2017-02

2・28(木)仙台フィルハーモニー管弦楽団 ロシア公演壮行演奏会

  仙台市青年文化センター  7時

 仙台フィルが、3月末にロシア演奏旅行を行なう。
 27日サンクトペテルブルク・フィルハーモニー大ホール、30・31日モスクワ音楽院大ホール――いずれもロシアを代表する名門ホールで演奏するのだから、凄いものである。

 今回のロシア公演の主旨は、「被災地のオーケストラとして、世界各地から寄せられた支援に対する日本人の感謝の気持を音楽で伝え、音楽の力によって復興に向かう姿を海外に伝える」ことにあるという。主催は独立行政法人国際交流基金の由。

 今日の「壮行」演奏会の指揮は、ロシア公演をも指揮する常任指揮者パスカル・ヴェロ。彼はもう7年前からこの仙台フィルのシェフだ。私も仙台で何度か聴いており――その中には、あの快演「ペレアスとメリザンド」(2010年10月)も、大震災直後に学校の講堂へ会場を移して続けた定期公演もあった――オケとの相性はすこぶる良いらしい。
 今日は武満徹の「弦楽のためのレクイエム」、ビゼーの「カルメン」抜粋、ドビュッシーの「夜想曲」及び「海」というプログラムだったが、特に最後の「海」には、この指揮者とオケの共同作業の見事な成果が表われていたと思う。瑞々しい音色と表情で、均整のとれた明晰な響きにあふれ、波打つ優雅な叙情といったものを感じさせる美しい快演だった。

 「夜想曲」と「海」とを続けて演奏するというのは、ロラン=マヌエルが言うように、「夜想曲」からさらに「新しい岸辺に向かって」再出発したドビュッシーの冒険の旅を辿ることにもなる。それゆえ、その「夜想曲」の演奏が今一つ完璧に練り上げられたものになれば、この2つの作品間にある絶妙な関連性を浮彫りにし、プログラムの意味を明確にしめすことができるだろう。

 1曲目の「弦楽のためのレクイエム」は、大震災の犠牲者を悼むための選曲という。仙台フィルの弦はいい音を出していた。外国人指揮者が武満作品を振ると、非常にメリハリのある、明確なアクセントを備えたものに聞こえることが多いが、ヴェロも同様である。
 「カルメン」抜粋は、ただの組曲版ではなく、特に第1幕からはいろいろな場面を抜き出し構成し、女声合唱をも加えるというヴェロの編曲が念入りだったが、今日のプログラム構成の中では何かくど過ぎて(しかもチト長い)、後半のドビュッシーの大曲2曲とのバランスを損ねた感もあった。
 熱演の女声合唱は宮城三女(宮城県第三女子高等学校音楽部)OG合唱団で、ロシア旅行にも同行する由。

 公演の成功を心から祈りたい。気をつけて行ってらっしゃい。

2・27(水)キャメロン・カーペンター ミラクル・オルガン・イリュージョン

     サントリーホール  7時

 そういえば以前、海賊の扮装をして演奏するオルガニストがいたのを思い出した。だがこちらキャメロン・カーペンターは、モヒカン刈りの、ロック・ミュージシャンといった服装でオルガンを弾く。

 ペンシルヴァニア生れの32歳、ジュリアード音楽院に学んだ、経歴はまともな音楽家である。
 ユニークなのは、ステージ上のコンソールの左側にカメラを設置、それで自分の足(ペダル)あるいは手(鍵盤)を会場上方の大スクリーン(2基)に投影して見せるという演出だ。

 今日のプログラムは、いわゆるトランスクリプションもので――バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」のプレリュード、リストの「鬼火」や「ラ・カンパネッラ」、ショパンの「エチュード」といった曲を、華麗豪壮な編曲で聞かせるというわけ。
 その編曲が、どれも概して大音響なのは、やはり彼がふだん演奏を聞かせる客層の嗜好に合わせるためだろうか。その上、編曲のスタイルがやや単調なため、短いナンバーを続けて聴いていると、些か飽きて来る。

 いっそ、いわゆる聖域(?)を踏み越え、これらバッハ、リスト、ショパンなどの作品をもっと思い切ってロック化した編曲でやってみれば、モヒカン刈りのイメージも更に意味を持つのではないかと思う。なまじクラシック音楽のスタイルに拘泥したり遠慮したりすると、かえって中途半端になるだろう。
 ロック、ジャズ、ポップスの演奏家が、クラシック音楽を形だけなぞっても意味はあるまい。クラシック音楽の作品を演奏するなら、自分のテリトリーに引き込んで勝負するべきである。もっとも、ジュリアード出身のカーペンターが、あくまで自分はクラシックの演奏家だと思っているなら別だが。
 私は昔、ジョン・コルトレーンが初来日した際に会場で聴いた「ムーン・リヴァー」を思い出す。あそこには「ムーン・リヴァー」はほんの一瞬だけしかなかったが、しかし間違いなく、コルトレーンそのものが存在していた。

 仕事の関係で前半だけで失礼してしまったが、もしかしたら後半のプログラムで何か大胆な試みがあったのかもしれない。

2・25(月)マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル・グルノーブル 

   東京文化会館大ホール  7時

 今日は「都民劇場」の公演。プログラムは、シューベルトの交響曲2つ、「未完成」と「ザ・グレイト」。
 先週金曜日のオペラシティでは――プログラムは少し違い、後半はモーツァルトの「ミサ」だったはずだ――プラスアルファやらアンコールやらがいろいろあって、聴く方もハッピーだったとの話を聞いたが、今日は上記の2曲を演奏しただけでおしまい。

 ま、私の好みで言えば、この東京文化会館大ホールは、空間的な大きさの点でもアコースティックな面でも、このオーケストラにはあまり合ったものではないと思われるので、仕方がないかなという感。もちろん、「このホールで聴くといいですね」と言っていた人もいるから、好みはさまざまだけれども。

 とにかく、今日の席は1階14列目の中央やや上手寄りだったせいもあって、楽器の音は隅々まで明晰に聞こえた。「未完成」第2楽章(第18~21、24~31小節など)でヴァイオリンが奏する旋律にヴィオラやチェロ、コントラバスなどがつけるすてきな対旋律がこれだけ明確に聴き取れると、シンフォニーというものの素晴らしさ、面白さが改めて堪能できるというものである。
 また「ザ・グレイト」の第3楽章トリオの終り近く(第343小節~)で保持されるトロンボーンの高い音を、主題を吹くクラリネットとファゴットよりも強く響かせて異様な和声的効果を出していたところなども、なるほどそういうアイディアもあるんだな、と感心させられた次第。

 そういう面白い個所がいくつもあった演奏だったのは確かだが、いかんせん、豊かな残響があれば付加されたであろう典雅、洗練、豊麗などといった要素がすべて削ぎ落とされてしまい、あまりに音が裸になってしまった印象も否めない。
 それに今日の演奏は――特に「ザ・グレイト」の第3楽章などでは、何か緊張の糸が切れたような、非常に散漫なものが感じられてしまった。全般にわたり、木管群に些か頼りないところがあって、――とりわけオーボエ氏にはもう少ししっかりしていただかないといけませんな。前回の来日時と、メンバーはどの、くらい違うのかしら? 前回は物凄く冴えていて、新鮮な演奏に感じられたのだけれども・・・・。

