2017-05

3・31(日)旅行日記(3) ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

    ベルリン・ドイツオペラ  4時

 DVDにもなっているおなじみのプロダクション。故ゲッツ・フリードリヒが1993年に制作しプレミエした定番だから、ごくトラディショナルでストレートな演出だ。
 だが、たとえ古い演出上演でも、芝居がちゃんと行なわれていて――つまり演技にも微細な表現があって――演奏がちゃんとしていれば、充分満足である、と最近はそう思えるようになって来た。少なくとも、舞台上の景観にあまり気を散らされることがないので、音楽をじっくり聴くことができるという長所がある。

 この舞台も、比較的ト書きに忠実である。徒弟たちが踊り、ベックメッサーは詩を書いた紙をカンニングしながら歌い、ザックス親方は(多少苛立たしい表情を見せつつも)ドイツ芸術の素晴しさを説き、ワルターは親方になることを承諾し、大団円の中に物語を終る。

 ただ、そこがドイツの演出のゆえんで――ザックスが「ドイツの危機」を一同に訴える瞬間から突然照明は翳り、「ドイツはしかし、いろいろ不幸にして複雑な過去を背負っているのだよ」と言わんばかりに、舞台には明るさと暗さが入り混じり、不穏な空気も漂って来る。このあたりの光景は、やはり一区画凝視型の映像でなく、ナマの大きな舞台全体を俯瞰してこそ迫力が感じるというもの。

 余談だが、この自虐的というか、自己反省の強い表現手法は、ドイツでは必ずといっていいほど使われるもののようだが――そうしないと具合が悪いからだろうが――それが時々取ってつけたような、わざとらしい感を与えることがあるのは考えものだ。
 例えば、原作のト書きを少し変更して「ザックス親方がいきなり何を突拍子もない飛躍した演説をやり出すのだ」と一同が戸惑う設定にするのはまだよかろう。が、それまで無邪気な少女だったエーファまでが突然政治的な問題意識を持つようになって、ザックス親方の演説に反感を丸出しにしてみせるなどというのはいかがなものだろうか――。幸いにこのフリードリヒの演出では、それほどデコボコした流れはないけれども。

 95年に収録されたDVDを観た時には、細かいところまでよく出来ているな、と感心させられたものだが、今回は基本的にはほぼ同じながら、少し緊迫度を欠いたものに感じられたのは、長年上演されているプロダクションの宿命というべきか。

 そのDVDで名調子を出していたヴォルフガング・ブレンデルが、18年後の今夜もハンス・ザックス親方を演じて、健在ぶりを示していた(ロベルト・ホルかだれかの代役だったらしい)。
 DVDでの演技をそのまま再現しているようで、さすがにこの役が「入って」いるんだな、と感心させられる。しかしやはり年齢の所為か、随分と崩した歌い方をみせるところもあるし、第2幕最後でベックメッサー(マルクス・ブリュック)の歌を邪魔するトンカチのリズムなど、唖然とさせられるくらい、いい加減な叩き方であった。家の中の窓際で叩いているのだから、スコアでもこっそり見ながら叩けばいいのに、とさえ思う。

 騎士ワルター役はロバート・ディーン・スミスだったが、何故かあまり冴えない。その他、ポーグナー親方をミヒャエル・エダー、その娘エーファをマルティーナ・ウェルシェンバッハ、ダーヴィドをトマス・ブロンデレ、マグダレーナをヤナ・クロコーファ、といった主役陣。いずれも破綻なく手堅く歌っており、ルーティン公演としてはいい線を示していただろう。

 指揮はクリストフ・プリックで、この人は以前にも何かのオペラを振ったのを聴いたことがあるが、あまり強い印象は残っていなかった。だが今夜の指揮を聴くと、少なくともこの「マイスタージンガー」に関する限り、かなり勉強しているなと感心させられるところが多い。
 例えば、ワーグナーが随所に指定している弦楽器のフレーズにおける漸強と漸弱を忠実に守り、しかもそれを実に自然に起伏させて、音楽に多彩さを与えていること。

 そしてもう一つ、終幕近くのワルターの歌でのオーケストラの柔らかい豊麗な鳴らし方で、ここをこれほど陶酔感豊かに夢幻的な美しさを以って指揮した人は珍しい。
 並外れて長大な第3幕がこのあたりに来ると、時差ボケの頭にはそろそろ疲れが出て来るものだが、しかし今夜はそこで、何だかおそろしく幸福感に満ちた気持にさせられてしまった。ベルリン・ドイツオペラ管弦楽団がこの作品に慣れているということもあるのだろうが、それにしてもここまでこのオケを美しく響かせ得るというのは、指揮者の力量も預かってのことだろう。プリックという人をちょっと見直した次第。

 30~35分の休憩2回を含み、9時45分終了。一昨夜の「パルジファル」同様、早く終ってくれるのは有難い。外は相変わらず猛烈に冷えている。

3・30(土)旅行日記(2) チャイコフスキー:「マゼッパ」

    ベルリン・コーミッシェ・オーパー  7時

 ベルリンに来てまでチャイコフスキーのオペラを観るか、という気もするが、ロシアとは縁のない解釈の読み替え演出を承知の上で観に来た。2月24日にプレミエされたイーヴォ・ファン・ホーヴェ演出によるプロダクション。ちゃんとロシア語で歌っていた。KOBも原語上演でやるようになったとは知らなかった。ただし、素人耳で聞いてさえ、あまりロシア語っぽく聞こえなかったが。

 マゼッパは、17~18世紀に生きたウクライナのコサックの首長で、ピョートル大帝に叛旗を翻してスウェーデンと結び自滅した、謎の多い人物。
 このオペラでは、ウクライナの大地主コチュベイの娘で、親子以上に年齢の違うマリヤと恋に落ち、恨みを向けて来るコチュベイを処刑し、マリヤを発狂させてしまい、挙句の果てはポルタヴァの戦いで大帝軍に敗れ敗走して行く――という物語となっている。

 コーミッシェ・オーパーのプロダクションだから、また何か極端な暴力アクションにでも化けるのでは、と警戒していたのだが、物語の時代を現代に変えたことはともかく、それ以外の点では比較的まともな演出だったのに一安心。

 第1幕序奏と、第3幕冒頭の「ポルタヴァの戦い」などでの長いオーケストラだけの演奏個所では、現代の戦争、大災害、公害、処刑場面などの惨酷極まりない映像が舞台に投影される(もちろん日本の大震災被害の映像も交じっている)。
 これは近年流行の手法だ。それら世界の現実から目を背けてはならぬ、ということでもあろう。とはいえこの場は、所詮、絵空事のオペラの世界。それも歌劇場でぬくぬくと音楽を聴き、歌手の歌に拍手しているが如きわれわれ泰平の観客に何が分かる、という矛盾にもぶつかってしまうわけで、それゆえ私は、こういう舞台を観るたびに苦しくなって来るのだ――。

 それはともかく、どう扱われるかと注目していたのは、第2幕幕切れ、コチュベイらの処刑場面。ここでのオリジナルのト書きでは、死刑執行人が斧で彼らの首を落し、民衆がそれを憐れむということになっているが、この演出では民衆そのものが銃をとって彼らを撃ち殺し、それを「強制された暴力」としてその怒りを指導者マゼッパに向ける、という解釈に替えられていた。これは、しかし巧い解釈だろう。

 マリヤ(アスミク・グリゴリアン、容姿がよろしい)という女性の描き方は、この演出では、激しい。自らの意志でマゼッパの妻になったことが何故悪い――という怒りを底流に秘めているかのような演技である。無邪気で無思慮で哀れな女ではなく、むしろ自らの意志を貫き通しつつ、それが引き起こした悲劇との葛藤に悩む女――として描くのが狙いなのだろう。
 ラストシーン、彼女は子守歌を歌い終ると、足音も荒く立ち去って行く。まるで、自らの錯乱も一時的な現象に過ぎぬ、こんな制約された理不尽な、戦乱と暴力の世界に未練など無い――と言わんばかりの態度で。それはそれで一理ある手法ではあるが。

 このラストシーンの音楽は、如何にもチャイコフスキーらしく、哀愁に富んで美しい。以前METで、ゲルギエフの指揮で観た演出では、マリヤは子守歌を歌いながらさまよい、雪がしんしんと降りしきる闇の中へ姿を消して行く・・・・という光景が音楽とこの上なくマッチして、胸がしめつけられるような感動を味わったものだ。
 それに比べると今回のこれは、如何にも突き放した手法で、味も素っ気も余韻もない。まあ、これもしかし、一つの解釈なのだろう。

