2017-06

12・27(木)ゲルハルト・オピッツのシューベルト連続演奏会第6回

    オペラシティコンサートホール  7時

 毎年暮に2回ずつという、ゆっくりしたペースで進められているオピッツの日本におけるシューベルト・ツィクルスも、いつの間にか第6回まで来てしまった。
 今夜の曲は、「ソナタ ホ長調D459」(所謂第3番)、「ソナタ ト長調D894 Op.78」(第18番「幻想」)、即興曲集D935 Op.142」。アンコールが「3つの小品D946」からの有名な「第1番」。

 シューベルト若書きの作品でさえ円熟の時期の作品のように風格充分に弾いてしまう、というオピッツには微苦笑を禁じえないが、彼の演奏にあふれるスケールの大きさ、ふくよかさ、温かさには、汲めども尽きぬ魅力がある。
 「ホ長調」の演奏が始まった時、不思議にも作品とは全く関連もないことながら、私は昔の何か非常に懐かしい記憶の情景の中に快く引き込まれるような気持になった。とろけるような懐かしさ、といってもいいかもしれない。

 もちろん、ポリーニやピリス、ブレンデル、ルプー、シフといった人々の演奏もシューベルトの音楽の好さを存分に味わわせてくれるが、それとはまた異なるヒューマンな表現がオピッツの演奏には有る。

 しかも、まろやかな響きの裡にがっしりと音楽を組み立てて行くその練達の呼吸の見事さ。「幻想」のフィナーレで、コーダに向かって次第にふくらみを増し、一歩引いてその勢いを矯めては、再び大きくスケール感を増しつつ盛り上げて行く構築の巧さ。
 下手な演奏にかかれば締まりのない曲になりかねぬシューベルトのソナタが、実はクライマックスに向けて論理的に積み上げられて行く曲なのだと感じさせてくれるオピッツの演奏である。

 作品142の「即興曲集」は私の大好きな曲でもあるが、この美しく豊かなハーモニーとその転調とを、オピッツは重心豊かに、分厚い音でたっぷりと描き出し、陶酔に誘ってくれた。その一方、第4曲では、予想外にラプソディックな激しさをも聴かせるオピッツでもあった。

12・23(日)ベルリン滞在記(終) ラトル指揮のR・シュトラウス:「ばらの騎士」

   ベルリン州立歌劇場/シラー劇場  6時

 ウンター・デン・リンデンのベルリン州立歌劇場の建物は未だ修復工事中。代替としてシラー劇場が使用されている。
 このシラー劇場は、U2地下鉄の「ドイチュ・オーパー・ベルリン」の隣の駅「エルンスト・ロイター・プラッツ」で降り、ビスマルク通りに沿って警察の前を過ぎれば目の前に在る。駅から歩いて5分とかからぬ距離だが、歩道の雪が凍結しているため、歩くには多少の注意を要する。

 本来はオペラ用の劇場ではないから、音響の点では最良とはいえないが、それでもちゃんとした大きな深いオーケストラ・ピットがあり、後期ロマン派オペラの音響を充たす編成も可能のようだ。
 この日の「ばらの騎士」でも、ベルリン州立歌劇場管弦楽団は、かなりの音量を以って鳴り響いており、ドライな音質ではあったが、さほど違和感なく楽しめた。

 この「ばらの騎士」は、今シーズンは12月のみの5回上演で、今夜が最終公演。
 演出はニコラス・ブリーガー。1995年プレミエという古いプロダクションだから、今回の上演はサイモン・ラトルが指揮するという点が最大の関心事。

 そのラトルの指揮は、切れのいいリズム感、鋭角的なダイナミズムの対比、畳み掛けるテンポなど、驚くほどシャープな音楽づくり。おそろしくテンションの高い演奏の「ばらの騎士」であった。演奏時間は他の指揮者とそれほど変わらなかったのに、著しくテンポの速い演奏に感じられたのは、それだけ音楽の表情が激しく、緩みのない演奏だったからではないかと思う。

 第1幕も随分「テンポよく」進み、すこぶる慌しい音楽の流れの裡に人物の交錯が描かれる――これは別に悪い意味で言っているのではない。
 しかし、面白かったのはやはり第2幕での演奏だ。「ばらの騎士」が登場する個所など、壮麗な盛り上がりというよりは、何かオクタヴィアンが強引に押し入り、この邸を制圧したかのような、物凄い音の爆発。
 更に後半の騒動の場面になると、音楽のドラマティックでスペクタクルな要素がいっそう強調される。この「ばらの騎士」といえど、やはりあの「エレクトラ」の直後に書かれた作品にほかならない、とまで再認識させるようなラトルの解釈である。

 といって、彼の指揮は決して力一辺倒ではなく、なかなか細かいニュアンスを備えたものだ。
 例えば第2幕で、抱擁するオクタヴィアンとゾフィーの姿をオックス男爵が発見した時、音楽が短い間表情を曇らせるが、その個所をあんなに暗鬱に不気味に、あたかも悲劇の如く表現した指揮は、私はこれまで聴いたことがなかった。この演出ではオックス男爵(ユルゲン・リンが巧い)が単なるコミカルな人物でなく、「本気で怒り出すと実に怖い男」として描かれているだけに、そのラトルの指揮の表情が極めて適切に生きて来る。

 そしてその直後、音楽がぱっともとの洒脱な表情を取り戻す時の、ラトルの指揮の変化のニュアンスの鮮やかなこと! 挙げればキリがないが、すこぶるスリリングなラトルの指揮であった。そしてまた、この「ばらの騎士」の音楽が単にウィーン風の典雅優麗な世界の範囲に留まるとは限らない、ということを証明するような指揮でもあった。

 他の主役歌手たちは、マルシャリン(元帥夫人)をドロテア・レッシュマン、オクタヴィアンをマグダレーナ・コジェナー、ゾフィーをアンナ・プロハスカ、ファーニナルをミヒャエル・クラウスなど。
 コジェナーのあの独特の細かいヴィブラートがついた声は、私はどうも苦手なのだが、演技は巧い――最終場面で、沈黙のまま振り返りもせず去って行く元帥夫人のあとを一度は追ったものの、「もう終ったことなんだ」と自ら得心したように戻って来るあたりの演技の巧さには、舌を巻いた。レッシュマンにしてもそうだが、超一流はダテではない。こうした歌手たちが檜舞台で見せる歌唱と演技の凄さは、並みのものではない、とつくづく感心する。
 こういう手応えのある上演を聴いて、観たあとでは、わざわざ遠くまで来た甲斐もあったな、と思う。