 でもとにかく、曲がいい。

2・23(土)尾高忠明指揮東京フィルハーモニー交響楽団
シェーンベルク:「グレの歌」

   BUNKAMURAオーチャードホール  3時

 東京フィル100周年記念演奏会として一昨年3月に予定されながら、東日本大震災のために中止になっていたもの。今回復活した演奏会の開催日は、ほかならぬこの「グレの歌」が初演されてちょうど百年目の日に当たっている。不思議な因縁だ。
 協演は新国立劇場合唱団、望月哲也(ヴァルデマール王)、佐々木典子(トーヴェ)、加納悦子(山鳩)、吉田浩之(道化クラウス)、妻屋秀和(語り手、農夫)。

 マエストロ尾高も東京フィルも、まさに入魂の演奏であった。見通しのいい構築、劇的な昂揚、豊麗な音色など、「百周年記念」にふさわしい快演である。
 序奏部分をはじめとして弱音により紡がれるすべての個所には、後期ロマン派のむせ返るような、官能的な響きが満ち溢れており、尾高のこの作品に対するアプローチが明確を聴き取ることができた。最終部分における息の長い陶酔的な昂揚感など、見事というほかはない演奏である。

 だがしかし、――このような超巨大編成の管弦楽と合唱を聴くには、このホールは難しい。1階24列目やや下手寄りで聴いたのだが、その最弱音は見事に美しく聞こえながら、打楽器を含めた全管弦楽と大合唱とが同時に怒号するような個所では、音は全く団子状態になり、文字通り混沌たる大音塊と化し、舞台奥に位置する合唱にいたっては細部も定かならずという状態になってしまったのである。
 いったい何処で聴いたらよかったのか? 終演後、2階席で聴いていたという大阪の女性新聞記者に感想を訊ねたら、私の印象とは全く逆で、弱音の叙情的な部分は非常に遠く聞こえ、最強音の大爆発個所はすこぶるエキサイティングで満足できた、ということだった。

 そういえば私も昔、小澤と新日本フィルの「ミサ・ソレムニス」や、十束とシティ・フィルの「千人の交響曲」を2階席で聴いた時には、いい音だなと思ったものだったが・・・・。ともあれ、このシューボックス型ホールでの、しかも奥行を一杯に使った舞台での超大編成オケと合唱となると、やはり聴く位置を選ばなくてはならないのだろう。この同じ演奏を、サントリーホールか東京芸術劇場で聴いてみたかったところである。

 歌手たちはみんな良い出来を示してくれていたが、最も声楽上の負担が重い望月哲也には同情すべきものが多い。彼のパートを包むオケは、全く狂気の沙汰ともいえる大編成であり、しかも、あの悪名高いマーラーの「大地の歌」第1楽章をさえ遥かに凌ぐ咆哮の連続だからである。
 これを切り抜けるにはオケの音を相当抑制しなくてはなるまいが、――今日の尾高の指揮は、たとえ声楽を犠牲にしても、まずこの作品の魔性的なエネルギー感を優先したい、とするものだったように思われる。

2・22(金)JTアートホール室内楽シリーズ最終回
中嶋彰子とストリング・クヮルテットARCO

   JTアートホールアフィニス  7時

 このシリーズにも、残念ながらついに終りが来てしまった。1995年以来17年間におよんだ「JTアートホール室内楽シリーズ」が、今日で閉じられたのだ。
 虎の門にあるJTの建物の中にある300人ほどを収容する室内楽専用ホールで、徳永二男、吉野直子らをプランナーとし、今日まで381回もの演奏会を重ねて来たこのシリーズは、多くの固定ファンを擁していたのである。

 私もFM東京系CS-PCM放送「ミュージックバード」の制作担当時代、ここの演奏会を(廉い謝礼で!)しばしば放送させていただいたものであった。――今はこのシリーズを盛り立てて来た多くの関係スタッフ、音楽家たちの努力を感謝とともに称え、ねぎらいたい。

 最後の演奏会は、中嶋彰子(ソプラノ)の企画で、ヴェルディの作品を中心に、イタリアのプログラムが組まれた。
 何しろ1曲目が「椿姫」の「あなたは約束を守って下さった~さようなら過ぎ去った日々よ」だったから、まるでこのシリーズへの告別の辞みたいな選曲にさえ思えたが、――そのあとは、ヴェルディの「弦楽四重奏曲」や歌曲、ヴォルフの「イタリアン・セレナード」、カッチーニやトスティやニーノ・ロータの器楽曲や歌曲が演奏される。
 特に演奏時間十数分に及ぶレスピーギの歌曲「夕暮れ」は、演奏も圧巻。中嶋彰子とストリング・クヮルテットARCOの快演を、余す所なく堪能させてもらった。

 ストリング・クヮルテットARCO(現在のメンバーは伊藤亮太郎、双紙正哉、柳瀬省太、古川展生)は、このホールでのこの室内楽シリーズがデビューだった(その演奏会を放送した記憶がある)。それゆえ、そのフィナーレの演奏会を担当したということは、彼らにとっても、感慨深いものがあるだろう。

2・21(木)東京二期会 J・シュトラウス:「こうもり」

   東京文化会館  6時30分

 大植英次の指揮、白井晃の演出、松井るみの舞台装置、太田雅公の衣装。二期会合唱団と東京都交響楽団。
 歌手陣はダブルキャストで、公演2日目の今日は、小貫岩夫(アイゼンシュタイン)、塩田美奈子(ロザリンデ)、坂井田真実子(アデーレ)、高田正人(アルフレード)、三戸大久(フランク)、宮本益光(ファルケ)、青木エマ(オルロフスキー)ほかの人々。日本語上演である。

 まず目を惹いたのが、座った楽員たちの上半身までが見えるほどの高い位置に設定されたオーケストラ・ピットだ(ウィーン国立歌劇場すら、ここまではピットを上げないだろう)。
 それはそれで結構であり、これなら今日はJ・シュトラウスの色気のあるオーケストラの響きを存分に堪能できるかと胸を躍らせたのだが、実際にはオケはさっぱり響かず、音は小さく薄くて、旋律やハーモニーの美しさなど何処へやら(こちらの席は1階センター14列のやや下手寄りだった)。
 反響板がないに等しいのだから無理もなかろうが、こんな結果になるなら、ピットをもう少し低くして、音をたっぷり出して貰った方が余程マシだったろう。

 聞くところによると、ピットを高くしたのは「オケの楽員たちにも笑ったり拍手をしたり、芝居に参加して欲しい」という演出家の注文によるものだったという。
 たしかに楽員たちは、特に第2幕以降、そのような「演技」も行なっていたようだが・・・・要するに弾きにくそう、吹きにくそうで、「これがあの都響?」とびっくりさせられるほど乾いて、しかも粗い演奏になっていたのでは、何にもなるまい。せっかく珍しいヴァージョン(原典版の由)によるノーカット(の由)演奏なのに、もったいない。このあたりは、オケと、指揮の大植英次との呼吸がどうなっていたのか、気になるところではある。

 演出。白井晃のオペラ演出は、私もこれまでに「オテロ」などを観たことはあり、ある部分には好感を持っているのだが、今回は良くも悪くも、随分あざといものであった。舞台装置も衣装も、かなりケバケバしい色彩のものである。
 どうせわれわれの国でウィーンの洒落た社交界の雰囲気などをそのまま真似してもサマにはならないのだから、それならいっそ、全く趣向を変えてみよう、という試み自体には、私は大いに賛意を表する。

 だが第2幕でのように、登場人物たちがのべつゲラゲラ笑いまくって騒いでいるのを見ると、何だか流行のテレビのバラエティ番組のような、自分たちだけ勝手に盛り上がっている光景を見ているようで、どうも白けてしまうのだ(もちろん、一緒に楽しそうに笑っているお客さんもいたが)。
 演技の上でも、全体にかなりドタバタ調が多い。第3幕のフロッシュ(櫻井章喜)にしても、昔はもっとウィットに富んだセリフの面白さで観客を愉しませていた役柄ではなかろうか?

