2017-05

7・31(水)東京二期会 オッフェンバック:「ホフマン物語」初日

   新国立劇場オペラパレス  6時30分

 何か観たような気のする舞台――と思ったら、これは2010年9月に「あいちトリエンナーレ」で制作・初演された、横田あつみの手になる舞台装置だった(→同年9月18日の項参照)。
 この装置は、あのあとスロヴェニア国立マリポール劇場での上演に使われ、今回が3度目のお務めになるという。回転舞台を駆使した、かなり大掛かりで華麗な舞台美術である(写真は©三枝近志氏。東京二期会提供)。

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第1幕 ホフマン(右)とオランピア

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第2幕 ニクラウス(右)とジュリエッタ(右から2人目)

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第3幕 ミラクル博士(左)とアントニア 

 演出は同じく粟國淳。
 ただし名古屋での上演の時には「シューダンス版を基本にした折衷版」が使用され、第1幕の「オランピア」は各版共通ながら、第2幕が「アントニア」、第3幕が「ジュリエッタ」(「ホフマンの舟唄」が出て来る幕)という順序だったが、今回は一応「シューダンス版」を基本とする形で、第2幕が「ジュリエッタ」、第3幕が「アントニア」として上演された。
 そういえば前回は、しかとは記憶していないのだが、フィナーレはもしかしたら、ホフマンが独り舞台に残るという、マイケル・ケイ校訂版だったか? 今回のシューダンス版は、最後は学生の歌で賑やかに終る。

 3年ぶりに舞台を見直してみて、ちょっと気になったのが、第1幕と第2幕は賑やかではあるものの、主人公がどこで何をやっているのか、その存在がやや曖昧になって、人物の相関関係も解りにくいところがあるんじゃないか、ということ。
 明解だったのは、登場人物が少ない第3幕「アントニア」の場面であろう。なおこの幕で、アントニアの死んだ母親の肖像画(何故か外人女性の顔だが・・・・仕方あるまい)が一瞬悪魔のような顔になるところは、前回は見逃したが、なかなか芸が細かい。

 演奏者は、今回は全面的に入れ替わった。
 指揮は、ミシェル・プラッソン。東京二期会のプロダクションには、2010年9月の「ファウストの劫罰」以来の登場である。
 全体に抑制した音楽づくりで、叙情的な要素を前面に出しているので、「ジュリエッタ」の場にしろ、「アントニア」の場にしろ、大詰へ向けぐいぐい押して行くといった劇的な盛り上がりはあまり感じられない。その点ではちょっと地味系の演奏であり、東京フィルの鳴りが例のごとく弱々しいので、とりわけ前半は手応えも薄かった。
 オーケストラがまとまって鳴り始めたのは、第3幕になってからではなかったろうか? そうなれば、プラッソンの叙情的な指揮も、生命を持って来る。

 ソリスト陣はダブルで、今日は初日ゆえAキャストだ。
 主人公の詩人ホフマンを福井敬が歌い、悪役のリンドルフ、コッペリウス、ダペルトゥットおよびミラクル博士の4役を小森輝彦が歌った。
 ホフマンの友人ニクラウスおよびミューズを加納悦子、機械仕掛けの娘オランピアを安井陽子、ヴェネツィアの娼婦ジュリエッタを佐々木典子、病の歌姫アントニアを木下美穂子。
 他に脇役の中では、吉田伸昭(スパランツァーニ)、斉木健司(クレスペル)、新海康仁(ナタナエル)、与田朝子(アントニアの母の声)らがそれぞれ気を吐いた。

 ただ、これは舞台装置の反響板の位置のせいか、こちらの聴く位置(1階後方)のせいか、特に第2幕までは歌手陣みんなの声が散り気味で、まっすぐ飛んで来ないように感じられ、それがオーケストラのおとなしさと相まって、ますます手応えの薄さを感じさせたというわけである。登場人物たちが前景に集まって位置する第3幕に至って漸くバランスが取れて来たところからすると、やはり舞台構造の影響だったのか? 

 鉄壁の力強さを持っていたあの福井の声が、後半やや疲れ気味に聞こえたのが気になる。小森は謎の医者ミラクル博士の役のところで凄みを発揮。安井は歌唱は見事だが、機械人形としてはどうも動きが柔らかすぎる。佐々木も歌唱は立派ながら、彼女の雰囲気はどうしても娼婦には見えまい(前回の中嶋彰子が妖艶過ぎた)。
 おそらくみんな、2回目(3日)にはもっと調子を出すのではないかと思う。

7・30(火)準・メルクル指揮PMFオーケストラ東京公演

   サントリーホール  7時
 
 今年の首席指揮は準・メルクル。
 彼が05年と08年にPMFで指揮した時には私も札幌で聴いたが、あの時はいずれも「客演指揮者」(当該年の各首席指揮者はネルロ・サンティまたはファビオ・ルイージ)だったから、首席として采配を振るったのは今年が初、ということになる。

 そのためもあってか、今回の彼の指揮は、実に綿密で、思い入れの強いものだった。音符の一つ一つにまで微細な表情を施し、作品に多彩な色合いを与えていただけでなく、オーケストラを自在に制御していた。
 ベルリオーズの「幻想交響曲」第1楽章(「夢と情熱」)の序奏部分などでは、作曲者がスコアに書き込んだ精緻なデュナーミクの変化の指示を完璧に生かし、テンポもそれに対応させて弾力的に動かして行くという、素晴らしく表情豊かな演奏をつくり出していた。
 これほどPMFのオケを丁寧に指揮し、しかも見事に制御した指揮者は、この十数年間に私が聴いた範囲では、もしかしたらあのチャイコフスキーの「第5交響曲」を指揮した時のゲルギエフに次ぐものではなかろうか? 

