2017-11

4・30(火)東京二期会 ヴェルディ:「マクベス」GP

  東京文化会館大ホール  5時

 名助演者の原純さんから、今度のペーター・コンヴィチュニー演出では、「ダンカン王の従者として舞台上でマクベスにより壮絶に殺される」役をやる、という連絡が来た。
 普通は舞台上には出て来ない役柄だが、コンヴィチュニーならそのくらいやるだろう・・・・というわけで、興味津々観に行ったが、なるほどさすがは名優・原純、まことにド派手な「殺され方」をして舞台を盛り上げている。今日の出演組(Bキャスト)はおしなべて演技が素人っぽいので、そのぶん彼の巧さが目立つのだろう。
 コンヴィチュニーの演出では、とにかく演技が精妙でしかも明解で、心理描写に富み、巧くなくてはならぬ。

 本番は5月1日からだから、GPの段階で詳しくレポートしてはネタバレになってしまう。これ以上のことは明日の初日のあとで、ということにする。
 ただ、とにかくコンさんの演出ゆえ、不気味なはずの「魔女の場面」からして突拍子もない光景になっていたりするのは当然である。全篇にわたり「魔女軍団」が重要なモティーフになっているが、これくらいは、書いておいてもよかろう。
 休憩は1回。

4・29(月)伊藤恵ピアノ・リサイタル

   紀尾井ホール  2時

 恒例のリサイタル。演奏後の挨拶によれば、今年がデビュー30周年だとか。ミュンヘン国際コンクールに日本人初の優勝を飾ったのが1983年だから、この年をデビュー年とするわけだろう。立派なものである。

 今年のリサイタルは、ブラームスの「シューマンの主題による変奏曲」、シューベルトの「4つの即興曲作品90」、ショパンの「24のプレリュード」というプログラムだ。
 ブラームスとシューベルトを比較的端整な表情で包み、後半のショパンに入るや俄然エネルギーを解放して壮大な拡がり感をつくり出すその対照もあざやかだが、たとえばシューベルトで、転調して別の主題に入ろうとする瞬間に示す思索的な表情など、極めて細やかな演奏を聴かせるのも見事。これも彼女のピアノの特徴の一つだろう。

 「前奏曲」の第1曲と第24曲を剛直なほど豪快に際立たせ――特に後者には聴き手が思わず襟を正すような毅然たる佇まいがあった――全24曲が大きく輪を描いて元に戻って来るような印象をつくり出すのも素晴らしい。
 終演後のサイン会は、例のごとくロビーを横断しての延々長蛇の列。

4・27(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団
シベリウス・ツィクルスⅢ

   サントリーホール  2時

 1週間以上も悩まされた咳もどうやら治まったようで、もうこれなら周囲に迷惑をかけることもなさそうだと思い、久しぶりにコンサート会場へ出かける。インキネンと日本フィルのシベリウス交響曲ツィクルスの最終回に間に合った。「3番」「6番」「7番」というプログラムである。

 「3番」冒頭の低弦群が、驚くほど明快な音色とリズムで開始された時、やはりこれがインキネンの感じるシベリウス像なのだな、と改めて感じ入る。
 これまでの2回の演奏会で聴いた印象をも含めて言えば、インキネンが示すアプローチは、シベリウスが若い時に書いた放縦なほどのエネルギーに満ちた「1番」「2番」と、「3番」以降の中期からの思索的な作風の違いを明確に際立たせながら、それらの作品に古来流布している「北欧の奥深い大自然」とか「森と湖と霧の中から」とかいった神秘的でロマンティックなイメージのレッテルを剥ぎ取り、透明冷徹な光の中に近・現代音楽としての裸形の性格を顕わにする、というものではないかという気がする。

 どうもまずい言い方しかできないので申し訳ないが、私は、シベリウスの音楽を聴いている時には必ず、私が何度かの旅で体験したあの北欧の懐かしい思い出や雰囲気が蘇り、陶酔的な感覚になるのだけれど、それがインキネンの指揮で聴く時に限っては、どうしてもそうならないのである。
 だから彼の指揮が悪いと言っているのではない。むしろその代り、これが21世紀のフィンランド人が考えるシベリウスなのかな、と、何か新しい音楽に出くわしたような気持になって、新しい興味が湧いて来る、ということもあるのだが。

 個人的な感傷はともかく、この「3番」の演奏、最初から最後まで些かのロマン的な哀愁感はなく、ひたすら明晰に進められた。大詰のクライマックスも、かなり抑制されたものだった。
 過去2回の演奏会からすると、インキネンはプログラムの前半と後半で対照的な性格をはっきり出すのが通例だが――今回、その後半の「6番」と「7番」を切れ目なしに続けて演奏したのはいいアイディアであった。共通の楽想があるのもさることながら、こうして聴いてみると、あたかも「7番」が「6番」の第5楽章にあたるもののようにさえ感じられたのである。
 「6番」は、「3番」とは全く曲想は異なるものの、「3番」に比べて猛然と盛り上がるといった曲ではない。しかし「7番」には、それを終結の昂揚に導くことのできる劇的な要素が備わっている。事実、インキネンの指揮では、この「7番」の特に後半部分では、音量的にというよりも、音楽としての力感がみるみる増して行き、目覚ましい終結感が創り上げられたのだった。

 これで、今回のシベリウス交響曲ツィクルスは完結。3回の演奏会でのプログラミングは、インキネンの故国フィンランドの先輩指揮者ユッカ=ペッカ・サラステがかつてフィンランド放送響を指揮してフィンランディア・レーベルに録音したCD3枚組におけるものと同じ組み合わせだった。必ずしも偶然ではないだろう。

 ⇒モーストリークラシック 7月号

4・20(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団
シベリウス・ツィクルスⅡ

   横浜みなとみらいホール  7時

 赤坂の紀尾井ホールから、横浜へ向かう。
 こちらは日本フィルの横浜定期。シベリウス・ツィクルスの第2回は、「第4番」と「第2番」を組み合わせたプログラム。

 インキネンの本領発揮ともいうべきこのシリーズ、彼は作品それぞれの性格に応じてアプローチを変え、日本フィルから多様な音を引き出して、シベリウスの世界を多彩に描き出す。
 「4番」では、この曲の重々しく暗く厳しい佇まいの抒情美を余すところなく再現してくれたが、それはかつてのベルグルンドのような痛切な悲劇感にのめり込むといった演奏ではなく、感傷性を排した冷徹透明な光の中をどこまでも逍遥して行くような気持にさせる音楽だ。
 「2番」でも、いかに最強奏で高鳴ろうとも、決して傍若無人に咆哮するような演奏にならないところが、フィンランドの指揮者ならではの善き趣味であろう。

