2017-02

3・31(月)東京・春・音楽祭 「コルンゴルト」

   上野学園 石橋メモリアルホール  7時

 「死の都」の連続上演など、このところわが国でも急激に「脚光を浴び」はじめているエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトだが、「東京・春・音楽祭」にも彼を特集したコンサートが登場した。

 そのコンサートの「二つの世界の狭間で」――というテーマはすこぶる的を射たもので、つまりウィーンの純音楽界とハリウッドの映画音楽界との間を揺れ動いたこの作曲家の実像にぴったりの表現であろう。
 ただし今夜のプログラムは、ハリウッド映画音楽の父ともいうべき彼の姿よりも、ウィーンを志向した純音楽の分野における彼の成長と変貌の過程を描くことに重点が置かれていた。

 中村伸子(コルンゴルト研究家)の企画・構成および解説で進められたプログラムは、歌劇「ポリクラテスの指環」「死の都」「カトリーヌ」、および「7つのおとぎ話の絵」「まつゆき草」「ヴァイオリン・ソナタ」「シュトラウスの物語」「シェイクスピアの詞による歌曲」「弦楽四重奏曲第3番」「ウィーンに捧げるソネット」など(一部は抜粋)。
 「死の都」を除けば滅多に聴けぬ、ましてや生演奏で聴くことなどほとんど叶わぬ曲ばかりで、実に貴重な、興味深いコンサートだった。

 大編成のオケによる映画音楽そのものはここでは無理としても、その既作の映画音楽を一部に転用した弦楽四重奏曲をプログラムに含めたり、コルンゴルトが生涯にわたり愛したウィーンへの賛歌を最後に挿入したりするところなどは、構成者の中村伸子さんの凝った選曲が覗えるところである。
 彼女は未だ若い東京藝大の大学院生だが、昨年びわ湖ホールでの3回にわたる「死の都」についての私の講演のうち、1回にゲストとして出てもらったことがあり、その熱心なコルンゴルト研究ぶりに舌を巻いたことがある。「コルンゴルトを広め隊」主宰者としての活動や、新国立劇場の「死の都」サイトでの解説でご存知の方も多いだろう。

 今回の演奏は、ストリング・クヮルテットARCO、天羽明惠(S)又吉秀樹(T)村田千佳(p)。
 ピアノ・ソロ曲の「シュトラウス物語」が、ウィーンの良き時代を回想する音楽ならぬリストの技巧曲の如き激しい演奏になってしまい、納得が行かなかったのを除けば、いずれもいい演奏だった。

3・30(日)ユベール・スダーン、東京響音楽監督在任最後の定期

   ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 2004年9月から10年にわたった音楽監督在任の最後を締め括る定期のプログラムは、ゲルハルト・オピッツをソリストに迎えてのベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」と、シューベルトの「交響曲第2番」。

 音楽監督としての最後のプログラムにシューベルトの「2番」を持って来るあたり、いかにもスダーンらしい。
 彼と東京響は、数年前にシューベルトの交響曲全曲ツィクルスを開催した。それは、日本のオーケストラが行なった一人の作曲家の交響曲連続演奏会の中でも、おそらく最高峰に位置するとさえ言っていいほどの完璧な演奏内容だった――少なくとも、私がこれまで聴いて来た範囲で言えば、それは間違いない。

 そして、今日繰り広げられた「2番」の演奏は、まさしくそれを再現するものであった。 
 非の打ちどころのないバランスを備えた構築、鋭角的なリズム感と推進性、スダーン特有の厳しい、しかも生気にあふれた表情など――そう、あのツィクルスの時の「2番」(2008年11月1日)も、こういう演奏だったな、と懐かしく思い出す。つまり、東京交響楽団も、あの最も快調だった時期の演奏を、今やまた取り戻していたのである。

 プログラム前半に演奏されたベートーヴェンの「皇帝」も、引き締まった演奏だ。オピッツもさすがドイツの名匠、こういう曲を弾くと、おのずから不動の風格といったものが演奏にあふれ出て来る。先年のシューベルト・ツィクルスは賛否両論あったが(私自身は彼のあの豊かなハーモニー感覚が好きだ)、ベートーヴェンのこういう世界なら、文句を言う人はいないだろう。

 最後にシューベルトの「ロザムンデ」からの「間奏曲」が演奏されたが、これは先日急逝したこのオーケストラの若い奏者を偲ぶ意味を含めてのもので、スダーン自身が長いスピーチを行なっていた(マイクなしだったので、その半分以上ははっきりと聞き取れなかったが)。

 ユベール・スダーンの音楽監督の時代は、こうして終りを告げた。
 おそらくそれは、東京交響楽団の歴史の中でも、演奏水準が最も充実した時期だったであろう。彼はこの後、桂冠指揮者となる。
    ⇒モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

3・29(土)市川右近の新演出 團伊玖磨:「夕鶴」

   BUNKAMURAオーチャードホール  3時

 すでに東京文化会館で1月18日に幕を開け、4月12日までの間に10回の各地巡演を実施しているプロダクション。
 宇都宮、横須賀、岩国、益田(島根)、熊谷、浜松と公演を終り、今日が8回目で、このあとは福岡と大阪での上演を残すのみ。

 端的に言うと、市川右近の今回の新演出は、すこぶる新鮮な「夕鶴」の舞台である。
 ステージには農村の光景はなく、農家の小屋も囲炉裏も、鍋も釜もない。
 舞台装置は回り舞台と、背景を移動するパネルだけである。市川右近自身の解説(プログラム掲載)によれば、これは歌舞伎と能の舞台からイメージを取ったものという。

 漸くこのオペラも、初演後62年を経て、オリジナルの民話的性格から解放された「普遍的」な解釈の舞台が試みられる段階に入ったといえようか。
 もちろん、ここに至る過程の中には、新国立劇場で2000年にプレミエされた栗山民也演出のような、かなり象徴的な色合いの濃い舞台もあったわけだが。いずれにしても今回のような解釈は、「夕鶴」を見飽きた、聞き飽きたという観客にも、新しい楽しみを提供できるはずのものだろう。ただし、今日の拍手の音質(?)から推察すると、観客の中に、そういうオペラ・マニアが一体どの程度いたのか、心許ないけれども。

 それはさておき、このシンプルな装置をして雄弁にドラマを物語らせるものは、千住博の舞台美術と成瀬一裕の照明だ。
 特に背景に投映される映像が効果を発揮する。雪の光景(樹の枝が揺れて落ちる雪)、機織りの場面で上方から揺れつつ落ちて来る鶴の羽根の幻影(舞台手前まで滑って来る)、3人の男が機織りの部屋を覗く瞬間にほんの1秒足らず背景に閃く白い鶴の姿など、いずれも極めて幻想的な美しさである。

 森英恵が担当した登場人物の衣装も現代的なもので、これが「夕鶴」の舞台を普遍化するための効果を生んでいる。3人の男たちは冬のジャンパーの類。つうは「超自然的な存在の女性」の意味か、白く薄い衣装をまとった姿だが、とにかくこれも「洋装」の類だろう。
 子供たちがツクシん坊か何かみたいな可愛らしい扮装をしているのは、ラストシーンでいっせいに「鶴」のような幻想的な身振りを見せるための伏線なのかとも思うが、これは現代的なというよりは、現世と超自然の世界の間にある純粋性(?)ということだろうか?
 なお、ついでに言えば、このラストシーンだけは、子供たちのシルエットが背景に中途半端に映るのがあまり納得が行かず、悲劇的な幕切れとしては今一つインパクトが弱いような気がするのだが如何。

 配役と演奏は、つうを佐藤しのぶ、与ひょうを倉石真、運ずを原田圭、惣どを高橋啓三、子供たち(10人)を杉並児童合唱団。管弦楽は東京フィルハーモニー《夕鶴》特別オーケストラ、指揮が現田茂夫。
 演奏の面では、機織りの音楽が響く第1幕最後の個所には今一つ劇的な凄みが、また第2幕大詰にはもっとカタストローフらしい緊迫感が欲しいところではあったが、ピットから響くオーケストラはすこぶる陰影の濃い音を聞かせていて、團伊玖磨の音楽の巧妙さと良さを味わわせるに充分なものがあった。

 昔、このオペラを初めて聴いた20世紀半ばの頃には、当時の作曲界の趨勢の中で、あまりに作風が保守的であるとか、プッチーニ的であるとかいう疑念に随分悩んだものだった。だが、そんなことに葛藤する時代が遠い昔のものとなった今では――コルンゴルトの音楽が保守的傾向だなどと言って悩む必要がない時代に来たのと同じように――何の屈託もなく、このオペラの音楽に心を委ねることができるのがありがたい。團伊玖磨の豊かな劇的センスと巧みな管弦楽法に、改めて感動させられる。

3・28(金)よみうり大手町ホール開館記念 読響スペシャルコンサート

   よみうり大手町ホール  7時

 大手町の読売新聞社屋内に竣工した新しい「よみうり大手町ホール」のオープニングシリーズ。
 その開幕は読売日本交響楽団の特別演奏会で、尾高忠明が指揮、河村尚子が客演。デュカスの「ラ・ペリ」の「ファンファーレ」、R・シュトラウスの「13管楽器のためのセレナード」、エルガーの「弦楽セレナード」、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番」と交響曲「ハフナー」、アンコールとして同「ディヴェルティメントK.137(125b」の「アレグロ・ディ・モルト」が演奏された。

 地下鉄・大手町駅のC3出口に直結、読売新聞社ビルの広大なエントランスの中をエスカレーターで4階へ上がる。ほぼ専用通路に等しいので、さほど時間を要せずにホールに着ける。
 ホールは4・5階ぶち抜きの構造で、4階のエントランス・ロビーはあまり広くないが、5階のホワイエには空間スペースがたっぷりとられ、窓も大きいため、開放感もある。客席数は501、傾斜の大きな単床式で、2階席がないので圧迫感がなく、かなり広く感じられる。舞台だけでなく客席の壁や床にも木がたっぷり使われているのが目立つ。

 音楽専用ではなく多目的ホールで、シンポジウムや演劇にも使われるため、壁には吸音用のカーテン等が設置できる造りになっているそうだ。今日はもちろんその吸音材は使用されていなかったはずだが、9列目という位置で聴いたせいもあって、残響はあまり感じられず、楽器はリアルな生々しい音で迫って来た。
 冒頭の金管群のファンファーレは、このホールにはいかにも厳しいだろう。オーケストラも、せいぜい小編成のモーツァルトやシューベルトの作品どまりかもしれない。ただし、ピアノのソロや、弦楽編成や木管編成の音は、なかなか快いものがあった。もともと残響は最大1・5秒と謳われているのだから、ワンワン響く豊麗な音を望むのは無理だ。

 だが、このように「木」がたっぷり使われているホールは、竣工後数年経つうちに、建材がこなれ、鳴りが良くなるという性質をもつものである。その点では、今は「音が硬い」けれども、将来いい雰囲気が出て来ることが充分期待されるだろうと思う。

