2017-08

10・31(水)ギドン・クレーメルとクレメラータ・バルティカ

   サントリーホール  7時

 後半に演奏されたベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」での演奏を聴くと、さすがにクレーメルも少しトシをとったかな、という気がしなくもない。
 若い頃の、時にあざといほどの強靭な表現を逞しい力感に包み込んだあの演奏スタイルが、今はもっと細身に感じられるようになったか? 

 だがこれは、彼の演奏がひ弱になったとか、こじんまりしてきたとか、感情と技巧とが肉離れを起こしていたとかいう意味では全くない。クレーメルは今でもクレーメルであり、最初の一音を聴いただけで、恐るべき集中力と、生々しい肉感のようなものが噴出してくるのがわかる。

 ベートーヴェンの協奏曲では、例のシュニトケ作曲になるカデンツァが話題だったろう。これは彼が30年ほど前のマリナーと入れたレコードで私も初めて耳にし、その斬新さに、大いに熱狂したものであった。
 ただ、今夜演奏されたものは、あのレコードにおけるそれとは多少違っていたようで、もう少し簡略になっていたのではないかという気もする。それに、そのカデンツァの演奏も、昔よりは淡白になっていたような・・・・。

 クレーメルは、今夜のプログラムの1曲目、シューマンの「チェロ協奏曲」をルネ・ケーリングがヴァイオリン・ソロと弦楽合奏とティンパニのために編曲した版をも弾いた。こういう編曲版でやるとこの曲、えらく甘い音楽に聞こえる。あまりいい気持ではない。
 なお、彼とオーケストラのアンコールは、カンチェリ&プシュカレフの「黄色いボタン」という曲だそうで、こちらは、いい意味で甘美そのもの。

 プログラムの2曲目は、カティア・ブニアティシヴィリがソロを弾いたモーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番K488」。
 これは、すこぶる快調な演奏だった。指揮者なしでありながら第3楽章をあれほど天馬空を行くようなテンポで――楽譜の指定どおり本当にアレグロ・アッサイで演奏するとは、このクレメラータ・バルティカというオーケストラ、今回はなかなか腕がいいところをみせた。

10・30(火)庄司紗矢香&ジャンルカ・カシオーリ デュオ・リサイタル

     サントリーホール  7時

 ヤナーチェクの「ソナタ」に始まり、ベートーヴェンの「ソナタ第10番」が続く。休憩後はドビュッシーの「ソナタ」、シューベルトの「幻想曲」。アンコールは、バッハの「音楽の捧げもの」からとストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」から。

 庄司の演奏は――基本的には、形容しがたいほど素晴らしかったことは確かだ。以前のベートーヴェンの初期・中期のソナタやシベリウスの協奏曲などとはだいぶ趣きを異にし、むしろメンデルスゾーンやチャイコフスキーの協奏曲の時と同様に、かなり繊細な表情を前面に押し出した演奏を聴かせてくれた。作品の性格からして、それはある程度納得できる。

 ただ、前半の2曲では、彼女のヴァイオリンがなぜか殊更に華奢(?)に聞こえてしまい、蓋をソロ・リサイタル並みに開けたカシオーリの非常に雄弁な、よく響くピアノに「音響的に」押され、もどかしささえ感じさせた。同じサントリーホールの2階席で聴きながら、彼女のこんな演奏には今まで一度も接したことはなかったが・・・・。

 スタイルを変えたのなら、あまりにピアノとのバランスが不釣合いである。それゆえむしろ、今回のツァーの異常な過密スケジュールに、彼女が疲れていたのではないかとさえ思えてしまう(所属音楽事務所の意向だそうだが、32日間に17回、鹿児島から札幌の間を右往左往、大変だ)。

 だが後半のドビュッシーとシューベルトでは、彼女のその細身(?)の――彼女らしからぬ、と言えるかもしれないが――演奏が次第に良い方向に生かされて行った、とも感じられる。
 カシオーリのピアノも、作品の性格にふさわしく、以前のデュオの時と同じように節度を以って庄司のヴァイオリンと調和して行った。シューベルトの「幻想曲」は、今夜の演奏の中では、作品の「歌」の素晴らしさを最もよく再現していただろう。

 総じて今回の庄司紗矢香は、いつもと違った。彼女が作品の性格に応じて多様な表現を採ることは、これまでの演奏を聴いてよく承知しているが、・・・・今夜の演奏をその一環と感じるには、些かの戸惑いがある。

10・29(月)ミュージカル「エリザベート」20周年記念特別コンサート

    東急シアターオーブ  1時30分

 この場合は「エリーザベト」でなく「エリザベート」と表記。
 もっとも、実際に歌っている発音は「タンホイザー」でもこのミュージカルでも「エリーーザベート」と聞こえるのだから、微妙ではある。

 ミヒャエル・クンツェ Michael Kunze の脚本、ジルヴェスター・レファイ Sylvester Levay(公演の表記ではシルヴェスター・リーヴァイ)の作曲になるこのミュージカルは、1992年9月にウィーンのアン・デア・ウィーン劇場でプレミエされたもの。初演時の演出が何とあのハリー・クプファーだったというから、オペラ愛好家にとってもまんざら無縁の存在でもないだろう。

 今回はその「20周年記念コンサート 日本用特別ヴァージョン」と銘打たれての日本公演だが、幸いにも、純然たる演奏会形式ではない。セミ・ステージ形式というか、オーケストラが舞台上に配置され(もちろんPAあり)、それを囲むように演技スペースが設置され、若干の装置を含む舞台美術も備わり、照明も綿密にデザインされている。視覚的にもすこぶる充実したものだ。演出はロバート・ヴァンが担当している。

 物語は、もちろんあのオーストリア皇后エリザベート(マヤ・ハクフォート)をヒロインにしたものだが、このミュージカルでは、彼女を暗殺したルイジ・ルキーニ(ブルーノ・グラッシーニ)の回想を核にストーリーを展開させながら、擬人化されたトート(死)なる男(マテ・カマラス)の存在を絡ませることによってヒロインの性格の「光と影」を描いているところがミソだ。
 それに、物語の展開が快調に感じられるのは、音楽がよく出来ているからでもあろう。クラシックのオーケストラの楽器を多く使いながら、音楽はクラシック調でなく、非常にリズム性の強いものとなって、かつスピーディに進んで行く。聴いていて実に愉しい。