 30分の休憩2回を挟み、終演は10時15分。
 このシラー劇場、オペラ用としてもそれほど危惧したほどではない。次に来るのは3月の「神々の黄昏」だが、プロダクションの質さえ良ければ、何とかなるかもしれない。

12・23(日)ベルリン滞在記5  モーツァルト・マチネー

     ベルリン・コンツェルトハウス  午前11時

 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団がフィリップ・アントルモンの指揮で、モーツァルトの「ピアノ協奏曲K.595(第27番)」と「ジュピター交響曲」を演奏。
 入場料は大人一律24ユーロで、自由席である。ほぼ満席に近い客の入りだ。高齢者の客も多いけれど、家族連れが多い。

 協奏曲はアントルモンの弾き振りかと思ったが、ソリストはセバスチャン・ナウアーが務めていた。
 ソロを含め、演奏はなんの衒いも誇張もない、率直で落ち着いて、ごく「普通の」モーツァルトだ。

 だがオーケストラは弦12型で、極めて雰囲気豊かに、たっぷりした響きで鳴り響く。この威容にあふれた建物の中に在る壮麗な装飾を備えた大ホールの音響は実に豊かで、オーケストラの響き自体が既に豊麗な拡がりと色合いを以って聞こえるのである。
 演奏水準からすると――モーツァルトの音楽の比類ない素晴しさと、ホールの美しいアコースティックとが演奏会の雰囲気を保たせていた、というところか。

 子供は多かったが、約1時間20分もの間、みんな静かに聴いていた。うるさいのはむしろ大人たちだ。演奏中に無遠慮な咳はする、大きなクシャミをする。周囲が見ても、しょうがないだろ、と言う顔をして逆に睥睨する(これは昨夜のオペラでも同様だったが)。
 なお協奏曲の第3楽章の最中に、1階平土間席で発作でも起こしたのだろうか、大きな呻き声をあげ始めた男がいて、演奏が一時中断した。1Rang(=2階)後方に座っていたこちらからは見えなかったが、運び出されたのだろうか? 
 そんなこんなで、聴く側には何かと落ち着かない雰囲気もあった。

12・22(土)ベルリン滞在記4  ハルムス演出の「タンホイザー」

     ベルリン・ドイツオペラ  6時30分

 事前のインフォでは指揮がウルフ・シルマーとなっていたが、行ってみたらコンスタンティン・トリンクスが指揮することになっていた。シメシメという感じ。
 来月の新国立劇場公演のこのオペラへの客演指揮の肩慣らし?でもなかろうが、この若手は何度か来日もしている注目株の1人だ。

 トリンクスは予想通り、実に綺麗な音の「タンホイザー」の音楽を創る。透明で、すっきりした音のワーグナーである。熱狂とか魔性などの要素は皆無で、むしろ知的冷静(?)といった感の演奏だが、この作品の場合には、そういう指揮も生きるだろう。
 オーケストラがしっかりしていて、それ自体の響きに重量感もあるので、最強奏の際には音楽に風格を失わぬ。ただし、最弱音が続く個所になると音楽にふくらみと緊張感が希薄になり、何となく生気を欠くような印象になる――この点は、以前の彼とあまり変わっていないようだ。

 今回の配役は、タンホイザーにペーター・ザイフェルト、エリーザベトとヴェーヌスの2役にペトラ・マリア・シュニッツァー、ヴォルフラムにクリスティアン・ゲアハーアー(ゲルハーヘル)、領主へルマンにアイン・アンガー、ワルターにクレメンス・ビーバー・・・・と、見事に役者揃い。

 シュニッツァーは残念ながら本調子とは言えなかったが、ザイフェルトは健在で、相変わらず綺麗なよく通る声を響かせていた。ゲアハーアーは、以前ウィーン国立歌劇場でこの役を歌った時より少し抑制した表現になったような感もあるが、その代わり落ち着きが出たと言えるかもしれぬ。

 演出はキルステン・ハルムス。2008年9月にプレミエされたプロダクション。つまり彼女のインテンダント時代の作、ということになる。私も、これは2010年2月に一度観たことがある。
 あの時は、あまりに大幅な音楽のカットがあったのに激怒したが――新国立劇場やウィーン国立歌劇場よりも更に横柄なカットだ――今回も同様の個所がカットされている。詳しくは繰り返さない。
 使用楽譜はドレスデン版基本で、第3幕最後の合唱の個所のみパリ版(絶対ここはこの方が好い)が使用されていた。あまり理屈に合わないかもしれないが、この方法だけは、私は大賛成。

 舞台の造りは、以前とさして変わりなかろう。セリと吊りがふんだんに活用され、ヴェヌスベルクのダンサーたちはもちろん、巡礼の合唱団も多くはセリで上下する。これはすこぶる壮観である。ヴァルトブルクの騎士団は、すべて銀色の甲冑姿。

 前回と同様、この演出で気に入った点を一つ。
 ここでは、清純なエリーザベトと官能の女神ヴェーヌスとを、女性の2面性を表わすという視点から、1人のソプラノが演じる手法が採られており――その方法自体は珍しくはないが――、第3幕でエリーザベトとして息を引き取り、横たわっていたその同じ女性が、タンホイザーの前でヴェーヌスとして生き返る、という設定になっているのが面白い。
 死んで白布で覆われ、長々と横たわっていたはずの女性が再びムクムクと白布の中で動き出す、なんてのは少しオカルト的な光景だが・・・・。

 それはともかく、この女性がエリーザベトであると同時にヴェーヌスであるという一体性をタンホイザーが認識し、あるいはその両者を混同したまま、その幻想の中で死んで行く、という設定は、秀逸ではなかろうか?
 なにしろタンホイザーは、「エリーザベトよ、わがために祈りを」などとつぶやきながらヴェーヌスにすがり、その膝に頭を乗せたまま息を引き取るのである。実に身勝手な男だが、彼がこのような混乱した意識の中にあるということで、それも許されるかもしれぬ。
 観客もまた、タンホイザーと同様の、混同した幻想に引き込まれる、というわけ。

 そして、巡礼たちや騎士団は、あの壮大な合唱のうちに、セリで沈んで行く。舞台には、ただタンホイザーと、エリーザベトでありヴェーヌスでもある女性だけが残る・・・・。
 ここでのワーグナーの音楽の持って行き方は実に見事だが、トリンクスもこういう個所での盛り上げは格段に巧くなった。ベルリン・ドイツオペラ管弦楽団の厚みのある響きが呼応して、短い後奏でのオーケストラの壮大で強靭な力感は、これまでちょっと聴いたことのないほどの立派なものだった。トリンクス、日本のオケからこれだけの音を引き出せるか?

