2017-03

9・30(月)ハーゲン四重奏団のベートーヴェン第5夜

    トッパンホール  7時

 今年3月の「前篇」(3夜)に続く秋の陣の第2日で、「第2番 作品18-2」「第4番 作品18-4」「第14番 作品131」というプログラムが組まれた。

 ホールは満杯で、皇太子殿下も来臨されたが、どこぞのホールと違って、いつの間にか客席に入って、演奏が終ればお客と一緒に退場、というスマートな形が採られていたのは好ましい。ただし黒服の男たちがいたるところにいるのは何とも堅苦しく、開演前には一般客も早々と席についたまま押し黙っているから、ホール内はある種の冷たい雰囲気に包まれる。

 肝心の演奏は? この場内の雰囲気にこちらも呑まれたせいか、「第2番」では何か気持が音楽に集中できず、弱った。演奏のせいかどうかは判らぬ。「第4番」に至って漸くハーゲン=ベートーヴェンの世界に浸れたかなという感。

 第1ヴァイオリンのルーカス・ハーゲンにどうも音程の不安定さがついて回るのが最近のこのハーゲン四重奏団の問題点だが、それを充分補って余りある演奏を聴かせるのが、ヴィオラのヴェロニカ・ハーゲンとチェロのクレメンス・ハーゲンというわけだろう。いわばこの四重奏団は、中低音により支えられているといった感がある。それでも、昔に比べれば音楽に陰影が濃くなり、深みが増しているのだから、理屈では解明できないものがある。
 しかし「131」では、その第1ヴァイオリンも健闘して・・・・とにかく、ベートーヴェンの音楽の超人的な物凄さを改めて痛感させてくれて、演奏会は終った。

9・28(土)「コルンゴルトを広め隊」第4回公演
「コルンゴルトとシェイクスピア」

   日本キリスト教団 根津教会  6時

 エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(1897~1957)の作品を紹介演奏している「コルンゴルトを広め隊」のリーダーは、東京芸大大学院修士課程(音楽学)在籍中の中村伸子さん(安宅賞受賞)である。自ら企画し、会場での解説を担当するという活躍ぶりだ。

 すでに2009年以来、東京芸大や霊南坂教会などで、室内楽や歌曲を中心にコルンゴルトの作品を集めたコンサートを開いているが、私が聴いたのは、今回が初めてである。
 今日は昼夜2回公演で、すべてシェイクスピアの詩や戯曲を題材に作曲されたものを集めており、映画「夏の夜の夢」序曲(メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」をメドレーの形に編曲したもの。映画は1935年公開)、「道化師の歌 作品29」、「歌曲 作品31」、「空騒ぎ 作品11」の抜粋、「5つの歌 作品38」からの「私の恋人の目は」というプログラム構成であった。

 演奏は川口成彦(ピアノ)、佐々木美歌(ソプラノ)、田中俊太郎(バリトン)、對馬哲男(ヴァイオリン)。いずれも芸大大学院在学中の若い人ばかりだが、この人たちの演奏の上手さには驚き、感心した。これはもう、タウンコンサートどころではない、コルンゴルトの作品に正面から取り組んだ本格的な演奏会であり、それにふさわしい水準をもった演奏会である。

 このところ俄かにまた人気を高めているコルンゴルトの作品――来年3月にはびわ湖ホールと新国立劇場で、まるで示し合わせたように「死の都」のそれぞれ新制作上演があるし、「東京・春・音楽祭」でもコルンゴルト特集公演があると聞く。
 この「広め隊」のような地道な活動を通じてコルンゴルト・ファンが増えてくれればいいのだが。私自身、ふだんナマで聴ける機会のまず無い作品に接することができたのは幸せだった。
 なお、ついでながら、若い優秀な歌手のおふたりには、声は見事だが、英語の発音にはもう少し研究を、と申し上げておこうか。

9・27(金)本名徹次指揮ベトナム国立交響楽団来日公演

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 ベトナム国立交響楽団は、過去に3度来日している。
 それらを全部聴いた体験や、5年前の初秋にマーラーの「第3交響曲」の演奏をハノイで聴いた頃に比べると、その演奏水準は格段に飛躍している、と言っていいだろう。
 10年以上にわたりこのオーケストラの育成に心血を注いで来たわが国の指揮者、本名徹次の功績はまことに大きいものがある。

 しかも今回は、9月21日から10月1日までの間に「日越外交樹立40周年記念」の冠をつけて7回もの公演を開催、多くの企業の後援を得て、特に今夜は皇太子殿下も来臨されるという華やかな夕べとなっていた。かつて「アジア・オーケストラウィーク」や「ラ・フォル・ジュルネ」に出演するためだけに来日していた頃のことを思えば、この日の盛況を迎えた本名徹次の喜びは、いかばかりだろうか。

 今夜のプログラムは、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」に始まり、グエン・ティエン・ダオ(フランス在住のべトナムの作曲家)のピアノ協奏曲「コンチェルト・ヴィーヴォ」(21日の横浜みなとみらいホールでの演奏会が世界初演、ソリストは児玉桃)、ベートーヴェンの「交響曲第7番」という構成だった。
 なおアンコールは実に綺麗な音楽だったが、出口付近の曲名掲示板には「ベトナム民謡」と素っ気なく書いてあるのみ。いくら何でも、民謡にもいろいろあるでしょうが。もしかしたら、プログラムに掲載されているウゴ・ホァン・クァン編の「入寺」(松村洋一郎氏解説による)という曲と同一だろうか? 

 コンチェルトは、児玉桃がかなりダイナミックにソロを弾いていたが、どうもこの作曲者は、ピアノと一緒に打楽器を鳴動させる癖があるらしい。だから、ピアノのソロがあまり目立たなくなってしまう傾向がある。だが、そのオーケストラ・パートの音色そのものは、すこぶる多彩で、華麗だ。弦楽器群が風の音のようなイメージを出すのも面白い。

 先ほど、演奏水準は格段に飛躍したと書いたけれども、武満作品での弦の音色は、美しいが少し粗く、またベートーヴェンでは、管楽器に不安定さが多分に残っていたのは事実で、このあたりには未解決な要素も少なくないのだろう。
 「7番」を聴いた席の位置が1階18列あたりの上手側の端で、音が風呂場みたいにワンワン響いて聞こえる場所だったため、ミスも多少はカバーされてはいたが・・・・。それに不思議なことに、木管はどれも1番より2番奏者のパートの方が強く聞こえていた。

 とにかくこの席の位置で聴く範囲では、本名徹次は、この「7番」では、あまり攻撃的なアプローチを採らず、しなやかで柔らかな響きをねらっていたように思われた。それはなだらかで優しく、良くも悪くも、いかにも日本的なベートーヴェンだったということになるかもしれない。

 なお今回の来日公演では、ベートーヴェンの「皇帝」(これもソリストは児玉桃)と「運命」の他に、ベトナム語のナレーション入りによる芥川也寸志の「蜘蛛の糸」という面白い曲目もプログラムに乗せられていた。

9・22(日)びわ湖ホールプロデュースオペラ「ヴァルキューレ」2日目

     びわ湖ホール  2時

 今日は別キャスト、つまり15日の神奈川県民ホール公演と同一の配役。

 概して、横浜でのそれに比べて緊張が解けたような伸びやかな雰囲気を感じさせたのは昨日の組と同様だ。しかし、登場人物のそれぞれが激しい感情を表現し、ぶつけ合っての大熱演、という点では、こちらの組の方が目立っていたかもしれない。

 何しろ、グリア・グリムズレイ(ヴォータン)とエヴァ・ヨハンソン(ブリュンヒルデ)が、横浜を遥かに上回るパワー全開の歌唱で咆哮し、飛ばしまくるとなれば、望月哲也(ジークムント)も橋爪ゆか(ジークリンデ)も、そして加納悦子(フリッカ)さえも、それに対抗し、激情を迸らせての力演になるのは当然だろう。
 ただ、グリムズレイは確かに「激怒する主神」にふさわしく(歌い方に独特の強い癖はあるものの)息を呑ませるほどの荒々しい迫力を聴かせたが、ヨハンソンの方はもしかして体調が万全ではなかったのか、彼女が時々陥ることのある絶叫気味の歌唱になることも少なくなかった。
 とはいえ、やはりこの2人が醸し出す舞台上の「貫録と雰囲気」は何物にも代えがたく、日本勢歌手陣に強い刺激を与えていたことは、客席から見るわれわれにも明確に感じ取れたのである。

