2017-03

12・26(木)METライブビューイング「ファルスタッフ」

   歌舞伎座  6時30分

 都内の映画館ではいつも東劇(銀座)と新宿ピカデリーで上映されている「METライブビューイング」が、今回はめずらしく歌舞伎座で上映された。
 初期の頃は旧歌舞伎座や新橋演舞場で上映が行なわれていたこともあるし、このシリーズの配給が松竹だから、別に不思議はないのだろう。「歌舞伎座新開場記念」と銘打たれており、1回だけの上映だそうである。

 なにしろここは、内装外装ともに華麗な劇場だ。平土間もほぼ満席とあれば、賑やかな雰囲気になる。映画でありながら客席には拍手や笑声もあふれ、盛り上がった。地味な雰囲気の映画館で数十人規模の観客が押し黙って観ているだけのいつもの上映とは、全く違う明るさがある。
 大勢の観客が一つの場所で感動を共有すれば、ある種の連帯感も生まれて来る。終映後のロビーの光景は、オペラ映画にもこれだけ沢山の人が来るんだ――という何よりの証拠だろう。

 今回のヴェルディの「ファルスタッフ」は、12月14日にメトロポリタン・オペラ(MET)で上演されたものだ。
 映像冒頭にはMET総裁ピーター・ゲルブ御大みずから登場し、「歌舞伎座でご覧になっている皆さんへの挨拶」として、「METとギンザの距離を縮める」とか「日本の優れた伝統芸術カブキが上演されるカブキザで私たちのオペラが上映されるということは」などという話をあれこれやって、最後には日本語で年末の挨拶をするという大サービスを見せた。客席からは拍手。
 案内役はルネ・フレミング、例のごとく陽気で華やかで達者な切り回しぶりである。

 指揮は音楽監督ジェイムズ・レヴァイン、2シーズンぶりの復帰とあって、MET観客から大拍手を浴びていた。車椅子利用のため、カーテンコール時にもピット内に板付きのままだが、とにかく元気になって復帰したことは祝着の極み。
 
 主演歌手陣は、ファルスタッフをアンブロージョ・マエストリ、アリーチェをアンジェラ・ミード、クイックリー夫人をステファニー・ブライズ、メグ・ペイジをジェニファー・ジョンソン・キャーノ、ナンネッタをリゼット・オロペーザ、フェントンをパオロ・ファナーレ、フォードをフランコ・ヴァッサッロ。
 マエストリも相変わらず闊達だし、登場人物がみんな明るく、生き生きと躍動しているのが楽しい。だれやらが言った「人間賛歌」にふさわしい舞台である。ただし、今回の「ウィンザーの陽気な女房たち」のみなさんは、いずれもファルスタッフを凌ぐほどの威風堂々たる体格。そういう彼女らがファルスタッフを「デブ、大食い、ビア樽、椅子壊し」などと罵っているのは、なんとなく妙なもので・・・・。

 演出はロバート・カーセン。METとしては半世紀ぶりの新演出になるという。舞台を1950年代に設定している由。衣装や小道具など、なるほど言われてみればそういう雰囲気だ。
 演出そのものは極めてストレートだが、場面設定には趣向が凝らされている。ト書きの「フォード邸の庭先」(第1幕第2場)はレストランに変更、また「ガーター亭の一室」(第2幕第1場)は紳士社交クラブに、「フォード邸の居間」(第2幕第2場)はTV料理番組のセットのようなキッチンに、「ガーター亭の前」(第3幕第1場)は馬小屋の中に、といった具合だ。それらがすこぶるサマになっているのがいい。なかなか愉しい雰囲気である。
 ポール・スタインバーグの舞台装置もなかなか機知に富んだもの。カーセンとピーター・ヴァン・プレートが担当している照明も、「ウィンザーの森」の場面では、実に巧い使い方になっていた。

 なお、レヴァイン復帰はめでたしめでたし――には違いないが、オーケストラの演奏がやや粗っぽいのが気になる。
 第3幕第1場でファルスタッフが歌う「行け、老いたるジョン」の後半など、次第に昂揚して行くはずのオーケストラが物足りない雰囲気のままで済んでしまったことや、同第2場後半でヴェルディがこのオペラで「久しぶりに」披露するあの最高に美しい旋律――「この腹だけはお助けを」と哀願する個所、および新婚カプルが紹介される場面――でのカンタービレがほとんど効いていないことなど、レヴァインらしからぬ指揮、というべきだろう。必ずしも録音のせいとも思えない(この歌舞伎座の再生音響そのものがあまり良くないのは確かだが)。
 彼は今シーズン、このあと「ヴォツェック」と「コジ・ファン・トゥッテ」を振る。調子を取り戻してくれることを祈る。

 このプロダクションは、ロイヤル・オペラ、スカラ座、カナダ・オペラ、ネーデルランド・オペラとの共同制作。上演時間は約3時間。

12・22(日)バッハ・コレギウム・ジャパンの「メサイア」

    軽井沢大賀ホール  6時

 冬の軽井沢でヘンデルの「メサイア」を聴くのもいいものだろう、と出かけてみる。

 久しぶりにクルマで行こうと思っていたが、これまで愛用していたミシュランのスタッドレスがついに寿命となっていたのを思い出し、慌てて行きつけの工場に新品を頼んだものの品切れと聞き、仕方なく新幹線を予約した。もっとも東京駅からたったの1時間だから、確かに楽だし、昔に比べれば随分便利になったものである。

 大賀ホールは、軽井沢駅北口から徒歩10分ほどの距離。ホール周辺の雰囲気の良さでは、札幌の中島公園にある札幌コンサートホールkitara、琵琶湖畔にあるびわ湖ホールと肩を並べるだろう。
 ホール内は客席数784、5角形サラウンド構造。竣工からすでに9年経ち、材質も馴染んで来て、音の鳴りにも硬さがなくなり、落ち着いて来た。残響はそう長い方ではない(満席時1・8秒とか)が、響きは良い。

 バッハ・コレギウム・ジャパンは、今回はオーケストラと合唱団それぞれ20人程度の編成だから、このホールの規模にはちょうどいい。演奏を聴いていると、何か心温まるような、ホッとする気分になれる。
 指揮はもちろん鈴木雅明、コンサートマスターは若松夏美。オケにはヴァイオリンの高田あずみ、チェロの鈴木秀美、ファゴットの堂阪清高、オルガンの大塚直哉らの名もみえる。声楽ソリストはシェラザード・パンタキ(ソプラノ)、ダニエル・テイラー(アルト=カウンターテナー)、櫻田亮(テノール)、クリスティアン・イムラー(バス)。

