2017-04

10・31(木)イルジ・ビエロフラーヴェク指揮チェコ・フィル

   サントリーホール  7時

 昨年、イルジ・ビエロフラーヴェクが20年ぶりに首席指揮者に復帰した。今回はそれ以降初めての帯同来日になる。

 何せチェコ・フィルは、ヴァーツラフ・ノイマンのあと、およそ20年の間に6人もの首席指揮者が入れ替わるという、ヨーロッパの名門としては珍しいほど指揮者との相性が不安定なオーケストラになっていたが・・・・今度こそ安定コンビに戻ることができるか?
 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団はやはり、チェコの指揮者のもとで演奏してこそ、その本来の味を出すオケだろうと思う。その意味でも、既に60歳代後半となった円熟期のビエロフラーヴェクに期待するところ大なのだが。

 今夜の演奏を聴いた範囲では、オーケストラの音色にしっとりと瑞々しい、良き伝統ともいうべき品のいい地方色が蘇っていたことは確かであろう(先年のズデニェク・マカルの首席時代にもそれに近い音色が復活させられていたが)。特に弦楽器群の音色にそれが目覚ましい。この雰囲気はチェコのオケならではのもの。世界中のオケがおしなべてインターナショナルな特質に変化してしまっている現代にあって、こういうローカル色は貴重だ。いつまでも守り抜いて欲しいものである。

 ただ、それはいいのだが、演奏そのものは、要するに「無難な出来」だ。
 冒頭のグリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲が、思いのほか柔らかく穏健な表情で始まったので、これはもしかしたらユニークなアプローチになるかなと一瞬期待したのだが、その後はさほど閃きもないままに終ってしまった。
 最後のチャイコフスキーの「悲愴交響曲」も、いわゆる手堅い演奏で、第4楽章での盛り上げの個所には良い緊迫感も聴かれたが、全体としてはごく平均的な出来で、心を揺り動かされる迫真性には乏しい。ビエロフラーヴェクの「新しい面」は、これらの演奏からは特に感じられなかったというのが正直な印象である。アンコールの1曲目、ドヴォルジャークの「スラヴ舞曲 作品46-3」では、さすがにハッとするような深い郷愁の情感が滲み出てはいたけれど。

 結局、第1部の2曲目に演奏されたベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」での、イザベル・ファウストの鮮やかなソロおよびカデンツァが今夜の白眉だったといえようか。ビエロフラーヴェクのサポートも、特に第3楽章での流れるようなテンポ運びは快かった。

10・30(水)ムーティ conducts ヴェルディ

    すみだトリフォニーホール  7時  

 これは「東京・春・音楽祭実行委員会」単独主催の特別コンサート。
 東京春祭特別オーケストラ(コンサートマスター・矢部達哉)と東京オペラシンガーズ(合唱指揮・ロベルト・ガッビアーニおよび宮松重紀)を指揮した巨匠リッカルド・ムーティ。

 今夜のプログラムは、第1部に「シチリア島の夕べの祈り」からの序曲とバレエ音楽、第2部に「運命の力」から序曲および「天使の中の聖処女」、「マクベス」から「虐げられた祖国」、「ナブッコ」から「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」および序曲、というものだった。

 2か月前にザルツブルクでローマ・オペラとの「ナブッコ」全曲(演奏会形式)を聴いた時にも感じたことだが、こんにち、情熱と形式感とが完璧な均衡を保った演奏を創れる人として、ムーティに比肩する指揮者はいないのではないかと思う。
 今夜彼が指揮したのは臨時編成のオーケストラだったが、それでも演奏は比類なく熱っぽいものであった。特に最後の「ナブッコ」序曲では、指揮者とオケの呼吸も完全に合い、音楽はまさに沸騰の極みに達し、構築は引き締まって、いちぶの隙もなかったのである。

 合唱団も第2部の3つの曲で活躍、「ナブッコ」の有名な合唱のエンディングの最弱音も見事に決めていた。歌手は、先週土曜日のムーティ講演会で巨匠にギリギリしぼり上げられた2人、安藤赴美子(ソプラノ)と加藤宏隆(バス・バリトン)。加藤は、あれだけのよく響く声を持っているのだから、ムーティから指摘された例の欠点さえ克服すれば、素晴らしい歌手になるのではないかという気もする。

【付・川上哲治選手のこと】

 コンサートの話ではないが、ここで番外編。
 川上哲治氏の訃報に接し、うたた感あり。
 子供の頃の私にとっては、「川上哲治」という名は、巨人軍のみならず、野球の象徴ともいうべき存在だった。「紅梅キャラメル」の景品のカードを貯めて、川上選手のサイン入りのバットを貰った。また往復はがきを出して、彼のサインを貰った。彼が表書きの私の宛名の下に「様」と書き加えて返事をくれたのが、子供心にもすごく嬉しかったものである。

 当時の私はプロ野球がメシよりも好きで、雑誌「野球界」を購読するだけでなくそのバックナンバーをも読み漁り、ありとあらゆる資料を調べて、いろいろな記録を頭に入れていた。
 実際に球場へ観に行った機会は、1950年から58年の間の8度くらいしかなかったが、その見に行った試合のうち、何とほとんど全部の試合に、川上はホームランを打っていたのである。確率から言えば、これは大変なものだろう。

 彼の「弾丸ライナー」伝説は、野球評論家・大和球士氏の小説やエッセイで読んで知っていた。「ボールが外野席に向かって、ぐぐぐっと途中から上って行くように見えた」という一文に、われわれ少年ファンはどんなに熱狂したことか。

 特に、1947年だかの東西対抗試合で打ったホームランこそは、「弾丸ライナー」の決定版だったという――打った瞬間に川上本人は「ヒットだ!」と直感し、全力疾走。一塁手がそのボールを捕ろうとジャンプし、次に走り寄って来た右翼手も思わずジャンプ、しかしボールはその上をかすめ、そのまま右翼スタンドに突き刺さったのだという。如何に弾道の低いライナーだったか、ということだろう。
 塁上にいた大下弘選手もそれを外野へのヒットだと思い、全速力で3塁を回ってホームに滑り込んでしまったそうで、ベンチ内は爆笑の渦だったという(雑誌「野球界」連載「弾丸ライナー」戦後篇)。

 私が観に行った頃には、流石にそういうライナーはもう見られなかったが、しかし例えば旧・後楽園球場の内野スタンドから見ていると、川上のホームランは常にわれわれの目線、もしくはそれより下の位置を飛んで行っていたのである。
 また外野席中段から見ていると、普通のホームランはまず見上げるほどの高さまでボールが上がり、それからこちらに落ちて来るというコースを辿るものだ。が、川上のそれは、打った場所からわれわれの目の高さの位置を保ったまま、まっすぐに物凄いスピードでこちらへ飛んで来るのであった。
 たしか、1950年、中日との試合の時のことだったと思う。川上が打った瞬間、外野席で隣に座って見ていた友人が「来たッ」と叫んで立ち上がった。私もハッとして見ると、ボールがまるでグラウンドから上って来るような角度のまま、一直線にこちらへ向かって来た。私たちを含め、大勢の観客はパッと割れて逃げた。あの凄まじい迫力は、今でも忘れられない。

