のソナタ」は、ふつうの場合のように何の屈託もなく弾かれると、いかにもご家庭向きソナチネみたいになってしまい、面白くないのだ。が、このバッケッティのような翳りのある表情で演奏されると、途端に作品が全く異なった姿で立ち現れて来る。彼は頻繁に音をずらせて音楽全体を揺り動かしたり、大きな強弱の対比を試みたりするのだが、そうするとこのソナタは、途方もなくスケールの大きな、複雑な様相を含んだソナタという印象になるのであった。

 正規プログラムは、8時半過ぎには終ってしまった。するとバッケッティが、「第2部は短くて申し訳ないので、バッハを」と言って(なんだか不思議な喋り方をする人だ)、またピアノに向かう。そして弾き出したのが、「アンナ・マグダレーナの音楽手帖」からの「メヌエット」や、「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の「プレリュード」や、「フランス組曲第5番」などを接続組曲風にしたものだった。これがまた、曲想の上でも、実に巧く繋がっているのである。
 そのあと、ヴィラ=ロボスの小品(「ハンク」と言ったか?)を1曲、最後にショパンの「黒鍵」を弾いてリサイタルを締め括った。どれもこれも一癖ある、自己主張の強い演奏ばかりだった。
 とにかく、実に面白いピアニストである。

 ただしこの人、ちょっと妙な癖がある。
 「ゴルトベルク変奏曲」では、変奏の合間のパウゼで、彼はしばしばピアノを弾く手を下して膝に置くのだが、これが結構大きな音を立てるのだ。まるで、ポンと膝を叩いて弾みをつけ、次の変奏に入るという感じなのである。気にし始めると妙に気になる仕草なので、私はあまりいい気持ではなかった。

 また、「トッカータ」と「ゴルトベルク」は、曲想から言っても、続けて弾かれた方が感動的だったのではないか。だれもがそう予想していたろう。だが、バッケッティ自身が「終わったよ」という顔をして客席を見たので、聴衆は思い出したように拍手を始めたのである。彼は答礼をしてすぐまた椅子に座り、「ゴルトベルク」を弾き出したが、この拍手のせいで、レセプショニストが遅刻してきた客を何人か席に誘導してしまった。そのため、「ゴルトベルク変奏曲」の最初の美しい「アリア」は、ややざわついた客席の雰囲気の中で開始されてしまったのである。

 そういえば、この長大な曲の演奏の最中に、下手側から平気で客席に入って来て、席を探すが如き様子でホールの中央を横切って行った女がいた。とてもまともな神経とは思えぬ行動である。しかしこんなのは、入場を制止しなかったホール側にも大きな責任があろう。

7・13(日)インゴ・メッツマッハー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  2時

 新日本フィルのConductor in Residenceを務めるインゴ・メッツマッハーが指揮、ベートーヴェンの「エグモント」序曲と「英雄交響曲」を取り上げ、その間にベルント・アロイス・ツィンマーマンの「トランペット協奏曲《誰も知らない私の悩み》」をホーカン・ハーデンベルガーのソロとともに演奏。

 冒頭の「エグモント」序曲が、これほど骨太で剛直な力感を以って、しかも威嚇的に演奏されたのを、私はこれまで聴いたことがない。怒号するティンパニと、力強いコントラバス群とが、地響きするような重量感をつくり出す。しかもそれは決して鈍重になることなく、かなりの速いテンポで突進するのだから、なかなか物凄いものがある。

 「英雄交響曲」でも同様で、弦14型の編成をどっしりと響かせ、低音を基盤にして全体の音を構築するという、ドイツの指揮者とオーケストラがしばしば行なうスタイルを聴かせてくれた。特に第4楽章では、あの第1主題がバスで強力に全管弦楽を支えて行くさまが初めてはっきりと聞き取れたように思う。
 ドイツ的と言えば、第3楽章トリオでの3本のホルン━━あれを、まるで「ドイツの森に響く角笛」のような趣で力強く朗々と吹かせたのには少々驚いた。このオケのホルンも、思い切って吹けばここまで行くじゃありませんか、という感。

