2017-02

11・30(金)モーツァルト:「コジ・ファン・トゥッテ」

    滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール  2時

 大阪からJRの新快速で大津へ移動。速い。

 この「コジ・ファン・トゥッテ」は、琵琶湖ホール恒例のシリーズ「沼尻竜典オペラセレクション」の一環である。今回はバーゼル歌劇場との共同制作で、演出・舞台美術・照明は同歌劇場総裁のジョルジュ・デルノンが担当した。

 出演は、フィオルディリージを佐々木典子、ドラベッラを小野和歌子、デスピーナを高橋薫子、フェランドを望月哲也、グリエルモを堀内康雄、ドン・アルフォンゾをジェイムズ・クレイトン。びわ湖ホール声楽アンサンブルと日本センチュリー交響楽団、指揮が沼尻竜典――という顔ぶれ。

 デルノンの演出は、もちろん現代の日常的な場面の中で展開されるパターンで、特に突飛な仕掛けといったものはない。
 新機軸とも思われる点といえば、2人の男の変装を、文字通りの変装ではなく、それぞれ大きな別人の顔写真をかざして、「別の男」を象徴的に表現した手法にあるだろう。それゆえ舞台上では、本来のフェランドとグリエルモの容姿をそのまま見せているが、登場人物たちも観客も、既に彼らは別人――と心得たことを前提としてドラマが進められることになる。
 面白いのは、第2幕に至り、「遊び心」が昂じて来た姉妹の方も他人の顔写真を掲げ、彼女らまでが「別人」となることを宣言する設定だろう。このあたりで、恋人4人の関係が、スワッピングの様相をさえ呈して来たことが暗示されると見てもいいのかもしれない。

 ラストシーンがハッピーエンドに終らぬことは、現代の演出ではもはや常識であろう。
 今回も、2組の恋人たちの過去の関係は、ものの見事に瓦解する。ただし、組み合わせを変えたカップルがどうやら1組は出来そうだ――ということが暗示された瞬間に、オペラが終る。

 だがこの演出、今回のこの舞台は、残念ながら、どうも未整理の要素が多い。流れも決してスムースとは言えず、演技にも中途半端で作り物めいたものが感じられて、観客を快い愉しさに巻き込むまでには行かない。つまり、舞台にノリが足らず、常に「隙間」のようなものを感じてしまうのである。演出家と歌手たちの間に、呼吸の合わぬ何かがあるのかもしれない。

 沼尻竜典と日本センチュリー響の、オーケストラ・ピットでの演奏は、私は大いに気に入った。
 敢えて作為的な誇張も採らず、極めて率直な解釈で自然に押す沼尻の指揮に、オーケストラも柔らかい優麗な響きで応え、この曲の叙情的な美しさを十全に表出していた。グリエルモが髭を自慢する歌の個所での弦楽器群のソフトな音色にはハッとさせられたし、モーツァルトがこのオペラで余す所なく発揮している木管の官能的な和音の響きも明晰に聞こえて、たっぷりと魅了されたものである。

 但し、歌手たちとの関係は――? 
 歌とオケのあのテンポのズレは、どうしたことだろう? 1人ならず2人も3人も、また一度ならずしばしば、歌手たちが「走る」。歌手が指揮を見て歌っているのか、それともオケの音に合わせようとしているのか。副指揮者がいるのかいないのか。――特に第1幕では、それを気にしているうちに、疲れてしまった。

 歌手陣では、佐々木典子がベテランらしく、すべてに温かい大人の女性の味を出した。
 小野和歌子は歌唱表現に硬さがあるものの、舞台姿が映えるので、今後に期待が持てる。
 望月哲也と、大ベテランの堀内康雄は、コミカルな雰囲気を狙って精一杯の熱演と見えたが、どうもいつもと違い、作り物めいて無理があるような――。
 高橋薫子にしても同様、かつてツェルリーナ役で示した冴えも今回は聴けず見えず、舞台に溶け込んでいないように感じられてしまった。あの名手にして、こうなのである。
 ジェイムズ・クレイトンに関しては・・・・何だかつかみどころのない人だ。

 休憩20分を含み、5時35分頃終演。夜帰京。

11・29(木)児玉宏指揮大阪交響楽団 第171回定期公演

    ザ・シンフォニーホール  7時

 午後の新幹線で大阪に入る。
 プフィッツナーとリヒャルト・シュトラウスの作品を組み合わせた、いかにも児玉=大阪響らしいユニークで意欲的なプログラムなので、聴きに出かけた次第だ。

 曲目が振るっている。東京のオーケストラさえ、ここまでできるかどうか。
 前者では「小交響曲 作品44」と、オーケストラ伴奏付歌曲集から「裏切られた恋と孤独な心」「マルクに寄す」「レーテ」「「さすらい人の夜の歌」「起床ラッパ」の5曲。
 後者は、作品33の歌曲から「讃歌」と「巡礼の朝の歌」の2曲および、「ばらの騎士」組曲。

 オーケストラ作品にせよ、歌曲にせよ、こうして並べて聴いてみると、同時代の作曲家と雖も、プフィッツナーはやはり地味で渋く、それに比してR・シュトラウスは派手で巧くて、大向こうを沸かせる術を心得ているなあ、と改めて痛感してしまう。

 歌曲は小森輝彦が――つい4日前に山形で「さまよえるオランダ人」を歌ったばかりの彼が、今度は大阪に現われて――見事な歌唱を聴かせてくれたが、その彼の声が、どんなにオーケストラが高鳴った場合でも、シュトラウスの時にはプフィッツナーと違ってオケにマスクされず、明晰に、鮮やかに浮き出して聞こえるのである。
 滅多に聴けぬプフィッツナーの歌曲にも接することができた喜びは味わえたけれども、それでもやはりシュトラウスの作曲技術の「巧さ」には魅了されてしまう。さすが「声+管弦楽」の分野では千軍万馬のR・シュトラウス・・・・だ。

 「小交響曲」(20分ほど)も、ナマで聴いたのは初めてなので、稀有で貴重な機会になった。曲の最初の方には、チャイコフスキーを晦渋にしたようなところもあって可笑しかったが、フルートやオーボエなど管のソロが活躍し、渋いながらも叙情的な美しさを滲ませていたのも印象的である。ここでの大阪響のソロは、みんな素晴しかった。

 「ばらの騎士」組曲は、これはもう、欧州の歌劇場で場数を踏んでいる児玉宏の本領であろう。 
 直接音の多いこのホールで大編成の管弦楽を聴くのは、私にはどうもまだしっくり来ない・・・・つまりこのホールのアコースティックには未だに「慣れていない」のだが、にもかかわらず児玉宏の指揮するこの曲の形容しがたい味のようなもの、妖艶な色彩感、作品本来の好さを100%発揮させる独特の感性――といったものは、十二分に堪能できたのであった。この曲でも、オーボエのソロが印象に残る。
 アンコールとして、曲の終りの部分が繰り返された。こちらの演奏は更に纏まりがよく、活気も更に高まっていた。

 児玉さんは楽屋で、「僕は何も、プフィッツナーがシュトラウスと比べてダメだ、なんてことを証明するためにプログラムをつくったわけじゃないんですよ」と笑っていた。私もその意図は充分理解している。
 ではあるけれども、演奏会全部を聴き終ってみると、やっぱり、何だかプフィッツナーが完全にR・シュトラウスの引き立て役にまわってしまった感も――。

11・28(水)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

    サントリーホール  7時15分

 ハーディングの指揮ではあまり聴く機会のないロシアもので、チャイコフスキーの「交響曲第4番」と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。相当な重量感だ。
 そのプログラム人気ゆえか、あるいはハーディング人気ゆえか、今夜は客席もほぼ埋まっていたのは祝着である。

 「4番」は、一見ストレートな演奏のように聞こえるが、ハーディングの指揮は、細部にも神経を行き届かせたものだろう。第1楽章では比較的抑制されたテンポが採られていたが、チャイコフスキーがスコアに(序奏とコーダを除く)「モデラート(中庸に)」という指定を繰り返し書き込んでいることを思い起こし、なるほどと思う。ただし、総じて言えば、ハーディングならでは――というほどの演奏でもなかったようで。
 オケの方では、1番ファゴット(河村幹子)の表情豊かなソロを称賛したい。

 「春の祭典」でのハーディングは、流石に面白い。欧州の手兵オケとならもっと大胆不敵な解釈をするだろうと思われるが、それでも新日本フィルを存分に沸騰させ、ホールを大音響の坩堝に叩き込む。
 第2部序奏の【86】からのトランペット2本を超最弱音で吹かせ(スコアではp一つ)、「選ばれし生贄の踊り」の【149】以降の弱音リズムにちょっとディミヌエンドを加える(これは誰かもやっていた手だが)など、――そういう細かい演出も、それはそれでいい。
 しかしそれよりも、最大の良さはやはり、オーケストラに非常な活力を注入し、演奏に熱気を持たせていた点にあろう。新日本フィルも、特に第2部の途中以降、手応え充分な高い密度の演奏を聴かせてくれた。

11・27(火)マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団のベートーヴェン~2

     サントリーホール  7時

 第2日は、「第1番」「第2番」「第5番《運命》」というプログラム。
 最初の2曲では弦12型編成だったが、「第5番」では一挙に16型(但し管はオリジナル通りの2管編成)に拡大された。作品の性格に対応する、もっともな手法であろうと思う。

 演奏の特徴は昨日のそれとほぼ同様だ。但し全体に今夜の演奏の方が何かいっそうのリキが入っていて、推進力といい音の密度といい、非常に強いものがあったように感じられたのだけれど、如何。
 「第1番」は、まあこのコンビならこの程度の演奏は当然だろう、というものだったが、「第2番」の、特に後半2楽章では、音楽にみるみる強靭な力と密度が増し、12型とは思えないほどの厚みと重量感のある響きに盛り上がって行ったのには驚かされた。

 「運命」でも快速なテンポが採られ、第1楽章には休みなく前進し驀進するエネルギー感があふれる。第4楽章では、特に展開部でのひた押しに押す力は圧倒的で、それはこの作品の物凄さを改めて認識させてくれるに充分なものであった。
 基本的にはイン・テンポの演奏だが、昨日の「英雄」と同様にデュナミークの変化は極めて緻密で、主題やモティーフを受け持っている楽器のパートを瞬間的にスッと浮き上がらせたり、音楽が昂揚するにつれ楽器のバランスを少しずつ変化させて行ったりする精妙な指揮を聴くと、マリスがこのオケを見事に掌握しているさまが窺えるだろう。昨日のこの欄では「あまり大胆な試みをせず」と書いたが、これは取り消さなくてはならぬ。

