2017-05

4・30(水)モイツァ・エルトマンとグザヴィエ・ドゥ・メストレの協演

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 ソプラノとハープとの協演というのは珍しい。音色からして、何となくエレガントな雰囲気を醸し出す。
 モイツァ・エルトマンは楚々とした美女だし、グザヴィエ・ドゥ・メストレの方も貴族的な容姿と風貌をもった青年だし、ハープという楽器もまたああいう優雅な形状だから、視覚的にもシンプルながら洒落た光景になっていた。

 今回はシューベルトの「至福」など6曲の歌曲と、R・シュトラウスの「万霊節」など6曲の歌曲、それにモーツァルト、ベッリーニ、ヴェルディ、サリエーリ、プッチーニのオペラからのアリアなどによるプログラムが組まれていた。またドゥ・メストレはソロでモーツァルトの「ピアノ・ソナタ ハ長調K545」とスメタナの「モルダウ」の編曲版(!)を弾いた。

 先ず何より、そのドゥ・メストレのハープの巧いこと、上手いこと。「セレナーデ」(シュトラウス)での真珠の煌めきのような細やかな音の粒といい、「モルダウ」での自在のテクニックといい、まさに水際立った鮮やかな演奏である。
 6年前の11月、彼がまだウィーン・フィルの奏者だった頃に来日して行なったリサイタルでは、「どうだ、巧いダロ」と技術だけを誇示するような、中身のあまりない演奏だったけれども、さすがにウィーンで年季を積んだ今では、しっとりとした情感のある音楽を聞かせてくれるようになった。それに当然のことだろうが、歌に「合わせる」弾き方も見事になった。

 エルトマンの方は、リサイタルを聴くのは、私は今回が初めてだ。声も清涼で綺麗だし、若々しく清純な表情がいい。
 だがやはり難しいもので、歌詞に対応する微細精妙なニュアンスが最大限に発揮されていないと、どの曲もみんな同じように聞こえてしまうことになる。特に今夜は、歌曲でそれを強く感じさせられた。彼女のその歌い方に合致した曲もあるが、一方、ただ綺麗だけでは表現しつくせない曲もあるだろう。
 たとえば「糸を紡ぐグレートヒェン」など、もう少し哀しみと、愛に対する不安の念とを感じさせるような精妙な表現で歌われないと・・・・。

 3年前にMETで聴いた「ドン・ジョヴァンニ」のツェルリーナや「ジークフリート」の「森の小鳥」の役での彼女は本当に素晴らしく魅惑的だったが、今夜もどちらかといえばオペラのアリアの方に、彼女の愛らしい声質による性格づけがよく出ていたのではないか、と思う。

4・29(火)オーギュスタン・デュメイ指揮関西フィルハーモニー管弦楽団

    ザ・シンフォニーホール(大阪)  2時

 音楽監督デュメイの指揮でこのオーケストラを聴くのは、2年ぶり3回目。
 今回は「フレンチ・コネクション」と題され、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、フォーレの「ペレアスとメリザンド」組曲、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」(ヴィオラのソロはジェラール・コセ)が演奏された。

 私の好きなフランス・プログラムだし、それにデュメイのお国ものは如何なる感じなりや、それを演奏する関西フィルも如何なりや、と興味が湧いて聴きに行ったというわけだ。
 結論から先に言うと、出来栄えは、なかなか良い。藤岡幸夫や飯守泰次郎が指揮した時とは全く異なる、織物のような手触りが演奏に感じられて、関西フィルの多様な表現力を認識することができた。

 眼を閉じて聴き始めたら、「牧神」の冒頭のフルートがなにかイン・テンポ(のイメージの演奏)に聞こえてきて、オヤオヤと思ったが、目をあけてデュメイの指揮を見ると、かなり細かく振っている。ちょっと心配になったが、しかしオーケストラは間もなく、そのフルート・ソロを含め、極めてしなやかな表情に変わって行った。
 とはいえ聴いていると、デュメイの狙いはどうやら幻想的な「牧神」よりも、現代風の明晰な、隈取りの明確なドビュッシーを描き出すことにあったように思われる・・・・。

 それは次のフォーレでも同様で、私の好みから言えば、「前奏曲」にせよ「メリザンドの死」にせよ、もう少しふくよかな響きと夢幻的な叙情感があって、そくそくたる哀しみの表現ももっとあったらいいのに、などと思うところではあった。だがデュメイのこの曲における解釈が、そんな過度に甘い情感を抑制するところに在るのなら、それはそれでひとつの主張である。なお、この2作品における木管のソリは、いずれも美しかった。

 「イタリアのハロルド」は、とりわけ劇的な演奏というほどではなかったものの、関西フィルの均衡を備えたアンサンブルが印象に残る。
 ジェラール・コセは、思いのほか抑制した音色と表情でソロを展開していて、それはバイロンの詩に描かれるチャイルド・ハロルドの姿としては、やや物足りなさを感じさせるものだった。

 やはりコセも、標題音楽を劇的に強調することはあまり好まないのかな、あるいは今日の楽器が「鳴らない」のかな、とさえ思わせたが――ところが、彼がアンコールで、「ハロルド」の時よりも2、3歩前に出て、舞台前方いっぱいの位置に立ってバッハの「無伴奏チェロ組曲第2番」の「プレリュード」を弾いた時の、朗々として深みのある豊かなヴィオラの音といったら・・・・。

 それはまさしく名手ジェラール・コセの本来の演奏であり、ホール内のすべてを包み込んでしまうような存在感にあふれていたのであった。かりに彼が「ハロルド」を、そのあたりに近い立ち位置で弾いていたとしたら、もしかしたらこの曲の主人公は、もっと激情的で悲劇的な性格に描かれたかもしれず・・・・。
 しかしその一方、第2楽章の「巡礼の行進」の部分では、デュメイの沈潜したテンポと音量がヴィオラのソロをよく浮き立たせていて、物思いにふけるハロルドの姿をうまく描いていたように思う。

 デュメイと関西フィルは、コンサートの最後にビゼーの「アダージェット」を演奏してくれた。弦楽器群の最弱音が素晴らしい。
 久しぶりに聴いた関西フィル、気持よいものであった。こうなると、6月の飯守泰次郎指揮による演奏会形式「ジークフリート」第3幕も楽しみになる。

4・28(月)ルートヴィヒ・チェンバー・プレイヤーズ

    めぐろパーシモンホール大ホール  7時

 これはシュトゥットガルト放送響のメンバーを中心に、2013年に結成されたアンサンブル。
 ヤニス・リーバルディス(ヴィオラ)、幣隆太朗(コントラバス)、ディルク・アルトマン(クラリネット)、ハンノ・ドネヴェーグ(デンネヴェーグ? ファゴット)、ヴォルフガング・ヴィプフラー(ホルン)の同響メンバーのほか、ヴァイオリンの白井圭とチェロの横坂源が加わる。

 昨年、このメンバーが「東京・春・音楽祭」でベートーヴェンの「七重奏曲」を演奏した時(ただしヴィオラは川本嘉子だった)には、未だ「ルートヴィヒ云々」の団体名称は使っていなかったが、その際に「このアンサンブルを続けよう」とメンバー間で意見が一致し、ベートーヴェンに因んだその名称を使うことにした、とのことである。
 今日のプログラムの第2部にも、その記念すべきベートーヴェンの「七重奏曲変ホ長調」がおかれていて、これは本当に作品への愛情と共感があふれた、気持のいい演奏だった。

 第1部にはロッシーニの「セビリャの理髪師」序曲(七重奏編曲版)、ニールセンの五重奏曲「甲斐なきセレナード」、ブラームスの「3つの間奏曲 作品117」(七重奏編曲版)が演奏され、またアンコールにはリムスキー=コルサコフの「熊蜂の騎行」とブラームスの「間奏曲 作品118-2」が、いずれも編曲で演奏された。これらもすべて、実に雰囲気の豊かな演奏だった。

 えてして、ドイツのオケのメンバーがこういう曲をやると――たとえばベルリン・フィル・オクテットのように――がっちりと固めてはいるもののクソまじめな演奏になることが多いものだが、このルートヴィヒ・チェンバー・プレイヤーズの演奏には、真面目な中にも一種のくつろぎと明るさが感じられる。ロッシーニにしてもブラームスにしても、編曲版でありながらもオリジナルの作品のイメージがはっきりと蘇って来るといった、実に生き生きした情感が聞き取れるのである。
 そして、そのくつろぎ感を演奏の上でつくり出すのに、日本人の横坂と幣が極めて大きな役割を果たしているように感じられて、これまた愉しかった。

4・27(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団&佐藤卓史

    東京オペラシティコンサートホール  2時

 第1部のプログラム、ウェーベルンの「管弦楽のための5つの小品」と、シューベルトの「交響曲第4番《悲劇的》」は続けて演奏されると聞いて、今回はノットの所期の狙い通りかと思われたが・・・・しかし、前者の終結の静寂の中から「悲劇的」の強い和音の一撃が開始されるのかと思いきや、やはり「まず1曲終りまして」という調子で、譜めくりやら一呼吸やらで、かなり間が空いた。

 それに、前任音楽監督スダーンがあれほど切れ味のいい演奏でわれわれを魅了したシューベルトの「第4交響曲」を、ノットがそれと張り合うかのように取り上げたからには、どんな独自の個性を発揮するのかと期待したのだったが、思いのほか響きも重く、さほど活気も新鮮味も感じられない演奏になっていた。これは、少々期待外れである。

 だが、第2部でのブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」では、その重厚な音が100%生きた。すこぶる音の層の厚い、壮大なブラームスで、これはこれで主張が感じられる。
 今日のノットは、先日のマーラーにおける演奏とは一変して、まるでドイツ音楽の伝統の世界からやって来た指揮者のように聞こえた。バンベルク響との活動も長い人だし、かつて同響と来日した時にも重厚なブラームスを聴かせていたことがあるから、やはりこれも彼のスタイルの一つなのかもしれない。

 ピアノのソロは、東京藝大からウィーン国立音大に進んだ若手、佐藤卓史。彼のコンチェルトを聴くのは昨年の浜松国際コンクールでのショパンの「1番」以来だ。あの時は非常にきれいな演奏をする人だと思ったが、今日のブラームスでの張りのある演奏の中にも、その透徹した音色と表情が生きている。ベーゼンドルファーのピアノの音色も澄んで快い。もっとも今日は、コンチェルトの演奏としては、第1楽章の展開部が終りに近づく頃からまとまりが出て来たかな、という印象も。

4・26(土)ラン・ラン ピアノ・リサイタル モーツァルト&ショパン

     サントリーホール  7時

 日本フィルの定期が終ったあと、同じホールで今度はラン・ラン(郎朗)のリサイタルが行なわれた。
 第1部に、モーツァルトのピアノ・ソナタから「ト長調K283(189b)」「変ホ長調K282(189g)」「イ短調K310(300d)」。第2部がショパンの「4つのバラード」。