 第1楽章提示部反復込みで演奏時間約46~47分というかなり速いテンポに、重量感と豪快な歯切れのよさ、明晰で引き締まった音のつくりも目覚ましく、極めてスリリングな「英雄交響曲」となった。メッツマッハーという指揮者、やはりただものではない。

 コンチェルトは15分ほどの長さながら、様々なジャンルの音楽が混合された縦横無尽な趣の曲想が面白い。だが何と言っても光ったのは、ソリストのハーデンベルガーの鮮やかな、多芸多才(?)のテクニックと表現力だ。彼のソロ・アンコールでの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」も微笑ましい。

7・12(土)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  4時

 この定期、プログラムが実にユニークだ。
 第1部にモンテヴェルディの「オルフェオ」から「トッカータ」、デュティユーの「コレスポンダンス」、ベルリオーズの序曲「海賊」。第2部にプッチーニの「交響的奇想曲」と、「マノン・レスコー」第3幕への間奏曲、ストラヴィンスキーの「プルチネッラ」組曲。
 オーケストラの編成も比較的小さいものから始まり、やがてフル編成になり、最後に再び小編成になる。選曲の奇抜さといい、配列といい、このプログラムをつくった人は、かなりの知恵者だろう。

 大トリに「プルチネッラ」を置いた発想も面白い。この曲は各パートのソロに腕利きが揃っていることが何よりも必要だが、演奏水準上昇中の今の日本フィルならそれが可能と踏んでのプログラミングだったのであろう。
 事実、出来栄えは上々だった。数年前だったら無理だったかもしれない、と楽団関係者も秘かに漏らしていた。今回の演奏の成功の要因に、オーケストラを自然体で鼓舞する広上淳一の指揮の良さもあったことは、改めて言うまでもない。

 冒頭のモンテヴェルディの「トッカータ」は、いきなり金管のファンファーレで開始されるのではなく、テーマが繰り返されるごとに楽器編成をふくらませて行く、という形になっていたが、ここでの楽器のアンサンブルも、すこぶる良いバランスだった。特に2回目のものにおける音色の不思議な美しさが強く印象に残る。
 たった2分程度の短い曲だが、そもそもコンサートで聴けること自体が稀有の曲だし、大いに楽しませてもらった次第である。

 デュティユーの「コレスポンダンス」は、フランス音楽を得意のレパートリーとする谷村由美子のソプラノ・ソロも加わっての、極めて多彩な表情に富む20分ほどの作品。これもふだんはまず聴けない、貴重な曲だった。私の好みとしては、ソプラノは更に抑制した歌い方でもよかったのでは、という感だったが・・・・これはしかし、控えめな意見。

7・11(金)秋山和慶指揮広島交響楽団

   広島文化学園HBGホール  6時45分

 音楽監督・常任指揮者の秋山和慶が振る広島交響楽団の定期を聴くのは、あの「トゥーランガリラ交響曲」の広島初演以来、2年ぶりだ。

 モーツァルトの「アダージョとフーガ」で幕を開けたが、その明晰な、きりりと引き締まった弦の音色が、なんとも快い。いかにも秋山和慶らしく緻密な、隙のないアンサンブルである。
 今日は新任のコンサートマスター2人━━第1コンサートマスターの佐久間聡一、コンサートミストレスの蔵川瑠美━━がトップに並んで座っており、弦の充実も更に、というわけであろう。チェロなど低弦も明晰で、これもまた聴いていて気持がよい。

 2曲目には同じモーツァルトの「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」が、小林沙羅の清純なソプラノ・ソロを迎えて演奏され、ここでも端整で清澄な音色が際立っていた。
 残響の少ないこのホールには、秋山のこのような引き締まった構築の音がとりわけよく似合うようである。