10・29(火)新国立劇場 モーツァルト:「フィガロの結婚」

   新国立劇場  2時

 ちょうど10年前の10月、ノヴォラツスキー芸術監督就任シーズンの第1作として上演されたのが、このアンドレアス・ホモキ演出によるプロダクションだった。ザルツブルクあたりで観るような雰囲気をもった舞台として、当時、随分新鮮に感じられ、話題になったものである。
 それ以降、新国立劇場の定番として、何シーズンかおきに上演されて来ている。

 「段ボール箱の積み重ね」には、賛否両論があった。だが、登場人物たちが生き生きと交錯するシンプルな空間(家)と、その空間が第2幕フィナーレのアンサンブルの中で崩壊し歪み、ついに最後まで旧に戻らぬという、「歴史からの解放」の面白さは、今見ても新鮮さを失っていないだろう。また、主人と召使の区別も消滅する、ということを象徴した第4幕での男たちの全員同一の衣装(シャツとステテコに見えるのはどうかと思うが・・・・特に日本人歌手の場合)も、アイディアとしては悪くない。

 今回は、10年前のプレミエ時と同じウルフ・シルマーが登場して、東京フィルを指揮した。一気呵成にたたみかける速いテンポは、時に素っ気ないほどだが、しかしやたら緩急を強調し、登場人物の心理的な動きを誇張して描く最近の一部の指揮者のそれに比べれば、むしろモーツァルトの疾走する音楽の美しさをストレートに描き出すという良さがあるだろう。私には、こういう速いテンポで押して行く指揮の方が、ずっと好みに合う。

 東京フィルはこの飛び行くテンポについて行けぬ時もあったようだし、前半での金管の頼りなさは相変わらず情けないが、全体としては弾んだ演奏の個所も多かった。「恋とはどんなものかしら」での木管の動き(少し飛び出し気味ではあったものの)などもなかなか良かった。

 歌手陣はやや渋く、一部には不安定な歌唱も聞かれないでもなかった。何しろモーツァルトの音楽は、そうした歌手の一寸した未熟さ、不安定さをモロに露呈させてしまうから、これほど恐ろしいものは無い。

 演技の面では、九嶋香奈枝(スザンナ)が、プレミエ時の中嶋彰子にそっくりの悪賢い小妖精といったアクの強い表情を見せ、気を吐いていた。
 顔の表情の豊かなレナ・ベルキナ(ケルビーノ)、本当に女の子という感じを出した吉原圭子(バルバリーナ)、舞台狭しと動き回るレヴェンテ・モルナール(アルマヴィーヴァ伯爵)、おっとりした性格を巧く出したマンディ・フレドリヒ(伯爵夫人ロジーナ)たちも、それなりに工夫した演技を見せていた。が、もし今回もホモキが直接演出に携わっていたなら、更に精妙な人間模様を繰り広げることができただろうと思う。

 最大の問題は、肝心かなめの主人公たるマルコ・ヴィンコ(フィガロ)だ。常に客席に顔を向けて歌うという時代遅れのジェスチュアである。心理描写豊かなドラマに一種の隙間を作ってしまった責任は彼にあるだろう。
 他に竹本節子(マルチェリーナ)、松位浩(ドン・バルトロ)、大野光彦(ドン・バジリオ)、糸賀修平(ドン・クルツィオ)、志村文彦(アントニオ)ら。

10・28(月)ジョン・ウィリアムス ギター・コンサート

   白寿ホール  7時

 何年か前の来日の時、確か東京文化会館大ホールでだったと思うが、PAを使って演奏していたジョン・ウィリアムスに向かい、客席から若い人が、「マエストロ、PAなしでやっていただけませんか」と呼びかけた。周囲からは賛同の大きな拍手が起こったが、ウィリアムスは「ホールが大きいから・・・・」とか何とか、ボソッと答えただけで、客の求めには応じなかった、ということがあった。

 こんなことをふと思い出したのは、この響きの良い中規模の大きさの白寿ホールで、ナマ音で聴く彼のギターの音がいかに豊かなふくらみのある響きにあふれ、しかも毅然として明晰な美しさを備えているかに、改めて、それも久しぶりに魅了されたからである(――本当にPAは使っていなかったでしょうね。もし見えないマイク?で客席後方に音を流していたなどということがあったら、話は滅茶苦茶になる)。

 プログラムは、バッハの「リュート組曲第4番」(無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番)に始まって、フレデリック・ハンド、グレイム・ケーン、スティーヴン・ゴスなどの作品から、アルベニスの「アストゥリアス」、タレガの「アルハンブラの思い出」など有名な小品も含め、彼の自作、バリオス、イグナシオ・フィゲレード、アントニオ・カリージョ、ベニト・カノニコなどの小品にいたる構成を採っていた。

 これほど息づかいの豊かな、人間の心のぬくもりを感じさせる演奏は、まさにジョン・ウィリアムスのみが成せる業であろう。
 漏れ聞くところによると、72歳の彼はもう外国ツァーはやらないかもしれない・・・・したがって来日もこれが最後になるかもしれない、ということであったが、定かではない。もし最後の来日であるとすれば、今回のツァーの最終公演たる今夜が、日本でのお別れ演奏会ということになるのかもしれない。

10・27(日)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル マーラー「9番」

    東京芸術劇場  2時30分

 横坂源をソリストに迎えたチャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」と、マーラーの「第9交響曲」を組み合わせたプログラム。日曜午後の演奏会ということもあって、客の入りも良い。
 マーラーの「9番」の前にチャイコフスキーの作品を置くとは、いかにもラザレフらしい曲目編成だが、もっともプログラム構成は必ずしも指揮者自身がやるとは限らないから、深読みは避けよう。

 とにかく、ラザレフが指揮するマーラーの交響曲は、私にとっては珍しい体験だ。予想通り、剛直で骨太で、激情を迸らせるマーラー像がつくり上げられていた。
 第1楽章や第3楽章などは、怒号絶叫するマーラーといった感で、それも神経質で苦悩に満ちた人間の感情発露ではなく、野人の怒りとでもいうような叫びである。それは激しくて喧噪的で、濃厚なマーラーだ。あまり一般的とは言えないアプローチだし、私の好みとも必ずしも一致しないけれども、現代ではこういう解釈のマーラーがあってもいいのかな、と思いながら聴いていた。

 アダージョの第4楽章ではさすがに抒情美が発揮されたが、それもこの楽章の演奏によくある諦念や彼岸的なものへの志向というタイプではなく、強靭な意志をなお持ち続けながら静かにその生を終って行く・・・・といった筋書を連想させるような演奏だろう。
 特に終結部では、長い長い静寂の中に流れ続ける弦が、無限の空間に拡がり行くような美しい響きを見事に出していたので、エンディングはすこぶる感動的なものだったと思う。この静寂の終結は、音が消えてからもラザレフがわずかに腕を動かす動作をずっと続けていたこともあり、ホール内にも長い沈黙が保たれ、成功であった(咳はだいぶ多かったけれど)。

