2017-03

1・31(金)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

   サントリーホール  7時

 イタリアのヴェローナ生れの新星バッティストーニは、まだ26歳だが、一昨年2月の「ナブッコ」(東京二期会公演)での張り切った躍動にあふれる指揮を聴いて以来、すっかりファンになってしまった。昨年の東京フィルでの「ローマ3部作」も良かったし(デノンからCDが出る)、この人は屈指の注目株だろう。
 昨年から、カルロ・フェリーチェ歌劇場の首席客演指揮者になったそうである。

 今回は当初予定の指揮者アロンドラ・デ・ラ・パーラの代役としての来日だったが、むしろ幸いだった。もしかして東京フィルは、このバッティストーニに対し、すでに何かを目論んでいるのか? 読売日響の事務局スタッフも客席に現われていた。争奪戦か。
 
 今日のプログラムは、バーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」の「シンフォニック・ダンス」と、マーラーの第1交響曲「巨人」。
 1曲目は、こちらの期待が大きすぎたか、獅子奮迅の勢いで飛び上がり暴れ回るバッティストーニの弾力抜群の指揮ぶりに比べ、オーケストラからはやや重さが抜け切れず、少々もどかしい感じもなくはなかった。途中からは、次第に響きにも躍動感が拡がって来たが。
 もっとも、この曲をジャズ的なスウィングたっぷりに演奏できるシンフォニーオーケストラなど、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルの最初のレコードを除けば、世界のどこにも存在しないだろうけれど。

 一方「巨人」は、若い情熱的な指揮者がその本領を発揮した快演となった。
 両端楽章では速めのテンポで東京フィルを限界まで高揚させ、青年作曲家マーラーの激情と熱狂とを余すところなく描き出す。まさに猛烈な体当り的演奏だったが、それにもかかわらず、演奏の形が少しも崩れず、作品の形式感が終始保たれていたことは、見事と言うほかはない。
 しかも第3楽章などの演奏には、すこぶる情感豊かなものが流れていたのである。
 端倪すべからざる指揮者だ。
   音楽の友3月号 演奏会評

1・31(金)パリ・オペラ座ライブビューイング ヴェルディ「アイーダ」

     ブロードメディア・スタジオ試写室 2時

 パリ・オペラ座の上演ライヴ映像の映画館上映「ライブビューイング」も、3月からまた開始されるとのこと。第1弾「アイーダ」の試写会を観る。

 これは、昨年10月10日から11月16日までの間に12回上演されたオリヴィエ・ピイ演出による新プロダクションで、この映像は11月14日の上演の記録。
 フィリップ・ジョルダンが指揮、オクサナ・ディカ(エチオピア王女アイーダ)、セルゲイ・ムルザエフ(同国王アモナズロ)、マルセロ・アルバレス(エジプトの将軍ラダメス)、ルチアーナ・デンティーノ(同王女アムネリス)、カルロ・チーニ(同国王)、ロベルト・スカンディウッツィ(大祭司ラムフィス)という、かなり豪華な主役陣。

 オリヴィエ・ピイは、今回の「アイーダ」に、ヴェルディの時代から20世紀に至る時代を混在させ、2つの国の政治的・軍事的な争いの中に埋没して行く人間たちの悲劇的な愛の葛藤を描きつつ、全てを支配し威圧する宗教的な権力の存在をそれに絡めて展開させた。そのコンセプトは、当を得ているだろう。
 従って服装も全て近現代的なものとなり、多少いかがわしくグロテスクな光景も散見されて煩わしい部分もあるけれど、ベルリンあたりで行なわれる殺伐たる演出に比べれば、はるかにマシな舞台である。

 舞台装置(ピエール=アンドレ・ウェイツ)と照明(ベルトラン・キリー)が大掛かりで凝った造りになっているのが面白い。一見、金ピカで豪華壮麗な大建築物ではあるが、時にアップで映されるその建物の細部には、意外に汚いところがある・・・・栄華の裡に潜む頽廃と腐敗の象徴、といったところか。
 群衆を含めた登場人物の服装が一応エリート集団(?)的なものになっているのも、この贅美な建物と合致したイメージとして納得が行く。

 演技はさほど微細とは言えぬまでも、まず中庸を得たものだろう。アイーダのディカが、いつも遠くを見ているような眼をして、心此処に定まらず、といった表情をしているのは演技なのか。もし演技だったのなら、これは相当細かい芸当というべきだが。

 正確な配役表やスタッフ・キャスト紹介資料といったものは今回の試写会では見られなかったが、3月からの一般上映の際には配布されるのだろうか? 松竹の「METライブビューイング」のような懇切丁寧な資料とまでは行かずとも、ふだんオペラに縁のないような人をも吸収するのが狙いの「映画館上映」であればこそ、みんなに解りやすい詳しい案内が欲しいところだ。
 上映時間は約3時間15分。

1・29(水)ユーリ・テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグ・フィル

   サントリーホール  7時

 2日続けて聴くのも何だが、ギア・カンチェリの「・・・・アル・ニエンテ(・・・・無へ)」という、テミルカーノフに献呈された大作が演奏され、それに失礼ながらこんな曲はおそらくもう二度と聴く機会はないかもしれぬ、というわけで。

 この曲は、2000年にオスロ・フィル、デンマーク放送響、エーテボリ響の共同委嘱により書かれた大編成の作品だ。しばしば休止を挟みながらためらいがちに歩み、時に爆発しながらも静寂を基調として、多彩な音色を散りばめつつ進んで行く曲想が印象に残るが、30分もの演奏時間を緊張感を失わずに保たせるのは些か無理だったかな、と思わないでもない。

 プログラムの後半は、チャイコフスキーの「第4交響曲」。速めのテンポと濃厚な表情で強靭に押して行く演奏はロシアの指揮者とオケの独特のものだ。これはもうこのコンビ特有のバランス感覚でまとまっている(やはり昨夜のラフマニノフは、どこかおかしかったのでは?)。
 アンコールには例のエルガーの「愛の挨拶」と、そのあとに何とストラヴィンスキーの「プルチネッラ」の中の「ヴィーヴォ」というユーモラスな小品が演奏された。こんな曲をアンコールにやるとは、珍しい。

1・28(火)ユーリ・テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグ・フィル

   サントリーホール 7時

 エリソ・ヴィルサラーゼが弾くチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」と、ラフマニノフの「交響曲第2番」を組み合わせたプログラムだったが、圧倒的に良かったのは協奏曲の方。
 グルジア出身の大ベテラン、エリソ・ヴィルサラーゼ・・・・最近はむしろ教育者として、あるいはコンクールの審査員として著名な存在になっているが、その彼女の生演奏を、今回は実に久しぶりに聴くことができた。

