2017-11

7・8(日)エクサン・プロヴァンス音楽祭
ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」

プロヴァンス大劇場

 当初、このプロダクションは、共同制作であるザルツブルク・イースター音楽祭での来年3月の上演のときに観に行くつもりだった。でも、それに先んじて、新しくできた劇場で観ておくのも悪くない。 

 竣工が予定より1年遅れ、昨年の「ラインの黄金」に間に合わなかったという曰くつきのこの新しい劇場は、噴水広場(ロトンド)の西側に直結した再開発ニュータウンの一角にある。外構や道路などはまだ工事中である。ホワイエは明るく広いが、客席への通路は相変わらず狭くて効率が悪い。新国立劇場中劇場に似た構造で、客席が階段状になったその下方に舞台があるという作りだから、通路も狭くなる。火事でも起こった日には、1階席の客の7割は絶望的だろう。今回入手できたのは前から2列目のほぼ中央、オーケストラを至近距離で聴ける席であった。

 それにしても、サイモン・ラトルとベルリン・フィルが創る音楽は、この1、2年来、なんと成長してきていることだろうか。特にロマン派の作品を演奏する際の、昔のような刺々しさは、もはや完全に影を潜めた。
 たとえば第1幕終結近く、ジークムントがトネリコから抜き取った剣をかざし、ジークリンデに向かい「ヴェルゼの子、このジークムントをごらん!」と歌うくだり、弦の分散和音に彩られつつ6連音符を刻んで行く木管群の響きに漂う形容しがたいエロティシズムのすばらしさ。これは、かつてのフルトヴェングラー=ウィーン・フィルの録音で聴くそれに勝るとも劣らぬものであった。
 また第3幕での、「ヴォータンの告別」頂点を創るクレッシェンドも、決して力まず怒号せず、管と弦とに驚異的なほど絶妙な調和を持たせつつ、非常に温かい音色で盛り上げて行く。しかもこの個所でのヴォータンの演技には、父親としての情愛がきわめて色濃く顕れており(現代の読み替え演出によくあるような父と娘の妙な関係ではなく、非常に自然な親子の関係である)、音楽と完璧に合致して、胸を衝かれるような思いにさせられるのである。

 全般的に言えば、ラトルのアプローチはシンフォニックなスタイルである。オーケストラの最強音の上に声を浮かび上がらせるようなテクニックからいえば、歌劇場を本拠にする指揮者に一歩を譲るかもしれないが、オペラを声つきのシンフォニーのようにオーケストラ主導で描きだす手法においては成功している。特にワーグナーの作品においては、それが完璧に生きる。それに、何といっても強力無比で雄弁な音楽を創るベルリン・フィルである。劇的な個所にしろ叙情的な個所にしろ、ここぞというところで彼らが響かせる音楽は圧倒的なものがある。今回の演奏の中にも、息を呑ませられる瞬間がいくつもあった。

 しかしこれは、歌手たちがオーケストラに埋もれたということではない。主役たちはいずれも優れた歌唱と演技を示していた。
 たとえば、ウィラード・ホワイト(ヴォータン)は、神々の長としての威風よりも父親としての苦悩と愛情の表現に卓越していた。
 エヴァ・ヨハンソン(ブリュンヒルデ)も、愛らしい娘としての役を演じ、サロメやマリア(平和の日)などでの女傑ぶりとは異なるヒューマンな役柄表現をうまくこなしている。つまり2人とも、大神と戦乙女の関係というより、情愛こもる父と娘とを浮き彫りにしていたのである。
 ロバート・ギャンビル(ジークムント)はいつもどおりの安定感だ。エファ=マリア・ウェストブレイク(ジークリンデ)がひたむきで愛らしく、少し色っぽいところもあって好演。この人も本当にいいソプラノになった。
 ミハイル・ペトレンコ(フンディング)が黒づくめの服装に暗い顔立ちで、秘密警察みたいなイメージの役柄を演じていた。彼のバスは、フンディングにしては重くないのだが、なかなか良い。リリー・パーシキヴィ(フリッカ)も安定感であろう。
 かように、音楽面ではきわめて優れた水準を示した上演だったのだが・・・・。

