2017-02

1・31(木)ヤニック・ネゼ=セガン指揮ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団

   サントリーホール  7時

 シューマンの「ゲノフェーファ」序曲、プロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」(ソリストは庄司紗矢香)、ブラームスの「交響曲第4番」というプログラム。

 ネゼ=セガン(ネジェ=セギャン?)は、キリル・ペトレンコやトゥガン・ソヒエフ、アンドリス・ネルソンス、ヤクブ・フルシャらとともに、私の御贔屓ライジングスター指揮者の一人だ。

 ロッテルダム・フィルの音楽監督に就任して4年半。既に彼の個性がこのオケに明確に刻印されているのが感じられる。それは、かつて首席指揮者として来日したデ・ワールトの端整な清澄さとも、ゲルギエフの豪壮な力感とも全く異なる、室内管弦楽団的な方向に引き締められた、瑞々しい弾力性を備えた響きである。
 しかもそれは、CDで聴くよりもずっと柔らかくて、ふくよかな拡がりをもった音なのだ(こういう音は、録音で忠実に捉えるのは難しいだろう)。

 最初の「ゲノフェーファ」序曲での、引き締まった響きの裡にシューマンらしく陰翳の豊かな叙情を溢れさせた演奏は、まさに見事そのものである。この指揮者はいい感性を持っているな、と陶然とさせられてしまう。
 プロコフィエフの第2楽章以降でのほの暗い音色、ブラームスの前半2楽章におけるしっとりした響きなども、同様だ。

 意外だったのは、ブラームスの交響曲において12・12・9・9・8という弦の編成(対向配置、コンバスは舞台正面奥に並ぶ)が採られていたこと。この第1ヴァイオリンの数の少なさ――もちろんよく聞こえはしたものの――と、それに比べての低弦の数の多さが、弦全体の音色をややくぐもった翳りの濃いものにし、響きを重厚にしていた原因なのかもしれない。
 だが、ネゼ=セガンは、協奏曲第2楽章での管弦楽パートを千変万化の音色で雄弁に語らせ、作品の性格によっては極めて多彩華麗なオーケストラ・サウンドを創れる指揮者であることをも実証していたのだった。

 それに何よりこの人は、演奏での「もって行き方」が巧い。「ゲノフェーファ」におけるテンポの動かし方、加速、クライマックスへ追い込んで行くストリンジェンド(次第に急迫して)の呼吸など素晴らしかったし、すべての曲での最後の「決め」のつくりの鮮やかさなど、さすがオペラの指揮でも定評のある力量である。アンコールはブラームスの「セレナード」の第6楽章。これも渋い活気だ。

 ソリストの庄司紗矢香も、いつもながらの魅力的な演奏だった。きらきらとする音色でのびやかに歌いながらも、張りつめた叙情美と緊迫度と造型感を些かも失うことなく、全曲を完璧にバランスよく構築するあたり、舌を巻く他はない。先頃のカシオーリとのベートーヴェンでは、常に似合わず何か持って回ったような演奏をしていたので気になったが、今夜はまたいつもの素晴らしい庄司紗矢香に戻っていた。
 ソロ・アンコールはバッハの「無伴奏ソナタ第1番」からの「アダージョ」。これも心豊かで美しい。オケの演奏会でソリストが長いアンコールをやるのは、私はどうも気に入らないのだが、こういう演奏なら全く文句はない。それどころか、いっそここで全曲聴きたくなったほどである。

     ⇒音楽の友3月号 演奏会評

1・30(水)鈴村真貴子ピアノリサイタル「プーランクへのオマージュ」

   王子ホール(銀座)  7時

 パリ・エコール・ノルマル音楽院のコンサーティストディプロムを取得、東京藝大大学院で「フランシス・プーランクのピアノ作品演奏法」に関する研究論文と演奏により博士号を取得している鈴村真貴子が、得意のプーランク・プログラムで、しかもプーランクの50年目の命日にリサイタルを開いた。

 プログラムは「3つの常動曲」「15の即興曲」「冗談(バディナージェ)」「メランコリー」「ナゼルの夜会」、アンコールに「ノヴェレッテ」(の何番だったか? 申し訳ない)と「プレスト」。
 プーランクの作品は好きだし、彼のピアノ曲をまとめてナマで聴ける機会は滅多にないので、このコンサートは楽しみにしていた。鈴村さんの演奏を聴くのもこれが初めてである。

 最初の「常動曲」を聴いた瞬間、随分思い切りのいいプーランクを弾く人だと感じた。音の粒立ちと隈取りの明晰な、推進性に満ち溢れた演奏で、直裁なプーランク像を浮かび上がらせる。彼女のふだんの歯切れのいい、明快な話しぶりをそのまま反映したような感のある演奏だ。これが彼女の感性によるプーランクなのであろう。
 この作曲家の音楽に在る洒落っ気などといった要素も殊更に強調されることはなかったが、これはむしろ賢明な方法ではなかろうか(以前、これを芝居気たっぷりに無理矢理やってみせた日本人ピアニストがいたが、どだいフランス人と日本人とでは感性が違う)。

 私の好みから言えば、プーランクの音楽のあの機智横溢の転調の個所に、より多くの色彩感の変化といったものをもっと聴きたかったところはあるが、これは解釈の問題だろう。
 ただ、この王子ホールは残響がほとんどない会場なので、そのぶんピアノがかなり乾いた音に聞こえるのは事実であり、よく響くホールでこの演奏を聴いたら、さらに馥郁たる音色がつくり出されていたかもしれない。

 「即興曲集」の第12番「シューベルトを讃えて」での溌剌たる演奏をきっかけに雰囲気はいっそう盛り上がり、特に第15曲の「エディット・ピアフに捧ぐ」でのシャンソン風の曲想では、形容しがたいような官能的な甘さが伝わって来た。また「メランコリー」のような、シリアスで起伏の大きな楽想の作品になると、鈴村さんは極めて豊かなスケール感を響かせる。
 そのほかの曲でも、盛り上げておいて、最後をフッとしんみりさせて終って行くあたりの呼吸が、この人は実に巧い。

※アンコールでの「ノヴェレッテ」は「第1番」でした。

1・28(月)METライブビューイング ベルリオーズ「トロイアの人々」

     東劇  5時

 オペラを4時間半観るのは商売上慣れているが、映画を5時間観るのは、眼が疲れてどうにも不可ない。――まあ歌劇場と違って映画館は椅子がいいし、オペラを観ながらポップコーンを食べたりペットボトルのお茶を飲んだりできるという利点はあるけれど・・・・。

 このフランチェスカ・ザンベロ演出によるMETの「トロイ人」(昔ながらの表記を使わせてもらう。第2部の副題「カルタゴのトロイ人」を呼ぶにはこの方がいい)は、2003年のプレミエ時に現地で観た(3月20日)。当時のNYタイムズに「メガ・ヒット」とか書かれ、絶賛されたプロダクションである。

 その時の舞台のことは断片的にしか覚えていない。日記にもあまり詳しく書いていなかったところをみると、ちょうどその前夜(「オテロ」を観ていた時だ)に対イラク開戦が行なわれ、このオペラ上演の日にはマンハッタン一帯がテロ警戒で異様な緊迫感に包まれていたため、気分が落ちつかなかったせいかもしれない。
 今回は原典版どおりバレエが折り込まれていた「王の狩と嵐」の場面は、前回は幕を下ろしたまま「間奏曲」として扱われていたのではなかったか、と思ったりしたが、――記憶がおぼろげだから、これはアテにはならない。