 30分の休憩2回を含み、終演は10時45分。満杯の客席の熱気と、重量感のある舞台と演奏に、やっとヨーロッパのオペラを観に来たという実感が湧く。
 騒々しいフライング・ブラヴォーはこちらでも多い。といっても、それより遥かに多い煩い口笛や奇声の類よりは、まだブラヴォーの声の方がマシかも。

 昼間、積もるほど降った雪も既にあがっていた。冷えは相変わらず強い。この劇場のありがたいところは、地下鉄(U2)の駅が目の前にあることだ。

12・21(金)ベルリン滞在記3  ビエイト演出のウェーバー「魔弾の射手」

     ベルリン・コーミッシェ・オーパー  7時30分

 昨夜より更に客の入りが悪いのには驚いた。ざっと見渡したところ3分の1程度か? 
 休憩時間(第2幕のあとに1回、30分)に幕が半開きになっていて、大勢のスタッフが一所懸命、舞台装置のセッティングをしているのが見えたけれども、そういう人たちの生活を含めてこれでやって行けるのか、と他人事ながら心配になってしまう。

 カリスト・ビエイトの演出する「魔弾の射手」にはちょっと興味を持っていたが、何とも趣味の悪い舞台で、辟易させられた。設定も服装も「狩人の世界」だし、第1・2幕は森の中、第3幕は森の中の空き地――という、ほぼオリジナル通りの場面設定なのだが・・・・。

 今回の上演版では、音楽はそのままだが、セリフ部分が大幅にカットされている。第1幕では「射撃試合」の所以について説明される個所は無く、悪狩人カスパルが同僚のマックスに「魔弾」の威力を見せる部分も無い。「狼谷の場」では悪魔ザミエルは登場せず、そのセリフも一部はカスパルによって語られる。セリフは最小限の量だ。
 従ってドラマの進行もスピーディで、第2幕の終りまで75分を要したのみである。

 この演出は、ロマン派オペラの超自然的な世界の御伽噺でなく、生々しい殺伐な人間どもの村での事件という設定だ。それ自体は結構だろう。
 序曲の最中に、森の中を巨大なイノシシが歩き回って餌をつついていたり(どうも本物らしいが、よく馴らしてあるのか?)、狼谷の場で魔弾が鋳られるに従い、森の大木が次々に倒れて行く光景があったりするのも、まず妥当な趣向であろう。

 そこまではいいのだが、全篇いたるところに、今の演出家がよくやるタイプの、殴る蹴るの荒っぽい行動や暴力、殺人、血のゲームといった要素が持ち込まれているのが不快極まる。
 第1幕冒頭で射撃の不調なマックスと、それをからかうキリアンとの間に起こる諍いなど、ナイフを手にしての大乱闘にまで仕立てる必要がどこにあろうか? 
 もっと気持が悪いのは、男たちが射殺した獲物の獣が人間の女の姿をしており、これを裸体にして切り刻み(という暗示)、その血を自らの顔や身体に塗りたくって大騒ぎをした挙句、その血塗れの裸女を肩に担いで引き上げて行くという光景だ。このあたりでもう、いやな演出だな、という気がしてしまう。

 加えて「狼谷の場」では、カスパルが若い新婚のカップルを縛り上げて誘拐して来て、悲鳴を上げるその女を刺し殺して下半身から「魔弾」を7つ取り出す。一方では、狂気に陥ったマックスまでが、男の方を刺殺するという具合。本当に胸の悪くなるような場面である。
 こんなマックスでは第3幕の「大団円の場」で許されるはずはなかろう、と思ったが、果たせるかなマックスの撃った魔弾が恋人アガーテに「本当に」命中し、彼女は死に、マックスも狩人の誰かに撃たれて死ぬ、というめちゃくちゃな結末を迎えることになる。

 またこの大詰では、マックスを取り成しに現われる「森の隠者」はあまり「尊敬され」ておらず、彼が「射撃大会など今後は止めなさい」と諄々と説いても村人たちは冷笑し、彼が去った直後にはまたも銃の大乱射を始める、という設定となっていた。
 このあたりは、依然として戦争の絶えない現代の世界を、あるいはどこやらの銃社会の国を皮肉って描いているという解釈もできるだろう。

 それにしてもまあ、このオペラをよくもここまで殺伐惨酷な舞台に仕立てたものだ。何かといえば殺す、自殺する、暴力を振るうという行動を舞台に取り入れたがる今日の欧州の演出の傾向を如実に反映しているだろう。
 このプロダクションは、今年1月にプレミエされたもので、今シーズンは6回の上演があり、今夜は5回目に当たる。最終回は1月3日だというが、正月早々こんなものを観るか? 

 入りの悪い(そりゃそうだろ)今夜も、しかしブーイングも飛ばず、客は歓声を挙げながら嬉々として拍手していた。ドイツの客はこんな好みなのだ、などと短絡的なことは決して言いませんが、それでも、ちょっとどうかしてるんじゃない?

 ビエイトは、次の6月にベルリン州立歌劇場で、細川俊夫の「班女」を新演出することになっているが、大丈夫なのかしらん? 変なことをやられたら台無しだ。同歌劇場のシーズンブックには、おそろしく品のないイメージ写真が載っていたし。

 話を「魔弾の射手」に戻すと、指揮はMihkel Kutson という人。この人もリズムのはっきりした、メリハリのある指揮をするが、ちょっと急ぎすぎるところがある。しかし、「狩人の合唱」になると、コーラスがそれ以上に走り気味になるので、オケと合わせるのにだいぶ苦労していたようだ。ただこの劇場のオケは、少しルーティンっぽい演奏だが、基本的にはそれなりに纏まっているだろう。

 歌手陣では、隠者役のアレクセイ・アントノフが堂々としていた他は、カスパル役のイェンス・ラルセンは馬力はあるもののおそろしく勝手な歌いぶりだし、マックス役のドミトリー・ゴロフニン、アガーテ役のベッティーナ・イェンセンも・・・・言っては何だがローカル級。エンヒェン役のアリアーナ・シュトラールは、研修生らしい。

 10時10分終演。エライオペラに来てしまったぜ、という感だが、出口で愛想よく配られているチョコレートにやや心和むことも。外は意外に寒くない。フリードリヒ街のクリスマス装飾も、昔よりは随分綺麗になった。

