2017-10

6・30(日)ヤクブ・フルシャ指揮東京都交響楽団のドビュッシー作品集

   東京芸術劇場コンサートホール  2時

 「牧神の午後への前奏曲」に始まり、「管弦楽のための映像」に続き、休憩後は「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」が吉野直子(ハープ)をソリストに迎えて演奏され、最後は「海」で結ばれた。
 いいプログラムだ。マチネーとあって、客の入りもいい。

 フルシャには、R・シュトラウスのようなドイツ後期ロマン派ものよりは、フランスものの方が合うのかもしれない。彼のすっきりして明晰な音づくりが、そこでは生きる。

 ただ、今日の彼の指揮と都響の演奏を聴くと、「牧神」や「神聖な・・・・」のように叙情的で自由で慎み深い音楽では充分美しいのだが、「管弦楽のための映像」や「海」になると、割り切ったスポーティで勢いの良いダイナミズムが目立って、所謂フランスのしっとりした「香り」のようなものが著しく薄れる傾向を感じてしまう。
 それに、昨年あたりまでは驚異的に柔らかいふくらみに満ちていたあの都響の音が、特に弦の音色をはじめとして、このところ何となく荒っぽくなって来ているような気がするのだが・・・・?

6・29(土)新国立劇場 香月修:「夜叉ヶ池」

    新国立劇場中劇場  2時

 今年が生誕140年にあたるとあって、泉鏡花の作品を基にしたオペラの上演がこのところ流行る。

 今年2月には水野修孝作曲の名作「天守物語」(1979年舞台初演)の何度目かの上演が新国立劇場で行われたほか、昨年12月には池辺晉一郎が作曲した「高野聖」が初演され、今回はこの香月修作曲の「夜叉ヶ池」の初演となった。また、秋には千住明が新しく作曲する「瀧の白糸」(「義血侠血」に拠る)が中嶋彰子主演で初演されるとのことである。

 「夜叉ヶ池」は、新国立劇場の委嘱作で、尾高忠明芸術監督から「口ずさめるような親しみやすい歌のあるオペラを」との註文を受け、香月修(桐朋音大教授、日本作曲家協議会副会長他)が作曲したもの。

 親しみやすいかどうかはともかく、たしかに極めて耳あたりの良い、平明な音調で書かれていて、肩の凝らない怪談的民話オペラとしての性格が打ち出されている。現代音楽にうるさい学究的なお歴々からは怒りを買うタイプかもしれないが、こういうオペラがあって悪いということはあるまい。

 音楽の構成に「山場」や「追い込み」があまりなく、クライマックスの過程にも緊迫感が不足する、というのが(わが国の創作オペラの特徴として)相変わらず不満の残る点だが、今回は十束尚宏が東京フィルハーモニー交響楽団を指揮して、引き締まった演奏を聴かせてくれたので、かなり快く聴けたのは事実であった。
 彼の指揮が久しぶりに聴けたのもうれしい。

 歌手陣はダブルキャスト。今日の組では2人の女声主役が映え、腰越満美(白雪、夜叉ヶ池に住む妖怪)が貫録と重厚感で聴かせ、砂川涼子(百合、人間の女)が最後の怒りの自決の場で凛とした美しさを見せた。
 他に妖怪グループは、羽山晁生(鯉の妖怪)、大久保光哉(蟹の妖怪)、志村文彦(鯰の妖怪)、森山京子(万年姥)。人間グループは西村悟(晃)、宮本益光(学円)、妻屋秀和(鉱蔵)ほかの人々。新国立劇場合唱団と世田谷ジュニア合唱団が共演。

 台本は、作曲者と、今回演出を担当した岩田達宗とによるものだ。2幕計2時間弱という手頃な長さに巧くまとめてある。
 原作をかなり切り込んであり、その点では要を得たものと言えるが、半面、夜叉ヶ池の主たる妖怪・白雪の行動に少し曖昧で説明不足の点が生じるということも出て来た。一体、彼女の正体は何で、彼女の狙いは何だったのか? 
 白雪の演技はどちらかといえば静的なものだったので、さすがの腰越満美も、以前の富姫(天守物語)や西郷千恵子(白虎)で示したような鮮やかな性格描写を発揮する余地がなかったのだろう。

 岩田達宗の演出は、妖怪(自然)の天真爛漫さや純粋さと、村人(人間)たちの驕り昂りの悪を対比させ、信仰を忘れた人間どもが自滅して行くという、このドラマの本質を巧く描き出していた。
 ただ――いかに幻想的な妖怪オペラの場合ではあっても――もう少し理詰めの説明が欲しいところではある。でないと、「何でそうなるの?」という疑問が、観客の頭の中には残ることになるだろう。

 私が気に入ったのは、二村周作の舞台装置と、沢田祐二の照明だ。
 いかにも神々か妖怪が(一緒にしてはまずいか? しかし両者とも畏敬すべき自然の象徴だ)棲みそうな雰囲気を感じさせる森や巨木を組み合わせ、回転舞台をも使って巧みに怪奇な雰囲気を出す。日本人の故郷への郷愁の心情に訴えかけるような光景である。こういう舞台装置こそ、民話オペラの真髄というべきものなのであろう。

6・28(金)バーゼル歌劇場 モーツァルト「フィガロの結婚」

   東京文化会館大ホール  6時30分

 スイスの「バーゼル劇場 THEATER BASEL」が初来日。
 しっとりした、洒落たつくりのプロダクションだが、この本来の味を生かすには、東京文化会館大ホールはどうも巨大空間に過ぎたようである。日生劇場程度の広さだったら、もう少し良さが出たであろうと思う。
 演出はエルマー・ゲールデン、舞台美術はシルヴィア・メルロとウルフ・シュテングル。

 場面設定を現代のロサンゼルスの高級住宅に移し、裕福な生活にもかかわらず何かの欠乏感に囚われている人々を描くという演出コンセプトは悪くないし、むしろこのドラマの意外な本質をついたものであるかもしれない。そうした欲求不満の嵩じる先がセックスであるという描き方も当を得ているだろう。

 が、そのコンセプトの割には、舞台から突き詰めたもの、というか、リアルな人間のドラマのようなものが伝わって来ないのだが、・・・・これはもう、「巡業公演」の宿命だろうか。伯爵夫人は鬱症だという演出家の説明(プログラム掲載)はあるものの、実際の演技からはどう見てもそんな様子は感じられない、というが如しである。

 まあ、それなりに演技は細かいし、キューピッドの矢を象徴するとかいう「紙飛行機」が乱舞するなどの趣向も織り込まれているけれど、少々アイディア倒れで、際立って印象的な特徴は見られない、というプロダクションであった。ただし、舞台進行をもっとぎりぎり追い込み、演出意図を徹底すれば、更に優れたものが引き出せるかもしれない。

 主要歌手陣は、エフゲニー・アレクシェフ(フィガロ)、マヤ・ボーグ(スザンナ)、クリストファー・ボルダック(アルマヴィーヴァ伯爵)、カルメラ・レミージョ(伯爵夫人)、フランツィスカ・ゴットヴァルト(ケルビーノ)他。

 演奏はジュリアーノ・ベッタ指揮のバーゼル・シンフォニエッタ。
 ベッタはこの劇場の音楽シェフであるとのことだが、指揮はやや平凡だ。今回一緒に来たオーケストラも些か雑で、特にホルンは、ああもしばしば派手なトチリを繰り返すと、ご愛嬌では済まなくなるだろう。

 それに対して素晴らしかったのは、レチタティーヴォの際にピット上手の舞台上の袖で弾かれていたフォルテピアノ(イリーナ・クラスノフスカ)の、おそろしく雄弁な表現だ。ワーグナーのライトモティーフのように「それに関連した過去の思い出」を織り込む手法はもちろんのこと、ワーグナーの「結婚行進曲」やガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」まで軽快に引用するという才気煥発ぶりであった。

 10時10分頃終演。チケット配布の関係だろうが、若い観客が非常に多かった。それ自体は歓迎すべきことである。

6・27(木)大野和士指揮九州交響楽団のワーグナー・プロ

   アクロス福岡シンフォニーホール  6時45分

 今年の日本での「ヴァルキューレ大戦争」――ワーグナーの「ヴァルキューレ」第1幕の演奏会形式上演が、9月末までに5種計8回公演あり、別に全曲舞台上演も計4回行われる――のトップを切って、大野和士が九州交響楽団に客演し、第1幕を上演。

 これだけでも65~70分の演奏時間である。
 これに、第1部として何を組み合わせるかは、各オケによってさまざまだが、今回大野&九響が組んだプログラムは、その中でも最重量級のものだろう――曰く、ワーグナーの「ジークフリート牧歌」、および「神々の黄昏」から「ジークフリートのラインへの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」「ブリュンヒルデの自己犠牲」。
 これだけで(ステージ転換を含め)ほぼ70分を要したし、曲の性格からしても、これで全部終ったかのような威圧感と充足感を与える。

 大野和士が指揮するワーグナーは、これまでほとんど聴いたことがなかったけれども、実にいいテンポである。
 たとえば「葬送行進曲」での、あの「死の動機」が潮の退くようにディミヌエンドして行く感動的な個所を、速いテンポと踊るようなリズムで処理してしまう「悲劇的感性ゼロ」の指揮者も往々にいるものだが、大野はまさに作品の性格にふさわしく、重々しいテンポでゆっくりと進めて行く。といってレヴァインのように「神々の黄昏」終曲部分を遅いテンポで押し切るということもなく、これも納得の行く極めて中庸を得たテンポを保っていた。

 また「ヴァルキューレ」第1幕最後の3小節の減七の和音――これは主人公2人の行く手に待つ悲劇的な運命を予告する重要な和音だが――をスコア通りフォルテ3つの最強音で強調したことも、大野がドラマの意味を明確に把握している証明であろう。
 声楽パートとオーケストラのバランスも巧みで、さすが欧州の歌劇場で場数を踏んだ大野らしい指揮であった。