 休憩時間にロビーで知人と立ち話をした中で「こういう演出は、もしかしたら関西でやるとウケるタイプでは?」という話が出た。実際、関西出身という知人が「たしかにこれは、兵庫(県立芸術文化センター)でやった《こうもり》より、もっと《関西的》よ」と言っていた。
 やっぱりそうか。私も以前、その兵庫(西宮)で、東京では観られぬような賑やかな「こうもり」や「メリー・ウィドウ」を観たことがあるが、客のノリの良さたるや熱狂的で、笑い声や手拍子の盛大さと言ったら、今夜のカーテンコールのそれの比ではなかった。今回のこの「こうもり」も、関西の客だったら、もっと共感して、派手に笑い、派手に拍手をするのではないかという気もする。

 その点、マエストロ大植は「関西的」雰囲気のある人だから、大いに乗っていたのではないかと見える雰囲気でもあった。もしかしたら今夜の演奏では、その関西ノリで押し切った指揮と、「東京都の交響楽団」とが合わなかったとか? まさかそんな。

 ただ、関東だろうと関西だろうと、いずれにせよこういう問題は、個人の好みに左右されるので、一概にどうのこうのというわけにも行くまい。
 オケや観客を巻き込んで、これまで無かったような「こうもり」をプロデュースしたいという試みそのものには、繰り返すが、私は基本的に賛成だ。

 歌手陣。不勉強ながら、今日のキャストの半分くらいは、私が初めて聴く人たちだった。だがみんなよくやっている。二期会所属の歌手の層の厚さをここでも窺い知ることができる。
 中でも大熱演で健闘したのがアデーレ役の坂井田真実子。演技ではちょっとムキになっていたようだが、歌唱がしっかりしているので、今後が楽しみである。
 そして舞台姿が目立ったのがズボン役の青木エマで、演技はワンパターンだったが(これは演出の所為だろう)、タカラヅカ的な雰囲気をも振りまいて、経験を積めば実に個性的な、いいキャラになるだろう。昨年ミミを見事に演じ歌っていたのを聴いた時には、この声でどういうオルロフスキーを歌うのかなと思ったものだが、意外に太い声で、フレッシュな味を出していたのには感心した。

 今回使われた日本語歌詞は、中山悌一によるものという(セリフ部分はもちろん今日的に換えられているし、ストーリー的にも若干変更になっている部分もある)。1人だけ、終始何を歌っているのかさっぱり解らない人もいたが、宮本益光をはじめ大部分の人たちの歌詞は、比較的よく聞き取れた。
 ただ、セリフ部分で言えば、女声歌手たちの、頭のてっぺんから声を出すような、歌うような昔ながらのセリフ回しには――中にはえらいキーキー声を出す人もいて――閉口する。もう少し普通に喋っていただけませんでしょうか?

2・20(水)下野竜也指揮 読売日本交響楽団

   東京芸術劇場  7時

 何事にも終りが来るものである。2006年11月29日、下野竜也さんが読響史上初の正指揮者として登場したあのサントリーホールでのコンサートが、つい昨日のことのようにさえ感じられる。そのあとの読響のパーティで、彼が如何にも彼らしい愉快なスピーチをしていた光景も、まだ脳裏に焼きついている。

 今夜の演奏会は、文字通り、彼が「正指揮者」の肩書で読響を振る最後のものとなった。曲はブルックナーの「交響曲第5番」。チラシには「万感こめて振る」とか何とか書いてあったはずだが、彼が万感こめて指揮したかどうかは知る由もないけれども、聴いているこちらの方が余程万感がこもった。私自身が、彼と読響の演奏を気に入っていて、随分沢山いろいろな珍しいレパートリーを聴かせてもらっていたからである。
 演奏終了後にはオケの楽員たちから盛大な拍手と花束が贈られ、またオケが退場してからも彼には客席からソロ・カーテンコールが求められた。彼が舞台にまた独り呼び出されて答礼している間、たまたま舞台に残っていた8人のコントラバス奏者たちも一緒に拍手を送っていたのだった。

 彼の指揮するこのブルックナーの「5番」を聴いたのは、数年前の名古屋フィルとの演奏(愛知県芸術劇場コンサートホール)以来である。今回はオケも違うし、彼の指揮も変貌している。全曲にわたり、がっちりと隙のない造型が施され、端然として厳格なブルックナーとなっていた。

 彼の指揮は、ふだんから基本的にシリアスな表情の濃いものだが、マーラーやブルックナー、リストなどの大曲を振った時には、その厳しい強面ぶりが更に目立つ。昨年9月のこのホールのリニューアル・オープンの際に演奏したマーラーの「復活」同様、読響の音色も硬くて剛直だったため(ホールの鳴りの所為もないとは言えなかろうが)、いっそうその印象が強くなる。
 それは立派な風格を感じさせるが、他方、あまりに音の構築のみに重点が置かれてしまい、そのため音楽の余情やふくらみ、巨大感、夢幻性、温かさ、優しさ、作曲者の複雑な心の襞・・・・といった要素が削ぎ落とされた演奏に感じられることもあるのだ。今夜の「5番」も、極めて見通しのいい構築ではありながらも、何か乾いた、潤いを欠く演奏に聞こえてしまったのは、私だけだろうか?

 だが「告別」演奏会での力演、熱演に対して、これ以上あれこれ言うのは愉快ではない。第4楽章中盤からは、その強面の演奏もいよいよ決然たる姿勢に満ち、最後の頂点は極めて剛直な音の裡に築かれて行った。

2・16(土)MET ビゼー:「カルメン」

   メトロポリタン・オペラ  夜8時30分

 新演出のプロダクションを2つ取材して、これで今回の目的は一応達せられたようなものだが、ついでに土曜の夜の公演もと思って観に行ったのがこの「カルメン」。

 ただし昔のと違い、今上演されているのはリチャード・エイレの演出、ロブ・ハウェルの舞台美術による、どちらかというと渋めの舞台である。
 最近はMETと雖も台所事情が多少影響しているのか、新しいプロダクションは多かれ少なかれ前作に比べて地味――といって悪ければ渋めのものになっているようだ。もっとも、「指環」のような大作の場合には、一点豪華主義の雰囲気も感じ取れる。

 この「カルメン」は、ごくごくストレートで、何か新しい人間のドラマを発見させるというほどのものでもない。回転舞台を利用するものの、兵舎も、酒場も、山中も、闘牛場も、適度に写実的で、適度に象徴的なつくりである。
 まあ、演技の上で興味を惹いた点といえば、ラストシーンでホセに泣きつかれたカルメンが、再三再四苦しそうな表情を見せ、昔惚れた男を無碍に袖にするにはさすがに同情の念を抑えきれぬといった様子を示すあたりだろうか。これは30年以上前のフランチェスコ・ロジー監督による映画版「カルメン」の中で使用された手法でもあるが、カルメンなる女の人間性を垣間見せるという点で私は好きである。

 指揮はミケーレ・マリオッティ。何とダブルヘッダーだ。御苦労様です。
 METでは演目の組合せで、よくこのようなケースがある。かつてのジェイムズ・レヴァインなどは、これよりもっと長いオペラのダブルヘッダーをこなすという超人的なエネルギーを見せていたものである。