10・26(土)「ムーティ、ヴェルディを語る」

   BUNKAMURAオーチャードホール  5時

 指揮をするのではなく、講演をするだけなのに、2千人収容のオーチャードホールを満杯にするというのはさすが、大リッカルド・ムーティ様だけのことはある。

 今日は彼の伝記を翻訳出版した田口道子が司会と通訳を務め、ムーティがヴェルディのオペラについて語り、そのあとに安藤赴美子(ソプラノ)と加藤宏隆(バリトン)が「椿姫」のヴィオレッタとジョルジョ・ジェルモンの二重唱を歌ってムーディの指導を受ける、という内容のイヴェントだった。

 とにかく、ムーティの話の上手いこと、ピアノの上手いこと、声のいいこと、歌の上手いこと、演技の巧いこと、ユーモアの見事なことには驚くばかり・・・・それに実に温かく愛敬のある笑顔などが加わって、当初の1時間半の予定が、何と休みなしの2時間半に及び、聴衆をすっかり魅了してしまった「講演会」であった。

 最初、彼が自分の経歴を延々と語り始めた時には、この調子でどこまで行くのかと不安になったが、やがて初めて指揮したヴェルディのオペラが「群盗」だったという話から、当時の上演が如何にカットだらけの演奏だったかという話に発展させ、ヴェルディが本当はどんなに緻密にスコアを書き、歌い方をも詳細に指示していたか、そしてそのヴェルディの意図を忠実に生かす歌唱・演奏を復活させる「闘い」に自分は40年間を捧げて来た・・・・という話に結び付けたその「話の持って行きようの巧さ」には、本当に感心させられた。

 そして後半は「歌唱指導」に入ったが、彼の指導で浮き彫りになったのは、残念ながらわが日本の歌手が如何に声は良くても、「言葉」の表現とその背景にある意味について理解せず、ただ音符を追って表面的に歌うだけに留まっているか、という現実であった。そして彼があれこれ説明しながら、実際に歌って聞かせながらどんなに詳しくコーチしても、それがこの日の日本人歌手にはなかなか呑み込めず、歌唱表現に反映させることすら覚束ない、という現実でもあったのだ・・・・。
 ムーティの含蓄ある座談に沸いた今夜の私たち聴衆にとって、唯一つひどく落胆させられたのは、この講演会の最後に突き付けられた「落差」だったのである。

10・25(金)プーランク:「カルメル派修道女の対話」(演奏会形式上演)
矢崎彦太郎指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール  6時

 首席客演指揮者の矢崎彦太郎がこのオケと続けて来た「フランス音楽の彩と翳」の第20回。地味ながら好評を以って迎えられて来たこのシリーズも、これで打ち止めになるということだが、折しもプーランク没後50年を記念する今年、首都圏では唯一の彼のオペラ上演ということもあって、大いに意義のある最終回とはなった。矢崎の功績を讃えたい。

 今夜の主な配役は、修道女ブランシュを浜田理恵、その兄ドゥ・ラ・フォルス侯爵を萩原潤、ドゥ・クロワシー修道院長を小林真理、リドワーヌ新・修道院長を半田美和子、マリー修道長を秦茂子、修道女コンスタンスをコロンえりか、司祭を与儀巧、他。この配役には、一部に兼役もある。合唱は東京シティ・フィル・コーア。

 演奏は極めて充実したもので、何といってもフランス音楽をライフワークとした感さえある矢崎彦太郎の、滋味ある音楽づくりが生きていただろう。シティ・フィルも今夜は概して引き締まった快演だった。
 歌手陣も安定していたが、特に落ち着きのある役柄マリー修道長の性格を生かした秦茂子の歌唱が光る。

 純然たる演奏会形式なので、とりわけ演技めいたものは少なかったが、ラストシーンで断頭台の露と消える16人の修道女たちが、オルガンの下の席に1列に起立して配置され、ギロチンの衝撃音(今回はタムタムの一撃音などによる「楽器的な」音)とともに1人ずつ椅子に座って行く、という手法が採られたことは当を得ていただろう。
 ただしその「演技」が、「音」と同時に崩折れる迫真的な動作をする歌手や、「音」のあとおもむろに着席して行くようなのんびりした動作をする歌手もいるといったようにまちまちだったのは、些か効果を欠いた。

 とにかく、これほど最初から最後まで暗い音楽で構成されたオペラも少ないだろう。最終場面はますます暗鬱になり、聴衆は(拍手は熱狂的にするものの)何となく滅入って劇場を出る、といったオペラである。
 わが国でもこれは何度か上演され、私もいくつか観て来たが、演奏会形式で聴くのは今回が最初だった。やはりこの形式だと、少々重い。その代り、プーランクのあの暗いハーモニーの魅力は、存分に堪能することができる。シティ・フィル、いい企画であった。

10・24(木)マレイ・ペライア・ピアノ・リサイタル

   サントリーホール  7時

 バッハの「フランス組曲第4番」、ベートーヴェンの「熱情ソナタ」、シューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」、ショパンの「即興曲第2番」および「スケルツォ第2番」というプログラム。これは、今回の日本での3回のリサイタルに共通したプログラムだった。

 これに先立つ2回のリサイタルを聴いた人(複数)の話によると、最初のトリフォニーホール(15日)での演奏は、およそ「ペライアらしからぬ粗い」もので、次の彩の国さいたま芸術劇場(19日)のそれは「情熱的で密度の濃い最高の出来」だったという。では今日の演奏は如何に?と、終演後にその人たちに尋ねたら、最も「落ち着いた演奏」に聞こえたとのことであった。

 これについては、マネージャー筋に近い人の話も興味深い。
 曰く、トリフォニーホールでは、ペライアがホールとピアノの響きのバランスに慣れず、神経質になって演奏に集中力を欠いた。だがさいたま芸術劇場は、中ホールの響きが彼自身に取って快く、聴衆も満杯で雰囲気も盛り上がっていたため、思い切って演奏ができた。そして今日は、テレビ中継が入っていたため、演奏も若干慎重になり、音楽づくりにもバランスを考慮したものになっていたようだ――と。

 私の印象でも、今夜の演奏は、思いのほか端整なものに感じられた。それは、透徹した白色の光の中に息づくバッハやベートーヴェン、シューマンやショパン・・・・とでも言ったらいいか。豊かな均衡を保った、神経の行き届いた演奏だった。だがそれでもやはり、さいたま芸術劇場での演奏を聴いてみたかったな、という思いは消えない。

10・23(水)フランシス・プーランクの夕べ

   東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル  7時

 プログラムが実にユニークだった。
 第1部ではピアノ(菊地裕介)を中心に、ソロで「メランコリー」と「3つの小品」、ソプラノ(臼木あい)との「モンパルナス」、フルート(上野由恵)との「ソナタ」、クラリネット(伊藤圭)との「ソナタ」、そしてフルート、オーボエ(大島弥州夫)、クラリネット、ファゴット(黒木綾子)、ホルン(福川伸陽)との「六重奏曲」が演奏された。

 次いで第2部では、鈴木雅明指揮東京フィルハーモニー交響楽団を中心に、「オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲」(オルガン・ソロは鈴木優人)および「スターバト・マーテル」(新国立劇場合唱団と臼木あいが協演)が演奏されるという具合であった。