 うれしいことに、ヴィルサラーゼは健在だ。チャイコフスキーの難曲を、いとも容易いと言った雰囲気で平然と弾いてみせるのだが、その演奏にみなぎる緊張感とエネルギー感は素晴らしく、何よりも作品に対する彼女の豊かな愛情と共感が、情感にあふれた音楽をつくり出していたのである。
 アンコールに弾いてくれたショパンの「マズルカ作品68の2」も陰影の濃い演奏だった(3日にトリフォニーホールで行なわれるリサイタルは、文化庁関連の会議のために聴けないかもしれぬと諦めていたのだが、こうなったら、無理をしても聴きに行かねばなるまい)。

 この曲でのテミルカーノフ指揮するサンクトペテルブルグ・フィルが、また見事なこと。冒頭の豪壮な主題からして、ああロシアのオケの音だな、と思う。原色的で華麗でありながら、しかもどこかに澄んだ透明さが感じられる。ロシアの街で見た美しいパレフや、澄み切ったネヴァ河畔の光景を瞬時に思い出させてくれるのである。
 この「チャイコのピーコン」は、私はもともと好きではない曲なのだが、今夜のような演奏を聴くと、悪くはないなという気もする・・・・。

 ところが、後半のラフマニノフは、これはまた別の意味で不思議なことに、どうもサウンドにつかみどころがないのだ・・・・。聴き慣れた曲を、聴き慣れた席の位置で聴いていたのに、これほどオーケストレーションにまとまりがない曲だと感じたのは、初めてである。オーケストラは華やかに鳴っていたにもかかわらず、だ。何が原因だろう? 省略版が使用されていたため、演奏時間も50分程度になっていた。

 アンコールはシューベルトの「楽興の時」第3番。こちらは見事に哀愁がこもっていた。

1・27(月)ベルリン・フィルハーモニー八重奏団

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 ベルリン・フィル八重奏団は、すでに80年以上の歴史を持つという。
 最初の「来日公演」は、あらかじめ予定されていたものではなく、1957年11月にカラヤンとベルリン・フィルが初来日した際、日本の室内楽ファンの熱望に応じ、メンバーが休日を返上して急遽18日に九段会館で演奏会を行なったのだそうである。

 従って、次の1973年の来日が単独での日本公演ということになるが、その時の2月25日、日生劇場での演奏会を、私は当時のFM東京の番組「TDKオリジナルコンサート」のためにライヴ収録した。メンバーには、アルフレッド・マレチェック、土屋邦夫(当時)、ペーター・シュタイナー、ライナー・ツェペリッツ、ゲルト・ザイフェルト、フランツ・クラインらが加わっていた。
 その会場リハーサルの時に、私が彼らの前でマイクのスタンドを調整していると、いきなりメンバーの1人が――多分クラリネットのクラインだったと思うが、「何だ?」とばかり、顔をしかめ、笑いをかみころすような表情をして、私の胸元を覗き込んで来たのである。
 実は私はその時、東芝音楽工業から貰った、カラヤンの顔写真をあしらったネクタイ止めをつけていたのだ。たちまち「アハハ、こんなところにもいるぞ!」と、メンバーたちが騒ぎはじめた。私が冗談で「差し上げましょうか?」と言うと、彼らはいっせいに「いいよ、いいよ。いつも見てるから、もう結構だよ」と引いて行ったのであった・・・・。

 それから40年。現在のメンバーは、樫本大進、ロマーノ・トマシーニ、アミハイ・グロス、クリストフ・イゲルブリンク、エスコ・ライネ、ヴェンツェル・フックス、シュテファン・ドール、モル・ビロン。
 このメンバーでの最初の演奏会は、昨年3月27日、バーデンバーデンにおいてのことだったという。つまり、ラトルとベルリン・フィルの同地における最初のイースター音楽祭のさなかだったということになる。

 なにしろ、みんな上手い。ベルリン・フィルのメンバーだから上手いのは当たり前だが、とにかく威圧的なほどにうまい。
 そしてさらに興味深いのは、メンバーは変わっても、あのベルリン・フィルの特質が、40年前と全く同じ形で、そのまま引き継がれていることだ。がっちりと構築されたアンサンブルへの志向はいうまでもないが、どんなに自由な感興が入ろうと、生真面目で几帳面な音楽づくりがその底流を貫いている。
 ウィーン・フィルの楽員による八重奏団には、常に洒落っ気と艶やかさと自由さが醸し出されているものだが、こちらベルリン・フィルのそれには、常にきちんと整えなければ気が済まぬといった、強面の気風のようなものが感じられるだろう。やはり北ドイツのオケだな・・・・という感である。

 さて、前述の1973年来日の際、曲名アナウンスもなしに演奏されたアンコール曲にみんな驚き――何だこれは、R・シュトラウスの交響詩の室内楽編曲版か、それにしては随分端折っているじゃないか・・・・などと首をひねったものだが、それがハーゼンエール編曲「もう一人のティル・オイレンシュピーゲル」なる曲だった。今では、ちょっとしたファンならだれでも知っている編曲ものだろう。

 それが、今夜のプログラムの1曲目を飾っていた。よほど上手い人たちが演奏しないと、バラバラなイメージの曲に聞こえてしまうという難曲である。
 続く2曲目が、モーツァルトの「ホルン五重奏曲」。これら2曲では、ホルンのシュテファン・ドールの、ちょっと危なそうな時もありながら、しかし絶対崩れずにピタリと決める名人芸がとりわけ愉しめた。

 最後が、シューベルトの「八重奏曲」。
 第1楽章途中で、第1ヴァイオリン(リーダー)の樫本大進の楽器の弓(※失礼、弦でした。弓が切れるわけないです。とんでもない誤植でした)が大音響とともに切れ、演奏が中断する。張替えを終えて彼がステージに戻って来て、譜面のページを1枚元に戻し、さてどこからやるか・・・という表情で頭に手をやった時には、同じようにそれを考えていた満員の客席からも「さあどうするの?」という雰囲気の笑い声と拍手が湧く。結局彼が「もう一度初めからやり直させていただきます」とか言ったのか、今度は爆笑とともに盛大な拍手が巻き起こった。
 かくて、全曲1時間にも及ぶ長大な「八重奏曲」。豊麗でありながらきっちりと引き締まった、生真面目で端整な佇まいのシューベルト像を、私たちは存分に楽しんだのであった。アンコールはなし。
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1・25(土)ファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団 カール・オルフ・プロ

   NHKホール  6時

 オルフの「カルミナ・ブラーナ」は、演奏会でも比較的よく取り上げられるが、今回のA定期のように「カトゥリ・カルミナ」が一緒にプログラムに組まれる演奏会には、なかなかお目にかかれまい。
 なにしろこの2曲を併せてやると、合唱団には、2曲を出ずっぱりで歌い、しかも「カトゥリ・カルミナ」ではア・カペラで延々と変幻自在に歌って行かねばならぬというように、大変な力量を要求されるのだから。
 その意味では、今日の演奏者の中で、東京混声合唱団(指揮・松井慶太)の活躍は絶賛されてしかるべきだろう。

