2017-04

2・28(金)山田和樹指揮読売日本交響楽団 「英雄交響曲」「英雄の生涯」

   サントリーホール  7時

 第1部にベートーヴェンの「英雄交響曲」を、第2部にR・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」をおくという演奏会。

 こういう、タイトル合わせのようなプログラミングは、「英雄の群像」とか「2人の英雄」とかいうタイトルをつけて、われわれラジオのディレクターが昔よくやった手だが、オーケストラの演奏会ではあまり見られないだろう。もっとも、ただの題名語呂合わせでなく、両曲が「変ホ長調」という同じ調性をもつことを思えば、演奏会でも理屈としては成り立つプログラムに違いない。

 それにしても、戦艦2隻が一緒に――「大和」と「武蔵」とまでは行かずとも、「金剛」「榛名」のクラスか――やって来たようなこんなプロができる指揮者とオーケストラは、そうは多くないだろう。指揮者がやろうと言ったとしても、オケ側が二の足を踏むものだ。今の日本でこれができるのは、読売日響くらいなものではなかろうか?

 このクラスの大曲を2つ組み合わせる時には、指揮者はたいてい、2曲を対比させるような性格の演奏を組み立てるものだろう。事実、今回の山田和樹は、「英雄交響曲」ではむしろ古典的な端整さを前面に押し出し、それに対し「英雄の生涯」では作品の持つ劇的な鮮烈さをいっそう強調する、という演奏構築を採っているように感じられたのである。

 彼の「英雄」は、2年半ほど前にセントラル愛知響を指揮したのを聴いたことがあるが、その時の鋭角的なデュナミークを持った演奏と比べると、今夜の演奏にはむしろたっぷりとして安定感のある壮大さが目立っていた。
 第2楽章はまさにスコア指定通りのアダージョ・アッサイの打ち沈んだテンポだし、第135小節からの個所もスコア通りの(セントラル愛知響の時とも同じく)3番ホルン1本による演奏――ただし今回はそれがほとんど浮かび上がらなかったので、ここは不思議なほど柔らかい演奏に聞こえたが――で、誇張や小細工を避け、古典の交響曲という性格に重点を置いたアプローチを試みていたように思えた。

 といって、今回の演奏がおっとりとしていた、という意味では全くない。随所に聞かれる、トランペットの閃光の如きアクセントや、ティンパニの攻撃的な強打によるデュナミークは、この交響曲の革命的な性格に、充分ふさわしいものであった。

 「英雄交響曲」がこういうアプローチなら、「英雄の生涯」は多分こうするだろう――と予想していたのがピタリと当たったような、この大交響詩での演奏。頂点の「英雄の戦い」のくだりでは、打楽器の豪打、ホールも崩れ落ちんばかりの大エネルギー。
 「随分派手にやりましたねえ」と、終演後の楽屋でマエストロ山田に声をかけたら、「うるさかったんじゃないですか?」と笑っていた。いや、若い指揮者はこれでいいのである。若いうちから分別くさい指揮をするような人など、面白くない。

 それになにしろ、テンポが実に自然だ。全曲が痛快なほど流れよく進んで行く。殊更に「矯め」をつくるようなことなく、むしろ率直にぐいぐいと押して行く快いテンポだったのだ。それでいながら、一気呵成という印象にならず、全曲が大きな「弧」のように構築され、起承転結を感じさせる物語として完成される。
 山田和樹の成長がここでも示されたな、と、手応え充分の「英雄の生涯」であった。

 オーケストラも実にいい。各パートのソロも快調だ。
 今夜のコンサートマスターは日下紗矢子だったが、この人のソロがまた素晴らしい。「英雄の伴侶」の個所では極めて艶っぽい音色で、驚くほど色っぽく、コケティッシュに、時には我儘っぽい表情をあふれさせ、伝えられる作曲者の妻パウリーネの性格を彷彿とさせるソロを展開してくれた。この「伴侶」の姿を、ヴァイオリン協奏曲のカデンツァみたいな感じで弾きまくるコンマスも往々にしているものだが、それでは作品がぶち壊しになってしまう。今夜のように、「英雄」をとろけさせるような表情で弾かれることが、この曲にふさわしいのである。

 またこの日の演奏会は、読売日響の人気ホルン奏者、ベテランの山岸博氏の「お別れステージ」になると事前に告げられており、指揮者と楽員と満員の聴衆から最大級の拍手を何度も浴びていた。お疲れさまでした、山岸さん。

2・27(木)井上道義指揮日本フィル 伊福部昭生誕100年

    横浜みなとみらいホール  7時

 8年前に他界した伊福部昭の、今年が生誕100年にあたるとあって、誕生日の5月31日を中心にいくつかのメモリアル・コンサートが行なわれることになっている。今夜はその一つ。