 その意味では、2人の客演がこの「びわ湖ホール プロデュースオペラ」のシリーズそのものにも良い刺激を与えた、と言ってもいいかもしれない。
 加えて、沼尻竜典指揮の合同オーケストラも、(金管の細かいところはともかくも)全体としては今日の演奏が最高で、ほぼ完成の域に達していたと言えるだろう。「ヴォータンの告別」で全管弦楽が2度、3度とクレッシェンドを重ね、感動的な頂点を築く個所や、「ヴァルキューレの騎行」など管弦楽が激しく渦を巻くような個所で示されたオーケストラの均衡に富んだ響きは見事なものであった。

 ジョエル・ローウェルスの今回の演出に関しては、これまでいろいろ異論を重ねて来たが、しかし、かりに、例の煩わしい場面転換などをまったく除外視して考えるならば、この演出は、基本的には意外にシンプルで、演技の組み立ても微細に配慮された、極めて平易な手法に拠っていることは事実であろう。
 たとえばヴォータンとブリュンヒルデの場面や、ジークムントとジークリンデの場面での動きの構図をはじめ、第3幕でのヴァルキューレとヴォータン、ヴァルキューレとジークリンデの対比的な動きなど、実に平明で解りやすい。つまり、その面では、ある種の演出にあるような「何をやっているんだかさっぱり解らない」という演技は、まったく見られずに済んだのである。

 とはいえ、結局、今回の舞台は、数年前のあの東京二期会公演で演出した「ヴァルキューレ」にヴァリエーションを加えた新制作としては、未完成段階のような、少々野暮ったい雰囲気のままに留まってしまった、というところだろうか。「策士、策に溺れる」とはこのこと。思えば、数年前の日生劇場での「カプリッチョ」(R・シュトラウス)では、あれだけ美しい、読みの深い舞台をつくったローウェルスである。もっとストレートにやったら、もっと洒落た「ヴァルキューレ」も出来たであろうと思う。

 ともあれ、ダブルキャストにおける、それぞれの役柄表現の違いは、興味深い。
 横山恵子は、少女時代の自分を今なお忘れられない父親に戸惑いつつも、その感情を理解して父親を愛そうと努める、というブリュンヒルデを、実にあたたかく演じた。一方、エヴァ・ヨハンソンは、そんな父親を苦々しく思い、反発してしまうブリュンヒルデを、荒々しく、激しく演じた。
 そして青山貴は、息子ジークムントを無惨にも死なせてしまった父親ヴォータンの苦悩を第3幕で激しく表に出して演じ、一方グリムズレイは、そうした感情をあまり表に出さない演技ながらも「怒れるヴォータン」の物凄さを迫力充分に、見事に演じたのであった。

 こうした違い、しかも同一歌手であっても公演ごとに少しずつ表現を変えている演技の違いなどを比較して楽しむのは、やはり複数回観てみないと、不可能であろう。でも、こんなことは、そうそうできる機会はないけれども。

 今年の日本の「ヴァルキューレ大戦」は、これで終戦。これだけ続けざまに聴いても飽きないどころか、ワーグナーの音楽はやはり良く出来ている、凄いものだ、と思ってしまうのが、ワグネリアンの性(さが)というものだろうか。
 京都発21時02分の新幹線で帰京。

9・21(土)びわ湖ホール プロデュースオペラ 「ヴァルキューレ」初日
沼尻竜典指揮 ジョエル・ローウェルス演出

   びわ湖ホール  2時

 朝、札幌を発ち、昼過ぎ、再びびわ湖ホールに戻る。

 この「ヴァルキューレ」は、1週間前に神奈川県民ホールで上演されたプロダクションのびわ湖ホール上演である。基本的にスタッフは同一で、今日の演奏は14日(土)と同じ組――青山貴(ヴォータン)横山恵子(ブリュンヒルデ)らによる組だ。

 こう言っては神奈川県民ホールに悪いけれども、やはりホールの違いが上演に与える影響は、計り知れぬほど大きい。
 もちろん、この組にとってはこれが2回目の本番に当るから、慣れたとか、コツを呑み込んだ、という面もあるだろう。が、びわ湖ホールは何といっても本格的なオペラ劇場であり、音響的にもほぼ理想的な条件を備えている劇場だ。歌手たちが楽々と歌っても、声がよく響く。オケ・ピットの音も、まとまりが良い。そういう点も含めて、今日の演奏は、14日の初日公演に比べ、格段の良さがあったと言っていい。

 歌手陣は、歌唱も演技も、きわめて伸び伸びしていたように感じられた。
 青山貴(ヴォータン)は終始快調に飛ばし、演技も微細だった。フリッカに論破され、ブリュンヒルデにも説得されてしまうという、神々の長の複雑な性格をよく表現していた。ただしイタリア・オペラみたいに手を拡げ続けるのは、ワーグナーのドラマにおける演技とは言えないだろう。
 福井敬(ジークムント)も、横浜でのような力みが抜け、いつもの英雄的で悲劇的な性格を得意とする彼の力量を最大限に発揮していた。今年6月以降に聴いた彼の3回のジークムントの中で、今日は最良の歌唱だったと思う。

 小山由美(フリッカ)は常に変わらぬ威厳と風格と安定感。結婚の守護神としての立場の裡に、夫ヴォータンへの愛と甘えと嫉妬の感情を滲ませたその表現力たるや見事なものである。大村博美(ジークリンデ)も伸びやかで快調で、第2幕終り近く、ジークムントを気遣っておろおろする演技なども、初日よりずっと明快で解りやすいものになっていた。

 初日と比べて最も違いが大きかったのは、横山恵子(ブリュンヒルデ)ではなかろうか。声も柔らかく伸び伸びしていて、初日に感じられたような不思議な特徴は、雲散霧消していた。その上、あの妙にごついメイクもすっかり改められ、いつもの彼女らしく明るく生き生きした顔つきになっていた。つまり、声といい、歌唱の表現力といい、表情豊かな演技といい、プリマにふさわしいブリュンヒルデを完璧に取り戻していたのである。
 斉木健詞(フンディング)と田崎尚美ら8人のヴァルキューレたちも安定、極めて水準の高い歌唱と演技を繰り広げていた。

 とにかく歌手たちの声がビンビン響くから、こうなるとオーケストラ(日本センチュリー響+神奈川フィル)の音には、もっと厚みと量感が欲しくなるところである。
 しかし沼尻竜典の指揮は、この作品の叙情的な良さがすべて生かしていた。私が好きな、この曲の綺麗な個所は、それこそ一音符も逃さず再現されていた、といって過言ではない。

 演出には、特に変化はない。
 今回も私は公演プログラムに、「・・・・を初めて観る方のために」という作品紹介の駄文を書かせていただいたが、それはむしろ「この演出を初めて観る方のために」とした方がはるかに適切ではなかったか、と慨嘆する次第だ。
 オペラなんてものは、普通の演出であれば、たとえ読み替え舞台であっても、時代設定変更の舞台であっても、芝居や映画などと同様に、解説などなくたって「解る」ものである。だが、妙な演出をされれば、たちまち解り難くなるものだ。

 たとえば幕開き早々ジークムントがヴォータン一家の居間に迷い込んで来たり、ジークリンデがフンディングの留守中に大姐御然と振舞い、手下どもに暴行を受けているジークムントをからかい気味に眺めていたり、全曲大詰の「魔の炎の音楽」の最後に「家庭崩壊」したヴォータン一家の場面が出て来て、そこへまたもやジークムントが迷い込んで来たり――といった場面が次々と出て来るとなると、「初めて観る方」たちのためには、オリジナルのストーリーと併せて、その演出の意味をも紹介しておく必要が生じて来るのではなかろうか。
 もちろん、謎解きの得意な、すれっからしの(?)ワグネリアンは別としてだ。