 椅子はかなり頑丈な作りで、前後のスペースはそれほど広くはないものの、左右の幅は比較的楽に取られている。クッションはやや固めだが座りやすく、ただ背もたれの傾斜が新幹線の普通車の座席並みに直立気味なので、寛いで腰かけるというより、姿勢を正して深く腰掛けるという感じだろう。演奏を聴きながら長時間のんびり座るというより、前の椅子の背に設けてあるデスクをこちらに倒し、書類を見ながらシンポジウムの討論を聞くのに適した姿勢と言えるかもしれぬ。

 なお、ホワイエのちょっと高く奥まった場所にはバー・コーナーがあるが、ここで供されているサンドウィッチは銀座のスエヒロ製で500円(味は世間並み)、オレンジジュースは300円と、他のホールに比較して各々100円廉いのになぜか感心した(ワイン等は飲まないので値段は聞き洩らした)。
 終演後の動線は、客席からの出口が3か所(後方2、前方上手側1)しかなく、下りのエスカレーターも1基のみなのでベストとは言い難いが、収容人員500程度なら、どこやらの大ホールのように、人が通路にぎっしり渋滞するということはない。

3・26(水)小澤征爾音楽塾 モーツァルト:「フィガロの結婚」

    東京文化会館大ホール  6時30分

 まずは、小澤征爾がまた元気で指揮をしてくれたのが嬉しい。

 全曲を指揮――とまでは行かなかったが、彼が指揮したのは、序曲と、第1幕は冒頭からフィガロの「もし殿がお踊りになるなら」までと、「娘たちの合唱」から終りまで。第2幕は伯爵の「さあ出て来いスザンナ」から長いフィナーレを含む幕切れまで、そして第4幕はフィナーレ(ケルビーノの登場以降)。以上の部分であった。
 その他の部分は、チェンバロを受け持っていたテッド・テイラーが指揮し、その間、小澤さんは袖に引っ込んでいた。

 これは、「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト」シリーズの「ⅩⅡ」として上演されたもの。3月16日から横須賀・名古屋・びわ湖と順に公演、今日がその最終日になる。
 今回は「オペラ・ドラマティコ形式」と銘打たれていたが、具体的には、室内オペラ的な上演形式とでもいうか。セミ・ステージ形式よりはずっと通常のオペラ上演に近い手法だ。オケ・ピットを高くして指揮者やオーケストラの全貌が見えるように配置、舞台はそれより更に高くして、簡素ながら写実的な装置を設え、トラディショナルな衣装をつけた人物たちが、リアルな演技を繰り広げる。

 ただし、演出はあのデイヴィッド・ニースだから、目新しい解釈も手法もない。ある程度細かい演技が付与されているだけ、マシというべきか。所謂穏健な、のんびり観るには適している類の舞台だ。
 それはそれで悪くはない。だが、かつての「東京のオペラの森」が消滅している今、ウィーン国立歌劇場の音楽監督まで務めた小澤征爾が東京で披露する唯一のオペラがこのような保守的なプロダクションの域を出ないというのは、何とも物足りないと言わねばなるまい。

 今回の出演は、クレイグ・ヴァーム(アルマヴィーヴァ伯爵)、シアン・デイヴィース(伯爵夫人)、ウェイン・ティッグス(フィガロ)、デヴォン・ガスリー(スザンナ)、リディア・トイシャー(ケルビーノ)、デニス・ヴィシュニア(バルトロ)、牧野真由美(マルチェリーナ)、高柳圭(バジーリオ)、三宅理恵(バルバリーナ)、町英和(アントニオ)、升島唯博(クルツィオ)。(注、オリジナル・スペルからの表記。公式プログラム掲載のものとは若干異なる)いずれも、まずまず無難な歌唱。

 管弦楽と合唱は、オーディションで選ばれた若手の塾生たち。みんな、よくやった、綺麗な演奏だった、と讃えておきたい。だが・・・・客観的に見るとそれは、モーツァルトの音楽それ自体が持つ力ゆえにその水準が保たれていた――というのも事実ではあるまいか。
 結局、上演のあとに残ったのはやはり、「小澤さんがまた元気になって、本当に良かった」という思いのみ・・・・。

3・24(月)井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢 東京定期

   サントリーホール  7時

 恒例の東京定期。プログラムは、権代敦彦の「クロノス~時の裂け目~」、シューマンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは郷古廉)、ベートーヴェンの「交響曲第5番」。

 編成がたとえ小さくても、鳴り方さえ良ければ、この2千人収容のホールを見事に響かせることができるのだという好例を示したのが、今回の「5番」の演奏ではなかろうか。
 内声部で刻まれる弦のトレモロは、厚みだけでなく空間的な拡がりを感じさせ、小編成のオーケストラから壮大な気宇にあふれた音楽を生み出す基となる。密度の濃い、緊迫度に満ちた演奏ながら、実に伸び伸びとして爽快な「ハ短調交響曲」であった(これは、いつも聴き慣れた2階席正面での印象である)。

 シューマンの協奏曲では、このたっぷりしたオーケストラの響きに乗って、若き注目の奏者・郷古廉(1993年生れ、ウィーン国立音大で研鑽中)が、これまた爽やかで美しいソロを聴かせてくれた。ソロ・アンコール曲はバッハの「無伴奏パルティータ第2番」からの「サラバンド」。
 それにしても、あの透き通った瑞々しい感覚は、どこから生れるのだろう? これは素晴らしい逸材ヴァイオリニストである。

 「クロノス~時の裂け目~」は、OEKのチェロ、ホルン、打楽器の各奏者の他に、バス・クラリネットの原田綾子とピアノの三輪郁が客演しての、5人編成による演奏。
 この曲で思い出すのは、2012年2月4日の深夜、作品の委嘱元であるラ・フォル・ジュルネのナント公演における世界初演のことだ。工場か倉庫を改造したような会場で行われた演奏はこの上なく精妙で美しかったのに、そのあとに置かれた、プロレスまがいの演出を加えた騒々しいパフォーマンスのプログラムのおかげで、権代の綺麗な作品はすっかり影が薄くなってしまい、私は主催者に対し大いに腹を立てたものである(プロレスが悪いという意味ではない。組み合わせが悪いと言っているのである。私はこれでも、力道山時代には自称「高度の」プロレス通だった)。
 このような静謐で清澄な作品は、やはり今回のような響きのいいホールで、落ち着いた雰囲気の中で聴くべきものなのである。

 「時の裂け目といえば、ベートーヴェンも『時』の音楽を書いていますね」と井上のスピーチがあって演奏されたアンコール曲は、メトロノームに縁のあるベートーヴェンの「第8交響曲」第2楽章。何だかこじつけっぽいが、まあ愉しい演奏。

 なお今夜は、このオケの公演に付きものだった、ロビーを圧してずらり並ぶ不気味な黒服の男たち(スポンサー関係者)の数が、以前に比べてだいぶ減っていた。少しホッとする。

3・23(日)シャイー指揮ゲヴァントハウス管弦楽団 マーラー「7番」

   サントリーホール  6時

 リッカルド・シャイーとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の今回の来日公演プログラムの中で、私が最も興味を持っていたのが、このマーラーの「第7交響曲《夜の歌》」だった。好きな曲のせいもある。

 舞台一杯、あふれ返らんばかりに並んだ大編成のオケ(これだけ楽員を招聘するのは大変だったろうなと思う)が轟かせる音は物凄い。何層にも及ぶ分厚い巨大な音塊が寄り集まっては炸裂し、怒号咆哮する。ホールも崩れ落ちんばかりの迫力である。

 だが、その演奏の上手さたるや、これまた卓越したものだ。ゲヴァントハウス管弦楽団の現在の水準の高さを如実に証明したのが、この日の「7番」の演奏だったのではなかろうか。シャイーがこのオーケストラの伝統的な美点を尊重しつつ、巧みにカペルマイスターとしての責任を果たしている、ということの証拠であろうと思う。

 管楽器セクションも上手いが、弦楽器群の質の良さも――前回も書いたことだが――特筆すべきものである。第1楽章冒頭、テノールホルンを支えるリズムが次第にトレモロに変わり、最強奏に達して行く個所での空間的な拡がりと、厚みと重量感に富んだ壮大な響き。そして、管や打楽器群がどれほど怒号しても、決して打ち消されることのない強靭なトレモロ。
 こういった弦の凄さは、ドイツの良き時代の伝統を引き継ぐオーケストラだけが持っている特徴だが、ラテン系の指揮者であるシャイーが、その特徴を巧みに引き出しているところが面白い。

 ただしシャイーの指揮は、決して陰鬱ではない。やはり南国出身の指揮者らしく、むしろ明朗なと言ってもいいほどだ。「Nachtmusik」と題された第2楽章と第4楽章にさえも、暗さ、神秘性、怪奇性といった要素はほとんど感じられなかっただろう(そのあたりは、私にとっては些か物足りぬところだが)。ことさら深刻になることなく、わざとらしい小細工もなく、ひたすらオーケストラの力を信じて、ストレートにその威力を噴出させて行ったのが、この日の彼の指揮だった。

 だがそれだけに、そのように演奏されると、この曲の愛すべき特徴・・・・まとまりのない構築、突然の転調、唐突な曲想の変化、不明確な形式、極端なデュナミークの対比、激烈な表現主義的性格・・・・といった「矛盾をはらんだ」特徴が、いやが上にも率直に露呈されることになろう。まるで、話があっちへ飛びこっちへ飛び、滅茶苦茶な話し方をする人の長広舌を延々と聴いているようなものである。もちろん、それがまたこの曲の魅力なのであるが。
 それを巧くまとめてしまい、破綻のない均衡を作品に与えた演奏例の一つは、先日のインバルと都響の演奏だった。それもまたそれで、別の魅力がある。

 いずれにせよ、今回のシャイーとゲヴァントハウス管の演奏――かくも混沌としていながら美しく、荒々しいが雄渾壮麗で、騒々しいけれども気品があり、しかもスリルに富んで面白い「7番」の演奏は、稀有な例だったのではなかろうか?