 鈴木雅明の直截な指揮により、「メサイア」の本来の曲の良さが、飾り気なく甦る。演奏は最初のうち何となく座りが悪かったが、第1部後半から次第に快い流れとなり、後半にかけて尻上がりに調子を出した。
 20分ほどの休憩1回を含み、8時50分に「メサイア」は終る。カーテンコールでの聴衆の盛り上がりはすこぶる大きかった。アンコールではア・カペラのコーラスで、ジョン・ヘンリー・ホプキンスJrの「われらは来たりぬ」という素晴らしく綺麗な曲が歌われ、9時5分に終演となった。

 「ハレルヤ・コーラス」では、わが国でも少なくとも60年代頃までは、渋々とはいえ客の全員が起立していたという記憶がある。今はもうそんな習慣は無くなったに等しいと思っていたが、今夜はそれでも10人ほどが立ち上がっていた。とはいえその人たちが、「しきたりを知らんのか」という表情で周囲を睥睨するような態度を採っていなかったのは賢明であった。
 そもそも、18世紀のロンドンで聴いていた某王様が起立したからといって、21世紀の軽井沢で聴くわれわれまでが立ち上がらなければならぬ義理も筋合もなかろう。立ちたい人は自由に立てばよろしい、強制するのもされるのも御免である、というのが私の考え方だ。
 だがそうはいうものの、たとえばロンドンでこの曲を聴いて、周囲の聴衆全員が起立してしまったら、自分独りだけ座っているわけにも行くまい・・・・。日本でも、両陛下なり皇太子夫妻なりが臨席されて、もしこの曲で起立されたらどうするか、――微妙なところである。

 完全満席ではなかったようだが、良く入っていた。お客さんは長野県内や群馬県からクルマで来る人が多いという。今日の軽井沢は晴だったが、直前に降った雪が積ったままで、夜間は道路も凍結していると聞く。
 前日午後ぎりぎりになって工場から「これでダメならどこへ行ってもダメ」と、新しいブリザックを履かせてもらったので、本当はクルマで来たかった、と現地在住の知人U氏に言ったら、「慣れないヤツはやめとけ、碓氷軽井沢ICへ降りるあの坂は、夜はブレーキ踏んでも止まらないよ」と脅かされた。やはり素人は公共交通機関に限るか。

12・20(金)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団のバルトーク

    サントリーホール  7時

 先週のカンブルラン&読売日響に続き、バルトーク作品による定期。今日は大曲で、庄司紗矢香をソリストに迎えた「ヴァイオリン協奏曲第2番」と、演奏会形式によるオペラ「青ひげ公の城」。

 庄司紗矢香が、いつもの顔で登場したので一安心。どこやらのチラシに載っているような、ぎょっとするようなどぎつい変身メイクで出て来たらどうしよう、と実はびくびくしていたところだった。
 だがそんなことはともかく、あのハープとピチカートの弦に乗って彼女が弾き始めた瞬間から、その強靭な力、広大な気宇、オーケストラを霞ませるほどの強大な音、ホールを独占してしまうような存在感――といった特徴に魅惑されてしまう。艶のある美しさと、突き詰めたような厳しい緊迫感とを兼ね備えた演奏は、まさしく超一流のものだ。

 インバル指揮する都響も揺るぎない構築性を押し出した演奏で、攻撃的な曲想の個所では強引なほどの最強奏を爆発させるが、庄司もまた一歩も譲らず、丁々発止の応酬を繰り広げてくれる。
 この音響上のバランスは、録音ならともかく、ナマのステージではなかなか難しい。よほどしっかりしたソリストでないとオーケストラに打ち消され、もしくはオケがそれに遠慮して音量を抑制し過ぎて演奏がつまらなくなることもあるくらいだ。今夜のようなスリリングな演奏が聴ければ、聴きに行った甲斐があるというものである。

 後半には、「青ひげ公の城」が演奏された。
 「詩人役」は無し。マルクス・アイヒェが青ひげ公を、イルディコ・コムロシがユーディトを歌った。

 前者は昨年の「東京・春・音楽祭」における「タンホイザー」のヴォルフラム役を、いとも真面目な知識人という表現で歌った人だ。今回は譜面を見ながらの歌唱で、この役をどのくらい歌った経験があるのかは知らぬが、やはり何か生真面目すぎる歌い方である。従って、この複雑な心理のカタマリのような男の、得体の知れぬ神秘性、凄み、苦悩と深み・・・・といった表現がまるきり感じられなかったのは残念であった。
 一方のコムロシは、2010年に井上道義が新日本フィルを指揮してこの曲を上演した時にも歌っていたソプラノだ。もちろんこの役には慣れているはずであり、暗譜で、時に表情豊かな身振りをも交えて歌ってくれたので、これで救われた、という感であろう。

 インバルは例のごとく、がっしりと明晰に、この作品の音楽を組み立てる。
 冒頭の、地の底から響いて来るような最弱音の低弦さえ、スコアに書かれている「ミステリオーゾ(神秘的に)」ではなく、おどろおどろしい不気味さでもなく、はっきりと割り切った明快さで鳴り始める。この隈取りの明晰な音と、強面の厳しい造型とがすべてに行き渡った演奏なので、スコアの隅々までが、冷徹な光に照らされて浮かび上がるよう。
 ただ、その割にあの鋭い「血のモティーフ」がどの扉の個所でも際立たず、それが衝撃的に音楽の中に割り込んで来てユーディト(と聴衆)を戦慄させるという効果が発揮されないのである。これはおそらく、先日のマーラーの「第7交響曲」の場合と同様、前後の音楽がすでに強いメリハリで演奏され過ぎているため、そこへ鋭い音型が割り込んで来てもほとんど目立たない、ということなのではなかろうか。

