2017-03

6・30(月)大野和士指揮フランス国立リヨン歌劇場管弦楽団

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 大野和士が首席指揮者として率いるリヨン歌劇場は、7月5・7・9日にオッフェンバックの「ホフマン物語」を上演する(オーチャードホール)が、それに先立ちオーケストラ・コンサートをも開催している。
 今日のプログラムは、ルーセルの「バッカスとアリアーヌ」第2組曲、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」と「ダフニスとクロエ」全曲。リヨン歌劇場合唱団が協演した。

 「バッカスとアリアーヌ」をナマで聴いたのは久しぶりだ。1960年にミュンシュとボストン響が日比谷公会堂で演奏したのを聴いてからこのかた、せいぜい4回程度しかステージで聴いたことがない。最も好きな演奏は、マルティノンがシカゴ響を指揮したディスクのそれだが、それと同程度に私を満足させてくれた演奏は、ナマでもディスクでも、残念ながら皆無といっていい。
 だが今夜、大野と「彼のオーケストラ」が演奏した「バッカスとアリアーヌ」は、ノーカットで演奏されたことを含めて、なかなか充実したものであり、愉しめるものだった。昂揚と鎮静を何度か繰り返しつつ、次第にテンポを速めて頂点の「バッカスの狂乱」に持って行く大野の設計が、非常に自然で流れも良く、巧いのである。

 それ以上に素晴らしかったのは、やはりラヴェルの2曲だ。
 今日の演奏曲目は、いずれもバッカナーレ的な頂点に達する性格のものばかりであり、これらすべてにおいて熱狂が繰り返されていたら過剰な美食だな、と思っていたのだが、そこはさすが大野和士である。「ラ・ヴァルス」が、極めて均整のとれた、過度な騒乱に陥らぬ巧みな抑制を以って構築されていたのには感嘆させられた。ここで力を矯めておき、最後の長大な「ダフニスとクロエ」に続ける意図があったのだろう。
 オーケストラのバランスの良さは見事なほどで、弦の瑞々しさもさることながら、木管群の一種艶めかしい音色など、やはりフランスのオケだな、という感があった。後半の頂点に向かってクレッシェンドして行く、その呼吸もすこぶる見事である。

 「ダフニスとクロエ」全曲でも、大野の音楽づくりの自然な流れの良さが、さらに印象づけられる。特に前半では、あの断続する音楽が、実になだらかに、生き生きと息づいて流れて行くのに、これまた感嘆させられた。オーケストラの緻密な均衡と、音色の美しさもいい。いわゆる豪華絢爛というタイプではなく、華美に過ぎることもない音だが、ラヴェルの音楽にふさわしく、充分にブリリアントな音である。

 このオペラシティコンサートホールのアコースティックは、オーケストラの最強奏には時々難しいものがあるのだが、そのホールをこれだけ爽やかに響かせたというのは、賞賛されていいだろう。このオケだって、いつもこういう演奏をしてばかりいるわけではないはずだし、いつかリヨンの歌劇場で聴いた時はかなりルーティン的な、雑な演奏をしていた。だが、本気になればこれだけの演奏ができるということが、やはりオケの水準の高さを証明するだろう。そしてフランスのオケによくある「暴れ馬」的な癖を抑え、緻密で繊細な均衡をつくり出したのは、やはり日本人指揮者たる大野の個性━━なのではなかろうか。

 アンコールは、フォーレの「シシリアーノ」と、ビゼーの「ファランドール」。次から次へとフランス音楽が出て来る。音楽の宝庫だな、といった感である(この4人の作曲家の背後にある美しい魔窟のようなフランス音楽の巨大な世界を考えると、圧倒されてしまう)。
 なお今日は、上野星矢が、このオケの首席フルート奏者としていくつかの個所で素晴らしいソロを聴かせてくれた。
     音楽の友8月号 演奏会評

6・29(日)オペラ「アイナダマール」プレコンサート

   日生劇場  2時

 日生劇場が11月15・16日に広上淳一の指揮と粟国淳の演出で初演するオスバルド・ゴリホフ(アルゼンチン出身)のオペラ「アイナダマール(涙の泉)」のプレ紹介コンサート。
 といっても、オペラを抜粋して紹介するといったタイプのものではない。このドラマの主人公ともいうべきスペインの詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカの芸術を紹介することに重点を置いたイヴェントであった。

 コンサートでは、ロルカの詩に作曲された曲や、ロルカが蒐集したスペイン民謡などを、フラメンコのダンスを織り交ぜながら演奏、その間をロルカの詩の朗読などで繋ぐ。最後に1曲だけ、オペラからの3重唱を演奏するという具合だ。
 オペラ側からは飯田みち代、清水華澄、馬原裕子が出演していたが、やはり今回は、石塚隆充(フラメンコの歌)と伊礼彼方(ロルカ役の朗読)をはじめ、アントニオ・アロンソ、朝日千晶、伊藤拓、伊集院史朗、吉田久美子らの踊り手たち、それに舞台上に配置された智詠(ギター)ほかの奏者たちの活躍が格段に映えた。
 オペラを聴きに行ったつもりが、フラメンコを堪能して帰って来た、というコンサートである。

 作曲者のゴリホフも来日していて、終演後にアフタートークを行なってくれた。感動的な話が最後にやっと出ては来たものの、司会兼インタビューアーは、もう少し控えめにした方がよい。
 おしなべて音楽学者たちが司会をやると、その博学知識ゆえに、自分の考察をまず延々と弁じてから「・・・・と思うのだがこれについてあなたの考えはどうか」式の進行になることが多い。司会者やインタビューアーの役目は、何よりも相手を尊重して気持よく語らせ、良い話を最大限に引き出すことにある。司会者がその場を借りて自ら演説講演してしまうようなことがあってはいけない。

 それにしても、日生劇場が、新作の初演に先立ってその作品への理解を深めるべく、このようなプレ・イヴェントをしばしば開催しているのは、賢明というべきであろう。昨年と一昨年、一般にはなじみのないライマンのオペラの上演の際にも、これが大きな効果を上げていたのであった。

6・28(土)飯森範親指揮山形交響楽団 東京公演

     東京オペラシティ コンサートホール  6時

 恒例の、いわゆる「さくらんぼコンサート」である。入場者には抽選で山形のさくらんぼが贈呈されるほか、ホールのロビーには山形の名産物がずらりと並べられ、休憩時間には威勢の良い売り声(!)が客の購買意欲を誘う。カーテンコールで音楽監督・飯森自身が聴衆に「次は山形へどうぞ」と呼びかける。これぞ地方都市オーケストラの鑑━━だ。

 今年のプログラムは、シューベルトの「未完成交響曲」、ドゥヴィエンヌの「フルート協奏曲第7番ホ短調」、ベートーヴェンの「英雄交響曲」。アンコールは「(終演時間が延びて)もう遅いので、今年はやりません」と飯森(客席からは落胆の笑声)。

 オーケストラの編成は「8型」(第1ヴァイオリン8人)編成という小ぶりだが、音量は非常にたっぷりしていて、このホールを鳴らすにも充分のものがある。
 山形で7年越し開催しているモーツァルト・ツィクルス「アマデウスへの旅」の成果を示すことと関連させる意味か、演奏にはナチュラル・ホルンやナチュラル・トランペットの使用を含めてピリオド楽器奏法が使われたが、その響きも極めて優れたものであった。

 ステージにあふれるブリリアントな音色は、昔のあの地味なイメージの山響からは予想も出来なかったほどの素晴らしさである。よくぞここまで「意気軒昂なオーケストラ」に変貌できたものだ。これは、音楽監督・飯森範親のたぐいまれなリーダーシップはもちろん、事務局スタッフや楽員の頑張りのたまものにほかならないだろう。

 プレトークにおいて飯森は、ホルンとトランペットとトロンボーンの奏者たちを舞台に招き、実際に奏法や音色を例示させたり、奏者に解説させたりして、ピリオド楽器の特徴を解り易く示していた。これも実に懇切丁寧な方法であった。