 ブリュンヒルデとジークリンデとの両役を歌ったのは、並河寿美。休憩を挟んでいるとはいえ、大変なパワーだ。あの2009年の「トゥーランドット」以来、馬力のある人だとは承知していたが・・・・。
 感服させられたのは、ブリュンヒルデをドラマティックに激しく歌ったあとに、ジークリンデを考え深く、ためらうように、微細な表情で歌い始めたこと。この2役の歌い演じ分けは、見事だった。彼女のワーグナーを聴いたのは、昨年のヴェーヌス(「タンホイザー」)とゼンタ(「さまよえるオランダ人」)以来だが、そのいずれにも増して今回のジークリンデは素晴らしかった。

 ジークムントを歌ったのは、福井敬。悲劇的な英雄を歌って見事に決めるという点では、やはりこの人が随一だろう。いつもよりやや太い声に聞こえたが、それは音域のせいかもしれない。ただ、どんなテナーもここで大見得を切る「ヴェルゼ! ヴェルゼ!」をほとんど延ばさなかったのは、彼が声をセーヴしたためか、あるいは大野の意向によるものか? 
 もう一つ注文をつければ、時に走り過ぎることか。特に「一条の閃光が射る leuchtet ein Blitz;」の「Blitz」が、弦とホルンがfpで煌めく音と完全に合わなければ、音楽の解釈に関わって来るだろう。
 また、ジークムントの感情が陶酔的なものに変わる「ヴェルゼの子、ジークムントをごらん!Siegmund, den Wälsung, siehst du Weib!」のところも、オーケストラがpに変わる前に出てしまったようだが、これも同じく、指揮者との呼吸が合っていないからだろう。どちらの責任か、などというのは私が口を出すべきところではないが。

 フンディングを歌ったのは松位浩である。この人はダルムシュタットやザールブリュッケンの歌劇場で活躍するだけあって、その風格、悪役にふさわしく凄みのあるドイツ語の迫力など、完璧な歌唱だ。

 九州交響楽団は、実に見事な力演を繰り広げてくれた。ホルンやトランペットに時たま苦しいところもなくはなく、分厚い音の個所でアンサンブルにもっと緻密さが欲しいところでもあったが、40年前から九響を聴いて来た私にとっては、このオーケストラもついにここまで来たか、という嬉しい驚きを抑えきれない。特に弦は素晴らしかった。今夜のコンサートマスターは豊嶋泰嗣。
    モーストリー・クラシック9月号 公演Reviews

6・26(水)ヤクブ・フルシャ指揮東京都交響楽団

   サントリーホール  7時

 ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」にソリストとして協演したヤン・リシエツキは、カナダ生まれの未だ18歳、長身白皙の少年だ。
 しかし、その演奏の瑞々しい表情、爽やかな音色、明快な構築性をもった音楽づくりは、全く素晴らしい。指揮者と合わせながらも伸び伸びとした自発性をみなぎらせるところなど、ただものではない才能を感じさせる。

 アンコールに演奏したショパンの「エチュード 作品25―12」では、ソロらしい自由さを持ちつつ、大波のような音型を繰り返すたびに次第に変化させながら追い上げて行くという精妙な設計をも聴かせてくれた。今の彼の全貌をつかむにはこの2曲だけでは材料不足ではあるものの、少なくともこの率直な息吹をあふれさせた演奏には好感が持てる。

 プログラムの第2部は、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」。
 これまでの客演が悉く快演だったフルシャ(都響プリンシパル・ゲスト・コンダクター)の指揮だけに、満腔の期待を以って聴きに行ったのだが、・・・・ちょっとその期待が大きすぎたか?
 全曲の頂点を後半の「嵐」の部分に置き、最初の劇的な個所である「日の出」や、中ほどのクライマックスたる「頂上での感動」を抑制気味に演奏するなど、設計に気を配っていたが、もともとスペクタクル性が売りものの曲ゆえ、もう少しハッタリを利かせた手法の方がいいのではないかという気もする。

 いずれにせよ前半部分では、さまざまな描写的モティーフがそれほど際立たず、標題音楽的な性格があまり出ていなかったように感じられる。演奏が本当に面白くなったのは、「頂上」で「陽が翳り」、コントラバス群が不穏な唸りを響かせはじめるあたりからだった。

6・25(火)シャルル・デュトワ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

   文京シビックホール  7時

 今回のデュトワ&ロイヤル・フィルの来日公演のプログラムの中では、今日のこれが最も多彩で、重量感があるものだろう。シベリウスの「カレリア」組曲に始まり、ドビュッシーの「海」、バルトークの「中国の不思議な役人」組曲、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲、と続く。バルトークを入れたのは、文京シビックホール側の要望だったというが、この選曲は大成功である。

 このホール、私はこれが初の訪問(!)になる。1階席18列中央あたりで聴くと、オーケストラの音はグァングァン響きながら押し寄せて来て、細部はほとんど判らないほどだが、量感は充分だ。
 それゆえ、このコンビの華麗なサウンドを存分に堪能することはできた。デュトワが気心知れた欧米のオーケストラを指揮する時に特有の、あの色彩的で絢爛とした絵巻物のような世界を、久しぶりにたっぷりと聴いた気がする。

 こういう指揮を聴くと、デュトワは本当に自分の「音色」を変わらず貫き通して来た名匠なのだな、とつくづく感心させられる。
 一方、ロイヤル・フィルにしても、これまで随分いろいろな指揮者のもとで聴いて来て、時には情けないオーケストラになってしまったな、と落胆したこともあった。が、今回このデュトワの指揮で聴いて、やっぱりいいオケだ、と再認識した次第だ。
 デュトワはいま、このオケの芸術監督兼首席指揮者である。

 「カレリア」は、第2曲「バラード」冒頭の木管の個所で一部の楽器が完全に落ちてしまい、何が何だか判らぬ音楽になってしまったが――それを除けば、躍動的な壮麗さで楽しめた演奏だ。
 「海」は、その羽毛のように柔らかく均衡豊かな響きと色彩感で、今夜の演奏の中でも、最も優れた出来だったと言ってよかろう。これこそ、デュトワの真骨頂である。

 一転して「中国の不思議な役人」ではロイヤル・フィルから凶暴なサウンドを引き出し、さらに転じて「ダフニスとクロエ」で豊麗な響きに戻り、「ドビュッシー――ラヴェル」という系譜を確立させて結ぶ。この4作品によるプログラムの起承転結の流れは極めて見事で、納得のゆくものであった。

 更にアンコールとして、ベルリオーズの「ラコッツィ行進曲」が、これも華やかに演奏された。デュトワは、最後の音を漸弱で結んだ身振りのままコンサートマスターに握手の手を差し出したが、それはまるでこのオーケストラとの協同作業を心から楽しんでいるような姿に見えた。

6・24(月)チョ・ソンジン・ピアノ・リサイタル

   浜離宮朝日ホール  7時

 話に聞くと、N響定期での彼の初日(19日)の演奏は、私が聴いた20日のそれよりもずっと生き生きしていたとか。さもありなん。
 今日のリサイタルでは、そういう彼の真骨頂が発揮された。

 プログラムは、前半にシューベルトの「ソナタ第13番イ長調作品120」とプロコフィエフの「ソナタ第2番」、後半にショパンの「ソナタ第2番」とラヴェルの「ラ・ヴァルス」。アンコールにシューベルトの「即興曲作品90―2」、リストの「超絶技巧練習曲第10番」、シューマンの「トロイメライ」。

 前出のN響とのモーツァルトの時にも、彼のピアノの音の透明な美しさに感銘を受けたが、今夜のシューベルトのソナタが開始された瞬間にも、何と清らかで詩的な、透明な軽やかさに満ちた音だろうと、この少年の感性の素晴らしさに魅惑されてしまう。

 しかし私たちは、彼が3年前のリサイタルで、シューマンをちょうどそのように演奏した直後に、ショパンの作品では現代の多くのピアニストがやるような激烈な演奏スタイルを採ったことを記憶している。
 今夜も同様、第2部の「葬送ソナタ」に入るや、昔の人が謂う「羊は俄然、虎になった」という感で、「急流岩を食み、怒涛澎湃として石を覆す」勢いの演奏になった。音色も極度に暗くなる。見事な変化だ。

 だがその中で、第2楽章の中間部や、第3楽章「葬送行進曲」およびそのトリオの抒情的な個所での、まるで虚無的と表現してもいいような、端整で落ち着いて沈潜した美しさは、実に驚異的であった。――こういう背反した2つの要素を一つの作品の演奏の中に、肉離れを起こさずに併合させてしまうとは、いったい何という凄い若者だろう? 