 プログラムは、第1部がシリアスなコンサート・プロで、「日本組曲」、「ラウダ・コンチェルタータ」(マリンバ・ソロは安倍圭子)。第2部は映画音楽集で、「銀嶺の果て」「大魔神」「ビルマの竪琴」「わんぱく王子の大蛇退治」「ゴジラVSモスラ」からの各抜粋小品。アンコールには「シンフォニア・タプカーラ」の終結の一節。

 伊福部昭の作品は、CDでもたびたび聴ける機会があるが、やはりナマで聴く方が圧倒的に面白い。
 とりわけ、第1部のようなシリアスな作品群ではそうだ。あの野性的で土俗的な管弦楽法が持つ独特の音色と響きがリアルに色彩的に拡がり、彼特有のオスティナートが一種の根元的な力感をみなぎらせつつ、聴き手を煽り立てて来る。執拗に反復されるリズムやモティーフなどが、決して単調な繰り返しに堕することなく、多彩な表情で展開されて行くさまが聴き取れるのだ。

 それにまた、視覚的な愉しさもある。「日本組曲」の第1曲「盆踊り」で、大地を揺るがせるような轟音の裡に、舞台後方にずらり並んだ数人の打楽器奏者たちが全員同じリズムで楽器を叩き続けて行く光景など、すこぶる壮観だ。
 しかも今日のように、指揮が井上道義と来れば、・・・・あたかも舞踊をそのまま投影したような指揮姿になるから、ますます面白くなるというものである。

 第2部は、井上と池辺晋一郎(このホールの館長でもある)の、漫才のような話を織り交ぜながら進み、「ゴジラVSモスラ」では東宝映画からの映像をオルガンとその両側の壁面に投映して――この映像はかなり凝った作りで、例のおなじみの音楽との相乗効果はなかなかのものだった――演出効果も抜群。これが井上の事前の紹介などなしに、サプライズとして行なわれれば、聴衆の楽しみも倍加したのではなかろうか。

 最後の「タプカーラ」では、伊福部昭の写真までが映写され、生誕記念の年を「祝った」というわけ。
 今回の演奏会の監修と、第2部のうちの「わんぱく王子の大蛇退治」を除く4曲の編曲は、和田薫によるものという。

 5月末には、井上道義と東京響、高関健と札幌響が、同じく伊福部の作品を集めたプログラムを演奏することになっているから、それも楽しみだ。
 なお今年は「ゴジラ」誕生60年にあたるということで、――1954年春頃の新聞の小さなコラムにこんな記事が出ていたのを、今でも不思議に覚えている。「ゴジラ――といってもわかるまいが、これはゴリラとクジラのアイノコのような怪物で、今秋、品川沖から東京に上陸し大暴れするそうだ。東宝が大いに力を入れている空想科学映画で・・・・」とか、なんかそういう文章だったと思う。

2・20(木)東京芸術劇場シアターオペラ J・シュトラウス「こうもり」

   東京芸術劇場コンサートホール  6時30分

 これは石川県立音楽堂(15日に公演済)と東京芸術劇場との共同制作。但し金沢ではオーケストラ・アンサンブル金沢が出演したが、こちら東京では東京響が演奏した。

 このホールには当然ながらオケ・ピットがないので、客席前方をつぶしてオケをズラリと配置。舞台上には大きな反響板のような3方の囲いを備えた、シンプルながら要を得た装置をセット。
 まずはアットホームな雰囲気のオペラ上演、といった感である。指揮はハンス・リヒターで、この人は19世紀の伝説的な名指揮者ハンス・リヒターの曾孫なのだそうである。演出は最近活躍目覚ましい若手の佐藤美晴。

 このプロダクションの最大の特徴は、アンティ・キャロン(オーストリアの演出家)による台本を使用したことにあるだろう。
 物語の舞台は東京で、アイゼンシュタイン(ペーター・ボーディング)とファルケ(セバスチャン・ハウプマン)は証券ディーラー、オルロフスキー(タマラ・グーラ)はイベント・プロデューサー、ロザリンデ(小川里美)は日本人妻、アデーレ(小林沙織)はモデル志望の日本人家政婦、アルフレート(ジョン・健・ヌッツォ)はファッション・デザイナー、フランク(妻屋秀和)は日本人の警部、ブリント(新海康仁)は日本人弁護士、フロッシュ(西村雅彦)が日本人警部補、という設定。