 マゼッパ役は、ロバート・ヘイワードというバリトン。スキンヘッドの軍人といういでたちだ。物凄く声が大きい。
 コチュベイ役はアレクセイ・アントノフという長身のバス。マリヤの母リュボフはアグネス・ツヴィエルコで、彼女も相当な声量だ。マリヤもそうだったが、今回はみんな歌声が客席にビンビン響いて来る。もともと大きな客席ではないし、よく声が届く歌劇場なのだから、あんなに割れ鐘のように怒鳴らなくてもいいんじゃないか、と思わせるところもある。
 その中で、マリヤに想いを寄せる純な青年アンドレイ(彼も最後にマリヤの足元に倒れて死んで行く)を歌ったテノールのアレシュ・ブリセインが、叙情的でシンの強い声で、バランスのいい歌唱を聞かせた。観客の拍手が一番大きかったのはこの人に対してだった。

 指揮は、このコーミッシェ・オーパーの音楽監督・首席指揮者のハンガリー出身、今年38歳のヘンリク・ナーナージ(こういう表記でもいいのだろうか?)※。手堅く引き締まった、いい指揮をする若手だ。

 30分の休憩1回を挟み、10時15分終演。昼間は薄日も出ていたが、夜になってまた小雪が降り出した。劇場に近い地下鉄のStadtmitte駅からホテルに近いZoologischer Garten駅まではU2線1本だが、イースター前夜の土曜日の所為か、地下鉄に乗り込んで来てサックスなどを吹き、歌いまくってみせる若者たちが多い。しかし乗客たちは、中年も年輩も、みんな寛容な笑顔を彼らに向ける。

※知人のドイツ在住ジャーナリストがKOBのプレス担当者に問い合わせてくれたところによると、「ヘンリーク・ナーナーシ」と発音されたい、とのことだった。

3・29(金)旅行日記(1) ワーグナー:「パルジファル」

     ベルリン・ドイツオペラ  4時

 前日、ベルリンに入る。今日は聖金曜日。
 たとえキリスト教徒でなくても、聖金曜日に「パルジファル」を観るのはオツなものだろう。

 このプロダクションは、昨年10月21日にプレミエされた、フィリップ・シュテルツル演出による新制作である。
 今日の演奏は、ドナルド・ラニクルズの指揮、スティーヴン・グールド(パルジファル)、ヴィオレータ・ウルマナ(クンドリ)、リアン・リ(グルネマンツ)、サミュエル・ユン(クリングゾル)、スティーヴン・ブロンク(ティトゥレル)他。

 シュテルツルの演出となれば、どうせ舞台はゴチャゴチャして、大勢の人間がひしめき合う類のものになるのでは、と予想していたが、果たせるかな、この「パルジファル」も、舞台上はかなりごった返した景観になっていた。3幕を通じて大きな岩山が聳えているため、視覚的にも圧迫感を生じさせる。
 それはいいとしても、下手側の岩山の頂上に玩具のような城が建っているというのは、何とも野暮ったい。だがこの野暮ったさは、この演出全般に言えることだろう。

 前奏曲が始まるとすぐ幕が開き、ゴルゴタの丘におけるキリスト処刑の場が現われ、彼の脇腹を槍で突く兵士、そこから流れ出た血を杯で受けるヨセフ、その槍を兵士から記念として受け取る人々――といった模様がまず描かれる。
 聖槍と聖杯の所以をもう一度細かくおさらいしておきましょう、というわけらしいが、いまどきメジャーな歌劇場のプロダクションが、わざわざそこから話を始めるか。それに、近年の「パルジファル」演出の主流が「脱キリスト性」にある中で、これはまた珍しく原点に戻った「聖槍と聖杯の物語」的な演出だ。
 これが第3幕でアムフォルタス王が十字架を背負っていることへの伏線になることはあとで解るが、それにしてもこのリアルな光景は、あの「前奏曲」の幻想的で神秘的な静寂感とは全く異質なもので、音楽の雰囲気ぶち壊しである。

 この事細かな説明調は、その後も繰り返される。
 第1幕でグルネマンツが歌詞とオーケストラの動機とだけで物語る内容の数々――聖槍と聖杯がティトゥレル王に托されるところ、クリングゾルが我と我が身を傷つけるところ(これは歌詞の中では暗示のみ)、アムフォルタス王がクンドリの誘惑に陥って聖槍をクリングゾルに奪われるところ、第2幕でパルジファルがクリングゾル軍兵士を斃しつつ近づいて来るところ、第3幕でティトゥレル王が死去する(と語られる)ところなどが、一つ一つ事細かに、岩山の上でリアルな場面として演じられる。
 この種の手法は、時に他の演出でも行なわれる(日本ではローウェルス演出の「ヴァルキューレ」などがあった)のは事実だが、大抵は背景で象徴的に展開される方法が採られるものだ。今回のように具体的に演じられると、何か劇画的で、子供向けの芝居みたいな印象になってしまう。それだけ、解りやすいのは確かだろうが。

 第2幕の「花の乙女」も、両端幕での聖杯守護団騎士も、いずれも「大群衆」なのはいかにもシュテルツルの演出らしい。前者にはトップレスのダンサーが混じり、後者には自らを鞭打ちつつ歩く苦行の男たちも混じって、いや賑やかというか、騒々しいというか。

 注目すべきアイディアもある。たとえば第1幕での十字軍の服装をした騎士団の中に、乱れたスーツとネクタイ姿のパルジファルがやって来ること。
 これは、騎士団から見れば、異次元の世界から理解不可能な青年が紛れ込んで来たように思えるし、一方パルジファルから見れば、現代からタイムスリップして訳の解らぬ中世に来てしまったように感じられよう。
 「何処から来た?」「解らない」「どうやって此処に来た?」「解らない」というグルネマンツとパルジファルの対話を、これほど明確に説明した(?)演出も稀かもしれぬ。グルネマンツにとって、確かにパルジファルは不思議な「愚か者」そのものなのである。

 この「信長のシェフ」か「戦国自衛隊」みたいな設定が、第3幕に至って意外な展開と解決の伏線になるのか、と期待したのだが、案に相違して、第3幕では全員の服装が現代風になってしまった。
 大詰では、パルジファルが槍先で病めるアムフォルタス王の傷口に触れると、王は自らその槍に我が身を寄せるようにして死に、パルジファルは新王として王冠を捧げられ、山上では聖杯開帳の儀が行なわれる。
 むしろここでは、パルジファルが聖槍を携えて現代に戻り、「永遠に救済を待つ者たち」に宗教的拠り所を与える設定になるのかとも思ったのだが、この雑然たる舞台では、それもあまり明確にはなっていない。このあたりが、時代の変遷をしっかり踏まえ、それを解りやすく整理して描いたヘアハイムの見事な演出(バイロイト)とは根本的に異なり、雑然としていて野暮ったい、と思わせるところなのだが・・・・。

 他にもいろいろ趣向があるが、どれもドラマとしての一貫性があまり感じられないので、もう止めよう。

 歌手陣では、グールドとウルマナが安定して傑出していた。ラニクルズの指揮は、演奏時間からすればやや遅めのテンポということになるが、聴いた感じでは非常に遅いテンポに感じられた。これは、演奏における緊迫度が少し薄かったためだろう。
 30分の休憩2回を挟み、9時15分に終演。深夜にならずに終ったのは有難い。
 今朝から降っていた雪は止んだが、激しく冷える。イースターの連休で、街は人気も少ない。

 思えば、ここベルリン・ドイツオペラで「パルジファル」を観たのは、10年ほど前にティーレマンの指揮、ゲッツ・フリードリヒ演出の上演に接して以来のことだ。以前なら公演のあとには楽屋へ行って、ここのオケのメンバーだったヴァイオリンの眞峯紀一郎さんを訪ねたものだったが・・・・。
 なお眞峯さんは夏のバイロイト音楽祭のレギュラー奏者でもあったため、同じ常連たちと今は「バイロイト祝祭ヴァイオリン・クァルテット」を組織して活躍中だ。来週4月5日(金)に「東京・春・音楽祭」の公演として東京文化会館小ホールで、また4月8日(月)にも名古屋宗次ホールで演奏会を開くことになっている。ヴァイオリン4本の弦楽四重奏団というのは珍しく、ちょっと不思議な、えも言われぬ幻想的な美しい音がするので、今回も聴いてみようと楽しみにしているところである。