 ところでこのマリオッティ――先ほどの「リゴレット」と同様の穏健な指揮で、第4幕の大詰など肝心のクライマックスでもあまり盛り上がらないのは物足りないが、比較的いいテンポで音楽を進めていたのは確かだ。
 カルメン役はグルジア出身のアニタ・ラクヴェリシヴィリという人で、声は太めで結構な馬力だが、フランス語の発音は非常に曖昧に聞こえるし、演技もさほど巧いとはいえない。
 伍長ドン・ホセのニコライ・シュコフ、闘牛士エスカミッロのドゥエイン・クロフト、隊長スニガのリチャード・バーンスタインなど手堅く、ミカエラのエカテリーナ・シェルバチェンコが愛らしい姿とよく通る声で好印象を残した。

 終演は11時40分頃。METではこんなに遅くまで子供のコーラスを舞台に乗せることができるらしい。客もよく入っているが、「パルジファル」プレミエの時の客層とはかなり違う。

 これで今回の弾丸取材(?)は終り。明朝帰国へ。

2・16(土)MET ヴェルディ「リゴレット」

   メトロポリタン・オペラ  マチネー 1時

 これも今シーズンの新制作の一つ。マイケル・メイヤーの演出、クリスティーン・ジョーンズの舞台美術、時代設定を1960年代のラスヴェガスにしたアイディアで話題を呼んでいるプロダクション。
 指揮がミケーレ・マリオッティ、リゴレットにジェリコ・ルチッチ、ジルダにディアナ・ダムラウ、マントヴァ公爵にピオトル・ベチャワ、スパラフチレにステファン・コチアン、マッダレーナにオクサナ・ヴォルコーワ、他。

 今日は「ライブビューイング」の本番とあって、アーティストたちもとりわけリキが入る。放送がある日は、演奏水準も高い。特にテレビが入れば、演技にも熱が入るだろう。METで最高の上演に接しようと思うなら、こういう日を選ぶに限る。今日の歌手陣も全員が充実した歌唱と演技を示してくれた。

 特に気を吐いたのがベチャワで、聞かせどころが多いというトクもあるけれど、歌も派手に決め、客席から歓声や口笛が盛り上がる(口笛だけは私は大嫌いだが)。
 ダムラウは可憐なジルダとして大成功。ルチッチは重くて暗い、地味系リゴレット。
 彼らに劣らず、準主役2人も受けた。コチアンは第1幕での引込みの際の「スパラフチレ」の一言を、凄味のあるよく響く最低音で思い切り長く伸ばしてみせ、客席を爆発的に沸かせてしまった。
 一方ヴォルコーワの方は、歌はともかく、見事なボディと衣装で拍手を浴びる。

 指揮のマリオッティは、すこぶる穏健、各幕の頂点でもさっぱり盛り上がらないのが難点だ。激怒したリゴレットの「悪魔め、鬼め」の前奏が爆発する瞬間や、彼とジルダとの「復讐だ!」の二重唱の個所など、ここぞという音楽の聴かせどころにさえ、全く凄味が生れないのである。だがまあ、それさえ除けば、全体としては無難な出来、というところだろうか。

 話題の舞台は、ド派手だ。実際のラスヴェガスがどんなものであるかは知らないけれども、第1幕第1場はネオン輝く屋内の賭博場。両側にはエレベーターがあり、いちいち階の標識灯が点いてドアが開く、という芸の細かさ。
 マントヴァ公爵はマイク(偽物)を持ち、女に囲まれて「あれかこれか」を歌う。
 夫人を公爵に寝取られて激怒するモンテローネ伯爵(ロベルト・ポマコフ)がアラブ人の扮装という設定は奇抜だろう。

 同第2場は、最初のうち場所はそのままで、人々がいなくなったあともバーで独り黙って飲んでいた男が振り向き、リゴレットに声をかける――それが殺し屋スパラフチレだ。
 第3幕におけるこの殺し屋の家には高級乗用車があり、ジルダは「殺されて」そのトランクに押し込められる。――殺し屋はこんなクルマを放置したまま逐電するわけだが、なんせ金持の街ラスヴェガスだから、クルマなんぞ惜しくないのだろう。

 殺し場の演出は惨酷だが、コチアンが実に巧く決めているのと、嵐の稲妻が背景のネオンの点滅で描写される可笑しさで救われる。ただし第2幕最後でモンテローネ伯爵がオタオタした挙句、背後から射殺されるというのは、衣装がアラブであるだけに、政治的なニュアンスもあるのか? ジルダはそれを眼前に見ていながら、それでも父リゴレットに、公爵への復讐を思い止まるよう哀願する。これはちょっと筋が通るまい。

 しかしこの「リゴレット」、細かいところは別として、娯楽作品という視点から見れば、視覚的にもよく出来ているプロダクションと言えようか。詳しくは映画館での「METライブビューイング」を観られたい。とにかく幕が開けば必ず、その奇抜な光景に笑い声や拍手が起きるという舞台だ。不景気な世の中の鬱陶しさを吹き飛ばす意味でも、いっとき愉しめるだろう。
 METの最近の新演出ものには比較的シリアスなものが多いが、これはお笑い分野の代表作だ。このオペラに人間的な苦悩や哲学を捜し求めたいという高級な(?)お方には向かないかもしれない。4時20分終演。

 ところで、最近はテレビ中継「METライブビューイング」の派手な展開のおかげでやや影が薄くなった感じだが、数十年の歴史を誇る土曜日午後のラジオ生中継番組は、今でも健在のようで、祝着である。これは私もCS-PCM放送「ミュージックバード」の「クラシック7」チャンネル編成を手がけていた時代に、今世紀初めの数年間、METから輸入して放送していたことがあるので、今でも何となく愛着を感じている。
 この番組では、休憩時間の一つに「メトロポリタン・オペラクイズ」という公開番組が、ロビーから1階降りたところにある「リスト・ホール」(200人ほどが入る)で行なわれるのだが、今回、懐かしくなって覗いてみた。
 入り口の小さなロビーにはTVがあり、折しも「ライブビューイング」が生放送中だ。ホールに入ると、そこでも最初のうちTV中継の音声が流れていて(これはラジオに失礼だろう)、やがてラジオ中継に切り替わり、進行役のマーガレット・ジャントウェイトのアナウンスから中継がホールに切り替わると、公開クイズ番組が始まる。
 今日はゲストにバルバラ・フリットリが出演しているとあって、会場も華やいだ雰囲気だ。彼女と、司会のケン・ベンスンが出すオペラのクイズに、パネラー3人が答える形式。僅か15分ほどの番組だが、パネラーも、客も、みんな実によくオペラのことを知っている。
 それにしてもMETは、本当にメディア展開が盛んである。

2・15(金)MET ワーグナー:「パルジファル」新演出プレミエ

   メトロポリタン・オペラ  6時

 前日夕方、ニューヨークに入る。雪は既になく、マンハッタンは快晴だ。

 「パルジファル」(パルシファル)は、今シーズンの新作の一つで、リヨン国立歌劇場およびカナダ・オペラとの共同制作。フランソワ・ジラールが演出(これがMETデビュー)しているのが最大の話題になっている。
 指揮がダニエレ・ガッティ、題名役パルジファルにヨナス・カウフマン、クンドリにカタリーナ・ダライマン、グルネマンツにルネ・パーペ、アムフォルタスにペーター・マッテイ、クリングゾルにエフゲニー・ニキーチン、ほか。

 映画「レッド・ヴァイオリン」などの監督でおなじみのジラールは、今回はワーグナーのト書きに基本的に沿いつつも、聖槍と聖杯の物語に仏教的な要素(聖杯守護騎士団の演技)を加味し、舞台美術担当のマイケル・レヴァインとの共同作業により、華麗にしてかつ陰翳の濃い、視覚的な変化に富むプロダクションを創り上げた――と言っていいだろう。特に仏教的な要素については、晩年のワーグナーがそれに大いなる興味を示しており、この「パルジファル」にも輪廻や涅槃といった仏教思想が取り込まれているという点からも、納得の行くアイディアである。