 最近好調の日本フィルは、こういう指揮者の音楽にもうまく応えるようになっている。慶賀の至りだ。
 アンコールには「悲しきワルツ」。いい曲であることは認めるが、アンコールの定番になりすぎる。たまには他の曲もやってもらいたいところ。

 ⇒モーストリークラシック 7月号
 

4・20(土)ライナー・ホーネック指揮紀尾井シンフォニエッタ東京

   紀尾井ホール  2時

 ウィーン・フィルのコンサートマスターを務めるライナー・ホーネックが客演、ハイドンの「交響曲第88番」と、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」を指揮、その2曲の間には自らヴァイオリン・ソロを受け持ってベートーヴェンの「ロマンス」第1番と第2番を弾き振りする、というプログラム。

 ウィーン古典派の3大作曲家の作品から、有名な「ジュピター」と、優れた曲でありながらなかなか演奏会では取り上げられない「88番」を入れ、さらに自分の得意技を聴かせるべき親しみやすい小品を加える。心憎い選曲だ。ホーネックは、何の外連味もないストレートな表現でこれらの作品を指揮、さらにトロリとした味のソロを披露して、会場を埋め尽くしたファンを喜ばせていた。

4・19(金)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

  東京オペラシティコンサートホール  7時

 前半は菊池洋子をソリストに迎えてモーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番」。後半にブルックナーの「交響曲第5番」。

 ブルックナーの方は、年1回1曲のペースで行うツィクルスのこれが第2回。昨年の「4番」に続くもの。
 飯守らしいヒューマンな音楽づくりの指揮で、決して無機的な音の構築にならぬところが人気を集めるゆえんだろう。荒々しい情熱でひたすら突き進む粗っぽい個所も多々ある一方、金管群を均衡豊かに響かせてブルックナーのコラールを構築する。

 金管の一部には呆気にとられるようなミスもあって(先日の「悲愴」での事故と同様、甚だ興を殺ぐ)、せっかくの熱演に水を差したのは残念だが、そうした個所を除けば、金管全体のバランスは悪くない。特に全曲大詰の頂点のコラールは、それほどスケール感はないとはいえ、聴衆の大拍手を呼ぶに充分な昂揚感があった。

 なお、モーツァルトの協奏曲では、菊池洋子のアクセントの強い、精妙な運動性を保ったソロがたいへん興味深かった。彼女のソロ・アンコールは、クルタークの何とかいう曲(題名を聞き洩らした)と、ヘス編曲のバッハの「主よ人の望みの喜びよ」とを組み合わせたもので、この上なく美しい。ただし、オケの演奏会でのアンコールとしては、チト長い。

   音楽の友6月号 演奏会評

4・18(木)ロリン・マゼール指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

    サントリーホール  7時

 本気になった時のマゼールは凄い、だけどなかなか本気にならない――とはある指揮者が評した言葉だけれど、今夜こそは、おそらくその「本気」だったのじゃあないか? 

 ワーグナーの「タンホイザー」の「序曲とヴェヌスベルクの音楽」および「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」、ブルックナーの「交響曲第3番」(1889年版)というプログラムで、その豪壮さといい、些かも弛緩のないエネルギー感といい、まさに物凄いという表現がぴったりの演奏だった。
 「タンホイザー」の「バッカナール」の頂点の個所は、音量的には思ったより抑制気味になっていたが、あの遅めのテンポで、あの息の長い法悦の絶頂感を、あれだけ均衡を保った最強音で持続できるのは、やはり非凡なわざに違いない。

 第1部の真のクライマックスは、むしろ2曲目の「トリスタン」に置かれていた。「前奏曲」と「愛の死」でのそれぞれ頂点に向け盛り上げて行くあたりの強烈な粘り、うねり、肉感的かつ根源的な力の饗宴といった要素は、これまで私がナマで聴いたどんな演奏よりも、恐るべきものだった。唯一これに近い私のナマ体験の演奏といえば、マゼール自身が2000年のザルツブルク音楽祭で指揮した全曲上演だったかもしれない。
 ともあれ、「トリスタン」をこんな風に描き出せる指揮者は、今日ではマゼール以外には考えられないし、またその一種の「反時代的な」演奏が、こんなにも強烈に私たちを呪縛してしまうのだということは確かなのである。

 一方、ブルックナーの「3番」も、まさに揺るぎない均衡の構築に、いい意味での大見得が交った力感豊かな演奏だった。第4楽章の第2主題の4小節目でテンポをちょっと落しながらリズムを強調し、舞曲風の性格を強めてみせるあたり、マゼールの茶目っ気未だ健在なり、というところか。
 大詰の大クライマックスは、CD(ソニークラシカル SICC1628)での演奏と同様、大掛かりな「矯め」をつくっての幕切れだ。これも、いまどきマゼールだけに許される大芝居と言えるだろう。わざとらしい、と言う人には言わせておけばよろしい。このくらいの大上段に振りかぶっての演奏を否定するようなせせこましい世の中では、面白くあるまい。

 沸きに沸く聴衆相手に、タフなマゼールとミュンヘン・フィルは、アンコールに何とワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲を演奏し始めた。これまた豪壮雄大、豪華絢爛、とめどない音の大饗宴だが、その壮大な奔流を引き締めるように、弦による「愛の動機」の個所では、一瞬ハッとするような静寂な美しさをオーケストラにあふれさせた。このあたりの変わり身の早さも、マゼールの昔からのお家芸である。そして最後は、「矯め」の大わざの極致ともいうべく、「マイスタージンガーの動機」をいっぱいに聳えさせての大見得。聴衆が沸かないわけがない。

4・17(水)フェニーチェ歌劇場来日公演 ヴェルディ:「オテロ」

   Bunkamuraオーチャードホール  6時30分

 11日に大阪で観た舞台よりも、今日の公演の方が、格段に流れが良い。
 「初日は常に手探り」とは、誰だったか有名な歌手の言葉だが、やはり「2日目」になると呼吸が合って来るのだろう。第1幕の「兵舎の場面」をはじめ、全体に登場人物の動きがきびきびとして引き締まって来ている。グレゴリー・クンデ(オテロ)も、大阪公演よりも声が良く伸びていたようだ。