 なお協奏曲のソリストは南部やすか。音色は綺麗だが、全ての音をレガートあるいはテヌートで、しかもイン・テンポで単調に吹き続けるので、オーケストラのリズムの躍動と全く遊離した演奏になっていたのが気になった。
 「英雄交響曲」フィナーレのコーダは、見事な昂揚感。

6・28(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団

    サントリーホール  2時

 インキネンの「シベリウス&マーラー・ツィクルス」の続編。

 シベリウスは、交響詩「夜の騎行と日の出」だった。これが日本で演奏会のプログラムに取り上げられるのは珍しいだろう。シベリウス・マニアの私には、千載一遇の好機。夜明けのくだりにおける4本のホルンは、実にふくよかで豊かな音色だった。日本フィルのホルン・セクション、なお健在。喜ばしいことだ。

 マーラーは、「交響曲第6番《悲劇的》」が取り上げられた。使用されたのは、もちろん、広く流布している国際マーラー協会版楽譜による、アンダンテを第3楽章に置いた版のはずだが、第4楽章でのハンマーは、マーラーが削除した3回目のものが、元の個所に復活されていた。改訂版を使いながらこのようにハンマーを3回たたかせる指揮者は、何だかこのところ少なくないようである。

 それにしても、この「6番」におけるインキネンと日本フィルの演奏の見事さ━━。数年前までの日本フィルの荒れた演奏のことを思い出すと、夢のようである。ここぞという時にここまでの演奏ができるのだから、やはり日本フィルの実力水準の高さは証明されているだろう。
 管も弦も充実している。日橋辰朗のホルンはまろやかであり、オッタビアーノ・クリストーフォリのトランペットは相変わらず輝かしい。弦楽セクションには豊かな厚みがあり、金管群や打楽器群の咆哮に些かも引けを取ることなく、たっぷりとした音で鳴り続ける。第3楽章での豊麗な歌は驚異的な出来だし、第4楽章でも壮烈なエネルギー感にあふれた驀進が展開される。

 インキネンがつくり出す音の構築も、小気味よいほど明晰だ。いかにも彼らしく、演奏には暗いデモーニッシュな凄みといったものはないが、といって、味も素っ気もない乾いた演奏ではないし、冷徹な演奏でもない。実に精妙で瑞々しい、整然たる熱狂なのである。第3楽章にあふれていた生気と肉感は、インキネンがここまでやるかと思えるほどの濃厚な美しさであった。

 それにもう一つ、感嘆したというか、驚いたというか━━、第4楽章のあの猛烈な音楽のさなかにさえ、インキネンは決して闘争的な身振りの指揮にならず、驚くほど柔らかい身体の動きを以って、むしろ軽々とした身振りで指揮していることだった。だがオーケストラは、ほとんど狂乱的な激しさで演奏を続けている。客席から見ていると、それは指揮者とオーケストラの完璧な信頼関係を示しているように感じられたのだが、━━楽員のみなさんからすれば、どうだったのだろう? 
 この「6番」は、最近の日本フィルの演奏の中でも、傑出したものであった。

6・27(金)川瀬賢太郎指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団 「復活」

    横浜みなとみらいホール  7時

 これは神奈川フィルの300回記念定期。マーラーの「交響曲第2番《復活》」で、先頃常任指揮者に就任したばかりの川瀬賢太郎が指揮、神奈川フィル合唱団と、秦茂子(ソプラノ)および藤井美雪(アルト)が協演していた。

 川瀬はまさに渾身の指揮、精魂込めた大奮闘という感である。彼らしく緻密な設計ではあるが、その中にマーラーの激情と叙情が対比する起伏の大きな響きを精一杯に引き出そうとしていたことは充分に感じ取れた。オーケストラの特性も相まって、細身の神経質なマーラー像とでもいうべき「復活」になってはいたが、第3楽章での流麗な主題の動きの個所などは、すこぶる美しいものがあった。弦楽器群がもっとたっぷりした厚みを出していれば、打楽器の強奏が突出することなく、演奏全体にも作品本来のスケール感が備わったであろう。

 いずれにしてもこれは、先日のブラームスの「1番」などと同様、川瀬の新しい境地を示す指揮であった。若い彼が常任指揮者としてさまざまな困難を克服し、自己の理想に向かって突き進めるよう、声援を送りたい。

6・26(木)イザベル・ファウスト&アレクサンドル・メルニコフ

   東京芸術劇場コンサートホール  7時

 都民劇場公演。モーツァルトの「ソナタ第29番イ長調K305(293d)」、シューベルトの「幻想曲ハ長調」、シューマンの「3つのロマンス」、ブラームスの「ソナタ第3番ニ短調」というプログラム。
 そしてアンコールは、後半のプログラムのシューマンとブラームスに合わせ、彼らの共同作曲による「F・A・Eソナタ」から、シューマンによる「インテルメッツォ」と、ブラームスによる「スケルツォ」。━━見事な取り合わせだ。

 イザベル・ファウストの演奏は、先日のコンチェルトの時とは些かニュアンスを変えて、厳しい集中性にあふれた世界をつくり出していた。精妙で生気に富んだ表情と、瑞々しさと鋭さが共存する音色が見事だ。モーツァルトとシューベルトをこれほど張りつめた美しさで演奏するヴァイオリニストは、決して多くはないだろう。
 シューマンの「ロマンス」では、ヴィブラートをほとんど使わずに、直線的な旋律構築を行なっていたが、この曲がもとはオーボエとピアノのための作品だったことを思えば、いっそう興味深い。
 最後のブラームスのソナタにいたって、それまでの緊張からついに解放される。変な言い方だが、私はブラームスの室内楽を聴くと、この人の室内楽こそはまさに「正真正銘の室内楽」なのだな━━という気持になってしまうのだ。

 惜しむらくは、2人の演奏には、このホールはいかにも大きすぎること。なにしろ、演奏された曲のうち、ヴィヴァーチェ的な曲想のものはほとんどない上に、大きな音といえば僅かにブラームスのソナタの第4楽章と「スケルツォ」だけだからである。言っても詮無いことだが、これはやはり、中規模ホールで聴くべき演奏だったかもしれない。

6・25(水)ヤクブ・フルシャ指揮東京都交響楽団

  東京芸術劇場コンサートホール  7時

 首席客演指揮者ヤクブ・フルシャ(チェコ出身)の、今回はまさに本領が発揮された演奏会だった。
 プログラムは、オネゲルの「パシフィック231」、ピオトル・アンデルジェフスキをソリストに迎えたバルトークの「ピアノ協奏曲第3番」、最後がストラヴィンスキーの「春の祭典」。33歳の気鋭の指揮者は、やはり近・現代のレパートリーを手がけると、見事である。

 「パシフィック231」は、最大速力を出すまでにちょっと時間のかかる、出足の悪い機関車だったが、そのわりにあまり怪物的でない、軽量級の機関車でもあったようだ。

 「春の祭典」は、文字通りエネルギー全開の狂乱。豪快な力感にあふれた構築ながら、細部まできっちりとまとめられた演奏だ。【149】からの8分の2拍子と8分の3拍子が交互に出て来るくだりでアクセントとデュナミークを変化させ、漸弱気味に奏させた手法は、以前、だれかの指揮でも聞いたような気がするが、面白い。
 阿鼻叫喚の大詰は、猛速ながら一糸乱れず、ホールも揺らぐばかりの大音響の裡に驀進を続けてクライマックスを築く。都響の演奏は完璧であり、見事の一語に尽きる。

 フルシャは、バルトークの協奏曲でも、卓越した演奏を都響から引き出した。第2楽章では強い集中力で沈潜させ、第3楽章大詰では例のないほど熱狂的な昂揚をつくり出した。アンデルジェフスキのソロがまた、途方もなく物凄い。これだけ多彩で深遠で気宇壮大な「3番」は、滅多に聴けないだろう。
       ⇒音楽の友8月号 演奏会評

6・23(月)ゾルタン・コチシュ指揮ハンガリー国立フィル

    サントリーホール  7時

 音楽総監督ゾルタン・コチシュの指揮による来日公演の、今日は初日。
 コチシュの管弦楽編曲版によるリストの「ゲーテ記念祭の祝祭行進曲」に始まり、金子三勇士をソリストにしたリストの「ピアノ協奏曲第1番」が続き、ブラームスの「交響曲第4番」で締められる。アンコールにはブラームスの「ハンガリー舞曲」から「第1番」と「第10番」が演奏された。