 観客の熱狂度は、横浜よりもびわ湖の方が高い。だが幕が下りると、私のすぐ傍で、「ヴンダーバー! ウォーッ! ガーッ!」と割れ鐘のような声で絶叫する日本人紳士が居られ、耳がおかしくなりそうだったので、早々に逃げ出して、後ろの方の席で拍手を続けることにした。いくらドイツのオペラだからって、日本人が日本人演奏家に向かってドイツ語で喚かなくってもいいと思うのだけれど。それにドイツの歌劇場でも「ヴンダーバー!」などと叫ぶ人はあまりいませんよねえ。

9・20(金)尾高忠明指揮札幌交響楽団 「戦争レクイエム」

   札幌コンサートホールkitara  7時

 大阪から札幌へ飛ぶ。

 札幌コンサートホールkitaraで札響を聴くのは何故か久しぶりだが、相変わらずいい音だ。
 このオーケストラは、サントリーホールより、このホールで演奏した時の方が溌溂とするという傾向がある。オーケストラ・アンサンブル金沢と同様、わが国ではホームグラウンドのホールと完全に結びついたオーケストラの例であろう。

 聴きに来たのは、ブリテンの「戦争レクイエム」。
 協演は、声楽陣がサビーナ・ツヴィラク(ソプラノ)、ティモシー・ロビンソン(テノール)、シュテファン・ローゲス(バリトン)、札響合唱団、札幌アカデミー合唱団、札幌放送合唱団、HBC少年少女合唱団。なおコンサートマスターは大平まゆみ、および室内オーケストラのリーダーを伊藤亮太郎。

 尾高は今回、ハープを含む小編成の室内オーケストラを舞台前方上手側いっぱいに寄せて配置、それと一緒に歌うことの多いテノールとバリトンのソロ歌手をその前に――つまりヴィオラ群の後方に――配置した。
 またPブロック席(オルガンの下)に混声合唱を、それと一緒に歌うことの多いソプラノのソロ歌手を同じくP席の最下手側最前列に配置していた。
 児童合唱は、オルガンの上手側の舞台裏に設置、歌う時には客席のドアを開く、という方法を採っていた。

 この配置は、聴感上でも、極めて効果的なものであった。何よりも、メインのオーケストラよりも出番が多いと言ってもいいほど活躍する室内オーケストラが、際立って鮮やかに聞こえ、2人の男声歌手と一体になって響き、音楽に明快なメリハリを生じさせるもとになっていたからである。
 一方ソプラノ・ソロ歌手も、混声合唱の中から浮かび上がって来るというイメージで聞こえ、これもなかなかいい効果を出していた。

 ただ、児童合唱は、天の彼方から響いて来るというイメージもあったものの、その都度ドアが開閉されるというのが視覚的に少々邪魔にもならないでもなかった。むしろ舞台裏でなく、P席最後方両翼の一番高所の席に配置すればいいのにな、とも思ったのだが、定期公演で客席をつぶすというのはいろいろ面倒なこともあるだろうから、余計なことは言わないでおこう。

 演奏には、英国音楽への深い愛情をもつ尾高ならではの温かさが、いたるところに感じられた。これは、日本人指揮者の中で、彼だけがもつ個性ではなかろうか。ブリテンの作品としては、先年、札響で指揮した「ピーター・グライムズ」(演奏会形式)とともに、尾高の快演と言うにふさわしい。

 全体に抑制された感のある演奏だが、「リベラ・メ」冒頭の最大音量の爆発個所などではデモーニッシュな激情が充分に聴かれたし、最後のバリトン歌手の歌を背後から支える室内オーケストラの演奏も、ミステリアスで不気味な雰囲気にもあふれ、感動的であった。
 この大詰での、戦死した兵士たちが歌う「僕は君が殺した敵なのだ」や「Let us sleep now(さあ、もう眠ろう)」あたりの個所――歌詞もさることながら、その背後で弦が短いクレッシェンドを何度も繰り返す個所には、私は何度聴いても身の毛がよだつような恐ろしさと悲しさに襲われてしまうのだが、そのあたりの演奏も、実に情感豊かで素晴しいものがあった。ここが決まれば、それでもう充分だという気もする。――全体に、大編成オケの方は後半にかけて次第にまとまりがよくなり、室内オーケストラの方は最初から飛ばしていたという印象だろうか。

 混声合唱(合唱指揮・長内勲)に関しては「アニュス・デイ」でのハーモニーの空間的な拡がりと、全曲最後の「アーメン」の美しい溶け合いを讃えたい。
 明日、2日目は、オケ・合唱・ソロともに、さらによくなるだろう。だが、今日の演奏、聴きに来た甲斐があったと思う。

9・19(木)井上道義指揮大阪フィル「トゥーランガリラ交響曲」

      ザ・シンフォニーホール(大阪)  7時

 これに先立ち、午前11時からびわ湖ホールで、来年3月8日・9日に上演する「死の都」について、指揮の沼尻竜典、演出の栗山昌良、マリー&マリエッタ役の飯田みち代らが出席する制作記者会見があったので、立ち寄って取材。ついでに午後1時からの「ヴァルキューレ」公開ゲネプロの、第1幕だけを観てから、――大阪に移動。

 メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」。
 これは大阪フィル9月定期の第1日。井上道義と大阪フィルの顔合わせがどんな演奏を生むのか、そこに多大の関心と興味があったので聴きに来たわけである。

 井上は今回、管楽器群全部を舞台上手側に、打楽器群を全部下手側に、弦楽器群を中央に配置するという手法を採ったが、これがすこぶる面白い響きを生んだ。特に管楽器と打楽器の各パートが非常に明晰に聞こえ、作品が今まで聴き慣れた以上に刺激的に感じられたのである。
 
 その代わり、その両者が咆哮している間は、中央に配置された弦楽器群はほとんど聞こえなくなるという逆効果も生じたわけだが、――ただしこれらは、今日が初日だったために、良くも悪くも、音のバランスが未だ完全に整っていなかった所為もあったのかもしれない。というのは、前半は、何かアンサンブルが不安定で、音が全く溶け合っていない印象だったのだ。しかし、第5楽章(星の血の喜び)での咆哮を境にバランスが次第に整い始め、第10楽章(フィナーレ)ではすべての楽器が均衡を保って、ついにメシアン特有のあの官能的な響きが完成された感があった。

 遅きに失した、などというのは避けておこう。明日は、きっと冒頭から均衡の取れた、あのメシアン・トーンが聴けるのではなかろうか。
 それにしても、こういうアコースティックのホールで「トゥーランガリラ」のような曲をやるのは、オーケストラにとってもある意味で難しいところだろうし、聴く方にとってもコツが要るだろう。このホールの響きに慣れている関西の人たちにとっては何でもないかもしれないが、残響たっぷりのホールの音に慣れたわれわれ東夷どもにとっては、非常に音がつかみにくい時があるのである。
 それゆえ、前述の印象は、もしかしたら単に自分の耳の所為かもしれない、と思わないでもないが――。

 ピアノのソロは児玉桃、オンド・マルトノは原田節というベストメンバー。
 原田のこの曲はもう専売特許のようなものだが、児玉のピアノも瑞々しくてすばらしい。ただしこれも、ピアノのフタを取り去っての演奏だったため、音が1階客席には伝わりにくく、しばしばオケのトゥッティの中に埋もれてしまう傾向もあった。もちろん、ソロの時には、全く支障はない。とはいえ、今夜は、ピアノもオンド・マルトノも、ソロ楽器というよりは、オーケストラの一つのパートとして鳴っていたように感じられたのだが、これもホールの音響のゆえだろう。

 井上は、例のごとく踊るようなジェスチュアを交えた獅子奮迅の指揮ぶり。ピアノの背後で大太鼓などが猛然とクレッシェンドする個所では、目の前のピアノの端を両手でわし掴みにしたまま腰を左右にブルブル振り続けるという凄まじい姿も見せたが、あまり派手に暴れると聴衆の気が散ること無きにしも非ず。だが彼は、オケにも、ザ・シンフォニーホールの聴衆にも、温かく迎えられていたようである。