 第1幕は、不毛の砂漠といった光景。中央やや下手寄りを手前に下る細い溝に血が流れ落ちている。その溝を境に、上手側は常に光の当たる白服姿の聖杯騎士団のグループ、下手側は常に光の当たらぬ黒衣の者たちが立つダーク・サイド。
 前奏曲の最初の部分では紗幕の向こうに全員が並んでいて、やがてこのような2つのグループに分かれるので、もしや聖杯騎士団とクリングゾル側の異端者グループとに分かれるのかと思ったが――クリングゾルは、かつては聖杯守護の騎士に加わりたいと思っていたのだ――そういう区分でもないらしく、ダーク・サイドは女性ばかりの集団である。
 クンドリも、決して右側に足を踏み入れることはせず、騎士たちやパルジファルも左側へは行かぬ。

 聖杯の儀式が終わる頃、重傷のアムフォルタス王は、救いを求める眼差しでパルジファルを見つめる――これは以前ウィーンのミーリッツ演出などでも使われた手法だ。
 血の川は絶えず流れているが、第1幕の幕切れで、グルネマンツから見捨てられたパルジファルが「同情により智を得る汚れなき愚か者」と歌われる声につられてその溝を渡ろうかと試みる時、それは大きく幅を広げ、真っ赤な深淵となって、彼の行く手を遮る。

 第2幕は切り立った巨大な崖を背景に、無数の立ち並ぶ槍。その1本ずつに手前に背を向けたまま佇立しているのは、白服の、黒く長い髪の女たち。これが「花の乙女たち」になる。
 クリングゾルやパルジファルの動きには、ここでは特に目を引くものはない。クンドリはベッドの上でパルジファルを誘惑するが、そのベッドは血に塗れており、かつてアムフォルタス王がここで同じ目に逢ったことを暗示する。最後は女たち全員が槍をパルジファルに向け、クリングゾルの槍をパルジファルがゆっくりと奪い取る。すべての動作がゆっくりと進められる。

 第3幕は第1幕と同様の荒れ果てた砂漠、川も既に枯れ果て、かつて騎士団が座って円卓を為していた椅子も廃材同然の姿になっている パルジファルが救済の秘蹟を行なう頃、溝には再び水が流れ始めるが、今度は血ではなく、普通の水だ(といっても泥水にしか見えなかったが)。
 聖金曜日の音楽の終り頃から場面転換になるが、第1幕と同様に「場面の移動」はなく、背後のスクリーンに映写された雲や宇宙、あるいは抽象的なイメージの映像が刻々と変わって、これはすこぶる美しい。

 聖杯の間に当るべき次の場面は、第1幕後半の光景にほぼ同じ。アムフォルタスは聖杯開帳を拒み、父ティトゥレル王の墓穴に半ば入ったまま苦悩と絶望に沈む。
 そしてこの演出では、聖杯を運んで来て開帳する役目を担うのはクンドリである。彼女の持つ聖杯にパルジファルが槍を触れると、彼女はすべての迷妄から解放されたような様子で息を引き取り、グルネマンツとパルジファルが愛しげにそれを弔う。
 ダーク・サイドにいた女性グループも、今や騎士たちと交流し、慰めるような姿になる。ワーグナーの原作では、聖杯守護の世界は男たちだけで構成されるようになっているが、この矛盾点をジラールは冒頭から浮き彫りにしておき、最後に――ワーグナーの言うところの――「女性的なもの」による救済を織り込んで、それを解決しようとしたようにも見える。

 ガッティの指揮は、極めてテンポが遅く聞こえる。上演時間は、第1幕110分、第2幕75分、第3幕80分くらいか。不思議にもそれ自体は、私が彼の指揮で聴いた2009年のバイロイトでの演奏とほとんど変わらないのだ。あの時はテンポが遅いなどとは感じられなかったが、今夜はその極度に長いパウゼ、弱音部分での失速寸前の遅いテンポが、やたら気になった。
 おそらく今回は、テンポに緊張感が不足していたので、異常に遅く感じられたのだろう。しかも演奏の表情が些か単調なのが困る――たとえば第2幕で、クンドリがパルジファルを誘惑する場面と、そのあとパルジファルがすべてを知って人格が変わり、クンドリが怒りに燃える場面との間に、音楽のニュアンスの上でほとんど変化が感じられない、という具合なのである。

 オーケストラ・ピットは高めの位置に設定されているが、ガッティはこのオケをしばしば聞き取れないような最弱音で鳴らして行く。METの広大な空間には少し不向きでないかと思われるほどである。それに今日のオケは、特に最初のうち、METのオケには珍しいほどミスが多かった。

 だが歌手たちは、おのおの変貌して行く性格を立派に演じ、歌っていた。
 ガッティの意向なのか、特にカウフマンは、今回は異様なほどソット・ヴォーチェを多用しており、広いMETの空間には不向きな弱音で歌う個所も多々あったが、不安定な心理状態に揺れ動き続ける青年パルジファルといった性格を表現するのに成功していた。
 演技の点では動きも少なく、普通なら「何もやっていない」と評されるかもしれぬ舞台ではあったが、これは彼を「理想的なパルジファル」と称えるジラールの狙いだったのかもしれない。なにしろ彼の場合は、舞台姿からしてサマになっているのである。

 動きが抑制されていたのは、パーペもダライマンも同様である。パーぺはその声の質からしてやや軽いグルネマンツだったが、風格と温かさはよく出ていた。ダライマンも悪くはなかったけれど、この複雑怪奇な女の性格を表現するには、もう少し突っ込んだ微細な表情が欲しいところである。
 アムフォルタス役のマッテイは健闘。クリングゾルのニキーチンは、まず並の出来といったところで、自らの悪業の故に疎外された複雑な性格の悪役を表現するには、更に踏み込んだものが欲しい。

 ただ、これら舞台の動きを含む歌手の出来は、ジラールの指示に由ったものかもしれず、また前述のガッティとオケの問題にしても、初日ゆえの硬さから生じていることもあるだろう。上演回数を重ね、いずれライブビューイングで観るころには、もっとうまく行っているかもしれない。

 カーテンコールでは、やはりパーぺとカウフマンに最大のブラヴォーが飛んだ。ニキーチンにもある程度のブラヴォーは出たが、あの「バイロイトの刺青事件」から未だ半年ほどしか経っていない時期、ブーイングが出なかったのにはホッとした。
 ガッティも大変な人気のようで、大方はブラヴォー。ただしブーイングが1人いたか。ジラールら制作チームにはブーイングも少なからず出たが、METのお客さんは概して寛容なので、この程度で済んだと言えるかもしれぬ。

 演奏終了は午後11時40分、カーテンコール終了は11時50分。

2・12(火)METライブビューイング ドニゼッティ:「マリア・ストゥアルダ」

     東劇  7時

 今シーズンの上映第8作、去る1月19日上演のライヴ映像。
 マウリツィオ・ベニーニの指揮、デイヴィッド・マクヴィカーの新演出で、しかもこれはMET初演であるそうな。

 物語は、イングランド女王エリザベッタ(エリザベス1世)に処刑されたスコットランド女王マリア・ストゥアルダ(メアリー・ステュアート)をヒロインにしたもの。
 ちなみにエリザベッタは、同じくドニゼッティのオペラで描かれている王妃アンナ・ボレーナ(アン・ブーリン)と国王エンリーコ(ヘンリー)8世の娘にあたる。アンも夫ヘンリーにより断頭台に送られているのだから、英王朝も血腥い歴史の連続というわけだ。