 ただ、このホールの1階席22列目のやや上手寄りで聴くと、ソロも合唱も、声がまっすぐこちらに伝わって来ず、オーケストラに消されたり、どこかに散ってしまったりするような印象があって、少々もどかしい感があった――上階席ではまた異なったバランスで聞こえたかもしれない。
 とはいえこれも、舞台装置がどこまで反響版の役割を果たしていたかによって違うだろう。クンデの声にしても、立ち位置によって随分響きが変わっていたから。

 目覚ましかったのは、チョン・ミョンフン指揮するフェニーチェ歌劇場管弦楽団の、量感にあふれた見事な演奏である。前述の位置で聴いた範囲では、このオーチャードホールのオケ・ピットから響いた最もスケールの大きい、たっぷりした厚みと表現力に富んだ、素晴らしいサウンドであった。ヴェルディが晩年に到達した雄弁なオーケストラ表現というものを、こういう演奏は、まざまざと再現してくれると言えるだろう。

 11日の項で書いた演出についての印象に――印象という表現を使ったのは、幕切れでの演出の意味についてこちらの勝手な解釈が入り込んでいるのを承知の上で言っているからだが――付け加えるとすれば、オテロの自決に際し、彼が短刀を持つ手にデズデーモナ(もしくはそのイメージ)が手を添えて自らを刺すように仕向け、かくて共に苦悩を分かち合い、互いを許すという点だろうか。
 これは、10年ほど前にマリインスキー・オペラでアレクサンドル・ガリービンが演出したチャイコフスキーの「スペードの女王」のラストシーンを思い出させた。ただしあの時は、リーザの亡霊がゲルマンに「これで死ね」と言わんばかりに短刀を渡し、これで復讐を果たしたという調子で消えて行くという演出であって、今回のような「和解」のイメージは無かったが――。

 2回、詳しく観てみると、今回のフランチェスコ・ミケーリの演出、これはこれでなかなか良く出来ているな、と思う。

4・15(月)フランス・ブリュッヘン指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

    すみだトリフォニーホール  7時

 全4回にわたった「ブリュッヘン・プロジェクト」、最後の1回は新日本フィルとの演奏で、シューベルト・プロが組まれた。交響曲の「第5番」と「ザ・グレイト」。アンコールには「ロザムンデ」の「間奏曲変ロ長調」。

 前回までの18世紀オーケストラと比較すると、新日本フィルの演奏は、良くも悪くも、無色透明といった印象になる。技術的にも上手いし、バランスもいいし、几帳面で正確で、いかにも日本のオーケストラだなという感だ。しばらく聴いていると、それにも慣れてしまい、これがわれわれの国の長年聴き親しんだオケの音で、当然のものだという感覚に、いつのまにか填まり込んでしまうから不思議である――。

 綺麗にまとまった「5番」よりも、「ザ・グレイト」の方が圧倒的に面白かった。
 ホルンがもう少し安定していれば文句なかったのだが、ブリュッヘンは多分こうやりたかったのだろうということが明らかに判る演奏だったし、何よりシューベルトの音楽がこの世ならざる妖しく美しい光を放っているものだから、細かいところはともかく、ただもう引き込まれてしまうのである。

 第1楽章第2主題の後にトロンボーンが微かに吹き始めるモティーフがこれほど「彼岸的」なものに聞こえたことは、その昔のフルトヴェングラーの指揮ならともかく、今日では稀だろう。第2楽章真ん中頃のホルンと弦の秘めやかな対話の個所も同様、オーボエが再び主題を吹き始める直前にブリュッヘンが採ったほんの僅かの「間」では、ホールの中のすべてが息を止めたかのよう。

 最も素晴らしかったのは、第3楽章のトリオ部分だ。オーケストラ全体が、ゆっくりと波打つように揺れ動きながら歌う。快い夢の中に浸っているようだ。ブリュッヘンは各パートのバランスに神経を行き届かせ、時にはバランスに変化を持たせて、遠く近く、上に下に、ゆらめくような音色の変化をつくり出している。これに応えた新日本フィルも賞賛すべきものであった。

 第2楽章の終り近くでたっぷりと重厚に延ばされる和音や、第4楽章大詰でひた押しに繰り返されるフォルツァート付2分音符(コンマス豊嶋泰嗣の身振りもド迫力)など、それぞれでの力感も見事だった。最後の和音が終ったあとに保たれた長い息詰まる静寂感は、聴衆の強い集中力を物語っていただろう。
 そして、「ロザムンデ」での木管の美しさは、たとえようもない。

 フランス・ブリュッヘンの指揮を、次はいつまた聴けることだろう。たとえこれが最後の機会だったとしても、今日の「ザ・グレイト」の第3楽章トリオの演奏は、私の生涯の思い出になる。

4・14(日)スダーンと東京響のモーツァルト・マチネ第13回 

   ミューザ川崎シンフォニーホール  11時

 リニューアル・オープンしたミューザ川崎シンフォニーホールに戻っての最初の「MM」とあって、客の入りもこのシリーズとしては上々。
 今日はユベール・スダーン指揮の東京交響楽団に、サビーナ・フォン・ヴァルター(S)とパトリック・シンパー(Bs)をゲストに迎えての演奏である。

 ヴァルターが「魔笛」の「パミーナのアリア」ほかコンサート・アリアを3曲、シンパーが「後宮よりの逃走」「フィガロの結婚」「魔笛」などからのアリアを計4曲歌い、それらを囲み繋ぐようにオーケストラが「後宮よりの逃走」と「フィガロの結婚」からの序曲や、「コントルダンス」「メヌエット」など8曲を演奏。アンコールに「音楽の冗談」の第2楽章を演奏して幕となった。
 休憩なし、ほぼ1時間強の長さながらも盛り沢山のプロだったが、結局は「スダーンのモーツァルト」。

4・13(土)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

  東京オペラシティコンサートホール  2時

 これは単に「特別演奏会」と題されているのみで、明確には謳われていないが、日本フィルの正指揮者の山田和樹が昨年「文化庁芸術祭賞音楽部門新人賞」「齋藤秀雄メモリアル基金賞」「渡邉曉雄音楽基金音楽賞」という若い音楽家を対象とした3賞を総なめにしたことへの祝賀の意味を籠めた演奏会でもあった。

 プログラムは、ブラームスの「大学祝典序曲」、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」、サン=サーンスの「交響曲第3番」。アンコールには、創立指揮者・渡邉曉雄が得意とした作曲家シベリウスの「フィンランディア」。協奏曲では、ロン=ティボーとエリーザベトの2つの国際コンクールで2位に入賞したばかりの成田達輝がソロを弾き、交響曲では長井浩美がオルガンを受け持った。