12・20(木)ベルリン滞在記2  ノイエンフェルス演出のヴェルディ「椿姫」

    ベルリン・コーミッシェ・オーパー  7時30分

 お騒がせ演出家ハンス・ノイエンフェルスによるヴェルディのオペラは、10年ほど前に、ベルリン・ドイツオペラで「リゴレット」を観たことがある。
 マントヴァ公爵が墓場で白骨死体を抱きながら「あれかこれか」を歌ったり、リゴレットの「隠れ家」が椰子の木の生える小島だったり(これは単なるリゴレットの家の庭のデザインかもしれなかったが)と、大変なシロモノに辟易したことがあった。
 それに比べると、この「椿姫」は、思いのほかマトモな路線だ。2008年11月にプレミエされたもので、今シーズンは7回上演、今夜は5回目の上演という。

 舞台装置としては、ガラガラ大きな音を立てて動く幅2m、高さ5mほどの壁みたいな板が3つ。他には何もない。
 冒頭、前奏曲の間に、狂言回し的な役割をも果たす黙役の男がヴィオレッタに手袋を投げ、彼女がそれを拾う――明らかにこれは「男」とヴィオレッタとの「決闘または勝負」の暗示であり、多分この「男」は、彼女を愛して付き纏う死神ではないかとも見られたが・・・・。
 第1幕終結ではこの死神(?)は、愛に勝ち誇ったヴィオレッタの前から怒って走り去って行くという具合で、それは当然だろう。

 同じ第1幕で、この「男」が赤と白の椿の花束をヴィオレッタに示す場面があって、――これは、小デュマの原作「LA DAME AUX CAMELIAS」にある、高級娼婦マルグリット・ゴーティエが月に25日は白の椿の花束を、あとの5日は赤い椿の花束を携えていたというくだりから得たアイディアだろう。ノイエンフェルスも意外に芸が細かい。
 ヴィオレッタは、その中から赤い椿をアルフレードに手渡す。これも原作の小説でマルグリットが同じ行動をしつつ「今日はだめですけど、明日」と言う場面から採ったシーンだろう。これを見た「恋する死神」は激怒し、持っていた花束を叩きつけて去る。――とはいえ、ここまで行くと、原作を読んでいない限り、演出の意味を理解するのは難しいのではないか。

 第2幕での夜会の客たちのうち、女性たちがゾンビみたいな顔をしているのは、有象無象の連中たちを描写するのによく使われるテだから、別に珍しくもなかろう。第3幕も、予想外にストレートな演出であった。
 帰国後に知人から聞いた話では、「ノイエンフェルスはこのプロダクションを創った時期、ちょうど体調が悪く元気がなかったため、この演出はあまり冴えないものになったのだ」とか。なるほど。
 
 指揮はシュテファン・クリンゲレという人。なかなか引き締まった指揮をする。
 歌手陣は、ヴィオレッタ役のブリギッテ・ゲラー(容姿もいい)と、ジョルジョ・ジェルモン役のアリス・アルギリスを除いては、歌唱はあまりいただけない人ばかりだ。
 特にアルフレード役のTimothy Richards という非常に太い声のテナーは、押し出しは悪くはないが、なんとも素人っぽい歌いぶりで。
 なお、歌唱はこの劇場の習慣に従い、すべてドイツ語訳が使われていた。耳あたりが随分違う。

 この劇場の内部はクラシカルで本当に美しく、私は好きだ。だが、不思議に今夜は客の入りがよくない。半分も入っていなかったのでは? 一所懸命やっている指揮者やオケや歌手たちが気の毒に思えたほどだ。9時50分頃終演。

 劇場からヒルトン・ホテルまでは、徒歩で10分もかからない。
 ホテルの前のジェンダルメン・マルクトは、フランスとドイツの大聖堂と威風堂々たるコンツェルトハウスが鼎立する、それはもう美しい景観の広場なのだが、今はクリスマスとあって多数のテントが張られ、イヴェントが行なわれている。クリスマスでなくても、最近はのべつこのようなテントや小屋が設置されているのにぶつかる。折角の美しい広場も台無しで、なさけない。

12・19(水)ベルリン滞在記1 
キリル・ペトレンコ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

    フィルハーモニー  8時

 前日、ベルリンに入る。天気予報では雪と出ていたが、ティアガルテン横の道路に少し残雪がある程度で、市内は雨だった。今日は曇天。大気は冷たいが、意外に寒くないのが有難い。

 初日はベルリン・フィル。
 数ある若手指揮者の中でも、ネジェ=セガンやソヒエフとともに突出した活動を繰り広げているキリル・ペトレンコ(40歳)。このオケ相手にどんな指揮をするか興味津々で聴きに行った。

 但しプログラムがクセモノで、ストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」に始まり、ルディ・シュテファンの「ヴァイオリンと管弦楽のための音楽」(1913年初演)と「管弦楽のための音楽」(1912年初演)、最後がスクリャービンの「法悦の詩」という構成である。
 こんなプログラムは、日本ではとても聴けはしないだろうし、ベルリンだってふだんはどうだろう。今日のホールも空席は少なくなかったし、反応もイマイチというところであった。しかし、こういうプログラムを定期で取り上げるだけ、立派なものと言わなければなるまい。

 ルディ・シュテファン(1887~1915)は、ドイツの作曲家で、将来を嘱望されながらも第1次世界大戦で戦死した人という。
 今夜聴いた2つの作品は、ある意味では中期以降のヒンデミットに似た即物的な作風を感じさせるが、叙情的な部分ではむしろスクリャービンにも似た非常に官能的な和声の色彩感を備えている。そういう点では興味深かったが、部分的にはともかく、全体としては必ずしも面白いものではない(ヒンデミットが苦手な私としては、尚更そうなる)。

 その1曲目では、ヴァイオリンのソロを受け持ったダニエル・スタブラヴァが大きな拍手を受けていた。2曲目はちょっと洒落た念入りな終り方をするが、この最後の音が消えた瞬間に上手上階席あたりで1人の男が何故か「ワハハ」と大声で笑い(この終り方は面白いじゃないか、というニュアンスの笑い方だったが)、場内も釣られて何となく寛いだ雰囲気になり、拍手喝采に移った。
 しかし、キリル・ペトレンコの指揮は非常に明晰で、この2曲をも極めて見通しのいい構築を以って聴かせてくれた。なかなかの手腕である。ただ、ベルリン・フィルがこういう曲をやると、否が応でも生真面目な表情になってしまうが、その辺は彼もオケに合わせたという印象がなくもない。