 このように、ソロ曲から室内楽、協奏曲、大編成の声楽と管弦楽までを一夜に網羅してしまう「ジャンル横断のプログラム」は、コンサートとしては珍しい。オーケストラ事務局にはもちろん、音楽事務所にもなかなか出来ぬ類のものだろう。しっかりした組織の東京オペラシティ文化財団ゆえに制作できたコンサートといえようか。
 まして、没後50年とはいいながらも、わが国では演奏の機会が決して多いとは言えぬプーランクの作品集。いろいろな意味で、これは貴重なコンサートであった。企画を賞賛しておきたい。

 ソリストたちも腕利きばかりだ。特に菊地裕介の進境が目覚ましい。それに何といっても、曲がいい。
 「スターバト・マーテル」は、私の好きなあのプーランク特有の暗いハーモニーの変化があまり浮き彫りにならず、少々物足りなかったが、ナマで聴けただけでも有難いことだから、多少の意見の違いは伏せておこう。
 プログラムが豊富だったので、終演は9時半を過ぎた。

 些末なことだが、ソロや室内楽が演奏されているインティメートな雰囲気の第1部で、オケの椅子や譜面台などが舞台後方に雑然と置かれたままになっていた(並べた方は、ちゃんと分類したつもりかもしれないが)のには、視覚的に少々興を殺がれ、何か落ち着かない気分にさせられてしまった。ハープとコンバスは仕方ないにしても、椅子と譜面台くらいはハケておいて欲しかった。どうせ休憩時間に舞台がつくれるのだし。

10・18(金)ラザレフ指揮日本フィルのスクリャービン「神聖な詩」

   サントリーホール  7時

 プロコフィエフの交響曲からラフマニノフの交響曲へと進んで来たラザレフと日本フィルのロシアものツィクルスが、ついにスクリャービンに突入した――といっても、彼の交響曲をすぐに全曲演奏するとまではさすがに(?)行かぬようで、「ラザレフが刻むロシアの魂」というシリーズの中でゆっくりと時間をかけて取り上げて行く方針のようである。

 その1回目は第3番「神聖な詩」。
 予想通り、かなり激烈なイメージのスクリャービン像となった。第1楽章(闘争)の冒頭など、他の指揮者の演奏に聴かれるような、どこか官能的な色彩を籠めた響きと違って、もろに闘争的な咆哮になっていたところが、ラザレフらしいと言えば言えようか。

 もっとも今日は全体として――プログラム1曲目のチャイコフスキーの「眠りの森の美女」組曲からそのケがあったが――オーケストラが荒っぽくガシャガシャした音になる傾向があって、それが演奏を硬質で気負った、力任せのスクリャービンに感じさせてしまった原因ではなかろうか。特に最強奏の個所ではそれが著しかった。

 オーケストラの音色は第1楽章後半から少しずつまとまりを示しはじめ、第2楽章(快楽)ではかなり叙情的な色彩感を打ち出すことができた。だが、フィナーレ(神聖な遊び)では、やはり荒っぽく混濁した響きに陥る個所が多かった。
 日本フィルの演奏が、初日は大体荒っぽく、2日目は改善されるというのは今に始まったことではないが、いずれにせよスクリャービンの音楽には官能的な色彩感が不可欠なのだから(鋭くヒステリックに演奏されたら堪ったものではない)、もう少し豊麗、豊満な音色でやってもらったほうが有難い。

 なおプログラムの2曲目には、武満徹の「ウォーター・ドリーミング」が演奏され、日本フィル首席の真鍋恵子がソリストとして清澄なソロを聴かせてくれた。テンポは速めで、オーケストラの音色も武満ものにしては些か濃厚な趣きがあったが、これは外国人指揮者がやるタケミツものだから、ある意味では仕方ない。むしろそういう多様な表現が聴ける面白さに注目したいところだ。

10・17(木)ラドゥ・ルプー・ピアノ・リサイタル

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 手の故障で公演を一部中止した昨年と違って、今年は多分本領を発揮出来たと思うのだが――ルプーが今回演奏してくれたプログラムは、シューマンの「子どもの情景」と「色とりどりの小品」、およびシューベルトの「ピアノ・ソナタ第20番イ長調」というものだった。

 いずれもたっぷりとした温かみに富んだ情感の深い演奏で、作品それ自体が持つインティメイトな美しさをあますところなく再現した、見事な音楽づくりだったと思う。
 だが、その美しさと深さにもかかわらず、その演奏が、何とまあ極度に沈潜して、しかも屈折した世界に感じられたことか。休憩時間に出会った複数の知人が「子どもの情景」の演奏を「少し病的な子どものよう」と評していたのは、言い得て妙かもしれない。

 また、たとえばシューベルトのソナタなど、いつもはあのフィナーレのロンドの主題が出て来ると、何か暖かい陽光がぱっと拡がる場所に戻って来たような解放感に浸れるのだが、今回のルプーの演奏では、その主題さえもがある種の憂いを含んだ、心を外に向かって開くことなく続けられる独白のように聞こえたのである。

 ルプーは、ますます自己の内部に沈潜して行っているように感じられる。
 だが彼の演奏の素晴らしい点は、決して緊迫感を失うことがなく、作品の隅々にまで美しさを行き届かせており、しかも決して曲の骨格を崩すことはないということにもあるだろう。私たち聴き手が非常な緊張を強いられながらも、結局その演奏に納得させられてしまうのは、これらの美点のゆえではなかろうか。

 シューベルトのソナタは、私がたまらなく好きな曲だが、今夜は聴き終ってぐったりするほど疲れたものの、聴いている間は実に幸福な気持だった。

10・14(月)ザ・カレッジ・オペラハウスの「ピーター・グライムズ」

    ザ・カレッジ・オペラハウス(大阪音楽大学) 2時

 毎年秋に意欲的なオペラ・プロダクションを制作しているザ・カレッジ・オペラハウスが、今年はブリテンの「ピーター・グライムズ」を上演した。
 今年がこの作曲家の生誕100年といいながら、彼のオペラを取り上げたのは全国でもここだけだから、大いに貴重で意義がある。

 字幕つきの原語上演で、高関健の指揮、中村敬一の演出。小餅谷哲男(ピーター・グライムズ)、枡貴志(バルストロード船長)、平野雅世(エレン)、西原綾子(アーンティ)、野間直子(セドリー夫人)他の出演。ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団と合唱団、大阪音大学生選抜メンバーの合唱。

 高関健の指揮のもと、管弦楽もソロ歌手たちも合唱もまとまっていて、満足すべき水準の演奏となった。特に合唱は力があり、ピーター・グライムズ憎しと激昂怒号する場面での緊迫度は印象に残る。
 管弦楽も、いくつかの間奏曲でもう少し緻密で精妙な響きが出ていれば有難かったが、本編(?)の演奏においては、ブリテンの音楽の魅力を味わわせてもらうにはまず不足は無かったであろう。

 そこまではいいのだが、問題は、旧態依然とした演出にある。歌手たちに「語りかけるべき相手」の方を向かせずに客席の方を向かせ、ソロでも重唱でも合唱でも常に「定まりの型」を採らせてしまう。これは、このオペラのような心理劇を再現するには、全くそぐわない手法だ。