 その他の協演者は、「カトゥリ・カルミナ」では、ソロ歌手にモイツァ・エルトマン(S)とヘルベルト・リッペルト(T)、ピアノに梅田朋子、楠本由紀、成田良子、野間春美。また「カルミナ・ブラーナ」では、合唱に東京藝術大学合唱団と東京少年少女合唱隊が加わり、ソロ歌手にはエルトマンのほかにティモシー・オリヴァー(T)、マルクス・マルクヴァルト(Br)が加わった。

 「カトゥリ・カルミナ」は、ピアノと打楽器と声楽のみ、という編成だが、演奏者はすべて素晴らしい出来を示した。私のような素人からみると、合唱団がア・カペラであの複雑な音程を正確に、しかも美しく取って行くのを聴くと、いつもただ感嘆するしかないのだが、この曲でも絶叫したり笑ったり、拍手をしながらはやし立てるという趣向を織り交ぜつつ、多彩に見事に歌ってくれた。
 リッペルトは音叉のようなものを持って時に音を確認していたように見えたが、彼もエルトマンとともに好演。
 とりわけ、ルイージの持って行き方がすこぶる巧い。やはりこの人はオペラの指揮者なのだな、という印象をますます強くする。

 字幕は使用されず、歌詞対訳の小冊子が配布されたのみ。細川哲士さんの訳文が、昔のレコードについていたような漢語調のものとは違い、かなりくだけたスタイルであり、まして序幕は放送禁止用語(?)の羅列だから、これを字幕で表示するのは、N響としては、些か躊躇ったのかもしれない。さてそうなると、これをNHKのテレビが放送する際にはどんな字幕をつけるのか・・・・興味津々。

 「カルミナ・ブラーナ」では、ルイージは、速めのテンポで、しかも軽めのリズム感で、極めて快調にたたみこんで行った。アッチェランドの呼吸など、さすがのものがある。特に第1部での反復の個所などでは、間をおかずに追い込んで行くところも多く、「息を抜く間のない」演奏だったのはたしかだろう。
 だがその一方、やや急ぎすぎる感もある。このように軽く勢いよく飛ばされると、「運命の女神が回す車輪」の重圧や不気味さ、あるいはそれに操られる人間たちの悲喜劇、という作品の性格が薄められてしまう、という傾向もあったのである。

 合唱団の活躍も見事だった。
 声楽ソリストでは、バスのマルクヴァルトにもう少しえげつない(?)荒々しい力のようなものが欲しいところだろう。テノールのオリヴァーは、例の「焼かれる白鳥」を歌い出す際に椅子から突然ピョンと飛び上がり、がに股で仁王立ちになるという大芝居を見せたが、そのあとの歌唱は、彼の端整な風貌と同様に真面目なものであった。
 最も輝いていたのは、やはり爽やかな表情の歌唱を聴かせたエルトマンだったろう。最後の法悦の声も、伸びのある高音で美しく響かせてくれた。

 「カルミナ・ブラーナ」を、1950年代に日本初演したのは、このN響だった。指揮は当時の常任、ニクラウス・エッシュバッハーだったはずである。あの人のレパートリーはかなり先鋭的だった。私はラジオで聴いた記憶があるものの、ほとんどうろ覚えでしかない。だが世評では、やたら面白い曲だと好評だったらしく、数年後にウィルヘルム・シュヒターの指揮でも取り上げられた。その時のテレビ放送で、シュヒターが例の「ご飯のかきこみ」スタイルで生真面目に指揮していた姿が、今でも脳裏に焼きついている。
    モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

1・25(土)ヴォルフ・ディーター・ハウシルト指揮新日本フィル

   すみだトリフォニーホール  2時

 シューベルトの第4交響曲「悲劇的」、ブルックナーの第4交響曲「ロマンティック」というプログラム。
 もともと重厚な音をオーケストラから引き出すドイツのベテラン指揮者だが、今回はそれがいっそう強くなったかな、と思わせるような演奏になっていた。

 1曲目の冒頭から、大地を轟かせるがごときどっしりした分厚い音が響き出す。これがシューベルトか、と驚くような開始だが、それと同時に「悲劇的」の標題にふさわしい世界が拡がりはじめ、まさしく彼がベートーヴェン的なパトスと、ロマン主義的な神秘性とを兼ね備えた作曲家であることが浮き彫りになって行く。

 あまりの重さ、暗鬱さに息苦しくなるが、その演奏スタイルを反時代的などと片づけるのではなく、むしろシューベルトの特質の一面を描き出す貴重な解釈として受け取ってみたい。しかもそういうスタイルゆえに、シューベルトの交響曲をブルックナーのそれと組み合わせて演奏するということの意味が、いっそう明確になって来るだろう。

 一方、ハウシルトが指揮するブルックナーを聴くのは、4年前の「9番」以来だ(あの時は、アイネムの「ブルックナー・ディアローク」という、とてつもなく面白い曲が一緒に演奏されていた)。その時の演奏に比べ、ますます重く、遅くなって来た、というのが今回の「4番」の演奏の印象である。
 よく響く低音を基盤に組み上げられた壮大な音響、何の外連も小細工もない悠然たる歩みの風格。アンサンブルにはある程度の自由さがあり、それもドイツの老練指揮者ならではの個性だろうが、しかし第3楽章のスケルツォ部分の最後の昂揚個所などでは、新日本フィルの金管と弦との調和の取れた最強奏は見事だった。

 第4楽章のコーダでは、チェリビダッケそっくりに、弦の刻む4分音符を一つ一つ明確に弾ませながら、ゆっくりとクレッシェンドさせて行く。チェリのような強靭で引き締まった響きは望めなかったものの、しかし、今なお「わが道を往く」ハウシルトの指揮をたっぷりと堪能させてもらったのは有難いことであった。遅いテンポゆえ、演奏時間もおそらく80分近くを要したのではなかったか?

1・24(金)ユーリ・テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグ・フィル

    文京シビックホール大ホール  7時30分

 マーラーの第2交響曲「復活」が、二期会合唱団、森麻季(S)、坂本朱(A)との協演で演奏された。

 最近のテミルカーノフに特有の、どっしりとしたイン・テンポの風格で、マーラーがスコアに書きこんだ細かいテンポや表情の変化などにも――無視しているわけではもちろんないけれども――表向きは(?)あまり拘泥せず、ひたすら巨人的な歩みを進めて行く、といったタイプの指揮である。従ってマーラーの音楽にある神経的な痙攣やヒステリックな激情、とめどなく浸る法悦感などの特徴などはさほど表面には顕われず、専ら巨大なエネルギーが堂々と驀進して行くようなイメージが感じられることになろう。

 そのテミルカーノフの指揮に反応するサンクトペテルブルグ・フィルの演奏は、例によって、すべてが「大柄」だ。
 全曲冒頭、ヴァイオリンとヴィオラのフォルティシモのトレモロが、叩きつけるような音よりもむしろスッと滑り込むような感じで始まったので、テミルカーノフもオーケストラも少し優雅になったのかと思ったが、それもほんの一時のこと。次の瞬間、下手側から咆哮を開始したチェロとコントラバス群のfffの何と荒々しく、物凄いこと! これで、演奏の方向が決定づけられる。