 とにかくこれは、METの旧プロダクション(メラーノ演出)に勝るとも劣らない大規模な舞台で、今どきこんな大掛かりな舞台装置と大勢の群集を駆使できる歌劇場は、METくらいしかないだろう。まさに「グランドオペラ」の真髄を再現した舞台と言っていい。
 それに見事なのは、映像の作り方だ。欧米の映像制作の素晴らしいところは、舞台を、舞台以上の熱気を以って観客に伝えるという術に長けていることである。今回も大群衆のひしめくステージの光景が、音楽の動きと一致させたカメラワークで、極めて迫力充分に捉えられている。

 指揮はファビオ・ルイジ(またですか)、この作品を指揮したのは初めてだとか言っていたが、まず無難なところだろう。
 カサンドラを歌い演じたデボラ・ヴォイトは、御本人はインタビューで自画自賛していたけれど、歌はともかく、どうもこの人の表情は、国家の滅亡を予告する女預言者というには愛嬌がありすぎて・・・・。
 むしろディド役のスーザン・グラハムが、おっとりした女王から恋に狂乱する女に変わるあたりを結構よく表現している。「ベルリオーズ歌い」(?)としての個性も確立されたようで、この人は歌唱の点でも演技の点でも、フランス・オペラらしい「中庸を得た表現」が売り物だろう。

 英雄アエーネアス役は、当初予定のマルチェロ・ジョルダーノに代わって今回はブライアン・イーメルという33歳のテナーが抜擢されていたが、これがなかなか力のある声で押し出しもよく、成功していた(綴りは Bryan Hymel。アメリカ人なのでヒーメルではないかと思ったが、御本人の意向は「イーメル」なのだとか。NYタイムズの記事でも「EE-Mel」と発音する旨紹介されている)。
 他に、カルタゴの大臣ナルバルにクァンチュル・ユンが出ていたのが興味を惹いた。
 しかし、やはり圧倒的なのはMETの合唱団だ。監督がレイモンド・ヒューズから現在のドナルド・パルンボに変わって以降、特に女声の音色が良くなったような気がする(以前はソプラノのヴィブラートが異様に強すぎた)。

 これは、今年1月5日上演のライヴ。終映は10時15分頃。METお家芸のノーカット演奏だから、長い。
 だが面白い。第一、曲が好い。少し冗長な部分もあるが、「トロイ人の行進曲」をはじめ、トロイの女たちの自決の場、アエーネアス軍とカルタゴ軍の同盟出陣の場、「王の狩と嵐」、愛の二重唱、2人の兵士の対話の個所など、いい音楽がたくさんある。

1・26(土)レイフ・セゲルスタム指揮読売日本交響楽団芸劇マチネー

    東京芸術劇場コンサートホール  2時

 セゲルスタム自作の交響曲第252番「ヒッグス粒子に乗って惑星ケプラー22bへ」という20分ほどの作品が、あまり期待していなかった割には、面白かった――というよりむしろ、可笑しかった。

 ちょっとSF的なイメージもあり、終始大音響の炸裂で、ハンマーも舞台が壊れるんじゃないかとばかり何発も叩きつけられるという曲だ。交響曲の数ではハイドンを遥かに超え、ハンマーの数ではマーラーを遥かに凌ぐ、というわけか。
 作曲者は舞台の下手側隅でピアノを弾いており、指揮台の上には誰もいなかったが、オケはこの複雑な曲を各セクションとも揃って整然と演奏していた。どんなカラクリが?と事務局に訊いたら、各奏者の譜面台に置かれたスコアの下にパート譜が貼り付けてあり、ページごとに何秒間か演奏、各パートの首席が入りや終りを合図しあって進める・・・・とか何とか、そんな説明だった。

 こういう曲が交響曲といえるのかどうかはともかく、よくまあ書きも書いたり二百数十曲の交響曲。粗製ではなかろうが、乱造の類かも? いや失礼。

 その前の1曲目は、R・シュトラウスの「死と変容(浄化)」だった。セゲルスタムは極めて遅いテンポで開始、最後は全管弦楽の轟然たる大音響の頂点を経て結ぶ。読響の金管群も、いざ吹くとなると、随分思い切り吹くものである。この馬力は凄い。

 プログラム最後のシベリウスの「第2交響曲」でも同様、第4楽章のクライマックスでは、まさに耳を聾するばかり、壮烈な響きの高まりを聴かせた。
 ちょっとラフ・ファイター的なシベリウスというか。ロシア人指揮者ロジェストヴェンスキーが振ったシベリウスに似ている。
 フィンランドの指揮者で、この作曲家の音楽をこれだけ激烈に描き出す人は珍しいほうではなかろうか。フィンランド人の母を持ち、シベリウスを得意とした故・渡邉暁雄氏が、かつてこう語っていた――「フィンランドの人って大体おとなしいんですよ。だからシベリウスを決して荒っぽくはやらないんです」。

1・25(金)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団定期

   サントリーホール  7時

 日本フィルは東京定期公演を2日連続で行なうのを常としているが、私がこれまで長年聴いて来た印象や、大方の評判からすると、初日は「勢いで」熱演、2日目は「まとまりを見せて」熱演、という傾向がどうやらあるようで・・・・。

 今日は初日である。ラフマニノフの交響曲ツィクルスの一環として、「交響曲第3番」が演奏された。
 大爆発と胎動が繰り返されるこの交響曲を、ラザレフ将軍はいつものように獅子奮迅の指揮で豪快に構築、日本フィルもそれに応じて、いつものようにエネルギッシュに咆哮する。ラザレフの手にかかれば、この曲を書いた頃のラフマニノフが決して晩年の枯れた境地に入りかけた作曲家ではなく、依然としてラディカルな、アグレッシヴな気魄の持ち主として描かれるようだ。
 演奏には例の如く少々ラフなところもあり、第1楽章前半ではノリも今一つ、という印象もあったが、これらはもちろん、2日目の演奏では解決されると思われる類のものである。

 プログラムの前半では、同じラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」が、上海生まれの若手ハオチェン・チャン(22歳)をソリストに迎えて演奏された。
 しかし今夜の協演では、轟然と煽り立てるラザレフのテンポに対し、僕はもっと遅いテンポで弾きたいんだけどな――というチャンの意図が、最後までかみ合わないままに進んでしまったように感じられてならない。真相はどうあれ、少なくともそう聞こえたのである。もしそうでなければ、チャンが一呼吸ずらせたルバートで巧みに協演して行った、という解釈にでもなるか。
 いずれにせよ、これだけソロとオケとがチグハグに聞こえた協奏曲の演奏は珍しい。これが2日目の公演ではどうなったか、ちょっと興味をそそられるところである。

1・23(水)新国立劇場 ワーグナー「タンホイザー」初日

    新国立劇場オペラパレス  5時30分

 2007年10月にプレミエされたハンス=ペーター・レーマン演出によるプロダクションの再演。今回はコンスタンティン・トリンクスが指揮、東京交響楽団がピットに入った。

