2017-10

8・29(木)ザルツブルク音楽祭(終)
リッカルド・ムーティ指揮 ヴェルディ「ナブッコ」(演奏会形式)

  ザルツブルク祝祭大劇場  9時

 「ヴェルディって、いつもあんなに四六時中、ドンチャカドンチャカやってるの?」と、以前ヴェルディの初期のオペラに初めて接した知人から訊かれたことを、演奏を聴きながらつい思い出して、可笑しくなった。

 巨匠リッカルド・ムーティがローマ歌劇場管弦楽団と合唱団を率いて演奏した今夜の「ナブッコ」。シンバルや大太鼓など鳴り物大活躍の、勢いのいい音楽満載のこのオペラ。
 ムーティは舞台上のオーケストラをいっぱいに鳴らすので、まさにホールも揺らぐばかりの大音響が出現する。だが、どんなにガンガン鳴ろうと、決して騒々しい印象にならない。とにかく痛快無類だ。溌溂たるリズム感に、沸き立つような熱気と躍動感、些かも弛緩を感じさせないドラマティックな音楽の進行など、ムーティの指揮の昔からの特徴は、今なお健在である。

 しかもさすが「作曲者に忠実」を標榜するムーティ、ふだんカットされる個所をも、忠実に再現する。第2部のアビガイッレのアリアのカバレッタの最後で、合唱と一緒に歌うところでのソロは、ナマの上演ではしばしば休みになってしまうものだが、今回はちゃんと全部、カットなしで演奏された。

 そのアビガイッレを歌ったのは、アンナ・ピロッツイ。
 当初歌うはずだったタチヤーナ・セリヤンに代わり、急遽登場ということになったらしい。今年10月にはボローニャで同役を歌うそうだが、そのわりには今回は、彼女一人だけ、譜面台を前においての歌唱だった。もっとも、原典にうるさいムーティの前で歌うとあって、慎重を期したのかもしれない。ソプラノ・ドラマティコ・ダジリタとしてはまだ少し優しすぎるところもあるが、重責は立派に果たした。

 前述のアリアでは、カヴァティーナのあとでムーティが休止を入れたため、大拍手とブラ―ヴァが飛んで、ピロッツィも嬉しそうにニコニコしていた。
 ところが、続くシェーナと華麗なカバレッタでは、前述のとおりノーカットで見事に歌ったものの、最後の「決め」の音は上げずに歌い終えた。聴衆は拍子抜けしたのか、歓声は沸かず、静かな拍手しか起こらない。彼女は「何よ、さっき3点Cもちゃんと歌ったじゃないの、今の個所の方が大変だったのに」と言わんばかりに客席を見て、不満そうな表情。
 もちろんこれは、ムーティの指示で原譜どおりに歌っただけのことである(以前のEMI盤でもムーティはこのように歌わせている)。彼女としては華やかに大見得を切って結びたかったのかもしれないが、相手が大ムーティ様では、文句も言えまい。ちょっと気の毒というか・・・・。

 彼女を含めソロ歌手陣は、出番が多かろうが少なかろうが、全曲を通じて全員が板付きで座っている。配役は、ナブッコをジェリコ・ルチッチ、ザッカリアをディミトリ・ベロッセルスキー、イズマエーレをフランチェスコ・メーリ、フェネーナをソニア・ガナッシ、ほか。大音量のオーケストラに負けまいと、みんな朗々と声を出してイタリア・オペラの醍醐味を聴かせていた。

 舞台奥に座を占めた大編成のローマ歌劇場合唱団もたっぷりした音量の迫力で、もちろん「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」も美しいピアニッシモで結んだ。
 この曲に入ったのがすでに11時を遥かに過ぎた頃。しきたり通り、もう1度やられたりしたら、長くなって困るなと思い、拍手をそこそこにやめてしまう。するとお客も、演奏会形式上演だからということもあってか、みんな同じように考えていたらしい。拍手は程々に終った。ムーティもさり気なく先へ進んでくれた。ヤレヤレと安堵。
 ローマ歌劇場管弦楽団も、先ほど述べたように、ダイナミックな活気でわれわれを楽しませてくれた。ひとりピッコロ吹きのおじさんは、ノリまくっているのか、目立ちたがり屋なのか、踊るような派手な身振りで吹き続けていた。こういうおじさんには時々お目にかかるから面白い。たとえば、あのモスクワ放送響の、二刀流タンバリンのおじさんとか・・・・。

 深夜11時55分終演。明朝早いので、カーテンコールの途中で失礼する。なにしろバイロイト以来の転戦、連戦、乱戦(?)が祟って、少々疲労。他の客と一緒に最後まで手を叩いていたりしたら身体が持たぬ。とにかく、これで夏の陣はおしまい。

8・29(木)ザルツブルク音楽祭(5)
マゼール指揮ウィーン・フィル ワーグナー「ヴァルキューレ」第1幕

  ザルツブルク祝祭大劇場  5時

 此処でもまた演奏会形式の「ヴァルキューレ」第1幕。
 先立つ第1部には、同じワーグナーの「ジークフリート牧歌」が置かれた。プログラムの構成としては、やはりこの程度の長さが適当ではなかろうか。

 しかもマゼールは、この「ジークフリート牧歌」を弦16型編成で(!)重量感たっぷりに、かつ、かなり遅いテンポでじっくりと指揮した。演奏時間も20分以上かかったかもしれない。相当内容の濃いものを聴いた、という気分にさせられる。

 「ヴァルキューレ」第1幕には、ペーター・ザイフェルト(ジークムント)、エヴァ=マリア・ウェストブロック(ジークリンデ)、マッティ・サルミネン(フンディング)がソリストとして登場した。
 ザイフェルトがいつからあのトレードマークの立派な髭をなくし、眼鏡をかけるようになっていたのかは知らないが、とにかく別人のような、何か老けたような顔になっていたのに驚く。聞かせどころの「ヴェルゼ!」を精一杯に延ばして歌い、力感を誇示して、さらに全曲大詰の個所でも大見得を切っていたが、低音域がやや不安定になる癖が出ていたのをはじめ、やはり年齢を感じさせるようになっていたのは寂しい。

 サルミネンは、昨夜のフィリッポ2世役よりもさすがに重量感にあふれ、凄味を発揮する。
 だが、他を圧して映えていたのは、やはりウェストブロックだ。声の輝かしさといい、表現力の多彩さといい、まさに絶好調であろう。おずおずとジークムントに語りかける冒頭から、やがて情熱にあふれた女に変身して行くまで、性格の変化を見事に描き出していた。

 巨匠マゼールは、いまやゆったりとしたテンポで、重厚なスケール感を前面に押し出した指揮を聴かせる。演奏時間こそ68分と、さほど長い部類には入らない類のものだが、悠然たる風格でオーケストラを余裕たっぷりに鳴らすため、遅めのテンポに聞こえるのだろう。
 若い頃のような才気煥発の颯爽たる音楽づくりも、中年時代のような仁王の如き筋肉質の音楽づくりも今はない。専ら練達のウィーン・フィルを信じて、余裕綽々、ワーグナーの壮大な響きを自然に引き出すといった指揮ぶりだ(もっともマゼールくらい、日によって、またはオケによって表現を変える指揮者も稀だから、今日の指揮がこうだからといってもアテにはならない)。
 最後のクライマックス部分に入ってもとりわけテンポを煽ることなく、ただ昂揚感を高めて行くのみである。せいぜい「ヴェルゼ!」の個所で、その都度ジークムントの歌に先立つ弦をクレッシェンドさせて劇的効果を出すあたりが、彼らしい芝居気と言えば言えなくもない。

 ウィーン・フィルが、やはり素晴しい。前出の「ジークフリート牧歌」と同様、ライナー・キュッヒルをコンサートマスターとする弦楽器群の音色を聴いているだけでも、充実した感覚に浸れる。ワーグナーの叙情美が全開したこの第1幕を、この明るく温かい官能的な響きで聴けること自体が幸せというものだろう。

 ただし今日は、金管の調子があまりよろしくない。「牧歌」のホルンは気の毒なほど音を外し、「ヴァルキューレ」でのバス・トランペットも同様だった。そういうミスは人間だから仕方ないとしても、「フンディングの動機」が最初に出現する際にホルンが入りを間違えるなどというのは、歌劇場を本拠とするこのオケらしからぬ事故だ。もしかして、トラだったか? マゼールは、この「ヴァルキューレ」では珍しくスコアを目の前において指揮していたので、彼が間違えたとも思えないが、ただ彼がちらりとホルンの方を見た途端に、3番ホルンがフッと音を出したのは確かだ。・・・・ウィーン・フィルも連日連夜の仕事で忙しいから、大変でしょうな。

 なお今回は、歌手3人はすべて板付き。サルミネンも最初から最後までステージ上に留まっていた。お疲れ様である。
 7時5分終演。次の「ナブッコ」まで、軽い食事をしながら待つ。

8・28(水)ザルツブルク音楽祭(4)
モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」 エッシェンバッハ指揮、ベヒトルフ演出

 ザルツブルク モーツァルトハウス  7時30分

 長大な「ドン・カルロ」のあとで更に「コジ」を観るなど、趣味としてはあまり良いとは思えないが、職業意識からすれば、やっているからには観ておかないと、ということになる。近くの日本料理店で知人と鮨をつまんでから、さっきの大劇場の隣にある「モーツァルトのための家」(とりあえずモーツァルトハウスと略す)に向かう。

 指揮者が当初のウェルザー=メストからクリストフ・エッシェンバッハに変更になり、いろいろゴタゴタしたそうだが、それは措く。
 今日は、5回公演のうちの最終公演である。

 このエッシェンバッハの指揮、世評はあまりよろしくないようだが、私は意外に楽しめた。
 というのは、彼は何一つ演奏に細工を加えず、淡々と速めのテンポで、しかもイン・テンポで、オーケストラの細部を彫琢するようなこともせず、ただ素っ気ないくらいに指揮するので、むしろモーツァルトの音楽の和声的な美しさや、躍動的なリズム感が、余計な紆余曲折を経ることなく、あるがままに再現される結果になっていたからなのである。
 最近のモーツァルトのオペラの演奏にありがちな、やたらにテンポを伸縮させたり、遅いテンポを殊更に誇張したり、持って回った説明調にしたりするスタイルには、正直言って私はうんざりしているので、・・・・モーツァルトの音楽は、ただあるがままに、というのが私の好みであり、持論なのだ(もちろん、例外もあるが)。

 では、今夜のエッシェンバッハの指揮がすべてにおいて理想的なものであったかと問えば、必ずしもそうは言いがたい。が、要するに、余計な手を加えずにちゃんと纏め上げた――というのは、確かに美点ではあるだろう。
 ウィーン・フィルも、連日連夜ご苦労さまだ。演奏は骨太でおおらかな響きで、細かいところに拘泥せずという感もあったが、まとまりは良かった。もっともこのくらいの演奏は、このオケにとってはお茶の子なのではなかろうか。

 スヴェン=エリク・ベヒトルフの演出。私はウィーンで彼が演出した「指環」は、みんなが言うほど気に入っていなかったので、今回はあまり期待していなかったのだが、予想外に楽しめた。
 格子状のガラス張り(みたいな)の窓に囲まれた大きな空間で、登場人物たちが実に活発に動き回り、コミカルな演技でドラマを進めて行く。とりわけ長身のルカ・ピサローニ(グリエルモ)が踊るような身振りでガウンをはためかせながら迫って行くところなど、その滑稽でユーモアあふれる演技には、観客も沸いた。

