2017-06

5・31(金)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルハーモニー交響楽団
レスピーギ:「ローマ3部作」

  サントリーホール  7時

 一昨年2月、二期会の「ナブッコ」を指揮しに現われたのが、当時24歳だったこのバッティストーニだった。
 若々しい活力にあふれたダイナミックな指揮で、しかも抒情的なカンタービレも充分に備えた音楽に、これは素晴らしい若手が登場して来たものだ、と大喜びしたものである。

 そのバッティストーニの、コンサートでの指揮が、今回初めて聴けたのはうれしい。
 今日は、レスピーギの「ローマ3部作」(だけ)というプログラムである。演奏順序は、「ローマの噴水」「ローマの祭」、休憩後に「ローマの松」。
 躍動するようなエネルギー感が快く、テンポ感も極めて好い。「アッピア街道の松」でも、殊更に不要なアッチェルランドをかけることなく、最後まで堂々のテンポで行進曲を盛り上げて行ったのも気に入った。いい若手指揮者だ。

 ただ、3曲のうち、バンダをP席最上段に2人ずつ下手側・中央・上手側に配置した「ローマの松」が最もホールの空間性を生かした効果を発揮するだろうと予想していたのだが、何故かオーケストラの響きが散り気味に聞こえてしまい、柔らかい音色の弦もあまり明確に伝わって来ず、――席はいつも聞いている2階正面前列だったのに、オケの音がこんな風に聞こえたのは初めてで、戸惑った――クライマックスは華やかではあったが、不思議にカチッとした核を欠いていたように感じられてしまったのである。
 オケがあんなに厚みのある豊麗な音で「鳴って」いるのに、それが圧倒的な力感で伝わって来るという演奏に聞こえないのは、不思議だ。何かマシュマロみたいな感じなのだ・・・・。

 その点、最もバランスが良かったのは、むしろ「ローマの祭」だったのではなかろうか? 聴衆の反応も、「祭」では沸きに沸いたにもかかわらず、「松」ではブラヴォーが意外に少なかったところを見ると、私が得た印象もさほど皆さんと違っていなかったと思われる。

 アンコールでは、「アッピア街道の松」がもう一度演奏された。これは予定になかったことらしく、バンダの場所では、一度退場しかけた奏者がまた戻って来たり、一度片づけた譜面台や譜面を慌てて運び込み、セットし直したりする光景も見られた。だが、演奏の特徴には、それほどの変化はなかった。

5・27(月)沼尻竜典指揮デュッセルドルフ交響楽団 武満&「第9」

    デュッセルドルフ・トーンハレ  8時

 デュッセルドルフ歌劇場からそう遠くないライン河に架かるオーバーカッセラー橋。そのたもとに、コンサートホール「トーンハレ」がある。
 プラネタリウムを改装したとかいう、円形の不思議な建物だ。

 1階のホワイエなどは、休憩所といった造りである。中央の広いスペースを取り巻く何本もの柱には、ロベルト・シューマン、ブーレーズ、ブレンデルらアーティストの巨大な顔写真が飾られており、入ってすぐの柱には小澤征爾の写真も見えて、何となく嬉しくなった(欧州でのオザワの人気が如何に凄いものだったか、日本にいると意外に実感が伴わないのが皮肉だ。写真を眺めていると、数年前のパリ・オペラ座での観客の彼への熱狂ぶりなどを思い出す。彼はもう一度世界の楽界で活躍することが出来るだろうか? 一抹の寂しさを感じないではいられない)。

 ホール内にもプラネタリウムの雰囲気が未だ残されており、小さな照明が高い天井までの壁一面に星空のごとく美しく散りばめられている。
 しかもプログラムは、武満徹の「鳥は星形の庭へ降りる」と、ベートーヴェンの「第9交響曲」だ。「第9」の第4楽章の荘厳な「星のあげばりの上に神は住みたもう」という個所など、その「星空」を見上げながら聴いていると、何だかとてもいい気持になる。

 沼尻竜典が指揮するデュッセルドルフ交響楽団(現・音楽総監督はアンドレイ・ボレイコ)の今回の演奏会は、24、26日に続いて今夜が3回目の公演。ホールは1500名ほどのキャパだそうだが、ほぼ満席であった。
 武満の「鳥は星形の庭へ降りる」は、日本のオケが演奏した時の「水彩画的」な響きとはニュアンスを異にして、極めて明晰で隈取のはっきりした構築の作品に聞こえる。マエストロ沼尻はかなりオケに注文をつけたと聞くが、それでもあえてオケのカラーを生かしつつ、武満作品への新しいアプローチを試みていたように感じられた。

 休憩を挟んで、「第9」。
 実に爽快で、瑞々しい演奏だった。しかも美しい。久しぶりにこの曲の良さを味わったような気がする。弦も管も、一人ひとりの音、一つ一つの音が明快で、良い意味でケバ立っていて各々の個性を感じさせ、音楽が極めて刺激的に聞こえるからだろう。
 それは日本のオーケストラが演奏する時の、調和を最優先させた、なだらかな響きとは全く違う。日本人の国民性が反映された演奏にもそれなりの特色があると思うが、このようなギザギザした「第9」の面白さもまた格別である。

 たとえば、第2楽章冒頭で第2ヴァイオリンが開始した主題に次々と各楽器が加わり、クレッシェンドを重ねて行く個所などでは、その過程が明確に判り、音楽が鋭く増殖して行く――というように聞こえて、スリルさえ感じさせるのだ。
 合唱(デュッセルドルフ州立ムジークフェライン合唱団、とでも言ったらいいのか?)にしても同様である。端的な例を挙げれば、あの有名な主題を4人のソリストが2度目に歌ったあと、バスのコーラスが他のパートより早く「Ja!」と入って来る個所。その一言におけるアクセントとパンチの強さたるや物凄く、いかにも4人の呼びかけに人々が熱狂して「そうだ!」と賛意を表し、叫ぶさまを感じさせる。少々ロマン・ロラン的な解釈になるかもしれないが、ベートーヴェンが意図したものは、まさにこのような「共感の叫び」だったのではなかろうか? 

 もっとも、あとでマエストロに聞いたら、「そういうのは全部、僕が細かく指示して練習したんですよ」とのこと。しかしそのあとで「でも(Ja!の)あれだけの強烈な出方は・・・・ね(やっぱりドイツのコーラスならでは、だよね)」と感想がつけ加えられた。

 声楽ソリストは、ダーラ・ホッブス(ソプラノ)、ウタ・クリスティーナ・ゲオルク(アルト)、ヨセフ・カン(テノール)、ヴィルヘルム・シュヴィンクハンマー(バス)。概して手堅いが、テノールのソロだけは、あの行進曲の個所で、群衆の先頭に立って勇壮に進軍を歌うべき力強さとメリハリに不足するきらいがあった。

 武満作品への拍手は一種戸惑ったような雰囲気も感じさせたが、まあ仕方のないところだろう。
 盛り上がりが見事だった「第9」のあとには、予想通り、熱狂的な反応。沼尻の客演指揮の成功を証明する、いいコンサートであった。

 なお開演前に舞台上の主催者から、「本日の演奏会は恒例の《日本デー》との関連催事でありまして、日本の総領事閣下もお見えになっております」との挨拶があり、場内から大きな拍手が沸き、私の隣に座っていた日本人紳士がいきなり立ち上がって答礼していた。この方が小井沼総領事だった。それまで知らん顔をして座っていた私も、慌てて総領事に名刺を出して挨拶。

 この「日本デー」は、デュッセルドルフの名行事だそうだが、私は未だ見たことがない。そういえば先週土曜日に、エッセン駅からコスプレの若い女の子たちが大挙して満員電車に乗り込み、デュッセルドルフ方面に向かったのを見たが、中にはキモノを着たドイツ人ギャルたちもいたので、何だろうと思っていたのである。土曜日だかの夜には、日本製の花火も賑やかに打ち上げられたそうである(ただし猛烈に寒かったという)。
 これで今回の日程は終り。明朝、帰国の途につく。

5・26(日)ライン・ドイツオペラ ワーグナー:「ワルキューレ」
クルト・ホレス演出、アクセル・コーバー指揮

    デュースブルク(デュイスブルク)劇場  5時

 エッセンからICEで30分弱、デュッセルドルフに移動し、デュッセルドルフ歌劇場のすぐ近くに在るシュタイゲンベルガー・パークホテルに投宿。

 ここの歌劇場と、エッセンとの間にあるデュースブルク(デュイスブルク)の劇場とが合同して「ライン・ドイツオペラ」を形成していることは周知の通り。知人の薦めでデュースブルクまで「ワルキューレ」を観に行くことにした。