 例の如く、元気のいいステージ姿のコチシュ。このオーケストラの音楽総監督になってから、もう17年になる。気心知れた仲の、手慣れた協演といった雰囲気だ。

 ブラームスの「1番」の第3楽章【B】の個所では、クラリネットが2小節マルマル落ちるという珍しい事故もあったが、演奏そのものは骨太な構築の、ストレートなアプローチである。
 このところ続けざまに聴いて来たハーディングやノットの指揮のようなあざとい(?)ブラームスのあとで、このような落ち着いたトラディショナルなブラームスを聴くと、何か刺激に乏しく感じられてしまう傾向もあるが、その代り、この交響曲を昔初めて聴いた頃に抱いたような感覚がなまなましく蘇って来るから不思議である。原点に戻れるという、これもまた一つの喜びだ。

 「ゲーテ記念祭の祝祭行進曲」は、チャイコフスキーの「第4交響曲」冒頭そっくりの編曲に始まる。なかなか聞けない曲で、貴重な体験だったが、あまり面白くない。
 リストのコンチェルトでは、若い金子三勇士(かねこ・みうじ)が成長を示す演奏を聴かせてくれたが、知人のある評論家が「日本にいるとどうしても演奏が平板になって来るから、また外国に行った方がいい」と漏らした感想も、やはり当たっているだろう。

6・22(日)新国立劇場 池辺晋一郎:「鹿鳴館」(再演)

  新国立劇場 中劇場  2時

 尾高忠明芸術監督の任期におけるシーズン・オペラ上演の、今日は最終日。氏自身の指揮するオペラが結局聴けなかったのは残念ではあったが、とにかく、お疲れさまでした。

 「鹿鳴館」は、4年前の6月にプレミエ上演されたもの。再演の今回は、指揮が飯森範親、オケが東京フィルである。
 前回の沼尻=東京響はどちらかというと鋭角的な表現の演奏だったように記憶するが、今回の飯森は、彼らしく骨太で力感に富んだ響きを主体とした演奏をつくり上げた。東京フィルも明晰で張りのある音を響かせ、好演だった。

 配役は今回もダブルキャスト。今日の組には、影山伯爵が与那城敬、朝子夫人が腰越満美、清原永之輔が宮本益光、その子・久雄が鈴木准、大徳寺侯爵夫人・季子が谷口睦美、その娘・顕子が幸田浩子、女中頭・草乃が与田朝子、宮村陸軍大将夫人・則子が鵜木絵里、坂崎男爵夫人・定子が池田香織、━━といった、錚々たる顔触れがそろっていた。

 日本人歌手が日本人役を演じるのだから、演技の上でもみんな見事である。
 特に全篇出ずっぱりに近い朝子役の腰越満美は、しとやかさと気品とを兼ね備えて、鮮やかな存在感というべきだろう。清原を説得する場面での硬軟取り混ぜての表情など、舌を巻くほど巧い。
 影山伯爵役の与那城敬は、前回観た黒田博(今回も別の組に登場していた)のような威圧的な凄みには不足するのがちょっと惜しいけれど、良いものを持っている人だから、これは年輪を積めば解決できるはず。なお彼、「権力者が威圧的に」相手を「指さす」演技のところで、掌を「上に向けて」出してしまうというオペラ歌手独特の癖を出していたが、これは迫力を欠く動作ではなかろうか。

 このプロダクションの演出は、鵜山仁。
 前回(2010年6月24日)にも書いたが、文明開化を追う日本人を風刺する面(戯画的な舞踏の場面)と華族社会の人間的しがらみとを巧みに対比させた舞台は━━原作の三島由紀夫の美学と合致するかどうかは別として━━なかなか秀逸なものである。今回は少し演出を変えたか? 前回の舞台の細部に関する記憶が覚束ないので、どこがどうとまではうまく言えない。ただ今回、第4幕で壮士たちが乱入する個所などはやや抽象的になっていたが・・・・。

 池辺晋一郎の音楽に関しての印象は、前回書いたものをかなり修正しなくてはならない(もちろん良い方向へだ)。最初に聴いた時には判らなかった美点に、2度目に聴いた時にやっと気がつくことがある・・・・とは、誰だったか有名な大作曲家も言っていた言葉だ。今回、注意深く聴き直し、歌詞との関連や、管弦楽配置などに関し、非常に細かいニュアンスにあふれていることに改めて気づき、遅まきながら感嘆した次第である。
 実は私は不遜にも、彼のオペラに関しては「じゅごんの子守唄」以来、正直なところ、ある種の偏見を持っていたのだ(あれはスコアを手に入れて綿密に研究したつもりだ)。だが、━━この「鹿鳴館」は、彼の代表的なオペラたりうる作品ではなかろうか。

 なお今回の上演では、どの歌手も、程度の差こそあれ、歌詞の発音の明晰さが印象に残った。腰越と宮本は特に見事だったが、与那城も「妻のこと」を皮肉っぽく語る個所で非常に細かい芸当を聴かせてくれた。これらは、歌手たちの努力ももちろんだが、指揮者の飯森の上手い音楽上の処理、それに何より作曲者の池辺のスコアの書き方の巧さに由るところも多いのでは、という気もする。

6・21(土)サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン2014
キュッヒル・クァルテット ベートーヴェン・サイクルⅥ

   サントリーホール ブルーローズ(小ホール)  7時

 フェスティバルそのものは明日の「フィナーレ」を残しているが、キュッヒル・クァルテットのサイクルとしては今夜が最終回。
 「弦楽四重奏曲第6番」の他、「ピアノ・ソナタ第9番」の原曲(ピアノは河村尚子)とその作曲者自身による弦楽四重奏曲編曲版が演奏され、最後に「弦楽五重奏曲ハ長調 作品29」が取り上げられた(第2ヴィオラは店村眞積)。アンコールには、今夜はブラームスの「弦楽五重奏曲第2番」から第2楽章と第3楽章(私は第2楽章まで)。

 客席は文字通り超満員。楽日ならではの盛り上がりに、ゲスト奏者が入っての好演も影響したか、演奏も━━細かい所はともかく━━充実のステージ。このサイクル、半分しか聴けなかったが、いい演奏会だった。

6・21(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

   東京オペラシティ・コンサートホール  2時

 バッハ~ウェーベルンの「6声のリチェルカーレ」に始まり、藤倉大の「5人のソリストとオーケストラのための《Mina》」、ハイドンの「交響曲第44番《悲しみ》」と続く。休憩後はブラームスの「第4交響曲」。

 ノットと東京響の今日の演奏は、先日のサントリーホールでのそれとは逆に、極めて鋭角的だ(今日のコンマスはグレブ・ニキティン)。1階席で聴けばまた違うニュアンスに聞こえたかもしれないが、2階正面最前列で聴いた範囲では、弦の音色も冷徹なほどに冴えていて、作品の性格が厳しい佇まいで浮かび上がって来るのが感じられる。

 ハイドンの交響曲など最たるもの、小編成のノン・ヴィブラートの弦が歯切れよく、切り込むような鋭さで躍動する。私はもともと、ハイドンやモーツァルトの交響曲はシャープなスタイルの演奏で聴くのが好きなのだが、ここまで冷厳な構築で演奏されると少々面食らってしまう。だが、しかしノットの考えと、早くも柔軟に対応している東京響と━━の面を併せて聴くと、実に興味津々たるものがある。

 ブラームスでも同様、第1楽章が始まった時には、こんなにピリピリした冷たい「4番」を終りまで聴くのはたまらない━━と少々たじろいだほどだったが、同楽章コーダあたりからは、その厳然として隙のない音楽の構築や、剛直な力感、頂点に向け突き進む強靭なエネルギー感などに、すっかり引き込まれてしまっていた。
 好きなブラームスのタイプではないけれども、しかし実に立派な演奏であり、ブラームスの交響曲のひとつの新鮮なありようを表すものとして、素晴らしいものだと思う。ノットと東京響の協同作業の今後の可能性に、また新たな期待を抱かせる演奏であった。