 序曲のさなか、2人の姉妹がプール(といっても風呂みたいだが)で水浴中に、恋人の男たちが覗き見をするというシーンで始まる。いい趣味とは言えぬ演出だが、これはこのドラマ全体を通じて、友人が自分の恋人を誘惑するさまをガラスの向こう側から、あるいは同じテーブルに座って興味津々眺めるという趣味がフェランドとグリエルモにはあったのだ――という心理の伏線だったのかもしれない。

 全曲最後は、最近の演出の定石どおり、「仲直り」はない。それでもちょっとひねってある部分は――フェランドは最初とは「違う方の娘」とくっついてしまうが、グリエルモは「おれはごめんだ」と相手を拒否するところだろう。
 ・・・・ただ、私も連日連夜の連戦が祟って注意力が散漫になり、しかもこの2人の姉妹がラストシーンではまるで双子のように体型も衣装も同じで、しかもこちらに背を向けたままでいるものだから、どちらがフィオルディリージ(マリン・ハルテリウス)で、どちらがドラベッラ(マリー=クロード・シャピュイ)だか一瞬分からなくなってしまったのである。万が一、その組み合わせが逆だったら――ということは、フェランドは最初の相手と縒りを戻すが、グリエルモは最初の相手とは「もうごめんだ」というわけか――曖昧で申し訳ない。ビデオが出れば、ここの場面は正確に確認できるだろう。

 歌手陣は他に、マルティン・ミッテルルッツナー(フェランド)、ジェラルド・フィンレイ(ドン・アルフォンゾ)、マルティナ・ヤンコーヴァ(デスピーナ)といった面々。みんな確実な歌いぶりで、音楽的水準の高い上演となった。とりわけデスピーナ役のヤンコーヴァの愛らしさと芸達者ぶり、シャピュイの明朗な演技と安定した歌唱、それに前述のピサローニの豪快闊達な役者ぶりが印象に強く残る。

 休憩30分ほどを挟み、終演は午後11時10分頃。
 モーツァルトの音楽の本来の美しさを堪能出来て、まずは満足。このところワーグナーだ、ストラヴィンスキーだ、ベルクだ、シェーンベルクだという音楽の連続だったので、ここでモーツァルトのオペラに――特に最も木管の和声の美しいこの「コジ」に浸れたことは、本当に新鮮だった。

8・28(水)ザルツブルク音楽祭(3)
ヴェルディ「ドン・カルロ」 パッパーノ指揮、カウフマン他

    ザルツブルク祝祭大劇場  1時(マチネー)

 スペインの王子ドン・カルロにヨナス・カウフマン、父王フィリッポ2世にマッティ・サルミネン、王妃エリザベッタにアニア・ハルテロス、エボリ公女にエカテリーナ・セメンチュク、ロドリーゴ侯爵にトマス・ハンプソン、宗教裁判長にエリック・ハルフヴァーソン、修道僧&カルロス5世に懐かしやロバート・ロイド――と、主役歌手陣のネームヴァリューは充分である。

 人気の的は、何と言っても、新時代のスーパースター(!)カウフマンだ。ドイツ・オペラのレパートリーにおけるようなはまり役のイメージではないけれど、それは彼のような歌手だからこそ言える贅沢であって、知的な歌唱、微細な演技(この舞台では純粋だが世間知らずの王子のイメージをよく感じさせた)など、文句のない題名役ぶりであった。

 ハルテロスも、気品ある舞台姿と歌唱で好演。特に第5幕でのアリアは、ここぞ聞かせどころという気魄で歌い、見事に映えた。
 セメンチュクも「美しいサラセンの」と「むごい運命よ」などで熱演したが、もしかしたら、この大劇場のアコースティックには未だ慣れていないのかもしれない。

 老練サルミネン。「独り静かに眠ろう」のアリアなどでは、細かい感情の揺れを巧く表現して声を補う。あのトシでよくあそこまで歌えるものだなと感心させられる。イタリアの歌手のような朗々たる声の国王とは行かないが、だからといってブーイングされるのはちょっと気の毒だ。

 トマス・ハンプソンは、往年の声の輝きこそ薄れたものの、歌唱表現力と風格と存在感はさすがベテランの貫禄を示して立派なもの。あの広大な(に過ぎる?)祝祭大劇場の舞台では、それがないと、なかなか目立たないのである。
 その点、ハルテロスにしてもセメンチュクにしても、歌はいいのだが、そこに彼女がいる――という意識を観客に与えるようになるまでは、やはり経験を待たなければならないだろう。
 なお、久しぶりに聴くロバート・ロイドが、幕開き直後の修道僧の歌で、嬉しいことに重量感たっぷりの力を聴かせてくれた。

 演出はペーター・シュタイン。この人の群集の扱い方は天下一品、昔この劇場で観た「モーゼとアロン」での怒涛のような凄まじい大群集の動きには心底、息を呑まされたことがある。したがって今回も期待していたのだが、――やはりかつての冴えは失われたか。
 それだけでなく、演技を含めた演出全体にも、特に目新しいものはない。歯に衣着せずに言えば、平凡な部類の演出だろう。だから、ハンプソンのようなベテランならともかく、若いハルテロスやセメンチュクのような歌手を引き立たせるような微細な演出は、シュタインにはもう無理なのかもしれぬ。カウフマンだって、演出家に人を得れば、もっといい動きが出来たのではないか? まあ、これは素人目の繰言だが。
 フェルディナント・ヴェーゲルバウアーの舞台装置はシンプルなもの。冷たくて、寒々とした雰囲気がこのドラマの本質を表現していた――と言えないこともなかろう。

 指揮は、アントニオ・パッパーノ。さすがに「持って行き方」が巧い。オーケストラを豪快勇壮に響かせ、しばしば歌をかき消すくらいの大音響を出すが、肝心な個所では歌のパートをスッと浮き上がらせ、イタリア人のいない(?)主役歌手陣を巧妙に引っ張って行った。スケールの大きな「ドン・カルロ」の演奏という点では、以前ここで聴いたカラヤン、マゼール、ゲルギエフらの指揮に比べても、引けはとらないだろうと思う。
 ウィーン・フィルが、またあの独特な音色で(これが何よりの魅力だ)、よく鳴ること、鳴ること。昨夜の「マイスタージンガー」でもそうだったが、このオケの響きが、名状しがたい温かな雰囲気を醸し出してくれるのである。

 5幕版で、しかもしばしばカットされる個所もちゃんと演奏されたので、30分ほどの休憩2回を挟み、終演は午後6時5分頃になった。

8・27(火)ザルツブルク音楽祭(2)
ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」ヘアハイム演出

    ザルツブルク祝祭大劇場  6時

 開演前から幕が開いたままの、ハンス・ザックス親方の仕事場の舞台装置があまりに写実的なので、これがシュテファン・ヘアハイムの演出?と愕然とさせられる。

 だが、ヘイケ・シェーレによるこの装置はちょっと洒落た使い方になっていて、白いカーテンが引かれるとそれがスクリーン映像としてズーム・アップされ、その間に幕の向こう側で舞台は第1幕や第2幕の場面に変化するという具合で、なかなか要領がいい。
 しかもその舞台装置は、すべてザックスの部屋にある調度家具(仕事机やらタンスやら抽斗やら)を巨大に拡大したものになっている。即ち、これから舞台で起こるさまざまな出来事は、すべてザックスのイメージの中で繰り広げられるもの、あるいは彼の創作の中で描かれる物語である――という設定を意味するのだろう。

 その通り、ヘアハイム(ドラマトゥルギーはアレクサンダー・マイアー=デルツェンバッハ)は、ハンス・ザックスをこのドラマの主人公かつ狂言回し的な存在に設定し、彼らしく、かなり趣向を凝らした演出を試みていた。
 ここでは、ザックスの「ニュルンベルクの落ち着いた指導者」としての外面からは窺い知れない、意外な内面も併せて描かれる。詩が完成したといっては躍り上がって喜ぶ無邪気な詩人、だがラストシーンでベックメッサーが手を差し延べて来ても怯えたように拒否してしまう弱い性格の人間、舞台手前に飾ってあるワーグナーの胸像のうしろから月桂冠を拾い上げ、そっと自分の頭に載せてしまう見栄っ張りな性格、・・・・これまで描かれて来た巨匠ハンス・ザックス像とは、えらい違いだ。それが面白い。

 ドラマは、第1幕前奏曲の前、ザックスが独り情熱的に、しかし慌しく詩作に耽り、作品の完成に喜び、踊り回りつつ、ハタと「観客の目」に気がつき、慌てて白いカーテンを引いて隠れる光景で開始される。
 そして全曲の最後は、再び仕事場で独り詩作にいそしむザックスの姿で結ばれる。この手法は特に画期的なものとは言えない(日本でもアルブレヒト指揮で上演された高島勲&フォン・ギールケのプロダクションが少し似たような発想を持っていた)が、このヘアハイム版の方が派手だ。

 かつて妻と子を喪ったザックスの孤独感も、冒頭で具体的に描かれる。
 だがそれより、ポーグナー親方の娘エーファとの愛がこれほどリアルに描写されたのも珍しいだろう。第1幕冒頭シーンで彼はエーファに「愛をささやく」が、これはおそらく空想のシーンではなかろうか? 
 そして、ポーグナー親方が娘を騎士ヴァルターと結婚させるという計画を聞いたザックスの嫉妬の怒りの激しいこと! ト書きにある「ポーグナー親方への協力姿勢」など何処へやら、彼との握手も拒むほどの憤懣やるかたない様子。だがそれでいながら、ヴァルターの新しい芸術を認め、エーファへの恋を諦めて2人の結婚を認めてやるという公正さを持つザックスなのである(これはト書き通りに演出される)。
 なお、ザックスが秘かに仕事場に飾ってあったエーファの肖像画を、彼女がはからずも目にし、初めて彼の深い愛を知って号泣するという設定も興味深い。

 ラストシーン、ザックスが「ドイツが直面する侵略の危機」と「ドイツ芸術の不滅」を訴える場面は、ドイツでの上演の場合は政治的な理由から演出家が「逃げ」に苦労するところだ。
 今回の演出では、舞台が突然暗くなり、背景の人々の動きが激しくなり、再び明るくなった時には、舞台にはもうエーファも、ヴァルターも、親方たちもいない・・・・ザックスを囲むのは、ただ無邪気な一般大衆のみ、という設定になった。
 彼が人間として接していた人々はすべて存在しなくなってしまい、無関係な、彼の芸術を讃える群集だけが彼を囲む。ザックスは耳を抑えて突っ伏すが、それは彼の複雑な内心を物語っているだろう。
 これに続いて、前述の幕切れの彼の孤独な場面に移る――というわけだ。この一連の光景は、寂寥感、空虚感を醸し出して、一種の凄味を滲ませる。

 人々の演技はかなり細かい。親方たちの動きはちょっと戯画化されており、一緒にこけたりする様子は喜劇的だ。第1幕で「始めよ!」の声に応じてヴァルターが挑戦的に剣を抜いて歌い始める瞬間に、親方衆全員がいっせいに仰け反って倒れ、「新しいタイプの歌」に面食らって床にのたうちまわる。こういう具合だから、あとは推して知るべし。画一化された社会への皮肉、と受け取れぬこともないが。