 この「ワルキューレ」は、かつてライン・ドイツオペラのゲネラル・インテンダントだったクルト・ホレスの演出によるもので、既に1990年から上演されているプロダクションの由。
 舞台装置(アンドレアス・ラインハルト)こそ大邸宅の室内もしくはその廃墟といった造りに変えられているが、登場人物の設定や演技はごくまっとうで論理的であり、所謂「訳の解らない」動きはない。余計な趣向が折り込まれていないので、まあ、安心して観られるという利点がある一方、まともすぎて刺激に乏しいという物足りなさもあり、満足度は半々といったところだろう(贅沢で勝手な悩みだ)。

 舞台設定はこうだ。第1幕「フンディングの家」は豪華な邸宅の大食堂みたいな場所(つまり「俄か成金」の虚飾か)。第2幕前半も大邸宅で、これはヴァルハルの城内というよりは、ヴォータンの別宅というところだろう。同幕後半は、どこか野外の廃墟か。第3幕の「ワルキューレの岩山」は、何処だか判らないが、これも大邸宅の廃屋、とも見える場所だ。大詰では、ちゃんと火も燃えるし、煙も出る。

 演技は、第1幕と第2幕では、かなり細かいニュアンスを含んでいて、相手の言葉や行動に正確に反応するといった、私の好みの手法が採られている。「ひとが今一所懸命こういうことを言っているのに、それを聞きもしないで何やってんのアイツ」といったような、最近の演出で流行しているような演技は全く見られず、それなりに緊迫度も高い。
 ただ、第3幕に入ると、ワルキューレたちのまとまりのない演技が目立ち、ヴォータンやブリュンヒルデの演技にも何となく緊迫感が欠けて来て、所謂ルーティン上演の悪い面が露呈したような感があった。仕方のないところだろうが、昨夜のエッセンの「トリスタン」と比べると、上演水準にはかなりの差がある。

 指揮は、ライン・ドイツオペラ音楽総監督を2009年秋のシーズンから務めるアクセル・コーバー。デュースブルク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、多少ルーティン的な演奏ではあったものの、手堅いところを聴かせた。ただし第3幕では突如としてブッツケ本番的な、粗雑な演奏になったきらいもある。

 歌手陣は、何人かは私も聴いたことのある人だったが、大半は初めて聴くか、もしくはどこかで聴いたことがあるかな、といった人々だ。
 ジークムントを歌ったミハイル・ヴェイニウスは力強い声で、ヘルデン・テナーとしての力量充分だろう。
 ジークリンデ役のエリザベット・ストリッドは、冒頭えらく疲れ切った感じの演技と声で出て来たのでオヤオヤと思ったが、あとでこれはフンディングのDVに虐げられている妻としての表現に過ぎなかったことが判る。ジークムントとの場面になると、別人のように生き生きと張りのある声と演技に変わったからだ。なかなか芸達者なソプラノである。

 ヴォータンはユルゲン・リンで、粘っこく粗い歌い方が気になるものの、馬力は充分。ブリュンヒルデ役のザビーネ・ホグレーフェは、この演出では「悩める女戦士」といった表現を美味くこなしていた。ただこの父娘も、第3幕に入った途端に不安定になり、微細なニュアンスを欠いた歌い方になったのはどうしたことか。

 なお、昨夜エッセンでブランゲーネを歌っていたマルティーナ・ディーケがこちらにも現われて、ヴォータンの怖い正妻フリッカを堂々たる風格で歌い演じ、盛んなブラヴォーを贈られていた。この人、なかなか良い。フンディングのトルステン・グリュンベルは、まず無難な出来だったが、彼だけカーテンコールでブラヴォーが飛ばなかったのは少々気の毒。8人のワルキューレたちは、そこそこの出来というところか。

 30分の休憩2回を含み、9時45分終演。昼間の強い雨も上がって、曇り空ではあるが、寒気も少し薄らいだ。
 ホワイエで、観に来ていた沼尻竜典夫妻と出会ってしまう。実は明夜、彼がデュッセルドルフで指揮する「第9」をこっそり聴きに行き、終演後にいきなり楽屋を訪れて彼を驚かせようと思っていたのだが、計画は失敗。
 

5・25(土)ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」
バリー・コスキー演出、シュテファン・ショルテス指揮

    エッセン・アールト・ムジークテアター  6時

 TVではPPMの「花はどこへ行ったの」という曲の題名をもじって、「Where has the summer gone」というニュース番組をやっていた。ただしここエッセンでは、快晴のためもあってか、ドイツ北方の街にもかかわらず、それほど寒いというほどには感じられない。

 緑の公園の中、フィルハーモニーに近接して建つアールト・ムジークテアターに来たのは2度目だ。おそろしく広いホワイエと、大きな傾斜のため観やすいパルケット(1階席)の構造が特徴的で、音響もすこぶる良い。

 この劇場の「トリスタンとイゾルデ」は、既に7年ほど前から上演されているプロダクションで、非常に評判が良いようである。
 舞台装置(クラウス・グリューンベルク)は、見事にシンプルだ。幅も奥行も僅か数メートル程度の正方形の箱が暗黒の舞台中央に「浮かんで」おり、第1幕と第2幕のすべては、この小さなスペースの中で演じられる。第1幕は船室風の造り、第2幕は果物皿と照明があるだけの居室風。
 この小さな空間が与える圧迫感は息がつまるほどで、如何にも「宿命に閉じ込められ、動きの取れない」主人公たち――トリスタンとイゾルデだけでなく、マルケ王でさえ――の状態を象徴するかのようだ。

 第2幕の「愛の二重唱」の間に、この正方形の箱舞台は、2人の恋人たちを乗せたままゆっくりと回転し続け、天地さかさまの状態にまでなる(歌手はこれに合わせ姿勢を変えて行かなくてはならないから、大変だろう)。第3幕でトリスタンが初めてこの箱から出られるのは、彼の死の瞬間においてである。
 この「制約された世界」たる箱は、イゾルデが「愛の死」を歌っているさなか、次第に舞台奥へ遠ざかって行き、ついには点となって観客の視界から消える。あとに残るのは、すべてのものから解放された、死せるトリスタンとイゾルデの2人のみである。見事な手法だ。

 この「箱」は、前述のとおり狭く、しかも舞台の中央5分の1程度のスペースしかないので、客席の両端からは見切りが出ているかもしれない。少なくとも、歌手が左右どちらかの壁にへばりついた状態にある時には、そちらの方の観客には見えなくなるだろう(以前、びわ湖ホールで上演されたホモキ演出の「ばらの騎士」の舞台装置に少し似ている)。

 その代わり、歌い手にとっては絶好の反響版となり、無理をせずに声を出すことが出来るだろう。トリスタン(ジェフリー・ダウド)、イゾルデ(エヴェリン・ヘルリツィウス)、ブランゲーネ(マルティーナ・ディーケ)、マルケ王(マルセル・ロスカ)、クルヴェナル(ハイコ・トリンジンガー)、メーロト(ギュンター・キーファー)ら、みんな箱の中ではビンビンと声を響かせていた。ただし、第3幕で箱の周囲の舞台全体が開放された状態になると、外側で歌っている歌手には、多少分が悪くなる面も出て来るわけだ。

 しかし、その開放された舞台においても、ヘルリツィウスだけは――舞台最前方で歌っていた所為もあるだろうが――「愛の死」の最後まで力強く、美しく歌い切った。彼女の声は決して叫びにならず、清澄で清純な感を与え、よくある女傑然としたイゾルデではないので、聴いていて快い。容姿も小柄で可憐な印象を与える。今夜の歌手陣の中では、図抜けた存在であった。
 トリスタン役のダウドは、いわゆるヘルデン・テナーとはちょっと違い、柔らかい感じで、もう結構な年齢だという話だが、それでも最後まで安定した歌唱を聞かせてくれた。

 だが今夜、私が最も感動したのは、シュテファン・ショルテスの指揮と、エッセン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏である。ショルテスは例によって歯切れよく、テンポも速めだ(第1幕75分、第2幕65分、第3幕70分)。だが音楽に慌しい感は全くなく、微細なニュアンスが犠牲になることもない。音楽が、速いテンポで息づいているのである。

 そして、エッセン・フィルの厚みと底力にあふれた音も、この上なく魅力的だ。特に第3幕中盤以降、トリスタンの苦悩の場面から、イゾルデの到着、トリスタンに縋りついた彼女の慟哭の歌にいたるまでの、沸騰するオーケストラの凄まじい雄弁な力と緊迫感には、息を呑んだほどである。極め付きは最後の「愛の死」で、地を揺るがせるような弦楽器群のトレモロ、空間的な拡がりを持ったオーケストラの、まさに音の大海怒涛といった響きは圧倒的であった。これを聴いただけでも、はるばるエッセンまで今回の「トリスタン」に来た甲斐があったというものである。