3・25(月)下野竜也指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時15分

 プログラムは、バッハ~レーガー編「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」(BWV622)、R・シュトラウスの「オーボエ協奏曲」、ベートーヴェンの「第7交響曲」。

 14型の弦合奏で演奏されたバッハのコラールは、厚みのある壮麗な響きで、しかも爽やかだ。下野が振るとオーケストラの音の重心が低くなる――と、この日客席で聴いていた新日本フィルのある楽員が感想を洩らしていたが、たしかにこの響きの安定感は見事なもので、魅了される。

 「オーボエ協奏曲」でも、オケの音色の解放的な爽やかさがいい。
 今回のゲスト・ソリストは、若い美人奏者セリーヌ・モワネで、彼女もまたまっすぐに率直に、何の衒いもない伸び伸びとした演奏を聴かせ、一陣の爽風が吹き抜けて行くような快さを作り出してくれた。カーテンコールで走って出て来る可憐な明るい仕種も、この演奏と何か共通したような雰囲気を感じさせる。もっとも、協奏曲の演奏としては、良くも悪くも端整に過ぎるところがあるが。

 後半の「7番」は、下野の猛烈な気迫が爆発したような指揮で、新日本フィルも快速テンポで沸騰した。
 天馬空を行くといった感の快調なスケルツォの演奏をはじめ、第1楽章の明るいエネルギーがそのまま反転したような意味合いを持たせる第2楽章(二つの楽章は間をおかずに演奏されたが、パーヴォ・ヤルヴィのように同じテンポでイ長調からイ短調に突入するというスタイルではない)も、あるいは弾丸ライナーのごとき第4楽章も、すべて音楽の流れが非常に良いのに感心する。単に勢いがいいだけでなく、随所に効果的なアクセントやクレッシェンドが施され、音楽が常に波の動きのように起伏を繰り返しつつ奔流のように押して行く、といった感なのである。下野のこの設計は実に巧い。

 ただし、この曲でも弦14型を採った新日本フィルの演奏は、中間2楽章では流れの良さを感じさせたものの、急ぎに急ぐ両端楽章では勢いが優先して、細部は少し粗く、しかも音が上滑りになって薄くなったきらいも無くはない。速いテンポの際にも、もう少し隙の無い構築性が欲しいところではあった。
   音楽の友5月号 演奏会評

3・24(日)新国立劇場 ヴェルディ:「アイーダ」

    新国立劇場オペラパレス  2時

 新国立劇場開場15周年記念公演の「アイーダ」。
 これは開場最初のシーズンに制作され、98年1月5日にプレミエされたフランコ・ゼッフィレッリ演出のプロダクションで、それ以降も何シーズンかごとに「再演」されている人気作だ。

 演出の細部はその都度少し手直しされているのか、あるいはその時の歌手により若干変更されているのか、詳しいことは判らないけれども、とにかくゼッフィレッリの作(演出・美術・衣装)にふさわしい、豪華絢爛な舞台だ。彼のこの種のプロダクションを今日なお上演し続けている歌劇場は、世界でもMETなど僅かしかないと思われるが、その意味では新国立劇場の貴重なオリジナル財産であることに間違いなかろう。
 第2幕「凱旋の場」における大編成の合唱団やバレエ団のほか、「歌わない」群衆・兵士・僧侶などの助演者も150人近く、馬も2頭出て来る。こういう「人海戦術」も、今日では世界の歌劇場でもなかなかお目にかかれないものだ。

 衣装や背景の色彩感も豊かで、特にブルー系の色が効果的に生かされているのがいい。
 大詰めの第4幕第2場、神殿が上昇して舞台下の石室が顕われ、幽閉されたラダメスとアイーダと共にその石室がまた地下へ消えて行くといったくだりは、あまり活用されない新国立劇場の「立派な」舞台機構を久しぶりで観客にも見せてくれるという点で、貴重なものだろう――私の記憶では、この大掛かりな舞台機構設備が活用された新国立劇場のプロダクションは、それ以降には鈴木敬介演出の「アラベッラ」と、ウォーナー演出の「ヴァルキューレ」くらいしかなかったような気がするのだが・・・・他に何かあったか? 

 今回のエチオピア王女アイーダ役はラトニア・ムーア、エジプト軍総司令官ラダメスはカルロ・ヴェントレ、エジプト王女アムネリスはマリアンネ・コルネッティ。
 3人とも強大な声量で、合唱やオーケストラを吹き飛ばすほどのパワーだ。が、どうも歌唱が荒っぽくて、楽譜に正確な歌い方をしていないところがしばしば聞かれたのが気になる。
 コルネッティなど、第2幕第1場でシュプレヒ・ゲザングのような歌い方をしたところがあってギョッとさせられたし、ヴェントレと来たら終始怒鳴りまくるといった雰囲気であった。それともう一つ、コルネッティが盛んに苦悩の叫び声を上げるのは彼女自身の解釈だろうが、むしろオーケストラの音楽を邪魔する結果になる。

 エチオピア王アモナズロの堀内康雄も第2幕では彼らしくなかったが、第3幕では威厳ある父親としての歌唱を取り戻していた。他にエジプト王を平野和、大僧正ラムフィスを妻屋秀和(2人とも長身で舞台映えする!)、伝令を樋口達哉、巫女を半田美和子。

 指揮はミヒャエル・ギュトラー。無難にはこなしているが、第4幕第1場などのようにアムネリスを中心に丁々発止とぶつかり合う心理ドラマ的な凄みのある音楽を再現するには、未だ力不足だろう。このオペラの本当のクライマックスは、派手な第2幕の凱旋の場ではなく、むしろ第3幕でのアイーダ、アモナズロ、ラダメスの確執と、第4幕第1場のアムネリスの苦悩の場面とに置かれているのであり、これらの個所の音楽に緊迫感と悲劇性があふれていないと、単なるお祭りオペラに終わってしまいかねないのである。

 ともあれこの「アイーダ」、今シーズンは計7回上演され(27日、30日にも公演あり)、さすが名作だけあって、しかも今日は日曜日のせいもあってか、客席は完全に埋め尽くされていた。6時終演。

3・23(土)ヴェルディ:「椿姫」

  神奈川県民ホール  2時

 恒例となったびわ湖ホール、神奈川県民ホール、東京二期会、神奈川フィル、京都市音楽芸術文化振興財団の共催によるオペラ。
 びわ湖ホールでは3月9日と10日に上演されており、ここ神奈川県民ホール公演は今日が初日だ。

 指揮は、このシリーズを一貫して指揮している、びわ湖ホール芸術監督・沼尻竜典。
 演出は今回、アルフォンソ・アントニオッツィが担当している。
 配役はダブルキャストで、今日は砂川涼子(ヴィオレッタ)、福井敬(アルフレード・ジェルモン)、黒田博(ジョルジョ・ジェルモン)、小野和歌子(フローラ)、鹿野由之(医師グランヴィル)その他の人々。合唱はびわ湖ホール声楽アンサンブルと二期会合唱団、管弦楽は神奈川フィルが務めた。

 アントニオッツィの演出は、舞台美術(パオロ・ジャッケーロ、ボローニャ歌劇場製作)および照明(アンドレア・オリーヴァ)ともども、暗い。「華麗なイタリア・オペラ」などというイメージの対極に在る。
 第2幕第2場など、夜会客がひしめく舞台奥は時に暗黒にさえなる。おまけに、余興の「闘牛士の場面」では、映写機が持ち出され、下手側の壁のカーテンが除かれスクリーンが現われたので、なるほど闘牛士のダンスの代わりに映画を写すとは、ダンサー分のギャラの節約にもなるし、いいアイディアだ、と一瞬感心したのだが、なぜか最後まで何も写らず、はなはだ間の抜けた場面となってしまった。舞台上演に事故はつきものだけれど、これは珍しい大事故である。これで舞台の陰鬱さが更に強調される結果にもなったが・・・・。

 演技は全体的におおまかで、精妙な心理ドラマとしての舞台は見られない――これは私にとっては、不満だ。
 第2幕最後の大アンサンブルは、主役たちが前面に並び、全員が直立不動で歌い、あたかもセミ・ステージの如き趣を呈する。これもあまり面白くない光景だが、一つ思わぬ効果といえば、通常の上演よりもソリストたちの声が前面に浮き出し、背後の合唱との対比が明確になるという、一種のコンチェルタンテのような面白さを感じさせたことだろうか。