 最も聴き応えのあったのはサン=サーンスの「3番」で、少し前に別のオーケストラを指揮した時よりもはるかに緊張度が高く、音の密度も濃く、起伏もスケール感も格段に大きな演奏になっていた。これは、オーケストラとの相性も影響していているようにも思われる。
 それにしても、こういう、いい意味でのハッタリが効くタイプの曲になると、山田和樹は実に「持って行き方」の巧い指揮者だな、とつくづく思う。第1楽章の終り近く、昂揚していた楽想が潮の退くように静まって行くところ一つ取ってみても、それが感じられるだろう。

 メンコンを弾いた成田達輝もちょっと捻りの利いた演奏をする若手で、面白い個性の持主である。もっとも今日は、楽器に何か問題でもあったのか・・・・もう少し朗々とした音で弾いてくれていれば、さらに闊達な演奏になったのではないかという気もしたが。
 アンコールでの「フィンランディア」は、勢いだけで演奏したという感。しかしあの有名な抒情主題は、弦のトレモロが力強く旋律を支えて、すこぶる情感豊かなものがあった。

4・11(木)新フェスティバルホール杮落し 第51回大阪国際フェスティバル
フェニーチェ歌劇場来日公演 ヴェルディ:「オテロ」

    フェスティバルホール  6時30分

 大阪のフェスティバルホールが4年間の建替期間を終え、待望のオープン。その杮落し公演の一つ、フェニーチェ歌劇場の来日公演「オテロ」を観に行く。

 ホールの場所は昔と同じだが、「フェスティバルタワー」という大きなビルが造られ、その中にホールが組み込まれた。赤い絨毯の幅広い階段を上って行くとかなり広いエントランスホワイエがある。左側にクロークがあるが、意外に小さい。対応が丁寧すぎて時間がかかるのは良くも悪くも日本の他のホールと同様だ。メインホワイエに向かうエスカレーターは距離が長く天井も低く、トンネルの中を進むようで、やや圧迫感がある。しかもおそろしくゆっくりした速度なので、開演直前に駆け込む場合には大変だろう。
 ビュッフェを含むメインホワイエは3層吹き抜けで、壁面はレンガ張り、旧ホールを思い出させる赤い絨毯を基調とし、星空を思わせるシャンデリアを備える。光量は日本のホールとしては極めて抑えられ、METに似ているが、人の顔やプログラムの字が判別できないほどではなく、落ち着いた雰囲気がある。

 これらを含め、会場の第一印象は悪くなかったものの、休憩時間と終演後のホワイエの混雑ぶりと「人の動線の悪さ」は著しい。ホワイエ内を移動しようと思えば、通路整理係の絶叫を浴びつつ、人にぶつかり、ぶつかられ、苦労しながら目的の場所に辿り着く、といった具合である。

 ホール内は旧ホールと同様に広大で、ザルツブルク祝祭大劇場にも似た幅広い間口の舞台と客席を備える。客席は3層、両側の壁面に2人単位のバルコニー席が点在しているのは何か微笑ましい景観である。椅子は新国立劇場やオペラシティコンサートホールほどではないにしても、東京文化会館大ホールなどより遥かに座りやすいスペースと構造を持ったものだ。

 注目される音響については、今回はオペラだけなので確とは分らないが、少なくとも2階正面2列目の席で聴いた範囲では、ピットのオーケストラの響きには好ましいまとまりがある。舞台上の声楽は少し遠いかなという感覚がないでもないが、バランスは極めて良いようである。1階席前方で聴いていた知人たちは、オケの音が天井方面に散るようで手応えを欠いたと言っていたけれども、2階席前方ではそのような印象はなかったことは、確かである。
 ただいずれにせよ、ホールの音響を云々するのは、数年経って「音が馴染む」まで様子を見た方がいい。あの札幌の名ホール「kitara」でさえ、竣工直後の頃は、1階席で聞くとかなり硬い音だったくらいだから。

 さて、フェニーチェ歌劇場の「オテロ」である。フランチェスコ・ミケーリの演出は、イタリア・オペラでのそれとしては、かなりいろいろと趣向を凝らしたもので、紗幕や、移動し回転する舞台装置(エドアルド・サンキ担当)に星座のデザインを織り込んだあたりは、あたかも人の「星回り」と運命とを暗示するかのよう。
 この装置を活用して場面を転換させ、たとえば第1幕では港の場から兵舎へ、さらにオテロの寝室へと、3つの場面に変化させるという具合である。カッシオがヤーゴの姦計に乗って泥酔し喧嘩をする場面を兵舎の中としたのは、女声合唱にも男の兵士の扮装をさせる(髭を生やさせる)のはちょっと強引であるものの、面白い発想と言えよう。
 嵐の場面(第1幕)やヴェネツィア特使の到着場面(第3幕)などでは、登場人物たちが船の模型を手にかざしてそのイメージを出す。

 もっとも、この程度ではどうということはないけれど、第3幕の幕切れ以降、第4幕大詰にかけてが、ミケーリのアイディアの見せ場ということになるだろう。
 この演出では、第3幕の最後、オテロが狂乱の絶頂に達して失神したところで、ドラマは事実上終ったという解釈なのではないのか? 一見したところ、そのあとの第4幕はオテロやデズデーモナの幻想のようにさえ感じられる。オテロが自らを刺した時、デズデーモナもまた同じ痛みを感じる。かくして2人は互いを理解し、和解して、いずこともなく姿を消す・・・・と解釈すればこの演出の意図も解るのかもしれないが、いかんせん、オテロ(グレゴリー・クンデ)の熱演に比して、堂々たる体格のデズデーモナ(リア・クロチェット)の演技があまり微細でないために、どうもそのへんが明確でなくなるのである。

 更に興味深いのは、紗幕などに映し出され、演出のポイントになっていると思われる、原作「オセロー」第1幕第3場にあるイアーゴーの、
 「ムーア(=オセロー)は憎い。奴はおれのふとんにもぐり込んで俺の代理を勤めやがったという噂もある」(木下順二訳)というセリフである。したがってミケーリの解釈は、こういう「あることないこと」への嫉妬が嵩じての悲劇、ということのようだ。
 それゆえ、デズデーモナの侍女エミーリア(エリザベッタ・マルトラーナ)が、夫ヤーゴから虐げられるだけの妻でなく、第4幕では何か謎めいた行動をとる様子も垣間見られるが、このあたりはミケーレも単なる暗示にとどめているように思われる。