 その他の2曲でも、気鋭のペトレンコとはいえ、クソ真面目なベルリン・フィルを自己流に引きずり回すということは、未だやっていないようである。
 「詩篇交響曲」ではベルリン放送合唱団が協演、ペトレンコは実に明快なリズム感だ。
 一方、「法悦の詩」の方は、ペトレンコの本領発揮を期待したが、やはりベルリン・フィルの個性が出た真面目な「法悦」になった。だが、このオケが総力を挙げると、この曲の終結の昂揚の個所などはまさに物凄く、それこそ音響的な「法悦」になる。

 9時50分終演。タクシーもつかまらないし、地下鉄に乗るのも面倒なので、ソニー・ビル前からポツダム広場を通り、ライプツィヒ通りをまっすぐに、ミッテの方にあるヒルトン・ホテルまで歩いて帰る。たいした距離ではないし、それほど寒くはない。

12・15(土)ヤクブ・フルシャ指揮東京都交響楽団のバルトーク

   サントリーホール  7時

 都響プリンシパル・ゲスト・コンダクターのヤクブ・フルシャ(チェコ出身)、1年ぶりの登場。今回はバルトーク・プロで、前半が「ピアノ協奏曲第2番」(ソロはゲルハルト・オピッツ)、後半が「ガランタ舞曲」と「中国の不思議な役人」組曲。

 昨年12月にはドヴォルジャークの「スターバト・マーテル」で見事な指揮を聴かせたフルシャ、今年はそれ以上に素晴らしい指揮を披露した。31歳とは思えぬ才能である。
 最初の協奏曲は・・・・「ドイツの大家オピッツが弾くバルトーク」だからまあ、ご愛敬といったところだが、後半の2曲になると、フルシャの躍動的な指揮が冴え、都響から超快演を引き出す。

 「ガランタ舞曲」冒頭での、都響の弦の音色の艶やかさ、しなやかさからして魅惑的だ(コンサートマスターは矢部達哉)。全曲における鋭いアクセント、強烈なデュナミークの対比、激しい起伏。「ガランタ舞曲」は、ここではもはや舞曲というより、一種の怒りの爆発の音楽のような様相を呈する。

 「中国の不思議な役人」も同様。鋭角的で、激烈で、攻撃的な演奏になった。これまでいくつか聴いて来た日本のオーケストラによる「中国の不思議な役人」の中で、量感という点ではこれより上回るものもあったが、これほど鋭い演奏に出くわしたことは、かつてなかった。しかも、オーケストラのバランスには絶妙なものがある。

 こういった演奏を聴くと、フルシャという人には、先日連れて来たフィルハーモニア・プラハというオーケストラより、こちら快調な都響の方が、彼にとってずっと相性がいいのではないか、とさえ思えるほどである。
 テンポが雪崩を打つように動いて行くあたりの呼吸は今一つだが――これは「ガランタ舞曲」でもそうだったが――それが巧くできるようになるのは、たいてい年齢を重ねてからのこと。今はまず、この若々しい覇気を称えたい。
 この分で行くと、来週(20日)の定期のマルティヌーやベルリオーズもさぞ圧巻だろうと思うが、ベルリン旅行のため聴けないのが残念至極。

12・13(木)METライブビューイング トーマス・アデス:「テンペスト」

    東劇  7時

 英国の現代作曲家トーマス・アデスのオペラがMETで上演されるのは、これが初めてとのこと。
 2004年にロイヤル・オペラで初演された「テンペスト」は、もちろん、あのシェクスピアの戯曲に基づく作品である。演奏時間は正味2時間8分、極めて「解りやすい」音楽で、劇的な起伏や叙情味にも事欠かない。ただし、大詰部分は、多少冗長な感がなくもない。

 しかし、この上演を親しみやすいものにしているのは、やはりロベール・ルパージュの幻想的で洗練された演出と、その意を受けたジャズミーン・カトゥダルの気の利いた舞台美術だろう。
 映像で見ても、この舞台は極めて美しい。嵐の場面といい、第1幕の最後でフェルディナンドとミランダが手を取り合って去って行く彼方の背景が海の光景に変わって行くあたりといい、妖精アリエルが乗って大見得を切る派手な吊り装置といい、どれも実に洒落ているのである。
 プロスペローの魔術の世界として、昔のミラノ・スカラ座の客席まで出て来る(プロスペローはミラノの大公だった)が、こういう光景の移り変わりの手際の良さも、さすがはMETというべきか。

 このプロダクションは、ケベック・オペラおよびウィーン国立歌劇場との共同制作とのことだが、それらの歌劇場では、ここまで綺麗に幻想的に舞台が創れるのかしらん?

 指揮は、作曲者自身。歌手陣の中では、プロスペローのサイモン・キーンリイサイド、ミランダのイザベル・レナード(美人だ)、アリエルのオードリー・ルーナ(凄い最高音!)、カリバンのアラン・オークらが目立つ。フェルディナンドのアレック・シュレイダーも悪くない。キーンリイサイドは別として、概して未だそれほど馴染みの無い歌手が多いが、しかしみんな上手い。

12・12(水)シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団

   サントリーホール  7時

 武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」(尺八:柿界香、琵琶:中村鶴城)、シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロ:ワディム・レーピン)、ストラヴィンスキーの「春の祭典」という、N響にしてはちょっと珍しいプログラム。

 デュトワが音楽監督を務めていた頃には、N響の定期にはこのようなプログラミングが日常茶飯事だったはず。
 今でも、デュトワが振ると、こういう曲目編成がさらに映える。それにオケが巧いから、「春の祭典」にしてもシベリウスの協奏曲にしても、音の量感が物凄く、それだけでも痛快になるだろう。

 武満作品を外国人指揮者が手がけると、日本人指揮者のそれと異なり、かなりメリハリの強いものになることが多い。彼の作品の別の側面が浮彫りにされるようで、それはそれで非常に興味深い。

(追記)レーピンについて何も触れていないのは演奏が悪かったということだな、というコメントをいただきましたが、決してそういうわけではありません。書く時間がなかっただけで・・・・。

12・11(火)トゥガン・ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団

    愛知県芸術劇場コンサートホール  6時45分

 土曜日にロシアものを聴いたばかりだが、このコンビの演奏、フランスものも魅力なので、名古屋まで聴きに行く。
 なんせ今夜は、ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」、ラヴェルの「ボレロ」、休憩後がベルリオーズの「幻想交響曲」、というプログラムで、――こんなふうに曲を並べた演奏会には、めったに出会えないだろうし。