 何とももどかしい限りだが、今回も、オーケストラの音は、ひどくか細い。弦の音は紙の如く薄い。第3幕序奏や「エリーザベトの祈り」の個所での管楽器群の自信なげな吹きぶりは、一体どうしたことだろう。ステージでの東響からは考えられないような演奏である。
 最強奏で盛り上がる個所では、ある程度それなりの音を聞かせるが、弱音の個所になると、なさけないほど貧弱な音楽になる。
 しかもトリンクスの指揮が――いつものことだが――ダイナミックな個所ではなかなか壮大な音楽をつくるものの、テンポの遅い弱音個所では必ずといっていいほど緊張感を失う傾向があるので、第3幕などでは、その両者の弱点が、モロに露呈してしまう。

 これでは、とてもワーグナーのオーケストラにはならない。
 それに、いつも疑問に思うのだが、この劇場のオケ・ピットは「下げすぎ」なのではないのだろうか? オペラでのオーケストラは、単なる「伴奏」ではなく、歌と対等の位置でドラマを物語る役割を担っているのだから、劇場関係者もオケの音を日常的に改善して行くよう、早く対策を考えてもらいたいものだ。

 こういう音になるのは、オケ・ピットの音響特性のせいでなければ、指揮者のせいか、オケのせいか。かつてアルミンクと新日本フィルがここで「フィレンツェの悲劇」を演奏した時の、豊麗で沸き立つように美しかった弦の音色を思い出す。メルクルとN響が演奏した「指環」の重厚なサウンドをも思い出す。東響も東フィルも、いい音を出したことがある。となると、やはり指揮者のせい――ということになるのか?
 とにかく、「新国のオケの音」は難題である。新芸術監督、飯守泰次郎さんに、その解決をお願いしたい。
 今夜のトリンクスも、先月のベルリン・ドイツオペラでの指揮と共通したところもあり、別人のようなところもあり。彼の場合は多分、自ら音を巧くつくっているオケ相手でないと、力が出せない――まだそういう段階なのだろう。
 
 「歌」の方だが、――タンホイザーのスティー・アナセンは、ヘルデン・テナーの性格は充分あるものの、グラグラした歌い方で、題名役として音楽を引き締める存在感に不足するのが気になる。風邪だったという話も聞いた。
 彼の演技に関しては、なんせレーマンの演出が基本的に明快さを欠いているために、個々の分析はあまり出来ないけれど、第2幕冒頭でのいい加減とも見える演技(膝まづくあたり)が、もしタンホイザーがエリーザベトを軽薄になめきっていることを表わすのなら、悪くない演技力と言えるのかもしれない。だが全体を見ると、やはり、大雑把な演技というしかないだろう。

 ヴォルフラムのヨッヘン・クプファーは、第1幕ではやや怒鳴りすぎの傾向があったが、第2幕以降では、知的な詩人としての風格をよく表現した。
 エリーザベト役のミーガン・ミラーと、ヴェーヌス役のエレナ・ツィトコーワは、双生児のようなメイクと衣装と美貌で、この2役が一体であるというドラマの視点に沿った性格を巧く表現していた。ミラーは第3幕の「エリーザベトの祈り」での少し大芝居調の歌い方が気になるが、第2幕後半で突如騎士たちを圧する主導権を握る存在となる個所でのパワーは、なかなかのものだ。一方ツィトコーワは、これまで新国立劇場で演じた多くの役(オクタヴィアン、ブランゲーネ他)を凌ぐ出来と言っていいのでは?

 領主へルマンのクリスティン・ジグムンドソンは、長身と底力のあるバスで、これはもう貫禄である。
 その他の騎士たちは日本勢で固められ――ワルターは望月哲也、ビーテロルフは小森輝彦、ハインリヒは鈴木准、ラインマルは斉木健司という顔ぶれ。歌合戦で「出番のある」ワルター役の望月も健闘していた。
 演技の点では小森が非常に細かいところを見せ、タンホイザーとエリーザベトに対し終始、底意地悪そうな表情を隠さない、エリーザベトのとりなしに際しても独り最後まで剣を収めようとしないビーテロルフを巧みに演じていた。脇役がみんなこういう演技をしてくれれば、舞台も引き締まるのだが――。

 もっとも、最近好調の新国立劇場合唱団はしっかりした歌唱を聴かせており、第2幕での騎士淑女たちの演技も――何か恐ろしげなメイクだったが――ある程度の雰囲気を感じさせるものだった。この劇場が今最も誇れるものは、この合唱団であろう。
 バレエはもちろん新国立劇場バレエ団だが、メメット・バルカンの振付が何とも酷いものなので、これは問題外の外。
 そうそう、それから、牧童役の國光ともこが非常にいい歌唱を聴かせていた。新国立劇場オペラ研修所出身で、二期会会員だそうだが、楽しみである。

 第2幕後半の魅力的な大アンサンブルのカットなどについては、前回(2007年10月8日)の項や東京新聞批評欄などでかなり息巻いたから、もう繰り返さない。ドレスデン版、パリ版、ウィーン版という単なる便宜的な呼称についてあれこれほじくることも、此処ではもう止める。どんな版で演奏しようと、オーケストラが頑張ってくれなければ、何にもならない。
 9時半過ぎ終演。
 

1・22(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団定期

   サントリーホール  7時

 こちらもメイン・プログラムは、マーラーの「第5交響曲」。

 ただし読響の演奏は昨夜の公演ただ1回だったのに対し、こちら都響はこれが3回目だ。都響事務局のF氏が、「3回それぞれで演奏の特徴が異なっていた。第1回はむしろアグレッシヴな演奏だったが・・・・」と語っていたが、なるほど確かに、今夜はインバルとしては、どちらかといえば落ち着いた演奏だったかもしれない――何回か演奏していると、たいていまとまって、良くも悪くも落ち着いて来るものである。

 整然たる構築は、インバルならではのものだ。息が詰まるほど凝縮した、禁欲的とさえいえるほどの音楽のつくりは、昨夜のセゲルスタムの指揮とは対極の位置にある。
 冒頭のトランペットも、昨夜の読響のそれとは大きく異なり、極めてストレートな響きと音色だった。それは、今夜の直截なマーラー像を象徴するものでもあった。だが、昨夜のも今夜のも、どちらもそれなりに、至芸には違いない。

 ホルンのソロをはじめ、管楽器のソロは快調だった。弦も引き締まっていた。
 全管弦楽をがっしりと固め、バランスも見事な、揺るぎない風格を備えた演奏のこの「5番」は、一種の胸のすくような勢いがある。今の私はこういうタイプのマーラーの方が好きだが、しかしそんな演奏を聴きながらも、昨夜のようなマーラーも悪くなかったな、という思いがチラリと脳中をよぎったのは、インバルの今夜の指揮のところどころに、曰く言い難いような、何か醒めたものが感じられたからかもしれぬ。前述の、初日の演奏を聴くべきだったろうか?