 今夜のプログラムはこれ1曲のみだったが、充分である。8時半にはすべて終了した。

9・16(月)飯守泰次郎指揮 「ヴァルキューレ」第1幕(演奏会形式)

     サントリーホール  7時

 「ヴァルキューレ大戦」は、転じて再び演奏会形式による第1幕。

 飯守泰次郎が指揮するワーグナー祝祭オーケストラ――これはアマオケの新交響楽団、東京アカデミッシェカペレ、ザ・シンフォニカの3団体から集めた特別編成のオーケストラだ――の演奏。ジークムントを大槻孝志、ジークリンデを清水華澄、フンディングを大塚博章が歌う。
 なおそれに先立つ第1部では、「神々の黄昏」から「ジークフリートの死と葬送行進曲」と「ブリュンヒルデの自己犠牲」が演奏された。後者でのソロは池田香織。

 この演奏会は、日本ワーグナー協会の主催。私も同協会の評議員の末席に連なる身なので、いわば身内のコンサートにあたるわけだが、しかし、ここでは一応客観的に書く。

 演奏がアマオケなので、どうかな、という危惧が無くはなかった。たしかに「ジークフリートの死」では、木管のピッチや管のソロに不安があったりしたが、しかし「葬送行進曲」の頂点での体当り的な熱演などを聴いているうちに、そんなことも忘れてしまう。「ヴァルキューレ」が始まった時には、よく練習を積んだな、と一聴して感じるほど、しっとりしたまとまりのいい音になっていた。

 合同オーケストラにありがちな大味なところももちろん随所にはあったけれど、戸澤哲夫をコンサートマスターに招いた弦楽器群が、特に「ヴァルキューレ」では美しい叙情を響かせていたし、管楽器群も安定していた。聴いていて、時にこれがアマオケであることを忘れたほどであった。
 この6月以降、国内で聴いて来た5種の「ヴァルキューレ」の中で、今日の演奏は、技量の点ではともかく、音楽の充実という面においては、決してプロのオケに引けは取らなかったであろう。

 それもこれも、やはり飯守泰次郎の見事な指揮ゆえであろう。3つのアマオケをよくここまでまとめたものだ。そしていつもの飯守の指揮に聴かれるように、無駄な誇張のない、滔々と進められる演奏には、率直な温かみがこもる。
 彼の指揮は、20世紀後半以降世界的に聴かれる、所謂エネルギー性のみを追求した無機的な乾いた演奏とは、全く無縁な存在である。しかも、アンサンブルの縦の線がどうとかいうような些末な点にこだわらず、大きくふくらみのある音を構築して行くので、音楽がたっぷりとした風格を持つにいたるのだ。こういうヒューマンなワーグナーを、大切にしたいものである。

 ジークリンデを歌った清水華澄がいい。時折出す最強音に力み返った強引さがあるのが気になったが、語りかけるように柔らかく歌う個所などでは、ふくらみのある美しい声が心のこもったあたたかい表現を聴かせて、美しいジークリンデ像をつくり出していた。
 大槻孝志は前半の身の上話のところではかなり表情も豊かだったが、後半の英雄的な昂揚の部分では疲れが出たのか、表現が少し単調になり、オケと合わなくなるほど走り過ぎたりしていたのは惜しまれる。今一つペースの配分を期待したいところだ。それに、むやみに無意味に手を動かしながら歌うのは、イタリア・オペラならいざ知らず、ドイツ・オペラではいまどき流行らない。
 大塚のフンディングには、もう少し悪役的な不気味さをという希望だけ出しておこう。池田香織のブリュンヒルデを私は初めて聴いたが、女傑的でないこういう表現も一つのあり方だろう。

 飯守ワールドの恩恵で、なかなかいいワーグナーを聴けたが、しかし「ヴァルキューレ」の前に「神々の黄昏」の、それもフィナーレを――というのは、やはりいかがなものか? これは、6月に大野和士が九響を振ったプログラムの時にも感じたことであった。
 いつかあるオケで、「トリスタンとイゾルデ」第2幕をメインにしたプログラムの前座に「イゾルデの愛の死」を演奏したことがあったけれども、それと似たようなものではないか。音楽とは、そういう面では、融通が利かないものなのである。

9・15(日)沼尻竜典指揮 ジョエル・ローウェルス演出「ヴァルキューレ」全曲

     神奈川県民ホール 大ホール  2時

 今日は別キャスト。
 ジークムントを望月哲也、ジークリンデを橋爪ゆか、フンディングを山下浩司、ヴォータンをグリア・グリムズレイ、ブリュンヒルデをエヴァ・ヨハンソン、フリッカを加納悦子。そして8人のヴァルキューレたちを岩川亮子、増田のり子、磯路美樹、三輪陽子、日比野幸、森季子、小林久美子、渡辺玲美、という顔ぶれ。

 歌手が変わると、演技内容も全然違って来るようである。
 まずジークリンデの橋爪の演技。第2幕の「死の告知」の場面で、ブリュンヒルデの姿も見えず、その声も聞こえないジークリンデが、「ジークムントは誰と話しているのだろう? もしかして錯乱したのでは?」と訝り、気遣いつつおろおろしている様子は、今日の方がずっとよく表現されていた。昨夜は、むしろジークリンデが目覚めたまま錯乱しているかのように見えたのだ。

 もう一つの例は、ブリュンヒルデのエヴァ・ヨハンソン。
 第2幕冒頭の「ホーヨー・ト・ホー」前半の4回を、馬力一杯、妹たちを脅かすように叫ぶ演技は、吹き出したくなるくらいコミカルで、秀逸だった。
 しかしそれよりも驚かされたのは、大詰「ヴォータンの告別」で、ヴォータンが現在の生身の娘ブリュンヒルデよりも、幻想上の少女時代の娘を慈しむ個所だ。ここでは、彼女の性格は、昨夜のそれとは正反対に描かれていたのである。
 昨夜の横山恵子は、少女時代の自分(助演者の女の子)を、自らも愛おしげに見つめていた。
 しかしエヴァ・ヨハンソンは、父親の本心見えたり――とでもいう、父ヴォータンへの失望感と侮蔑、あるいは憐憫をあからさまに顔の表情に浮かべて、不快な顔でそっぽを向いているという演技であった。ドラマの性格からすれば、こちらの方が自然ではないか? この方が、父娘の心理に、複雑な要素が増す。本来は余計で不要な場面設定だと思うが、やるならこのくらいにやった方がよろしかろう(だが一体、演出家はどちらを狙っていたのだ?)。

 とにかくエヴァは、ここに限らず、随所で実に表情の細かい演技を繰り広げていた。さすがに場数を踏んだ歌手だけある。私は彼女のヴァルキューレ役に接したのは、数年前のエクサン・プロヴァンス音楽祭とザルツブルク音楽祭、あるいはウィーン国立歌劇場以来のことだが、相変わらず声の馬力は凄いし、演技も細かいし、見事な際立ちぶりである。グリムズレイの力強い声と、比較的抑制された演技とのコンビは、実に見事であった。
 それゆえ第3幕後半は、この2人だけで充分。これで「魔の炎」が燃え、管弦楽が炎のゆらめきを奏し続けただけで、われわれは完璧に感動できたであろう。何もわざわざ(薄暗い)ヴァルハルのヴォータン一家の居間に場面を戻すような煩わしい演出をして、素晴らしい「魔の炎の音楽」から観客の感覚を逸らしてしまう必然性がどこにあろう。

 日本勢の歌手陣は、今日も順調だった。望月は若々しい声で、純な青年といったジークムント像を熱演。橋爪は最近クンドリ(東京二期会の「パルジファル」)やゼンタ(山形響の「さまよえるオランダ人」)などでワーグナーづいているが、今回も体当り的な熱演で、伸びのある豊かな声が見事だった。加納悦子は、幽鬼のようなメイクで冷徹さを出していたが、グリムズレイのヴォータンを論破する時に、歌唱にさらなる凄みがあれば文句なし。