 さて、今回の指揮は、ダニエレ・ガッティだった。この人、バイロイトの「パルジファル」の成功でワーグナー指揮者としても男を上げ、最近はやたらモテているが、その後いくつか彼の指揮を聴いてみても、どうもピンと来ない。取り立てて悪いというほどではない。が、つくる音楽がガサガサして粗いし、余情もふくらみも感じられない、という印象なのだが、どうだろう? 今日の演奏も、ウィーン・フィルの柔らかい、開放的な音色に助けられた感もないではない。誰か数人、ブーイングを飛ばしていた連中がいた。

 ハンス・ザックス親方はミヒャエル・フォレ。立派な親方と、些か軽薄に見える内側の姿とを見事に演じ分けていたし、あまり深刻にならぬ歌いぶりが、今回の演出には合っていただろう。
 気の毒な役回りだがオペラでは最高の儲け役であるベックメッサーはマルクス・ヴェルバで、個性にはいま一つだが熱演していた。

 エーファのアンナ・ガブラー、ダーヴィトのペーター・ゾーンらも、それほど強い個性の持主というわけでもないので、何となく舞台と群集の中に埋没してしまっているという感を拭えない。ヴァルター(ロベルト・サッカ)は騎士というより将校といったいでたちだが、言っては何だが、歌唱も演技もあまり映えない。常に客席を向いて歌う癖があるのはいかがなものか。――というわけで、他の親方たちも含め、歌手陣の個性はそれほど強くなく、演出に呑み込まれてしまったようだ。

 なおこれは、パリ・オペラ座との共同制作。今夜がこの音楽祭での最終公演だった。
 30分の休憩2回を挟み、終演は深夜11時35分になった。外は小雨である。

8・26(月)ザルツブルク音楽祭(1)
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル 「春の祭典」他

   ザルツブルク祝祭大劇場  8時

 シェーンベルクの「浄夜」、ベルクの「ヴォツェック」から3つの場面、ストラヴィンスキーの「春の祭典」という、すこぶる手応えのあるプログラム。

 「浄夜」は大編成の弦楽合奏で演奏されたが、さすがラトルの指揮、こういう形で演奏される時によく出る特徴「後期ロマン派的な、むせ返るような豊麗な官能の世界」など、影も形もない。
 デュナミークの対比は強烈で、音楽の流れは非常に起伏が大きく、激しい。なだらかな旋律の内側にそっと短い音型が加わる個所など、普通なら和声的な厚みが増したと感じられるところだが、ラトルの指揮ではそれがしばしば強いアクセントで切り込むように割り込んで来るので、その都度、思いがけない一撃を食らわされたような感覚になり、ぎくりとさせられる。

 曲の標題となっているリヒャルト・デーメルの詩を、もしこの演奏に当てはめるなら、月下の木立の中を歩く男女の想いはさぞや焦燥と苦悩に満ちており、激しい口論も起こる――という具合なのだろう。これほど刺激的な「浄夜」は、めったに聴いたことがない。ベルリン・フィルの弦楽セクションの巧いこと。樫本大進は、今夜はトップサイドで弾いている。

 「ヴォツェック」からの3章を歌ったのは、近代音楽のレパートリーで最近話題のバーバラ・ハンニガン(ソプラノ)。昨年秋の東京での「リゲティ・コンサート」を残念ながら聞き逃してしまったこともあり、今回は楽しみにしていた。
 今夜は、マリーの2つの場面と、ラストシーンの子どもの遊びの場面とを歌ってくれたが、まさに見事なものだ。マリーの「兵隊さん」の冒頭など、昔のロッテ・レーニャの頽廃的雰囲気を思わせるような歌唱で始まり、それがやがて明晰な現代的な歌唱スタイルに転じ、激情的で物狂おしげなマリーのモノローグに移って行くあたり、雄弁な表現が素晴しい。舞台上のちょっとした演技も、エンターテイナー的な魅力たっぷりである。
 ラストシーンの「Hopp,hopp!」は、もちろん子どもの声を真似てはいなかったが、今回のようにドラマティックに歌われるのも凄味があって面白い。

 もちろん、ラトルとベルリン・フィルの重量感も大変なものだ。ヴォツェックが死んだあとに奏されるあの悲劇的な音楽も、詠嘆調というより、不条理な社会への怒りをぶつけるような、鋭い、激烈な表現だ。――ラトルの指揮する「ヴォツェック」の全曲を、ナマで一度聴いてみたいものである。

 前半の2曲での楽しさが大きかったので、後半の「春の祭典」は、まあ彼らならこのくらい出来て当然だろう、という程度の印象になってしまったのは申し訳ない。
 それにしても、「春のきざし」で不規則に断続的に響く和音のところ、舞台奥のホルン群の音が客席にほんの何分の1秒か遅れて響いて来るのだが、その音のずれが、むしろ怪獣が低く咆哮しているような物凄さを生む面白さ。ベルリン・フィルの重量感ならではの迫力だろう。

 夕方着いたその足でコンサートやオペラを聴きに行くのは、最近は体調を崩すもととなるので控えていたが、今日の演奏会はそうした疲れも吹き飛ばしてくれる楽しいものだった。
 ザルツブルク、天候はあまりよくなく、気温も20℃前後、夜は10℃前後とか。しかし、空気が快い。

8・24(土)サイトウ・キネン・フェスティバル松本2013(2)
ストラヴィンスキー:「兵士の物語」

  まつもと市民芸術館・実験劇場 2時

 SKFとまつもと市民芸術館の共同制作プロダクション。2011年にロラン・レヴィ演出でプレミエされている(2011年8月24日の項)。

 今回のこれは、前回悪魔役で出演していた串田和美の新演出によるもの。
 出演者は、石丸幹二(語り手、前回は兵士役)、首藤康之(兵士)、白井晃(悪魔)、ゲイレン・ジョンストン(王女 黙役・ダンスのみ)、それに助演者たち4人が効果音担当やダンスで加わる。演奏者は白井圭(ヴァイオリン)、吉田誠(クラリネット)、只友佑季(トランペット)、前田啓太(打楽器)ほか、という顔ぶれだ。

 新演出では、舞台進行や演技に様々な工夫を凝らしており、兵士と悪魔のカード勝負の場面を語り手や助演者も加えて大掛かりな演劇的な光景にしたり、終り近くの舞曲のところをクライマックスのダンス・シーンに構成したり、それなりに面白い舞台として作られている。
 ただ、それはいいのだが、芝居がやや間延びしているようにも感じられる。このため、ストラヴィンスキーの音楽がもつテンポ感や、リズミカルな進行との間に、少なからぬギャップが生じてしまっていたことも事実であろう。

 そして何といってもラストシーン――今回は、兵士が屈伏して悪魔の前にくずおれ、一度幕が閉まり、もう一度幕が開くと「燃える太陽の夕空」を背景に兵士と悪魔の小さい像のようなものが浮かび上がるという手法だったが、こればかりは、旧プロダクションの迫力と比べると、だいぶ差が出た。
 なんせ、あの旧演出では、背景の幕が開くと、まつもと市民芸術館の主ホールの客席全体が目の前に現われ、そこに立つ悪魔のシルエットが客席の上階まで不気味に拡がって、魔物と化した王女をあとに兵士が悪魔の方へ吸い寄せられて行くという、ギョッとさせられるような光景が見られたからである(この「実験劇場」が「主ホール」と背中合わせになっている構造を生かしたものだった)。熱演した人々には悪いが、私には今回のラストシーンはいかにも拍子抜けで・・・・。

 なお開演前には、客席入口で賑やかな鳴り物入りの呼び込みが行なわれたが、今回の演奏者たちが全員コミック風のメイクをして、踊りながら演奏して客を喜ばせていた。なかなかいいノリである。やるものですねえ、最近のプレイヤーのみなさんは。

8・23(金)サイトウ・キネン・フェスティバル松本2013(1)
ラヴェル:「子どもと魔法」「スペインの時」

   まつもと市民芸術館主ホール 7時

 天皇・皇后両陛下の臨席のため、セキュリティ・チェックがあり、入場者は空港にあるようなゲートをくぐらされ、手荷物は別ルートを通すというものものしさ。上演後に皇族が退場するまでは客席のドアはすべて閉じられ、一般客も足止めをされる。
 いまどき東京ではとっくに廃れたやり方だが、地方ではまだこういう大時代的な風習(?)が残っている。もっとも今回は、小澤征爾が指揮した前半の演目「子どもと魔法」が終ると両陛下は帰られたので、終演後の混乱は起こらずに済んだ。

 だが、エントランスやロビー内をはじめ各ドアには黒服の無愛想な男たちが突っ立っており、そのため、かつてのような明るく華やいだ、インティメートな雰囲気がホールから全く消えていたのには落胆させられた。しかも客席は、セキュリティのためか、左右のバルコン席は、上から下まで、すべてがら空きにされていたのである(売れなかったわけではないはずだ)。このため、初日公演にもかかわらず、場内には何となく寒々とした雰囲気が漂っていた。
 長年親しまれて来たサイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)が、事務局スタッフの全面的な入れ替えなどが影響して、こういう堅苦しい雰囲気に変わったのだとしたら、それは悲しむべき状況であろう。今日のこれが、あくまで特殊なものであったに過ぎないことを願いたいものである。

 さて、小澤征爾が、今回は元気で指揮をした! と言っても、2つのオペラのうち、前半の「子どもと魔法」だけだったが、それでもここ数年の彼の体調を考えれば、彼がまた指揮できる状態になったということ自体、うれしいことだ。
 サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)も「息を吹き返した」演奏というべきか、時に現われるテュッティの個所では文字通り馥郁たる音色を響かせたが、こういう音色はこのオーケストラからはここしばらく聴かれなかったものである。
 今回、小澤はかなり「間」を採った指揮をしていたので、音楽の流れが少し滞るような印象もなくはなかったけれど、とにかく彼の最も得意とするレパートリーの一つ、フランスものの、しかもラヴェルであるだけに、悪かろうはずはない。

 一方、後半の「スペインの時」は、ステファヌ・ドゥネーヴ(シュトゥットガルト放送響首席指揮者、先日来日した)が指揮した。
 こちらはコミックな性格のオペラだし、音楽も躍動的なところが多い。ドゥネーヴもそれなりにまとまった指揮を聴かせた。しかし前半の小澤の指揮に比べると、やはり音楽の「色気」の無さは争えず。――あるいはオーケストラが、小澤の指揮の時ほどに燃え立たなかったのかもしれない。
 もっとも、SKOも強豪ぞろいの名団体であるからには、指揮者によってそんなに演奏に「差をつける」ようでは困るのだが。

 演出はロラン・ペリー。グラインドボーン音楽祭(昨年大野和士が指揮した)との共同制作。舞台美術は前者がバルバラ・デ・リンブルフ=スティルム、後者がカロリーヌ・ジネの担当だ。
 「子どもと魔法」では、ペリーがあの「利口な女狐の物語」(2008年)で見せた絶妙な可愛らしい動物の動きが見られるかと楽しみにしていたのだが、ちょっと期待外れ。前半では「人間よりも大きな家具」を活用し、大きな椅子やティーポットなど、面白い動きを見せたものの、もう少し洒落っ気があっていいだろう。少々類型的な演技にとどまったようである。初日公演ということもあって、動きが硬いのかもしれない。