 特にピーター役の歌手は、意味なく手を差し延べたり左右に動かしたりするのも気になったが、その手の動きも、自己の夢想に耽る際のそれと、「小僧、来い!」と少年を脅す時のそれとが全く同じだというのは、いったい演技というものをどう考えているのだろうか? 自分の小屋で少年を怒鳴りつける場面など、背景に向いて何か動作をしては、歌う時になると演技を止めて客席を向くという状態だ。これでは威嚇か独白かも明確でなくなるし、まして追い詰められ精神の平衡を失いつつある主人公の異常な心理状態は、とても描き出すことはできない。

 世界のオペラ演出界が、常に新しい試みを模索しつつ試行錯誤を繰り返している時代に、こんな演出をまだやっているとはなさけない。ザ・カレッジ・オペラハウスのオペラ活動が音楽的には意欲に満ちているだけに、演出面でのかようなアンバランスは惜しまれる。上演プロジェクトのテーマが「創造×音楽」であるのなら、尚更であろう。

 なお、今回の字幕は籔川直子。こなれた、解りやすく読みやすい文章の字幕であった。
     ⇒モーストリークラシック新年号 演奏会レビュー

10・13(日)東京響次期音楽監督ジョナサン・ノットのR・シュトラウス

     サントリーホール  2時

 東京交響楽団音楽監督への就任(来年4月)が決まっているジョナサン・ノットが指揮する定期。まずはR・シュトラウス・プロで、「4つの最後の歌」と「アルプス交響曲」を取り上げた。

 「4つの最後の歌」の冒頭から、柔らかい音が流れ出る。シュトラウス最晩年のこの作品にふさわしい、温かく豊麗な音色だ。厚みのある響きのうちにも内声部は明晰に交錯し、作曲者の贅を尽くした色彩的な管弦楽法が見事に再現される。空間的な拡がりを感じさせながらも無駄なく引き締まった密度の濃い響きも好ましい。
 殊更な誇張を避け、正確に、微細に音楽をつくって行くノットの指揮に、東京響は実にふくよかな、柔軟な音で応えていた。第3曲での官能的な表現など、なかなか優れていたと言ってもよいだろう。

 ノットは「アルプス交響曲」でもこうした特徴を巧く生かしていたが、描写音楽的な性格を誇張することをつとめて避け、イン・テンポで、ひたすら正確に淡々と音楽を構築して行った。彼のこれまでの指揮からすれば、まずこうした音楽がつくられるのは予想されたことだが、むしろ東京響がこれだけ明朗な、しかもヒューマンな感性で応じて行ったことが、うれしい驚きであった。現・音楽監督ユベール・スダーンの、隙の無い厳しい構築で音楽を追求する手法とはまた違ったノットの指揮は、このオケに新たな可能性を導き入れるだろう。

 「4つの最後の歌」では、ソプラノ・ソロをクリスティーネ・ブリューワーが歌っていたが、この曲で、高音域をあんなに鋭く無理して叫ぶような歌い方をされては、ミもフタもない。

10・12(土)スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団

   サントリーホール  7時

 スタニスラフ・スクロヴァチェフスキの自作「パッサカリア・イマジナリア」と、ブルックナーの第4交響曲「ロマンティック」を組み合わせたプログラム。

 「パッサカリア・イマジナリア」は、ミネソタ管弦楽団の委嘱により1995年に作曲され、翌年同管弦楽団で、当時の音楽監督・大植英次の指揮により初演された由。
 曲は、多数の打楽器も加えた大編成が採られている。冒頭の長く続く静寂の中でコントラバスが奏しはじめる主題が全曲の基盤となり、パッサカリアが構築される。断続する短い音型が各楽器に受け渡され交錯しつつ、鋭角的な響きの裡に展開されて行くが、この飛び交う音たちの鋭さ、激しさ、緊迫感は見事だ。時にメシアンを思わせる金管の動きが聴かれるのも興味深い。

 しかも、これを指揮するスクロヴァチェフスキの厳しい集中性たるや、驚くべきものがある。読売日響の弦楽器群の音色も、艶やかで素晴らしい。
 演奏時間は26分と予告されていたが、実際は22~23分で済んでしまった。スクロヴァチェフスキ自身の作品はこれまでいくつも彼の指揮で聴く機会があったが、今回の曲は、それらの中で最も面白いものであった。

 「ロマンティック」は、ティンパニのパートの追加やシンバルの追加(第4楽章で計3回)、ハース版とノーヴァク版の混合など、いわば「スクロヴァチェフスキ版」による演奏であるのは、いつもと同じ。
 それに加え、楽器のバランスづくりにおいても彼の個性が随所に出ていて面白い。第3楽章スケルツォ部分のエンディングで、トランペット、トロンボーン、ホルンが交互に前面に立ち現れ、主役を受け継いで行く個所など、その一例だ。また第4楽章第170~180小節あたりでのホルンの6連音の驚くべき最強奏と、それに続くトランペットとトロンボーンなどの咆哮などは意表を衝く強調であり、やってくれるわスクロヴァさん、という感がある。

 彼の強靭な集中力の凄さはここでも発揮された。一方、読売日響は、分厚い量感というよりは、あまり重々しくない明晰な音で、かつ硬質でピリピリした緊張に富む音で応えていた。
 ソロも全体としては安定していたが、TV収録もあってか、あるいは初日の演奏とあってか、何か緊張しまくり、慎重に構えた雰囲気を感じさせていたのも事実であろう。2日目(14日)の演奏では、もう少し肩の力を抜いたものが出るのではないか。第3楽章など、最初の演奏よりは、リピートの部分の演奏の方が、はっきりそれとわかるほど音が整っていった、という例からも推察されるように。

 全体にデュナミークの幅が極端に広く、これもまた演奏を鋭角的に感じさせた一因でもあろう。随所に現われる静寂なピアニッシモの中で、客席は水を打ったように静まり返り、聴衆すべてが息をつめて聴き入るという印象であった。

 スクロヴァチェフスキは、先週90歳の誕生日を迎えたばかり。その矍鑠たる指揮ぶりは、本当に見事というほかはない。
  音楽の友12月号 演奏会評

10・9(水)MET チャイコフスキー:「エフゲニー・オネーギン」

     メトロポリタン・オペラ  7時30分

 今シーズンの開幕公演として新制作されたもの。全13回予定の、今夜が5回目の上演。

 指揮はワレリー・ゲルギエフ。昨夜の「鼻」に続いての登場だ。演出はデボラ・ウォーナー、演出監督がフィオナ・ショウ。
 配役も、タイトルロールにマリウシュ・クヴィエチェン、タチヤーナにアンナ・ネトレプコ、レンスキーにピオトル・ベチャワ、オリガにオクサナ・ヴォルコーワ、ラーリナ夫人にエレーナ・ザレンバ、乳母フィリッピエヴナにラリッサ・ジャジコーワ、という強力極まる顔ぶれである。グレーミン公爵はアレクセイ・タノヴィツキだったが、こちらは惜しいことに少し弱い。

 ゲルギエフの指揮のもと、METのオケが実に美しい音を出す。一昨日の「ノルマ」でのフリッツァとは、天と地ほどの差だ。
 特に叙情的な個所でのゲルギエフの音楽づくりは絶妙で、第1幕ではタチヤーナの心の昂揚、逡巡などを実に巧みに描き出す。そもそもチャイコフスキーの音楽がよく書けており、中でも女性の心理の動きが隅々まで微細に描かれていることには舌を巻くほどだが、それをゲルギエフがまた巧く表出するのである。ただし第2幕以降は、何故か少し演奏に鋭さと精彩を欠く印象だったが・・・・。