 チョン・ミョンフンの指揮と、フェニーチェ歌劇場管弦楽団と合唱団の演奏は、なかなかしっかりしたもので、聴き応えがある。歌手陣では、何といってもヤーゴ役のルーチョ・ガッロが、歌唱といい演技といい傑出したもので、彼の存在がこの舞台を引き締めていたといっても言い過ぎではないだろう。児童合唱には大阪のラピスファミリー合唱団が出演していた。

    ⇒音楽の友6月号

4・9(火)ステファヌ・ドゥネーヴ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団

   サントリーホール  7時

 この十数年来、前首席指揮者ノリントンの指揮で来日公演を行なっていたシュトゥットガルト放送響が、2011/12年シーズンから首席指揮者を務めるようになったステファヌ・ドゥネーヴと来日した。

 ドゥネーヴは1971年フランス生れ。既に新日本フィルや東京都響にも客演指揮しているそうだが、私はこれまでナマで彼の指揮を聴いたことはない。今年8月、サイトウ・キネン・フェスティバルで小澤征爾と一緒にオペラを振る(ラヴェルの「スペインの時」)予定というし、これから日本にもおなじみになって行く存在だろう。

 今夜は、ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」(ソロはエリック・ル・サージュ)と「マ・メール・ロワ」全曲、ドビュッシーの「海」、アンコールとしてビゼーの「ファランドール」が演奏された。フランスもので固めたのは、指揮者のお披露目プログラムというわけか。しかしオケは、ノリントン時代と同じように、ヴァイオリンは対向配置、コントラバスは正面奥にずらり並べる配置を採っていた。

 最初の2曲を聴いた時には、響きがガサガサしていて硬く、やはり2シーズン目では指揮者とオケの呼吸も未だ合わないのかな、と半ば諦めかけたが、後半に入るや、オケの音色は突然変わり、まるで羽毛のように柔らかく軽やかな音楽が拡がりはじめた。夢幻的な優しさと美しさを湛えた「マ・メール・ロワ」は、今夜の最高の演奏ともいうべきものだったであろう。
 だがこれも弱音の多い叙情美の作品、ピアニッシモでならこういう夢のような音色は出せても、フォルテの多い曲になればまたさっきの協奏曲と同じになってしまうのでは、と危惧していたのだが、うれしいことに「海」もまた、最強奏個所においてさえ、ソフトな羽毛の手触りを思わせる響きに充たされて行った。

 ドゥネーヴという人、ドイツのオーケストラをここまで引っ張るのはなかなかの腕だ。少しもってまわったテンポを採ることがあり、また、指揮棒を構えてもなかなか振り出さないとか、振り終った時に「余韻」をいつまでも引っ張るとかいう癖もあるけれど、とにかく、しっかりした個性と主張を持った指揮者のようである。
 オケも快調さを保っている。ハープの音色はひときわ美しかったが、あれは山畑るに絵さんでしょうか? 

 協奏曲を弾いたル・サージュも相変わらず変幻自在のピアノで、アンコールで弾いたモーツァルトの「ソナタK330」第2楽章の瑞々しさは絶品であった。

4・8(月)METライブビューイング ワーグナー「パルシファル」

   東劇(銀座)  5時

 3月2日の上演をライヴ収録した映像。
 内容は2月15日に現場で観たプレミエ公演と同じだが、映像鑑賞の利点は多い。

 まず、巧みなカメラワークで捉えられた近接の映像では、METの劇場で観た時には分からなかった、細部に及ぶ演技の面白さや舞台装置の緻密さがじっくり味わえること。
 特にペーター・マッテイ(アムフォルタス王)の微細な苦悩の演技など、広大なMETの平土間後方の客席からでは、とても明確に観ることはできないものだった。
 また第2幕で床一杯に拡がっていた気味の悪い「血の池」も、後方の席からでは、その存在すらはっきりとは分からなかったくらいである。いずれも今回の映像でそれらを確認できたことは、幸いであった。

 そしてもう一つ。スクリーンに切り取られた「部分凝視型」の映像で見ると、たとえば聖杯開帳場面など、広大な舞台全体の中でそれを見るよりも、遥かに美しいのである。これはやはり、演出のフランソワ・ジラールが映画監督であるため、知らず知らずのうちにそのような構図に重点が置かれてしまったためなのだろうか? 
 ただその代わり、全曲の大詰で全員が救済される場面の大勢の男女の動きといったものは、ナマの舞台を見ていないと解らない。
 しかしともかく、舞台背景のスクリーンに投影される雲や天体、光の変化などが音楽と相まって観客に与える効果は、どういうわけか、ナマの舞台よりも、映画館での方がはるかに強烈に感じられる。美しいのである。

 更にもう一つ、歌手の出来が、私の観た初日公演よりも、遥かにいい。ナマと録音・録画の違いは措くとして、カウフマン(パルジファル)、パーぺ(グルネマンツ)はもちろんのこと、ダライマン(クンドリ)やニキーチン(クリングゾル)も、初日とは格段の差だ。公演を重ねて練れて来たのかもしれないし、ライブビューイングの日は指揮者もオケも歌手も張り切って「アドレナリンが上がる」(MET総裁ゲルブ談)からでもあろう。
 ただし、指揮のガッティは、やはりテンポが遅すぎる。初日よりも遅かったのでは? 
 10時半頃終映。

 そういえば、この10日の間に、「パルジファル」3種、「マイスタージンガー」2種を体験したことになる。ワグネリアンの端くれを自認する私といえど、こんなことは初めてかもしれぬ。
 ベルリンでの雑然たるシュテルツル演出と、ザルツブルクでのややこしいシュルツ演出とを観たあとでは、METの「パルジファル」は、非常にシンプルで清涼に感じられる。そして演奏の素晴しさでは圧倒的にザルツブルクのティーレマン、舞台の美しさでは問題なくこのMET(リヨンおよびカナダ・オペラとの共同制作)のジラール演出ということになろう。

 なおMETライブビューイングでは、題名役の表記を「パルシファル」としている。これはMETでの発音や、ワーグナー家の発音(バイロイトの総帥カタリーナ・ワーグナーに問い合わせ確認した由)に倣ったものという。日本ではNHKも「パルシファル」としているはずだ。
 ただ、ドイツ在住のジャーナリストから聞いた話では、バイエルン地方の人たちは「パルシファル」だが、ドイツの北の方の人たちは「パルジファル」と発音する由。となると、どちらも正しい、ということになるのだろう。日本ワーグナー協会では「パルジファル」を採用しており、私も協会の評議員を務める関係上、一応それに倣うが・・・・。