 「スペインの時」は、2003年の「小澤征爾オペラ・プロジェクト」で既に上演されたことがあるプロダクションだそうだが、私はそれを観たか観なかったか、あまり明確な記憶がない。とにかくリアルで賑やかな舞台装置と、コミカルな歌唱と演技が繰り広げられる。ただこれも、まだ少しぎこちないところがあって、2日目以降はもっと楽しめるものになるのではないかと思う。

 歌手陣は、極めて安定していた。「子どもと魔法」では活発な「子ども」を歌い演じ、「スペインの時」では色気たっぷりの時計屋の女房コンセプシオンを歌い演じたイザベル・レナードは、この2役を、まるで別の歌手がやっているかのように演じ分けた。驚異的な役者ぶりである。お見事と言うほかはない。

 その他の歌手たちについて言えば、「子どもと魔法」では一種の擬人化された役柄が大部分なので、本領はやはり、生々しいキャラが出る「スペインの時」で発揮されただろう。エリオット・マドア(力持ちのロバ曳きラミロ)、ジャン=ポール・フシェクール(時計屋の主人トルケマダ)、デイヴィッド・ポーティロ(詩人気取りの学生ゴンザルヴ)、ポール・ガイ(気障な銀行家ドン・イニーゴ・ゴメス)といった人たちが、それぞれいいキャラを出していた。

 彼らのうち何人かは、「子どもと魔法」で大時計や雄猫、ティーポットのお化け、肘掛け椅子なども演じている。またここではイヴォンヌ・ネフが「母親」ほか、アナ・クリスティが「火」や「姫」ほかで出演していた。「子どもと魔法」の「算数の場」で出演したSKF松本児童合唱団も、なかなかの健闘を見せていた。

 なおこの日は、先日死去したこのSKOの初期のメンバー、名ヴァイオリニストの潮田益子を偲び、モーツァルトの「ディヴェルティメント ニ長調K.136」の第2楽章が小澤征爾の指揮で、オペラに先立って演奏された。非常に遅いテンポで、情感をこめて演奏されたが、これは追悼演奏のゆえだったか、それとも小澤の音楽の変化か? 聴衆もこの演奏の意味をはっきりと理解し、拍手も控えていた。

       ⇒信濃毎日新聞 9月4日朝刊

8・20(火)バイロイト音楽祭(終)「さまよえるオランダ人」

    バイロイト祝祭劇場  6時

 クリスティアン・ティーレマンの指揮だから、演奏も悪いわけがない。

 昨夜のペトレンコ指揮の時に比べると、オーケストラの演奏にもかなりの自由さが感じられたが、これがベテラン帝王指揮者の余裕というものだろう。
 それでいながらティーレマンの指揮は、強弱の変化などが非常に細かく、音楽の表情にも微細なニュアンスがあふれている。ほんのちょっとしたクレッシェンドの呼吸や、テンポの動きなど、本当に巧いな、と感じさせてしまう。

 休憩なし、全3幕切れ目なしの版による演奏だったが、その「持って行き方」にも、並みの指揮者とは違う面白さがある。第2幕最後など、3重唱から次第にテンポを速めて行き、間奏部分の「水夫の歌」が現われるあたりからはアッチェルランドとクレッシェンドを重ねつつ怒涛の勢いで第3幕に殺到し、ドドッと手綱を引き締めたかと思うと、中庸のテンポに戻って「水夫の合唱」のリズムを全管弦楽に爆発させる、といった具合で、その音楽の流れの凄まじさには息を呑まされてしまう。――この人は本当に凄い指揮者になったものである。

 また今夜は金管など管楽器群が轟々と鳴り響いた反面、弦は少し抑制気味だった。ペトレンコとの指揮の違いもあるのだろうが、もしかしたらこちらの聴いた位置の違い(今夜は17列上手側)によるものかもしれない。

 今回は、バイロイト上演には珍しく、1860年改訂版――序曲と第3幕の終結にハープの入った「救済の動機」がある、あのお馴染みの版である――が使われていた。また第2幕と第3幕の3重唱の個所は、カット部分なしの版で演奏されたが、これも好ましいことである。

 オーケストラとともに、コーラスも流石に見事だ。「バイロイトの合唱」の魅力を存分に味わわせてくれた。特に男声合唱の迫力は見事で、第1幕での水夫の合唱もさることながら、第3幕での「ダーラント船の水夫」と「幽霊船の水夫」(もちろん陰コーラスでもマイク増幅でもない、ナマである)との応酬なども聴き応え充分である。
 ただ、これに比して第2幕での女声合唱は、概してソットヴォーチェで柔らかく歌われた所為もあるのか、あまり客席に響いて来ない。
 しかし主役の男たちの声も、第1幕とそれ以降とでは随分響きが違い、第2幕では音が散るようになり、少し遠くに聞こえていたから、舞台装置の違い(反響板の有無など)によるものがあったかもしれない。

 歌手陣では、ゼンタ役のリカルダ・メルベトが、演技は少し単調で曖昧なところもあるが、歌唱で映えた。「ゼンタのバラード」もそうだったが、第2幕のオランダ人(サムエル・ユン)との2重唱ではパワー全開といった感である。
 一方、そのユンは、声と風格において、少々位負けの雰囲気が無きにしも非ず。ただこれも、第1幕とそれ以降の場とで、随分声の量感に差が出ていたから、やはり何か舞台装置の構造の影響を受けていたのだろうと思う。
 ダーラント役のフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒは貫禄ある歌唱と風格で君臨、舵手役のベンヤミン・ブルンスは若々しいよく通る声で好演である。エリックのトミスラフ・ムジェクは、演技は今一つながら、巨体を利した声がある。乳母マリーのクリスタ・マイヤーは、何故か声がほとんどこちらに来ない。

 演出は、ヤン・フィリップ・グローガーである。上演も2年目に入って練れて来たせいか、舞台の流れも比較的良い。
 突飛なところも限りなくあるものの、扇風機メーカーのカンパニーに設定したドラマを最後までそのテーマで押し切った点は、好みの問題はともかく、成功しているだろう。歌詞との齟齬を言い出したらキリがないが。

 「オランダ人」は、札束を詰め込んだスーツケースを持って現われる。水商売らしき女や、精神安定剤のような薬を薦めるエステの女などを従え、常に苛々しているところは、かなりのトラウマを抱えている男と見える。
 ダーラント船長ならぬ「社長」の秘書である「舵手」は、扇風機のカタログをオランダ人に見せて売り込む。「南風だ! 南風だ!」と歌う個所は、契約成立を意味する・・・・という具合に話が進むわけだ。
 それゆえ第2幕の「糸紡ぎの合唱」は、扇風機の箱詰め作業のような状況で歌われる。

 ゼンタにはオランダ人との結婚を勧めたダーラント社長が、2人が腕を傷つけ合い、血まみれの腕を組み合わせるのを見て、怒って契約破棄を考えるというあたりは、少々ややこしい解釈を生むだろう。
 しかし傑作なのは全曲の幕切れで、2人が「死の抱擁」を交わしたその姿を舵手がカメラに収め、ダーラント社長がその画像を眺めて「こいつはいける」という表情を見せたところでいったん幕が閉まり、「救済の動機」が流れる瞬間に再び幕が開くと、その「抱き合う恋人たち」の姿をマークにデザインされた扇風機の新製品が誕生しているというオチになっている。現代の商魂を皮肉っているようなエンディングだ。

 だがこの演出、かなり細かくつくりこんでいるとは思うが、私の好みから言えば、フン、そういうテもありますでしょうかな、という感。
 結局は今夜も、音楽が救いだった――。

 8時15分終演。昨夜の雷雨以降、かなり涼しくなったが、とにかく快適な気候である。
 

8・19(月)バイロイト音楽祭(6)「神々の黄昏」

    バイロイト祝祭劇場  4時

 最悪の演出たる今回の「指環」も、ついに完結篇まで来た。
 こんな散漫で雑駁な演出ばかり観せられるのでは、もうバイロイトに来るのは止めにするか・・・・などと本気で思ったのは確かだが、しかしどうしてもこの劇場でなければ味わえない最高の魅力がある。それが、ピットから響いて来る、あの魔術的なオーケストラ・サウンドなのだ。

 今夜も、キリル・ペトレンコが指揮するバイロイト祝祭管弦楽団が紡ぎ出す音楽は、実に素晴しかった。
 ワーグナーが粋を尽くした精緻かつ壮大な音楽を、些かも粗暴に陥らせず、曖昧混沌たる音にもせず、かくも明晰に瑞々しく、しかも表情豊かに響かせる指揮者は、決して多くないだろう。たっぷりした豊潤な音でありながら、引き締まって無駄のない響きである。

 驚異的だったのは、どんなにオーケストラが轟々と咆哮する個所においても、内声部の動きが――つまり網の目のように張りめぐらされたライト・モティーフの動きなども含めて――明確に聞き取れることだった。
 「ジークフリートのラインへの旅」で、ライト・モティーフが絡み合いながら滔々と音楽が流れて行くあたりの見事な演奏!
 あるいは全曲大詰の「ヴァルハル炎上と神々の没落」の場面――「ヴァルハルの動機」や「ジークフリートの動機」が轟然と高鳴り、「神々の終焉の動機」が崩れ落ちる瞬間までの修羅場のような音楽においてさえ、内声の動きが明確に浮かび上がって、少しも混沌とした音にならないのだった。

 弦の強力な響きも物凄く、「ジークフリートの葬送行進曲」の頂点では、弦のトレモロが終始最強音で轟き、緊迫感を持続する――ここをこんな風に、弦を前面に押し出して演奏させた指揮者は、私の体験では、他にいない。
 また全曲の最後では、ペトレンコは「神々の終焉の動機」のあとに殊更にパウゼをおかず、ティンパニのトレモロを強く響かせたまま「救済の動機」に雪崩れ込ませたが、この手法は私も支持したい。

 もっとも、ペトレンコは、いかなる瞬間にもオーケストラの均衡を重視しており、そのため音楽を過度に咆哮させたり、忘我的な興奮に陥らせたりすることを避けているようである。私の聴いた位置(8列やや中央近く)では、金管が非常に遠く、しばしば弦の強力な音に打ち消される傾向が感じられたが、これなどは「抑制する」ペトレンコの意向がオーケストラに中途半端に反映してしまった結果なのかもしれない。だが、おそらく来年は、さらに巧くバランスの取れた音が作り出されるのではないだろうか。

 歌手陣。
 ブリュンヒルデを歌ったキャスリーン・フォスターは、2009年にオーチャードホールで飯守泰次郎が演奏会形式の「ヴァルキューレ」第3幕を指揮した時に、ラルフ・ルーカス(ヴォータン)と協演してブリュンヒルデを歌った人だったことを、知人の指摘で思い出した。その頃すでに「バイロイトのブリュンヒルデのオーディションを受けた」と言っていたそうだから、4年後の今年、めでたく大舞台の大役を掴んだというわけだろう。
 綺麗な声で好感が持てるが、「神々の黄昏」の「怒れるブリュンヒルデ」を歌うにはちょっと声が優しすぎるかもしれない。「ヴァルキューレ」時代のブリュンヒルデだったら、純粋で一途な娘の役として、最適だろうけれども・・・・でも、こういう猛女的でないブリュンヒルデも悪くはない。

 ジークフリート役のランス・ライアンは、相変わらず弱音に不安定さを残すが、馬力は充分で、ブーイングを飛ばされるいわれはなかろう。
 むしろハーゲンを歌っていたアッティラ・ユン(ジュン?)が、逞しい声のみで凄味を出そうとしているものの、世界支配を目論む複雑な性格を備えた悪役としての表現力はまだ不足だろう。演技の上でも同じことが言える。