 藤倉大の新作は、演奏時間15分ほどのもので、ソリスト5人が活躍する━━相澤政宏(フルート)、荒絵理子(オーボエ)、エマニュエル・ヌヴー(クラリネット)、福井蔵(ファゴット)、ネイサン・デイヴィス(ハンマーダルシマー)。このうち、デイヴィスだけは客演奏者だ。
 作曲者自身による解説を読むと、愛娘の誕生にインスピレーションを受け、その幼児の表情の変化を描こうとしたものだとのこと。いわば現代版「家庭交響曲」の趣だが、そういう標題(?)に拘らずに単に音として聴いていても、5つのソロ楽器とオーケストラが交錯するその色彩感がすこぶる魅力的であった。

6・20(金)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィル

    すみだトリフォニーホール  7時15分

 ハーディング人気ももちろんあるだろうが、とりわけ今回の定期にはイザベル・ファウストが登場してブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」を弾くので、これまた大変な人気を集めていた。金曜夜のコンサートにもかかわらず完売の由。客席も本当に埋まっていたようである。

 それにしても、イザベル・ファウストの演奏は、壮絶だ。切れば血の出るような張り詰めた緊迫感に充ちている。強烈な個性と、音楽の気宇の大きさを備えた女性ヴァイオリニストという点では━━これは私の主観で言うのだが━━コパチンスカヤを凌ぎ、ヒラリー・ハーンと双璧の存在ではなかろうか。

 かくもエキサイティングなブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」の演奏は、そう多くはないだろう。重厚晦渋なブラームスのイメージは払拭され、情熱のありたけを噴出させるブラームスの姿が立ち現れる。それは決して晴朗ではなく、どこか神経質なところもあるブラームスだが、しかし気魄満々だ。嵐のような勢いで飛び込んだ第1楽章のカデンツァは、ブゾーニのそれ。ティンパニのトレモロに乗ってソロが展開する。実に面白い。

 両端楽章はかなりの速いテンポだ。これは、ハーディングのテンポか、ファウストのテンポか? 演奏時間は、もしかしたら40分くらいだったかもしれない。
  とにかく、ハーディングがオケを煽ること、煽ること。 新日本フィルとの演奏では、これまで概して穏健なアプローチにとどめて来たハーディングも、いよいよオケとの呼吸が合って来たと見たか、ついにその本性を表し、細かい部分に強調や趣向を凝らし、いい意味での効果的演出を発揮し出したようである。
 第1楽章終結での最後から2番目の和音だけを延ばし気味にしたり、あるいは第3楽章第89~93小節のホルン群をフォルティシモで咆哮させたり━━ここでのハーディングの煽りたるや、ケネディと組んだテンシュテットのようにホルンの音こそ割らなかったが、そのかみのハイフェッツと組んだライナー=シカゴの演奏もかくやの猛烈さだった━━などは、ほんの目立った例に過ぎない。
 すべての意味で、新鮮な演奏であった。

 後半は、ブラームスの「第4交響曲」。ここでも、いたるところにデュナミークやリズムの細かい彫琢が聞かれる。編成の大きな新日本フィルゆえ、マーラー・チェンバー・オーケストラのような鋭角的なニュアンスというわけには行かないが、それでもハーディング節が明確に顔を出しはじめたように感じられる。枯れて落ち着いた「4番」でなく、激動する「4番」は、スリリングで面白い。

 なお第1楽章のある個所で、第1ヴァイオリンのボウイングのアップ・ダウンを、プルトの内と外で逆にしていたようにも見えたが、こちらが指揮者ばかり見ていたのと、席も1階だったからあまりはっきりと確認はできなかった。どなたかご教示を賜れば幸いである。ただし客席の「遠方で」聴いた限りでは、特に明快な音色の変化は感じられなかったけれども。

6・19(木)サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン2014
キュッヒル・クァルテット ベートーヴェン・サイクルⅣ

    サントリーホール ブルーローズ(小ホール)  7時

 「第4番」「第10番《ハープ》」「第15番」の3曲。

 ほぼ満席である。シリーズ全部を聴いているという人もおられたし、毎年異なった弦楽四重奏団が出演するこの全曲連続演奏会を毎年聴いているという人もおられた。1曲たりとも同じ作風を示すことはないベートーヴェンの16曲の弦楽四重奏曲だ。その多様な性格を短期間にライヴで集中的に享受できるのは、本当に素晴らしいことだ。

 リーダーのライナー・キュッヒル。オーケストラの演奏会の時より、いっそう怖い顔で弾く。近頃、弾いている時の顔が、フルトヴェングラーを丸顔にしたような感じに見えて来た。演奏が時にぐらりとするけれどもすぐパッと立ち直り、独特の滋味でカバーしてしまう老練な名人芸はいつもながらのものである。「自分だけ勝手に弾く第1ヴァイオリンは面白い」と言った人がいた。それは言葉の妥当性を云々するより、一種の言葉の綾と受け取るべきだが、穿った表現である。勝手だろうと自由だろうと、それらを豊潤な音楽の中に呑み込んでしまうところが、このウィーン・フィルのメンバーの凄いところだろう。

 だがキュッヒルが、リーダーとして音楽を追い込み、盛り上げて行くべき時にみせる強靭な牽引力は、たとえばあの「ハープ」の第1楽章コーダで、存分に発揮される。【N】以降、延々25小節にわたって第1ヴァイオリンが烈しい動きを繰り返すくだりは、音楽を聴いても、ステージ上での奏者の身振りを見ても凄い迫力の個所だが、ここをあの速いテンポで完璧に押し切り、音楽を見事に昂揚させて行ったのは、やはり練達の名手ならではのワザであろう。

 しかし、今夜の演奏で最も感動的だったのは、「第15番」の頂点個所ともいうべき、全曲の3分の1以上を占める第3楽章である。深遠な美しさだ。実に温かい、ヒューマンな「感謝の歌」であった。

6・17(火)飯守泰次郎指揮東京フィルハーモニー交響楽団 
   R・シュトラウス名曲集

    サントリーホール  7時

 誕生日(6月11日)からは1週間ずれたが、生誕150年を迎えているリヒャルト・シュトラウスの作品を集めた定期。所謂名曲集である。
 「ドン・ファン」、「4つの最後の歌」、「サロメ」の「7つの踊り」、「カプリッチョ」から「序奏」と「月光の音楽」、「ばらの騎士」組曲。
 このうち、「序奏」(弦楽六重奏)のみは指揮者なしで演奏されたが・・・・。

 飯守が引き出す音楽は、「良き時代」のドイツのオーケストラが響かせたような特徴を、近年ますます強めているように感じられる。たとえば、細密なアンサンブルの構築などよりも、音楽の持つスケールの大きさ、豊かさ、情感などを優先した指揮といったようなものだ。
 現代日本のオーケストラは、こういうタイプの指揮とは、相性の良し悪しがあるかもしれない。正直な印象を言うと、東京フィルは、その意味では「ほどほどに中庸」とでもいう存在か? 

