2017-05

5・31(土)現代日本音楽の夕べシリーズ第17回「伊福部昭」
大植英次指揮東京交響楽団

   ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 札幌をANA56便で発って、そのまま川崎へ向かう。
 こちらも伊福部昭プログラムで、彼の生誕100年の誕生日を記念する意味を籠めた演奏会でもあった。
 プログラムは「SF交響ファンタジー第3番」に始まり、「二十弦箏と管弦楽のための交響的エグログ」(箏は野坂操壽)、「ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ」(ソロは山田令子)、「交響頌偈《釈迦》」(合唱は東響コーラス)。これらはいずれも、東京交響楽団により初演された作品である。

 本来ならこのコンサートは井上道義が指揮するはずだったが、周知のとおりの急病により、大植英次が代役指揮を引き受けたもの。テレビ中継も入っていたし、井上もさぞ指揮したかったことだろう。しかし大植も気魄物凄く、特に後半の2曲では体当り的な法悦的熱狂のクライマックスを築いて、伊福部の音楽に備わる並外れたエネルギー感を、見事に再現してくれた。こちらも2日連続で伊福部の音楽に浸ったわけだが、プログラムが各々異なっていたし、また特に今日は4作の色合いがそれぞれ違うので、むしろ疲労感も抱かずに、大いに楽しむことができた。

 「SF交響ファンタジー」は、伊福部のSF映画のための音楽からいくつかを編んだもの。その良し悪しは別として、「ゴジラ」があまりに有名でありすぎるために、所謂シリアスな考えの人々から「あんな(怪獣)映画の音楽なんか書いて」と言われる立場になってしまったことは、残念ながら否めまい。コルンゴルトと同様のケースとも言える。私に言わせれば、それはナンセンスな批判でしかないが・・・・。ただ、今日のプログラムの中では、これはまあ幕開きの景気づけというか、ご愛嬌の選曲だろう。

 「エグログ」は「牧歌」にふさわしく、伊福部の管弦楽作品の中では叙情的な美しさが際立つ。
 後半の2曲は前述のとおり、凄まじい。特に「リトミカ・オスティナータ」は、ピアノという楽器を、その本来の音色を生かしつつもこれだけ打楽器的に扱った作品は少ないだろう。彼の作品に造詣の深い山田令子が烈しいソロでオーケストラと激闘して会場を盛り上げた。
 リズムが時々ずれたのは気になったけれども、あとで大植氏から聞いた話では、この曲の没我的狂乱の舞踏的性格を強調するために、あえてリズムの「縦の線」にはこだわらないという打ち合わせにしていた、とのことだった。

 「釈迦」でも同様、最後の頂点は執拗なほどの熱狂に達する。パーリ語(古代インド語の一つ)なる歌詞を、しかも暗譜で歌った東響コーラスのメンバーには、いつもながら賛嘆の念を抱かずにはいられない。
 楽器の配置換えによる舞台転換もあったので、終演時間は5時半近くにまで延びた。

5・30(金)高関健指揮札幌交響楽団 伊福部昭集

    札幌コンサートホールKitara  7時

 今年生誕100年に当たる作曲家、伊福部昭の作品を取り上げた演奏会が、このところ各地で開かれている。
 釧路に生まれ音更で育ち、若い頃には厚岸で森林事務所森林官を務め(桜の新種アッケシザクラには彼の名が学名として付されているそうだ)、札幌でも暮らしていたことのある伊福部は、北海道と切っても切れぬ縁の人だ。

 その札幌で、札幌交響楽団が、彼の誕生日にあたる5月31日とその前日の今日、定期公演で彼の作品によるプログラムを組んだ。
 曲は「日本狂詩曲」「ヴァイオリン協奏曲第2番」「土俗的三連画」「シンフォニア・タプカーラ」。指揮は高関健、ヴァイオリンのソロは加藤知子。

 かつて十二音音楽やらミュージック・コンクレートなどの音楽がブームになっていた頃、この伊福部昭のような、日本の(特にアイヌの)民族舞踏音楽的な手法を使った作品は、時代遅れと言われることが多かった。
 われわれ当時の生意気盛りの学生ファンも、顔を見合わせて冷笑を浮かべるジェスチュアをよくやったものだが━━そうすることが一種のファッションでもあったのだが、今から思えば実にナンセンスな恰好づけに過ぎないことであった。
 最近人気を集めているコルンゴルトの音楽に関しても同様なことが言えそうだが、時代性だとか反時代性だとかいう議論は、のちの時代から振り返って視てみると、何か苦笑せざるを得ないものであることが多い。

 とはいえ、故・柴田南雄が30年前に行なったような「今日でも西欧風の技術的洗練や劇的展開こそ音楽の生命と思っているような人々には、彼の音楽は異質のものであり続けよう」という指摘は、残念ながら今でもなお通用してしまうかと思われる。楽員の中にも少なからず「こういう音楽には共感できない、嫌だ」と言う人がいたそうだから。

 しかし、それはともかく、聴き手の側からすれば、今夜の演奏は、やはり聴き応えのあるものだったし、伊福部の作品の真髄は充分に伝わって来ていたと思う。敢えて言えば、展開よりも反復を重視した彼の音楽構造は、続けざまに聴いていると少々疲労感を覚えざるを得ないけれども、その作品にあふれる土俗的なエネルギーの力強さには、やはり感服せざるを得ない。

 高関健は、きっちりとした指揮で、非常に正確に音楽を構築してくれた。「シンフォニア・タプカーラ」(「タプカーラ」は舞踏)のフィナーレも、このくらいエネルギッシュに演奏されれば、その本来の良さも生きて来るだろう。大平まゆみ(コンサートマスター)をはじめとする各パートのソロも良く、力の入った札響の好演であった。

 「日本狂詩曲」は、あの原典重視主義の高関が指揮するのであれば、しかも札幌で指揮するのであれば、この作品がチェレプニン賞応募に際して「演奏時間の関係」で割愛され、以後は作曲者自身も削除を認めていた幻の第1楽章「じょんがら舞曲」を、今度こそは復活演奏してくれるかと期待していたのだが、━━そうなれば歴史的な世界初演となるところだろうが、残念ながら実現しなかった。高関氏もそれを演奏すべく最大限の努力をしたらしいが、どうやら、いろいろな「壁」があったようである。楽譜が残っていることは間違いないらしいので、今回はお預けとなったものの、いずれ日の目を見ることもあるだろう。(※)

 今夜の演奏で特に面白かったのは、小編成のアンサンブルによる「土俗的三連画」である。ソリの交錯、ティンパニの風変りな奏法など、響きのユニークさはもちろん、視覚的な面白さも含めて、こういうものはナマのステージでこそ味わえる楽しみだろう。ちなみに、トランペットのソロは「酔っぱらっている」さまを描いている由。

※「壁」などゴジラが壊してくれれば済むこと━━と、Oさんからコメント(非公開指定)を頂戴しました

5・29(木)ミハイル・プレトニョフ・ピアノ・リサイタル

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 プレトニョフが指揮者活動に夢中になり、ピアノ演奏から手を引き始めそうな兆候が漂い始めた十数年前、彼のピアニストとしての並外れた才能を惜しむモスクワの音楽関係者やファンの間からは「何をやってもいいけれど、ピアノだけはやめないでくれ」という声が沸き上がっていたそうである。それにもかかわらず、彼が「ピアノ引退」を宣言してしまい、大方を落胆させてから、すでに7年の月日が流れた。

 その彼が突然ピアノ演奏活動を再開するようになった本当の理由は謎だが、少なくとも公式発表されている表向きの理由には、カワイのピアノ「SHIGERU KAWAI」に出会い、この楽器ならまた弾いてもいいかな、という気持が起こり、昨年からピアノ活動を再開したのだ、ということがあげられている。まあ、それは多分本当かもしれない。
 だがそうすると、彼が今までピアノを弾かなかったのは、スタインウェイなりベーゼンドルファーなりヤマハなりのピアノに━━要するに「楽器」に失望していたからなのか、と突っ込みたくもなるというものだが、ともあれ、それはそれ。何の理由にしても、この天才ピアニストがソロ活動を再開してくれたのは慶賀の至りであり、楽しみがまた戻って来た、というわけだ。

 その待望の来日公演は今回、リサイタルが東京で2回と西宮で各1回、協奏曲が東京で1回開催された。今夜はその最終公演ということになる。
 そのカワイの「SK(SHIGERU KAWAI)―EX」を持ち込んでのプログラムは、前半にシューベルトの「ソナタ第4番イ短調D.537」と「第13番イ長調D.664」、後半にバッハの「イギリス組曲第3番ト短調」と、スクリャービンの「24の前奏曲」というものだった。

 結論から先に言えば、ピアニスト・プレトニョフは健在。演奏には昔ほどの凄味は感じられなかったものの、やはり、ただものではない個性の持主であるという印象は変わらない。この日は、「SK」の、やや重々しい陰影に富んだ音色を駆使して、何か魔性の世界の深みへ聴き手を引き込んで行くような演奏を聴かせてくれた。

 前半は「憂愁のシューベルト」とでもいうか。たとえ軽やかな主題が現れようとも、どこかに翳りのあるシューベルト。これほど愁いに沈むようなシューベルトを聴いたのは、あのリヒテル以来かもしれない。
 バッハも面白い。これも陰翳の濃い、重厚な音色にあふれているが、声部の一つ一つが手に取るように、明晰に聞こえる。和声構造が鮮やかに浮かび上がるばかりでなく、どの声部も完璧に響いているのに、時にそのうちのある声部が強烈な存在感を以って浮き彫りにされるのだ。こういう個性的な音構築のバッハを演奏してみせるというのは、やはりプレトニョフならではの、したたかさではなかろうかと思う。

 楽器のせいもあって音は骨太で、しかも彼ならではの強靭無比なタッチのために、弱音でありながら、全ての音が非常によく響いて来る。スクリャービンは非の打ちどころない演奏であり、アンコールでの同「エチュード 作品2の1」も、不思議なノスタルジーを抱かせる演奏であった。

 なお「SHIGERU KAWAI」というのは、もちろん、かつての河合楽器の社長、故・河合滋氏のことだ。
 実は私は30年ほど前、FM東京在籍中に、浜松に本拠を置く新FM局「FM静岡」の開局に際し、編成責任者として4年間出向していたことがあるのだが、その時のFM静岡の社長を兼務していたのが、当時浜松商工会議所会頭など要職を一手に引き受け、浜松の実業界随一の信望の持主と評されていた、河合滋・河合楽器社長だった。氏には、親しくいろいろとご指導賜った思い出がある。自らの名を付した楽器が、今日かような形で脚光を浴びていることに、泉下の氏も、さぞ喜んでおられるだろう。

5・28(水)広上淳一指揮NHK交響楽団

   サントリーホール  7時

 シューベルトの「交響曲第5番」に、マーラーの「交響曲第4番」を組み合わせたプログラム。

 シューベルトが、最近の演奏会としては思いのほか大きな弦編成で━━私の席の位置からはしかと確認できなかったが、14型か? コントラバスは6本だった━━演奏されていたが、こういうのも悪くない。
 とにかく非常にふくらみのある、レガート気味の柔らかい音が印象的だった。広上の指揮も極めてストレートで、これ見よがしの誇張など一切行わない。強いて言えば1か所だけ、第1楽章展開部の終りで、下行する第1ヴァイオリンがフォルテから突然ピアノに変わるところ(第161小節)で、ハッとするほどソフトなレガートを利かせたくらいだろうか。