 終ってみればどうでもいいことなのだが、演出で一つだけ気持の悪いことを挙げれば、第1幕でイゾルデが、トリスタンと戦って敗死した前夫モロルトの生首を透明な首桶に入れ、それを愛撫したり、首桶に腰掛けたりしているという光景だ。彼女のその「恨み」が、第1幕でのトリスタンとの軋轢における重要なモティーフ(の一つ)になっていることは台本でも明らかだが、どう見ても趣味が悪い。

 10時45分終演。昼間は快晴だったが、夜は雨。

5・24(金)シュテファン・ショルテス指揮エッセン・フィルハーモニー管弦楽団

    エッセン・フィルハーモニー アルフリート・クルップザール  8時

 フランクフルト空港からICEで1時間40分、夕方6時にエッセンに着く。
 異常な寒波の襲来で冬のような寒さ、と脅かされ、戦々恐々としながら降り立ったが、意外にそうでもなく、かなり冷えるな、といった程度。それでもICEの中で見た乗客たちは、みんなコートや厚手のジャンパーを抱えていた。地区によって違いがあるのかもしれない。

 着いた日の夜にコンサートを聴いたりオペラを観たりするのは、時差ボケを助長させて疲れるのでほとんどやらないことにしているのだが、ここの指揮者ショルテスは歯切れのいい演奏をつくる人で面白いし(先年東京都響に客演し、素晴しく颯爽とした指揮を聴かせた)、明日の「トリスタン」だけではもったいないと思ったので、無理をして聴きに行く。

 プログラムはR・シュトラウスの「死と変容(浄化)」に始まり、バルトークの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロがゲルハルト・オピッツ)、アッティラ・レーメニイ(1959年生)の「L’aurora del mondo」(ドイツ語訳では「モルゲンデンメルング・デア・ヴェルト」になっていた。世界の黎明、朝焼け、とでもいうところか)、最後にコダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」組曲、という構成。ハンガリー出身の指揮者ショルテスの聴かせどころたるハンガリーの作品が中心だ。

 最初のR・シュトラウスの作品は、いっそ「死と変容」よりも「ドン・ファン」(ハンガリー系詩人レーナウの詩に基づく)の方がぴったりするのではないかという気もしたが、それはともかく、後半の2曲にはツィンバロンのソロも交えた多彩なコンサートであった。
 ただ、聴いた席の位置が1階の前から4列目の中央あたり、あまりにもオーケストラやピアノに近すぎて、演奏全体の特徴を掴むにはいつもと勝手が違う。楽員のアイ・コンタクトを眺めるには面白い場所だったが・・・・。「ハーリ・ヤーノシュ」など、久しぶりにナマで聴くと賑やかで無邪気で楽しいものである。
 10時15分終演。

5・20(月)METライブビューイング
ヘンデル:「ジュリアス・シーザー」(エジプトのジュリオ・チェーザレ)

  東劇(銀座)  6時

 4月27日MET上演のライヴで、今シーズンの「ライブビューイング」の最終プログラム。ハリー・ビケット指揮、デイヴィッド・マクヴィカー演出による新制作(グラインドボーン音楽祭のプロダクションによる)。

 マクヴィカーの演出は、古代と近代とをミックスさせた、最近よくあるスタイルの舞台だが、たとえばレイゼル&コーリエ演出(昨年のザルツブルク音楽祭)のように設定をエジプトでの石油発掘権争奪戦とし、やれセックスだ、ミサイルだ、戦車だ、などと騒々しく展開させるようなものではなく、あくまで節度を心得た演出としている。むしろ、ユーモアをたっぷり取り入れた、コミカルなタッチを押し出したものと言っていいだろうか。

 クレオパトラも、その忠臣ニレーノも、王座を狙う悪役トロメオも、その部下アキッラも、歌いながら実に見事に、よく踊る(レイゼル&コーリエ演出でもクレオパトラは少し踊っていたが)。兵士たちもコミカルに踊る。ヘンデルのリズミカルな音楽の特徴を巧みに利用してダンスに発展させ、ドラマの性格まで変えてしまうという手法だが、このダンスがまた完璧に「決まって」いるから、異議を差し挟む余地もない。

 しかし、シリアスな性格もきちんと残されており、クレオパトラが敗北に絶望して歌うアリアや、夫ポンペーオを殺されたコルネリアの悲しみの歌などではそれが生きている。
 ユーモア感覚は舞台美術(ロバート・ジョーンズ)にも反映されていて、開幕の頃には背景の海に見えた帆船が、終幕では軍艦(一時代前のものだが)や飛行船に替わっていたりする趣向もある――この辺は、こういった事件が近代でも起こりうるものだという象徴的意味も含んでいるのだろうが。

 ハリー・ビケットの指揮が爽快なテンポで歯切れよく、たくさんのダ・カーポ・アリアをも冗長に感じさせないので、30分の休憩2回を含む4時間43分の上映(上演)時間も、さほど長く思えないほどだ。METのオケがピリオド楽器奏法を上手く心得ていて、ピリオド専門のオケに劣らぬ張りのある演奏をしていたのも見事である。

 歌手陣も大方粒が揃っているだろう。題名役のデイヴィッド・ダニエルズのカウンター・テナーの声は、ちょっと張りに乏しくて、私にはどうもピンと来ないものがあるが、同じカウンター・テナーでも、敵役トロメオを歌ったクリストフ・デュモーと、ニレーノ役のラシード・ベン・アブデスラーム(モロッコ出身の由)の方は、あざとい演技力とも併せて映えていた。それゆえ、アキッラ役のグイド・ロコンソロもバリトンの凄味を効かせた声で、男の声で歌う唯一の主要役柄としての存在を生かすことができるというものである。

 一方、女声陣もなかなかよく、クレオパトラ役のナタリー・デセイは高音が多少苦しくなったかなという危惧もないではないが、声の劇的表現力と、何より舞台でのコケットな演技力の冴えは、今なお卓越した存在だ。コルネリア役のパトリシア・バードンの巧さも目立ち、その息子セスト役のアリス・クートも――ズボン役のメーク及び衣装はどうしようもなく冴えないが――安定した歌唱が見事だった。

 ちなみにこのコルネリアという母親役、貞節で気品のある女性としての存在を観客に印象づけておきながら、息子が父の仇トロメオを殺すと、その死体を存分に侮辱して、その血を自分や息子の顔に塗りつけて狂喜乱舞するという不気味な性格を示すようになり、息子セストがその母の狂態に恐怖するという光景が織り込まれる。このあたり、マクヴィカーも、少しはスパイスを利かせないと、という狙いなのかもしれない。
 しかし、ラストシーンでは、殺されたはずのトロメオやアキッラが出て来て一同の「和解の場」に加わると、隣の椅子にかけていたセストが露骨に嫌~な表情を示して見せ、観客の笑いを誘うというオチがつく。これもこの演出に備わるユーモアの一例である。

 今シーズンの「METライブビューイング」はこれで千秋楽。あまり有名でないオペラなのに、結構な入りだったのは祝着。このシリーズも定着して来たのだろう。
 秋のシーズンは、ゲルギエフ指揮、デボラ・ウォーナー演出、クヴィエチェン、ネトレプコ、ベチャーワ主演の「エフゲニー・オネーギン」(チャイコフスキー)で幕を開ける。

5・19(日)新国立劇場 ヴェルディ:「ナブッコ」初日

   新国立劇場  2時

 グラハム・ヴィック演出、パオロ・カリニャーニ指揮、ルチオ(ルーチョ)・ガッロ題名役による、新国立劇場新制作の初日公演。
 細かい問題はいろいろあったけれども、演奏・舞台ともども熱気は充分で、その意味では面白いプロダクションである。

 今回の演出は、基本的には原作のストーリーに沿っているが、ト書きにあるエルサレムの神殿その他は、現代の都会のショッピングモールに読み替え設定されている。この舞台美術と衣装(ポール・ブラウン)と照明(ヴォルフガング・ゲッペル)はなかなか綺麗に出来ているので、開演前にじっくり見ておくことをお奨めしたい。
 このテの舞台は既に藤原歌劇団のマルコ・ガンディーニ演出による「愛の妙薬」(2009年6月)にも例があるが、今回のモールの構造は、舞台上の2層(エスカレーター付、但し動いていない)の他に、上と下にもフロアがある。そこを群衆が上下左右、激しく動き回るという仕組だ。