 前半には、イリス・フェルミリオンをソリストに、同じくマーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌」が演奏された。別に悪い演奏だったと言うわけではないのだが、どういうわけか落ち着かない雰囲気のままに終ってしまった。
 

1・21(月)レイフ・セゲルスタム指揮読売日本交響楽団定期

   サントリーホール  7時

 菊池洋子をソリストに迎えてのモーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番イ長調」と、マーラーの「交響曲第5番」。

 おなじみ、北欧の白髪白髯の巨人セゲルスタムは、今回は比較的遅めのテンポで、念入りにマーラーの「5番」を指揮して行った。
 このように艶と粘り気のある、どちらかといえば情感的な性格を優先した「5番」は、今の時代、あまり多くは聴けなくなったタイプのものだろう。その意味でもこれは、久しぶりに「ヒューマンな」マーラー像に再会したような気がして、貴重だった。

 もっとも、第1楽章のトランペット・ソロでヴィブラートを目一杯に利かせ、おそろしく甘美な音色で吹かせたり(昔の演歌「夢は夜開く」のトランペットを連想してしまった)、第4楽章をはじめ弦のレガートをねっとりと演奏させたり、第5楽章大詰での一気にたたみかける個所で大きなパウゼを挿入したり、といったところなどは、私の好みからすれば、ちょっと凝りすぎではないかという感もしたが・・・・。
 いやこれは、そもそも私が昔からマーラーの交響曲の中でこの「5番」がいちばん「好きでない」せいで、こういう演奏を聴くと、さらにもたれてしまうのかもしれない・・・・。

 読響のアンサンブルは今日もそれほど緊密ではなく――今年に入って(僅か2回しか聴いていないが)読響の音が少し粗っぽくなっているのは些か気になるところだが、但し、第1楽章も後半になると、かなりまとまりはじめていた。トランペット、ホルンをはじめ、ソロもすべて良かった。第1楽章終り近くの【18】のフォルテ3つの個所での、悲嘆の極致といった表現は見事なものだった。

 前半のモーツァルトの協奏曲では、菊池洋子が清澄なソロを聴かせてくれた。この人のモーツァルトは定評あるところだが、私も好きである。
 ソロ・アンコールでは、セゲルスタム作曲の「SEVEN QUESTIONS TO INFINITY」とかいう小品(サントリーホール発表・アンコール曲照会リストに由る)を弾いた。会場でも、舞台袖近くに腰を下して聴こうとしていたセゲルスタム自身が、いきなり大声で曲名を場内に知らせた(その時はDIGNITYとか聞いたような気がしたが、私もぼんやりしていたので、間違いだろう)。曲はともかく、それを暗譜で弾いた菊池洋子は、見上げたものである。

1・19(土)インゴ・メッツマッハー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団定期

   サントリーホール  2時

 シューベルトのロ短調交響曲「未完成」と、ブルックナーの「第9交響曲」。

 故ヴァントもやっていたプログラムだ。楽章の数の上で未完成に終った交響曲を二つ組み合わせるのは、単にそれだけの意味しか持たない曲目編成に過ぎないと思うが、しかしシューベルトの後期の交響曲とブルックナーの交響曲とが一つの絆ともいうべき関連性を示していることを考えれば、この2人の作曲家を組み合わせたプログラムは、やはり意義あるコンセプトと言っていいだろう。
 メッツマッハーと新日本フィル、先週の定期と同様、見事な演奏を聴かせてくれた。

 シューベルトの「未完成」は、予想通り、がっしりとした隙のない演奏となった。所謂ロマン派的なイメージから脱却した解釈でこの曲をまとめるのは20世紀半ば以降の定番的手法だが、メッツマッハーはとりわけ堅固な構築を採り、毅然たる姿のシューベルト像を創り出した。
 何より、第1楽章がアレグロであり、第2楽章がアンダンテであるというスコア指定のテンポの対比を明確に出したところが、好ましい(昔は、両楽章をアンダンテのイメージでやる指揮者が少なからずいたものだが・・・・)。

 ブルックナーの「9番」――当初の発表から変り、ノーヴァク版での演奏となった――でのメッツマッハーのアプローチは、まさに巨大で豪壮で、しかも(良い意味で)荒々しい。「たたかうブルックナー」のイメージとでもいうべきか。
 しかしこの曲は、ブルックナーの交響曲の中では異例なほどにデモーニッシュで、髪振り乱して荒れ狂う魔神のような性格を備えた作品だと思うので、私はこういう演奏は好きである。

 特に第2楽章は――今回はやや遅めのテンポが採られていたが、激烈そのものの演奏だった。スケルツォの後半、既に最強奏に達している全管弦楽のリズムの進軍に、更にティンパニのクレッシェンドをも加え、音量と力感をぐっと増して終結させるあたり、実に鮮やかな「決め」である。
 第1楽章もかなり遅いテンポで、「厳かに、神秘的に」というスコアの指定が優先されていた。激しさと沈潜とが交互に現われる第3楽章の構築も見通しのいいものになっていた。

 前回の「アルプス交響曲」と同様、新日本フィルは文字通り全力で鳴り響き、強靭剛直な音楽を創り出す。ブルックナー特有のゲネラル・パウゼもたっぷりと保たれ、今回ほどサントリーホールの残響の豊かさを快く味わったことは近来なかった。
 メッツマッハーと新日本フィル、このコンビは、今後良い方向に進むだろう。

1・18(金)ダン・エッティンガー指揮東京フィルハーモニー交響楽団定期

   サントリーホール  7時

 ロッシーニの「小荘厳ミサ曲 PETITE MESSE SOLENNELLE」が、オリジナルのピアノとハルモニウムの版でなく、オーケストラ版で演奏された。

 こんな曲は滅多にナマで聴けない。千載一遇の好機とでもいうべき貴重な演奏会であろう。よくぞやってくれた、という感である。
 オーケストラ編曲版はもちろん作曲者ロッシーニ自身によるものだが、今回使われた版はシピオーニ校訂になるロッシーニ全集版(1996年出版の原典批判版)である由。スコアは見ていないけれど、マリナー指揮のCDでの演奏(1994年録音)と聴き比べてみると、なるほどオーケストラのパートなどにもかなりの違いがある。

 それはともかく、エッティンガーの指揮、さすがオペラで鍛えた腕前で、なかなか面白く聴かせてくれた。東京フィルはすこぶる壮麗な演奏をしたし、新国立劇場合唱団は驚異的に整然として、スケールも大きく、アカペラの個所でも揺るぎない。このコーラスは、今夜の最大の聴きものと言えただろう。
 ソリストはミシェル・クライダー(S)、エドナ・プロニック(A)、ハビエル・モレノ(T)、堀内康雄(Bs)。オルガンは新山恵理。

 全曲90分になんなんとする長大な作品で、「小」と謙遜気味に呼ばれるほど小ぶりの宗教曲ではない。さりとて、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」のような壮大高貴な作風とも違う。いわばシリアスな顔を見せるロッシーニである。
 今回は第7曲のあとに休憩がおかれたが、これは賢明な方法だったと思われる。この「聖霊とともにありて」では、エッティンガーの指揮が素晴らしい盛り上がりをみせ、終ってもしばらくはその昂揚感をじっくりと味わっていたいような気持にさせてくれたからである。
 後半部分はそれに比べ、少々高まりに不足したが、これは作品のせいで致し方あるまい。だが、いい曲だった。

 事務局のI氏に「貴重な曲をやってくれましたね」と讃辞を呈したら、「こんな(大規模な)曲ばかりやっていたら、オーケストラは潰れてしまいますよ」という答が返って来た。さもありなん。いい曲、いい演奏なのに、知られざる作品のせいか、お客さんの入りが意外に少なかったのは残念である。

1・17(木)アドリアン・ユストゥス・リサイタル

   紀尾井ホール  7時

 メキシコのアカデミア・ユリコ・クロヌマで黒沼ユリ子に師事した――つまり黒沼ユリ子の愛弟子というわけだが、そのアドリアン・ユストゥスが恩師とともにリサイタルを行なった。

