2017-03

10・2(火)新国立劇場2012~13シーズン開幕公演
ブリテン:「ピーター・グライムズ」初日

   新国立劇場オペラパレス   6時30分

 新シーズンは、ウィリー・デッカー演出によるベルギー王立モネ劇場のプロダクション、ブリテンの「ピーター・グライムズ」で幕を開けた。

 開幕公演を借り物プロダクションでやるとは節操がないと批判していた人もいたが、芸術分野の予算が決して潤沢ではない今日、共同制作やプロダクションの交換は、今や世界の潮流ともいうべきものだ。なまじ中途半端なオリジナル物をやるより、よい舞台を各国の歌劇場が融通しあって上演する方がよほど意義がある。
 今回の「ピーター・グライムズ」も、ジョン・マクファーレンの美術と衣装、デイヴィッド・フィンの照明を含め、きわめて水準の高い舞台だ。上演の価値は充分にある。前シーズンの閉幕を飾った「ローエングリン」に続き、新国立劇場としては連続ヒット、といって間違いはあるまい。 

 舞台装置はきわめてシンプルなものだが、床は手前に急傾斜しており、このため特に第1幕では、人々の動きを常に斜め上方から俯瞰しているような感覚になる。まるで演出家から、「観客がどれほど疎外された者(ピーター)に同情の念を抱いても、所詮は傍観者的立場にいるに過ぎないのだ」と皮肉気に囁かれているかのよう。

 しかもラストシーンでは、村人から罵られるほどピーターへの同情と肩入れを続けていたエレンまでが、ピーターが死んだあとにはその冷酷な群衆の中へ(挫折感に打ちひしがれた様子ながら)埋没して行く、という演出設定が行われている。この最後の十数秒間の光景は些か衝撃的だ。デッカーは「噂」や「群集心理」の暴威とその犠牲者の悲劇を、どこまでも冷徹に突き放して描き出しているかのようにみえる。

 この恐るべき冷酷な「群集」を、デッカーは、舞台上で実に見事に動かした。
 群集全体の動きが一つの形と流れを造り、ピーターやエレンを糾弾して「いじめ」に回る瞬間には、アメーバのごときヌメヌメした執拗な嫌らしさを感じさせる形になって動く。これほど統一の取れた動きを示す「群集」を見たのは、私の経験では、90年代にザルツブルク音楽祭で見たペーター・シュタイン演出の「モーゼとアロン」での大群集以来である。

 それゆえ今回、この群集を演じた新国立劇場合唱団(合唱指揮 三澤洋史)のメンバーには、最高の賛辞を捧げたい。合唱団は歌唱の面でも卓越した水準を示し、終結近くピーターのもとへ押しかけようとする場面での激昂の合唱などには、言い知れぬ凄みさえ湛えて、このオペラの主役としての責任を完璧に果たしていた。
 村人の衣装が礼服調だったのは、トレヴァー・ヌン演出(05年ザルツブルク復活祭 METとの共同制作)ともやや共通しているが、このデッカーのプロダクションもその頃作られたものだったのでは?

 題名役ピーター・グライムズを歌ったのは、スチュアート・スケルトン。漁師小屋や海岸の場面などでは熱演であった。粗暴さもよく出ていたと思うが、この男の複雑きわまる性格を出せるようになるのは、まだこれからだろう。往年のジョン・ヴィッカース(79年ロイヤル・オペラ初来日公演 モシンスキー演出)のような異常性格者的な野趣は極端例としても、――たとえばロバート・ギャンビル(05年 前出)が演じた、真面目な青年が村人の異常な虐めに遭って精神的に荒廃して行くといったような形での――性格の変化という微細な描き方も欲しい所ではあった。

 彼への理解者であるバルストロード船長にはジョナサン・サマーズ、この人は大ベテランで巧く、演技と歌唱に滋味もある。
 ラストシーンでピーターに沖へ船で出て死ぬよう引導を渡す瞬間の「Good-bye, Peter」という言葉が聞き取りにくかったのは惜しかったが・・・・(ザルツブルクでジョン・トムリソンがここを震え声でやった時は、感動的だった!)。

 女性陣は、彼に好意と同情を寄せる女性エレン・オーフォードを演じたスーザン・グリットン、その友人アーンティを演じたキャサリン・ウィン=ロジャース、いずれも安定した好演。
 噂好きで詮索好きのセドリー夫人を演じた加納悦子は、残念ながら、おとなしすぎる。もっとあくどい人物描写が必要だろう。特に後半、村人をピーターにけしかけるアジテーターになるあたり、魔女的な凄みがないと、オーケストラが奏でるあの不気味なモティーフとの釣り合いが取れない。

 指揮はリチャード・アームストロング。剛直で無骨な、がっしりとした演奏を構築していた。しなやかさは殆ど無い。だが、ピットでの東京フィルをここまで引っ張ったのなら、まずは御の字ではないか?

 カーテンコールでは、デッカーも挨拶に現れた。ブラヴォーはいくつか飛んだが、ブーイングは出ない。彼は練習の時からかなり長期間滞在し、演出も今回に合わせてあちこち手直しし、念入りに上演準備を重ねたとのことである。渋い舞台ではあったが、よく出来ていた。今回の上演の成功に際しての功労者は、まずこの演出家、次に合唱団であろう。
 スケルトンはこのカーテンコールでピットを見ながら荒々しい大見得を切ったが(何の意味だか解らない)、この時の方が、本番での演技よりもよほど凄味があった・・・・。
 9時半終演。

9・30(日)ライマンの「メデア」映像鑑賞とトーク

    ドイツ文化会館・東京ドイツ文化センター(青山)  3時

 アリベルト・ライマンのオペラ「メデア」が日生劇場で11月9日~11日に日本初演されるのを前に、日生劇場は「ライマン・プロジェクト」を作って愛好者向けのシンポジウム他を開催しているが、今日の映像鑑賞とテーマ発表の会(入場無料)もその一環。

 映像は2010年ウィーン国立歌劇場における上演を収録したアルトハウスのDVD。販売元ナクソス・ジャパンみずから上映に立ち会っている。「公開上映」でなく、プロモーションかつ研究会、ということだろう。
 このDVDに入っているウィーン上演の模様は、すこぶる見ものだ。指揮がミヒャエル・ボーダー、演出・美術・照明がマルコ・アルトゥーロ・マレッリ、タイトルロールのメデアをマルリス・ペーターゼン、イアソンをアドリアン・エレート、その他の配役。

 特にペーターゼンの鬼気迫る歌唱と演技は物凄く、夫の裏切りへの復讐のため、わが子2人を殺してしまうメデアの狂気を描いて余す所がない。彼女の狂乱が高潮する個所で、背景の崖から岩石が頻繁に転げ落ちて来るという演出も不気味さがあった。またこの演奏を聴くと、ライマンの音楽のエネルギーの強靭さも――近代ドイツオペラの癖ともいうべきソプラノの高音域の多用だけは私の好みではないけれども――充分に堪能できる。

 日本での演出は飯塚励生、指揮は下野竜也、題名役は飯田みち代と大隅智佳子(ダブル)だから、もちろんこれとは異なった舞台になるはずだが、それにしても大いに興味をそそられるだろう。
 約2時間の上映のあとには「テーマ発表」として、森岡実穂(中央大准教授)と舘亜里沙(演出家)加藤祐美子(同)のトークがあったが、所用のため失礼した。