 今回の上演でマリア・ストゥアルダを演じたのは、ジョイス・ディドナートである。第3幕など、1時間以上の長丁場をほとんど出ずっぱりで歌い続け、さながらワンマン・ショウの趣だ。女王としての誇りと、処刑されることへの恐怖とを交錯させての鬼気迫る演技と熱唱表現は、壮絶な迫力でさえある。このひとは本当に凄い歌手になったものだと舌を巻く。第2幕最後のエリザベッタ女王との応酬の場も、実に見事な緊迫感だ。

 そのエリザベッタ役のエルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーは悪役然とした怪女的な気持の悪いメーク(流布している肖像画のイメージをかなり誇張している)だが、如何せんキャリアが未だ若いせいか、存在感でも歌唱表現でも、ディドナートの迫力には敵わない感があり、これがドラマのバランスをやや失わせているのは惜しい。だが、彼女とて全力投球しているのは事実で、その熱演ぶりには拍手を贈ろう。

 出演は他に、レスター伯爵ロベルトをマシュー・ポレンザーニ、タルボ卿(タルボット)をマシュー・ローズ、セシル卿をジョシュア・ホプキンス、乳母アンナ(ハンナ)・ケネディをマリア・ジフチャックら。
 史実的でトラディショナルな衣装と象徴的な舞台美術とを結合させたジョン・マクファーレンの舞台づくりも雰囲気があっていい。

 進行役はデボラ・ヴォイト。ディドナートやデン・ヒーヴァーとのやり取りは実に陽気でユーモアがあって、しかも含蓄に富んだ話がたくさん出て来て、楽しい。総裁ゲルブによるマクヴィカーやマクファーレンへのインタビューはシリアスだが、ここでも参考になる話が数多くある。「あっちの人」たちは話が巧くて、よく勉強していて、偉いですね。
 この休憩時間の「特典映像」は私の楽しみの一つだ。

 今週金曜日には、現地で「パルジファル」のプレミエを、また土曜日には「1960年代のラスヴェガスを舞台に」した新演出「リゴレット」を観る予定だが・・・・。

2・11(月)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団 定期

   サントリーホール  2時

 マーラーの「亡き子をしのぶ歌」(ソリスト:ナタリー・シュトゥッツマン)に続き、フォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」、ドビュッシーの交響詩「海」が演奏された。

 「亡き子」は最近しばしば聴く機会があるが、フォーレの「ペレアス」をナマで聴ける機会は滅多にない。私はこの曲が好きでたまらないので、これは至福のひとときというべきものだったが、ただスダーンが指揮すると、あまりに精緻で隙のない構築性が前面に立ち現われるので、何というか、優しい夢幻的な雰囲気がもっと欲しいなと思えて来る。
 だがそうは言っても、これもまたフォーレの作品へのアプローチの一つには違いなく、スダーンが感じる「ペレアス」なのであり、この曲が持つ美しさは少しも損なわれていない。昔の個人的な思い出などにも浸りながら、私なりに愉しませてもらった。

 最後の交響詩「海」でも、スダーンの堅固な楽曲構築力は見事な効果を生んでいた。
 アンコールにはワーグナーをやる――と休憩時間に事務局から聞いて、まさか、と訝っていたのだが、演奏されたのは「ヴェーゼンドンクの5つの歌」の最後の曲「夢」だった。コンマスのグレブ・ニキティンが声楽パートを弾き、管弦楽が「トリスタン」の響きを静かに明晰に、美しく醸し出す。これは絶品であった。
 選曲はスダーン自身だというが、これはフォーレやドビュッシーのサウンドと完璧に調和して、しかも冒頭の「亡き子」の音楽とも呼応する結果となり、卓抜なアイディアだったと思う。

 東京響は、先日の新国立劇場での演奏とは大違い、いつものステージでの快演を取り戻していた。木管やホルンのソロも良い。これがスダーン=東京響の普通の姿だ。
 聞くところによると、あの「タンホイザー」の時は、新国からオケのリハーサルがたった2日しかもらえず、あとは「歌合わせ」とゲネプロが1日ずつだったとか。こんなスケジュールでは、いい演奏は無理だろう。それだけが理由だったかどうかはともかくとしても。

2・10(日)ヤニック・ネゼ=セガン指揮ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団

    サントリーホール  2時

 東京芸術劇場でやっているサロネンの「春の祭典」ももちろん聴きたかったが、とりあえず今日はネゼ=セガンのラフマニノフの「第2交響曲」を聴きに行く。どちらも開演が同時刻――せめて片方が夜の開演時間になっていてくれれば、両方聴けるものを。

 但し今日は、ネゼ=セガンが体調不良で(腹をこわしたとか?)、前半のベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」は指揮者なしで、コンサートミストレスのマリエケ・ブランケスティンのリードにより演奏された。
 ソリストは、弱冠17歳のヤン・リシエツキ。音楽としては未だ完成途上だが、ストレートで真摯な演奏で、瑞々しい表情なのが好感を呼ぶ。オケとはアイ・コンタクトを交わしつつ進めていた(第3楽章の最初だけはちょっと危なかったが)。

 しかしオケの方も、今日の公演までに既に日本で3回も演奏を重ねていたのだから、基本は完全に出来上がっていたはずだ。たとえば第1楽章第22小節のフォルテと指定された3つの8分音符を、僅かにテンポを抑えつつ強調する方法など、明らかに指揮者によって既に決められていた演奏だということをうかがわせる。
 リシエツキのアンコールは、ショパンの「別れの曲」。

 後半のラフマニノフの「第2交響曲」では、約束どおり(?)ネゼ=セガンが、気のせいか、やや控え目な動作で指揮台に登った。
 だが、いざ演奏が始まれば、冒頭の哀愁に富む和音に籠められた色彩からして、何と濃厚で、しかも豊かな表情にあふれていたことか。

 そして、まさに圧巻としか言いようがない演奏だったのは、第3楽章のアダージョだ。ネゼ=セガンが創り出す音楽の、ふくよかで官能的な音色、フレーズごとに籠められた大きな息づきとカンタービレの見事さ。
 こういう言い方は照れ臭くて私はこれまで使ったことはないのだが、音楽が甘く切なく、吐息をもらし、無限の感情を籠めてすすり泣く――という表現がこれほどぴったり来る演奏を、私はかつて聴いたことがない。この楽章での演奏一つだけでも、ネゼ=セガンという指揮者がタダモノではないことが証明されているだろう。
 第3楽章が終ると、数人の聴衆から拍手が起こったが、手を叩いた人々の気持は解る。

 第4楽章の最後はさほど煽るテンポを採らず、確固とした造型を保って結んだ。このように過度な熱狂に陥らぬスタイルもまた、ネゼ=セガンの芸風の特徴の一つだろう。

 ネゼ=セガンは、楽章の合間ごとにペットボトルを手に取り、水分を補給しながら指揮。この奮戦ぶりに、全曲が終ったあとには、楽員たちも足を踏み鳴らしながらの大拍手。
 しかしこれは本当に、サロネンの「ハルサイ」を聴きに行った知人たちにも聴いてほしかったですね。繰り返すが、公演時間さえずれていれば・・・・。
 アンコールは、同じラフマニノフの「ヴォカリーズ」。これも名調子。