 フロッシュ以外の日本人たちはみんな「ドイツ語が堪能」で、歌はもちろんドイツ語で歌われ、セリフにはドイツ語と日本語が交錯するという仕組だ。
 日本人歌手をすべて本当の日本人役として演じさせたところが、いわゆるバタ臭さの全くない素直な舞台となる効果を生んで、これはすこぶるいいアイディアであった。だが、そのデザイナーなりディーラーなりの性格が、実際の舞台上でどの程度生かされ、ドラマの進行に具体的な意味を付加したかというと、少々疑問ではあるが。

 それに、リハーサルをどのくらいやったのかは知らないけれど、舞台上の進行に隙間が空くことがあり、間延びした雰囲気を感じさせることが多々あった。外国人主役たちに、手持無沙汰のような動きをすることがしばしば見られたのも気になった。むしろ合唱(武蔵野音大合唱団)――日本人役は男も女も画一的に黒ぶちメガネをかけているのが何とも――の方が一生懸命演技をしていたくらいである。

 とはいえ歌い手たちは、リヒターの勢いのいい指揮に乗って、みんな伸び伸びと歌っていたようだ。小川里美、小林沙羅、ジョン・健・ヌッツォは、いずれも昨年の「神風」で主役を演じていた人たちだが、あのオペラのように声楽的な無理を強いられる音楽ではないこの「こうもり」ゆえに、今夜は揃って爽やかな歌を聴かせていた。ひとりグーラだけは声があまり明晰でなく、オルロフスキーが冴えぬ存在になってしまった感がなくもない。
 第2幕では、スペシャル・ゲストのメラニー・ホリデイが、さすがの貫録ぶりを披露して、客席をも沸かせていた。

 残念だったのは、ワンワン響き過ぎるこの会場の音響である。コンサートホールの美点は、必ずしもオペラ上演の美点ならず。特にセリフ部分が残響の豊かさのために聴き取りにくい。西村雅彦の芝居など、セリフが明確に聞こえたならば、もっと客席に笑いが起こっただろうに、と思う。
 舞台装置のつくり方で何とか解決できないものであろうか・・・・吸音材を施すとか・・・・費用がかかり過ぎるか?

2・19(水)東京二期会 ヴェルディ:「ドン・カルロ」初日

    東京文化会館大ホール  6時30分

 今回はフォンテーヌブローの場を含む5幕版で、デイヴィッド・マクヴィカーの演出。

 プログラムに解説を書くためにフランクフルト歌劇場(今回のプロダクション公演における提携先)での上演記録ビデオを見た時には、舞台装置が最初から最後まで同じに見え、何か単調なプロダクションだなと思ったのだが、いざ現場で実物に接してみると、意外に巨大で立派で、場面に応じて微妙に景観が変わるセットであることが判明、一安心。

 とはいえ、基本的には全場面共通で、しかも全てが灰色で、丸みというものが一切ない直線的なフォルムの装置(ロバート・ジョーンズ担当)。白と黒を基調とした照明(ヨアヒム・クライン担当)と、中世スペインの時代に忠実ながら明るい色の全くない衣装(ブリギッテ・ライフェンシュトゥール担当)。
 これらは、オペラの登場人物たちを拘束圧迫する冷酷で殺伐たる悲劇的な世界を象徴するには充分なものだ。

 つまり今回の「ドン・カルロ」は、この作品に付きものの豪華絢爛たるグランドオペラの要素を一切排した、暗く重苦しい、いわば出口のない人間ドラマとして演出されているのである。主人公のドン・カルロ王子は、最終場面で父王フィリッポ2世の配下の手により殺される(ト書きとは違うが、史実には近い)。
 観客側の我々も、この威圧的で冷徹な光景に4時間(30分の休憩1回を含む)も浸っていると、たまらなく息苦しくなる。その意味では、このマクヴィカーの演出、すこぶる徹底した解釈と言えるだろう。「ドン・カルロ」を、これほど「静的」で「陰鬱」なオペラだと感じさせられたのは、私は今回が初めてである。

 それはそれでいいのだが、この日は音楽面での出来に些か不満を残した。
 まずガブリエーレ・フェッロの指揮が、意外にリズム感が甘くて重い。特に休憩後の第4幕では緊迫感が不足気味となり、後半の「牢獄の場」ではテンポもやや弛緩していたような印象を受けてしまった。ピットに入った東京都響はよくやってはいたが、やはり後半は少々息切れ気味という感か。

 歌手陣はダブルキャストだが、これも初日だったためか、前半(第1~3幕)ではみんな何か慎重に構えすぎた雰囲気を感じさせた。
 題名役を歌い演じた福井敬だけはさすがに練達のベテラン、最も早くペースに乗って、最後まで群を抜いたパワーで飛ばしたが、横山恵子(王妃エリザベッタ)、谷口睦美(エボリ公女)、成田博之(ポーザ侯爵ロドリーゴ)といった人たちは、後半(でのアリア)に至ってやっと活気に満ちた歌唱が聴けた、という感じだったのである。