 凝ったアイディアといえば、第3幕で「ヴィオレッタ」を2人存在させたことであろう。1人はアルフレードとの再会の喜びを空想する「ヴィオレッタの幻想上の分身」(もちろん歌って演技するのはこちらである)であり、もう1人は死の床に伏したまま動かぬ、「孤独の裡に寂しく息を引き取って行くヴィオレッタ」である。

 沼尻の指揮は、この非常に陰影の濃い演出と軌を一にしていた。つまり華麗さを避け、テンポをやや遅めに採り、明晰清澄な音色ながらも冷徹なほどの表情を以って「椿姫」の音楽をクールに描き出したのである。
 おそらく彼には、とかく華やかな効果に陥りやすい「椿姫」の音楽から、暗鬱で悲劇的な要素を徹底的に引き出そうとする意図があったのだろう。それはそれで、一つの解釈であり、見識であろうと思う。

 ただ、第2幕第2場での「賭け事の場」から「アルフレードとヴィオレッタの対決の場」にかけてのテンポ設定には、やや緊迫感に欠けるところがなくもない。それを含め今回の演奏は、ヴェルディ特有の聴き手をわくわくさせるような劇的な熱気は排除されていたとも言えよう。これは、些か音楽的な欲求不満をオペラ・マニアに抱かせたのではなかろうか?

 歌手では、砂川涼子の成長が目覚しい。これまではリューとかミミとかパミーナとか、所謂可憐な役どころしか聴いたことがなかったので、このヴィオレッタのような劇的な役柄を、かくも見事に演じ歌い、新境地を開拓しつつあるとはうれしいことである。
 福井敬は、今日はあまり咽喉の調子がよくなかったのか、いつものピンと張った美声が聞けず、むしろ力の入りすぎたヘルデン・テノール的なアルフレードに聞こえてしまったのは残念だ。
 黒田博は例のごとく滋味豊かな歌いぶりで、演技でも第3幕で息子アルフレードをじろりと見る目つきなど独特の巧さがあったが、今回の演出は彼の演技巧者ぶりを引き出す類のものではなかったようである。

 神奈川フィルもよく頑張り、綺麗な演奏を聴かせた。
 5時5分終演。

3・22(金)隅田川二題~カーリュー・リヴァー&隅田川

   KAAT 神奈川芸術劇場  7時

 能の「隅田川」から生まれた二つの作品――英国の作曲家ブリテンのオペラ「カーリュー・リヴァー」と、日本舞踊による清元の「隅田川」が二本立て上演された。
 「カーリュー・リヴァー」と、原作の能の「隅田川」(観世元雅作、室町時代)の二本立て上演は、これまでにもいずみホールその他で何回か観る機会もあったが、清元の「隅田川」との併演に接したのは、私はこれが初めてである。

 物語は、かどわかされたわが子を探して京から下って来た母親が隅田川の渡しで子供の死を知り悲嘆に沈み、同情する人々の祈りの歌(あるいは念仏)の中に子供の声を聞く。オペラでは最後は西洋風に救済のイメージで結ばれるが、能では幻が消えると四方は茫々たる荒野であった、という寂しい幕切れになる。

 解説書に由れば、清元版「隅田川」は、能版を基にして、明治16年に條野採菊が作詞、二世清元梅吉が作曲して翻案したもので、その後明治39年に藤間政弥が舞踊化し上演、さらに大正8年に二世市川猿之助(初代猿翁)が振付して歌舞伎座で上演、これにより『日本舞踊・清元「隅田川」』が成立した由。
 今回は花柳壽輔が演出・振付を行ない、自ら「斑女の前」(狂女)の役を踊った。舟長役を踊ったのは花柳基。演奏は浄瑠璃、三味線、囃子により行なわれた。

 一方、最初に上演された「カーリュー・リヴァー」も、同じく花柳壽輔の演出・振付によるものだった。彼は、オペラ演出を手がけるのはこれが初めてだそうである。

 予想通りというべきか、彼はオペラの「カーリュー・リヴァー」をも自分のフィールドに引き込み、純日本風の「隅田川」として舞台化した。つまり狂女(鈴木准)、渡し守(大久保光哉)、旅人(井上雅人)らの歌手たちを和服で下手舞台袖に配置し、和服姿の合唱を上手舞台袖に配置し、演技はせずに歌のみに専念させる。舞台中央では、篠井英介(狂女)、大沢健(渡し守)らが日本舞踊でストーリーを語って行く。
 ただし、オペラの最初と最後に登場する修道士たちは、修道院長(浅井隆仁)をはじめ修道服で舞台中央に立つ――という具合だ。要するに「劇中劇」の部分を「日本様式」にしたということになる。

 かような「カーリュー・リヴァー」の舞台、オペラとしてはやや変化に乏しいきらいはあったものの、花柳壽輔が手がけるとなれば、この演出は当然と言うべきであろう。
 ただ、今回の上演が「カーリュー・リヴァー」1本のみであれば、それで良かった。だがそのあとにもう一つ純和風の「隅田川」が上演されるとなると、――「カーリュー・リヴァー」&「隅田川」でなく、「隅田川」&「隅田川」になってしまい、視覚的には屋上屋を重ねるの類になってしまった印象もある。いやそんなことはない、「音楽」が違うじゃないか、と言われればその通りなのであるが――。

 しかし、意義ある企画であり、貴重な上演で、面白かった。「カーリュー・リヴァー」には故・若杉弘による邦訳が使用されていた。これは初めて聞いたが、能や清元の詞も転用された、なかなか風情のある訳詞であった(解りにくいところもあるが)。
 ピットに入ったアンサンブルは上野由恵(フルート)他、指揮は角田鋼亮が受け持っていた。

3・19(火)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団 マーラー:「6番」

    サントリーホール  7時

 マーラーの第6交響曲「悲劇的」が演奏された。
 読響との相性もいっそう好調なカンブルランのことだから、ちょっと変わった「悲劇的」を聴かせてくれるかも、と思っていたが、事実これほど面白い「6番」を聴いたことは最近なかったような気がする。

 2階RC席前方で聴いたが、オーケストラの鳴りの明晰さは見事で、内声部の悉くが手に取るように聞こえるといった感があり、それゆえマーラーのこの巨大な交響的作品が、単なる怪物じみた野蛮な咆哮の連続に堕することなく、多様なモティーフが微細に組み合わされつつ驀進する知的で見通しのよい構築作品として姿を現したように感じられたのだった。
 両端楽章での行進のリズム・モティーフはあくまで明確でありながら、それが決して単調に陥らないのは、そのリズムが戻ってくるたびにティンパニの音色やデュナミークに微妙な違いが施されているというカンブルランの設計の細やかさゆえでもあろう。

 しかし、そうした精妙な構築の一方で、在京オケ随一と思われる読響のパワーを存分に発揮させ、ホールを揺るがせんばかりの豪壮な力感の大音響を引き出す。第4楽章など、もはや何もかもが物凄い勢いで押し流されて行くような、そんな恐怖感さえ生じさせる演奏であった。冷徹さと凶暴さとを二つながら兼ね備えるという至難の業を成し遂げた、これは稀有な名演と言って過言ではあるまい。

 ここには、昨年のラヴェルの「ダフニスとクロエ」などで聴かせたあの柔らかく官能的な叙情美とは全く異なるカンブルランと読響の顔が在った。見事な芸域の幅である。
 常任指揮者に就任した時の演奏会で、「私はベストを尽くすことをみなさんにお約束します」とステージ上から聴衆に語りかけたカンブルラン。彼は本当にその言葉どおりの仕事をしてくれている。

3・16(土)児玉宏指揮大阪交響楽団 東京公演

   すみだトリフォニーホール  3時

 恒例の「地方都市オーケストラ・シリーズ」の一環で、プログラムが凄い。マルトゥッチの「夜想曲 作品70-1」、ブルッフの「2台のピアノと管弦楽のための協奏曲」(ソロは山本貴志と佐藤卓史)、最後がスヴェンセンの「交響曲第2番」。