 それがどういう意味を持つのか? ヴィックは東京での演出に際し、オペラの原作にある「ヘブライ人の勝利」と、「唯一神への賛美」という問題に配慮し、それらを舞台上に再現することを避けた。前者は今日でも政治的に微妙な問題を含み、後者は日本人の宗教観と抵触しかねないからだという。
 これらに替えてヴィックは、物質主義に走り、物欲に憑りつかれた者たちが、凶暴な敵(アナーキスト、もしくはテロ軍団)の侵入と、自然の猛威という恐怖体験を経ることにより、偉大な自然の恩寵に目覚める――というコンセプトを、ストーリーから浮き彫りにしている。
 つまり、ショッピングモールは、奢侈と所有欲の象徴なのである。また、暴虐な王ナブッコ(ナブコドノゾル)を打ちのめす「エホバの怒り」は、稲妻という強大な自然の力にほかならない・・・・。

 こういったコンセプトの一部は舞台から明確に伝わって来るけれど、またこのオペラとしては如何にも無理な部分もあるだろう。「ヘブライ人問題」にしても、「唯一神」の是非という問題にしても、英国人ヴィックと、われわれ日本のオペラ観客とでは、受け取り方も実感も、些か異なるものがある(といって、日本人の国際感覚がどうのこうのという自虐的な議論はしたくない)。ただいずれにせよ、ヴィックのこのメッセージは、非常に興味深いものがあるのはたしかである。

 今日の舞台に話を戻して、あえて注文をつけるとすれば、舞台上の群衆の動きがもう少し整理(たとえばペーター・シュタインの演出のように)されないと、群衆の「2つのグループ」の対比が――いくら服装が対照的だとはいっても――判りにくい。それに、ナブッコら主演者たちの存在も視覚的に目立たず、彼らがいったいどこで歌っているのか、すぐには判りにくい、ということも生じる。
 また「ヘブライ人」問題を避けて通ろうとするあまり、台本では「イスラエル人」あるいは「悪党ども」などとなっている歌詞を、字幕ではすべて「《人びと》」としているのは、ちょっと不自然な訳語ではないか? 「《人びと》を処刑せよ」では解りにくい。これらの言葉は概して敵軍バビロニア側の者たちから発せられるのだから、せめて《奴ら》程度にした方がよかったのではないかと思うのだが如何? 

 そしてもう一つ、プログラムにはヴィックが「幕切れにはある自然現象を用いることで、全員が偉大なる自然の力を共に感じ、神の恩寵を実感するさまを描きたい・・・・」と書いているにもかかわらず、肝心の幕切れでは、そんな光景が全く見られなかったのには首をひねった。
 ところが、あとで関係者に訊くと、本当は大詰の場で「きらきらと光る美しい雨が降りはじめる」ことになっていたのが、手違いで「降らなかった」のだそうな。いわゆる事故だろう。時々ある話だ。
 もともとこのオペラの結末はあっけなく、竜頭蛇尾という印象を免れない作りになっているので、最終場面で演出の意図通りに雨でも降らせれば、それこそ「自然の恩寵」を感じさせるスペクタクル性が生まれ、劇的なエンディングになったかもしれぬ。2日目以降の公演では上手く行くだろう。

 落雷したり、雨が降ったりするとは、このショッピングモールには天井がないのかね、と茶々を入れたら、「そういう突っ込みをしてはいけません」と関係者からたしなめられた。「異教徒」の偶像が破壊されるシーンもちょっと間が抜けた感じだったが、これも装置が巧く作動しなかったかららしい。これも、2日目以降は大丈夫だろうと思う。
 こうした問題点はあったものの、舞台の進行、演技などには基本的に隙がなく、よくまとまったプロダクションであるという印象である。

 音楽。カリニャーニは速いテンポで押し切り、オーケストラ(東京フィル)を猛烈に鳴らした。これでこそ、ヴェルディ初期の音楽の熱気あふれるエネルギーが充分に伝わって来る。オペラのオーケストラは、単なる歌の伴奏者ではないのだから、最低でもこのくらい鳴り響かないと面白くない。ピットの音がか細く聞こえがちの1階席後方でこの調子だったから、上階席ではもっと音が大きく聞こえたのではなかろうか? 
 アンサンブルには粗いところもあったが、私は熱気の方を優先して評価したい。優秀な新国立劇場合唱団も、今日は少し粗かったが、情報通の話によれば、これは練習嫌いで本番重視の癖のあるカリニャーニが、あまりリハーサルに力を入れなかったからの由。であれば、これも2日目以降はうまく行くかもしれない。

 題名役のガッロは、さすがにベテランらしく、ドラマ後半におけるナブッコの内省的な表現の部分に巧さを聴かせていた。

 ナブッコの娘アビガイッレを歌ったマリアンネ・コルネッティは例のごとく物凄い馬力で、声もビンビン響かせる。このパワーなら、第2部でのあの有名なカバレッタを完璧に聴かせてくれるだろう――と期待に胸を膨らませていたのだが、何とそのカバレッタの反復部分を省略して結びに飛んでしまったのには落胆した。この部分が完全な形で歌われる上演にはほとんど出くわさないが、今回のこうした省略はコルネッティの希望か、指揮者カリニャーニの意向か、それともヴィックの演出上の都合か? いずれにせよ、彼女なら出来ると思ったのに、甚だ残念である。

 祭祀長ザッカリーア役のコンスタンティン・ゴルニーは、ガラッパチ的な歌い方だが、被征服者のリーダーの気概を感じさせるという表現力はあるだろう。

 特筆すべきは、ナブッコのもう一人の娘フェネーナを歌った谷口睦美だ。容姿も映えるし、馬力のある前出の3人の歌手の声に些かも聞き劣りのしない豊かな声で対決していた。第4部最後で処刑されようとする前の歌など、力のある低音域から立ち上がる歌唱は本当に見事だった。1か所、下行する音階のところが正確に決まれば文句なかったのだが・・・・これは今後を待ちたい。ともかく、これだけ存在感のあるフェネーナは、なかなかいない。

 その恋人イズマエーレ役は樋口達哉。最初は力みかえったような、ムキになっているような歌唱が気になったものの、彼も好演だった。
 そして歌の出番は少ないけれども、アンナ役の安藤赴美子も、澄んだ声と容姿とで目立っていた。他に妻屋秀和(ベル神の祭祀長)、内山信吾(ナブッコの忠臣アブダッロ)らが出演。今回の歌手陣は、内外ともに水準が高かった。

 20分の休憩1回を含め、4時半には終った(「行け、わが想いよ」の合唱のアンコールは無し)。ヴェルディのオペラは、ワーグナーと違って短いので、疲れないし、有難い。

5・17(金)寺岡清高指揮大阪交響楽団 ハンス・ロット集

    ザ・シンフォニーホール(大阪) 7時

 「ジュリアス・シーザー」への前奏曲、「管弦楽のための前奏曲ホ長調」、「管弦楽のための組曲ホ長調」、「交響曲第1番ホ長調」という選曲。
           
 ハンス・ロット(1858~84)の作品だけで一夜のプログラムを構成する。この数年、珍しいレパートリーを開拓している大阪響ならではの冒険だろう。
 事務局の話によれば、ウィーンの国際ロット協会に「彼の作品のみによるオーケストラ・コンサートの例は過去にありや」と問い合わせたところ「当方の知る限りにおいては皆無なり」という返事が来たそうな。意欲的な試みであり、快挙である。

 前半の3曲は、私はナマで聴くのは初めてだが、特に最初の2曲では――「第1交響曲」の習作とは言わずとも――明らかにそれへと志向して行く作風が感じられる。例の「トランペット主題」の先取りが、すでに聞かれるからでもある(セバスティアン・ヴァイグレの指揮したCDがアルテ・ノヴァから出ている)。これらを聴くと、あの主題は、ロットがかなり前からあたためていたものであることが解る。
 作品そのものとしては、ロットに関する興味を満足させてくれること以上のものではないけれども、何よりもこういう曲をナマのコンサートで聴けたということ自体が、大いなる喜びである。

 「第1交響曲」は、聴く機会は、決して少なくはない。先年、沼尻竜典が指揮しているし、CDも前出のヴァイグレ指揮をはじめ、セゲルスタム(BIS)、パーヴォ・ヤルヴィ(RCA)などいくつか出ている。不思議な魅力を感じさせる曲だ。

 冒頭のトランペット主題は、のちにレナード・ローゼンマンが書いた映画音楽「エデンの東」のテーマそっくりで、これが何度も現われるのだから面白い。
 だが、音楽史として見れば、これがロットの師でもあるブルックナーの「第3交響曲」の開始部に似た手法であるのが更に興味深い。ワーグナーが「トランペットのブルックナー」と綽名したあの個所である。これを含め、第1楽章にはブルックナーの「3番」と、時には「4番」の影響が随所に表れている。それが、ブルックナー愛好者にとってもたまらない魅力でもあるわけだ。