 ティンパニの歯切れのいい豪打も凄まじい。ホールの残響の少ないことも手伝って、全ての音が生々しく、強靭で鮮烈だ。
 私はそういうオーケストラの音や、そういうタイプのマーラー演奏は嫌いではないし、むしろ微温的でメリハリの無い穏やかな演奏なんかよりも遥かに好きなので、それからの1時間半近く、全曲を大いに楽しんだ。
 ただし上手側の舞台前方に比較的近く位置していたトランペットの1番奏者は、いつもに似ず、今日は何故か粗っぽい吹き方だったが。

 第5楽章での舞台裏からのバンダは実に巧く、舞台上の本隊よりよほどアンサンブルも見事じゃないか、と感心して聴いていたのだが、カーテンコールで表に現われたのを見たら、みんな読売日響の奏者たちだった!

 声楽ソリスト2人は、舞台前方、指揮者の横に位置した。これは良し悪しだろう。アルトのパートは明確なソロというイメージが強いからそれでもいいとしても、ソプラノのソロは、最初は最弱音の合唱と一緒に歌い出し、やがてそこから抜け出すように高く高く上昇して行くように書かれているのだから、最前方で歌っていると、どうもそのバランスがおかしくなってしまうのである・・・・。

 なお今回は、合唱の後半で、合唱団員をいかにも感動抑えがたく我も我もと次第に復活の讃歌に参加して行くかのような表情でバラバラと立ち上がるという演出が採られていた。これは以前にも見たような光景だが、指揮者が誰だったか、記憶が定かではない。
 なお余談ながら、最後の陶酔的に昂揚するクライマックスでは、2人のソリストも大合唱と一緒に歌うようスコアには指定されていて、その光景はやはり演出効果満点で、当然あるべき姿だろう(今回ももちろんそうだった)。
 だが、かなり昔、サンクトペテルブルグでゲルギエフがこの曲を指揮した時に、ソリストを座らせたまま、合唱に参加させずに締めくくったことがあり、それは視覚的に何とも迫力を欠く光景で、大いに疑問を感じたものであった。

 ちなみに、その時に歌っていたソプラノこそは、まだ世界には全く知られていなかった頃のアンナ・ネトレプコだったのである・・・・。私の当時の日記には、たった1行のメモが残っている――「ゲルギエフのイチ押しという、アンナ・ネトレプコという若いソプラノを聴く。可愛い」。

1・20(月)クリスチャン・ツィメルマン・ピアノ・リサイタル

    サントリーホール  7時

 この日が最終公演の一つ前の演奏会にあたっていた。昨年11月の腰痛を克服し、12月10日の福岡からツァーを開始、以降横浜、西宮、所沢、三原、東京(トリフォニー)、東京(武蔵野)、札幌――と来て、この日のサントリーホールとなったわけである。
 このあとは23日のフィリアホールと続き、それで今回のツァーを終る。

 プログラムは、すべてベートーヴェンの最後の3つのソナタ(30、31、32番)だ。何度も弾きながらも、おそらくそのどれ一つとして、同じ演奏にはならないだろう。彼の感覚の中では、すべてその都度、新鮮な作品として鳴り響いているに違いない。そして、聴くわれわれも――。

 「第30番」が始まった瞬間、何と新鮮で、瑞々しい表情にあふれているのだろう、と一気にツィメルマンの、ベートーヴェンの音楽に引き込まれてしまう。3つのソナタの1曲ずつが、ある部分で共通するモティーフを持ちながらも、全く異なった表情で立ち現れるベートーヴェンのその精妙な音楽を、ツィメルマンがまた何と鮮やかに弾き分けていることか。

 最後のソナタ3曲を一晩に聴くリサイタルは、これまでにも何度か聴いたことはあるが、今夜ほど息をつめてそれらの世界に入り込んだことは、かつてなかった。帰りがけに知人が「もうこれで当分ピアノ・リサイタルに行かなくてもいい」と呟いていたのも、むべなるかなと思うが・・・・ただ私自身は逆で、むしろいっそうピアノが聴きたくなっていたのである。
 だが、「32番」が終って、プログラムはかなり短いものではあったが、そのあとにアンコールなど弾かなかったことは、さすがツィメルマンであった。この「第32番」のようなピアノ・ソナタのあとにつけ加えられるべき音楽があるとは思えないからである。

1・19(日)新国立劇場 ビゼー:「カルメン」初日

    新国立劇場オペラパレス  2時

 2007年11月にプレミエされた鵜山仁の演出によるプロダクション。
 
 今回はアイナルス・ルビキスというラトヴィア出身の若手が東京交響楽団を指揮した。主役4人のうち3人は外国人若手歌手で固め、ミカエラには前回に続き浜田理恵が登場。

 3人の中では、まずエスカミッロを歌い演じたディミトリー・ウリアノフ(ロシア出身)が長身で見映えある舞台姿で、声にも物凄い馬力がある。ヴェルディやロシアもののバスを歌ったら、さぞかし凄みが出るだろう。
 ドン・ホセはガストン・リベロ(ウルグアイ系米人)がソツなくこなしたが、最後の殺し場で些か迫力を出したところからすると、もし活気ある演出と指揮で歌い演じたなら、もっといい味を出す人なのかもしれない。

 題名役カルメンのケテワン・ケモクリーゼ(グルジア出身)は可愛い美女だが、声があまり豊かに響かず、特に弱音に響きがないので、ドラマの中心人物としては、未だ存在感に不足する。若いから、すべてこれからだろう。それに姫さま、カルメンを志すなら、カスタネットくらいはご自分で鳴らしなさいませ。・・・・ついでながら、今日のオケ・ピットの中から聞こえたカスタネットは、全然生気のない自信無げな鳴らし方で、ハラハラさせられた。

 一方日本勢では、ミカエラの浜田理恵が今回も味のあるところを聴かせたが、純粋で初々しい少女という役柄を出すにはちょっと・・・・。
 スニガ役の妻屋秀和が持ち前の巨体でホセのリベロを圧倒、なかなかのパワーだ。ダンカイロの谷友博もいい。他にレメンダードの大野光彦、フラスキータの平井香織、メルセデスの清水華澄、モラレスの桝貴志らが共演していた。

 新国立劇場合唱団は、「煙草工場の女工たち」が歌唱も容姿も実に生き生きしていて、主役のカルメンを霞ませていた。子供たちにはTOKYOFM少年合唱団が出演したが、これも達者なもので、オペラがここまで出来る少年合唱になろうなどと、創設当時はだれも予想していなかっただろう。