 後半は、マーラーの「第4交響曲」。予想されたとおり、これも端然たる佇まいのマーラーだ。不安定な心の動きは整理され、むしろ古典的な造型の中に構築された「4番」とでも言うか。テンポやアゴーギグは決して硬直したものではないが、ホールのドライなアコースティックのせいもあって、音楽が冷静怜悧なほど端整なつくりに聞こえる。
 あまりに整理され過ぎたマーラーという印象もなくはないが、あれこれいじり過ぎた神経質でヒステリックなマーラーでなく、何の衒いもなく率直な、飾り気のないすっきりしたマーラー像というのも、それはそれで興味深いものがある。

 終楽章では小林沙羅が再び登場、「子供が歌う天上の生活の物語」にしては、些かリアルで華やかな歌唱に終始したようだ。もっともこれは、いわば「叙事詩化された」演奏に追加された明るいエピローグ━━と解釈すればいいのかも。

 今回は、ソプラノ歌手は、第4楽章の軽やかな主題が始まってから舞台に登場した。これは、この曲での最もオーソドックスな入場のタイミングであり、いかにも秋山和慶らしいとも言えよう。
 余談だが、指揮者によって、この入場のきっかけはまちまちだ(指揮者以外のスタッフが決めることもあるらしい)。しかし実はこれが聴衆に与える劇的な光景としての演出効果は、非常に大きなものがある。
 たとえば、第3楽章の最後の静かな音楽の中でそっと出て来る、という演出もあるが、これは静謐な音楽の美しさを妨げることにもあり、あまり良い方法とは思えない。
 一方、何人かの指揮者がやる、第3楽章でのあの突然の全管弦楽の大爆発とともにソプラノを登場させる手法は、最もドラマティックな舞台効果だろう。ここから違う世界が始まる、という気分的効果を生むことはたしかである。ただその代わり、指揮者の横に立っている女性歌手の姿が聴衆の気を散らせ、この楽章の最後の美しい音楽の印象を薄れさせることになるかもしれないが。

7・10(木)山田和樹指揮スイス・ロマンド管弦楽団

     東京芸術劇場コンサートホール  7時

 都民劇場公演。台風が間近に迫ってきているにもかかわらず、高齢者会員の多い客席は満杯。熟年パワーは凄い。

 今日のプログラムは、オネゲルの「パシフィック231」、藤倉大の「Rare Gravity」再演、ビゼーの「アルルの女」から4曲(「前奏曲」「アダージェット」「メヌエット」「ファランドール」)、休憩後にリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」というもの。
 アンコールにはシュレーカーの「マドリガル」と、コルンゴルトの「シュトラウシアーナ」が演奏された━━珍しい曲をやるものである。

 「パシフィック231」は、先日もフルシャと東京都響の演奏で聴いたばかりだが、描写音楽的な演出という点では、どうやら山田和樹の方に、一日の長がありそうだ。「機関車の加速」も雰囲気が出ていてスムースだし、「怪物の突進」というエネルギー感などもよく備わっている。いい意味での芝居気やハッタリももち合わせているところにも、山田和樹の指揮の面白さがあるだろう。

 その意味では「シェエラザード」も同様で、特に第3楽章「若き王子と王女」では遅いテンポで濃厚にオーケストラを歌わせ、一転して第4楽章の「海」や「難破」の個所では大音響を轟かせて大見得を切った。全曲の演奏時間はほぼ50分というテンポの遅さで、相変わらず凝った、濃い表情の音楽づくりである。
 ただ、全曲を引き締める統一感という面では、一昨日の「幻想」と同様、今一つの感もなくはない。小曲の場合にはあんなに見事に発揮される山田和樹の機知に富んだ個性が、大曲でも同じにように生きるには、オーケストラとの呼吸がさらに完璧に合うことと、彼の円熟とを待つ必要があろう。
 「アルルの女」の方は、ワイルドなくらいに元気な演奏となり、オケの鳴らし方の巧さをも感じさせる。

 カーテンコールでは、楽員たちに客席へ手を振らせたり、最後に全員で客席に一礼させたり、演奏以外での山田のパフォーマンスもなかなかのものである。演奏から聴かれるオーケストラの制御も好調だし、ステージ上での楽員との交流の光景もなかなかいい━━となれば、雰囲気の上では、はや首席指揮者(?)の感か。

