2017-03

11・30(土)クシシュトフ・ウルバンスキ指揮東京交響楽団

    ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 今年4月、首席客演指揮者に就任したウルバンスキはポーランド生まれ。30歳を出たばかりだが、既にインディアナポリス響音楽監督、ノルウェーのトロンハイム響首席指揮者を兼任する注目の若手である。
 この日の彼は、東京響の「名曲全集」シリーズに登場、ペンデレツキの「広島の犠牲者に捧げる哀歌」と、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第18番K456」(ソリストはフセイン・セルメット)、ブラームスの「交響曲第2番」を指揮した。

 前回(2011年6月)の客演指揮を聴いた時には、明晰怜悧にして、熱狂からは距離を置いたタイプの指揮――と感じたものだが、今回もほぼ同様の印象と言っていい。それだけでなく、ピアニッシモの多い叙情的な作品を手がけた時の彼がどんな解釈を採るか、ということも瞥見できて、大変興味深いものがあった。

 「広島・・・・」には――暗譜で振っていたのはさすがである――切り込むような鋭さ。
 モーツァルトの協奏曲でも、極めて鋭利な、白色の光に照らされるような清澄な音色をあふれさせ、セルメットのモノローグを囁くようなソロに呼応して、秘めやかなオーケストラの流れをつくった。第2楽章での澄みきったハーモニーの美しさは絶品で、「フィガロの結婚」のあのバルバリーナの歌が、こんなに透明で嫋々たるものだったかと感じ入ったのは、久しぶりのことであった。

 ブラームスの「第2交響曲」は、かなりユニークである。第1楽章はアレグロ・ノン・トロッポの指定ながら、朝比奈的(?)なテンポで、しかも提示部の反復を欠かさないので、演奏時間も22分に達してしまった。
 しんねりむっつりと言うほどではないが、かなり遅い。重厚で粘着的な進行ならともかく、リズムも音色も明晰にして鋭角的なのだから、テンポとの間にややアンバランスな印象を感じるのは当然だろう。
 アレグロがこれだけ遅いと、第2楽章のアダージョ・ノン・トロッポのテンポとの間に対比が生まれなくなるだろう。東京響は端然と演奏していたものの、この遅いテンポが完全に持ちこたえられていたとは――聴く側からは言い難い。

 第3楽章のアレグレットに至って、漸く解放感が訪れる。前2楽章であれほど張りつめていた弦の音色が、グラツィオーソ楽章では突如柔らかくなる。この音色の変化の見事さ。
 第4楽章も含めて全体的に節度を保った抑制された音量で演奏されたが、この曲にはもともと真のフォルティシモの個所があまり多くないことを思えば、それは極めて当を得たアプローチだろう。

 その第4楽章、最強奏で進んで来た音楽が頂点を築いたと見られる時、最終の延音付和音は、突然ふっと力を抜いて、柔らかく響いて結ばれた。ウルバンスキは、この最後の和音に、この交響曲の叙情的な優しさを集約し象徴させたのか? なかなか一筋縄では行かぬ指揮者ではある。
    ⇒音楽の友新年号 演奏会評

11・29(金)マイヤー指揮新日本フィル&藤村実穂子

   サントリーホール  7時15分

 クリストフ・ウルリヒ・マイヤーの客演指揮で、マルシュナーのオペラ「吸血鬼」序曲、同「ハンス・ハイリンク」より「ゲルトルートのモノローグ」、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」、ウェーバーの「オイリアンテ」序曲、マイヤー編のワーグナーの「パルジファル」組曲。

 プログラムは面白い。マルシュナーの作品など、ナマで聴く機会はほとんどないので、貴重な機会であった。
 「吸血鬼」序曲は別におどろおどろしい曲ではないが、ウェーバーの影響が非常に大きく、事前知識なしに聴いたら、ウェーバーの序曲のどれかだと錯覚するかもしれない。むしろ「ハンス・ハイリンク」のモノローグが、メロドラマと歌の形式で、如何にもドイツ・ロマン派らしい神秘性を感じさせる。ヴァイオリン群やフルート、オーボエが加わらぬ編成のオーケストラによる、暗い音色が不気味さを出す。

 クリストフ・ウルリヒ・マイヤーの指揮は、良く言えば直截なものだが、あまりに素っ気なく即物的に音楽を進めて行くので、プログラムの狙いたるドイツ・ロマン派の超自然的、夢幻的な色合いはほとんど浮き彫りにされなかったのではないか。とにかく、新日本フィルの演奏会が、今夜ほど白々として燃えない雰囲気に感じられたことはなかった。
 なお、マイヤーの編んだ「パルジファル」組曲は、50分ほどの長さで、第1幕前奏曲、「場面転換の音楽」、「クンドリの歌」、第3幕前奏曲、場面転換の音楽、終場の音楽、という組み合わせである。各曲の間には、特に接続の編曲はない。

 藤村実穂子は、その「ハンス・ハイリンク」と、「愛の死」、それに「パルジファル」組曲に織り込まれたクンドリの歌(第2幕)を歌ってくれた。
 最初の2曲は、もちろん非凡な歌唱ではあるものの、マイヤーの何か無表情で不愛想な音楽づくりに足を引っ張られたか、オーケストラへの「嵌り」も今一つ。彼女らしい深みのある壮大な表現があまり感じられなかったのが残念だ。
 クンドリの歌にいたって、彼女の強靭な力と気品と、とてつもなく壮大で陰翳の濃い表現力がやっと全開したような感。バイロイトで劇場の空気をびりびりと揺るがせたあの声の凄さと、あの祝祭で主役を張った彼女の実力が那辺にあるかが漸く聴衆に示されたといえようが、――しかし、もし指揮者に人を得れば、彼女の凄さはこの程度に収まらなかったはずである。

11・28(木)パーヴォ・ヤルヴィ指揮の「フィデリオ」(演奏会形式)

   横浜みなとみらいホール  7時

 パーヴォ・ヤルヴィがドイツ・カンマーフィル・ブレーメンを指揮したベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」。
 歌手陣は、ブルクハルト・フリッツ(囚人フロレスタン)、エミリー・マギー(その妻レオノーレ)、ディミトリー・イヴァシュチェンコ(牢番ロッコ)、ゴルダ・シュルツ(その娘マルツェリーネ)、ユリアン・プレガルディエン(刑務所員ヤキーノ)、トム・フォックス(刑務所長ドン・ピツァロ)、デトレフ・ロート(大臣ドン・フェルナンド)。合唱は東京音楽大学合唱団。ナレーターがヴォルフ・カーラー。

 演奏会形式とあれば、変な演出に煩わされることなく、音楽に没頭できるというのが有難い。
 ただし演奏会形式とは言っても、舞台前面に位置するソロ歌手たちと、後方に並ぶ合唱団は、ある程度の演技もしくは身振りを行なう。合唱団まで演技に加わっていたのには感心。

 今回の上演の最大の特徴は、素のセリフ部分はすべてカットされ、代わりにナレーターが入り、その朗読で物語を進めて行くところにあるだろう。
 この種の形の上演は、以前、1996年のザルツブルク音楽祭でのガーディナー指揮によるオリジナル版「レオノーレ」の演奏の際に、クリストフ・バンツァーの台本と朗読により行われたのを聴いたことがある(あの演奏は素晴らしかった!)。
 だが今回は、登場人物のひとりロッコが数年後にこの事件を回想するという形で進められて行く。そのナレーションのテキストは、ドイツの文学者ヴァルター・イェンツによる1985年刊行の著書から採ったもの(舩木篤也氏のプログラム解説による)とのこと。
 朗読は名調子だし、テキストの内容も興味深いが、ただ難点は、些か話がくどくて長いことですね。正直なところ、もういいから、早く次の音楽を聴きたいよ、と感じたことも一度や二度ではない・・・・。

 やはり音楽面では、パーヴォの指揮が素晴らしい。小編成のドイツ・カンマーフィルを鮮やかに制御し、歯切れよく畳み込んで劇的な展開をつくり、しかも抒情的な個所では、このコンビがと思うほどの柔らかい豊麗な音で歌を包み込む。第2幕冒頭の地下牢の場面では、くぐもった暗い響きで暗鬱さを描き出した。ピリオド楽器奏法のオーケストラがここまで多彩で雄弁な表現をするとは、驚異的だ。

 ソリストは名の通った歌手が多く、それなりに手堅いところを聴かせたが、テンポの速さと、会場の音響や立ち位置などの点で初日の今日は慣れなかったのか、若干せせこましい(?)感じの歌唱もなくはなかった。歌手みんなが暗譜で歌う中で、エミリー・マギーだけが楽譜を手放さなかったのは少々意外であった。
 音大の合唱団は、それほど多くない人数にもかかわらず、強大なパワーを発揮していた。
 9時35分に演奏終了。
    ⇒モーストリー・クラシック3月号 Reviews

11・24(日)日生劇場開場50周年記念公演 「フィデリオ」

     日生劇場  2時

 飯守泰次郎指揮の新日本フィルハーモニー交響楽団がピットに入る。演出は三浦安浩、舞台美術は鈴木敏朗。
 上演2日目の今日は第2キャストで、レオノーレを並河寿美、フロレスタンを今尾滋、ロッコを斉木健司、マルツェリーネを三宅理恵、ヤキーノを升島唯博、ドン・ピツァロを須藤慎吾、ドン・フェルナンドを大沼徹。合唱は田中信昭指揮のC・ヴィレッジシンガーズ。

 50年前の10月、ベルリン・ドイツオペラの大規模な引越公演によるベートーヴェンの「フィデリオ」上演で杮落しをした日生劇場――カール・ベームの指揮、グスタフ・ルドルフ・ゼルナーの演出に、クリスタ・ルートヴィヒ、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ワルター・ベリー、ヨーゼフ・グラインドル、ジェームズ・キングらにより演じ歌われたステージは、まさに圧巻だった。
 あのベルリン・ドイツオペラの初来日は、われわれ日本のオペラ・ファンに、演技と演奏の両面におけるアンサンブルというものの重要さと、ドラマの深層を抉り出す演出の面白さとを初めて教えてくれた画期的な大事件だったのである。

 そのわが国オペラ史上空前の大イベントを企画し制作した日生劇場が、杮落しと同じ演目「フィデリオ」を、今度は記念事業として、すべて日本人の手で上演した。いわばこれは、わが日本の演奏家とスタッフによる「50年前」への恩返し、あるいは挑戦ともいうべき意義を持つ公演のはずだったのだ・・・・。

 しかし実際は、それにふさわしい舞台が達成できていただろうか? 
 新日本フィルは薄手の音ではあったものの、飯守泰次郎の指揮で、とにかく第2幕冒頭では暗澹たる牢獄の絶望感を出し、「レオノーレ」序曲第3番や全曲のフィナーレでもそれなりの演奏をした。歌手陣では、ロッコの斉木健司が響きのあるバスを聴かせた。
 だが演出は――情けないほど緊迫度に不足していた。特に第2幕の頂点たる牢獄内での対決の場や全曲の最終場面などは、唖然とさせられるほどちぐはぐなコンセプトで、敢えて言えば幼稚な舞台であった。先日の「リア」に比べても、何という落差か!