 久しぶりに聴いたラン・ランは、なにか猛烈な自信と気魄を感じさせるようなステージ姿になっていた。登場した瞬間から片手を高く挙げて会場を沸かせ、中央に立つと「来てくれてありがとう。今日は君たちのために演奏するよ」と言わんばかりに両手をさしのべて聴衆へアピールする。クラシックの演奏家としてはまず滅多に例を見ない派手なジェスチュアだ。客席を埋めた圧倒的な数の女性ファンは、これでいっぺんに陶酔してしまうのかもしれない。

 演奏も、シリアスだが、大胆なスタイルにあふれている。モーツァルトでは、整然たる音の積み重ねという古典派音楽的なモーツァルト観から離れ、時にはシューベルトの作品のように、時にはベートーヴェンのソナタのように、自在に、劇的に音楽をつくる。
 特に目立つのは、旋律部分に微細なふくらみや強弱やテンポ・ルバートを施し、まるで人間の声による歌のような自由な表情を生ませていることだ。緩徐楽章で極度に遅いテンポを採り、沈潜するというのは最近のピアニストたちがよくやっている手法だが、アレグロ楽章でこれほど自由なテンポと強弱の激しい音で奔流のように押すモーツァルトは、稀だろう。千変万化、変幻自在。モーツァルトの音楽は、今やラン・ラン自身の自由で躍動的な「歌謡」と化していた。

 ショパンの「バラード集」も、スケールが大きく、感興豊かで起伏も激しい演奏だ。時に原曲のフォルムを破壊してしまうような個所もあり、その強烈な個性に舌を巻く一方、煩わしさを感じることもある。
 苦笑させられたのは、往年のルービンシュタインを思わせるように派手なラン・ランのジェスチュアだ。腕を大きく芝居気たっぷり振り回し、フォルティシモの力強さや、音楽の激しい起伏を、視覚的にも聴衆に印象づける。

 アンコールは、ポンセの「間奏曲」を挟んで3曲弾かれた。最初の「華麗なる大円舞曲」(ショパン)など、軽いリズムと強弱自在のデュナミークで、あたかも「妖精の円舞曲」の様相を呈する。名人芸的なところもあり、ここまでやるか、と思わせる演奏だ。だがそれにも増して、なるほどこういうこともやるのか、と半ば感心させられたのが、最後の「トルコ行進曲」(モーツァルト)だった。

 ラン・ランは、本気とも冗談ともつかぬ目まぐるしいテンポで、この「トルコ行進曲」を弾いた。4倍速再生のようなスピードのこのアクロバット的演奏に、聴衆は歓声と総立ち。舞台に駆け寄って握手を求める女性客。ラン・ランが記念品のようなものをP席の女性客に投げ入れると、これにまた羨望の歓声が沸く。この瞬間、ホールはシリアスなリサイタルから、賑やかなエンターテインメントの場と化した。

 シリアスなモーツァルトとショパンがあり、アンコールでこのようなエンターテイナー的なモーツァルトがある。それらが一夜の演奏会に共存しているところが興味深い。しかもそれが、アジア人の演奏家により行われているところも興味深い。先頃のHJリムのハードロック的ベートーヴェン解釈といい、これといい、西洋純音楽の伝統に拘束されない展開だ。面白い時代になったものだと思う。
 私自身は今ではもうついて行けなくなってしまったけれども、昔、放送局で仕事をしていた頃の私だったら、今どきのクラシックはこれだ!とばかり盛り上がって、一緒に提灯を振り回したかもしれない。

4・26(土)山田和樹指揮日本フィル ストラヴィンスキー&ニールセン

     サントリーホール  2時

 ストラヴィンスキーの「火の鳥」全曲と、ニールセンの「交響曲第4番《不滅》」。
 これまた、戦艦が2隻一緒にやって来たような超重量級プログラムだ。その演奏時間の長さ(各45分、36分)というより、音楽の重量感ゆえに、である。

 「火の鳥」は、すこぶる凶暴でドラマティックな演奏となり、オーケストラも驚くほど色彩的に鳴り響いた。山田和樹が振ったこのロシア音楽は、あのラザレフが指揮した時より、むしろしなやかで瑞々しい表情さえ感じさせる。「子守歌」での情感豊かなカンタービレも、強く印象に残る。
 この「火の鳥」の濃密かつ圧倒的な演奏がいよいよ終結に近づいた時には、これで今日の演奏会はもう見事完結という気がして、このあとにまだニールセンの交響曲が控えているなどとは信じられないような思いだったが・・・・。

 そのニールセンの「不滅」が、更に濃密な演奏だったのには感心させられた。
 「火の鳥」とは表情が一変して、きりりと引き締まった整然たる構築、やや硬質で透徹した音色の演奏が繰り広げられる。この対比もまた見事で、山田と日本フィルの感性と技術の良さが聴きとれるだろう。
 だが硬質、透徹といっても、そこには冷たさや無機的なものはなく、――ニールセンの交響曲にはよくそういう演奏があって、それがニールセンの特徴なのだと思い込まれていることも多いのだが――この山田&日本フィルの演奏では、旋律的な美しさが意外なほどに浮き彫りにされていた。もちろん和声的には確然と構築されているものの、カンタービレの美しさがこれほど印象づけられた演奏も稀である。見事な演奏であった。

 ティンパニ2人の活躍も痛快だったが、ただ、2階席LCで聴いた範囲では、やや音量が大きくて、オケをマスクする傾向がなきにしもあらず。
 それに、――贅沢な希望だが、「火の鳥」も「不滅」も、終結個所でもう一つグイと力感を増してくれたら、更に圧倒的だったかもしれない・・・・それまでの盛り上がりがなかなかのものだっただけに、最後の「決め」が、2曲とも、意外にあっさりしていたように感じられたからである。

 だがいずれにせよ、山田和樹の意気は天を衝くほどだ。日本フィルも、よくこの大曲2つを共にこの水準の演奏に持って行ったものだと感心する。次はニールセンの「5番」を聴いてみたいものである。

 ラザレフ(首席指揮者)、インキネン(首席客演指揮者)、山田和樹(正指揮者)と、三者三様に全く音楽の色合いの異なる指揮者陣を擁している日本フィル。このオケが近年急激に上昇線を辿っていることの要因の一つは、その多様な責任指揮者陣にあるのではなかろうか。

4・25(金)フィリップ・ジャルスキーとヴェニス・バロック・オーケストラ

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 カウンターテナーの声質というのは、私はちょっと苦手なのだが、今をときめくフィリップ・ジャルスキーのナマの演奏会となれば、やはり聴き逃したくはない。しかもご贔屓のヴェニス・バロック・オーケストラが協演するとなれば、尚更である。

 プログラミングもすこぶる巧く出来ていて、――これはプログラム掲載の水谷彰良氏と後藤菜穂子氏の解説に詳しいが――1730年代半ばのロンドンで人気を二分したライバル作曲家、ポルポラ(1686~1768)とヘンデル(1685~1759)のオペラを対決させ、しかもそれぞれが擁した歴史的なカストラート歌手ファリネッリ(1705~82)とカレスティーニ(1700頃~60頃)の「芸風」の対決をも描こうという構成になっている。

 具体的に言えば、第1部では前半にポルポラの3曲(「ジェルマーニコ」序曲と「アリアンナとテーゼオ」「身分の知れたセミラーミデ」からのアリア)を置き、ヘンデルの「合奏協奏曲作品6-4」を挟んで、後半はヘンデルの「アルチーナ」からのアリアを2曲、となる。
 そして第2部は、ヘンデルの「オレステ」と「アリオダンテ」各1曲に対するにポルポラの「ポリフェーモ」から2曲、その間にヘンデルの「合奏協奏曲作品6-1」を置く、というプログラム構成だ。

 歌われたヘンデルの作品がすべてその「対決時代」に作曲されたものであるに対し、ポルポラの方は「ポリフェーモ」だけがロンドン時代に書かれたオペラではある。が、その「ポリフェーモ」と「アルチーナ」が1735年の2月と4月にそれぞれ初演され、文字通り激突していたことを思えば、さながら音楽史の一つの時代に立ち会っているような気分にさえなるというものだ。
 これらのアリアの歌唱で、原譜のわずか2小節を実に10小節以上の長さにわたり、即興の音符を入れて引き延ばすと伝えられた当時のカストラート歌手たちの極芸を、スコアと比較して聴けばいっそう面白いだろうが、残念ながら今の私にはその資料の持ち合わせがない。だが、同一の歌手が、スタイルの異なった2人の往年の歌手のレパートリーを歌う、という趣向も面白い。

 ジャルスキーの声の見事さは、特にそのふくらみのある柔らかさと、弱音の美しさにあるだろう。特に、ピアニッシモからフォルテへクレッシェンドし、そのまま再びピアニッシモへディミヌエンドして行く時の声の玲瓏たる響きは、絶品としか言いようがない。「ポリフェーモ」からの「いと高きジョーヴェさま」という曲では、それが最高の魅力を発揮していた。

 ヴェニス・バロック・オーケストラの歯切れのいいリズム感とふくよかなピリオド楽器群の音色も、相変わらずの素晴らしさだ。「作品6-1」の協奏曲ももちろん鮮やかだったが、アンコールとしてジャルスキーとともに演奏したヘンデルの「リナルド」と「セルセ」での艶麗な・・・・とりわけ後者からの「オンブラ・マイ・フ」での、あたかも微風に乗って空を漂うかのような神秘的な弱音の見事さは筆舌に尽くしがたい。
 (創設者・指揮者の)「アンドレーア・マルコンは本公演には出演いたしません」とご丁寧にもプログラムに但し書きがあったが、それでもやはりこのオーケストラの魅力を堪能した次第である。

4・24(木)ネーメ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団 R・シュトラウス集

     サントリーホール  7時

 N響とのリハーサルに際し、指揮台に立ったネーメ・ヤルヴィが、冗談で「こんにちは、パーヴォのオヤジです」と挨拶したとかしなかったとか、・・・・真偽のほどは定かではないが、間もなく自慢の息子パーヴォ・ヤルヴィが音楽監督になる予定のN響に客演するのだから、親父ネーメとしても気分がいいだろう。

 このB定期では、リヒャルト・シュトラウスの「祝典前奏曲」、「紀元(皇紀)2600年祝典曲」、バレエ曲「ヨセフの伝説」という珍しいプログラムが組まれた。どれも滅多に演奏される曲ではないから、響きのいいホールで、いい指揮者といいオーケストラがやるとなれば、聞き逃すわけには行かない。

 とにかく超大編成の作品ばかりゆえ、正味ほぼ1時間半、金管群を筆頭に鳴ること、鳴ること、その音圧たるや、すこぶる強烈だ。祝典曲2つはいずれも壮麗豪華で賑やかだが、何せお祭り・お祝いの曲だから、内容は何にもない・・・・と言ってはミもフタもないが。
 聴きものはやはり第2部に演奏された「ヨセフの伝説」の方だった。
 1時間になんなんとする長大な、構成としては少々まとまりを欠く作品だが、ティンパニやトロンボーン群の豪快な活躍、弦楽ソリやフルート群の豊麗な囀りなど、デュナミークの妙を駆使したR・シュトラウス得意の見事な管弦楽法が存分に楽しめた。これこそ、録音では味わえない、ナマの演奏でこその醍醐味なのである。