9・29(土)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団のマーラー「復活」

    東京芸術劇場  2時

 リニューアルされた東京芸術劇場といえば、9月1日の読響の「復活」の時、効きすぎた冷房に閉口した記憶が生々しい。それゆえ今日は戦々恐々としながらホールへ赴いたが、ありがたいことに、空調は適正に調整されたらしかった。

 が、今度は、あの時は悪くないと思っていた椅子の「つくり」が、やたら気になり始めた。深く掛ければいいらしいが、それ以外の姿勢をとると、どうも座り心地がよろしくない。腰も痛くなる。
 帰りがけに、先輩の人間工学の権威である早大名誉教授N氏に出会ったので「あの椅子、どう思います?」と訊ねたら、「まあ普通の椅子だよ。悪いのは椅子じゃなくて、君の方だよ」と言われた。しかし、知人の何人かが、「何かちょっと座りにくいですねえ」と口を揃えて言っていたこともたしかなのである。もちろん「いや、別に」と気にしていなかった人もいたけれども・・・・。さて、如何なりや。

 のっけから音楽と関係のないことばかり書いたが、今日のコンサートは、インバルと都響の「新マーラー・ツィクルス」の2回目だ。協演は二期会合唱団、澤畑恵美(S)、竹本節子(A)。コンサートマスターは矢部達哉。

 前出の読響の「復活」を聴いた時には、弦の音色を含めたオーケストラの音がかなり硬く刺激的に感じられ、もしやこれは改修の影響か、と訝ったこともあったが、今日のインバル=都響の演奏をほぼ同じ位置で聴いてみた範囲では、幸いにそれほどでもなかった。冒頭のヴァイオリンとヴィオラのffによる激しいトレモロも、チェロとコントラバスのfffによる激烈な16分音符の叫びも、思ったよりまろやかな響きで伝わって来た。
 結局はオーケストラの鳴らし方次第である。それに今回は、最初は合唱団が奥に並んでいなかったために、ステージの響きもそれほど吸われずに客席に響いて来ていたのだろう。

 インバル、持ち前の強靭な構築力と均衡性を押し出し、しかも起伏の大きな指揮で都響を率いていたことには変わりないが、ただ今日の演奏にはいつものような強面な表情はさほど感じられず、どこか柔らかい、さらりとした語り口に思えたのは、こちらの気のせいか。
 全曲の終結近く、演奏がぐんぐん高揚して行って、Piu mosso、Pesanteと進むごとにテンポを少しずつ動かして行く(というように聞こえた)あたり、さすがこの呼吸は巧いものだな、と舌を巻くが、いわゆる忘我的な熱狂とか、身の毛のよだつような緊迫感が漲るというタイプの演奏ではない。聴き終わった瞬間に残るのは、凄い演奏だったなという印象ではなく、いい曲だなという思いである。

 都響は今日も立派な演奏。アルトのソロにはもっと安定感のある深みが欲しい。最後の頂点で叩かれるチューブベルはドライで素っ気なく、著しく感興を殺いだ。会場は超満員。
   音楽の友11月号 演奏会評

9・26(水)エヴァ・メイ ソプラノ・リサイタル

      東京オペラシティコンサートホール  7時

 今回はイタリアの比較的珍しいレパートリーで固めた。歌曲はゴルディジャーニとロッシーニの作品、オペラはロッシーニとドニゼッティのアリア。ピアノは浅野菜生子。

 容姿もステージ・マナーも華やかで明るいエヴァ・メイ。リサイタルながら大きな身振りを加え、オペラのアリアではちょっとした演技も入れながら、表情豊かに歌ってくれる。
 どちらかといえば歌曲の方に彼女らしい軽快なチャーミングさが発揮されているように思われ、ゴルディジャーニの珍しい「トスカーナ民衆歌集」など、こんなにいい曲なのかと感心させられたが、オペラでの表現にも華麗な愛らしさがたっぷりとあふれていて、特に彼女のドニゼッティものの良さを大いに愉しむことができた。

 但し欲を言えば、どの歌曲も、あるいはオペラも、極端に言えば同じような表現で歌い続けられるために、やや単調な流れに感じられる向きがある。
 これは協演のピアノについても同様のことが言えよう。達者な伴奏であることはたしかだが、どの曲もすべて同じような「伴奏」にとどまり、オペラにあっても各場面の雰囲気をそれぞれ描き分けるというには程遠い。リサイタル全体を何か単調なイメージにしてしまった責任は、ピアノにもある。

 それにしてもこのオペラシティコンサートホール、1階中央(13列前後)に座っていつも感じることだが、声楽リサイタルの場合、舞台の声の「はね返り」があまりに大きすぎて辟易させられる。まるで下手なPAがつけられたように、エコーのように響いて、声のフォーカスが曖昧になってしまう。もっと大きな声の歌手であれば、右を向いて歌えば舞台の右側の壁に声がはね返り、左を向いて歌えば左側にはね返り、というケースになることが何度もあった。
 ホール関係者はこの音響的欠陥に気づかないのだろうか? 昔、東京文化会館がシュワルツコップのリサイタルなどで試みて成功した屏風の利用など、考えるわけには行かないのだろうか。

9・25(火)デジュ・ラーンキ&エディト・クルコン ピアノ・デュオ・リサイタル

     Hakuju Hall(東京・渋谷区富ヶ谷)  7時

 ドビュッシーの作品ばかり、4手または2台のピアノによる演奏。前半は4手による「牧神の午後への前奏曲」(ラヴェル編)、「6つの古代墓碑銘」「小組曲」。後半が2台のピアノによる「白と黒で」「リンダラハ」「夜想曲」より(ラヴェル編)という、実に魅力的なプログラム。

 秋の夜、ドビュッシーの陶酔的な世界を満喫、というつもりで聴きに行ったのだが、実際の演奏は、そんな甘いものではなかった。
 この2人が弾くドビュッシーは、詩的な気分を断乎として拒むように、強靭で、鋭利な切れ味を示す。音楽の骨格が、冷徹な光を浴びてもろに浮かび上がる。いわゆる香気とか、模糊たる美しさとかいった世界とはかけ離れたドビュッシーだ。4手の時も2台の時も舞台手前に座っていたクルコンがあまりに強烈な打鍵を聞かせるので、そのつど激しい口調で迫られるような気分になり、些か戸惑う。

 こういうスタイルのドビュッシーを聴いたくらいでオタオタするようなヤワな聴き手ではなかったつもりだが、今夜はどうもこちらの感覚が疲れていたらしい。ついに最後まで彼らの演奏に正面から向き合えずに終ってしまった。夫妻があまりに淡々とした表情で弾き続け、演奏が終ると、カーテンコールで出て来るごとに淡々と2回ずつお辞儀をしては引っ込む、その所作すらも何か素っ気なく感じられてしまったくらいであった。

9・24(月)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団

    サントリーホール  7時

 スクロヴァチェフスキ、来月の3日には89歳になる。
 何度も繰り返すようだが、本当に元気だ。歩くのも速いし、指揮台での身のこなしも敏速そのもの、カーテンコールでの動きも素早い。

 その代わり、テンポは極度に遅くなる個所がある。1曲目の、ウェーバーの「魔弾の射手」序曲のアダージョの最初8小節のテンポの遅いこと! 8分休符の長さもたっぷり保って、なかなか次のフレーズに入って行かないという具合だ。