 こんな大胆で意欲的なプログラムを組むオーケストラは、わが国では他に例を見ない。かつてゲルト・アルブレヒトが常任だった時代の、最近では下野竜也が指揮した読売日本交響楽団でさえ太刀打ちできないだろう。「未知の作品」や「忘れられた名曲」をプログラムに入れたとしても、たいてい後半には何か一つ「名曲」をやって、「毒消し」をするのが普通であった。だが今回の児玉=大阪響のように、プログラムのすべてをそれで押し切ってしまうというのは珍しい。見上げた意欲である。
 こうした姿勢と、作品の思いがけぬ素晴しさに心を打たれた聴衆も多いだろう。困難もあろうが、今後ともこの独自の個性を貫き通していただきたいものである。

 マルトゥッチの「夜想曲」の、極度に甘美な、陶酔的なほどのリリシズムは感動的だった。こんな素晴しい曲が、なぜ埋もれてしまったのか? 児玉宏と大阪響の、柔らかく溶け合った響きで再現されたこの曲を聴くと、ある一つの作品が、広く親しまれる名曲になるか、それとも埋もれた名曲になるかは、ほんの紙一重、なにかの偶然によって左右されるだけなのではないのか――とさえ思えて来る。

 ブルッフの「協奏曲」にしても同様、彼のよく知られた「ヴァイオリン協奏曲第1番」や「スコットランド幻想曲」などにおける、やや哀愁を帯びた陰影感に富む作風とは、少しばかり性格を異にし、むしろメンデルスゾーンやシューマンの影響も聴かれる、闊達で激しい曲想を含んだ作品である。すこぶる美しい主題も含まれていて、これもまた「名曲」の仲間入りができなかったのは、なにかのほんのはずみによるものではなかったのか、とさえ思えてしまう。

 後半はスヴェンセンの「第2交響曲」。これも、ナマで聴くと、曲想の数々が実に魅力的なものであることが再認識できる。第3楽章で、それまで抑えに抑えていた「ノルウェー魂」が一気に流れ出るところなど、微苦笑を禁じえないが、いい曲だ。

 児玉宏と大阪響の演奏は、どちらかといえば力感に満ちて、かなりダイナミックなものだったのではないかと思うが、ただ私の聴いた席の位置――3階のバルコン席は、オケの音がやや飽和気味に、しかもバランスよく聞こえる傾向があるので、全体としてはしっとりと美しい表情に聞こえた。協奏曲での2台のピアノも、席の位置によってはオケにマスクされ気味だったということだが、上階席では全く違和感なく聞こえた。ピアノ・コンチェルトとしての性格は、余すところなく再現されていた。

 児玉宏の滋味あふれる指揮、大阪響の熱演、いい演奏会だった。

3・15(金)ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団のシベリウス

   サントリーホール  7時 (付 東横線渋谷地上駅廃止と46年前の銀座都電)

 フィンランドの俊英指揮者、日本フィルの首席客演指揮者ピエタリ・インキネンのシベリウス交響曲ツィクルスが幕を開けた。待ち望まれていたツィクルスである。第1回は「第1番」と「第5番」の組み合わせになった。

 「第1番」は、作曲者30代半ばの気魄と情熱にあふれた作品であり、多くの指揮者が激烈なエネルギーを噴出させる演奏をつくるものだが、今夜のインキネンも同様。いやむしろ、それ以上、予想以上の壮烈な演奏だった。
 予想以上――といったのは、彼がこれまで日本フィルでの指揮で聴かせたマーラーなどは、どちらかといえば端整で怜悧な、きりりと引き締まった叙情的な色合いの指揮だったからである。それだけに、今夜の「1番」でのような荒々しい表現は、インキネンのこれまで見せなかった面を示して興味深い。日本フィルも例のごとく――2回公演の初日は大体そうだが――猛然と咆哮怒号する。
 ただ、第2楽章のような叙情味豊かな個所での弱音の仕上げは完璧であり、インキネンと日本フィルが決してこの曲で放縦な演奏をしていたわけではなかったことが証明されるだろう。

 結局この「1番」での激しい表現の演奏は、そのあとのシベリウスが50歳代に入ってからの作品になる「第5番」での演奏との対比としてつくられたものであることは、明らかである。
 この「第5番」の演奏は、細部にまで神経を行き届かせたもので、見事だった。所謂「森と湖と霧の中から」響いて来るといったイメージのシベリウスではなく、いっそう明晰な音づくりだが、その中にも充分な陰翳があふれて美しい。

 第1楽章【H】の後、ヴィオラとチェロが、スコアの指定には無い微妙なクレッシェンドとデクレッシェンドを繰り返しつつざわめき、揺らぎながら進むあたり、インキネンの指揮もなかなか芸が細かいものがある。
 それにこの第1楽章の最後のプレスト――ピウ・プレストの個所を無理に急いだテンポにせず、執拗に反復される弦の4分音符のリズムを明確に際立たせながら、重量感を以って追い込んで行くところなども立派である。
 全曲大詰、全管弦楽が音を長く持続しつつ押して行くクライマックスも好演で、最後の断続する和音群の個所でも「間」の緊張感が保たれていたのも好かった。

 このツィクルス、うまく行くだろう。4月下旬には、あとの5曲が、2回(各2日公演)に分けて演奏される。

 ⇒モーストリークラシック 7月号


 8時45分に演奏会が終ってしまったので、渋谷のタワーレコードへ回って若干の買い物をし、ついでに今夜でその役目を終える東横線の渋谷駅地上ホームをチラリと覗きに行く。目黒に長いこと住んでいた私としては、目蒲線の地上目黒駅が消えた時ほどの感傷はない、というのが正直なところだが、それでもあの東横線渋谷駅は、私にとってもさまざまな思い出のある場所には変わりない。
 夜10時半というまだ早い時間だというのに、駅周辺は物凄い雑踏。歩道橋の上にも人が鈴なりで、カメラを構えている姿も目立つ。終電の頃には大変な騒ぎになっているだろう。といっても東横線自体が消滅するわけではないのだから、悲哀感はそれほど無い。

 私は、1967年(昭和42年)の夜、銀座通りの都電が最後の運転をした時のことを思い出す。あの頃は私にも野次馬精神と体力があったから、最終電車の発車を見に行ったものである。
 深夜の銀座4丁目、デパートなどあらゆる建物の明りはすべて煌々と灯されており、いよいよ品川行きの最後の電車が発車する時になると、スピーカーからは「ほたるの光」が流れはじめ、同時に各ビルの電飾がいっせいに点滅を開始する。と、道路に並んでいた無数のタクシーが、これまたいっせいに「告別のホーン」を断続的に鳴らしはじめた。銀座通りを埋め尽くした何千という群集からも、「さようなら」「ごくろうさん」という歓声が大波のように沸き上がる。花飾りをつけ、乗客を一杯に乗せた「1番」の系統板をつけた電車の運転手は、おそらく泣いていたのであろう、下を向いたまま、顔を上げようとしない。しかし、やがて電車は少しずつ動き出した――。
 当時、クルマ社会の波に押され、ほとんど追われるように姿を消して行った都電の、これがその「黄昏」の最初の夜だったのである。

3・14(木)オーケストラ・アンサンブル金沢 東京公演

   サントリーホール  7時

 モーツァルトの「交響曲第40番」と「2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ」、プロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」と「古典交響曲」というプログラム。ゲスト・ソリストがボリス・ベルキン。

 音楽監督の井上道義が指揮――のはずだったが、彼は先日平壌で指揮した時にひいたとかいうインフルエンザでダウン、協奏曲のみを指揮するにとどまり、その他は指揮者なしで、コンマスのアビゲイル・ヤングがリーダーとしてオケを率いる形になった。

 井上道義が北朝鮮で平壌のオーケストラを指揮、ベートーヴェンの「第9」を演奏したというニュースはベルリンで日本のネット・ニュースを見て知った。金沢ではあれこれ議論があったようである。
 さしづめ今様テイキング・サイドというところだが、私は井上の信念と行動を支持する。現在のような状況だからこそ、文化交流を進めなければならないのである。「音楽家にできること」は、いついかなる時でも、「音楽をすること」にほかならない。

 平壌での演奏会の模様もネットで見たが、あそこで響いていたベートーヴェンの「第9」は、やはり崇高なものだった。あの聴衆の中にも「第9」の音楽や歌詞に感動した人々がいたはずであり、その人たちがいつの日かあの「第9」に謳われているような平和を護る担い手になってくれるかもしれない――というように考えられないだろうか? われわれは未来にも目を向けなければならない。その意味でも、井上が平壌で「第9」を指揮したことは正しかった。
 ただし、インフルエンザなんかを貰って来るのは不可ないが――。