4・23(水)東京二期会 プッチーニ:「蝶々夫人」

   東京文化会館  6時30分

 栗山昌良の「定番」演出。

 この種の「和物系」舞台における彼の演出には、卓越した風格がある。あの「天守物語」(水野修孝)や「黒船」(山田耕筰)などにおけると同様、重みと、気品と、一分の隙もない緊迫感の漲る舞台だ。先日のびわ湖ホールの「死の都」では私も随分不満を並べたが、日本人を描くこのような作品での彼の演出の高い完成度に対しては、やはり全面的に賞賛しないではいられない。

 今回の「蝶々夫人」でも、日本人の動作や心情の表現(特にスズキ役など)には、極めて神経の行き届いた、しかも流れのいい演技が施されていた――ただし、ト書きに従った「障子に穴をあけて港の光景を見る」行動と、子供の無表情な演技および「ママ!」などという余計な叫び声などを除いてはだが。
 石黒紀夫の舞台美術、荒田良の舞台設計、岸井克己の衣装、沢田祐二の照明も美しい。

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   蝶々さん(中央)と娘たち     
   (M.Terashi/TokyoMDE提供)

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   僧侶ボンゾ(右)の罵倒を遮るピンカートン(中央)     
   (M.Terashi/TokyoMDE提供)


 歌手陣は、今日はダブルキャストの初日で、腰越満美の蝶々さん、水船桂太郎のピンカートン。
 水船は緊張のせいなのかどうか、第1幕前半では高音域も不安定で声も伸びず、第3幕ではやっと調子を出したものの、米国海軍士官役としては歌も演技もおとなしくて存在感に不足、いっそうの工夫が望まれる。
 なにしろ、腰越満美の方が貫録風格ともに充分、日本の大人の女性の美しさを余すところなく発揮して舞台映えもするし、歌唱にもパワーがある。彼女より幼く見えるピンカートンが「可愛い可憐なバタフライ」と言ったところで、視覚的に実感が伴わないのだ。逆に言えば、腰越には「可憐な少女」としての演技をも工夫していただきたい、というところか。

 とにかく、これからは日本のオペラの舞台においては、こういう主役のバランスにも考慮が払われる必要がありそうである。
 その点、演技の点では最もサマになっていたのが、永井和子のスズキだった。福島明也が演じた米国領事シャープレスは、軽率な米国海軍士官と、純粋な日本人の少女芸者との間で心を痛める立場を巧みに表現していた。
 他に牧川修一の周旋人ゴロー、畠山茂の大尽ヤマドリ、馬場眞二の神官、峰茂樹の僧侶ボンゾ、佐々木弐奈のケート。

 総じて歌唱面では、一部を除いては、残念ながら今回は満足すべき水準にあったとも言い難い。東京二期会の最近の上演の中では、些か聞き劣りがするものだった。東京都交響楽団を指揮した若手(1983年生)のダニエレ・ルスティオーニも、今回の歌手陣との共演では、オーケストラの「鳴り」にも、若干の手加減を行なわざるを得なかったのではないかという気もするが・・・・。ピットを下げ、しかもオケの音量を抑え気味にしたのでは、プッチーニの豊麗な音楽の再現は難しかろう。
 折も折とて、この日、米国の大統領が羽田入り。だから何だというわけではないが。

4・20(日)ジョナサン・ノット 東京交響楽団音楽監督就任披露定期公演

    サントリーホール  2時

 武満徹の「セレモニアル~秋の歌~」と、マーラーの「交響曲第9番」を、休憩なしで組み合わせたプログラム。
 ただし、切れ目なしに演奏されたのではない。ステージの転換やチューニングが、その間に行なわれた。作品の性格からすれば、2曲を文字通り続けて演奏した方が効果的だったろうが、演奏者の入れ替わりなどを考慮すると、そうも行かないだろうし・・・・。

 この「セレモニアル」が初演された1992年の「第1回サイトウ・キネン・フェスティバル」の初日演奏会(9月5日)の光景を、私は今でも鮮明に懐かしく記憶しているが、今夜のソリストもあの時と同様、宮田まゆみである。和楽器の静謐な音色は、あの夜も今夜も、神秘的で素晴らしい。それに呼応する弦楽器群の叙情的なモティーフとともに、この世ならざる美の世界に聴き手を誘い込む。
 そして今夜も同様に、客席2階にも管楽器が配置されていた。それらがエコーのように響く効果は、絶妙だ(もっともこれは、聴き手の座る位置にもよる)。

 この曲とマーラーの「9番」とを組み合わせる選曲を行なった人のセンスには抜群のものがあるが、それだけに、あの笙の響きが静かに消えて行ったあと、適切な沈黙の「間」を置いて、その静寂の中からあの躊躇うようなチェロと、ホルンと、ハープの音が始まって行けばなお良かっただろうに、と思う次第なのである。

 その「9番」は、極めて明晰で、鋭角的なアプローチで演奏された。
 音の隈取りは終始明確で、強靭なエネルギー性と緊迫感に満ちている。音楽は感情的というより、むしろ知的で冷徹な趣きを湛え、情緒的な要素は多くない。激しく燃え上がってはいても、それは冷たい火とでもいうか。その硬質な、切れ味のいい音楽は、後期ロマン派の残滓ではなく、20世紀の現代音楽の方向へ顔を向けたマーラー像を描き出しているだろう。

 第3楽章の「ロンド・ブルレスケ」は、たしかに激烈ではあるが、いわゆる無我の狂乱にはならない。どこかで己の狂態を冷たく見据えているマーラーの顔が音楽の合間に見え隠れするかのようだ。
 また第4楽章後半では、澄んだ透明な音の糸が織り成されて虚空に消えて行くような演奏が見事だったが、それも陶酔感とか、彼岸への旅立ちとか、そういうロマンティックな情感のようなものを拒否した演奏ではなかったか? かつてマイケル・ティルソン・トーマスがロンドン響を率いて来日した時の「9番」にどこか似たところがある演奏だ、という気がした。

 私は、こういう「9番」は、どちらかといえば好きな方だし、もともとジョナサン・ノットという人はこういう表現が持ち味の指揮者だから、終始興味深く聴かせてもらった。――ただ、情感たっぷりの表現を好む聴き手にとっては、どうだったろうか?

 東京交響楽団の演奏は、全曲にわたり凄まじい緊張を感じさせ、前任者スダーンの絶好調時代のシューベルトやブルックナーのそれに匹敵する精妙で充実した音楽をつくり出した。特に弦は充実していた。細かい所はともかくとして、東京響も復調なったとみていいだろう。
 新しいシェフのお披露目は、ともあれ成功した。今後は、どうだろう? ノットは「そういう傾向の」指揮者だから、ある程度レパートリーは選ばれることになるかもしれないが――現代ものは文句なく良いだろう。フランスものも意外に良いかもしれない――古典派やロマン派の作品などにも予想外の面白さを聴かせてくれる可能性大だ。いずれにせよ、多数ある在京プロ・オーケストラの中で、東京響を独特の個性を持つ存在にしてくれることは、まず間違いなさそうだという気がする。

4・19(土)ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団&クレーメル

    サントリーホール  5時

 今回のツアー最終公演。
 5時などという時間に始まったのは、終演後にパーティでも予定されていたのだろうか? トリフォニーホールでの新日本フィル定期が、予想より早く3時45分に終演したおかげで、錦糸町からの移動も、辛うじて間に合ったというわけだ。
 プログラムは、R・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番」(ソロはギドン・クレーメル)、ブラームスの「交響曲第4番」。

 デイヴィッド・ジンマンが20年近くにわたり薫陶して練り上げたこのチューリヒ・トーンハレ管弦楽団の音色は、実に豊麗で、響きにも見事な均衡を備えている。オーケストラの美感の極致の一例と言ってもいいほどだ。演奏も上手い。
 本当は、それだけでも満足に値するはずなのだが、・・・・必ずしもそうはいかないのが、音楽というものだろう。

 「ティル・オイレンシュピーゲル」など、この稀なる美音で、些かの破綻もなく、坦々と、しかもイン・テンポで演奏されると、奇人ティルの不行跡の物語も、単なる豪壮華麗な音響と化してしまう。たとえば、物語部分が標題音楽的にもドラマティックな演奏になっていなければ、最後に現われる「これがティルの物語でありました・・・・」と語るほのぼのとした音楽が、ちっともしんみりした効果を生まなくなってしまうのだ。立派だが、面白くも何ともない交響詩、ということになる。

 ブラームスの「第4交響曲」の演奏も、なんと屈託ない、イン・テンポの、平和な音楽となっていたことか。陰翳も、ブラームス最晩年の思索や寂寥感といったものも、全くない。すべてが、ただ豪華な音の中で流れ過ぎて行く。贅沢な飽食のブラームスとでもいうか。
 むしろ、これに比べれば、昨日の川瀬賢太郎や、一昨日の飯森範親が、何かを模索し、いっそうの高みを求めようと必死に指揮していたブラームスの「第1交響曲」の方が――オーケストラの質は別として――はるかになまなましい人間味を感じさせる演奏と言えたのではなかろうか。

 一方、音楽にもともとギャラントな性格が備わっているモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番」は、ジンマンのそういう指揮をも、平然と呑み込んでしまう。トーンハレ管の美音も、ここでは生きる。
 ギドン・クレーメルは、今回も譜面を前に置いて演奏。この世紀の大ヴァイオリニストも、いろいろな意味で「円熟」してしまったかという印象もなくはないが、彼ならではの風格と滋味は、今なお健在である。彼のソロ・アンコールは、ワインベルクの「無伴奏ソナタ第3番」のコーダと告知されていた。
 ちなみに、ジンマンとオケのアンコール曲は、ブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」と、スイス・トラディショナルの「エ・ヴィーヴァ・エ・ソチ」とかいう、一寸愉快な行進曲調小品。

4・19(土)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

   すみだトリフォニーホール  2時

 今回の定期客演は、シベリウスの「第4交響曲」と、ベートーヴェンの「田園交響曲」という、一癖も二癖もあるプログラム。
 暗と明、緊迫と開放、重厚なアダージョのイメージと軽快なアレグロのイメージ――対照の妙を衝いた鮮やかな選曲である。

 実際の演奏でも、上岡敏之の驚異的な感性の鋭さに、改めて舌を巻く結果となった。
 そして、――ありていに言ってしまえばだが――この数日の間に聴いて来たオーケストラの中では、新日本フィルはやはり図抜けて音が良く、上手いオケだなと、これまた改めて認識させられることにもなったのである。

 特にシベリウス! 第1楽章冒頭のチェロとコントラバス、ファゴットのフレーズからして、異様に鋭く、切り込むような気魄で開始される。普通の演奏なら、いかにも重々しく、北欧の霧の世界を思わせるような陰翳ある音で始まるところだが、上岡のアプローチはもっと鋭角的で明晰で、しかも凄味がある。
 この特徴は全曲にわたって貫かれていたために、鬱然たる暗さの交響曲ではなく、むしろモダンな、20世紀冒頭における「現代音楽」ともいうべき鮮烈なイメージが浮き彫りにされることになった。