3・23(日)東京・春・音楽祭 R・シュトラウス・マラソン 第Ⅲ部

    東京文化会館小ホール  3時

 その第3部は、前半にピアノ・ソロ版による「セレナード 作品7」と、室内楽による「チェロとピアノのためのソナタ 作品6」から第3楽章、およびハーゼンエール編の「もう一人のティル・オイレンシュピーゲル」。
 演奏が津田裕也(pf)成田達輝(vn)奥泉貴圭(vc)池松宏(cb)西川智也(cl)長哲也(fg)日橋辰朗(hn)。

 そして後半が歌曲集で、「万霊節」「ツェツィーリエ」「献呈」「黄昏の彼方の夢」など8曲が歌われた。演奏は安井陽子(S)加納悦子(Ms)、安井耕一(pf)。

 ここから第5部にかけ、プログラムが次第に大規模になって行くという構成なのだが、私は残念ながら、ここまで。

3・23(日)東京・春・音楽祭 R・シュトラウス・マラソン 第Ⅱ部

    東京文化会館小ホール  1時

 上野周辺で開催されている恒例の「東京・春・音楽祭」(旧「東京のオペラの森)は、今年は3月14日から4月13日まで開催中。

 その一つがこれ、東京文化会館小ホールで開催された、生誕150年を記念するR・シュトラウスのマラソン・コンサートである。午前11時開始の回から午後7時開始の回まで、5つのパートに分けての各1時間のプログラムによる、入れ替え式の演奏会だ。

 午後1時に開始された第Ⅱ部は、テニスンの詩(畑中良輔訳)とR・シュトラウスの音楽とが組み合わされたメロドラマ「イノック・アーデン」だった。R・シュトラウス協会の例会などでもなければ、滅多にナマで聴ける機会のない作品だろう。

 今回は、ピアノを清水和音、朗読を松平定知(元NHKアナウンサー)が受け持った。両者とも過度の思い入れや誇張を排した、比較的淡々たる表現による演奏と朗読。哀しい、かつ温かい物語を、じっくりと味わわせてくれた。こういう作品を取り上げてくれたのは嬉しい。出色の企画。

3・22(土)大友直人指揮群馬交響楽団定期

   群馬音楽センター  6時45分

 大友直人が音楽監督に就任して以降初めて聴く群馬交響楽団の演奏。明日トリフォニーホールで同一プログラムによる東京公演はあるものの、時間的にスケジュールが合わないので、本拠地の高崎へ赴いての取材となった。

 今回のプログラムは、ベルリオーズの序曲「海賊」に始まり、南紫音をソリストに迎えてのシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」、最後にホルストの「惑星」。

 どういうわけかこのホールへ群響を聴きに来る時には、いつもこういう大編成の曲が多く、ここのアコースティックに不慣れな私としては些か戸惑うのだが、今日初めて座った18列の中央あたりで聴くと、意外に音響バランスが良くて、弦のしっとりした音色が味わえるのに気がついた。たとえば「海賊」の叙情的な個所、協奏曲の第2楽章、あるいは「土星」などでは、なかなかに豊麗な音が聴けたのである。これはもちろん、大友直人のオーケストラの響かせ方の巧さにも因るものだろうが。

 ともあれ、久しぶりに聴くこの群響の音には、前任シェフの沼尻竜典の時代における張りつめた緊張感は薄れ、もっと寛いだ解放的な雰囲気が漂いはじめている、という印象を受ける。これもまた大友の個性の反映であろう。
 どちらがいいか、私の好みの問題はもちろんあるけれども、それはここでは敢えて言わぬことにして、群響が今後どのような方向に進むのか見守りたい。

 「惑星」の最終曲「海王星」の後半に登場する女声合唱は、上手側袖のドアを開いて舞台裏からのハーモニーを響かせたが、好いバランスで聞こえていた。最後に最弱音でそれが消えて行く際に、ドアをゆっくりと閉じてフェイドアウトの効果を出していたのは的確な方法である。
 しかし一方、「火星」で使用されたスピーカーによるオルガンの音は、やはり不自然で、音量が大きすぎたようだ。

 とはいえ、この古いホールに多くを望むのは、どだい無理な話。新しいホールは2020年頃に出来るという噂を聞いた。それが実現すれば、その時こそ、その「ホール効果」により、群響と、熱心な群響ファンたちに、新しい時代が訪れるだろう。

3・22(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団のハイドン

    東京オペラシティコンサートホール  2時

 今シーズンで音楽監督のポストを退くユベール・スダーンが有終の美を飾る一連の演奏会のひとつ、
 今日はハイドン・プログラム。彼の指揮するハイドンは、モーツァルトやシューベルトの交響曲と並び、天下一品の趣きがある。

 オペラシティをほぼ満席にしての今回のコンサートには、ハイドンのA&Z――交響曲の「第1番」と「第104番《ロンドン》」を前後に置き、真ん中に「フォルテピアノ協奏曲」の「ハ長調Hob.ⅩⅤⅢ-5」と「ニ長調ⅩⅤⅢ-11」を配するというプログラムが選ばれた。フォルテピアノのソロはピート・クイケン。

 聴きものはやはり、2つの交響曲だ。小編成による引き締まった端整な構築の「1番」と、大編成による壮大な構築の交響曲「ロンドン」との対比。これは、ハイドンの作風の歴史のみならず、交響曲の歴史を体験できるという点でも面白い。作品の性格を的確に打ち出した、スダーンと東京響の独特のカラーにあふれる演奏になっていた。
 ただ、贅沢を言えばだが、かつてこの両者がここぞという時に聴かせていた鉄桶のアンサンブル、あの凄みのある鋭さを記憶している者にとっては、今日の演奏は少々物足りなく、特に「ロンドン」ではもう一つ締まりが欲しいという気持を抑えきれぬ。わが国トップクラスのオケだからこそ、あれこれ注文をつけたくなる、というのが人情だろう。

 2つの協奏曲では、今回のフォルテピアノの音色と、ピート・クイケンの念入りな(?)ソロとが、どうもあまり私の個人的な好みと合わない。もっとも、これをモダン・ピアノで演奏したら、更にサマにならないが。ナマで聴く機会があまりない作品のせいもあって、私はどうしても、昔聴いたロベール・ヴェイロン=ラクロワのチェンバロによる、爽快そのものの、天馬空を行くが如き演奏の呪縛から抜け切れないのである・・・・。

 4時に終演。都営地下鉄とJRを乗り継いで東京駅へ急ぎ、新幹線で高崎へ向かう。Max2階の車窓から見る快晴の空と夕陽の美しいこと。

3・21(金)ヴァシリー・ペトレンコ指揮オスロ・フィル

   ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 ペトレンコという名の音楽家の活躍が目立つ。

 バイエルン州立歌劇場の新しい音楽総監督で、バイロイトの「指環」の指揮でも名声を高めているのがキリル・ペトレンコ。
 マリインスキー劇場出身の、世界中で活躍しているバス歌手がミハイル・ペトレンコ。
 そして、今シーズンからオスロ・フィルの首席指揮者を務めているのが、このヴァシリー(ワシーリー)・ペトレンコ。

 来日公演プログラムに掲載されている、渡辺和さんによる本人へのインタビューによれば、ペトレンコという名字はウクライナにはよくある名だそうで(ワシーリーはサンクトペテルブルク生れだが)、互いに知っている仲だが親戚関係ではなく、その他マリインスキー劇場の合唱指揮者にもペトレンコという人がいるし(それは私も聞いたことがある)、アンナ・ペトレンコというソプラノもいるそうである。

 さて、ワシーリー・ペトレンコが指揮するオスロ・フィルの今日のコンサートのプログラムは、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは諏訪内晶子)、マーラーの「交響曲第1番《巨人》」。
 何だかこのところ、オーケストラは変わっても同じ曲ばかり聴いているような気もするが、しかし今回の顔合わせをナマで聴くのは初めてだし、ワシーリーの指揮もどんなものかという興味があるし、というわけで期待して会場に出かけた次第であった。

 久しぶりに聴くオスロ・フィル。かつてマリス・ヤンソンスがシェフだった頃には、佳き北欧のローカル色を保ちつつ、インターナショナルなトーンも導入して、しっとりした緻密な響きを聴かせるしなやかなオーケストラだった。
 だが今回、V・ペトレンコの指揮で聴いてみると、昔のしっとりした音色は薄れ、もっと野太い、開放的な力強さを志向したオケに変身しているのではないかという気がする。

 冒頭の「フィガロの結婚」序曲からして、何か荒々しいほどのエネルギー感があり、精妙なアンサンブルや優雅さなどとは正反対の位置にある演奏だったのには、少々驚いた。
 ただこれが、彼がこのオケのシェフに就任して未だ間もない時期にあるための一時的な現象なのか、それともこのホールのアコースティックに慣れなかったためなのかは、俄かに判断し難い。
 というのは、「巨人」でも、最初のうちはかなり荒々しく散漫なほどのバランスだった音が、曲の後半になると――特に第4楽章あたりになると――俄然集中性に富んだがっしりしたものに変わって来たからである。

 おそらく2,3年の共同作業を重ねて、V・ペトレンコとの呼吸がしっくりと合って来れば、演奏の特徴も、またいかようにでも変貌して行くだろう。
 V・ペトレンコについても、まだ即断は避けた方がいいかもしれない。今日の指揮を聴く範囲では、「巨人」の最後でテンポを猛烈に加速する彼のやり方が、全曲の構築の中で妙に取ってつけたような、構築のバランスを失うような不自然さを感じさせてしまうのだ。そしてまた、彼のつくる音楽にも、もう少し潤いとか瑞々しさといったものがあっていいだろう。このあたり、彼の成長を待ちたいところである。

 メンデルスゾーンの協奏曲では、諏訪内晶子が、これもかなり激しい表情で弾いた。もっともこれは、彼女が作曲者の自筆譜を研究し、当初の第1楽章が現行の「アレグロ・モルト・アパッショナート」よりも更に激しい「アレグロ・コン・フォーコ」と指定されていたことなどから着想を得た演奏であるようだ(伊熊よし子さんのインタビュー記事に由る)。
 もっとも、現行版のスコアからでもこういう燃えたぎるような演奏を引き出すことは充分可能だろうと思う。ただ、今日の彼女の演奏には、それ以上のもの――荒々しい情熱と、この曲の演奏では比較的無視されがちな毅然たる気魄とが備わっていたのだった。
    音楽の友5月号 演奏会評

3・20(木)多田羅迪夫 東京藝大退任記念演奏会

    東京藝術大学奏楽堂  7時

 われわれ外部の一般聴衆にとっては、多田羅さんは二期会のベテラン名バリトンとしてのイメージだが、一方で彼は、東京藝術大学の重鎮の教授でもある。
 その彼が退官するにあたっての記念の演奏会。これは彼の「最終講義」の意味合いもあるのだそうだ。

 ぎっしり満席の藝大奏楽堂(もちろん新しい大きなホールのほう)で行われたコンサートは、休憩15分を含む2時間の長丁場を歌い続け、喋り続けてのワンマン・ショーの趣きだったが、第1部のアリアと歌曲集ではこれまで一緒に活動して来た多田聡子ら4人のピアニストたちが協演、また第2部でのバッハのカンタータ2曲では松原勝也、大塚直哉、小畑善昭ら錚々たる「先生たち」のアンサンブルと、多数の門下生(但し他の先生の門下生の応援もあったとか)による「退任記念合唱団」(! こういう名称をつけるところが学校らしくて愉快だ)が協演して、実に賑やかなステージになっていた。