 指揮者なしで試みたモーツァルト2曲も、OEKの楽員の自発性と、リーダーのヤングの奮闘もあって、それなりにまとまりのある演奏になっていた。
 だが、今夜の演奏の中で最も聴き応えがあったのは、やはりその井上が指揮し、ベルキンがソロを弾いたプロコフィエフの協奏曲だった。OEKの音楽が俄然大きくなり、多彩な音色になって、ベルキンのソロと綾なる交錯を続けて行く。

 これで雰囲気が変わったのだろうか、そのあとの指揮者なし「古典交響曲」が、嬉しい驚きを感じさせるほど色彩的な演奏となった。ただこれも、もし井上があの派手なジェスチュアで指揮していたなら、フィナーレなどさらに躍動的で煽った演奏になっていただろうにと思わせたが・・・・。

 開演前の1階のロビーには、スポンサーか代理店の関係者といった何十人ものダークスーツの男たちが、一般客の通行を塞がんばかりに半円形に拡がって並び、入って来る客の方をじっと見て立っている。いつもながら実に感じの悪い光景である。東京公演でこんな野暮ったいことを毎回やっている地方のオケは、今ではOEKだけだ(以前は札響もやっていたが、今はもうやめている)。公演を助成してくれるのは大いに有難いが、もう少しスマートにやってもらいたいものだ。ホールのレセプショニストも見かねたのか、「ここ、入っていいの?」とたじろぎ躊躇う一般客に向かって「1階席の方は、どうぞまっすぐお進み下さい」と、いつになくロビーの真ん中で叫び続けていた。
   音楽の友5月号 演奏会評

3・13(水)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時

 ラフマニノフが2曲。ピアノ協奏曲第2番と、交響曲第2番。

 協奏曲では小川典子がソリストだったが、何せプレトニョフが悠然たる不動のテンポを採り、ソリストがどんなに興に乗ってテンポを解放しようとしても、委細構わず悠々と・・・・とまあ、そんな風に聞こえてしまったのだが如何なものか。
 元(?)大ピアニストのプレトニョフがピアノ・コンチェルトの指揮をする時に何を考えているのか知る由もないが、とにかくこの場合は、ドミンゴがオペラの指揮をする時とはだいぶ違うようである。小川典子としては随分やりにくかったのではなかろうか、と、休憩時間にわれわれ雀どもはロビーで勝手なことをさえずった次第。

 しかし、後半の「第2番」では、プレトニョフもさすが、と言っていい見事な指揮だった。1ヶ月前に聴いたばかりのネゼ=セガンとロッテルダム・フィルの、あのすすり泣くような名演とはまた違ったタイプで、こちらも好い。
 それはプレトニョフらしく、第3楽章のような叙情的な曲想においても過度に耽溺することはない指揮だが、厚みのある骨太な響きでたっぷりと感情をこめて歌い上げて行くあたり、ロシア人たる俺が考えるラフマニノフとはこういうものだ――という自信のようなものを感じさせる。第2楽章と第4楽章でも、オーケストラを存分に豪快に、重量感たっぷりに鳴り渡らせた。それに応えた東京フィルのエネルギーもなかなかのものであった。


3・12(火)METライブビューイング ヴェルディ:「リゴレット」

   東劇(銀座)  7時

 LH710で午前8時半成田着。機内である程度の睡眠も取れたので、午後の「時差ボケ解消2時間昼寝」を済ませて体調を整え、夜のMETライブビューイングに出かける。

 60年代のラスヴェガスに舞台を移したマイケル・メイヤー演出の「リゴレット」だ。これは2月16日の上演映像だから、当日現場で観たのと全く同じ内容。

 とはいえ、さすが近接位置での収録映像で観ると、客席からでは判らなかったものが微細に見てとれて、面白い。
 殺し屋スパラフチレのクルマのナンバープレートが「ネバダのSPARAFUCILE」になっているなど、とても客席からは見えぬシャレだが、まあそんなことはともかく、ジェリコ・ルチッチ(リゴレット)とディアナ・ダムラウ(ジルダ)の緻密な演技、顔の表情の演技の巧みさなどが明確に判るという点などでも、当日客席から見た印象を若干修正できるという愉しみがある。

 それに何といっても幕間のインタビューは、会場にいる観客には絶対体験できない未知の世界だ。演出や演技のモデルとなっているのがフランク・シナトラと彼が率いるラット・パックで、映画「オーシャンと11人の仲間」で、ディーン・マーティンで・・・・などという話は、演出家や歌手たちの口から直接語られると、それなりの迫真力がある。
 ただ、そういう話は、アメリカ人ならすぐピンと来る身近なものだろうが、われわれ日本人からすれば「そうなの?」程度にしか感じられないところに、このラスヴェガス版「リゴレット」の日米両国における反応の違いが出るかもしれない。

 だがさすがに名作オペラ、お客の入りは良くて祝着である。私の後ろの席にいた2人の女性は、オペラが始まった途端に「変なの」と呟き、第2幕が終った頃には「初め違和感あったけど、だんだん慣れたワ」と語り合っていた。
 好みは様々だが、「娯楽作品としては」よく出来たプロダクションだ。特に、オペラなど博物館から引っ張り出したような旧式なシロモノだと思い込んで毛嫌いしている人々には、一度お薦めしたい舞台である。10時20分頃終映。

3・10(日)ベルリン州立歌劇場 ワーグナー:「神々の黄昏」

   シラー劇場(ベルリン)  4時

 ベルリンのリンデン・オーパー(ベルリン州立歌劇場)の本拠地の建物は未だ改装中。公演には、依然としてシラー劇場が使用されている。

 このギイ・カシアス新演出「ニーベルングの指環」の完結篇、「神々の黄昏」の初日(3日)を観たドイツ在住の知人のジャーナリストが、その出来について、メールでクソミソに言って来た。
 しかし、それぞれ好みと信条の問題もある。何事も自分の目で観た上で判断すべし、と実際に観に行ったのだけれども、・・・・なるほど、これじゃァ――という感。

 そもそも、「指環」のようなケレン味とスペクタクル性を舞台に要求されるオペラを、舞台機構があまりなさそうなこのシラー劇場でやるというのが、どだい無理な話だろう。苦心惨憺、工夫していたことはお察しするが 舞台装置の転換にせよ、人物の登場退場にせよ、言っちゃあ何だが、場末の劇場なみの水準である。これがドイツ屈指の名門ベルリン州立歌劇場の公演でないということなら別だが・・・・。

 その上、カシアスの演出からして、もともとドラマトゥルギー的な突込みに不足しているし、人物の演技もかなり大雑把だ。特に第2幕(ギービヒ家の場面)での群集は時に所在無げに動くこともあり、素人芝居同然である。演出家が明確に指示を出していないことが、ありありと見てとれる。

 それを辛うじて救っているのが、舞台奥の屏風のようなスクリーンに投影される映像照明だ。これは最近流行りの手である。
 動画映像は、クリムト的な色柄から、日本の墨絵のようなデザイン、あるいは炎のイメージなど、素晴しく目映く美しいものから、腹部エコー映像のような薄気味の悪いものまで、いろいろある。それはそれでいい。

 だが、その使い方が問題だ。第1幕最後の「ブリュンヒルデの岩山の場面」における炎の映像はすこぶる華麗だったので、この分ではおそらく、全曲最後の山場であるブリュンヒルデの自己犠牲、火葬の場からライン川の氾濫、ヴァルハル城の炎上と世界の没落、未来への希望――といったドラマが、それこそ映像やダンスを総動員し、ラ・フラ・デルス・バウス並みの目を奪う光景の裡に繰り広げられるのでは――と予想したのだが・・・・。
 クライマックス場面で、これほど拍子抜けしたことは、私の「神々の黄昏」体験の中で、例がない。舞台装置と照明に何か手違いがあったのでは?と訝ったほどなのだ。

 これから観る方も多いだろうから、これ以上は触れるのをやめる。いずれにせよ、自分の目で観た上での、各々の判断である。
 それにしても、このプロダクション、スカラ座公演の時にもこの手でやるのかしらん?