 楽譜に書かれているあらゆる音符が、深々とした音で鳴る。一つ一つの音には透明さも保たれているが、全管弦楽の最強音はきわめて鋭く、まるで苦悩の叫びのように聞こえる。
 その極め付きは、全曲の最後の弦の2分音符だ。ここは一般の演奏なら、消え入るように暗く終結されるところだが、上岡は、スコアに指定されているmfのドルチェどころか、フォルテに近い音で、鋭く斬りつけるような音で終らせた。これで、今回の演奏における全曲の辻褄は、完全に合う。凄い「楽譜の読み」をする人だなと、私はまたここで舌を巻いたのである。

 第1楽章と第3楽章は、非常に遅いテンポに感じられたものの、その中で緊迫感が途切れることはただの一瞬もなかったのも驚異的であった。恐るべき「4番」だった――。
 第4楽章のグロッケンはオルガン横に配置され、音が大きすぎる印象があったものの、この見事な演奏の中では取るに足らぬことであろう。

 後半の「田園」は、第1楽章最初のフェルマータをフェイド・アウト的に演奏させるなど、また上岡の「癖」が始まったかとこちらも些か身構えてしまったが、そのあとは、テンポもリズムもむしろ軽快に進んだ。全曲、音符のすべてに神経を完璧に行き届かせ、綿密に音楽を構築するところは、いつもの上岡の手法だ。新日本フィルもその自在の変化を巧くこなしていた。あれ以上の伸びやかさを求めるとしたら、彼の客演回数をもっと増やさねばならぬところだろうが、そうも行くまい。
 ともあれ私の中では、前半のシベリウスでの強烈な印象があとをひいていて、正直なところ「田園」は少々影が薄くなってしまったのだが・・・・。
      音楽の友6月号 演奏会評

4・18(金)川瀬賢太郎 神奈川フィル常任指揮者就任披露公演

    横浜みなとみらいホール  7時

 国内プロ・オーケストラ最年少のシェフとなった川瀬賢太郎(満29歳)。

 彼を迎えて新風を巻き起こそうと図る神奈川フィルも、この4月1日に念願の公益財団法人化を実現し、また崎谷直人を第1コンサートマスターに、直江智沙子を首席第2ヴァイオリンに、神戸光徳を首席ティンパニにそれぞれ迎えてメンバーを補強している。指揮者にとっても、オーケストラにとっても、今こそ大きな脱皮と飛躍が期待されるところだろう。
 そのお披露目定期公演は、アーノルド・バックス(1883~1953)の交響詩「ティンタジェル城」、シューマンの「ピアノ協奏曲」(ソロは伊藤恵)、ブラームスの「第1交響曲」というプログラムで開催された。

 記念すべき演奏会の冒頭に、珍しいバックスの作品を持って来たところが面白い。
 かつて川瀬が名古屋フィルの指揮者に就任した最初の定期で、1曲目を伊藤康英の「ぐるりよざ」という現代曲で始めたのを聴いたことがあるが、こういうプログラミングは、若い指揮者の意欲的な姿勢を示すものとしても効果的と言えよう。
 そのバックスの交響詩「ティンタジェル城」は、コーンウォールにある、アーサー王伝説や「トリスタンとイゾルデ」物語に縁のある城を描いた曲とのこと。1919年の作曲にしてはかなり穏健な作風だが、管弦楽の豊麗な音色の裡に海の雰囲気を湛えて、20世紀版「フィンガルの洞窟」といった趣を感じさせる曲だ。川瀬と神奈川フィルは、この曲の色彩的な性格を生かし、大きな起伏を以って演奏した。

 一方、ブラームスの「1番」は、作品の性格にふさわしく、渋く落ち着いた音色で繰り広げられる。川瀬の指揮するブラームスの交響曲は、以前シティ・フィルと演奏した「4番」を聴いたことがあるが、その時と同様、実に念入りに、丁寧に仕上げた演奏だ。ただ、それが彼のブラームスへのアプローチの手法だということは理解できるものの、若手にしては随分慎重で、おとなしいという印象もあるのだが――。

 第1楽章の展開部の終りから再現部の初めにかけては、なかなか力感のある盛り上がりを聴かせてくれた。総じてヴァイオリン群は張りのある音でよく鳴っていたが、金管にもっと厚みと音量が出れば、音楽にも更に壮大な気宇が加わるはずだ。神奈川フィルにとっても、今後の課題だろう。

 川瀬の解釈でもう一つ興味深かったのは、第4楽章の主部に入ってあの有名な(「第9」そっくりの)主題が登場する瞬間。
 普通の演奏なら、ここはいよいよ大団円に近づいたという解放感を以ってあの主題が始まるものだが、今回の彼は、その前に非常に長いパウゼを置き、それから主題を驚くほど静かな表情で、ゆっくりと開始した。それはまるで、これまでとは全く別の世界がこの瞬間から新しく始まるのだ、とでもいうようなユニークな表現だったのである。面白い。
 全曲のコーダでは、一気呵成にエンディングへ突進するのではなく、ゴール前で既に息を整え、おもむろにじっくりと終結の和音を響かせて行くといった具合だ。こういう「節度」が、川瀬賢太郎の今の音楽の身上なのかもしれぬ。

 シューマンの協奏曲では、伊藤恵が彼女ならではの詩的なソロを繰り広げる。冒頭はあたかもカデンツァの如く沈潜し、それは第2楽章後半に至って究極に達し、ほとんど止まるのではないかと思われるほど遅いテンポとなるが、しかし第3楽章後半での推進性は見事であった。川瀬も、やや遠慮がちながら、彼女の演奏にぴったり合わせて行った。

 今回のステージでは彼も、早い足どりで、指揮棒を高く掲げたりして、オケと聴衆に「開幕」を呼びかけるような雰囲気で勢いよく登場したのには一安心。とはいえ、伊藤恵とのカーテンコールで徹底的に先輩を「立てた」のはもちろん悪いことではないが、折角彼女が一緒に答礼をと誘っているのだから、もう少し指揮者らしく、颯爽と応じた方がいいだろう。

 彼はこの後、6月の第300回記念定期でマーラーの「復活」を指揮する。あの巨大な交響曲の演奏に際し、このオケの音の量感を増やすことができるかどうか、(オケにとっても)正念場だろう。
 今シーズンは、あとは2~3月に、定期を1回、「音楽堂シリーズ」を1回、「県民ホールシリーズ」と「特別演奏会」を各1回指揮する。この回数ではしかし、彼の個性が反映され、新生・神奈川フィルのイメージが確立されるのは、もう少し先になりそうである。
     音楽の友6月号 演奏会評

4・17(木)飯森範親 日本センチュリー響首席指揮者就任記念演奏会

   ザ・シンフォニーホール(大阪) 7時

 この日の第190回定期演奏会と、19日の第191回定期演奏会とで、ブラームスの交響曲4曲をプログラムに組み、新体制の幕を開けた日本センチュリー交響楽団。初日は「第3番」と「第1番」が演奏された。

 同響はコンサートマスターに後藤龍伸、首席客演コンマスに荒井英治を擁しているが、この2回は扇谷泰朋をゲスト・コンマスに迎えている。
 榎戸教子が進行役となって開演前にプレトーク、更に第2部のアタマにまでトークを加えた飯森範親。首席指揮者就任お披露目定期の初日とはいえ、いかにも彼らしい聴衆アピールといえよう。

 今回の演奏では、弦のメンバーを正規楽員以外にあまり増強しない10型編成を採り、室内楽的な緻密さを前面に押し出した。山形響でブルックナーの「6番」以前の交響曲集を弦10型編成で演奏し、大成功を収めた飯森のことだから、そのあたりは自信満々だったに違いない。その緻密さは、ブラームスの音楽の性格にふさわしいものでもあった。

 「第3番」では、弱音が重視され(もともとこの曲は、フォルティシモの個所が意外に少ない)、渋い音色の、抑制した音楽が聴かれた。ただ、最初の2つの楽章では、オーケストラも何か慎重になりすぎた雰囲気を感じさせ、こちら聴いている方も肩が凝るような気分になってしまったが、演奏にも些か緊迫度を欠く印象もなくはなかった。
 特に1階後方、屋根の下の席で聴くと、オーケストラの音はかなり「遠く」聞こえた。私はこのホールで大阪のオーケストラを聴くのはせいぜい年に数回しかないので口幅ったいことは言えないけれども、とにかくこのホールで、このオーケストラのこういう音を聴いたのは初めての体験である。

 だが、第3楽章からは、演奏に豊かな情感が戻って来た。第4楽章の昂揚を経て緊張感も解けたのか、後半の「第1番」では、コントラバスとティンパニの低音を基盤に、強固で、しかもしなやかさを持った音楽を構築して全曲を結んで行った。ベストは第2楽章で、各楽器のソロも美しかった。
 「第3番」と「第1番」の性格を対照的に描くアプローチも、成功だったと思われる。

 まずは良いスタートを切った飯森と日本センチュリー響――であろう。あの地味だった山形交響楽団を短期間に一変させ、内外ともに活気あふれる雰囲気に変えてしまった飯森である。アートマネージメントの才能も持ち合わせている。何か面白いことが起こりそうだという期待を聴衆に持たせることでは実績がある。大阪のオーケストラ界に新しい個性で新風を巻き起こす可能性は充分あるとみてよいのではないか。

 今シーズン、彼のこのオケにおけるスケジュールとしては、シンフォニーホールでの定期は10月に山形響との合同演奏によるマーラーの「復活」、12月にマーラーの「5番」、1月にラフマニノフの「第2交響曲」を指揮する予定となっている。
 またセンチュリー響のいずみホールでの定期演奏会も9年ぶりに復活され、5月、8月、11月、2月に古典派作品によるプログラムが組まれるが、それらもすべて飯森が指揮する。首席指揮者が1シーズンに振る回数としては、まずは結構な部類と言えるだろう。

4・16(水)ナタリー・デセイ(ドゥセ)・ソプラノ・リサイタル

    東京芸術劇場  7時

 上野の東京文化会館が改修のため休館するに伴い、都民劇場音楽サークルの公演は、会場を池袋の東京芸術劇場に移して行われることになった。その第1回がこれ、ナタリー・デセイのリサイタル。

 フィリップ・カサールのピアノとの協演で、歌われたのは、クララ・シューマン、ブラームス、デュパルク、R・シュトラウス、プーランク、ラフマニノフ、ドビュッシー、ドリーブ、フォーレの作品。ドリーブだけはオペラ(「ラクメ」)からだが、これもあの有名な「鐘の歌」ではなく、「美しい夢を下さったあなた」という静かな歌だった。総じて、かなり渋く、シリアスなプログラムだったといえようか。

 ナタリー・デセイ(ドゥセ)――「オペラ女優」としての演技力は、アンナ・ネトレプコを凌ぎ、そのかみのマリア・カラスに匹敵するだろう。歌唱力も、夜の女王からヴィオレッタまで、すべて見事の一語に尽きる。だがその彼女も、オペラにおいては、残念ながらこの1、2年、かつての華麗なパワーは、すでに望めなくなったようである。これからは、歌曲の分野か? 