 歌手たちの歌唱は、欧米のミュージカルの水準から言えば必ずしも最上とは言えないかもしれないが、それでも日本のミュージカル上演と比較すれば雲泥の差である。
 このように歌がちゃんと歌われた時のミュージカルというものが、如何に素晴しいものであるか・・・・言っては何だが、劇団四季のミュージカル上演に出る歌手たちが、せめてこの半分ほどの域にでも達していたらと思わないではいられない。

 今日は、「グランド・フィナーレ」がつくという話だったので、どんなものかと楽しみにしていたら、マヤ・ハクフォートが今回の一連の公演を最後にこのエリザベートの役柄からリタイアするとのことで、日本語の巧いマテ・カマラスのリードで特別にアンコールのデュエットを歌うという趣向が凝らされていた。
 扇子の裏側に書いた日本語訳の歌詞をユーモラスにカンニングしつつ、綺麗な発音の日本語で歌う彼女を、観客席も熱狂的な拍手で称える。これを含め、カーテンコールもいつ果てるともなく延々と続いたので、終演は4時半を回った。

 それにしても、ミュージカルは、どうしてこう女性客が多いのだろう。今回は、やはり「エリザベート」人気か?
 今日など、男の客は、女性客20人に対して1人、どうかすると30人、40人に1人くらいだったかもしれない。だが私の隣の席には、よりにもよって、その数少ない男の1人が来てしまった。
 休憩時には、ロビー一杯に長い長い行列が出来ており、その遥か彼方で「女性化粧室最後尾」のフリップを持った女性係員が声を枯らしている。これじゃ大変だろう。対照的に、男子トイレはほとんど無人である。――つまらぬことはともかく、女性の観客は、年齢を問わず、スタンディングをやるわ、手拍子で加わるわ、とにかくノリがいい。羨ましいことだ。中年以上の男は、為す所なく黙って座ったまま拍手しているのみ。

10・28(日)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団 マーラー「3番」

    東京芸術劇場  2時

 インバルと都響の最新のマーラー・ツィクルスが進行中。今日の「第3交響曲」での協演は、メゾ・ソプラノのソロが池田香織、合唱が二期会合唱団女声と東京少年少女合唱隊。コンサートミストレスは四方恭子。

 今日の演奏会は、オルガンの位置にある反響板を上げた(つまり外した)状態で行なわれていた。この形になると、オルガンに反響板をかぶせた時よりも残響は少し減り、音響がかなりクリアになる。
 その所為もあってだろうが、今日の都響の演奏は実に明晰に聞こえた。内声部の動きがくっきりと浮かび上がり、すべてのパートがリアルに、生々しく抉り出され、しかも均衡を失わずに響いて来る。胸のすくような、明快なマーラーであり、この交響曲に込められた「人間の自然的本性への信仰告白」が、極めて健康的な形で語られた演奏と言っていいかもしれない。

 最後の2つの楽章では、かなり速めのテンポが採られていた。第5楽章の「ビン・バン」は、一般の演奏に比べれば、疾風の如きテンポと言っていいほどだろう。
 また第6楽章も、普通行なわれるような壮大にゆっくりと盛り上げるタイプの演奏でなく、抑えかねた激情を迸らせるかのような激しい昂揚さえ中間部分に織り込まれる。弦楽器群も荒々しいほどのエネルギーを示す。
 かような速めのテンポの、やや慌しいエンディングは、マーラーの言う「すべてのものが安息の中へ解消する」のとは少し傾向を異にするし、私の好みとも違うけれども、まあ、それはそれでいいだろう。インバルの狙いは、「安息」などではなかったのかもしれない。

 今日はホルン・セクションも冴えており、第1楽章や第3楽章での咆哮はなかなかに壮烈なものだった。
 ソロ陣もすべて快調で、第4楽章ではそのホルンがオーボエの背後で見事な支えを聞かせていた。特にトランペットの1番を受け持っていた高橋敦は、第3楽章では舞台裏に回って素晴らしいポストホルン(フリューゲルホーンではなかったそうだ。お見事!)をも吹くという大わざを演じ、これは「詳し系」の聴衆の讃美の的となっていた。

 声楽陣では、池田香織が第4楽章で伸びのいい歌唱を聞かせたが、第5楽章での合唱だけは、テンポが速かったせいか、些か粗っぽくなったようである。
 だが、ともあれ今日の演奏は、このツィクルスにおける最初の大ヒットと言えるだろう。

10・27(土)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団  創立50周年記念委嘱作品初演 他

   サントリーホール  6時

 その「創立50周年記念委嘱作品」であるドイツの現代作曲家ハンス・ツェンダーの「般若心經」(約15分)が前半に「世界初演」され、細川俊夫の大作「ヒロシマ・声なき声」(約70分)が後半に演奏された。
 カンブルランと読売日響の、極めて意欲的な企画である。こうした演奏会への客の入りが必ずしもよろしくないのは残念だが、しかし今夜ホールにやって来た人たちは、熱心な聴き手だったと思う。

 「般若心經」には、バス・バリトン(大久保光哉)のソロがつく。
 私の家は仏教ではないから、お経についてはからきし無知である。聴く前には、まさかあの黛敏郎の「涅槃交響曲」の路線をいまさら後追いするのでは、と冷や冷やしていたのだが、さすがツェンダー、声楽パートにも飛躍する音程を多用し、音色や響きの対比を鋭く強調して、彼らしい感覚の世界を創り上げていた。ヴァイオリンを欠いた編成による弦楽器の音色も、沈んだ陰翳を示して印象的だ。
 ただ、かつての前衛作曲家ツェンダーも、随分円熟しておとなしくなったのではないか、という点では、周囲の知人たちとも意見が一致した。

 細川俊夫の「ヒロシマ・声なき声」は、大作だ。この「5楽章版」は、2001年にカンブルラン指揮のバイエルン放送響によりミュンヘンで初演されたもの。
 アルトのソロ(藤井美雪)、朗読(明野響香、谷口優人、トーマス・クラーク)、合唱(ひろしまオペラルネッサンス合唱団)が協演している。

 細川作品としては珍しいほど「洪水のような音響」(作曲者の解説文から)が多用されている曲である。特に第2楽章「死と再生」では、その激しいオーケストラの響きとともに、3人の朗読者が悲劇の瞬間を回想した子供たちの異なる手記(「原爆の子」から採られた)を「同時に」読み上げるという手法が展開されて、極めて凄味のある効果を出していた。
 その一方、第4楽章「春のきざし」で、アルト・ソロの背景に流れる神秘的かつ叙情的な音楽は、まさしくこれまで聴きなれた、私の好きな細川の世界である。第5楽章「梵鐘の声」の終結も、風のような音とともに虚空に溶解して行く、あの細川トーンで閉じられる。