 総じて広上は、N響楽員たちの腕を信頼して楽しむかのように、ゆったりと、楽々と歌わせて行ったという感だ。それはマーラーの「4番」でも同様であった。
 ただ、そのように率直な語り口でありながら、それが全く無味乾燥な、機械的なものにならず、実に瑞々しく美しい音楽となっていたところが、広上の卓越した腕の冴えというべきかもしれない。

 N響も、サントリーホールの豊かなアコースティックに乗って、この上なくたっぷりとした演奏を繰り広げていた。かように美しいマーラーの「4番」は、なかなか聴けないだろう。フィナーレの最後も、高く低く、安息に満ちて漂いつつ、次第に沈んで行くようなオーケストラの音色が美しい。コンサートマスターの篠崎史紀のソロをはじめ、ホルン、クラリネット、イングリッシュ・ホルンなど各パートのソロも、良かった。
 ソプラノのローザ・フェオラは、私は今回が初めて聴いたが、声はあまり大きくないものの、清純な雰囲気の持主である。

5・27(火)マルク・アルブレヒト指揮東京都交響楽団のコルンゴルト

     サントリーホール  7時

 コルンゴルトの「交響曲嬰ヘ調」がプログラムに乗せられた。
 このところのコルンゴルト・ブーム。この交響曲がメジャーなオーケストラで演奏される機会は珍しいし、このために集まって来たコルンゴルト・ファンも多いだろう。

 何しろ指揮があの勢いのいい(?)マルク・アルブレヒトだ。当然、プレヴィンやウェルザー=メストの指揮で聴くのとは違って、もう少し「現代音楽的な色合いの濃い」演奏が聴けるのではないかと予想していた。案の定、かなりシャープで精悍な顔つきを持つコルンゴルトが現われた。
 みずから闘争的な身振りで指揮をするM・アルブレヒトは、それに見合った、やや荒々しく攻撃的な響きを都響から引き出す。そのため、いわば後期ロマン派の残滓を拭い去った感のある鋭角的な「交響曲嬰へ調」の姿が浮き彫りになる。各声部も明晰に抉り出され、コルンゴルトの管弦楽法の巧みさも鮮やかに浮き上がっていた。その意味では、極めて面白いものがあった。

 だがその一方、じっくりと聴いているうちに、このコルンゴルトの音楽というのは、やはり後期ロマン派の精神的な助けをある程度借りないと、その最良の親しみやすさは弱められてしまうのかな、という気もしないでもなかったのだが・・・・。
 しかしとにかく全曲50分、大いに興味深い時間を過ごすことができた。よくぞこの曲を取り上げてくれた、と思う。

 プログラム前半で演奏されたのは、イスラエル出身のピアニスト、サリーム・アブード・アシュカールを迎えての、メンデルスゾーンの「ピアノ協奏曲第1番ト短調」だった。
 ここではM・アルブレヒトも、彼がこんな音をつくるのかと驚くような柔らかい音を都響から引き出す。その豊麗でロマンティックで、軽快さにあふれた香りが、第2部でのコルンゴルトの世界との鮮明な対比を為し、プログラミングの妙味をつくり出していたことは、言うまでもない。
 なお、ソロを弾いたアシュカールという人は、初めて聴く機会を得たが、なかなか好い。両端楽章での幸福感に満ち溢れた活気や、第2楽章での晴れやかな叙情を、実に見事に再現してくれた。ソロ・アンコールでのシューマンの「トロイメライ」も、美しい瞑想。

5・26(月)METライブビューイング
モーツァルト:「コジ・ファン・トゥッテ」

   東劇  6時30分

 4月26日のメトロポリタン・オペラ上演ライヴ映像。

 音楽監督ジェイムズ・レヴァインが先日の「ファルスタッフ」に続き、復帰シーズン第2作を指揮して万雷の拍手を浴びていた。録音で聴く範囲では、演奏も生き生きしていて、調子を充分に取り戻したようである。「帰って来たジミー」ということで、オーケストラや歌手たちも盛り上がっているためもあるだろう。

 男声陣――マシュー・ポレンザーニ(フェルランド役)、ロディオン・ポゴソフ(グリエルモ)、マウリツィオ・ムラロ(ドン・アルフォンゾ)はまず無難な出来だが、女声陣――スザンナ・フィリップス(フィオルディリージ)、イザベル・レナード(ドラベッラ)、ダニエル・ドゥ・ニース(デスピーナ)がいずれもチャーミングで生き生きしていて、素晴らしい。
 フィリップスとレナードがまた絶妙な姉妹役だ。顔つきからして、前者がおっとりとした雰囲気、後者が闊達な雰囲気。2人の対照的な性格が原作どおり、そのまま表現されている。フィリップスはたしか7月下旬の西宮での佐渡裕指揮の「コジ」で、ダブル・キャストでこの役を歌うはず。聴きに行きたくなった。
 そして、ドゥ・ニースの芝居達者なこと!

 今回の演出は、アメリカの女性演出家レスリー・ケーニヒ。すでに1996年から上演されている舞台だそうで、METの資料を読むと、「最初の舞台はアルベルト・ヴィラールの助成により制作」という懐かしい名前が出ている。ヴィラールとは、人も知る、当時METからマリインスキーまで、世界中のオペラ上演を支援した大金持だ。その後大損をしたらしくて姿を消してしまったが・・・・。

 とにかくこれは、時代も18~19世紀あたりに設定された極めてトラディショナルな舞台で、ラストシーンも今どき珍しく「一切を水に流して仲直り」という、ト書き通りの演出になっている。刺激的な新解釈は全くない。が、気を遣わずのんびり観ていられるという良さはあるだろう。
 とにかく、モーツァルトの音楽が、あまりに素晴らしい。それだけで充分なくらいだ。
 上映時間は休憩を含め3時間46分。

5・25(日)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団新潟定期公演
ベルリオーズ:「テ・デウム」

    りゅーとぴあコンサートホール  5時

 昨日東京で聴けなかった演奏会を、新潟へ行って聴く。何しろプログラムが珍しいし、特に「テ・デウム」は3年前の3月定期で予告されていながら、東日本大震災の余波で演奏会の内容が変更されたため聴けなかったものだからだ。しかも今回はペンデレツキの歌曲も入るというプログラムであり、なおさら聞き逃せない。

 この新潟の「りゅーとぴあ」(新潟市民芸術文化会館)に行くのも、本当に久しぶりだ。以前は、東響の新潟定期演奏会評を地元の新聞に寄稿するため、しばしば訪れていたものだが・・・・。客席数2000、内部は明るい色調をもつ軽快な感じのワインヤード型のホールである。竣工以来すでに16年、音の鳴りもよくなって来ている。

 さて、今日もまた、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」で幕開け。スダーンらしく歯切れのいい、曖昧さを排除した、明晰きわまる音づくりの快演であった。

 次がペンデレツキの、2008年作曲による歌曲集「中国の3つの歌」。あのマーラーの「大地の歌」でおなじみのハンス・ベートゲの詩集による作品で、「神秘の笛」「月出ずる夜」「夜の風景」から成る。
 曲想は、中国の音楽ではないが中国を連想させる音楽、といったものだ。音楽の色合いとしては、マーラーの「大地の歌」の影響なしとは言えず。やはり欧州では「中国の歌」というと、どうしても「大地の歌」が一種の規範みたいになるのか? 
 管弦楽は極めて色彩的で、「夜の風景」などでは転調も美しく、神秘的な趣を呈する。音楽にはマーラーとシェーンベルクとを融合させたような色合いがあるが、しかしそれらを超えるとまでは行かない。むしろ過去のロマンティックな作風も取り入れられているところに、ある種の面白さと、同時に物足りなさがあるだろう。

 今回は、当初予定されていたマルクス・ヴェルバが来日できなくなったため、フランコ・ポンポーニが登場した。写真で見るとプロレスラーかラグビーの選手みたいに逞しい顔と体躯だが、張りのあるきれいな声のバリトンで、好い歌唱を聴かせてくれた。こういう曲を聴けたのは幸いである。

 プログラムの第2部に、ベルリオーズの大作「テ・デウム」が置かれる。合唱は前夜の東京公演とは違い、地元の「にいがた東響コーラス」と、新潟市ジュニア合唱団が受け持った。人数はかなり多い。よく頑張って、しっかりした合唱を聴かせた。しかも、すべて暗譜で歌っていたのは立派なものである。ただ、3階席で聴いた感じでは、オルガン(演奏者の表示なし)と合唱の音量がかなり大きく、オーケストラがマスクされる傾向があったように感じられた。テノール・ソロは今日も与儀巧(二期会)が歌い、これもまた立派な歌唱を聴かせてくれた。
 
 「テ・デウム」はベルリオーズ45歳の作品で、「ファウストの劫罰」(42歳)と「キリストの幼時」(50歳)の間に位置する。彼の宗教音楽としては「レクイエム」(33歳)ほどの魅力はないけれども、率直な勢いを持った良さがあるだろう。全曲最後の管弦楽のみによる頂点はすこぶるダイナミックであり、スダーンもがっしりと音楽を盛り上げて構築し、堂々と鮮やかに結んで行った。
 なお、付録の「行進曲」は、ベルリオーズの作曲時の意図を鑑み、今回は演奏に含めなかったとスダーン自身が語っている(プログラム掲載の記事による)。

5・24(土)広上淳一指揮京都市交響楽団

   京都コンサートホール  2時30分

 今や関西オーケストラ界のトップに立ち、全日本のオーケストラの中でもベスト5、いやベスト3の中に入ろうかという京都市交響楽団。
 先日(3月16日)の広上淳一指揮による東京公演でのマーラーの「巨人」は、度肝を抜かれるほどの見事な演奏だった。それゆえ、今回のベルリオーズ&プーランクというフランス・プロをこのコンビがどう演奏するかが聴きたくなって、京都に足を運ぶ。今日の客席は、3階のバルコン席の一部を除き、ほぼ満員の状況である。

 私が京都市響を初めて聴いたのは1973年、山田一雄の指揮による東京公演、オネゲルの「ダビデ王」をFM東京で録音し放送した時だった。爾来40年にわたりこのオケを聴いて来たが、今ほど高い演奏水準を実現していたことはかつてなかったという気がする。それもこの3、4年の間に、急激に右肩上がりの上昇線を辿って来たのではなかろうか。
 現在、定期公演は完売なので、来シーズンからは聴衆のニーズにこたえるため「プログラムによっては定期2日公演」の計画もあるとかいう噂も聞く。喜ばしい状況である。

 その好調の立役者が、常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーの広上淳一だ。在任期間もすでに6年を超えた。今日も彼の指揮。結論から先に言うと、実に見事だった。高い新幹線代を払っても、遠路遥々聴きに来て損はしなかったと思う。

 ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」の冒頭から、素晴らしく張りのある音と熱気が噴出して来る。各パートの音も明晰で、ベルリオーズの並外れた狂騒の音楽が充分に生かされつつ、それらは確然と構築された音の中にまとめられる。
 しかもそれは、かなり骨太な、剛直な、アタックの明快な音楽づくりだ。その指揮のスタイルは、以前の広上とも、また他のオーケストラを指揮する今の広上とも、やや違う。先日聴いた「巨人」の時にも感じたことだが、それは何か、彼と現在の京都市響との組み合わせの際にのみ生れて来る演奏の個性、とでもいうべきものなのか? このあたりは面白い研究対象になるかもしれない。

 2曲目は、プーランクの「めじか」。今年が初演からちょうど90年。これをナマで聴ける機会は、日本では不思議に珍しい。大いに愉しめた。ただ、その演奏は豪快でダイナミックで、プーランクの粋な表情や音色にはやや不足したかと思われる。とはいえ、プーランクの音楽に備わっているもう一つの特徴――躍動的な快活さは、余すところなく発揮されていた。