 但し大先生の方は大トリに登場して、第2ヴァイオリンを受け持ち、ショスタコーヴィチの「3つの二重奏曲」とサラサーテの「ナヴァラ」、それにアンコールでポンセの何とかいう綺麗な曲を、弟子とのデュオで披露した。
 ここで2人が使用したヴァイオリンは、弦楽器製作者の中澤宗幸氏が東日本大震災のあとで岩手県の流木から製作した楽器の由。被災者支援のための「ヴァイオリン・プロジェクト~千の音色でつなぐ絆」への参加という意味を含めているとのことである。

 リサイタルの主人公ユストゥスの方は、メシアン、イザイ、ラヴェル・ベラスケス、サン=サーンス・ヴィエニアフスキなど、かなり多彩な曲目を演奏したが、実に情熱的で個性的な演奏をする人だ。
 高音域での独特の癖は私の好みではないが、中低音域での非常に濃厚な、極めて粘り気の強い、肉感的で分厚い音色は、何とも形容しがたいほどユニークで面白い。
 しかも演奏の表情がおそろしく熱烈なものだから、たとえばラヴェルの「ツィガーヌ」など、ラテン・アメリカ系の顔というか、あるいは土俗的というか、大地が沸き立つようなというか、――とにかくふだん聴きなれたこの曲とは全く違う姿で立ち現われるのだが、それがまたこのヴァイオリニストの強靭な自己主張を感じさせて面白いのだ。

 サン=サーンスの「ハバネラ」にしても、ヴィエニアフスキの「スケルツォ・タランテラ」にしても同様である。特に激しい曲想の個所では、その嵐の如き情熱が凄まじい。時に弾き飛ばすようなところもあるから、落ち着いた気品とか洗練さが好きな人には合わないだろうが――。

 今日は後半に皇族も来臨したりして、さすが黒沼さんのパワーである。お客さんも、所謂クラシックの音楽会の常連とは少し違うようである。黒沼ユリ子さんの演奏を聴くのは何十年ぶりかで、二重奏とはいえ、懐かしかった。

1・16(水)デイヴィッド・ジンマン指揮NHK交響楽団B定期

     サントリーホール  7時

 プログラムの配列が、なかなかよく出来ている。ブゾーニの「悲しき子守歌~母の棺に寄せる男の子守歌」に始まり、シェーンベルクの「浄められた夜」と続き、後半はエレーヌ・グリモーを迎えてのブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」となる。

 どうしようもないほど暗鬱で沈んだ曲想の「子守歌」のあとに、やや愁眉を開いたような表情で「浄夜」が開始されると、これがまた不思議なほど温かく優しい、どこか懐かしいような美しい曲に感じられる。特に今回はかなり大きな編成の弦で演奏されていたため、いっそう後期ロマン派的な、むせ返るような官能美があふれていて、魅力的だった。

 私はこの曲、最初に聴いて魅了されたのが古いLPでのミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィルの演奏だったからか、今でもこれは絶対大編成の弦での演奏に限る――という好みに凝り固まっているのである。それにジンマンが、先日のマーラーと違い、ごくストレートで率直な語り口を採っているので、作品本来の味をたっぷりと堪能出来たというわけ。

 そして最後がブラームスの協奏曲。この日初めて舞台一杯に拡がった大管弦楽の響きが、何とまあ豊麗で壮大に感じられること。グリモーの明晰で強靭な音色と表情のピアノが素晴らしい。いい曲だ。

1・15(火)METライブビューイング ヴェルディ「仮面舞踏会」

   東劇  2時

 昨年12月8日上演のライヴ。

 これはデイヴィッド・アルデンによる新演出。物語はソンマ(台本)とヴェルディの当初の案どおり、(ボストン総督リチャードでなく)スウェーデン国王グスタヴ3世暗殺事件としているが、演出上の場面の設定は20世紀前半になっている。第2幕までは比較的ストレートな演出だが、第3幕の仮面舞踏会におけるダンスを交えた人物の動かし方が面白い。

 だがその演出よりも傑作なのは、ポール・スタインバーグ(MET初登場)のモダンな舞台装置だ。第3幕では照明(アダム・シルヴァーマン、同)を巧みに使い、不思議な拡がりと奥行を感じさせる光景を創り出している。

 今やMETの首席指揮者となっているファビオ・ルイジの指揮は、相変わらずのっぺりした、鮮烈さの全くない音楽づくりだが、もって行き方はそれなりに上手いので、総合的には無難な指揮という結論になるか。
 配役は、グスタヴ国王はマルセロ・アルヴァレス、アメーリアはソンドラ・ラドヴァノフスキー、アンカーストレーム伯爵(レナート)はディミトリ・フヴォロストフスキー、ウルリカ・アルヴィドソン夫人はステファニー・ブライズ、小姓オスカルはキャスリーン・キム、他。いずれも手堅く、特にフヴォロストフスキーの堂々たる貫禄が印象的だ。

 韓国出身のソプラノ、キャスリーン・キムは、素顔は可愛い人なのだが、今回のメイクは何だかちょっと気持が悪い。それに歌唱も、無難にこなしているはいるものの、以前の「ホフマン物語」のオランピア役での華麗さや、「中国のニクソン」の江青夫人での凄味ある高音域の絶唱に比べ、今回は表情も含めて格段に冴えないのが惜しい。

 しかしこの「仮面舞踏会」、いい曲だ。昔、有楽町のハンターという中古レコード店で、トスカニーニの指揮した輸入LPを格安で入手して聴き、夢中になったものであった。レナートのアリア、彼と暗殺者たちとの3重唱、全曲大詰で合唱が壮大にクレッシェンドして行くところなど、今聴いても胸が躍る。

 終映は5時半。昼間の上映だと、お客さんも結構入っている。

1・13(日)荒川洋作曲「ダフニスとクロエ」全曲初演

   セッションハウス(東京・神楽坂)  4時

 新日本フィルの首席フルート奏者・荒川洋さんとは、昨年11月に、同団定期に関連したあるトーク・ショウで共演したことがある。
 彼は作曲活動をも行なっており、今回、45分の長さに及ぶフルートとピアノのための新作「ダフニスとクロエ」の全曲を自ら演奏、ダンス付きで初演する、という話が来たので、聴きに行った。
 最初は彼のリサイタルだと思い込んでいたのだが、実はこれは気鋭の若手ダンサー、三輪亜希子が初めて自ら主宰するソロ公演で、そのプログラムの一つがこの曲、というわけであった。会場の「セッションハウス」は50~60人が入れる実験的なスペースである。もちろん、立錐の余地もない満席。

 ダンスの分野については、私は全くの勉強不足で、何も知悉していない。この公演は、三輪亜希子の構成・演出・振付によるもの。
 第1部では「マトルの約束」という作品が彼女のソロで踊られ、それに合わせてJohn Psathas の「Matre's dance」という曲が山澤洋之の打楽器とうえだようのピアノで演奏された。第2部では三輪により「最後の日は、ここで一緒に」という詩が語られた。そして第3部が、三輪の激しいダンスと、荒川洋の作曲・フルート、うえだようのピアノによる演奏とのコラボ、「ダフニスとクロエ」である。