 全曲70分という長い曲だったが、私は全く長さを感じなかった。ツェンダーの新作よりも、こちらの方が遥かに感銘が深かったというのが正直なところだ。2人の作曲家はいずれも今夜客席にいて、演奏終了後には舞台に上がって長い拍手に応えていたし、それぞれに敬意を払わなくてはならないけれども。
 ともあれ、指揮者もオーケストラも、協演者たちも、みんないい演奏を聴かせてくれた。広島から参加した合唱団にも賛辞を捧げたい。

 今年8月6日に、広島でカンブルランと読響とこの合唱団がモーツァルトの「レクイエム」を演奏し、原爆投下直後の凄惨な光景を語る詩を吉川晃司が朗読したのを聴きに行ったが、ほかならぬ広島の地で聞くそれは、襟を正したくなる気持にさせられる。今夜の作品も、もし広島で聴いたとしたら、さらにただならぬ精神状態に引き込まれたことだろう。

10・27(土)ドミンゴ・インドヤン指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

    すみだトリフォニーホール  2時

 早稲田大学オープンカレッジのオペラ講座で「ワーグナー作品における演出の変遷」について講義したあと、急ぎ駆けつけた先は、新日本フィルの定期。
 ヴォルフ=ディーター・ハウシルトが指揮するを本当に楽しみにいたのだが、残念ながら急病とかで来日中止となってしまった。
 代役として招聘されたのは、ベネズエラ出身の若手ドミンゴ・インドヤンという指揮者だ。ここ3~4年の間に急激に頭角を現わして来た人とのことで、私はこういうライジング・スター指揮者を聴くのが宝探しのように思えて興味津々だから、どんなものかと飛んで行った次第である。

 プログラムは、当初予定されていた、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」と、ベートーヴェンの「英雄交響曲」とがそのまま変更なく引き継がれていた。
 今日が2日目のコンサートとなれば、すでに演奏は完成されていると見ていいだろう。その上での率直な印象だが、――「トリスタン」は、要するに未だ彼の手の内に入っていない作品ではないのか? 「前奏曲」冒頭などは新日本フィルの引き締まった音に、これはもしや行けるか!と一瞬思ったのだが、そのあとは何か茫洋とした演奏のまま、最後まで進んでしまった。

 「英雄」は、それに比べれば、彼にとってある程度慣れた作品だったであろう。が、出だしにはある程度の勢いはあったものの、全曲としてはこれも色合いの変化に乏しく、全体に単調な音楽づくりのまま留まった、という感を免れぬ。
 考えようによっては、このくらいの演奏は、今日のように豊嶋泰嗣がコンサートマスターを務めた新日本フィルなら、指揮者なしでも簡単にやってのけられるのでは?

 いずれにせよ、若い指揮者なら、もっと傍若無人なほどに大胆で勢いのいい音楽が、欲しい。もしかしたらこのドミンゴ・インドヤンという若者は、近代・現代音楽を振ったら、もっと大化けする指揮者なのかもしれないが、今日の指揮を聞いた程度では、即断は控えておいた方がよさそうだ。

10・26(金)クリスティアン・ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン

    サントリーホール 7時

 月曜以降、演奏会は、結石のため欠席していたが、漸く今夜から復帰。

 期待のティーレマンと、私の好きなオーケストラの一つであるシュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン・ザクセン州立歌劇場管弦楽団)の演奏会だ。プログラムは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」からの「前奏曲と愛の死」、およびブルックナーの「交響曲第7番」。
 なお後者は、プログラムには「ハース版」となっていたが、実際の演奏では第2楽章に打楽器が入っていたし、フィナーレではテンポの変動が大きいので、明らかに「ノーヴァク版」による演奏だったと言えるだろう。

 「トリスタン和音」の最初の音――それがふくよかな拡がりを以って響いた時には、果たせるかなティーレマン、さすがドレスデン、などと期待に胸をふくらませたのだったが・・・・そのあとがどうも拍子抜け。
 たしかに、「前奏曲」がうねりながら高まって行くあたりの強烈な集中力といい吸引力といい、かつその高まりが急激に崩壊したあとの空虚感といい、いかにもティーレマンらしい力量だと思われた部分もあったのだが、「愛の死」は予想外にどこか乾いた表情で、オーケストラの音にも隙間が感じられた。3年前、あのバイロイトの「指環」を聴いた時の魔性的なうねりのような音楽が、どうしても今夜の「トリスタン」の演奏からは聞き取れなかったのである。

 ブルックナーの「第7交響曲」でも同様だ。前半2楽章では非常に遅いテンポが採られ、それはそれでいいとしても、その遅いテンポの中には、何か音楽の豊かさと、表情の瑞々しさといったものが希薄だったように感じられてならない。
 但し後半の2つの楽章には、ティーレマンらしい良さも出た。特に第3楽章では演奏にも重量感が生じ、スケルツォ後半では嵐の如き緊迫感も漲っていた。第4楽章の第212小節のフェルマータ付休止は極度に引き延ばされていたが、ここで緊張が失われなかったというのも、昔のティーレマンと違うところだろう。

 最後の頂点に向け、渦巻く音塊をぐいぐいと結集させ、盛り上げて行くあたりには、ティーレマンらしい押しの強さが如実に現れていた。全曲最後の4部音符も、スコア指定と異なり、思い切り延ばされて結ばれる。
 ――という具合に、終りよければ全て好し、と言いたいところだが、しかし・・・・。

 ティーレマンへの期待が大き過ぎたか? だが、あの「指環」をナマで聴いたことのある人ならだれでも、今夜の演奏以上の出来を彼の指揮に期待していたのではなかろうか。
 オーケストラも、ホルンが「らしからぬ」演奏をしていたのをはじめ、どこか緊迫度が薄いように感じられてしまった。

 ティーレマンへのソロ・カーテンコールは2回。もちろん、彼のファンが熱狂を捧げるのは当然である。
 だが一方、「帝王ティーレマン神話」もいまや確立されつつある。彼に深い関心を持つ聴き手であれば、その演奏がたまたまその日は期待はずれの出来であっても、終ってみれば彼が「ティーレマンだった」ことを思い出し、熱狂的な拍手に巻き込まれてしまう、ということもあるだろう。私自身にも、そういうところがないともいえないのだが・・・・。