 明るく清澄で、しかもセクシーな大人の女性といった性格を美しく表出する歌唱は、昔ながらのナタリー・デセイだ。声を巧みにコントロールしつつ、多様に歌い分けて行くその表現力も、いつもの彼女と少しも変わらない。ただほんの少し、今夜は咽喉の調子が悪かったか? 曲の合間に大きな咳をすることが2回ほどあって、私たちを心配させた。
 それに何より、このホールそのものが、彼女の歌曲の世界には、大きすぎるのである。

4・15(火)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルのブルックナー「7番」

  東京オペラシティコンサートホール  7時

 銀座の東劇での「METライブビューイング」が終ったのが6時数分前。すぐに飛び出して、首都高で新宿に向かったら、幸いにも6時20分には新宿のオペラシティに着いてしまった。おかげで、ブラームスの「運命の歌」と、ブルックナーの「交響曲第7番」というプログラムが組まれた東京シティ・フィルの定期を、落ち着いてじっくりと聴くことができた。

 これは、飯守泰次郎(桂冠名誉指揮者)とシティ・フィルのブルックナー交響曲ツィクルス第3弾である。
 今回のツィクルスは、2012年から年1回というペースでゆっくりと進められているのが特徴だ。第4番、第5番と来て、今回が第7番というわけである。ノーヴァク版による演奏で、第2楽章にはもちろん打楽器群も入るが、第4楽章のテンポはむしろハース版に近い。

 物凄いほどの重量感と音の厚み、揺るぎのない構築、安定したテンポと緊迫感――飯守泰次郎の指揮は、最近いよいよスケール感を増したようだ。
 東京シティ・フィルの演奏も極めて熱気と情感のこもったもので、第1楽章コーダの音響的な昂揚感や、第3楽章のスケルツォ部分の豪快な躍動感は素晴らしく、第2楽章での沈潜した陰翳も魅力的であった。今夜は1階席後方に席を取ったため、著しく残響たっぷりのアコースティックの中で聴いたことになり、オケの細部についてはあまり気にならぬ結果となったが、しかしシティ・フィルは、まさに「重厚壮大な」好演だった。
 聴衆は沸いた。飯守にもソロ・カーテンコールが贈られた。満足してホールをあとにすることの出来る演奏会であった。

 順序が逆になったが、最初の「運命の歌」では、東京シティ・フィル・コーア(藤丸崇浩指揮)が協演。ブルックナーに比べると少々細部の仕上げに念入り度(?)が不足する演奏ではあったが、この曲をこれだけデュナミークの変化に神経を行き届かせ、しんみりと聴かせることができるのは、やはり飯守泰次郎の力量ゆえである。

4・15(火)METライブビューイング マスネ:「ウェルテル」

   東劇  3時

 MET今シーズンの6本のニュー・プロダクションの一つ。

 リチャード・エア(英国)の演出で、基本的にはストレート路線だが、演技が非常に微細で、心理描写にも長けている。さすが演劇畑の演出家の手になるものだけあって、ドラマとしても見ごたえがある。
 ただしそれも、その演劇的な演出を受け止め消化し、歌唱表現と融合させて新しい試みに挑戦しようという、名歌手たちの姿勢があってこそだ。歌手たちが「オペラってのは、そういうもんじゃないよ」などと言って演出家の指示を撥ねつけ、旧弊のスタイルを守ろうとしていたら、こういう舞台は出来上がらないのである。もっとも、演出家とその演出の良し悪しによるのはもちろんだが――。

 その点、主演のヨナス・カウフマン(ウェルテル)と、今回がMETデビューとなったソフィー・コッシュ(シャルロット)は、巧いものだ。
 特にカウフマンは、演技も歌唱も含めて、われわれ男性が見ても惚れ惚れするようなウェルテルだ。苦悩の表現が卓越しているし、有名な「春風よ、何故に私を目覚めさせるのか」での歌いぶりも、まさにこれぞ現代のオペラ・スター、ともいうべき趣きである。演出家エアが「俳優としても世界のトップクラス。アル・パチーノら名優に比しても引けを取らない」と彼を評しているのも当然であろう。

 出演は、他にデイヴィッド・ビズィッチ(アルベール)、リゼット・オロペーサ(ソフィー)ら。
 指揮は、フランスのアラン・アルティノグリュAlain Altinoglu(松竹の表記はアルタノグルだが、ここではパリ在住のジャーナリスト三光氏から教えられた発音表記に従う。今回の案内役のパトリシア・ラセットも「アルティノグリュ」と発音していたようだ)。特に後半の第3、4幕での、流麗かつ劇的な緊迫感が見事である。

 ロブ・ハウェルの舞台美術もすこぶる機知に富み、美しい。
 この種の、オーソドックスなスタイルでありながら豪華な舞台と精緻な演技表現を駆使したプロダクションを創れるのは、どうやら今日ではMETだけではないかと思われる時代になってしまった。その意味でも、METの存在は貴重と言わねばならぬ。

 ともあれ、好い新プロダクションである。この上演、「イーゴリ公」と連日で組まれていた日程が2月にあり、よほど現地に観に行こうかと考えていたのだが、当初シャルロット役に予定されていたエリーナ・ガランチャが降板してしまい、所詮カウフマン&コッシュのコンビではDVD(デッカ)でも出ているパリ公演と同じじゃないか、と思って止めてしまったのである(他にも体調の問題など、行けなかった理由はあったのだが)。しかし、「イーゴリ公」もあの通り面白かったし、――やはりこの2つ、無理しても観に行っておくべきだったと臍を噛む。

4・14(月)イアン・ボストリッジ(T)のマーラーとブリテン

   トッパンホール  7時

 ジュリアス・ドレイクのピアノとの協演で歌われた曲は、
 第1部でマーラーの「若き日の歌」より「春の朝」「思い出」、同「子供の魔法の角笛」より「少年鼓手」「トランペットが美しく鳴り響くところ」「死んだ鼓手」、同「さすらう若人の歌」。
 第2部ではブリテンの「ジョン・ダンの神聖なソネット」(9曲)、および民謡編曲「イギリスの歌」より「サリーの園」「おお悲しい」「オリヴァー・クロムウェル」。
 そしてアンコールは一転してシューベルトで、「漁夫の歌」D.881、「はなだいこん」D.752、最後に「ます」。

 ボストリッジの歌曲リサイタルは、舞台上での激しい動き――ほとんど3メートル近く左右に移動しながら、時にはピアニストの方を向いて歌うこともある――と、激烈な歌唱表現とで有名だ。のんびり聴いていられる類の歌唱ではない。時にはギョッとして飛び上がるような表現が随所に出現する。

 たとえばマーラーの「少年鼓手」。翌朝には処刑される少年の独白「あいつはどんな奴だったかと尋ねられたら、親衛隊の鼓手だったと答えてくれ」の個所など、どうしようもない怒りと口惜しさを噴出させ、ほとんど絶叫に近い歌唱になる。
 最後の「僕は明るい声で別れを告げよう、お休み、Gute Nacht」も、言葉とは裏腹に、絶望に打ち伏すように、暗く震えるように歌われる。

 「さすらう若人の歌」の第4曲にしても、失恋した若者が旅立つくだりでさえ激情を抑えきれない。菩提樹の下に憩って安息を取り戻すはずの終結個所でも、安らぎよりも怒りと絶望感に震えつつ物語を終える、といった具合なのだ。
 聴いているとヘトヘトになるけれども、実にスリル満点、面白いマーラー解釈である。いわば、交響曲におけるマーラー像を、そのまま歌曲にも持ち込んだ解釈とも考えられようか。

 ブリテンの歌曲は、さらに物凄い。「ジョン・ダンの神聖なソネット」は、歌詞の内容は祈りの歌だが、ボストリッジが歌うと、それは赤裸々な感情の激しい吐露になる。恐怖感さえ覚えさせるような、激烈な起伏をもった歌いぶりだ。聴いていると、彼が以前オペラで示した舞台姿がそれにだぶって、あたかも「狂えるピーター・グライムズ」を観ているような錯覚に陥る。

 こういうリサイタルだったから、それだけにアンコールでのシューベルトの3曲が、いかに解放的な音楽に感じられたか! もっともこれとて、劇的なモノローグといった表現に変わりはなかったが。

4・13(日)東京・春・音楽祭 合唱名曲選

   東京文化会館大ホール  3時

 「東京のオペラの森」から通算して第10回に当たる今年の「東京・春・音楽祭」の、今日はその最終日。

 「合唱の芸術シリーズvol.1」という副題がついていて、東京オペラシンガーズと東京都交響楽団を主役に、澤畑恵美、竹本節子、福井敬、甲斐栄次郎が協演した。
 曲は、第1部にヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」、ハイドンの「大いなる偉業は成りたり」(「天地創造」から)、ベートーヴェンの「第9」第4楽章。第2部にワーグナーの「大行進曲」(「タンホイザー」より)、同「目覚めよ」(「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より)、R・シュトラウスの「祝典行進曲」、マーラーの「交響曲第2番《復活》」の第5楽章後半。

 祝典的なプログラムとあれば、もっと華やかで沸き立つような雰囲気が、演奏だけでなく会場にもいっぱいにあふれていいはずだが、ウルフ・シルマー(病気による来日中止)の代役として登場したルーマニアの指揮者クリスティアン・マンデアルのステージでの姿が何となく実直で地味なので、真面目なムードのコンサートになってしまった。
 このマンデアルは、エネスク・フィルのシェフを務めたこともあるそうだが、ちょっと変わった棒の振り方をする人だ。テンポを徐々に煽って行く呼吸には独特のものがあり、「復活」のクライマックスでのように、音響的な盛り上げにもなかなかのものがある。

 だが、合唱にしてもオーケストラも、――ついでにソリストの一部にも――アンサンブルに少々まとまりの悪いところがあったのは、指揮者の統率力の不足か、練習不足か、はたまた、お祭りの「お座敷」の所為か。
 「復活」を聴いていて、あの強面インバルの指揮で演奏した都響の演奏とは随分差があるなと苦笑させられたが、逆に言えば、あのインバルの指揮で演奏したことのある都響だからこそ、ここまで持ち堪えられたのかも?