 しかし、この日のプログラムの最後に組まれたワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の、前奏曲冒頭の例の「愛の憧れの動機」を一度出しては長い長い休止を置き、また一度出しては更に長い間を置き・・・・という遅いテンポの演奏と聴き比べると、「トリスタン」の冒頭はまさに「魔弾の射手」序曲冒頭の遠いエコーなのであり、――もしやスクロヴァチェフスキは両者を非常に遅いテンポで演奏することにより、両者の関連を意味づけたかったのかもしれない、ということにハタと思い当たる。
 そのスクロヴァ氏の意図についての当否はともかく、ワーグナーが若い頃から敬愛していた先輩ウェーバーへのオマージュを、こんなところにも潜めさせておいたのか、などと、勝手に目からウロコの心境になって愉しむのも悪くないだろう。

 ちなみにこの「魔弾の射手」序曲、チェロとコントラバスのppをfでクレッシェンドさせたり、pのピッチカートをffで演奏させたり、スクロヴァ氏的な趣向が随所に聴かれた。特に大詰めの3小節は一風変った面白い結びになっていたが、あれは彼の解釈か、何か根拠があるのか、伺いたいところだ。

 2曲目は、スクロヴァチェフスキ自作の「クラリネット協奏曲」。27分ほどの多彩な音色を持つ作品だ。
 最初の2つの楽章ではミステリアスなまでに沈潜した、しかも常に秘めやかな躍動を感じさせる曲想と、激しい動きの最強音との対比が目覚しい。特に第2楽章の美しさは見事で、全曲の頂点ともいうべきもの。第3楽章に入るや突如としてスケルツァンドの舞曲的な躍動になるのが意外で、その終結が実にあっけない形を採るのにも驚かされるが、まるでこの楽章はエピローグといった感がある。1981年完成の作品とのことだが、これまで聴いた(聴かされた?)彼の作品の中では、最も魅力的な曲ではないかと思う。
 しかも今夜の演奏は、あの名手リチャード・ストルツマンだった。彼の瑞々しく美しい、緊迫感に溢れたパーフェクトなソロが、この協奏曲をどれだけ充実の作品にしてくれたことだろう・・・・言っては何だが、彼のソロでなければ、これほど良い曲だと思えなかったかもしれぬ(失礼)。

 最後は、あのヘンク・デ・フリーヘル編曲による、オーケストラだけの、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」。前奏曲から「愛の死」まで、第2幕の2重唱その他いろいろな個所の音楽を集め、少し手を加えて編曲したりして、要領よく接続した作品。
 原曲を熟知しているワグネリアンにとっては、おなじみの場面の音楽が次々に出て来て、なるほどここへ繋がったか、と楽しみの尽きない曲だが、そうでもない聴き手にとっては、このだらだらと(?)休みなく続く「まとまりのない」63分もの音楽はどのように感じられるのか、時々心配になってしまう。

9・23(日)崎川晶子フォルテピアノコンサート

    自由学園・明日館講堂  5時

 渡邊順生とのデュオ・アルバムがレコード・アカデミー賞を受けるなど、活躍目覚しい崎川晶子のコンサート。「地雷廃絶と東日本大震災(の被災者救済)のためのチャリティコンサート」と銘打ったシリーズの一環である。

 今日の協演者は花崎淳生(vn)、須藤三千代(va)、花崎薫(vc)。プログラムは、ハイドンの「ピアノ三重奏曲ト長調Hob.ⅩⅤ-25」と「アンダンテと変奏曲ヘ短調Hob.ⅩⅦ―6」、シューベルトの「アルペジョーネ・ソナタ」、ベートーヴェンの「ピアノ四重奏曲変ホ長調Op.16」。

 池袋駅から徒歩数分の距離にあるこの「明日館」は、内部が木で出来ていて、旧芸大奏楽堂を小型にしたようなクラシックな感じの「講堂」である。屋外の車の音も時には入って来るが、アコースティックそのものは良い。
 だが、会場の構造上、今日のような大雨となると、猛烈な湿気までがモロに入って来る。これは、演奏者と楽器にとって、あまりに酷だ! 如何に曲が好く、演奏が良くても、すべてが湿った音になってしまう。

 しかしその中にあって、崎川のフォルテピアノと、花崎薫のチェロとは、さすがに安定して生気にあふれた演奏を聴かせ、「アルペジョーネ・ソナタ」をこの日随一の好演とした。インティメートな雰囲気のコンサートであった。

9・22(土)三ツ橋敬子指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   横浜みなとみらいホール  6時

 こちらも、ほぼ満席状態だ。日本フィルの横浜定期を三ツ橋敬子が指揮して、ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(ソリストは中村紘子)、交響曲第5番「運命」というプログラム。やや前の方、上手寄りの席で聴く。

 彼女の指揮、昨年6月の東京フィルとのベートーヴェンの「英雄」では、すこぶる歯切れのいいリズム感で、エネルギッシュに押していた。それに対し、9月のシティ・フィルとのブラームスでは、一転して重厚な表現となっていた。
 それゆえ今日のベートーヴェンは前者のスタイルかと予想したが、案に相違して重心の低い、厚みのあるたっぷりとした響きで堂々と押して行く演奏である。

 このあたり、作品へのアプローチの違いか、オケとの相性によるものか、あるいは彼女の音楽のスタイルに変化が生じて来たのか、よくわからない。が、とにかくこの日本フィルから、随分柔らかい、ふくらみのある音を引き出すものだと感心させられたのはたしかである。
 序曲も協奏曲も、最強奏の個所にさえ余裕を持たせた音量であり、本当の爆発は「運命」まで取って置く――という意図なのかとも思ったが、その「第5番」においても節度と均衡は見事に保たれていた。
 「5番」の第1楽章再現部における第2主題が、これほど叙情的に美しく演奏された例を、私はこれまで聴いたことがない。

 とはいえ、音楽の力感が不足しているわけではない。第3楽章に入った途端、音楽の風格がみるみる増して来たのには、思わず居住まいを正したほどだった。
 しかも、第4楽章冒頭の第1主題に入る直前の、ピアニッシモのブリッジ・パッセージにおける強い緊迫感はどうだろう。クレッシェンドの呼吸もきわめて好い。若い指揮者がここまでやるか、と驚かされたほどである。再現部直前の個所でも同様の良さが聴かれた。
 全体に衒いの全くない、イン・テンポの、デュナミークの対比などにも殊更の誇張のないストレートな演奏だが、細部には数々の個性的な解釈が溢れている。やはり、並々ならぬ才能を備えた指揮者であろう。

 日本フィルは、本当にいい音を出していた。落ち着いた風格とふくらみが、演奏に満ち溢れている。今日のリーダー(コンサートミストレス)は江口有香。
 

9・22(土)トレヴァー・ピノック指揮紀尾井シンフォニエッタ東京

    紀尾井ホール  2時

 9年ほど前までピリオド楽器のオーケストラ「イングリッシュ・コンサート」の創立者・指揮者として君臨し、近年はフリーで活躍する英国生れのトレヴァー・ピノック。
 彼が「紀尾井シンフォニエッタ東京」に客演するのは8年ぶりとのこと。実は私も、彼の指揮をナマで聴くのは久しぶりだ。

 ピノック、まだ66歳。以前に変らぬダンディな容姿、優雅な身振りの指揮。だが彼が引き出す音楽は、昔ながらのシャープで瑞々しい感性に満ちており、爽快で快い。
 この人は、アーノンクールやパーヴォ・ヤルヴィや、あるいはその亜流(?)のように、曲想の変化を大掛かりに誇張して聴かせる指揮者ではない。テンポをことさら大幅に変動させたりする指揮者でもない。だがデュナミークの対比を巧みに強調し、作品に起伏の大きな造形性を注入する点では、非常に個性的なものがある。