 その勢いで突入した「ラ・ヴァルス」は、何ともヴィルトゥオーゾ的な、猛烈な演奏で、これは既に作品のデフォルメと言ってよく、自由自在のアゴーギグとダイナミックスの変化、さらに声部のバランスも完全に変更され、ワルツのイメージすら残らない。
 これを19歳の少年の大胆不敵な挑戦と受け止めるか、それとも、若いにもかかわらず作品への畏敬を蔑ろにした姿勢と見るか。――もし彼が確固たる信念に基づいてこういうスタイルの演奏をしているなら、それはそれで結構だろう。だが、今の年齢でそれを完璧にやってしまう姿勢と才能は、このままで突っ走って行くと、何か将来、危険な陥穽に出会うのではなかろうか、という危惧も感じさせてしまうのである。

6・23(日)ミヒャエル・ザンデルリンク指揮
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団

   所沢市民文化センター ミューズ アークホール  3時

 拙宅のある世田谷区の大井町線沿線の駅と、ホールのある埼玉県の西武新宿線の航空公園駅とを往復するのは、行き慣れない場所だけに、私には大阪との往復よりもヘヴィに感じられる。
 副都心線を通じて東横線と西武池袋線が繋がったから、ずいぶん便利にはなったが、それでも自由ヶ丘・所沢間を「駅探」で調べて特急で行っても50分かかったし、帰りは待ち合わせや乗り換えを繰り返しつつ途中で特急を捉まえたものの結局は80分近くかかったし、・・・・昨日の今日だから、結構くたびれる。しかし、今回ドレスデン・フィルを聴く機会は、今日の所沢しかなかったのである。

 ミヒャエル・ザンデルリンクは、名指揮者クルト・ザンデルリンクの子息の一人。最初はチェリストとして活動を開始、2001年に指揮者としての活動を開始、2011年秋のシーズンから同オケの首席指揮者を務めている人だ。

 今日のプログラム――ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」と第5番「運命」を聴いた範囲では、この伝統豊かなオーケストラに良きドイツの地方色豊かな陰影のある音色を残しつつ、現代的な明晰なカラーを持ち込んで、新時代の個性を確立しようとしているように思われる。
 基本的には殊更にテンポを動かすなどの奇を衒った手法は採らず、「まっとうな」路線を歩む指揮者だが、時にデュナーミクの面でさり気なく細かい演出を試みることもあり、また第4楽章最後のプレストに入った個所での弦にはオヤと驚くほどの不思議な音色を醸し出させるなど、意外に曲者めいたテも使うこともある。指揮の経験を積み、オケとの呼吸も合ってくれば、面白いことになる可能性はあるだろう。

 ドレスデン・フィルは、技術的にはあまり上手くはないが、何といってもお国ものの味は強みだ。
 アンコールに演奏されたのは、ベートーヴェンのピアノ曲「失われた小銭への怒り」をギースベルト・ネーターGiesbert Noetherが管弦楽に編曲した面白い版。

6・22(土)いずみホール・オペラ ヴェルディ:「シモン・ボッカネグラ」

    いずみホール(大阪) 4時

 いずみホールは、大阪の環状線・大阪城公園駅のすぐ近くにある。
 客席は821とのことだが、内部の景観はすこぶる壮麗で、広大に感じられる。紀尾井ホールや山形テルサホールとほぼ同等の客席数のホールとはとても思えないほどの、広い空間だ。

 演奏会用ホールではあるものの、ホールの自主企画としてセミ・ステージ形式のオペラをも定期的に制作している。私も、これまでに「カーリュー・リヴァー」(ブリテン)や「ランスへの旅」(ロッシーニ)などを観た。上演水準はどれも極めて高い。意欲的なホールの姿勢である。

 今回の「シモン・ボッカネグラ」上演では、河原忠之指揮のザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団と合唱団がステージ上に並び、堀内康雄(シモン・ボッカネグラ)、尾崎比佐子(アメーリア、本名マリア)、花月真(フィエスコ)、青山貴(パオロ)、松本薫平(アドルノ)、萩原寛明(ピエトロ)ら歌手たちが、その奥の一段高まった舞台で簡単な演技を繰り広げつつ歌うという形。演出は粟國淳が担当した。

 何しろコンサートホールの残響豊かなアコースティックのせいで、オケの音も歌手の声も、まあよく響くこと、響くこと。客席後列まで、音がビンビン来る。
 その優秀な音響の応援を得て・・・・と言っては差障りがあるだろうが、とにかくこれほど朗々として爽快な日本人歌手のオペラを聴いたことは滅多になく、実に気持のいいひと時だった。

 いや、それはただ声がよく響くという以上に、歌唱の水準がすこぶる高かったからであろう。
 特にタイトルロールの堀内康雄は、まさに千両役者の貫録というべく、風格のある歌唱に総督としての威厳、父親としての苦悩などの表現を巧みに織り込み、さらに若い時代のシモンと老境に入ったシモンとを見事に(まさに別人のように!)歌い演じ分けて、音楽と舞台を圧倒的にリードしていた。彼を起用したことが、今回の上演の成功の第一と言っていい。

 パオロを歌った青山貴も、仇役としての微妙な立場を巧く表現して存在感を発揮した。アメーリア(マリア)の尾崎比佐子は、前半ではちょっと力が入りすぎていたのか、強いヴィブラートが気になったが、後半は均衡を取り戻して美しい歌唱を聴かせてくれた。
 フィエスコを歌った花月真は、牢に幽閉された囚人としての疲れ切った暗さと、シモンを圧倒する精神力とを歌い分けて後半を締め括ったように感じられる。一方、アドルノの松本薫平も熱演だったが、それまでのシモンへの敵視が敬意に変わるくだりなどではもう少し表現に細やかさが出てもいいだろう。

 河原忠之指揮のザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団も、よく鳴るホールの音響を最大限に利用しての強大かつ劇的な演奏。ヴェルディのオーケストラ・パートが、決して単なる伴奏的な立場に留まるものではなく、ドラマをリードする存在であることをはっきりと聴衆に印象づけてくれる(オペラのオケは、このくらい鳴らないと面白くならないのである。ヨーロッパのオペラ上演では、オケの威力は凄い)。
 また、同合唱団はバルコン席両側に配置されたが、これは音響上でも舞台を包み込むような面白い効果を出していた。

 演出は、今回は制約された空間ということもあって、特にその存在を主張するほどでもなかったであろう。
 注文をつけるとすれば、登場人物の海賊・貴族・平民の相関関係と、敵方・味方(対立勢力)の対比をもっと巧みに出してくれれば、ただでさえややこしいストーリーの内容も聴衆によりよく理解できたであろう、ということ。
 それにもう一つ、ラストシーンで、死に行くシモンが傍にいる娘に「マリア、お前の腕の中で死なせてくれ」と呼びかけているのに、彼女が知らん顔をして恋人アドルノにくっついたままでいるのは、随分冷たい娘じゃないか・・・・ということ。会場で会った知人たちの中にも、これについて私同様、憤慨している人たちがいた。

 このラストシーンの件については、粟國氏に直接尋ねる機会を得ていない。
 人づてに伝わって来た説明では、「シモンは孤独のうちに死ぬのだ」とか、「周囲の人間は、狂乱している彼に近づけなかったのだ」とかいろいろあったが、どれも納得できる理由に乏しい。
 そこで、私があとで勝手に創り出した解釈はこうである・・・・シモンが呼ぶ名「マリア」は、実は25年前の彼の恋人の名でもある。したがってシモンはアメーリアの母親にあたる女性マリアを死の幻想の中で思い浮かべているのであり、娘のことではなかった・・・・それを彼女が察知したがゆえに、父親に近づかなかったのだ、という、「母親への嫉妬が混じった心理的な分析」であります。
 しかしそれならそれで、もう少し演出のしようもあるだろうに、ということにもなるだろう。まあ、どうでもいいけれど。

 大阪までオペラを観に行くのも、それがマチネーの場合には、今や日帰りコースだ。とはいえ、11時半頃の「のぞみ」で品川駅を発ち、4時からのオペラを観、7時頃に終演、そのあとの打ち上げにちょっと顔を出し、8時半頃の新幹線に飛び乗って深夜11時半頃に帰宅するというのは、このトシでは、さすがに疲れる。
 だが、疲れるけれども、いい演奏、いい上演に接すると、その疲れも吹っ飛ぶもの。それが、音楽の力の素晴らしいところではある。

6・21(金)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

   すみだトリフォニーホール  7時15分

 マーラーの交響曲第6番「悲劇的」。
 アンダンテを第2楽章に、スケルツォを第3楽章に置いた版による演奏。私は未だにこの方法に馴染めない――それは第3楽章と第4楽章の続き具合という点からなのだが。

 それは別として、ハーディングは実に巧くこの曲をまとめていた。
 一貫して速めのテンポを保ち、殊更に作り物めいた演出を施すこともなく(新日本フィルを指揮した時には常にそうだが)、見通しのいい構築に、明晰な音色と歯切れのいいリズム感を以って滔々と押して行く。低音域に力強い重心を置いてオーケストラ全体に安定感を与え、しばしば低弦に鋭く荒々しいアクセントを付けて演奏全体を揺り動かす。

 カンブルランが読売日響を指揮した時(今年3月)のようなデモーニッシュな味はないけれど、どんな狂暴な曲想の個所においても一種の清新な雰囲気が感じられるところに、若いハーディングの音楽性と、このオーケストラの個性とが示されているだろう。
 これは、「運命」による打撃を受けて再起不能に陥った英雄の悲劇・・・・というよりは、むしろ「すがすがしい青年の遭遇する若々しい闘争」といったイメージか。

 新日本フィルの演奏は、ホルンをはじめとして、細かい所ではいろいろあったが、全体に渾身の力演であり、あふれる熱気といったものも充分感じられたので、ここでは、好しとしたい。同じく金管にいろいろあった昨夜のN響と異なるのは、その点にある。

6・20(木)チョン・ミョンフン指揮NHK交響楽団

   サントリーホール  7時

 N響定期のプログラミングも、一頃はかなり多彩にレパートリーを拡大しはじめたこともあったが、来シーズンの定期の曲目を見ると、完全にスタンダード・プロ・・・・名曲パレードに戻ってしまっている。
 聴衆に保守的な嗜好の高齢者が多いと、やはりこうせざるを得ないのか。ふだん、他のオーケストラの演奏会には全く足を運ばず、「一番上手い」N響の定期にだけ入っておき、そこで「いい曲」を聴くことだけを楽しみにしている年輩のお客さんも多いという話は知っている。それはそれでいいかもしれないが、若い人たちは一体どう思っているのだろうか?
 
 それはともかく、今日はBプロの2日目。チョ・ソンジンをソリストにしてのモーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番」と、後半にマーラーの「交響曲第5番」。

 韓国出身のピアニスト、チョ・ソンジンはまだ19歳、4年前の浜松国際ピアノ・コンクールに最年少優勝を果たし、日本にはおなじみの存在だろう。今日のモーツァルトは、わずかにカデンツァの部分のみリズムに変化を持たせて自由さを見せたものの、総じて著しく清楚端整な演奏で、あるいは大先輩のマエストロ、チョン・ミョンフンに遠慮したのか(24日のリサイタルでなら最近の彼の本領が判るだろう)。
 そのチョン指揮するオケの方は、いかにもN響らしく厚みのある整然たる音で、確かに立派ではあるが、この曲の本来の晴朗さと躍動感に足りぬ向きがある。

 後半のマーラーも、第1楽章は冒頭のトランペットの珍しい不調に足を引っ張られたか、オーケストラ全体が生気に乏しい演奏となっていて、どうなることかと思ったが、その後は徐々に調子を取り戻して行った。
 ただ、厚みと力感と巨大感こそあるものの、全体に何かルーティン的な雰囲気が拭い切れない。「腕前の良さ」だけで押し切った演奏・・・・とでもいうところ。今日はTV・FMの中継がないので、気が抜けたか? 