 第1楽章コーダの頂点へ持って行く呼吸の鮮やかさ、第4楽章(「断頭台への行進」)でのppとffとの対比の強烈さ(「私の得意技の一つは不意打ち」というベルリオーズの言葉が見事に反映されていた」、第5楽章(「魔女の祝日の夜の夢」)の最後の狂乱の場面でのテンポの熱狂的な加速など、音楽の設計もすこぶる巧い。柔軟な感性をもつ若いアカデミー生たちのオーケストラだから、メルクルも思い切り自分のやりたいことをぶつけることが出来たのだろう。
 本領を発揮出来た時のメルクルの音楽は、実に魅力的である。

 オーケストラも、今年は水準が高い。
 弦はブリリアントな音色を備えており、繊細な表情にも事欠かない――第1楽章最後の全音符の流れの中で、第1ヴァイオリンのC音の不揃いだけがちょっと気になったが。
 特筆すべきは木管群のアンサンブルの良さだ。弦のトゥッティの向こう側から響いて来る木管のざわめきの美しさは、プロのオーケストラからさえなかなか得難いものである。

 それに、とにかくみんな上手い。第5楽章でEs管クラリネットを吹いていた黒人奏者(シャキル・サウスウェル、ジュリアード音楽院生)のノリの素晴らしいこと! 全身を躍動させながら「グロテスクな姿と化した恋人の固定楽想」を吹きまくっていた様子は、まるでジャズ・ミュージシャンのそれのように、エキサイティングそのものだった。

 アンコールでは、ホルストの「惑星」からの「木星」が始まったが、見事な沸騰の演奏だと思っているうちに、途中から聞いたこともないようなヴァージョンになり、仰天。あとで聞くと、これは田中カレンが編曲した「PMF賛歌」ヴァージョンなのだそうな。最後はドラムの活躍で、賑やかに終結した。若々しくて好い。

 順序が逆になったが、プログラムの第1部はブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」で、ワディム・レーピンがソロを弾いた。
 周囲を圧して威風堂々、貫録充分の風格(メタボという意味ではない)で立つレーピン、音符の一つ一つを慈しむように、遅めのテンポで、沈潜した叙情の音楽をつくるのは、近年成長した彼の姿だ。それはメルクルの微細な指揮とピタリと合う。ソリスト・指揮者ともに、やや物々しい、凝り過ぎの演奏という感もなくはないが、ブルッフのこの協奏曲におけるリリシズムを浮き彫りにした演奏という意味で説得性はある。
 レーピンのソロ・アンコール曲は、オーケストラの弦楽セクション(指揮者なし)のピチカートをバックにした、パガニーニ編曲によるジュナンの「ヴェニスの謝肉祭」。シャレのめしたエンディングで、聴衆の笑いと拍手を誘った。

7・29(月)チョン・ミョンフン指揮アジア・フィルハーモニー管弦楽団

   サントリーホール  7時

 チョン・ミョンフンが芸術監督を務める恒例のアジア・フィル公演。1997年以来今年で12回目、06年以降は連続しての公演である。

 「毎年、夏の1週間ほどの短い期間に3~4公演しか行われないにもかかわらず・・・・着実にその意義が認められ・・・・」とプログラムには書かれているが、たしかにその評価は高い。
 アジア諸国の奏者を集めて編成されたオーケストラ――といちおう謳っているものの、一昨年8月の東京公演ではチョン・ミョンフンが「日本、韓国、中国、みんながここに一緒にいます」(大拍手)と挨拶していたことからみれば、やはりその3つの国の奏者が中心なのだろう。
 ただ、今年の公演は日本2回、韓国1回とのことで、09年から行われていた中国公演は、昨年に続いて無いらしい。

 奏者たちの出身国がどうなっているのか、プログラムのメンバー表を見ただけではしかとは判らない。一見したところ、読響の奏者も日本フィルの奏者もいるし、何だか今年は日本人奏者がえらく多いな、という印象もなくはない。今年のコンサートマスターは樫本大進。トップサイドには有希・マヌエラ・ヤンケが座っていた。

 プログラムは、前半にワーグナーの「タンホイザー」序曲と、「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死。後半にブラームスの「第4交響曲」。アンコールはなし。
 チョン・ミョンフンの統率のもと、実に整然とよくまとまった、均整のとれた演奏だ。特に弦は綺麗な音色をしている。もっとも、いろいろな意味で、いかにも「アジアのオーケストラの音色」だなという感じだ。
 前半のワーグナー2曲は、いかにも端整なつくりと言うべく、バランスもまとまりもいいのだけれど、要するにそれだけの演奏で、余情も愛の不安感も、陶酔の感情も不足した無色の音楽に留まっていたのが残念である。

 ブラームスの「4番」も、やはり色合いの変化に乏しいきらいはあったが、しかしこちらの場合は、第1楽章冒頭の4分音符をちょっと延ばし気味に漸強で入って来たことにも象徴されるように、かなりたっぷりとした情感が込められた演奏ではあった。
 それが最も良い面で発揮されたのは、第2楽章であったろう。ここでの弦楽器のふくらみのある叙情感は、すこぶる見事だった。そして第3楽章は、チョンが以前も聴かせたような、それまで抑制していたエネルギーを猛烈な勢いで炸裂させる演奏。フィナーレは、後半に向けて見事な盛り上がりを示した。
 淡彩で、陰影の乏しいブラームスではあったが、その気魄と力感の演奏を善しとしよう。

7・27(土)パオロ・カリニャーニ指揮紀尾井シンフォニエッタ東京

    紀尾井ホール  2時

 実に1週間ぶりの演奏会。
 ケルビーニの「交響曲ニ長調」と、ロッシーニの「スターバト・マーテル」を組み合わせたプログラムが、たまらなく新鮮に感じられた。

 カリニャーニがこの紀尾井シンフォニエッタ東京の客演のため初来日したのは、もう8年前になるか。私もその時に初めて彼の指揮を聴いて、これは素晴らしくいい指揮者だ、と当日の日記に書き込んだ覚えがある。
 それからの彼の日本での活躍は周知のとおり。直近の来日での指揮は新国立劇場の「ナブッコ」(5月)だったが、オケをダイナミックに鳴らし、ヴェルディの音楽のエネルギーを余すところなく噴出させた指揮が良かった。

 今日も同様、あの中編成の紀尾井シンフォニエッタ東京を骨太にスケール大きく響かせて、見事に手応えのある演奏を聴かせてくれた。ケルビーニの交響曲など、このオーケストラがこんなにも豪快に、しかも引き締まって鳴り渡ることもあるのかと驚かされたほどだ。そして、こういう演奏で聴くと意外に面白い曲だなと再認識させられたのも確かである。