 そして、そのロットの音楽を、今度はマーラーが盛んに引用しているのが――ほとんどパクリといってもいいくらいだが――これまた実に面白い。
 ロットの第2楽章はマーラーの「第3交響曲」のフィナーレに、第3楽章は「巨人」の第2楽章や「復活」第5楽章や「7番」第4楽章に、また第4楽章は「復活」と「5番」のフィナーレに、といった具合に、まあそれこそ至るところに影響を与えている。いや、影響というより、マーラーのあからさまな「引用」ぶりには、聴いていると苦笑してしまうほどである。マーラーは早世したロット(2歳年上だ)のことを「私と一心同体の友人である」とか何とか言っているけれど、何となく言い訳くさいような気もする。 

 ロットの「第1交響曲」の第4楽章は、終りそうでなかなか終らない長大な音楽だが、その最後のコラールはこの上なく陶酔的かつ感動的で、のちのシベリウスの「第5交響曲」の終結部をすら先取りしているかのようである。さらにもう一つ、第4楽章後半に出て来る主題(ブラームスの「1番」の第4楽章の,あのベートーヴェンの「歓喜の主題」に似ている主題に似ている、と言われる)は、大河ドラマ「武蔵」(エンニオ・モリコーネ)のトランペット主題を思い出させるが、・・・・キリがないからもうやめよう。

 さて、寺岡清高指揮する大阪響は、特にこの「第1交響曲」で熱演を聴かせてくれた。ソロ・トランペットは健闘したし、ホルンも、最後の何分間かは叩きづめのトライアングルも、よくやった。
 注文をつけるとすればだが、弦楽器群がもっとたっぷりと鳴り、豊かな厚みと拡がりを感じさせていれば、金管のコラールがその奥から響いて来るという感じになり、更に陶酔感が増したのではなかろうか? その金管にも、もっと綺麗な音が欲しいところだ。
 そして指揮者には、最強音のテュッティでの響きをもう少し制御して、入り組む内声の動きを整理し、音楽に明晰さをつくり出していただきたい。正直に言うと、今夜のテュッティの響きは、かなりごちゃごちゃしていて、作品の構成の見通しを些か悪くしていた印象がある。

 だが、弦楽器群が叙情的に歌うところは良かったし、特に第4楽章後半の演奏は素晴しく、最後の長いコラールと、それが頂点を築いた後に遠ざかって行くあたりの呼吸は、本当に見事であった。
 終り良ければ全て良し、ということで、今日の定期には企画賞、敢闘賞、殊勲賞を贈呈することにしましょう。

※日本にもロット協会があるそうですね。会員のUさんから教えていただきました。

5・16(木)東京クヮルテットお別れ日本ツァー

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 44年の歴史に終止符を打つことになった東京クヮルテット。もうそんなに時が経ってしまったかと、うたた感あり。結成の翌年(1970年)のミュンヘン国際コンクールにおいて、本選を待たずに優勝を決定させてしまったという、あの4人の日本人奏者の劇的な登場が、ほんの昨日のことのような気がする。
 私も1973年にFM東京の「TDKオリジナルコンサート」で彼らの東京での演奏を放送したことがある(CD化された)が、その強靭な表現、気魄と勢い、集中性など、当時としては「日本人離れ」した演奏に、驚き、感心したものであった。

 この四重奏団に今日残っている日本人メンバーは、ヴィオラの磯村和英と第2ヴァイオリンの池田菊衛のみだ。しかも池田は1974年に参加した「2代目」であり、今や創設以来の在籍奏者はたった1人、磯村だけということになる。
 現在の第1ヴァイオリンはカナダ出身のマーティン・ビーヴァー(4代目)、チェロは英国出身のクライヴ・グリーンスミス(2代目)である。

 日本人奏者がだんだん抜けて行き、あまり「東京」というイメージでもなくなってから、すでにかなり年月が経っていた。
 別の面から見れば、彼らのあとを継いで「東京クヮルテット」の名を守る日本人奏者は――つまり、弦楽四重奏団の奏者として生涯を捧げ、しかも世界に雄飛するだけの実力を備えた日本人奏者は――結局1人もいなかったのだ、とため息をつきたくなるような、甚だ寂しい状況になってしまっていることも事実であろう。

 今夜のプログラムは、ハイドンの「第81番ト長調作品77-1」、コダーイの「第2番」、ベートーヴェンの「第14番作品131」というもので、これにアンコールとしてモーツァルトの「ホフマイスター」(K.499)からの「メヌエット」と、 ハイドンの「騎士」(第74番)のフィナーレが追加された。
 いずれも成熟、円熟の美しい演奏である。ただし「131」は、このホールの、特に2階席正面で聴くと、作品の性格に反して、美しくて柔らかすぎる印象になってしまったが、致し方なかろう。この曲だけはいずみホールやフィリアホールなど、中規模以下の広さの会場における公演を聴きたかった気もする。

 終演後は長蛇の列のサイン会、そのあと2階のホワイエでメンバーを囲むレセプションが開かれ、ホールが閉じられたのは11時頃になった。

5・15(水)大野和士指揮ウィーン交響楽団のベートーヴェン

   サントリーホール  7時

 プログラムは「ピアノ協奏曲第4番」と「英雄交響曲」。ピアノはインゴルフ・ヴンダー。

 一昨日のブラームスが良かったので、ベートーヴェンも聴きたくなって、というわけだったが、・・・・残念ながらやや期待外れの感。
 「英雄」は、オーボエやホルンに少々問題があったとしても、全体としては悪い演奏ではなかったし、とりわけ第4楽章コーダではシャープな表情も加わって、それなりに真摯な演奏ではあったろう。ただ、それ以上の、もっと個性的で、「英雄交響曲」という名の作品にふさわしい、燃えるような何かが欲しいところだ。ストレートな音楽づくりが裏目に出た、ということになるか。

 一方、協奏曲では大野は丁寧な音楽づくりを聴かせたが、これも慎重すぎなかったか。 ウィーン響の音が地味(?)で、しかもやや重いために、なおさらそんな印象になる。ヴンダーのソロが、時々雑になるのは意外だった。むしろアンコールで弾いたモシュコフスキーの「8つの性格的小品」からの「花火」の洒脱な強弱の変化に彼の良さが聴けた。

 オーケストラのアンコールは、一昨日聴いたのと同じ3曲。だがこれらは、今日の方が自由闊達で音色も明るく、楽しめた。大野も今日はあまり細かく振らず、オケに任せていたような雰囲気も感じられる。
 なお、今回の来日ツァーでは、協奏曲は今日が2回目、「英雄」は今日が初めての演奏だった。回を重ねれば、また変わるかもしれない。

5・13(月)大野和士指揮ウィーン交響楽団

   サントリーホール  7時

 当初の案ではファビオ・ルイジ(今春まで音楽監督・首席指揮者)が振ることになっていたらしい。が、大野和士に替わったのはむしろ幸いだった。
 彼は5月6日にウィーンでこのオケを指揮して――それがウィーン響デビューだったとのこと――マーラーの「5番」とブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは庄司紗矢香)を演奏してから日本公演に乗り込んで来たわけだが、お蔭で、わが国の代表選手たる大野がこのオケをどのように制御するか、日本にいながらにして聴くことができたからである。

 モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲では、弦14型という、最近では珍しい大編成が採られていた。少しも力まず、自然体で、ウィーン響を重厚な音でたっぷりと、しかも柔らかく鳴らして行く。久しぶりにこういう音のモーツァルトを聴くのも悪くない。

 この自然体で重厚な音づくりは、休憩後のブラームスの「第4交響曲」においても同様だった。何ら奇を衒わず、小細工も誇張もなしに、極めてストレートに作品を構築して行く。
 だがたとえば第1楽章の最初の主題で、ヴァイオリンの下行の4分音符と2分音符を漸弱に、それに先立つ上行の4分音符と2分音符を漸強にして、これを一つの息遣いのようにして波打つように主題を演奏して行くあたり、大野の指揮は実に精妙である。

 その上、演奏が極めてしなやかなのだ。弦をはじめ、オケ全体を見事に柔らかく、弾力的に、しかも自由な感興をもたせて響かせる。この柔らかさとしなやかさが、温かみのあるブラームス像をつくりあげていたといってもいいだろう。もちろん、第1楽章や第3・4楽章の各終結個所での力感に富んだ盛り上がりも立派だった。大野も、いいブラームスを聴かせてくれるな、と楽しくなった。

 この2曲の間には、庄司紗矢香を迎えて、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」が演奏された。庄司のソロの素晴らしさは、特筆されるべきだろう。基本的には叙情的な性格を持っているが、その叙情はピンと張りつめて、些かの隙も弛みもない、強烈な集中力にあふれたものだ。充実したブラームスである。ソロ・アンコールに、レーガーの「プレリュード ト短調」を弾いてくれたが、これまた実にいい。