10・20(土)シルラン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団のラヴェル

   東京芸術劇場  6時

 渋谷から池袋に移動。カンブルランが久しぶりにラヴェルの全曲ものを指揮するので、これも聴き逃すわけには行くまい。プログラムは、「マ・メール・ロワ」と「ダフニスとクロエ」。

 カンブルランは3年前、常任指揮者就任の直前に、読響と横浜でラヴェルの「クープランの墓」を指揮して、洗練されて典雅な、絶妙な演奏を聴かせたことがある(ライヴCDで聴くと少し違った印象になっていたが、現場ではそういう印象だった)。
 前世紀には奔馬のようなオケだったあの読響が、ついにここまでやるようになったかと、その時は大いに驚き、嬉しくなったものだが、――それが頭の中にあっただけに、今回のプログラムも当然うまく行くだろうと思っていた。

 「マ・メール・ロワ」では、ソロの管楽器群に何となく座りの悪さのようなものが感じられたが、これは多分もう1回公演があれば解決されるだろうという程度のものである。

 本領が発揮されたのは、プログラム後半に置かれた「ダフニスとクロエ」だった。
 日本のオーケストラが、この曲でこれだけ光彩陸離たる演奏を聴かせた例は、決して多くないのではないか。明るく豊麗な音色が素晴らしく、テュッティで爆発する個所でも、音の濁りは全くと言っていいほど感じられない。最弱音も、柔らかく豊かな音で拡がる。管のソロも(僅かな瑕疵は無視して)満足すべきものだったし、特にホルンとフルートのソロには讃辞を贈ろう。

 何より見事だったのは、第1部と第2部での断続の多い音楽の流れを全く淀ませることなく、瑞々しく進めて行ったカンブルランの指揮である。
 第3部(所謂第2組曲に相当する部分)での輝かしい演奏については改めて言うまでもない。大詰めの熱狂的な頂点で――それまで何度か繰り返された昂揚の、更にその上を行く圧倒的な力感がもう一つ加われば・・・・という気がしないでもなかったが、それはないものねだり、になるだろうか。

 それにしても、読売日響の最近の好調ぶりは、目覚しい。

10・20(土)ロリン・マゼール指揮NHK交響楽団の「指環」

   NHKホール  3時

 ワーグナーの「ニーベルングの指環」の音楽から、マゼール自身が接続・編曲した「言葉のない『指環』」が演奏された。マゼールがこれを自ら指揮して日本で演奏するのは、これが確か2度目ではないかと思う。
 編曲のテクニックからいえば、あのヘンク・デ・フリーハーの「オーケストラ・アドヴェンチャー」の方が巧いとは思うが、マゼール版も「聞かせどころ」は一応ちゃんと押えている。

 ただ、どちらにせよ所詮これは、メドレーというか、ポープリに過ぎぬ作品であり・・・・しかるべき起承転結の「形式」を欠いたまま延々80分間も続く大管弦楽の洪水は、やはり散漫な印象を免れない。
 それに、彼が昔(1987年)ベルリン・フィルを指揮して録音したテラーク盤では演奏時間が70分弱だったのに対し、今回はおよそ80分を要していたことでも解るとおり、かなり遅いテンポが採られていたのである。「ヴォータンの告別」の個所など、最たるものだろう。正直言って、この粘っこく誇張されたテンポによるワーグナーには、今の私は辟易させられる。
 ただし「ジークフリートの葬送行進曲」のみは、あのくらいの重厚なテンポで演奏されてこそ悲劇感が出るというものだ。そこだけは支持したい。

 オーケストラの鳴らせ方は、やはりマゼール、巧い。弦18型の大編成を採ったN響は、「ジークフリートのラインへの旅」の個所などで、あの響きのないホールをも揺るがせるほどの大音量、重量感、威圧感を発揮していた。
 今日のプログラムは、これ1曲のみ。4時半には演奏が終ってしまった。

10・19(金)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルフィルハーモニー交響楽団
プロコフィエフ交響曲全曲演奏プロジェクトVol.6(最終章)

   サントリーホール  7時

 6時半からホテルオークラで行なわれた読売日響の創立50周年記念パーティに1時間ほど顔を出した後、サントリーホールの日本フィル定期を聴きに行く。前半の曲目であるチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは川久保賜紀)は聴けないが、後半のプロコフィエフの「第6交響曲」だけでも、と。

 2009年1月以来、3年半にわたったラザレフと日本フィルの「プロコフィエフ交響曲ツィクルス」は、この「第6番」の豪壮な演奏を以って、成功裡に幕を閉じることになる(まだ明日の公演がある)。
 スタートの時にラザレフは、踵を接して開催されるゲルギエフとロンドン響の来日公演における全曲ツィクルスに猛烈な対抗意識を示し、「絶対俺たちの方が良い」と豪語していたものだが、終ってみればそれも確かに――全部が全部ではないけれど――大言壮語ではなかったことが証明されたであろう。

 私は「第4番」の原典版だけは聴けなかったが、その「改訂版」および第2、3、5番は、そして今回の第6番もだが、決して聴き劣りしない内容の演奏だったと思う。
 ラザレフの首席指揮者着任以来、日本フィルが目覚しく演奏水準を高めて来たことは周知の通りだが、このツィクルスは、その過程を映し出す鏡のような存在だったと言えるかもしれない。今日は金曜日の公演だが、客席も結構埋まっていたし、演奏後のブラヴォーも盛んだった。

10・18(木)J's project公演 プッチーニ:「ラ・ボエーム」

    みらい座いけぶくろ  6時

 「みらい座いけぶくろ」とはどんな洒落た劇場かと思ったら、豊島公会堂のことだった。
 公演チラシに載っている地図がまた大変なシロモノで、目印にすべき建物が、何と数年前に閉鎖されたはずの「三越」になっているのだから、池袋に不案内の者に判るわけがない。まごまごして大回りしたり、交番や店で尋ねたりしながら、結局JRを降りてから20分以上もかかって辿り着く。

 このプロジェクトは、演出家・俳優・ダンサーの原純が主宰するオペラのシリーズ。
 原純、といえば、新国立劇場の「サロメ」で、ヘロデ王の傍に侍し、派手な身振りで配下へ指示を出す黙役(儀典長と名づけられている)でお馴染みだろう。アルミンク指揮の「火刑台上のジャンヌ・ダルク」でも活躍していたし、その他たくさんの舞台で、給仕長とか、群集のリーダーとか、際立って存在感のある脇役を自ら演じている人である。
 とにかく演技の巧い人で、舞台では主役よりこの人を見ていた方が愉しめるほどだ。