 指揮した曲はすべてモーツァルトの作品で、交響曲第36番「リンツ」、クラリネット協奏曲、交響曲第39番K.543の3曲。すべて緊張感の漲った、些かも緩みのない構築で推し進める見事な演奏だ。
 特に協奏曲で聞かせた、強弱の対比の綿密さは面白かった。ほとんどロマンティシズムといってもいいような――ppppと表現してもいいくらいの極端な最弱音(第2楽章)と、緊張が突然解決する瞬間の決然たるff(に等しい音量)とが、見事なコントラストをつくる。これはピノックの得意わざの一つだ。録音では絶対汲み取れない特徴で、ナマのステージの空間的な響きを伴ってこそ、初めて体験できる衝撃なのである。

 パトリック・メッシーナ(フランス国立管首席)のソロはイマイチだったけれども、ピノックの雄弁さと、それに応える腕利きの集団「紀尾井シンフォニエッタ東京」(今日のコンマスは長原幸太)の張りのある密度の濃い演奏で、大いに愉しめたコンサートであった。ホールは満席の盛況。

 終演は4時ちょうど。クルマで横浜に向かう。次の演奏会場みなとみらいホールまで、door to doorで1時間そこそこだ。流れのいい首都高をのんびり走る気分は最高。

9・21(金)レナード・スラットキン指揮NHK交響楽団

    NHKホール  7時

 久しぶりでスラットキンの指揮を聴く。

 メイン・プログラムはショスタコーヴィチの第7交響曲「レニングラード」だが、前半にはリャードフの「8つのロシア民謡」という15分ばかりの長さの管弦楽曲が取り上げられていた。
 珍しい曲を出したものである。最近のN響の定期のプログラムは、ちょっと一捻りしたものが増えて来て、面白くなった。

 この「8つのロシア民謡」(1906年初演)も、私にとっては初めて聴く作品。スラットキンの指揮だから、あまりロシアっぽくは聞こえないけれども、それでもフォークソング的な味は適度に感じられるし、リャードフらしい色彩的なオーケストレーションの妙味もそこそこ感じられる、といった曲だ。
 弦楽器全部のピチカートとピッコロの囀りを対比させる(第5曲「小鳥の物語」)は、チャイコフスキーの「第4交響曲」の第3楽章をモデルにしたものだろうし、また弦楽器が力強く主題を奏するあたりは、ボロディンの「第2交響曲」を連想させる。
 そういえば、「ゲゲゲの鬼太郎」の中で、「さら小僧」という河童の持ち歌に「ぺったら ぺたらこ ぺったっこ」というのがあったが、あれはもしかしたらこの第4曲「私は蚊と踊り」のリズムから採ったものかしらん?

 「レニングラード交響曲」は、予想通りスラットキンの要を得た指揮と、N響の強力なアンサンブルが相乗して、威圧的な壮大さというよりもむしろ、滑らかな音色と晴朗な響きを備えた壮麗な演奏となった。もともと外面的な威容を優先させた性格を持つ交響曲だから、こういうタイプの演奏でも、それなりに圧倒的な効果を発揮する。第4楽章最後の怒号の個所でも、N響は音の均整さを失わず、節度を保ったクライマックスを創り上げた。さすがの余裕である。
   音楽の友11月号 演奏会評

9・17(月)東京二期会 ワーグナー:「パルジファル」最終日

    東京文化会館大ホール  2時

 公演4日目、別キャストの2日目。
 こちらのキャストもなかなか強力だ。パルジファルを片寄純也、クンドリを田崎尚美、アムフォルタスを大沼徹、グルネマンツを山下浩司、ティトゥレルを大塚博章、クリングゾルを友清崇、といった主役陣。
 花の乙女や小姓(女声は看護婦)など脇役陣に至るまで完全ダブルキャストというのは、二期会の歌手の層の厚さを示すものだろう。

 私が特に感心したのは、アムフォルタスの大沼徹と、グルネマンツの山下浩司。
 前者は先日「オランダ人」の題名役を聴いて強い印象を得、このブログで絶賛したばかりだが、今回の「病める王」での歌唱表現と演技も、明快さと激情とを充分に表出していて、なかなか見事なものだった。
 後者はいつぞやの日生劇場「カプリッチョ」でのラ・ロッシュ役も大賞ものだったし、底力のある声の役柄になるとさすがに巧い(フィガロよりずっといい)。歌唱も歯切れがいいので、老騎士グルネマンツも壮者を凌ぐ気魄の持主、といった趣になるけれども、それはそれで一興だろう。

 クンドリを歌った田崎尚美は今回初めて聴く機会を得た人だが、噂ではまだ20代とか? 舞台映えする容姿だし、声にも力があるし、演技力もなかなかのもの(ほとんど歌わない第3幕でも念が入っていた)で、これは楽しみな人である。
 パルジファル役の片寄純也も大健闘で、風貌にも迫力はあるが、この役には今一つ「悩める愚か者」という陰翳が欲しい。第3幕では声に少々不安定さも感じられたが、そもそも「中1日」でこの役を歌うということ自体、大変だったろうと思う。
 なお初日(13日)の項では書き落としたが、二期会合唱団もよくやっていた。ただ、男声・女声ともに、もう少し緻密さが欲しいところでは?

 飯守泰次郎の指揮は、初日よりややテンポが伸びたかもしれないが、やはり彼ならではの滋味と愛情がスコアのどの頁にもあふれた、素晴らしいものだった。
 読売日響も、凄い馬力である。お疲れ様と申し上げたい。そもそも「パルジファル」を3日連続で演奏するオケなど、どんな歌劇場にも存在しないだろうから(これは飯守も同様だが)。今日の演奏も――1階16列あたりで聴くと――量感は充分、重厚で翳りのある響きが快い。第3幕の「聖金曜日の音楽」あたり、とりわけリキが入っていた感がある。指揮者もオーケストラも、賞賛に値する演奏であった。

 グートの演出については、13日の項で述べた通り。いくつか付け加えれば、第1幕ではティトゥレル王は身体不調ながらも歩行可能であり、息子アムフォルタスの部屋に自ら出向いて聖杯開帳儀式の執行を強要、自ら聖杯を運んで行ってしまうという設定。彼がドアをたたく重々しい音が不気味な雰囲気を出し、アムフォルタスを恐怖に陥れる様子も原作のト書より迫力を感じさせる描き方になっている。父に縋って哀願するアムフォルタスの苦悩は、父と子の葛藤でもあり、私はこの描き方が大変気に入った。
 またラストシーンで、クンドリが魔の花園での衣装と聖杯の国での衣装とを共に焼却して過去と訣別、かつパルジファルの恐るべき変身を見届けるや、もはや未練はないとばかりにスーツケース片手に早足で立ち去って行く場面も――よくある手法だが――悪くない。

 一方、パルジファルがクリングゾルから聖槍を奪還する場面は、何だかよく解らないという感じもある。「聖金曜日の音楽」の場面で投影される映像は、欧州人でないとあまりピンと来ないという内容で、些か煩わしくもあった。

 音楽的にも演出的にも内容が豊富なので、思いつくまま書いているとキリがない。何はともあれ――業界用語だが――おめでとうございますと申し上げておこう。

 なお、今回の公演プログラムに載せた拙稿の中で、一つどえらいミスがあった。バイロイトでの最新の「パルジファル」の演出家名が、ヘアハイムでなくノイエンフェルスとなったままだった。本来ならプログラムに訂正を挟み込むべきところだが、気がつくのが遅かったので、御迷惑をかけてしまった。謝罪する場所も機会も最早ないので、とりあえずここで深くお詫びすることとする。

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ラストシーン 再会、和解したアムフォルタス(右)とクリングゾルの「兄弟」
写真:三枝近志  提供:東京二期会