 それにしても、先輩・大野和士が率いて来たリヨン・オペラの素晴らしい上演とともに、欧州における日本人指揮者の活躍ぶりが「そのままの形で」相前後して━━私にとっては3日連続という形だが━━日本で体験できたのは、本当にうれしいことであった。

7・9(水)大野和士と国立リヨン歌劇場の「ホフマン物語」

   オーチャードホール  3時

 大野和士が首席指揮者を務めるフランス国立リヨン歌劇場の日本公演は、先日演奏会を聴いたばかりだが、今度は、いよいよ本命のオペラ,公演━━オッフェンバックの「ホフマン物語」だ。
 全3公演の日程。今日はその最終公演である。

 結論から言うと、これはまさに傑出した上演であった。
 成功の最大の要因は、大野和士の鮮やかな指揮である。瑞々しく活気にあふれ、緊迫感を全く失わせず、ドラマティックに盛り上げてクライマックスをつくる彼の指揮は、たとえようもなく素晴らしい。しかも、歌手を伸び伸びと歌わせつつ、それらを艶やかな音色とふくよかな厚みを備えたオーケストラで豊麗に包んで行く呼吸の見事さ。

 これまで聴いた彼のオペラ指揮の中でも、この「ホフマン物語」は、数年前のモネ劇場における「ウェルテル」をはるかに凌ぐものだろう。スケールの大きなドラマを感じさせる快演だ。世界に雄飛しているオペラ指揮者としての大野の本領が、十全の形で日本に紹介されたのが今回の上演なのではなかろうか。

 この歌劇場のオーケストラが、また佳い。オーチャードホールのオケ・ピットから、これほど色っぽく、しかも量感のある音が聞かれたのは、滅多にないことである(言いたくはないが、これに比べるとわが愛する日本のオケは、ピットに入ると何故あんなにも貧弱な音しかださないのだろう)。これは、「ホフマン物語」の音楽の良さを余すところなく出してくれた上演である━━それも大野の功績の一つだが。
 ロラン・ペリーの機知と品の良さに富んだ演出、シャンタル・トマの要を得た変化を備えた舞台装置も見事だった。

 ところで今回の上演の版は、ケック校訂譜を基にしたものの由(パンフレットの岸純信氏の解説による)。レシタティーフ部分をセリフ形式に戻し、幕の順番は、第1幕をプロローグ、第2幕を「オランピア」、第3幕を「アントニア」、第4幕を「ジュリエッタ」、第5幕をエピローグとした構成だ。
 私の好みから言えば、「ジュリエッタ」のあとに「アントニア」を持って来た版の方が、その音楽の劇的な迫力ゆえに、ドラマを締め括るのには適していると思う。だが、今回の版のように「エピローグ」が長く━━終りかと思うと未だ先がある、というヤツだ━━ミューズがホフマンを抱いて己が勝利の悦びに浸るシーンで閉じられる演出となれば、それなりに良いバランスになることは理解できる。

 歌手陣。
 ロラン・アルバロが、議員リンドルフ、人形師コッペリウス、医者ミラクル博士、魔人ダペルトゥットを1人で歌い分け、長身と得意なマスクで、不気味な、すこぶる存在感のある悪役ぶりを披露してくれた。この「魔人」役の出来がこのオペラの舞台を左右するといっても過言でないだけに、彼の存在は大きい。
 もっとも、この4役を1人が歌うケースは、別に珍しいことではない。

 しかし、歌姫ステッラ、人形オランピア、胸を病む歌手アントニア、妖艶な美女ジュリエッタを1人のソプラノが歌うとなると━━それはドラマのテーマに完璧に沿ったものだとはいえ━━役柄の性格の違い、歌唱の性格の違い、歌手の負担の大きさからいって、至難の業であろう。
 今回はパトリツィア・チョーフィが見事にその役を果たしてくれた。第4幕では、第3幕にはあった反響版の役目をなす背景の装置が取り払われてしまったことも影響してか、声にもやや豊かな響きが薄まったような感じもあったが、それでもあれだけ歌えたのは立派というほかはない。
 それにしても、「オランピア」の場面では、あんなクレーンに乗せられて上下左右に振り回されながら、よく歌えたものである・・・・身体の位置が安定していないにもかかわらず朗々と歌えるというのは、凄い。