 なお、第1部で歌われたのは、モーツァルトとワーグナーのオペラからと、シューベルト、レーヴェ、中田喜直、三善晃、ラヴェルの歌曲。第2部はバッハの「第82番《われは満ち足れり》」と「第56番《われ喜びて十字架を担わん》」。アンコール曲は「主よ人の望みの喜びよ」。

 これらを通して聴かせてもらうと、やはり彼にはドイツものが一番合っているな、という印象を受ける。レーヴェの「詩人トム」などは圧巻で、魅力的だった。今後の多田羅さんは、「歌曲」と「バッハ」とに活動の基盤をおくという。

 配布されたプログラムには、私が7年前にある雑誌に書いた「多田羅迪夫~芝居気のある名バリトン~」なる拙文(当ブログの「マエストロへのオマージュ」にも再録)が光栄にも転載されていたが、今夜の多田羅さんも、オペラでは演技を交え、各曲の間にはDJスタイルの陽気な話をも交えて、相変わらず面白い「芝居気のある名バリトン」ぶりを披露してくれたのであった。

3・19(水)藤村実穂子リーダーアーベントⅣ

   紀尾井ホール  7時

 定例となっている藤村実穂子のドイツ歌曲集リサイタル。
 今年は、第1部がR・シュトラウスの「薔薇のリボン」など12曲、第2部がマーラーの「子供の魔法の角笛」から8曲というプログラムが組まれた。アンコール曲は、マーラーの「若き日の歌」からの「ハンスとグレーテ」「たくましい創造力」「別離と忌避」。ピアノはヴォルフラム・リーガー。

 いつものことながら、彼女の妥協を許さぬ厳しい表現力には感嘆しないではいられない。バイロイト祝祭劇場の空気をびりびりと震わせた、あのヴァルトラウテやクンドリなどの役での凄まじい気魄がどんな小さな歌曲の中にも生きていて、それゆえ息も詰まるような緊迫感が常に漂う歌唱となるだろう。

 とはいっても今回は、彼女の歌唱に、以前よりも温かい情感とユーモアが増えて来たような気がする・・・・もちろん、選ばれた作品の性格によるところも多いだろうが、かつての厳しさ、冷徹さを強く感じさせた歌唱に替わって、もっと優しさが前面に押し出されて来たような印象を強く受けたのであった。

 第1部の最後を飾った「子守歌 作品41の1」など、その象徴と言えたであろう。リーガーの豊麗なピアノの音色とともに、そこでの彼女の歌にはこれまでにはあまり聴けなかったほどの柔らかさと官能的な表情があふれていたように思う。

 そして、やや抑制された表現で歌われたこの第1部に対し、第2部のマーラーでは、あたかもオペラのような劇的な歌唱と、しかも笑いや苦悩などの表情を豊かに見せる「顔の演技」も加わった。

 2曲目の「この世の生活」は、その最たるものだろう。ここで示された藤村実穂子さんの歌と「演技」とは、リサイタルとしては、すこぶる劇的なものだった。それゆえにこそ、腹を空かせて母親に食べ物をねだる子供、母親がやっとパンを焼き上げた時には子供は既に空腹のため死んでいた・・・・という内容の歌曲が、その歌詞の単純な意味を遥かに超え、まさに本来の「現世の悲惨さ」という意味合いを備えて再現されることになったのである。
 ここでのリーガーのピアノも見事な流れで、最後の低音の一撃にいたるまで「叙情的な不気味さ」を以ってよく描き出されていた。

 藤村実穂子は、何度聴いても本当に巧い。この上なく素晴らしい。

3・18(火)シャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

    ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 リッカルド・シャイーとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は、昨夜のオペラシティに続き、今夜が来日2日目の公演である。

 メンデルスゾーンの序曲「ルイ・ブラス」、同「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは五嶋みどり)、ショスタコーヴィチの「交響曲第5番」というプログラム。
 このコンビが日本公演で、ショスタコを、それも「5番」なんぞをやるですか、「10番」ならまだ解るが・・・・と首を傾げたところで、仕方がない。それにしても今夜は、21日のサントリーホールと同一のプログラムにもかかわらず、ほぼ満席に近い状態だ。川崎の集客力も、たいしたものである。

 このホール開闢以来、初めて1階席最後列に座った。これまで2階後方か3階の席で聴く音に慣れてしまっていたので、それとは全く異なるこの平土間席の音のバランスには、些か戸惑う。ホール全体に朗々とこだまする量感の代りに、楽器の音が極めて生々しく粒立って聞こえる(大阪のザ・シンフォニーホールで聴く音に近いか?)。
 それゆえ、オーケストラの細部のあらゆる音がリアルに聞こえるし、室内楽的なイメージが強く浮き彫りにされて聞こえる、とも言えようか。

 だが、そういう状態で聴くこのゲヴァントハウス管の弦楽器群の、何としっとりして落ち着いた、緻密な、柔らかい音であろう。それはコンセルトヘボウ管のそれとも、ウィーン・フィルのそれとも違う、いわば旧東独のオーケストラが脈々と持ち続けている、あの独特の弦の音色なのである。

 シャイーはこのオケの伝統ある音を、意図的に今なお残しているのだろう。前回来日の際に聴いた時よりも、その印象が強い。あるいは、270年もの歴史を誇るゲヴァントハウス管の強靭なDNAが、ラテン系のカペルマイスター(シャイー)の個性をも、まる呑みにしてしまったのかもしれない。ショスタコーヴィチの第3楽章では、その弦の滋味豊かな音色が存分に発揮されていた。
 次の日曜日には私の好きなマーラーの「7番」をサントリーホールで聴くつもりなので、今度は全体像が把握できるだろう。

 なお、ショスタコーヴィチの「5番」の第4楽章は、かなり遅めのテンポで開始され、さほどアッチェルランドを重ねることなく頂点まで盛り上げられ、最後のクライマックスも楽章冒頭とほぼ同じくらいのテンポで結ばれていた。

 五嶋みどりのナマの演奏にはこのところ不思議に巡り合う機会がなかったので、特にメンデルスゾーンの協奏曲をナマで聴けたのは嬉しい。10年以上前にヤンソンス&ベルリン・フィルと行なった録音(ソニークラシカル)で聴くよりも、いっそう細かいニュアンスが増し、表情も濃く、細身の音ながら非常に芯の強い叙情性が打ち出されている。突き詰めたような緊張感もさらに増しているのは、ステージでの演奏ゆえだろう。その存在感は見事だ。

 彼女のソロ・アンコールは、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」からの「プレリュード」。メンデルスゾーンといい、バッハといい、2人の大作曲家に深い縁のあるライプツィヒのオーケストラに対しての、真っ向からの挑戦か。頼もしい。

3・17(月)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団のマーラー「9番」

   サントリーホール  7時

 6シーズンにわたったエリアフ・インバルのプリンシパル・コンダクター時代が、今夜の定期を以って終りを告げる。
 そして、彼と都響とのマーラー・ツィクルスも、今日の「9番」で完結した。

 とはいうものの、4月から「桂冠指揮者」の立場となるインバルは、7月の「都響スペシャル」にも登場してマーラーの「10番」(クック版)を指揮することになっている。
 都響としては作品の性格(未完成)ゆえに、補訂版の「10番」は「スペシャル」として、一種の「番外編」のように位置づけているが、インバルの方ではむしろそれを「ツィクルスの最終回」と考えている由(事務局談)。

 今日はもちろん、「第9番」1曲のプログラム。それで充分、他に何が要るだろう? 
 重量感たっぷりながら、感傷や情念の影もない、厳しい求道的なマーラーが繰り広げられた。いかにも近年のインバルらしく、息詰まるような緊張感をあふれさせた、鋭角的でなまなましい音楽づくりである。
 第4楽章終結個所でのピンと張りつめた緊迫の持続の見事さは、インバルと東京都響のこの6シーズンに及んだ協同作業の集約であり、象徴とも言うべきものであったろう。

 指揮者へのソロ・カーテンコールは、実に3度も繰り返された。都響のひとつの輝かしい時代に捧げる聴衆の賛歌、とも言えるような光景だった。

3・16(日)アンドラーシュ・シフのベートーヴェン・プロ

   サントリーホール  7時

 沸騰したオケの演奏会から2時間半を置いて、同じホールで今度はアンドラーシュ・シフのリサイタルを聴く。気分の切り替えは少し難しかったが、いざシフの素晴らしい演奏を聴き始めれば、たちまちその中に惹き込まれてしまう。

 プログラムは、「バガテル 作品126」、「ピアノ・ソナタ第32番」、「ディアベッリの主題による変奏曲」。
 これは昨年10月に出た国内盤(ECM UCCE-7530~1)と同じ選曲だ。
 ただしあのCDでは、ベヒシュタインのピアノとブロードマンのフォルテピアノを弾き分けての録音だったが、今日はサントリーホールにあるベーゼンドルファーのピアノを使用しての演奏である(このホールにもベーゼンが有った!)。

 アンコールには、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」からの「アリア」をまず弾いたあと、マイクを持ってスピーチ。大震災の犠牲者を悼み、出演料の全額を東北復興のために寄付するという今夜の演奏会の趣旨から、更に何とベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第30番」の全曲(!)を弾いてくれた。かくて終演は、9時40分になった。

 楽器それ自体の陰翳に富んだ音色もさることながら、シフの弾くベートーヴェンの毅然たる佇まい、凄まじい集中力は、古来から謂う「襟を正して」聴かなければならぬような気持にさせられる。何ひとつ余分な装飾はないが、瑞々しく自然で、生身の人間の息吹が通い合う音楽であり、しかも精妙精緻な感覚の世界をも備えている。
 「32番」のアダージョのある個所で、かくも神秘的な静寂美を聴いたことは、かつてなかった。優しさと沈潜した集中性にあふれた演奏の「30番」のソナタも、シフの言う大震災の犠牲者に安らぎを捧げるという意味を含めて聴いてみると、何か涙の滲むような想いにさせられる。

3・16(日)広上淳一指揮京都市交響楽団東京公演

    サントリーホール  2時

 京都市響は、1週間前にびわ湖ホールで沼尻竜典指揮により「死の都」を聴いたばかり。その時にも演奏の水準の高さに感じ入ったが、今日は広上淳一の指揮によるマーラーの第1交響曲「巨人」の演奏を聴いて、まさに唖然、感嘆、舌を巻いた。

 各地のオーケストラが数知れず行なって来た東京公演の中でも、これは超弩級の演奏と敢えて称してもいいほどだろう。40年前から聴いて来た(録音もした)立場から言うと、京響は凄いオーケストラになったものだと思う。
 最近の世評では、京阪神の6大オーケストラの中で圧倒的に演奏水準が高いのは京響だ、ということになっている。確かにそうに違いない。楽員たちの熱意ももちろんだろうが、常任指揮者・広上淳一の力量のたまものでもあろう。