 いずれにせよ、このような演奏では、音楽全体はきわめて刺激的な、劇的でダイナミックなものになる――「第5の扉」の個所で、オルガン下に並ぶ金管のバンダを加えた全管弦楽の咆哮は強烈だった――その一方で、その明快な音のために、この音楽が本来備えているはずの陰翳には不足することになるだろう。
 したがって、ドラマの神秘性や、登場人物の心理の襞の描写も的確に行われないということになる。このオペラの音楽には、何よりも「恐怖」が必要だと思うのだが・・・・。

 それに、インバルの即物的な解釈は、たとえば前半でユーディトが扉を叩いた瞬間に聞こえる、彼女を震え上がらせる「長く狭い廊下を吹き抜ける風のうなりにも似た苦しい溜息のような音」を、効果音を使用せず、ウィンドマシンでリアルに「演奏」させたことにも表れているのではなかろうか。最近のインバルには、そういう意味での芝居っ気はなくなってしまったらしい。92年に彼がフランクフルト放送響を指揮したCDでは、もう少し陰翳に富んだ解釈が施されていたし、もちろんその「溜息」も効果音で不気味に挿入されていたはずである。

 しかし、それはそれとして、都響の演奏はやはり巧く、この上なく立派だ。引き締まったアンサンブルといい、均衡豊かな響きといい、今や絶好調の状態にあるといえるだろう。

 字幕は、一部腑に落ちないところもあり、ちょっと解釈が違うのではないかな、という個所もないではなかった。たとえば「第6の扉」の部分、ユーディトが「この白い、動かない湖は何?」と慄きながら尋ねるのを受け、青ひげが「涙だ、涙なのだ」と答える個所に、「涙だ、女の涙だ」という字幕が出たのは、青ひげの心の内側にある秘密を読み違えたものではないかという気もするのだけれども・・・・。
    音楽の友2月号 演奏会評

(註)「青ひげ公の城」のウィンドマシンの個所では、その音に合わせて金管の男性奏者たちが声を出していた、という報告のコメントを頂戴しました。ありがとうございました。しかし・・・・私の席からは全然聞こえませんでしたね。それに、「男の溜息」ってのは、サマにならんのじゃないですか?

12・20(金)P・コンヴィチュニー門下生によるオペラ演出試演会GP

   ドイツ文化会館ホール  1時30分

 びわ湖ホール等で開催された演出セミナーにおいて、ペーター・コンヴィチュニーの薫陶を受けた若手演出家5人が集まり、それぞれ30分の持ち時間の中で革新的な演出を試みるという企画。夜の本番は観られないので、GPを見学させていただく。

 原純が「ドン・ジョヴァンニ」(モーツァルト)の「お手をどうぞ」のシーン、加藤裕美子が「ヘンゼルとグレーテル」(フンパーディンク)の「魔女の家」の場面、田丸一宏が「コジ・ファン・トゥッテ」の「もうすぐ彼の腕の中に」の場面、舘亜里沙が「アンドレア・シェニエ」(ジョルダーノ)の「ある日、青空を眺めて」と「亡くなった母が」の場面、木川田直聡が「ラ・トラヴィアータ」第1幕終場面――という分担で、総計ほぼ2時間、大勢の若手歌手とピアニストも出演していた。

 「P・コンヴィチュニー門下生」たちの意欲は沸々たるものだ。師が標榜した、作品の深層を追求し、現代的意味において浮き彫りにするとでもいうべきコンセプトを各々自分なりに咀嚼して、名作オペラの1場面に斬新な視点からの解釈を導入する。
 「解釈」というと演出家は機嫌を悪くするかもしれないが、多くの舞台を体験している観客からすれば、それは畢竟「一つの手法」に過ぎないのは自明の理である。それがわれわれを満足させてくれれば、それはその時点で最高の舞台となり得るのだ。

 事実、今回の5つの舞台を拝見して、なるほどそういう解釈に基づく表現方法もあるか――と感心させられるところも多かったし、この手法で全曲上演を観てみたいものだ、と思わせられるものもあった。

 しかしその一方――ここからは歯に衣着せぬ物言いになるのをお許し願いたいが――いくつかの場面では、コンヴィチュニーの悪しき亜流のようなものを感じないでもいられなかった。
 「悪しき」とは何か? これは、コンヴィチュニーの舞台を20作近く観ながら、必ずしもコンヴィチュニー信者になれぬ私の主観だが、俗な言葉で言うと例えば、コンセプト過剰、舞台のごちゃごちゃし過ぎ、過度の馬鹿騒ぎ、音楽(レチタティーヴォ)の流れの破壊・・・・といった特徴だろうか。
 但し、「悪しき」ではあっても、何らかの主張があれば、「亜流」よりはマシである。良かれ悪しかれ、師の影響をどこで脱することができるかが問題なのだ。

 今日の5種の中では、原純が演出した「ドン・ジョヴァンニ」の、・・・・ジョヴァンニがツェルリーナを誘惑できたのは自らの魅力というより「金の力」であり、彼自身それに自己嫌悪を感じつつも己が道を突っ走る・・・・というシンプルな表現(中っているかどうかは判らないが)は、観客も一目見ただけで理解しやすいだろう。
 そもそもコンヴィチュニーの演出は、言葉で説明しなくても、比較的解りやすい類のものである。されば今日、たとえ試演会とはいえ、何人かの演出家がやったような、自分の舞台について事前に観客へ長々と説明するなどという行為は、師が本来求めるところではないと思われるのだが如何? 

 ――とはいえ、この種の企画は、極めて有意義だ。わが国のオペラ上演を活性化するためにも、大いに盛んになってほしいところである。

12・17(火)ラファウ・ブレハッチ ピアノ・リサイタル

   彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール  7時

 ペライアが最高に乗って弾いたというこの音響のいいホール、ここでピアノが聴きたくなって、久しぶりに訪れる。
 世田谷の拙宅との間を、首都高などを利用して渋滞なしに走れば、door to doorで1時間強。電車利用よりは少し早い。だが今日のように環状線が渋滞していると、2時間近くを要することになるため、行くのが億劫になってしまう。
 ではあっても、このホールは、ピアノにはちょうどいい大きさの、響きのいいホールだ。

 人気のブレハッチ、2003年の浜松国際コンクール優勝後、2005年のショパン国際コンクールで圧倒的な強みを示し優勝した、ポーランド生まれの、28歳の若者だ。今日のプログラムは、前半がモーツァルトとベートーヴェン、後半がショパン。