 詩人ホフマンを歌い演じたのは、アメリカ出身のジョン・オズボーン。演出のせいもあって、やや周囲の人物群の中に埋もれた傾向もなくはなかったが、声はいい。豊かで力のある、伸びのある最高音をこれでもかと連発し、絶好調の歌唱を聴かせてくれたのが何よりであった。
 その他、ミューズとニクラウスの2役を、ミシェル・ロジエがこれも容姿の良さを生かして見事に歌い演じていた。リヨン歌劇場合唱団も、もちろん量感のある歌唱で迫力を添えていた。

 上演時間は休憩を含め4時間に及んだが、長過ぎたなどという感の全く無い、卓越した上演であった。

7・8(火)山田和樹指揮スイス・ロマンド管弦楽団

   サントリーホール  7時

 スイス・ロマンド管弦楽団が久々の来日。

 ただし首席指揮者ネーメ・ヤルヴィは同行せず、首席客演指揮者となってまだ2年足らずの山田和樹が全公演を指揮した。珍しいケースだが、それだけ山田和樹の動向が日本で注目されているということだろう。
 つまり今回は「スイス・ロマンド管の来日公演」よりも、「山田和樹が、首席客演指揮者となったそのオーケストラを連れて来た」というニュアンスの方が濃い一連の公演なのである。
 それにしても、日本人若手指揮者が欧州で始めた新しい活動が、これだけ早く、こういう豪華な形で日本に紹介されるようになったのだから、時代も変わったものだ。

 今回の日本公演は、7月4日から12日までの間に8回。今夜が4日目の演奏会にあたる。プログラムは、藤倉大の「Rare Gravity」の世界初演に始まり、樫本大進をソリストに迎えたチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」が続き、第2部にはベルリオーズの「幻想交響曲」が置かれた。

 藤倉大の作品は、2013年にスイス・ロマンド管の委嘱により書かれ、山田和樹に献呈されたもので、今夜が世界初演なる由。愛娘の胎児時代をイメージして書いた音楽━━つまり母親の胎内の世界を想像し、それを描いた音楽なのだという。
 母の胎内での体験は、死後の世界と同様、だれ一人として実際には知らない世界だ。それゆえ、音楽が神秘的な曲想になるのも当然であろう。
 水の波紋が拡がり行くような開始部からずっと、水中で浮遊するような感覚に誘われる。作曲者が書いている「保護する水に囲まれて漂っているような感覚」は、間違いなく聴き手に伝わって来る。その「水」を含めた音楽全体の動きが時に激しくなるのは、胎児の蠢動なのか。そして恰も、これからの真の「生」に向かって躍動するような、突き上げるような昂揚の途上で突然音楽が終了するのも、興味深い。

 チャイコフスキーの協奏曲では、樫本大進が━━彼がここまでやるかと思うほどの濃厚で変幻自在な表情で飛ばして行くのが、たまらなく面白かった。ベルリン・フィルのコンサートマスターという最近の生真面目な仮面(?)をかなぐり捨てたかのような彼のソロを、久しぶりに聴いたような気がする。
 山田和樹がまた大胆なアゴーギグと芝居気で、煽ること、煽ること。第3楽章など、猛烈に速いテンポで、疾風怒濤の勢いで突き進む。こういう演奏を聴くと、彼がすでにオーケストラを完全に手中に収めているように感じないではいられない。
 気の合う友人同士である指揮者とソリストの協演ならではの演奏だ。コンチェルトの演奏がこれだけ聴衆の大歓声を浴びたことは、稀ではなかろうか。

 なお樫本は、アンコールでのバッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」からの「ラルゴ」でも、すこぶる微細で、表情の濃い演奏を聴かせてくれた。