 グンターを歌ったアレヤンドロ・マルコ=ブールメスターは、今回はあまり強烈な個性を持つ役回りは与えられていない。
 グートルーネのアリソン・オアケスは、歌唱は手堅いだけの域を出ないが、第2幕では、ブリュンヒルデに馬鹿にされ口惜しがる女として、いじらしいほどの大熱演だった。
 ヴァルトラウテのクラウディア・マーンケ(第2ノルンとの掛け持ち)は、残念ながらこの役には如何にも個性不足だ――ヴァルトラウト・マイヤーや藤村実穂子が聴かせたあの凄味が懐かしい。
 なおアルベリヒにはマルティン・ヴィンクラーが引き続き登場し、いい歌唱を聴かせたが、下半身がブリーフ1枚という演出は趣味が悪い。

 ちなみに、例の名助演者パトリック・ザイベルトは、今夜もケバブ店の主人などの役であちこちに登場。ハーゲンに殴られ鼻血を出したり、旗を振り回したり、御苦労なことでした。

 カストルフ演出については、もうあれこれ感想を述べるほどの気力も起こらない。あれだけ騒いでいた「石油問題」のテーマは何処へやってしまったのか? ジークフリートは常に手ぶらだが、ノートゥングはどうなってしまったのか? 
 舞台上方に白布を下してのスクリーン手法は今夜も少しはあったが、少なくとも最初の2作に比べると控えめで、映写される内容も趣向も、全く平凡になってしまった。これならいっそスクリーンなど無い方がよほどマシだろうが、しかしそういう「猥雑な」方法を除外してしまうと、本当に全く何もない、つまらない舞台になってしまうのである。せいぜいその程度の演出に過ぎなかったことが、ここでも証明される。
 最後の映写では、天井から降りる白布が中途で引っかかり、スクリーンの体を為さなかったが、「だから言わんこっちゃない」とか「ざまァみろ」とか、みんな冷たい反応。

 第1幕と第2幕でのギビフング家は、素性は何だかさっぱり判らないが、中央にケバブ(カバブ)の売店がある。店内にはトルコの国旗とベルリンの熊のマークの旗が張られており、第2幕では一同がケバブを食べながら騒ぐ。
 第3幕冒頭では、ニューヨークの証券取引所のビルの前でラインの乙女たちが高級オープンカーの中で寝ており、しかもそのクルマは1人の男(これも例のザイベルト殿が演じる)をはねて重傷を負わせたばかりという設定だ。スクリーンではラインの女たちがその男の死体をトランクに詰め込む模様が写される。この映像が、ジークフリートが女たちから指環の呪いと死を予告され、トランクの中を見せられて意気消沈する実際の演技への伏線となっていることは解るが、すこぶる気持が悪いことは確かだ。

 このラインの乙女たちが、「ブリュンヒルデの自己犠牲」のさなかにのべつ動き回っているのも煩わしい。証券取引所が大火災を起こすのかと思っていたが、そうでもなかった。
 またこの日は、大音響で音楽を邪魔する趣向は、幸いにもあまり行なわれなかったので、やれやれと安堵していたが、その矢先、第2幕終りの緊迫した音楽のさなか、「ケバブ店の主人」がトロッコを押しながら長い階段を騒々しい音を立てながら降りて来て、しかも中に入っていた大量のジャガイモの山を階段の途中からぶちまける、という演出があった。何をかいわんや、である。

 10時20分終演。演出家は出てこないので、観客の不満のやり場もない、という感。歌手たちには盛大な拍手が贈られ、特にペトレンコに対しては、劇場内が沸き返った。明りが点き、拍手も終了したあとで、改めて演出へのブーイングが飛ばされる。しかし、すぐにカストルフ支持派によるブラヴォーがそれに対抗する。
 かくして「指環」第2ツィクルスは完了。私自身は、明夜の「さまよえるオランダ人」を残すのみ。

 開演前は、今回の滞在中初めての土砂降り。雷鳴も轟き、この酷い演出に雷神ドンナーも怒ったか、シェクスピア風に言えば、天もこの暴挙を嘆いたか――という雰囲気だったが、終演後には、快晴の空に満月が輝いていた。

「神々の黄昏」第1幕
   「神々の黄昏」第1幕

「神々の黄昏」第3幕
   「神々の黄昏」第3幕

8・18(日)バイロイト音楽祭(5)「タンホイザー」

     バイロイト祝祭劇場  4時

 ここバイロイトに前回来たのが2009年だったから、それ以降にプレミエされた「ローエングリン」と、この「タンホイザー」は、ナマのステージでは観ていなかった。それゆえ、このセバスティアン・バウムガルテン演出の「タンホイザー」は、今回初めて観る。

 この演出、大方の評判は、すこぶる悪い。
 工場に設定されたドラマという新解釈をはじめ、全体的に何が何だか解らない、という批判である。
 そういう評判を事前に聞いていたプロダクションに限って、自分で観ると、えてして「実に面白い」となることが多いものだが、今回初めて観た印象では、なるほど「さっぱり解らない」。

 要するにこの演出家も、観客に自分の舞台を「解らせよう」としていないのだろう。
 観客へのあからさまな挑戦という姿勢が演出家の権利であることは認めるし、その挑戦を受けて立とうじゃないか、という心構えも人並みにあるつもりだが、それも程度の問題だ。「解らない」のがこちらの敗北を意味するのか、それとも演出家があまりに非常識なのかは「判らない」けれど、しかしこれまでの歴史では、たいてい演出家の側が最終的には勝つようだから、こちらはブーブー言いつつも引き下がるしかないのかもしれぬ。

 ただ、滅茶苦茶だとは言っても、カストルフ演出の「指環」を観たあとでは、この「タンホイザー」の舞台は、まだしもずっと温厚に感じられてしまうから、慣れというものは恐ろしい。しかも、ゴタゴタしてはいても、舞台上での出来事は――昨夜の「指環」と違い――それぞれ関連性を感じさせる要素もあるのだ。

 たとえば、工場の地下にバケモノ王国のような「ヴェヌスベルクの世界」があり、それが第2幕のタンホイザーの歌の前後に出現したり、冒頭からヴェーヌスが身ごもり、ラストシーンでその赤ん坊が生れたりというのも、まあそこまで持って行く解釈もあるかな、と思われる。
 特にヴォルフラムの性格づけには注目すべき点があり――エリーザベトへの想いを募らせながらも彼女とタンホイザーから軽んじられたりするところなどは、あのコンヴィチュニーの演出を更に押し進めた解釈だろう。ヴォルフラムがヴェーヌスと懇意になるという設定にも、一理ある。
 「大行進曲」の合唱の場が、まるでその工場の社歌か労働歌の斉唱の光景みたいに見えるのも、それなりに筋が通っているかもしれない。

 ただし問題は、その先の意味がさっぱり解らない、というところにあるだろう。たとえば、第2幕の歌合戦にヴェーヌスが立ち会っている、という設定はいくら何でも無茶ではなかろうか? 
 このプロダクション、あまりに評判が悪いので、来年で打ち切られるとかいう噂も聞いたが、さてどうなることやら。

 なお舞台の両袖にも観客が座れることになっており、今回は下手側に知り合いのE夫妻やM・W嬢が堂々と座っていて、何となく愉快だった。
 もっとも、あとで話を聞くと、終始幕が上がったままなので、開演のずっと前から椅子にかけていなければならず、その椅子たるや固くて体が痛くなるシロモノで閉口したそうな。また、その椅子を動かしてはいけないとか、舞台上で互いに話をしてはならぬとか、観客の中の知人に手を振ったりしてはいけないとか、あれこれ舞台スタッフからの注文がうるさかったともいう。その代わり、指揮者やプロンプターの活躍ぶりが目の当りに見えて、これは大変面白かったそうである。

 なお、今回使われた版は、ドレスデン版を基本とし、初演時に使われた楽譜からいくつかの場所を復元して挿入したものと見た。ヴェーヌスの歌の一部、牧童の場面、第2幕最後の大アンサンブルの終りの方に、日ごろ聞きなれぬ音楽が入っていた。
 またその大アンサンブルは、合唱やソリストのパートなどが、1962年に録音されたサヴァリッシュ指揮のバイロイトでの演奏にほぼ共通するものだった。強引なカットのない演奏を聴けたのは久しぶりで、これは嬉しい。第2幕のエリーザベトとタンホイザーの二重唱の中でヴォルフラムの「私の望みは露と消えた」の一言がカットされているといないとでは、ドラマの解釈に大きな変化が生じて来るからである。

 指揮はアクセル・コーバー。ライン・ドイツオペラの音楽総監督で、5月にデュースブルクで「ヴァルキューレ」を指揮していたのを聴いたことがある。まあ、手堅い指揮、といったところだろう。悪くはないが、特に個性的というほどでもない。

 タンホイザーはトルステン・ケルル、エリーザベトはカミッラ・ニールント、ヴェーヌスはミシェル・ブリート。みんな大変結構。また、ミヒャエル・ナジが神経質で気弱なヴォルフラムを巧く歌い演じて、この人はなかなかの性格俳優といえるだろう。
 他に、ギュンター・グロイスベック(領主へルマン)、ローター・オディニウス(ヴァルター)、トマス・イェサトコ(ビテロルフ)、カティア・スチューバー(牧童)ら。バイロイト祝祭合唱団も、いつもながらの充実だ。

 9時5分終演。

8・18(日)バイロイト音楽祭(4)バイロイト祝祭ヴァイオリン・クァルテット

    Restaurant Schloss Neudrossenfeld  午前11時

 永らくバイロイト祝祭管弦楽団のヴァイオリン奏者を務めた眞峯紀一郎さん(元ベルリン・ドイツオペラ管弦楽団ヴァイオリン奏者)たちがつくっている、4本のヴァイオリンからなるクァルテット。日本にも2度ほど訪れたので、知る人も多いだろう。

 市内から10キロほど離れたレストランの建物の2階の広間で、そのクァルテットの演奏会があったので、知人たちと大挙して聴きに行った。ドイツの建物の広間だから、音響は大変良い。

 プログラムは、テレマンの「協奏曲」ニ長調、バッハの「イタリア協奏曲」、モーツァルトの「アンダンテ K.616」、 宮城道雄の「春の海」、クプコヴィッツの「ローエングリン変奏曲」、ラモーの「オペラ組曲」、ジュナン~ダンクラの「ヴェニスの謝肉祭」、アンコールに「椿姫幻想曲」など、およそ75分に及ぶ、ヴァイオリン4本による独特の音色の饗宴。

 厚ぼったいワーグナーのオペラの間隙を癒してくれる、清涼剤の趣きのようなコンサートであった。

8・17(土)バイロイト音楽祭(3)「ジークフリート」

     バイロイト祝祭劇場  4時

 ブーイングの音量の方が拍手より大きかった例に、初めて出会った。
 第3幕のラストシーンには、流石にみんな呆れたのだろう。

 岩山におけるジークフリートとブリュンヒルデの高らかな愛の2重唱――という場面が、ベルリンのアレクサンダー・プラッツ(という触れ込みだが、ネオンで表示されているのは「AL」の2字が無い「EXANDERPLATZ」という字だけだった)の駅前のスナックになったまでは、まだいい。
 だが、2重唱の後半では、2頭の巨大ワニが背景に出現し交尾したあと、1頭が「森の小鳥」(役の歌手)を呑み込み、他の1頭はジークフリートになついてその手からエサを貰い、・・・・つまりジークフリートは巨大ワニにエサをやりながら2重唱を歌い、後奏になってからは、もう1頭が半分呑み込んだ「森の小鳥」の女性をその口から引っ張り出し、結婚衣装姿になっているブリュンヒルデがそれを見てヤキモチを焼き、――そこで全曲が終る、という具合なのだ。何とも滅茶苦茶な演出である。猛烈なブーイングに混じって、これ見よがしの爆笑も巻き起こった。