 この「ダフニスとクロエ」は、2011年3月10日(!)にメナード美術館におけるシャガール版画展で一度演奏され、三輪により踊られたと三輪のメッセージに書かれているが、そうするとそれを拡大して大規模にした版が今回の「全曲」であり「初演」ということになるのだろうか。
 ともあれこれは、フランス系という印象の洗練された曲想を備えた、非常に多彩な表情に富む、激しい動きの音型をも駆使した作品で、演奏時間も45分に及ぶ大作である。作曲者自ら出ずっぱり、吹きっ放しだったから、いかに自分で書いた曲とはいえ、演奏するのも楽ではなかったであろう。だが華麗で壮麗で、聴いていて実に気持のいい曲だった。最後の部分で、物語の内容に対応し、曲想が大団円の雰囲気に一変して行く個所も印象的であった。

1・12(土)川瀬賢太郎指揮日本フィルハーモニー交響楽団横浜定期

     横浜みなとみらいホール  6時

 錦糸町から渋滞続きの首都高を通って、横浜へ向かう。70分もかかった。
 久しぶりに川瀬賢太郎の指揮を聴く。常々注目している若手指揮者であり、最近は一皮剥けて指揮にも自己主張が感じられて来たし、昨年の広島における「班女」(細川俊夫)での指揮も見事だったし、という具合に、期待感も充分だったのだが・・・・。

 それにしても彼は、舞台での挙止を、もっと明るく開放的に堂々とした方がいい。舞台袖からうつむき加減で、客席の方も見ず、何か自信なげに、遠慮がちに歩いて出て来るようでは、客席も盛り上がらない。
 指揮者たるもの、さあ今日はやるぞ、これから愉しいコンサートですよ、みなさん聴いて下さい――という雰囲気をまず冒頭から振りまいてくれないと、場内の気分が暖まらない。小澤征爾は、いつも勢いよく走って登場した。飯森範親は、肩で風切って大股に歩いて出て来た。多くの指揮者は、客席にも笑顔を見せながら指揮台に向かう。
 川瀬君にそれらと同じことをやりなさいと言っているわけではないが、若いのだから、そして感動を共有すべき生身のステージなのだから、そのくらいの活気ある演出は必要だろう。

 そんなこと、演奏さえ良ければどうだっていいじゃないか、という考え方もあろうが、今日の第1部におけるような生気のない、メリハリに乏しい演奏を聴くと、指揮者のそういう舞台上の挙止が音楽づくりにも影響を及ぼしているのではないか、とついつい考えてしまうのである。

 その第1部は、シューマンの「ゲノフェーファ」序曲で開始されたが、曲も渋い上に、何とも生気のない平板な演奏で、ちっとも盛り上がらぬ。
 続いてベートーヴェンの「ロマンス第2番」、サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」が尾池亜美をソリストに迎えて演奏されたが、ここでの指揮も淡々と生真面目で、活気と躍動感に乏しく、およそ面白くなかった。
 アメリカの批評家だったら、「カワセは自信を失っているのではないか」などと書くだろうが、私はそこまでは言わない。だが、そうでないとしても、彼は何か壁にぶつかっているのではないかという感じを与えることは確かなのだ。
 尾池は音色に美しい艶があり、伸び伸びとした清新な表情も持っているが、今回は正確に弾くこと以上のものは感じられず、指揮者ともに「若さの無い」演奏に終始してしまった。

 後半のベートーヴェンの「英雄交響曲」では、さすがに川瀬も研究を重ねているのか(だとしたら、前半は何だ?)、ホルン・セクションを全曲にわたり前面に押し出して活躍させたり、デュナミークの対比にも工夫を凝らして構築したりと、独自の解釈を示そうとする姿勢は聴き取れる。第3楽章のように、速いテンポで突き進むあたりには、活気も漲っていた。だが全曲を推進する気魄、エネルギー感、緊迫感となると――これは残念ながら、「若手指揮者」としては、どうも寂しい出来であった。
 期待の新星なのだから、もう少し若さをいっぱいに発散してもらいたいものである。

 アンコールはシベリウスの「悲しきワルツ」。正月早々、暗いですねえ。
 日本フィル、今日は「英雄」でホルン群が気を吐いていた。

1・12(土)インゴ・メッツマッハー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団定期

    すみだトリフォニーホール  2時

 今年秋にはConductor of Residence に就任するドイツの指揮者インゴ・メッツマッハーが、J・シュトラウスの「ウィーンの森の物語」、ヤナーチェクの「利口な女狐の物語」(マッケラス編)、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」を指揮した。

 さすがメッツマッハー、音楽づくりの上での「演出」が巧い。
 「アルプス交響曲」冒頭、低弦のざわめきを基底にオーケストラを柔らかく神秘的に響かせ、夜明け前の山の雰囲気を見事に描き出したあたりからして、今日はいけるぞ、と思わせたが、そのあとも綿密な標題音楽的解釈を発揮して、実に鮮やかな描写を聴かせてくれたのである。

 飛沫を上げて落ちる滝の光景、岩が転がり落ちる様子、足を踏み外しそうな危険な岩山を辿るスリリングな瞬間など、これほどリアルに描き出した指揮は、稀であろう。
 頂上での喜びのひとときが終って、突然日が翳りはじめ――この直前で「山」の主題を一際高く響かせて形式感を明確にするあたりの呼吸も見事だった――やがて霧が立ち昇る個所で創り出された音楽の陰翳の濃さも、嵐の前の静寂の緊張も、「嵐・下山」での壮烈な緊迫感も、嵐のあとに夕陽を浴びて聳え立つ山の光景の壮麗な描写も、いずれも無類のものだった。一つの場面の中で――たとえば「嵐」のさなかにテンポを速めて行くというワザも聴かれる。

 その指揮に応えて大熱演を展開した新日本フィルも、称賛されるべきであろう。終結近く張りつめた力強さを出して緊張を持続させたヴァイオリン・セクション(コンマスは崔文洙)も素晴らしい。
 この曲、並みの演奏では、非常にガシャガシャとしたまとまりのない曲になるので、私はちょっと辟易敬遠気味なのだが、今日のような演奏を聴くと、まんざら悪い曲でもないなという気になる。

 プログラムの1曲目におかれた「ウィーンの森の物語」では、チターが加えられていたのが、雰囲気があって好かった(演奏は常石さやか)。オケの音は分厚くて少し重いが、弦の音色はたっぷりしている。「利口な女狐の物語」でも、ヤナーチェク特有の弦の響きと音色が出ていて、気持がいい。
 そういえばメッツマッハーは、「ウィーンの森の物語」の序奏でホルンを角笛のように響かせ、独特の効果を上げていた。「アルプス交響曲」でも同様で、今日のホルン・セクションの活躍は(細部はともかく)、さしあたり称賛してもいいだろう。ただしバンダの「狩人の角笛」(舞台袖裏から)は、特定のパートしか聞こえて来ない、甚だ薄い音だったが・・・・。

 メッツマッハー、昔はただ吼えるだけが特徴だったのに、最近ではニュアンスの細やかさを増し、構築も巧くなった。いい指揮者になったものである。新日本フィルが彼を指揮者陣の中核の1人に選んだのは、良いことだったと思われる。

1・11(金)デイヴィッド・ジンマン指揮NHK交響楽団C定期

   NHKホール  7時

 マーラーの交響曲第7番「夜の歌」1曲のみのプログラム。

 今年の誕生日で77歳になるジンマンだが、相変わらずその指揮は個性的で尖っている。ただ、気心知れたチューリヒ・トーンハレ管弦楽団をその音響の優秀なホールで録音したCDでの演奏と、この超デッドなアコースティックのNHKホールで、しかも4年ぶり、2度目の客演に過ぎぬN響との演奏とでは、相当な違いがある。