 「巨人」では、厚みと重量感も並外れていて、音色も輝かしく、スケール感が豊かで、宏大雄壮な風格があふれる。オーケストラ全体がしなやかな流動性に富み、巨大なうねりを聴かせながら進んで行く。
 といって、洗練されて巧いとか、アンサンブルが整然としているとか、まとまりがいいとかいうものとは、少し違う。それよりも、何か感情の吐露が異様に激しく、それが凄まじい起伏を形づくっているといった演奏なのだ。

 しかも、メリハリも充分である――たとえばホルン群がフォルティシモで全音符一つを吹いた時に、その音が何となく終るというのではなく、きりりと引き締まった響きのまま決然と終る・・・・どうも上手く言えないが、とにかくそういった、叩きつけるような激しい演奏でもあったのである。金管、木管、弦、打楽器群、すべてが見事だった。

 広上淳一の指揮がまた、実に考え抜かれて綿密な、神経を行き届かせたものだった。マーラーのスコアに書かれている微細なニュアンスを、たた形どおりでなく、これほど表情をこめて再現した指揮も、稀ではなかったか。
 例えば第3楽章や第4楽章で、マーラーが突然躁状態になったように音楽が昂ぶったかと思うと、それがまた突然意気消沈したようにハラハラと崩折れて行く・・・・その一連の過程の表現が、おそろしく表情に富んでいて、巧いのである。広上自身の指揮のジェスチュアがまさしくその感情の起伏を表わしており、視覚的にもオーケストラの演奏と合致してしまう。

 オーケストラのアンコールは、広上のスピーチを先導として、R・シュトラウスの「カプリッチョ」から「月光の音楽」。これで、終演は4時20分頃になったか。

 なお1曲目は、ニコライ・ルガンスキーをソリストに迎えてのラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」。これはもう、ルガンスキーを聴くべき曲。男性的な風格のラフマニノフ像が描き出された、胸のすくような演奏であった。ソロ・アンコールは、メトネルの「カンツォーナ・セレナータ 作品38-6」で、これまた美しい。

3・15(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

    サントリーホール  2時

 定期演奏会。「ラザレフが刻むロシアの魂 SeasonⅡ スクリャービン2」と題して、第1部でスクリャービンの「ピアノ協奏曲嬰ヘ短調作品20」が演奏されたが、第2部は何の曲だったかというと、これがショスタコーヴィチの巨作「交響曲第7番《レニングラード》」。何だかスクリャービンの方が前座みたいな感じになってしまった。「庇を貸して母屋を奪られる」の類か。

 だが、この「ピアノ協奏曲」におけるラザレフと日本フィルの演奏はきわめて素晴らしく、特に第2楽章での夢幻的な弦の拡がりは魅力に富んでいた。さすがラザレフ、聴かせどころは心得ている。
 ピアノのソロを弾いたのは、若手の浜野与志男だった。伝え聞くところによれば、今回はラザレフから猛烈なシゴキを受けたそうで、そのためGP、初日、今日の2日目、と、回を重ねるに従い、演奏に長足の進歩を遂げて来たとのこと。澄んだ直截な音色と伸びやかな表情で、予想以上に綺麗なスクリャービンとなっていた。もっとも、ラザレフ将軍の貫録の前では、やはりピアノのソロ付きのシンフォニーのようなイメージで聞こえてしまったのは仕方あるまい。

 ショスタコーヴィチの「レニングラード」は、ラザレフの情熱と、日本フィルの馬力とが相まって、予想通りの壮烈な熱演となった。阿鼻叫喚の第1楽章はともかく、その他の楽章におけるオーケストラのまとまりは、見事といってよかろう。
 とりわけ終楽章の大詰の、全管弦楽が怒号し続けるクライマックス個所、ラザレフの鮮やかな統率により日本フィルが総力を挙げた最強奏での均衡を保った響きは、まさに充実した内部の力に支えられたものだろう。

 ラザレフと日本フィルは、今のスクリャービン・ツィクルスのあとに、ショスタコーヴィチの交響曲(4番他)を取り上げて行く予定と聞く。期待できそうだ。

3・14(金)準・メルクル指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

    すみだトリフォニーホール  7時15分

 今夜はドイツもので、シューマンの「ゲーテの《ファウスト》からの情景」序曲、シェーンベルクの「浄められた夜」、ベートーヴェンの「交響曲第7番」という、なかなか意味深なプログラミング。

 前半の2曲は、かりにあまり間をおかずに演奏すれば、作品の内容や音楽の性格からしてある種の関連性が浮き彫りになるのではないかと思ったが、そういう狙いはなかったらしい。ステージの配置換えなどの必要もあって、時間を要したし。

 「浄められた夜」は、メルクルの十八番の作品のはずだったが、今回は意外に端整で抑制された表現に留まっているように聞こえたのは、新日本フィルの弦がおとなしかったせいもあるのか。いずれにせよ、こういう綺麗な「浄められた夜」は、詩的な美しさは確かにあるけれども、「2人の恋人たちの生々しい苦悩の語らい」を描くには、やや物足りない趣もあるだろう。

 だが、第2部のベートーヴェンでは一転して、すこぶる活気にあふれた演奏となった。速めのテンポで押しに押す、エネルギー感に富んだ「第7」だ。終楽章のコーダの頂点でのティンパニの猛烈なクレッシェンドなどには、あのメルクルがこんなに・・・・と驚かされるような気魄と情熱が聴かれたのである。
 何より舌を巻いたのは、全曲が一つの流れの中にがっちりと構築され、4つの楽章とその構成に、完璧に近い均衡性が感じられたことであった。最近のメルクル、素晴らしくなったな、と思う。
      ⇒音楽の友5月号 演奏会評

3・13(木)明日を担う音楽家による特別演奏会

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 文化庁委託事業「平成25年度 次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」新進芸術家海外研修制度の成果――と銘打った、若き声楽家たちによる特別演奏会。

 主催は文化庁と東京二期会。制作も東京二期会だが、出演歌手10人のうち、二期会所属は3人のみで、藤原歌劇団所属も2人いる。新国立劇場オペラ研修所出身が5人いるのも注目される。
 その出演歌手たちは、登場順に以下の通り――城宏憲(T)、小泉詠子(Ms)、高橋洋介(Br)、大西ゆか(S)、嘉目真木子(S)、塩崎めぐみ(Ms)、駒田敏章(Br)、山田大智(Br)、笛田博昭(T)、佐藤康子(S)。協演は大勝秀也指揮の東京交響楽団。

 うれしいことに、みんな流石に水準が高い。声もよく伸びるし、自分の役柄を聴衆にアピールできる歌唱の力量を備えている。時にはリズム感が甘かったり、発音が明確でなかったり、勢いに任せて歌い方が雑になったりする人もいるけれど、レパートリーによってそれらの癖が出たり出なかったりすることもあるので、すべからくこれからの修行と経験次第ということになるだろう。

 先年、横浜の「蝶々夫人」でも聴いた嘉目真木子は、声も美しいし、流石に舞台上の雰囲気も充分で「色がある」存在を感じさせる。ただし、シャルパンティエの「ルイーズ」では、フランス語の発音をもっと明確にして欲しいところだ。
 城宏憲と高橋洋介が歌った「ドン・カルロ」の2重唱は、客席を沸き返らせるほど迫力にあふれた充実の出来で、この2人はそれぞれ「ウィリアム・テル」あるいは「セビリャの理髪師」からのアリアでも輝かしい歌唱を聴かせてくれた。楽しみである。
 大西ゆかの明るさもいい。

 とにかく、若々しく、爽やかなステージだった。これからの活躍を願おう。

3・12(水)新国立劇場 コルンゴルト:「死の都」初日

    新国立劇場オペラパレス  7時

 こちらはフィンランド国立歌劇場のプロダクションで、演出はカスパー・ホルテン。
 今回の再演演出は同歌劇場のアンナ・ケロが担当したとのことだが、すでにDVD(OPUS ARTE)で出ている原演出のライヴ映像とも基本的には全く同一、演技の細部に若干の差異が見られるのみである。

 ホルテン演出におけるユニークな特色は、パウルの亡き妻マリーの姿を舞台上に実際に具現化させ、パウルだけが彼女を「見て、感知できる」という設定にしたことだろう。

 マリーの幻がパウルの部屋で彷徨ったり、ベッドで彼の横に寝ていたり、彼を慰めたりしている光景は、時に煩わしく見えることもある。それに、パウルが彼女の幻を身近に見て話しかけたり「触ったり」しながら、その一方でマリエッタに惹かれるというのは、いくらマリエッタが生身の肉体を備えた女性相手であっても一寸辻褄が合わぬ感がなくもない。が、まあ、それはそれ。
 とはいえ、第3幕冒頭で、パウルのベッドの上で目覚めたマリエッタが、ベッドの横に立つ幽鬼のような表情のマリーの幻をついに「感知」するというのは、女の勘ともいうべきか。彼女が闘争心を奮い立たせるきっかけを作るものとして、不気味ではあるが適切な設定であろう。

 とにかく、舞台上の人物たちの演技は精妙で、人間ドラマとしての面白さは充分である。
 例えばこの演出では、マリエッタが美しい「リュートの歌」を歌い終わって「古臭い歌ね」と笑うのは、彼女が無神経な女だからでも、蓮っ葉な女だからでもない。歌で悲しい思い出を蘇らせてしまったパウルが(マリーの幻を見つめたまま)放心状態に陥っているので、わざと彼の気を紛らせるために冷やかし気味に言ったものであることが、明確に描かれるのだ。

 第1幕幕切れ、パウルが「マリエッタ!」と叫ぶ瞬間の、幻のマリーの顔に現われる表情にしてもそう。
 フィンランド版では、彼がまた「生身の女性」に気を移したのを知ったマリーの頬に、新たな涙が一筋流れた。今回の東京版では、マリーは涙こそ流していなかったが、「優しい、諦めの、寂しそうな表情」を浮かべて姿を消す。
 どちらの手法も的を射ていて、感動的であろう。
 こういう微細な演出があってこそ、音楽の力と相まって、オペラの舞台に人間のドラマが成り立ち、新鮮さが生れるのである。

 エス・デヴリンの舞台装置、ヴォルフガング・ゲッベルの照明も、第2幕と第3幕前半では秀逸だ。パウルの部屋が一転して、背景にはブリュージュの街を俯瞰する光景のようなものが出現し、その中に合唱隊の顔が混じって来る。パウルの部屋に所狭しと置いてある記念品入れ(?)や飾り物が、ブリュージュの街の家々のように美しく光りはじめる。一見ゴチャゴチャした乱雑な舞台が、この照明によって、現実と幻想とが巧みに交錯する場として輝き出す、というわけである。