【番外編 コンサート会場におけるマナーあれこれ 自省も含めて】

 今日の「レオノーレ」序曲第3番のコーダで、曲に合わせて手拍子(?)をやり出し、最後まで続けていた人が1階後方下手側の席にいた。会場係の制止も聞かなかったとのことである。御当人はさぞかし曲に興奮していい気持になっていたのだろうが、これはどう好意的に見ても言語道断だ。それも、手拍子が曲のリズムと完全に合っているならともかく、途中から次第にずれて行き、「あと打ち」になって行ったりしたのはいけません。

 こんな珍事はともかくとしても、演奏本番中の飴の紙の音、プログラムなどをめくる音、ストラップの鈴の音、早すぎる拍手やブラボーの声・・・・など、最近苦情が絶えないのが会場のマナーのことだ。傍からすれば迷惑に感じられる行動も、本人は全く意識していなかったり、別に問題もないだろうと思っていたりするところに、この問題の悲劇性がある。

 何年か前、サントリーホールでの東京響定期の休憩時のロビーで、いい歳をしたオジサンが2人、つかみ合いの大喧嘩をしていた。あとで聞くと、どちらかが本番中に音楽に合わせて指揮をするように手を動かしており、それを目障りに思った相手が注意をしたが聞かなかった・・・・のが発端だったとか。両者とも、その気持は充分解るけれども、乱闘までやることもあるまいに、と思う。

 こういう場合、日本人は、注意する側も、注意される側も、必ずケンカ腰になってしまう傾向があるようである(もちろん例外はあるだろう)。その点、外国人のお客は、何とも洒落ている(これも当然例外はあるだろう)。

 ある時、ニューヨーク・シティオペラで「トゥーランドット」を観ていると、隣のアメリカ人青年が、買い物の紙袋をガサガサとさせている前列席の女性客に穏やかに注意をした。女性客はもちろんすぐ止めたが、何と休憩時間になると後ろの青年に向かい、「さっきは悪かったわね」と改めて詫びたのである。青年もまた「It’s OK,It’s OK」と軽く返したのであった。清々しい空気が一瞬漂った。
 またある時、ウィーン国立歌劇場で、本番中に延々と咳をしていた男の中年客がいた。周囲の観客もチラチラとそちらに目をやっていた。するとその後ろに座っていたオバサンが、バッグの中からアメを出し、彼に差し出したのである! なんとまあスマートな注意の仕方であろう。――ただし、その「咳男」がそれを受け取るかと思いきや、「いいよいいよ、俺も持ってるから」と、おもむろに自分のポケットからアメを出して頬張ったのには驚いたが。

 外国ではそういう流儀なのかと私は感心したので、ある時METで、隣席のヒスパニック系とおぼしき中年男性客の猛烈な鼻つまりの息の荒さに閉口した際に、休憩時間を利用して穏やかに彼に指摘してみたことがある。すると彼はびっくりしたように、「えっ、そうか、自分では全然意識していなかったよ、すまなかった」と詫びて鼻をかみ、それから一切、鼻息を立てなくなった。そして、終演後に別れる際には、私に握手を求めて去って行ったのだった。注意した方もされた方も後腐れのない、鮮やかな幕切れと言うべきか。

 しかし実は私にも、演奏を聴きながらつい出てしまう癖がある。演奏に乗ってしまうと、ついそれに合わせ、手の指が動いてしまうのである。雑音を出すわけではないからいいだろうとこちらは思っていても、視覚の範囲内で何かがチラチラ動いていると気が散ってしまう人もいることは間違いない。

 今年のザルツブルク音楽祭でのことである。ラトルとベルリン・フィルの「春の祭典」を聴いていた際、あの錯綜したリズムが快く、無意識のうちについ指がそれに合わせて動いていたらしい。するとその時、隣のドイツ人らしきおじさんが、そっと横から私の手を抑え、にこにこしながら私の顔を覗き込んで来たのであった。
 あの流儀を思い出して、曲が終ったあと、私は彼に丁重に詫びた。彼はその時にも笑顔を絶やさない。「いいんだよ。それより、私の頼みを聞いてくれてありがとう」とまで答え、私に握手を求めて来たのである。そしてわれわれは、茶目っ気も含めて、日本式の丁寧なお辞儀をしあって別れたのであった・・・・。

 この一件で私も「悪しき癖」を大いに反省する機会を得たわけだが、どうしても今なお、音楽に没頭すると、ついそれが出てしまう。日本ではそんなに和やかには行かないから、前述のような修羅場を招く前に、何とか改めたいと思っている次第である。

11・23(土)チョン・ミョンフン指揮「トリスタンとイゾルデ」演奏会形式

       BUNKAMURAオーチャードホール  3時

 これは東京フィルハーモニー交響楽団の定期公演。Wagner Memorial Year in Japanの掉尾を飾る大イベントだ。演奏会形式ではあるが、非常に力のこもった上演であった。

 主演陣は、トリスタンをアンドレアス・シャーガー、イゾルデをイルムガルト・フィルスマイアー、クルヴェナールをクリストファー・モールトマン、ブランゲーネをエカテリーナ・グバノヴァ、マルケ王をミハイル・ペトレンコ。脇役陣は日本勢で、メーロトを大槻孝志、舵手を成田博之、牧人と水夫を望月哲也。それに新国立劇場合唱団。

 演奏会形式上演というのは、なかなかいいものである。妙な身勝手な演出にうんざりの当節――ただし旧弊で平凡な演出もうんざりだが――視覚的に気を散らされることなしに、音楽そのものにどっぷりと浸ることができる。ワーグナーのオペラの音楽には、それこそ汲めども尽きぬ魅力があり、何度聴いても常に新しい発見がある。その意味でも今日は、この作品の音楽の凄さを再認識できる愉しみを味わうことができた。

 それはいいけれども、今回チョン・ミョンフンが採ったテンポは、昂揚個所では、おそろしく速い。第1幕の「愛の媚薬」を飲んだ個所から幕切れにかけてのところなど、まさに疾風怒涛だ。
 もちろん、第1幕の「前奏曲」や第2幕の「愛の2重唱」、第3幕の「前奏曲」や「トリスタンの苦悩」など、一般的に採られるテンポとして納得が行く個所も多いが、「速く」と指定されている個所が異常に速すぎるのである。
 演奏時間は、およそ77分(第1幕)、65分(第2幕、ただし2重唱の前半部分に半慣例的なカットあり)、72分(第3幕)という具合だから、全体的にやはり速いだろう(これは、今年5月25日にエッセンで聴いたシュテファン・ショルテスのテンポに匹敵する速さだ)。

 速いこと自体は、それはそれでいいかもしれない。しかし問題は、音楽に「矯め」が皆無であることだ――つまりこの演奏は、主人公たちの「ためらい」も「迷い」も描き出さないのである。「トリスタンとイゾルデ」は、そんな単純な音楽のドラマだったか? その駄目押しは、第3幕のブランゲーネの言葉が終るや否や、実にあっけなく最後の「イゾルデの愛の死」に入って行く、無造作と言ってもいいほどのテンポ運びであった。

 プログラムには、チョン・ミョンフンのコメントが引用されている(朝日新聞・吉田純子記者のインタビューを基にしたエッセイから)。それによると、チョンは自らのことを、テキスト(歌詞)には関心を持たず、専ら音楽そのものから人間の感情などを造型して行く指揮者だ、という意味のことを語っている由。
 なるほど、舞台というものは音楽の視覚的具象化である――とかいう名言を吐いたのはワーグナー自身でもあった。だが、それは一面では真理ではあるものの、別の意味では、言葉の綾でもあるだろう。音楽はもちろんドラマを主導する。しかし、作曲家はテキストに作曲するのであって、作曲したものにテキストを当てはめているのではないのである。

 とはいうものの、演奏者たちはみんな大熱演して、最善を尽くしていた。
 トリスタン役のシャーガーは、少し線は細い感はあるものの声は充分だし、純な青年ともいうべきトリスタン像をつくり上げ、第3幕での役柄への没入感を示すような歌唱はみごとだった。
 一方イゾルデ役のフィルスマイアーは、第1幕では若々しいイゾルデ像で好調だったが、第2幕以降はやや声が荒れ、速いテンポに煽られて歌唱の細部が疎かになり、しかも高音が絶叫調になって行ったのが残念だ。彼女、ちょっと無理をしているのではないかな、という危惧を抱かざるを得ぬ。