4・12(土)マレク・ヤノフスキ指揮NHK交響楽団

   NHKホール  6時

 ブルックナーの「交響曲第5番」。

 先日の「ラインの黄金」でのN響の演奏の熱っぽい好演は、指揮者マレク・ヤノフスキのおかげというより、客演コンマスのライナー・キュッヒルのおかげじゃないのか、などと野次る口の悪い人もいた。
 私もその意見には絶対反対というわけではないが、ヤノフスキとて30年前に録音した「指環」と、最近完成した2度目の全曲録音の「指環」とでは、演奏の内容にも雲泥の差があり、今の彼は地味ながらも誠実かつ堅実な音楽づくりをする指揮者となっていることは、夙に知られるとおりである。その意味では、今日こそはヤノフスキ独自の芸風が聴ける演奏会であったろう。

 実際に演奏されたこのブルックナーの「5番」は、まさに彼らしい実直な「5番」だった。アレグロの部分ではやや速めのテンポで押し、これ見よがしの誇張も一切なく、甚だ渋い音色で、緻密な音の均衡を保って全曲を構築する。言い換えれば、やはり「地味」な「5番」ということになるか。

 それだけに難しいのは、弱音のピチカートの多い、しかも長いゲネラル・パウゼ(総休止)が多用されているこの交響曲を、この残響のない巨大なホールでどう豊かな音で響かせるか、ということだろう。サントリーホールで聴いたなら、この演奏は、もっとずっと良く聞こえたに違いない。いや、このホールでの演奏でも、中継や録音で聴けば、おそらくもっと滋味ある演奏に感じられるだろうと思う。

 N響は、冒頭の金管に思わぬ事故があって、これが影響したのか、その後のホルンのソロなどにも自然さに欠ける傾向が聞かれたのは惜しかったが、弦楽器の厚みにこのオケらしい良さが感じられた。

4・11(金)ラドミル・エリシュカ指揮札幌交響楽団

    札幌コンサートホールKitara  7時

 久しぶりにKitaraを訪問、札響を聴く。尾高忠明が指揮した「戦争レクイエム」以来、半年ぶりだ。
 今回は人気の首席客演指揮者ラドミル・エリシュカが振る。ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、ヴォジーシェクの「交響曲ニ長調作品24」、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」。

 エリシュカは、いまや日本各地のオーケストラに客演しているが、私の聴いた範囲では、やはり札響を指揮した時がいちばん温かい音楽をつくるような気がする。
 今夜の「ローマの謝肉祭」の序奏からして、何といい音楽だ!という思いに浸されてしまうのだ。この曲が感情豊かに演奏された例など、あまり聴いたことはないが、エリシュカが札響を指揮すると、本当にそういう音楽になってしまうのである。しかも、その弦楽器群の凛とした力強さと、一つ一つの音をはっきりと刻み、踏みしめて行くといったリズムの明快さは、驚くべきものだ。

 ボヘミアの作曲家ヴォジーシェク(1791~1825)の交響曲は、彼の1821年の作品とのこと。私は初めて聴いた。この頃のボヘミアやハンガリーの作曲家の作品からは、まだ国民音楽的な作風はほとんど感じ取れず、概して西欧音楽の作風の影響の中にとどまっているのが多いようだが、この曲もどうやら同様である。
 30分に及ぶ長大な4楽章のこの交響曲は、正直言って私にはあまり興味をそそられぬ内容だったが、エリシュカはやはり故郷の音楽を是非とも紹介したかったのだろう。演奏が終った時には本当にうれしそうな表情をしていた。

 「悲愴交響曲」は、殊更の誇張も大芝居もなく、ひたすら率直に、心を籠めて演奏されたが、そこでのリズム感の良さもまた印象的だった。
 特に第3楽章での豪快なリズム――中ほどで行進曲主題の断片が各楽器に引き継がれつつクレッシェンドして行く個所(とりわけトロンボーンなど金管群)や、その行進曲主題が全管弦楽で激烈に進んで行く個所などでの決然としたリズムは、小気味よいほどだ。それは決して走らず、上滑りせず、剛直そのものの、正確なリズムなのである。

 以前、彼が東京都響を指揮して、同じチャイコフスキーの「第5交響曲」を演奏した際、そのどっしりした安定感と豪快で力強いリズム感に、昔の名指揮者パウル・ファン・ケンペンのそれを思い出す、と書いたことがある(2008年4月5日)が、今夜の「悲愴」でも、全く同じような特徴が再現されたのだった。
 ドヴォルジャークを指揮する時の一種の優しさを湛えた表情と違い、エリシュカはチャイコフスキーを、あくまで強面の剛毅な表現で指揮する。それもまた、エリシュカ独特の解釈なのであろう。魅力的な演奏である。全曲の頂点を築いた第4楽章での、弦の壮烈な昂揚感も見事だった。
     ⇒モーストリー・クラシック7月号 公演Reviews

4・10(木)庄司紗矢香(vn)とメナヘム・プレスラー(pf) 

    サントリーホール  7時

 プレスラーの演奏を聴くのは、3年ぶりになる。今年91歳、矍鑠たるものだ。歩行もしっかりしているし、その弾き出す音楽にも――昔のボザール・トリオ時代の彼との比較は当然ながら無理としても――些かの揺らぎもない。今回も、庄司紗矢香とは1日6時間もぶっ続けに練習をするというエネルギーだったそうだ。

 今夜のプログラムは、モーツァルトの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ変ロ長調K.454」、シューベルトの「二重奏曲イ長調」と「ソナタ第1番ニ長調」、ブラームスの「ソナタ第1番《雨の歌》」。

 2人の年齢には、60歳以上の開きがあるだろう。今回の2人の協演は、常に研究熱心な庄司の方から望んだことだったと聞くが、室内楽の名手プレスラーと舞台を共にして、若い彼女の音楽がどう反応するかが、最大の興味だった。

 もっとも、実際に聴いてみると、やはり世代の違いというか、スタイルの違いというか――特に前半のモーツァルトと、シューベルトの「二重奏曲」の前半部分では、何かぴったり合わない個性が感じられてしまう。プレスラーは穏やかながらも毅然とした語り口を曲げず、一方の庄司もまた、凛とした姿勢を崩さない。
 2人が合致している点といえば、それぞれの音楽の堅固さだけかもしれない。なにしろ、大先輩の前にかしずくには、庄司の音楽が、すでにあまりに強い個性を感じさせるのである。

 正直なところ、これではせっかくの協演も・・・・と思っていると、後半のシューベルトのソナタに入って、庄司がソットヴォーチェを多用し始めるや、2人の音楽が、みるみる近づきはじめた。
 そして最後のブラームスのソナタになると、これはもうこの作曲家の音楽が持つ魔術的な室内楽的性格のためでもあろうか、第1楽章冒頭から、ヴァイオリンとピアノとはまさに精緻に寄り添い、自然に伸びやかに対話しはじめたのである。2人の個性は、このブラームスのソナタの中で、完璧に結びついた。

 これほど音楽というものの幸福を感じさせる「雨の歌」ソナタの演奏を、私はこれまで聴いたことがなかった。この1曲だけでも、プレスラーと庄司の協演の素晴らしさは、いつまでも心に残るだろう(ただし、1階席最前列で聴いていた知人は、庄司さんはプレスラーのテンポの揺れのため、自分の思った通りに弾けていなかったようだ、という感想を漏らしていた。つまり、あれはよくなかった、ということらしい)。

 高齢のプレスラーゆえ、アンコールはないだろうと思っていたが、そんな甘いものではなかった。
 まず2人がドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」を弾いたあと、プレスラーは独りでショパンの「ノクターン第20番嬰ハ短調」を弾きはじめた。そしてまた2人がブラームスの「ワルツ変イ長調作品39-15」を弾き、これで終りだろうと思ったら、プレスラーがまた独りでショパンの「マズルカ 作品17-4」を弾いた。一緒にステージに出て来た庄司は、彼が弾いている間は、譜めくりの椅子に座って見守っていた。

 聴衆のブラヴォーは、プレスラーのソロの演奏だけに盛大に飛んだが、これは長老への尊敬の念として受け止めておけばいいだろう。

4・9(水)レイフ・オヴェ・アンスネスのベートーヴェン

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 今回はベートーヴェン・プロで、前半にソナタの「第11番」「第28番」、後半に「創作主題による6つの変奏曲 作品34」および「熱情ソナタ」という選曲である。

 少々地味系なプログラムだが、アンスネスの演奏も、ベートーヴェンだからだろうが、いつもよりもやや重い、翳りのある音色で響く。
 いつもと違い・・・・という意味は、他にもある。彼、ベートーヴェンをこんなに単彩な音で弾く人だったか? もちろん、ベートーヴェンの重厚なハーモニーは充分出ていたし、どの曲も有機的な構造体に組み立てられ、そこに温かみもこめられていたことは解る。が今日に限っては、全体を通して聴いていると、音楽のつくりが、何か一つの流れの中にとどまったままでいて、どこを切り取っても同じような――というものに聞こえたのである。

 もっとも、こんなことは、アンスネスが非凡なピアニストゆえに言えることだろうけれども。・・・・彼が来日直前、体調を崩し、そのため今回のツァーの初日である西宮公演が中止になったという話は、あとから聞いた。今回の演奏がいつもと少し違う印象だったことがそこに起因していたのかどうかまでは、私ごときが云々できることではない。

 それでも彼は、アンコールを3曲弾いてくれた。ベートーヴェンの「7つのバガテル」第1番、「ソナタ第22番」からの第2楽章、最後にシューベルトの「楽興の時」第6番。終演後には、サイン会も行われたはずだ。ともあれ、来年のベートーヴェンの協奏曲全曲演奏シリーズに期待しよう。

4・8(火)新国立劇場 ベルク:「ヴォツェック」

    新国立劇場オペラパレス  7時

 2009年にプレミエされたバイエルン州立歌劇場との共同制作プロダクションで、演出はアンドレアス・クリーゲンブルク。
 宙に浮いた形で前後に移動する巨大なボックス型舞台と、一面に水が拡がった平舞台とが対照をなす、あの演出である。

 大勢の人物が水の中を歩き回ってビチャビチャ音を立てるのがうるさいと――演出家は音楽とその水音との対比を重視しているらしいが――いう印象もあるが、舞台全体の鮮烈さや重量感は、前回同様だ。

 とにかく、「貧しき者たち」を、これほど悲惨な形で象徴的に描いた演出も稀であろう。 
 ヴォツェック一家とその他黙役の貧乏人たちだけはまともなメイクだが、彼らを迫害搾取する者たちの方はすべてモンスターのごとき異様なメイクになっている。
 底辺に住む貧乏人たち(黙役)は、水の中で惨めに這いつくばい、横柄な鼓手長の乗った輿や、果ては舞台上のオーケストラの乗った山台までを肩で支える(という形にする)など、哀れな下積みの生き方を送る。

 ハラルド・トアーの舞台装置、アンドレア・シュラートの衣装、シュテファン・ホリガーの照明など、いずれも見事だ。再演演出はバルバラ・ヴェーバーで、この人はバイエルン州立歌劇場で演出助手や舞台監督を務めたことのある人だそうだ。

 今回の題名役は、ゲオルク・ニグル。ちょっと線が細いが、現代ものを得意とする歌手らしい明快さがある。
 妻マリーはエレナ・ツィトコーワ、鼓手長はローマン・サドニック、大尉はヴォルフガング・シュミット、アンドレスは望月哲也。医者は前回同様に妻屋秀和が歌い演じ、外国人歌手に劣らぬ巨躯を利して迫力を出していた。他に大津建、萩原潤、青地英幸、山下牧子が共演。マリーの子供役を演じた池袋遥輝が活躍、新国立劇場合唱団も例のごとく好演していた。黙役の「助演者」たちは長いこと水に浸かったりして、さぞや大変だったろうと思う。