 「スターバト・マーテル」では、ラウラ・ジョルダーノ(ソプラノ)、エーレナ・ベルフィオーレ(メゾ・ソプラノ)、フィリッポ・アダミ(テノール)、ジョヴァンニ・フルラネット(バス)および新国立劇場合唱団が協演した。
 このソリスト陣は、テノール以外はなかなか良く、第8曲のソプラノ・ソロなど見事だったが、アンサンブルという点では少々荒削り。演奏全体に安定度を失わせていた理由は、そこにあったかもしれない。

 第4~5曲での、楽しげなほど自由に歌う「イタリアの」バスのソロと、あくまで規律正しく整然と歌う「日本の」新国立劇場合唱団との対照は、苦笑させられるくらい面白いものだったが、この落差もまた少々座りの悪い演奏という印象を生む所以だったかも。
 だが、この合唱団がオーケストラとともに築くフィナーレ(第10曲)は、カリニャーニの「持って行き方の巧みな」壮烈に盛り上げる指揮によって、息詰まる迫力をつくり出していたのである。
   モーストリークラシック10月号 公演Reviews

7・20(土)エクサン・プロヴァンス音楽祭(終)
モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」
マルク・ミンコフスキ指揮、ディミトリ・チェルニャコフ演出

   アルシュヴェーシェ劇場  9時30分

 これは2010年プレミエ・プロダクションの再演。
 その時の模様は同年7月7日に舞台写真入りで詳細に記録してありますので、左側の「2010年7月」の項目をクリックして御参照下さい。

 一部を繰り返しておくと、――演出は、この数年来意欲的な舞台を手がけているロシアの若手ディミトリ・チェルニャコフによるもので、舞台は一貫して騎士長邸の居間兼書斎で展開される。
 登場人物の相関関係は大幅に読み替えられ、騎士長はこの屋敷の主、ドンナ・アンナはその娘、ドン・オッターヴィオはその「新しい」婚約者――とまでは原作通りだが、ドン・ジョヴァンニの現在の妻ドンナ・エルヴィーラがアンナの従姉妹で、ツェルリーナがアンナの娘(父親は不明)・・・・という奇抜な設定になって来ると、それら人物間のドラマは結構面白いものになるだろう。

 騎士長はドン・ジョヴァンニと揉み合っているさなか、本箱に後頭部を打ちつけて急死する。ジョヴァンニはその罪の意識から躁鬱症になり、それ以降出現する騎士長の「亡霊」に怯えることになるが、実はその「亡霊」は、ドン・オッターヴィオが陰で仕組んでいる陰謀による騎士長に瓜二つの替え玉だった。
 ジョヴァンニは結局、廃人同様に陥ってしまい、新しくこの家の主にのし上がるのは、権謀術数に長けたオッターヴィオなのである(原作では優柔不断でどうしようもない、あのドン・オッターヴィオが、だ!)。

 こういうストーリーが、音楽と全く違和感なく、しかも辻褄の合った演技で展開されるというわけだ。小型ではあるものの、かなりよく纏まったプロダクションといえるだろう。
 ただし、今回は再演のせいか、そして歌手陣が一部交替しているせいか、プレミエで観た時の演技の統一感が少し薄らぎ、伏線が明快に描かれていない個所があって、多少納得できぬところも生じて来ていた。

 プレミエ時と同一の歌手は、騎士長役のアナートリイ・コチェルガと、レポレッロ役のカイル・ケテルセンの2人。前者は相変わらず貫禄充分の重厚な存在感だし、後者も軽快で達者な歌唱と演技だ。
 その他は新出演。決して悪人ではないドン・ジョヴァンニ役のロッド・ジルフリーは爽快な歌唱で、躁状態と欝状態の演じ分けもなかなか上手いが、主役然とした雰囲気を示していないのは、演出のしからしむるところであろう。この演出では、主役は彼ではなく、「騎士長一家」なのである。

 ドン・オッターヴィオのポール・グローヴスはいつもながらの手堅い安定した歌唱と演技で、一癖ありそうな顔の表情がいい。他にドンナ・アンナをマリア・ベングトッソン、ドンナ・エルヴィーラをアレックス・ペンダ、ツェルリーナをジョエル・ハーヴェイ、マゼットをコスタス・スモリジナス。歌唱も粒が揃っており、また程度の差こそあれ、芝居の上手いのには感心する。

 なお前回の項にも書いたことだが、この演出では各場面ごとに「その2日後」あるいは「その3週間後」など、日時が移動して行く指定が為されており、そのため女声歌手たちのファッションがいろいろ変わって行くという視覚的な面白さがある。ただしそのたびに幕をドカンと下ろしていると、だんだんくどい印象になって来る(しかも猛烈に埃っぽい)。

 指揮とオケは、前回と異なって、マルク・ミンコフスキがロンドン交響楽団を指揮しての登場だ。ノン・ヴィブラート奏法を徹底させ、重厚で骨太の、豪壮な演奏の「ドン・ジョヴァンニ」の音楽を創り出した。オケは少し荒っぽくなってはいたが、すこぶるドラマティックに仕上げられていた。とにかく、モーツァルトの音楽の素晴らしさは、なにものにも替え難い!

 と書いて来ると、いかにも最後まで観ていたようだが、実はこの劇場の椅子、バイロイト祝祭劇場のそれを凌ぐ無骨な木造りで、例の坐骨神経痛の後遺症が完全に抜けきれぬ身にとっては、些か堪えるものがある。演奏は素晴らしかったが、舞台は前回を上回る出来と言うほどでもなかったので、第1幕だけで失礼してしまった。終れば多分午前1時半だし、明朝は6時起きだし・・・・。
 日本ではもう総選挙の投票が始まった頃かな、と思いつつ劇場をあとにする。期日前投票はちゃんと済ませておいたし。

7・19(金)エクサン・プロヴァンス音楽祭(4)ヴェルディ:「リゴレット」
ジャナンドレア・ノセダ指揮、ロバート・カーセン演出

   アルシュヴェーシェ劇場  9時30分

 この旧い劇場には何度も足を運んでいるが、屋根なしの2階(バルコン)席に座ったのは今回が初。ここにいると、これがまさしく野外劇場であることが実感できる。
 雲ひとつない夜空を見上げながら音楽を聴くのもいいものだ。終演時刻近く、舞台上方の屋根の向こうから大きな月がゆっくりと顔を覗かせて来る光景も、なかなかオツなものである。
 ただ、この位置には歌手の声も、ピットのオーケストラの音も、あまりストレートに伝わって来ない、というのが意外だった。