 これに対し安定していたのが、ブランゲーネ役のグバノヴァで、舞台奥から歌った「ブランゲーネの警告」は素晴らしく、最後の長い弱音までを実に明確に美しく響かせていた。マルケ王役のペトレンコは、この役には声が少し軽いのではないかと予想されたが、「あまり老人ではない、まだ血の気の多い」マルケ像として独自の個性を発揮していたと思われる。

 同等に賞賛したいのは、東京フィルハーモニー交響楽団である。厚みのある響きで、空間的な音の拡がりを充分につくり出していた。これだけの演奏ができるオーケストラなのに、新国立劇場なり東京文化会館のピットに入った時には、なぜこのような立派な演奏が生まれないのか――東京フィルの七不思議(?)の一つである。

 先ほど、「掉尾を飾る」と書いたが、今日と明日は、「あらかわバイロイト」も同じ「トリスタンとイゾルデ」をサンパール荒川大ホールで舞台上演しているはず。上演の機会のそれほど多くない作品が、かち合う時にはかち合うものだ。これも業界七不思議(!)の一つか。観に行けないのが残念。

11・22(金)上岡敏之指揮読売日本交響楽団

    サントリーホール  7時

 高栄養価の脂肪分たっぷり、ヨーロッパの美食料理を堪能したこの数日間のあと、久しぶりに日本に帰って来た、という安堵感(?)を得たような今夜の演奏会。
 だがこの和食の、いや日本のオーケストラの演奏は、欧州の大管弦楽団のそれに対して、少しも引けを取らない水準にあったろう。立派な演奏であった。

 ドイツで活躍する、わが国随一の個性派指揮者・上岡敏之にとって、いま日本で一番相性のいいオーケストラは、この読売日響かもしれない。今回はブラームス・プロで、「ピアノ協奏曲第2番」(ソロはデジュ・ラーンキ)と「交響曲第3番」が演奏された。

 かつてアンドラーシュ・シフ、ゾルタン・コチシュとともに「ハンガリーの若手3羽烏」と言われたデジュ・ラーンキも、今年もう63歳。品のいい老紳士となった彼が弾き出すブラームスは、表情豊かな風格と、おしつけがましくない端整さを備えていて、快い。第1楽章では僅かに不安定なソロも聴かれたものの、第3楽章での逍遥するような、モノローグのような沈潜さを加えつつ終結感を出して行くあたりは、この人の健在ぶりを印象づける。
 それに加えてこの曲での上岡と読売日響の演奏が、率直にして誠実、見事なサポートぶりだ。第3楽章でのチェロのソロは、何と特別ゲストの宮田大。同楽章最後の管楽器群のハーモニーの美しさも出色であった。

 「第3交響曲」では、協奏曲では遠慮していた感のある上岡の個性的なアプローチが一気に噴出する。といっても、それほど奇を衒った演奏ではなく、全曲の骨格をしっかりと構築した上に自由な感興を織り込むといったタイプものだ。
 弦を羽毛のように柔らかく、陰翳ある音色で、また木管も柔らかく、くぐもった音色でそれぞれ演奏させ、あたかもドイツの良き地方色を備えたオーケストラのような音を、読売日響から引き出していたのが興味深い。
 この曲でも、特に木管楽器群のバランスには面白いものがあり、各楽章の最後の、弱音での終結和音の美しさが印象に残る。ただ、第2楽章における木管群による主題の中で、1番クラリネットをむしろファゴットの中に埋もれさせるようなバランスで吹かせていたのは、上岡の解釈なのかどうかは判らないけれども、多少疑問が残る。

 上岡にしてはあまりピリピリしたエクセントリックなところのない、むしろたっぷりと叙情感を、稀に激しい劇的な振幅を表出するといった「3番」ではあったが、通常のリハーサル時間内で、かように音符の隅々まで神経を行き届かせ、オーケストラを完全に制御することができるのは見事と言うべきだろう。読売日響の柔軟な反応力も、いつもながら優れたものだ。
 今夜の演奏、協奏曲は立派なブラームス、交響曲は面白いブラームス、とでも言うか。

11・21(木)アンドリス・ネルソンス指揮バーミンガム市交響楽団

   東京芸術劇場コンサートホール  7時

 この日は東京芸術劇場主催の演奏会で、ワーグナーの「ローエングリン」第1幕前奏曲、シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはヒラリー・ハーン)、チャイコフスキーの「第5交響曲」なるプログラム。

 いつものように2階席正面A列で聴いたのだが、「ローエングリン」前奏曲がえらく硬い音で刺々しく響いて来たので、これは反響板をオルガンの前に下ろしたせいなのかとも思った。が、そのあとの2曲ではバランスのいい響きと音色が構築されていたところをみると、それぞれネルソンスの解釈によるものだったのかもしれない(1階席後方でどう聞こえたか、興味のあるところだ)。

 チャイコフスキーの「5番」では、ネルソンスのあの一癖も二癖もある細密入念な設計が聴けるかと期待していたのだが、意外にストレートなアプローチ。もっともこの曲は、もともとテンポの動きの激しい交響曲だから、たとえネルソンスが特別な細工を試みても、スコアに指定されているテンポの変動の中に呑み込まれてしまうのだろう。
 しかし、第2楽章後半、アニマンドからピウ・モッソ、ウン・ポーコ・ピウ・アニマンド、アンダンテ・モッソ、リタルダンド、アニマンド・ウン・ポーコ、モルト・ピウ・アンダンテ・・・・目まぐるしくテンポを変えつつ頂点に向け昂揚していく個所での緊迫した音楽づくりなどでは、ネルソンスのただものではない力量が覗える。

 とはいうものの、総じて19日のブラームスの「第4交響曲」におけるような凄みは感じられず、その意味では、チトこちらの期待が大きすぎたかな、という感。

 結局、最もスリリングだったのは、ヒラリー・ハーンの弾くシベリウスのコンチェルトであった。彼女の演奏に漲る張り詰めた知的な叙情と昂揚、寸毫も隙のない音の密度、息もつかせずクライマックスに追い込んで行く構築は、まさに超人的なものに思える。この楚々とした容姿のヴァイオリニストからどうしてあんなに凄絶な音楽が生まれるのか、舌を巻かずにはいられない。
 もちろんそれは今に始まったことではないのだが、この曲でのネルソンスとバーミンガム市響の演奏も、彼女の演奏と呼応して、見事な躍動感を噴出させていた。第3楽章でのあの特徴あるリズムなど、まるで北欧の妖怪トロルが進んで来るような暗い不気味さを感じさせたのである。

 アンコール前後の進行は19日と同じ。日本語で挨拶したのはヴィオラの首席奏者だったと思うが、その日本語も、随分流暢になった。

11・20(水)サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル

   ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 サイモン・ラトルと強豪ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の、今回の日本ツァーのこれが最終公演。
 シューマンの「交響曲第1番《春》」と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」という「春」に因んだ作品を前後に置き、その間に樫本大進がソロを弾くプロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」を据えたプログラムで行われた。

 客席は文字通りぎっしりの状態だ。欧州の3大交響楽団が同時期に東京で激突(2004年11月にも同様のケースがあった)したにもかかわらず、その3つとも、すべてほぼ満席だったようである。東京のクラシック・ファンの体力(財力?)も凄まじいもの、と言うべきか。

 シューマンの「春」は、この曲の一般的なイメージとは正反対の、ごつごつした強面の構築で演奏された。筋肉質というか闘争的というか、仁王の如きシューマン像が立ち現れる。この演奏を「あまりに暴力的」だと反発していた知人もいたが、これがシューマンを「19世紀ロマン派の詩人」というイメージから解き放とうというラトルの意図なのかもしれぬ。もちろんこの演奏には、ベルリン・フィルというオーケストラの個性も反映しているだろう。
 しかし、私の好きな第2楽章では――他の演奏に比べれば剛直感は残すものの――安息に満ちた叙情性が充分に表出され、弱音の美しさを際立たせていたのも事実なのである。

 今回は3階席(3C)ほぼ正面で聴いた所為もあってか、巨大な釜の中から沸き上がって来るようなベルリン・フィルの、恐ろしいばかりの物凄い音圧に呑み込まれるような思いを存分に味わったが、その一方で、極端なピアニッシモの響きも印象に残った。これまであちこちで聴いたラトルとベルリン・フィルのナマ演奏の中で、今日ほどその響かせ方が巧いな、と感じたことはない。2曲目のプロコフィエフの協奏曲での、わが樫本大進の嫋々たるリリシズムに富んだソロを支えたオーケストラの響きはその好例で、もちろんがっしりした構築感の範囲ではあったが、極めて優しく、美しいものであった。

 樫本大進がコンチェルトを弾くのを、実は私は久しぶりに聴く機会を得たのだが、「コンサートマスターでなくソリストとしての」彼の音楽が、今なお健在であったことはうれしい。

 最後の「春の祭典」は、まさにラトルとベルリン・フィルの威力を余すところなく発揮した豪演だ。「春のきざしと乙女たちの踊り」で全弦楽器が爆発する個所の音量、厚み、重量感、威圧感からして、並みのオケとは違う。このコンビの「春の祭典」は、つい3か月前にザルツブルクでも聴いたが、あそこの祝祭大劇場よりこちらのミューザ川崎シンフォニーホールの方が音響もずっといいし、よく響くので、彼らのパワーはいっそう壮絶凄愴にこちらへ襲いかかって来る。

 ただ、演奏そのものは、どんなに咆哮しても忘我的な熱狂に陥るタイプではなく、あくまで均衡を重視した厳格な構築を保っている。そのため、第1部での威圧感に慣れてしまうと、第2部ではやや刺激感に乏しくなって来る(贅沢なことを!)というのも正直なところではないか。しかしいずれにせよこれは、並はずれて豪壮な「春の祭典」であった。

 冒頭のファゴットのソロは、何ともまあやり過ぎではないかと思えるくらい、延々としたテンポで艶麗に吹きまくった。あれは先日のザルツブルクでも、昨年ベルリンで録音されたCD(EMIクラシックス TOGEー11089)でもやっていなかったものだ。今回のご愛嬌か?