 指揮者のアイナルス・ルビキスは、どうもまだよく解らない人だ。冒頭の「前奏曲」をはじめ、快速テンポで勢いよく飛ばす個所も多いが、登場人物の複雑な心理が交錯するやりとりの個所でも、テンポを全く加減せずにイン・テンポで押し飛ばしてしまうので、ドラマの音楽としては陰影に乏しくなるきらいもある。その一方で、「手紙の二重唱」に象徴されるホセの「故郷の母と恋人への想い」の主題などでは突然極度に遅いテンポになるので、ドラマの緊迫度を薄め、音楽の進行上のバランスをも崩してしまうことも多い。
 こういうところは、単に若いということだけで片づけられる問題とも思えないのだが・・・・。

 鵜山仁の演出は、トラディショナル系であること自体は悪いことではないが、ドラマとしての演技は著しく中途半端で、旧態依然たるものだ。概して客席を向いて歌う「定まりの型」が採られているし、しばしばジプシーや兵士や市民たちが所在なげに突っ立ったままになる場面も少なくない。
 こういう緊迫感のない舞台は「賞味期限切れ」以前の問題だろうが、ただ今回は再演なので、彼が直接タッチしていたかどうかは、私にはわからない。「再演演出家」が全部担当していたとすれば、その人が出演者全員をどこまで実際にコントロールできていたかによるところが大きかったかもしれない。

 休憩2回を含め、5時40分終演。さすが日曜日のマチネー、客は良く入っている。

1・18(土)下野竜也指揮読売日本交響楽団の「編曲もの」第2弾

   東京芸術劇場  2時

 何か今年になって読響ばかり聴きに行っているみたいだが、たまたま私の個人的好みに合ったプログラムばかり並んでいたのだから仕方がない。今日のプログラムも、首席客演指揮者の下野竜也が、面白そうな編曲ものを集めて指揮するというので、飛んで行った次第である。

 そのプログラムたるや、バッハ~オネゲル編の「前奏曲とフーガ BWV545」、バッハ~マックス・レーガー編の「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」、バッハ~ホルスト編の「ジーク風フーガ BWV577」、バッハ~ヨアヒム・ラフ編の「シャコンヌ」、そして最後にムソルグスキー~ヘンリー・ウッド編の「展覧会の絵」・・・・という、まずナマの演奏会では一生に一度聴けるかどうか、という珍しいバージョンばかりだ。
 常にこういうユニークなレパートリーを掘り起こして紹介して行こうという下野さんの姿勢には、私は最大限に敬服、共感するし、またそういう演奏会を実施する読売日響の姿勢をも評価したいと思う。

 それにしても皮肉なのは、今週火曜日のカンブルラン指揮の定期が、客の入りが6割程度だったのに対し、今日はほぼ満席の入りだったこと。土曜日のマチネーという強みもあるのだろうが。

 バッハの編曲作品については、マエストロ下野がプレトークで話していたことでもあるが、たとえばバッハの作品がその時代にどう受容されていたか、そして各編曲者がバッハの作品を通じてどのように自己を表現していたか、などといった様相が窺える点でも、たしかに興味深いものがある。
 マエストロはこの4曲を、恰も4楽章制のシンフォニーのような形式で配列してみた、と語っていたが、それはたしかに彼の凝り性を如実に表わす趣向ではあるものの、実際に聴いた感じでは、まあ、それはそれで、といったところ。
 私としては、やはりオネゲルの編曲はその多彩な音色の変化において群を抜いていたし、ラフの編曲はやはり19世紀の感覚を反映してロマンティックで不気味な(!)響きを感じさせた、ということが強い印象として残った。

 ヘンリー・ウッドが管弦楽に編曲した「展覧会の絵」は、1915年に作られながら、その7年後に作られたあのラヴェルの有名な編曲版のためにすっかり霞んでしまった気の毒な存在だが、ナマで聴いてみるとメッポウ面白い。
 冒頭が全金管群のテュッティで開始されるところなど、もしかしてラヴェルはこれを聴いたことがあって、「ならば俺はトランペットだけで始めて見せる」とでも思ったのかな、という想像も生まれて来る。

 そのラヴェルの、あまりにも洗練されすぎたオーケストレーションに比べると、こちらウッドのそれは多少品のない音づくりだが、しかし面白い。
 「ビドロ」での、まるで牛が角を振り立てつつ暴れながら牛車を牽いて突進して行くような、コミカルなリズムと管弦楽法。「バーバ・ヤガーの小屋」での、ストコフスキー編曲版を上回る凶暴で怪奇な響き。あるいは「キエフの大門」での、9つの大小の銅鑼が音階的に鳴り渡る音色のユニークさ。時には妙なところでシンバルが一撃され、あるいはオルガン席に配置された金管が妙なるエコー的な響きをつくり出す。曲中の「プロムナード」が、大半カットされていたことも、この編曲版の特徴の一つだろう。
 聴き慣れたラヴェルの編曲版と比べ、ニヤニヤしたり驚いたりする愉しさが、あちこちにあふれていたのだった。

 こういう「珍曲」を、ただ取り上げるだけでなく、正面切って、しかも活気あふれて引き締まった演奏で聴かせるところが、下野竜也の身上だ。読響も巧い。

1・16(木)ファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団 B定期

   サントリーホール  7時

 ルドルフ・ブッフビンダーをソリストに迎えてのモーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番」、後半にブルックナーの「交響曲第9番」。つまり、ニ短調の作品2つ、というプログラム。

 こんな事故も久しぶりだな、と呆気にとられたのが、協奏曲での出来事。
 第1楽章も終りに近づき、間もなくカデンツァに入るというところで、ピアノ・ソロとオケとがみるみる合わなくなり、異なる楽想がぶつかって妙な不協和音が響き始めたと思ううちに、演奏が止まってしまった。
 ホール内は息の詰まるような沈黙に包まれたが、しかしそれもほんの数秒のこと。ルイージがかなり大きな声で再開個所をオケに告げ、カデンツァに入る直前の明確なフォルテの個所からオケの演奏を再開すると、ブッフビンダーもソロの演奏に入って、そのまま何事もなかったように全曲の最後まで協演を続けて行った。

 名匠にしてこの錯覚あり。直後のカデンツァの個所では、ブッフビンダーも動揺を覆い隠せなかったようで、その演奏がハラハラさせられるほど不安定に聞こえたのも、止むを得ないところだろう。だが次第に彼もいつもの落ち着いた風格の、重心のあるどっしりしたスタイルのモーツァルト演奏を取り戻しつつ、ともかく全曲を乗り切り、堂々と締め括った。
 聴衆もとりあえずほっとして拍手。彼もこの聴衆の温かい態度に安心したのだろう、何となくお詫び的な雰囲気も漂うアンコールとして、彼がいつも弾くJ・シュトラウスの音楽の編曲ものを披露したのであった。