 第1幕の最初は、ラシュモア山の米国大統領の顔像ばりに、マルクス、レーニン、スターリン、毛沢東の顔が彫られた岩壁。その前に「ミーメの小屋」なるクルマ――「ラインの黄金」でアルベリヒが財宝を積み込み、ミーメが引き継いだワゴン車がある。
 しかし、この場面と、第2幕のファフナーが住む「恨みの洞穴」が同じ光景というのは納得が行かぬ。

 ただし第2幕では、これが回転舞台で半転すると、前述のEXANDERPLATZの場面になり、金持になったファフナーは、大蛇でなく昔通りの「巨人」即ち人間の姿で、女たちを相手に気前よく暮らしているらしい。

 ジークフリートは、派手な羽根を付けた「森の小鳥」と恋仲になり、「上手く吹けない笛」のくだりは草笛でなく、街のゴミの中から古いボトルなどを引っ張り出して擬音を出そうとし、「角笛」のところでは実際に角笛など吹かず、森の小鳥相手に水溜りの水を跳ねかしあって(汚いですな)戯れる。

 ファフナーとはボクシングで応酬し、旗色が悪くなると突然カラシニコフ銃で乱射し、相手を仕留めてしまう。この銃声は猛烈な大音響なので、客席入口に注意書が張ってあったくらいだ。
 この銃は、第1幕で彼がミーメの車の中から見つけ、「鍛冶の場」の前半で盛んに手入れをしていたものである。そうすると、「いつの間にか出来ていた」剣ノートゥングの方はどこにやったのか? 第3幕では彼はヴォータンの槍を剣でたたき折るのではなく、手でヘシ折るのである。

 その他、第3幕冒頭、ヴォータン(泥酔状態)と、智の女神エルダ(ここでは衣装を買い込んで出て来た水商売の女)とが世界の行末を議論する場面では、あの「ラインの黄金」で活躍した店長役の男が、今度は正装したウェイター役としてひっきりなしに出たり入ったりしている。そのうるさいこと。

 こんなことをいちいちメモしていては、余計腹が立つばかりだから、もう止める。
 だが、世界支配の権力を秘めた「指環」を「石油」に読み替え、その利権争奪の歴史の流れを、4部それぞれにシチュエーションを変え、さまざまな局面から描き出そうという狙い(らしい)の今回の演出テーマは、「ジークフリート」ではどこへ行ったのか?
 ともあれこのカストルフ演出には、「音楽だけじゃつまらないから、とにかくその間何か面白いことをやっていようじゃないか」という魂胆が丸見えである。やらなくてもいいような意味のない演技――演出家にとっては意味があるのだろうが――があまりに多すぎる。だがしかし、仮にそれを除いたとしたら、今回の舞台には何が残るのだろう? その程度の演出なのである。

 余談ながら私は、いつかゲルギエフから聞いた、マリインスキーでの「仮面舞踏会」の話を思い出す。第3幕でレナートがあの素晴しいアリアを歌っているさなか、ずっと1人の男がレナートの靴を磨いている演出があったそうな。ゲルギエフが演出家に、「あの靴磨きは何の意味があるのだ」と尋ねたら、その演出家は「別に意味はありませんが、歌だけでは客が退屈すると思いましたので」と答えた。で、ゲルギエフは腹を立ててその「靴磨」を止めさせた、という話である。

 また、今回の第2幕のファフナー殺害の場におけるカラシニコフ銃の乱射では、何年も前にシュトゥットガルトで観た「ノルマ」を思い出した。あの大詰近く、ノルマが銅鑼を3度打って軍を集めるところでは、何とその銅鑼のリズムが、非常ベルで代用されたのである・・・・。

 もっと音楽を大切にする演出家を起用できないものか?

 対して、今夜もキリル・ペトレンコの指揮の素晴しさは、特筆に価する。
 第1幕の静かな序奏の個所からして、瑞々しい表情と緊迫感があふれていた。この個所の音楽が、これだけ明確な主張を感じさせて響いた例は、私の体験では、決して多くはない。
 ワーグナーのオーケストレーションが成熟の度を加えて行った第2幕中盤以降では、バイロイト祝祭管がますます美しく響く。第2幕の幕切れの個所も、第3幕冒頭のヴォータンとエルダの場も、オーケストラは実に雄弁に、しかも決して野放図な咆哮にならず、引き締まって均衡豊かに轟々と流れて行く。「ブリュンヒルデの目覚めの場」は、いかにもペトレンコらしく、ある程度抑制された響きに留まっていたが、それでもオーケストラの量感は見事だった。
 それゆえ、第3幕の大詰もきっと素晴しかったはずなのだが、――例の「ワニ騒動」で、ついにこちらも音楽から気を逸らされてしまったのが残念である。

 ただ、今日のオケ、唯一いけなかったのが、聞かせどころたる角笛のホルン。これほど超不調だったのも珍しい。水溜りの水をピチャピチャ跳ねかすという演技に合わせてわざとコケたわけでもあるまいが、ちょっと気の毒であった。

 歌手陣。ブルクハルト・ウルリヒ(ミーメ)、ヴォルフガング・コッホ(さすらい人ヴォータン)、マルティン・ヴィンクラー(アルベリヒ)、ゾリン・コリバン(ファフナー)、ナディーネ・ヴァイスマン(エルダ)、キャスリーン・フォスター(ブリュンヒルデ)ら、前2作の中で登場した歌手たちは、いずれも手堅く安定した歌唱。
 この作品から登場したランス・ライアン(ジークフリート)も、少しやくざっぽい演技と強靭な歌唱とで存在感充分だし、ミレッラ・ハーゲン(森の小鳥)はちょっと力不足かな、と思われたものの、まずまずの出来だった。
 したがって、音楽面ではとりわけ不満を感じさせない水準の演奏だった。ただ、ライアンに対しては、しつこいブーイングを飛ばすヤツがいた。何か含むところがあったのか? 

 なお、例の黙役の助演者――今回は第1幕でクマ(ただし人間の姿)の役で出ずっぱり、本を片付けたり、ジークフリートの鍛冶に合わせて首を振ったり、また第3幕ではウェイターの役でのべつワインなどを給仕したり、その存在は実にうるさく目障りだったが、しかし実に巧く見事な、細かい演技を披露して映えていたのは事実だ。
 この人、今日になって判ったのだが、パトリック・ザイベルトというウィーンの演出助手だった。もちろん俳優だろう。敢闘賞ものである。

 21時55分終演。あちこちで「こんな酷いの、初めて」という声が渦巻いていた。もちろん、「面白い」という人も、ブラヴォーを叫んでいた女性(1人)もいたから、世の中さまざまだが、私などは、もうこれでバイロイトに来るのは最後にしようか、と本気で思い始めたくらいである。

「ジークフリート」第1幕
   「ジークフリート」第1幕

8・15(木)バイロイト音楽祭(2)「ヴァルキューレ」

   バイロイト祝祭劇場  4時

 フランク・カストルフ演出は、この「ヴァルキューレ」では、舞台をアゼルバイジャンのバクー油田に移す、という触れ込みである。
 第1幕のフンディングの家は石油発掘の小屋と農家とを併せたような構造で、結局第3幕までこの建物を回転舞台で回し、いろいろな場面をつくる、という設定だ。

 第1幕、ジークムント(ヨハン・ボータ)が逃げ込んで来て、ジークリンデ(アニア・カンペ)と出会い、そこへ彼女の夫のフンディング(フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ)が帰宅して来るあたりまでは、例の「映像」が使われていない。
 ありがたや、カストルフも同一の手法を繰り返すの愚を避けたか、と安堵していたら、間もなくまた白布が下りて来て、スクリーン映写が始まった――。

 しかも今度は、ジークムントが舞台上で「父は俺に一振りの剣を約束した」と歌う個所では、寝室に退いたフンディングとジークリンデの行動が延々と写される。
 またジークリンデが「一族の男たちが」を歌い、ジークムントが「冬の嵐は過ぎ去りて」と歌うくだりなどでは、寝苦しさにのたうつフンディングの顔が、アップで慌しく写し続けられる。
 見まいと思っても、視覚に入って来る。
 舞台上の演技と、煩雑な映像とが同時に視覚に入って来るから、気を散らされること夥しい。

 そして、愛の二重唱が高まって行く第1幕のクライマックスでは、ついに「石油」関係の「映画」が、目まぐるしく映写されはじめたのだった。

 ――鳴呼、ワーグナーの作品の中でも最も美しい音楽が演奏されているこれらの個所で、何を好んで観客の感覚をわざわざ音楽から逸らすか? 
 この演出家は、おそらく「歌だけ聞かせてるんじゃつまらないから、もっといろんなことをやって面白さを狙ってみよう」と考えているのであり、音楽への敬意などまるで持ち合わせていない人なのだろう。

 第2幕では、ヴォータン(ヴォルフガング・コッホ)の長いモノローグの間では意外にも映像はほとんど現われない。その間だけは、私はヴォータンの苦悩と音楽とに集中することが出来る。
 だがラストシーンでの、登場人物が入り乱れて戦い、ジークムントらが斃れる模様はすべて建物の内側で演技され、それが慌しく変化するアップの映像でスクリーン上に投影される。一部は効果的なところもあるが、ナマの演技で観ても同じようなものであり、このあたりは単なる趣向程度に留まるだろう。
 第3幕でも相変わらず舞台上の演技と並行させての映像が多く出て来るが、このあたりになると、石油発掘や、バクー油田の悲惨な労働者の映像やらがますます多くなって来て、煩わしさはいよいよ増して来る。

 そもそもこの石油(OIL)問題は、今回の「指環」のテーマらしいが、そのアイディアはいいとしても、それをこの音楽に結びつけるには、手法があまりに皮相的すぎはしないか? 
 ヴォータンが長いモノローグを歌っているさなか、ブリュンヒルデ(キャスリーン・フォスター)がろくろくそれを聴きもせず、ニトログリセリン(それにしては手荒な方法だったから、違う薬品か?)を瓶詰めしていたり、そのニトログリセリンを使って油田坑を爆破するシーンが――但し音楽と全く関係のない個所で――映画で投影されたり、といった場面はあるものの、だから何だというのか? 