 第2部は、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」だった。初演からちょうど180年(1月にはカンブルランと読響の、先月にもデュメイ指揮の関西フィルの演奏を聴いたばかりだ)。
 広上と京都市響は、ここでも力感たっぷりの張りのある音で、壮烈なエネルギーを噴出させていた。客席にいると、オーケストラが自信を持って演奏しているという熱気のようなものが伝わって来る。こういう雰囲気は、指揮者とオーケストラの関係が絶好調の時にのみ感じられるものである。

 ヴィオラのソリストは川本嘉子。第1楽章でのソロ・ヴィオラの表情の多彩さと、広上が京都市響から引き出す雄弁な表情との対比で、主人公チャイルド・ハロルドの複雑に揺れる心が極めてリアルに描き出される。第2楽章の弱音個所におけるオケの多彩な変化も印象的だったし、第3楽章ではリズムの明快さが躍動的なセレナードを見事に再現していた。第4楽章の、ベルリオーズ得意の阿鼻叫喚の音楽は、すこぶる豪壮な演奏となって成功を収めていた。

 第4楽章の最後の頂点では、ソロ・ヴィオラはオーケストラと一緒に全部弾き続けて行ったが、これは標題音楽としての内容からすれば理屈に合わない――これではハロルドが山賊の仲間になってしまうことになる――ものの、ステージとしては、視覚的にも大いに盛り上がるだろう。
 なお、少しだけ出る弦のソリは、ヴァイオリン群の最後列の楽員たちが弾いたが、これも見事だった。
 この個所は、前出のカンブルラン指揮読響の演奏会で行なわれた奇想天外な、しかし標題音楽的にも筋の通った演出(1月14日の項)が忘れられないが、ストレートにやるのであれば、今日の広上=京響におけるような方法も悪くないだろう。

 全曲最後の狂乱は、整然たる構築を保った演奏の中に、剛直に昂揚して行く。叩きつける最後の和音の強靭さは、広上=京響の今日の素晴らしい演奏を象徴していた。
         ⇒音楽の友7月号 演奏会評

5・23(金)松本健司クラリネット・リサイタル

    逗子文化プラザホール なぎさホール  7時

 JR逗子駅から徒歩10分、京急新逗子駅から徒歩5分。逗子市の文化総合センターとでもいうべきこの建物の2、3階にあるのがこの「なぎさホール」だ。
 内部はシンプルな構造で明るい感じで、客席数は556。椅子はやや狭い。室内楽には手頃な音響と空間だろう。今回の主催は、浜松市に本拠をおく「みどり音楽企画」というマネージメント。

 松本健司は、人も知るN響の首席クラリネット奏者だ。今日の協演は、ピアノの横山幸雄と、特別ゲストの扱いのようなN響首席チェロ奏者の藤森亮一。
 松本さんご本人の解説によれば、彼と横山とは中学生時代から協演している仲だが、今回の3人が一緒に演奏できるようなことは「奇蹟的な」機会なのだそうだ。

 プログラムは、松本と横山のラボーの「コンクール用独奏曲作品10」とドビュッシーの「第1狂詩曲」、横山のソロでドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」と「喜びの島」、再び2人でプーランクの「ソナタ」。休憩後はブラームスが2曲で、藤森が加わった「クラリネット三重奏曲イ短調」と、また松本と横山の協演に戻って「クラリネットとピアノのためのソナタ第2番」。
 重量感たっぷりの選曲で、演奏も確固とした立派なもの、聴き応え充分なコンサートだった。お客さんもほぼ満員の盛況。

5・22(木)新国立劇場 R・シュトラウス:「アラベッラ」初日

    新国立劇場オペラパレス  6時30分

 2010年10月にプレミエされたフィリップ・アルロー演出(美術・照明も)によるプロダクションの再演。アルロー自身もちゃんと来ていて、カーテンコールに姿を見せていた。再演の際に当該の外国人演出家が立ち会う(せめて初日なりとも)のは、比較的珍しいケースだろう。

 今回は、ベルトラン・ド・ビリー指揮の東京フィルが演奏。
 音楽のつくりがおとなしいのはド・ビリーの癖でもあるが、オケ・ピットの下げ過ぎの所為もあるかもしれない。弱音の時には極めて柔らかくふくらみのある音を出して好ましいが、フォルテになると途端に平板な安っぽい響きになってしまうのが――今に始まったことではないが――残念だ。
 それに、音にもっと色彩の変化が欲しいところで、これは前回ウルフ・シルマーが指揮した時の東京フィルと同様である。だがまあ、東京フィルとしては、いい音を出していた部類に入るだろう。

 タイトル・ロールのアラベッラを歌ったのはアンナ・ガブラー。近年はエーファ(マイスタージンガー)やグートルーネ(神々の黄昏)などでも活躍めざましく、素質もある人だが、プリマとしての存在感はこれからだろう。第2幕のマンドリカとの愛の語らいの場面では高音域が苦しくてハラハラさせられたものの、第3幕では調子を取り戻していた。

 相手役のマンドリカにはヴォルフガング・コッホ。アルベリヒ(ニーベルングの指環)役で定評ある悪役ヅラには独特の個性があり(昨年のバイロイトの「指環」でのヴォータンも悪役然たるものだった)、熊と格闘もする無骨な田舎者という雰囲気はよく出ている。それゆえ、「礼儀正しい」場面よりも、怒った場面の方に良さがあり――特に第3幕、苛々して「みなさんお引き取り願えませんか」と怒鳴る場面など、さすがのド迫力であった。
 歌唱も演技も安定しているけれど、何か単調な表現にとどまっているのは、演出の所為もあるだろうが、どうもあまり気が入っていないようにも見える・・・・。

 ズデンカはアニヤ=ニーナ・バーマン、若いが好演していた。
 マッテオはマルティン・ニーヴァルで、特に第3幕の混乱の場面では一所懸命演じていたものの、まだ個性に不足する。
 ヴァルトナー伯爵は前回同様、妻屋秀和が歌い、巨体を利した演技でも貫録を発揮。フィアカミッリの安井陽子は好演、もうほんの僅か安定性があれば満点というところか。ほかに、竹本節子(アデライデ)、望月哲也(エレメル伯爵)、萩原潤(ドミニク伯爵)、大久保光哉(ラモラル伯爵)、与田朝子(占い師)ら。
 総じて、主役の外国人歌手4人が何となくおっとりと演技をしていたのに比べ、脇役の日本勢は駆けずり回って懸命に務めていたという感だ。

 アルロー演出については前回上演の項(10月2日)で書いたのとほぼ同じ印象。舞台はブルー系を基調とした美しい光景。
 ただし、登場人物それぞれの心理の綾を描き出すという点では、やはり些か甘いところがあり――たとえば第3幕での主役4人の演技はいかにもまだるっこしく、それぞれの心の揺れがあまり明確に描かれていないうらみがある。それがちゃんと描かれていないと、この物語は人間ドラマとしての深みに不足し、単なる「思い違いドラマ」の域に留まってしまうだろう。
 どちらかといえば、以前の鈴木敬介演出版(1998年と2003年に上演)の方が、脇役・端役・助演も含めて日本勢で固めた歌手陣の演技が細かかったような記憶もあるのだが・・・・。

 休憩2回を含め、上演時間は約3時間30分。

5・21(水)ヘルシンキ・アカデミー男声合唱団

    日経ホール  6時30分

 新しい日経ホールが大手町日経ビルの3階に竣工してすでに数年たつが、私にとっては、実はこれが初めての訪問だ。感じのいいホールである。

 地下鉄大手町駅からのアクセス方法といい、新聞社本社ビルに在るロケーションといい、ホール内部の雰囲気といい、単床式のつくりといい、椅子の構造といい、あのよみうり大手町ホールとよく似ている。新聞社がホールをつくるとやっぱり似て来るものなのか、などとは非論理的な考えだが、出来たのはこの日経ホールの方が先である。よみうり大手町ホールのキャパ501席に対し、日経ホールは610席。ホール内の壁面などの色合いは、こちらの方がぐっと明るい。

 今夜の公演は、ヘルシンキ・アカデミー男声合唱団。母体はヘルシンキ経済大学(現アールト大学)の合唱団で、創立は1949年の由。OBもかなりいるらしい。1997年から指揮者を務めているマッティ・アパヤラハティとの来日だ。
 今回のツアーはフィンランド政府公式助成事業で、東京2回のあとは佐久、高松、広島で公演という。

 いわゆる完璧な均衡のアンサンブルといったタイプの合唱団ではない。テナーのソリも少々素人っぽく、バスの最低音域の力にも物足りないものがある。が、ステージの雰囲気には、聴衆と一緒に楽しもうという雰囲気を感じさせるところがあって、これがこの合唱団の魅力の一つなのだろう。

 プログラムも非常に多彩だ。第1部ではマデトヤ、クーラ、ラウタヴァーラ、シベリウス、ハンニカイネンなどフィンランドの作曲家の作品集。そして第2部は、サン=サーンス、アルヴェーン、シューベルトなどの作品のほか、「刈干切歌」「津軽じょんがら節」、さらに「イェスタデイ」「マドンナ・メドレー」、アンコールでは「いとしのエリー」「世界に一つだけの花」まで披露、明るいステージとなった。

 日本ものはすべて日本語で歌ったのはもちろんだが、ステージ前方に出て来てソロを歌った歌手たちがすべて暗譜だったのには感心。「もともと特別なOnly One」と歌い終わったテナーの笑顔に、場内の拍手が湧いた。第1部でも、ハンニカイネンの「アンニの歌」を、美智子皇后による日本語訳詞で歌うというサービスである。

 マドンナ・メドレーでは、団員の1人が「(われわれの中には)マドンナハ イマセン。(デモ)モンダイアリマセン」と妙な挨拶をして指揮、全員が楽譜を下において暗譜でフリをつけながら歌ったのもなかなかのものだと思ったが、客席でも、私の隣にいた若い女性2人と、もう1人前の方にいた女性が一緒にノリまくっていたのは、微笑ましい光景であった。最近のクラシックの演奏会には、傍にいる人が音楽に合わせて楽しげに体を動かすことを煩がって嫌う人がやたら多いようだが、その人が音楽にノッて愉しんでいるのなら結構じゃないか、いちいち目くじらを立てることもなかろうに、と私は思う。
 終演後、メンバーの何人かが出口に立ち、客に挨拶したり握手をしたりして送り出すというオープンな雰囲気でもあった。

5・18(日)飯守泰次郎指揮日本フィル ハイドン:「天地創造」

   サントリーホール  2時

 ミューザ川崎での川瀬賢太郎指揮東京交響楽団の演奏会にも大いに興味があったのだが、なかなかナマで聴けぬレパートリーと、ベテラン指揮者に敬意を表して、こちらを聴きに行くことにした。声楽ソリストは鈴木愛美、小原啓楼、小森輝彦。合唱は日本フィルハーモニー協会合唱団、P席をいっぱいに埋めた300人(自分で数えたわけではない)。

 飯守泰次郎の指揮は、流石に流れが良い。全く誇張のない自然なテンポで、天地創造と人間の誕生の物語を温かく描く。
 実はこの曲、何年か前にザルツブルク・イースター音楽祭でラトルの指揮するのを聴いた際、レチタティーヴォのみならずアリアでもテンポを極度に誇張し、特に「und(そして)・・・・」(周知のとおり、この曲の歌詞には「und」がめったやたらに多い)を必ずと言っていいほど遅いテンポで物々しく歌わせていたのに、遂に苛立ちを抑え切れなくなったことがある。
 だが今日のようなテンポでストレートに演奏された場合には、ハイドンのオラトリオはいかに伸び伸びとしたヒューマンな精神をたたえた作品に聞こえることであろう!