2・9(土)国際音楽祭NIPPON 諏訪内晶子とサロネン指揮フィルハーモニア管

     横浜みなとみらいホール  6時

 これは諏訪内晶子が芸術監督として開始した「国際音楽祭NIPPON」の第2日にあたる演奏会。したがってサロネンとフィルハーモニア管は、ここではゲスト・オーケストラともいうべき立場だ。
 ホスト役の諏訪内は、シベリウスとサロネンのヴァイオリン協奏曲を弾く。後者は今回が日本初演である。他にはベートーヴェンの「シュテファン王」序曲と、シベリウスの「ポヒョラの娘」。アンコール曲は、今夜はなし。

 サロネン自作の協奏曲は、2009年に完成されたものだ。タムタムを含む打物陣も賑やかな大編成の管弦楽パートは、激しく沸き立つ鼓動と幻想的な沈潜とが交錯し、すこぶる多彩な面白さを持っている。ヴァイオリンのソロもこれに呼応して凄まじい躍動を繰り返すが、その荒々しさには銘器ドルフィンも危機一髪か――とハラハラさせられたほど。

 この曲、単に超絶技巧でエネルギッシュに弾かれた場合には、非常に鋭角的でメカニックで金属構築物のようなイメージに陥りかねないが、不思議なことに、諏訪内晶子が演奏すると、何か大人の女性的な優しさとか温かみといった雰囲気が生れて来る。これはこれで興味深い。曲のさなか、ある「事故」(というより、これはちょっと複雑である。諏訪内さんも気をつかったものだ)のために演奏が一時中断し、指揮者とソリストが一緒に一旦袖に引込むという出来事があったが、周囲が騒ぐほどの問題ではない。

 シベリウスの作品2曲は、さすが同郷人のサロネン――と言いたかったが、奔流のようなエネルギーはあったものの、予想外にラフな演奏で、これは私の好みとは少し違う。どうも今回のサロネン、前にロス・フィルと来た時のような味に欠ける。緻密さにも不足する。
 協奏曲での諏訪内の演奏も、なぜか最近の彼女の冴えが感じられないようなものがあって、もう少し何とかなるはずだがな――と首をひねりつつ聴いていた。サロネンとのテンポ解釈の違いなどといったものでもあったのかしらん?

 冒頭の「シュテファン王」序曲は、これは、昨夜より、今日の方がずっと躍動感が豊かだったように思えた。ベートーヴェンの序曲には、「エグモント」や「レオノーレ」だけでなく、他にもこういう面白い曲がたくさんある。もっといろいろ演奏されてもいいだろう。

 このホールの、開演を知らせる「イチベル」が銅鑼であることは周知の通り。今日のフィルハーモニア管のメンバーはこの音は初めてだったのか、その時ステージにいた数人の奏者たちはびっくりしてキョロキョロ。中には、舞台後方に配置されていたタムタムを誰かが叩いているのではないかと振り返っていた木管奏者もいて、笑いを誘った。

2・8(金)エサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団

   サントリーホール  7時

 東京公演2日目は、ベートーヴェンの「シュテファン王」序曲に始まり、昨夜と同じアンスネスとの「ピアノ協奏曲第4番」が続き、後半はマーラーの第1交響曲「巨人」。
 なお、アンスネスのソロ・アンコール曲は昨夜と同じベートーヴェンの「ソナタ第22番Op.54」のアレグレット。オケのアンコールも昨夜と同じ「悲しきワルツ」。

 ベートーヴェンの2曲の作品では、ナチュラル・トランペットが使用されていた。協奏曲の演奏では極めて柔らかい音色が支配的だったため、昨夜はあまり意識しなかったのだが、今夜の「シュテファン王」序曲を聴くと、このトランペットの音色が如何にオーケストラに新鮮な色彩を与えていることか――改めて愉しく聴いた次第だ。

 「巨人」では予想された如く、各パートが明晰な動きを保ちつつ、何度も巨大な音塊に結集して行く。その中では、最弱音の美しさが特に心を打った。サロネンは、最弱音を実に巧く使う。
 それゆえ最も面白かったのが第3楽章。サロネンの創り出す弱音の、冷徹なほどに明晰でありながら神秘的な美しさを湛え、しかも刻々と変化して行く色彩の妙により、暗い幻想的な世界の中をゆっくり進んで行くような感覚に引き込まれる。

2・7(木)エサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 ご贔屓の指揮者、サロネンの来日。
 今日はルトスワフスキの「交響曲第4番」、レイフ・オヴェ・アンスネスをソリストにベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」、最後に同「交響曲第7番」というプログラム。

 ルトスワフスキの「4番」をナマで、しかもサロネンの指揮で聴けたことは、大いなる喜びだ。
 彼がロサンゼルス・フィルを振ったCD(ソニークラシカル)はもちろん聴いているけれど、実際のステージで聴くと、ルトスワフスキ特有のあの音が、いっそうミステリアスで精緻で透明な響きとなり、しかも空間的な拡がりを伴って生々しく湧き上がって来るのが感じられる。これはまさしく陶酔的な世界だ。たとえこれ1曲しか聴けなかったとしても、満足してホールをあとにすることができただろう。
 途中、あるパウゼの際に聞こえた、奏者が何かを落したような変な音さえ、何となくサマになっていたくらいだ。

 贅沢なことに、アンスネスの弾くベートーヴェンが、更なる喜びをもたらす。第1楽章で控え目に弾き出されたピアノが、楽章の中ほどから急激に激しさを増し、第333小節からのトリルを各小節の頭に強烈なアクセントをつけながら追い込んで行くあたり、恰もアンスネスが突然帝王と化したかのよう。
 そしてなだれ込んだカデンツァでは、テンポを変幻自在に動かしつつ、それでなくても多彩なベートーヴェンのカデンツァをいっそう細部に精妙な工夫を凝らして進めて行く。圧倒的な存在感である。弱音は軽やかで透明だが、強音にはピリリと張りつめた集中力がある。アンスネスも凄くなったものだ、とつくづく感心させられる。

 最後は「7番」。もちろん、悪くはない――などと言っては語弊があるかもしれないが、いや、たしかに第4楽章など、最初の一撃のあとに長めのパウゼを入れて、それから天馬空を行くがごとき勢いで飛ばすあたり、すこぶるスポーツ的な快感だ。あの熱狂的なコーダで更に一押し、力感を加える大技もお見事。
 アンコールはシベリウスの「悲しきワルツ」。あのパーヴォのよりもドラマティックな演奏だったが・・・・シベリウスの作品には他にも山ほどアンコールに使える曲があるでしょうに、なんでみんないつもこの曲ばかり。

2・4(月)ロナルド・ハーウッド作「テイキングサイド」

   天王洲 銀河劇場  2時

 「テイキングサイド」というタイトルだけじゃ、演劇通の人ならともかく、私には何だか解りにくい。フルトヴェングラーを主人公にした芝居が上演されるというニュースは新聞で読んだ気もするが、うっかりしていて、これがタイトルだということを忘れていた。知人の女性から教えてもらって、一緒に観に行く。
 芝居が始まる前に、場内にフルトヴェングラー指揮の「運命」第4楽章が流れはじめた。レコードだからいいだろうと思って、クラシックには詳しくないその女性にフルトヴェングラーについて説明したり、質問に答えたりしていたら、前列に座っていた初老の男性から「うるさいッ」と怒られた。

 この芝居は1995年ロンドンで初演されたもの。今回の演出は、映画「世界の中心で、愛をさけぶ」「北の零年」「今度は愛妻家」「パレード」などの監督で有名な行定勲である。コンパクトに凝縮された、息がつまるほどの緊張感に富む、なかなか見応えのある舞台だった。