9・16(日)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団 マーラー・ツィクルス(1)

     横浜みなとみらいホール  3時

 インバルと都響の十数年ぶりのマーラー・ツィクルスが開始された。
 今回は番号順に、東京と横浜とで演奏するとのこと。今日は横浜での第1回で、小森輝彦をソリストとした「さすらう若人の歌」と、「第1交響曲《巨人》」が演奏された。

 出来栄えは上々である。インバルは例によってスコアの隅々にまで神経を行き渡らせ、作品全体をがっちりと揺るぎなく構築する。といって、マーラー特有の狂気性や意外性を疎かにしているわけではない。一歩踏み外せば深淵に落ちかねないその危うさの、ぎりぎりのところで踏み止まり、それがまた絶妙なバランスを保っているのが最近のインバルのマーラーだろう。

 それを受ける東京都響が、実に立派な風格を以って音楽を響かせる。トップに四方恭子、トップサイドに矢部達哉が並ぶヴァイオリン群をはじめ、各パートも今日はすこぶる強力だ。まずはこのツィクルス、快調なスタートを切ったと言うべきであろう。

 「巨人」の指揮を終って客席を向いたインバルは、この上なく嬉しそうに見えた。上階席から響くたくさんのブラヴォーの声が調和して快い。横浜の聴衆は比較的物静かというのが、ここでいろいろな国内オケを聴いた時の印象だったが、今日は沸きに沸いていた。インバルにもソロ・カーテンコールが行われた。

 なお「巨人」の冒頭、弦の弱音のさなかに、何か別の高音域の音が混入したように一瞬思えたが、携帯か、それともこちらの空耳か? ライヴ・レコーディングも行なわれているので、ひとごとながら、つい昔の癖が出て余計な心配を・・・・。

9・15(土)ワシーリー・シナイスキー指揮東京交響楽団

   サントリーホール  6時

 シナイスキーの指揮を久しぶりに聴く。
 20年前と比べ、基本的にはあまり変っていないようだ。ただ、オーケストラの鳴らし方はずっと緻密になり、引き出す音楽にも温かい味が増したように感じられる。もっとも、良い時の東響なら、指揮者が誰であろうと、このくらいの音は出す。

 前半は、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番変ロ長調」。
 ささやくように波打つ弦の柔らかい音色。音楽監督スダーンによる引き締まったノン・ヴィブラートのモーツァルトとは正反対の音楽で、東響の弦もまだこういう弾き方をすることもあるんだ(当たり前だ)などと妙な納得をしながら聴いていたが、――シナイスキーはきちんと綺麗に指揮するものの、瑞々しい息吹も躍動感も皆無の、ただ柔らかいだけのモーツァルトが続くのみで、さっぱり面白くない。やっぱり、昔ながらのシナイスキーだ。
 ソリストのデジュ・ラーンキが繰り広げるモノローグ的に沈潜した、しかしヒューマンで温かい演奏が救いだった。

 休憩後に演奏されたショスタコーヴィチの「第4交響曲」は、舞台を埋め尽くした大編成の東響が轟かせる大音響の痛快さ。
 シナイスキーもさすがにお国もの、すこぶる巧くオーケストラを整え、バランスよく構築する。だが、やはり予想通り。この作品に備わっているはずの、あの「魔性」が全く伝わって来ない。ショスタコーヴィチが迫り来る破滅的な世界を予感して書いた、あの身の毛のよだつような恐怖感が、この演奏からは全く感じられないのだ。ただ堂々と、轟々と、均衡を保った音が鳴り響くのみである。これでは、初期のショスタコーヴィチの音楽の本当の凄さは、味わえないだろう。
 東響は巧かった。イングリッシュ・ホルンのくだりも見事だったし、とりわけ私の大好きな、チェレスタとハープが語る謎めいた終結の個所は、この上なく美しかった。

9・14(金)秋山和慶指揮広島交響楽団の「トゥーランガリラ交響曲」

    広島文化交流会館  6時45分

 午後、広島に着く。
 広島交響楽団のプロ改組40周年記念定期と銘打たれた演奏会で、音楽監督・常任指揮者の秋山和慶が振った。見事な演奏であった。

 オリヴィエ・メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」は、今回が広島初演という。もちろん、広響としてもこれが初めての「トゥーランガリラ」になる。
 弦はほぼ16型編成のため客演奏者も十数人がリストアップされており、打楽器陣にも数人の客演奏者が加わっているが、金管のトラはわずかトランペットの2人のみだ。「ウチのオケもやっとこの曲ができるようになりました」と、事務局スタッフが感銘深く語るだけのことはあるだろう。
 終演後の楽屋でマエストロ秋山に、演奏の出来について賛辞を呈したら、「3日間のリハーサルでここまで出来ちゃったんですよ」と、うれしそうに微笑んでいた。

 たしかに、これだけ弦と管がバランスを保って溶け合った響きの、流麗で、リズミカルで、柔らかい音色の「トゥーランガリラ交響曲」の演奏は、滅多に聴けまい。
 表情そのものには少なからず攻撃的な色合いも聴かれるのだが、金管の響きなどに均衡が保たれているので、全体としては優麗な演奏という印象になる。「愛の眠りの園」などでの弱音の美しさは素晴しい。

 打楽器群だけはすこぶる強烈で、大太鼓はしばしばバランスを崩すほど硬い音で怒号する。秋山はこの大太鼓のリズムにより全体にスバイスを注入しようとしているのかもしれないが、私の印象では、この大太鼓の硬い音による強打だけは、やはり異質に聞こえてしまう。――だが、「星たちの血の喜び」や「愛の展開」などでの昂揚感は見事だった。

 広島響の演奏の見事さは特筆すべきもの。秋山のまとめの巧さも流石のものがある。強いて希望を言えば、弦の響きに更なる厚みが欲しいところ。また、流麗な演奏だったがゆえに、全体の演奏に濃厚であざとい「山場」がさほど感じられなかったのも、少々物足りなかったところ。とはいえ、わざわざ聴きに来ただけの甲斐は充分にある「トゥーランガリラ交響曲」だった。
 ピアノは永野英樹、オンド・マルトノは、例のごとく原田節。

 演奏会の前半には、モーツァルトの「交響曲第33番」が演奏された。これも温かく優麗な演奏だった。ホールの空間が非常に大きいために、その柔らかい美しさが客席後方まで充分伝わって来ないうらみもあったが、この日の「トゥーランガリラ」の演奏に先立つものとしては充分であったろう。

 2階席には、学生や若い聴衆が多く来ていたらしい。先頃の札幌での札響の「トゥーランガリラ」では、終演後に若いカプルが「チョー面白かった」と言いながら帰って行ったのが印象深かったが、今回はどうだったか。また、メシアンを聴きに来た人に、柔らかいモーツァルトはどう響いたか。
 演奏会では、「硬」と「軟」、「動」と「静」、「現代」と「古典」を対比するプログラムがよく組まれるが、時には前半と後半を同じ現代音楽で構成するのも、ある好みの聴衆にとってはありがたいかもしれない。

 もっとも今夜は、「トゥーランガリラ」の演奏最中に席を立って出て行く高年齢の客をやたら多く見かけた。もちろん、2千人近くの聴衆のうちの、ほんの十数人(!)に過ぎない。
 私の斜め前にいた御仁のように、演奏中に退屈しきってのべつ身体を動かす、足を通路に投げ出して動かす、プログラムをめくる、はてはペットボトルの水を飲む、というように周囲の客の神経を苛立たせるよりは、帰っていただいた方が余程マシではあるが。