 合唱団は大いに頑張った。しかし、かんじんの日本フィルの演奏は、少々気の抜けたものだった。このところ日本フィルの演奏は定期公演だけを、しかもラザレフと、インキネンと、山田和樹の指揮の時だけを聴き、オケの水準が目覚ましく向上したとベタ誉めしてばかりいたが、今日の演奏なんかを聴くと、どうも、そうとばかりは言えないようである。

5・17(土)山田和樹指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団

   日立システムズホール(仙台青年文化センター)コンサートホール  3時

 仙台フィルを1年3か月ぶりに聴きに行く。

 地下鉄旭ヶ丘駅で降り、道路の向こう側に一面に拡がる緑の森と、快晴の空と、澄んだ空気に陶然としつつホールに向かったが、チケットをちょっと見なおしたら「日立システムズホール」という表記が目に入り、これは演奏会場が変更になったのかと愕然。だがこれは、昨年夏にネーミングライツの適用があり、名称が変わっただけと判る。こういうケースは、以前、広島でもあった。遠隔地から訪れた者は、その都度慌てる、ということになる。

 プログラムは、プロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」(ソロはアリョーナ・バーエワ)と、マーラーの「交響曲第4番」。  

 大震災のあとに改装されたホールも建材が馴染んで来たのだろう、セメントのにおいも消えたのはもちろん、オーケストラの響きにもたっぷりした余裕が感じられるようになった。以前あったような「つまった響き」――つまりホールの狭さを感じさせるような音が全く消えていたのだ。
 もっとも、ある関係者の意見によると、ホールの音響が以前とは変わったのは事実だが、とりわけ今日は山田和樹のオーケストラの鳴らし方が並外れて見事だったからだ、とのこと。
 だが、仙台フィル自体も、舞台の構造も改造されたこのホールのアコースティックを完全に手の内に収めているのだろう。聴きやすい音であり、仙台フィルの良さが充分に味わえた演奏会だった。

 山田和樹は、来年日本フィルとマーラーの交響曲全曲ツィクルスを行なう予定が発表されているが、今回の「4番」もそれに期待を抱かせる好演だったと言えるだろう。
 特に第4楽章――指揮者によってはエピローグ的な色合いにとどめられることさえあるこの部分で、例の「鈴のモティーフ」を激しく慌ただしく響かせ、それにソプラノによる流麗な「天上の生活」の主題を和声的にも豊かに響かせて明確な対比をつくり出し、極めて存在感のあるフィナーレを構築していたのが印象に残る。最終部分、「喜びのために目を覚ます」の個所から消え入るように終る終結まで、陶酔的な美しさの、かつ謎めいた余韻を残す響きをオーケストラから見事に引き出していたのも快い(しかしこの終結でマーラーが書いた、歌詞の内容と音楽との不思議な逆説的な対比は、いったい何だ?)。
 ソリストの高橋絵里が、この歌詞が持つアイロニー感への踏み込みにやや不足するものの、伸びのある声で歌っていた。
 コンサートミストレスは神谷未穂、第2楽章のソロで活躍。

 プロコフィエフを弾いたアリョーナ・バーエワが素晴らしい。仙台フィルと協演するのは、意外にも2007年の仙台国際音楽コンクールで優勝して以来のことだという。東京ではすでに2008年にスクロヴァチェフスキ指揮の読売日響と、あるいは2011年のバシュメット指揮モスクワ・ソロイスツとの協演などを聴く機会があったが、聴くたびに音楽の柄が大きくなり、良い意味でのスター的な要素をどんどん強めて行っているのに舌を巻く。今日のプロコフィエフの「2番」も、伸びやかで、しかもあまり攻撃的にならない均整の取れた演奏は、実に魅力的であった。

 演奏開始直前に客席のどこかで携帯電話が鳴り出した。一体持主は何をやっているんだと言いたくなるほどそれは延々と続き、山田和樹も一旦指揮台を降りて待つ、という珍事が発生したが、バーエワがまるでその携帯の音に合わせるかのように軽くチューニングをしてみせたため、客席には笑いが拡がった。東京だったら、たちまち客席に舌打ち、ざわめき、苛々が拡がるところだろうが、こちら仙台のお客さんたちは大人で、じっと静かに音が収まるのを待っていた。

 最終の「はやぶさ」で帰京。速い。仙台―東京94分とは便利な時代になったものだ。
      ⇒モーストリー・クラシック8月号 公演Reviews

5・16(金)アルベルト・ゼッダ指揮東京フィルハーモニー交響楽団定期

    サントリーホール  7時

 第1部がシューベルトの「交響曲第3番」に、ロッシーニのカンタータ「ジョヴァンナ・ダルコ(ジャンヌ・ダルク)」。第2部はマリピエロの「交響曲第2番」に、ロッシーニの「ギョーム・テル(ウィリアム・テル)」からの「パ・ド・シス」「兵士の踊り」および「セミラーミデ」序曲。――シューベルトはともかくとしても、オーケストラの定期公演としては、極めて珍しいプログラムだろう。

 マリピエロの曲など、本当に最近トンと聴く機会がなかったなと思う。1960年代には、彼とかピツェッティとか、近代イタリアの作曲家の作品も時々ラジオや新宿の風月堂で聴けることもあった。
 ただ、あの頃は十二音音楽とか偶然性音楽とか、ミュージック・コンクレートとか電子音楽がブームになっていた時代で、われわれ生意気なガキどもは、「スタイルが古いね」などとケチをつけていたものだが、――それに私たちはマリピエロを、新古典主義作風というよりもロマン派の残滓みたいなイメージで聴いていたのかもしれず、それゆえその特徴を見誤る結果になっていたのかもしれない。

 だがいま改めて、しかもナマで聴いてみると、意外に新鮮だ。日本初演は1959年3月、レオーネ指揮東京フィルが行なっていたというが、その時はどんな反応だったのか知りたい気がする。

 珍しい曲といえば、ロッシーニの「ジョヴァンナ・ダルコ」も同様、現代作曲家シャリーノの手によりメゾ・ソプラノと管弦楽のために編曲された版がこうして紹介(日本初演)されたというのは、何とも嬉しいことだ。
 ソリストのテレーザ・イェルヴォリーノはまだ25歳だそうだが、瑞々しく力のある声でこの18分ほどのカンタータを歌い上げてくれた。

 その原曲の3年前に初演されたロッシーニの最後のオペラ「ギョーム・テル(ウィリアム・テル)」からの2つの舞曲も、演奏会で紹介されることは滅多にないだろう。
 昔――といっても1950年代後半から60年代にかけての頃だが、こういう曲は、ラジオの番組のテーマなどによく使われていたものである(昔はニュース番組から料理番組のテーマ曲、はてはニュース映画の伴奏音楽に至るまで、たいていクラシック音楽が使われていたのである・・・・夢のような時代ではないか?)。

 そもそもオーケストラの定期公演で「ロッシーニ・クレッシェンド」が聴けるということ自体が、珍しいケースだろう。その意味では、おなじみの「セミラーミデ」序曲がステージで「ちゃんと演奏される」のを聴けたのは、ありがたいことである(木管の一部は、もうすこしちゃんと吹いてもらいたいところだったが・・・・)。

 アルベルト・ゼッダが、実にいい味を出す。こういうイタリアものを瑞々しく、温かい情感をたたえ、しかも粋な感覚で聴かせる点で、彼は稀有の存在だろう。もう86歳だというのに、元気いっぱいの指揮ぶりだ。

5・15(木)マティアス・ゲルネのシューベルト:「白鳥の歌」

   紀尾井ホール  7時

 冒頭にベートーヴェンの連作歌曲集「遥かなる恋人に寄す」が歌われた。

 ゲルネは、シューベルトの歌曲集における表現とはうって変わって、全体に柔らかく明るく優しく、楽しげに歌いあげた。それがシューベルトでの、ある種の悲劇的な、激烈な感情表現と見事な対比をなすプログラム構成であったことは、いうまでもなかろう。最終曲「この歌を受けてほしい」の最後で、みるみるテンポを上げ、憧れが増して行くように昂揚するゲルネ、それとともに感情を高まらせて行くピアノのアレクサンダー・シュマルツ。

 ゲルネとシュマルツは一度袖へ引っ込んだが、ここでは休憩をとらず、またすぐ登場して「白鳥の歌」に入る。
 今回は、レルシュタープの詩に作曲された前半部分と、ハイネの詩に作曲された後半部分とを分割し、両者の間に、初めて20分ほどの休憩がおかれたのである。そして前半の「すみか(わが宿)」と「遠い国で」の間には、同じレルシュタープの詩による「秋 D945」が挿入され、かつ全曲最後のザイドル詩による「鳩の使い」は割愛されて、「影法師」で終了するという形が採られた。
 もともと「白鳥の歌」はシューベルト自身が連作歌曲集としてまとめたものではなく、出版社の手によるものだという経緯があるため、今回のように旧来の「白鳥の歌」を解体し、ザイドルの詩も削除して、「レルシュタープの詩による歌曲集」と「ハイネの詩による歌曲集」の結合の形を採るという考え方も、もちろん筋は通る。

 とはいえ、旧来の「白鳥の歌」にも、それなりの「いい流れ」があるのであって――あの緊迫感と凄みのある暗鬱な「影法師」が終ったあとにすぐ、ぱっと明るい光が射して来るような「鳩の使い」が始まることだって、あたかもモーツァルトの最後のピアノ協奏曲「第27番」のフィナーレと同じように、この世を超越した清澄な世界が突然出現したような感動を聴き手に与えるのではなかろうかという気もするのだが・・・・。
 あいにく当節は、そういう情緒的な感覚よりも音楽学的な筋道の方が優先する時代だから、「ザイドルは《白鳥の歌》から出て行け」という方が主流になってしまったようだ。ただしその場合、「鳩の使い」は、アンコール曲として補充(?)されることが多い。今夜も同様であった。

 ゲルネの歌は、この歌曲集でも、やはり豪壮な力感にあふれる。1曲目の「愛の使い」こそ、意外になだらかに、叙情的に、ささやくような表情で開始されたが、続く「戦士の予感」の途中からは、歌詞に応じて凄まじい劇的な表現になって行った。
 だが、「アトラス」のような全曲に怒りの感情に満ちた曲の場合は彼の声にもぴったりだろうけれども、「春の憧れ」の後半や「セレナーデ」の中間部など、いくら苛立たしい愛の感情が沸き起こる個所とはいえ、あまりにダイナミックな歌唱に偏りすぎるのではないか、という気もしてくる。
 フォルテはいかなる個所でも、まるで歌劇場で歌っているような強靭なフォルティシモになってしまう。いかにもゲルネらしい。

 最終曲「影法師」は、非常に遅いテンポが採られ、暗く陰鬱な表現から次第に激して、遂に耳を聾せんばかりの絶叫となった。この不気味な、悪魔的な内容の歌曲も、しかしこれだけフォルティシモで轟くように歌われてしまうと、少々疲れて来る。
 各曲におけるそれぞれの叙情と激情との対比、起伏の大きな表現には感服するが、やはり3日間通してこの物凄い声のシューベルトを浴び続けると、些か辟易の感を免れぬ、というのが本音だ。

 しかし、歌詞の内容に完璧に対応して感情の変化を描くシュマルツのピアノは、見事と言うほかはない。「セレナーデ」の叙情的な美しさ、あるいは「都会」での不気味な蠢動など、その表現のこまやかさ、多彩さはずば抜けたものだ。
 それにしても、やはりシューベルトは凄い。凄すぎる。恐ろしいほどの、魔性の世界である。このシュマルツの雄弁なピアノが、それをいっそう浮き彫りにする。
        ⇒音楽の友7月号 演奏会評