 そういえば、コンチェルトを弾き終った樫本大進が、「春の祭典」のチューニング直前に飛鳥の如く第1ヴァイオリンの最後尾のプルトの間に潜り込み、楽員と聴衆が大笑いし、コンサートマスターのスタブラヴァまでが、チューニングしながら弓で彼を煽るかのように指し示す、という実に和やかな光景もあった。
 またこれは、通訳の蔵原順子さんから聞いた話だが、サントリーホールでプロコフィエフのコンチェルトのリハーサルを開始する時に、ラトルとベルリン・フィルのメンバーが示し合せ、いきなりメンデルスゾーンのコンチェルトを演奏しはじめるというイタズラをやり出したそうな。ところが樫本大進、少しも慌てず、とっさにみんなに合わせてそのメンデルスゾーンのソロを弾き出してみせた。で、ラトルも楽員も「な~んだ、がっかり」と爆笑になったとか。
 ベルリン・フィルも、おとなのユーモアを解する粋なオケだ。コンマスとしての樫本大進がこのオケによく溶け込んでいる様子も覗われて面白い。

 コンサートの最後は、定石通り拍手鳴りやまず。ラトルはソロ・カーテンコール。聴衆を制して、「この素晴らしい音のホールに戻って来られたのは幸せ」とスピーチ。いつかもそんなことがあった。彼がこのホールを気に入っているのは周知の事実である。
   ⇒日本経済新聞

11・19(火)アンドリス・ネルソンス指揮バーミンガム市交響楽団

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 昨日から24日までの間に東京4公演、北九州と西宮で各1公演というのが今回の来日ツァーの日程。

 ヒラリー・ハーンとエレーヌ・グリモーをソリストに加えた今回のツァーの布陣は、普通なら強力のはずだが、折しも東京はウィーン・フィル、ベルリン・フィル、コンセルトヘボウ管の所謂「欧州3大オーケストラ」が入り乱れる修羅場。知名度に於いて一歩及ばぬネルソンスとバーミンガム市響が、どうしてもワリを食う立場になるのも、仕方のないところか。
 特に昨日は、ウィーン・フィルこそ帰ったものの、ヤンソンス率いるコンセルトヘボウはまだ公演があったし、ラトル率いるベルリン・フィルも東京初日だったから、さすがにこちらバーミンガムは些か苦しかったようである。

 最近は平日のマチネーでも結構客が入る時代だから、昨日の公演(ヒラリー・ハーンがゲスト・ソリストで出た)など、マチネーでやっていれば、他のオケとカケモチで聴こうという人も多かったのではないかと思うのだが如何。
 しかし思えば、ネルソンスはヤンソンスの同郷の後輩であり愛弟子でもあり、バーミンガム市響もかつてはラトルが音楽監督を務めていたオケでもある。面白い因縁だ。

 それはともかく、ネルソンスとバーミンガム市響は、見事な意地を示した。熱演また熱演の充実したステージは、「3大管弦楽団」に対して些かも引けを取らない出来だったと言って良い。
 最初の「プロメテウスの創造物」序曲(ベートーヴェン)の第1音からして、凄まじい気合が入っていた。音色はブリリアントで、重量感があり、演奏には闊達な活力があふれんばかりに漲る。

 エレーヌ・グリモーとの協演によるブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」でも、ネルソンスは遅めのテンポで押し、特に第2楽章では秘めやかな、しかもスケールの大きな叙情感をつくり上げる。ここは絶品であった。
 2人が協演したこの曲のCD(グラモフォンUCCG1637~8、バイエルン放響)もつい先頃出たばかりだが、流石にこの手兵バーミンガム市響とのナマ演奏を聴くと、ネルソンスがどんなに微に入り細にわたって音を綿密に仕上げているかが、逐一判る。

 グリモーのソロも、切り込み鋭く、しかも瑞々しい息吹に満ち、実に形容しがたい素晴らしさだ。アンコールはラフマニノフの「音の絵」作品33の2で、私はオーケストラ・コンサートでソリストが長いアンコール曲を延々と弾くのには基本的に賛成できないタチなのだが、このグリモーの演奏だけは、いつまでも聴いていたいほどの魅力にあふれたものであった。

 休憩後にはブラームスの「第4交響曲」。これこそまさにネルソンスの本領発揮。気心知れた手兵のオケだからこそ、このように思い切ったテンポの変化、デュナミークの変化を付与して、千変万化の表情を持つ演奏を創れるのだろう。
 それは少し誇張が過ぎると思える瞬間もないではないが、これだけ演奏が緻密に、すべての音符に神経を行き届かせて、完璧な均衡を備えた形で構築されていると、異論も唱えにくくなる。
 第2楽章の第2主題における弦楽合奏のしっとりした厚み(第41~49小節、88~95小節)が、これだけ美しい表情で演奏された例も稀であろう。第4楽章のあのフルート・ソロが終ったあと、クラリネットやオーボエの動きの下にヴィオラとチェロが加わって来る個所(第105小節以降)なども、ハッとさせられるような神秘的な優しさに富んでいた。

 ネルソンスは、長身をまるで踊るように動かし、長い腕を振り回して、細かい指示よりも、イメージを与えるような指揮をする。バーミンガム市響も、すでにネルソンスとともに音楽の細部まで完璧につくり上げているので、指揮者のそんな身振りに応じて、変幻自在に動く。見事なコンビだ。

 アンコールはエルガーの「朝の歌」。ネルソンスが英語で「温かい雰囲気がうれしい」と挨拶、楽員の1人がたどたどしく日本語で曲を紹介し、「マコトニアリガトゴザイマシタ」と、ホール全体を和やかな笑声と拍手で包んだ。実にいい雰囲気で結ばれたコンサートであった。木曜日(21日)のチャイコフスキーの「5番」や、ヒラリー・ハーンとのシベリウスの協奏曲も、きっと聴きものだろうと思う。

11・18(月)マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 来日最終公演で、ワーヘナールの序曲「じゃじゃ馬ならし」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲、チャイコフスキーの「交響曲第5番」というプログラム。

 指揮者とオケの素晴らしさについては、一昨日書いた。
 だがこちらの会場のアコースティックは周知のごとく、清澄ではあるものの残響が少ないため、オーケストラの響きもドライになって生々しい存在感が薄らぎ、音色も淡彩になる。1階席で聴いていると、「5番」第1楽章でのほんのちょっとした音のずれまで目立ってしまうという具合だ。そんなことをあれこれ言う聴き方は、ふだんなら絶対しないのだけれど――。

 オランダの作曲家ワーヘナールJohan Wagenaar(1862~1941)の序曲「じゃじゃ馬ならし」は、1909年の作曲だというけれども、まるでワーグナーの最初期の作風(1840年頃)をさえ思わせる奇妙な作品だ。オランダの作曲家の作品をせめて1曲、という意向は大変結構だが、もう少し、ほかに選曲の仕様もあったのでは? 

 最後のアンコールにはチャイコフスキーの「眠りの森の美女」からの「パノラマ」。曲の終りは原曲通りとはいえ、何だか少しあっさりした終り方の演奏だった。
 しかし、あっさりエンディングという点では、「5番」の第1楽章の結尾の演奏の方が意外だったろう。スコアでは「p3つからの漸強―漸弱」という謎めいた効果を出す指定になっているのだが、ヤンソンスはこれを漸強で保持したまま、最後をものの見事にスパッと切った。そのため音楽はふだん聴き慣れたものとは全く違うイメージになり、チャイコフスキーがえらく「思い切りのいい」人物像と化したのである。
 あの「英雄の生涯」のエンディングといい、これといい、ヤンソンスも面白いことをやるものだ。

 一方、念入りに過ぎたのは、演奏会の幕切れ。
 皇太子ご夫妻が見えていたのだが、オーケストラもヤンソンスも、皇族が退場されるまでは袖に引き上げるつもりが無い。一方皇太子ご夫妻も、演奏者が退場するまで拍手を止めない。舞台と2階席とで駆け引き(?)が延々と続き、その間、満席の聴衆は舞台を見たり、2階席を振り返ったり、首を交互に廻しながら、これまた延々と拍手を続けたのであった(結局ヤンソンスとオケが恐縮しつつ、先に引っ込んだ)。
 私の経験ではこういうケースは、かつてこのホールで朝比奈隆さんがブルックナーの「5番」を指揮し、それを今上天皇が聴きに来られた時に全く同じことがあって以来、2度目である。
      日本経済新聞
      モーストリー・クラシック2月号演奏会Review

11・18(月)METライブビューイング ショスタコーヴィチ:「鼻」

     新宿ピカデリー  午前10時

 メトロポリタン・オペラで、去る10月26日に上演されたステージのライヴ映像。
 内容については、2010年3月18日と、今年10月8日とに、METの現場で観たものとほとんど同じだから、重複して書くのは避ける。ただし、今回映像記録された日の上演は、指揮がゲルギエフでなく、パヴェル・スメルコフに替わっている。

 改めて映像で見ると、主人公コワリョフ役のパオロ・ジョット(映像の中で紹介される時には「ショット」と聞こえる。スペルはSzotだから微妙なところだろう ※註)の巧さが、いっそう目立つ。そのへんを面白く味わえるのは、やはり近接映像の強みである。
 それに、歌詞だけでなく、舞台上に投映されていた言葉のうち、重要なものが字幕で表示されるというのもありがたい。幕切れの字幕が「終」でも「完」でもなく、「おしまい」と出たのも、ちょっとしたことだが、ドラマの流れからみても、秀逸なセンスだ。

 ただ、METの現場では、巨大な舞台いっぱいに空間的な拡がりを以って繰り広げられていた様々な光景やアニメが、ここ映画館では制約された大きさのスクリーンに凝縮されてしまうので、ただでさえ目まぐるしい動きがさらに誇張されて見えるということになって、些か疲れるのは確かである。それに、私がいつも観ている東劇に比較すると、新宿ピカデリーの音量は(若干程度だが)大きすぎる。それもまた疲れる要素の一つだ。

 インタビュー・コーナーはピーター・ゲルブ(MET支配人)とウィリアム・ケントリッジ(演出)の対談のみ。ゲルブはこのプロダクションがケントリッジの提案によるものだったという意味のことを喋っていたが・・・・3年前にはたしか、自分が支配人に就任するに際しこの作品を上演したいと思いつき、ケントリッジに演出の白羽の矢を立てたとか何とか、そう言っていたのではなかったっけ?