 ソヒエフ、ロシアものではクセモノぶりを発揮して大胆不敵な解釈を押し出していたが、フランスものとなると流石に節度を心得てというのか、端整でストレートな構築を聴かせる(前回来日の際にもそうだった)。この対照が面白い。

 今夜の「ボレロ」では、遠くからゆっくりと近づいて来るような最弱音とテンポで開始し、さほど劇的に煽り立てたりせずに最後までそのテンポを保持したまま頂点に持って行くという指揮。これもその端整さを示す一例か。しかしその一方で、「幻想交響曲」の第2楽章の終りをフワッと力を抜いて締めてみせるというような洒落っ気も披露してみせる。
 いずれにせよ、彼が音楽監督として、既にこのオーケストラを完全に掌握し、細部に至るまで制御していることは、どの曲の演奏を聴いても明らかである。

 オーケストラの方も、すこぶる多彩な表現を聴かせる。
 最初の2曲では、音色は華やかではあるが綺麗な音というほどではなく、むしろ土曜日のロシアものと同じように、硬質で荒々しい音を響かせていた。
 ところが、「幻想交響曲」に至るや、俄然しっとりとして均衡豊かな、豊麗な音を響かせはじめる。特に弦楽器群の艶やかな音色は素晴しく、第3楽章後半などではその美しさが最高度に発揮された。その中でも、チェロ・セクションの力強さと華麗さは、称賛されていいだろう。
 最後のクライマックスは、この光彩陸離たるオーケストラの響きと、音楽を熱狂させながらも決して造形を崩さぬソヒエフの巧みなコントロールとが精妙に合致して、極めてスリリングなものとなっていた。

 アンコールは「カルメン」第3幕への前奏曲と、同じく第1幕への前奏曲(また!)。しかし前者では、木管のソロが順番に次々に前面に出て来ては入れ替わるといった演奏が面白く、この辺りはソヒエフの解釈というより、フランスのオケならではの味、と言った方がいいかもしれない。

 今年来日したオケの中では、これが一番面白かった。これより上手いオケはあったが、これほどヴィヴィッドな演奏をするオケは、他になかった。
 終演は8時50分頃。9時半の「のぞみ」に乗り帰京。

12・10(月)中嶋彰子のコンセプト・演出・歌による「月に憑かれたピエロ」

    すみだトリフォニーホール  7時

 これは随分と凝った企画である。
 すでに石川県立音楽堂と高岡文化ホール(富山県)での公演を終り、今夜が東京公演。

 ソプラノの中嶋彰子が夫君ニルス・ムース指揮するアンサンブルと協演して歌うシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」は、2009年10月にもいずみホールで聴き、その見事な歌唱に感心したことがある。だが今回は彼女自ら演出も担当しての、能と映像とのコラボレーションによる舞台上演だ。
 協演のアンサンブルは、ニルス・ムース指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢のメンバーおよびピアノの斉藤雅昭。能の分野からはシテ役を渡邊荀之助(シテ方宝生流)、笛を松田弘之、太鼓を飯嶋六之佐、地謡を佐野登・渡邊茂人・藪克徳。映像は高岡真也が担当していた。

 舞台は、下手側に「洋楽」アンサンブルが位置し、中央に巨大なスクリーン、その下手側に太鼓、上手側に笛と地謡が並ぶ。スクリーンには月をはじめさまざまなアート的映像が投影。
 今回は全曲を「夜話」「悪夢」「ノスタルジア」の3つ(3幕)に分けての舞台とし、中嶋彰子は娼婦やピエロの扮装で歌いながら演技。シテも幕によって般若となり、あるいは老婆の霊となり、ピエロを威嚇したり慰めを与えたりする。

 ピエロを主人公とするシュールな詩の内容を集約かつ展開して一つのストーリーを構成したのは中嶋自身のようだが、これはきわめて良くできた筋書と言える。
 そしてまた、能の笛や太鼓による演奏と、シェーンベルクの音楽とは、不思議に違和感なく交錯して、興味深い効果を出す。
 「月に憑かれたピエロ」が、こうした試みの結果、どのようなイメージの世界になったかは、聴く人の考え次第。

 字幕もアートの一環となり、中央のスクリーンに投射される――のは洒落たアイディアである。ただ惜しむらくはその字幕は全曲の一部に過ぎなかったため、ただでさえなじみの薄い作品の内容が聴衆に理解されにくかったのはたしかだろう。
 あの歌詞がすべて字幕で出たからと言って内容が理解できるとは限らない(むしろ混乱するかもしれない)が、やっぱり、何を歌っているかが解った方がいいのではなかろうか(プログラムには歌詞が掲載されているが、それはまた別だ)。

 ついでながら、地謡も字幕が出たほうが解りやすかろう。終り近くでは、「姥捨山とはなりにけり」と歌われていたように聞こえたが、これがみんなにもはっきり解れば、最後の曲で優しい「老婆」が出て来て去って行き、ピエロが白いばらの花を手に見送る光景――「大地の歌」のような雰囲気もあって感動的だったが――の意味も、さらに浸透したのではないか。
 ともあれ、7日の「日本舞踊×オーケストラ」とともに、これは面白い体験。更に煮詰めて再演を。

12・9(日)池田香織(Ms)片寄純也(T)のワーグナー

   マーゴホール(東京麻布)  3時30分

 これは日本ワーグナー協会の例会なのだが、その特別コンサートで歌われたワーグナーがなかなか素晴らしかった。

 まずこの2人が、木下志寿子のピアノで「ヴァルキューレ」第1幕後半(ジークリンデとジークムント)を歌う。これもなかなか好かったが、次の「パルジファル」第2幕の後半部分では、池田のクンドリ、片寄のパルジファルに加え、客席にいた大塚博章(Br)が突然立ち上がりクリングゾルとして参加、さらに城谷正博がサプライズ・ゲストとして駆けつけ指揮を執り、いっそう迫力のある演奏を聴かせてくれた。
 歌手たちが素晴らしかったのはもちろんだが、指揮者がいると全体がこうも引き締まるものかと、感心しながら聞き惚れる。

12・8(土)トゥガン・ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団 初日

    みなとみらいホール  7時30分

 ソヒエフ、楽しみにしていた。
 今回は8~14日で5回の公演。最終日の京都を除き、ロシアもの・フランスものそれぞれの特集プロだ。今夜はロシアの方で、バラキレフ~リャブノフの「イスラメイ」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」。

 3年前の来日の際に聴いた印象とは、今回はかなり違う。
 さすがロシアものとなると、ソヒエフも「やりたいこと」を存分にやるらしい。もっとも、このオケのシェフに就任して既に4シーズン目、呼吸が合って来たので、それだけ思い切ったことができるようになったのかもしれない。