 沼尻の指揮は、昨日より良い意味での解放的な雰囲気を感じさせ、特に第3幕での昂揚感はいっそう増したと思われる。弦の弱音のトレモロなどをもう少し強く明確に出してもらえれば、音楽にも厚みと意志力がもっと生れるのではないかと思うが如何。オケに金管のミスが目立ったのは、疲れが出たのかしらん。

 昨日の終演後の打ち上げで、小山由美さんと「ヴォータンへのコップの水のぶっかけ」について話をしていた際のこと。
 ヴォータンの飲み残しのコップを受け取ったフリッカがその残りの水を彼の顔にぶっかけるという設定なので、「なるべく水が少なくなるまで飲んでおいてね」と事前に青山氏と打ち合わせておいたのだそうである。
 ところが今日のヴォータンが飲んだコップには、まだ4分の1くらいの水が残っていたので、オヤオヤと思っていたら、加納さんはそれを、物凄い勢いで真正面からヴォータンの顔にぶっかけたのであった。瞬間、水しぶきが上がり、グリムズレイも、ウワッ、ホントにやりやがった、という表情で顔をしかめていたが、それが地だったのか演技だったのかまでは、判らない。

 このプロダクション、次の土曜・日曜にびわ湖ホールで上演される。あのホールは音響もいい上に、舞台機構も完備しているから、場面転換ももう少しスムースに行くかもしれない。

9・14(土)沼尻竜典指揮 ジョエル・ローウェルス演出「ヴァルキューレ」全曲

    神奈川県民ホール 大ホール  2時

 神奈川県民ホール、びわ湖ホール、東京二期会、神奈川フィル、日本センチュリー響共同制作・主催の恒例のオペラ・シリーズ、ダブルキャストによる初日公演。わが国では久しぶりの全曲舞台上演だ。

 今回の演出は、ジョエル・ローウェルス。
 彼は5年前に東京二期会公演の「ヴァルキューレ」でも演出を担当、舞台上に過去の回想場面や、ト書きには指定されていない人物を背景に登場させながら歌詞の内容を具象化する場面をつくる手法を用いた人だが、やはり今回も、ほぼ同様の手法を使っていた。

 例えば、ヴォータンの妻フリッカを、ト書きに指定されている第2幕前半以外にもしばしば登場させるが如くである。フリッカは、第1幕のジークムントとジークリンデの愛の場面の、音楽が劇的に変わる個所で、「春」の代りに突然出て来て、ジークリンデを怯えさせる。またジークムントの死の場面にも登場し 彼の死を満足げに見届け、礼に来たフンディングを「わたしの目的はお前ごときを助けるためではない」とばかり、荒々しく翻したガウンの一撃で死なせてしまう。第3幕では、ブリュンヒルデを追放するヴォータンの傍に現われ、コップの水を彼の顔にぶっかけて侮辱するという念の入れよう。

 また、第2幕冒頭では、逃走するジークムントとジークリンデを登場させたり、フンディングと彼の手下たちが2人を探す光景などをつくり出したりする。その他、ジークリンデやジークムントが少年少女時代の悲しい思い出を描いたり、「ヴォータンの告別」の個所でブリュンヒルデとともに彼女の少女時代の姿を思い出し、現実と混同させる場面をつくったりするのも、たしか以前も試みられたアイディアだったと思う。

 しかし、前回の演出と異なるのは、それらを含めたいろいろな場面を、今回はいちいち幕を下ろして転換させてはすぐまた揚げ、映画のフラッシュバックのように構成していることだ。それがまた、おそろしく頻繁に行われるのである。「無限旋律」の音楽と、断片化した場面とは、必ずしも一致しないこともなかろうが、あの全曲の中で30回近くもその幕の上下が繰り返されては、だんだん煩わしくなって来る。

 しかもそこには新解釈の場面も混じるのだから、ややこしいことこの上ない。
 たとえば冒頭、ジークムントが逃げ込んできたのは、ヴォータン夫妻と娘ヴァルキューレたちが集っている家の居間(するとヴァルハルだった、ということになるではないか?)である。これが幕で転換すると、不思議にも女ボスと化したジークリンデが仕切る無頼者たちの家で、ジークムントが暴力を受けている光景に変わる。再び幕で転換すると、いつものフンディングの家の光景になる――という、やたらイメージを拡大した設定なのだ。

 また、ジークリンデが、トネリコに刺さっている宝剣ノートゥング(何故か日本刀だ)の位置を眼でジークリンデに教えようとする個所では、そこだけ場面は幕で転換して、ヴォータンが「ノートゥングの動機」とともに愛息ジークムントのことを思い出してどこかへ去り、フリッカがジロリとそれを見送る光景が挿入される。
 だがこれでは、あとでジークムントが「彼女があそこを見つめた時」と歌う歌詞との辻褄が合わなくなるではないか。・・・・もっとも、それでフリッカが若者2人の愛の語らいの場を訪れ、事の次第を確かめることに繋がるのだということになれば、フリッカがヴォータンを詰問しての「私はあなたのあとを尾けていたのだから、あなたの不行跡は何でも心得ている」という意味の歌詞と合致する点も生まれるわけだが――。

 「ヴォータンの告別」の場面では、ヴォータンがフリッカやヴァルキューレとともに笑顔でブリュンヒルデの「旅立ち」(?)を見送るという彼の幻想場面が出現したり、魔の炎の音楽のさなかに幕が下りたかと思うと、場面は冒頭のヴォータン一家の家に戻り、そこへ放浪のジークムントがまた現われて、物語は再び冒頭に戻るというエンドレス手法が導入されたりする。これでは、あの美しい「魔の炎の音楽」の音楽を、じっくりと聴けた人は少ないだろう。
 そもそも、ドラマが冒頭に戻るという発想は、「ヴァルキューレ」が完結している物語ならともかく、「指環」の一夜としての「ヴァルキューレ」においては、全く意味がないように思われるのだが、どうであろう? 

 演出家に対するブーイングは上階席から2、3出たが、残念ながら(?)やや音量不足のようであった。

 音楽。今回、沼尻竜典が指揮したのは神奈川フィルと日本センチュリー響との合同オケだった(この同じオケがびわ湖ホール公演でも演奏するとなれば、リハーサルの時間も効率的になるだろう)。
 いかにも沼尻らしく、無駄肉のない、すっきりしたワーグナーだ。余計な思い入れも誇張も皆無で、率直なテンポで進められたので、演奏にも弛緩が全く感じられなかった。彼の指揮するワーグナー全曲ものを聴いたのは、「トリスタンとイゾルデ」「タンホイザー」に続いて、これが3作目だが、今回も成功であった。
 第1幕大詰近くではもう少し盛り上がりが欲しいところだったが、第3幕では充分な昂揚感が示されていた。オーケストラは、分厚い響きやパワーこそ物足りなかったとはいえ、叙情味のある「ヴァルキューレ」の音楽としては、いい音を出していたと思う。

 歌手陣。ジークムントは福井敬。今回は正確なテンポで、得意の悲劇的な役柄を力強く歌い上げてくれた。第2幕など少し力み過ぎた印象もあったので、あまりパワーで押しまくらなくてもいいのではないかと、素人耳には思われたが・・・・。
 フンディングの斉木健詞とヴォータンの青山貴も好演。斉木はこのくらいは当然やるだろうと思っていたが、青山のヴォータンは、私には嬉しい驚きだった。
 ブリュンヒルデの横山恵子も、存在感のある舞台姿で好演したが、ただ今日の歌を聴く範囲では、声には表現力もあって綺麗ではあるけれども、ワーグナーの分厚いハーモニーに対して、どこか完全に溶け込まない要素があるような気がするのだが・・・・それがなぜだか、私にはよく解らない(昔の名歌手ジョージ・ロンドンにもそういう傾向があった)。