 演出と舞台美術は、このチクルスをすべて担当しているステファーヌ・ブランシュヴァイク。
 第1幕はプレハブ的な建物の内部で、「春の訪れ」の箇所では大扉は開かないけれども照明の変化で効果を出すという趣向があり、それはなかなかに美しく、この瞬間には新劇場でのニュー・プロダクションとしての舞台に大いなる期待感をもたせた。だが、第2幕と第3幕では、前作の「ラインの黄金」の舞台をほぼそのまま使い、もしくは応用するという程度で、新鮮さを急激に失わせてしまう。
 特に第2幕大詰、ジークムントらによる戦闘の場も、奥のセリの上で様式的な演技が行なわれるのみで、それぞれの人物の心理描写などは皆無だ。第3幕の「ヴァルキューレの騎行」では、女たちが死体(人形)をスロープ上に引っ張り上げつつ歌う。魔の炎に包まれるはずのブリュンヒルデは、ここでは椅子の上に寝る(また椅子だ!)。炎は映像が投影されるきわめて簡単な手法で、見せ場としては面白みがない。スペクタクルとしての舞台作りは、センスがないのか、あるいはカネが無いのか、なんとも拍子抜けさせられる結果となっている。

 そういえば、今春のザルツブルク・イースターでの前作「ラインの黄金」の舞台が不評だった際に、「共同制作であるエクスの舞台構造の制限もあったからああなった」と一所懸命に弁護する人がいたようだが、新劇場で上演されたこの「ワルキューレ」を観ると、どうもそうではないように思える。「もともとこの程度」なのではなかろうか。
 ただその反面、演技の細部はよく整えられている。ヴォータンの不安な目付き、ブリュンヒルデの無邪気な表情など、なかなかいい。ただしこれは2列目で観たからこそわかるというものだ。

 総じて言えば、音楽的には期待以上のすばらしさではあったものの、舞台としては、この程度のものをわざわざ高い金を払って観にきたのか、という印象が本音である。
 さて、来年春のザルツブルク・イースター・フェスティバルでの上演までに、どのくらい手直しがなされるか、だ。

7・7(土)エクサン・プロヴァンス音楽祭 
モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」

アルシェヴェーシェ劇場

 もともと予定はなかったのだが、たまたまチケットが2日分だけ手に入ったので、急遽訪れた次第。マルセーユの空港に降り立つと、南欧の目に染みるほどの青空が実に美しい。そのかわり、日差しの強さは目も眩むほどで、ホテルから会場まで歩くにはすこぶる忍耐を要する。

 アルシェヴェーシェ劇場は、昨年まではメインの大会場として使用されていた半野外劇場。建物の中庭に設けられており、客席の前方は星空を望み、後方は2階席スタンドに覆われる。オーケストラの響きはあまり良いとは言えない。こんな室内オペラ的な会場でありながら、昨年はよくぞあのような大編成オケによる「ラインの黄金」を演奏できたものだと感心する。

 ダニエル・ハーディングが指揮するマーラー・チェンバー・オーケストラが、例の尖ったスタイルで演奏する。残響の豊かな、もっと小さなホールで聴いたなら、これは至高の音楽ともなるだろう。問題は、その響きよりも、テンポである。アーノンクールの指揮にも言えることだが、このテンポと「間(ま)」の設定には、私はいつも苛々させられるのだ。もっとストレートなテンポを保って進められないものかとさえ思うのだが、しかしそのくどい「間」やリタルダンドに演技がぴたりと合っているという作りだから、ドラマとして立派に成立していることは認めなければならぬ。

 その演出は、ヴァンサン・ブッサール。ルクセンブルク大劇場との共同制作によるエクサン・プロヴァンス音楽祭の新制作プロダクション。舞台上の小道具といえばマットレスと椅子だけというシンプルなもの。人間相関図にはあまり妙な深読みとかこじつけはなく、オリジナル通りのストレートな設定が行なわれているが、各人物の性格表現にはすこぶる微細な動きがあり、ドラマとしても愉しい。

 歌手陣ではネイサン・グン(伯爵)とマリー・マクローリン(マルチェリーナ)に存在感があり、ジョルジョ・カオドゥーロ(フィガロ)は比較的無難、マリン・クリステンソン(スザンナ)は柔らかい声だが、声そのものにはシンが不足してこのスタイルの中ではやや異質だろう。
 
 夜9時半開演だったので、終演は深夜1時15分。南欧の連中はどういう感覚でこんなスケジュールを組むのやら。しかもお喋りをしつつ、のんびりと(だらだらと、という感じか)歩く欧州の爺さま婆さまたちのおかげで、会場を出るだけで10分以上も時間がかかる。足早に歩くであろう若い観客が少ないのには驚かされる。この観客の年代構成は、由々しき問題ではなかろうか。

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