 アンコール曲はまた弦だけで、ハイドンの「セレナード」。終ってマリスが弦楽器奏者たちを答礼のため立たせた時、演奏していなかったファゴット奏者の1人が釣られて立ち上がったものの早トチリに気づいて慌てて腰を下し、大いに照れまくって顔を抑えたり頭を抱えたりしながら周囲の仲間たちから冷やかされている光景は、何とも可笑しかった。

11・26(月)マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団のベートーヴェン~1

     サントリーホール  7時

 午前7時07分山形発の「つばさ」で帰京。この列車は停車駅が少ないため、2時間29分で東京に着く(前日の往路のは2時間46分だった)。

 さて、マリス・ヤンソンス定例の、秋の日本公演。今年はバイエルン放送交響楽団の番だ。
 ドイツのオーケストラとの、満を持してのベートーヴェン交響曲の集中全曲ツィクルス。その東京初日は、第4交響曲と第3交響曲「英雄」、というプログラムで開始された。

 今回はバイエルン放送とNHKとの共同作業によるテレビ収録があり、またDVD制作も絡んでいるとかいう話だ。そうなると当然、演奏にも熱が入るわけだが、その反面、冒険を避けて正確さを求める演奏にもなるだろう。
 もっとも、もう一つの手兵コンセルトヘボウ管弦楽団を相手の時とは違い、バイエルン放送響相手の時にはあまり大胆な試みをせず、オーソドックスなスタイルを採ることの多いマリスだから、ましてベートーヴェンの交響曲ともなれば、正面きった端整な指揮になるのは自明の理だろう。事実、これまで聴く機会のあったベートーヴェンのいくつかの交響曲でもそれは実証されているし・・・・。

 「第4番」では弦12型、「英雄」は14型・オリジナル2管編成が採られていた※。
 2曲ともに、ケレン味の全く無い、ストレートで整然とした演奏である。テンポにも誇張が一切ないので、一寸見にはサラリとした演奏に感じられるが、デュナミークの扱いには極めて神経の行き届いた設計が施されており、これが音楽の流れに鋭いアクセントと大きな起伏を生み出しているのが聴き取れるだろう。
 それに加え、ひたすら前へ前へと音楽を推し進める強靭なエネルギー感、緻密で厚みのある響き、しなやかなエスプレッシーヴォ――といったものも充分備わっている。渋いけれども充実感はある。いかにもマリスならではの、真摯な演奏というべきか。

 アンコールには、意表を衝いてシューベルトの「楽興の時」第3番。
 こんな曲をやるとは、珍しい。それに、私の世代にとっては、懐かしい。・・・・半世紀以上も前、堀内敬三氏の解説で始まるNHK第1放送日曜朝の「音楽の泉」の、このテーマ音楽が当時どれほどクラシック音楽ファンの胸を躍らせたことか。

※「4番」も14型だったよ、と指摘して下さった方がいた。よく数えたつもりだったが、間違えたか? TVでも確認したと言っておられたから、多分そちらの方が正しいのだろう。しかし・・・・。

11・25(日)飯森範親指揮山形交響楽団「ある幽霊船の物語」

    山形テルサホール  4時

 朝の浜松は快晴。ここは30年近く前に、FM静岡(現K-MIX)の開局に際し番組編成責任者として4年間赴任、浜松交響楽団ほか多くの地元の方々と愉しい交流をしたことがあるだけに、今でも懐かしく、第2の故郷のように思える街だ。当時の駅北口は未だ工事の真最中、今のアクトシティの辺りなどは強風吹き荒ぶ原っぱだった。駅周辺の変わりようには、ただもう呆然とするばかりである。ただ、あまりに大きなビルがたくさん建ちすぎて、昔のような人間味が薄くなってしまったな、という感じがしないでもない。

 その浜松を、9時11分の「ひかり」で発ち、10時40分東京駅着、11時08分の「つばさ」に乗り継いで午後1時54分山形駅着。こちらも美しい快晴だ。冷気が爽やかで快い。意外に寒くないので有難い。

 山形へ聴きに来た公演は、山形交響楽団創立40周年記念の一環、音楽監督の飯森範親が指揮する第224回定期演奏会。
 「ある幽霊船の物語」とは今回の公演用の客寄せ用(?)のタイトルで、種を明かせば、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」である。
 今回は字幕付演奏会形式上演で、第1幕のあとに休憩を入れ、第2幕と第3幕は続けて演奏するヴァージョンを使用。第2幕の最後と第3幕の3重唱では、慣例的な一部カットが施されていた。

 結論から先に言うと、今回のこれは、特筆すべき快演であった。
 まず、飯森範親のテンポが実にいい。直截明快、速めのテンポで歯切れよく、ぐいぐいと押す。第3幕のノルウェー船とオランダ船の水夫の合唱部分あたりはブッ飛ばし過ぎの感があったが、どの幕においてもクライマックスに向けて息もつかせず追い込んで行くテンポ感覚はすこぶる気持のいいものだった。見通しのいい構築の指揮ゆえに、長さを全く感じさせなかったのも美点である。

 山形響の充実ぶりも目覚しい。演奏は引き締まって、張りと活気がある。濃密かつ分厚い重量感に富んだ響きも、昔のこのオケからは想像もできなかったものだ。それもやはり、飯森の指導よろしきを得ての結果であろう。

 重要な合唱も、山響アマデウスコアが健闘した。特に男声合唱は、少人数にもかかわらず、煽り立てるオーケストラに拮抗して力強く響いていた。幽霊船水夫たちの合唱も今回は舞台上で歌われたが、そのパート(グループ)のみ、前に立てたマイクを通し、PAで音質を若干加工するという面白いテクニックが使用されていた。

 快演の要因は、声楽ソリスト6人の充実にもある。
 オランダ人を歌った小森輝彦は、悲劇的な運命に苦悩する真摯な船長としての性格を巧みに打ち出していた。4年前の二期会公演のヴォータン役では、少し声の質が合わないかなという感もあったが、こちら「オランダ人」は、まさに当たり役であろう。

 更なる素晴しい出来を示したのは、ゼンタを歌った橋爪ゆか。
 先日のクンドリー(パルジファル)でもその新境地に驚かされたが、今回のゼンタは彼女のキャラクターにいっそう合っているのだろう。バラードでの夢見るような歌い出しから、オランダ人との二重唱を通じて次第に情熱的な女性に変わり、大詰めに向けていよいよ憑かれたような熱狂に変貌して行く体当たり的な歌唱には、舌を巻いた。声も終始安定して、ステージの空気を独占するほどの充分なパワーもある。素晴しいゼンタが登場したものである。

 更に、ダーラント船長役の小鉄和弘、猟師エリック役の経種廉彦、そして脇役の乳母マリーの柿崎泉、舵手の鏡貴之まで粒の揃った歌手陣。
 柿崎泉の歌唱は今回初めて聴かせてもらったのだが、シンの強いアルトの声が印象的だった。これほど存在感の強い乳母を歌える人は、決して多くないだろう。

 休憩1回を入れ、6時35分頃全曲が終了。2回公演の、今日が2日目だった。
    
     ⇒モーストリークラシック2月号「オーケストラ新聞」

11・24(土)第8回浜松国際ピアノコンクール本選2日目と入賞者発表

     アクトシティ浜松大ホール  2時

 2日目に登場したのは、韓国人1人と日本人2人。
 キム・ジュンと中桐望がブラームスの「1番」を弾き、佐藤卓史がショパンの「1番」を弾く、という組合せだった。

 キム・ジュン(29歳、フランクフルト音楽・舞台芸術大学)は、第3次予選の際にも自分の主張をはっきり出していた人だったが、今日の協奏曲でもすこぶるエネルギッシュな演奏を聴かせた。豪快で骨太なタッチで、自信満々の音楽をつくる。特に第1楽章ではその力強いアプローチが、若きブラームスの気魄を表出するのに成功していたであろう。
 ただ、あとの2つの楽章が、その力感に比してちょっと単調になったかという印象で、何か決め手を欠くという演奏になったのが惜しい。

 続いて中桐望(25歳、東京芸大大学院)が登場。
 キムの豪快な演奏のあとで同じブラームスの「1番」を弾くというのは、いくら美女でも、音楽の迫力の点ではちょっと分が悪いのではないか、というのが取材スズメたちの下馬評の一つだったが、どうしてどうして。
 ワタシはワタシのやり方で・・・・とばかり、キムとは正反対の抑制したテンポと表情の、じっくりと一つ一つの音を慈しむような弾き方を以ってソロに入って来たのを聴いた時には、「やるなこの人、その調子だ」と秘かに拍手を贈りたくなったほどである。
 彼女は、ゆったりした弱音の主題やフレーズの個所ではいっそう大きくテンポを落して、しかも繊細な味を出す。第2楽章などは、かつてのグレン・グールドほどとは言わぬまでも、極めて沈潜したモノローグを織り成すといった感である。その遅いテンポの、じっくりと歌い上げる演奏が、時に曲の構築性を曖昧にすることがあったとはいえ、自分自身のアプローチを明確に出すという姿勢は高く評価できる。

 最後に登場したのが、佐藤卓史(29歳、ウィーン国立音大)。
 ブラームスの「1番」を2回続けて聴いた後では、このショパンの「1番」は、なんと爽やかに綺麗に聞こえたことだろう! いや、たしかにその演奏自体が、実に綺麗だったのだ。彼は、何の屈託もなく、流れるように、滑らかに弾く。音楽が、些かの逡巡も無しに、美しく紡がれて行く。今日は井上道義と東京響が、昨日とは打って変わってしっとりとした音(但しファゴットだけは荒っぽい)でソリストを支えていたが、佐藤のソロも、恰も室内楽のようにオケとの調和を図って行った。第1楽章半ばのソロや第2楽章では、彼のカンタービレの見事さに思わず聴き惚れたほどだ。
 不満といえば、それがあまりに達者に屈託なく流れすぎることだろうか。それゆえ、演奏が時に単調な印象を与えかねない。曲想に応じて、もっと色合いや陰翳の変化が欲しいところではあった。