 今日の演奏では、大編成の楽器群が豪壮に絡み合う個所も、もちろん独特の味があったけれども、私個人としては、どちらかといえば、たっぷりと歌う個所の方に良さが感じられた。
 たとえば「4つの最後の歌」の第3曲「眠りにつく時」や、第4曲「夕映えの中で」における豊麗なふくらみと、空間的な拡がりをもった響き。前者における三浦章宏(コンサートマスター)のヴァイオリン・ソロも、更なる甘美さも欲しかったとはいえ、この個所にふさわしい叙情美をよく表出してくれた。
 それから、「7つのヴェールの踊り」での、中間部で弦とホルン、イングリッシュ・ホルン、クラリネットなどが表情豊かに歌うくだりなど。

 「ばらの騎士」でのもって行き方も、飯守らしい巧さが感じられた。ただし「ドン・ファン」では、シンバルのパートや音量などの扱いに、大きな疑問がある。

 「4つの最後の歌」でのソプラノ・ソロは浜田理恵。オケにマスクされてやや聴き取りにくいところはあったものの、感情豊かでソフトな表現力は見事であり、飯守が指揮するこの歌曲でのソロにはぴったりだっただろう。世の中には、この歌曲集をやたら大きな声で朗々と歌うソプラノもいるが、それでは曲の秘めやかな美しさがぶち壊されてしまうのだ。

6・15(日)サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン2014
キュッヒル・クァルテット ベートーヴェン・サイクルⅢ

    サントリーホール ブルーローズ(小ホール) 2時

 今年の「チェンバーミュージック・ガーデン」は、7日から22日まで。内外の名手を集めての、すこぶる大掛かりな室内楽フェスティバルだ。

 その中でも真打は、キュッヒル・クァルテットによるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全16曲を中心とした、6回にわたるツィクルスだろう。ヴァイオリンがライナー・キュッヒルとダニエル・フロシャウアー、ヴィオラがハインリヒ・コル、チェロがロベルト・ノーチ(ノージ?)という、ウィーン・フィルのメンバーによる顔ぶれである。
 今日は第3日で、「第3番」「第9番《ラズモフスキー第3》」「第14番作品131」。

 ウィーン・フィル特有の音色で彩られた美しい響きもさることながら、4人の演奏家が持っている均質な音楽性と、作品への共感の深さ━━それがあの素晴らしい演奏を生み出す原動力なのだろう。
 とりわけ今日は、「ラズモフスキー第3」における、一分の隙もない構築感と、凄まじいほどの緊張力に圧倒された。これだけ見事な「ラズモの3番」の演奏には、なかなか出会えないだろう。たとえこれ1曲を聴いただけでも、今年のシリーズに来た意義がある。

 これに対し、「131」は、やはり難曲だろう。冒頭2小節目で名手キュッヒルの音が擦れるというアクシデントなどはどうでもよいとしても、プレスト楽章での目まぐるしい音の跳躍、飛躍、交錯、応答などでは、「ま、細かい所はともかく」という感は否めない。もちろん、並みの弦楽四重奏団には真似できぬような「心に響く」音楽が聴けたことはたしかで、それは特にアダージョやアレグレットの楽章で余すところなく発揮されていた。

 ホールを埋めた聴衆の反応も実に率直で、「ラズモの3番」のあとの拍手は文字どおり熱狂的だったが、「131」のあとの拍手の音は、どちらかというとやや冷静だった。

6・14(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団定期

   サントリーホール  6時

 ブーレーズの「ノタシオン」Ⅰ-Ⅳ、ベルリオーズの歌曲集「夏の夜」、シューベルトの「交響曲《ザ・グレイト》」というプログラム。

 「ノタシオン」管弦楽版は、18型編成の弦に、膨大な数の金管と打楽器群。ステージ上はあふれ返らんばかりの大編成である。
 芸術文化振興基金の助成審査委員などをやっていると、こういう大規模な現代音楽の意欲的なステージを見るたびに、これは大変なカネがかかるだろうなあ、とオーケストラの懐をまず心配してしまう癖がつく。特にこの大編成は、この日のプログラムの中では、この11分程度の作品1曲のみだ。東京響は翌日、新潟のりゅーとぴあでも同一プロで演奏会をやることになっているので、それだけのメンバーがわずか11分の出番のために新幹線で往復するわけであり・・・・。もちろん、新潟の主催者からはそれなりの費用も出るだろうが、いずれにせよ「意欲的なプログラミング」とは負担のかかるもの。自主運営のオーケストラの気魄は讃えられて然るべきだろう。

 それはそれとして、このピエール・ブーレーズの「ノタシオン」(管弦楽版)、今回はⅠ、Ⅳ、Ⅲ、Ⅱの順に演奏された。
 ジョナサン・ノットの指揮は鮮やかだ。これほど豊麗でダイナミックで、しかも流れの良い、面白い「ノタシオン」の演奏には、私は初めて出会った。ブーレーズ殿が聴いたら不満に思うかもしれないが、所謂理屈っぽさも閉塞感もない開放的なこの演奏は、実に愉しい新鮮なイメージを引き出してくれる。こういう演奏で聴けば、ゲンダイオンガクに嫌悪感を感じる人もいなくなるのでは?

 「夏の夜」のメゾ・ソプラノのソロには、当初発表のジェニファー・ラーモアに代わり、サーシャ・クックが出演した。冒頭の「ヴィラネル」では何か音程に不安定な気配があって気をもませられたが、第2曲「薔薇の亡霊」では立ち直り、続く「入り江にて」と「去りし人」では、しっとりとして温かい情感をも備えた、完璧な歌唱を聴かせてくれた。METの「ドクター・アトミック」でも歌っていた人だったということを、迂闊にも紹介記事で読んでから気がついた。これはいい歌手を聴けたものである。

 しかもこの曲では、ノットが東京響から引き出す音が実に神秘的でしなやかで瑞々しく、特に最弱音による弦のトレモロが豊かなふくらみを以って、空間に拡がっていた。こういう音は、日本のオケからはなかなか聴けない類のものである(コンマスは大谷康子)。フランス・ロマン主義の美の極致としての性格を見事に再現した演奏と言えるだろう。

 驚くべきことに、豊麗なダイナミズムのブーレーズの「ノタシオン」と、この静謐な叙情のベルリオーズの「夏の夜」とは、何か名状しがたい一つの線で結びついていることが感じられた。これもノットの巧みな指揮の所為ではなかろうか。

 私としては、このベルリオーズで、この日の演奏会を完結したような気分になっていたが、しかし、最後の「ザ・グレイト」も、細部まで綿密に仕上げられた快演だった。
 目立つ「強調」は、第3楽章のスケルツォ主題の3小節目の上行音階にクレッシェンドを加える程度(これはちょっとわざとらしい細工に感じられたが)であり、その他は細部の彫琢になる。前任音楽監督スダーンだったら、この彫琢も明晰に響かせたろうが、ノットは速いテンポと、(今回は意外なほどの)厚い響きで滔々と押して行くので、細部の精妙な仕上げも、勢いのいいエネルギー感に包まれてしまう。

 たとえば第1楽章の第495小節や第499小節での弦のリズミカルな合の手(4分音符3つ)などには、スコアには無い漸弱がかけられているため、サントリーホールの豊かな残響の中では、その3つ目の音は遠ざかってしまい、むしろ荒々しい勢いに満ちた演奏という印象が強くなる。おそらくこの「ザ・グレイト」は、もっと響きの少ないホールで聴いたら、かなり「いろいろやっている」ことが判るというタイプの演奏であろう。
 速いテンポでありながら反復個所はすべて忠実に実施したので、演奏時間はやはり55分ほどかかったようである。

 ノット、いろいろなレパートリーを聴くごとに、さまざまな姿で立ち現れる。そのたびに新しい発見がある。面白い指揮者だ。
       ☞モーストリー・クラシック9月号 公演Reviews

6・14(土)ドミンゴ・インドヤン指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

   すみだトリフォニーホール  2時

 これは定期でなく、「新クラシックの扉」というシリーズ。

 インドヤンはヴェネズエラ生まれで、例の有名な音楽教育システム「エル・システマ」の出身。昨年からベルリン州立歌劇場でバレンボイムの「第1アシスタント」なるものを務めているという、バリバリの若手である。
 演奏した曲は、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲と「交響曲ニ長調《プラハ》」、シューマンの「交響曲第3番《ライン》」。

 インドヤンは2012年10月にハウシルトの代役として新日本フィルに客演したことがある。その時に聴いた印象と、今回の印象とは、だいぶ違う。ある意味では、かなり自分の個性を明確に出しはじめている、と言っていいかもしれない。
 今日の指揮を聴く範囲で言えば、ストレートな指揮ぶりで、テンポやデュナミークなども全く誇張なく、ひたすら真正面から作品に取り組むといったタイプの指揮者という印象になるだろう。大編成による分厚い音づくりも、彼の指揮の特徴のようだ。音色にも、やや野暮ったい雰囲気がある。