※以下のような指摘のコメントを頂戴しました。
【Paolo Szotはポーランド系ブラジル人のようで、ポーランド語のszはシマノフスキSzymanowskiやヘンリク・シェリングHenryk Szeryngのように「シ(ュ)」の発音なので、ジョットではなくショットでいいかと思います。】

(御礼)
 重要なご指摘です。ありがとうございます。今回は、上映制作元・松竹の表記に従っていました。ただし松竹も、MET側の発音表記案内を参照していたはずだと思います。

 それにしても、日本語表記は、どれを基準にするか、難しいですね。「パルジファル」も、北ドイツでは「パルジファル」、南の方の、特にフランケン(ワーグナー一家の本拠の方)では「パルシファル」だそうで。日本のメディアでの標準表記が前者、NHKや松竹が後者、となっているのも、そうした理由に因ります。

11・17(日)クリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン・フィル

   サントリーホール  4時

 11月6日の大阪を皮切りに行われて来たティーレマンとウィーン・フィルのベートーヴェン・プロによる公演も、今日がついに最終日。
 交響曲「第8番」と「第9番」がプログラムに組まれ、「第9」にはウィーン楽友協会合唱団が協演する。豪華な演奏会である。
 声楽ソリストには、エリン・ウォール(S)、藤村実穂子(Ms)、ミヒャエル・ケーニヒ(T)、ロベルト・ホル(Br)が参加していた。

 「8番」が開始された瞬間から、仮にブラインド・テストであっても判るような、これぞまさにウィーン・フィル、といった独特の響きが流れ出す(コンサートマスターはおなじみライナー・キュッヒル)。一口では形容しがたい、一種の官能的な美を湛えた音色だ。
 今回のティーレマンは低音域に重心を置いた剛直な構築性をオーケストラから引き出し、壮大な風格を持つ音楽を展開させており、特に「8番」ではベートーヴェンのユーモア感などに全くこだわらぬ正面切ったアプローチを試みていたが、その厳然とした構築感がウィーン・フィルの柔軟な表情と微妙にせめぎ合うところに、ある意味での面白さが感じられたのである。

 「第9」では、ティーレマンの個性が存分に発揮された。これほど濃厚な「第9」に出会ったのは、ナマの演奏会における私の経験では、これが最初だ。

 ティーレマンは、ブライトコップ版(もしくはそれに近い楽譜)を使用し、16型編成の弦と倍管とで重厚な響きを出し、遅めのテンポで、しかも緩急を自在に変化させて行く。時に付与するリタルダンドとパウゼも、昔の彼とは大いに違って、今では緊迫感も充分である。ティーレマンのこの凄まじいアクの強さと、ウィーン・フィルの千変万化の柔軟な音色と表現力とが交錯する面白さを味わえるのは、ナマの演奏でこそ可能なことであろう。

 第1楽章は、異様なほどのミステリアスな雰囲気で演奏されて行った。これほど「暗い」マエストーゾの楽章も稀ではなかろうか。そして、その神秘性が解決される形で、見事に昇華されて行った個所が、第4楽章の合唱「星のあげばりの上に神は住み給う」のくだりではなかったろうか? ここでのティーレマンの伸縮自在のテンポと、pからfの間を縦横に動く微細なデュナミークの変化は、幻想的なほど美しい神秘性を生んで、舌を巻くほどの素晴らしい音楽づくりになっていた。

 また、音色づくりの面白さもある。たとえば、第4楽章のテノール・ソロに先立つ行進曲の個所。あたかも勝利の行進が「遠くから」聞こえて来るかのごとく、木管群が絶妙な美しい弱音で行進曲を吹きはじめ、それが次第に近づき、盛り上がる。この柔らかい音色の効果は、実に驚くべきものだった。指揮者の設計の巧さと、オーケストラの表現力の豊かさが発揮されたところでもあった。

 その他、全曲いたるところでのテンポの精妙で鮮やかな動かし方――特に音楽が高揚する個所でテンポをみるみる速めて行く呼吸など、どこまでが自然体で、どこからが芝居気なのか、判然とし難いほどの名人芸である。ティーレマンも凄い指揮者になったものだとつくづく感心するが、一方それを受け止め、合わせていると見せつつ、おのれの個性の中に指揮者を引き込んでしまうウィーン・フィルのしたたかさ、老練さにも舌を巻かないではいられない。指揮者とオケとの真剣勝負とは、こういう演奏を指すのではないか。

 これほど強烈な主張を感じさせる「第9」は、現代では滅多に聴けないだろう。部分的に如何に見事な演奏があったとしても、このティーレマン=ウィーン・フィルの演奏全体と比較すると、何かが足りなく思えてしまうかもしれない。

 ソリストは、藤村実穂子だけは実に安定した歌唱を聴かせてくれていたが、あとの御三方は、残念ながら少々頼りない。
 特にロベルト・ホルは、かつてバイロイトその他で素晴らしい歌唱を聴かせた時代のことを思い出すと、何とも寂しい限り。出だしのレチタティーヴォの個所をはじめ、続く「歓喜の歌」の先導のくだりの歌唱など、失礼ながらあれではとても「幾百万の人々」を高揚に誘うリーダーとしては・・・・。
 代わってその役割を果たしたのは、あの素晴らしいウィーン楽友協会合唱団だった!
   ⇒日本経済新聞

11・16(土)マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

   サントリーホール  7時

 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団創立125周年記念として行なわれている今回のアジア・ツァーは、ロシア、中国、日本、オーストラリアなどを回る、ほぼ4週間に及ぶ大規模なものの由。日本での公演は、僅か3日間・3回と慌ただしい。

 今日はその初日。直前の北京公演では「体調不良のため」キャンセルした首席指揮者マリス・ヤンソンスも、元気でその姿を見せてくれたのはうれしい。相変わらず飛んだり跳ねたり、70歳とは思えぬ活力を指揮台上で示すヤンソンスだが、出入りの際に時々咳をしているらしい様子が気になった。
 今日のプログラムは、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロはエマニュエル・アックス)と、R・シュトラウスの「英雄の生涯」。

 「英雄の生涯」は、2004年11月、このオケが、首席指揮者に就任したばかりのヤンソンスと共に来日した際に取り上げていた曲でもある。
 あの時は予想外にエネルギー感を優先した野性的な演奏――まあ一口に言えば随分荒っぽい演奏で、かつてのコンセルトヘボウ管が持っていた精緻で柔らかい響きは何処へ行ったのかと驚いたものだが、最近出たその直前(9月)の就任記念演奏会ライヴCD(RCO LIVE KKC5284)などを聴くと、なかなかしっとりした雰囲気も漂わせているから、たまたまあの日の演奏がそうだったのかもしれぬ――もっとも録音というのは、マイクのアレンジひとつ、マスタリングの手加減ひとつでどうにでも音を変えられるものだから、必ずしもアテにはならぬが・・・・。

 しかし、9年後の今、ヤンソンスとコンセルトヘボウ管が聴かせてくれた「英雄の生涯」は、このオケの威力を存分に発揮した豪壮な力と、豊麗で温かい色彩感とを併せ持った、素晴らしく魅力に富んだものになっていた。
 弦18型編成の音の厚みは壮麗そのものだし、各パートの交錯により生れる音の空間的な拡がりも、優れた指揮者とオーケストラだけが創り出せる世界だろう。
 その響きも明晰だ。「英雄の業績」におけるシュトラウス自身の旧作のモティーフ群の動きも、内声部にいたるまではっきりと聴き取れる。しかもヤンソンスは、それらモティーフをわざとらしく強調するのではなく、あくまで自然体で音楽を構築する。これもまた、彼の円熟の為せる業ではあるまいか。

 とにかく、オーケストラは、いつもながら巧い。
 ホルンもいいが、私が今回の演奏で特に感心したのは、「英雄の伴侶」で長いソロを弾くコンサートマスターだ。柔らかで優しく、しかも生き生きした表情にあふれたソロは、如何にも「伴侶」の姿を描くにふさわしい。このソロを、時にヴァイオリン協奏曲でも弾いているように名人芸を誇示する心得違いのコンマスもいるけれども、こうしてコケティッシュに、表情豊かに弾いてくれれば、この曲の標題的要素も充分に生きて来るというものだ。彼のリードで、そのあとに続くシュトラウス独特の豊満な叙情の美しさも余すところなく発揮させられたと言えよう。

 なお、全曲最後の3小節での演奏はユニークな形だ。改訂現行版の出版譜では全管楽器と打楽器群がフォルティシモで爆発したあとに、2小節間でdim、最終小節で管楽器群がmolto dim、と指定されているが、ヤンソンスはその2小節間をフォルティシモのまま押し通し、最終小節の強拍に強いアクセントを付けて駄目押ししたのち、初めてdimに移るという方法を以前から採っている。2004年9月のライヴCDでのような小太鼓の猛烈なクレッシェンドは、今回は採っていなかったものの、いずれにせよちょっと変わったやり方である。何か根拠はあるのだろうが・・・・。