 とにかく、ロシアものでは、ソヒエフはかなり濃厚で粘っこい音楽をつくる。「シェエラザード」など最たるもので、ホールを揺るがせる物々しい「シャリアール王の主題」による開始から、曲のあちこちでテンポを自在に制御して大きな矯めをつくったり、木管のソロを気取った感じで吹かせたり(奏者たちが実に楽しそうに洒落た「間」を取って吹く)。
 フィナーレでは、第3楽章までの遅めのテンポを一気に解放、かのフェドセーエフもかくやの猛速で煽りに煽り、ついに冒頭の「シャリアール王の主題」を轟然と再現させるあたりの演出の、巧いのなんの。
 美人コンサートミストレス(ジュヌヴィエーヴ・ロレンソウという人がそれか?)のソロもなかなか妖艶だし、弦楽器群もやや硬質な張りと厚みのある音で、強大で迫力あるトレモロを聴かせる。オケも巧いし、ソヒエフも曲者ぶりを発揮、ということで、これは実に面白い「シェエラザード」であった。

 「イスラメイ」と「火の鳥」はそれほど大芝居調ではなかったが、前者では音色が妖麗、後者ではストラヴィンスキーの「ロシアの作曲家」という側面――これはゲルギエフがお家芸にしているコンセプトだが――を浮彫りにしたアプローチ。いずれも面白かった。

 いい演奏だったのに、客の入りが今一つだったのは残念。だが客席は結構盛り上がっていたので、それに気を好くしたのか、ソヒエフとオーケストラは、ドヴォルジャークの「スラヴ舞曲第1番」と、ビゼーの「カルメン」前奏曲(前半のみ)をアンコールとして演奏した。
 どちらも、3年前にもやったものだ(他にないのかしら?)。威勢のよさはあの時と同じ。ただ前者は、3年前には金管が強すぎ、最初の主題など旋律線が全く聞こえなかったが、今回は弦がはっきりと浮き出ていて、主題としての形も明確になっていた。

 ソヒエフにはソロ・カーテンコールも1回。終演は9時40分頃。

12・7(金)日本舞踊×オーケストラ

   東京文化会館大ホール  7時

 プログラムは、ショパン~ダグラスの「レ・シルフィード」、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」(抜粋)、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「ボレロ」。
 演出は花柳壽輔、オーケストラは大井剛史指揮の東京フィル。

 音楽と演奏が泰西もので、舞台上が日本舞踊。この組み合わせは極めて巧く行っており、企画としても大成功、意義深いものだ。日本舞踊の分野には全く暗い私にも、大いに愉しめるものであった。主催制作は東京文化会館。
 客席には、綺麗なおキモノを召した綺麗なオバサマたちもぞろぞろ。ふつうのクラシックの演奏会にはちょっと見られない、華やいだ雰囲気だ。

 藤蔭静枝の振付による「レ・シルフィード」は、吾妻徳彌ほか白衣の女性20人の群舞が美しく、ちょっと「白鳥の湖」的な雰囲気もあったが、30分間の舞踊にしては動きがそれほど多様でないため、少しもたれる感もあるだろう。
 いっぽう、坂東勝友の振付による「ロメオ」は、花柳典幸と尾上紫の純日本風の姿が決まっていて、プロコフィエフの音楽との不思議な落差と調和が妙味を出す。
 花柳壽輔と井上八千代の振付と出演による「牧神」は、オリジナルを和風に変えてのもの。渋いが、情感があって好い。

 傑作だったのは、五條珠實振付による「ペトルーシュカ」で、これも純日本風の衣装と容姿だが、特に花柳寿太一郎が演じる「ムーア人」のコミカルな味と、花柳輔蔵が演じる「人形遣い」の怪奇な扮装と舞踊の迫力に、洋風バレエにはない面白さを感じさせた。
 観客を盛大に沸かせたのはやはり花柳壽輔・花柳輔太朗・野村萬斎の振付による「ボレロ」である。これは台上で舞う野村萬斎よりもむしろ、40人もの和装の男たちの群舞の見事な動きに魅了される。この日本舞踊の美しさと力強さは、世界に誇れるものだろう。

 これでオーケストラが、もっと引き締まってメリハリもあって、技術的にもちゃんと演奏してくれていたら・・・・。
 この東フィルというオケ、定期のステージではあれほど立派な演奏を聴かせるのに、ピットに入るとどうしてああも頼りない薄っぺらな演奏になるんだか。

     ⇒音楽の友2月号「ロンド」

12・5(水)クリスティアーネ・エルツェ(ソプラノ)の
シューベルト、ウェーベルン、プーランク他の歌曲集

   トッパンホール  7時

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 土曜日に横浜で聴いた彼女の歌唱は、体調不良が原因だったという人もいたが、やはりそうではなかったようだ。
 本来はこのコンサート、河村尚子がエルツェを迎えてリートに挑む、という趣旨だったらしい。その狙いはいいとしても、惜しむらくはそのエルツェが、横浜での演奏と似たようなもの、もしくはそれ以下だったということ。基本的に、声のコントロールができなくなっているのだろう。お客さんの中には、怒ってロビーで息巻いたり、休憩時間に帰ってしまったりした人もいた。
     ⇒音楽の友2月号 演奏会評
 私としてはこのエルツェの歌唱は、雑誌の演奏会評にも取り上げたくないシロモノだが、編集部の意向により敢えて書くことにする。

12・4(火)クリスチャン・ツィメルマン・ピアノ・リサイタル

   サントリーホール  7時

 2種類のプログラムで、ほぼ1ヵ月の間に12回の公演を行なっている名手クリスチャン・ツィメルマン。
 今夜はAプログラムで、ドビュッシーの「版画」と、「前奏曲集 第1巻」から6曲(「帆」「吟遊詩人」「雪の上の足跡」「亜麻色の髪の乙女」「沈める寺」「西風の見たもの」)、後半がシマノフスキの「9つの前奏曲」作品1からと、ブラームスの「ソナタ第2番」。

 圧巻はやはり、これまでの来日演奏会におけると同様、シマノフスキの作品だった。
 シマノフスキは、正直なところ私個人としては、ふだんはさほど興味を惹かない作曲家なのだが、しかしツィメルマンの演奏で聴くと、彼の作品が、恰も宝石のような輝く光を放ちはじめる・・・・そして、何か不思議な懐かしさの深淵の中へ強い力で引き込まれるような感覚を呼び起こすのである。至福の時間だ。