 オーケストラは、ギュンター・ノイホルトが指揮する東京フィルで、やや平板ではあったものの、大方の演奏はそう悪い方ではなかっただろう。ただ劇的昂揚という点では、ハルトムート・ヘンヒェンの指揮で演奏した前回の上演に比べ、かなり聞き劣りがしたのである。

 その好例の一つは、ヴォツェックがマリーを殺害した直後に管弦楽に現われるロ(H)音による2回のクレッシェンドだ。「真の恐怖はあとから襲いかかる」と評されるこの「一つの音によるインヴェンション」は、前回のヘンヒェンの指揮でも比較的あっさりしていたことは事実だが、今回はさらにあっさりして、恐怖感などおよそ湧いて来ないほど、不可欠なデモーニッシュな力に不足していた。
 もう一つは、ヴォツェックが入水したあとの管弦楽による「間奏曲」である。ここはもう、この悲劇を振り返り慟哭する痛烈な個所であり、初めて現れるニ短調の調性による長い音楽が言いようのない絶望を感じさせる山場なのだが、――今回は拍子抜けするほど生気のない演奏だった。これらはすべて、指揮者の責任だろう。

4・7(月)METライブビューイング ボロディン:「イーゴリ公」

   東劇(銀座) 6時

 今シーズンのメトロポリタン・オペラのニュー・プロダクションで、3月1日に上演されたもの。「イーゴリ公」は、METでは何と、ほぼ1世紀ぶりの上演だという。

 今回の演出は、ディミトリ・チェルニャコフ。
 この人は、10年ほど前にマリインスキー劇場で上演された「皇帝に捧げし命」を観て以来の私の御贔屓演出家だ。その後、エクサン・プロヴァンスの「ドン・ジョヴァンニ」、ボリショイ劇場が日本で上演した「エフゲニー・オネーギン」など、観るたびに感心していたのだが、今回の「イーゴリ公」でも、極めて面白い解釈の演出を見せてくれた。

 その異色の解釈の最大のものは、ポロヴェッツ軍陣地での出来事――敵将コンチャク汗の寛容な歓待、その娘コンチャコーヴナと公の息子ウラジーミルとの恋、ポロヴェッツ人の踊りなど――のすべてが、戦場で重傷を負い昏倒したイーゴリ公の幻想であった、という設定にしたことだろう。これは卓越したアイディアであり、チェルニャコフの並々ならぬセンスと才能をうかがわせる。

 イーゴリ公の幻想は、一面に拡がる紅いケシの花畑の光景の中に繰り広げられる。「ポロヴェッツ人の踊り」の、あのロマンティックな旋律が、藍色の空と広い花畑の中で歌われる時、それは楽園的とはいいながらも、何かこの世ならざる寂しい雰囲気を醸し出すのである。まさに夢の中で繰り広げられる光景にふさわしい。
 ついでながらこの「芥子の花」というのは、「阿片」と関連する花であり、イーゴリ公が陥った幻影の世界を描くには最適の花と言うべきかもしれない。

 それはいいが、演奏されていたヴァージョンの方は、何とも複雑を極めた。10の上演があれば10の版があると言われるくらいのこの「イーゴリ公」の音楽だが、今回はいかなる版にも増して、非常にユニークなものである。

 もともとボロディンは断片的にしかこのオペラを作曲していないので、所謂「原作」は無きに等しく、一般的に上演されているのはリムスキー=コルサコフとグラズノフによる補作校訂版なのだが、それにボロディンのオリジナル・スケッチや台本案をもとに新しい素材をユーリ・ファリエクが作曲補完、かつ幕の順序を入れ替えたりして再構成した4幕版が、ゲルギエフが一部の上演で使用している「マリインスキー版」(フィリップスのCD)である。この版では、ふつう第2幕として扱われる「ポロヴェッツ軍陣地の場面」を第1幕に移し、「イーゴリ公留守中のプチーヴリ城の場面」を第2幕に置いている。

 今回使用されているのは基本的にはこの「マリインスキー版」に近い版だが、ただし第3幕(再びポロヴェッツ軍陣地)を省略し、第4幕(イーゴリ公のプチーヴリ帰還の場)を繰り上げて第3幕に置き、また原第4幕の一部(グラズノフ作曲によるイーゴリ公と息子ウラジーミルの別れの場面)を、帰還したイーゴリ公の回想として挿入していた。

 さらに第2幕の場面の順序を入れ替え、ヤロスラーヴナとガリツキー公の応酬の場――ガリツキー邸での配下たちの乱痴気騒ぎ――貴族たちとヤロスラーヴナの対話の場という順序とし、その最後にガリツキー公の叛乱のエピソードをボロディンのオリジナルから復刻して挿入している。かなりややこしい構成である。
 この変更は、しかし音楽的には多少無理があるようだ。各場面の音楽が唐突に切れて舞台が暗転する、という結果になっているからである。

 ところで今回の、全曲大詰の個所――イーゴリ公が「己の身勝手な出征と敗北の失態」(これも歴史的事実だ)を悔悟し、ロシアの諸侯が団結して敵に当たることを呼びかける長いモノローグは、歌詞はボロディンの台本草稿から採ったもののはずだが、しかし、その音楽はどこから引っ張って来たのか? 
 METのシーズンブックとニューヨーク・タイムズの電子版には、チェルニャコフとノセダがこのプロダクションの企画を練り、ボロディンの「The River Don Floods」なる「劇的作品」から転用した、という意味のことが載っており、またMETの別資料には、それがパーヴェル・スメルコフの編曲によるものだということまで書かれていた。だが、それを歌詞とどうマッチングさせたのかということまでは、詳しく触れられていない。

 いずれにせよ、こういうエピソードが挿入されることによって、イーゴリ公の内面的性格が一層明確に描かれる結果になったことは疑いない。だがその一方、全曲大詰では、一般に上演される部分と、新しく付加された部分とが交互に延々と続くので、些かくどい印象を免れないのも事実である。

 なお今回は、「序曲」は割愛されていた。もともとこの曲はグラズノフがあとから書き加えたものだから、やむを得ないだろう。もっともMETでは、トスカニーニがすでに「序曲と第3幕はボロディン自身の作曲ではない」と指摘し、演奏を省かせたという前例があるそうだ。それが「栄光ある伝統」となっているのかもしれないが。

 今回の指揮は、ジャナンドレア・ノセダ。ゲルギエフの下でマリインスキー劇場首席客演指揮者を務めていた時代に仕込んだ「ロシアもの」だが、当然ながら、あまりロシア的な雰囲気は出ない。舞台も服装も中世風でなく、すべて現代的な設定なので、それでもいいのかもしれないが。しかし、全体を流れるように構築して、いい指揮者だ。METでの評価も極めて高いようである。

 歌手陣。粒ぞろいだ。題名役はイルダール・アブドラザコフ。これまで彼をかなりたくさん聴いて来たつもりだったが、ロシア・オペラを歌う彼を聴いたのはこれが初めてのような気がする・・・・と思ったら、インタビューコーナーで彼は「ロシア・オペラを歌うのは《ホヴァーンシチナ》に続いてこれが2つめ」だと語っていた。ロシアの男声歌手は母国のオペラを歌うと声の出し方からして凄みを発揮するものだ。彼も同様、さすがに豪快な歌唱になる。最終場面における狂乱の演技などと併せ、これは彼の当たり役になるだろう。

 彼を含め、3人の低音歌手が競うのがこのオペラの聴きどころの一つだ。
 ポロヴェッツの軍司令官コンチャク汗を歌うのはステファン・コツァン。この人の低音の力強さはすでにおなじみだ。聴かせどころのアリアでは、ここぞとばかりバスの威力を発揮して見事だった。イーゴリの幻想の中での登場だが、立派な軍服を着て貫録充分である。

 野心的なガリツキー公を歌ったのはミハイル・ペトレンコで、絵に書いたような悪役ぶりである。彼が舞台で笑い顔を見せるのは珍しいが、悪役としての笑顔だから迫力と凄みがある。今回は暴れたり、酔って踊り狂ったり、他のオペラでは出会えないような彼の個性が見られて面白かった。

 ヤロスラーヴナ(イーゴリ公の妻)ではオクサナ・ディカがMETデビュー、ウクライナ出身歌手の本領発揮といったところだ。
 またウラジーミルにはセルゲイ・セミシュクール、コンチャコーヴナにはアニータ・ラチヴェリシュヴィリが出演していた。他に、脇役のエローシカとスクーラにも、ウラジーミル・オグノヴェンコやアンドレイ・ポポフといったロシアの名手が顔をそろえていた。音楽的にも立派な上演だったのは、当然だろう。

 ただし、進行役のエリック・オーウェンズがあまり上手くない。各歌手へのインタビューがギクシャクして、時間がなくなったり、話を唐突に切り上げたりするところも多く、愉しめなかった。やはりデボラ・ヴォイトとかルネ・フレミングとか、上手い人にお願いしたいところです。

 MET版ともいうべきユニークなヴァージョンであるこの「イーゴリ公」は、演奏時間約3時間15分。10分の休憩2回にインタビューなどの特典映像を合わせた上映時間は4時間15分と長くなった。

4・6(日)日本ワーグナー協会例会におけるコニエチュニーの話

    ドイツ文化センター  2時30分

 前夜アルベリヒ役で素晴らしい性格的な歌唱を聴かせたトマス・コニエチュニーと、気品あるエルダを歌ったエリーザベト・クールマンが、日本ワーグナー協会の例会にゲストとして出席、興味深い話をいくつも披露してくれた。

 特にコニエチュニーの話が面白かった。彼は最初、演劇俳優としてキャリアを開始したという(オペラには長いこと全く関心がなく、初めてCDで聴いた時には7分で眠ってしまったとか)。なるほどそれなら、芝居が巧いのも当然であろう。
 そして、「ニーベルングの指環」のキャラクターの中では、アルベリヒと同等に――もしくはそれ以上にヴォータン役が好きだと語る。彼はこの2つの役を、次のように分析する。

 「アルベリヒは寂しく、悲しいキャラクターです。彼に関係する音楽はすべて短調で書かれています。彼はもともと、若く野心的で一途な男だったのですが、ラインの乙女たちに嘲られたのがきっかけで傷つき、愛を一切捨てて『暗い側面』に入りました。そのダーク・サイドで生きるようになってからは、些かもぶれることはなく、ただまっすぐに(権力志向の)道を進む男となったのです。これに対し、神々の長ヴォータンは、愛も権力も、全てを自らのものにしたいという欲求を持つ男です。それゆえ迷うことが多いばかりか、口で言うことと実際の行動とが食い違っている場合も少なくありません。(敵対する)アルベリヒとヴォータンは、いわば互いに鏡に映った同一のキャラクターのような存在です」

 たしかに、「指環」の台本の中には、ヴォータンを「光のアルベリヒ」と呼ぶ個所がある。またヴォータンを象徴する「ヴァルハルの動機」と、世界支配の権力を象徴する「指環の動機」とが、長調と短調の違いこそあるものの、同じ性格の音楽であることも周知の事実であろう。