 冒頭のモーツァルトの「ソナタ ニ長調K311(284c)」は極めて端整な表情で演奏され、続くベートーヴェンの「ソナタ第7番ニ長調」は一転して力感の加わったダイナミックな表情で弾かれる。
 それ自体は特に不思議はないけれども、なぜかその弾き方が、妙に力を入れ過ぎたように荒っぽく、それゆえ感情の深い所から沸き起こって来るような自然さに不足するという傾向を感じさせてしまうのである。彼ほどの人であれば、演奏の対象がたとえウィーン古典派の作品であっても、そのあたりは自然にこなせるのではないかと思われるのだが・・・・。

 それに対し後半のショパンは、これこそまさに自家薬籠中の物といった感だ。
 プログラムは「ノクターン変イ長調作品32-2」、「ポロネーズ イ長調作品40-1《軍隊》」と「同ハ短調作品40-2」、「作品63の3つのマズルカ」、「スケルツォ第3番嬰ハ短調」という配列だが、最初の「ノクターン」での、厚みのある和音の美しさと、恰も大気の中を浮遊するような感覚に誘われる軽やかな音色を聴いただけで、この人のショパンはやはり図抜けているなと感心してしまう。
 特に「スケルツォ第3番」では、あの下降する細かい音型が、まるで水の一粒一粒がきらきらと目映く光りながら泉に流れ落ちて行くような趣を示し、このピアニストの卓越した音色感覚の冴えを感じさせたのであった。

12・15(日)クシシュトフ・ウルバンスキ指揮東京交響楽団

    ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 ウルバンスキの首席客演指揮者就任披露の演奏会の一つ、こちらは定期。
 チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」、「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは神尾真由子)、ストラヴィンスキーの「春の祭典」というプログラム。チケットは完売という。

 先日(12月1日)と同様、オーケストラのすべてのパートが聞こえて来るような、明晰さの際立つ演奏だ。東京響が、きりりと引き締まった鮮やかな音を響かせる。リズムも相変わらず歯切れ良い。
 「春の祭典」でのそのリズムが生き生きと躍動していたのは、彼のしなやかな全身の動きの指揮――とりわけ、なよなよと(こんな表現の仕方は変だが、しかしまさしくそういう感じなのである)くねるような左手の動きが目立つ指揮のなせるわざなのかもしれない。

 「ロメオ」の序奏は非常に遅いテンポで重々しく開始されたが、そのようなテンポでじっくりと歌われると、冒頭のクラリネットとファゴットの、あるいは第85小節からの木管群によるその主題が、驚くほどロシア民謡的な雰囲気を帯びて聞こえて来る。しかも、甘いロマンティシズムなどは吹き飛んで、恐ろしく陰鬱な色合いになって立ち現れて来る。いかにもこの悲劇にふさわしい演奏である。
 そしてウルバンスキは、主部のアレグロ・ジュストに向け、かなり強烈なクレッシェンドと加速を試みるが、この辺の呼吸がすこぶる巧い。
 もう一つ感心するのは、デュナミークの対比に関する彼の細かい設計だ。第112小節で「争いの主題」が爆発する個所と、第151小節でそれが更に激烈さを加える個所とでは明らかに音量の差を感じるのだが、スコアを見れば、前者はまさに単なるフォルテであり、後者はフォルティシモと指定されているのである。こういう対比は、先日のブラームスの「第2交響曲」でも聴かれたものだ。ウルバンスキもなかなか芸が細かいなと思わせる。

 協奏曲では、神尾真由子の表情の濃さが最大限に生きた。これを聞くと、この曲は彼女の最良のレパートリーではなかろうかという気さえする。所々に音程の乱れがあったのは事実だが、それを除けば第一級の演奏だったと言ってもいい。

 そして最後の「春の祭典」だが、ウルバンスキは遅めのテンポと極度に速いテンポとを対比させつつ、演奏に大きな起伏をつくっていた。最後の「生贄の踊り」で、更にグイと一押し、力感を増して行くあたりなど、ここでも持って行き方の巧みさを感じさせる。木管の一部に東京響らしからぬ不安定さがあった(しかも肝心かなめの個所で)のは惜しいけれども、全体としては纏まりのいい演奏だったと申し上げよう。

 もっとも、ウルバンスキの指揮は、さっきも書いたように設計も巧いし、バランスもいいし、清澄な音色、胸のすくようなエネルギー感、といった良さもあるのだけれど、それがあまりに怜悧冷徹であり、温かさや情感といったものを拒否しているように感じられるという不満もある。このあたりが良し悪しだ。だが面白い指揮者であることには変わりない。
     ⇒モーストリー・クラシック3月号 Reviews

12・14(土)いずみホール モーツァルト「イドメネオ」(演奏会形式)

    いずみホール  4時

客席数820ほどの中規模会場ながら、このいずみホールは長年にわたりオペラ・シリーズを続けている。その演奏水準は、毎回、極めて高い。
 今年、私が聴きに来たのは、「シモン・ボッカネグラ」(→6月22日の項)に次いで、2つめである。ただし今回はいつものようなセミ・ステージ形式上演ではなく、演奏会形式上演だ。客席は満杯。完売の由。

 ステージには、大勝秀也が指揮するザ・カレッジオペラハウス管弦楽団(大阪音大)が並んだ。弦楽器群が明晰清澄な、綺麗な音を出す。冒頭の序曲からして、響きにスケールの大きさと、引き締まったリズム感と、みなぎる生気があって、快い。大勝はきびきびしたテンポで全曲を構築し、モーツァルトのこの傑作オペラを、ヴィヴィッドに再現してくれた。

 オーケストラの後方に並ぶ歌手陣も、いい顔ぶれが揃っていた。
 題名役のイドメネオを歌ったのは福井敬。いつものようにパワフルな歌唱で、王にふさわしい風格と威厳を感じさせ、特に第2幕でのアリアは盛大な拍手を浴びた。
 イダマンテはメゾ・ソプラノの林美智子。ズボン役のカッコ良さを見せたことはいうまでもなく、苦悩しつつも凛然たる気品を備えた王子の役柄を見事に表現していた。