 それもあって、モーツァルト2曲は、生真面目な良さはあるが、演奏としてはあまり面白くない。むしろ「ライン」の方が━━淡々と進めながら無味乾燥にならない良さがあった。特に第4楽章での、暗い色合いに満たされた哀愁と悲劇性には、予想外の魅力が感じられたのである。
 アンコールでのドヴォルジャークの「交響曲第8番」第3楽章でもそうだったが、概して明るく整然とした音楽よりも、どちらかといえば粘りのある、陰影の濃い音楽の方に、彼の良さが出るのかもしれない。たった1回の演奏会で判断するのは早計だろうけれども。

 新日本フィルは、名曲コンサートゆえか、一定の水準を保ちながらも、些かルーティン公演的な演奏という感。活躍の場が多いホルンは、第1楽章でのように朗々と聞かせ場をつくる個所では良かったが、第2楽章での木管と細かく絡み応答しあう個所(第10小節以降あるいは第29小節以降)などでは、どうもあまり褒められたものではなかった。

6・13(金)飯守泰次郎指揮関西フィルハーモニー管弦楽団定期
ワーグナー:「ジークフリート」第3幕(演奏会形式)

    ザ・シンフォニーホール  7時

 「飯守&関西フィル オペラ演奏会形式上演シリーズ第13回」。

 もともとワーグナーが「13」なる数字に縁が深い━━1813年生まれ、作ったオペラが13曲、その13番目のオペラ「パルジファル」を完成して13か月後の2月13日に他界、「ニーベルングの指環」バイロイト初演が8月13日、RICHARD WAGNERの名前の綴りが13文字、その他諸々━━ゆえに、今回は数字合わせをしたのかと思っていた。
 だが、演奏会の日が13日の金曜日だったのがやはり祟りを呼んだのか、ジークフリート役に予定されていたテノールの竹田昌弘が体調を崩し、直前に降板してしまった。彼はこれまでパルジファル、トリスタン、ジークムント、ジークフリートなどで快演を聴かせて来た人だから、実に残念である。

 「日本でこの役を歌える人は少ないし、まして1週間前にいきなり言われても準備が」(飯守氏のプレトークから)というわけで、これまでのワーグナー・シリーズの「日本人歌手路線」を覆し、急遽招いたのが、ジャンルカ・ザンピエーリというイタリア人歌手。
 彼は飛行機で着いてすぐピアノ・リハーサル、オケ合わせも1回やっただけですぐ本番、とかいう慌しさだったそうである。

 他には、畑田弘美(ブリュンヒルデ)、片桐直樹(さすらい人)、竹本節子(エルダ)という、いずれも飯守&関西フィルのワーグナー路線にはおなじみの人たちが出演。ステージ前方に位置し、譜面を見ながら歌った。

 飯守泰次郎のワーグナーは、いつもと同様、感情のこもった滋味ある音楽である。ただ、今日は多少違う雰囲気だなと思わせたのは、まず響きがやや軽く、しかも薄く、全体に音楽が抑制気味だったことか。
 第3幕の音楽の性格ゆえに、演奏にもおのずから大きな起伏は生まれていたが、歌手たちの声を浮かび上がらせるために、分厚く嵐のようなうねりを持つオーケストラの響きをも多少妥協せざるを得なかったのかな、と思われる。

 もう一つは、ブリュンヒルデを、異様なほど叙情的に表現したことだろう。畑田の声がもともと柔らかいためそうなったのか、初めからその意図だったのかは定かでないけれども、彼女の歌は弱音で、レガートで、テンポをやや落とし気味に(そう聞こえた)、終始落ち着いた表現にされていた。このため、情熱的で劇的な最後の二重唱の部分においてさえ、ブリュンヒルデがえらく穏やかで優しく描き出されてしまった。だがこれは、このドラマの性格からすると、必ずしも当を得ているとは言えないだろう。音楽的にもそこだけ盛り上がらないから、聴いていると少々もどかしい。とはいえ、興味深いスタイルではある。

 助っ人ザンピエーリは、適度の演技も交え、元気よく歌った。細部の仕上げなど物足りぬところがあったのはもちろんだが、とにかく、急な代役をよく果たしてくれたと言うべきであろう。片桐は、以前に比べて声が軽くなったか? 竹本はいつも通りの貫録である。

 関西フィルは、たしかに、健闘はしただろう。細部のアンサンブルにはかなり課題が残るけれども、大規模な曲ゆえにトラ(客員)を多数入れた編成の演奏では、まずこんなところだろうか。
 しかし、以前の「トリスタンとイゾルデ」(第2幕)や「ヴァルキューレ」(第3幕)、「ジークフリート」(第1幕)の時に比べると、合奏の緊密性という点で、今回はかなり不満が残る演奏だったことは、事実である。もう少し引き締まった演奏を期待したい。ステージ上の楽員たちの表情に余り熱気のようなものが感じられないのも気になった。

6・12(木)パオロ・カリニャーニ指揮読売日本交響楽団 
   ヴェルディ:「レクイエム」

    サントリーホール  7時

 カリニャーニがヴェルレクを指揮━━となれば、まさに読売日響の今シーズンの定期の聴きもの。大いに期待して聴きに行った。
 折しも、名誉指揮者ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス氏の他界(11日)が伝えられ、この「レクイエム」が彼への追悼演奏のような趣を呈した。曲の開始部など、本当にそういう感じではあったのだが・・・・。

 カリニャーニの指揮は、流石に引き締まっているし、全曲の構築設計も巧い。
 「怒りの日」では、管弦楽と合唱を壮絶な嵐の如く湧き立たせ、ドラマティックな効果を生み出したが、そこでの「たたみかけ」の凄まじさは、カリニャーニならではのものだ。演奏の起伏が大きいし、しかも歯切れが良いのが、彼の指揮の魅力である。読売日響と新国立劇場合唱団も疾風怒濤の演奏を繰り広げ、指揮者の「煽り」に応えていた。
 そして、大詰の「われを許したまえ」を音楽的頂点として設定した構成も、印象に残る。
 いずれも、劇的な祈りの歌という性格を備えたこの作品の特質が、見事に再現された個所である。

 新国立劇場合唱団は、もちろんオルガン下のP席に配置されたが、総勢100人程度という人数━━日本でのこの曲の演奏としては少人数の方だろう━━ながら音量も充分、強靭な力を発揮していた。
 また「怒りの日」での金管のバンダは、P席上方の上手側と下手側に2人ずつ配置された。声楽ソリスト4人は、これも当然ステージ前方に位置したが、最後の「われを許したまえ」でのみ、ソプラノ(並河寿美)だけがステージ最後方の上段の下手側に位置を移して立ち、長いソロを歌った。したがって、遠い別の世界から響いて来るような声になる。これは音楽的にも視覚的にも、かなり効果的な演出だったと思われる。

 まあ、ここまでならば極めて理想的な、最高の演奏だったわけだが、全体としてはなかなかそうも行かなかったところが残念至極である。特に前半は、演奏が妙に座りが悪く、散漫に聞こえ、濃密さや緊迫度に不足していたように感じられたのだ。
 これは、やはり声楽ソリストに問題があったからだろう。女声陣は健闘していたものの、高音域に不安定さが聞かれたのは事実だ。だが最も具合が悪かったのは、テノールである。冒頭から最後まで声が不安定だったし、あるフレーズでは息が続かず、歌が消えてしまうという醜態を晒した。これでは、プロとしての自覚を疑わざるを得ぬ。これらの要素が、声楽ソロの四重唱部分でのアンサンブルの乱れを招き、さらに演奏全体の足を引っ張ったことは間違いない。
 それにしても、なぜ読響は、大舞台にこのようなテノールを起用したのか? もっとも、ある筋から聞くところによると、彼を起用したのは他ならぬカリニャーニ自身だった、という話もあり・・・・。

 だがカーテンコールでカリニャーニは、読売日響と新国立劇場合唱団を讃えたあと、並河寿美および清水華澄(A)、妻屋秀和(Bs)の3人とは握手やハグをしながらも、そのテノール歌手に対しては、単に形だけの握手をしただけであとは無視してしまった。それは、何ともあからさまで、異様な光景だった。余程腹に据えかねていたのだろう。
 期待が大きかっただけ、残念度も大きかった・・・・。