 コンチェルトでこれだけ濃厚な演奏を聴かせてくれた山田和樹だから、「幻想交響曲」もさぞかし大胆劇的な演出が・・・・と期待したのだが、こちらは予想外にストレートなスタイルに終始した。オーケストラを劇的にたっぷりと鳴らした壮大な構築ではあったものの、山田なら、まだまだ先へ行けるはずである。
 とはいえ、欧州の海千山千の指揮者が集う名門オケを、若い客演指揮者がここまで制御し、活気ある演奏をつくり出したこと自体からして、すでに非凡な力量と言わなければならぬ。おそらく、あと10年もしないうちに、彼は名実ともに世界屈指の実力を備えた指揮者となるだろう。

 アンコールには、シュレーカーの「ロココ」からの「マドリガル」と、ビゼーの「ファランドール」が演奏され、終演は9時40分になった。

7・5(土)マーク・ウィッグルスワース指揮東京交響楽団

   サントリーホール  6時

 小菅優をソリストに迎えてのリストの「ピアノ協奏曲第2番」と、デ・フリーハー編曲によるワーグナーの「ニーベルングの指環」(「オーケストラ・アドベンチャー」版)。

 リストの「2番」は、かなり遅いテンポでじっくりと演奏された(普通なら20分弱だが、この日は25分くらいかかっていたのでは?)が、これは指揮者ウィッグルスワースのテンポというよりは小菅優のテンポか? ソロ・アンコールにおける「コンソレーション第3番」も相当遅いテンポだったから、彼女のテンポなのだろう。
 最近の彼女は、このような自己主張をいっそう強めているようである。ただ、かように沈潜したアプローチで演奏した場合に、リストのヴィルトゥオーゾ的なピアノと、それに呼応する管弦楽の性格が、巧く生かされるだろうか? 試みとしては興味深いが、成功しているかどうかについては、些か考えさせられるところもある。

 「オーケストラ・アドベンチャー」版の「指環」は、特殊な曲でありながらナマで聴く機会も不思議に多い。これまでにも3~4回聴いただろうか。
 だがこの曲、「指環」の音楽に詳しいワーグナー・ファンだったら、「ああ、(モティーフが)出て来た、出て来た」とか、「フム、ここへ繋げたか」などと思いながら愉しめるものだが、「指環」を聴いたことがほとんどないお客さんにとってはどうなのだろう?
 1時間もの長丁場でありながら、いろいろな「フシ」が、メドレーで「だらだらと」流れて行くだけの曲である。形式感がないので、メリハリや拠り所がない。それゆえ、退屈な曲だと思われはしないか、などと(余計な?)心配をしてしまうのである・・・・。

 ところで、今日のウィッグルスワースの指揮。やはりおとなしい「指環」だった。オペラのピットでの演奏ではないのだから、あんなに音量を抑えず、もう少しドラマティックにオーケストラを鳴らして「アドベンチャー」をやってもよかったのでは、と思う。

 それに、この人の指揮するワーグナーは、ちょっと変わっている。ワーグナー指揮者なら当然配慮するはずのライト・モティーフの扱いが━━当然ここで浮き彫りになるはずのモティーフが全然聞こえて来ない、というところがいくつかあるのだ。
 たとえば、ジークフリートが岩山に向かって進み行く場面で、「角笛の動機」ははっきり聞こえても、そのあとの「ジークフリートの動機」の断片が全然浮かび上がって来ない。
 また、「ライン河の場面」と「森のささやき」では、ゆらめく弦の音量を極度に抑えたため、かんじんの「波の動機」と「森の木々のざわめき」が全く浮かび上がらない。その結果、前者では管の「生成の動機」と「ライン河の動機」だけが、後者では鳥の声だけが聞こえるだけになってしまう。この構築は、「指環」の音楽の扱いとしては、根本的な誤りというに等しいのではないか?
 ただし「ジークフリートの葬送行進曲」の頂点におけるテンポは急がず安定して、適切だったと思われる。