 今回の「ラ・ボエーム」も、その彼が演出した舞台だから、ドラマトゥルギーとしての演技は、極めてよくできている。室内オペラ的な小規模の舞台だが、主役たちの演技のリアルで細かい表現は、なまじ大劇場の類型的な上演などよりずっとドラマの本質を衝くものになっていると言えるだろう。
 ロドルフォの性格描写も、昨年びわ湖のセミナーで披露されたコンヴィチュニーのそれに少し似て複雑なものになっており、なかなか面白い。一方、ミミがベッドに腰掛けた姿のまま息を引き取る、などというのはちょっと捻りすぎている(いくら何でも・・・・)けれど、ひとりの真剣な女の生きざまを象徴的に描くのであれば、それも一法かもしれない。

 二期会と藤原歌劇団のメンバーを中心に編成された歌手陣が好かった。特に、ミミを歌い演じた青木エマ。容姿といい声といい、出色の若手だろう。来年2月の二期会の「こうもり」でオルロフスキー(!)を歌うというから、注目しよう。
 ロドルフォ役の高田正人も、高音域に関してはもっと修練を積んでもらいたいが、声の質は綺麗だ。この人も「こうもり」でアルフレートを歌うはず。

 その他、佐藤亜希子(ムゼッタ)、斉木健詞(コッリーネ)、党主税(マルチェッロ)、保坂真悟(ショナール)、国分雅人(ベノア)ら、演技には一部解り難い個所はあったにしても、とにかく大熱演であった。ただし合唱団(J's Opera Chorus)と助演者たちは熱演しすぎて、少々素人演劇的な騒々しさになったきらいもある。

 今回の演奏はオーケストラでなく、ピアノと弦楽四重奏と打楽器とで行なわれた。編成としては過不足なかろうが、演奏者の技術からいって、結果としてはピアノだけでやってもらった方が遥かにすっきりして聴きやすかったろうと思う。指揮者の河原忠之は、見事に歌手たちをリードして盛り上げた。

10・17(水)ウラジーミル・フェドセーエフ指揮
        チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ

   サントリーホール  7時

 つい最近までモスクワ放送交響楽団という名で知られていたオーケストラ。本当は9年前から標記のように名称を変えていたのだが、日本では昔の名の方が通りもいいのでそのままになっていただけの話。それにしても、片仮名で表記すると長くて面倒だ。

 今夜は東京公演の3日目で、スヴィリードフの交響組曲「吹雪」、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」、ショスタコーヴィチの「交響曲第10番」、アンコールにチャイコフスキーの「白鳥の湖」から「スペインの踊り」。

 あふれんばかりの大きな音はさすがロシアのオケならではだが、3年前の日本公演で聴いた「イオランタ」と同じように、ピアニッシモが実に美しい。
 「吹雪」の冒頭など、囁くような最弱音でありながらホールいっぱいに豊かに拡がるふくよかな響きは見事というほかなく、円熟の老練フェドセーエフの面目躍如、というところ。この曲、彼はかなり前に東京フィルと演奏したことがあるが、その時にはこんな空間性豊かな音は聴けなかったと記憶している。ただ、いずれにしても、おかしな曲である。

 ショスタコーヴィチの「10番」は、轟然たる音は響かせるけれども、決してヒステリックに怒号するのではない。あくまでも力まず、気負わず、余裕を以って滔々と押して行くといったタイプの演奏になった。
 それゆえ第2楽章など、デモーニッシュな狂乱怒涛という性格は希薄で、ただ音だけが乱舞するという印象になるのがやや物足りない。第4楽章大詰めでも、D-Es-C-H(作曲者の名の一部D.Schを読み替えたモノグラム)の連呼と歓呼とをあまり際立たせることなく、むしろ、豊麗な音色のオーケストラを自然な流れに任せつつ終結させるとでもいうような手法を採っていた。
 このあたり、やはり最近のフェドセーエフの落ち着いた(枯れた?)味――というものか?

 しかし、オーケストラは相変わらず巧い。「スペイン奇想曲」では、フェドセーエフの悠然たるイン・テンポの中で、ロシアの原色的な華やかな色彩感が爆発する。「スペインの踊り」でも同様であった。

 「スペインの踊り」は、3年前の日本公演でも演奏されたが、タンバリンを叩いていた奏者は前回同様、以前「雪娘」の「道化師の踊り」で2つのタンバリンを両手で派手に振り回し、大拍手を浴びた「二刀流オジサン」だろう(すこし老けたか)。今夜も――今回は「片手」でだけだったが――活躍していた。もし演奏のあとに、あの二刀流オジサンが、これもジェスチュアの目立っていたカスタネット奏者とともに単独で答礼する機会に恵まれていれば、それこそ詳しいお客さんの大ブラヴォーを浴びていたはずなのに。

10・14(日)ロリン・マゼール指揮NHK交響楽団 A定期

   NHKホール  3時

 1963年のベルリン・ドイツオペラとの帯同以来、数限りなく来日を重ねているロリン・マゼールだが、N響に客演するのは今回が初。10月定期を3週計6回と、NHK音楽祭での公演を1回指揮する。
 第1週のプログラムは、チャイコフスキーの「組曲第3番ト長調」、ライナー・キュッヒルをソリストとするグラズノフの「ヴァイオリン協奏曲イ短調」、スクリャービンの「法悦の詩」というロシアものだった。今日は2日目の公演。

 昔ながらの力感溢れる指揮で、特にグラズノフやスクリャービンでは、N響を豊麗に鳴らしてくれた。「法悦の詩」など、N響がこれほど色彩的な音色を出すのを聴いたのは久しぶりのような気がする。

 ただ、昔のマゼールの指揮に比べると、いわゆる「あざとさ」が消えてしまったというか、淡白な味の音楽になってしまっているところが、マゼール・ファンの私としては些か物足りない。
 マゼールの指揮というのは昔からそれこそ千変万化で、放送のマイクが立っている時には整然たる造型を優先した生真面目な指揮をしたかと思えば、放送無しの翌日は、同じ曲でありながら、人が変ったように大胆奔放な指揮をすることがしばしばあった。フランス国立管弦楽団やフィルハーモニア管弦楽団との演奏会などでも、その自在な変貌ぶりには驚かされたものである。

 今日は放送の生中継や収録も無かったし、もしやと期待していたのだが・・・・マゼールとしてはやはり、かなり「おとなしい」演奏であった。
 まあ、もちろん、音楽監督や首席指揮者として気心知れた関係にあるオーケストラならともかく、初めて客演するオーケストラが相手となれば、そう自在に振り分けるわけに行かないというのは考えるまでもないことなのだが。