 今夜は、その音楽は、かなり刺々しくて乾いたものに聞こえた。
 だが、ジンマンのマーラーは、豊麗に音を響かせるといったスタイルとは正反対の、むしろ内へ内へと凝縮して行くような音楽である。オケの楽器のバランスづくりも極めてユニークなものだ。よほど呼吸が合致したオケが相手でないと、その本領を発揮するのは至難の業ではないかという気がする。

 この日の第1楽章など、何ともガサガサしたドライな表情で、さすがのN響も勝手が違うのか、それとも気乗りがしないのか訝られるような演奏であったが、その代わり中間の3つの楽章では本来の怪奇な幻想的イメージがストレートに浮彫りにされていて、これは予想外の面白さを生んでいた。
 しかし、それが狂躁的な第5楽章になると、今度はその即物的な演奏のせいで、散漫にも見える楽曲の構築がそのまま露呈され、第1楽章におけると同様、甚だ見通しの悪い音楽に陥ってしまう。――もしかしたら、2日目の演奏では、もう少し巧く解決されるかもしれないが。

1・9(水)オーケストラ・アンサンブル金沢ニューイヤーコンサートin東京

    紀尾井ホール  7時

 金沢のあの音響のいいホールでオーケストラ・アンサンブル金沢を聴くのは快く、また行ってみたいとは思うのだが、それよりもオケの方がしばしば東京に来てしまう。
 全くこのオケはよく日本中を動き回る。小編成だから融通と小回りが利くのだろうが、それにしても見上げたものだ。

 恒例のニューイヤー・ツァー、今年は6日から22日までの間に、射水(富山)、金沢、東京、武豊(愛知)、彦根、大阪と廻る。指揮はもちろん音楽監督の井上道義、ゲスト・ソリストは中嶋彰子(S)と吉田浩之(T)。

 開演の30分ほど前に、短いロビー・コンサートが行なわれていたが、弦の音が実に綺麗なのには驚いた。この弦は本番の舞台上でも同様、日本のオケとしては珍しいほどの明るい色彩と艶があって、すこぶる魅力的である。
 音色だけではなく、オケのバランスも好い。木管は奥行感を以って響いて来るし、ティンパニも不自然に共鳴することがない。これは、このホールで聴いた小編成オケのうち、おそらく最も――レジデント・オケの「紀尾井シンフォニエッタ東京」をさえ凌ぐ――まとまりのいい音を出した団体ではなかったろうか。

 プログラムはウィーンもの中心に編成され、第2部は所謂ニューイヤー系だが、第1部はコルンゴルトの作品中心という、ちょっとユニークな曲目が並んでいて面白い。
 その第1部では、オーケストラがコルンゴルト少年時代の作「雪だるま」序曲と、有名な「ヴァイオリン協奏曲」から第2楽章(ソロはコンマスのサイモン・ブレンディス)と、「シュトラウシアーナ」を演奏。そして、中嶋彰子がカタラーニの「ラ・ワリー」からのアリア、吉田が加わってコルンゴルトの「死の都」からの2重唱を歌った。

 また第2部では、中嶋がツェラーの「小鳥売り」、シュトルツの「お気に入り」、スッペの「ボッカチオ」を歌い、吉田がレハールの「微笑みの国」を歌い、2人で同「メリー・ウィドウ」、ジーツィンスキーの「ウィーン、わが夢の街」、カールマンの「チャールダシュの女王」から歌った。そしてオケはスッペの「詩人と農夫」序曲と、J・シュトラウスの「狩のポルカ」及び「南国のばら」を演奏した。

 軽めのプログラムながら、オケも歌唱も、すべて演奏が本格的でしっかりしているので、聴き応えがある。
 特に中嶋彰子の存在が、このコンサートを明るく色彩的なものにしていた。ウィーン仕込みともいうべきオペラの雰囲気充分の歌唱と舞台姿は華麗そのものだし、「小鳥売り」からの「私は郵便配達のクリステル」では、客席でコミカルな芝居(何故か関西訛りで)を展開するといった具合だが、これが実にハンサムに見えるのも彼女の強みだろう。
 その芝居の間は、オケが弱音でリズミカルに鳴り続け、その前で井上が踊っているという趣向。
    音楽の友3月号 演奏会評

1・8(火)大野和士指揮読売日本交響楽団の「アルプス交響曲」他

   東京芸術劇場  7時

 小山実稚恵も協演して、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」を弾く。人気のコンビの出演とあって、客席はほぼ満杯だ(明日のサントリーホールも完売とか)。

 大野和士は、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」では金管セクション――特にトランペットを全力で吹かせたのをはじめ、オーケストラ全体に筋肉質の力感と輝かしさをあふれさせ、ワイルドな(?)豪演に仕上げた。「頂上」の場面など、まさに耳を劈くばかりの金管の強奏である。
 だがこれは、もともとスペクタクルな要素の強い作品だ。このくらいダイナミックな演奏をしてくれた方が痛快で面白い。それに、欧米のオケなら、これくらいの音量は珍しくはないはずだし・・・・。

 森にこだまする狩人の角笛を表すバンダ・セクションは、正面オルガンの下にずらりと並んでいっせいに咆哮した。これもふだん聴き慣れている「遠方からのエコーのように」響く効果とは正反対のものだったが、終演後にマエストロ大野は「このホールの構造を生かして、狩の角笛がアルプスの巨大な岩壁にこだまするようなイメージを狙ってみた」と語っていた。なるほど、たまにはそういう手もありかな、と思う。
 「嵐、下山」の場面も、パンチの効いた打楽器群の活躍もあって、これまた大スペクタクルの演奏であった。

 今回は聴いた席が2階正面上手側の前方に突き出したブロックの前列だったせいか、各パートの音がかなり生々しく、そのくせ妙にはね返りの多い、まとまりを欠く音響に聞こえるのには些か戸惑った――改修後のこのホールの音響には未だ一つ掴みにくいところがある。だが、前半での少し粗いアンサンブル、後半で取り戻した合奏の均衡、といった印象は、そう食い違っていないのではないかと思う。

 冒頭の「夜、日の出」の場面でのファゴットの動きが極度に生々しくはっきり聞こえ過ぎ、しかもアンサンブルがガサガサしているように感じられたのは、夜明けの神秘的な情景を想像させるには少々苦しい。
 「森に入る」くだりの弦の響きもそうだったが、大野は概して明確な音響づくりを志向し、リズムとフレーズをはっきりと際立たせる指揮を行なっている。それがロマン的な描写音楽の性格とどのように均衡を保つかは、考え方次第だ。
 ただ、いずれにせよ、今日の演奏は、総じて読響としては常になく粗っぽいアンサンブルだな、という印象を受けたのも、正直なところであった。だがこういった点は、2日目にはたいてい改善される類のものだろう。

 1曲目のラフマニノフは、小山実稚恵の独壇場ともいうべき演奏である。冒頭を最弱音で開始し、全曲最後の頂点では豪壮そのものの世界に盛り上げる。
 あんな華奢なお姿の、しかもフニャリフニャリとした感じでお喋りになる女性のどこからあのような豪快な演奏が生れるのか、全く不思議だ。だが、どんなに熱狂しても決して音楽の形を崩すことがないのも、彼女の演奏の美点でもあろう。
 大野と読響も、彼女の力強いソロに呼応して、全曲最後のカッコいいリズムを、鮮やかに決めた。
   音楽の友3月号 演奏会評