 旧い話になるが、1997年1~2月に、あの伝説的なバリトン、ヘルマン・プライが6夜にわたりサントリーホールで「シューベルティアーデ」を歌った時の素晴らしさは、今でも忘れられない。
 特にその最終夜、「白鳥の歌」での微細で精妙な表現と、温かい情感にあふれた歌唱は、如何に感動的だったか。劇的な「影法師」でクライマックスを築いたあと、一転して安らかな、しかし白々とした虚無感も漂うような「鳩の使い」に入った時には、それこそ涙が出そうになったものだ。

 だが、信じられないような事故が、そのさなかに起こった。あの名手プライが、なんと錯覚を起こし、間違えて、止まってしまったのである。
 ずっと譜面を見ながら聴いていた私も、一瞬オヤッと思ったのだが、それよりもさらに早く、隣で聴いていた畑中良輔氏が声にならぬ叫びをあげ、私の方へどっと倒れ込むように、何か口の中で言いながら、楽譜を覗き込むとも舞台を視るともつかぬ姿勢になって来た。プライの歌が止まったのはそれから2,3秒過ぎてからである。
 彼は「ごめんなさい」というような仕草をして、そのまま舞台袖に消えた。畑中氏が「あああ、(楽譜の)あそこへ行って(飛んで)しまっちゃだめなんだよ」と残念そうに呟いた。畑中氏は、それまでずっと目を閉じたままうつむいておられたので、失礼ながら眠っておられるのかと思っていたのだが、本当は全部聴いていて、頭の中でずっと一緒に歌っていたらしいのである。だからプライが間違えた瞬間に、誰よりも早く気づいたのだ。さすがは畑中先生、完璧な暗譜、凄いものだ、と私は改めて舌を巻いたものである。

 さて、プライは間もなく再び現れ、「鳩の使い」をもう一度最初から歌い直したのだが、――あの魔法のような美しさは、ついに再現されることはなかった。そして何か機械的な感じの歌唱のまま、このツイクルスは完結したのであった。後日放送されたNHKのテレビでは、たしか録り直しのテイクを併せた修正版が使われたはずである。
 当日の私の日記にはこうある・・・・「鳩の使い」の途中までの夢のような世界だけを永遠に記憶しておくことにしよう、と。
 

5・14(水)マティアス・ゲルネ シューベルト:「冬の旅」

  紀尾井ホール  7時

 「三大歌曲集」の中でも最も悲劇的でドラマティックな性格を持つ「冬の旅」だが、ゲルネの歌唱も、昨夜にも増して激情に富むものだった。

 歌詞の内容に応じて詩節ごとに表現を変化させて行く歌唱も、あるいは絶望感と怒りとを明確に対比させて行く歌唱も、アレクサンダー・シュマルツのピアノとともに鮮やかさを極める。一つ一つの曲の中でも歌詞に対応して感情の変化を大きな起伏で描き出して行く巧さは、これも昨夜と同様だ。

 第5曲「菩提樹」では、「冷たい風が僕の顔に吹きつけた」のくだりを、非常に激した表情で歌い、主人公の心を苛む孤独感を荒々しく表現していた。また第11曲「春の夢」でも、交互に現われる「夢」と「現実」の落差を激しく対比させ、主人公の苛立たしさを浮き彫りにする。同様に、第4曲「氷結」後半でのように、刻々と感情が昂って行くあたりの変化も、見事といってよかった。
 彼の歌でこの「冬の旅」を聴くと、この物語の主人公が如何にやり場のない「怒り」に苛立っているかが、鮮やかに感じ取れる。そしてミュラーの詩が、一つの曲の中で、明暗の感情を交互に、リアルに描き分けていることを、改めて聴き手に気づかせてくれるのである。

 その激情――苛立たしさ、怒り、絶望の爆発などの個所でのゲルネの歌いぶりは、とにかく凄まじい。第2曲「風見」の最後、第3曲「凍った涙」の最後、その他――あたかもオペラ座で歌っているような、この紀尾井ホールの空間には入り切れぬ感のある巨大な音量の声と、激烈な表情である。「菩提樹」の前出の個所など、基本的に叙情的な色合いの強い性格のこの曲の中では、あまりに咆哮しすぎた歌い方ではなかろうか? 
 全24曲のうち、大部分の曲で発揮されるこの物凄さには、私には些かついて行けぬものがある。

 この大きな起伏が多くの曲で繰り返されたあまり、かえって全曲の真のクライマックスの存在個所が曖昧になり、その結果、最後の「辻音楽師」における寂寥感、孤独感、絶望感があまり際立たなくなり、ドラマの謎めいた終結の印象を多少弱めてしまったのではないか、という気もするのだ。もちろん、沈潜した個所での表現に卓越したものがあったことを前提に言っているのだが。

 それにしても、シュマルツの演奏は、言いようのないほどの素晴らしさだった。「氷結」後半、ゲルネの歌唱に合わせてアジタートして行く呼吸の巧さ。また「菩提樹」の「冷たい風が・・・・」のくだりで、みるみる不気味に盛り上がり、主人公の心を震わせ、また収まって行く表情の豊かさ。あるいは、「かえりみ」最後での主人公の哀しみを受ける表現、「春の夢」最後の優しい哀しさの表現、「最後の希望」での揺れる心の描写など、数え上げればきりがないほどだ。
 ゲルネの歌唱が劇的であることは改めて言うまでもないが、このシュマルツのピアノがあってこそ、このように主人公の心理の動きが完璧に描き出された「冬の旅」となった、と言ってもいいだろう。
       ⇒音楽の友7月号 演奏会評

5・13(火)マティアス・ゲルネのシューベルト:「美しき水車屋の娘」

     紀尾井ホール  7時

 人気バリトン、マティアス・ゲルネの「シューベルト三大歌曲集連続演奏会」。初日はもちろん「美しき水車屋の娘」。ピアノの協演はアレクサンダー・シュマルツである。
 ゲルネの歌唱もダイナミックだが、シュマルツのピアノも卓越して表現が微細、素晴らしい歌曲の夕べとなった。

 ゲルネは、そのヘルデン・バリトン的なたくましい声の特質ゆえに、筋肉質でパワフルなシューベルト表現を展開する。顔の表情、身体の動きによる表現も大がかりで、時には完全に横を向いてしまうこともあり、あたかもオペラの演技のような趣を呈することさえある。
 ともあれ、彼の歌う主人公の「粉職人志望の若者」はひ弱な少年ではなく、とても川に身投げなどしそうもない、たくましい若者だ。それゆえ、怒り、悲しみ、苛立たしさなどの表現が、いっそう激しい。

 一方、叙情的な個所での歌唱にも優れたところが多い。第6曲「知りたがり屋」あるいは第8曲「朝の挨拶」での考え込むような歌唱表現も見事だ。特に後者では、この主人公は結局すべて独りであれこれ空想し、悩み続け、死を選んだに過ぎなかったのではないか、という物語さえ想像させるほどであった。

 各曲における起伏の大きさは、声のデュナミークの幅の大きさとともに、凄まじい。そして、物語の展開に応じた流れも見事だ。
 今回の彼の歌唱では、第11曲「ぼくのもの!」における勝ち誇った昂揚が、前半のクライマックスをつくる。第13曲「リュートの緑のリボンで」で幸福感に浸ると、アタッカで「狩人」に入り、恋敵の出現に苛立つような慌ただしい怒りの感情を爆発させ、それは次の「嫉妬と誇り」でますます激して行く。
 少し間をおいて入った「好きな色」で、一旦落ち着いた感情が少しずつ激して憂鬱感が増して行ったかと思うと、続く「いやな色」で苛立ちが最高潮に達する。こういう個所でのゲルネの身振りも、まるでオペラの舞台のようにドラマティックだ。

 それが最強音で結ばれたあとに始まる第18曲「しぼめる花」では、ゆっくりしたテンポの裡にいや増す悲しみが実に感動的に歌われ、ピアノが次第に打ち沈んで行く。ゲルネがここに全曲の真のクライマックスを設定していたことは明らかであろう。この曲では、客席はまさに水を打ったような静寂に包まれ、しわぶき一つ聞こえず、聴衆全員が息を呑んで聴き入るという雰囲気となった。

 そして、続く「粉職人と小川」では、もう深い悲しみはとどまることなく、声とピアノが旋律的な美しさをいよいよ強く感じさせながら進んで行く。「そのとき天使たちも翼をたたんで降りて来る」の「Und die Engelein・・・・」が、何と優しく、安らぎを感じさせて歌われたことだろう! 
 最後の「小川の子守歌」は、本当に安らかに、しかし絶望感を滲ませて歌われた。シュマルツのピアノは旋律的な美しさとともに和声の響かせ方も素晴らしく、ここまでの物語を情感豊かに、雄弁に描いて来たが、最後のこの曲での子守歌のゆらめきは哀切を極めた。大きなドラマがこうして終って行く、という感であった。
      ⇒音楽の友7月号 演奏会評


5・11(日)METライブビューイング プッチーニ:「ラ・ボエーム」

   東劇  7時

 さる4月5日のMET上演ライヴ映像。

 演出はあのフランコ・ゼッフィレッリ、もう30年以上も上演されている豪華絢爛たる定番の舞台だ。LDやDVDで映像も発売されているし、日本でも舞台上演されたことがある。
 ただ、こんなことを言うと嫌味と取られかねないけれど、この舞台はやはり、いかなる記録映像といえども、METの現場で観た時の豪壮さと美しさには敵うまい。第2幕の大掛かりな舞台、ひしめく大群衆、後方から現われて階段を降り、舞台を横切って行進して行く軍楽隊など、あのMETの舞台で観ると、本当にスペクタクルそのもの、画像には入り切れない光景という気がする。

 が、何と言っても圧倒的に素晴らしいのは、やはり第3幕の雪の場面である。たしか紗幕が使用されていたような記憶があるが、降りしきる雪と、家から漏れる灯火を反射して輝く雪の道、一度止んだ雪が恋人たちの別れの瞬間にまたひとしきり強く降り出す光景など、本当にため息の出るような、夢のような美しさなのであった。
 これが近接して収録された映像になると、そのあたりが少しリアルになって・・・・雪が少々汚い根雪みたいになっているのまで見えてしまい、興を殺がれるというわけだ。

 私がMETで観たオペラの中で、その「ため息が出るような」幻想的な美しさという点でこれに匹敵するのは、「魔笛」(ジュリー・テイモア演出・衣装、ゲオルギー・ツィーピン装置)の「夜の女王のアリア」の場面で、女王の衣装が輝きつつ暗黒の舞台いっぱいに拡がって行った光景である。あれも、映像メディア化するのは、至難であろう。

 ところで今回の「ラ・ボエーム」の話題は、ミミ役のアニタ・ハーティグ(ルーマニア出身、今年がMETデビュー)の急病降板を受け、クリスティーヌ・オポライス(ラトヴィア出身)が急遽代役を務めたことだった。
 オポライスは前夜「蝶々夫人」の題名役を歌ったばかり、その余波の興奮で朝5時まで眠れず、やっと寝入ったところへ、7時半に電話でたたき起こされ、「プロとしてやらないわけには行かない」とばかり引き受け、午前中にあれこれ打ち合わせをやって、午後の本番で舞台に立ったのだそうである。
 「METの歴史始まって以来、蝶々夫人を歌った翌日に昼公演でミミを歌うようなソプラノはいません。どうか皆様、彼女を応援してあげて下さい」とは、本番前に舞台に現われて挨拶した総支配人ピーター・ゲルブのコメントであった。