 しかし、そんな奇抜なことをやらない時のマゼールの指揮が全く面白くないと言っているのではない。
 かつてバイエルン放送響の楽員たちは、「彼が両手を大きく拡げて、もっと、もっと、という身振りをすると、私たちはふだん出せないような大きな音で、大きなスケールの演奏をしてしまうのです」と語ってくれたことがある。今のマゼールはそれほどダイナミックな身振りをしなくなったようだが、それでも「法悦の詩」のクライマックスなどでは、N響は見事に均衡を保ったまま、陶酔的なほど豊満なハーモニーを響かせてくれたのであった。

 大マゼール、20年ほど前には私のインタビューに答えて「50歳になったら指揮者を引退するつもりだったが、その後、期限を60歳まで延ばすことに決めた。しかし、結局まだ今でも指揮している」と、冗談とも本気ともつかぬ顔で語っていたことがあった。いま、彼は82歳。スクロヴァチェフスキやハイティンクやヴィンシャーマンに比べれば、未だ未だ若い。今秋にはミュンヘン・フィルの首席指揮者に就任するし(来春来日)、ますます元気なようで、祝着至極である。
    音楽の友12月号 演奏会評

10・13(土)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
ヴェルディ:「レクイエム」

   すみだトリフォニーホール  3時

 協演の合唱は栗友会合唱団、声楽ソリストは宮平真希子(S)、小川明子(A)、吉田浩之(T)、福島明也(Br)。

 今回はシカゴ大学校訂によるリコルディの新版楽譜を使用しての演奏という(上岡談、プログラム掲載)。それはそれで興味深いことだが、結局は、その演奏が聴く者の心にどう響いて来るかということになるだろう。
 その点、今日の演奏は、いつもの上岡の、スコアの細部に至るまで緻密精妙に仕上げる指揮とはかなり趣を異にしていた。それに、あまり細かいことは言いたくないけれども、「歌」の完璧さが不可欠なこの大曲において、今日の声楽陣の出来は、上岡にとっては少々誤算だったのではないか、という気がしないでもない。

10・12(金)秋山和慶指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 モーツァルトの「ハフナー交響曲」の第1楽章は、まさにスコア指定どおりのアレグロ・コン・スピーリトで始まった。荒々しいほどの活力である。

 シティ・フィルがこれほど燃え上がったモーツァルトを演奏したのを、私は初めて聴いた――もちろん、これまでにも他の指揮者のもとでも演奏したことがあって、私がそれを聴いていなかっただけかもしれないが――。
 細かいアンサンブルがどうのこうのということは別として、スピーリトな、ブリオな「ハフナー」は、聴き手を胸のすくような気持にさせる。

 この勢いは、プログラム後半の、ラフマニノフの「第2交響曲」にも引き継がれた。やや速めのテンポで、ぐいぐいと押し、盛り上げて行く秋山和慶の呼吸のうまいこと。アダージョの第3楽章においてさえ、演奏が頂点に向けて高揚して行くあたり、息を呑むほどの力にあふれていた。
 オーケストラは少し粗っぽくて、音もあまりきれいではないけれども、整って取り澄ましただけの演奏を聴くよりは、よほどいい。シティ・フィル、好演だった。コンサートマスターは松野弘明。

10・11(木)あらえびす記念館(岩手県紫波郡紫波町)訪問記

 ちょっと時間が空いたので、「野村胡堂・あらえびす記念館」を訪れてみた。

 わが国の音楽評論界の大先達として業績を残した「あらえびす」。
 本名は野村長一(1882~1963)、報知新聞の記者として調査部長兼学芸部長などを務めた人だが、その一方「野村胡堂」の名で「銭形平次捕物控」などの小説を書いた人でもある。

 私は「銭形平次」の方はTVドラマを通してしか接していないが、「巌窟の大殿堂」とか「地底の都」といった彼の手になる少年少女小説は小学校の頃に読んで夢中になったものだし、まして「樂聖物語」や「名曲決定盤」などの音楽書は、私にとってはバイブルのような存在だった。
 特に「樂聖物語」は、私にレコードの素晴らしさを教えてくれた本であった。
 また、「音樂を愛するが故に、私はレコードを集めた。それは、見榮でも道樂でも、思惑でも競争でも無かった。未知の音樂を一つ一つ聴くことが、私に取っては、新しい世界の一つ一つの發見であった」という書き出しで始まる「名曲決定盤」は、音楽を愛する情熱とは何と素晴らしいものかということを、教えてくれた本でもあった。
 あらえびすの、あの新聞記者らしい歯切れのいい文体と表現とは、今も私の憧れである――。

 記念館は、彼の生れ故郷、岩手県の紫波郡紫波町にある。
 東北新幹線の「はやて」に乗れば、東京駅から盛岡駅まで僅か2時間27分。便利になったものだ。そこから東北本線で24分、日詰という駅で降り、タクシーで5分ほど行けば着いてしまう。
 予想以上に大きな、立派な建物である。広大な展示室には文筆関係の膨大な資料が展示され、2階には彼の膨大なレコード・コレクションの一部と、同好の士たちから寄贈されたものを含む各種の蓄音機が展示されている。

 前記の展示室に隣接して、2、3百人は収容できそうな広いホールがあり、タンノイのウェストミンスターとカンタベリーのスピーカー、古いヴィクトローラの大型蓄音機、ピアノなどもある。ここで定期的に演奏会やレコードコンサートが行なわれており、特にSPレコードのコンサートは大変な人気を呼んでいるそうだ。
 私も館長の野村晴一氏からそのヴィクトローラでSPレコードを聴かせていただいたが、針音を越えて聞こえてくるその音の良さと味わい深さは、筆舌に尽しがたい。SPはCD復刻などでなく、SPそのものをSPに合った装置で聴いてこそ、最高の効果を発揮するのである。

 その他、野村胡堂の幅広い政財界の交遊を物語る資料の展示室もある。
 自ら「私は音樂家でも音樂批評家でもない。新聞記者であり、小説家である・・・・私は努めて音樂愛を語り、レコード愛を語る。議論や理屈は極力避けた積りだ。それは私の柄ではない」(名曲決定盤)と任ずるあらえびすの多彩な活動の模様が一目瞭然である。彼に興味を持つ者にとっては、立ち去り難いほどの気分になるだろう。
 大正天皇の奉葬の際の、報知新聞の第一面トップの報道記事が「野村胡堂」の署名入りで書かれていることを知り驚嘆したのは、そこに掲げられている新聞の拡大コピーによってだった。
 ちなみにこの記念館は、紫波町が中心になって運営されている由。賞賛されるべき文化政策である。