 すばらしかったのは、ジークリンデの大村博美。優しい女性としての演技と、ふくよかで力のある声で、この悲劇的な役柄を温かく表現し、ドイツオペラのレパートリーに新境地を開いた。
 そして、フリッカの小山由美は、これはもう存在感といい、表現力豊かな歌唱といい、文句なしの貫録である。第2幕のヴォータンとの応酬の場は緊張感たっぷりの迫力で、この演出が狙っているらしい「この作品の登場人物全員を支配する」存在を見事に果たしていた。

 ヴァルキューレたちは、田崎尚美、江口順子、井坂惠、金子美香、平井香織、増田弥生、杣友惠子、平舘直子。粒が揃っていて、バランスもよく、予想以上に聴き応えがあった。
 ほかに、少年少女、フンディングの手下たちなど、助演者たち多数。手下たちには、よくまああんなに人相の悪い・・・・いやいや失礼、メイクの巧さです。よくあんなに「それっぽい雰囲気の」ひとクセある面構えの男たちを集めたものだと感心。
 カーテンコールに現われた「出演者」は、正確に数える余裕がなかったが、たしか25人くらいか。普通の「ヴァルキューレ」では考えられないほどの数である。

 25分ほどの休憩2回を含み、6時45分演奏終了。まずは力作と讃えておこう。

9・13(金)井上道義指揮東京フィルハーモニー交響楽団
バルトーク:「青ひげ公の城」

   東京芸術劇場コンサートホール  7時

 第1部では、オッフェンバック~ロザンタール編の「パリの喜び」から13曲が演奏された。
 この曲をナマで聴く機会はめったにない。井上道義らしくオーケストラを存分に鳴らした演奏だったが、もう少しリズムが軽ければ、もう少し洒落た「パリの喜び」になったのではないかという気もする。

 それにしても――今日は会場内改装以来、初めて1階席Q列で聴いたのだが、ここで聴くとこのホール、オケの響くこと、響くこと。これまで常に2階席で聴いていた時の、比較的クリヤーな音の印象とは、全然違う。誰かが「風呂場で聴いているみたいだ」と言っていたのを、そんなはずはあるまいと思っていたのだが、なるほど解るような気もする。

 第2部が、バルトークのオペラ「青ひげ公の城」。
 井上道義は以前(2010年4月)新日本フィルを指揮してサントリーホールでこの曲を演奏したことがある。その時も自分の演出で、歌手に若干の演技をつけ、照明をオルガンに当ててイメージ効果を狙ったことがあったが、今回も概して同じ手法を使用した。
 こちら東京芸術劇場のオルガンは特殊な形状をしているので、それが照明(足立恒)によりいろいろな表情で輝くあたりは、少なからず華麗だ。ただ、その照明演出が音楽の性格や変化とぴったり合っているように感じられたかどうかは、人によるだろう。私の感覚からすれば、その変化のタイミングも含めて、首をかしげる個所の方が多かったが。

 「パリの喜び」で鳴りに鳴ったオーケストラは、「青ひげ公の城」でも轟々と鳴り渡った。音がホールに渦巻き、細部の美しさよりもマッスとしての量感が印象づけられる。前回よりも音楽のダイナミズムが強調される傾向を感じさせたが、この作品はそうした性格も備えているだろうし、こういう演奏もあって良いだろう。
 それでも、歌手2人――大部分を舞台前方で歌った――の声は、ごく一部の最強奏の個所を除いて、大体聞きとれた。特にユーディトを歌ったメラース・アンドレアは、この役を得意としているだけあり、声も表現力も安定していて、納得の行く歌唱である。一方、青ひげ公は、前回と同様、コヴァーチ・イシュトヴァーン。苦悩の表現は充分と思われるが、声にもう少し伸びがあったらという感もある。

 ラストシーンは、ユーディトはオーケストラの中に消え、青ひげ公は舞台前面の大きなソファに身体を埋めて、暗転するうちに全曲が消え入るように終る、というように、前回の演出と全く同様だった。

 なお今回の前口上の吟遊詩人役は、名優・仲代達矢が受け持った。台本は、井上自身によるものか? 詩人は「作者」という触れ込み(サクシャのアクセントは少しおかしかった)だったが、全体にやや長いのと、老人っぽく喋り過ぎるのが「だれ」を感じさせた。但し後半、男女の間に横たわる宿命的な溝について解り易く説いたのは、このオペラを初めて聴く人たちにとっては役に立ったろうと思う。

 今夜のプログラムは、今月26日にも井上道義が指揮する大阪フィルの定期で、同じ歌手陣(詩人役は違うらしい)を迎えて演奏されることになっている。

9・10(火)サントリー芸術財団サマーフェスティバル2013最終日
ストッパード/プレヴィン:「良い子にご褒美」

  サントリーホール  7時

 今年のサントリーホールの「サマーフェスティバル」を、やっと一つ、最終日の公演だが、聴くことができた。
 これは、トム・ストッパードの台本にアンドレ・プレヴィンが作曲した「良い子にご褒美Every Good Boy Deserves Favour」(1976年作曲)。演劇とオーケストラ演奏を組み合わせた、75分ほどの作品である。

 題名だけ見ると、何かお子様向けの音楽物語みたいな感じだが、内容はどうしておそろしくシリアスなもので、ソ連時代のレニングラードの収容所(表向きは精神病院)に「投獄」された反体制主義の男と、オーケストラが常に頭の中で鳴っている本物の精神病の男を中心にしたドラマだ。
 テーマも構成も不条理な物語になっているが、その中にこめられた風刺や皮肉は容易く理解できる。プレヴィンの音楽が、ショスタコーヴィチの音楽のパロディみたいになっているのも、ある意味でこのドラマの本質を衝いたものと言えるかもしれない。

 翻訳と演出は村田元史。配役は、囚人アレクサンドルを島畑洋人、同イワーノフを牛山茂、収容所の体制側の医師を北川勝博、アレクサンドルの9歳の息子サーシャを堀川恭司(上手い!)、体制側の女教師を服部幸子、最後に突然現れて政治的な判断を下す大佐を三輪学。堀川少年だけが劇団ひまわりで、その他は劇団昴の人々。
 演奏は、飯森範親指揮の東京交響楽団。オケのメンバーは芝居もする。ちょっとクサいところがなくもないが、なかなか達者にこなす。飯森の談によれば、「東京交響劇団」と自称しているとか。

 フェスティバルの今年のプロデューサー池辺晋一郎は、30年来、この作品の上演を夢見ていたという。まあ、正直言って、素晴らしく面白いというほどの内容ではなかったけれど、非常に興味深い作品ではあった。
 熱演した出演者たちを讃えたいが、たった一つ残念だったのは――アフター・トークでも触れられていたが――この会場が見事なほど残響が豊かなコンサートホールなので、PAを通したセリフの声が明確に聞きとれぬところが少なくなかったこと。いいコンサートホールでセリフ入りの作品を上演する時には、常にこの問題が付きまとう。
 もっとも、発声法や喋る速度や声の音量によって、ある程度解決できる部分もある。今夜も、それを巧みに調整しつつセリフを喋っていた俳優もいた。

9・8(日)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団「春」

    東京芸術劇場  2時

 ドビュッシーの「春のロンド」、シューマンの交響曲第1番「春」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。
 眼目はやはり、今年が世界初演100年にあたる「春の祭典」だろう。今年中にどうしてもやりたい、ならば季節外れでも「春」の特集で――ということか。

 ドビュッシーは、予想外にいかつい表情のまま過ぎて行った。
 シューマンはブリリアントに開始されたが、これも意外に剛直壮大、まるで後期ロマン派の作品かと思えるような、些か肥大に過ぎる構築の演奏になった。私の好みからすれば、こういう演奏はシューマンの交響曲にしてはあまりにも大仰過ぎないかな、という気も・・・・カンブルランもこういうアプローチを採ることがあるのか、と、ちょっと驚く。

 「春の祭典」も豪壮で重厚、どっしりした風格が際立った演奏。
 それが野性的な舞踏の興奮の表現ではないとしたら、もしかしてそれは、ロラン=マニュエルが「音楽のたのしみ」(吉田秀和訳、白水社≫の中で引用しているランボーの「ファンタスム」――「表現」するのではなく「代表」する心象の、音への置き換え――か。カンブルランに尋ねたわけではないから、その本来の意図は知らないけれども。