 この「リゴレット」は、今年の新プロダクションで、ラン・オペラ、モネ劇場、ボリショイ劇場、ジュネーヴ大劇場との共同制作の由。
 ロバート・カーセンが演出を受け持っていることが、まず関心を呼ぶだろう。

●リゴレット:
 序奏のさなか、幕の間から道化師の姿をしたリゴレット(ゲオルグ・ガグニーゼ)が現われ、激しく慟哭。袋に入った死体らしきものを引き摺って来るところは、娘ジルダの死体とは知らずに袋を受け取るラストシーンの先取りだな、と思わせたが、序奏最後の最強音と共に彼がそこから引っ張り出したのは、何と女の人形。
 これで観客を笑わせ、次いで幕開きと共にこの人形を居並ぶ「廷臣たち」に見せて爆笑させるところから「道化師リゴレット」の仕事が始まる――という設定である。

 少しあとで、この同じ「袋入り人形=死体の象徴」を、呪いの言葉と共にモンテローネから見せられ、突然怯えはじめるリゴレットだが、これで彼のトラウマが観客にもいっそう強く印象づけられるというわけだ。
 ただし全曲最後の場面で、娘ジルダを掻き抱いて悲嘆に暮れる彼の横へ、その白い人形が荒々しく落ちて来るという設定は、辻褄合わせといえば言えるが、ちょっと手の内が見えすぎたという気もしないではない・・・。
 ゲオルグ・ガニガーゼ(グルジア出身だが、この表記で本当にいいのだろうか?)の歌唱と演技は、可もなく不可もなし、といったところ。

●マントヴァ公爵:
 もちろん現代風の放蕩青年ボスという設定だが、「女心の歌」を非常に苛々しつつ、怒っているように歌い演じるのは、彼が単なる放蕩男でなく、ドン・ファンと同じように、どんな女性にも満足できないタチか、あるいは過去に裏切られたかどうかして女性への不信感に陥っている男に描き出そうという狙いではなかろうか。とすればカーセンの演出、なかなか凝ったものと言えよう。
 それはいいのだが、演じているアルトゥーロ・チャコン=クルスが、何とも素人臭い歌いぶりなので、さっぱり魅力が感じられないのが惜しい。
 拉致されて来たジルダを手籠めにせんものと、彼がガウンを脱ぎ捨て、全裸になって舞台奥へ向かう個所では女性客から笑い声と大拍手が起こり――そういうものなんですかね、今は。

●ジルダ:
 イリーナ・ルングが、可憐に歌い演じた。世間知らずの夢見る少女として、まずはスタンダードな(?)表現だ。軽いが、歌唱も悪くない。
 ただし聴かせ所の「慕わしき御名」では、足先も固定されていない空中ブランコに乗せられたまま、舞台上方をあちこち揺れ動きながら歌わされるのだから、声に芯が感じられず、時に不安定な歌い方になってしまったのも無理はなかろう。気の毒だ。

●他に、殺し屋スパラフチレをガボール・ブレッツ、その妹マッダレーナをジョセ・マリア・ロ・モナコ。
 最近のマッダレーナ役は、皆ナイスバディの歌手が起用されるらしい。マントヴァ公を篭絡する役であるからには、そのくらいでないと。

●舞台:
 カーセン演出に基づいて作られた舞台美術は、ラドゥ・ボルゼスクによるもの。「マントヴァ公の宮廷」は、「王の桟敷」らしきものを備えたサーカス小屋か、ヨーロッパの古い芝居小屋(何かに似ているような気がするが、今は思い出せない)を模したもので、観覧席はわれわれ客席の方を向いて造られている。
 これは、「残酷な道化師を面白がるのは皆さんも同じじゃありませんか?」と観客に問いかけるかのようなイメージだ。リゴレットが「悪魔め、鬼め」のアリアで、「もう勘弁してくれ、俺のだいじな娘を返してくれ」と、観客席に向かって涙ながらに哀願するのは、そのイメージからしても辻褄が合っているだろう。
 なおリゴレット父娘の「町外れの家」は、古いキャンピング・カーのような、車輪付きの小屋だ。男たちはジルダを誘拐する際に、そのワゴンごと押して行ってしまう。「宮廷」までどうやって行くのかは知らない。

●指揮とオケ:
 ジャナンドレア・ノセダがロンドン交響楽団を指揮して、劇的に、巧く盛り上げた。ピットでは長い腕を上下左右に振り回して、相変わらず獅子奮迅の指揮ぶりだが、「持って行き方の巧さ」は以前より更に増したように感じられる。
 ただ、合唱(エストニア・フィルハーモニー室内合唱団)を含め、非イタリア系の多い歌手たちの統率には手こずったのか? アンサンブルはかなり粗かった。終幕のマントヴァ、マッダレーナ、リゴレット、ジルダの四重唱が全くバラバラに聞こえ、「重唱」になっていなかったのは、こちらの聴く位置の所為だけではなかっただろうと思う。

 休憩1回を入れ、演奏終了は午前0時15分になった。カーテンコールの途中まで拍手をして、失礼する。最後までいた日には、狭い出口に向かって悠然、泰然と歩くこちらの人たちの渦に巻き込まれ、出るのにそれこそ20分近くを要するだろう。
 劇場近くのレストランのテラスには、深夜でも客がひしめいて賑わっている。パトカーと、少なからぬ数の警官が警備している。

7・18(木)エクサン・プロヴァンス音楽祭(3)
エサ=ペッカ・サロネン指揮パリ管弦楽団のベートーヴェンとワーグナー

  プロヴァンス大劇場  8時

 夕方、珍しく大雷雨。雷鳴は何と4時間近くも轟き続けた。同じ雷様でも、西洋のそれはワーグナーばりに長く、しつこいとみえる。
 幸いに、大劇場に向かう頃には雨も上がっていた。

 第1部にベートーヴェンの「第7交響曲」があり、第2部にワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「トリスタンとイゾルデ」「ワルキューレ」からのそれぞれ2曲ずつがおかれる。ソリストはバスのルネ・パーペ。

 この豪華な組合せと顔合せには多大の期待をかけていたが、満足度は・・・・まあまあと言ったところか。
 もちろん、悪くはない。パリ管は上手いし、基本的には華麗な音色だし。それがサロネンの明晰清澄な指揮のもとで爽やかに鳴り響くとあれば、一種の快感をもたらしてくれる演奏ではある。もっと響きのいいホールで演奏されていたら、更にブリリアントに聞こえただろうが。