 だがそれよりも疑問だったのは、フィリッポ2世を歌い演じた伊藤純だ。この人の声はこういう重厚な風格と威厳とを要求される役には向かないのではないか、という気がするのだが・・・・。演技の面でも、中世の欧州に君臨した超大国スペインを束ねる国王とあれば、気弱な雰囲気ではなく、もっと威圧的な存在感が欲しいところだ。
 斉木健詞(宗教裁判長)は、不気味さよりも粗暴さを前面に押し出した「大審問官」であったが、いつもと違い、不思議に声質が粗かったのでは? 
 他に小姓テバルドを加賀ひとみ、レルマ伯爵を大槻孝志。

 終演は予定より延び、10時30分過ぎになった。

2・18(火)ロビン・ティチアーティ指揮スコティッシュ・チェンバー・オーケストラ

    サントリーホール  7時

 スコティッシュ・チェンバー・オーケストラ(1974年創立)の首席指揮者を2009年のシーズンから務める30歳の若手ティチアーティ。
 今年1月からはグラインドボーン音楽祭の音楽監督も務めるようになったという。ついにそこまでになったか、と・・・・個人的な付き合いはないけれども、何となくうれしくなる。

 今夜のプログラムは、メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロはマリア・ジョアン・ピリス)、ベートーヴェンの「交響曲第5番」。

 「フィンガルの洞窟(ヘブリディス)」をアタマに持って来るとは一風変わったプログラムだが、なるほどこれはスコットランドの御当地ものだった、と納得。
 弦は8・6・4・4・3の編成で、ホルンとトランペットはピリオド楽器を使用、そよ風のように軽やかな響きで「海の光景」を描いて行くという風変りな解釈を聴かせた。轟く波の個所でティンパニを1か所だけ狂ったような大音響で叩かせたあたりも、最近の欧州系の若手指揮者がやりたがる「人とは違う独特のスコア読み」の一つだろう。

 同じティンパニの突然の豪打はベートーヴェンの「5番」においても第1楽章再現部の冒頭で採られていたが、とにかく全曲でそこ1か所だけ、というのは、あまりに異質だ。
 しかし、このピリオド楽器スタイルの演奏による「5番」でティチアーティがつくり出している独自のさまざまなアイディア――第2楽章で主題を波打つように揺り動かして響かせたり、第4楽章再現部直前で木管楽器群の音色を滑るように変えて行ったり、コーダに入る直前の個所での断続和音の長さを一つおきに変えたりするテはなかなか面白く、やるねえ、という感を抱かせた。
 なお「5番」の第3楽章でリピートを行なう「禁じ手」(?)の演奏は、ナマでは久しぶりに聴いたが、やはりこの楽章はこれでこそ独自の存在感を主張できるのではないか、と思われる。

 ショパンの協奏曲は、何と言ってもマリア・ジョアン・ピリスの演奏がすべて。ヤマハのピアノを使ってのこの独特の音色――明晰で透明で清楚で気品に満ちた音色、演奏にあふれる温かい情感、毅然とした風格と完璧な造型は、彼女ならではのものだ。
 ソロ・アンコールで聴かせたショパンの「ノクターン ロ長調作品9の3」の素晴らしさたるや筆舌に尽くしがたく、彼女のショパンの「ノクターン」を聴くためなら世界中どこへでもついて行きたいとまで思ってしまうほどである。

 ティチアーティとオーケストラのアンコール曲は、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲だったが、これはベートーヴェンとは打って変わって「重い音色」の演奏。

2・16(日)千住明:オペラ「滝の白糸」東京初演

   新国立劇場 中劇場  2時

 中嶋彰子(滝の白糸)、高柳圭(村越欣弥)、鳥木弥生(欣弥の母)、清水那由太(南京出刃打ち)他の歌手陣。
 大友直人指揮東京ユニバーサル・フィルハーモニー管弦楽団に、合唱が「滝の白糸」アンサンブル・ゾリステン。

 泉鏡花が、昨年は生誕140年、今年が没後75年とあって、新国立劇場でもこの2,3年、彼の作品を原作とするオペラが流行る。
 即ち、水野修孝作曲の「天守物語」新演出再演、池辺晋一郎の新作「高野聖」の東京初演、香月修の新作「夜叉ヶ池」の委嘱初演。そしてこの千住明の「滝の白糸」は、すでに高岡と金沢(いずれも鏡花あるいは物語に縁のある街)での上演を経た上での東京初演だ。