 アンコールは同じくR・シュトラウスの「ばらの騎士」からの組曲の最終部分。オケは相変わらず巧いが、恐ろしく威勢が良すぎて、祭典音楽か軍楽のようになったのは些か行き過ぎの感も。これは9年前の演奏の特徴と同じだった。

 第1部で演奏されたアックスのソロによるベートーヴェンの印象がやや薄くなってしまったけれども、これは実に落ち着きのある誠実な演奏の「3番」。
 久しぶりにステージで見るアックスは少し老けた感もあるが、変わらぬ健在ぶりを聴かせてくれたのがうれしい。その演奏には、昔より陰影が増した。アンコールで弾いたシューベルトの「即興曲 作品142-2」も静かで考え深いモノローグのよう。
    ⇒日本経済新聞
    ⇒モーストリー・クラシック2月号演奏会Review

11・15(金)紀尾井シンフォニエッタ東京&ペーター・レーゼル

   紀尾井ホール  7時

 ドイツの指揮者イェルク=ペーター・ヴァイグレが客演した紀尾井シンフォニエッタ東京の定期公演を聴く。
 ペーター・レーゼルの弾くシューマンの「ピアノ協奏曲イ短調」を真中に、メンデルスゾーンの「弦楽のためのシンフォニア第7番ニ短調」と、シューベルトの「交響曲第5番変ロ長調」で前後を固めている。実に品のいいプログラムだ。

 レーゼルは、シューマンのコンチェルトを、実に深々と温かく、しかも風格豊かに弾く。彼の表現にかかると、シューマンという作曲家が――もちろん、所謂ロマン派の叙情詩人といった趣は失わぬまでも――常日頃よりも毅然として確信に満ちた、生真面目な精神の持主として立ち現れて来る。少し重めで渋めで、落ち着いた気品とヒューマンな情感を漂わせる響きで再現されたこの曲は、いつもとは違った魅力を感じさせてくれた。

 ソロ・アンコールで弾いた「トロイメライ」が、これまたちょっと無骨で、訥々たる温かさにあふれる語り口だったのも面白い。
 次回(来年11月)には、このオケの定期で、ブラームスの「1番」のコンチェルトを弾いてくれるそうである。

 イェルク=ペーター・ヴァイグレの指揮をナマで聴くのは、これが初めてかもしれない。これだけではどうも彼の芸風の全貌は掴みにくいが、言っちゃ何だけれども、そう面白い指揮者でもない。
 紀尾井シンフォニエッタ東京はきちんと演奏してはいたが、音の色合いには、変化が乏しかった――メンデルスゾーンの作品でもそうだったが、特にシューベルトの第2楽章での転調個所などでは、たとえば一瞬雲が切れて陽が射して来るような気分の変化をもっと出せたらな、ともどかしい感じもしたのである。これは指揮者の責任だろうが、客員コンマスのアントン・バラホフスキーにもその一端があるかもしれぬ。
 ただ、この指揮者は、曲の頂点へ向けて追い上げ、終結感を巧く打ち出す術には長けているようだ――たとえばシューベルトの第1楽章の終りなど。

11・10(日)アリベルト・ライマン:オペラ「リア」

    日生劇場  2時

 日生劇場開場50周年、読売日本交響楽団創立50周年、二期会創立60周年を記念する、昨年の「メデア」に続くアリベルト・ライマンのオペラの舞台上演。
 指揮が下野竜也、演出が栗山民也。主催者、スタッフ、キャストの総力が実って、極めて充実したプロダクションとなったのはめでたい。

 「リアLear」とはいうまでもなくシェイクスピアの戯曲「リア王」の主人公のこと。原作の物語をほぼ忠実にオペラ化したクラウス・H・ヘンネベルクの台本により、音楽は1978年に完成されている。
 したがって「メデア」(2010年ウィーン初演)よりもずっと若い時期の作品ということになるが、それだけに音楽には直截なエネルギー感があふれ、劇的な描写力もストレートで解りやすい。

 邪な2人の娘に裏切られたリアが絶望のあまり嵐の中で狂乱に陥るくだりは、最もオペラ向きの場面といえようが、そこでのライマンの音楽は、比較的シンプルな作曲手法ながら、凄まじい迫力を感じさせる。弦楽器群が持続させる響きの上に金管が断続的に怒号する手法は、ブリテンの「ピーター・グライムズ」を思い出させるけれども、あれよりも更に執拗で粘着的で強烈なのは、さすがにドイツ人の作品ゆえ(?)か。

 全曲を通じオーケストラの雄弁さと、その巨大な音響が目立つ。ただ、第1幕(90分を超える)での緊迫感に比べると、第2幕(60分程度)の、特に後半は少し弛緩する感がなくもない。
 リアが末娘コーデリアの遺体に取りすがって悲嘆の極、死んで行く前後の場面も、ドラマとしてもやや念入り(?)で、長いか。昔、平田禿木が書いた読み物「シェイクスピア物語」(1947年文壽堂刊)の「リヤ王」の終結、「けれども私はこの悲しい物語をあまりに長く續けすぎはしなかったでしょうか」という一文を、ふと思い出した。

 歌手陣。今日は8日の公演と同じAキャスト。
 主人公のリアを歌った小森輝彦は、特に第1幕はほぼ出ずっぱり、狂乱の場を中心に劇的な力唱と力演で見事な表現力を披露してくれた。やはり彼はドイツのレパートリーでその本領を発揮するようである。今回の彼のリアは、今年のオペラ歌手アカデミー主演賞にふさわしいだろう(そういう制度、作りませんか?)。
 また、リアの長女ゴネリルを歌った小山由美の安定したドイツ語の歌唱は見事で、最もよく音楽に乗っていたように感じられた。落ち着き払って惨忍な性格の女を演じるという凄みもある。

 その他、今日のキャストは、ゴネリルの夫オルバニー公を宮本益光、次女リーガンを腰越満美、その夫コーンウォール公を高橋淳、3女コーデリアを臼木あい、その夫フランス王を小田川哲也、リアの忠実な部下ケント伯爵を大間知覚、同グロスター伯爵を峰茂樹、その息子エドガーを藤木大地、その異母弟エドマンドを小原啓楼、道化を三枝宏次。二期会合唱団も出演した。

 下野竜也の指揮は、ライマンの作品に対する愛情と共感を感じさせ、昨年の「メデア」を遥かに上回る素晴らしい演奏をつくり上げた。大音響があふれるこのライマンのスコアを手際よく、しかも迫力充分にまとめた手腕は見事と言うほかはない。通常のオケ・ピットに配置した弦楽器群、舞台上の上手側に金管セクション、下手側に打楽器や木管群を配置してのオーケストラを実にバランスよく響かせていたのにも感心させられた。
 そういえば、舞台上の楽器群の前に設置された格子のようなものは、確か昨年はなかったのでは?(※) このおかげで、昨年のようにうるさくもなく、視覚的な煩わしさも感じずに済んだ。あれだけ大きな音で鳴りながらも、歌手の声がかき消されるというケースもほとんどなかったのである。
 読売日響の演奏も昨年を凌駕する出来で、その底力ある音はスペクタクルでさえあった。

 演出。欧州での上演のそれと違い、殊更に複雑な解釈を織り込むことなく、また悲劇性や不条理を誇張したりすることなく、シェイクスピアの原作の物語をそのまま再現したような、極めてストレートな手法で行われたが、それだけに理解しやすいものだったと言えるだろう。
 人物の動かし方も要を得ていたが、折角のシェイクスピア物なのだから、更に演劇的な要素を強く押し出した方がよかったのではないか? たとえばグロスター伯の目をくり抜く場面での、邪悪なリーガン役の腰越満美は体当り的な演技だったが、それがもう少しドラマ全体の自然な、必然的な流れの中に乗っているように感じられれば、御の字だったのだが。
 だが、ラストシーンでの、ゴネリル、リーガン、エドマンド、コーデリア、リアらが息絶えている死屍累々たる場面は、如何にも究極のシェイクスピア悲劇らしく、効果的な光景になっていた。

 すべての点で、力作であった。成功である。

※関係スタッフから聞いたところによると、この上演のために舞台の上手と下手の袖のポータル(額縁、壁のようなもの)を一時取り払い、舞台を拡大していた由。格子のようなものは、その枠組だとのこと。

11・9(土)インバル=都響のマーラー「7番」

   東京芸術劇場  2時

 エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団によるマーラー・ツィクルス。
 
 ナマ演奏は生身の生き物で、その日によって演奏の出来も異なって来るものだ。いくら同一の作品であっても、2つのオーケストラの演奏を安易に比較することは危険である。
 だが、少なくとも昨日と今日の演奏を聴き比べた範囲では、やはり年の功というか、若いハーディングに比べると、老練インバルにはさすがに一日の長があった、と言っていいだろう。

 ハーディングが些か手を焼いていた感のある、楽曲構築において見通しの良さを確立するという点でも、インバルは鮮やかな手腕を示した。フレーズや主題の際立たせ方が極めてメリハリに富み、明晰につくられるので、各楽章における形式感が明確に浮かび上がる。
 暗鬱な雰囲気のある最初の4つの楽章と、突如として明朗な曲想が爆発する第5楽章とが、不思議に段差をあまり感じさせず、違和感なく結びついて聴こえたのは、前者の楽章群がいわば剛直な毅然とした佇まいを感じさせる――もしくはそれに近い――表現で演奏されていたからではなかろうか。

 その意味ではこれは、マーラーのこの曲における、昔から指摘されている所謂「矛盾点」を、いとも容易く解決してしまった演奏、と言ってもいいのかもしれない。「鮮やか」と言ったのは、その組み立てが、インバルは実に巧いということなのである。
 だが、そこから先は、好みの問題である――この演奏が反発を呼ぶとすれば、まさにそこに原因があるとも言えるのではないか? 第1楽章から第4楽章まで漂っている、あの独特の怪奇な雰囲気・・・・これがまた、マーラー好きにとっては何とも言えない魅力なのだが、それらがあまりに割り切った感覚で構築されてしまっていたのも事実なのではなかろうか。