 これで本選は終了。
 1時間以上の審査時間を経て、予定より20分遅れて同じ大ホールで審査結果発表と表彰式が行なわれたが、協賛社名やら特別来賓やら支援者やらの名前が読み上げられ、更に感謝のコメントやらスピーチやらのセレモニーが延々と続く(通訳が入るからいっそう長くなる)、結果発表までに30~40分を要したのはチト長いし、野暮ったい。

 で、海老彰子審査委員長から発表された入賞結果は、以下の通り――。
 第1位及び聴衆賞:イリヤ・ラシュコフスキー
 第2位:中桐望 
 第3位及び室内楽賞:佐藤卓史
 第4位:アンナ・ツィブラエワ 
 第5位:キム・ジュン
 第6位及び日本人作品最優秀演奏賞:内匠慧。
 この他、奨励賞が、第3時予選まで残っていたアシュレイ・フリップ(英国、23歳)に贈られていた。
 私の予想とは若干違ったところもあるが、1位のラシュコフスキーに関しては、まず異論のないところである。

 ちなみに、今年の応募者総数は288名、応募年齢制限の上限は30歳だった由。平均年齢が若干上がったため、出場者の年齢の幅が広くなる結果となり、いろいろな考え方を呼ぶだろうが、まあ致し方ないだろう。
 ソロと室内楽・協奏曲の3ジャンルによる審査が採られたというのも、今年の新機軸だそうだ。これは当コンクールの特色ということで、支持したい点である。

     ⇒ショパン 特集

11・23(金)第8回浜松国際ピアノコンクール本選初日

    アクトシティ浜松大ホール  6時

 2300席、完売という。かなりの熱気である。
 本選出場者は6人。火曜日に聴いた4人のうち、これはなかなか良いな、と思った3人が3人とも、本選出場を果たしていた。
 本選ではソロの曲はなく、全員がコンチェルトを1曲ずつ演奏するという仕組。井上道義が指揮する東京交響楽団が協演している。

 初日の今日は日本人1人、ロシア人2人が登場。
 最初に内匠慧(たくみ・けい)がラフマニノフの「第2番」を、次にアンナ・ツィブラエワがシューマンの「イ短調」を、最後にイリヤ・ラシュコフスキーがプロコフィエフの「3番」を弾いた。

 この中では、ラシュコフスキーがダントツで光っていた。ロシア生まれの27歳、パリのエコール・ノルマル音楽院で学び、昨年のルービンシュタイン国際コンクールで3位に入賞している人だ。
 弾いたのがプロコフィエフという自国の作品であることは、まず絶対の強みだろう。しかもすこぶる演奏効果の上がる曲ということもあって、文字通り体当たり的な、激しい推進力にあふれたソロが展開された。第2楽章後半や、第3楽章大詰めでのオーケストラとの気魄の応酬は舌を巻くほどであった。今日は最初から煽り気味の演奏をしていた井上と東響が、この曲ではいっそう猛り立って突進した感もあり、その3者の熱気に、客席までが大変な盛り上がりを示したのであった。

 ラシュコフスキーの演奏では、単に勢いがいいというだけでなく、音楽に明快な自己主張を感じさせた点がまず評価されるだろう。先日の第3次予選でも、ソロ曲では豪快な推進性を、室内楽では他の楽器と調和する姿勢を見事に使い分けていたラシュコフスキーだが、今夜の協奏曲でも硬軟使い分け、オーケストラと丁々発止の対決をするという情熱の演奏を聴かせたのである。

 同じロシアのピアニストでも、アンナ・ツィブラエワ(22歳、モスクワ音楽院)は、今夜はちょっと緊張が過ぎたのか。古典的ともいうべき清楚なピアニズムで、このシューマンの協奏曲から繊細な面を浮き彫りにしようとする姿勢は理解できるし、美しい音は持っている。ただし曲の最初からして少し表情が硬かった上、タッチにも不安定なところがしばしば聞かれたのは事実だ。第1楽章のカデンツァあたりから調子を取り戻したように思えたが、その後もやはり不安定さが付きまとう。それでも第3楽章は、よくやった、というところだろう。

 最初に弾いた日本の内匠慧(20歳、英国王立音楽院)は、弾く前は何か緊張気味だった様子だが、いざ弾きはじめると、なかなかの豪壮なスケール感を示し、オーケストラの煽りにも拮抗して力強く進んで行った。ただし時にリズムが揺れるような感があったのは何故か? また、ゆったりした個所ではやや緊迫感が薄らぐような印象があり、第3楽章では第2主題も含めてややパッションが下降気味(?)になる。優等生だが、聴衆の心に響いて来るものが何か一つ・・・・といったところか。

 火曜日にも書いたことだが、――若者たち、本当に一所懸命、よくやっている。称賛したい。

      ⇒ショパン 特集

11・22(木)藤村実穂子リーダーアーベント

   紀尾井ホール  7時

 すでに日本でも圧倒的な人気を集めている藤村実穂子の独墺歌曲の夕べ。客席は一杯に埋まっていた。聴衆の拍手のタイミングも、完璧なものだった。

 プログラムは、シューベルトの作品から「湖で」など5曲、マーラーの「亡き子をしのぶ歌」、ヴォルフの「ミニョンの歌」、R・シュトラウスの「献呈」など6曲という構成だったが、これはなかなか巧みな配列構成だ。プログラムを追うごとに、ダイナミックな色合いやドラマティックな表現が次第に増して行き、高まって行くという流れを感じさせる。
 その中でもヴォルフの歌曲は、今夜の白眉だったのではないか。やや悲劇的な様相を帯びた、ホールの空気をびりびりと緊張させるような彼女の声は、ヴォルフの作品のような陰翳にあふれた歌において、いっそう凄味を発揮しているように思う。

 彼女も、以前とは少し声の質と色合いが変って来たように感じられるが、――しかし、これほど重量感あふれる巨大なスケールをもった歌唱を聴かせる日本人歌手が、かつて存在したであろうか?

 ピアノはヴォルフラム・リーガー。この人も、温厚な演奏ながら、なかなか味があって好い。
 

11・21(水)ピエール=ロラン・エマール ピアノ・リサイタル

   トッパンホール  7時

 「ル・プロジェ・エマール2012」と題された、おなじみエマールの個性的なプログラムによるシリーズ。
 今年はリサイタルが2回、レクチャーが1回開催された。テーマはドビュッシー。

 今夜はその初日で、ドビュッシーの「前奏曲集第1巻」を核に、前半にクルターク(「遊び」より7曲および「スプリンターズ」)とシューマン(「ノヴェレッテ」など9曲)を組み合わせたプログラム。
 前半はすべて続けて演奏されたが、これがまた見事な、完璧な繋がりを示す。そしてそれらは、後半のドビュッシーとも、これまた魅惑的な流れを形づくる。

 エマールは自らの解説文で、「シューマンの作品の、交替する夢想と衝動が生むコントラストが、ミニアテュールの巨匠といわれるクルタークの作品に呼応する・・・・これらはいずれも関連のない曲を一つの作品集としてまとめたもの」という意味のことを述べ、それを「多様な構成曲ながら一つの曲集としてまとまっている」ドビュッシーの作品と対応させている。
 それが結果的にコンセプト倒れにならず、われわれを実際に魅了する演奏となっていたのは、ひとえにエマールの卓越した感性ゆえであろう。

 私自身は、今夜のピアノの音色にはあまり共感できなかったけれども、しかし演奏におけるエマールの解釈には、教えられるところが極めて多かった。

11・21(水)METライブビューイング ヴェルディ「オテロ」

   東劇  午前11時

 去る10月27日上演のライヴ。1994年に制作されて以来メトロポリタン・オペラの定番になっているイライジャ・モシンスキー演出版。
 今回の指揮はセミョン・ビシュコフ、歌手陣はヨハン・ボータ(オテロ)、ルネ・フレミング(デズデーモナ)、ファルク・シュトルックマン(イアーゴ)他。

 実はこのプロダクションは、2003年3月19日夜に、METで観たことがある。
 その時は、ゲルギエフの指揮、バルバラ・フリットリ(デズデーモナ)とウラジーミル・ガルージン(オテロ)、ニコライ・プチーリン(イアーゴ)という主役陣だったが、強烈な記憶として残っているのは、ちょうどその上演中にアメリカが対イラク開戦を行ない、攻撃を開始したことだ。
 METを出た時、目の前のマンハッタンの高層ビルの間に輝く月がやたら鮮やかに見え、この静けさがいつまで続くかな、という思いに、心が波立ったことを覚えている。
 翌朝のテレビは、セントラル・ステーションの物々しい警備を生中継しつつ、非常の場合にはイーストリヴァーの橋はすべて封鎖されるといったような、テロに備えてのブリーフィングを延々と報道。しかも天候は雷鳴も轟く土砂降り・・・・とあって、これはエライ時にニューヨークに来てしまったもんだ、などと、少々心細くさえなったものである。

 余談はともかく、このモシンスキーの演出は、極めてトラディショナルなもの。古い演出の舞台によくあることだが、特に今回は、群集の演技には概して所在なげな動きが見られた。
 ボータもフレミングも、歌唱を含めた舞台の出来は、予想通り、大体無難な水準にある。ただし脇役歌手たちの演技は、なぜかおそろしく下手だ。しかもビシュコフの指揮が、冒頭から何ともメリハリがなく、緊張感にも乏しく、ただヴェルディの音楽そのものが持つ高貴な迫力と美しさにのみ依存するような状態で・・・・。

 私のお目当ては、シュトルックマンがイアーゴを演じ歌うことにあった。これは期待通り、すこぶる重量感あふれる風格で舞台をさらっていた。このオペラのタイトルは「オテロ」よりも「イアーゴ」とした方がふさわしかろう、という昔からの説を思い出す。悪役というより、馬力で押すイアーゴになっていたのも、予想通りである。

 ボータは、体調不良のためにこのプロダクション出演を当初降りていて、この日から復活したらしい。しかし、進行役のラドヴァノフスキーが、歌手インタビューでそのことをしつこく繰り返し、「休んだことへの感想は?」などと訊くものだから、ボータがマイクを持ったまま露骨に嫌な顔をし、横でフレミングが懸命に彼を弁護しつつフォロー、進行役をたしなめるような表情(それもかなり強い調子の)をする光景も見られた。
 インタビューでこんな質問をするものではない、とはわれわれ記者の間でもイロハの常識である。ライヴ特有のハプニングではあるものの、これは放送事故に近い類のものだ。