 港区にある「白金」が、「シロガネ」か「シロカネ」かで揉めたとかいう話を聞いたことがある。あれは絶対「シロカネ」が正しい。地下鉄の駅の名前も「SHIROKANE・・・・」になっているし、昔の都電の駅名も「しろかねだいまち」だった。私も白金(しろかね)小学校出身だから、間違いない。

4・7(日)ミューザ川崎シンフォニーホール・リニューアルオープン
     ユベール・スダーン指揮東京交響楽団のブルックナー 

  ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 大震災による天井崩落被害の修復のため2年間休館していたミューザ川崎シンフォニーホールが、待望のリニューアル・オープン。満席の聴衆を集め、東京交響楽団が音楽監督スダーンの指揮で、ブルックナーの「交響曲第9番」と「テ・デウム」を演奏した。
 合唱はもちろん東響コーラス、ソリストはサビーナ・フォン・ヴァルター(S)、白井光子(Ms)、チャールズ・キム(T)、パトリック・シンパー(Bs)。

 竣工したホールや、リニューアルされたホールの場合、まず気になるのが、音響の問題だ。それらではたいていの場合、初めのある期間は音が硬めに聞こえ、それが「音がなじんで来る」あるいは「鳴らしこまれる」にしたがって、だんだん「豊かな音」になるという不思議な経過を辿るものである。それには1~2年かかることもあるし、4~5年のこともある。

 しかしこのミューザ川崎シンフォニーホールの場合、天井を含めたホール内の建材がどう変えられたのかは私には判らないが、2CB中央の席でブルックナーの交響曲を聴いた今日は、音が意外に「硬く」ならずに、全く刺激的にならずに耳に響いて来たのは、うれしい驚きだった。
 オーケストラの響きが明晰で、たっぷりした量感を以って聞こえるのはこのホールの以前からの特徴だが、幸いにもそれが修復前に比べて過不足なく引き継がれている、ということであろう。

 そして更に驚かされたのは、「テ・デウム」で聞かれた合唱の重厚な量感と、豊麗な響きである。まるで巨大な釜か何かの中からワーンと湧き上がって来たような、豊かな残響を伴って歌われ始めたので、私はちょっとびっくりして、この響きはどこから生まれたのかと、思わず天井や反響板などを見上げたり、見回したりしたほどであった。
 たった1曲を聴いただけでホールの音響を一概に云々するのは危険だが、少なくとも今日のコンサートで得た第一印象は、すこぶる満足できるものであった。別にホールのPRをするわけではないけれども、これならこのホールに聴きに来るのが楽しみになる、と感じたのは確かである。

 「9番」は、これまでスダーンと東京響が繰り広げて来たブルックナーの交響曲群と同様、厳しい表情と隙のない構築で充たされた。「テ・デウム」では声楽陣の充実が目立っていた。
 いずれも、ホームグラウンドの復活を祝うにふさわしい快演であった。これで東京響も、再びかつての快調ぶりを取り戻すだろう。

 ただし今回は、この2つの曲を組み合せて演奏する時の段取りにおいて、少々要領の悪い点があったことは否めまい。「9番」の演奏が終ったあと、合唱団がなかなか入って来ないので、客席からはパラパラと曖昧な拍手が起こったが、その拍手の量から察するに、むしろここでは拍手なしに2つの作品の有機的な結合を期待していた聴衆の方が多かったはずである(私もそれを期待していた)。
 それゆえ、やはり、「9番」の第3楽章が神秘的に終ったあとに、そのまま静かに合唱団と独唱者を一緒に入場させ、かくして劇的な「テ・デウム」に移るべきではなかったか。そうすれば――ある程度の拍手は仕方がないとしても――あの祈りにも似た素晴しい雰囲気が壊されずに済んだであろうと思う。

4・6(土)フランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ

   すみだトリフォニーホール  6時

 実に11年ぶりの来日。だが、ブリュッヘンがこの18世紀オーケストラと来日ツァーを行なうのは、これが最後になるという。一つの時代が終るのか、という感慨。

 その最終コンサートが、今夜のシューベルトの「未完成」とメンデルスゾーンの「スコットランド」を組み合わせたプログラムだ。アンコールにはバッハのコラール「汝何を悲しまんとするや」BWV107と、ヨーゼフ・シュトラウスの「とんぼ」を演奏してくれた。

 「未完成」の演奏時間が30分、「スコットランド」が45分という、たっぷりしたテンポの演奏だったが、弛緩したところは少しもない。
 そして演奏も、細部がどうのこうのという問題を超越して、人間的な温かさがオーケストラを、ステージを、客席を、すべてを蓋いつくすという感であった。それで充分である。単に上手いだけで心のこもっていない演奏など、これに比べれば何ほどの価値があろう? 

 「未完成」は、ブリュッヘンならではの剛直で毅然とした意志の力に満ちた演奏。
 「スコットランド」は、当初発表されていた「1842年ロンドン版使用」が、現行版楽譜での演奏に変更になってしまったのは残念だったが、同じ現行版でも、他の指揮者とオケの演奏とは随分違ったものに聞こえて面白い。内声部の構築の大胆で複雑な動きがはっきりと聴き取れ、メンデルスゾーンが単なる優雅で上品な作曲家という仮面をかなぐり捨て、むしろ先鋭的な作曲家としての荒々しい顔を顕わすかのようだ。3本しかないコントラバスが実に強力で、オケ全体を支えつつ、時に凄味のある動きをするのも面白い。
 全曲最後に突然現われるあの民謡調の旋律は、私は結構気に入っているものなのだが、それもこの演奏ではひときわ感動的だった。ブリュッヘンと18世紀オケが最後に朗々と響かせた「別れの歌」のような感がして、ちょっと涙腺を刺激されたような思いになったほどである。

 アンコールでのバッハは当然としても、まさか「とんぼ」をやってくれるとは予想しなかった。――この2曲、実にいい味の出た演奏だった。

 ブリュッヘンは、まだ新日本フィルとの演奏会を残している(15日)。
 ステージへの出入りには車椅子を使っているが、指揮台へは介添人や手摺につかまりながら上がり下りする。初日にはその介添人が車椅子を猛烈なスピードで押して出入りしたので、「何考えてんだアイツ」と主催者らを顰蹙させたとかいう話で、・・・・今夜はそれほどでもなかったが、しかし何となくマニュアル的(?)な雰囲気の介添である。
 終演後、爆弾低気圧とかで、外は既に土砂降り。