 全体に抑制した表現で、第3幕最後のタチヤーナとオネーギンの葛藤の場面など、前回のMETのプロダクション(ロバート・カーセン演出版、DVDで出ている)における劇的で激しい表現とは趣きを異にし、やや遅めのテンポを採って描いていた。
 また今回は、タチヤーナが去ったあと、オネーギンの最後の言葉と管弦楽が始まる前に、異常に長い沈黙が置かれたが、――もちろん音楽もここで長いこと完全に停止しているわけだが、ゲルギエフがよくこんな「演出優先の演奏」にOKを出し、そのように指揮したものだと驚く。だが、それまで葛藤=転調が続いてきた音楽が最後の破局に盛り上がろうとするところで完全に途切れてしまうことについては、やはり賛意を表しかねる。

 ゲルギエフとともに人気が高く、ブラヴォーの声が多いのは、もちろんアンナ・ネトレプコだ。流石にロシア・オペラだと、歌唱もピタリと決まる。
 演技の巧さは、相変わらずである。オネーギンとの出会いの場面での動揺や、彼への手紙を乳母に託したあとの複雑な心理の動きの表現など真に迫っているし、ことにオネーギンから尤もらしく説教される場面での打ちひしがれた表情の演技など、かつてのミレッラ・フレーニのそれを凌ぐのではなかろうか。第2幕でトリケの気障な賛辞に閉口する場面ではユーモラスな演技が見られる。

 体型がかなり丸くなって来ているので、田舎娘の扮装の時はあまりサマにならないけれども、第3幕でのグレーミン公爵夫人になってからの堂々たる威容は見事なもので、とりわけラストシーンでの厚いコートや帽子に身を固めた貴婦人の姿は、流石の気品であった。
 公爵夫人となって登場する最初の場面では、第2幕までの内気な田舎娘からは考えられぬほどの横柄で鼻持ちならぬ女主人の雰囲気を出しており、そこまでやるかと驚かされたが、そのあとのオネーギンとの対決の場面では、彼への愛と憐れみが交錯する女性としての微妙な心理を完璧に表現していた。別れ際にタチヤーナがオネーギンに激しくキスをし、呆然とした男を残して去るという演出は今回初めて見たが、第1幕の「手紙の場」が逆転するという意味でも、これは効果的と思われる。

 その他、クヴィエチェンもベチャワも、あるいはザレンバにしてもジャジコーワにしても、みんな歌唱は見事だが、演技となると、思いのほか平均的だ。
 そもそも演出が極めてストレートな手法に拠っており、それはいいとしても、ドラマトゥルギーの面ではさほどのひらめきが感じられない舞台なのである。美術(トム・ピイ)もどちらかというと地味で、おとなしい。
 それゆえ、おそらく今回の演出は、実はさほど踏み込んだものではなく、ネトレプコ1人だけがその「オペラ女優」的な優れた感覚により、自分で工夫をしつつ演技をしているのではないか――と推測されるのだが、如何だろうか?

 オネーギンとレンスキーの決闘のシーンは――ここは演出家の腕の見せ所だが――今回はこうだ。いよいよ銃(今回はピストルではない)で対決する直前、レンスキーがオネーギンに手を差し延べ、オネーギンが意外な表情を隠せぬまま握手に応じる。オネーギンは和解が成立したと思う。だがそれにもかかわらず、レンスキーは決闘を急ぐ。レンスキーが銃を構えたまま慌しく、むしろ死を願うような様子で進んで来るのにつられたように、オネーギンが先に発砲する・・・・。ここなど、演出をもう少し煮詰めて綿密に構築すれば、もっと興味深い心理描写になったのではないかと思うが、惜しい。

 11時15分終演。
 なおゲルギエフは、今回は「オネーギン」の全公演と、「鼻」の公演の途中までを指揮するというMETへの力の入れようだが、その他にも来週はカーネギーホールにマリインスキー劇場のオーケストラを連れて来て、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ、ラフマニノフそれぞれの特集プロを指揮するそうである。聴けないのが残念だ。

10・8(火)MET ショスタコーヴィチ:「鼻」

   メトロポリタン・オペラ  8時

 2010年3月にプレミエ(3月18日の項参照)された、ウィリアム・ケントリッジ演出によるプロダクションの再演だが、これは文句なくMETの傑作だろう。MET総支配人ピーター・ゲルブが就任に際し、意欲満々のうちに制作したプロダクションであった。

 今回もワレリー・ゲルギエフが指揮、主人公のコワリョーフ(少佐、8等官)をパオロ・ジョット(ブラジルはサンパウロ出身)、警察署長をアンドレイ・ポポフ(サンクトペテルブルク出身)という具合に、中核にはプレミエ時の顔ぶれを揃えている。
 歌を少しでも歌う登場人物はたいへん多いが、配役表を見ると、ゲンナジー・ベズズベンコフ(医者他)、ウラジーミル・オグノヴェンコ(床屋)、セルゲイ・スコロホドフ(下男イワン)ら、脇役でも重要な役にはマリインスキー劇場系のベテランを起用し、言葉と音楽の面を引き締めているようである。

 とにかく、みんな歌も演技も達者だ。中でもやはりパオロ・ジョットの活躍は前回同様に目覚しく、鼻を失ったコワリョーフの喜怒哀楽を見事に描いて、観る者を笑いに誘い込む(今夜の客はなぜか著しく静かだったが)。METデビューだった前回に比べ、演技にも歌唱にも余裕が感じられる。なお、確か前回は「脱落した」鼻のところに何か黒いものを貼り付けていたように思ったが、今回は特別なメイクは全くなし、つまり常にオリジナルの(?)鼻をそのままで演技していた。

 ほかに、出番は多くないが、教会の中での陰歌とポットーチナ夫人の娘役とを受け持っていたイン・ファンというソプラノが、清純な声と明るい容姿で映えていて、今後注目される存在であろう。中国出身で、これがMETの舞台デビューだそうである。

 ウィリアム・ケントリッジの、こま撮りアニメの映像を活用した傑作な舞台については、前回に述べたとおり。
 才気煥発、機知縦横、変幻自在という表現がぴったりの舞台だ。アニメから映画から字幕まで、目まぐるしくいろいろな映像が飛び交う舞台だが、その映像が音楽の動きと寸分の違いもなく合い、しかも舞台上の登場人物の動きとも完璧な均衡を保って進められて行くので、その手際の良さに観客も舌を巻きながら眺めるということになる。

 忍び足で歩いて行く2本足の生えた鼻、赤旗(今年は完全な赤色ではなかった)を振り回して人々をアジる鼻、ドレスを着て踊る鼻など、どれもユーモアたっぷりだし、特に「手紙の場」でポットーチナ夫人母子の部屋とコワリョーフの部屋とをアニメの手紙と矢印が往復するあたりの手法は見事なアイディアであった。