11・20(火)マイケル・ティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団

   東京文化会館大ホール  7時

 つい3時間前のコンクールの張りつめた雰囲気から気持を切り替えるのには多少の努力を要するが、そこはそれ、新幹線の中での仮眠をも利用しつつ、職業意識でなんとか。

 今夜のコンサートは、都民劇場の公演だ。ソリストのユジャ・ワンを含め演奏者は昨夜と同じだが、プログラムは全く違う。
 最初にジョン・アダムズの「ショート・ライド・イン・ア・ファストマシーン」(1986年作曲)なる、ファンファーレ系の賑やかな小品が演奏された。プログラムにアメリカの現代作品を加えるのは、MTTとこのオケの前回の来日公演でも行なわれたことだ。聴衆の反応はイマイチとはいえ、姿勢は評価されてしかるべきだろう。

 2曲目が、ユジャ・ワンが弾くプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第2番」。
 これは彼女の壮烈な体当たり的熱演と、豪快かつ強靭なピアニズム、激しいエネルギーの炸裂、などといった特徴を持つソロの威力が、存分に発揮された演奏と言えるだろう。第1楽章展開部での長い激しいソロは、背後に詰める指揮者やオーケストラの存在をすら忘れさせるほどであった。
 昨夜のラフマニノフと同様、小気味よい演奏で、しかも作品との相性という点では、今夜のプロコフィエフの協奏曲の方がハマっていたかもしれない。
 ソロ・アンコールにはシューベルト~リストの「糸を紡ぐグレートヒェン」だったが、こちらの方は糸紡ぎの車というより、タービンが回転するような感。

 後半は、ラフマニノフの「第2交響曲」。アメリカのオーケストラらしい艶やかで豊麗な音色が、この作品の叙情的な面を余す所なく浮き彫りにする。
 聴かせどころの第3楽章など、厚みのある、しかも明るく温かい弦の音色がひときわ映えた。楽章の最後で、弦の最弱音が微かに消えて行く個所では、その美しさに、私のうしろに座っていたお客さんが溜息を漏らしていたほどである。

 ただし、第4楽章大詰のような昂揚個所でもMTTは全くと言っていいほどテンポを加速せず、あくまでイン・テンポのままで「正確に、明晰に、整然と最後を決め」る。これは、昨夜のマーラーの「5番」と同様だ。ブルックナーの交響曲ならそれは適切な選択だが、これらの作品の場合には些か欲求不満を免れず・・・・といってもこれは彼の美学なのだから、とやかく言っても致し方ない。
 それにしてもサンフランシスコ響、今夜もまたこの上なく立派な演奏であった。

 この豪勢で華麗な音の洪水には、さすがに少々疲労。アンコールまでは聴かずに失礼させていただいた。

11・20(火)第8回浜松国際ピアノコンクール 第3次予選2日目

   アクトシティ浜松中ホール  午前10時

 夜のサンフランシスコ響演奏会を聴く前に、時間が取れたので、浜松で開催されている第8回浜松国際コンクールを覗きに行く。
 今週金・土曜日に行なわれる本選は「オブザーバー」としての立場で聴く予定なので、今日は事前取材のようなものである。

 1991年の第1回開催以来、ガブリリュク、ゴルラッチ、チョ・ソンジン、ブレハッチ、コブリンらを優勝者もしくは最高位入賞者として輩出して来たこの「浜松国際コンクール」、立派な実績を挙げている。
 今年「第8回」は、第1次予選出場者が約70人。その中から第2次予選出場者が24人、第3次予選は12人、と絞られて来た。今日は第3次の2日目である。

 時間の関係で、朝からのイリヤ・ラシュコフスキー(ロシア)、キム・ジュン(韓国)、實川風(日本)、女性の中桐望(同)の4人しか――しかも中桐の演奏は途中までしか聴けなかったが、4人ともそれぞれはっきりと特色を出していて、「どれも皆、いいじゃない」と言いたくなってしまう。
 「若い審査員はライバル意識のため若者に厳しい評価を与えるが、年輩者は概して若者に甘い」(1994年チャイコフスキー国際コンクールでの審査方法についてのマスコミの感想)という言葉を、ふと思い出した。

 第3次予選は、ソロと室内楽とを併せて行なわれていた。ここで聴いた全員が、実に美しい音色を持っているのに感心する。
 ラシュコフスキーは、ソロでは豪快なテクニックとスケールの大きな推進力で「展覧会の絵」などを鮮やかに演奏する一方、モーツァルトの「ピアノ四重奏曲第1番」では、アンサンブルを重視してバランスよく弦と合わせる。
 一方キム・ジュンは、アンサンブルの中でも自己主張をはっきり出し、非常に活力に富む演奏で室内楽をリードしていった。ソロでも、リストのソナタでは緊張感を失わず、パウゼにさえも張りつめた気分を感じさせていたのが注目される。

 これらに対し日本勢2人は、いかにも正確無比な演奏で、音楽をきっちりとつくり上げるという感があったろう。この2人のうちでは、中桐の音色の爽やかさ、特にスクリャービンのソナタでの明晰さと伸びやかさが印象的であった。
 彼女の演奏の途中だったが、とにかく4時過ぎに失礼した。新幹線「ひかり」で東京に引き返す。

11・19(月)マイケル・ティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団

   サントリーホール  7時

 マイケル・ティルソン・トーマス(以下MTT)とサンフランシスコ交響楽団は、1997年10月に来日したことがある。それは彼がこのオケの音楽監督に就任して3シーズン目に入った時のことだった。
 その頃、彼はPMFの芸術監督をも務めていた。当時やはりPMFで活躍していた佐渡裕は、MTTの指揮を「新鮮なフルーツをスパーッと切り、酸っぱいシブキがビャーッと飛ぶような感じ」と表現したものであった。
 今回は従って、コンビとしては実に15年ぶりの来日である。

 MTTも、来月には68歳になるはずだが、指揮にはまだ若々しい雰囲気があふれている。オーケストラも実にいい音を出しているし、いい演奏をしている。両者の関係は良好なのだろう(内情などは知らない)。
 今夜のプログラムは、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」と、マーラーの「第5交響曲」。

 ラフマニノフが始まった瞬間、冒頭のリズムが歯切れ良く、演奏にも実に見事な勢いがあるのを聴いて、昔のMTTそのままだな、という気がしてうれしくなる。
 マーラーにおける明晰な響き、バランスを決して崩すことのない音の構築なども、MTTがロンドン響との演奏でも聴かせていた特徴だ。熱狂しながらもどこかに冷静さを保っている音楽づくりも、彼一流のもの。第5楽章の狂瀾怒涛ともいうべき終結においてさえ、彼は整然たる正確な形を決して崩さない。

 第4楽章の有名な「アダージェット」での、冴えた弦楽器群の音色と、澄んだ叙情美もいい。
 それに、オケのソロ――特にトランペットとホルンの巧いこと。いかにもアメリカのオケらしい滑らかな音色もあふれて、このオーケストラは相変わらず好調のようである。

 ラフマニノフでピアノ・ソロを弾いたのは、このところ人気の高い若手の女性、ユジャ・ワン(王羽佳)だった。精悍な感じを与える容姿にふさわしく、ひたすら突き進むエネルギーにあふれた演奏は、胸のすくような素晴らしさだ。
 大きく裾の開いたドレスのため、前列に座っていた男性のお客さんは、気が散って演奏を聴くどころではなかったという話だが、・・・・まあ、前列でなくてもそうでしょう(オジサンたちはすぐこうだから困りますな)。

 ラフマニノフのあとのソロ・アンコールで、MTTもピアノの前に座って協演したプーランクの「連弾ソナタ」第3楽章が、闊達な演奏で面白かった。
 彼女の猛烈に素早い動きのお辞儀をMTTが真似したのには場内大爆笑だったが、そのあと何度目かの答礼では、彼女がスピーディなお辞儀をしてふと頭を上げると、隣でMTTがまだ深々と低頭しているのに気づいた彼女が急いでまた頭を下げる、といったようなシーンもあった。まるで仲の良い父娘の協演のよう。微笑ましい。

※アンコール、会場の発表に釣られ「第1楽章」などと書いてしまいました。しかも訂正するのを忘れており、失礼しました。コメントでのご指摘、恐縮です。

11・17(土)ネオ・オペラ「マダム・バタフライX」

   KAAT神奈川芸術劇場(ホール)  3時

 宮本亜門の演出には少なからず興味を持っているので、今回も観に出かけた。
 彼が構成・演出したネオ・オペラ「マダム・バタフライX(エックスと読む)」なるこれは、プッチーニの「蝶々夫人」をもとに、「オペラ的演劇」の未来を考える試み――またはオペラと演劇との融合の試みとして制作されたもの。その試み自体は、非常に有意義なものだと思う。

 今回は、オペラの演奏がテレビ・スタジオでビデオ収録されるという設定に仕立てられており、登場人物は、蝶々さん(嘉目真木子)、ピンカートン(与儀巧)、シャープレス(大沼徹)、スズキ(田村由貴江)、ゴロー(吉田伸昭)、ケイト(鈴木純子)の5人のみにしぼられ、その範囲内でオペラが進行する。合唱や、その他の脇役は出て来ない。
 従って音楽も、彼らが歌う場面のみが抜粋されることになるが、それを止めたり飛ばしたりするのはテレビ・ディレクター(柳橋朋典)のキューで尤もらしく行なわれるという具合だ(巧いアイディアですね)。

 オペラの演奏の間には、スポンサーの無理解に頭を抱えるチーフ・プロデューサー(神農直隆)と、番組制作に情熱を燃やす女性プロデューサー(内田淳子)による演劇パートが絡む。
 オーケストラ・パートは、ピアノ2、ヴァイオリン・トロンボーン・パーカッション各1に編曲(山下康介)されている。

 という段取りだが、さて――。
 前出の「女性プロデューサー」が、私生活では離婚協議中、しかも彼女の息子が蝶々さんの子供役を演じる、という設定が初めの方で明らかにされれば、ははァこの演出の落しどころは、その「親権問題」だな、と容易に見当がつくだろう。
 それはよろしい。だが、その親権に苦しみ、オペラの物語に身をつまされる女性プロデューサーの芝居はステージの脇の方で(控え目に)進められ、最後も彼女がその子をひしと抱きしめるだけで終り、一方オペラの方は、最後までオリジナルのストーリー通りに進められて終る・・・・というのでは、何だそれだけか、と拍子抜けしてしまう。

 私はもっと、この女性プロデューサーの私生活での親権をめぐる怒りがオペラの演出にまで影響を及ぼし、オペラの舞台が思いもかけぬ方向に展開してしまうような手法が採られるのではないか、という期待を持っていたのだが・・・・。
 思うに亜門先生、よほどプッチーニの作品に遠慮したのか、それとも最近の御多忙のために掘り下げの時間がなかったのですかな? 