4・5(金)東京・春・音楽祭 バイロイト祝祭ヴァイオリン・クァルテット

    東京文化会館小ホール  7時

 ワーグナーの聖地バイロイト音楽祭(正確には祝祭)のオーケストラに長年参加した4人のヴァイオリン奏者によるクァルテット。

 ベルンハルト・ハルトーク(ベルリン・ドイツ響)、ミヒャエル・フレンツェル(シュターツカペレ・ドレスデン)、ウルフ・クラウゼニッツァー(バイエルン室内管)、眞峯紀一郎(ベルリン・ドイツオペラ管)――と、それぞれ所属したオーケストラは異なるものの、バイロイトという臨時編成の大オーケストラに参加して意気投合、2005年に結成したのがこのクァルテットということだ。来日は4年ぶりになる。

 プログラムは、少々渋い。テレマン、キルヒナー、ホフマン、クプコヴィッチ、シャルル・ダンクラらの「4つのヴァイオリンのための」作品のほか、バッハの「イタリア協奏曲」や宮城道雄の「春の海」の編曲版、番場俊之の新作「あの空・・・・」初演を加え、アンコールにはヴェルディの「椿姫」とモーツァルトの「魔笛」の「夜の女王のアリア」の編曲を演奏した。しかし、実際に聴いてみると、なかなか美しく気持がいいのである。

 特にヴァイオリン4本という同質の楽器編成から生まれる不思議な音色には、ちょっと形容し難いほど美しいものがある。しかも、先入観なしに聴いてさえ、4人のヴァイオリンの音色は、陰翳が濃く、しかも音の重心が低く、いかにもドイツの――つまりバイロイト祝祭劇場で聴いたオーケストラのあの弦楽器の音色を、はっきりと思い出させるものなのであった。
 4月8日には、名古屋の宗次ホールでも公演がある。

4・4(木)東京・春・音楽祭 ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

   東京文化会館大ホール  3時

 これも恒例となった「東京・春・音楽祭(東京のオペラの森2013)」のワーグナー・シリーズの一環。昨年の「タンホイザー」同様、演奏会形式による上演。
 最前列にソリストたちが譜面台を前に立ち、そのうしろにオーケストラ、合唱、舞台奥の巨大なスクリーンに映像と字幕が投射される。

 オーケストラは常連のN響。今回の指揮はセバスティアン・ヴァイグレ。合唱が東京オペラシンガーズ。
 主役歌手陣は以下の通り――靴屋の親方ハンス・ザックスをアラン・ヘルド、金細工師の親方ポーグナー及び夜警をギュンター・クロイスベック、市の書記ベックメッサーをアドリアン・エレート、若い騎士ヴァルターをクラウス・フローリアン・フォークト、ポーグナーの娘エファをアンナ・ガブラー、徒弟ダフィトをヨルグ・シュナイダー、乳母マクダレーネをステラ・グリゴリアン。
 なお他の親方連中を、甲斐栄次郎(パン屋コートナー)をはじめ、山下浩司、片寄純也ら日本勢が手堅く固めていた。

 休憩を含め5時間半の長丁場をともあれ保たせたのは、やはり歌手陣の個性だろう。
 特にフローリアン・フォークトは、舞台上の雰囲気からして、当り役そのものだ。大詰でいよいよあの歌を歌い出そうとする時、満場の期待を一身に集めて息を呑ませるような雰囲気を創り出してしまうようなヴァルター役は、今日では彼を措いていないのではないか、とさえ思わせる。
 エレートも、2009年にバイロイトで観た彼の前衛芸術家的ベックメッサーが忘れられない。歌唱だけからも、その片鱗を知ることができる。

 ガル・ジェイムズに代わりエファ役に登場したアンナ・ガブラーは、どこかで聞いた名だと思ったら、DVDで観たグラインドボーン上演のエファを歌っている人だった。今夏のザルツブルク音楽祭でも同役を歌うというから、ますます楽しみになった。
 ザックスを歌ったヘルドは、悪くはないのだが、もう少しこの親方らしい複雑な心理の表現と、声にも滋味といったものが欲しい・・・・。

 惜しむらくは――という問題が二つ。
 まずN響。昨年もそうだったが、演奏が、味も素っ気もない。ワーグナーのこの音楽に愛情も共感も抱いていないのでは、とまで思えて来る。セバスティアンのその人が、もともと乾いた指揮をする人だから、ある程度は予想していたけれども・・・・。第3幕の「マイスタージンガーたちの入場」も、最後の「ザックス万歳」の歓呼の場面にしても、とにかく演奏がクールで、ちっとも熱気が伝わって来ないのだ。
 それに舞台上の配置のためか、反響版の位置との関係か――あるいはこちらの聴いた席の位置(2階正面最前列)の所為か――音が乾いてばさばさで、低音域が全く聞こえて来ないのには落胆させられた。

 もう一つは、字幕だ。背景の大きなスクリーンを活用して上下左右に各人の訳語を分散して表示するというアイディアは、やや目まぐるしいけれども、悪くはない。だが問題は、文章が短く頻繁に変わるので、読み続けるのが疲れてしまうことだ。時にはもう少し長いフレーズで表示する方がいいだろう。
 更にいけないのは、その字が見にくいことだった。背景の映像(といっても図柄程度だが)が白色系であり、その上に白い字が投射されるからである。デザイン優先は困る。

4・1(月)旅行日記(終) ワーグナー:「パルジファル」

   ザルツブルク祝祭大劇場  5時

 ベルリンからザルツブルクに移動。
 こちらの「パルジファル」は、ザルツブルク・イースター・フェスティバルの最終日の公演である。

 今年からこの音楽祭の主役は、クリスティアン・ティーレマンと、彼が率いるシュターツカペレ・ドレスデンになっている(カラヤンによるイースター音楽祭創設以来半世紀近くにわたり君臨したベルリン・フィルは、今年からラトルと共にバーデン・バーデンの音楽祭へ移った)。聴衆の間でのティーレマンの人気も上々とお見受けした。彼もカーテンコールでスタンディング・オヴェーションを受け、オケの楽員と一緒に舞台に並び、巨大なシャンパン・ボトルを贈られてご満悦の様子。
 余計な詮索だが、喧嘩早い(?)彼がザクセン・ドレスデン州立歌劇場のシェフを辞めたら、この音楽祭の主はどうなるのだろう?