 今回の「滝の白糸」は、黛まどかの台本によるもの。戯曲化された「瀧の白糸」よりもむしろ、鏡花自身の原作「義血侠血」の筋書を基にしたところも少なくないようだ。ラストシーンで、白糸に死刑を求刑した村越欣弥・検事代理が、大恩人に死を与えた己の所業を憂えて自殺を遂げる、という設定などはその一例である。
 台本の構成は、全体としては比較的よく出来ていると思う。特に金沢地方裁判所における「裁判の場」(第3幕)で、村越欣弥の母親が白糸への恩義を切々と歌うくだりや、合唱が白糸を「あっぱれ潔し」と讃える設定などは、すこぶるオペラ向きの構築であり、効果的であった。

 升平香織の舞台美術および十川稔の演出も――白糸の水芸は概ね省略していたが――旧き日本の雰囲気をよく描いている。第3幕での裁判官や傍聴人たちの構図も、きわめて解りやすい組み立てである。

 千住明の作曲スタイルはごくトラディショナルなもので、所謂「クラシックの現代音楽」の範疇からは遠い位置にあり、いわばTVの大河ドラマの音楽か、シリアスなミュージカル、といった趣か。それだけに、耳あたりは非常に良い。全体にゆっくりしたテンポが基盤となっている印象が強い。
 楽曲の構成は、アリアや2重唱が多く取り入れられている一方、概して――ナンバー制とまでは行かぬまでも――場面ごとに休止・接続されて行くという形が採られている。近代オペラ的な「移行の音楽」は少なく、人物の心理の変化の過程といったものは、あまり描かれない。ドラマとしての起伏感が往々にして乏しくなるのは、そのためもあろう。

 それが最も気になったのは、第2幕の大詰の個所である。ここは、白糸が仕送りのために借りた大切な金を出刃打ちに強奪された挙句、切羽詰って金欲しさに老人夫婦を襲い、殺してしまう――原作とは違い、兼六園で涼んでいた老夫婦を刺殺するという設定だ――場面なのだが、音楽が「移行」の形を採らず、前の場面のあとで一度途切れているので、白糸が逆上して狂乱状態になって行くという心理の変化の過程が、音楽ではあまり明確に描かれない。つまり、彼女がなぜ「あまり金も持っているようにも見えない」老夫婦を襲うのか、音楽の上では甚だ唐突な印象になるのである。このあたりは、台本との関連もあるだろうが。

 題名役の中嶋彰子は、明晰な日本語の歌唱と発音と存在感で、ドラマを独りでもたせたという感。
 演技の面でも、第1幕での「あでやかなる命取りの太夫、大明神様、闊達豪放なる女丈夫」から、第3幕での「残柳の露に俯したるごとく哀れに萎れた」女に変わって行くまでの表現の巧さは、さすがというほかはない。

 他には、南京出刃打ち役の清水那由太が巨体とよく響くバスで悪役ぶりを見事に発揮、また欣弥の母親役の鳥木弥生も裁判の場でのアリアに豊かな情感をこめていた。
 村越欣弥役の高柳圭も健闘したが、歌唱に今一つ安定感を望みたいし、また裁判の場や牢獄の場での演技には、さらに感情を激しく揺り動かす表現があっていいだろう。

 この「牢獄の場」での2重唱は、いかにもオペラ向きの場面として、白糸と欣弥の悲しみをこれでもかとばかり歌い上げるのだが、やや長すぎる。しかも幕切れでは、音楽が終ったあとに早くも拍手が起こってしまったために、欣弥がピストルを頭に擬すという演技が霞んでしまった。ここは演出にもう一工夫を。

 第1幕約43分、第2幕約38分、第3幕約50分。終演は5時を少し過ぎた。客席は超満員だったが、金沢の御当地オペラとしての人気もあったのでは? ちなみにこの公演の主催と制作は、金沢芸術創造財団、高岡市民文化振興事業団、東京ユニバーサル・フィル、石川県音楽文化振興事業団。
     ⇒モーストリー・クラシック5月号

2・12(水)アラン・ギルバート指揮ニューヨーク・フィルハーモニック

    サントリーホール  7時

 アラン・ギルバートがこのオケの音楽監督になってから、もう4年半になる。

 その直後の来日公演(2009年10月)を聴いた時には、随分几帳面で端整な音楽をつくるものだと思い、あの「暴れ馬」のごときNYフィルがこういう指揮者をシェフに選んだことにも驚いたものだ。
 その後、北ドイツ放送響や東京都響などへの客演指揮を聴き、彼は作品の性格や相手のオーケストラによってかなり指揮のスタイルを変える人なのかな、と考えていた(都響でのブラームスは重厚壮大で素晴らしかった)が、未だにその結論は出せていない。