1・7(月)METライブビューイング モーツァルト「皇帝ティートの慈悲」

    東劇(銀座)  7時

 昨年12月1日上演のライヴ。

 30年近く前に制作されたジャン=ピエール・ポネルの演出・装置・衣装による写実的なプロダクションで、今日から見ればいかにも「古い」舞台だが、一世を風靡したあの温かい雰囲気は、やはり独特の味がある。
 今回は、エリーナ・ガランチャ(セスト)とバルバラ・フリットリ(ヴィッテリア)が妍を競い、ハリー・ビケットが無駄なく引き締まった指揮を聴かせていたのが最大の魅力だ。

 特に絶好調のガランチャの存在感は大きく、全曲ほぼ出ずっぱりで素晴らしいアリアもある事実上の主人公――モーツァルトは、よほどこのセスト役に同情と共感をいだいていたのではないか――を見事に歌い演じていて、しかもズボン(パンツ)役としての表情がすこぶる映える。
 一方フリットリ演じるヴィッテリアは、旧い様式的なスタイルの演出のためにやや曖昧な存在に留まるが、この人の場合は歌唱に色彩感と上品さがあるし、「可愛い悪女」のイメージでわれわれを満足させてしまうだろう。

 題名役にもかかわらず、誰がやってもあまり映えない皇帝ティート役は、今回はジュゼッペ・フィリアーノだった。やっぱり冴えない。そもそもメイクからして悪い。
 脇役では、若手のケイト・リンジー(アンニオ、Ms)と、これがMETデビューになるルーシー・クロウ(セルヴィリア、S)が頑張っていた。2人とも極めて清純・清新なイメージで、好感を抱かせる。

 ビケットは、私はMETでナマで聴いたことは未だないが、この録音で聴く限り、無駄な誇張のない、清楚な音楽づくりで、なかなか好い指揮者だ。しかも全曲のフィナーレ、いよいよ大団円という個所で、演奏を凄い力感で急激に盛り上げたあたり、劇的感覚にも極めて優れたものがある。この分なら、シーズンの終りの方で上演される「ジュリオ・チェザーレ(ジュリアス・シーザー)」も期待できそうだ。

 今回の進行役は、スーザン・グラハムだった。この人も巧い。明るくて当意即妙だし、グラハムやフリットリへのインタビューでは、相手を陽気にさせるコツを心得ていて、観ている方も愉しくなる。話を盛り上げておいて時間通りにピタリと填めて行く要領も、全く見事なものだ! 
 終映は10時6分。

1・3(木)NHKニューイヤーオペラコンサート(第56回)

   NHKホール  7時

 恒例のオペラ・イヴェント。

 今年は27人のソロ歌手と3つの合唱団(新国立、二期会、藤原)が出演。アリアだけでなく、舞台装置と衣装も加えていくつかのオペラの1場面をピックアップする構成をも採り、聴衆を視覚的にも愉しませる趣向だ。「ヴァルキューレ」の「騎行」や「ヴォータンの告別」の場面のように火まで噴かせるとなれば、ふだんその上演など観たことのないお客さんにも、「ヴァルキューレ」なるオペラを知ってもらう良い機会になったことだろう。
 その他、ヴェルディ、ジョルダーノ、ビゼー、レハール、コルンゴルト、ロッシーニ、J・シュトラウスのオペラも歌われた。

 ソロ歌手27人のうち、男声歌手は何と、たったの10人。
 現在の日本オペラ界の現状を物語るような構成比率だが、実際に今夜は、最も華やかな役どころだった中嶋彰子(「メリー・ウィドウ」のハンナ)、重厚な存在感を示した藤村実穂子(イゾルデ)を筆頭に、女声歌手たちの方にパワーと勢いが感じられたのも確かだったのである。
 一方、男声歌手の中では昨年同様、福井敬(アンドレア・シェニエ、オテロ)が気を吐いていた。

 だがここでは、その他の出場歌手全員の名をも記録して、敬意を捧げておくべきだろう。
 女声歌手は砂川涼子、大村博美、林美智子、木下美穂子、高橋薫子、森麻季、並河寿美、清水華澄、平井香織、江口順子、金子美香、田村由貴絵、平館直子、増田弥生、小林沙羅。
 男声歌手は、村上敏明、大澤一彰、黒田博、妻屋秀和、水口聡、堀内康雄、望月哲也、久保田真澄、森口賢二。
 他に特別出演として桂文枝がニェーグシュ役で出た。幕間のパイプオルガンは井上圭子。

 藤村実穂子のイゾルデは、2010年のニューイヤーでお流れになったこともあり、3年越しの期待がやっと叶ったというところ。ただ、――不思議にフレーズを短く切って歌い、素っ気なく割り切った表現にしているのが、どうも腑に落ちないのだが・・・・。

 指揮は下野竜也。昨年に比べると、今年は格段に余裕を感じさせる。もっとも、重々しい曲想のところは良いのだが、レハールやロッシーニなど軽快な味を出すべき音楽では、もっと歌手を「乗せて」行く柔軟な躍動感、リズム感が欲しい。
 東京フィルはピットで珍しく立派な演奏を聴かせたが、これはTV・ラジオの生放送があったからか? いつもピットでこういう演奏をしてくれることを願いたいが・・・・。

 なお司会は辰巳琢郎と武内陶子アナ。概してNHKのアナウンサーは、もう少し相手の言葉に対し当意即妙の柔軟な対応をする訓練を積まないといけない(もちろん有働由美子さんとか、黒崎めぐみさんとか、巧い人もいるけれど)。
 

1・3(木)東京文化会館《響きの森》ニューイヤーコンサート

   東京文化会館大ホール  3時

 東京都交響楽団が出演、大植英次が指揮して、第1部がモーツァルトの「魔笛」序曲、ベートーヴェンの「エグモント」序曲、モーツァルトの「3台のピアノのための協奏曲」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」。
 第2部が宮城道雄の「春の海」、岡野貞一の「ふるさと」、外山雄三の「管弦楽のためのラプソディー」。

 協奏曲では大植自らの弾き振りに、伊藤恵および野原みどりが協演。「春の海」でも大植自ら編曲とピアノを受け持ち、篠笛の福原友裕が協演していた。

 このプログラムは大植自身の企画構成によるものだそうな。
 彼自らマイクを握って進行役をも務めたが、なにしろ彼の話は、順序が後先ゴタゴタで端折りが多く、しかもサビの利いた声で猛烈に慌しく喋るので、大部分は何を言ってるんだかさっぱり解らない。それでも最後には客席を完全に乗せてしまうのだから、実にユニークなキャラの指揮者ではある。

 「ふるさと」では聴衆を一緒に歌わせ、「ラプソディー」の「八木節」では1階席の聴衆をスタンディングさせて手拍子に巻き込む。いずれも自分で客席を走り回って煽り立てるのだから、客も乗らざるを得まい――私は商売上やらなかったが、その代わり終演後に楽屋へ行って思い切り冷やかした。

 演奏の中で、音楽的に面白かったのは、「ラ・ヴァルス」だ。所謂デフォルメ系の解釈で、音色といい、楽器のバランスといい、聴き慣れたこの曲とは全く違ったイメージになっていた。定期公演などで綿密に仕上げ、本格的に演奏されたら、さぞ興味深いものになるだろう。

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」