 登場人物たちの右往左往ぶりも、少々乱痴気騒ぎではあるものの、アイロニーにあふれてすこぶる巧妙である。ただし、この舞台上の人物の動きの演出などは、いかにアニメの天才ケントリッジであっても手に余るのではないかと思われるが、共同演出として名を連ねているLuc De Witとの作業の分担がどういうものであったかまでは、私は承知していない。

 とにかく、これがMETライブビューイングでも近々上映され、多くの人の目に触れるというのは、喜ばしいことである。

10・7(月)MET ベッリーニ:「ノルマ」

    メトロポリタン・オペラ  7時30分

 前日夕方ニューヨークに入る。

 この「ノルマ」は、レパートリー・プロダクションで、今シーズンは9回の上演が予定されており、今夜が3回目の上演である。
 だが、2001年制作にしては随分と旧態依然、古色蒼然たるプロダクションだ。演出(ジョン・コプレイ)も型通りで、ゴール人たち群衆はほとんど細かい演技をせず、巫女ノルマがどんな重大事を発表しても泰然として表情も変えないというタイプのものだから、端役まで微細な演技を繰り広げる近年の舞台を見慣れてしまっていると、単調この上ない印象になってしまう。
 おまけにリッカルド・フリッツァの指揮が、ただ演奏を進めるだけの平凡無策、実に退屈なシロモノである。オーケストラもあまり生気の感じられぬルーティン上演であった。

 タイトルロールの巫女ノルマは、ソンドラ・ラドヴァノフスキーが歌った。ビンビン響く大きな声で、METの巨大な空間をものともせずという馬力だが、悲しみも怒りも喜びもすべて同じ調子の硬質な声で歌うので、ノルマという複雑な性格を備えた役柄を演じるには、これも単調に感じられるのが惜しい。
 ローマの将軍ポリオーネを歌ったのはアレクサンドルス・アントネンコというテノールで、やや天下泰平な歌唱と演技の、いわば平均点といった出来だろう。

 むしろ私が注目していたのは、アダルジーザ役のケイト・アルドリッチだ。ザルツブルク音楽祭での「ベンヴェヌート・チェッリーニ」や、ベルリン・ドイツオペラでの「リエンツィ」(いずれもDVDでも観られる)で彼女の歌と演技に接してから、ずっと気になっていたメゾ・ソプラノである。
 今夜も、この人がいちばん演技も細かく、ニュアンスの細かい歌唱を聴かせていたのではなかろうか。あまり大きな声ではない人だから、METの大空間で――しかもラドヴァノフスキーの大音声と応酬するには少し分が悪いが、引き締まった声と歌い方を生かして、ノルマとの二つの2重唱も巧くバランスを取っていた。

 そして、ドルイド教徒の長老オロヴェーソを歌うのは、懐かしやジェームズ・モリス。声にはもう全盛期の安定感はないが、その舞台姿を含めた「味」にはやはり独特の良さがあり、出演しているだけでMETの観客を安心させる、といった雰囲気の人なのである。
 他にローマの士官フラヴィオをエドゥアルド・ヴァルデス、ノルマの侍女クロティルデをシアン・デイヴィース。

 10時35分終演。昼間は異様に蒸し暑かったが、流石に夜はちょうどいい気候になった。

10・4(金)アンドルー・デイヴィス指揮BBC交響楽団

   横浜みなとみらいホール  7時

 アジア・ツァー(カタール、日本、韓国、台湾)の一環として来日。今回は横浜と豊田だけの公演なる由。
 東京公演がなかったせいか、何となく目立たない来日のように感じられたが、それでも、そこそこ客は入っていた。BBC放送のライヴ中継(録音?)が入っていたので、みんな本気になって演奏しただろう。

 指揮はこのオケと切っても切れぬイメージの、にこやかで陽気なアンドルー・デイヴィスだが、彼は既に首席を退き、このオケの桂冠指揮者となっている。ちなみに現在の首席指揮者はサカリ・オラモ。桂冠指揮者には他にイルジ・ビエロフラーヴェクがいる。

 プログラムは、エルガーの「威風堂々 第1番」で始まり、神尾真由子をソリストに迎えたモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番」、ヴォーン・ウィリアムズの第2交響曲「ロンドン交響曲」と続く。アンコールはストコフスキー編曲によるパーセルの「ダイドーとイーニアス」からの「ダイドーの嘆き」、ブリテンの「ピーター・グライムズ」の間奏曲「嵐」。

 何といっても貴重なのは、「ロンドン交響曲」だ。わが国ではこんな曲が演奏会のプログラムに載るのはそれこそ十年に一度、の類であろう。私もナマで聴くのは初めてだ(――などと書いた後で、いろいろな方から「昔やってるぞ」と言われ、そういえばかなり前、コンサートで聴いたことが2度くらいあるわい、と思い出した。ドジな話だ)。しかしとにかく、今回はよくぞやってくれた、と思う。
 ビッグベンの調べ、日本のお囃子に似たフシ、「オペラ座の怪人」そっくりの主題など、ニヤリとさせられるところもあるし、ショスタコーヴィチの交響曲「1905年」の先駆のような構築も聞かれるし、意外に楽しめるのではないかという気もするのだが・・・・。最後の美しい静かな和音がゆっくりと響いているさなかに席を立ち、音を立てて出て行こうとした人の気が知れない。

 もし日本でヴォーン・ウィリアムズの交響曲ツィクルスなんてのを開催したら、いったいどのくらいのお客さんが来るのかな、などと一瞬考えて苦笑してしまう。

10・3(木)新国立劇場新制作 ヴェルディ:「リゴレット」

   新国立劇場  7時

 新シーズン開幕公演。
 先頃ミュンヘンで「指環」を、この新国立劇場でも4年前に「ヴォツェック」を手がけたアンドレアス・クリーゲンブルクを演出に迎え、トラディショナルなイタリアものとは一味違った「リゴレット」を試みよう、というわけであろう。
 美術はハラルド・トーア、照明はシュテファン・ボリガーが担当、いずれもその「ヴォツェック」と同じ顔ぶれである。

 最初の2幕の舞台は大都会の高級ホテルのロビーで、その奥の3層からなる階段、回廊、客室のドア、といったものは、回転する舞台装置に乗って廻って行く。無数のドアの向こう側には無数の秘密の世界がある、というイメージを表出するには、この回転舞台は効果的な手法であろう。

 深夜の回廊には、男たちの逸楽の道具にされた惨めな女たちが、かなりリアルな姿でうごめく。そして、第2幕最後のリゴレットとジルダの2重唱(「復讐だ!」)が始まると、その時まで停止していた背景の舞台が再び回り出し、各ルームから下着姿で放り出されたその女たちが彷徨ったり、うずくまったりしている姿がもう一度見えて来る――ここはかなり劇的な光景で、クリーゲンブルクがこのオペラを単なる一組の父娘の悲劇にとどめず、逸楽にふける男たちと、彼らに弄ばれた女たちとを対比させるドラマとして描き出そうとする意図が覗われる個所だろう。
 血や暴力が少なからず前面に出て来るのも、最近の欧州の演出における一種の流行だ。これでもまだ温和な方である。