 ただ、今回の演奏を聴いた印象では、以前よりは自由さと闊達さが出て来たように思われるが、それでもやはり、どれほど音楽が熱狂し昂揚する個所であっても――そして彼の身振りがどんなに烈しくなった時にも――どこかに端然たる佇まいのようなもの、あるいは心の内側では熱狂していてもそれが表に出て来ない、一種の淡彩な感覚のようなものを、演奏に感じてしまうのである。

 しかし、オーケストラは、昔と同じようによく鳴る。前回聴いた時には艶やかな弦楽セクションの音色が印象的だったが、今回は金管セクションが強力で、サントリーホールを揺るがせるばかりのパワーを誇示していた。昔の日本の批評だったらこれを「アメリカ風の豪華なサウンド」というところだろうが、今ではそんな画一的な表現は通らないだろう。
 だがこのNYフィルの音を聴くと、いかにもあの巨大なエイヴリー・フィッシャーホールで聴くオケの、良くも悪くもニューヨークの聴衆を愉しませるあのオケの贅沢な豪快さを感じて、何か微笑ましくなってしまうのである。

 なお今回はヴァイオリン群を対向配置にし、ヴィオラを下手寄りに、チェロを中央に、コントラバスを上手側奥に配置、ホルンを舞台奥ほぼ中央に、その他の金管を舞台奥中央から上手寄りに一列に並べるという配置だった。

 プログラムは、1曲目がクリストファー・ラウス(1949年ボルティモア生れ)の「狂喜(Rapture)」と題された12分ほどの大編成の作品。
 ドビュッシーの「海」とオネゲルの「夏の牧歌」をミックスしたような前半の曲想から、やがて熱狂的な最強奏に向かう。作曲スタイルはかなり保守的だが、非常に耳あたりのいい曲であることは確かで、こういうのもありかな、という・・・・つまりそういう路線の作品だ。アメリカのオケは国外旅行に出る時に必ず自国の作品を携えて行くというのが昔からの慣わしで、それ自体は大いに結構なのだが・・・・。

 2曲目は、イェフィム・ブロンフマンをソリストに演奏されたリンドベルイ(1958年ヘルシンキ生れ)の「ピアノ協奏曲第2番」。2012年に、この同じ顔触れによりニューヨークで初演されたという。
 「近年の」リンドベルイの作風によるもの、と言える曲だろう。ピアノのソロ・パートもオーケストレーションも細密で手の込んだ構築に仕上げられており、カラフルな響きを持つ聴きやすい協奏曲だ。ブロンフマンの豪壮なソロが、ラヴェル(左手)やグリーグの協奏曲の一部を連想させる。だが、30分の長丁場を保たせるにはもう一つ何か大きな曲想の変化が欲しいようにも思われる。

 愛想のいいブロンフマンは、ソロ・アンコールとしてショパンの「エチュード作品10-8」とプロコフィエフの「ソナタ第7番」の第3楽章を弾いた。特に後者は彼らしく豪壮猛烈な演奏で客席を沸かせたが、リサイタルならともかく、オーケストラ・コンサートの客演ソリストがアンコールを2曲も弾くのは少々やりすぎだろう(「やり過ぎる」ソリストは少なくない)。

 最後はチャイコフスキーの「第5交響曲」。ギルバートの指揮はストレートなスタイルで、この作品から何か新しい視点を引き出してやろうというタイプの演奏ではない。だが金管群の響きは壮烈で、特にホルン群はしばしば他の全管弦楽を圧するほどの勢いと大音量で活躍、独特のサウンドをつくり出して迫力を生む。
 とはいえ、オケの音色に、不思議に色彩感が乏しいのが気になるし、テンポも良く音量もエネルギー感も充分でありながら、何か醒めたままで燃えない音楽であるのも気になるところだろう。今夜の演奏としては、やはり前半の現代音楽の方に分がある。
 アンコールはチャイコフスキーの「弦楽セレナード」からの「ワルツ」。ギルバートはさすが日系、綺麗な流暢な日本語で挨拶していた。
      音楽の友4月号演奏会評

2・9(日)尾高忠明指揮NHK交響楽団のシベリウス

   NHKホール  3時

 尾高忠明が得意とするシベリウス・プログラムで、「アンダンテ・フェスティヴォ」、「ヴァイオリン協奏曲」、交響詩「4つの伝説」。
 これは、2010年11月13日に札幌で聴いた、彼と札響の定期におけるものと全く同じプログラムだった。