 世界の名演奏家といえども人間、時にこういう錯覚の事故を起こす・・・・とは噂としてはよく聞く話なのだが、それをこのように目の当り見たのは、私も久しぶりであった。
 といっても、これまで私が遭遇したソリストの「事故」といえば、ある女性ピアニストがモーツァルトの協奏曲の途中で一瞬止まってしまった事件、別の女性ピアニストがドビュッシーの「月の光」で堂々巡りを始めてしまった事件、また、ある若手女性ヴァイオリニストが客席前方にいた老人客の無遠慮な物凄い咳払いにびっくりして演奏を一瞬止めてしまった事件、など、比較的「軽度」なものばかりだったが・・・・。
 オペラの舞台での事件は、これはもう山ほどある。しかしオペラの場合には、舞台装置にしても歌手にしても、笑い話で解決されることが多いものだ。

 話をN響定期に戻す。ブルックナーの「第9交響曲」は、まず予想通りの演奏というべきか。この作曲家の最晩年の、鬼気迫る悪魔的な激情(第1・2楽章)と、澄み切った壮大な叙情性(第3楽章)とが組み合わされた未完の大交響曲も、ルイージの指揮では、どれほど激しく咆哮怒号しても決して深刻にならず、常にどこかに晴れやかな空を探し求めて彷徨う精神の悩みのようなイメージに聞こえる。言い方を換えれば、ドイツ系の指揮者がやるような理詰めのブルックナーと違って、ある種の楽観的な自由さが感じられるブルックナーなのである。
 少なくとも今夜の演奏に関する限り、モーツァルトの第1楽章提示部の方が、遥かに「ニ短調」らしい暗澹たる魔性のようなものを感じさせていた、と言えるかもしれない。

 アンサンブルの構築にしても、今夜の演奏では、緻密さはそれほど聞かれず、むしろあちこちに隙が多かった。だが、最強奏――第1楽章提示部と再現部での第1主題、および同楽章コーダでの――は、さすがに豪壮で、N響ならではの力感を全開していた。
    ☞音楽の友3月号 演奏会評

1・15(水)オーケストラ・アンサンブル金沢東京公演

   紀尾井ホール  7時

 恒例のニューイヤーコンサートのツァー。今回は1月8日から20日までの間に、金沢・射水・東京・大阪で公演というスケジュールだ。
 指揮はもちろん音楽監督の井上道義。ソリストには、藤木大地(カウンターテナー)と中村恵理(ソプラノ)が迎えられていた。

 第1部をヘンデルの「水上の音楽」抜粋、「リナルド」と「セルセ」からのアリアや二重唱、「合奏協奏曲作品6の12」で固め、第2部ではJ・シュトラウス2世の「こうもり」から2つのアリア、オッフェンバック~ロザンタールの「パリの喜び」の最終部分(「カンカン」と「ホフマンの舟唄」)、再びJ・シュトラウス2世の「ヴェネツィアの一夜」から「序曲」と「ほろ酔いの歌」、最後に「美しく青きドナウ」を演奏、アンコールにヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」を加えるというプログラムである。

 オーケストラは、シリアスな作品である第1部の方が緻密な演奏だったのは当然の成り行きか。
 だがいずれにせよ、指揮者なしでも良いアンサンブルが可能という豊かな自発性が至る所に感じられるのが、このOEKの特徴である。「水上の音楽」をオーケストラだけで開始、途中から指揮者の井上が加わるという趣向を最初に見せたのも、彼らみずからそれを誇示しようという狙いがあったからであろう。
 とりわけ弦楽器の音色が艶やかなのも、このオケの美点だ。コントラバスが爽やかによく響き、オーケストラ全体に安定感を与えている。

 それに、今夜はソリストもよかった。
 ボローニャ歌劇場で歌い、先日の日生劇場での「リア」でも歌っていた藤木大地の安定した伸びの良いカウンターテナー。
 そして、バイエルン州立歌劇場のソリストでもある中村恵理の明晰なドイツ語の発音による軽快なソプラノ。
 いずれも惚れ惚れするような、胸のすくような見事な歌唱だ。外国の歌劇場で名を挙げているこうした若手歌手がいるのは、本当にうれしいことである。彼らの本領が発揮される舞台が日本でも観られ、聴けるようになる日を心から待ちたい。

 そこまではいいのだが、今夜もまた、開演前のロビーに、見渡す限りずらりと並んで、入って来る一般客をじろじろ見つめている黒服の男たち。特定の来客(スポンサーだろう)を見かけると駆け寄って挨拶するのはご勝手だが、一般客にとっては、この雰囲気は感じの悪いことこの上ない。OEKの東京公演は、いつもこの調子だ。今、東京公演でこんな野暮ったいことを続けている地方オケは、OEKだけである。もういい加減にして、もっとスマートにしたらどうか。
※コンサート・メモをひっくり返してみたら、もう過去何年か、OEK東京公演のたびに同じことを書いているのに気がついた。根競べですね。こちらが聴きに行くのをもうやめればいいのかも。

1・14(火)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

   サントリーホール  7時

 G・ガブリエリの「カンツォーナ」、べリオの「フォルマツィオーニ」、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」というめずらしいプログラムだが、カンブルランの選曲眼の良さと、楽器配置の妙による音響演出の巧みさが印象づけられたコンサートになった。

 「カンツォーナ」は、「サクラ・シンフォニア集」からカンブルラン自身が編曲構成したものだそうで、ノン・ヴィブラート奏法を存分に生かして艶やかなオルガンのような響きをあふれさせ、かつ木管・金管・弦の3群に分けた小編成のオーケストラを、不思議な快いバランスで調和させた。
 更に面白かったのはべリオの作品で、大編成のオーケストラを一風変わった配置にし――それはすでにべリオのオリジナル・アイディアだったそうだが――、たとえば指揮者のすぐ左側に木管楽器群を、その後方に第1ヴァイオリンを並べるといったように、音響の上でもすこぶる特殊な効果を生む舞台を構築する。しかも管弦楽にはべリオならではの多彩な音色と響きが満載され、分厚い音の層が刻々と動いて行くという、聴き手に一種の法悦感を抱かせる作品なのである。

 これら2曲でカンブルランが対比させた「音」の面白さは、まさにナマ演奏の場でなくては体験できないものだろう。

 このユニークな音響演出が、後半の「イタリアのハロルド」のような作品でも試みられたのには驚いたり、感心したり。
 つまり、第4楽章途中で早々と出番のなくなるヴィオラのソロ(鈴木康浩)が突如退場、しばらくするとP席の一隅に再び姿を現わし・・・・という趣向があったのだ。なるほどこれなら、「山賊たちに殺されたハロルド」が別の世界に行ってしまった、というストーリーが解りやすくなる。
 「ベルリオーズはヴィオラをソリストにした交響曲をつくりながら、途中でそのソリストのことを忘れてしまったらしい」(ヴィオラの名手ユーリ・バシュメットの皮肉)というこの曲の問題点を鮮やかに解決するものとして、これは見事なアイディアというべきであろう。