 その叙情的な陶酔感が、ブラームスの激しい第2ソナタで劇的に破られる瞬間も、実に衝撃的である。こういう見事な対比に心を揺さぶられる快感は、ナマのコンサートならではものだろう。前半のドビュッシーも、静謐な、しかも濃密な美しさで愉しめた。
 アンコールは無し。

12・2(日)シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団

    NHKホール   3時

 ストラヴィンスキーのオペラ「夜鳴きうぐいす(ラ・ロッシニョル)」と、ラヴェルのオペラ「子供と魔法」の組み合わせ。いかにもデュトワらしい、興味深く魅惑的なプログラムである。
 最近のN響の定期には意欲的な曲目編成が見られるようになったが、――「保守的な嗜好」の傾向が強いと噂のある定期会員の反響は如何に? 今日など、ストラヴィンスキーのあとの拍手が随分薄くて、演奏者にはちょっと気の毒な感もあった。

 この2曲、いずれも演奏会形式。
 歌手陣は何人かが両曲をカケモチで、アンナ・クリスティが前者では「夜鳴きうぐいす」を、後者では「火」他を歌い、デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソンが各々「中国の皇帝」と「大時計&オス猫」、エドガラス・モントヴィダスが各々「漁師」と「ティーポット」他を歌うという具合。後者の「子供」は、エレーヌ・エブラールが歌った。
 日本人歌手も、天羽明惠(お姫様他)、青山貴(侍従)、村上公太(日本からの使者)他が出演。合唱は二期会合唱団。「子供と魔法」ではNHK東京児童合唱団が参加していた。

 こういうレパートリーを手がけると、さすがにデュトワはいい。N響の演奏にも、一種の艶やかさが生まれて来る。特にストラヴィンスキーでのしなやかな美しさには感心した。
 ただ、ラヴェルでは一番オーボエの高音域の音色が腑に落ちず、演奏の流れという点でも、デュトワなら更に流麗に仕上げられるはずだという気がしないでもないが・・・・。

 字幕には些か疑問がある。特に「子供と魔法」の方は、ただ椅子だ、火だ、壁紙だ、庭だ、傷の手当だと訳語を並べても、そこがどういう場面だかの説明がなくては、初めて聴く人たちには何が何だか、見当がつかないだろう。字幕は演出の一部だ。工夫を願いたい。

12・1(土)マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団のベートーヴェン~4

     サントリーホール  7時

 横浜から戻って、今回の東京でのツィクルスの最終回を聴く。「第8番」と「第9番」だ。
 バイエルン放送合唱団(かなりの人数)が、今日と明日(横浜)の「第9」のためだけにわざわざ来日した。豪華なものである。

 ソリストは、クリスティアーネ・カルク、藤村実穂子、ミヒャエル・シャーデ、ミヒャエル・フォレ。
 このうち、カルクだけはあまり馴染みがなかったけれども、プロフィールに、2年前のザルツブルクでムーティが指揮した「オルフェオとエウリディーチェ」のアモーレを歌っていたと書いてあるのを読んで、あの可愛いソプラノだったかと思い出した。ただ、他のベテラン3人のソリストに比べると、やはり声が軽く、多少バランスを崩すだろう。
 一方、この曲のメゾ・ソプラノのパートをはっきり聞こえさせる歌手としては、藤村実穂子はおそらく唯一の人かもしれない。

 この2曲では、マリスは本当に正面から真摯に取り組み、ひたすら精魂こめて、何一つ余計な飾りをつけずに指揮して行った。何か曲をいじくらねば気が済まぬという風潮の目立つ当代の指揮者連の中にあって、これはこれで独自の美学であろう。
 時にはちょっと物足りなく感じることもあるが、時にはその自然さが気持のいいこともある。

 今夜の演奏の中でたった一つユニークなことと言えば、「第9」第4楽章の行進曲の個所で、2番トランペットのパートを舞台下手の袖から奏者を次第に近づかせながら吹かせ、吹き終わると退場させた趣向だろうか。
 これは当然歌詞の内容に応じてのことだろうが、さほど劇的な効果というほどではなかったようである。以前ザルツブルク音楽祭でヤンソンスとこのオケが「第9」を演奏した時には、こんな趣向はなかった。

 その他は、「8番」第4楽章最後の和音を、切りつけるように鋭く終らせたことくらいだろうか。そこでは、マリスが指揮棒を凄い勢いで第1ヴァイオリンとコントラバス群の方へ突き出したのが印象的な光景であった。
 ヒューマンな雰囲気を滲ませて指揮をし、それにふさわしい音楽をつくったマリスは、演奏終了後、またもやソロで2回も舞台に呼び戻されていた。

12・1(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

    横浜みなとみらいホール  2時

 「スダーンのブルックナー」は、やはり私にとって大きな魅力だ。
 「6番」はあまりナマで聴く機会のない曲だし――私はこの曲、非常に好きなのである――期待に胸膨らませて(というのも大袈裟だが)横浜へ出かけて行った。

 東京交響楽団がこのホールのアコースティックに未だ慣れていないのか、第1楽章の最初の方では、何かまとまりを欠くような響きでやきもきさせられたが、しかし、この楽章のコーダ近くになると、演奏は俄然大きく聳え立って来た。
 第2楽章では弦が素晴らしく、第3・第4楽章では要所に至るやオーケストラ全体が急激に力感を増す、そのあたりの演奏は壮烈を極める。あの「7番」「8番」における頃のスダーン=東響の凄さが、今日の後半には完全に蘇っていた、と言ってよかろう。

 明日のサントリーホールでの演奏の時には、慣れたホールだけに、おそらく冒頭から威力を発揮するのではなかろうかと思う。

 前半には、クリティアーネ・エルツェをソリストに、マーラーの「子供の不思議な角笛」から「ラインの伝説」など7曲が歌われた。
 エルツェを聴くのは実に久しぶりで――もしかしてザルツブルクでガーディナーがベートーヴェンの「レオノーレ」を指揮した時にマルツェリーネを歌っていたのを聴いて以来、十数年ぶりかもしれない――どんなに成長したかと、これも期待していたのだが、この日は何とも首を傾げざるを得ない出来だった。特に高音域になると声がふらふらで、聞くのも痛ましいくらいであった。こんなはずではあるまい。

 もっとも、2日ほど経ってからスダーンから聞いた話では、「彼女は時差ボケ、睡眠不足、最悪のコンディション。あの日は気の毒だった。翌日は素晴らしかったよ」とのことだった。まず一安心、といったところ。

   音楽の友2月号 演奏会評

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