 札響と比較してどうこうというわけではもちろんないけれども、今回はやはりオーケストラのパワーや音の厚みが一段と際立ち、尾高の指揮をスケール感豊かに具現する。これが尾高のシベリウスなのだ――と改めて感じさせてくれるような演奏であった。

 「アンダンテ・フェスティヴォ」は、以前からこれは尾高の「アンコール定番」にしたらいいのにと書いたほど、テンポも盛り上げも良い彼の指揮なのだが、今回も弦に力強い鮮明さが加味されて、すこぶる魅力的な演奏になっていた。
 次の「ヴァイオリン協奏曲」にソリストとして登場した若い女性ワン・ジジョンは、中国出身、上海音楽学院からハンブルク音大、ハンス・アイスラー音大などに学んだという人だ。小柄な体からシンの強い音を出す。隈取りの明確な、気魄に富んだ硬質のシベリウス像がつくり出される。叙情味にはやや不足するけれど、若い情熱が感じられるのは好ましく、何より聴き手を強く惹きつけるものがある。

 後半は長大な「4つの伝説」。私はこの曲がたまらなく好きなのだが、なかなか理想的なナマ演奏には出会えない。日本のオケで聴くと、たいていは音が薄くなってしまい、終曲「レミンカイネンの帰郷」など、ガシャガシャした演奏になることが多いのだ。
 演奏の音の密度が濃くなければ、この曲の神秘的な性格や、息の長い緊張感は表現できないのである。

 その点、今回は日本のオケの演奏としては、充分な出来を示したものではなかったろうか。終演後に尾高さんは「そりゃあ、やっぱりN響だからですよ」と言っていた。それももちろんあるだろうが、やはりまず彼の「持って行き方の巧さ」のゆえではなかろうか。
 第1曲「レミンカイネンとサーリの乙女たち」で、ひたすら押しに押す音が単なる反復に陥らず、一つのクライマックスに向けて息の長いクレッシェンドを重ねて行くところは、シベリウス・マニアにはこたえられない個所だが、ここでの尾高の設計も良かった。

 今回は「トゥオネラの白鳥」を2曲目に、「トゥオネラのレミンカイネン」を3曲目においた演奏が採られていた。私はどちらかといえばこの形の方が、曲の流れから言って好きである。前者では、池田昭子の見事なイングリッシュ・ホルンがカーテンコールで拍手を浴びていた。

 第4曲の、嵐を衝いて馬で疾駆するような、ひたすら驀進する音楽が少しずつ明るい音調に変わって行くあたり(私はここでいつも島崎藤村の「草枕」の最後の5節を連想してしまうのだが)でも、N響の音の厚みがいい効果を出す。
 そして、遂に故郷に帰り着いたレミンカイネンの喜びを示すかのように、均衡豊かな全管楽器のモルト・クレッシェンドの和音で閉じられる大団円まで、尾高とN響がつくり出した音楽はすこぶる壮大であった。最後のティンパニのトレモロが少々粗かったのだけが惜しかったけれども・・・・。

 今日のゲスト・コンサートマスターはゲルンハルト・バルトーク(ベルリン・ドイツ響第1コンマス)。なかなか味がある。

 昨日積った大雪(戦後3番目とか)も、快晴の裡にどうやら溶け始めて、高齢層の多いN響定期の客足も今日は戻って来たように見えた。しかし、拍手の音は、やはり薄い・・・・天井席から飛ぶ数少ないブラヴォーの声がせめてもの救いか。
    ☞音楽の友4月号 演奏会評

2・4(火)川瀬賢太郎指揮読売日本交響楽団

   東京芸術劇場  7時

 川瀬君は、ステージに出て来る時に、もっと気魄をみなぎらせて元気に歩いてきたらどうか、若いのだから・・・・などと以前書いた記憶があるが、今日はだいぶ勢いよく進んで来たので一安心。しかし、答礼をする際に何となく萎んだような表情になることがあるのには、また落胆。
 ナマの演奏会では、指揮者のステージマナーは演奏内容に劣らず大切なのだ。会場が盛り上がるかどうかが、そこでまず決まるからである。

 さて、プログラムには、ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」と「幻想交響曲」との間にメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」を挟むという、いわば情熱と気魄の作品が並んでいた。
 だが「ローマの謝肉祭」は、快速ではあるが何か燃えない、形だけの賑やかさに終始した演奏になってしまっていたのは・・・・残念だ。

 「幻想交響曲」も、第1楽章序奏はじっくり構えたテンポで始められたものの緊張感に不足し、楽章主部に入って漸く活気が感じられて来るという状態。
 コーダでの演奏にも、もう一工夫欲しい。この楽章はいわば緩―急―緩の構成を採っているだけに、安らぎを求める終結の個所が、情熱的な狂乱のあとの自然な帰結――という印象を生むような、有機的な結びつきを持つテンポの設定になっていたら、と思うからである。