 それにしても、「神々の黄昏」でのワーグナーの管弦楽法は流石に完璧であった━━たとえどれほど自然に演奏しても、音楽の色合いの変化や起伏、劇的な効果は、そのスコア自体が持つ力ゆえに、おのずから現われて来る。今夜の演奏は、それをまざまざと証明していた。

 プログラムには演奏時間70分と表示してあったが、実際は60分で終った。これはテンポの問題ではなく、デ・フリーハーの原曲から、「ジークフリートの角笛」(あの長いホルンのソロ!)の一部や、「ファーフナーの死」、あるいはジークフリートが炎に囲まれた岩山へ進む場面や、岩山の頂上場面の音楽などの一部がカットされていたためである。

 その件も含め、プログラムの曲目表示は━━CDの解説書から転用したと思われるが━━実際の編曲に即して、もう少し正確にやっていただきたかった。また解説も、4部作のストーリーだけ紹介するのではなく、どの音楽がどう取り上げられているかについて具体的に触れておいた方が、お客さんに対して親切だったろうと思う。
 なお解説文には「(フリーハーが)各場面の接続を新たに作曲している」と書かれていたが、実際は、「作曲」されたのはほんの一部分にすぎない。ほとんどはワーグナーのオリジナルをデ・フリーハーが巧みに接続しているのである。たとえば「魔の炎の音楽」から「森のささやき」に移行する個所など、実に見事なアイディアというべきだろう。
    音楽の友9月号 演奏会評

7・4(金)リオール・シャンバダール指揮ベルリン交響楽団

  サントリーホール  7時

 運命・皇帝・エグモント━━というプログラムは、流石に強力である。まして、オーケストラにベルリンという名がつけば尚更だ。ほぼ満席であった。

 このオーケストラは、旧西ベルリンに1966年創立された団体。昔ザンデルリンクらが指揮していた東独のベルリン交響楽団(現ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団)とは異なる。
 今回の来日ツアーは6月14日から7月6日までの期間。ベートーヴェンの交響曲がプログラムの中心になり、栃木では2日間4回の演奏会で、「第9」を含む全9曲が取り上げられたそうだ。今夜も全ベートーヴェン・プロで、「皇帝」のソリストは及川浩治。前記3曲の演奏は、言うまでもなく、逆の順序である。

 言っちゃ何だが、今どき珍しいほどのゆるキャラ的演奏だ。アンサンブルをピタリと合わせるなどという発想は、この指揮者にとっては全く重要でないらしい。
 「運命」の冒頭の8分音符3つが4つに聞こえた━━なんてのは笑い話の世界だと思っていたが、今日の演奏では、4つとまでは行かぬまでも、3・7くらいには聞こえたのではなかろうか。
 第3楽章後半での弦のピッチカートは、それぞれが自由にやっているといった感だし、第4楽章最後の3本のトロンボーンは明らかにずれて、ダダーンという2連発になっていた。

 今日がツアーでの7回目の演奏だから、練習不足のはずはない。意識的に鷹揚なのか、でなければルーティン演奏でいい加減、ということになるだろう。
 アンコールは「ペール・ギュント」の「朝」(何でいきなりここにグリーグが?)、「フィガロの結婚」序曲、ブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」、エルガーの「エニグマ変奏曲」からの「ニムロッド」だったが、「フィガロ」のコーダで弦が細かい動きでクレッシェンドする個所など、あまりにバラバラなので、失礼だが吹き出してしまった。

 ただ、こういうことで音楽が滅茶苦茶になったかというと、そこはそれ、伝統豊かな音楽都市ベルリンのオケの強みというのか、何となく雰囲気でまとめてしまうのだから、羨ましい話だ。つまり、気にさえしなければそれなりに、という形にはなっているのである。

 しかし、こういうスタイルの指揮者とオケだから、及川浩治が異様なほどの猛烈なヴィルトゥオーゾ的な勢い(これにも大きな疑問がある)で弾きまくった「皇帝」での、ソロとオケとのどうしようもないアンバランスな組み合わせは、私には耐え難かった。もっとも、オケのアンサンブルは、ソリストとの対抗ゆえか、この「皇帝」がいちばんまとまっていたが・・・・。