 「ラインの黄金」の時に評判の悪かったダンスは、また出て来た。一所懸命踊っているダンサー(4人)には申し訳ないが、何か要領の悪い踊りであることは、相変わらずである。
 ただし今回は、使い方に感心させられる場面があった。ダンサーは専らジークフリートに纏わり付くのだが、一つはギービヒ家の場面で、ダンサーが異形の怪物のようなポーズを組み、ジークフリートがファーフナーから宝物を奪い取った話をしている時にグンターがその怪物(もしくは宝、あるいはジークフリートの話の真偽の象徴)に触ろうとすると、パッと不気味に触手を伸ばして、グンターをはねつける光景。

 もう一つは、岩山の場面に変装したジークフリートが出現する場面で、ジークフリートに代わってそのダンサーたちがブリュンヒルデに襲いかかり、指環を奪い、更に彼女を取り囲んでレイプする(ように見える)という演出である。
 これらはなかなか気の利いたアイディアで、この2ヶ所だけは、あの煩わしいダンスの存在が100%良い方向に生かされていた。

 ダニエル・バレンボイムは、今回はかなり速めのテンポで指揮していた。無雑作に音楽をつくるところもあり、オーケストラ(シュターツカペレ・ベルリン)の方にも少し雑な個所があったが、まあ、ルーティン公演では、大体こんなものだろう。
 2階席前方で聴いた限りでは、オケはたっぷりした音で鳴っていた。昨年暮れの「ばらの騎士」と同様、この演劇用劇場のピット(かなり深い)も意外に悪くないなと思えたのは、両方とも2階(1 Rang)席で聴いたためだろうか。

 歌手陣では、イレーネ・テオリン(ブリュンヒルデ)が相変わらず物凄い馬力を発揮して、最後まで押し切った。彼女に次いで拍手とブラーヴァを浴びたのは、安定した味を聴かせたマリーナ・プルデンスカヤ(ヴァルトラウテ)である。ゲルト・グロコフスキ(グンター)もしっかりと主役の一角を固めており、安心して聴ける。

 イアン・ストレイ(ジークフリート)は、声はいいのだが、歌の表情にもう少し細かいニュアンスが欲しいところだろう。ミハイル・ペトレンコ(ハーゲン)は、このところこの役を歌うことが多いが、歌唱にも演技にも、一同を有形無形に支配する強靭な存在感に欠けるのが問題ではなかろうか。どうも線が細いのである。マリーナ・ポプラフスカヤ(グートルーネ)は無難にこなしていた。他にヨハネス・マルティン・クレンツル(アルベリヒ)ら。

 30分と25分の休憩を挟み、終演は9時半過ぎだから、やはりテンポは速めの方だ。
 外は小雪。かなり積もっている。顔も手も凍りつくような冷えだ。この劇場は地下鉄(U2)のエルンスト・ロイター・プラッツ駅に近いのが有難い。


3・9(土)アンドリス・ネルソンス指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

    フィルハーモニー(ベルリン)  8時

 ベルリンは曇り空で、風こそ無いが、マイナス4度とか、猛烈に冷える。夕方になって雪が降り始めたが、夜遅くには止んだ。こういう天候の時には、このベルリン・フィルの本拠、フィルハーモニーというホールは、何と辺鄙な所にあるのだろう、と恨めしくさえなる。

 今夜は屈指の若手、ラトヴィア出身の35歳、アンドリス・ネルソンスの客演指揮。
 モーツァルトの「交響曲第33番」、ワーグナーの「タンホイザー」序曲、ショスタコーヴィチの「交響曲第6番」という、ちょっと変わった組み合わせだ。

 我ながらそそっかしいことに、実は会場に行くまで、「タンホイザー」は「序曲とヴェヌスベルクの音楽」をやってくれるのだとばかり思い込んでいた。したがって大いに落胆。それにしても随分短いプログラムである。休憩30分を挟み、9時45分には終ってしまった。
 雪も降っている夜だから、早く終るのは有難いとはいえ、「バッカナール」を彼の指揮で、しかもベルリン・フィルの豪壮な音で聴けなかったのは、かえすがえすも残念である。

 モーツァルトの「交響曲第33番変ロ長調」(ベルリン・フィルは解説パンフレットでこういう伝統的な表記を採っている。最近の研究では旧番号を言ってはいけないのだぞ、などというアカデミックな考え方に拘泥していないので、解り易い)では、ネルソンスは、極めて柔らかい音色をベルリン・フィルから引き出した。踊るような身振りで指揮をする彼の姿そのものが音になった、といっていいかもしれない。
 フィナーレでの木管の均整のとれたリズムとアクセントを筆頭に、全曲にわたり細かい神経を行き届かせた演奏――ではあったが、ただ、そのわりには、意外に「あまり面白くない」。形は充分に整ってはいるのだけれど・・・・という類の演奏とでも言うか。

 ところが、「タンホイザー」になると、ベルリン・フィルの創り出す音楽は、俄然活気を帯びて来る。どちらかと言えばネルソンス色の「すっきり味」の感触ではあるものの、前後の「巡礼の合唱」の昂揚個所などでの押しの強いエネルギー感は、やはりこのオケならではのものであろう。

 そして、ショスタコーヴィチ。ベルリン・フィルの楽員はこの作曲家にほとんど共感を示さない――という噂を聴いたことがあるが、その当否は別としても、今夜の「第6番」が、およそショスタコーヴィチの既存のイメージとは異なる演奏だったのには驚いたり感心したり、またそれなりに面白く、実に興味深かった。
 いい加減に演奏していたというのではない。それどころか、おそろしく雄大なのである。
 第1楽章など、堂々とした厚みのある音による、まさにシンフォニックな演奏だ。ましてフィナーレにいたっては、この作曲家特有の軽妙洒脱(?)なアイロニーというものからは程遠く、むしろ重厚で正面切った、生真面目なところさえあるスケルツォ――という雰囲気の演奏なのであった。

 ベルリン・フィルのこうした頑固な個性には、さすがと申上げるほかはないが、やはりネルソンスも、このドイツ文化の巨大な要塞のごときオケに挑むには、まだちょっと若いか、ということにもなろう。しかし、その強豪オケからさえ、これだけ緻密な均衡の構築を引き出したのは、立派と言うべきである。これは、昨年暮にキリル・ペトレンコがスクリャービンの交響曲を振った時に感じたのと同様であった。

 今夜は定期の3日目だが、客席は文字通り満杯、オケのうしろの席(PODIUMSPLATZE)までぎっしりと客が入った盛況ぶり。「第33番」の反応はそこそこだったものの、「タンホイザー」以降は沸きに沸き、ネルソンスへの拍手はすこぶる盛大で、幸せなお開きとなった。

3・7(木)ベルナルド・ハイティンク指揮ロンドン交響楽団

   サントリーホール  7時

 ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第2番」が始まった瞬間、何と温かい演奏だろうと思った。
 ハイティンクの指揮を初めてナマで聴いてからもう40年以上になるが、正直なところ昔は綺麗で落ち着いていて、オーケストラを見事にバランスよく鳴らす指揮者だ、くらいにしか感じられない人だった。どんなオーケストラからもその最良のものを引き出すことの出来る指揮者だという印象を受け、しかもその音楽が実にヒューマンな温かさを持っている、と感じられるようになったのは、ずっとのちのことである。

 だが、いまやハイティンクは、本当にオーケストラを精神的に指揮することが出来る境地に達しているのだろう。かつてロンドン響の楽員は「われわれは指揮者の棒を見ながら演奏するのではなく、指揮者のパーソナリティに触発されて演奏するのです」と語っていた。いいオーケストラというものはすべからくそういうものだが、今夜の演奏も、おそらく同様だったはずである。

 ピリスのソロは、やや細身ながらシンの強い表情で開始され、第1楽章のカデンツァにさしかかるあたりから俄然強靭な力を増して行った。第2楽章後半の演奏からも感じられるように、沈潜した厳しさが以前にも増して目立って来た、という印象もある。
 いずれにせよ、これまで聴き慣れて来たピリスとは、更に趣を異にする芸風になって来たようである。中旬にはメネセスとのデュオやソロの演奏会も聴けるはずだから、それも併せて聞き比べてみることにしよう。

 プログラムの後半は、ブルックナーの「第9交響曲」だった(なぜか今年はこの曲が流行るようだ)。私の好きな曲だから、どんな演奏でも聴いてみたい。
 今夜の演奏も、まさに天地が鳴動するといった感のある、壮大な音の坩堝であった。それは、昨年8月末にザルツブルクでハイティンクがウィーン・フィルと演奏した際の、何か物の怪が憑いたような、肌に粟を生じさせる演奏と比較するとやや穏健に感じられたものの、それでも卓越した演奏だったことに変わりはない。