 「7番」は、速めのテンポでエネルギッシュに進められた。第1楽章提示部終りのゲネラル・パウゼと、第4楽章冒頭の一撃の後のそれを1小節多くしたりするあたり(よくあるテだが)、いじりすぎかなという印象も少々感じられたものの、第2楽章の一部で木管のパートを強く浮き出させたり、第3楽章でスケルツォ主題が復帰する直前の弦を神秘的な最弱音で演奏させたり、というような手法は、演奏に多彩な変化を与えるものとして好ましい印象を与えてくれる。
 第4楽章が終るやいなや拍手と歓声が爆発。とにかくこの曲は、聴き手を興奮、昂揚させる音楽である。

 後半のワーグナーでは、まず「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲が演奏される。立派な演奏ではあったが、どこか表面的な豪壮さに留まってはいなかったか? 「7番」であれほど沸いた聴衆からは、普通の拍手は贈られたが、ブラヴォーの声が一つも飛ばない。
 続いてパーペが登場し、第2幕からの「ザックスのモノローグ」を歌ったが、何故かこれも平均的な拍手のみ。

 しかしこのモノローグの終り近く、オーケストラが醸し出したピアニッシモの音色はハッとするほどの美しさで、これなら次の「トリスタンとイゾルデ」第1幕前奏曲は魅惑的なものになるだろうと予感させられたが、本当にその「前奏曲」は、素晴しい演奏になった。サロネンの指揮だから濃厚なものではないが、全オーケストラがうねり、高まって行く緊迫感たるや、実に見事なものだった。

 最弱音の低弦のピチカートのあと、サロネンは異様に長い間、指揮棒を動かさぬまま佇立していた。何人かの楽員がその緊張に耐えかねたか、先に身体を少し動かしてしまったが、それをきっかけに爆発した客席の拍手と歓声は「7番」を凌ぐものだった。
 そして、パーぺが再び登場して歌った「マルケ王の嘆き」も、彼の最良の歌唱表現が発揮されたと言っていい。オケの後奏のない唐突な終り方をしたにもかかわらず、客席も、いやオーケストラの楽員さえも、沸きに沸いたのだった。

 こうなればもう、そのあとの「ワルキューレ」からの「ワルキューレの騎行」と「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」は、「勝ったも同然」――。

 千両役者の風格をあふれさせるルネ・パーペ、軽快な身のこなしで茶目っ気も感じさせる表情のサロネン――いずれも熱狂的な手拍子とブラヴォーで讃えられていた。

 終演は10時半過ぎ。このくらいの終演時間なら、まだ早いので助かる。明日から観る2つのオペラは、午前0時、あるいは1時過ぎの終演になるから、時差ボケの抜けきらぬ遠来の客にとっては、何とも辛い・・・・。
 

7・17(水)エクサン・プロヴァンス音楽祭(2)
ジャナンドレア・ノセダ指揮ロンドン交響楽団のブリテン他

   プロヴァンス大劇場  8時

 第1部にブリテンの「ピーター・グライムズ」からの「4つの海の間奏曲」と、「セレナード 作品31」。第2部にブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」と、ショスタコーヴィチの「第6交響曲」、という、ちょっと面白いプログラム。

 ロンドン響(首席指揮者ゲルギエフ、首席客演指揮者ハーディングとティルソン・トーマス)は、2010年からこの音楽祭のレジデント・オーケストラの由。このコンサートの他、オペラでは「リゴレット」と「ドン・ジョヴァンニ」のピットに入り、その他ジュネスのオーケストラを対象としたアカデミーの仕事も引き受けているらしい。
 今夜の演奏会では、そのアカデミーの学生たち(20~30人)を1階席中央の「最高ランクの席」に招待してあったらしいが、その到着が遅れたため、開演も15分遅れた。ロンドン響のメンバーの「弟子」らしい若者たちは大いに盛り上がり、演奏が終るごとに熱烈な拍手と歓声・奇声を発して微笑ましかったけれども、口笛だけは騒々しくて不愉快だ。

 ジャナンドレア・ノセダは、もちろん客演である。
 オケの得意のレパートリーたるブリテンを、極めて慎重に丁寧に、かつ重々しく、がっちりした造型を保ちつつ指揮して行った。「ピーター・グライムズ」の音楽が、これほど物々しく悲劇的に聞こえたことはないほどである。
 ただ、音が鋭くなり、弾力性にも不足して、ゴツゴツした音楽に感じられたのは、イタリア人ノセダの指揮だっただけに意外でもあったが、彼には何か意図もあったのだろう。

 その代わり、「レクイエム」は剛直で、見事な緊迫感に富んだ演奏になり、今夜のブリテンの中ではこれが最も迫力を感じさせた。
 「セレナード」は、おなじみイアン・ボストリッジ(テノール)が、繊細な名調子を聴かせる。ただしこの曲では、ホルンのソロ(クリストファー・パークス、ロンドン響の首席)が上手く吹けば吹くほど、そちらの方に人気が集まってしまうのは避けられないようで・・・・。今夜も学生たちはボストリッジそっちのけで、パークスばかりに歓声と奇声と口笛を贈っていたが、これは少々「教育がよろしくない」。

 最後の、ショスタコーヴィチの「6番」も、重厚で造型的な、揺るぎのない正面切った演奏だ。マリインスキー劇場での活動も長かったノセダは、今はこういうアプローチでショスタコーヴィチを指揮するようになったのか。テンポは落ち着いているが情熱は豊かで、音のつくりも気持のいいほど均衡が取れて明晰、全曲最後の頂点でも全く音楽を崩すことなく、あくまで「整然とした熱狂」の裡に、豪快に締め括った。

 このホールはオーケストラ・コンサートの場合、客席後方(V列)で聴くと、音に妙な撥ね返りもあり、しかもえらくリアルで大きな硬い音に聞こえるという不思議な音響的特徴を示すのだが、ここに書いた今夜の演奏の印象は、あるいはそれに影響された部分があるかもしれない。――しかし、この第2部での2曲は、実に聴き応えがあった。