 特に、明快な響きで押して行った第5楽章の終結直前、それまでの昂揚をさらに一段上回る歓呼・・・・の個所が少々物足りなかったのは、すでに遥か以前から音楽が明晰になり過ぎていたからではないか、とも思う。
 前夜のハーディングが、それまでの「霧」の如き翳りをここで振り払い、そのあと、恰も若者の歓呼のようにみるみる音楽を湧き立たせて行った演奏を、私はここで一瞬思い出してしまったのである。

 東京都交響楽団は、実に見事な演奏をした。特にホルン群とトランペット群は強力であり、力と輝かしさにあふれて咆哮し、歌い上げていた。横浜の「6番」の時には体調を崩していたあの奏者も元気で復活していたのは嬉しい。都響が本気になればかくも壮烈で強靭無類な演奏を繰り広げるのだということを実証したような「7番」であった。

11・8(金)ハーディング=新日本フィルのマーラー「7番」

   すみだトリフォニーホール  7時15分

 交響曲第7番「夜の歌」は、マーラーの交響曲の中で、私が今一番興味を持っている曲だ。
 滅多にナマで演奏される機会のない曲だし、フィナーレを除く4つの楽章には、何か妖怪じみたミステリアスな雰囲気もあって、これがまた面白いからでもある。

 マーラーはこの交響曲を初演したあとで、出版社への手紙に「この曲はそれほど大編成でもないし、明朗快活な交響曲なので、すぐさまコンサートホールのプログラムに乗ると思います」と書いているが、その予想は外れた。これは彼の交響曲の中では、費用のかかる(?)「8番」に次いで演奏の機会の少ない曲になってしまったからである。
 演奏の機会が少ないというのは、この曲の内容や構成にすこぶる複雑な要素があり、そのため指揮者にとって巧く演奏することが極めて難しいからだという話が昔から広く伝わっているが・・・・。

 その演奏の機会の少ない曲が、たまたまかち合った。
 今日はまず、ハーディングと新日本フィルの演奏を聴きに行く。
 ハーディングは、日本のオーケストラを指揮する時にはあの縦横無尽な冒険の演奏を控え、ごくストレートな演奏をするのが常套だが、今回も正面切ったアプローチ。それだけに、各楽章の中に様々な要素が気まぐれなほどに織り込まれているこの作品の、あまり論理的でない構成をも、そのまま率直に表出して行ったという感もある。

 これは、見方を変えれば、作品がはらむ雑多な要素を巧く取りまとめるという点では今一つだった、ということにもなるだろうか。もともと曲想にスムースな流れのない第5楽章などでは、それが良くも悪くも全部出ていたようである。だがその中で、終結近く、主題が最後の歓呼を始めるあたりで、演奏に突如漲り始めた湧き立つような解放感と昂揚感は、すこぶる見事なものであった。

11・7(木)ライプツィヒ弦楽四重奏団とペーター・レーゼル

   紀尾井ホール  7時

 「音楽の友」の「コンサートガイド」に掲載されている演奏会タイトルは、「ペーター・レーゼル ドイツ・ロマン派ピアノ音楽の諸相2013 室内楽2~シューベルトの《ます》」となっているが、このコンサートの実際の主役は、ライプツィヒ弦楽四重奏団である。
 1988年に「新ライプツィヒ弦楽四重奏団」として結成され、2008年からは第1ヴァイオリンがシュテファン・アルツベルガーに替わっている、れっきとした名門弦楽四重奏団だ。

 そのライプツィヒ弦楽四重奏団が、前半でメンデルスゾーンの「第3番」と、シューマンの「第3番」を演奏してくれた。
 メンバーの大半がかつてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で弾いていた人たちだけに、その演奏は、明らかにあのドイツの古都を連想させるしっとりとした陰影の濃い独特の音色に満たされている。これは本当に、よき伝統の強みともいうべく、不思議にほっとするような、落ち着いた気分に引き込んでくれる響きである。こうした音色を今でも掲げている弦楽四重奏団は、むしろ貴重な存在であろう。
 メンデルスゾーンが「落ち着いた活気の優雅さ」で演奏されたあとに始まったシューマンが意外に現代音楽的(?)なイメージに感じられてしまったのも、この陰影に富む音色と表情で演奏されたことの影響(反動?)だったか? 

 休憩後に初めてペーター・レーゼルがにこやかに現われ、シューベルトの「ます」で協演。コントラバス奏者として河原泰則が加わった。これもまた、久しぶりに聴く、実に柔らかい、温かい音楽である。

 アンコールではその有名な第4楽章がもう一度演奏されたが、その最後の頃には、またあの第5楽章に続いて行くかのような気分に引き込まれていた。演奏が終ったのでハッと我に返った、という心理状態であった。拍手が起きるまでちょっと間があったのも、客席にもそんな「うっとり感」が流れていたのではなかろうか、と、これは私の勝手な想像。

11・6(水)東日本大震災追悼公演 ヴェルディ:「レクイエム」

   サントリーホール  7時

 これはサントリーホール主催の公演。「東日本大震災追悼」と名がついているのは、7日にも福島の郡山で「“音楽都市こおりやま”市民音楽祭」の主催により公演が行なわれるためである。

 ニコラ・ルイゾッティ指揮の東京フィルと藤原歌劇団合唱部、アイノア・アルテータ(ソプラノ)、マーガレット・メッザカッパ(アルト)、フランチェスコ・デムーロ(テノール)、フェルッチョ・フルラネット(バス)が出演。
 なお合唱指揮を受け持ったのはジュゼッペ・サッバティーニ。テノール歌手を引退した今は、指揮者、合唱指導者、コンクール審査員などで活躍しているが、顔を見ると、何となく懐かしい。

 ニコラ・ルイゾッティが、速いテンポで指揮をした。演奏時間も正味81分・・・・といったところか。
 テンポが速いだけでなく、リズムも切れ味鋭く、たたきつけるように激しく、まさに嵐のような「レクイエム」となった。「怒りの日」の一部分や「サンクトゥス」などで、終結個所を激烈にスパッと切るところなど、小気味よいと言えば言えぬこともないが、他方、味も素っ気もない、という感もある。
 「その時、哀れな私は何と言えばよいのか?」と女声が歌い出す前の木管のフレーズなどでは、もう少し情感を籠めた音楽であってもいいのではないか? 

 緩やかなテンポの個所では、それなりにヴェルディらしい美しいカンタービレも聴かれたものの、全体としては畳み込むような、エネルギー性を優先した演奏であり、それは「祈り」というよりも「闘い」のレクイエムであった。
 好みはともかく、ルイゾッティの意気込んだ感性が微笑ましい。

11・5(火)パーヴォ・ヤルヴィ指揮パリ管弦楽団

   サントリーホール  7時

 こちらのプログラムは、シベリウスの「カレリア」組曲、リストの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロは昨日同様ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ)、サン=サーンスの「交響曲第3番」というもの。

 「カレリア」組曲の第1曲(間奏曲)がこれほど遅いテンポで物々しく、かつ重々しく演奏された例を私は知らない。手持ちのブライトコップ版スコアには「モデラート(中庸のテンポで)としか書いてないし、ヴァンスカの指揮したオリジナル版でもモデラートのテンポだから、今回のはパーヴォの独特の解釈なのだろう。4本のホルンたちは、少々辛そうだった。

 リストの「2番」は、実は私は「第1番」と同様、嫌いな曲なのだが、今回はヌーブルジェの、所謂名人芸をひけらかすような歪んだ恣意が全くないストレートなアプローチと、透明で明徹で爽やかな音色、切り裂くような鋭い感性に富んだ演奏が素晴らしかった上に、パーヴォとパリ管が嵐のような激しさでソロ・ピアノと拮抗する迫力もあって、これまでにないほど面白く聴けた。こういう演奏で聴ければこの曲も悪くはないなと思ったが、さりとて、これでこの曲がいっぺんに好きになったというわけでもない。

 ヌーブルジェはそのあと、ソロでラヴェルの「クープランの墓」からの「メヌエット」を弾いた。この曲は好きだし、実に美しかったが、アンコールとしてはチト長い。

 後半は、サン=サーンスの「オルガン付交響曲」だ。オルガンは大男のティエリー・エスケシュが弾いた。これも私にはさほど興味のある交響曲ではないのだが、さすがにフランスのオーケストラが演奏すると、独特の典雅華麗な味わいが生まれて来る。豪壮な終結に向かって全管弦楽とオルガンとをこれでもかと煽り立てて行くパーヴォの指揮も、ニヤリとさせられるほどの鮮やかさである。

 アンコールは、今夜はフランスものばかり3曲、ビゼーの「ギャロップ」、ベルリオーズの「ラコッツィ行進曲」、ビゼーの「カルメン」前奏曲、という具合。
 この2日間のパリ管の演奏には、良く言えばある種の自由さが感じられていたものだが、最後のこの「カルメン」前奏曲にいたって、特に弦を中心に、完璧な調和と均衡を保った、柔らかく美しい響きが出現したのであった。

11・4(月)パーヴォ・ヤルヴィ指揮パリ管弦楽団

    東京文化会館大ホール  3時

 都民劇場公演。
 フランスとロシアの作品を組み合わせたプログラムで、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」(ソロはジャン=フレデリック・ヌーブルジェ)、プロコフィエフの「交響曲第5番」という構成である。
 私の好みから言えば、東京の一般公演のプロより、こちらの方が一癖あって面白い。