 しかしこれだけは見事だったのは、第4楽章の「アダージェット」におけるN響の弦楽器群の響きであった。その空間的な拡がり。音と音との間にある豊かな空間に、無限に拡がる夢幻的な美しさ。コンサートマスターは篠崎史紀。
    音楽の友8月号 演奏会評
 

6・19(水)河村尚子&クレメンス・ハーゲン

   トッパンホール  7時

 人気ピアニスト河村尚子が、ゲスト・ソリストとのデュオを繰り広げるシリーズの第3回。
 今夜の協演者はハーゲン弦楽四重奏団のチェリスト、クレメンス・ハーゲン。前回(昨年12月)のドイツの某ソプラノさんとは格が違う演奏家なので、聴き応えのあるデュオとなった。

 まずウェーベルンの最初期の作品――前期ロマン派的作風(!)の「チェロとピアノのための2つの小品」に始まり、シューマンの「アダージョとアレグロ 作品70」にベートーヴェンの「チェロ・ソナタ第5番」が続く第1部のプログラムでは、河村はゲストを立ててか、やや控えめな表情に終始していた。
 実際、クレメンスの恰幅のいい堂々たる音色はホール内を圧して響く。あの弦楽四重奏団のくせで(ヴェロニカを除く)、時々大雑把な演奏になることもあるのだが、独りで弾く時にはそれもまた感興の一種で、ある種の熱気となって感じられるだろう。

 だが第2部でのラフマニノフの「チェロ・ソナタ」になると、これは曲想によるところも大きいが、河村尚子がついに本性を現したという感じで、ピアノが俄然主導権を取り始めた。堂々たるデュオである。
 特に2曲目のアンコールで演奏されたベートーヴェンの「チェロ・ソナタ第1番」の第1楽章など、まさに「オブリガート・チェロを伴うピアノ・ソナタ」ともいうべき性格を浮き彫りにして、若き作曲者がヴィルヘルム2世に自らのピアノの腕を示そうと張り切っていた様子をうかがわせる、豪壮雄大な演奏となった。

 ゲストを立てると見せながら、最後はゲストを食ってしまうあたり、さすが大物の気魄充分の河村尚子である(映画「ベラクルス」でゲストの大物ゲイリー・クーパーを立てながら最後には食ってしまった曲者名優バート・ランカスターさながら、というところか)。
 主役の座を誇示して結んだ今回のリサイタル、御立派。

6・18(火)児玉宏指揮大阪交響楽団
「トリスタン秘話~マティルデ・イゾルデ・マルトゥッチ」

    ザ・シンフォニーホール(大阪) 7時

 これは実にユニークで面白い企画。ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」からの音楽と、それと並行して作曲された「ヴェーゼンドンク歌曲集」とを組み合せて演奏するという試みである。

 具体的に言うと、「トリスタン」からの「第1幕前奏曲」と「愛の死」を最初と最後に置き、その間に「ヴェーゼンドンク歌曲集」(管弦楽編曲版)を、出版楽譜による順番でなくオリジナルの「作曲順」に並べ換えて配置、更にそれぞれの歌曲の間に「トリスタン」のあちこちから採った(しかも時間軸順を崩さず)音楽を巧みに組み合わせて挿入し、全体を抵抗なく切れ目なしに続けて演奏する――という、凝りに凝った構成だ。
 演奏時間も50分前後と、長大な作品になった。

 これは、大阪響・音楽監督の児玉宏が数年間あたためていた企画で、「トリスタンとイゾルデ=ワーグナーとマティルデ・ヴェーゼンドンクの2組の恋人たちの愛の軌跡を同時進行で描き出すのが狙い」だという。

 「トリスタン」の音楽をすべて覚えているワグネリアンなら、楽劇のどの個所から採られた音楽がどう巧く組み合わされているか、それらが歌曲それぞれとどのように巧く接続されているか、それを謎解きするだけでも、大変なスリルに違いない。
 私もこの演奏会のプログラムの解説を担当したので、バラバラに添付されて来た「トリスタン」の抜粋譜を総譜のどの部分に当るか探し出し、註釈を加えるというパズルのような愉しみを味わったが、さすが児玉氏が練りに練っただけある、と、その緻密な設計に舌を巻いた次第である。

 とりわけ、「天使」のあと、恋人たちが秘薬を飲んだ直後のおののきの音楽に移り、イゾルデがトリスタンとの愛に全てを捧げる悦楽を歌う個所に続き、更に愛の2重唱直前の部分が演奏され、そのまま同じ音程で「夢」に入って行くという構成など、ワグネリアンなら「やってくれたな」とニヤリとするだろうし、そうでない人も、いつの間に歌曲に入ったのかと、その続き具合の見事さに感心しただろう。
 あるいは、「トリスタン」の第3幕前奏曲の一部が引用されたあとに「止まれ」と「温室にて」が演奏され、楽劇と歌曲集との連関を明確に聴くことができたというのも、面白さを倍増させたに違いない。

 児玉の指揮も、さすがにオペラでの修羅場を踏んで来ている人だけあって、バランスを心得て見事なもの。大阪響も柔らかい豊麗な音を響かせた。ワーグナー特有の和声の美しさを充分に出していたことは、演奏の良さの証明だろう。
 歌曲と「愛の死」を歌ったのは、ベルギーのソプラノ、エレーヌ・ベルナルディ。本番の1時間半前まで行なわれたゲネプロでもフル・ヴォイスに近い声で歌うというタフネスぶりだったが、本番はやや表情を濃くして歌い、変化の妙を見せていた。

 こういうユニークな企画こそCD化して欲しいところだが、今回はロームからの予算援助がなかったとことで、不可能らしい。残念だ(NHK-FMの収録が入っていたのがせめてもの救いか)。

 休憩のあとには、この「トリスタン」を1888年のボローニャにおけるイタリア初演を指揮したジュゼッペ・マルトゥッチの「交響曲第1番」が演奏された。
 これまた長大重厚な作品で、滅多に聞ける曲ではない。珍しいレパートリーを開拓する児玉=大阪響の面目躍如たるところだろう。
 ブラームスの影響を強く受けた――受け過ぎた、と揶揄もされるマルトゥッチの交響曲だが、確かにこの曲の第2・3楽章には、ブラームスそっくりの楽想がたくさん出て来る。もっとも、似ている個所よりは、似ていないところの方が多い。
 ではお前にとって面白い曲だったか、と問われれば、諸手を挙げてそうだとも言えないのだが、・・・・先日の児玉&大阪響の東京公演でも取り上げられた同じマルトゥッチの「夜想曲」と併せて、貴重な体験だったことは間違いない。チェロの長いソロも、素晴らしかった。

6・17(月)大野和士指揮東京都交響楽団 「戦争レクイエム」GP

    東京文化会館大ホール 

 本番は明日夜だが、大阪行きのため聴けないので、ゲネプロ(一部公開)を取材。

 協演は、合唱に晋友会合唱団、東京少年少女合唱隊。声楽ソリストには、作曲者ブリテンが世界初演(1962年)の際、第2次世界大戦で戦った英・独・ソの歌手の参加を企画したことに因んだのであろう、今回は中国出身のリー・シューイン、韓国出身のオリヴァー・クック、日本の福島明也を配するという機微に富んだ布陣で、平和を祈念する趣旨を盛り込んでいる。

 大管弦楽と大編成の声楽陣で、反響版をいつもより舞台奥に押し込み(そのため両袖の壁と天井とにそれぞれ数メートルの隙間が生じたようだが)、舞台上には演奏者たちがぎっしりと詰まる。リハーサルではあるものの、いい音だし、いい演奏だ。明日1回だけの演奏ではもったいないような気がする。

 耳を傾けているうちに、この同じホールで、48年前――1965年2月に、D・ウィルコックス指揮の読売日響(ソロは伊藤京子、中村健、立川清登)により行われた日本初演を聴いたことを思い出した。正直なところ、あの頃はこの曲の真価がよく理解できなかった。今では少しはマシになっているだろうと自分では思うのだが・・・・。
 今年はブリテン生誕100年記念として、9月にも尾高=札響が札幌でこの曲を取り上げることになっている。それも聴きに行きたいものだ。

 大野和士は、2015年に、東京都響の音楽監督に就任することが決まっている。14日(金)にホテルオークラで行われた記者会見の席上、大野は「レパートリーの拡大による活動の活性化」を基本方針の一つに挙げ、「広角打法」という喩えをも使って、力強い抱負を述べていた。定期も年6回程度は振るというから、本格的な力の入れようだろう。ザグレブ・フィル音楽監督時代にクロアチアで戦火による惨状を目の当り見た体験を「3・11」と重ね合わせ、「傷ついた祖国のために自己の力を捧げたいと考えた」とも述べており、これらも日本での活動を重視する一因となったようである。

 同じ席上でコンサートマスターの矢部達哉も、世界に活躍している大野が「帰って来て」音楽監督に就任することに喜びを表明、「放蕩児の帰郷」という洒落た表現でそれを表わした――ただしこの蕩児は無一文になって帰って来たのではなく、「大金持」になって帰還した、と注釈がついたのはもちろんである。都響は、近年の演奏の好調ぶりとともに、すこぶる意気軒昂のようである。

6・16(日)フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮読売日本交響楽団のベートーヴェン

   サントリーホール  6時

 ベルギー生れの名匠フィリップ・ヘレヴェッヘ(1947年生)が、先日のシャンゼリゼ管弦楽団を指揮しての演奏会に続き、今回は読売日響に客演。
 もちろん初客演だが、彼が日本のオーケストラを指揮するのもこれが初めてだとのこと。ちょっと意外である。今日はベートーヴェン・プロで、「コリオラン」序曲と、交響曲の「1番」と「7番」が演奏された。