 その恋人のイリア役は幸田浩子。この人は純な王女の役はうってつけで、歌唱も立ち姿もはまり切っている。
 王の忠臣アルバーチェ役の中井亮一は第3幕の長大なアリアで本領を発揮、大祭司役の小餅谷哲男も短い出番だったが存在感を発揮していた。海神役の片桐直樹も、最後に上手舞台寄りのバルコン席に姿を現し、威厳のある歌唱を聴かせ、このドラマを締めくくる役割を果たしてくれた。

 そして、激情の女性エレットラを歌ったのは並河寿美。彼女もまさしくはまり役だが、今回はミュンヘン初演版による上演とのことで、あのエレットラの聴かせどころたる激怒のアリアが歌われないのは、なんとも残念であった。ドラマティックな役柄の歌唱が得意の人だから、もしあのアリアを歌っていたら、間違いなく客席を沸かせたことであろう。
 上演版の選択が重要な問題であることは充分承知しているけれども、こういうケースの場合には、あまりアカデミックにこだわらなくてもいいんじゃないか――という気がしてしまう。つまり、折衷版も悪くなかろう、ということだ(こんなことを言うと、ホールのディレクターの礒山雅先生に叱られるだろうが)。

 字幕は懇切丁寧、CDの対訳本にあるような詳細正確な訳文だが、かなりのスピードで切り変って行くスクリーンの字幕としてはあまりに文字数が多すぎ、視る者の眼と神経を疲れさせる。過ぎたるは及ばざるがごとしで、今回のこれは失敗だろう。このホールのスクリーンが小さいのでなおさらである。
 ただ、クレタ島に軍が上陸する行進曲の箇所でト書き(のような情景説明)を字幕に出したのは、当を得た方法である。一般的に、演奏会形式オペラでの字幕も歌詞部分だけのことが多いが、舞台上の演技が伴っていないために、オーケストラのみの演奏が長く続く個所では、ストーリーがよく呑み込めないこともあるからだ(「ヴァルキューレ」第1幕など最たるものである)。今回のようにその場の情景が字幕で出れば、初めてこのオペラに接する人たちも内容をよく理解できるだろう。

 20分の休憩2回を含み、7時35分終演。長丁場だったが、ただの一瞬も退屈することがなかった。いい演奏であった。

12・12(木)WAGNER生誕200年記念コンサート
KONFRONTATION~対決~

    Hakuju Hall(白寿ホール) 7時

 プログラムは、ワーグナーの「タンホイザー」第1幕から「タンホイザーとヴェーヌスの場」(パリ版)、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第2幕から「ザックスとベックメッサーの場」、「ジークフリート」第3幕から「ジークフリートとヴォータンの場」、「神々の黄昏」第2幕から「ブリュンヒルデ、ハーゲン、グンターの場」。
 これらの間に、ワーグナーのピアノ小品が3曲、「M侯爵夫人のアルバムに ハ長調」、「主題変イ長調《エレジー》」、「ベティ・ショット夫人のためのアルバムの綴り 変ホ長調」が織り込まれる。

 歌手陣は,池田香織(ソプラノ)、片寄純也(テノール)、大塚博章(バリトン)、大沼徹(バリトン)。この4人が、それぞれ役柄を変えながら歌った。
 協演はオーケストラではなく、ピアノ、ハープ、アイリッシュ・ハープのみである。

 だが、ピアニストを務めた若い木下志寿子が極めて巧く、単にヴォーカル・スコアのピアノ・パートを機械的に演奏して伴奏に堕するのではなく、ドラマトゥルグに基づいた起伏の大きな、生き生きした表情で弾いてくれるので、音楽的に充分な内容を持つ演奏となっていた。
 オペラでこういう「生きた音楽」を弾くことのできるピアニストは、なかなかいないだろう。私自身が聴いた人の中では、最近では西聡美(2011年のびわ湖のコンヴィチュニー演出セミナーで「ラ・ボエーム」を弾いた)以来、2人目である。ハープの操美穂子もいい演奏を聴かせてくれた。

 こういう演奏を引き出した功績は、城谷正博の指揮に拠るところが極めて大きいだろう。
 新国立劇場で副指揮者等を務め、縁の下の力持として大きな実績を持つ彼の指揮は、実に明快できびきびしていた。すべて暗譜で指揮、歌手や奏者たちに細かく明確な指示を出し、速めのテンポで演奏を盛り上げる。ザックスがベックメッサーの歌を妨害するため靴底を叩く速いテンポのリズムは、歌手自身もよく覚えられないと言われる個所だが、これを左手で「叩け、待て、叩け、待て」と猛速で細かく指示を出して行く――もちろん右手は全体を指揮している――さまは、以前、日本ワーグナー協会の例会で披露したのをわれわれも見て舌を巻いたものだ。今回もそれに近い指揮を見せてくれたが、あれなら歌手は間違うことは絶対なかろう。

 おなじみの歌手たちは、大舞台でこの役を歌い演じるのと同じように、みんな全力で見事に歌ってくれた。もっともそうなると、この小さなホール(客席数300)では声があまりにビンビン響き過ぎる。ワーグナーの音楽というのは、やはり大歌劇場にふさわしいものなのだ、ということを今夜は改めてしみじみと感じたのであった。特に池田(ブリュンヒルデ)、大塚(ハーゲン)、大沼(グンター)が応酬する「神々の黄昏」は、音量も演奏も凄まじい迫力だった。

 字幕は吉田真によるもので、ニュアンスと雰囲気は完璧である。
 なおこのコンサートは「わ」の会主催で、「わ」とは、ワーグナーの「わ」であり、「ニーベルングの指環」の「わ」、スタッフ・キャストの「わ」である由。

12・10(火)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

    サントリーホール  7時

 ハンガリー特集――ということで、リゲティの「ロンターノ」で幕を開け、バルトークの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロは金子三勇士、母堂はハンガリー人である)、「ルーマニア民族舞曲」、「中国の不思議な役人」組曲。
 そしてアンコールには何とベルリオーズの「ハンガリー行進曲(ラコッツィ行進曲)」。少々こじつけ気味のところもあるが、プログラムの趣旨は徹底している。

 カンブルランと読売日響は、ますます快調のようだ。今年もマーラーの「第6交響曲」をはじめ、いろいろな名演を聴かせてくれたが、今回の「ハンガリー系プログラム」もなかなかの快演であった。