9・13(木)東京二期会 ワーグナー:「パルジファル」初日

    東京文化会館大ホール  5時

 二期会創立60周年を記念する大イベント。飯守泰次郎の指揮、読売日本交響楽団の演奏、クラウス・グートの演出、バルセロナ・リセウ大劇場およびチューリヒ歌劇場との共同制作によるプロダクション。
 二期会所属歌手のみによるダブルキャストで、計4回上演の今日は初日。

 公演プログラムの解説を書くために見たチューリヒ上演の映像と、それに今回の上演とが、全く同じように仕上げられているのには驚き、感心。
 回転舞台装置(クリスティアン・シュミット)はもちろんのこと、登場人物たちすべての動きもほぼ一致している。よくここまでやったものだ。
 演技が非常に精緻で、表情も豊かで、脇役・端役にいたるまで均衡が保たれており、舞台全体にいわゆる「隙間」がないのである。これは完成度の高い舞台、といって良いであろう。

 グートの演出は、聖杯や聖槍といった具象物よりも、むしろ苦悩する人間たちの関係、しがらみ、争い、変貌、和解――などを描くところに重点が置かれているため、各登場人物の演技がすべてを左右することになる。
 またこの演出では、主役の歌が長い場合、しばしば相手役や周囲の人物が姿を消し、主人公が独りでモノローグとして歌う設定になるのも面白い。これは、そのキャラクターの苦悩に徹底的に焦点を絞ってドラマを展開させる狙いからであろう。

 グートがこの演出で行なった解釈では、聖杯守護団の王となったアムフォルタスと、異教の魔人となったクリングゾルとは、もともとはティトゥレルという王を父親に持つ兄弟の関係にある。彼らの訣別は第1幕前奏曲の中で描かれ、その和解は全曲最後の場面で実現する。
 終結直前まで主人公だったパルジファルは、最後に恐るべき独裁者の軍人に変身して、次の新しい悲劇を引き起こす者となるだろう。知と聖杯と聖槍とを手中にした新しい権力者と、それに従うグルネマンツや騎士団は、やがて回転舞台の中に消えて行く。
 残ったのは、王の地位も聖杯も聖槍も失った2人の「兄弟」である。一体、おれたちがこれまでやっていたことの意味は、何だったのか?――共通の物思いに沈む兄弟の姿は、空しく、寂しい。それがこのドラマの幕切れである。

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   写真:三枝近志  東京二期会提供
上:パルジファルとクリングゾル 中:パルジファルとクンドリ 下:魔法の花園の場

 今夜の歌手陣は、Aキャストだ。福井敬(パルジファル)、黒田博(アムフォルタス王)、泉良平(その弟クリングゾル)、小鉄和弘(老騎士グルネマンツ)、橋爪ゆか(謎の女クンドリ)、小田川哲也(老王ティトゥレル)ら、主役たちの頑張りと熱演は目覚しい。
 福井のエネルギーは抜群。特に第2幕での苦悩に満ちた歌唱は賞賛に値する。小鉄の落ち着いた重厚な歌唱も見事で、冒頭の演技にこそ少し類型的な身振りも見られたが、すぐにドラマに溶け込んでいた。黒田の暗い「病める王」もいい。
 橋爪がこれほどドラマティックな歌唱を聴かせてくれるとは、うれしい驚きだ。その成長ぶりにも感心。演技ともに深い陰翳が加われば、楽しみなプリマになるだろう。

 そして、最大の功労者は、やはり飯守泰次郎と読売日本交響楽団だ。
 飯守のパルジファルをナマで聴くのは、たしかこれが3回目か?
 テンポは遅めの方で、最初の「前奏曲」など、これはえらい長時間モノになるのではという不安感が胸をよぎったほど遅かったが、全上演時間5時間のうち、25分の休憩2回を差し引くと、演奏時間は計4時間10分前後という計算になる。これはブーレーズ(70年バイロイト)の3時間40分より遥かに長いが(あれは別だ)、レヴァイン(85年、同)の4時間28分よりは速く、またティーレマン(05年、ウィーン)の4時間03分よりは遅く、結局クナッパーツブッシュ(62年バイロイト)の4時間10分と同程度ということになる(いずれも概算)。

 それにしても、飯守のワーグナーは、相変わらず情感が豊かだ。胸の奥にまで響いてくるような、ヒューマンな温かさがある。当世のように味も素っ気もないドライなワーグナー演奏が主流の時代にあって、この「反時代的」なワーグナーは、貴重な存在と言うべきであろう。第1幕前半での寂寥感、第2幕での官能的な甘美さなど、ワーグナー最晩年の音楽の味を愛する者にとっては、いずれもこたえられない魅力だ。

 読売日響の緻密な演奏も賞賛されよう。本当は更なる量感を求めたいところだが、しかし初台で演奏するオケよりは遥かに壮大で強靭な音を響かせるし、このくらい多彩で、かつ真摯な演奏を聴かせてくれれば、わが国のワーグナー演奏としては、満足していいだろう。この飯守と読響の見事な演奏のおかげで、私は久しぶりに「パルジファル」の音楽に酔うことができた。
 
 余談ながら、二期会の「パルジファル」というと、私は45年前の、同じ二期会によって行なわれた日本初演の際の体験を愉しく思い出す。
 駆け出しの放送ディレクターだった私が、リハーサル取材のために東京文化会館を訪れると、指揮者の若杉弘さんが私をつかまえ、「開演前のチャイムを、この第1幕に出て来る鐘の音で鳴らしたいんです。クナッパーツブッシュ指揮のバイロイトのレコードから(スコアを拡げて)ここからここまでの音を取って、それを30秒間くらい繰り返すようなテープを作ってもらえませんか」と頼んできたのだ。随分と凝り性の人だと驚いた。あのレコードに入っている低い、轟くような音をホールのPAから大音響で鳴らすのでは、とてもうまく行かないだろう、と私はとっさに思った。が、私は当時から若杉氏のファンだったし、そういう凝り性も好きだったから、とにかくスタジオに戻って、その「音」を作り上げてみた。
 あの第1幕の音楽で、鐘の音が他の楽器とかぶらずに出て来る個所は、ほんの2小節足らず、時間にして5秒間程度に過ぎない。といっても、それをオープン・リールのテープに何度も繰り返しダビングして編集し、30秒ほどの長さの鐘の響きを作ること自体は、簡単なことである。
 しかし、――予想した通り、ホールの大スピーカーでそれを鳴らしてみると、なんとも得体の知れない、怪獣の唸り声のような音になった。二期会の中山悌一さんが「だめだよこんなの」と冷たく言いはなち、若杉さんは苦笑して下を向いた。テープはそれきり行方不明になったが、惜しいとも思わなかった。

9・8(土)藤原歌劇団 ベッリーニ:「夢遊病の女」

   新国立劇場  3時

 11時08分松本発の「スーパーあずさ」が、新宿から来る際に「旅客トラブル」があったとかいう理由で45分遅延した煽りを食って、松本を27分遅れで発車した。途中で力走して遅れをある程度取り返すのかと思いきや、新宿に着いたのは更に3分遅れての14時03分だった。中央本線とはそういうものであるか。しかし、新国立劇場の午後3時開演には、支障なく間に合う。

 今回の「夢遊病の女」は、園田隆一郎の指揮、岩田達宗の演出、川口直次の舞台美術による2回公演。ダブルキャストの今日は初日で、藤原オペラの看板・高橋薫子のアミーナ、小山陽次郎のエルヴィーノ、妻屋秀和のロドルフォ伯爵、森山京子のテレーザ、他という配役。

 高橋のプリマぶりは流石に素晴らしく、伸びのある声を軽やかに響かせ、第1幕のフィナーレも含めて、舞台上の音楽を1人でさらってしまう。ただ、彼女らしい精妙な演技が、少なくとも第1幕ではほとんど見られなかったのは残念だ。これは演出の所為だろう。伯爵役の妻屋秀和の、重厚な声の迫力に支えられた舞台上の存在感は、それだけでもサマになるが。

 藤原歌劇団合唱部の熱演は、演技も含めて賞賛したいが、しかし今回は岩田の演出がおそろしく類型的で、パウゼや各ナンバーの序奏の個所では全員が直立不動のまま静止状態になることがしばしば。――これが彼の本来の演出スタイルではないだろう。
 彼の演出は最近観る機会も非常に多いが、これぞ「岩田スタイル」という舞台がなかなか掴みにくい。そろそろ自分の演出スタイルを厳然と確立し、それを売りものにしていい時期に来ているのではないかと思うのだが、如何に? 