 ニトログリセリンよりも扱いの容易いダイナマイトを発明したノーベルの一族が、一方でバクー油田の利権をロスチャイルドと競争しつつ利用し、巨大な富を築いていたことや、それが若き革命家スターリンの扇動する闘争を誘発させ、やがてソ連共産主義の、あるいはアメリカ資本主義の繁栄のもととなって行った――とかいう歴史的事実を、今回の「指環」の背景としていること自体は、たいへん結構なアイディアだとは思う。
 だが、それならそれで、もっと緻密で巧みな関連性を持たせた演出が工夫されるべきではなかったか。要するに準備不足、煮詰め不足の舞台なのだ。

 この雑然たる舞台を救ったのが、昨夜同様、キリル・ペトレンコ指揮のバイロイト祝祭管弦楽団であったことは言うまでもない。
 第1幕冒頭の嵐の音楽の個所では、響きは非常に乾いたものだったが、幕が開いた後からは、弦のしっとりした音色とともに、ワーグナーの叙情的な音楽があふれ出た。「ワルキューレの騎行」などの部分を含め、金管楽器群はおとなしすぎるほど控えめに鳴っているが、弦の美しさは最高である。それは少しも感傷的にも情緒的でもなく、引き締まって無駄のない壮大さを持った演奏であった。
 この演奏ゆえに、どれだけ「救済された」かは、筆舌に尽くしがたい。

 前記のほかにフリッカ(クラウディア・マーンケ)を含む主役歌手陣も、悪くない。特にジークリンデのアニア・カンペは出色の出来であった。ヴァルキューレたちも――ヘルムヴィーゲ役の歌手だけが冒頭非常に苦しいものがあったが――概して手堅い歌唱だった。

 舞台前方にある大きな石油貯蔵缶(だったか何だったか?)から炎々と燃え上がる火に目が眩み、スクリーンに映っているブリュンヒルデの顔もあまりよく見えぬままに幕が閉まって行き、かくて9時45分に終演となった。
 昨夜はブーイングが少しあったが、今夜は全くなく、歌手と指揮者に対しての熱烈な拍手とブラヴォーだけが続いた。演出家はどうせ出て来ないから、みんな割り切ったか、それとも疲れたか。

「 ワルキューレ」第1幕
   「ヴァルキューレ」第1幕

8・14(水)バイロイト音楽祭(1)「ラインの黄金」

   バイロイト祝祭劇場  6時

 大ワーグナー生誕200年記念の「ニーベルングの指環」の第2ツィクルスが幕を開けた。
 カタリーナ&エーファ・ワーグナーが総監督の時代だから、どうせ「とんでもない」プロダクションになるのだろうと覚悟はしていたが、予想通り今回のフランク・カストルフ演出、まさに騒々しい猥雑な舞台である。

 それも、これまで観たこともないような独創的な舞台、独創的な解釈――というのならともかく、どの部分もどこかの歌劇場で、だれかの演出で先取りされていたような手法ばかりだ。要するに「後追い」なのである。
 かつてはヴィーラント・ワーグナーが、あるいはパトリス・シェローが、前例のない個性的な解釈の手法による「指環」を制作、世界のオペラ演出に計り知れぬ影響を与えた「バイロイト祝祭」だったが、近年は他の歌劇場の物真似に堕する傾向を強めているのは周知の通りだ。このカストルフ演出の「指環」も、まさにそういった例の一つであろう。

 バイロイトに来て、これほど白けた気持で「指環」の舞台を観たのは、私は初めてである。こういうシロモノを正装して祝祭劇場で観る善男善女の姿が、むしろ滑稽にさえ感じられて来る。Tシャツとジーパン姿で眺める方が、よほどしっくり来るだろう。

 前奏曲が始まり、ホルンが入って来るあたりで幕が開くが、場面はもちろん(?)ラインの川底どころではなく、アメリカは「ルート66」沿いにある「ゴールデン・モーテル」なる場所だ。
 ラインの乙女ならぬ3人の娼婦(ミレッラ・ハーゲン他)が下着を干しながらけたたましく騒ぎ、泊り客の1人アルベリヒ(マルティン・ヴィンクラー)が、水泳パンツ1枚になって女たちを追い回し、プールの中にあったらしい「黄金」を奪って去る――というのが冒頭場面だから、あとは推して知るべし、である。

 同じ建物の一角にあるヴォータンたちの住居が、回転舞台により正面に現われると、ヴォータン(ヴォルフガング・コッホ)は、フリッカ(クラウディア・マーンケ)とフライア(エリザベト・ストリッド)を両側に寝かせ、妻妾同衾の真っ最中。

 そういう細かな描写は、テレビカメラで捉えられ、舞台上方にある巨大なスクリーンに逐一映し出されるのだが、これは人物の表情のアップだけでなく、ストーリーに直接関係しない別室での出来事など事細かに同時に映像中継されるので、目まぐるしく、煩わしいことこの上なしである。それに加え、カメラを抱えて舞台上を動き回るテレビ・クルーたちの目障りなこと! 
 上演2時間半のうち、95%は常に映像が目まぐるしく動いているのだから、登場人物のナマの動きと映像とが、否応なしに同時に目に入って来るわけである。それゆえ観ている方も疲れるし、むしろ手法が単調に感じられてしまう。

 ただ、この映像使用には、便利なところもあり、――たとえばアルベリヒが大蛇(普通のニシキヘビだが)や蛙などに化ける場面では、すこぶる効果的なものになっているのは確かだ。またアルベリヒが指環に呪いをかける個所でも、ドラマの伏線を映像で語らせる方法が効果を上げていた。

 なお、建物の反対側にはバーのような店や、ガソリン・スタンドもある。このバーの「店長」は黙役だが、第1場を除きほとんど出ずっぱりで、もちろん映像にも頻繁に登場し、暴力的なファーフナー(ゾリン・コリバン)やファゾルト(ギュンター・グロイスベック)らにはのべつ殴られたり水をぶっ掛けられたり、ヴォータンにも小突かれたり、ふくれ面をしながら店やモーテルの掃除を続けたり、ラストシーンでは店の客と一緒に「神々のヴァルハル入城」の音楽に合わせて踊ったりと、ご苦労な役回りで、見事な名演技の助演ぶりであった。
 その彼と、ピーター・ユスティノフばりの風貌をしたローゲ(ノルベルト・エルンスト)と、井上道義ばりの愛嬌ある渋面が魅力を発揮するアルベリヒの3人が、今夜の舞台では一番映えたと言えようか。

 なおその他の配役は、西部のガンマンの扮装で見得を切る神ドンナーをオレクサンドル・プシュニアク、頼りない神フローをローター・オディニウス、既にヴォータンの情婦らしき水商売風の女といった「智の女神」エルダをナディーネ・ヴァイスマン、巨人たちより大きな体格の小人ミーメをブルクハルト・ウルリヒ。
 みんな、ト書きでは出番のない場面でも、カメラにより逐一写されていることがあるから、全くご苦労様である。――まあ、概してあまり有名どころではないけれども手堅い布陣で、演技も歌唱も達者であった。

 ちなみに、今回の「指環」では「石油の発掘権」がテーマとなっているという触れ込みだが、少なくともこの「ラインの黄金」においては、それが具体的に提示されるところまでは行っていなかった。

 いずれにせよ、こういう騒々しい舞台だから、観客が音楽から注意を逸らされてしまうことは必定であろう。私も必死に音楽に集中するよう努力していた。
 そんな努力をしなければならないこと自体、非常に疲れる。ワーグナーの音楽が好きでたまらぬ人間が、高いカネを使って「ワーグナーの聖地」まで行って、猥雑な視覚効果の間を縫って必死に音楽を聴こうと努力するとは、何たる皮肉なお笑い種だろう?

 しかし、それでも、耳に入って来たオーケストラの演奏は、実に素晴しかった。精鋭指揮者キリル・ペトレンコ、見事なバイロイト・デビューである! ここのオーケストラがこれほど均斉を保って鳴り響いた例は、決して多くはないだろう。ティーレマンのような豊麗な音づくりではなく、むしろ音量を抑制した、凝縮した響きを求めた指揮だが、緊迫感と美しさは充分だ。
 その一方、「ニーベルハイムへの下降」の個所とか、大詰近くの「ノートゥングの動機」を支える弦のトレモロの個所などでの地を揺るがせるような最強奏の轟音も、バイロイト祝祭管の底力を遺憾なく発揮した物凄いものであった。「ヴァルハル入城」での豪壮雄大さも、舞台上の安っぽい動きを補って余りあるものがあった。
 このペトレンコの指揮が、今回の「指環」における唯一の「救済の動機」であると言えようか。

 8時半終演。

「ラインの黄金」第2場
   「ラインの黄金」(右上部が問題のスクリーン映像)

8・8(木)フェスタサマーミューザKAWASAKI
ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団 

   ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 今年の「フェスタサマーミューザKAWASAKI」は7月28日~8月11日というスケジュール。以前のようにミューザ川崎シンフォニーホールで、在京各オーケストラや川崎市の音大オーケストラの演奏会、オルガンやジャズのコンサートなどが開催されている。

 今夜の日本フィル演奏会は、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番」(ソリストは原田英代)、ベルリオーズの「幻想交響曲」――と、このフェスタの演奏会としては、比較的「重め」のプログラムが組まれていた。客席は、1~3階はほぼ満席だ。

 「マイスタージンガー」が始まった時に真っ先に感じたのは、なるほど日頃このホールをフランチャイズとしている東京交響楽団は、やっぱりこのホールを巧く鳴らす術を心得ているんだな――ということだった。
 つまり日常、このホールをほとんど使用したことのない日本フィルとの違いがそこに出る、ということだろう。もちろん、大した問題ではないし、だから日本フィルの演奏がどうのこうの、ということではない。

 しかしともかく、これまでサントリーホールで聴いた時にはたいてい「引き締まった」イメージの音になるインキネン指揮の日本フィルが、今日はむしろ「硬質な」音のオケというイメージで聞こえたのは事実だった(聴いた席は3階席1列目下手側寄り)。その代り、低音部など内声部の動きが手に取るように判るくらい、明晰な音になっていた。

 もっとも、日本フィルも、定期での力演とはだいぶ違い、今日は少々ガサツな演奏になっていたのもたしかなのである。こういう演奏だけ聴いたとしたら、とてもいつものように「完全復調、絶好調、演奏水準急上昇」などと、手放しで絶賛するわけにはまいりますまい。
 人間の集団だから、日によって出来不出来があるのはやむを得ないが、本当にいいオーケストラは、たとえガサツな演奏をした時でも、ある種の「味」を出すものである・・・・。
 

8・6(火)下野竜也指揮キリシマ祝祭管弦楽団 東京公演

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 霧島音楽祭(第34回、現音楽監督・堤剛)が東京公演を開催するのは、14年ぶりのことだそうだ。
 プログラムは8月1日(別項)と同じベートーヴェンの「交響曲第1番」及びワーグナーの「ヴァルキューレ」第1幕。演奏者も同じ。ただ、オーケストラのメンバーの一部に若干の変更があったかどうかまでは、定かでない。

 ともあれ、国内各オケの首席クラスの精鋭を主力とし、海外の名手たちも何人か加わった腕利きの祝祭管弦楽団のことだから、本気になれば凄い馬力を出すのは当然。今日のオーケストラは、1日の鹿児島公演の時よりも、いっそうリキが入っていた。交響曲はもちろんのこと、「ヴァルキューレ」第1幕も序奏からして重厚かつ剛直な力感にあふれ、ただならぬ意気込み、といったものが伝わって来る。
 後者の序奏の最初の部分でバレンボイムの提案により加えられたという第1ヴァイオリンのパート(1日の項参照)も、今日は一段と迫力ある効果を発揮していた。