 いや、智略縦横の宮本亜門なら、なぜ強引にこの「演劇」をオペラの領域に割って入らせ、今話題の「国際結婚の破綻の場合、どちらが子供を引き取るか」の問題にまでテーマを拡げなかったのかな、と思う。東京文化会館での二期会公演でならいざ知らず、自ら芸術監督を務める神奈川芸術劇場(KAAT)の公演ならば、何の遠慮も要らぬはず。
 たとえばかりに、ここでペーター・コンヴィチュニーのやり方をパクって、演奏を中断し、登場人物たちが「この問題についてみんなどう思う?」という議論を始めたとしても、そう大きな文句は来ないのではないかとも思うのだけれども・・・・(来たら来たでいいじゃありませんか)。

 蝶々さんを歌った嘉目真木子が素晴らしい。今年の東京音楽コンクールで最高位になり、すでに3年前から二期会など多くのオペラで活躍している若い人だ。
 ピアノは極めて達者だったが、編曲は少々乱暴なところがある。
 仕切り板の他には何にもない舞台を、庭や部屋の背景を加えた「テレビ映像」に変えて大きなスクリーンに投影する手法は大いに結構だろう――蝶々さんの「部屋」が、妙にあばら家みたいに見えたのは可笑しかったが。

11・16(金)三ツ橋敬子指揮東京フィルハーモニー交響楽団定期

   サントリーホール  7時

 ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲、ブロッホのヘブライ狂詩曲「シェロモ」(ソロはガブリエル・リプキン)、ムソルグスキー~ラヴェルの「展覧会の絵」というのが今日のプログラム。

 彼女の指揮はすでにいくつかの演奏会で聴き漁って来たけれども、オーケストラによって相性の良し悪しもあるようだし、その関係もあってか、演奏の出来にも微妙に差が出るようである。
 ただ、程度の差こそあれ、この人が指揮する音楽には、いつも何か一種の「力みかえった」ような要素が感じられるだろう。この癖が解消し、演奏にしなやかさと自由さが満ち溢れるようになったら、彼女の指揮はもっと素晴らしくなるのではないか、とも思う。

 もっとも今でも、この力みが良い方向に作用することもある。
 例えば今夜の演奏でも、「火の鳥」の「魔王カスチェイの凶悪な踊り」や、「シェロモ」の後半でのクレッシェンド部分や、「展覧会の絵」での数多いダイナミックな個所などでは、すこぶる雄大剛直な、小気味よいほどの咆哮怒号が聞かれたのであった。彼女の指揮を初めて聴いた人なら、あんなに小柄で華奢な身体つきの女性指揮者から、よくまあこんな力感溢れる音楽が生れるものだ、と感嘆するかもしれない。

 「展覧会の絵」の、特に後半では、東京フィルの音はいよいよ豪壮になり、金管群をはじめすべての楽器が見事な均衡を保って鳴り響いた。
 このあたりでは、指揮者がオーケストラを充分に制御していたのだろうとも思うが、一方、東京フィル自身も、その範囲で自分の音楽を存分にやっていたのかもしれない。
 要するに、これは快演だったということ。

11・14(水)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団

   サントリーホール  7時

 ゲルギエフが精魂込めて育てた若手奏者を中心とする最近のマリインスキー管弦楽団がどんな音を出すか、ロシア作品の演奏でそれを確かめたかった。
 今夜のプログラムは、リャードフの「キキモラ」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロはデニス・マツーエフ)、ショスタコーヴィチの「第5交響曲」。オケのアンコールはチャイコフスキーの「胡桃割り人形」の「アダージョ」。

 昨年の「トロイアの人々」や、今年の「ルチア」でも感じたとおり、たしかに弦の音色はいい。昔のマリインスキー管――ゲルギエフ着任後の10年間ほどの時代のことを言っているのだが――に聞かれたような濃厚華麗な極彩色や深い陰翳はもはや無いが、その代わり、明るい張りのある響き、清澄な音色、シャープな切れ味といった特徴が弦楽器群に備わるようになっている。
 私は、個人的にはショスタコーヴィチの「5番」というのは全く好きな曲ではないのだが(4番の方がずっといい)、しかしこの弦の音色であれば、第1楽章や第3楽章は聴いてもいいと思ったし、事実、満足できるものだった。

 ラフマニノフの「3番」では、熱狂的な終結にかけ、これでもかと煽り立てて行くゲルギエフの手法が今回も冴える。ここをワッと沸かせるようにもって行く作戦の巧さでは、ラトル(ザルツブルクでの演奏)と、このゲルギエフが双璧ではなかろうか。
 今夜は、それに乗ってマツーエフが猛然たるパワーを全開した。ソロ・アンコールは、チャイコフスキーの「四季」からの静かな「10月」と、グリーグの猛技(?)炸裂の「山の魔王の宮殿にて」。若者らしい元気は買うが、2曲もやることはなかろうに。

 プログラム冒頭の「キキモラ」では、いかにもロシアの色彩感という特徴が聴かれたが、これは数分の小品に過ぎぬもの。
 その他の曲目では、作品の性格からして、どうやら外面的な威容ばかりが目立つ演奏に終始したようである。凄いけれども感動には及ばざりき、というところか。――これがゲルギエフの本領であっては困る。
 今夜はまさに立錐の余地もない満席。

11・13(火)ラドゥ・ルプー・ピアノ・リサイタル

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 一昨年(2010年)秋に来日した時は、体調不良のため京都で1回演奏会をやっただけで帰国してしまったので聴けず。とすると、ルプーの演奏を聴いたのは2001年以来11年ぶりというわけか。

 彼はそれまでは3~5年に1度ずつ来日していたのに、今世紀に入ってからは、とんと御無沙汰だった。
 今回も、手を傷めたとかで川西での公演をキャンセルし、ファンをだいぶ心配させたが、そのあとは復帰して何とか今夜の最終公演までこぎつけた。

 今夜のプログラムは、シューベルトの「即興曲 作品142」、フランクの「前奏曲、コラールとフーガ」、ドビュッシーの「前奏曲集第2巻」。アンコールがドビュッシーの「雪の上の足跡」及びシューベルトの「楽興の時第2番」。
 全体に遅いテンポ(というイメージの)の作品、フォルティシモがない(というイメージの)作品ばかりが並び、非常に沈潜した世界が形づくられる。

 もっとも、遅いテンポでじっくりと作品の内面を突き詰めて行く演奏も、ピアニッシモの音色の美しさも、彼にとっては昔ながらのもの。
 その場合でも決して形式感を失わなかったのがルプーのルプーたるゆえんで、そのへんが自分勝手に遅いテンポにのめりこんで独善的な陶酔に浸るどこやらのピアニストと異なるところだったが、――さすがのルプーも、今回は手の故障が影響を生んでいたのか、演奏の緊迫感が時に薄らぐ瞬間も感じられないではなかった。「即興曲」の後半2曲などではそんな傾向も少し・・・・。
 だが、やはりドビュッシーは透明清澄な世界で、見事だった。

 客席は満杯。熱烈なルプー・ファンも健在。

11・12(月)ゲルギエフ&デセイ ドニゼッティ:「ランメルモールのルチア」

    サントリーホール  7時

 ワレリー・ゲルギエフ指揮するマリインスキー管弦楽団の来日は、昨年2月以来のこと。
 前回はベルリオーズの「トロイアの人々」で快演を披露したが、今回はドニゼッティの「ランメルモールのルチア」全曲。

 演奏会形式で、タイトルロールをナタリー・デセイ(ドゥセ)、エドガルドをエフゲニー・アキーモフ、エンリーコをウラジスラフ・スリムスキー、ライモンドをイリヤ・バンニク、アリーサをジャンナ・ドムブロスカヤ、アルトゥーロをディミトリー・ヴォロバエフ。日本側からはノルマンノ役の水口聰と、新国立劇場合唱団が参加していた。

 歌手陣の面から見れば、どうやら今夜のコンサートは、ナタリー・デセイ1人で支えられていた、といってもいいほどだろう。とにかく、彼女の存在は、ずば抜けている。
 声の見事さもさることながら、歌唱の微細なニュアンスや劇的な表現力は完璧というにふさわしく、彼女が歌い出すと、音楽に虹のように多様な色彩の変化が生れてくる。悲劇的な女性ルチアの感情の変化――第1幕での愛の幸福感が第2幕では悲しみと絶望に変じ、第3幕では狂気に陥る、その表現の多様さをこれほどニュアンス細かく描き出せるソプラノ歌手は、今日、稀なる存在ではないかとさえ思える。

 「狂乱の場」では、今回は作曲者の原案通りグラスハーモニカが使用されていた。その視覚的かつ音色的な珍しさが、初めのうちはデセイの歌への集中力を欠かせる傾向なきにしもあらずだったが、――満員の客席は文字通り息を呑んで彼女の歌に聴き入った。

 ゲルギエフの「もって行き方」は、相変わらず巧いの一語に尽きる。
 舞台上演の時と違い、演奏会形式オペラの時の彼のテンポは速くなることが多いが、今回もかなり速めであった。ランメルモールの城の祝宴の場の合唱なども疾風の如きテンポで進められ、時にアンサンブルが追いつかないところもあったし、第2幕最後の6重唱と大アンサンブルも、また第3幕第1場のエドガルドとエンリーコの憎悪あふれる応酬の場面――この第1場をカットせずに演奏してくれたのはありがたかった――などもおそろしく速いテンポで、そのため詩趣が失われる傾向も、なくはなかった。