 ただ、演出家の意図はかりにそうであったとしても、いかんせん、肝心の舞台の「温度」がおしなべて低く、密度にも、緊迫感にも不足する。要するに舞台の雰囲気が冷たく、ちっとも沸騰しないのだ。それゆえ惜しいことに、観ているわれわれにも、舞台に引き込まれて夢中になるという感覚が起こらないのである。
 これはまあ、残念ながら、わが新国立劇場のオペラ上演には常について回る不思議な傾向なのだが、新シーズンの開幕公演としては、これではちょっと寂しい。
 それに、クリーゲンブルクの演出としては、これは些か「本気度」が薄いのではないか? 彼のイタリア・オペラ演出は如何なものなりや、と、今回はかなり期待を持っていたのだが、観終ってみると、この人はやはりドイツ・オペラの方に向いている演出家なのかな、という印象になってしまった。

 もうひとつ、余計なツッコミになるが、このホテル、高級ホテルにしては随分ガラの悪いところですな。あんな野郎共の集団とコールガール(?)ばかりが屯しているホテルでは、一般客は、いったいどうしているんだか。あれがマントヴァ公爵の豪華な別荘だというなら、筋は通るだろうが。
 また、第3幕の「スパラフチーレの家」はその「ホテル」の屋上だと演出家は言うが、高級ホテルの屋上にああいう「貧しき者たち」が、住めるものなのか。上部には「ビラ・マントヴァ」とかいう銘柄のビールの広告ネオンが輝き、屯するホームレスみたいな者たちも常に何かをラッパ飲みしているが、ひっくり返したビールの箱には「SUNTORY」という字が読めた。

 もう一つ驚いたのは、第1幕、騒ぐ男たちが去ったあと、華やかなロビーの隅にあるバーで独り飲んでいた男が振り向き、それが殺し屋スパラフチーレで、自分の名を低音で延々と引っ張って歌いつつ袖に消える――これは今年の春にMETでプレミエされたマイケル・メイヤーの舞台の完全なパクリではないか。今回彼が飲んでいたのは下手側のバーだったが、上手側のバーの位置は全く同じ、第3幕での上手側のエレベーターの位置も似たようなもの、と来ては・・・・。

 今回は、ピエトロ・リッツォが東京フィルを指揮して、豪快に鳴らした。大きな音だからいいというわけではないが、か細い音ではヴェルディの熱っぽい音楽が生きないし、劇的な昂揚も生まれない。
 ただ、演奏には時たま、間が抜けた(?)感があって・・・・。拍手でもあればその「間」も繋がるのだが、舞台があのように冷えていると、客席もワッと沸かないのである。

 リゴレットはマルコ・ヴラトーニャで、声はあるものの、第1幕と第3幕での幕切れの決め場「ああ、あの呪い!」にもう少し劇的な力が欲しいところ。背中に大きな瘤を入れた扮装は最近の演出には珍しく、それだけに第2幕のジルダとの2重唱の場面では、「ノートルダムの鐘つき男」のカジモドを連想させる哀しさも滲み出て、悲劇性充分なものもあった。
 そのジルダはエレナ・ゴルシュノヴァ、声は柔らかく、少しこもり気味なものの、「慕わしき御名」では美しい可憐さを聴かせた。ただ、その可憐な容姿は、舞台に「華」を感じさせるところまでは行かなかったようである。

 マントヴァ公爵は、見れば見るほど朝青竜にそっくりのキム・ウーキュン。声の伸びはよく、舞台上の存在感もなかなかのものだ。
 他にスパラフチーレを妻屋秀和、マッダレーナを山下牧子ら。
 合唱は新国立劇場合唱団。何故か今回改めて感心したのは、チェプラーノ伯爵夫人の佐藤路子だけでなく、助演者の女性たちに、随分美しい容姿の人たちを揃えたな、ということ。最近の日本女性たちは見事です。

 25分程度の休憩1回を含め、9時半頃終演。
 さて、あれこれ感じたこの初日公演での問題点、上演の回を重ねれば、何とか解決できるのだろうか? 22日までの間に、あと6回上演される。
 

10・2(水)スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団

    サントリーホール  7時

 明日、90歳の誕生日を迎えるスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、愈々元気、増々健在。
 スタスタと舞台に登場して、高い指揮台にもしっかりと上がり、立ちっ放しで指揮を続ける。あの素早い腕の振りこそ少し穏やか(?)になったものの、エネルギッシュな指揮姿には変わりない。

 今日はベルリオーズの「ロメオとジュリエット」抜粋と、ショスタコーヴィチの「第5交響曲」がプログラムに載せられていたが、仕事の都合でベルリオーズだけ聴いて失礼した。

 「ロメオとジュリエット」からは、型通り「愛の情景」と「ロメオひとり~キャピュレット家の大宴会」が選ばれたが、「マブの女王のスケルツォ」は割愛され、代わりに全曲の「序奏」が冒頭に追加されていた。
 「序奏」(アレグロ・フガート)は弦楽器群が弾き切れぬような速いテンポで開始され(作曲者のメトロノーム指示は更に滅茶苦茶なほど速いが)、金管群のクレッシェンドの個所さえ細部は曖昧になるほどのテンポが採られる。
 こういう時にワリを食うのは、オケの方だろう。損な役回りだ。

 だがそのあとの2曲では、じっくりと美しく歌うようなテンポを採ったスクロヴァチェフスキ。残念ながら必ずしも最高の演奏とはいえず、聴衆の受けもそれほどではなかったが、私はとにかくベルリオーズと言えば最も好きな作曲家のひとりなので、大いに堪能させてもらった。わが国でこの作曲家の人気があまり高くない(「幻想交響曲」を除いてだが)のは悲しい。

10・1(火)尾高忠明指揮「ベルシャザールの饗宴」

    新国立劇場  7時

 文化庁芸術祭オープニングとして、新国立劇場オペラ部門芸術監督・尾高忠明の指揮により、ディーリアスの「楽園への道」(「村のロメオとジュリエット」間奏曲)、エルガーの連作歌曲集「海の絵」、ウォルトンの「ベルシャザールの饗宴」というプログラムの演奏会が行なわれた。
 演奏は、東京フィルと新国立劇場合唱団、加納悦子(Ms)、萩原潤(Br)。
 新国立劇場の公演ではなく、プログラムの趣旨もあまりよく解らないのだが、尾高が振るならやはり得意の英国ものを、ということなのだろう。

 この「東京国立歌劇場」でオーケストラの演奏会を聴いたのは、私はもしかして今回が初めてだったかもしれない。音響は悪いというほどではないが、良くもない。歌劇場特有のアコースティックが、オーケストラや合唱を、コンサートホールにおけるよりも乾いた音にする。反響板を使っているのかどうか定かでないが、平土間席で聴く限り、オケの音がまっすぐ客席に来ないという特徴があって、もどかしい感になるのはたしかだ。それでいながら金管はおそろしく鋭い音に聞こえるのだが・・・・。

 だがまあ、それはそれとして、ディーリアスとエルガーでの夢のように美しい抒情の世界に浸れたのは、またとない法悦のひと時であった。
 「ベルシャザール」でのバンダは2階両側のバルコン席に配置されていたため、本体のオケよりも突出した音に聞こえる傾向もあったが、作品に対する尾高の愛情と共感がここでも感じられる演奏であった。

 字幕が付いていたのは有難かったけれど、聴感上では何語で歌っているのかよく解らぬところも多くて・・・・。

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