6・10(火)パトリツィア・コパチンスカヤ&コンスタンチン・リフシッツ

    トッパンホール  7時

 C・P・E・バッハの「幻想曲嬰ヘ短調Wq80」、シマノフスキの「神話」、シェーンベルクの「幻想曲」、プロコフィエフの「ソナタ第1番」。

 1曲目で、コパチンスカヤは、ピアノの向こう側(ステージ奥)に立った。これは意外な光景ではあったが、曲の性格を考えれば、主役はピアノで、ヴァイオリンはオブリガート(助奏)の立場を採るという解釈だったことは容易く推察できるだろう。事実、1曲目の演奏後に、コパチンスカヤ自身がそのわけを説明していた━━「ピアノはソリスト、ヴァイオリンはシャドウ(影)です」と。なんでもこれは、アンドラーシュ・シフがやった手法に倣ったものだとか。
 2曲目のシマノフスキからは、ヴァイオリンがステージ前方に出る正規のスタイルで演奏されていた。

 だがいずれにせよ、どの作品でも、リフシッツのピアノが、あまりに音量過剰である。
 たしかに、コパチンスカヤのヴァイオリンも極めて鋭角的であり、ヴァイオリンと格闘するかのような演奏姿をはじめ、良い意味での攻撃的な性格を備えている。この楽器の持つ美音に全くこだわらず、その表現力と機能を究極の段階まで追求するような演奏である。それゆえ、リフシッツが一歩も退かずに攻撃的な音楽をつくるというのは、ある意味では当然のことであろう。

 だがそれにしても、彼の演奏は、無神経なほどに怒号咆哮し過ぎるのではないか? 何年か前、このホールで彼がリサイタルをやった時の、楽器もろともホールを破壊せんばかりだった大音響の悪夢の記憶が蘇る。
 思えば、私は彼が少年時代の22年前、モスクワの教室でスクリャービンを弾いた時の陰影の濃い演奏に驚嘆し、すっかり惚れ込んだ。そしてそれ以来、何度かチラシやプログラムの原稿を書いたりして、肩入れしたこともある。だが、こういう調子でやられては、もう閉口だ。
 彼の、低音域での独特の暗い音色と凄みのある表情は非常に魅力的なのだが・・・・また先年、樫本大進とデュオをやった時には、もう少し節度のある演奏をしていたはずだが・・・・。

 そんなわけで、コパチンスカヤの個性的な魅力に富んだ音楽を、リフシッツの苛立たしい轟音の中から選び出して聴くのは、いささか骨の折れることであった。

6・8(日)垣内悠希指揮東京交響楽団(名曲全集第98回)

    ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」序曲、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」、ブラームスの「交響曲第1番」。

 ブルッフの協奏曲を弾いた若い三浦文彰が、爽快で小気味よいエネルギー感を発揮していた。といっても今日は、指揮者との呼吸の所為か、バリバリ弾き過ぎて、彼の持つ瑞々しさの方は犠牲にされていた感がなくもなかったが。
 ソロ・アンコールで弾いたヴュータンの「アメリカの思い出~ヤンキードゥードゥルによるおどけた変奏曲」が、思い切りのいい鮮やかな快演だった。

 垣内悠希の指揮。以前感じられたような「息継ぎのない」慌ただしい音楽の組み立ては、多少改善されたかもしれない。ただ、序曲では何となくせわしない進め方が未だ各所に聞かれたし、交響曲でも坦々たるテンポの連続と、アゴーギクに不足する傾向が感じられた。そのためだろうと思うが、今回もやはり、全体に単調な音楽づくりになっていたことは否めまい。
 交響曲の冒頭や終結の個所では重厚で膨らみのあるサウンドが聞かれたことは事実だが、そのくらいは指揮者がいなくても東京響自身が、━━たとえばあの底力のある切れのいい音のティンパニのリードで、独自に創れる類のものではないかしらん? 

 しかし、垣内がブルッフの協奏曲の第2楽章の頂点で引き出した大きな昂揚には目覚ましいものがあった。そういう「大波のような」柔軟で自由な起伏感がもっと彼の指揮に聴けるようになれば、と思うのだが・・・・。

6・6(金)ライナー・ホーネック指揮紀尾井シンフォニエッタ東京

    紀尾井ホール  7時

 このホールで弦楽合奏のオーケストラを聴くのもいいものだ。金管や打楽器の入った大きな編成のオーケストラでは、このホールの空間的容量からすると、どうしても飽和的な音になりかねないからである。

 今夜のプログラムは、モーツァルトの「ディヴェルティメント ニ長調K334」と、シェーンベルクの「浄められた夜」。
 前者には2本のホルンが入っているが、それらは第2楽章の第4変奏を除いては、比較的控えめな存在でしかない。そして後者は、もちろん弦のみによる作品(今夜は弦楽合奏版による演奏)である。

 ライナー・ホーネックは、前者ではコンサートマスターとして弾き、後者では指揮に専念した。
 人も知るウィーン・フィルのコンマス様ゆえ、弦の奏者たちへの注文も結構うるさかったのではなかろうか? 2曲ともかなり細部まで神経の行き届いた演奏であった。が、同時に、なにか注意深く構え過ぎて硬くなったような雰囲気もあり、自由な息づきにやや不足する印象もあったのである。
 だがこれはおそらく、2回目の演奏(明日)になれば解決できる類の問題ではないかと思う。

 「ディヴェルティメント」での第1ヴァイオリンのパートには、終始ソリスト的な華やかさがあふれており、これを大編成で優雅に演奏するのは、やはり大変なのだろう。今日の演奏でも、ホーネックを先頭とした第1ヴァイオリン群だけが━━特に第1楽章で━━やや粗っぽくなっていた。しかし後半、特に最後の2つの楽章ではその粗さも消え、モーツァルトの音楽の爽やかな美しさが充分に表出されることになる。

 「浄夜」は、ライナー・ホーネックの「注意深い、念入りな」指揮が、部分的に裏目に出た演奏と言えるかもしれない。
 起伏の大きな演奏を狙っていたのは明らかだ。しかし、昂揚したいくつかの個所はきわめて情熱的な盛り上がりとなっていたものの、静かな個所になると途端に緊迫度に欠け、そこが一種の弱い経過句のような趣を呈してしまっていたのである。
 つまり、この曲の標題性に即して言えば、冬枯れの木立の中を歩む男女の対話━━2人の愛と、女性が胎内に宿している別の男との間にできた子供の問題と━━が、その事の重大性ゆえにか、しばしば戸惑いがちに途切れ、沈黙が訪れてしまう・・・・という感じ。

 だが一方、ホーネックの解釈の面白いところは、ふつうの演奏と違い、すでに曲の中盤から音楽に非常な明るさが生まれて来ることにあろう。
 これも標題性に即して喩えれば、主人公の男女の和解は早めに成立、その喜びが湧き上る・・・・男が女のあやまちを許し、「その子をわれわれ2人の子として育てよう」と語るよりも早く、「世界はこんなにも輝いているではないか」のくだりからすでに2人の歓喜が高まり始め、「トリスタンとイゾルデ」的な官能の疼きが湧き上って来る、という解釈にでもなるだろうか。
 ちょっとユニークな構築の演奏による「浄められた夜」だった。

6・3(火)METライブビューイング
ロッシーニ:「ラ・チェネレントラ」

    東劇  1時30分

 5月10日のメトロポリタン・オペラ上演ライヴ映像。これが2013~14シーズンの最終日であり、最終のマチネーだった。
 ジョイス・ディドナートとファン・ディエゴ・フローレスが共演、指揮がファビオ・ルイージとなれば、もう文句ない。