 終演は10時35分。夕方は珍しく空に黒雲渦巻き、雷鳴も轟いていたが、やはり雨は降らなかったらしい。気温は昼間の32℃からやや下がったようだが・・・・。

7・16(火)エクサン・プロヴァンス音楽祭(1)
R・シュトラウス「エレクトラ」 サロネン指揮、シェロー演出

    プロヴァンス大劇場  8時

 エクサン・プロヴァンスは3年ぶり5度目。相変わらず天気が良く、目も眩むような太陽が照りつける。街はモワッとした空気に包まれ、33℃の表示。深夜になっても暑い。そして物凄い雑踏だ。正直言ってあまり好みの街ではないが、音楽祭はなかなか良い。

 今夜は、今年の音楽祭の最大の呼び物の一つ、R・シュトラウスの「エレクトラ」。
 エサ=ペッカ・サロネンの指揮とパリ管弦楽団、パトリス・シェローの演出。主演はエヴェリン・ヘルリツィウス(エレクトラ)、アドリエンヌ・ピエチョンカ(妹クリソテミス)、ワルトラウト・マイヤー(母親クリテムネストラ)、ミハイル・ペトレンコ(弟オレスト)といった、文句のない顔ぶれだ。

 予想通り、サロネンとパリ管弦楽団が独自の個性を示して素晴しい。これほど明晰で清澄な音の「エレクトラ」は、聴いたことがない。内声部が透き通るように響いて美しく、全く違う作品のようにさえ聞こえて、実に新鮮だ。
 オーケストラも怪物的な咆哮にならず、むしろ叙情味の濃い演奏で、「ばらの騎士」などシュトラウス中期の作風を先取りした部分が浮き彫りにされる。それでいながら陰翳は豊かであり、たとえばオレストが登場しエレクトラに語りかける暗鬱な曲想の個所など実に不気味だし、クリテムネストラ登場のシーンのような、シュトラウス特有の執拗なたたみかけなどもよく再現されている。

 それはいいのだけれど。
 前半の演奏でかように狂暴性が抑制されていると、中盤でエレクトラが弟オレストに出会って、それまでの尖った気持が安らぎ、女としての優しさが突然蘇る場面――ここはまさに甘美なシュトラウス節が全開するところだが――での音楽の効果が薄められてしまうのではなかろうか。

 また、これは全般に言えることだが、この「エレクトラ」特有の、表現主義的なデュナーミクの激烈な対比が、弱められた傾向もある。
 たとえば、「エギスト王に知らせろ」と男が飛び出していったあとの弱音のリズムの上に突然ティンパニが最強音で爆発する瞬間、あるいはオレストの付け人が突如割って入るところ、あるいは全曲最後の断続する「アガメムノンの動機」の個所など、・・・・こういったところで最強音と弱音が不断に入れ替わる物凄さは、この曲の最大の特徴であるはずなのだが、それが少し、なだらかに構成されてしまったうらみがある。

 歌手陣では、題名役を歌い演じたヘルリツィウスが圧倒的に見事だ。
 彼女のエレクトラは、狂女でもなく猛女でもなく、あくまで王女としての気品に重点をおいて表現されている。冒頭のモノローグでの、惨殺された父王を嘆き悼む「アガメムノン!」という美しく透明な声の響きからして、聴き手を魅了してしまう。そこでは、サロネンの創り出す清澄なオーケストラとぴったり合った性格の快さも生まれるだろう。
 全曲1時間40分、ほとんど出ずっぱりで激しく歌い続け、狂気のように舞台を走り回り、時には忘我的な踊りも繰り広げるエネルギーも、まことにたいしたものである。

 次いで、母親クリテムネストラを歌い演じたワルトラウト・マイヤー。
 今回はかなり抑制された歌と演技で、所謂「狂気じみた母親」でなく、落ち着いた王妃というイメージを出していたが、これも彼女の言葉の背景に流れるオーケストラをあまり「頽廃的なもの」にしないサロネンの指揮と合致するだろう。今なお破綻のない声で役柄を巧みに表現しているのは、実に立派としかいいようがない。

 ピエチョンカが歌い演じたクリソテミスは、この演出ではさほど重要な個性が与えられていなかったようだが、歌唱の素晴しさには、文句のつけようがない。
 オレストを歌い演じたミハイル・ペトレンコも、この暗い役にはよく合う。ただこの人、常に立派に舞台をこなすのだが、妙にいつもブラヴォーの声が少ないのは気の毒だ。風貌が暗いわりに声に今一つ凄味が不足するせいだろうか?
 なお、オレストの付け人役に、フランツ・マズーラが出ていた。残念ながら、声はもうあまり無いような印象である・・・・。
 
 名手パトリス・シェローの演出には大いに期待したが、まあ、中庸を得たもの、という印象か。
 場面は灰色の建物の壁に囲まれた内庭で、これは以前観た彼の演出――アン・デア・ウィーンで観た「死の家から」や、スカラ座で観た「トリスタン」と似た景観だなと思ってプログラムを見たら、舞台装置はやはり同じリシャール・ペドゥッツィだった。
 また、主人公2人だけのはずの「秘密の場面」にも他に何人かの人物(黙役を含む)を登場させ、衆人環視の中でドラマが展開されるというのも「トリスタン」演出と同様だ。エレクトラやオレストに同情を寄せる王宮の使用人たちも現われる場面(ここは歌詞と一致している)や、エレクトラが斧を掘り出す模様などを舞台奥からじっと見守っていた謎の男2人が、実は変装したオレストと付け人だった・・・・などというアイディアは面白いだろう。

 もっとも、大詰近く、下女などがいる舞台上でオレストが母親を殺し、その死体の前で付け人(オレストでなく!)がエギスト王(トム・ランドル)を刺殺したりするあたりは、何となくゴチャゴチャした光景になって、悲劇の焦点がぼけた感も否めない。
 ラストシーンでは、エレクトラが下女たちの見守る前で恍惚の舞踊を繰り広げ、そのまま死なずに座り込んだ姿のまま、暗転して物語が終る。ドラマ前半の緊迫した雰囲気は、後半に入って若干散漫になったか・・・・というのが正直な印象であった。

 ちなみにこれは今年の新プロダクションで、スカラ座、MET、フィンランド国立歌劇場、ルセウ大劇場、ベルリン州立歌劇場との共同制作という。

 9時50分頃終演。観客は町の中心、大きな噴水のある広場ロトンドの方へ、大波のように引き返して行く。私はそれとは別の街路を通ってホテルへ向かう。今回のホテルはそのロトンドの近くなので、大劇場には通いやすい。