 オーケストラのアンコールを「春の声」「トリッチ・トラッチ・ポルカ」「雷鳴と電光(稲妻)」と3曲もサービスするとは意外だった。ウィーンのオケのご当地ものとして自由に演奏させるのかと思いきや、何となく指揮者の制御が効いているような印象を与えたのも意外。
 いずれにせよ、大野とウィーン響、これは案外いい相性かもしれない。

5・12(日)ユーリ・テミルカーノフ指揮読売日本交響楽団

   東京芸術劇場コンサートホール  2時

 河村尚子をゲスト・ソロイストとするラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」、休憩後にチャイコフスキーの「悲愴交響曲」というシンプルなプログラム。

 協奏曲では河村の豪壮なソロが印象的だったが、テミルカーノフと読響の方は、更に轟然たる大音響と悠揚迫らざる不動のテンポで、ソリストがどうやりたかろうと頓着せず滔々と進んで行く、といった感。第1楽章の初めの方など、いかにも河村がもっとテンポを自由に動かして速めたいのにテミルカーノフが動ぜず・・・・という雰囲気が感じられて、何となく勝手にヤキモキしてしまう。
 我が国の若い女性ソリストが外国のベテラン指揮者と協演するコンサートでは、時々こういうケースにぶつかるが・・・・。

 「悲愴」では、最小の身振りで最大の音響を引き出す近年のテミルカーノフの得意技を遺憾無く発揮した、推進力に富む演奏となった。読響は少しガサガサした粗い音色だったが、これも得意の猛烈な馬力で押し切った。
 第1楽章コーダのアンダンテ・モッソでの弦のピチカートのうち、ヴィオラと低弦の最初の1小節が、読響らしからぬ荒れて戸惑ったような音で響いていたのは、指揮者との呼吸が合わなかったせいのかしらん。ただしそのあとの木管群の和音は素晴らしかった。第2楽章中間部のティンパニは、ちと乱暴ではないか?

 アンコールは、テミルカーノフの定番、エルガーの「ニムロッド」。
 首席トロンボーン奏者の山下誠一さんが定年退職とのこと。花束贈呈やソロ・カーテンコールなど、今日は凄い人気。

 ホールの空調は、昨年から全然直っていない。冷風が直接吹きつけて来て、相変わらず異常な寒さだ。クレームも届いているだろうに、調査もしていないのか?

5・11(土)垣内悠希指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   横浜みなとみらいホール  6時

 11年ブザンソン指揮者コンクール優勝の垣内悠希(35歳)が日本フィルに客演。プログラムは、ウェーバーの「魔弾の射手」序曲、ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」(ギターのソロは村治佳織)、シューマンの第3交響曲「ライン」。

 垣内悠希の指揮については、まだ少し解らないところがある。解らない、というのは、今の段階では未だ解決されていない問題があるのではないか、と思うからだ。バトン・テクニックがどうとかいう問題に関しては、その筋の専門家のご意見を聞くとして、私は彼の音楽がどう聞こえたか、自分がどう聞いたか、ということについて書く。

 昨年彼が東京フィルを指揮したブラームスの「2番」の時には、絶えず先へ先へと、息づきなしに、のめるように突っ込んで行くという妙な癖が、私にはえらく気になった。
 今回、久しぶりに聴いてみると、それは多少改善されたようにも思われるが、しかし彼がつくる音楽の、何か一種の慌ただしさ、せわしなさ・・・・表面的なスピード感、という点に関しては、どうもあまり変わっていないように聞きとれるのである。

 たとえば「ライン」。ひたすら速いテンポで、誇張もケレンもなく、ただ率直に押して行くという指揮は、それ自体は悪いものではない。が、そこに何ら緩急自在の呼吸もなく、スコアに本来備わっているはずのニュアンスの変化や感情の起伏などにも全く無頓着に、ただ一本調子に畳みかけて行くのでは、演奏は非常に単調なものに聞こえてしまう。
 おそらく彼には、胸のうちに燃える情熱が山のようにあって、それをひたすら休みなく、急ぎに急いで語り続けよう、という思いがあるのかもしれない。だが、いくら熱意があっても、相手(オーケストラでも聴き手でもいいのだが)の感情の動きも呼吸も一切無視して、ただ一瀉千里に早口でまくしたてていたとしたら、その言葉はむしろ、聴いている方の耳を素通りしてしまい、相手の心には何も残らないのではないか。

 「ライン」の第5楽章の最後、垣内は猛烈なアッチェルランドをかけた。それは情熱のしからしむるところだということは理解できるが、しかし、それまでの演奏が、あまりに色合いの変化もなく、テンポの変化もなく、しっとりとした陰翳もなく、非常に単調なまま続いて来ていたので、結局はその加速も、単に上滑りなものに終ってしまった印象になる。「ライン」では、唯一、第4楽章のみが、やや翳りのある響きを聴かせて変化を感じさせた個所と言えようか。

 アンコールでの「トロイメライ」(オケ編曲版)の演奏など、前述の問題点を集約したような演奏で、主題は完全に「ただの繰り返し」とでもいうべき単調なものと化してしまっていた。
 垣内君が今後、これらの問題をどのように解決して行くか? まだ若いし、時間はたっぷりある。その情熱とエネルギーを、うまく生かして行って欲しいものである。

 「アランフェス」では、久しぶりに復帰した村治佳織の温かい音楽が聴かれた。瞑想するように、しっとりと語りかけるソロが美しい。オケも弦の編成を小さくしてのサポートだったので、何も敢えてスピーカーで増幅しなくても・・・・と思ったが、オケの関係者の言うところでは、ここのホールではやはりナマ音だけでは無理です、とのことだった。あのエコーがかかったような音には共感し難いが、「無理」なのでは仕方がないだろう。
 この曲では、ほんの一瞬だったが、チェロの菊地知也のソロがハッとするような美しさで響いていた。

 なお一つ、指揮者は、あの秘めやかなアダージョ楽章で、あんなにのべつ大きく振り続けることが必要なのだろうか? 日本フィルは、コンサートミストレスの江口有香のもと、自らのペースを堅持していた。
    音楽の友7月号 演奏会評

5・10(金)成田達輝ヴァイオリン・リサイタル

  トッパンホール  7時

 ロン=ティボー国際コンクール2位(10年)、エリーザベト国際コンクール2位(12年)入賞のキャリアを持つ注目の若手、成田達輝(21歳、パリ在住)のリサイタル。

 プログラムは、ベートーヴェンの「ソナタ第8番」、フォーレの「ソナタ第2番」、シマノフスキの「アレトゥーサの泉」、フランクの「ソナタ」。アンコールはサン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」、ドビュッシーの「美しき夕べ」、パガニーニの「奇想曲第1番」。
 最後の1曲を除き、協演がパリ音楽院在学中(?)のピアニスト、テオ・フシュヌレ(19歳)。

 使用楽器ヴィヨームの艶やかな音色も冴えた成田は、元気溌剌、意気天を衝く闊達な演奏だ。
 エネルギー感と美音にあふれた爽快なベートーヴェン、同じく美音としなやかさでいい味を出していたシマノフスキ。最後のフランクでは音色を一変させ、やや渋い翳りを滲ませながらも極めてスケールの大きな世界をつくる。これらに対しフォーレは、どうも元気が良すぎたのではないか? 
 サン=サーンスが華やかさと艶やかさがあって良かった――このあたりのレパートリーに、今の彼の最良のものがあるような気もするのだが、速断は控えたい。

 元気がいいのはピアニストも同様で、とにかく弾くこと弾くこと。若さを一杯に噴出させた演奏それ自体は大変結構なことだが、ピアノの蓋は、もう少し閉めて演奏した方がいいのではないか? あまりに大きな音なので、ベートーヴェンとフランクでは、ヴァイオリンが聞こえなくなることさえあった。
 もっとも、高音域に昇ってフォルティシモで歌った時の成田のヴァイオリンは、如何にピアノが轟いていようと、楽々とそれを超えて伸びやかに響くのだから、何とも面白いものである。
 2人合せても40歳という若手の熱演は、たとえ未完成なところはあっても、微笑ましい。

5・9(木)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

   東京文化会館大ホール  7時

 児玉桃を迎えてモーツァルトのピアノ協奏曲「ジュノム」(ジュナミ)、そしてブルックナーの「第9交響曲」。

 インバルのブルックナーは、これまで東京都響と演奏したいくつかの曲と同じく、がっしりと揺るぎない骨格で構築され、厳めしく聳え立つ。聴く側も息を抜けない。
 この「9番」、ブルックナーの交響曲の中では不思議な存在で、20世紀音楽を先取りしたような大胆な和声が強調されたり、魔神が髪振り乱して荒れ狂うような激情的な作品となったり、あるいは荘厳な祈りの音楽となったり、指揮者の解釈によってそれこそさまざまな顔で立ち現れる作品だが、インバルの狙いは、これをひたすら厳しい造型で固め、毅然たる強面の意志力を持った作品として再現することにあるとも言えるだろう。
 私としては、昔フルトヴェングラーの「魔神」的な演奏のレコードに震撼させられて以来、そういうタイプの「9番」が好きだが、もちろん、どんなタイプでも、演奏さえしっかりしていれば文句はない。