 そういえば、コニエチュニーは、ヤノフスキ指揮の「指環」の新録音で「好きな」ヴォータンを歌っていた。
 だが、私の印象では、それは何とも荒々しく、神々の長というよりは暗黒街の帝王とでもいったヴォータン像に感じられた。それは彼の声の性格から生まれる特徴だと私は思っていたのだが、彼の話を聞いているうちに、やはりそこには彼の演劇的解釈も働いているのかな、という気もして来たのである。

 とはいっても、私の好みからすれば、やはりコニエチュニーは、悪役アルベリヒの方が、ぴったり来る。なお彼は、いつかは「魔笛」のパパゲーノをやりたいと言っていた。そう、あの役なら、思い切って変身できるだろうから、若い頃のマティアス・ゲルネがガラッパチ的パパゲーノで成功したように、面白い味が出せるかもしれない。

4・5(土)東京・春・音楽祭 ワーグナー:「ラインの黄金」

    東京文化会館大ホール  3時

 「東京・春・音楽祭」の目玉商品ともいうべき、ワーグナーの「オペラ」の演奏会形式連続上演。今年から始まる「ニーベルングの指環」の指揮者として迎えられたのは、ベテランのマレク・ヤノフスキだった。
 その第1作「ラインの黄金」は、これまでの同音楽祭でのワーグナー・シリーズの中では、最も成功を収めた上演と言ってもいいだろう。

 ヤノフスキは、彼が過去に行なった2種の録音よりも更に速いテンポで指揮した。演奏時間も2時間15分という短さとなったが、これは私が聴いた範囲では、エッセンでのシュテファン・ショルテスのテンポとほぼ同じである。アルベリヒとローゲの応酬場面など、唖然とさせられるほどの目まぐるしいテンポだった。
 だが、もともとこの「ラインの黄金」は、統一された流れの乏しい、まとまりにくい音楽だろう。このくらい速いテンポでやった方が、劇的昂揚感が出ていいのではないかと思われる。

 ヤノフスキは、ことさらの誇張もなく、淡々と、ひた押しに、率直に音楽を進めて行った。ただ唯一、全曲の最後から1小節前のフォルティシモの和音をフッと力を抜いて響かせたのは如何にも作為的に過ぎた。豪壮な昂揚感を弱めてしまう、納得の行かない手法だ。前述の2種の録音でも、彼はこんな妙なことはやっていなかった。拍子抜けした聴き手もいたのではなかろうか。

 オーケストラは、例年通りのNHK交響楽団。今年はウィーン・フィルの人気の名手、ライナー・キュッヒルを客演コンサートマスターに迎えていたが、これで随分オケの雰囲気が変わっていたのではあるまいか(彼の名がプログラムにクレジットされていなかったのは不思議だ)。
 ともあれN響は、指揮者の速いテンポにもよく応え、重量感とスケール感の豊かな音楽を響かせた。キュッヒルのおかげもあってだろうが、その演奏に、昨年までの音楽祭では聞かれなかったような雄弁さが感じられたのは祝着である。この演奏の「本気度」が、来年の「ヴァルキューレ」にも引き継がれることを、切に願いたい。

 歌手陣は、昨年までと違って、舞台前方で歌っていた。
 ただし巨人ファーフナーとファーゾルトのみはオーケストラ後方の上手側で歌い、また智の女神エルダは上手側2階席に登場して歌っていた。特にエルダを舞台外に登場させたことは、この女神が別次元の世界からやって来たことを暗示する手法として、非常に効果的なものと思われる。

 実力派を揃えた今年の歌手陣の水準は、すこぶる高い。
 特にこの作品の事実上の主役ともいうべき存在のアルベリヒ(ニーベルング族の長)を歌ったトマス・コニエチュニーが素晴らしい。個性的な風貌といい、ダイナミックな歌唱表現といい、少し荒々しい声質といい、この悪役にはぴったりである。
 私は彼の、ウィーン国立歌劇場(2009年5月2日の項)と、前述のエッセン(2010年6月10日の項)での秀抜な歌唱と演技によるアルベリヒに接して以来、彼の大ファンになってしまったのだが、今回も期待に違わぬ、圧倒的な歌唱を聴かせてくれたので、大いに満足、というところだ。
 彼は日本では以前、アルミンク指揮の「ローエングリン」のハインリヒ王を歌ったことがある(あれは何ともやくざっぽい歌唱だった)が、今回こそは彼にふさわしい役柄を披露したわけで、漸く日本でも人気が上がるだろう。

 また、流石の巧さを聴かせたのが、ローゲ(火の神)を歌ったアーノルド・ベズイエン。そして、初めて聴いたのだが意外に良いなと思ったのが、ヴォータン(神々の長)役のエギルス・シリンスである。
 更にフリッカ(ヴォータンの妻)クラウディア・マーンケ、エルダ役のエリーザベト・クールマン、ミーメ(アルベリヒの弟)のヴォルフガング・アブリンガー=シュペルハッケら、みんな手堅く個性的に歌唱を聴かせて存在感を出していたのは素晴らしい。
 その他、ボアズ・ダニエル(雷の神ドンナー)、マリウス・ヴラド(幸福の神フロー)、フランク・ヴァン・ホーヴ(ファーゾルト)、ジム・インスン(ファーフナー)、藤谷佳奈枝(美の女神フライア)、小川里美・秋本悠希・金子美香(ラインの乙女たち)といった人々も好演だった。

 かように、音楽面における充実が、今年の「ラインの黄金」を成功に導いた最大の理由である。演奏が良ければ演奏会形式上演の良さが生きる。煩わしい演出の舞台に気を散らされることなく音楽に没頭できるし、音楽の魅力をじっくりと味わうことができるというものである。

 背景の大スクリーンに映像を投映する方法は、今年も引き継がれた。
 映像デザインは田尾下哲。水中、山上に聳える城、地底の溶岩(?)といったものを幻想的にイメージした映像による静止画が多かったが、場面の転換の個所や、全曲最後の頂点の個所などでは部分的に動画が使用されていた。ヴァルハル城が夕陽に照り映える場面ではそうしたイメージも出るのかと期待したけれども、どうやらそんな俗っぽい(?)手法はおやりにならぬらしい。森(のようなもの)が移動する映像は、彼が4年前の新日本フィルの「ペレアスとメリザンド」で使用した手法に似たものがある。

 いずれにせよ、背景に何にもないのは殺風景で寂しいので、映像はあった方がいいし、それもあまりくどさを感じさせぬものがいい。その点、今年の視覚的効果は、成功していたと言えるだろう。

 なお、昨年まで不評を買っていた「字幕」は、今年は背景の映像の中から独立させ、ふつうのスタイルで上手と下手に設置した。これは平凡な方法ではあるけれども、やはり見やすくて有難い。
 字幕文(広瀬大介)は、一つ一つの言葉のニュアンスに物語の流れを解り易く暗示させていて、実に見事なものだと初めのうちは感心していたのだが、第4場の「アルベリヒの呪い」以降、とつぜん文章が不思議に物々しくなり、ニュアンスに明解さを欠いた文体になってしまったのは惜しまれる。
     ⇒モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

4・4(金)井上道義の大阪フィル首席指揮者就任披露定期
           ショスタコーヴィチ「交響曲第4番」他

    フェスティバルホール(大阪) 7時

 昨年4月の落成記念公演「オテロ」以来、久しぶりに訪れる大阪のフェスティバルホール。

 この新フェスティバルホールはすこぶる豪壮かつ豪華なつくりで、特にホール内部は、昔のホールと同様、非常に広大である。
 ただし、最初に難を言ってしまえば、閉所恐怖症の私には、エントランスからメイン・ホワイエに上がるエスカレーターの長さと遅さと天井の低さに、まるでMRIにでも入るような圧迫感を覚える。ホワイエの暗さと、そそり立つ巨大な壁も同様だ(暗くていいと言っていた人もいたから、さまざまだが)。それにエスカレーター横(つまりバー・カウンター横)に立つ案内係の青年が休みなく張り上げる大声にはホトホト閉口した(並外れて朗々とよく通る声と、1時間も切れ目なしに叫び続けても声の枯れぬノドの強靭さは感心するが)。

 余談はともかく、今日は井上道義が大阪フィルの首席指揮者に就任して最初の定期、その初日。2700人を収容する客席はほぼ満員で、すこぶる華やいだ雰囲気が漂っていた。
 プログラムは、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは神尾真由子)と、ショスタコーヴィチの「交響曲第4番」。

 井上道義は、かつて日比谷公会堂で、ショスタコーヴィチの交響曲の全曲ツィクルスを敢行したことがある。思い入れの強い存在だろう。今回、俗受けする「5番」などでなく、敢えて最高傑作たる「4番」を選んだのは、いかにも彼らしい。卓見と言えよう。
 祝賀的な就任記念の演奏会に、悲劇的な要素の強い「4番」は如何なものかという考えもあろうが、今夜の井上の指揮を聴くと、終楽章大詰め近くでの全管弦楽の怒号は予想外に抑制されており、また最後の謎めいた溶暗もそれほど絶望的な雰囲気には聞こえず、何か未来への希望を残しているように聞こえたのである。多分その辺にも、井上の秘かな狙いがあったのではないかという気もする。
 とはいえ、第1楽章のフガートでのヴァイオリン群の疾走や、それに続く劇的な昂揚個所での演奏は、すこぶる壮絶で、一種の魔性的な物凄さも感じ取れたのであった。

 もっとも、1階18列の中央あたりの位置で聴く範囲では、全合奏の中で低弦――特にコントラバスがほとんど響かず、したがって低音不足を感じさせていた。第1楽章冒頭の威圧的な個所をはじめ、全曲にわたり重量感に乏しい印象となってしまったのである。もともと残響のそれほど多くないホールだから、全管弦楽が荒々しく咆哮する際には、これは苦しい。やはり上階席の方が、音のバランスが好いのだろうか? 2階席正面前列で聴いていた知人は、響きも極めて明晰で、聴き易かったと語っていた。
 ともあれ、総じて音が硬いという印象は拭えないが、何せ竣工後まだ1年そこそこのホールだ。所謂「豊かな鳴り」が出て来るまでには、どんなホールでも、数年はかかる。

 前半に演奏されたチャイコフスキーの協奏曲では、オーケストラはかなり控えめだったが、ホール全体を支配するがごとき神尾の激しい強靭なソロに対しては、もう少し鳴ってくれた方がよかったと思うのだが如何。

 久しぶりに聴いた大阪フィル。今日は新日本フィルのコンサートマスターの崔文沫がリーダーを務めていたが、彼は大フィルの首席客演コンマスでもある(大フィルの首席コンマスは田野倉雅秋、コンマスは渡辺美穂)。
 オーケストラ全体の響きや音色は、しっとりした味よりも、むしろ荒々しい活力に頼った音――という印象を受けたが、曲が曲、編成が編成だけに、仕方がないかもしれない。聴衆の反応も悪くなく、新体制もまずは上々の滑り出しと見えた。

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