 なお共演は、ヴィットーリオ・グリゴーロ(ロドルフォ)、スザンナ・フィリップス(ムゼッタ)、マッシモ・カヴァレッティ(マルチェッロ)、パトリック・カルフィッツィ(ショナール)、オレン・グラドゥス(コッリーネ)他。世代もだいぶ入れ替わったものである。
 指揮はステファーノ・ランザーニだが、この人、どうも音楽にあまり熱気が感じられないのが惜しい。
 上映時間は2時間54分。私の方は所用のため、第3幕まで観て失礼した。 

5・11(日)ガエタノ・デスピノーザ指揮NHK交響楽団

    NHKホール  3時

 フランクの「交響曲ニ短調」とワーグナー作品集。

 ちょっと変わったプログラミングだが、いずれもがっしりとした構築性を備えた作品であるという点では共通している。しかも、客演指揮者デスピノーザが非常に丁寧にきっちりと音楽をつくるので、これらの作品の特徴がはっきりと生かされ、興味深い演奏会となった。
 このデスピノーザという指揮者はイタリア出身の若手(1978年生れ)で、つい数年前までシュターツカペレ・ドレスデンのコンサートマスターを務めていたそうだ。前回の来日時にはいずれも聞き逃してしまい、今回初めて聴く機会を得たのだが、これは端倪すべからざる指揮者だという印象である。

 フランクの交響曲では、N響を稀なほど豊かなふくらみのある音で鳴らし、柄の大きな演奏をつくっていたのに強い印象を受けた。しかも、実に真摯で、几帳面な演奏だった。

 いつも考えてしまうのだが、この曲、初めて聴く人はどうなのだろう、面白いのかしらん? 私自身は、昔NHKラジオの第1放送の「NHKシンフォニーホール」で、クルト・ウェスが指揮するN響の演奏で初めてこの曲を聴いた時には、えらくつまらなくて、解説書を一所懸命読みながら聴いたにもかかわらず、何が何だかさっぱりわからなかったという思い出がある。右も左も判らない子供だったから仕方がないが、その後ある雑誌で当時の大評論家たちがこの曲について「しかし正直なところ、最初に聴いた時はつまらなかったねえ」と話しているのを読んで、やっぱりそう思ったのは自分だけじゃなかった、と安心したものだった。
 作品の受容の仕方や好みは時代によって変化するものだから、今の人は別に問題なくこの曲を受け取れるのではないかと思うが、しかし今日のような生真面目かつ几帳面な演奏だと――それは大変立派な演奏だったことは間違いないが――初めて聴く人は心から愉しめたろうか、それとも・・・・などと、ちょっと余計な心配をしてしまうのは、放送局で番組を作っていた人間の性(サガ)かもしれぬ。しかし、いい曲だ(とってつけたような書き方だが)。

 第2部はワーグナー・プロで、「さまよえるオランダ人」から「オランダ人のモノローグ」、「トリスタンとイゾルデ」第1幕への前奏曲、「ヴァルキューレ」から「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」、「神々の黄昏」から「ジークフリートの葬送行進曲」。

 1曲目と3曲目には、マティアス・ゲルネ(バリトン)が登場した。彼の歌うワーグナーは、これまでヴォルフラム(タンホイザー)しか聴いたことがなかったが、今回のオランダ人も悪くはない。ただ、ヴォータンとなると、もう少し屈折した心理描写が求められるのではないか? 
 デスピノーザの指揮はここでも緻密な構築性を押し出し、特に「ヴァルキューレ」では濃密で豊かな拡がりをもった音楽をつくって、これはすこぶる名演であった。但し「葬送行進曲」では中間のクライマックス部分のテンポが速く、弾むようなリズムになってしまうのが納得行きかねる(こういう演奏をする指揮者はしかし多いのだ)。
 「トリスタン」も「葬送行進曲」も、演奏会用の結尾をつけた版で演奏するのかと期待していたのだが、前者はオリジナルのピチカートのままで、後者はハ短調の終結和音を1回付しただけで終ってしまった。

 しかし、フランクと同じく、このワーグナーでも、N響の弦は、実にたっぷりとした音を出し、ホールを満たすに充分な響きをつくりだしていた。これは、聴いていて実に気持が良かった。

5・10(土)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団
       コルンゴルト&ラフマニノフ

    横浜みなとみらいホール  6時

 コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」と、ラフマニノフの「交響曲第2番」。
 いい組み合わせだ。
 プログラムの解説(中村伸子さん)のタイトルにも「稀代のメロディーメーカー~20世紀のロマンティストたち」とある。この2つの作品の特徴を巧く要約した表現だろう。

 何しろコルンゴルトの協奏曲の第1楽章など、彼の映画音楽「砂漠の朝」他から転用された主題が何ともトロリとした美しさだし、第3楽章に現われる「放浪の王子」のテーマ(彼の影響を大いに受けたジョン・ウィリアムズの「ジュラシック・パーク」のテーマと雰囲気が似ている)も、不思議な懐かしさを醸し出す。
 そしてラフマニノフの「2番」と来たら、これはもう、よくもまあこんなに甘いメロディを次から次へ繰り出すものだと感心させられるほど、ねっとりとした交響曲だ。しかし、いずれもそれが何とも言えぬ魅力となっていることは、紛れもない事実である。

 この見事なほどに甘美な叙情性を湛えた2つの作品で、山田和樹は、実に濃厚きわまるカンタービレを利かせてくれた。それを受けて日本フィルが、これまたこのオーケストラには珍しいくらいのしっとりした味で歌い上げた。
 特にラフマニノフの第1楽章や第3楽章で、いや第4楽章においてさえも、これほど耽溺といってもいいような、何かに深くのめり込んだような演奏が日本のオーケストラから聴かれたことは、そう多くはないだろう。

 コルンゴルトの協奏曲では、オーケストラのアンサンブルはあまり完璧とは言えなかったものの、作品自体が持つまろやかな響きは、多くの個所で生かされていたように思う。
 ソリストの小林美樹も、官能的だが品のいい、清涼な叙情美を聴かせてくれた。演奏にもう少し張りのある音と音量があれば、もっとよかったろうが・・・・1階席で聴けばどうだったかは判らないけれども、私が聴いていた2階席センター3列目(屋根の下になる)では、ソロの音量はいかにも「遠く」聞こえ、第1ヴァイオリン群に埋没してしまうことが多かったのである。

 交響曲のあとにアンコールとしてラフマニノフの「エレジー」だかが演奏されるとかいう話を聞いていたが、山田とオーケストラはあっけなく一礼して退場した。まあ、アンコール曲があればあったで愉しめたろうが、何せコルンゴルト&ラフマニノフという濃厚きわまる料理のあとで更に甘美なアンコールが続くとなると、聴く方も美食に飽いた気分になるかもしれなかったから、これはこれでよかっただろう。
 ともあれ、聴き応えは充分。流行りの(?)コルンゴルトが聴けたのも嬉しかった。

 コルンゴルトの作品としては、今月27日にも、マルク・アルブレヒト指揮の東京都響が「交響曲」を演奏することになっている。これも楽しみにしているところだ。

 なお、山田和樹によるラフマニノフの「第2交響曲」は、昨年9月に仙台フィルを指揮したライヴ録音がオクタヴィア・レコードからCDで出ている(OVCL-00532)。なかなかいい演奏だ。

5・9(金)シャルル・デュトワ指揮ボストン交響楽団 「幻想交響曲」他

    サントリーホール  7時

 昨夜の公演は都民劇場の定期公演だったが、今日のこれは東京の一般公演(2回のみ)の初日。
 今回の日本公演は総計3回で、それに先立ち中国で4回の公演が行なわれていた。欧米のオーケストラには近年、中国公演の「ついでに」日本公演を行うという傾向が見られるという。以前は何でもまず日本で、ということが多かったのに――と、これはさる大手招聘マネージャーが語っていたことだ。

 今日のプログラムは、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲に、昨夜と同じチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはジャニーヌ・ヤンセン)、第2部にベルリオーズの「幻想交響曲」。

 デュトワは、「ルスラン」でも、「ヴァイオリン協奏曲」の第3楽章でも、痛快なほどの快速テンポで飛ばす。昨夜より引き締まった響きに聞こえたのは、ホールの所為もあるかもしれない。ヤンセンのソロも昨夜同様に艶やかだったが、第1楽章などではいっそう表情も濃く、念入りに旋律を歌わせていたようにも感じられた。

 後半の「幻想交響曲」では、デュトワもさすが練達の業というべきか。瑞々しい音色の弦楽器群や、腕利きの管・打楽器群奏者たちに満腔の信頼を置き、自らもそれらを楽しむかのように、いつもより更に大きな身振りの指揮で音楽に没頭していた。
 特に第1楽章序奏でのボストン響の弦の爽やかな清澄さと、ホールを満たす柔らかい拡がりは、舌を巻くほど見事なものだった。「幻想」をナマで聴いたのは数えきれないほどだが、この曲の序奏がこれほど豊かな音と雄弁な表情で演奏されたのを聴いたのは、もしかしたら今夜が初めてかもしれない。デュトワも、その弦を遅めのテンポで、たっぷりと歌わせていた。

 演奏は、やはり壮麗指向にある。ベルリオーズのなまなましい激情やデモーニッシュな狂乱といった要素は、もちろん無視されているわけではないものの、それよりも、いかなる怒号狂乱の中さえ一種の洗練された造型が感じられる、というタイプの演奏なのである。だがいずれにせよ、デュトワとボストン響の、おのおのの長所が最良の形で合致した演奏であったことは間違いないだろう。
 アンコールでのビゼーの「ファランドール」は、至極賑やかなお祭りの演奏という感があった。
         →モーストリー・クラシック8月号 公演Reviews

 1階席中央にはケネディ米国大使の姿も見えたが、第2部ではその隣に小澤征爾さんが座って一緒に観戦、ではなく、自らの定番たる「幻想」を古巣のボストン響がブリリアントに演奏する模様を見守っていた。
 思うに、長時間の指揮は無理としても、今夜あたり、昔ストコフスキーがフィラデルフィア管弦楽団の演奏会でやったように、小澤さんがアンコールだけ指揮台に飛び乗って「飛び入り」で指揮して見せるなどという洒落っ気の趣向があったら、どんなにお客さんが喜んだことだろう・・・・デュトワだって小澤さんより1歳年下なのだし、ここはほかならぬ東京、愛想のいい彼なら文句も言うまいが。

 なお、笑い話だが、第2部が始まる前に、ケネディ大使が舞台の写真を撮っていた。それはほんの一瞬の出来事で、殆ど誰にも気づかれないような早業だった。もし彼女がカーテンコールでまたそれをやったとしたら、果たしてレセプショニスト嬢が駆け寄って制止できるか、それとも米国のお偉方だからと遠慮するか・・・・興味津々で眺めていたのだが、残念ながら(?)そういうケースは起こらなかった(当たり前だ)。
 終演後、当然ながら小澤さんや大使は、退場する1階席前方の客の注目を集めていたが、見ていると、どうやら大使より小澤さんに人気が集まっていたような感じだったのが面白い。

 余談ついでに、もう一つ。
 ボストン響がシャルル・ミュンシュの指揮で初来日した1960年、その5月5日に日比谷公会堂で聴いた演奏会の1曲目が、やはり「幻想交響曲」だった。昔は、大曲を第1部におくプログラム編成も結構多かったのである。
 何せこちらも初心者だったから、詳細は解らなかったが、とにかく後半2楽章における大音響は、それこそ日比谷公会堂が崩れ落ちるんじゃないかと思うほどの物凄さだった。ミュンシュの指揮のもとでのティンパニは素晴らしく歯切れよく、小気味よく大きな音でたたきつけるのにも胸が躍ったし、ミュンシュの指揮棒がビュンビュン風を切ってしなるのも物凄い迫力に感じられたものである。