 ただ、今日の都響には、惜しいことに、最初のうち妙にノリの悪いところが感じられ、――それは第1楽章のモデラート主題【F】あたりに行くまでには落ち着いたようだったものの、たとえば最弱奏で一つの音型が点滅した後に次の大きなフレーズに入る瞬間の息継ぎの場面で、所謂「矯め」やリタルダンドとは異なるタイプの、流れの悪い不自然さがいくつかあったのが気になった。
 また今日はフォルテ3つの個所で、それにふさわしい轟然たる大音響が炸裂したが、その金管の音色があまり綺麗ではないのも惜しいことだった。これは先日の「5番」の時にも気になったものだが。

 しかしまあ、これがよく響く残響の長いサントリーホールでの演奏だったら、それらの大半は気にならぬままに済んでいたかもしれない。それに、もっと瑞々しい音と演奏で聞こえたであろう。この満席の東京文化会館大ホールは、細かいアラも何もすべて露わにしてしまうドライな音になってしまうのだ。

 だがとにかく、演奏の力感は見事だった。第1楽章コーダ直前【W】の頂点で、音楽が一段と巨大な重量感を増すところや、第2楽章のスケルツォの1回目の演奏の後半部分の激烈さ(2回目は何故かやや盛り上がりに不足したが)など、インバルの気魄と、それに応える都響の馬力が目立っていた。

 モーツァルトの方でも、インバルは画然たる音楽を構築する。児玉桃はフォルテピアノのように引き締まった音で歯切れよく闊達に入って来る。以前、「8番」を弾いてくれた時と同様、率直で爽やかなモーツァルトである。
   音楽の友7月号 演奏会評

5・6(月)アンサンブル・アンテルコンタンポラン演奏会

    静岡音楽館AOI  4時

 とはいうものの、個別に聴きたいアーティストはもちろんその他にもたくさんあったので、とりあえずはLFJとは異なる曲目の組み合わせで行われる静岡での演奏会を聴きに行く。

 このAOIというホール、実は初めて訪れたのだが、静岡駅前にある、きわめて音響のいい、落ち着いた感じの立派な中ホールである。ここで聴くアンサンブル・アンテルコンタンポランの音は、国際フォーラムのホールCや会議室などで聞くそれより、遥かに上質で美しい。

 プログラムは3曲。最初にドビュッシーの「フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ」で、ソフィー・シェルリエ、グレゴワール・シモン、フレデリーク・カンブルランが協演。割り切ってメリハリのある演奏だが、音色といい、あふれる香しい雰囲気といい、こればかりは他国の演奏家には真似できぬものだろう。

 次いで、スザンナ・マルッキ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏で、トリスタン・ミュライユの「セレンディブ」およびブーレーズの「《アンシーズ》に基づいてSur Incises」が取り上げられた。
 前者は22の楽器による、また後者は3台のピアノと3台のハープ、3人の打楽器奏者による演奏だが、いずれもその色彩の鮮やかさは傑出したもので、このアンサンブルの並外れた優秀な個性を示すものである。

 ブーレーズの作品は90年代後半の作だそうで、40分に及ぶ長大なものながら、各部分ごとのテンポの変化が明快で、しかもその響きにはドビュッシーの遠いエコーを感じさせるところさえある。往年の前衛音楽の闘士も、齢を重ねると滋味が出て来るものだ、という感。
 この曲では、パリ音楽院出身でこのアンサンブルのメンバーでもある永野英樹が素晴らしいピアノを聴かせていた。

 とにかく、この2曲をこれだけ面白く聴けたのは、ひとえにこのアンサンブル・アンテルコンタンポランのおかげというべきであろう。静岡まで聴きに行った甲斐があったというものである。

5・5(日)ラ・フォル・ジュルネ最終日 ファイナル・コンサート

     国際フォーラム ホールA(ボードレール)  9時45分

 ファイナル・コンサートはこの2,3年、全然聴いていなかったし、フェイサル・カルイ指揮ラムルー管弦楽団の出演(つまり例年のウラル・フィルではない)ということもあって、たまにはと取材させてもらった。

 ヴァイオリンのファニー・クラマジランがサン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」を、ホアン・マニエル・カニサレスがロドリーゴの「アランフェス協奏曲」第2楽章を弾き、そのあとにラヴェルの「ボレロ」、ヒメネスの「ルイス・アロンソの結婚式」からの「間奏曲」(カスタネットのソロはルセロ・テナ)が演奏された。

 PAはかなり大きな音量で使われているが、「ボレロ」のようにオーケストラがクレッシェンドして行く曲では、PAの相対的音量の設定は難しかろう。それに、ヴァイオリンのソロとギターのソロとでPAの音量設定が全く異なるのはよろしくない。――いや、しかし、こんな文句を言う人間は、そもそもこの5千人収容のホールにクラシック音楽を聴きになど来なければいいのだろうが。

 夜10時を過ぎて開催されていた公演は、他にはG409という小さなホールでのギター・コンサートのみ。すでに会場は人気もほとんどなくなっている。いつものことながら、祭の終りは寂しいものだ。
 今年は、昨年までのように会場に「入り浸る」ことができなかったので、国際フォーラムで取材したコンサートは、たった5公演にとどまった。

5・5(日)ラ・フォル・ジュルネ最終日 「パリ×ダンス」

     国際フォーラム ホールC(プルースト)  8時15分

 ヤーン=エイク・トゥルヴェ指揮のヴォックス・クラマンティスというエストニアのコーラスは、昨年も来日した。素晴らしい合唱団である。
 十数人の編成だから、本当はこんな1500人規模の会場でなく、もっと小さな、響きのいいホールで聴くべきなのだが。

 今回のプログラムは、デュリュフレ、ギョーム・ド・マショー、プーランク、メシアンの宗教曲に、グレゴリオ聖歌といった構成。それに勅使川原三郎や佐東利穂子らのダンスが加わった。
 昨年と同様、合唱よりもダンサーたちに大きな拍手が集まった感じもあるが、私はとにかく、ヴォックス・クラマンティスに賛辞を贈ろう。

5・4(土)ラ・フォル・ジュルネ2日目
ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ(p)とモディリアーニ弦楽四重奏団

    国際フォーラム ホールB7(ヴェルレーヌ)  6時30分

 こちらは822席のホール、だだっ広くて音が散る傾向もあるが、音質そのものは悪くない。
 ご贔屓ヌーブルジェがラヴェルの「ラ・ヴァルス」を弾き、ピアノは遠い感じの音になっていたが、それでも紛れもない「フランスの音」が楽しめた。

 更に極上の世界だったのは、モディリアーニ弦楽四重奏団が協演したフランクの「ピアノ五重奏曲」である。4本の弦楽器が、驚異的なほど柔らかく表情豊かな音で響き、ピアノと優しく溶け合って、特に第2楽章(レント、コン・モルト・センティメント)では陶酔的な美しさをつくり出した。フランクのこの曲が、決して重厚でも幽遠でも晦渋でもなく、かくもロマン的でしかも明晰な抒情に満ち溢れた曲として聴けたのは、私にはこれが初めての体験であった。

 満席に近い客席からもブラヴォーの声が飛び、カーテンコールはこのLFJの演奏会にしては珍しく2回(いつもは1回がいいところ)繰り返された。客電が上がらなければ、もう1回くらいあったかもしれない。こんな「渋い」プログラムでもこんなに大勢のお客さんが来て、こんなにも熱心に聴いているのである。LFJならではであろう(チケットは2000,2500円)。
 

5・4(土)ラ・フォル・ジュルネ2日目 
ジャン=クロード・ペヌティエ(p)のフォーレ

   国際フォーラム ホールB5(ミシア・セール)  4時30分

 収容数256席のホールBでは、ジャン=クロード・ペヌティエが、フォーレの「夜想曲」全曲を2公演に分けて演奏している。その最初の方――第1番から第6番までのプログラムを聴く。もちろん満席に近く、次の公演と続けて聴く人もかなり多いようである。

 このホール、ピアノを置く山台がどういう造りになっているのかは判らないけれど、毎年のことながら楽器の音のヌケが悪い。フォーレの音楽の澄んだ抒情美が不愛想に響いてしまい、これでは名手ペヌティエの素晴らしい音色もその真価を発揮できないだろう。ただ、それを補正して聴くことができれば別の話だが。
 予定通り、ぴったり45分間でプログラムが終った。