 現代楽器のオーケストラにピリオド楽器奏法をバランスよく導入するのは、ヘレヴェッヘのお家芸ともいうべきもの。この日の演奏でもそれが実に美しい音色を以って自然な形で展開されていたのは、さすがであった。

 「コリオラン」の冒頭は、フルトヴェングラー(1943年録音)もかくやと思えるほどの強靭なティンパニの打撃とたっぷりした響きで開始されたが、これだけ堂々たる意志力を以って演奏されると、この作品は紛れもなくベートーヴェンの序曲の最高傑作であることが証明されるだろう。ただ、この演奏で、この緊迫感が最後まで保たれたとは言い難いが・・・・。

 そのあと、ヘレヴェッヘが1回の答礼と舞台袖への出入りだけで直ちに指揮に移った「第1番」は、この日の中で最も魅力的な演奏だったのではないか。第1楽章の序奏からして音楽の風格が大きく、しかも気品に富んで温かく、美しい。清楚でありながら豊麗――などという演奏は滅多にあるものではないが、ヘレヴェッヘと読響はその至難の業を実現させていた。

 休憩後の「第7交響曲」は、その序奏での弦の響きが、何と綺麗で見事だったことか。素晴しく優秀な録音で捉えられたピリオド楽器のオケを、英国系の大型スピーカーで再生した時には、こういう爽やかで透き通った柔らかい弦の音になる。
 読響の弦もこんないい音を出すようになったのだ、と一瞬有頂天になったのだが・・・・この奇蹟の如き音は、もしかしたら長くは続かないのではなかろうか、という危惧は残念ながら当ったようで、第1楽章も主部に入る頃には――まあ、「ふつうのいい音」に戻ってしまったようである。
 叙情的なアレグレットの第2楽章には情感がこもっていたが、第4楽章は、エネルギーの驀進というより、美しく快走する巨大な力、というイメージ。

 ――速いテンポで進められたこの「7番」の演奏の核は、結局、「快さ」にあった、というところか。
      ⇒モーストリー・クラシック9月号 公演Reviews

6・15(土)ダニエル・ハーディング指揮マーラー・チェンバー・オーケストラ

    軽井沢大賀ホール  3時

 今回のハーディングとマーラー・チェンバー・オーケストラ(MCO)の日本公演は、この軽井沢と、明日の名古屋の2回だけ。オーストラリア公演と帰国との合間に飛んで来たのだから仕方がないだろうが、如何にももったいない。

 もったいないというのは、今日はクリスティアン・テツラフがベートーヴェンの協奏曲を弾いて協演したからである。東京からこれを聴くために駆けつけた人を――私の知り合いだけでも――会場で10人以上見かけたが、もっと多くの東京のファンたちにも聴かせてあげたかった。

 これほどスリリングで面白いベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」の演奏を聴いたのは、私にとっては多分ヒラリー・ハーンのそれ以来だ。
 特に第3楽章など快速奔放、ロンド主題が復帰する直前に短いカデンツァを入れるなど趣向を凝らし、自在に歌い、飛び跳ね、スコアが許容する範囲での即興的な自由さを謳歌する。第325小節以降の頂点個所では渾身のフォルティシモで上行・下行し、終了直前の3小節間を実に軽快な足取りのピアニシモで駆け上がったかと思うと、次の瞬間にはフォルティシモで2つの和音を叩きつけて結ぶ呼吸の、何という鮮やかさ。

 ハーディングとMCOがまた速いテンポで煽りに煽りつつ追い上げて行くので、この楽章は躍動の極致、音楽が火の玉となって突進するような趣を呈した。
 前述の、第329小節以降のオーケストラをスコアの指定通りの真のフォルティシモで押し切った演奏は珍しいが(レコードでのトスカニーニ以来か?)これでこそ、充分なクライマックスが築かれるというものである。
 (※追加註)なお、第1楽章では、ベートーヴェンがこの曲の「ピアノ協奏曲版」のために書いたティンパニ入りのカデンツァが使用されていた。こういう先鋭的な演奏には、このカデンツァがよく似合う。

 プログラム後半は、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」。ハーディングとMCOにしては、意外にストレートな演奏だ。第1楽章提示部で、第1主題を2本のオーボエが繰り返す背景で、ほんの1、2小節間だが、ヴィオラとチェロが素晴らしい空間的な拡がりを響かせたのは、ハーディングの指示というより、室内楽的な自発性に富む楽員のアイディアによるものか?――その直前にヴィオラ首席がチェロ首席と呼吸を合わせるような表情を見せていたので・・・・。

 協奏曲の後には、満員の聴衆からテツラフに、スタンディング・オヴェーションを含む熱狂的な拍手とブラーヴォが贈られた。ソロ・アンコールはバッハの「無伴奏パルティータ第3番」の第3楽章で、これも大歓声に包まれた。
 これに対し「新世界」のあとの拍手はごく普通のものにとどまったが、オケがアンコールで演奏したシューマンの「ライン交響曲」のフィナーレは、絶大な拍手とブラーヴォを呼び、それはそのままハーディングのソロ・カーテンコールにまで続いた。今日のお客さんは、率直で、手ごわい。

 初夏の軽井沢は、美しい緑の雨。


6・14(金)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルのラフマニノフ

   サントリーホール  7時

 ラザレフと日本フィルの「ラフマニノフ・ツィクルス」も、今回の定期で最終回を迎えた。

 思えばラザレフが、あのつまらない(と思われていた)「第1交響曲」を、あんなにも劇的で多彩な表現の演奏で聴かせ、われわれの度肝を抜いたのが、このツィクルスの第1回(一昨年11月)だった。
 私もこのツィクルスを全部聴いてきたが、すべて豪演、爆演の連続であった。ラザレフの指揮は、まさに大軍を叱咤統率して猛攻に駆り立てる勇将の采配といった雰囲気であり、この人は本当に、演奏者と作品とを燃え立たせる才能を持った指揮者なのだ、という感慨を強くしたものである。そして、彼の指揮のもと、一時の不調を見事に脱して今や情熱的な演奏を続けるようになった日本フィルの変貌にも、目を見張ったものであった。

 今日も、演奏は充実していた。日本のオーケストラがこれほど強靭なリズムを利かせた例は、決して多くはないだろう。
 初期の作品「カプリッチョ・ボヘミアン」(作品12)は少し騒々しい演奏だったが、濃厚で野性的なロシア魂の発露をよく再現しており、その熱気の凄まじさの方を賞賛しよう。「パガニーニの主題による狂詩曲」(作品43)では、河村尚子のスケールの大きな、たっぷりした風格と抒情美のピアノ・ソロが加わり、堂々たる演奏となった。
 最後の「交響的舞曲」(作品45)でも、濃密な響きの剛直なダイナミズムが、圧倒的な迫力をつくり出す。ツィクルスの締め括りにふさわしい、立派な演奏と申し上げよう。

 終演後、ラザレフはアフタートークに現われ、10月に指揮するスクリャービンについて一席、その魅力を語った。話し方も熱っぽくて熱心だから、それじゃ聴いてみるか、と思ったお客さんも多かったのでは?

6・13(木)ボロメーオ・ストリング・クァルテットのベートーヴェン

   サントリーホール ブルーローズ(小ホール)  7時

 6月1日から16日までサントリーホールのブルーローズ(小ホール)で開催されている「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン」シリーズ。
 その企画の核ともいうべきボロメーオ・ストリング・クァルテットによるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲連続演奏会――これは5回シリーズで、今日は第4回にあたる。

 「大フーガ 作品133」、「第16番 作品135」、「第13番 作品130」というプログラムだ。
 「大フーガ」が当初は「第13番」のフィナーレに当る曲だったことや、「第16番」がベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲であること、「第13番」のために新しく作曲された楽章がベートーヴェンの最後の作品になったことなどを関連させた、これはなかなか面白いプログラムである。

 ボロメーオ・ストリング・クァルテットは、ニューイングランド音楽院のレジデンス団体で、ニコラス・キッチン(第1ヴァイオリン)、クリストファー・タン(第2ヴァイオリン)、元渕舞(ヴィオラ)、イーサン・キム(チェロ)というメンバー構成。
 譜面をMacBookに取り込み、それを見ながら演奏する(なるほどアイディアですね)という話は聞いていたが、もちろん彼らも、それを売り物にしようなどとは考えていないだろう。

 演奏は瑞々しく、ベートーヴェンのあの「後期の弦楽四重奏曲」という恐るべき世界を、あくまで爽快に描き出す。それは彼らの若さゆえの気魄だろう。
 「133」の新しいフィナーレや、「135」の第2・4楽章を、ベートーヴェン最晩年のアイロニカルな音楽として再現するか、あるいは諦観を含んだ快活な笑いとして描き出すか、それらは演奏者の人生体験によって千差万別の様相を呈して来る。
 ボロメーオはもちろん真摯に取り組んでいたが、しかしたとえば「135」第4楽章中ほど、「Muss es Sein?」のモティーフが不気味に再現する個所のニュアンスなど、まだちょっと手に余るようなところがあるのでは? 