 園田隆一郎の指揮は、アダージョ版「夢遊病の女」の感。どんなにテンポが遅かろうと、演奏に緊張感さえあればいいのだが。オケは東京フィル。

 暑さと冷房との頻繁の交替の狭間(?)で、とうとう体調を崩したらしい。中央線の車内では貧血気味に。それゆえ、歌手の皆さんには申し訳ないが、第1幕が終ったところで失礼した。

9・7(金)サイトウ・キネン・フェスティバル松本 20周年スペシャル・コンサート

    キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)  6時半

 今夏、三たび松本のSKFを訪れる。まだ蒸し暑い。
 「ガラ・コンサートともいうべき賑やかな演奏会が開かれた。今年は「オーケストラ・コンサート」が1公演のみだったことの埋め合わせの意味もあったのだろうか。

 コンサートでは、小澤征爾音楽塾オーケストラが、十束尚弘の指揮でフンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」前奏曲を、ルドヴィック・モルローの指揮でラヴェルの「マ・メール・ロワ」組曲をそれぞれ演奏し、
 またスズキ・メソードの子供たちが、チェロ合奏でフォーレの「エレジー」を、ヴァイオリン合奏でメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」のフィナーレとヴィヴァルディの「ヴァイオリン協奏曲イ短調作品3の6」の第1楽章を演奏、
 そして親分格のサイトウ・キネン・オーケストラがモルローの指揮で、ベートーヴェンの「コリオラン」序曲、プロコフィエフの「古典交響曲」、ベートーヴェンの「合唱幻想曲」を演奏した。

 この最後の曲には、ピーター・ゼルキン、SKF松本合唱団、SKF松本児童合唱団、天羽明惠、馬原裕子、松藤夢路、城宏憲、与儀巧、与那城敬も協演。
 更にその間には、長野朝日放送が制作した「映像で振り返るSKF松本の20年」という短い映画も上映されるという、盛りだくさんな企画である。
 これに、タングルウッド音楽祭からの小澤征爾への感謝の記念メダル贈呈セレモニー(ご本人は不在)、アンコールでは武満徹の「小さな空」(ピアノ、合唱、オーケストラ)も演奏されて、終演は9時半頃になった。

 指揮のルドヴィック・モルローはフランス生れで、現在シアトル響の音楽監督を務める由。東京フィルにも客演したことがあるとのことだが、私は今回初めて聴いた。
 ベートーヴェンの2曲を聴いた印象では、真面目で手堅く、きちんと音楽を仕上げるタイプの人のようだ。特に「合唱幻想曲」の終結近くでは毅然とした構築で演奏を盛り上げていたのが好ましい。
 一方、「古典交響曲」では前半クソ真面目で単調な指揮で、これではとても・・・と思ったが、第3楽章のトリオあたりからは別人のように活気にあふれた指揮となり、フィナーレでは躍動の演奏と化した。オケとの呼吸の問題もあったのだろうが、未だよく解らない指揮者である。

 若者による「小澤征爾音楽塾オーケストラ」は、演奏技術はきわめて高いようだが、何か慎重に構えすぎたという感。もう少し伸び伸びと演奏できるはずだろう。
 有名な才能教育のスズキ・メソードの子供たちはまさに強力軍団の迫力だが、――20~50人の同じ服装をした集団が、同じ方向を向き、同じ姿勢で一糸乱れぬ演奏をするという光景は、何か画一的なイメージが強すぎて、私はどうも苦手だ。

 最後に演奏された武満徹の「小さな空」は、ピーター・ゼルキンの、どんどん沈潜して行くようなソロのせいもあってか、あまりに美しく、しかし不思議な寂寥感を滲ませていた。それは、「夏の祭の終り」の寂しさか、はたまた、20年続いてきたSKFが、小澤征爾の度重なる降板によって大きな転回点の時期に来ているがゆえの、来年はどうなるのかなという一種の不安か――。
 わが国最高の音楽祭の一つであるこのSKFが、芸術面で一つの新局面を迎えていることへの感慨は、信濃毎日新聞(9月6日朝刊)にも寄稿したし、今日の朝日新聞松本支局からの取材にもコメントとして答えたばかり。

 但し来年のオペラは既に決定しており、ラヴェルの「子供と魔法」「スペインの時」の2本立てであるという話である。ラヴェルは、小澤征爾の十八番のレパートリーの一つだし、そう聞いただけでも、少しは安堵できるというものだが・・・・。

9・6(木)オーケストラ・アンサンブル金沢 東京公演
生誕80年記念 岩城宏之メモリアルコンサート

   東京オペラシティコンサートホール  6時

 オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)がまたまた東京公演。

 本当に「足長」オーケストラだ。小編成ゆえ小回りが利くという強みがあるのは事実だろうけれど、その意欲は敬服に値する。
 ただし、ホワイエにズラリとダークスーツの男たちが並んでスポンサー関係招待客を待ち構えている光景は、相も変らず野暮ったい。とにかく、ひしめき過ぎて一般客の進路を塞ぐのだけは、遠慮してもらいたいものである。

 今日は岩城宏之の誕生日ということで、それを記念しての一種のガラというか、フェスティバルというか、15分2回の休憩を入れて延々3時間10分に及んだ大規模なコンサートになった。
 なんせ、指揮台にはOEK総帥の井上道義だけでなく、外山雄三、天沼裕子、山田和樹、渡辺俊幸が入れ替わり立ち代わり登場する。協演者には東京混声合唱団、日本打楽器協会有志、森麻季、鳥木弥生、吉田浩之、木村俊光、さらにペギー葉山とジュディ・オングまで来る。
 ゲストとして舞台に立った作曲家は、前記渡辺俊幸の他に一柳慧、三枝成彰、西村朗。司会が池辺晋一郎と檀ふみ。

 プログラムも著しく多岐にわたり(もしくはチャンコ鍋の如く)武満徹の「ノスタルジア」に始まり、一柳の「分水嶺」、黛敏郎の「スポーツ行進曲」、池辺の「悲しみの森」と続き、さらに外山、林光、渡辺、西村、平岡精二、筒美京平の作品、最後にベートーヴェンの「第9」第4楽章、という具合。
 こうなるともう、演奏がどうのという堅い話などさておいて、とにかく今夜はユーモア好きの岩城宏之をしのぶ「ゲストとトークと音楽と」の夕べを一緒に愉しむ、ということだろう。