 主人公パウル役は、トルステン・ケール(ケルル)。この人は、私はベルリンで「リエンツィ」のタイトルロールを観てすっかり感心したことがあり、レヴァント演出のDVD(OPUS ARTE)でも熱演を披露しているので、大いに期待していたのだが、今夜はそう好調ではなかったのかもしれない。
 もともと癖のある歌い方をする人ではあるが、今夜は第1幕最初では声の響きが妙に悪かった。以降は調子を上げたものの、全曲最後の聴かせどころの高い変ロ音で声がひっくり返ってしまい、本当に気の毒だった。しかし、ドン・ホセなんかを歌う時より遥かに良かったことは間違いない。

 マリー&マリエッタ役はミーガン・ミラー。彼女は2011年に新国立劇場で「タンホイザー」のエリーザベト役を聴いた時には、何か物々しい歌い方をする人だと思ったが、今夜もかなりアクの強いマリエッタ表現を展開していた。
 フランクとピエロの2役を、アントン・ケレミチェフが歌った。ただし今回は特にドラマの意味に関係のある「兼役」だったというわけでは、なさそうだ。

 ブリギッタを歌ったのは山下牧子で、端整な歌唱と演技により、堂々の成功。
 その他脇役陣には平井香織、小野美咲、小原啓楼、糸賀修平らが出演。黙役のマリーはエマ・ハワードという女性が演じていた。

 指揮はヤロスラフ・キズリンク。前回の新国での「ルサルカ」ではいい味を出していたけれども、この「死の都」では、なんかまとまりが悪い。
 いや、それ以上に、ピットに入った東京交響楽団の、何とも乾いた、味も素っ気もない演奏が、興を殺いだ。管楽器群ばかりがガンガン鳴っている――というより、弦楽器群の鳴りが悪く、ほとんど浮き出て来ないのが問題だろう(聴いた席は18列。場所により響きが異なって聞こえることがあるので、これを絶対的な評価とすることはできないが)。
 いずれにせよその結果、コルンゴルトの管弦楽法が持つあの分厚く豊麗で官能的な音色が全く再現されず、「リュートの歌」「マリーの亡霊の場」「鐘の音楽」「ピエロの歌」などでの夢幻的な、空間的な拡がりのある美しいハーモニーも、味わえずに終った。これは、かえすがえす残念なことであった。

 終演は、10時20分。
 下世話な表現ではあるが、今回の東西「死の都」合戦は、舞台では東京の圧勝、歌手陣の出来ではそれぞれの特徴を生かして互角、オーケストラの演奏では京都の勝ち、ということになるか?

3・10(月)ウラディーミル&ヴォフカ・アシュケナージ父子デュオ

    サントリーホール  7時

 この父子のデュオは、CD(デッカ)ではいくつか聞いていたが、ナマで聴くのは、実は今回が初めてである。

 面白い。2台のピアノが交錯合致しつつホールの空間にこだまして、その奥行と拡がりのある響きが、音楽をいっそう壮大なものにしている。ピアノという楽器が、たった1台でも十全に完成された音楽をつくることができるというのはすでに自明の理なのに、その2台のピアノの音と音との関わりが、かくも劇的なものを表出してくれるのだということに、改めて感じ入った次第であった。
 もっともこれは、このサントリーホールという残響の豊かな巨大なホール、それも(残念ながら)客席の入りがあまりいいとは言えないため更によく響き過ぎているホールがもたらした現象のおかげかもしれないけれども。

 プログラムは、シューベルトの「ハンガリー風ディヴェルティメント ト短調」と、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」、ヴォフカ・アシュケナージの編曲によるボロディンの「だったん人の踊り(ポロヴェッツ人の踊り)」というもの。アンコールには父アシュケナージが編曲したエルガーの「朝の歌」が演奏された。

 興味深かったのは、最初の2曲が、いかにも2台のピアノのための作品として完璧な形のものに聞こえたのに比べ、「春の祭典」は――作曲者自身の手による編曲にもかかわらず――いかにも怪奇(?)なカオス(混沌)という印象をぬぐえなかったこと。この曲の性格に照らして聴いていると、微苦笑を禁じ得ない。
 しかし最後のボロディンは、これはヴォフカの編曲がすこぶる要を得て巧く、原曲のイメージを彷彿とさせる雰囲気にあふれていた。

3・9(日)びわ湖ホール コルンゴルト:「死の都」2日目

    びわ湖ホール  2時

 今日は別キャスト。

 パウル役は、経種廉彦が降板したため、山本康寛(びわ湖ホール声楽アンサンブル所属)が代役を務めた。
 この人は、2011年8月の同ホールにおける「ペーター・コンヴィチュニー・セミナー」でロドルフォ役を熱唱した際に強烈な印象を受けて以来、注目していた。ただ今回のパウルとなると、全曲ほとんど出ずっぱりのまま高い音域で歌い続ける役だから、観客側として正直なところ、一抹の危惧を感じていたのはたしかである。だが、第1幕の最初のうちこそ、ちょっと不安定で心配させられたけれども、後半にかけて調子を上げ、善戦敢闘、ついに堂々と乗り切ってくれたのはうれしい。これで客席への声の響かせ方に更なる巧味が加われば、「びわ湖ホールが生んだスター」として名を輝かせることになるだろう、と秘かに期待している次第だ。

 マリー&マリエッタ役は、飯田みち代。これまでにも「メデア」「パン屋大襲撃」「ルル」など、多くの近・現代オペラでの実績は私も現場で知悉していたつもりだ。それゆえ今回の役なら当たり役、成功間違いなし、優勝候補筆頭(?)・・・・だと信じ込んでいたのだが、体調でも悪かったのか? 声は柔らかく優しいが、ちっとも客席に響いて来ず、歌唱にも不思議にメリハリが無く、第3幕での激怒するマリエッタの表現においてもリズム感が失われていて、もどかしい限りであった。とにかく、今回の彼女は、われわれの知っていた飯田みち代さんとは全然違っていた。

 フランクは、黒田博。今日の登場人物の中ではずば抜けて声がよく響く。パウルを圧倒する迫力ある親友、といった趣だろう。さすがの存在感だ。
 ブリギッタには池田香織が登場、落ち着いた家政婦役を美しく演じていた。ただ、昨日の加納悦子の、まさに「この家を取り仕切っている」感のある家政婦表現と比べると、若干控えめだったかもしれない。
 フランツ役は晴雅彦、こちらは道化の性格を歌唱にも折り込んで、哀切感を漂わせる「ピエロの歌」を聴かせてくれた。それにしてもこの「ピエロの歌」は、後半に女声のハーモニーが加わり、恰もミュージカル・ナンバーみたいな雰囲気を醸し出して、いい歌だ。

 なお、昨日はその他の脇役歌手陣について記録する余裕がなかったので、今日の人々と併せてここに出演者名を刻ませていただくことにする――8日/9日という順で、ユリエッテが九嶋香奈枝/中嶋康子、ルシエンヌが森季子/小林久美子、ガストンが岡田尚之/羽山晁生、ヴィクトリンが高野二郎/二塚直紀。アルベルト伯爵は両日とも与儀巧。そして合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブルと、大津児童合唱団。・・・・この児童合唱団のメンバーもダブルキャストとは驚いた。

 沼尻竜典指揮の京都市響は、昨日に続き好演。「ツェムリンスキー的」な個所は、率直な印象からすると、昨日に比べてそれほどまとまりが良くなったわけでもないように感じられたのだが・・・・しかし、今日聴いた席の位置は、昨日に比べ数列後方だったので、これだけでも随分音の印象が違うのではないかという気もする。

 今回の「死の都」舞台日本初演、びわ湖ホールとしても、渾身の上演であろう。音楽面に限っては、よくぞやった、という感だ。東京以外のオペラ・カンパニーがこれほど定期的に水準の高い上演を行なっているのは誇るべきことであり、絶賛に値する。

3・8(土)びわ湖ホール コルンゴルト:「死の都」舞台日本初演 初日

    びわ湖ホール  2時

 新国立劇場上演より4日早く、びわ湖ホールのオリジナル・プロダクションにより、日本での舞台初演が行なわれた。
 日本では過去にセミ・ステージ形式で上演(京都と東京、いずれも井上道義指揮)されたことはあったが、舞台での本格上演としては、今回が初となる。沼尻竜典指揮京都市交響楽団の演奏、栗山昌良の演出。配役はダブルキャストで、今日は鈴木准(パウル)と砂川涼子(マリー&マリエッタ)らの出演。

 なんといっても、音楽面での成功が目覚ましい。
 まず筆頭は、沼尻竜典の指揮と、京都市響の演奏である。R・シュトラウスばりの豊麗で精緻な音色と、ツェムリンスキーの鋭角的で劇的な表現とを併せ持つこのオペラ「死の都」で聴かせた両者の演奏は、実に魅力的だった。
 もっとも今日は、初日のせいもあってか、ツェムリンスキー的な速いテンポで咆哮する個所では、まだオーケストラに厚みとバランスが不足気味のきらいもあった。だが一方、R・シュトラウス的な(特に「影のない女」のそれ)「リュートの歌」や「マリーの亡霊出現のシーン」、「ピエロの歌」「鐘の場面」などでは、うっとりするようなふくらみのある演奏が成功を収めていた。
 なお今回は劇中劇の「悪魔のロベール」の場がカットされていたが、これはまあ、マイナス要素にはならないだろう。

 それにしても、このナマ音で聴くコルンゴルトの「死の都」の音楽の、何という多彩な表情にあふれていることか。

 歌手陣も、予想をはるかに上回る素晴らしさだ。
 パウル役の鈴木准は、少し線は細かったものの、高い声の連続というこの難役を見事にこなし、声も清純さを終始保って、亡き妻へのひたむきな愛に浸る青年の役柄を描き出した。
 そして、亡妻マリーと、彼女に瓜二つの踊り子マリエッタとを歌い演じた砂川涼子は、驚異的なとも言えるほどの大成功である。これまではリューやヴィオレッタなどイタリア・オペラの叙情的な役柄を主たるレパートリーにしていた彼女が、いきなりこういうドラマティックで表現主義的なキャラクターにまで素晴らしい歌唱を聴かせ、妖艶でプライドの高い踊り子役を巧みに演じるとは、正直言って予想もしていなかった。声もよく伸びて、分厚いオーケストラの響きを超えて客席に響いた。実に彼女はこのマリエッタ役で、輝かしい新境地を開いたと言えるだろう。

 パウルの親友フランクは、ドイツでもすでにこの役を演じている小森輝彦で、出番は少ないが強い存在感を示していた。
 ブリギッタ役は加納悦子、物静かだが毅然とした佇まいの忠実な家政婦を演じて、先ごろの「ヴァルキューレ」のフリッカ同様、不動の貫録である。
 もう一人感心させられたのが、フリッツを歌った迎肇聡だ。「ピエロの歌」でしか出番がないような役回りだが、きわめて堂々としたピエロを聴かせて映えた。