 「ロンターノ」での静謐な音の層は陶酔的なほどに美しく、「民族舞曲」は――バルトーク的というよりはむしろフランス的な洗練さで鳴り響く。いずれも透明で澄んだ音色が印象的で、特に後者では弦楽器群の微細な息づきが素晴らしい。読売日響の柔軟な反応は見事であり、こういう演奏を聴くと――変な言い方だが――日本のオーケストラも本当に巧いものだ、とつくづく感じてしまうのである。

 最後の「中国の不思議な役人」では、この明晰透明な音色を引き継いだまま、バーバリズムが胸のすくような勢いで躍動する。特に後半部分での、ひたすら追い上げ、煽り立てて行く推進性は目覚ましかった。それに加え、アンコールのベルリオーズがまた、びっくりするほどの豪華壮麗な演奏だったのである。

 協奏曲では、金子三勇士の成長が感じられて嬉しい。強靭な打鍵と満々たるエネルギー感はこの若者の身上だろう。これが時に勢いのおもむくまま突き放したような演奏に聞こえることもあるのだが、リストやバルトークなどではそれがプラスに生きることがある。
     音楽の友2月号 演奏会評

12・9(月)アトリウム弦楽四重奏団 チャイコフスキー弦楽四重奏曲全曲演奏会

     東京文化会館小ホール  7時

 チャイコフスキーの弦楽四重奏曲3曲を一度に聴けるなどという演奏会は、稀であろう。
 「アンダンテ・カンタービレ」を含む「第1番」は、時にナマで聴く機会もある。「第3番」も、どこかの四重奏団が演奏したのを一度聴いたことがある。だが「第2番」に至っては、コンサートで聴くのは私も今回が初めてだ。貴重な機会である。お客さんも結構入っていた。

 演奏するアトリウム弦楽四重奏団は、サンクトペテルブルク音楽院在学生により2000年に結成された団体で、現在はベルリンを本拠にしている由。若々しく溌剌とした、エネルギー感にあふれた演奏が素晴らしい。

 チャイコフスキーの弦楽四重奏曲3曲は、1871年2月から76年2月までの間に作曲され、それは幻想序曲「ロメオとジュリエット」から「白鳥の湖」や「第4交響曲」までの間の時期に位置する。
 作風は、素朴なものから次第に鍛錬された緻密な構築へ変化して行くさまを如実に示していて興味深い。その代り、所謂親しみやすさといったものは、次第に薄らいで行くようにも思える。
 だが、この作曲家に特有の押しの強さや、クライマックスへ持って行くテクニックの見事さなどは、どの作品においても感じられるのである。今夜の演奏では、とりわけ「第2番」が素晴らしかった。その意味でも、私のようなチャイコフスキー愛好家にとっては、大いに愉しめた演奏会であった。

 今夜の演奏は、ロシア民謡も引用されている「第1番」を含めて、所謂ロシア情緒のようなものをあまり意識させないものだったが、それはペレストロイカ以降の世代のロシアの演奏家たちに多く見られる特徴なのかもしれない。

 元気がよく、エネルギー充分な彼らは、たっぷりした量の3曲を弾き終っても疲れも見せず、更に15分ほどの長さを持つアレンスキーの「チャイコフスキーの主題による変奏曲」(弦楽四重奏曲第2番イ短調」第2楽章)を鮮やかに弾いてくれた。これもなかなか聴く機会のない曲である。終演は9時半頃になった。

12・8(日)イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル

    サントリーホール  7時

 ベートーヴェン・プログラム。第1部に「ピアノ・ソナタ第8番《悲愴》」、ロンド・ア・カプリッチョ「失われた小銭への怒り」、「ソナタ第22番」。第2部に「ソナタ第23番《熱情》」、「ソナタ第24番《テレーゼ》」。
 ただしアンコールには、突然ショパン(夜想曲 作品48-1)が登場した。

 ポゴレリッチといえば、近年は極度に遅いテンポによる構築解体寸前の演奏、とめどない沈潜――というイメージが定着し、それが極端な好悪を呼ぶ因になっていたが、昨年の来日時あたりからは、そこに少し変化が生じて来ているようだった。まして、6日の川崎での演奏を聴いた人たちが「テンポも速くなったし、意外にまともになった」と語っているのを聞き、ますます興味が湧いていたのである。

 なるほど第1部は、予想外に「まとも」(?)な演奏になっていた。
 「悲愴」は、演奏時間こそ26分を要し(提示部反復あり)たものの、グラーヴェ(第1楽章序奏他)やアンダンテ・カンタービレ(第2楽章)など、もともと遅いテンポに指定されている個所においてさえ、あの「解体寸前のテンポ」は採られていなかったのだ。
 もちろん、普通のピアニストだったら「異様に遅い」と感じさせるテンポだが、ポゴレリッチの場合には「思ったほど遅くないね」となるテンポなのである。それどころか、アレグロの個所では、デュナミークのつけ方に彼らしい個性的な解釈はあるものの、概してイン・テンポで、快速に飛ばす。
 特に「失われた小銭への怒り」が、あれほど正確なテンポで、しかも威容に富んで豪壮に演奏された例を聴いたことがない。

 舞台の出入りの時の歩調も、この何年かの例に比べ、随分速くなったようである。本当に、彼の中で、何が起こったのだろう? 
 まともな演奏のポゴレリッチじゃ拍子抜けだね、と言っていた人もいた(しかしずっと昔には、彼は所謂「まとも」だったのだ)。

 いずれにせよ、特筆すべきは、その音色の驚異的な美しさである。
 実に明晰透明で、内声部のすべてがはっきりと浮かび上がり交錯し、作品の和声的構造を明確に示してくれる。その響きは、どんな最強音においても、些かの濁りがなく、きらきらと輝いているのだ。その魅力は何ものにも替え難い。

 ところが、第2部になると、彼は所謂「近年のポゴレリッチ・スタイル」をもろに出して来る。何とも複雑なピアニストである。演奏時間も、「熱情」は33分、「テレーゼ」は15分、「ノクターン」は9分を要すという具合で、これはやはり相当な遅いテンポだろう。

 「熱情」の第1楽章は、「アレグロ・アッサイ」ながら、もともとテンポの変動が生じやすい楽章と言えるが、そういう個所ではポゴレリッチの独壇場だ。テンポはもちろん千変万化、極度に遅くなる。
 だがその一方、再現部の少し進んだ個所、第1主題が最強奏で再現するあたり(第152小節以降)では、その主題は実に輝かしい壮大な風格に満ち、澄んだ音色で轟き、この楽章の頂点を形成する。このあたり、さすがポゴレリッチの巧さだ。彼はただむやみに勝手な沈潜を続けているわけではなく、作品解体どころか、作品の形式を完璧に把握し構築しているのである。