7・2(水)ラモン・オルテガ・ケロ・オーボエ・リサイタル

   浜離宮朝日ホール  7時

 昨日はコロ(Kollo)で、今日はケロ(Quero)━━昔だったらクエロとでも表記しただろうが、こちらは1988年スペイン生まれのオーボエ奏者。
 2007年のミュンヘン国際コンクールで、1967年のモーリス・ブルグ以来40年ぶりの優勝者として注目され、翌年20歳でバイエルン放送響の首席オーボエ奏者に迎えられたという逸材だ。

 アニカ・トロイトラーのピアノとの協演で、サン=サーンスの「オーボエ・ソナタ ニ長調」、フーゴ・シュンケの「アンダンテとボレロ」、プーランクの「オーボエ・ソナタ」、シューマンの「幻想小曲集 作品73」、ファリャの「恋は魔術師」(タルクマン編曲)、ボルヌの「カルメン幻想曲」というプログラム。

 私はオーボエについては詳しくないので、知ったかぶりをしてあれこれ書くのは避けるが━━先日リリースされたジャニーヌ・ヤンセンが弾いたバッハの「協奏曲とソナタ」(デッカ UCCD-1391)でケロが協演しているのを聴いた時に、所謂ソリストとして華麗なオーボエをひけらかすのでなく、随分正確にアンサンブルとして「合わせる」人だなと思ったことがある。
 ドイツのオケの首席をやっている人ならそれも当然なのだろうが、今日のリサイタルでも、ことさらにソロの腕を披露するというより、あたかもピアノとのデュオ・リサイタルというイメージの演奏を聴かせる人に感じられた。
 プログラムの終り近く、同国の作曲家ファリャの作品に至ってやや華麗な味が出て来たけれども、━━26歳の若者なら、リサイタルの時にはもっと跳ねてもいいのではないか、という気もする。いや、これは余計なことかもしれない。

7・1(火)ルネ・コロが歌うシューベルトの「冬の旅」

  紀尾井ホール  7時

 一代の名テナー、ルネ・コロの「さよなら世界ツアー」と銘打たれているが、この種のものの常として、ご本人は「まだ引退なんかせんよ」とか意気盛んなる由(ドイツからの情報による)。
 ともあれ、御年77歳。これだけ歌えるのは、ただもうご立派というしかない。バリトンの音域で歌っていながら、声質は見事にテナーであるというところも凄い。

 ルネ・コロが歌うシューベルトの「冬の旅」といえば、2003年にレコーディングされた━━それが彼の最初の歌曲アルバムだったが━━「新解釈」による歌唱が印象に残っている。それは失恋した若者が怒りに燃え、早足で恋人の家を去って行くという解釈のもとに、猛烈に速いテンポで歌い始められる「冬の旅」だった(エームズ・クラシック OC-904)。

 だが今回の来日公演では、テンポこそやや速めではあったものの、そういう大胆なアプローチではなかった。ではどういう解釈だったかというと、今のところ私にもしかとは解らない。ただ、以前のCDにおけるものよりはずっと落ち着いた感情の歌唱に変わり、比較的ストレートに歌われ、しかもあまり厭世的にならず、行く道の彼方には新しい希望が垣間見えるといったような・・・・つまり若い、温かい感情をも湛えた「冬の旅」だった、ということにでもなろうか。

 とにかく、声の衰えのことを言い出したら、どうしようもない。歌い方にも独特の癖がある。だが、ルネ・コロの全盛期のあの見事なジークフリートやトリスタン、タンホイザー、ローエングリンに魅了されていた私たちの世代からすれば、ルネ・コロは、やはり今でもあのルネ・コロなのである。
 そんな感情は、ファンのそれであって、批評家のそれではない━━と言われればその通りだが、理屈通りには行かぬものである。

 なおアンコールが1曲、シューベルトの「夕映えの中で」が歌われた。申し遅れたが、ピアノの協演はミヒャエル・ベルター。

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