7・13(土)ヒュー・ウルフ指揮読売日本交響楽団のアメリカ作品集

    東京芸術劇場  2時

 バーンスタインの「キャンディード」序曲、アイヴズの「ニュー・イングランドの3つの場所」、ガーシュウィンの「パリのアメリカ人」、バーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」の「シンフォニック・ダンス」。

 パリ生まれとはいえ、アメリカ人指揮者のウルフが振るのだから、もっと跳ねてくれるかと思って聴きに行ったのだが、・・・・やはり彼は音楽的に几帳面かつクソ真面目な気質なのだろう。どれもこれも、イン・テンポできちんとしていて、ちっとも音楽がスウィングしないのである。
 したがって、サマになっていたのは、シリアスな曲想を持ったアイヴズだけだった。

 帰りがけにロビーで誰かが「やっぱり日本のオケはああいうジャズ的な要素のある曲には向かねえな」と言っているのを小耳に挟んだが、いや30年前ならいざ知らず、今は日本のオケだって、もっと跳ねまくってスウィングする演奏は出来ますよ。
 私がこれまで何度か聴いたウルフの指揮と音楽づくりを考えると、そしてまた、今日の彼の棒の振り方を見ると、これは明らかに読響の責任ではなく、ウルフの指揮のせいだと思える。

 それにしても「ウェストサイド」で読響が轟かせた大音響は「馬力の読響」の本領発揮であった。トランペットのシャウトも痛快だった。

7・12(金)飯守泰次郎指揮東京フィルハーモニー交響楽団のシベリウス

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 シベリウスの作品集。最初に「交響曲第2番」、休憩後に「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは堀米ゆず子)と「フィンランディア」を置くという、珍しい配列。

 飯守と東京フィル、荒っぽいが、燃える演奏だった。情熱と勢いで押し切った演奏と言うか。

 実は「第2交響曲」でのアンサンブルの粗さは相当なものだった。棒のせいか練習不足のせいかはともかく、一流オケともあろうものがこれじゃ困りますな、と思わされたところも随所にあったのである。にもかかわらず、その音楽には豊かな滋味が感じられたのだ。それが、マエストロ飯守の魅力というものであろう。

 東京フィルの方も次第に調子を上げて来て、第4楽章あたりではまさに情感たっぷり、あの壮大な幅広い第1主題では、これ以上ロマンティックな演奏はないと思えるほど朗々と歌い上げていた。忘我的な昂揚を重ねたわりには、最後の数小節は少しあっけない感もあったが、・・・・それでも全曲が結ばれた時には、これで今夜の演奏会はおしまい、という雰囲気の大拍手がホールにあふれたほどであった。

 第1部でこう盛り上がってしまうと、そのあとのプログラムは少し落ち着かない気分になるのが普通だが、幸いに今夜は違った。
 協奏曲での東京フィルはすこぶる重厚で陰影に富み、特に第2楽章以降では、煽る飯守の指揮に応えて、凄みのある演奏を聴かせて行った。堀米のソロがこれまた粘り気に富んだ濃厚な表情なので、ソロ・指揮・オケともに、最近流行りの機能型の演奏とは正反対の、「血の濃い」演奏が繰り広げられる。第1楽章など、私の好みから言えばもう少し清澄透明な音楽でありたいところだが、しかしこの堀米&飯守のスタイルも、説得力のある独自の芸風であることは疑いない。

 最後の「フィンランディア」の目玉は、「合唱入り」の演奏である。これあるがゆえに今回の曲目配列が考案されたのだろう。
 新国立劇場合唱団が、オルガン前の席に並ぶ。怒涛の音楽が潮の退くように静まったところで合唱が歌い出す「フィンランディア賛歌」は、なかなかに感動的だ。ここは作曲者による合唱版を移調してオケに合わせたという。

 全曲最後の頂点でも合唱が参加し、いっそうの輝かしさを添えたが、この部分は三澤洋史(新国立劇場合唱団指揮者)の編曲になる由。オーマンディ盤のマシューズ編曲ほどには派手ではないが、いい感じであった。
 アンコールでは、曲の後半の、この合唱の入る部分からあとがもう一度演奏されたが、この時は日本語で歌われていた・・・・それに気がついたのは演奏の途中でだった。

7・11(木)イリヤ・ラシュコフスキー・ピアノ・リサイタル

   浜離宮朝日ホール  7時

 昨年11月の浜松国際ピアノ・コンクールの優勝者。
 ――といっても、11年前にロン=ティボー国際コンクール入賞者として初来日して以来、何度か来日している青年(今年29歳)だから、ファンにも既におなじみなのだろう。お客さんは結構入っていた。

 プログラムは、前半にプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」からの小品集と「ソナタ第8番」、後半にショパンの「練習曲作品25」とストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」(3楽章)。

 ラシュコフスキーの演奏、今夜はプロコフィエフにしても何にしても、昨年のコンクールの3次予選や本選で聴いた演奏とは全くイメージが違う。やはりあの時は、コンクール用(?)のきちんとした演奏だったのか、と遅まきながら気がついた。

 今日のはもう、自在にして奔放、強靭にして激烈。
 先頃のチョ・ソンジンのように作品の容まで崩すとまでは行っていないものの、特にロシアの作品3曲では――これぞオレの国の作品、どうやったとて文句は言わせぬ、といった勢いで自信満々、野獣的なほどにピアノを咆哮させる。ブリリアントな音色で、よく言えば痛快無類。ダイナミックな曲想の作品ばかり集めているから、否が応でもそれが目立つことになる。

 しかし一方ショパンでは、たとえば冒頭の「エオリアン・ハープ」など、旋律部のみにルバートを利かせる例の手法が、どうも作為めいたものを感じさせてしまうのである――これは本来、ショパンが得意とした演奏スタイルだったはずなのだが・・・・。
 アンコールでは、チャイコフスキーの「10月」、スクリャービンの「練習曲作品8-12」、モンポウの「前奏曲ニ短調」が演奏されたが、この中ではスクリャービンが出色、圧倒的な出来だった。