 もっとも、遅いテンポでしんねりむっつりやられるよりは、この方がどれほどいいかわからない。それに、劇的昂揚感を味わわせてくれるという面では、ゲルギエフのそれは、常に天下一品である。
 さらに・・・・7時開演で、休憩30分を挟み、ほぼノーカット演奏ながら、それでも9時55分に演奏が終了したのは、この速いテンポだったからこそであろう。

 それにしても、ゲルギエフに率いられたマリインスキー管の、歌を支える呼吸は見事。さすが歌劇場のオーケストラならではの熟練である。全曲冒頭のホルンなど金管の音色の陰翳の深さなど、まさにロシアのオケの音。
 「マリインスキーの音」が、変貌しつつも健在だったのはうれしいことであった。

 なお、オケの名称表記は、ここでは英語表記に準拠して「マリインスキー管弦楽団」とした。招聘元の表記は「マリインスキー歌劇場管弦楽団」だが、それをいうなら正式には「マリインスキー劇場管弦楽団」であるべきかな?と。

11・11(日)エド・デ・ワールト指揮NHK交響楽団A定期

   NHKホール  3時

 武満徹とワーグナーを組み合わせるとは、面白いプログラム構成である。

 前者は「遠い呼び声の彼方へ!」と「ノスタルジア~アンドレイ・タルコフスキーの追憶に」の2曲で、ヴァイオリンのソロは、N響のコンマスの1人、堀正文が弾いた。
 そのソロも、オーケストラも、デ・ワールトの指揮も、予想通り端然とした演奏。ネクタイをきちんと締めたタケミツといったイメージか。
 聴きながら、案外この音楽は、そのあとの「ヴァルキューレ」でジークムントとジークリンデが出会う場面の叙情的な弦の音楽と共通するものがあるような気もするな、などと思いをめぐらしたり――。

 休憩後がその「ヴァルキューレ」第1幕の全曲。
 デ・ワールトの指揮は、これも今までの彼の流儀から解るとおり、中庸を得て端整なもの。叙情的な個所ではN響の弦の良さを存分に全開させて魅力的だが、その反面、終結での歓喜の陶酔の場面の音楽は、決して熱狂的、忘我的なものにまでは高まらない。
 だが、N響の演奏とともに、この作品のオーケストラ・パートの美しさを満喫させてくれたという点で、私は満足である。

 それにしても、煩わしい舞台に気を取られることなく、音楽そのものに没頭できるという点で、演奏会形式上演というのは――いいものだ。

 歌手たち3人は、ステージ前方で歌う。1階席後方で聴くと、声が痛快なほどビンビン来る。
 ジークムント役のフランク・ファン・アーケンは体格もいいし、声にも野性的じみた迫力があるが、今回はノドの調子があまりよくなかったらしく、「ヴェルゼ!」の絶唱のあとは、ペットボトルの水をのべつ飲みながらの必死の熱演になっていた。水を飲んだ直後は暫く声の調子が戻るものの、すぐまた荒れて来るので、幕切れなどは少なからずハラハラさせられた。

 ジークリンデのエヴァ・マリア・ウェストブレークは、表情の演技といい劇的な歌いぶりといい、堂に入ったもの。文句のない出来である。フンディングのエリック・ハルフヴァルソンも、底力のある声で凄みを利かせてくれた。

 字幕(岩下久美子)は明快だったが、ひとつだけ。
 ジークムント(勝利の加護を受けた者、の意)が、その悲劇的な身の上ゆえに「フリートムント(平和の加護を受ける者)かフローヴァルト(喜びを司る者)と名乗りたいが、今はヴェーヴァルト(悲しみを司る者)としか名乗りようがない」などと自らの名を喩えて語る個所だが、ここは、原語だけでなく、上記のようにそれぞれの訳語をも字幕に載せた方が、初めて聴く人にも親切だったのでは?
 というのは、終演後にロビーに出て来た2人の女性が「なんであんなに名前をコロコロ変えるの?」「さあ」と囁きあっているのを耳にしたので。

11・10(土)ハンスイェルク・シェレンベルガー指揮カメラータ・ザルツブルク

   すみだトリフォニーホール  3時

 モーツァルトの後期の交響曲とピアノ協奏曲(ソリストは小菅優)とを組み合わせたプログラム4回シリーズの、今日は第3日。

 「フィガロの結婚」序曲に始まり、ピアノ協奏曲の第22番(変ホ長調K.482)と第24番(ハ短調K.491)、交響曲第39番(変ホ長調K.543)が演奏された。
 このシリーズは、実に魅力的なプロだ。出来得れば4回全部を聴きたいところであった。が、なんせ音楽シーズンまっさかりとなれば、いろいろな演奏会を取材する必要にも迫られる・・・・。

 ザルツブルク・カメラータは名門オケだが、現在は芸術監督は不在らしい。かつてベルリン・フィルのソロ・オーボエ奏者として鳴らしたシェレンベルガーは、客演指揮者である。

 今日の演奏を聴く限り、オーケストラはかなり自由なアンサンブルで、あまり細部に拘泥せずにモーツァルトの音楽を愉しんで弾く、という雰囲気だ。
 その昔、名匠シャーンドル・ヴェーグのもとで、毅然たる剛直な美を備えたモーツァルトを聴かせたあのオーケストラとはとても信じがたい現在の音ではあるが、その中に今も醸し出される独特の香りと色合いは、やはり争えないものがある。

 オケの本拠と同じザルツブルク・モーツァルテウムに学んだ小菅優の演奏にも、同質の香りと色合いがあるだろう。今日も活気溢れる瑞々しいソロで、オーケストラ相手に一歩も退かずわたり合い、極めて美しい魅力的なモーツァルトを聴かせてくれた。

11・9(金)ライマン:オペラ「メデア」日本初演 初日

   日生劇場  7時

 サントリーホールから、近くの日生劇場に移動。
 アリベルト・ライマンの新作オペラの日本初演、いよいよその初日。
 去る5日の項で、リハーサルの取材報告としてある程度のことは書いたので、重複は避ける。

 今日の歌手陣は別の組(11日の公演と同じ組)だが、こちらもみんな見事。
 題名役のメデアは、飯田みち代が歌い演じた。この種のドイツ現代オペラにはすでに充分な経験を積んでいる人だ。
 今日は少し声が細いかな、という感もあったが、――しかし今回の演出(飯塚励生)とドラマトゥルギーではグリルパルツァーの原作のイメージが生かされ、子供や夫イヤソンの愛人を殺すメデアがただ怪女として描かれるのではなく、夫に裏切られ追放され、絶望して窮極の行動に走るまでの過程が悲劇的に描かれているので、その意味ではまさに演技も歌唱も、虐げられた可哀想な女メデアとしての表現にぴったりであった。

 彼女の乳母ゴラを演じ歌ったのは小山由美。彼女もこの種のオペラには千軍万馬のつわものだから、気位の高い乳母としての表現力といい風格といい、堂々たる存在感を示す。
 一方、王子イヤソンは、かつてアルゴー船の勇者たちとともに金羊皮を奪還した勇者とも思えぬ男として描かれているが、その危なっかしい男の性格を、宮本益光が巧妙に歌い演じていた。

 コリント王クレオンの大間知覚、その娘クレオサの林美智子、使者の彌勒忠史、いずれも見事な舞台を示して、歌手陣はすこぶる充実していた。
 特に林美智子は、クレオサの愛らしさと横柄さを巧く表現していたが、ただ彼女のメデアに対する感情が二転三転するにいたるきっかけは、多少解かりにくかった。これは演出のせいであろう。

 下野竜也が指揮する読売日本交響楽団の演奏については、5日のリハーサルの項で書いたとおり。リハの時より、演奏が多少慎重になり、野性味を失った感もあったものの、それでも充分に立派なものであった。

 問題は、演出と装置である。あのような制約のある舞台構築では随分難しかったろうが、やはり今回のように2つの管楽器群と演技空間とを舞台上に並列して配置するという形には、やや無理があったのではなかろうか。
 しかも舞台上のオケの譜面灯の光の眩しさは、冒頭の夜の場面への観客の注意力を散漫にし、ドラマへの集中力を欠かせてしまう。眼は次第に慣れてくるとはいえ、それでも感覚的に時々煩わしくなることがある。
 これがホールオペラとか、セミステージ上演とかいうスタイルなら、それなりの割り切り方もあるが、今回はそういうたぐいのものではなかったはずだし。

 世は演出優先の時代で、大体は演奏者側が犠牲を強いられるというのが今日の嘆かわしい風潮だが、どうやら今回は逆に、音楽家側の発言の方が優勢だったとみえる。まずオーケストラがいかにいい音で鳴るか――を第一優先順位にして、あとからそれにあわせて舞台を造った・・・・のでは? 
 それはそれで好いことだし、一つの解決方法であろう。ただ、来年のライマンの「リア」上演の際には、もう一段の巧い工夫をお願いしたいところ。

11・9(金)山田和樹・日本フィル正指揮者就任記念定期 ゲネプロ

   サントリーホール  3時半

 あいにく、今日も明日も本番が聴けないので、本番前のゲネプロを取材させてもらった。せっかくの山田和樹の正指揮者就任記念定期なのだから、せめて陰ながら祝おうと。

 プログラムが面白い。1曲目に演奏された、野平一郎の「グリーティング・プレリュード」は、例の「ハッピー・バースデイ」が主題となり、そのフシは最後に初めて正体を現わすというのがミソだ。ちょっとミステリアスな雰囲気もある、弦の美しい曲である。

 2曲目がガーシュウィンの「ヘ調のピアノ協奏曲」、パスカル・ロジェの客演はゴージャス。だが言っては何だが、こういうアメリカン・スウィング(?)の曲は、日本フィルは、あまり得意な方ではないだろう。
 3曲目は、これは本当に珍しいヴァレーズの「チューニング・アップ」という小品で、オーボエのA音によるチューニングが開始されたと思っているうちに、いつのまにかそれが全管弦楽の大音響に発展するというユーモア溢れる作品である。