 それにしても、みんな声がビンビン響いて来る。これは、反響版のような形の壁を背景とした舞台装置が、PAなしでも分厚いオーケストラに負けぬよう声を響かせるために、大いに効果を発揮していたのではなかろうか。このあたりは演出家と舞台美術家(松井るみ)の配慮が与っているのでは、と思う。

 なお、第2幕の「パウルの家」から「ブリュージュの街」への場面転換の場では、大掛かりなセリをはじめとする、びわ湖ホールの舞台機構の威力に、おそらく初めて触れることができた。これほどの機構を備えているなら、なぜ他のプロダクションでも・・・・と思うのが観客側としては当然だが、たとえば神奈川県民ホールとの共同制作の場合は、相手方の舞台に同様の機構がないとだめなのだそう(それはそうだ)。惜しいことである。

 ここまではいいことづくめなのだが、問題は演出だ。
 栗山昌良の演出として予想されるとおり、歌手はみんな、いかなる場面においても客席のほう、正面を向いて歌う。互いに顔を見て相手の言葉や動作に反応しながら歌い演じることは全くなく、常にそれぞれ客席を向いたままで歌う。第2幕でのマリエッタは、劇団一座と歌う時にも、パウルと口論する際にさえも、舞台前面に佇立したまま、客席側以外に顔を向けることはない。そして、それ以外には、ほとんど演技らしい演技をしないのである。
 登場人物たちはすべて、それぞれ佇立したまま、モノローグを歌っているかのようだ。まるで、豪華な舞台装置と衣装を伴った演奏会形式上演といった趣である。

 演出家の意図はどうあれ、私には、この登場人物たちの動きからは、微細な心理の動きがぶつかり合う生身の人間のドラマを感じることはできない。もし、それらはすでに音楽そのものにより実現されているというのなら、あえて巨額の金をかけて舞台上演を行う必要もなく、演奏会形式上演で充分だろう。
 抽象的な舞台装置の中であればそれは美点を発揮する手法かもしれないが、今回のようなリアルな舞台の光景の中では、極度に中途半端で、不自然なものに感じられるのである。

 日本のオペラ演出史における栗山昌良氏の卓越した経験、業績については、些かも異議を差し挟むつもりはないし、「天守物語」や「蝶々夫人」などでの日本的な詩情にあふれた舞台は、私もこれまで繰り返し賛美して来た。氏があくまで自身のスタイルを曲げぬということも、それはそれで立派な信念だとは思う。
 だが、それもやはり、レパートリーによりけりではないか?
 「アリアのオペラ」ではない「近代の表現主義的オペラ」を舞台に再現する際に、ムジークテアター的手法のみを良しとするわけでは決してないけれども、世界の最近のさまざまな潮流のオペラ演出に触れ、オペラの舞台に斬新さを常に模索したいという好みの鑑賞者にとっては、この旧態依然たる舞台は、あまりにもどかしい限りなのだ。

 衣装は緒方規矩子、照明は沢田祐二。いずれ劣らぬ練達のスタッフで、第2幕のコメディア・デラルテの場や、第3幕の「屋外からの」祈りの合唱の場では色彩感をつくり出し、単調な舞台に救いをもたらしていた。

3・7(金)マリア・ジョアン・ピリス・ピアノ・リサイタル

    サントリーホール  7時

 シューベルトの「4つの即興曲 作品90」と「ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調」との間にドビュッシーの「ピアノために」を配し、アンコールにシューマンの「予言の鳥」を演奏するという一夜。
 意外にも彼女の日本でのソロ・リサイタルは、16年ぶりのことだという。そういえばそうだったか、久しくデュオしか聞いていなかったか、と改めて年月を感じてしまう。

 この人の演奏は、デュオよりソロの方が圧倒的に良い。
 だが彼女ももう年輪を重ねて、良くも悪くも、昔聴いた印象とは違って来た。今夜のリサイタルでも、ソナタの第1楽章などは、昔よりも沈潜の度がさらに増し、一つ一つの音を更に慈しみながら、どこか遠い遠い世界に想いを馳せつつ弾いて行くような演奏、とでもいうか。
 こういう演奏は、本当はもっと小さなホールで聴いた方が、音楽を身近に感じることができるだろう。だが、2000人のサントリーホールをぎっしり埋めた聴衆とその熱烈な拍手を聞けば、彼女の音楽に共感する人たちの数は、小ホールに入り切れるものではないことを示している。

 「4つの即興曲」も やや乾いた音色が気にならぬこともなかったが、陰影の濃い美が見事だ。
 そのシューベルトの間に演奏されたドビュッシーには、さらに強い魅力が感じられる。ピリスが久しぶりに聴かせた、気品に満ちた、しかも鮮やかな色彩感だった。

3・6(木)準・メルクル指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時15分

 準・メルクルと新日本フィルは、今回が初共演だという。
 たしかに、この両者を一緒のステージで聴いたのは、私にとっても、これが初めての体験だ。

 今回はストラヴィンスキーの「花火」、ドビュッシーの「遊戯」、ベルリオーズの「幻想交響曲」という、何となく納得の行く流れ(?)のプログラミングだったが、なかなか良い雰囲気の共演との印象を受ける。

 準・メルクルは、昔N響を指揮してわが国に初お目見えした時、その「牧神の午後への前奏曲」と「死と変容」での指揮の素晴らしさに私は熱狂して、「素晴らしい指揮者が現われた」とあちこちに書いた記憶がある。が、その後、日本で聴いてもドイツで聴いても、何か殻を抜けきれないようなものがあって、一種のもどかしさを感じないではいられなかったのだ。
 だが昨年、PMFのオーケストラを指揮する彼を久しぶりに聴いて、以前より音楽が一回り大きくなり、一種の余裕と自信のようなものが、演奏に満々と感じられるようになったという印象を受けたのである。

 今夜の「幻想交響曲」では、PMFのオケを指揮した時のような、伸縮自在、強弱自在という音楽はつくっていなかったが――あれはやはり、アカデミー生のオケだったから、ピンからキリまで彼の言うことを聞いたのだろう――全体にたっぷりとした風格を備えて、スケールの大きな「幻想」を描き出していたように思う。
 そして、音色の美しさでは、やはり「遊戯」だ。あの日本デビュー時の「牧神の午後への前奏曲」と同じように、今夜のメルクルは新日本フィルの管と弦の良さを引き出し、清澄かつ豊麗なドビュッシーを聴かせてくれたのであった。

 来週はトリフォニーホールだが、メルクルは今度はドイツものを集め、「浄夜」などを振ることになっているから、これにも期待しよう。


3・5(水)尾高忠明指揮札幌交響楽団のシベリウス

   サントリーホール  7時

 恒例の、尾高&札響の東京公演。
 昨年に続くシベリウスの交響曲ツィクルス第2回で、今年は組曲「恋人」および交響曲の「第4番」と「第2番」だった。2月28日と3月1日の札幌での定期で取り上げたあとでの東京公演である。

 尾高のシベリウスは、いわば彼の必勝の十八番ものだが、今回は「満を持して」――あるいは10年に及ぶ札響での音楽監督時代の総仕上げのような意味で――の全曲ツィクルスということだろう。但しこれは3シーズンに分けて行われているものだ。

 昨年の「1番」「3番」も良かったけれど、今年の演奏は、これまで聴いた東京公演の中でも、おそらく最も情熱的なものではなかったろうか。
 特に「第2番」での壮烈かつ劇的な燃焼ぶりは、尾高&札響の演奏の中でも、群を抜いた水準にあったと思う。第2楽章での金管のクレッシェンドの輝かしさは完璧なほどのバランスを備えていたし、それに呼応する弦の厚みと力感も、実に見事だった(コンサートマスターは大平まゆみ)。また、第4楽章の頂点での金管を含むオーケストラの昂揚も、何か体当り的な没入とでもいうべく、聴き手をエクスタシーに巻き込むような勢いを備えていた。

 「4番」は、沈潜した厳しい、悲劇的な情感をあふれさせた作品で、いわば「究極のシベリウス」像でもあるが、ここでも尾高&札響は見事な緊迫感を漲らせ、生々しい響きで叙情性を聴かせてくれた。

 かように、尾高&札響の本領ここにあり、という気魄を余すところなく発揮してくれたのが、今回の東京公演であったろう。以前は、札響の東京公演は、本拠地のKitaraで聴く演奏とは不思議に落差があって不満を感じていたものだったが、少なくとも昨年と今年は――特に今年は、圧倒的だった。

 アンコールはまた定番の「悲しきワルツ」。それはそれでいいのだが、しかし、たまには他の曲をやってもらえませんでしょうかね。シベリウスには他にもいい小品がたくさんあるはずでしょうが・・・・。
     モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

3・4(火)METライブビューイング ドヴォルジャーク「ルサルカ」

   東劇  6時半

 METで2月8日に上演されたステージのライヴ映像。

 何と言っても圧巻なのが、ヤニック・ネゼ=セガンの指揮だ。これほど瑞々しく、しかも見通しが良く、「ルサルカ」の音楽に備わっている形式感や起承転結をはっきりと示してくれた指揮も、稀だろう。
 2008年にザルツブルクで聴いたウェルザー=メストの指揮にも感心したことがあるが、それよりも更に美しく、しなやかだ。第1幕終結個所での音楽の大波のような昂揚感も、これまで聴いたことのないほど見事である。

 だが、それ以上に心を打たれたのは、多くの指揮者があまり重要視していないのではないかとさえ思われる、「森番と皿洗いの少年」の対話の場の音楽と、第3幕での「3人の木の精たち」の音楽における、ネゼ=セガンの指揮だ。ドヴォルジャークの民族主義音楽の真髄ともいえる、親しみやすい旋律とリズムが明確に浮き彫りにされ、この短いエピソードが決して添えものではなく、ドラマの中で一種の気分転換の役割を果たす重要な意味を持っているのだということを、改めて聴き手に教えてくれたのであった。

 このネゼ=セガンの素晴らしい指揮に乗って、当然ながら、歌手たちもみんな映えた。ルネ・フレミング(ルサルカ)は容姿ともに当たり役だろうし、ピョートル・ベチャワ(王子)はあらゆる面で理想的な役回り。ジョン・レリエ(水の精ヴォドニク)とドローラ・ザジック(魔法使いの老女イェジババ)は、歌唱力だけでなく物凄いメイクで凄みを出した。エミリー・マギー(外国の王女)はあのザルツブルクでも同役を歌っていたが、今回も自尊心の強い女性を巧く演じていた。
 METのオケが瑞々しかったことは前述の通り。ハープの安楽真理子さんが活躍している。

 演出は、オットー・シェンク。当然トラディショナルなスタイルだが、ギュンター・シュナイダー=ジームッセンによる鬱蒼とした神秘的な森と湖(第1・3幕)、豪華な邸宅と噴水(第2幕)などのメルヘン的な舞台装置と呼応して、人間と自然との対立、純愛と冷酷さとの対比が、極めてニュアンス細かく、要を得て描かれて行く。読み替えの一切ないストレートな演出が、特にこのオペラでは成功しているだろう。