 ドラマは、巨匠フルトヴェングラー(平幹二朗)と、彼を徹底的に尋問し追いつめる米軍少佐アーノルド(筧利夫)の対決を描き、音楽と政治の関わり合いについての諸問題を浮彫りにする。但し物語は、公開の裁判の場ではなく、終始アーノルド少佐の部屋で進められる。
 この2人に、フルトヴェングラーの無罪を証明したいと願う女性タマーラ・ザックス(小島聖)と、保身のために曖昧な供述をするベルリン・フィル第2ヴァイオリン奏者ヘルムート・ローデ(小林隆)が絡む。

 そして、何が何でも巨匠をナチス協力者と結論づけたいがために詭弁的な尋問を繰り返す少佐の異常さに、部下デイヴィッド・ウィルズ中尉(鈴木亮平)も、少佐の秘書エンミ・シュトラウベ(福田沙紀)も、ついに少佐への反発を隠さなくなる・・・・。
 こういう出来事が現実にあったかどうかは別として、台詞で語られる事柄には、大体フルトヴェングラー関係の書物に出て来る歴史的事実が多い。その意味ではハーウッドもよく調べて劇を作っているとみていいだろう。

 全篇出ずっぱりで機関銃のように横柄で嫌味な台詞を繰り出す筧利夫の迫力が凄まじい。名曲探偵とは比較にならぬ凄味だから、ぜひご覧あれ。
 気弱な奏者を演じる小林隆もいい味を出している。
 平幹二朗はフルトヴェングラーというより朝比奈隆といった雰囲気だが、その重量感あふれる存在感は独特のものだ。役柄上、やや筧に押され気味に見えるのは仕方のないところか。だが、苦悩の表情と、最後に若者たちから「あなたのコンサートを聴いたことが私の心を変えた」と讃辞を贈られた時に見せる慈父のような微笑との対比をこれほど感動的に演じ分けられるのは、やはり平ならではだろう。

 劇中には、フルトヴェングラーが指揮したSPレコードを秘書らが蓄音機にかける場面がいくつかあるが、ブルックナーの「7番」第2楽章はともかく、ベートーヴェンの「運命」(明らかに40年代のライヴ)や「8番」「第9」は、未だこの時期にはそのレコードは存在しなかったはず。でもまあ、ドラマですから・・・・。

 この「天王洲 銀河劇場」は、客席750弱。観劇には悪くない劇場だ。
 上演には豪華船による東京湾クルージングの関連特別企画がついているそうだが、キャッチコピーに「フルトヴェングラーの調べとともに東京湾クルージング・・・・」とあったのには爆笑させられた。
 宣伝するわけではないが、この芝居、11日までこの劇場で公演され、そのあと2月末までの間に名古屋、浜松、大阪、広島で順に上演される、とある。

2・3(日)三枝成彰:オペラ「KAMIKAZE-神風ー」

   東京文化会館大ホール  2時

 福島敏朗の脚本による三枝成彰の最新作オペラ、初演3日目。
 三枝健起の演出、大友直人指揮新日本フィルの演奏。配役は、特攻隊員・神崎光司少尉をジョン・健・ヌッツォ、その許婚・土田知子を小川里美、特攻隊員・木村寛少尉を大山大輔、その妻・愛子を小林沙羅、冨屋の女将・富田トメを坂本朱、ほか。合唱は六本木男声合唱団倶楽部。

 音楽は、三枝成彰らしくトラディショナルかつ平明なもので、大編成の管弦楽が分厚く壮麗な響きを創り出す。だがこのオケは、ソリストのナマの声をしばしば覆い隠す。それは単に音量のせいというよりは、楽器編成のバランスの問題ゆえではないかと思われる。
 しかもテノールやソプラノのソロ・パートは、異常なほどに高音域を多用するので、特にソプラノは金切り声状態になることが多く、聞き苦しいこと夥しい。第2幕での神崎と知子の二重唱など、ソプラノの不必要なほどの高音域のため、折角の美しいオーケストラの音楽も台無しだ。

 小林沙羅も歌詞がさっぱり聞き取れなかったが、それは歌い方に問題があるのはたしかとしても、あの高い音域で歌い続けるのでは、そもそも無理だろう。感情が昂揚していることの表現だからとか、字幕があるから解るだろうとかで片づけられる問題ではない。オペラのテーマそのものはたいへん崇高で感動的なものだが、それならオペラの音楽として声楽をもっと明確に聞かせる手法を講じてもらいたいものである。

 ところで、ジョン・健・ヌッツォのカムバックは目出度いことだ。彼のパートにも少なからず異様な高音域の個所があるが、どうやら声をセーヴして歌っていたようにも思われた。

 ロビーは、花で埋まっていた。これも三枝成彰のイベントならではの賑わいだろう。分厚いプログラムは、特攻関係の資料が満載で、さながら「特攻隊事典」の趣き。読んでいると胸が痛むが、歴史的にも貴重な資料になる。上演時間は、20分の休憩2回を含め、およそ3時間。

2・2(土)水野修孝:オペラ「天守物語」

   新国立劇場中劇場  5時

 日本オペラ振興会制作、日本オペラ協会公演。
 山下一史の指揮、岩田達宗の演出、増田寿子の舞台美術、平田悦子の衣装。
 今日はAキャストで、主演富姫を腰越満美、亀姫を佐藤美枝子、姫川図書之助を中鉢聡、近江之丞桃六を大賀寛、といった主演陣。

 1979年に舞台初演されたこの「天守物語」、それ以降数度の上演を重ねている人気作だが、私はそのうち99年に新国立劇場で上演された栗山昌良演出の舞台しか観ていない。あの時の演出は、泉鏡花の怪奇で耽美的な世界を巧く舞台に創り上げたものとして印象に残っているが、今回の岩田達宗演出は、それに比べるとややポップな、寛いだ雰囲気を感じさせる。女の怨念を呑み込んだ獅子頭にしても、栗山版では何か不気味さを醸し出していたのに対し、こちら岩田版では、少し愛嬌があって可愛らしさを感じさせるのは、照明(大島祐夫)の使い方のためもあるだろうか? 

 それぞれの良さがあるのはもちろんだが、今回の演出について若干の物足りなさがあるとすれば、このドラマの特徴たる論理的な飛躍を、もう少し解りやすく説明できる方法を講じて欲しかったこと、城の5層(天守)がそもそも魔界であることを示す不気味さがもっと欲しかったこと、などだろうか。
 姫路城主と富姫の関係や、富姫の言う「虫が来た」の意味など、もともと解説を読まなければ解りにくいところだが、そのあたりを巧く演出して欲しかったな、ということなのである。

 山下一史の指揮するフィルハーモニア東京というオーケストラは、なかなかしっかりした演奏をしていた。もっともこのオペラは、歌手が無伴奏で歌うところがおそろしく多いから、オケが雄弁にドラマを語る場面はあまり多くない。
 その歌手たち、みんな実にいい歌唱を聴かせてくれた。歌唱パートでは日本語の抑揚やテンポが適切に構築されているので、聴きやすいということもあるだろう(字幕付。これもありがたい)。大賀寛のナレーションも、相変わらずの貫禄である。

 歌手の演技も衣装も、さすが日本人が日本人を演じる強みで、どれを取ってもサマになる。特に富姫役の腰越満美の存在感はずば抜けて圧倒的であり、和服姿の美しさ、気品の高さ、立居振舞の見事さなど、まさに日本女性の鑑(?)ともいうべきものだろう。昨年の「白虎」での西郷頼母夫人役も完璧だったし、こうなると新国立劇場6月公演の「夜叉ヶ池」(これも泉鏡花原作、岩田達宗演出だ)の白雪役も楽しみになる。

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