 そして最後が、これもナマで演奏されることは珍しい、ストコフスキー編曲になるムソルグスキーの「展覧会の絵」。
 ラヴェルの編曲を光彩陸離と評するなら、こちらは豪壮華美というか、さながら大魔王降臨といったイメージの、4管編成の壮絶な音響の世界だ。「バーバ・ヤガーの小屋」で8本のホルンが兇暴に咆哮するあたり、なかなかのスリルである。
 これは、指揮者として「オーケストラの魔術師」と呼ばれ、また編曲者としても多くの華麗な作品を残しているストコフスキーの面目躍如たるものであろう。原曲のうちいくつかをカットして編曲しているところも、いかにも彼らしい。

 ――というわけで、日本フィルも大熱演。そのあとの本番は、きっとうまく行ったことだろう。

 ゲネプロ後、サントリーホールの会議室で日本フィルの平井俊邦専務理事による記者説明会が開かれ、懸案の公益法人認定に向け、今月1日に申請書を提出、書類が受理されたことが報告された。
 数年間の努力により、2億円の累積赤字の解消にあと一歩のところまで来ながら、事業仕分けや東日本大震災の勃発のため再び大きな打撃を蒙った日本フィルだが、演奏水準の向上と定期会員の増加への努力に加え、楽員たちの定昇・ボーナス停止や役員の給料カットなどの自助努力をも講じつつ、3ヵ年計画で債務超過を解消できるメドが立ち、その約束をもとに申請し、受理された、とのことである。
 公益法人移行には来年11月末までという期限があり、しかも赤字がある限り申請はできぬという内閣府のガイドラインもあるが、今回はそのような杓子定規の方針を適用することなく、良心的な法人には融通を利かせて解決して行こうという姿勢が当局に生れて来たのは、歓迎すべきことであろう。なお専門的な見地からの評論は、こういう問題の得意な渡辺和さんが取材陣に入っていたので、彼のブログで読めるのではないかと思うが。

11・8(木)ジャンルカ・カシオーリ ピアノ・リサイタル

   紀尾井ホール  7時

 ピアノの音色の綺麗さでは、この人は屈指の存在だろうと思う。澄んで、爽やかで、いかなる時にも音が濁ることはない。

 1曲目のシューベルトの「ピアノ・ソナタ第4番イ短調」が始まれば、たちまちその音に魅了されてしまう。
 だが、その美しい音色とは裏腹に、音楽のつくりは、あざといほどに個性的だ。
 このソナタが始まった時には、その画然たるつくりの演奏のため、もしやカシオーリはこの曲を古典的なイメージで描き出そうとしているのかと思ったが、――第2楽章ではまるでメトロノームの如く正確なスタッカートで、主題を時計の音のように刻んで行った。あの「歌」のラインを、頭から拒否した演奏とも言えるだろう。
 興味深い点もないではないが、こういう演奏によるシューベルトは、著しくドライで、味も素っ気もない音楽になってしまう。

 プログラムはそのあと、カシオーリ自身の作たる「3つの夜想曲」、リストの「水の上を歩く聖フランチェスコ(波の上を歩くパウラの聖フランソワ)」、アルベルト・コッラ(1968生)の「夜想曲第4番『月の虹』」、ドビュッシーの「前奏曲集第1巻」から「沈める寺」など6曲、ショパンの「夜想曲 作品15-2」と「スケルツォ第1番」と続く。

 この中では、リストが重厚壮大、まさに「波打つ」ような豪壮な演奏で見事だったが、ドビュッシーとショパンではテンポやリズムが極度に誇張された部分が多く、些か辟易させられた。
 特にドビュッシーの「前奏曲集」――以前録音したデッカ盤では、ドビュッシーのオリジナルのテンポの追求に力を入れ、作曲者が望んだとおりに「楽曲の構成を明確にし、恣意的な弾き方を拒否する」と語り、実践していたのに、それから7年たった今では、その方針も大転換してしまっているらしい。

 ショパンでも、テンポを極度に遅く採り、ひたすら自己だけの世界にのめりこむような演奏を延々と続けて行く。
 「スケルツォ第1番」における中間部のテンポもその一例だ。このため、全曲の演奏時間は何と15分に及んだ。どうかと思う。

 このカシオーリ、まだ33歳だが、このまま行くと、あのポゴレリッチみたいになるんじゃァないか、なんてことまで考えてしまった。メイン・プロが終ったところで、どうにも我慢できなくなり、アンコール(多分あったのだろう)は聞かずに失礼した。

11・7(水)マウリツィオ・ポリーニ 「ポリーニ・パースペクティブ」第3日

   サントリーホール  7時

 あのポリーニがベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア・ソナタ」を弾くというのに、客の入りが半分程度とは、そういう時代になってしまったのか・・・・今は。
 私の知人で、「今のポリーニの『ハンマークラヴィーア』は、怖くて聴きたくない。昔の彼のイメージを大切にしたいから」と言って、来なかった人がいた。その気持も、解らぬではない。

 だが、――今夜のポリーニが全身全霊を込めて弾いた「ハンマークラヴィーア・ソナタ」を聴いて、心打たれぬ人がいるだろうか? 
 この並外れて巨大なソナタを、かくも壮大な気宇を以って弾くことのできるピアニストが、果たしてこの世に何人いるだろうかとさえ思われる。

 確かに、以前の録音などで聴く、あのピンと張りつめた硬質なピアニズムは、今のポリーニからは聞けない。だがその代わり、昔にはなかったような、大きな世界の拡がりといったもの、あるいは、強靭な骨格を包み込む温かい肉のぬくもりといったものが、今夜の「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の演奏には備わっていたのである。
 遅い第3楽章など、かつてのポリーニの演奏は、何か裸の骨格を目の当り見るようで、その乾いた叙情がどうにも私には耐えられなかったのだが、今夜の演奏はそんな既成の印象を見事に吹き飛ばしてくれた。

 もちろん、今夜の彼の演奏がソフトだったなどと言っているのではない。第1楽章冒頭などは渾身の力に溢れていたし、同楽章の終結ではそれを更に凌駕するほどの力感を聴かせていた。
 長い全曲の大詰、最後の最強奏の和音がまさにたたかれようとする瞬間の、ほんの僅かの「間」にみなぎった昂揚の緊張感の凄さ。そしてその和音が鳴り響いた時の圧倒的な完結感、充足感。こんな感覚は、滅多に体験できるものではない。

 「ハンマークラヴィーア」のことばかり書いてしまったが、その前の「第28番」のソナタも、同じような意味で、立派な演奏だった。
 そして今夜は最初に、ラッヘンマンの弦楽四重奏曲「グリド(叫び)」という20分ほどの作品が演奏されたのだが、これを弾いたジャック四重奏団という若手の団体が、メッポウ巧かった。イーストマン音楽学校で出会った仲間たちが結成、とプログラムにはある。ありとあらゆる奏法を駆使し、4つの楽器の間に多彩な音色を「旋回させ」て、空中を浮遊するようなイメージを聴き手に与えてくれる。
 俺は「ポリーニ」(だけ?)を聴きに来たんだ、というお客さんにも、これは想定外の愉しさを味わわせてくれたのではないだろうか。

 「ハンマークラヴィーア」のあとには、もちろん、アンコール曲は無し。聴衆もほとんど帰らず、後半は全員がスタンディング・オヴェーション。ホールの出口で「凄かったなァ」と嘆息している人を、2、3人見かけた。

11・6(火)ヘルベルト・ブロムシュテット指揮バンベルク交響楽団

   サントリーホール  7時

 1日の「英雄&ベト7」が絶賛を呼んでいたので、やはり聴きに行けばよかった、とほぞを噛んだが、まあ今夜の方は一緒にピョートル・アンデルシェフスキも聴けるし、と、とりあえずは思い直す。

 そのアンデルシェフスキが弾いたのは、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第17番」。彼の鋭利な音色と、温かい地方色を未だに少し残しているオーケストラの音色とが補完しあって、えもいわれぬ結晶のような美しさを聴かせてくれた。
 特に第2楽章での、ひたすら自分の世界にのめりこむかのごとき沈潜の演奏は、アンデルシェフスキの聴かせどころだろうし、第2楽章と第3楽章のそれぞれの性格の対比を、これだけ明確に際立たせたピアノも例が少ないのではなかろうか。

 全曲にわたり、控え目ながらも雄弁に音楽を紡いで行ったブロムシュテットとオーケストラも、見事なものだった。但し、そのあとにこのピアニストが独りで弾いたバッハの「サラバンド」(フランス組曲第5番」から)は、珠玉のように美しかったけれども、オケのコンサートにおけるソロのアンコールとしては、チト長すぎた。

 そして後半は、ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」。
 これは驚異的な快演だ。バンベルク響(バイエルン州立フィルハーモニー)がこれだけ密度の濃い演奏をしたのを聴いたのは、何十年ぶりのような気がする。また、私がこれまでに聴いたブロムシュテットの指揮する交響曲の中でも、今回の「4番」は最も好かったものの一つに数えられる。
 この指揮者とオーケストラの組み合わせを聴いたのは、実は私は初めてだったのだが、この両者の相性は最高に良いのではないか?