 ジークムントを歌ったアレクセイ・ステブリアンコは、出だしは鹿児島公演とは別人のように「逞しい英雄ぶり」で、これなら大丈夫かと思わせた(あの時はよほど体調が悪かったのだろう)が、次第にまた、元の木阿弥になって行ってしまったのには落胆。基本的にドイツ語の発音が明確でないためにリズム感が全く無くなってしまうのと、声質が昔より太く重くなり、ジークムント役としては鈍重さ(失礼)を感じさせてしまうことなどが問題であろう。
 それでも「ヴェルゼ!」は鹿児島公演の時よりはそこそこ延ばしていたし、ペットボトルの水を飲みながらも最後まで頑張って一所懸命歌っていたから、善しとしようか。

 ジークリンデのエカテリーナ・シマノヴィチは鹿児島と同様に大熱演で、「帽子を目深にかぶった不思議な老人」の物語のくだりも今回は無事に進んだ。ただ、演奏会なのだから、あそこまで大きな声を出さなくてもいいだろうにとは思う。
 フンディングのパーヴェル・シムレーヴィチは、今回も鋭い存在感。

 下野竜也は、今夜は快調な指揮だったが、やはり器楽曲としての几帳面な表現に留まったか? 
 オペラの指揮はいい加減でいい、という意味ではない。そうではなく、同じライト・モティーフでも、登場人物の心理が刻々と変わって行くのにしたがい、それを反映して、たとえスコアには指定されていなくても、さまざまなニュアンスの変化を施して指揮してもらえれば、ということ。
 「フンディングの動機」にしても、登場して来る場面と、ジークムントに引導を渡すくだりとでは、さらに表情の違いがあってもいいだろう、とは一つの例である。
    モーストリークラシック11月号 公演Reviews

8・3(土)音楽監督クリスティアン・アルミンク、新日本フィル最後の定期

    すみだトリフォニーホール  2時

 【マーラーの「3番」。アクセントの鋭い、すこぶる明晰な、勢いのいい演奏だった。3階バルコン席で聴いたのだが、オーケストラは鳴りに鳴った。このくらいのエネルギーを引き出した方が、このオケにはいいだろう。これからも注目して行きたいと思わせるようなアルミンクの成功。】

 ――これは2003年の9月26日、アルミンクが新日本フィルの音楽監督に就任した記念演奏会の日の日記。
 演奏の核心には何も触れていない文章だが、しかし当時、音楽監督不在の時代が長く続いていたため不調に喘ぎ、演奏にも元気が全く欠けていた新日本フィルに一陣の旋風をもたらした若い指揮者の登場を慶ぶ気持は、ここにも出ていたと思う。

 それから10年、このオーケストラに活力を与え、演奏水準を高め、レパートリーにポリシーを持たせて拡大し、客演指揮者陣を多彩にし、定期公演の会員を増やすなど、多くの面でアルミンクが果たした実績には、非常に大きいものがあった。
 新日本フィル結成以来ほぼ40年にわたる歴史の中で、第3代音楽監督アルミンクに率いられたこの10年間こそ、新日本フィルが飛躍的にその演奏水準を高めた時代であることは、あらゆる面から見て間違いないのである。

 その彼が、音楽監督として指揮する最後の定期公演のプログラムには、同じマーラーの「第3交響曲」が選ばれた。協演は藤村実穂子(アルト)と、栗友会合唱団女声合唱および東京少年少女合唱隊。

 有終の美を飾るにふさわしく、入魂の演奏だったと思う。
 知人の楽員の一人が、「昨日(初日)は緊張が激しくて、演奏がちょっと硬かったけど、今日は比較的リラックスしてました。でも、もう少し引き締めるべきだったかも」と語っていたが、たしかに今日の演奏には「恐ろしいほどの緊迫感」というほどのものは感じられなかっただろう。
 とはいえ、第1楽章の後半あたりから物凄く大きく聳え立って来た音楽などは立派に思えたし、また10年前の気負った、ギスギスした鋭さや清澄さの代わりに、気心知れた関係にある指揮者とオケとの一種の余裕のようなもの――が生まれているような気がしたのだった。そういう時代の変遷を感じながら、私もそれなりに楽しませてもらったのである。

 そして第6楽章の後半、主題がゆっくりと盛り上がって頂点に達する個所で、「思わず涙を催させる」といったタイプの官能を刺激する音楽にはならず、ある意味で軽やかな透明な音楽のままで結ばれたあたりも、やはりいつものアルミンクらしいなと思った。
 もっとも、昨日の演奏会では――多分女性楽員だろうが――「ハンカチが何枚か動いた」(事務局の話)とのことだったから、今日の2日目が「リラックスしていた」というのも本当だったのかもしれない。
 藤村実穂子の風格と壮大さにあふれた歌唱も、出番は少ないが美しく歌ってくれた合唱も、素晴らしい出来だった。

 満席の聴衆は、大部分が最後まで残ってカーテンコールを続けた。客席の全員が立ち上がったままの幕切れでは、コンマスの崔文洙がアルミンクの手を引っ張って舞台袖から出て来て、指揮台のところで互いに手を握り合い、抱擁し――細かい話は省略するが、これで大団円というわけだろう――アルミンクは最後までにこやかな明るい表情で、客席に手を振って去って行った。そのあとは、長蛇の列のサイン会、打ち上げパーティ・・・・と続く。
   音楽の友10月号 演奏会評

8・1(木)下野竜也指揮キリシマ祝祭管弦楽団 「ヴァルキューレ」第1幕

    宝山ホール(鹿児島)  7時

 鹿児島の「霧島国際音楽祭」(音楽監督・堤剛)を訪問するのは、これが2回目。

 今年(第34回)は、7月17日から8月4日まで開催。東京他から参画した一流演奏家を講師陣とするアカデミーは高原の「みやまコンセール(霧島国際音楽ホール)」で、また一般聴衆向けのコンサートは同会場の他、鹿児島市内の宝山ホールや鹿児島市民文化ホール、霧島市民会館、霧島神宮などで行われている。

 詳細は、前回訪問の記を――左側にある「2010年7月」の「29日」の項を参照されたく。これは国内のアカデミー音楽祭の中でも、極めて大規模なものの一つである。高関健と下野竜也を講師陣とする指揮コースがあるのも珍しく、豪華なアカデミーと言えよう。

 今回聴いたのは、今年の音楽祭の公演のハイライトともいうべき、ワーグナーの「ヴァルキューレ」第1幕の演奏会形式上演だ。
 今年は夏から秋にかけ、東京と九州で「ヴァルキューレ」第1幕の演奏会形式上演が何と5種・計8回もあり(全曲上演も横浜とびわ湖で計4回ある)、ちょっとした「ヴァルキューレ大戦争」の趣きだが、今回の下野=霧島のそれは、6月27日の大野=九響に続く第2弾にあたる。

 この「ヴァルキューレ」第1幕の演奏のためにステージに並んだ「キリシマ祝祭管弦楽団」のメンバーたるや、すこぶる壮観である。
 第1ヴァイオリンには、コンサートマスターにローター・シュトラウス(シュターツカペレ・ベルリンのコンマス)を迎え、トップサイドに藤原浜雄、2プルトに松原勝也と長原幸太、3プルトに小森谷巧、4プルトに川久保賜紀といった贅沢な顔ぶれがアカデミー生たちを従えて並ぶわけだから、他のパートも推して知るべし。日本各地のオケの首席クラスがずらりと「前の方」に並んでいるだけでなく、フェデリコ・アゴスティーニ(第2ヴァイオリン)、エミリー・バイノン(フルート)、安楽真理子(ハープ)といった名手たちも加わっている。

 声楽ソリストは、ゲルギエフからの推薦によるというマリインスキー・オペラからの歌手で構成され、ジークムントをアレクセイ・ステブリアンコ、ジークリンデをエカテリーナ・シマノヴィチ、フンディングをパーヴェル・シムレーヴィチという陣容。

 なお、プログラムの第1部では、ベートーヴェンの「交響曲第1番」が演奏されたが、こちらの方はコンマスを藤原浜雄が務め、その他のパートにも若干の奏者の異動がある。

 祝祭管弦楽団の演奏は、まことに強靭だった。いろいろなオーケストラの奏者が主力となっているから、オレがオレがという演奏にはならず、アンサンブルも見事にまとまる。しかも、下野竜也の巧みな音楽づくりのためもあって、それが決して予定調和的な、なだらかで平板なものになることがない。音のメリハリは強く、演奏は最良の意味でギザギザとケバ立ち、強い個性を押し出すものとなっていたのがいい。
 特に第1部の「第1交響曲」は、成功していた。ベートーヴェンがスコアに綿密に書き込んだsfや、アクセントとしてのfやffなどが明確に、たたきつけられるように強調され、ベートーヴェンらしい気魄の音楽が、見事に再現されていたのである。

 この勢いでワーグナーも・・・・と「ヴァルキューレ」第1幕に満腔の期待をかけてこちらも臨んだのだが、――やや期待を大きく持ちすぎたか。オーケストラには確かに威力はあったが、それが登場人物の心理を微細に反映したり、壮大な陶酔感、劇的な昂揚感を打ち出したり、という点までは、残念ながらかなりの距離を感じさせた。率直に言えば、オペラの指揮にはまだ経験の浅い下野にとっての、それが一種の壁のようなものだったということになるかもしれない。

 だが、すべてを彼のせいにしては酷であろう。
 大きな問題は、ジークムントを歌ったステブリアンコにあったのではないか。水を頻繁に飲んだり何度も咳をしたりと、明らかに体調不良だったことには同情の余地はあるが、呆れるほどリズム感の曖昧な、しかも旋律も定かでないほど音程の不安定な歌唱は、オーケストラを含む演奏全体を、何とも締まりのないものにしてしまったのである。

 これに対し、ジークリンデ役のシマノヴィチは、明快で情熱的な歌唱を披露した。ただ一つ、ヴォータンが剣をトネリコに突き刺して行ったエピソードを歌う個所で、完全にオケとずれてガタガタになってしまったのにはハラハラさせられたが、これは指揮者との呼吸の問題もあるだろう(オペラに熟練の指揮者であれば、たちどころにまとめてしまう類の事故ではある)。それを除けば、彼女の声は素晴らしい。
 結局、出番は少ないが凄みを利かせたのは、やはりフンディングのシムレーヴィチであった。

 いずれにせよ、6日の東京公演(オペラシティ)では、このあたりの問題点はすべて解決されているであろう――そう願いたい。
 なお、序奏の嵐の音楽の個所で、スコアには無いはずの第1ヴァイオリンが冒頭から加わっていたが、これはバレンボイムのアイディアとのこと。今回はコンマスのシュトラウスの提案により演奏された由である。

 もう一つ、字幕についての拙見を。――ワーグナーの場合、オケが極めて雄弁な表現力を持つために、しばしば舞台上の光景をオケが独自に長々と物語る場面がある。この曲では、ジークリンデがジークムントに、トネリコの幹に刺さった宝剣ノートゥングを目で指し示して去って行くさまをオーケストラだけが描くくだりだ。ここは非常に重要な個所だが、初めて聴くお客さんには、音楽だけでは一体何が起こっているのだか、全く理解できないだろう。ト書きを字幕に出すのは非常に煩わしい印象を与えるので、私も原則的には賛成できないが、このような特別な個所では、やはり必要最小限、物語風にでもいいから、字幕で簡単に一言説明を加えてあげることも必要ではないかと思うのだが、・・・・如何なものだろうか?

 終演は9時。翌朝一番の便で帰京するため、夜遅く鹿児島空港ホテルに移動する。空港が目の前に見えてすこぶる便利なところだが、惜しむらくはこのホテル、浴室内が古びて暗いのが難点だ。

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