 その日のボストン響の音は、たしかに大きくダイナミックだったけれども、決して鋭角的でも攻撃的でもなく、ふわっとした柔らかさがいたる所に聴かれたという記憶がうっすらと残っている。
 第2部に演奏されたピストンの「交響曲第6番」とルーセルの「バッカスとアリアーヌ」第2組曲に関しては、全く記憶が残っていない(もったいない話だが、当時は未だ全くピンと来なかったのである)。むしろアンコールで演奏されたヘンデルの「水上の音楽」の「ア・ラ・ホーンパイプ」の、多分ハーティ編曲版による豪壮雄大な演奏と、メンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」の「スケルツォ」の管弦楽編曲版における、まるで妖精が風に飛び行くような軽快な演奏が、今なお記憶の中にある。

5・8(木)シャルル・デュトワ指揮ボストン交響楽団 ロシア・プロ

    東京芸術劇場コンサートホール  7時

 ボストン交響楽団は、米国東海岸の所謂「3大オーケストラ」の中では――NYフィルやフィラデルフィア管弦楽団に比べると、意外に来日回数が多くない。

 伝説的な巨匠シャルル・ミュンシュと初来日したのは1960年――これは日比谷公会堂で聴いた演奏が鮮烈な思い出となっている――だったが、そのあとは1978年に音楽監督・小澤征爾と来日するまで、18年も間が空いた。小澤征爾との来日はこれを含め1999年までの間に計6回行われたが、その後任音楽監督ジェイムズ・レヴァインの時代(2004~11年)には、彼の体調の問題やMETとの兼ね合いの問題もあって、ついに一度も来日が叶わなかった。
 従って、オーケストラとしては今回が結局15年ぶりの、通算8回目の来日公演ということになる。

 期待の新鋭音楽監督アンドリス・ネルソンスの就任は今秋からということもあって、今回は巨匠ロリン・マゼールの指揮での来日が予定されていた。が、好事魔多し、今度は彼の怪我(?)という理由で、指揮は急遽シャルル・デュトワに替わった。

 プログラムはすべて当初の予定通り。今日はムソルグスキー~リムスキー=コルサコフ編曲の「禿山の一夜」、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはジャニーヌ・ヤンセン)および「交響曲第5番」。文字通りの「ロシア名曲集」だ。
 昔は、アメリカのオーケストラはたいてい自国の作品を一つや二つ携えて来ていたものだが、今ではそういう気負いも消えてしまったらしい。

 とにかく今回の名曲集、マゼールならもう少しスリリングな、一癖も二癖もある企みに満ちた演奏をして、ユニークな面白さを引き出してくれるだろうと期待していたわけだ。が、デュトワはごくごくストレートな、壮麗かつ流麗な演奏を身上とする指揮者だから、これらの作品も真っ当なイメージで聴かせてもらうことになる。

 しかし、そういう華麗な音の正面切った演奏で聴くと、「禿山の一夜」は――昔は結構好きだった曲だったが――何とまあつまらないこと。ムソルグスキーの原曲は雑然、騒然としてまとまりがないこと夥しいが、それを上手くまとめ過ぎたこのリムスキー=コルサコフ版でも、同じ楽想ばかり何度も繰り返される愚作ぶりが浮き彫りになってしまう。魅力的なのは最後の「夜明けの場面」だけだろう。

 デュトワ=ボストンの演奏は、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」に至って、やっと「聴き応え」が出る。それは洗練され過ぎた音と表情ではあるが、まさに流麗、艶やかな織物ともいうべきものだ。しかも、ジャニーヌ・ヤンセンが銘器ストラディヴァリウスから生み出すブリリアントな、官能的な色合いさえ湛えたソロが、何にも増して素晴らしい。すこぶる爽快なイメージのチャイコフスキーである。

 そしてプログラム後半の「第5交響曲」は、予想どおり、これまた実に美しく、豪華極まる演奏だった。ただし、コクがない。第2楽章の終りのところや、第4楽章序奏などでは、その音響美もさすがのものという感があったが、結局、ただ豊麗に過ぎて行った世界、ということになろうか。昔のオーマンディの指揮が、ちょうどこんな風だった・・・・。

 とはいえ、ボストン交響楽団の魅力は、やはり充分なものがある。
 何より、弦がしっとりして美しい。かつてのボストン響の弦は、アメリカのどのオケとも違う洗練されて気品のある、落ち着いた瑞々しい音色を備えていたものだが、その伝統は今も生き続けているようだ。名門オケ未だ健在、という印象で、安心した。
 2階席正面最前列で聴いた範囲では、そのサウンドは大きくて美しい。特に弦を含めての爽やかで洗練された音色は、やはりアメリカの他のメジャー・オケからは聴かれないような特徴ではなかろうか。

5・5(月)ラ・フォル・ジュルネ(東京)最終日
鈴木優人指揮横浜シンフォニエッタ 

    東京国際フォーラムB7「ゲーテ」  5時45分

 再びメイン会場に引返し、4時15分からの主催者記者会見を取材したのち、横浜シンフォニエッタの演奏会を聴きに行く。
 同管首席指揮者の鈴木優人が、ベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番と、シューベルトの「未完成交響曲」を手がけるコンサートだ。

 なにも「ラ・フォル・ジュルネ」でなくても聴けるはずの顔ぶれではあるけれども、実は私はこのコンビの演奏、ふだんはなかなか聴ける機会がなかったので、これ幸いと飛びついたわけであった。この会場の音響では彼らの本領を聴くには決して充分ではないが、「渡邉暁雄音楽基金賞」(これは選考基準が極度に厳しく、ちょっとくらい有望な若手指揮者だからというだけで簡単に贈ってしまうというようなタイプの賞ではない)に携わっている立場としては、できるだけ若手指揮者の演奏会を聴く必要があるのである。

 期待の鈴木優人、エネルギッシュで推進性豊かな音楽づくりで、すこぶる好感が持てる。「レオノーレ」で主題の一部のフレーズを明確に区切って響かせたりするところ、ちょっと面白いことをやる人だなと思わせる。鍵盤奏者、作曲家、演出家としても活動していることが、彼の音楽に幅広さを持たせる点もあり得るだろう。今後いろいろ聴いてみたい指揮者だ。

 一方の横浜シンフォニエッタ、若々しい息吹がいい。ただし、アンサンブルや金管のソロ、木管のピッチ合わせなど、もう少し精密さも求めたいところではある。

5・5(月)ラ・フォル・ジュルネ(東京)最終日
ミシェル・コルボ指揮のドヴォルジャーク「スターバト・マーテル」 

   よみうり大手町ホール「プルースト」  2時30分

 今年からこの音楽祭の会場に、大手町の読売新聞社の中に出来た新しいホール(今年3月開場)が加わった。

 ただし本拠の東京国際フォーラムからは一寸距離がある。歩くと20分ほどだという。地下鉄かJRを使えないこともないが、時間的にはさほど変わらないようだ。会場直結のシャトルバスが用意されているものの、どこから乗るのだか甚だ判りにくいのが難点。公式プログラム(オフィシャルガイド)に小さな案内が載っているのは確かながら、それが何ページ目に出ているのかを探すのからして手間がかかる。これは、来年までに改善を要するだろう。

 だが、この音楽祭の会場の中では、ここは「よみうりホール」や「ホールC」とともに、数少ない「音楽会用ホール」だ。
 それゆえ、ミシェル・コルボが指揮するローザンヌ声楽アンサンブルによるドヴォルジャークの「スターバト・マーテル」を、ここで聴けたのは、幸いであった。ピアノ伴奏版で少々勝手が違ったとはいえ、抜粋演奏(第1~4曲、第8~10曲のみ)だったとはいえ、また残響がほとんどないホールのため合唱のちょっとした乱れも露呈されてしまうとはいえ、コルボのこの上なく美しいヒューマンな音楽を、極めて落ち着いた雰囲気で、存分に堪能することができたのである。

 なお、ソリスト陣は、マリー・ヤールマン(ソプラノ)、マリー=エレーヌ・リュシュ(アルト)、クリストフ・アインホルン(テノール)、ピーター・ハーヴェイ(バリトン)。ピアノはサイモン・サヴォイ。

5・4(日)ラ・フォル・ジュルネ(東京)2日目
プラジャーク弦楽四重奏団

     東京国際フォーラムB5「カフカ」  午後9時30分

 前回この音楽祭で聴いたのは、モディリアーニ四重奏団との協演コンサートだったと思う。今回は奇しくもその2団体それぞれの演奏を続けざまに同じ会場で聴く機会を得たわけだが、こういう趣向も「ラ・フォル・ジュルネ」の強みだ。

 この回のプログラムはモーツァルト集で、「弦楽四重奏曲第20番ニ長調K.499」と、フルートのジュリエット・ユレル(昨夜「動物の謝肉祭」でも吹いていた)が協演しての「フルート四重奏曲第4番イ長調」と「第1番ニ長調」。

 プラジャーク四重奏団――1972年から活動しているチェコの名門四重奏団で、その滋味あふれる演奏は温かい懐かしさを呼び覚ましてくれるが、流石に少し安定感が弱められたか? 第1ヴァイオリンの不安定さがことさら耳につくようになったのは、何とも寂しい限りである。若々しいモディリアーニの直後に聴いた所為か、「499」の最初など、古色蒼然、足取りがやや覚束なくなったような感じに聞こえたのにはギョッとしたくらいだ。だが演奏全体に流れるヒューマンな温かい感情は、やはりこの四重奏団ならではのものである。

5・4(日)ラ・フォル・ジュルネ(東京)2日目
モディリアーニ弦楽四重奏団

    東京国際フォーラムB5「カフカ」  7時45分

 2003年にパリで結成されたフランスのモディリアーニ弦楽四重奏団が、モーツァルトの「第6番変ロ長調K.159」と、ハイドンの「第81番ト長調作品77-1《ロプコヴィッツ第1番》」を演奏。

 「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」にはもう何度も出演しているから、国際フォーラムの会場についてもそれらの音響を知悉しているのだろう、このB5というカーペット敷きの会議室のような、しかも満席(250席強)の部屋でも音楽を巧く響かせてくれる。

 ただ今日は、以前に素晴らしい演奏を聴いた現代音楽やフランス音楽でなく、ウィーン古典もので――なにも彼らのそれをダメだなどと言っているのではないが、どういうわけかアンサンブルがかなり粗く、演奏の密度も何か薄かったような。・・・・本当にいい時のこの四重奏団は、こんなものではない。

5・3(土)ラ・フォル・ジュルネ(東京)初日
アルゲリッチ&クレーメル

    東京国際フォーラム ホールA「プーシキン」  午後10時15分

 「祝祭の夜」と題して追加されたプログラム。5000席があっという間に完売状況となったという。
 なにしろ、大演奏家マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)とギドン・クレーメル(ヴァイオリン)が出演するとなれば、その吸引力たるや絶大であろう。ただし良くも悪くも、あまり「ルネ・マルタン的」でない人選のような感はあるけれども・・・・。

 協演のアーティストを列記しておくと、酒井茜(ピアノ)、堀米ゆず子(ヴァイオリン)、川本嘉子(ヴィオラ)、ギードレ・バナウスカイテ(チェロ)、吉田秀(コントラバス)、ジュリエット・ユレル(フルート)、ラファエル・セヴェール(クラリネット)、安江佐和子(パーカッション)。
 このメンバーで、ストラヴィンスキーの「春の祭典」と、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」が演奏されたというわけである。