 今回はこの日しか聴けなかったが、本当は初期の6曲の日(6月2日)を聴きに行きたかった。

 なお今回も「ブルーローズ」は、昨年と同様、ステージを入口正面に移し、それを半分囲む形で椅子を並べる会場を設置した。客席の両翼はかなり拡がる形になるけれど、どの席もステージに近くなって、演奏者と聴衆との間にインティメートな雰囲気が生まれる。私はこの席の配置が非常に好きだ。

6・12(水)庄司祐美(メゾソプラノ)リサイタル

   北とぴあ つつじホール  7時

 東京二期会所属のメゾ、庄司祐美の定例リサイタル。
 ベートーヴェンの「希望に寄す」(Op.94)、ブラームスの「ジプシーの歌」、トマの「君よ知るや南の国」、ビゼーの「セギディーリャ」、サン=サーンスの「君が御声にわが心開く」、ワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」、R・シュトラウスの「明日」「夜」「イヌサフラン」「解放」および「献呈」(アンコール)と、凄まじく「分厚い」プログラムが組まれた。

 前回もそうだったが、庄司さんはプログラムの解説も、すべての曲の訳詞も、自分でやってしまう。
 「ヴェーゼンドンク歌曲集」では自ら移調譜を作成、その解説もワーグナーがマティルデのために書いた「初稿」とショット出版の「初版」を比較し、さらにペータース版出版譜なども参照して書くという念入りなものだ。私が大阪響(6月18日定期)のために書いた解説なんかより遥かに詳しく、読みでがある。敬意を表したい。

 それもあってか、今夜もその「ヴェーゼンドンク歌曲集」が最もリキの入った歌唱であった。また、ブラームスやR・シュトラウスなど、やはりドイツもののレパートリーに、彼女の良さが感じられたと思う。
 だが、「君が御声に・・・・」は、ダリラ役が(単独の)アリアとして歌うのだから、その場合普通に歌われるように、「Samson,Samson,Je t‘ame!」を最後に入れて締めた方が効果的だし、聴き手にも解り易いだろう。それをやらなかったのは、彼女の前記のような研究熱心な姿勢と、オリジナル志向のいたすところだろうか。

 これで、・・・・ピアノがもっと歌曲の内容と情感と息づきに合わせ、大きく包み込むように声楽を支えて演奏されていれば、音楽は遥かに盛り上がりを見せていたであろう。「カルメン」ではもっと湧き立つような、「サムソンとダリラ」ではもっとエロティックな、それぞれの女の情熱が、歌とともにピアノでも示されなければ、いくら歌手が頑張っても、音楽はか細く、消沈してしまい、聴く方も高揚した気分にならないのである。
 「ヴェーゼンドンク歌曲集」にしても、「トリスタン」と並行して書かれたこの曲で最も重要な要素は、「和声」なのではなかろうか? これはピアノの領分である。

 そもそも歌曲に「伴奏」という定義などあり得ない。ピアノはもっと楽曲の内容に即して、声楽パートと同等に雄弁な表現をしなくてはならない。歌が言い得ない感情を、ピアノが表現する。それでこそ、歌手を完璧にサポートできるというものだろう。

6・11(火)チョン・キョンファ・ヴァイオリン・リサイタル

   サントリーホール  7時

 久しぶり、チョン・キョンファ。指の故障を克服して復活。満席のファンを沸かせた。

 演奏した曲は、モーツァルトの「ソナタ ト長調K.379」、プロコフィエフの「ソナタ第1番ヘ短調」、バッハの「シャコンヌ」、フランクの「ソナタ」。協演のピアニストはケヴィン・ケナー。
 アンコールとしてシューベルトの「ソナチネ第1番」から第2楽章と第3楽章。――客電が上がり、聴衆が帰り始めたあとにもう一つ、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」をやったということだが、それは聴いていない。

 チョン・キョンファ(鄭京和)といえば、羚羊のように精悍で敏捷で躍動的で、しかも燃え上がるように情熱的だった若い頃の演奏が今でも忘れられないが、さすがに60歳を超えた今では、それは望むべくもない。
 「シャコンヌ」のような、無伴奏の、しかも強固な構築性を要求される作品では、一抹の不安と危惧を抱かせるところも少なくはなかった。だがそれでも曲の後半における、頂点に向けてひた押しに押す集中力に富んだ演奏は、彼女ならではのものであったろう。

 他の曲における、特に叙情的な部分での伸びやかで豊麗な音色の演奏には、彼女の今の本領を聴いたような気がする。
 それは、必ずしも年齢に応じた精神的な深みとかいったものを感じさせる演奏ではないかもしれない。どこかその前の、たとえば表層的な美のみの段階で留まっているタイプの演奏かもしれない。――だが、プログラムに掲載されている柴田克彦氏のエッセイを読むと、彼女が指の故障で公開演奏を休止していた間に得た「精神的なもの」は、限りなく大きいものだったという。とすれば、このあとも彼女は更に一歩を進めるかもしれないのだ。それが出来た時、チョン・キョンファの演奏はもっと深みを増すだろう。
 客席には、弟のチョン・ミョンフンも聴きに来ていた。

 協演したピアニストのケヴィン・ケナーが、非常に良かった。つくる音楽に豊かな表情と力がある。室内楽などを手がけたら、きっと素晴らしいだろう。

6・10(月)フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮シャンゼリゼ管弦楽団

   東京文化会館大ホール  7時

 モーツァルト好きがどっと集まった、という感の東京文化会館大ホール、超満員(少なくともそれに近い入り)の、熱気に満ちた会場である。5階席までぎっしり詰まった客席を下から見上げると、このホール、何となく凄く感じられる。

 ヘレヴェッヘとシャンゼリゼ管、今回は福岡(5日)、西宮、茅ケ崎、所沢と公演を重ねて、今夜が5回目、最終公演だ。
 プログラムは、前半にモーツァルトの交響曲「プラハ」、そのあとにアンコールとして、他の会場で組まれていた交響曲「ジュピター」の第4楽章。後半は全プログラム共通の「レクイエム」(ジュスマイヤー版)が演奏され、アンコールとして「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が付け加えられた。
 協演は、合唱がコレギウム・ヴォカーレ・ゲント、声楽ソリストはスンハエ・イム(ソプラノ)、クリスティナ・ハマルストレム(アルト)、ベンジャミン・ヒューレット(テノール)、ヨハネス・ヴァイザー(バリトン)。

 ヘレヴェッヘ、例のごとく明快な指揮で、音楽のスケールが大きく、しかもヒューマンな温かさを感じさせる。2管編成(トロンボーンはもちろん3本)に、メンバー表によれば8・8・6・5・4の編成による弦――というオーケストラが、実に堂々たる響きを以って、満員で「音が吸われる傾向のある」このホールをさえ、たっぷりと満たす。
 特に「レクイエム」では、絶えず弦につけられる強いリズミカルなアクセントが、この曲にメリハリのある構築を与え、「怒りの日」などではデモーニッシュな力さえ生み出していた。合唱はいうまでもなく、4人のソリストも清澄な祈りの歌を聴かせてくれた。

 モーツァルトの音楽の素晴らしさ、演奏の良さ、・・・・温かい気持に満たされて席を立つことができた、稀有なコンサートの一つ。

6・9(日)大植英次指揮東京フィルハーモニー交響楽団

   BUNKAMURAオーチャードホール  3時

 今日の演奏会の方が、大植英次と東京フィルの魅力全開、本領発揮である。
 山田耕筰の「序曲ニ長調」で幕を開け、大植の恩師バーンスタインの「ミュージカル・トースト(音楽で乾杯)」という小品および「キャンディード」組曲(ハーモン編曲)、最後をベートーヴェンの「第7交響曲」で閉める、というプログラム。

 この日、大植が着用していた白い上着は、バーンスタインが最後の演奏会で着た上着を譲り受け、仕立て直したものだとのこと。それを着て、師の作品と、師が最後の演奏会(タングルウッド)で指揮した最後の曲目であるベートーヴェンの「7番」を指揮するのだから、彼としては師の霊とともに指揮台に立つような気分だったことだろう。

 それもあってか、今日はすべての演奏が沸騰して熱気にあふれていた。東京フィルも充分沸き立っていたし、もちろん第1ヴァイオリン群も金曜日と違って張りのある音を聞かせてくれた(弾き方やホールや、こちらの聴く位置にもよるのだろうが、不思議だ)。

 「ミュージカル・トースト」では、オーケストラの楽員が歌う「アンドレ・コステラネッツ」という歌詞(この曲は彼への追悼とのこと・プログラム掲載の松岡由起氏の解説による)を、東京フィルの楽員が本番の時だけ「Viva Eiji Oue」と言い換えて指揮者を驚かせた(演奏後、袖に引っ込んだ大植が「みんな、なんか(僕の名前を)言ったぜ」とびっくりしていたという話を聞いた)。

 「キャンディード」組曲は、有名な「序曲」も、「着飾って、きらびやかに」も入っていない選曲だが、しかし要領を得た編曲で、燃え立つような勢いのいいリズムの演奏が爽快を極める。ハーモン編曲のこの組曲版は、大植とミネソタ管弦楽団に捧げられており(スコアの最初のページの曲名の上には「For Eiji Oue and Minesota Orchestra」と麗々しく印刷されている)、これも彼の誇りの一つだろう。

 ベートーヴェンの「7番」では、さすがにチャイコフスキーを指揮する時とは異なり、リズムのエネルギー感を噴出させたストレートな表現となった。
 ただ、第4楽章で、あのリズム動機が2発叩きつけられるあとでその都度長めのパウゼ(休止)を取るのはいいとしても(全く私の好みではないが)、コーダに入ったところ(第352、354小節)でもこのテを繰り返すのは、せっかく奔流のように進んで来た音楽を堰き止めるような結果を生むので、賛成はしかねる。もちろん彼としては、そこで音楽が新しいステージに入ったことを示したかったのだろう。たしかにそういう面白い効果はうまれていたが、少々くどさも感じさせるのだ。
 東京フィルは、第1楽章提示部でのフルートのソロに楽器の故障か、妙な雑音が混じったことを除けば、見事な盛り上がりだった。

 冒頭に置かれた山田耕筰の「序曲」は、今日が彼の誕生日であることに因んだものか。わが国最初の大規模な管弦楽曲とも言われるが、ドイツ前期ロマン派の作風をモデルにしていて、ウェーバーそっくりの音楽になっている。ナマで聴いたのはこれが初めてで、貴重な体験であった。