 ジョイス・ディドナートといえば、今日チェネレントラ役として屈指の存在たるメゾ・ソプラノだ。
 一昨年のミュンヘン・オペラフェスティバルで彼女がこれを歌うというので、楽しみにして出かけて行ったのだが、あいにく咽喉の調子が悪いとアナウンスがあり、かなりセーヴして歌うという出来事があった(2012年7月12日の項)。
 それに比べれば今回のMET公演は、非の打ちどころない歌唱で、やっと彼女のチェネレントラの本領に接することができたわけだ。しかし、幕間のインタビューによると、彼女は今回で(つまりこの日、ということなのか)この役を最後にするのだという。「もう潮時でしょう」と語っていた。失望落胆。彼女のこの役の完璧な舞台にナマで接する機会を、遂に失う。
 その意味でも、この映像は貴重と言わねばならぬ。第2幕の幕切れを華麗に決めた時には、客席も沸騰していた。

 王子を歌い演じたファン・ディエゴ・フローレスの方は、これはもう見事というほかなく、最高音を何度も鮮やかに決める。第2幕のアリアのあとでは、客席がどよめいて沸き、彼も舞台に呼び戻されていたほどである。

 もうひとり良かったのは、強欲親父ドン・マニフィコを歌った、市村正親そっくりの風貌のアレッサンドロ・コルベッリ。彼も一昨年ミュンヘンで観た時よりもずっとねちっこく、凄みのある悪役ぶりを発揮していた。
 他にピエトロ・スパニョーリ(王子の従者ダンディーニ)、ルカ・ピザローニ(王子の家庭教師アリドーロ)、ラシェル・ダーキン(意地悪な姉クロリンダ)、パトリシア・リスリー(同ティスベ)ら、みんな芸達者に、しかも手堅く舞台をまとめている。

 演出はチェーザレ・リエーヴィで、もちろんストレート路線だが、ちょっぴり幻想的で、少しドタバタで、少しほんのりした、愉しいプロダクションであった。何より、ロッシーニの音楽がいいから、面白い。

 ファビオ・ルイージは、インタビューによると、何でもこのオペラを初めて振ったとかいうことだが(私の聞き間違いか?)追い上げ、たたみこみ、カンタービレなど、すこぶる見事なものだった。ドイツものを振ると全然メリハリの無い人だが、さすがにイタリアものは堂に入っている。

 案内役は久しぶりにデボラ・ヴォイト。とにかく陽気で、話の引き出し方はもちろん、相手の長い話を切り上げる手法など、当意即妙、コミカルで巧い(下手な案内役の歌手さんも時々いますからな)。
 上映時間3時間24分。

6・2(月)ヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団

    サントリーホール  7時

 いい音のオーケストラは、テューニングの瞬間に、それと判るもの。フィラデルフィア・サウンド、今なお健在だ。

 もちろんそれは、昔の━━黄金時代と言われたオーマンディ時代のそれとも、次のムーティ時代のそれとも違う(ストコフスキー時代のは、いくら何でもナマでは聴いていない)。2012年秋から音楽監督を務めるネゼ=セガンが引き出すフィラデルフィア・サウンドは、もう少し凝縮して、引き締まった精悍な趣になっている。
 今日はチャイコフスキー・プロ。「ヴァイオリン協奏曲」と「悲愴交響曲」。

 協奏曲では、艶やかな弦が素晴らしい。これこそまさにこのオーケストラの持ち味の一つだろう。
 そして、協演した諏訪内晶子のソロも、彼女が日本のオケと協演する時とは、まるで別人のように違う。アグレッシヴでメリハリに富む構築、ブリリアントで濃厚な表情、オケを圧するばかりのたっぷりした豊麗な響き、━━それらを含め、極めてスケールの大きな、豊潤なチャイコフスキーになっていたのである。

 そういえばかつて、日本のあるオケとブルッフのコンチェルトを弾いた彼女の演奏が非常にリズムも鋭く、劇的な演奏だったのに嬉しくなった私がそれを賞賛した時、彼女は「これでもかなり抑えた方なんですけど」と答えていたことがあった。
 言いかえれば、華麗な個性のオーケストラと一緒に弾く際には、それに合った力を全開する、ということだろう。それができるというのは、やはり彼女の著しい成長を示す証しであろうかと思う(どんなオケと協演してもやはり、それと比較すると平板な表情にとどまったまま、という日本人ソリストを、われわれは残念ながら何人も聴いているのである)。
 ただ、今日の諏訪内の演奏は、そういう素晴らしさを感じさせながらも、一方で終始ハイ・テンションのまま押し切りすぎたかというような、やや一本調子のところもあったかな・・・・という印象も、なくはなかったのだが。

 ネゼ=セガンは、ピウ・モッソの個所だけでなく、クレッシェンドの個所をはじめ、随所でテンポを猛烈に煽る。この呼吸はすこぶる鮮やかで、諏訪内とともに、大いに燃えたチャイコンになっていた。

 ところが、「悲愴交響曲」では、━━もちろん音は相変わらず美しいのだが、何だか不思議にアンサンブルの雑な演奏になってしまっていたのだ。特に木管群にその粗さが目立ち、指揮者の煽るテンポに混乱気味となって追いつかなくなるという傾向が聞かれたのである。ツアー疲れかどうか知らないけれども、まあこれは要するに、単なる練習不足ではなかろうか。オケが基本的に上手いのはよく判る。

 ただ、第3楽章のシンバルが妙に前のめり気味のテンポ(4分音符一つ分もしくは8分音符一つ分)で打ち鳴らされるのが気になった。4発とも同様だったから、これは意図的なものなのか、あるいは、「遅れて聞こえる」のを避けるための細工なのか。
 第4楽章最後のチェロの持続音の艶やかさは、流石、このオケならではのものであった。

 アンコール曲はチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」からの「ポロネーズ」。出だしは景気良かったが、その後の演奏は、意外におとなしい。
 結局、前半に比べ、後半の2曲の演奏は、表面上は華麗だったものの・・・・とでも。

6・1(日)ローマ歌劇場日本最終公演 ヴェルディ:「ナブッコ」

    NHKホール  3時

 リッカルド・ムーティが指揮するヴェルディの「ナブッコ」は、昨年8月29日にザルツブルク音楽祭で演奏会形式上演により聴いたことがある。まさに意気軒昂、痛快無類、血沸き肉躍る演奏で、ヴェルディ初期の威勢のいい音楽の醍醐味を存分に味わわせてくれたものだった。

 今回の東京上演に足を運んだのは、それをもう一度聴きたかったのと、舞台上演により何か新しい発見をもたらしてくれるかという期待ゆえだったのだが、━━しかし、何のことはない、ジャン=ポール・スカルピッタの演出・美術は、衣装付きのセミ・ステージ上演程度の舞台だ。これなら、目を閉じて聴いていても大して変りない。
 結局、ムーティがすべて。払ったチケット代から言ってもザルツブルク音楽祭の方がずっと廉かったな、という思いが正直なところ。

 歌手陣では、アビガイッレ役が当初予定のタチヤーナ・セルジャンが体調不良で降板、代役でラッファエッラ・アンジェレッティが歌ったが、やはり如何せんこのドラマティックな悪女役には弱い。そのセルジャンというソプラノは、昨年のそのザルツブルクの演奏会でも当初予定されていながら降板していたので、今回また聴き損ねたことになる。そもそも、アビガイッレ役が力不足では、この「ナブッコ」は魅力の半分を失うだろう。
 ナブッコ役のルカ・サッシは、舞台姿はそれほど貫禄もないけれど、歌唱では健闘してくれた。ほかに良かったのは、前出ザルツブルクでも歌っていた、ザッカリア役のディミトリ・ベロセルスキーと、フェネーナ役のソニア・ガナッシ。

 合唱は、ロベルト・ガッビアーニが指導するローマ歌劇場合唱団が、今回も強力な存在感を発揮。演技と言っても、立つか、歩くか、寝そべるか程度の動きしかしない舞台だから、歌唱に集中できたであろう。ただし、「行け、わが想いよ、金色の翼に乗って」の最後のハーモニーのバランスが、バスが少し強かったのは、この合唱団としては些か予想外。
 ついでながらこの合唱のくだりでは、拍手も比較的早めに止んでしまい、ビスはなかった。ザルツブルクでも行なわれなかったことを考えあわせると、原典尊重主義者ムーティは、「ナブッコ」の合唱といえどもビスはやらない主義だったのか。 

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