9・7(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団定期
ワーグナー:「ヴァルキューレ」第1幕他

   サントリーホール  4時

 昨夜――つまり新日本フィルと同日同時刻に「ヴァルキューレ大戦」の火蓋を切ったもう一つのオーケストラが、この日本フィルである。

 ともに今日は2日目の公演。ワグネリアンたちはそれぞれの順序で両日、それぞれの会場へ足を運んだはず。中には今日、トリフォニーホールの2時からの公演を全部聴いてからサントリーホールへタクシーで駆けつけた猛者もいるらしい。
 そういう人は、こちら日本フィルの前半のプログラムを聴くのを諦めたのだろう。どちらかの開演時間がもう1時間、うまくずれていたなら、両方の公演をまるまる聴けた人も多いだろうに。

 こちら日本フィルの方は、首席客演指揮者ピエタリ・インキネンの指揮による演奏だ。前半に「ジークフリート牧歌」と、「トリスタンとイゾルデ」からの「前奏曲と愛の死」が演奏され、後半に「ヴァルキューレ」第1幕がおかれる。長さから言っても、比較的バランスの良いプログラム構成である。

 インキネンのワーグナーは、私も聴くのはこれが初めてだが、予想した通り、ぜい肉をそぎ落とした、すっきりしたワーグナーとなっていた。粘着的なところは一切無く、明晰かつ清澄な音色で、透き通った抒情美とでもいうか。昨夜のメッツマッハーが指揮した新日本フィルの音色と最も対照的なのは、そのあたりだろう。
 しかし、音楽は決して無味乾燥に陥ることなく、表情はあくまで瑞々しく、しなやかだ。総じてきりりと引き締まったシンの強さを感じさせたことも、今日の演奏の特徴の一つだろう。

 「ジークフリート牧歌」は、意外にも弦16型の大編成が採られ、明晰冷徹なシンフォニーとでもいった感の演奏になった。続く「トリスタン」でも、感傷的な思い入れも、持って回った重苦しさもないところが、いかにもインキネンらしい。しかし、いずれの演奏も精緻に組み立てられ、特に後者は白色の光を浴びた巨波のように盛り上がり、存分に鳴り切った。

 イゾルデを歌ったエディット・ハラー(日本フィルの表記はエディス・ハーラー)が頂点の個所の「Wehendem All-」(DOVER版総譜652頁)を極めて正確なテンポで歌い、管弦楽の動きと合わせてくれたので、それだけでも嬉しくなる。この人、2006年のバイロイトでグートルーネ(ガブリエーレ・フォンターナの代役で出た)を演じた時にはやや自身無げの歌いぶりだったのが、2009年に聴いた時にはもはや堂々たる役柄表現になっていた記憶がある。いい歌手になった。

 後半の「ヴァルキューレ」第1幕(字幕付き)では、もちろんそのハラーがジークリンデを歌い、マーティン・スネルがフンディングを、サイモン・オニールがジークムントを歌った。
 ハラーはよく通る澄んだ声で「ためらいつつも情熱に己を委ねる純な女性」という雰囲気のジークリンデを見事に表現し、スネルは渋い表情ながら悪役を巧くこなしていた。オニールもちょっと癖のある歌い方ながら、英雄的なジークムントを輝かしく歌ってくれた――昨夜の同役の歌手があまりにおとなしかったので、やっとヘルデン・テノール的なジークムントに巡り合い、安心した次第である。
 歌手陣3人のバランスの良さという点では、この6月以降に演奏された国内の4種の「ヴァルキューレ」第1幕の中では、最高のものだったと思う。

 なお3人は譜面なしで、演奏会形式ながらも舞台前面を動き回りつつ若干の演技を交えて歌ってくれた。ジークリンデが「剣」の在処をジークムントに目で知らせる(歌なしの)場面では、2人がそれを暗示する身振りをも行なっていたので、ストーリーにあまり詳しくない聴衆にも解り易かったのではなかろうか(ここでフンディングが妻から目を逸らしていて、彼女の動作には気がつかない、というスネルの演技も細かい)。

 さてインキネン指揮の日本フィル。この曲でも、先に述べた特徴が見事に発揮される。昨夜のメッツマッハー=新日本フィルの弦を豊麗と言うなら、こちらはやや鋭角的で透徹した音と言ったらいいか。だが、弦が叙情的な世界を繰り広げるこの第1幕の音楽では、それも極めて素晴らしい効果を発揮する。管楽器群も良かったが、特に首席オーボエの活躍を讃えたい。実に聴き応えのある演奏であった。

 ――2つのオーケストラが同日の(ほぼ)同時刻に別のホールでそれぞれこういう曲をかち合わせるという例は珍しいが、そのいずれもが勝るとも劣らぬ、兄たり難く弟たり難し、という熱演・快演だったのは、慶賀すべきことであろう。

 「ヴァルキューレ」、このあとは飯守泰次郎が第1幕を指揮する演奏会があり(16日)、沼尻竜典指揮とローウェルス演出による全曲舞台上演が横浜(14,15日)とびわ湖(21,22日)で行われる。「ヴァルキューレ大戦」も今や酣である。

9・6(金)インゴ・メッツマッハー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
ワーグナー: 「ヴァルキューレ」第1幕他

   すみだトリフォニーホール  7時15分

 在京各オーケストラが、強力なプログラムで新シーズンに臨んでいる。
 新日本フィルは「コンダクター・イン・レジデンス」の肩書を持つインゴ・メッツマッハーの指揮で開幕。演奏会形式による「ヴァルキューレ」第1幕で、9月の国内「ヴァルキューレ大戦」の口火を切った。

 それに先立って演奏されたのは、R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」だ。少し重いプログラムだが、オケの意欲を示すには充分だろう。
 メッツマッハーは、有名な「日の出」の個所からして、テンポもデュナミークも物々しく開始する。1回目と2回目の全管弦楽の爆発の個所を総譜どおり抑制しながらたっぷりとクレッシェンドさせて行くあたりの、神経の行き届いた念入りな均衡の音づくりなどを聴くと、やはりこの指揮者はただ者ではないなという感を新たにする。
 3回目の爆発と昂揚で、このホールの空間を一杯に満たした新日本フィルの響きは見事。つい3日前のSKOの演奏が名手の競い合いといった雰囲気を感じさせたのに対し、こちらは常設の管弦楽団らしい、溶け合ったバランスの演奏になっている。

 メッツマッハーのワーグナーは、私はこれまでほとんど聴いたことがなかったのだが、少なくとも今回の演奏を聴く限り、なかなか良い。とりわけ誇張もなく、むしろ素っ気ないほど淡々と押して行く指揮だが、新日本フィルが柔軟な演奏で応えたことにより、この第1幕が「声楽付の巨大なシンフォニー」としての性格を強めて描き出されていたように感じられる。

 とりわけ、新日本フィルの弦が素晴らしい。1階席中ほど上手寄りの位置で聴く範囲では、弦楽器全体がふくよかに波打ち、泡立ちクリームのような快い音を響かせていた。周知のとおりこの第1幕には、弦楽器群を中心にワーグナーの抒情美が全開した趣きの音楽があふれているので、その弦がこのように綺麗であれば、演奏は極上の香りで満たされるはず。
 つい先日もザルツブルクでウィーン・フィルが演奏する同じ曲を聴いたばかりだが、あのオケの弦が持つ官能的で色気のある音色とは全く違い、こちらはむしろ淡彩で落ち着いたカラーではあるものの、音楽のふくよかさという点では、決して引けは取らないという気さえする。

 歌手陣は、ジークリンデをミヒャエラ・カウネ、ジークムントをヴィル・ハルトマン、フンディングをリアン・リ。
 問題は、ハルトマンだろう。なだらかでメリハリの無い、おとなしい歌い方で、いい家のぼんぼんのようなジークムントになってしまった。これでは、とてもヴォータンが指環の奪回を任せられる英雄にはなり得まい。もともと、タミーノ、ペレアス、アルフレード、ダニロなど、比較的リリカルな役柄を得意としている人だ。メッツマッハーはこの11月にジュネーヴで彼に同役を歌わせるという。何かこの役の解釈について考えを持っているのだろうとは思うが。
 歌手は3人とも舞台上の椅子に板付。部分的に譜面を見ながらの歌唱。

 今回は字幕が使用されなかった。対訳付きの台本を掲載したプログラムは配られていたが、細かくて読めない人もいたのでは?