 演奏の中では、冒頭で井上道義が指揮した「ノスタルジア」と、山田和樹が東混を指揮した林光の「原爆小景」からの「水ヲ下サイ」が絶品だった。岩城宏之が打楽器用に編曲したという外山雄三の「ラプソディ」は初めて聴いたが、これはイントロからすぐに「信濃追分」に続く短縮版。
 ジュディ・オングがあの例の衣装で「魅せられて」を歌ったのは懐かしかったが、これは編曲がよろしくない(海のざわめきを表わす弦が薄い)。西村朗の「ベートーヴェンの8つの交響曲による小交響曲」も私は初体験。曲当てクイズに絶好だ。

 演奏とは関係ないが、ゲストたちのよく解らない話しぶりや、何故か少し雑な檀ふみのMCをフォローして、聴衆に解りやすく簡略に説明する池辺晋一郎の話術がお見事。

9・3(月)山田和樹指揮日本フィル&小山実稚恵

     サントリーホール  7時

 小山実稚恵が、ラヴェルの「協奏曲ト長調」と「左手のための協奏曲」、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を弾く。

 ただし演奏会のタイトルは、「小山実稚恵の協奏曲の夕べ」ではなく、「山田和樹 コンチェルトシリーズ」だった。日本フィルの正指揮者就任に際し、山田和樹が「やりたいことの一つ」としてこのシリーズを企画、そして一番協演したいピアニストをまず最初に迎えた――と、まあこういうことらしい。

 とにかく、指揮者とソリストの「一緒にこれをやろう」という乗りまくった空気が、コンチェルトの演奏全体に満ち溢れている。
 「ト長調」の第2楽章(アダージョ)は、叙情が最高度に昇華されたような美しさ。この曲で堂々たる深みと美しさを出した小山は、「左手」ではまさにスケールの大きな風格を響かせる。山田と日本フィルも曲の頂点へ向け、見事な追い上げを示す。
 ラフマニノフの有名な第18変奏での、これ以上はないほどの思い入れたっぷり、耽美的な表情は、まさに演奏者たちが自ら愉しんでいることの表れだろう。終結近くでのピアノとオーケストラの美しく溶け合った叙情美は、日本フィルから久しぶりに聴く音であった。

 そのラフマニノフの前に、ピアニストの休憩とオケだけの顔見せを兼ね、サン=サーンスの交響詩「死の舞踏」が演奏された。コンサートミストレスの江口有香の明快で張りのあるソロもあって、適度に芝居気のある標題音楽として、これも面白いものだった。
 この曲と、ラフマニノフの「狂詩曲」との両方に「怒りの日」の旋律が出て来るというプログラミングは、なかなかいいでしょう・・・・とは、プレトークでの山田和樹の自画自賛。

 ほぼ満席の盛況。ラフマニノフの最後でホール内一杯に巨大ノイズ(補聴器?)が長々と響き、それはアンコールの演奏の時まで続くという異様な状況となったが、こういう事態を防ぐ効果的な手段はないものか。もっとも、この日は定期ではなく、しかも曲が曲だけに、また演奏者たちが明るく対応したために、場内も殺気立たずに済んだが・・・・。

※ある方からのメール:
「最後のブザーはなんだかわかりませんが、一階のお年寄りが原因です。笑ってましたから反省はあまりしていないようです。緊急用のブザーではないかと思います。お年寄りなので、自分のブザーだとは気がつかなかったみたいです。携帯電話ではないので、また高齢化社会なので防ぐことは難しいかもしれません。周りの人が注意してあげればいいのにとも思いますが。そんな社会ではなくなってきたのかもしれません」

9・1(土)東京芸術劇場コンサートホール リニューアルオープン記念演奏会
下野竜也指揮読売日本交響楽団の「復活」

  東京芸術劇場コンサートホール  3時

 建物内部全体がリニューアルされたようである。
 地下鉄の通路から入った地下1階からして、雰囲気が明るくなったなと驚く。1階の広場が――お握り屋はちゃんと残っている――見違えるような景観になったのは、エスカレーターが中央からの5階直行型でなく、2階の踊り場を経由して壁側を昇る形に変えられたからだろう。喩えれば、今まで「東京都」的だった雰囲気が、「東急」的雰囲気になったというか。

 ホールのホワイエも、造作としては基本的に同じだが、マットの色が変わったりして、だいぶ明るくなった。コーヒー・コーナーのつくりやメニューは、大体以前と似たようなもの。エレベーターも自由に使えるようになった。2階席のトイレは、便器の種類は同じだが(!)、洗面台は広く明るくなった。2階ロビーの外部に面したガラス窓は何故か半透明になり、街に霧がかかったように見える。

 ――という具合に、物珍し気にキョロキョロしながらホール内に入れば、壁面は色も景観も大幅に変り、やや物々しく、やや重厚な感じになった。2階席センターに座ったが、椅子は以前のそれに比べると大幅に改善され、座り心地も格段に良くなった――ただ、シートの前後の長さが何となく少し短くなったような気もするのだが、如何?

 記念すべきその最初の演奏会は、「復活」である。東京音楽大学合唱団と、ソリストとして小川里美(S)および清水華澄(Ms)が協演。

 リニューアルが行なわれれば、必ずアコースティックが変る。第一に気になるのがそれだが、聴き慣れた2階正面最前列の位置からの印象によれば、ステージがほんの僅か客席側にせり出した構造に変えられたせいもあってか、音が非常にリアルで生々しい響きになり、ドライで硬めの、やや刺激的なものになった感がある。
 ただ注意すべきは、今回はかなり大編成の合唱団が最初からオーケストラの背後に並んでいたため、音が吸われた可能性もあるということだ。それに、ホールというものは、竣工やリニューアルのあとは、響きが馴染んで柔らかい音になるまで数年かかるもの、と相場が決っている。一つや二つの演奏会を聞いて判断すべきではない。

 演奏だが、下野竜也の今日の指揮は、冷静、正確、端然とした音楽づくりであった。それは極めて厳めしく立派で、音楽の骨格を余すところなく顕わにしているのは確かなのだが、――かように狂気性や破綻性を一切排除したマーラーの交響曲の演奏は、果たしてこの作曲家の真実の姿を伝え得るものであるかどうか? 私には些か共感しかねるものがある。

 また、いかにマーラーが第1楽章のあとには5分間の休みを置け、と指示しているとはいえ、指揮者は指揮台に立ったまま、舞台も客席もシーンとしたまま――その間に2人のソリストや若干の楽員の入場があり、チューニングも一応あったけれども――ただ黙りこくって正確に5分間待ち続けているのは、何とも堅苦しいし、だいいち、気分がだれてしまう。形だけの指示遵守は、無意味ではなかろうか。
 なお、ソリストは2人とも好演で、特に清水華澄の落ち着いた張りのあるソロは聴き応えがあった(アリアを歌うように身体を動かすのだけは自制した方がよいのでは?)。

 演奏中の客席の冷房は、明らかに効き過ぎだ。背中から足から、冷風が吹き付けて来るのには閉口した。レジデンツホフの悪夢が蘇る。身体中冷えまくって、帰りがけにトイレへ寄ったら、何と延々、長蛇の列になっていた。ロビーで、ある女性が「早く暖かい場所に行きたいわ」と話していた。
 降りのエスカレーターに乗ろうとしたら、2基のうち1基が動かずに、群集が大渋滞している。ガードマンらしき人が、「ただいま定員オーバーのため片方が動かなくなっております」と、理解不能な説明をしていた。エスカレーターに定員なんてあるのかしらん? リニューアル直後はいろんなことがあるようである。しかし、緊急の場合の対処だけはしておいてもらわないといけない。

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