 だが、その演出と舞台をいっそう素晴らしく見せているのが、映像演出――カメラワークである。構図も巧いし、歌詞や音楽の変化に合わせて角度を変えたり距離感を出したりするその細かいテクニックは、見事と言うほかはない。
 休憩2回を含め上映時間は3時間40分とやや長いけれども、愉しめるプロダクションであった。お客さんも結構入っている。

3・3(月)ダン・エッティンガー指揮東京フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時

 東京フィルは、常任指揮者エッティンガーの指揮で、チャイコフスキーの後期交響曲3曲とラフマニノフのピアノ協奏曲「2番」「3番」を組み合わせた3回のプログラムを組んでいる。今日はその第2日ということになる。演奏されたのは、「ピアノ協奏曲第3番」と「交響曲第4番」。

 アレクサンダー・コルサンティアの弾く協奏曲も昨夜に続き聴いたことになるが、どうもこの人は、私にはあまりピンと来ない。たしかに「よく弾く」(業界用語で、達者に演奏する、ということ)けれども、その音に色合いの変化やニュアンスの多様さといったものが、あまり感じられないのである。
 昨日の「2番」にしても今日の「3番」にしても、もう少し華麗さや哀愁、豪快さや繊細さなどが不断に交錯する、ラフマニノフ特有の陰翳の変化に富んだ作品のはずだと思うのだが・・・・。ソロ・アンコールは、今日はなかった。

 「第4交響曲」は、両端楽章は予想どおり激情と熱狂にあふれた演奏となっていた。スコアには指定のないテンポの調整や強弱の変化などの趣向も若干は聴かれたが、基本的にはやはり、この作品の持つエネルギー感を前面に押し出した演奏と言えるのだろう。東京フィルも劇的に盛り上がり、エッティンガーの煽りに応えていた。

 しかし、3日間、こういうタイプのチャイコフスキーを聴くと、いくら私でも、さすがに少々疲れて来る。
 だがこれは、大植やエッティンガーの指揮が悪いという意味で言っているのではない。それらはそれなりに筋の通った立派なアプローチであると思った上で言っているのだから、誤解なきよう。

 個人的には、そろそろ怒号絶叫型ばかりのチャイコフスキーではなく、もっと落ち着いた知的なチャイコフスキーにも巡り合いたくなって来たのだ。
 もちろん、20世紀半ば以前におけるチャイコフスキー像のようなセンチメンタル型に逆戻りする必要はさらさらない。が、彼の交響曲には、本来その他にも――いや、それ以上に――威厳、知性、思索、気品といった要素が備わっているのではないか?
 そういうチャイコフスキー像を浮き彫りにしてくれる指揮者がそろそろ出て来てもよさそうなものだと思うのだが・・・・。私はたとえば――これが最高にして唯一無二の演奏だと言っているのでは全くないが――60年ほど前に録音された、パウル・ファン・ケンペンの指揮した「5番」「6番」の演奏を思い出す。

3・2(日)ダン・エッティンガー指揮東京フィルハーモニー交響楽団

    オーチャードホール  3時

 奇しくも、2日続けてチャイコフスキーの「第5交響曲」を聴くことになった。

 常任指揮者エッティンガーは、4つの楽章の関連性を重視し、ほとんどアタッカのような感じで、楽章間の休みを取らずに指揮する。テンポもしなやかだが、スコアが指定している変化を大幅に超えて動くというほどの印象はない。
 第1楽章では、第156小節以降の弦の上行八分音符の一つにちょっと間を取って音楽を揺らせてみたりする仕掛けや、同楽章再現部冒頭のファゴットの下に刻まれている弦の行進曲調リズムを躊躇いがちに、何か逡巡して立ち止まりかけるような雰囲気で演奏させるといった趣向などがあって、これはこれで微笑ましい。

 その一方、スコア指定にはない、ある音符のところだけをフッと力を抜いて強弱に変化を持たせるといった手法も何回か試みられていた。まあ、今の若い指揮者だったら、このくらいはやりたくなるだろう。
 ただ、4分の6拍子で全管弦楽が最強奏の和音を叩きつけて終る全曲最後の個所、最後から1小節前、付点二分音符+四分音符3つの組み合わせというバランスを、エッティンガーは少し変え、二分音符をさらに延ばし気味にし、四分音符の3つを3連音のアウフタクトのようにして最終小節へ繋げていたが、これはいかにもバランスが悪く、オケもガタガタと乱れてしまっていて、疑問に思う。もしオケがぴたりと合っていたら、それはそれで「決まっていた」かもしれないが・・・・。

 それでなくてもこの第4楽章の主部では、勢いに任せた演奏のせいもあって、アンサンブルが随分粗っぽく聞こえていたのである。
 といっても東京フィルは、全体としては小気味よく壮快に躍動し、また叙情的な美しさもよく出していた。特に第2楽章最初のところでのホルン・ソロは、ふくよかで快かった。

 なおプログラム前半で演奏されたのは、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」。ソリストはアレクサンダー・コルサンティア(グルジア出身、現ボストン在住)。
 野太い音で逞しく弾くが、微細なニュアンスの変化については、それほどこだわらない人のようである。演奏がやや単調に感じられるのは、音に色彩感があまり感じられないからだろう。エッティンガーとのテンポやアゴーギクの感覚があまり合わないのか、それとも練習(合わせ)不足だったのか。
 どうも最近、ナマで聴くコンチェルトで、「琴瑟相和する」といったタイプの演奏に出会う機会がないのが残念だ。
 なおこのコルサンティア、ソロ・アンコールではチャイコフスキーの「金平糖の踊り」を弾いてくれたが、これがなんとも無骨な「踊り」だったのには微苦笑。

3・1(土)大植英次指揮東京交響楽団

    ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 大植英次が東京響に客演するのは、意外にも、今回が最初とのこと。今日の演奏を聴いた範囲では、この両者、相性は悪くないようにお見受けした。
 プログラムは、バーンスタイン~ハーモン編「キャンディード」組曲、それにチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」および「第5交響曲」。
 このうち1曲目と3曲目のものは、昨年東京フィルとの演奏でも聴いた。

 「5番」では、大植はあの時と同じく極度に濃厚で熱っぽい指揮を繰り広げ、テンポを激しく動かして「激情の交響曲」を構築する。その中でも、テンポの変化がもともとスコアに細かく指定されている第2楽章は、彼の指揮と作品の性格とが完全に合致して、特に成功した演奏となっていたように思われる。

 だが、それ以上に非常に興味をそそられたのは、第4楽章における大植の設計だ。
 第472小節からのコーダでは、同楽章序奏で出たホ長調のアンダンテ・マエストーゾの主題が、モデラート・アッサイ・エ・モルト・マエストーゾで堂々と再現するのだが、ふつうの演奏の場合、コーダでのそれは「勝利感への昇華」というニュアンスに変わって高鳴るだろう。しかもそれは行進曲調のリズムに乗っているから、いやが上にも勝ち誇った感じになるわけである。

 だが今回の大植の解釈はそれとは違い、コーダでのホ長調の主題は、あたかも序奏での世界がそのまま復活したかのように、極めて幅広く柔らかく、不思議な安息感さえ漂わせつつ演奏されたのであった。
 その結果、どういう印象が生まれるか? 聴き手は、狂乱の猛速で演奏された楽章主部に激しく揺り動かされたあとに、昂揚に導かれるのではなく、むしろ逆に、(一時的にではあるが)再び以前の落ち着いた気分に引き戻されるのである。楽曲の形式という点からみれば、それはA-B-Cでなく、A-B-A―Cという形を採ることになる。この楽章をこういう形式で解釈する手法もありうるのか、と、驚き、感じ入った次第だ。

 東京響も珍しく、まるでなにかの束縛(?)から解放されたような勢いで、噴火山の如く鳴り渡った。こういうタイプの演奏は、スダーンやノットの指揮で聴くこのオーケストラからは考えられないものだろう。それだけに、かなり粗っぽい面もあった。特に第2楽章でのホルンなどにそれが著しい(悪くはなかったけれど)。

 幻想序曲「ロメオとジュリエット」は、全曲最後の個所が、聴き慣れたティンパニのトレモロと最強奏で断続する和音で終結するのではなく、柔らかい弱音の和音で閉じられる形に変えられていた。
 この曲には、「1869年初稿」「1870年改訂版」「1880年の再改訂による現行版」の3種があるのは周知のとおりだが、マエストロ大植に訊くと、「初稿」から採って、自ら今回のような形に書き換えたのだと言う。――彼が言うのなら、間違いはないのだろう。

 ただし、私が持っている「初稿による演奏」盤では、最後は「現行版」のような大掛かりで長いエンディングでこそないが、やはりティンパニの激しいトレモロと、最強音の和音2つで閉じられる形になっているのだが・・・・もしかして、「初稿による」と謳っているこれらいくつかのCDで演奏されているのは、本当は「初稿」ではなく、「1870年改訂」による出版譜のほうなのか? 
 初稿の自筆原稿か、改訂稿の出版譜をお持ちの方が居られたら、是非ともご教示賜りたいところである。

※追記:
 東京響事務局を通じ、新潟で公演中のマエストロ大植へ問い合わせたところ、今回演奏したエンディングは「初稿(1969年)の自筆譜を参照し、そこから取り入れたもの」との回答を得た。
 とすれば、現在「1869年の初稿による演奏」と銘打たれて市販されているCDは、やはり「初稿」ではなく、1870年の改訂版を使用したものだったということになろう。
 たしかに、木管の最弱奏で終る結尾と、ティンパニのトレモロを含む全管弦楽の2つの和音で終る結尾のどちらが「初稿」なのかは、現行版の結尾にどちらが近いかを考えれば、おのずから明らかだ。・・・・改訂の過程としても、その方が納得が行く。

 本来、「稿」は未出版のものを言い、「版」は出版されたものを言う。従って、「初稿」と謳われたCDの表示を、「初版」としておけばある程度問題なかったのである。その意味では、曽我大介指揮のCDが「原典版」と題されているのは、巧く「かわした」表現と言えないことはない。
 この上は、「1870年改訂」の出版譜を参照して最後の証拠固めをすればいいということになるが・・・・それをお持ちの方からのご教示を重ねて賜りたいところ。

※さらに追記:金子建志さんから、問題の1870年改訂の「出版譜」を見せてもらい(さすが、持ってる!)、一部のCDに「1869年初稿による」と表記されている演奏とそれが完全に合致していることが判った。もっとも、そのカルマス版総譜にも麗々しく「1869 First Version」と記載されているので、ここにもある種の混乱の元があるのだろう。チャイコフスキーの伝記などで読む「1869年初稿初演、すぐに1870年改訂して出版、次に1880年(大幅に)再改訂して出版(=現行版)」との整合性が問われるところである。
    ⇒モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

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