 アルゲリッチと酒井の「春の祭典」は、特に後半、流石の緊迫感を漲らせた。ナマのステージならではの面白さだろう。

 全員が演奏した「動物の謝肉祭」では、よれよれの足取りで進む「亀」の描写や、ピアノのうしろに隠れた位置で吹き、森の奥から響くような効果を出したクラリネットの「かっこう」など、随所にユーモアを散りばめた演奏を披露してくれた。
 ただ、「ピアニスト」での、アルゲリッチらが30年近く前に録音したCDにおけるような、ピアノの下手くそぶりが嵩じてアンサンブル全体までがバラバラになるようなジョークが今回聴けなかったのは、少々残念ではあったが・・・・。
 まあ、リハーサルをやる時間がどのくらいあったのか判らないし、特にこの巨大ホールの音響の問題もあるから、名手たちのお祭りということで楽しめば充分だろう。それにふさわしい演奏でもあった。

 2つの大スクリーンに投映される演奏者たちの笑顔が、とてつもなく美しく、素晴らしい。アンコールとして「動物の謝肉祭」のフィナーレが演奏されて、終演は午後11時30分となった。
 5000人の客がいっぺんに退場するのだから凄まじい。なかなか出口に辿り着けずにひしめいている客に向かって、「駐車場は24時に閉まりますのでお急ぎ下さい」などというアナウンスが流れ、客席からは失笑も漏れる。それでもこのホールは「動線」が比較的良いので、さほどの混乱はない。

 今回ただちに完売状況になった5000席の「ホールA」の公演のもう一つは、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」を入れたプログラムだったそうだ。「浅田真央効果」は歴然たるものだという(事務局談)。

5・3(土)ラ・フォル・ジュルネ(東京)初日
リスト:「十字架への道」

     東京国際フォーラムB7「ゲーテ」  午後0時30分

 プログラムは、「十字架への道 Via Crusis」。
 諸井三郎著「リスト」(音楽之友社 大音楽家・人と作品)には「キリスト受難14の札所」という邦訳タイトルで、また「ニューグローブ世界音楽大事典」(講談社)には「十字架の道」「十字架の道行き」「十字架の道行きの14留」などという訳で載っている、リスト晩年(1879年完成)の作品である。

 今回は、ジャン=クロード・ペヌティエのピアノと、ヤーン=エイク・トゥルヴェ指揮ヴォックス・クラマンティスの合唱とで演奏された。
 これは、まず滅多に聴けない曲だ。ナマで聴く機会も、私にとってはこれが最初で最後だろう。そう思って、このコンサートを聴きに行った。

 前記の「大事典」には、「終始抑制と信心深さを失わない一方で、この曲では実験的和声を徹底して用いており、その和声ゆえに奇異な雰囲気が生まれている・・・・この作品は心の深いところに触れる非常に感動的な作品である」(Humphrey Searle 野本由紀夫訳)という解説が載っている。
 本当にこれは――ちょっとシンプルに見えるが、まるで20世紀のシェーンベルクの作品だといっても通るくらい、前衛的な作風だ。

 ただし、美しいのは事実としても、極度に静謐な合唱と、極度にテンポが遅く最弱音が断続するピアノ(オルガン版だったら問題なかったろう)を聴くには、多大の精神的集中力を要する――私がキリスト教徒でないので尚更かもしれないが。
 とはいえ、貴重な体験だった。「ラ・フォル・ジュルネ」が家族向けの娯楽音楽祭としてだけではなく、このような晦渋でしたたかな作品をも取り上げて聴衆に新しい世界を紹介する姿勢を示すという、この演奏会はその一例であろう。

 今年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」は、日本独自の企画で、この10年の音楽祭に特集したいろいろな作曲家の作品を集めてのプログラムが組まれている。開催テーマとしては少々捉えどころがないという見方もあるが、それは大体ジャーナリストたちの意見だ。一般のお客さんたちとしては、むしろ取りつき易い内容となのかもしれない。

 この「十字架への道」演奏会で、私のうしろの列に座っていた若い女性同士がこんな話を交わしていたのが耳に入った――「ベートーヴェンだけとか、オール・ショパンとか、ロシアの曲だけとか、そういうのとは違って今年はいろんなのをやるから、聴きやすいわね」。
 ついでながら、その女性はこんなことも――「前に、朝10時から、ニワトリが食い殺されるとかいう曲、やってたじゃない?」。

 振り向いて「あれはニワトリじゃなくてアヒルじゃないですか? 食い殺されるのではなくて、丸呑みされるのでは?」と言うわけにも行かず、ひたすら笑いをかみ殺す。プロコフィエフの「ピーターと狼」の話であることは一目瞭然。
 それにしても、何とまあ、ユニークな視点からの簡単明瞭なストーリー要約であることか。私はそういう発想を聞くとたまらなく楽しくなる。

5・3(土)ラ・フォル・ジュルネ(東京)初日
ジュジアーノ・リサイタル

    東京国際フォーラムB5「カフカ」  午前11時

 恒例の巨大音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ」東京版が今日から開始。快晴に恵まれたこともあって、盛大な人出だ。

 まずはプロデューサーのルネ・マルタンのお奨めアーティストの一人、ヨーゼフ・モーグ(ドイツ生まれ、26歳)のリサイタルを選んだのだが、直前になって来日中止と発表された。痛恨の極みである。
 代わりに出演したのはフィリップ・ジュジアーノ。「ベスト・オブ・ショパン」と題して、「幻想即興曲」「雨だれ」「別れの曲」など、ヒット曲を11曲、実にサラリと、事もなげに弾いてしまった。

5・2(金)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルのブラームス

   サントリーホール  7時15分

 ハーディングと新日本フィルのブラームス・ツィクルスの第1回は、「交響曲第2番」と「第3番」。

 マーラー・チェンバー・オーケストラや、ドイツ・カンマーフィルなど「尖ったオケ」を指揮する時のハーディングと、ウィーン・フィルや新日本フィルなど基本的にピリオド楽器オケでない楽団を指揮する時のハーディングとでは、それぞれ全く別の指揮者のような異なった表現になることは、周知のとおりである。
 3年前にマーラー・チェンバー・オーケストラを指揮した「3番」や「2番」の一部を聴いた時にも、部分的にテンポやデュナミークの強弱にかなりの誇張があったことを記憶している。それゆえ、この新日本フィルとの演奏では、ストレートなスタイルを採ることはまず確実としても、ではその範囲でどんなブラームスを聴かせるのだろうか――というのが関心の的であった。

 さて今夜、ほぼ満席に近いホールで繰り広げられた彼のブラームスは、殊更な小細工の皆無な、しかし緻密かつ壮大な、大河の如き流れをもった「2番」と「3番」だった。ハーディングもこういう起伏の大きな、力感豊かな演奏のブラームスをつくることがあるのか、と、改めて感じ入った次第である。やはりこの指揮者、なかなかのクセモノというべきであろう。

 「2番」では、第1楽章冒頭から弦のしなやかな流れの美しさが際立ち、このところの新日本フィルの復調を更に強く印象づけた。終楽章では骨太な力感とストレートな昂揚感が際立っていたが、ハーディングのこういうスタイルの音楽づくりを聴いたのは、私は今回が初めてである。

 「3番」の方は、もっと面白かった。両端楽章を思い切り劇的に、中間2楽章はゆっくりと、自然な流れを以って緻密に構築する。それらが極めて分厚い響きで、いわゆる重厚壮大指向で演奏されていたのが、ハーディングの指揮としては珍しいものに感じられたのである。
 もっとも、新日本フィルの音が明晰で爽やかなので、それらは決して重苦しいものにはなっていない。特に第3楽章では、弦の羽毛のような柔らかい音色が印象的であった。

 ただ今回ハーディングが、第4楽章最後の9小節間で、弦の下行する16分音符のゆらめきをあまり明確に浮かび上がらせず、専ら管の終結和音のみを繰り返すような手法を採っていたことには、若干の疑問を抱く。この弦楽器群の下行は、第1楽章第1主題の遠いエコーであり、全曲を締め括るものとして重要な意味を持っているはずなのだが――。

 新日本フィル、先日の上岡指揮の時と同様、音が良い。

5・1(木)エフゲニー・キーシン・ピアノ・リサイタル

   サントリーホール  7時

 今年の来日リサイタル6公演、すべて同一プログラムとのこと。
 第1部がシューベルトの「ソナタ第17番ニ長調作品53」、第2部はスクリャービンの「ソナタ第2番《幻想ソナタ》嬰ト短調」と、「エチュード作品8」から7曲。

 なお今夜のアンコールは3曲で、バッハの「シチリアーノ」、スクリャービンの「エチュード ハ短調作品42-5」、ショパンの「英雄ポロネーズ」。5年前の4月にはアンコールで9曲を弾き、終演が10時10分になったほどの大変なリサイタルをやったキーシンだが、今回は3曲で終った・・・・このくらいが手頃ではなかろうか?

 シューベルトのソナタは、やや丸みのある音色で弾かれたが、当然これはスクリャービンの作品における硬質だが透明な音との対比を狙ったものだろう。いずれの作品の演奏においてもダイナミックな推進力と集中力が見事で、しかもそれらがしなやかな表情にあふれている。
 だが、圧巻はやはりスクリャービンの方だ。どんな激しいフォルティシモのさなかでさえ音は全く濁らず、一種の凄味をたたえた清澄な叙情感を漲らせているのであった。

 10代の頃から脚光を浴びていたキーシンも、もう満42歳。
 当時、ショパン・コンクールに優勝してTVでも紹介され、クラシック界のスーパー・アイドルとなったロシア出身のピアニストがいたが、識者の間では「実はこっちの方が大物かもしれんぞ」と早くから囁かれていたキーシンだった。以降、聴くたびに音楽に風格と深みを増して行く彼の演奏には感嘆の連続だった・・・・が、それと並行して異様なほどにアイドル化されて行くわが国でのキーシン像に戸惑いを感じたのも事実であった。

 その意味でも、今回のプログラムが、シューベルトの少々渋い存在(?)のソナタ1曲と、晦渋(?)なスクリャービンの作品集だけで構成されたところに、日本の聴衆に対するキーシンの挑戦のようなものを感じて、非常に興味深く思っていたのである。――などと言ったところで、これは全く私の勝手な解釈に過ぎないのはもちろんだが。

 ところで今日の客席にも、先日のラン・ランのリサイタルと同様、相変わらず女性が多かった。それはそれで結構ではある。だが、彼女たちは、こういうピアニストのコンサートにしか来ないのだろうか? メインのプログラムであるスクリャービンの作品の演奏の時には普通に拍手をしただけで、おなじみの名曲「英雄ポロネーズ」の華やかな演奏には総立ちになって歓声を上げるというのも、やっぱりおかしな話だ。
 同じく名曲「シチリアーノ」の静かな最後の音が消えぬうちにバカでかい声でブラヴォと喚いた男(こういう口汚い表現は使いたくないが、今回だけは別だ)にも、それほど喚きたいなら、あんなに素晴らしい演奏だったスクリャービンの時にはなぜ黙っていたのか、と皮肉の一つも言いたくなるというものである――。

 余談はともかく、もちろん、スクリャービンのソナタが終った時のホール全体の拍手は、ひときわ大きく、真摯なものだった。多くの聴衆が彼のスクリャービンを流石の演奏と受け止めたことは、間違いない。それはキーシンにも充分理解してもらえただろうと思う。

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