 ただ、今夜聴いた席は2階席LC最前列――位置からいえば1階と2階との中間の高さにあたる場所――で、そこでは弦の唸りが間近に聞こえ、後方上手寄りに配置されたトランペットとトロンボーンはそれにマスクされる傾向がある、というバランスで聞こえた。この位置で他のオケを聴いたことは何度もあるが、今夜のような音に聞こえたのは珍しい。
 この結果、オケ全体が一つの飽和した音響となり、ブルックナーがこの曲で初めて試みた不協和音のぶつかり合い――聴く側の感覚からいえば一種の怪奇で悪魔的な絶唱、とでもいうようなものが薄められるという印象になっていたのである。しかし2階席正面や、その後方あたりで聴けば、また全く異なった響きで聞こえたかもしれない。

 CDが聴く装置により千変万化のイメージになるのと同様、ナマ演奏もホールや聴く席の位置によりそれぞれ異なる受け取り方になる。それにナマ演奏というものは、その日によって異なるものである。このあたりが難しいところだ。

 第3楽章の演奏が終ったあと、静寂は充分に保たれ、それから拍手が巻き起こった。熱狂的なブラヴォーがあふれたというほどの沸き方ではなかったが、温かい拍手がいつまでも続き、ハイティンクへのソロ・カーテンコールも2回繰り返された。

3・5(火)尾高忠明指揮札幌交響楽団 東京公演

   サントリーホール  7時

 尾高忠明の十八番といえば、やはりエルガー、ブリテンなどの英国音楽と、それにシベリウスではなかろうか。したがって、彼が音楽監督を務める札響にも同じことが言える。
 その尾高と札響が、満を持してシベリウス・ツィクルスを開始した。但し年1回のペースで3年がかり。札幌での定期では毎年3月にそれを取り上げる。

 第1回は「フィンランディア」「交響曲第3番」「第1番」で、1日と2日に札幌で演奏したのち、この東京公演に持って来た。出来は上々である。札響のこれまでの東京公演のうちでも、ベストのグループに属するものと言ってもいいのではないかと思う。

 「フィンランディア」が開始された瞬間、久しぶりに聴く札響の音が、随分重厚な、恰も霧の闇の中から響き渡るような凄味を感じさせたのには驚いた。序奏や、あの有名な主題部分のように、息の長い、厚みのある和声が持続する音楽のところでは、ホールの空間一杯に密度の濃い音が木霊するといった趣である。尾高=札響のこういう音は、かつて彼らがエディンバラのアッシャーホールでシベリウスの「第2交響曲」を演奏した時に聴いたことがある。

 ただその代わり、「フィンランディア」の主部のアレグロのような、音楽が激しい勢いで鳴動する個所では、それまでの重厚な響きの密度が薄れ、どこかに隙間のある音となって、「オーケストラとしては些か軽く」なる傾向が生じるのが惜しい。
 こういうプラスマイナスは、札響の本拠地のkitaraで聴けばまた違ったカラーで聞こえるのかもしれないが、少なくともここサントリーホールでは、こう聞こえたのである。

 この相反する特徴は、他の曲にも共通していた。それゆえ、叙情的な色合いの濃い「第3番」や、「第1番」の第2楽章全曲及び第4楽章のアンダンテ主題の個所では、うっとりするほど豊麗な陰翳に満たされた、素晴らしい演奏が続いた。
 その反面、「第1番」の第1楽章や第4楽章のアレグロ部分など激烈で闘争的な音楽の個所では、惜しいことに、全管弦楽ががっちりと音塊をつくり上げるというところまでは行かなかった――ただしそこでの演奏の凄まじいエネルギー感は、それはそれで聴き応えはあったが。

 だがともあれ、熱狂的なシベリウス・ファンの私としては、「第1番」終結での、あの大波の如き盛り上がりの豊かな情感に富んだ演奏を聴けば、終り良ければすべて好し、という気持になってしまう。
 「第3番」の最終の頂点にしても、弦楽器群が同じ音型を執拗に反復し、その向こう側で木管と金管が遠い木魂のように咆哮を続けるあたり、まさに「繰り返しの恍惚」である。尾高がここで徒にテンポを速めることなく、あくまで基本のテンポを守って最後までスケールの大きさを失わせなかったことは実に賢明だったと思う。

 アンコールには、いつだったか名演を聴かせてくれたことのあるシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」をまたやってくれるかと期待していたのだが、・・・・エルガーの「弦楽セレナード」から、となった。マエストロ自らのスピーチによれば、これはCDのプロモーションだとか。しかし、素晴らしい演奏だったので、文句は言いません。

3・1(金)ハーゲン・クァルテットのベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲演奏会前編第3日

    トッパンホール  7時

 早朝「はやて」に飛び乗って仙台から帰京、午後「ノートルダム・ド・パリ」を観て、そのすぐあとにこれ――とは、体力的に少々自信がなかったのだが、意外や意外、ミュージカルのPAの轟音に2時間以上も浸ったあとに出会うこのナマの弦楽四重奏の演奏は、とてつもなく新鮮なものに聞こえ、ベートーヴェンの美しさに陶然として、疲れなどどこかへ吹っ飛んでしまった。

 今夜は第3夜で、プログラムは「第15番 作品132」と、「第8番《ラズモフスキー第2番》」。
 曲は素晴らしいし、この弦楽四重奏団も昔に比べると遥かに成熟して滋味豊かな演奏になったし。第1ヴァイオリンのルーカス・ハーゲンの演奏は少し雑だったものの、いい気持で愉しんだ。――とは言っても、2曲のうちでは、やはり「ラズモフスキー第2番」が圧倒的に緊迫感のある白熱した演奏だった。ベートーヴェンの中期の作品に特有の力学的な構築が闊達に打ち出されている。

 3夜全部を聴いた人の話では、演奏はいつも尻上りに良くなって行った(つまり後半の曲での方が良い)とのことだった。それもちょっと不思議な話だが・・・・。
 後編「秋の陣」は9月末に始まる。

3・1(金)ミュージカル「ノートルダム・ド・パリ」

    東急シアターオーブ  2時

 ヴィクトル・ユーゴーの有名な小説――日本ではかつて差別用語を含んだ別の題名で知られていた物語。原題名がNOTRE DAME DE PARISなのに、だれがあんなどぎつい邦訳をつけたのだろう? 

 このミュージカルは、作詞がリュック・プラモンドン、作曲がリシャール・コッシアンテ。1998年にパリで初演された「フランスのミュージカル」だが、今回はウィル・ジェニングスによる英訳版が使用されている。
 ストーリー構成は、ほぼ原作の流れを忠実に追っている。美貌ゆえに悲劇的な宿命の道を辿るロマの娘エスメラルダ(アレッサンドラ・フェラーリ)に、彼女に純な想いを寄せるノートルダムの鐘つき男カジモド(マット・ローラン)、彼女に邪恋を抱く司教フロロ(ロバート・マリアン)や近衛隊長フェビュス(イヴァン・ペドノー)らが絡む。

 主人公カジモドを歌い演じるローランの存在感は、さすがにすばらしい。ひとりで舞台全体を支配してしまう迫力だ。なんでもこの役をすでに600回以上も演じていて、またロックバンド「ラ・カシーヌ」のメインヴォーカリストでもあるとか、凄いキャリアの持主である由。純粋で優しい心を持ちながらも異形の身体であるが故に虐げられるカジモドを見事に演じて余す所なく、観客の同情を一身に集めてしまう存在である。

 セリフはなく、全篇がナンバー(第1幕28曲、第2幕23曲)の連続で構成されているが、特に第2幕にはカジモドの絶唱「神よ、この世のすべてが間違いだ」「ダンス、エスメラルダ」、エスメラルダの「生きる、あなたのために」など、いい歌も多い。
 また舞台では、装置や演技が一種の象徴的なスタイルで進められて行くが、第2幕第2曲で鐘が人の身体と組み合わされて(イメージとして)鳴らされる場面など、こういう幻想的な舞台がオペラの演出にもあったらな、と、思わずうっとりしてしまった。この手の演出をオペラに取り入れるなら、いわゆるオペラ演出家よりもバレエの振付家あたりが自分のフィールドに舞台を引き込んで思い切った手法を試みるしかないのではないか、という気もする。

 その振付を担当したのはマルティーノ・ミューラ。ダンスのスピーディなこと、アクロバットの素晴らしさなどには舌を巻く。
 休憩20分を含み上演時間は2時間半。愉しめた。シアターオーブでは17日まで公演が行なわれ、そのあとは大阪、名古屋でも公演がある。

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