 余談だが、せっかく「はやて」に乗ったからには話の種にと、大奮発して片道だけ例の「グランクラス」の車両に乗ってみた。1列が2-1という3席ずつの車内、噂どおり椅子は豪華なもので、飛行機のファーストクラスのそれ(詳しくは知らないけれど)に匹敵するだろう。軽食も出る。超快適であることは間違いない。
 ただし、窓は小さく、窓枠が厚く、椅子の肘掛も立派なので、窓までの距離は数十センチもあり、外の景色はほとんど見えない。外界からは隔絶された世界だ。私のように窓辺に倚って、移り行く窓外の景色を愉しみ、旅気分に浸りたいという好みの人間には、さして面白くはない車両である。

10・8(月)チェンバロ・フェスティバルin Tokyo 2日目

    上野学園 石橋メモリアルホール  6時40分

 池袋でのコンサートが終ったのが5時少し過ぎ。足を延ばして上野へ回る。
 曽根麻矢子が芸術監督を務める「チェンバロ・フェスティバルin Tokyo」が第2回を迎えているので、せめてその2日目(最終日)のトリのコンサートだけでも聴いておきたいと思った次第だ。

 その大トリのコンサートは「10台のチェンバロによる合奏」と題されたもので、出演者は綺羅星の如く、曽根麻矢子をはじめとして、山田貢、渡邊順生、大塚直哉、武久源造、西山まりえ、植山けい、副嶋恭子、戸崎廣乃、野澤知子の10人。
 プログラムは、バッハの「ブランデンブルク協奏曲第3番」第1楽章、G・ガブリエリの「12声のカンツォン」、モーツァルトの「3台のピアノのための協奏曲」第1楽章、最後にラモーの「優雅なインドの国々」抜粋。

 曽根は持ち前の明晰明朗な口調で司会も担当しての大活躍で、キッズ・チェンバロ・コンテスト(第1回)の受賞者発表も自らユーモアたっぷりに行なっていた。
 10台のチェンバロの協演は見た目にも壮観だが、その音は、あたかも濃密な波がざわめくような、奥深い拡がりを感じさせる。

10・8(月)ロジェストヴェンスキーと読売日響のチャイコフスキー後期交響曲チクルス最終日「悲愴」

    東京芸術劇場  3時

 これは東京芸術劇場のリニューアル特別公演の一つ。ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが指揮する読売日本交響楽団が、6日から3日間にわたって「第4番」以降の3つの交響曲を、協奏曲2曲と管弦楽曲2曲を交えたプログラムで演奏して来た。今日は、「ヴァイオリン協奏曲」と第6交響曲「悲愴」。

 ロジェストヴェンスキー独特の味と色彩感覚は、健在だ。ロシア音楽をあのマトリョーシカやパレフのようなカラフルなイメージで描き出す指揮者は、ペレストロイカを境にしてだんだん少なくなって来ているが、ロジェストヴェンスキーはその最後の巨匠たちの1人ではなかろうか。

 今回の読響との演奏は、4年前の「イヨランタ」などで聴かせたような濃厚で精妙な色合いには若干不足し、また以前よりは少し淡白な味になったか・・・・という気もするが、それでもこの豪壮な色彩感は、昔ながらのロジェヴェンである。協奏曲でも交響曲でも、オーケストラをたっぷりと響かせ、特に金管を壮烈な力感で吹かせる。
 「悲愴」での音量的な頂点は、第1楽章の再現部と、第4楽章の後半に置かれていたが、そこでのそれぞれトロンボーンおよびテューバとトランペットのfffによる激烈な慟哭は、日本のオーケストラからは久しぶりに聴くものだった。
 テンポも全体にやや遅めになった感があり、――特に第3楽章は、昔のモスクワ放送響との録音を含め、もともとそう速い方ではなかったが、今日は更に遅いテンポでどっしりと音楽が進められていた。読響のソロもいい。冒頭のファゴットのソロは力強く、第1楽章のコーダは見事な均衡を示して美しい。

 「ヴァイオリン協奏曲」でのソロは、サーシャ・ロジェストヴェンスキー。音色はいいのだから、もっと音程を正確に、テンポはもっと柔軟に弾いてもらいたいものだ。一方オーケストラは、この上なく堂々として立派な風格の演奏だった。

 今日はオルガンの前に反響版を下ろしての演奏。そのせいもあってか、オーケストラの響きは厚みに満ちて豊麗となり、残響も豊かになった。このホールは、満席でもこれほど音がよく響くところだったか。響きすぎるという人もいるらしいが、私は残響の長い方が好きだ。

 終演後のこと。廊下で、ある奥さんらしい人が、「悲愴」の最後の感動的な終結個所のさなかに客の1人が大きなクシャミをしてホール内の空気を揺らしてしまったことに大憤慨しており、それをご主人らしい人がなだめていた。奥さんの気持は解る。
 もう一つ。この劇場はリニューアルしてから、終演後、クロークに向かって左側のドアを開き、そこからも客を外に出せるようにしたようである。非常出口利用か? エスカレーターやエレベーターが混雑する時には手頃かなと思い、試みにそちら側から出てみた。ところがこれは、スロープを折り返しながら下って行く通路。距離の長いのなんの。どこまで歩いても、地上は遥か遠くにある。こんな道に来るんじゃなかったと途中で面倒臭くなったが、引き返すわけにも行かぬ。
    音楽の友12月号 演奏会評

10・7(日)神奈川国際芸術フェスティバル・テーマシンポジウム
「オペラ!/?~ネクスト・ジェネレーションへの試み/から」

   KAAT神奈川芸術劇場〈ホール〉  3時

 何だか解りにくいタイトルだが、要するに宮本亜門(神奈川芸術劇場芸術監督)が演出する「亜門版ネオ・オペラ」なる「マダム・バタフライX」(バツではなく、エックス)を11月に上演するのにひっかけ、新しいオペラ演出や舞台のあり方を探ってみよう、というシンポジウムである。

 宮本亜門を中心に、演出家の田尾下哲と菅尾友、建築家の山本理顕、美術作家のやなぎみわ、脳科学者の茂木健一郎、作曲家の一柳慧らが登壇。
 出席者の領域と話題とを広げすぎた感もあったが、最終的には一柳氏が最初に即興的に「響かせた」ピアノの「今(=現代)、この1回しか出来ないこと、聴けないこと」の意味を重視したいということがシンポ全体の底流となっていったようだ。既存の殻を打破して今日的なオペラの舞台を創りたいという意見も、当然ながらその延長として出て来る。
 宮本・田尾下・菅尾の演出家3人が語った「抱負」も心強く、興味深い。
 予想外に多くの聴衆が集まっていた。これも心強い。