 そのティーレマンの振る「パルジファル」は、流石に見事だ。
 今日私が座ったのは1階5列目、やや上手寄りの席で、この位置ではオーケストラが非常に豊麗な、柔らかくて壮大な響きに聞こえるものだ(1階席後方や2階では全く違い、もっと硬い音に聞こえるだろう)。
 その範囲で言えば、今夜の彼とシュターツカペレ・ドレスデンの演奏は、スケールも起伏も、巨大かつ壮烈であった。第1幕と第3幕の場面転換の音楽のように地を揺るがせるような最強音の個所でさえ音にはふくらみがあり、第2幕のクンドリの誘惑の場面や第3幕の「聖金曜日の音楽」などのような叙情的な弱音のところではそれこそ夢幻的な陶酔を感じさせる音になる。
 これだけでも、「パルジファル」の音楽の圧倒的な豪壮さ、神秘性、沈潜した静寂の美など、その素晴しい特徴を120%堪能するには、私には充分である。

 今回の主役陣は、パルジファルをヨハン・ボータ、グルネマンツをステファン・ミリング、アムフォルタスとクリングゾルをヴォルフガング・コッホ(この2役を同じ歌手が歌うのが演出も含めての大きなポイントだ。もとものこの2役は陽と陰の関係にあるゆえに)、クンドリをミヒャエラ・シュスター、ティトゥレルをミルホ・ボロヴィノフ。といった顔ぶれ。好みの上では、体型やら何やらを含めて一長一短あるけれども、音楽的には悪くない。
 とにかく、ティーレマンとオーケストラが引き出す絶妙なサウンドに乗れば、みんな良くなる。――私は別にティーレマン信奉者ではないが、ことワーグナーに関しては、彼の指揮は最高レベルの一つだと思っている。

 演出はミヒャエル・シュルツ。これは少々難物だ。1回観ただけでは、正確に理解するのは難しい。ある程度の憶測と、少し見当はずれでもこちら側の勝手な解釈とで済ませるしかないだろう。
 第1幕での林立する透明な円柱(舞台美術と装置はアレクサンデル・ポルツィン)は美しい景観だが、これはそのあとは出て来ない。第2幕のクリングゾルの館の場面では古今東西のあらゆる像(ダビデからヴィーナスから仏様に至るまで)がグロテスクな雰囲気で並んでいるのが、以前のキース・ウォーナー演出の「ラインの黄金」での古今東西の神々集結場面を思い出させて苦笑を誘う。

 だがむしろ重要なのは、アムフォルタス王やクリングゾルやパルジファルに、各々の潜在意識を具象化したようなダンサー、陰陽両面のキリストに似た2人の男、異形の人物、思春期の少年たちなどを絡ませ、主人公本人とは異なる行動を取らせたりする手法にあるだろう。
 愛欲のため自滅したアムフォルタス王にとっては、2人の若い裸体のダンサーは彼のエロスの象徴で、第3幕では聖杯の儀式を放り出して2人との愛撫にふけり、怒った聖杯守護騎士団のリーダーたちに引き離される。
 パルジファルに付きまとう純な(?)少年たちは、本人の口とは裏腹に、花の乙女たちやクンドリを夢中になって追い回すばかりか、クンドリをレイプするような状況にまで至る。

 また、おそらくはアムフォルタス王と魔人クリングゾルのそれぞれを象徴すると思われるキリストみたいな姿をした2人の男――1人は比較的清潔な身体と風貌、もう1人は薄汚い悪玉然とした風体だ――の役割はすこぶる複雑である。クンドリが彼らと密接な行動を取るのは、彼女とこの2人との浅からぬ関係からして当然と思われるが、問題はラストシーンだ。

 すでに悪玉キリストのような男(クリングゾルの分身の1人か)は「聖金曜日の音楽」の高揚個所で死んでいる。善玉(多分アムフォルタス王の象徴か分身か)の方は、大詰で騎士(!)の1人に、これもすでに「死んだ」アムフォルタス王本人に代わり、聖槍で脇腹を突かれ、「以前に負っていた傷」が快癒しているのに自ら驚く。しかしその埋め合わせのような格好で、騎士から脇腹に血をつけられ、無理やり十字架上のキリストのようなポーズを取らされる。
 そしてクンドリは、愛するその男を守ろうとし、抱擁しようとしつつも果たせず、最後は騎士たちから「キリストの死を悼む女」のポーズを取らされたまま、涙にくれるという終結になる。彼女が願った「奉仕Dienen」とは、畢竟、こういう形のものだった、ということか。

 だが、このキリストのような人物が、アムフォルタスでなく、パルジファル自身だったら?という見方も否定できまい。クンドリは第2幕で、「私の救い主たるあなた」ということばをパルジファルに向けていた。そして「永遠の女」である彼女は、かつて「十字架上のキリストを嘲った」という過去の罪に苛まれている立場でもある。パルジファルがその罪を引き受ける犠牲者に仕立て上げられるなら、彼女は今度は彼に対しての罪の意識に悩まされることになるだろう。
 この辺は、演出家の説明でも聞かなければ、とても分からない。

 このラストシーンでは、ボータやミリングは、何もせずに舞台に突っ立ったままである。その代わり、観客の注意力は、舞台上手寄りで激しく行なわれている騎士3人とクンドリ、謎のキリストらのもみ合いに専ら向けられることになる。みんながそれに気を取られている間に、音楽はどんどん進んで行くという具合で、――これはこの作品の場合、いいことか? 芝居としては面白いが、荘重で神秘的な音楽には、少し煩わしい。

 だがその中で、舞台両袖の花道にずらり並んだ2組の男声の合唱と、舞台奥からの目に見えない女声合唱とが交錯する不思議な音の効果は、ハッとするほど美しく神秘的で、この風変わりな配置が見事に成功していることを証明していた。

 「聖杯」は、あまり綺麗でない箱に入ったまま、実際の姿を見せない。
 シュルツは「聖杯は一種の麻薬のような存在で、感情にある種の付加を与えるようなものでしょう」という意味のことを語っている。なるほど、第1幕の聖杯開帳の場で大勢の騎士たちが箱を覗き込んだあとに、不思議な高揚した身振りを示したのもそのためだろう。中の1人が、まるで土俵上の高見盛そっくりの気張ったジェスチュアをしていたのには、思わず吹き出してしまった。

 9時45分終演。さすがザルツブルク音楽祭、今年も客席は華やかである。翌朝、帰国の途につく。

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