 というわけでいろいろあったものの、やはりこれは面白いピアニストである。

7・6(土)ヒュー・ウルフ指揮読売日本交響楽団のベートーヴェン

   サントリーホール  7時

 若い若いと思っていたウルフなのに、もう60歳になる由。それにしては未だに若々しい身のこなしだ。
 読響に初めて客演したのは5年前、何かの理由で松葉杖をつきながら登場し、聴衆をざわめかせた記憶がある。あの頃は音楽が生真面目すぎてあまり面白いとは思わなかったが、今回はさすがに違ったようだ。曲は「コリオラン」序曲、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」、「田園交響曲」。

 「コリオラン」が始まった時、つい先日聴いたばかりのヘレヴェッヘ指揮のそれを思い出してしまった。あれは、随分しっとりと瑞々しい音色で、かつ、どっしりと重い演奏だった。それに比べると、ウルフ指揮のそれは、テンポ感や音色も含め、著しくドライで軽い。味気ないという訳ではないが、私の好みからすれば、これは何とも単調に感じられ、この調子で全部やられたらとても我慢できない、とまで思えたのである。

 ところが、「田園」になると、ウルフの指揮は、がぜん多彩になる。
 速めのテンポである点は同じだが、スコアには指定されてないデュナーミクの変化がフレーズごとに、あるいは音型ごとに施され、しかもそれが実に微細で精妙なので、音楽が凹凸に富むイメージになる。それがさほど作為的に感じられないのは、ウルフのセンスもさることながら、読響の演奏が――特に弦が極めて弾力的であるためだろう(コンサートマスターは小森谷巧)。

 第2楽章(小川のほとりの情景)では、他に例を見ないほど最弱音ばかりで構築されたが、これに対し第5楽章(嵐のあとの喜びと感謝)の最後の頂点では、第1ヴァイオリン群が、これまた例のないほどの最強奏で演奏を盛り上げた。このあたりは、ちょっと手の内が見えすぎた、という感がないでもなかったが、まあ面白いものではあったろう。
 第3楽章など、ウルフはおそろしく細かく振っているので、あれではかえってオケがやりにくいのではなかろうか、と余計な心配をしてしまったが・・・・。

 「皇帝」で協演したのは、スペインの若手ハヴィエル・ペリアネス。やや自由な感興も混じる演奏で、尖った表情がウルフの指揮とよく合う。
 そういえば5年前の客演の時にも、シーララというピアニストがバルトークのコンチェルトを実にさり気なく弾いてのけ、これがウルフの指揮と可笑しいくらいピタリと合っていたのを思い出したが・・・・。
 今はこういう軽いベートーヴェンも平気で(?)出て来る時代なんだな、それもよかろう――と思いながら聴いていた次第だ。そのペリアネスがソロのアンコールで弾いたファリャの「アンダルシアのセレナード」の方は、さすがに絶品であった。
     音楽の友9月号 演奏会評

7・5(金)大野和士指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

   すみだトリフォニーホール  7時15分

 今年に入り、国内のオーケストラでの指揮を増やしている大野和士が、今回は新日本フィル定期を振る。
 シャリーノ(1947~)の「夜の肖像」、ベルント・アロイス・ツィンマーマン(1918~70)の「ユビュ王の晩餐のための音楽」、そしてブルックナーの「第7交響曲」。
 いかにも大野らしいプログラムだが、こういう曲目の定期を2回公演で組む新日本フィルの意欲的な姿勢も見上げたもの。

 シャリーノの「夜の肖像」は、1982年に作曲された10分程度の小品。2管編成ながら、耳を欹てなければ聴き取れないような弱音の短い小さな音型が終始飛び交う。静寂の繊細な美しさだ。それが星空の下の「夜」にせよ、あるいは都会の灯の瞬く「夜」にせよ、今なお神秘的なものであり続ける「夜」への郷愁――かもしれない。

 続く「ユビュ王の晩餐のための音楽」は、1966年完成の、20分ほどの作品。
 アルフレッド・ジャリの不条理劇「ユビュ王」(1896年初演)に因むものだが、御乱行の王様ユビュのイメージにふさわしく、先人のいろいろな作品を引用してコラージュとし、当時の大御所的存在だった作曲家シュトックハウゼンを思い切り罵倒する趣旨も含むのだから、何ともアイロニーに満ちて面白い。
 有名なオペラ「兵士たち」を作曲して間もない時期なのに、いくらシュトックハウゼンの音楽観と作曲姿勢が気に入らなかったからと言って、ツィンマーマンはどうしてこんな曲を書いたのだろう? 彼がその数年後に謎のピストル自殺を遂げたことを思うと、面白い曲ではあるものの、ある種の不気味ささえ感じてしまう作品である。

 最終部分で、シュトックハウゼンの「ピアノ曲Ⅸ」(青澤隆明氏の解説による)とともにワーグナーの「ワルキューレの騎行」やベルリオーズの「断頭台への行進」が入り乱れ、ティンパニが野性的な合の手を入れるあたり(まるでワルキューレが南洋の密林で舞踏しているような?)、呆気にとられるほどのリズミカルな世界だ。同じ多様式主義作風にしても、あのシュニトケよりもずっと凶暴で激しいものがある。
 こうした現代作品2曲を再現する大野と新日本フィルの演奏の、さすがに鮮やかなこと。いずれも聴きものだった。

 プログラムの第2部は、ブルックナーの「交響曲第7番」。
 大野のブルックナーを聴くのは、もしかしたら今回が初めてかもしれない。テンポやデュナーミクの動きが比較的大きいので、ブルックナー特有の巨大な山脈といったイメージは薄れ、極めて人間的な息づきに満ちる音楽になる。
 第1楽章など、ノーヴァク版のテンポ指定よりも更に動きが大きく、昂揚と沈潜がいっそう強調される。だがそのテンポがどれほど動こうと、あの幅広い第1主題は、再現部でもコーダでも、必ず最初の提示部と同じテンポに戻る――という構築が施されているため、楽章の形式感は厳然と守られることになる。この辺が大野の巧みな音楽づくりと言えるだろう。

 第4楽章も、ノーヴァク版に基づいたテンポの変化の激しい演奏だ。全体に隈取が濃く、ギザギザしたリズム感が強調されている。コーダは、量感たっぷりの響きで結ばれた。崔文洙をコンサートマスターとする新日本フィルも、力感充分の快演だった。大野和士は、ここ新日本フィルへの客演指揮においても、鮮やかな刻印を残したのであった。
    音楽の友9月号 演奏会評

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