 「キャンディード」が終ろうとする瞬間に騒々しくブラヴォーを叫び始めた御仁が1階中央下手側にいた。全く常識外れな人だ、と白けた気持になる。
 だが、そのあとの客席の拍手が妙に薄く、後方上階席あたりからしか聞こえて来ないのに驚き、周囲を見渡すと、何故か皆、手は動かしているけれど、音を出していないのだった。音を立てなければ、演奏者への賞賛にならないだろうに!(ステージから見えればいいというわけか?)。
 さらに、私の後ろに座っていた初老の御仁は、手も叩かずにふんぞり返ったまま、大植の派手なカーテンコールでの身振りを見ながら連れに「吉本の芸人タイプだよ、あれは」などと解説しているのだった。いったいあなた、何しに来たんですか、拍手くらいしたってバチはあたらんでしょうが、と文句の一つも言いたくなる。
 この種の手合いに比べれば、最前のフライング・ブラヴォー御仁の方が、よほど演奏者と一体になるという熱意があるだろう、などと思い直した次第であった。
      ⇒音楽の友8月号 演奏会評

6・8(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   横浜みなとみらいホール  6時

 ボロディンの「イーゴリ公」序曲(グラズノフ編)、サン=サーンスのピアノ協奏曲第5番「エジプト風」、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」というプログラム。

 ピアノ協奏曲では伊藤恵が実に見事なソロを聴かせてくれた。「エジプト風」はめったにナマでは演奏されない曲だし、それに、彼女がこんな曲を手がけるとは知らなかった。瑞々しく爽やかな演奏である。実力派ピアニストの面目躍如たるものがあろう。

 ラザレフと日本フィルの本領発揮は、もちろん「シェエラザード」においてである。今日は金管や木管に思いがけない瑕疵が続出したが、演奏全体に色彩感と熱気があり、何より演奏の流れが快適だったので、良しとしよう。
 圧巻は、快速テンポで突進した第4楽章だ。速いテンポのために正確さが失われたところもないとは言えなかったものの、色彩的なエネルギーの昂揚感の目覚ましさに、この曲の面白さを再認識した次第。
 今日のシェエラザード役は江口有香(コンサートミストレス)。艶やかな口調、王をたしなめるような口調、「怖い話ですよ」と脅すような口調など、千一夜の語り口を多彩に弾き分けた。

 ラザレフは例によって獅子奮迅の指揮ぶり、愛想の良いカーテンコール。アンコールでは「イーゴリ公」の「ポロヴェッツの娘たちの踊り」を始めたので、まさかこの「ポロヴェッツ人の踊り」(15分くらいかかる)全部をやるつもりなのでは? とギョッとしたが、幸いに(?)頭のところだけで終了。

6・8(土)小山実稚恵の世界~ピアノでつづるロマンの旅

   BUNKAMURAオーチャードホール  3時

 オーチャードホールでの小山実稚恵のリサイタル。年2回ずつ、12年間にわたるシリーズの第15回は、「夢想と情熱」。
 ステージには大きな赤い花が飾られ、「炎」と「赤」をイメージ・モティーフに「夢想と情熱」を表わすというわけ。

 第1部はシューマンの「トッカータ ハ長調」に始まり、ブラームスの「パガニーニの主題による変奏曲」の第2集、バッハの「シャコンヌ」(ブゾー二編)。
 第2部はリスト・プロだ。彼の編曲によるベルリオーズの「幻想交響曲」第4楽章と第5楽章及びワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「愛の死」、そして自作の「ダンテを読んで」が演奏された。次回にはベートーヴェンの「田園」全曲をやるというし、いまや完全に「リスト状態」か? 

 きりりと引き締まった激しい意志が、透明で澄んだ音色のしなやかな優しさと結びついている点で、わが国の女性ピアニストの中でも小山実稚恵の右に出る人はいないだろう。前半の3曲と、最後の「ダンテを読んで」では、それが充分に発揮されていた。ブラームスから「シャコンヌ」の重厚で暗い音色に一転する呼吸の鮮やかさなど、さすがのものがある。

 ただ、「幻想交響曲」のような編曲ものとなると――ベルリオーズの曲想とリストのピアノの手法に共通する一種の傍若無人な野性味といったものが、もう少しあからさまに表現されてもいいのではないか、という気もする。彼女の育ちの良さが、それを妨げているのだろうか? ダイナミックではあるが、どこか整然としているのである。

6・7(金)大植英次指揮東京フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時

 その東京フィル、今夜は非常に闊達な、熱っぽい演奏をした。
 昨夜のことを思うと、やっぱり定期公演は「本隊」が、オペラの演奏は「支隊」が受け持つということか――などと勘ぐりたくもなる。実際は必ずしもそうではないらしいのだが、演奏を聴く限り、そうとしか思えないような印象を受けるのである。今に始まったことではないのだが、この問題は、いったいいつになったら解決されるのだろう?

 なにも、大きな音で豪快に鳴ればいいと言っているわけではない。が、たとえピアニッシモであっても、アダージョであっても、とにかく演奏に気魄と熱気、張りと力が欲しいのである。
 今日は大植英次の猛烈にアクの強い指揮により、R・シュトラウスの「ばらの騎士」組曲と、チャイコフスキーの「交響曲第5番」を演奏したが、オーケストラには、少なくとも「熱っぽい」雰囲気があったと思う。

 大植英次の指揮は、近年ますます思い入れが強くなって来たようだ。テンポを大きく動かし、ゲネラル・パウゼを長くとって矯めをつくり、楽譜に指定されているデュナーミクをさらに強調し、時にはその指定の有無にかかわらず存分に表情を誇張するといった具合で、・・・・昔ミネソタ管弦楽団で彼の指揮を初めて聴いた頃の、あのしなやかで颯爽たるスタイルの音楽づくりに比較すると、まるで別人の如き趣がある。
 もちろん、レパートリーによってそのスタイルは違うだろう。しかしこの方向でどこまで行くのか・・・・と、少々気になるところではある。

 「ばらの騎士」では、たとえばワルツの個所など、あまりに持って回ったテンポの演奏で、少々辟易させられた。だが一方、チャイコフスキーの「5番」になると、曲の性格上、そうした大芝居調も――ある程度は、だが――有効に生きて来る場合もある。
 前半2楽章は恩師バーンスタインの晩年のテンポにも似て極度に遅かったが、第4楽章の主部は、かつてソ連時代の指揮者たちがよくやっていたような猛速テンポで突っ走った。最初から最後まで激動する音楽ともいうべく、非常に表情の強い指揮である。

 こういうチャイコフスキーは近年あまり聞かないスタイルだが、大植英次のそれが独自の美学ならば、それはそれでいいではないか、という気もする。
 ただこの絶えざる激動が、人工的な演出臭さといったものを脱して、もっと自然な躍動を感じさせる域――たとえばゲルギエフのそれのように――にまで達すればいいのだが、とも思う。

 東京フィルは、特に「5番」では、よく指揮者に合わせて「大鳴動」していた。ホルンの1番とセクション全体の奮闘は見事である。第2楽章冒頭のホルンのソロがあんなに勢いよく吹かれた演奏は初めて聴いた。「ドルチェ」で「エスプレッシーヴォ」というスコアの指定からすれば、少々違和感がないでもないが・・・・。ホルンを含め金管群はかなり豪勢で、しばしば弦を打ち消すほどだった。
 弦はたいへん柔らかい音を出していて、ガリガリ弾かないのは聴いていても気持がいいけれども、第1ヴァイオリンなどあまり響かないのはどうしてだろう? 先日の「ローマの松」の時と似ている。第4楽章の第85小節、93小節のヴァイオリンのピチカートが、メゾ・フォルテの指定にもかかわらず聞こえにくいというのは具合が悪いのではなかろうか。

6・6(木)新国立劇場 モーツァルト:「コジ・ファン・トゥッテ」

   新国立劇場オペラパレス  6時30分

 こちらはもちろん映像でなく、ナマの上演。
 2011年5月にプレミエされたダミアーノ・ミキエレットの、例のキャンプ場を舞台にした演出の再演である。

 夏のキャンプ場にCamping Alfonsoなるスナック(?)を経営するドン・アルフォンソ(マウリツィオ・ムラーロ)とそのウェイトレスたるデスピーナ(天羽明惠)のところへ、多分キャンピング・カーで乗りつけたのが2組のカップル――フィオルディリージ(ミア・パーション)とグリエルモ(ドミニク・ケーニンガー)、ドラベッラ(ジェニファー・ホロウェイ)とフェルランド(パオロ・ファナーレ)で、ストーリーそのものは大筋においてオリジナル通りに展開する。ただしラストシーンだけは、今日お定まりの「大破局」になる、という寸法である。

 演技も非常に細緻精妙だし、回転舞台を駆使して場面転換を図る手法も巧く出来ているし、コカ・コーラの缶やサッカーを中継するテレビなどの小道具も念入りに作られている。美術・衣装(パオロ・ファンティン)と照明(アレッサンドロ・カルレッティ)を含め、まずはそれなりによくまとまっているプロダクション、と言っていい。
 残念ながら歌手陣にはかなりのムラがあるが、当初の予定から変更になった歌手もいるようなので、これは致し方なかろう。

 今回の指揮はイヴ・アベル。この人、実は私はこれまであまり聴いたことがなかったが、テンポも盛り上げ方も悪くない。少なくともプレミエの時に振ったダラダラしたテンポの某指揮者とは格段の差がある。

 ただし、東京フィルの演奏は、プレミエ時同様、相変わらず冴えない。序曲など、あまりの貧弱な音に情けなくなり、これは今回もダメかと思ったほどだ。第1幕途中あたりから少し持ち直したが、しかしモーツァルトがこの作品のオーケストラ・パートに織り込んだ恐るべき官能的な感覚、微細な感情の変化の描写、天国的な和音の美しさなど、円熟期の手法を正確に再現するには、こんな程度の演奏ではとても役目を果たすことができない。このオケは、そもそもオペラを本当に愛していないんじゃないか?とまで思ってしまう。