 遅いテンポになると緊張感が薄らいでしまうのは、たとえばコンスタンティン・トリンクスのような若手指揮者にも聞かれる欠点だが、川瀬にも早くそれを解決していただきたいものだ。
 それを除けば、第2楽章以降は、まずまずといったところだが、それにしても・・・・たとえ大音響を轟かせても、音楽に、それにふさわしい熱気が伴っていないというのが、もどかしい。

 いずれにせよ、ステージの雰囲気や演奏の内容から判断する限りでは、彼と読売日響との相性は、今のところはあまり良いとは感じられない。だが彼には、間もなく神奈川フィル常任指揮者としての活動が始まる。希望の星なのだから、思い切って若々しく暴れて欲しいものである。

 協奏曲のソリストは、志茂美都世だった。プロフィールを見ると見事なキャリアを持っている人だが、今日の演奏を聴いた範囲では、どうも腑に落ちないことばかりだ。演奏は一本調子で平板だし、第1楽章など終始息づきのないレガートで弾いてしまうという印象である。ドレスの裾なんかを気にする前に、音楽の起伏に気を配りましょう。

2・3(月)エリソ・ヴィルサラーゼ・ピアノ・リサイタル

   トリフォニーホール  7時

 第1部冒頭にモーツァルトの「ドゥゼードの《ジュリ》の《リゾンは眠った》による9つの変奏曲K.264(315d)」を、第2部冒頭にハイドンの「アンダンテと変奏 ヘ短調」をおき、そしてそれぞれのあとにブラームスの「ピアノ・ソナタ第1番」と、シューマンの「交響的練習曲」を演奏するというプログラム。

 この選曲の妙もさることながら、4つの作品それぞれの性格を、音色の対比もふくめて見事に描き分ける演奏の妙! 
 特にモーツァルトでは、主題が最後までその形を崩さず、明確に全曲を支配しているのが浮き彫りにされた。ヴィルサラーゼの手にかかると、その主題は、その形がたとえ直接現われない個所でさえ、その存在をはっきりと意識させ、常に聞こえているような感覚にさせてしまうのである。それに加え、交錯する声部の明晰さ! 

 彼女の紡ぎ出す響きは、極めて個性的だ。暗めの音色で陰翳が濃く、土臭い素朴さもあるが、厳しく強靭な意志を感じさせ、しかも気品に富む。暗い端整なモーツァルトから、くすんで荒々しいブラームスに、一転して清澄さが加味されたハイドンから、翳りのある分厚い音のシューマンへ・・・・といった具合に、音は万華鏡の如く移り変わる。
 各々の作曲家をこういう音色に描き分けるピアニストが、他にいるだろうか? テクニックそのものは既に必ずしも完璧とは言い難いが、豊かな情感がそれを補って余りある。

 アンコールは、シューマンの「予言の鳥」と「献呈」(リスト編)、ショパンの「別れのワルツ」と「華麗なる大円舞曲」。
 「献呈」での壮麗で温かい演奏に、いつまでも聴いていたいような快い感覚に引き込まれた。

2・2(日)藤原歌劇団創立80周年記念公演 ロッシーニ「オリィ伯爵」

   東京文化会館  3時

 松本重孝の演出によるニュープロダクションだが、幕が開いた瞬間、目に飛び込んで来たのは、古式ゆかしい(?)舞台装置(美術は荒田良)。まるで時間が半世紀以上も戻されたかのような錯覚に陥る。舞台上の動きも、良くも悪くも穏当極まるものだ。

 二期会が創立50周年の「リア」を現代的な舞台で祝ったのと逆に、藤原歌劇団は創立80周年の「オリィ伯爵」をノスタルジックな舞台で祝ったというわけか。東京の民間2大オペラ団の姿勢とカラーがはっきりと出ているとも言えようし、それはそれでいいのかもしれない。
 だが、今回のごときトラディショナルな――つまり保守的なプロダクションを好む観客は今なお圧倒的に多いようで、東京文化会館大ホールの広大な客席は、それこそ立錐の余地もないほどの満員である。結構な話には違いないが、ある意味では、考えさせられる問題であろう。

 今回の指揮はデニス・ヴラセンコ、管弦楽は東京フィル、合唱は藤原歌劇団合唱部。題名役はアントニーノ・シラクーザ、伯爵の教育係は彭康亮。その他の歌手陣はダブルキャストで、今日は光岡暁恵(アデール)、松浦麗(イゾリエ)、森口賢二(ランボー)らが歌っていた。

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