 1曲目の「牧神」は、まさにフランスのオーケストラの名刺代わりともいうべき曲だが、冒頭のフルート・ソロからして、何か企んでいるような(?)斜に構えた雰囲気を感じさせ、微苦笑を誘われる。
 このホールの響きがややドライなので、各管楽器のソロと他のパートとの溶け合いに精妙な響きが不足し、何か即物的な演奏に感じられてしまったが、考えてみれば、所謂夢幻的で玲瓏たる世界の「牧神」など、今はもうほとんど聴けない時代なのかもしれない。音楽監督パーヴォ・ヤルヴィの求めるものが、現代の指揮者らしく、明晰で、メリハリの強い響きの音楽であることも影響しているかもしれぬ。

 ラヴェルの協奏曲でも、あの冒頭――蠢くコントラバス群に音が次第に寄り集まり、ついに燦然たる爆発に達するくだりなど、所謂幻想的な音の変化というよりは、あくまで明晰なクレッシェンドというイメージだけで聞こえる。まあ、それはそれでいいのだが。
 ひたすら押しまくるダイナミズムの迫力という点では、パーヴォもパリ管も、それはもう見事なものだ。オーケストラが渦巻きつつぐんぐん上昇してソロ・ピアノと応酬する頂点個所などでは、さすがに息を呑ませるものがあった。

 このあたりまでは、オーケストラにもフランスらしい華麗で開放的な音色があふれていたが、これがプロコフィエフの交響曲になると、途端に硬質で強面の表情に一変したのが面白い。ダイナミックなエネルギーはますます強くなり、フィナーレの最後での、ゴールに向かって「こけつまろびつ」突進するようなエンディングにおいて、パーヴォがつくり出した猛烈な追い込みも見事だった。

 アンコール1曲目の、ビゼーの「子どもの遊び」からの「ギャロップ」では、これがまた如何にもフランスのオケらしい軽妙洒脱な響きを取り戻す。但しそのあとのグリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲は、意外に正面切った演奏になっていて、やや面白味を欠いたが。

 なお、このプログラムでは、ラヴェルの「左手」を弾くヌーブルジェを聴けたのも幸いだった。その「左手」のあとのアンコールに、低音の声部に特徴を持つストラヴィンスキーの怪奇な雰囲気の小品「タンゴ」を持って来るセンスも洒落ている。

 余談だが、「牧神」の最後の音が消えて行った瞬間、パーヴォの手がまだ下りぬうちに、下手側前列の誰かが拍手を始めた。誰も追従しなかったのですぐ止めたが、その時パーヴォは落ち着いてゆっくり手を下ろしたかと思うと、「はい、これでもう拍手していいですよ」とでも言う身振りで左手をその方向へ差し伸べた。コンマスや第2プルトの奏者も、その客の方を振り返り、ニコリとした。
 フライング拍手に対して示した、演奏家たちの実にしゃれたこの動作に、場内からは軽い笑いと万雷の拍手が起こったのであった。

11・3(日)内田光子ピアノ・リサイタル

    サントリーホール  7時

 モーツァルトの「ソナタ ヘ長調K332」で開始されたリサイタルは、同じくモーツァルトの「アダージョ ロ短調K540」を経て、シューマンの「ソナタ第2番」で第1部を終る。第2部は、シューベルトの「ソナタ ト長調D894」である。これにアンコールとしてバッハの「フランス組曲」からの「サラバンド」が付く。

 彼女のアレグロは素晴らしい・・・・しかし、アダージョやアンダンテにおける、ある種の魔力を持つ彼女の解釈には――あくまで彼女の偉大さに敬意を表した上でのことだが――最近は、ちょっとついて行けなくなった。つまり、共感しにくくなった、ということである。

 だが、この人の演奏に異論を挟むには、並はずれた勇気を必要とするかもしれない。

11・3(日)ユベール・スダーン指揮東京響のブルックナー「4番」

   ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 1曲目の、シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」の第2楽章のさなかに地震が来た。
 軽く揺れただけで、客席も微かにざわめいたに過ぎなかったが、このホールで地震に遭うとあまりいい気持はしないのが人情だろう。楽員も聴衆も一様に、何となく天井を見上げてしまう。

 しかし、闊達な身振りと熱っぽい演奏が身上のソリスト、レイ・チェンは、この地震をふっ飛ばす勢いのシベリウスを聴かせてくれた。今年24歳、意気盛んな若者の体当り的な演奏だ。微笑ましく、快いものがある。
 とはいうものの、かなり即物的でリアルな、明朗な一方で陰影には未だ不足気味の、裸の生々しい音が躍動するシベリウスだったこともたしかで、その点ではスダーンが東京響から引き出す落ち着いた翳りのある叙情的な音色のシベリウスとは些かそぐわないものがあったが。

 休憩後のブルックナーの第4交響曲「ロマンティック」は、スダーンの個性が余すところなく発揮された快演だ。以前の「7番」や「8番」と同様、がっしりと堅固に構築された、息詰まるほど厳しい表情にあふれた演奏である。

 特に、昂揚した個所での全楽器群の響きの均衡は完璧に近く、たとえば第3楽章で、全合奏が一段また一段とクレッシェンドを重ねて最後の豪壮な最強音に達するところなど、法悦的な充足感を与えてくれる。最後の7小節間ではホルン群の3連音も明確に聴き取れ、スダーンの巧みな設計を感じさせた(この楽章が終った時、だれかが思わず拍手をしたが、その気持は理解できる)。

 もっともその一方、弱音個所では、スダーンは弦楽器群のトレモロの音量を、極度に抑制していた。率直に言うと、2階B(以前は3階と言ったか?)中央で聴いていた筆者には、このトレモロはすこぶる聴き取りにくかった。それゆえ、金管や木管を支え包むはずの厚みと壮大さ、空間的拡がりといった響きが失われ、音楽が鋭角的に聞こえて、違和感を抱いたのも事実だったが・・・・。

 なお今回の演奏では、1番ホルンのパートを――第1楽章冒頭のソロは別として――アシスタント(の位置に座っていたジョナサン・ハミル)との2本でダブらせることが多い方法を採っていたが、これは1番ホルン・パートの音色をふくよかな響きにする効果を生んで、成功と思われる。
     音楽の友12月号 演奏会評

11・2(土)METライブビューイング「エフゲニー・オネーギン」

   東劇(銀座)  6時30分

 みなとみらい駅から地下鉄に乗り、横浜駅で京浜急行の快速特急に乗り換える。普段この快特を利用する機会はまずないのだが、噂どおり、胸のすくような速さだ。川崎と蒲田に停車し、しかも品川駅直前のSカーブで減速するにもかかわらず、川崎にしか停車しない東海道線と同じタイムで品川駅に着くのだから、相当なものである。しかもこの京急は、東銀座を通ってくれる。おかげで驚くほど早く銀座の東劇に着いた。
 そういえば昔、この快特の下り線が、川崎を1分先んじて発車したJRの特急を猛追撃し、生麦付近で追いつき、横浜までデッドヒートを展開するという話を読んだことがある(吉村光夫著「京浜急行」)。さもありなん。
 
 そこで、METライブビューイング。
 今シーズンの上映第1作は、10月5日に上演されたチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」。同月9日の公演は現場で観ているし(同日の項参照)、今日の映像でも印象にはほとんど変わりはないので、詳細は省略する。

 進行役はデボラ・ヴォイトで、幕間のゲストには主演の3人の歌手とゲルギエフが登場したが、ネトレプコの話しぶりにいつもの闊達な明るい表情が全く感じられず、まるで心此処に在らずといったような応答になっていたのが意外だった。
 「音楽の友」11月号(10月18日発売)の有賀太一氏のレポートには、開幕初日に場内でプーチン大統領への抗議運動が起こったことが書かれているが、それが彼女やゲルギエフに何か影響を及ぼしているのか? 

 なお同レポートは、演出家デボラ・ワーナーとフィオナ・ショウがいろいろな都合で実際の上演にはあまりタッチできていなかったことにも触れている。私が10月9日に書いた演出についての印象記も、あながち見当外れでもなかったようである。

11・2(土)インバル=都響のマーラー「6番」

   横浜みなとみらいホール  3時

 エリアフ・インバルが東京都交響楽団を指揮して展開中のマーラー・ツィクルスは、この11月に「6番」「7番」を取り上げ、以下来年3月の「8番」「9番」、7月の「10番」と進む予定。

 快演が続くこのツィクルスだが、今日の「第6番《悲劇的》」も、寸分も隙なく堅固に構築された、いかにも近年のインバルの指揮の特徴を集約したような見事な演奏だった。
 下手をすれば野放図な咆哮になりかねないこの作品を、インバルは明確な均衡を備えた形式感を最後まで失わずに押し通す。

 もちろんそれは、いつかのブルックナーの「第6交響曲」などで聴かせたような厳しい禁欲的な音楽ではなく、ある程度の自由さを感じさせるものだ。
 だが、インバルのように、マーラーのある種の破天荒な分裂症的特徴を充分に表出しつつ、音楽上の統一感を保たせるという大技を創り出せる指揮者は、やはり稀有の存在と言っていいのではなかろうか。

 そういう素晴らしい演奏だっただけに、トランペットの第1楽章での聴かせどころでの一度ならずの事故は痛かったが、力一杯吹いて音を外すというタイプのミスではなかったところからすると、体調でも悪かったのか? 
 当の奏者も、カーテンコールの時には傍目にもそれと判るほど落ち込んでいた様子だったから、ここは次回に期待することにしよう。人間のやることである。そんなにがっくりする必要はない。

 むしろそれより、全曲終了まであと30小節たらず、1分たらずという弱音のさなかに席を立ち、靴音を立てて出て行った男と、最後の音が消えた途端にけたたましく喚いた男の方が、罪は遥かに重いだろう。
 そういえば、先日のBBC響の「ロンドン交響曲」の時にも、まさに終らんとする個所の最弱音のさなかに足音を立てて出て行った2人づれがいたが、あれもこの同じ、みなとみらいホール・・・・。

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