 が、こうなると、第1部のあの演奏は何だったのか? 第2部との対照だったのか?
 結局、作品それぞれに対するアプローチの違いだったとでも考える以外にないのかもしれない。

12・6(金)トリノ王立歌劇場特別演奏会 ロッシーニ・プロ

    東京文化会館大ホール  7時

 ジャナンドレア・ノセダ指揮のトリノ王立歌劇場管弦楽団と合唱団、バルバラ・フリットリ(S)、ダニエラ・バルチェッローナ(Ms)、ピエロ・プレッティ(T)、ミルコ・パラッツィ(Bs)。これは都民劇場の公演。

 ロッシーニ・プロ、久しぶりに聴く。いいものだ。
 前半には序曲が3曲――「どろぼうかささぎ」、「セビリャの理髪師」、「ウィリアム・テル」。
 かなりおおらかな演奏で、やっぱりイタリアのオケだな、という感。ノセダは相変わらず長身をしなやかに躍らせるアクロバット(これはご本人の表現だ)の指揮ぶりだが、音楽はむしろ柔らかい。たとえば「ウィリアム・テル」の「スイス軍隊の行進」冒頭のトランペットとティンパニなど、随分ソフトなタッチである。「仮面舞踏会」第2幕の終結部分での演奏と共通したものがここにも感じられる。

 後半は「スターバト・マーテル」。およそ宗教音楽らしくないアリアやカヴァティーナや重唱などが散りばめられていて、私はこの曲、愉しくて好きなのである。演奏も、細かいところはともかく、いい味を出してくれた。
 合唱は相当な威力で、特に終曲では劇的な昂揚をつくり出したし、ソロ歌手陣も、バルチェッローナの迫力を筆頭に、勢いがあった。

 1曲終わるごとにパチパチと手を叩く人が1階前方の席にいて――オペラのアリア集の演奏ではなく、一応(?)宗教曲なのだから、少し気分を殺がれたが、まあこのフリットリやバルチェッローナの歌を聴けば、手を叩く気持も多少は解るような気もする。
 余談だが、女声2人が大柄で(フリットリも意外に背が高い)、それに比べると男声2人が些か小柄で華奢(オペラ歌手にしては、だ)に見えるという光景はちょっと珍しい。

 ともあれ今夜は、この「スターバト・マーテル」が温かくて、いい演奏であった。

12・2(月)トリノ王立歌劇場 プッチーニ:「トスカ」

   東京文化会館大ホール  3時

 こちらはジャン・ルイ・グリンダの演出。歌姫トスカにノルマ・ファンティーニ、画家カヴァラドッシにマルセロ・アルバレス、警視総監スカルピアにラド・アタネリという配役。ジャナンドレア・ノセダ指揮、トリノ王立管弦楽団・合唱団。

 冒頭、音楽なしの映像でトスカが聖アンジェロ城から身を投げる幻想的な光景が写され、観客の衝撃感のさなかに、轟然たる「スカルピアの動機」の音楽でオペラの本編が始まるという仕組だ。
 この冒頭の映像が、ラストシーンと結びつく。第3幕はもちろん、大天使の像が聳える城の屋上だが、最後にこの舞台装置(階段と城壁)がグルリ一転して、あたかもトスカが立つ姿をわれわれが城の外側から見るような視覚に変わる。舞台が急激に暗転し、下りて来た紗幕に再び前述の映像が映る。トスカが身を投げ、恰も空中を飛ぶようなイメージを感じさせたのは、「わが身を解放した」彼女を描くつもりかと一瞬思わせたが、最後のほんの1秒間の裡に恐ろしい勢いで迫って来る地面が見え、それがぱっと消えて暗黒となり、音楽も終る。投身した人間が最後に見るのはこういう光景なのか、と慄然とさせられる惨酷な終結であった。シンプルな舞台美術(イザベル・パルティオ=ピエリ)ともども、グリンダの演出は、すこぶる才気にあふれている。

 ただ、第2幕冒頭の合唱は紗幕の向こう側に姿を見せながら歌われるので、ただでさえ強大な合唱の音量が更に大きくなり、スカルピアと、連行されて来たカヴァラドッシらの緊迫した応酬さえ聞こえなくなるのはいかがなものか。ここはスカルピアが「うるさい、窓を閉めろ」と命じるほどのところだが、やはり一般の上演のように舞台外からの方が音楽的には妥当なのではないかと思われる。

 舞台上での登場人物の演技は、やはりイタリア・オペラの定型に近い。
 私が興味を持っているのは、第3幕でのカヴァラドッシの演技だ。彼はスカルピアの「見せかけの処刑による特赦」を、本当に信じていたのか? 
 どこだったか東欧系のオペラ団が来日した時、カヴァラドッシはトスカが持って来た通行証を見た瞬間から、あの惨忍極まるスカルピアが「そんな甘い」ことをするはずはなく、自分を本当に処刑する気であることを既に察知し絶望している(当然、彼はそのような過去の例を噂で知っていただろう)が、ただ無邪気に喜んでいるトスカを悲しませるに忍びず、表面上は彼女に調子を合わせてみせる・・・・という演出が行なわれていて、これは実に適切な解釈だな、と感心したことがある。
 今回のグリンダによる演出は、そこまではやっていないけれども、カヴァラドッシがスカルピアを信用せず、処刑寸前まで半信半疑でいるという設定にはされている。このあたりは、アルバレス(カヴァラドッシ)の表情豊かな演技と歌で充分に描き出されていた。

 ノセダの指揮は、昨日の「仮面舞踏会」同様、むしろ軽やかで、透き通った美しさを感じさせる。あの「スカルピアの動機」も、惨忍におどろおどろしく響くことはなく、何か一種の幻想的な物語の出来事のように流れて来る。ヴェリズモ・オペラ特有の扇情的な激烈さも、濃厚な色彩による誇張もほとんどない音楽づくりだ(舞台のシンプルさとはよく合っていただろう)。