 さらに、P席オルガンの下に弦楽器奏者3人を配置し、あたかもハロルドの魂が別世界から山賊たちの咆哮に答えるといった趣をもつくり出し、これもすこぶる印象的な音響効果を生み出していた。
 そしてもちろん、鈴木康浩の豊麗でスケールの大きな雄弁なソロも見事だったし、カンブルランが読響から引き出した色彩的な千変万化の音色も素晴らしいものであった。第2楽章――ここで採られた遅めのテンポは、さすらうハロルドの姿に極めてふさわしかった――でフレーズごとに反復される管楽器群の暗い和音の音色など、印象的であった。

 カンブルランと読響、昨年よりもさらに呼吸も合致して、いま最高の状態に在るようである。

1・12(日)ロジェ・ムラロの「ラヴェル・ピアノ(ソロ)作品全曲演奏」

   トッパンホール  3時

 という触れ込みで組まれたプログラムは――第1部が「亡き王女のためのパヴァーヌ」「ソナチネ」「ハイドンの名によるメヌエット」「クープランの墓(6曲)」「プレリュード」「夜のガスパール(3曲)」(以上70分)。
 第2部が「水の戯れ」「鏡(5曲)」(以上35分)。
 第3部が「グロテスクなセレナード」「古風なメヌエット」「ボロディン風に」「シャブリエ風に」「高雅で感傷的なワルツ」「ラ・ヴァルス」(以上40分)。
 それぞれの間に45分と10分の休憩時間がおかれ、演奏終了は6時20分頃。オペラ並みの長尺演奏会である。

 長身のムラロの、大きな大きな手が、鍵盤の上を激しく荒々しく舞う。
 千変万化の音色の妙には先日も感嘆させられたばかりだが、デュナミークの多彩な変化にも舌を巻かされる。たとえば「ラ・ヴァルス」での、高音域での左手による短い音型がフォルテでぱっと閃いたかと思うと急速にディミヌエンドして消える、そのあたりの呼吸など、目も眩むばかりの鮮やかさだ。

 ムラロのラヴェルは華麗だが、決して甘美な官能に陥ることなく、むしろ強靭な躍動感にあふれ、時には恐ろしいほど攻撃的なものになる。冒頭の「亡き王女のためのパヴァーヌ」が開始された瞬間から、べとついた感傷性の全くない、といって乾いた無機的なものも全くない、力強い肉感性のようなものを感じさせるその演奏が、今日のラヴェル・プロの演奏全体のコンセプトを予告していただろう。

 休憩を含め3時間半近くに及んだプログラムを、ムラロはすべて暗譜で弾いた。しかも、恐るべきエネルギーを最後まで失わない。彼が最終曲目の「ラ・ヴァルス」を、それこそ狂瀾怒濤の大乱舞のような激しさで豪快に弾き終った時には、満員の客席からは、ピアノ・リサイタルでは珍しいほどのブラヴォーの歓声が起こったのであった。

1・11(土)アレクサンドル・ヴェデルニコフ指揮NHK交響楽団

   NHKホール  3時

 ロシアの俊英、一頃は名門ボリショイ劇場の音楽監督をも務めていたアレクサンドル・ヴェデルニコフが客演指揮。

 彼の指揮を聴くのは、私にとっては、そのボリショイ劇場来日公演(2009年)の「エフゲニー・オネーギン」と、昨年の東京二期会公演「マクベス」以来である。
 プログラムは、グラズノフの「演奏会用ワルツ第1番」、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはジェニファー・コウ)と「眠りの森の美女」抜粋――というものだったが、彼の指揮、今回もなかなか良い。
 演奏の構築設計における「持って行き方の巧さ」はさすがで、やはりこれは、劇場指揮者としてキャリアを積んだことのたまものだろう。

 何より魅力的なのは、その引き出す音楽に、いかにもロシア的な色彩感があることだ。ロシアのマトリョーシカやパレフのデザインに見る、あの華麗に織り成された色彩を想像させる音が、N響からあふれ出て来るのである。それは野性的で、時に荒々しく、どぎついほどの色合いを感じさせることもある。
 ホールの音響にもっと瑞々しさや豊かな拡がりがあれば、おそらく今日の3倍か4倍もの色彩の幅が感じられたであろう。だが、「眠りの森の美女」の音楽に、チャイコフスキー円熟期の贅を尽くした管弦楽法があれだけ生々しく再現されていたのなら、それでもう充分かもしれない。
 良い指揮者である。

 ソリストのジェニファー・コウ。韓国系アメリカ人。彼女のナマの演奏は、本当に久しぶりに聴く。もしかしたら、あの20年前のモスクワ・チャイコフスキー国際コンクール本選の時と、その直後に日本ツァーをやった時の演奏以来かもしれない。
 あのコンクールの時には、1位なしで、第2位をチェボタリョーワと分け合ったが、聴衆の人気は圧倒的に17歳のコウの方に集まっていた。何しろ、彼女の全身全霊を傾けた体当り的な熱演が素晴らしく、チャイコフスキーの協奏曲の第1楽章が終った時には、モスクワ音楽院大ホールを埋めた聴衆からホッと吐息が漏れたほどだったのである。

 あれからちょうど20年、彼女の演奏は、昔と同じように元気がよく、エネルギー感充分で、第1楽章のあとには拍手も起こるくらいの情熱的なものではあったが、・・・・ただ、不思議にもう一つ演奏に「色」が感じられないのは、何に起因するものなのだろう? 
 もしかして、いまさらチャイコフスキーでなく、彼女が最近力を入れているという現代音楽でもやってもらった方が、よほど「今のジェニファー・コウ」の本領が聴けたかもしれぬ。

1・8(水)カンブルラン指揮読売日響+ロジェ・ムラロ

   東京オペラシティコンサートホール  6時30分

 シューマンの「マンフレッド」序曲と「ピアノ協奏曲」(ロジェ・ムラロのソロ)、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」と「スペイン狂詩曲」という組み合わせ。

 このプログラムは、異なる会場で3日連続で演奏されているが、2日目にあたる今夜は、読響の「東京オペラシティ・プレミアムシリーズ」として、本体の7時からのプロの前に、別のプログラムがオマケのような形で追加されていた。
 つまり6時半から、ロジェ・ムラロが読響メンバーと協演して室内楽を演奏するという、ちょっと贅沢な趣向があったのである――最初に藤井洋子(首席クラリネット)とのデュオでシューマンの「幻想小曲集」、次にダニエル・ゲーデ(新コンサートマスター)とのデュオでバルトークの「6つのルーマニア舞曲」が演奏された。

 何しろムラロの紡ぎ出すピアノの、透明で明るい、洗練されて艶やかな音色、しかも温かい情感を漂わせた音楽は、いつまでも聴いていたいほどの誘惑に駆られる。「幻想小曲集」での優しさ、協奏曲での思いがけぬ骨太で豪快な力を備えた表情も素晴らしく、ソロ・アンコールで弾いたバッハとラヴェルの作品での陰影に富むスケール感も、この上なく魅力的であった。出だしのところを、しばしばちょっと抑え気味のテンポで、ゆっくり語り始めるように弾くのが、彼の独特の癖なのか。
 今度の日曜日にはトッパンホールで、ラヴェルの「ピアノ作品全曲演奏」(!)をやるというから、これも聴きのがせまい。