 冒頭のホルンは、思いがけず割り切ったようなエネルギッシュな勢いを示し(私の好みからすれば、もっと森の奥深くから響いてくるような夢幻的でロマン的なイメージが欲しいところだが)、やがて爆発する最強奏での弦楽器は、激しい嵐のように渦巻く。このあたりからすでに、今日の演奏にはただならぬものがあふれている、という気を起こさせるに充分だ。 

 第2楽章終り近くから、演奏にはますます昂揚感が加わって来る。そして、第4楽章のコーダ――ブルックナーの音楽の「持って行き方」も本当に巧いな、と思わせる個所だが――全管弦楽がまさに最後のfff に爆発しようとする瞬間における類い稀な緊迫感を、今夜のブロムシュテットとバンベルク響は、見事に味わわせてくれたのであった。

 ホルンの1番奏者には、爆発的な拍手が贈られた。そしてブロムシュテットには、2回ものソロ・カーテンコールが贈られていた。

11・5(月)METライブビューイング ドニゼッティ「愛の妙薬」

   東劇  7時

 ライマンのオペラの強烈な刺激に、些かフラフラになりながらも、次の巡礼目標たるドニゼッティへ。何という異なった世界か、こちらは。

 METの新シーズンは既に9月24日から始まっていたが、その開幕のだしものだった「愛の妙薬」が、ライブビューイングの新シーズン幕開きの曲目ともなった。これは10月13日上演のライヴ。
 バートレット・シャー演出による新制作で、ヒロインのアディーナは、やっぱり――人気抜群のアンナ・ネトレプコと来た。
 彼女、いよいよ体格も立派(?)になり、今回の演出では身体の演技そのものは大雑把ながら、顔の表情は実に微細だ。それ(顔の方です)が明確に観られるのも、「ライブビューイング」ならではの強みである。

 村の青年ネモリーノ役のマシュー・ポレンザーニも、最近本当にいいテノールに成長した。士官ベルコーレ役はマリウシュ・クヴィエチェンで、歯切れの良さ、威勢の良さ、小気味よい歌唱と演技が映える。インチキ薬売りのドゥルカマーラは、巨大な体躯と魁偉な容貌のアンブロージョ・マエストリが演じ歌った。

 指揮はマウリツィオ・ベニーニで、まず要領のよいまとめぶりというところだろう。
 シャーの演出は、マイケル・イヤーガンの舞台装置とともに、ごく伝統的なものだ。
 シーズン開幕ものとしては、ちょっと肩の力を抜いた、娯楽的なプロダクションである。もちろんそれも悪くはあるまいが、少々拍子抜け、と言えないこともない。

 進行役はデボラ・ヴォイト、この人の司会の巧さには、本当に舌を巻かされる。
 なお彼女と、総支配人のピーター・ゲルブとの話の中で、ジェイムズ・レヴァインが来シーズン(つまり来年秋)にはめでたく復帰する予定であることが発表された。やはりMETの永年のカオである彼がいないと、引き締まらないだろう(ファビオ・ルイジばかりでは・・・・)。
 ちなみに今シーズン、久しぶりに登場する大物指揮者は、ロリン・マゼール(ドン・カルロ)である。

11・5(月)ライマンのオペラ「メデア」のリハーサル

   日生劇場  2時

 アリベルト・ライマンのオペラ「メデア」(2010年ウィーン国立歌劇場で初演)のリハーサルを観る。日本初演の初日も9日(金)に迫っており、いよいよ追い込みの段階である。

 これは、日生劇場開場50周年記念特別公演、二期会創立60周年記念公演、読売日本交響楽団創立50周年記念事業などと銘打たれた、すこぶる大がかりな企画だ。

 客席との仕切り板を取り外し、高めに固定されたオーケストラ・ピットには、大編成の弦楽器群が詰め込まれている。入りきれぬ金管楽器群は舞台上の上手5分の1ほどのスペースに配置され、木管楽器群は下手5分の1ほどのスペースに配置されている。
 残った中央部分――つまり舞台全体の5分の3くらい、ということになるか?――が、演技の行なわれる舞台というわけだ。

 オペラの上演としてはあまり見かけない光景だが、事前に学生オケを起用し、ありとあらゆる配置での演奏を試みて音響テストを行なった結果、このような形に落ち着いたのだという。
 装置(イタロ・グラッシ)は極めてシンプルなものなので、本番ではこの演技空間と舞台上のオーケストラとが、演出(飯塚励生)の手腕で、如何に視覚的にバランスよく保たれるか――が成功の鍵となるだろう。

 いずれにせよ、これから本番までの間に、字幕の文章を含め、またあれこれ手直しを加えながら纏められて行くだろう。現場が好きな私としては、こういうリハーサルに立ち会って、キャストやスタッフたちがプロダクションを練り上げて行く光景を見るのが、何より面白い。
 作曲者ライマンも、客席後方で「スコアを見ながら」立会っていた。すこぶる満足とのこと。

 指揮は、下野竜也。
 この大規模な現代オペラを見事に巧く纏め上げて行く手腕には舌を巻いた。ライマンの巨大なスコアが、実に鮮明な音となって蘇る。オーケストラも、その配置の関係から極度に生々しい音塊となって客席を襲って来るが、それが声楽を全く打ち消すことなく、適切な均衡を保って響くのにも感心した。下野は「ライマンの書き方がそうなっているから」と笑うけれども、指揮者の手腕によるところだって大きいだろうと思う。
 読響も大奮闘。この秋は大作ばかり連続して演奏しているが、まあ、よくやるものだ。わが国でいまいちばん大暴れしているオーケストラは、この読響だろう。

 そして、驚異的な歌い手たち! 今日のリハーサルで歌っていたのは10日出演の組で、大隅智佳子(メデア)、与那城敬(イヤソン)、清水華澄(ゴラ)、大野徹也(クレオン)、山下牧子(クレオサ)、彌勒忠史(使者――彼のみ全日)という顔ぶれだが、跳躍音程の多いこの作品を見事にマスターして、たいしたものだ(これに比べれば、「ルル」でさえ、まだしもなだらかな曲に聞こえる)。特にタイトルロールの大隅の、力のある歌唱には拍手を贈りたい。

11・4(日)ギドン・クレーメル 二重奏と三重奏

    サントリーホール  5時

 かたやポリーニ、こなたクレーメル。この2大巨匠が、同じ時期に同じサントリーホールで、それぞれの仲間と組んで多様なプログラムのシリーズを交互に行なっている。ゴージャスなものだ。

 今日はクレーメルの3日目。チェロのギードレ・ディルヴァナウスカイテ、ピアノのカティア・ブニアティシヴィリと協演しての室内楽である。
 最初のフランクの「協奏的ピアノ三重奏曲嬰へ短調作品1の1」は、滅多に聞けない曲で興味深かったが、少々重い。だが、次のフランクの「ヴァイオリン・ソナタ」、そして休憩後のチャイコフスキーの「偉大な芸術家の思い出のために」は、聴きに来てよかった――と思わせる見事な演奏だった。

 とりわけ後者は、ナマの演奏会で名演に出くわすことが極めて稀な作品だから、大いに堪能させられた。第2楽章後半での追い込みなど、息を呑まされたほどである。チャイコフスキーの「持って行き方」の巧さには毎度感心させられるが、これだって演奏が巧くなければ、その真価は発揮されない。
 しかも今日のトリオ、たとえば1つの楽器が主題を受け持つくだりになると、他の2つの楽器がサッと一歩も二歩も退いてそれを支える、その交替や交錯が実に鮮やかな呼吸で行なわれるのである。それゆえ、主題像が常に明確さを保ち、長大な曲ながら、最後まで散漫になることなく構築されて行く。

 クレーメルは相変わらずの「クレーメル節」で、その音色の独特の癖が気になることもあるが、並外れた風格と放射力は、やはり文句のつけようがない。チェロのディルヴァナウスカイテ(リトアニア出身)も、伸びのある音が良い。

 しかし何といってもブニアティシヴィリ(グルジア出身)の澄んだ音色と瑞々しく張りのある音楽性が出色の出来だ。時に他の2人を食ってしまうほどの活力と存在感を示して、実に素晴らしい。まだ20歳台半ばということだが、まさしく近来の大器であろう。
 この人、ソニーから出ている魅力的なショパン・アルバムには、クラシックのピアニスト離れ(?)した色気のある写真ばかり載っているし、「大型新人の美女」として、いろいろな意味で人気が出ているようである。

 アンコールにはスークの「エレジー」が演奏されたので、終演は7時40分頃になった。

11・3(土)エリアフ・インバルと東京都交響楽団のマーラー「第4番」

   東京芸術劇場  2時

 先週日曜日の「第3番」が見事だったので、今日はその余勢を駆って――と思う一方、あまり期待を大きく持つと逆に・・・・などという不埒な心配をも秘めながら聴きに行ったのだが、どうしてどうして、あの「3番」に勝るとも劣らぬ見事な演奏を聴くことが出来たのはうれしい。

 インバルは、スコアの隅々まで神経を行き届かせつつ、ポルタメントの指定をも完璧に遵守し、やや速めのテンポで歯切れよく進めて行く。胸のすくような活力だ。それでいて、音楽に全く乾いたところがない。剛直なつくりではあるが、常に瑞々しくしなやかな音楽になっているのである。

 これはもちろん、今の都響の快調さによるところ大だろう。第3楽章や、特に第4楽章後半における弦楽器群(コンマスは矢部達哉)の響きの美しさは、特筆すべきものがある。オーボエとホルンをはじめ、管楽器のソロ陣をも称賛したい。
 第4楽章でソプラノ・ソロを受け持ったのは森麻季も、素直な美しさの歌唱で映えた。ここでの声とオーケストラとの対話は、出色の出来。

 前半には、河野克典のバリトン・ソロで、「子供の不思議な角笛」から6曲が歌われた。
 2階席正面で聴いたのだが、とかく声を打ち消しがちに咆哮することの多いオーケストラの音が、今日は極めて巧みなバランスを保持しつつ声を支えていたのに感心した。もっとも、3階で聴いていた知人によると、「4番」も含めての今日の声とオケとのバランスは、2階席での私の印象とはかなり違っていたとかいう話だが・・・・。

 インバル&都響のマーラー、ここまでは尻上がりに好調である。続いて来年1月の「第5番」へ、よろしく。

     ⇒音楽の友新年号 演奏会評

11・2(金)マウリツィオ・ポリーニ 「ポリーニ・パースペクティブ」第2日

    サントリーホール  7時

 最初に演奏されたのは、シュトックハウゼンの「ピアノ曲Ⅶ」と「ピアノ曲Ⅸ」。
 沈黙と静寂と、それを切り裂くような衝撃的な打音とが交錯する作品だ。ただならぬ緊張を強いられ、息をつめて全神経を集中しつつ聴き入る。
 これはもう、作品と演奏と受容との真剣勝負みたいなもの。最近のポリーニは立ち上がりが悪いなどという説など、気にしてはいられなくなる。

 そのあとには、ベートーヴェンのソナタ4曲が続く。第24番「テレーゼ」、第25番、第26番「告別」、第27番という具合だ。

 「25番」の第1楽章は、楽譜の指定はたしかに「プレスト」だが、あの演奏は、あまりに疾風のごとく速過ぎないか? しかも「アラ・テデスカ」の指示を無視し、あんなに音符のリズムを崩して、主題の形さえ定まらぬほどに、ラプソディックにひたすら押し流して行くのは、いかがなものだろうか? 

 だが休憩後の2曲では、かつての鋭角的な冴えに円熟期の温かみを加えた、近年のポリーニならではの姿が顕れた。
 アンコールは、ベートーヴェンの「バガテル作品126」からの2曲だったが、激しく野性的な「126-4」も、彼の手にかかると、やや理知的なイメージになる。

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