9・5(木)藤原歌劇団 ヴェルディ:「ラ・トラヴィアタ(椿姫)」

   新国立劇場オペラパレス  6時30分

 ダブルキャストの初日を観る。
 ヴィオレッタにマリエッラ・デヴィーア、アルフレードに村上敏明、ジェルモンに堀内康雄、フローラに鳥木弥生ほかの歌手陣に、園田隆一郎指揮東京フィルハーモニー交響楽団。演出が岩田達宗、舞台美術が島次郎、照明が大島祐夫らのスタッフ陣。

 オーケストラを綺麗にまとめた園田は丁寧な伴奏の役割を全うしているが、この人の指揮にはいつもながら、もっとドラマティックな起伏が欲しい気がしてならない。
 岩田達宗の演出も、シンプルな舞台装置と翳りのある照明とを駆使しながらもトラディショナルな演技のスタイルに留まっている。観やすい安定したプロダクションで、こういうのを喜ぶ人も多いだろう。私の好みとは違うが。

9・4(水)サイトウ・キネン・フェスティバル松本
大野和士指揮サイトウ・キネン・オーケストラ

   キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 7時
    
 モーツァルトの「交響曲第33番」に始まり、リゲティの「フルート、オーボエと管弦楽のための二重協奏曲」(日本初演)、最後にR・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」というプログラム。

 大野和士がこのサイトウ・キネン・オーケストラに客演するのは、9年ぶり2度目のことになる。
 大野のキャリアも存在感も、あの頃とはすでに全く違う。またサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)の性格も、当時の「小澤征爾のオーケストラ」と言った雰囲気のものから、大きく変わっている。今や大野はこの猛者ぞろいのSKOを完全に制御しているし、オーケストラも、より柔軟に大野の指揮に反応しているように感じられる。

 モーツァルトの交響曲は、ふわりとした柔らかい音色で、陰影に富む。
 一方リゲティの協奏曲は、これも大野らしく豊麗な響きが印象的で、特に木管群が交錯して行く模様が温かいぬくもりを感じさせ、不思議な快感を呼ぶ演奏になった。ここでのソリストは、フルートのジャック・ズーン(彼、随分老け顔になった)と、オーボエのフィリップ・トーンドゥル(シュトゥットガルト放送響首席)。2人はアンコール・ピースとして、モーツァルトの「魔笛」から「パミーナのアリア」と「モノスタトスのアリア」を2重奏に編曲した小品を演奏したが、「合って」いるのかいないのか分らないほど寛いだ雰囲気の、しかし洒落た演奏が楽しい。

 「ツァラトゥストラはかく語りき」は、昨年ハーディングが指揮した「アルプス交響曲」と同様、大編成のR・シュトラウスものだが、今夜のこのような豊麗な音色は、このSKOからは、もしかしたらこの20年来、初めて聴いたような気がする。
 特に後半の「舞踏の場面」の個所で、木管とハープと弦が醸し出した名状しがたい甘美な音色は、そのかみのデッカ盤(カラヤン=ウィーン・フィル)のそれを思い出させるほど。このワルツのところでは、今夜この曲でコンサートマスターをつとめた長原幸太のソロが、またなかなかよかった。弦楽器群全体も、いい音を出している。
 最強奏はこのオケらしく強力だが、その響きは昨年のハーディング指揮の時のような開放的なものではなく、どこか抑制の効いた陰翳の濃いものである。音色は濁らず、各楽器の絡みも明確に浮かび上がる。

 これらの演奏を聴くと、今や大野和士とサイトウ・キネン・オーケストラは、大変良いコンビのように感じられる・・・・。

 そういえば、管楽器の、特に1番奏者には、外国人が随分増えているのに驚く。当節、別に悪いことではない。だがその一方、この「齋藤秀雄を記念する管弦楽団」の管の首席にふさわしい日本人奏者は、もうあとはいないんですかねえ、と訝りたくもなる。

 もっとも、だからといって、一頃出たような、齋藤秀雄の門下生がほとんどいなくなったから、オーケストラやフェスティバルの名称を変えたらどうかというような意見には与したくない。名称は名称として、すでに世界的にも定着していることだし、今のそれでいいではないか、と思う。有馬頼寧・日本中央競馬会理事長と一緒に仕事をした人がもういないから「有馬記念」の名称を変えようとか、目黒競馬場の存在を知る人がいなくなったから「目黒記念」を止めよう、なんて言う人はいないでしょう。

9・3(火)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団定期

   サントリーホール  7時

 読響の秋のシーズン開幕の定期は、極めてユニークで大胆なプログラム。
 前半にブリテンの「ラクリメ」と「シンフォニア・ダ・レクイエム」、後半にウストヴォーリスカヤの「コンポジション第2番《怒りの日》」と、ストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」。
 こういう曲目編成を定期で組めるオーケストラは、わが国では珍しい存在だ。常任指揮者シルヴァン・カンブルランとオケの、意欲的な姿勢が伝わって来る。

 鈴木康浩(読響ソロ・ヴィオラ奏者)のソロと弦楽群の演奏で開始された「ラクリメ」から早くも、澄んだ叙情的な美しさが流れ出る。続く「シンフォニア・ダ・レクイエム」での演奏にも、最後の「詩篇交響曲」での演奏にも、この透明なほど澄みきった音色がいっぱいにあふれていたのが、今夜は強く印象に残った。

 カンブルランのこうした音づくりには、これまでにも読響とのラヴェルの作品(「クープランの墓」、「ダフニスとクロエ」など)やマーラーの「6番」でも舌を巻かされたことがあるが、今回の演奏もそれに匹敵――いや、それを上回るものだったかもしれない。こうした演奏を聴く範囲では、このカンブルランと読響の結びつきは、いま最も良い状態にある、と言ってもいいのだろう。

 「シンフォニア・ダ・レクイエム」では、「怒りの日」での引き締まった最強奏、全管弦楽の歯切れのいいリズムの炸裂が見事だった。
 この曲、つい先日にもエクサン・プロヴァンス音楽祭でジャナンドレア・ノセダ指揮ロンドン響のダイナミズムにあふれた快演を聴いたばかりだが、今夜のカンブルラン&読響の演奏はそれよりも遥かに緻密で、繊細な美しさを備えたものであった。やはりこういう演奏の方がいいな、と思った次第である。
 「詩篇交響曲」での木管の音色にも、ハッとさせられるような澄んだ綺麗さがあふれていた。

 ガリーナ・ウストヴォーリスカヤ(1919~2006)の作品が日本で演奏される機会は、なかなか無いだろう。これは1970年代初期に作曲されたものとのことだが、ソビエト時代によくこんな尖った曲が書けたものだ、と驚かされる。
 1台のピアノと8本のコントラバス、および蜜柑箱のような木箱の上部をハンマーで叩きつけるだけの「打楽器」という楽器編成で、その20分近くに及ぶ全篇が「怒りの日」の旋律の変形といったイメージの、変わった作品だ。ハンマーは大小何種類かあるらしいので、打撃音の音色もさまざまに変わるが、些かくどさを感じないでもない。ハンマーの打撃が過ぎて、箱の蓋(?)が最後に壊れやしないかと心配しながら聴いていた。

 なお「詩篇交響曲」での合唱は、新国立劇場合唱団。これが少し粗っぽい。
 ゲスト・コンサートマスターには久し振りにデイヴィッド・ノーランが顔を見せた。ヴァイオリンのある曲は前半のブリテン2曲のみだったが、ここでの弦の素晴らしい音色は、彼の存在によるところが大きかったかもしれない。
 1日だけの演奏ではもったいない気もした快演だったが、・・・・しかし2回やったら、客が入らないか?
       ⇒音楽の友10月号 演奏会評

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」