 ただしそれは、彼の指揮にドラマティックな迫力が欠けているという意味ではない。第2幕でのスカルピアとトスカの応酬場面や、第3幕でのトスカがカヴァラドッシの死を知る前のあたりでの緊迫感は、見事なものであった。ノセダはもともと、コンサートの時にはオーケストラをいっぱいに鳴らす人で、シンフォニックな音楽に長けている人なのだが、この第2幕のクライマックス個所のような、本当にドラマが切迫した場面では、それこそオケの音量を凄まじい大きさにまで上げる。このあたりの音楽の起伏の巧さが、ノセダの身上ともいうべきものであろう。

 歌手。題名役のファンティーニは容姿も美しいし、声も美しい。第3幕で恋人相手に自由への喜びを歌うところなどでは思い切り(どうしちゃったのかと思うほど!)声を延ばすようなこともあったが、その役柄を華麗に演じていたことはたしかであろう。
 アルバレスは、声といい、演技といい、もう理想的な存在である。
 アタネリは、その風貌から言っても、見るからに野卑で卑劣な悪役スカルピア、といったイメージに演じたりはしない。見かけは知的な男というイメージで、それも解釈の一法かもしれない。ただ、第2幕での、悪の本性をむき出しにする場面では、もう少し惨忍な男のイメージがあってもいいだろう。

 他に、投獄された執政官アンジェロッティをホセ・アントニオ・ガルシア、堂守をマッテオ・ペイローネ、刑事スポレッタをルカ・カザリン、憲兵シャルローネをフェデリコ・ロンギら。
 なお第1幕での子役の合唱と演技はTOKYO FM少年合唱団。第3幕の牧童役はそのメンバーの1人、寺尾優汰が歌っていたが、これも大健闘であった。
     ⇒音楽の友2月号

12・1(日)トリノ王立歌劇場 ヴェルディ:「仮面舞踏会」

   東京文化会館大ホール  3時

 3年前の7月に「ラ・ボエーム」と「椿姫」の2作で素晴らしい上演を提供してくれたジャナンドレア・ノセダ(音楽監督)率いるトリノ王立歌劇場が2度目の来日公演。
 今回の「仮面舞踏会」はロレンツォ・マリアーニの演出で、総督リッカルドにラモン・ヴァルガス、秘書レナートにガブリエーレ・ヴィヴィアーニ、その妻アメーリアにオクサナ・ディカ、という主演陣である。

 前回の来日の際にも感じたことだが、このトリノ・オペラのオーケストラは、ノセダが心血を注いで鍛えただけあって、しっとりと瑞々しい、透明で清澄な弦の音色が印象的だ。ノセダもまた、持ち前の均衡を重視した緻密な指揮で、「仮面舞踏会」の音楽の叙情的な要素を浮き彫りにし、力み返った激しさを強調することなく、自然体の美しさで押して行く。
 
 たとえば第2幕の幕切れで、暗殺団の声が遠く闇に消えて行ったあとに突如オーケストラが激しく盛り上がって終結するくだりなど、ノセダはその上昇して叩きつける数小節を、驚くほど柔らかく、流れるように立ち上げるのである。
 また彼は、他の指揮者がやるような「矯め」をあまり使わない。第3幕の有名なレナートのアリアの、「Eri tu・・・・」の直前に置かれたオーケストラの息づまる総休止も、ごくあっさりしたものである。暗殺者たちがクジで総督暗殺を決めるあたりも、ものものしい描き方にしない。それゆえ、音楽とドラマの生々しい情熱のスリル感は薄まって来るだろう。
 しかし、ノセダのつくる音楽は――BBCフィルとの演奏でも示されている如く――もともと極度に起伏が大きいので、たとえ流麗なスタイルであっても、そのスケールの大きさを失わせることはないのである。

 今回の演出では、場所の設定は現行のト書き通り、アメリカのボストンに設定されていたようだ。だがこれが原案通りのストックホルムになっていたとしても、その場合は歌詞が違うだけで、今回のような抽象的な装置の舞台には関係ないことだろう。
 マリアーニの演出は、第1幕冒頭、拳銃を構えた黒服の暗殺団を乱入させることにより、ドラマのテーマを一気に象徴して見せる。ただ、それだけなら特に目新しい手法でもなかろうが、その暗殺団と、あとから入って来た他の「リッカルド崇拝」グループの人々とが前後に1列に並んだ形で合唱に入るところは、2つの集団の歌が対比される形で書かれているこの合唱の性格を視覚的に表わす意味でも当を得たものだという気がする。

 舞台は、マウリツィオ・バロの舞台装置とともに、シンプルなつくりだ。渋く冷たく暗い色調で統一され、最後の仮面舞踏会のシーンで突如として赤い色調が一面に拡がる。華麗だが、その色はどぎつく、けばけばしい。いうまでもなくそれは、血の象徴でもあろう。
 だが、人物の演技そのものは、やはりイタリア・オペラの定型に近い。妻に裏切られたと信じこんだレナートが、上司たるリッカルドの肖像画の前で「俺の妻を汚したのは貴様だった」と怒りに燃えて歌う時、彼はその肖像画を指さしたり、睨みつけたりはしない。肖像画はリアルなものではなく、彼を支配している男の象徴的存在である、というわけだろうが、このあたりがドイツのオペラ演出と大きく異なるところだろう。

 歌手。ヴァルガスはあの愛敬あるマスクのせいもあって、善人そのものの温かい心の総督像に描かれる。まあ、彼のキャラだから、それはそれでいいだろう。
 ディカは長身の女性で、声の綺麗さはノセダとオケの透徹した音色とよく合う。ヴィヴィアーニ(レナート)は手堅い歌唱だが、「上司の裏切り」に遭い、嫉妬のために道を誤る悲哀の主人公としては、もう少し陰翳のある性格描写が欲しいところである。

 小姓オスカルを市原愛が演じて健闘していたが、あの軽快なコロラトゥーラにあとほんの少し・・・・「1ミリほどの」音程の正確さがあれば文句なかっただろう。
 素晴らしかったのは、占い女ウルリカを歌い演じたマリアンネ・コルレッティだ。カーテンコールで一番拍手を浴びたのは、彼女だった。ほかに刺客サムエルをファブリツィオ・ベッジ、同トムをホセ・アントニオ・ガルシア、といった人々が脇を固めていた。

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