 カンブルランも、そのシューマンの協奏曲では、曲をたっぷりと歌わせた。第2楽章第28小節からの、あのチェロがピアノとともに歌い上げる個所など、スコアにあるエスプレッシーヴォの指定そのままに、音楽が本当に「豊かに」盛り上がる。彼の手にかかると、シューマンの管弦楽曲も晦渋なヴェールを剥ぎ、不思議な爽やかさを以って蘇るから面白い。

 後半のラヴェルとなると、これはもうカンブルランの独壇場だ。彼のラヴェルは、読響常任就任直前(2009年春)に指揮した「クープランの墓」や、2012年に指揮した「ダフニスとクロエ」など、これまでにもいくつかの快演が披露されて来た。そのたびに私は、読響があれほどの官能的で華麗な色彩感をよくあそこまで出したものだ、と舌を巻いたものである。ちょっと無骨で重いところはあるけれども、とかく「色」がないと批評される日本のオーケストラも、指揮者次第ではどんな音でも出せるのだ――ということの実証だろう。
 今回の2曲でも同様であった。ただ、このホールは、ふだんから巨大な音量を以って鳴る読響にとっては、些か空間的な制限があり過ぎるような・・・・赤坂や池袋のホールであったなら、更に伸びやかな響きが聴けたろうと思う。

 なお、この2曲で、――特に「高雅で感傷的なワルツ」で、各曲をあたかも組曲風にちょっと間を空けて演奏するのは、作品の統一性が損なわれるような気がして、私はどうもあまり好きではないのだが・・・・。カンブルランがやるのだから、フランス人の指揮者がやるのだから、という権威(?)だけでは納得できぬ類のものだ。デュランのスコアには、たしかにアタッカとは書いてないが、各曲の最後の小節を見ると、いかにもアタッカ同然と思えるような表示がなされているのだし・・・・。

 だがこの曲でカンブルランが、最後の「エピローグ」を、かなり遅いテンポで、各楽器のパートを念入りに仕立て、やや物々しい解釈を採っていたのが面白い。そのためこの部分は著しくミステリアスな雰囲気となり、この曲の思いがけぬ怪奇な側面を浮き彫りにする結果を生んでいたのである。

2014・1・3(金)NHKニューイヤーオペラコンサート

   NHKホール  7時

 恒例のNHKニューイヤーオペラコンサート、今年は第57回。

 出演歌手は22人で、昨年の27人より減少し、一昨年の21人並みとなった。うち女声が13人、男声9人。女性優位なのは昨年(女声17、男声10)と同じで、わが国のオペラ界の趨勢を示しているのかもしれない。

 出演歌手の名を記して賞賛することにしよう。安藤赴美子、大村博美、木下美穂子、幸田浩子、腰越満美、佐々木典子、砂川涼子、中村恵理、森麻季、谷口睦美、林美智子、藤村実穂子、山下牧子、藤木大地、小原啓楼、錦織健、福井敬、村上敏明、与儀巧、久保和範、堀内康雄、妻屋秀和。
 これに下野竜也指揮東京フィル、二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部が協演。今年はバレエはなかったが、その代り来日中のウィーン・リング・アンサンブル(ライナー・キュッヒル、ハインリヒ・コル、ペーター・シュミードル他)がゲスト出演して花を添えた。

 歌手陣の中で今年は、バイエルン州立歌劇場専属のソプラノ、中村恵理が初出演したのが嬉しい。私はこの人は2012年にミュンヘンで「チェネレントラ」のクロリンダや「ニーベルングの指環」のヴォークリンデを聴いてすっかり感心し、そのあとの日本でのリサイタルのチラシに推薦文を書いたほどだ(そのリサイタルはこちらが旅行中で聞き逃した)。
 今回は「ロメオとジュリエット」(グノー)から有名なワルツを歌ってくれたが、所謂華麗な色彩感といったものには少し不足したものの、正確な音程と揺るぎない安定感を持った歌唱という面では、今夜の出演歌手の中では一頭地を抜く存在となっていたであろう。

 もちろん、世界的な名歌手である藤村実穂子も堂々たる風格の立派な歌唱だったが、彼女はどうも例年、この「ニューイヤー」では、バイロイトなど欧州の歌劇場で歌う時のような深みと凄みを満開できない傾向があるようである。何故なのか。指揮者やオケとの相性の問題なのか?(※ホールのせいではなかろうか、と言っていた人もいた)
 ただ、そうは言ってもやはりこの人は、カルメンやダリラでなく、今夜のR・シュトラウス(ナクソス島のアリアドネ)のようなドイツものを歌った方がずっと素晴らしい。

 そのR・シュトラウスが、今年は他にも「ばらの騎士」の三重唱(佐々木、林、砂川)や「無口な女」のモロズスの歌(妻屋)など、計3作も取り上げられたのは、この作曲家の生誕150年に因んだゆえか。
 下野竜也と東京フィルの演奏が全体的に重くてメリハリが無いのが物足りなかった(特にフランスとイタリア・オペラはあれじゃサマになりませんな)が、R・シュトラウスの作品になると、途端に豊麗ないい演奏になって、シュトラウス節をたっぷりと聴かせてくれるのである。相性というものは面白い。

 そういう演奏の間に、あのウィーン・リング・アンサンブルが登場すると、その途端に、何とまあエレガントな、色気たっぷりの、しかも躍動感にあふれた音楽が拡がって行くことだろう! 舞台に音の「花」が、突然パッと拡がったような感覚に引き込まれてしまう。
 なお同アンサンブルは腰越満美と協演して「こうもり」の「チャールダシュ」を演奏したが、その天馬空を行くが如く速いテンポに腰越もだいぶ煽られ、歌に余計な力がこもってしまったような感じもあった。

 司会は鎌倉千秋アナ、いかにも「NHKのアナウンサー」調で、ナレーションは正確ではあるものの極度に端整で生真面目だ。そのため、演奏会の雰囲気に温かさや明るさや闊達さが欠け、取り澄ましたような空気が終始漂う結果を生む。ゲストに假屋崎省吾と宮本亜門とキュッヒルが迎えられていたが、彼らの一所懸命なトークも何か浮き気味に感じられてしまう。例年のことなのだが、クラシックの演奏会とはいえ、このような「舞台の枠外に立った司会」ではなく、もう少し歌手たちと温かく心が通いあう司会が出来るアナウンサーを起用できないものか。(※いや、アナの素質というより、演出と構成の問題だろう)

 なお今回の舞台には、假屋崎省吾が製作した美しい巨大な花・ブーケがいくつも飾られた。これはすこぶるいい雰囲気を醸し出していた。

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