 休憩時間に、傍を歩いていた若いカップルのうちの女性が、「筋は知っていたけど、観るとオモシローイ」と楽しそうな顔をしていた。若い人をオペラに惹きつけるには、こういう現代的な舞台の方が効果的なのではないかと、私も思う。
 また、うしろから歩いて来たおばちゃんたちは、「あの○○って人、歌はヘタねえ」「□□も上手くないわね」「アルフォンソはよかったんじゃない?」「うん、アルフォンソはね」と、言いたい放題、批評していた。当節のオバチャンたちは手ごわいから、だいじにしなくてはいけない。

 9時50分終演。

6・5(水)パリ・オペラ座ライブビューイング ヴェルディ:「ファルスタッフ」

    ブロードメディア月島試写室  5時

 こちらはMETならぬ、パリ・オペラ座の上演ライヴ上映のシリーズ。
 ブロードメディア・スタジオの配給により、今後映画館で上映されるのは、2012~13年のシーズンにおける上演演目から、オペラ5作品、バレエ3作品とのことである。今日は記者向けの試写会だ。

 これは、去る3月12日、バスティーユで上演されたヴェルディの「ファルスタッフ」で、ダニエル・オーレンの指揮、ドミニク・ピトワゼの演出。アンブロージョ・マエストリ(ファルスタッフ)、アルトゥール・ルチンスキ(フォード)、スヴェトラ・ヴァシリエヴァ(アリーチェ)、マリー=ニコル・ルミュー(クイックリー夫人)、ガエル・アルケス(メグ)、エレーナ・ツァラゴワ(ナンネッタ)らが出演している。

 演出はごくオーソドックスでストレートだが、演技が非常に微細だし、主要歌手陣も――フェントン役のパオロ・ファナーレがダイコンなのを除けば――演技も歌もみんなしっかりしており、特に女声陣は美女揃いということもあって、観ていてすこぶる楽しい。第3幕の、ファルスタッフがコテンパンに苛められるくだりの舞台の動きは少々生ぬるい感じもあったが、第1幕と第2幕は動きも闊達で、音楽の細かい躍動との快い一致を示していた。
 これは音楽面でも同様である。オーレンは、第3幕ではテンポの間延びも含めて、やや勢いを失ったような印象もあったが、第2幕までは言葉と音楽のバランスを実に見事に構築していた。

 それにしても、この「ファルスタッフ」というオペラ、イタリア語がそのまま音楽となり、言葉と音楽とが最高の意味で合致した、本当に稀有な作品ではなかろうか。
 こういう作品は、無神経な指揮者が振るとどうしようもなく散漫な印象になってしまうものだが、巧い指揮者の手にかかれば、それが充分生きて来る。たとえばトスカニーニの指揮を聴くと、ヴェルディがどんなに言葉と音楽を細心の注意を払って精妙に組み合わせているかが、ありありと判る。いや「ファルスタッフ」だけではない、「オテロ」も「リゴレット」も「椿姫」も、トスカニーニが指揮すると、どれも言葉が素晴らしく生きているのが判る。作品を生かすも殺すも、指揮者次第である。

 上映時間は、短い休憩1回を含め、2時間45分ほど。歌手たち何人かへのインタビューも織り込まれているが、進行役が喋りすぎるきらいがなくもない。

6・4(火)アンネ=ゾフィー・ムター ヴァイオリン・リサイタル

   サントリーホール  7時

 実に久しぶりに聴くムター。
 今回はランバート・オーキスのピアノとの協演で、モーツァルトの「ソナタ ト長調K.379」、シューベルトの「幻想曲」、ルトスワフスキの「パルティータ」、サン=サーンスの「ソナタ第1番」というプログラムを披露してくれた。

 容姿と演奏にあふれる、如何にも女王然とした風格もさることながら、艶やかな音色とあふれるカンタービレ、スケールの大きな音楽づくり、聴衆を惹きつけずにはおかない雰囲気など、相変わらず健在である。
 それに加えて最近は、何か極度に粘り気のある、耽美的な表情がいっそう濃くなってきたのではなかろうか? 冒頭のモーツァルトのソナタなど、いまどきこんなねっとりした甘美なモーツァルトを創る人はちょっと他に例を見ないだろう――それはそれで彼女の美学だし、揶揄非難される筋合いはない。しかもシューベルトの「幻想曲」になると、この濃厚きわまるカンタービレが見事に生きて来る。最後の追い込みも、堂々たる風格だ。

 さらに面白かったのはルトスワフスキの「パルティータ」。こういう曲においてさえ、彼女の演奏は決して鋭角的に刺々しくならず、あくまで温かく、一つ一つの音を慈しむようなものになるのである。サン=サーンスのソナタでも彼女のこの個性は充分に発揮されたが、これはいかんせん、曲がつまらない。
 アンコールは、ラヴェルの「ハバネラ」、マスネの「タイースの瞑想曲」、ブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」。最初の2曲での妖艶で甘美を極めた演奏に、今のムターが貫く独自の姿勢を聴くような気がした。

 オーキスの演奏は、いつもながら温かい。昨夜リムが弾いたヘヴィ・メタル的ベートーヴェンの音がまだ耳に残っていただけに、今夜オーキスが最初にモーツァルトを弾き始めた柔らかい音を聞いた瞬間、何だかおそろしくホッとして、「ピアノってのはこういう音なんだよなあ」などと思ってしまった・・・・。

6・3(月)HJリムのベートーヴェン ピアノ・ソナタ・ツィクルス初日

   浜離宮朝日ホール  7時

 EMIからCDが次々と出て話題になっている韓国出身の若い女性ピアニスト、HJリム(本名は「リム・ヒュンジュン」とのこと)のベートーヴェンのピアノ・ソナタのツィクルスが開始された。
 朝日ホールで、今月21日まで8回にわたり30曲(第19番と20番は含まれていない)が演奏される。

 この若さで、すでに一昨年に最初のツィクルスを行い、全集CD(ここでも前出の2曲を除く)を出し、膨大かつ詳細な解説文を自ら書き、プレトークをやり、しかも初日の1曲目をあの巨大な「ハンマークラヴィーア・ソナタ」で開始する。恐れを知らぬ突撃猛進ぶりである。若さ噴出、その意気や良し。
 今夜のプログラムは、そのあとに第11番と、第26番「告別」。

 意気軒昂はいいけれども、正直なところ、聴いていると非常に疲れる。
 だいたい私は、大きな高い声で、しかも猛烈な早口で喋り続ける人というのは、ふだんから苦手だ。彼女の演奏は、ちょうどそんな人の喋り方に似ているような気がする。極めて速いテンポで、常にフォルティシモで、慌ただしいルバートを多用しながら進んで行く。アレグロはプレストに近く、しかも常に一貫してハイ・テンションを保つ。

 そもそも、ベートーヴェンの音楽が並外れた力動性を備えているのは周知の事実だが、といって、そのダイナミズムのみを極端なまでに追求するというのは、如何なものか? そして、彼女の今の演奏には、あまりに速いテンポで弾き飛ばすために、音符の一つ一つに明晰さを欠く部分が多く、主題の形そのものが崩れてしまうという欠点が少なくない。これも、今後の課題だろう。

 私の好みには全然合わないというのは確かだが、翻って考えてみれば、これはまた、ある意味で面白いベートーヴェンが出て来たという気もする。21世紀の東洋の若者は、伝統の枠に嵌ることなく、こういうハードロックのような音のベートーヴェンを、誰に憚ることなく打ち出せるようになったのだ・・・・。 
 しかも彼女は彼女なりに、解説文においてベートーヴェンのプロメテウス的な特質を論じ、それに基づいて、このテンポやデュナミークの正当性を主張しているのである(プレトークでも、自らピアノを弾いてそれを証明して見せていた)。そこには若さゆえの一方的な論旨も見られるけれども、傾聴するだけの価値はある。
 HJリム、まだ若い。これからもいろいろに変わって行くだろう。

6・1(土)広上淳一指揮東京交響楽団の「伊福部昭作品集」GP

   ミューザ川崎シンフォニーホール  午前11時

 本番は午後3時からだったが、あいにく日本ワーグナー協会の理事・評議員会とぶつかってしまったので、東響に頼んで本番前のゲネプロを取材させてもらった。何しろプログラムが、伊福部昭の「舞踊音楽 プロメテの火」と、「舞踊音楽 日本の太鼓 鹿踊り」という、ふだん聞く機会のないような作品だったからだ。

 「プロメテの火」は1950年に帝劇で、「日本の太鼓」は1951年に日比谷公会堂で、いずれも東京響(当時は東宝響)の演奏、上田仁の指揮で初演されたもので、その時の舞踊は江口隆哉・宮操子夫妻(いずれも故人)の手により制作されたそうである。
 今回、東京響が「現代日本音楽の夕べシリーズ」を17年ぶりに再開するにあたり、伊福部昭生誕100年(1914年)記念プレコンサートの意味を含めてこの2作を取り上げたのは、同団にとっても意義深いことと言えるだろう。
 しかも今日の「日本の太鼓」では、昨年5月に行われた宮操子三回忌メモリアル公演でのダンスの映像が、オルガン前に設置された巨大なスクリーンに投映され、広上とオーケストラはその映像に合わせて演奏するという大掛かりな方法が採られていたのである。

 本番を控えてのリハーサルだから、「プロメテ」は、全曲50分の作品のうち、要所が10分ほど演奏されるにとどまった。
 しかし「日本の太鼓」の方は、映像に合わせて全曲(約30分)が演奏された。リズムが重要な要素となるダンスの映像にピタリと合致させてナマ演奏をするくらい難しいことはなかろう。このリハーサルでも何の具合かあれこれあって、指揮者も楽員も大爆笑という結末になってしまったが、本番ではきっとうまく行ったことと思う。

 とにかく、広上淳一と東京響の演奏が見事だったので、「ゴジラ」や「交響譚詩」などとは全く異なる、重厚壮大な伊福部昭のイメージが充分に再現されていた。伊福部独特のオスティナートは、嫌いな人にとってはどうしようもないものかもしれないが、あの「繰り返しの恍惚」は、私には不思議な魅力を感じさせるものである。リハーサルではあったが、その魅力をたっぷりと味わうことができた。

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