10・6(土)「オール・アバウト・ハインツ・ホリガー」第1日・協奏曲&指揮

   トリフォニーホール  3時

 オーボエの名手にして指揮者・作曲家というさまざまな顔を併せ備えるハインツ・ホリガーは、今回の来日では東京、横浜、水戸などで彼の幅広い芸域を披露する。
 今日はその初日。新日本フィルとの協演で、最初にモーツァルトの「オーボエ協奏曲」を吹き振りし、そのあとシューマンの「第2交響曲」、自作の「音のかけら(トーンシェルヘン)」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」を指揮するというコンサート。

 ホリガーはたしか70歳を出ているだろう。明るい鋭角的な音色で、強大な音量で、直截な速いテンポで、一気に吹きまくる。吹き終わった瞬間には元気よく腕を振ってオーケストラをリードする。エネルギッシュなステージだ。

 彼の演奏を聴きながら、昔イタリアの名フルート奏者セヴェリーノ・ガッゼローニ(特に現代音楽の演奏では当時世界一と言われていた)が晩年に日本でやった演奏会を思い出した。それは本当に表情の多彩なソロだった。テンポやリズムが時々グラリと崩れそうになるけれども、その寸前にパッと立ち直ってがっしりと構えてみせるという軽業的な演奏であった。
 その頃は何も知らなかった私は、ただ「上手いのだか下手なのだか解らないけど、何だか凄い」と呆気に取られて聴いていたものである(※この演奏については故・吉田秀和氏が実に味のある指摘をしておられる)。

 今回のホリガーのソロにも、その「グラリ」に似たようなところもなくはない。だがもちろん、ホリガーの方は、すべてにおいて鮮やかだ。しかも強引なほどの音楽的な力があって、聴き手の注意力を一瞬たりとも弛緩させずに引っ張って行くというタイプかとも思う。第2楽章など、強い音色の中に何とも言えぬ甘美な風情があり、本当に味のあるオーボエとはこういうものなのだ、という陶酔に引き込まれてしまったほどである。

 ところで・・・・新日本フィルの演奏には、ただ嘆息。90年代に逆戻りか?

10・3(水)スーパー・コーラス・トーキョー公演 マーラー:「嘆きの歌」

  東京文化会館大ホール  7時

 「Music Weeks in Tokyo スーパー・コーラス・トーキョー特別公演」と題したこの演奏会は、東京文化発信プロジェクトの一環としての「東京の音楽文化の活性化、創造力の向上を目指す音楽フェスティバル」の一つとして開催されたもの。
 ロベルト・ガッビアーニ(トリノ王立歌劇場を経て現在はローマ歌劇場のコーラスマスター)を指導者とし、彼がオーディションで選んだメンバーで組織された合唱団「スーパー・コーラス・トーキョー」が主役だ。

 ――といっても、曲がマーラーのカンタータ「嘆きの歌」だし、指揮がエリアフ・インバルで、オーケストラが東京都交響楽団、となれば、主役の座は、多少曖昧になるだろう。衆目の見るところ、やはりこれは「インバル=都響のマーラー・ツィクルス」の「番外編」もしくは「増刊号」といったイメージだ。なお声楽ソリストは、浜田理恵(S)小山由美(Ms)福井敬(T)堀内康雄(Br)という顔ぶれ。

 今回の「嘆きの歌」は「森のメルヒェン」「吟遊詩人」「婚礼の出来事」の3部版による演奏だったが、インバルの意向で、第2部と第3部には「改訂最終版」が使用されていた。
 マーラーによるその「改訂版」では、「第1部」が削除されているのは周知のとおり。従って今回は2部構成の「改訂版」に、「初稿版の第1部」が付け加えられた――つまり「折衷版」で演奏されたということになる。この方法は珍しいだろう。

 演奏は、いつものインバルらしく、音楽を明確に堅固に構築した鮮やかなものだが、しかしこのマーラー若書きの大曲は、もともとが散漫な構成のゆえに、インバルが正面切って指揮すればするほど、作品とのギャップを感じさせてしまう。もし指揮者にとって手に負えない曲というものがあるとすれば、その一例がこの「嘆きの歌」ではなかろうか? 
 それにこの演奏は、常日頃のインバル=都響にも似ず、少々粗いアンサンブルで、もしかして練習が足りなかったんじゃァないのか、とも思わせたが如何。スーパーコーラスさんも、曲が曲だし、しかも出番がそうたくさんあるわけでもないし、本領発揮とまでは行かなかったようである。

 なお、休憩前にはワーグナーの「ジークフリート牧歌」が取り上げられていた。弦14型の大きな編成だったが、ゴツゴツしたつくりで、これも何だかぶっつけ本番的な感じの演奏。客席はほぼ埋まっており、拍手はやはりインバルに最も多く贈られていた。
  

10・1(月)樫本大進&コンスタンチン・リフシッツのコンヴェンション

    サントリーホール小ホール ブルーローズ  7時

 EMIミュージックジャパンが、樫本大進とコンスタンチン・リフシッツによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集の録音第1弾(第6~8番)をリリースするのに関連して、メディア相手のコンヴェンションを開催。来年早々行なわれる彼らの全曲デュオ・リサイタルの完結編ツァー(こちらはジャパン・アーツ)とのタイアップ企画でもある。

 ホールは取材陣などでほぼ満杯。よくまあ動員(?)したものだと感心。だが「解る人だけが(コンサートを)聴きに来ればそれでいいんだ」という姿勢でなく、このようにしてプロモーションを行ない、コンサートへの注目度を高める手段を講ずるというのは、大いに結構だし、今のクラシック音楽界においては必要な手法であろう。

 今夜は2人へのインタビューとトークを挟み、「第7番」の第1楽章と「第8番」の第3楽章が演奏された。
 CD録音ではマイクのバランスでいかようにも調整できるから、ヴァイオリンとピアノの音量的バランスは巧く取られているけれども、ナマで聴くとリフシッツのピアノはやはり強大な音量で、特に「第8番」第3楽章の中ほどではホールを揺るがせ、樫本のヴァイオリンを吹き飛ばしそうな勢いになる。まあ、それがナマ演奏の面白さでもあるのだが。

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