5・3(金)ラ・フォル・ジュルネ初日
アンサンブル・アンテルコンタンポラン

   国際フォーラム ホールD7(メーテルリンク) 6時

 前出の「ラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日)」、今年のテーマは「パリ、至福の時」というのだそうだが、フランスとスペインの音楽の特集だ。東京だけでなく、新潟、金沢、びわ湖、鳥栖でも開催されている。
 ここ国際フォーラムでは、大小7つのホールでそれぞれ1日7~9回のコンサートが行われ(よみうりホールのみ5回)、その他付属の広場など数か所で多種多様な関連イベントも開かれている。

 その中から、フランスの近・現代音楽演奏を専門とする集団、アンサンブル・アンテルコンタンポランの、夕方の演奏会を聴いた。
 ディエゴ・トシ(ヴァイオリン)、ピエール・ストローシュ(チェロ)、ディミトリー・ヴァシラキス(ピアノ)の演奏で、ドビュッシーの「チェロ・ソナタ」、マントヴァーニの「ハンガリー風に」、ブーレーズの「アンシーズ」、ドビュッシーの「ヴァイオリン・ソナタ」というプログラム。長さは約1時間。221席のホールは満席状態である。

 音の瑞々しさ、洗練された表情、それに「ああドビュッシー!」という雰囲気が理屈抜きに冒頭からあふれて来るのだから、これはもうまさに至福のひと時だ。
 マントヴァーニは、「あのマントヴァーニ」ではなく、1974年生まれのフランスの作曲家で、若くしてパリ音楽院長をも務める俊才である。ヴァイオリンとピアノのための作品で、題名どおりの曲想も現われるが、演奏の見事さも相まって、瑞々しい中にも豊かな緊張感を保たせた曲だ。
 ブーレーズの方はピアノ・ソロのための作品で、非常に激しい動きの曲想を持つ。両曲ともに、聴いたあとに快い充実感が残る。

5・3(金)横山幸雄ピアノ・リサイタル「入魂のショパン2013」

 東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアルホール  午前10時

 有楽町の国際フォーラムで恒例の「ラ・フォル・ジュルネ」が開催されているこの日、新宿のオペラシティでは、人気ピアニストの横山幸雄が、これもこの数年来定例となっているショパン・コンサートを開催してファンを集める。客には、やはり(?)女性が圧倒的に多い。

 午前10時から演奏を開始、夜9時15分くらいまで、全体を5部に分け、20~45分の休憩を挟みつつ、ショパンの作品をすべて暗譜で弾く。
 今回は第1部(10時~12時20分)のみを聴いたが、プログラムは「ドン・ジョヴァンニの《お手をどうぞ》の主題による変奏曲」で開始、「ピアノ協奏曲第2番」のピアノ・ソロ版を演奏。後半は同じくピアノ・ソロ版の「協奏曲第1番」だけかと思ったら、その前に「練習曲 作品10」の全曲が入っていた。
 凄まじい重量プログラムである。こういう調子で延べ12時間近く、続けざまにショパンの作品を「入魂」で弾ける人間がいるとは、とても信じられないことだ。

 横山幸雄の演奏は、極めて率直である。何の衒いも、あざとい誇張もなく、ただまっすぐに進められる。最近のピアニストがよくやるような、最弱音の個所や緩徐部分でテンポを極端に落して自分勝手に沈潜にのめり込むといった手法は、全く採らない。それゆえ、われわれは、作品を実にストレートな形で聴くことができる。
 ただその一方、コクといったものは感じられず、しかも今日のように集中的に続けて演奏されて行くのを聴いていると、正直に言えば、だんだん単調にも感じられて来るのである。まるで、正確な記述の解りやすい百科事典を読んでいるかのようにも・・・・失礼。
 しかしともかく、彼の情熱的なエネルギーには、ただもう舌を巻くしかない。

5・1(水)東京二期会 ヴェルディ:「マクベス」初日

   東京文化会館大ホール  6時30分

 要するにこれは、「魔女の復讐」ということだね――と、昨夜GPを観終った時、コンヴィチュニーのこの演出を一言で表現できたぜ、と悦に入ったのだが、何のことはない、今日会場でプログラムを読んだら、すでにコンヴィチュニー自身が「自分の演出によるこのオペラは《魔女たちの復讐》という題名でもいい」と語っていた。失礼いたしました。

 実際、大勢の「魔女たち」は、全篇いたるところに登場する。よく騒ぎ、よく動き、よく踊る。自分たちを火刑にした男たちに復讐するため、嬉々として政変や混乱を煽り立て、「男性優位の社会の没落」を策す。ふだんは台所(魔女の台所=Hexenküche)にたむろしながら、ある時には権力者暗殺の場に出現して男たちを扇動したかと思えば、他の時にはマクベスの宴会の女性客になったりする。
 魔女は日常どこにでもいる、男どもがそれを知らぬだけだ、というわけだろう。
 彼女らは、犠牲者の数をチョークで黒板に書き込んで喜ぶ一方では、バンクォーの息子を殺そうとする刺客団を妨害して彼の息子を助けたりし、「罪なき一般大衆」の大量殺人には一切手を貸さない、という性格も持っている。

 極め付きは、ドラマの大詰だ。
 マルコム軍の勝利の合唱が次第に遠ざかると、いつのまにかナマ音は消え、それは魔女たちの台所に置いてあるラジオ(テレビでなくラジオ! しかも短波放送も入る昔の欧州型ラジオであるところがまた面白い)から流れる音楽にすり替わる。自分たちが手を下した遠くの地(?)の事件の中継――もしくは自分たちが関わった遥か昔の事件の物語(オペラ)――をラジオで聞いている魔女たちの姿がドラマを締め括る。この光景を見ると、それまで観て来た物語を、何かいきなり客観的に振り返るような気持になってしまうから不思議である。
 これはまた、せっかくのきれいな音楽をぶち壊してしまう、例のコンヴィチュニーの常套手段、と言えないこともないが、音楽は一応最後まで続いて行くから、今回は大目に見ることにするか。

 コンヴィチュニーは、このオペラの音楽には「皮肉的なもの(一種喜劇的なもの)」があると解釈し、ダンカン王登場の場面や、王が死んだあとの場面などの音楽に、喜劇的な踊りを乗せてしまう。第3幕の「魔女の場面」は言うまでもない。第4幕幕切れの兵士の合唱でも同様、しかも兵士たちの背後から魔女たちが彼らの肩をたたいて陽気に行進曲のリズムを取る。
 不謹慎な手法かもしれないが、音楽が元々リズミカルなので、その踊りが、実にまあピタリと嵌るのだ。

 もっともこれには、似たような先例がある。ウィーン国立歌劇場で09年にプレミエされたヴェラ・ネミロヴァの演出がそれだ。あれは、前記の各場面のほか、「魔女の場面」ではラジオ体操さながらの踊りを入れ、第2幕の「刺客たちの合唱」でも、あのリズムに乗せて、陽気に踊らせていた。私も呆れて、その時は激怒したが、しかしあとから考えると、面白かった。
 ちなみにもう一つ、今回のコンさんの演出では、魔女の台所で歴代の王が次々に暗殺される様子が描かれていた(魔女の演技がシルエットでカーテンに映る)が、これもネミロヴァ演出でも行われていた手法だ。ただし、どちらが先のアイディアかは、知らない。

 ともあれ、それらも含め、コンセプトにはあれこれアイディア豊富なものがあるのだが、さて実際の舞台としては、どうだろうか? 
 私の印象では、コンヴィチュニーの演出としては、かつての「パルジファル」「アイーダ」「エレクトラ」「ローエングリン」などで創られたあの緊密性が、どうも何か希薄になって来ているような感がしてならないのである。それは、彼のパワーの下降ゆえか、それとも日本人歌手たちの演技が彼の演出にそぐわないためなのか? 

 Aキャストは、なかなか強力だった。演技はともかく、歌唱の面では、小森輝彦(マクベス)、井ノ上了吏(マクダフ)、ジョン・ハオ(バンクォー)が、それぞれの聴かせどころでいい味を出した。板波利加(マクベス夫人)も、かなりどぎつい歌い方で、迫力ある熱演を示していた。
 しかし、今回の最大の収穫は、東京交響楽団を指揮したアレクサンドル・ヴェデルニコフではなかろうか。この人のオペラ指揮については、以前音楽監督・首席指揮者を務めていたボリショイ劇場との来日公演などで承知していたが、極めてまとまりが良い。強いて言えば、もう少しリズムに切ればあれば・・・・たとえばダンカン王の暗殺が発覚した時のあのリズミカルな音楽の個所などで。

 9時15分、演奏終了。これはライプツィヒ歌劇場との共同制作による、二期会創立60周年記念公演。
 

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