2017-06

8・31(土) サイトウ・キネン・フェスティバル
チャイコフスキー:歌劇「スペードの女王」

まつもと市民芸術館

 小澤征爾の指揮。彼がこのサイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)でとりあげた舞台作品はこれで10本(「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を含め、「グレの歌」と「エリヤ」は含めない)を数えるが、そのうち19世紀のオペラは「ファウストの劫罰」「ファルスタッフ」に次いで3作目になる。

 チャイコフスキーの作品は、小澤には相性のいい存在だ。
 彼はこれまで、「エフゲニー・オネーギン」を、ロイヤル・オペラで74年に、スカラ座で86年に、ウィーン国立歌劇場で88年に、METで92年に指揮している。また「スペードの女王」は、民音オペラで89年に、スカラ座で90年に、ボストン響演奏会形式で91年に、ウィーン国立歌劇場で92年と99年に、それぞれ指揮していた。そしてウィーンの残りの2シーズンにもこの2作品を取り上げ、来年の「東京のオペラの森」でも「オネーギン」を指揮することになっている。取り上げる頻度から言えば、他の作品と比較して非常に多いというほどではないが、比較的多い方に属するだろう。しかもそれらが成功を収めてきたのだから、やはり小澤の最も得意とするレパートリーということになろう。
 彼が掛け値のない成功を収めるオペラのテリトリーは、そのほか、フランスと東欧などの作品である。特に近現代の作品なら、一層の強みを発揮する。思えば、サイトウ・キネン・フェスティバルでは彼はこれらのレパートリーで成功を収めてきたのだった。

 こういった作品を指揮している時の小澤征爾は、ウィーンの古典派オペラやドイツのロマン派オペラの時のような堅苦しさから解放され、実にのびのびと音楽を創っているように感じられるのである。
 チャイコフスキーのこのオペラでも、いわゆるロシア的な香りといったものはないが、それを補って余りある音楽的な充実が聴かれるのではなかろうか。第1幕序奏での劇的なアタック、子供たちのマーチの前後の個所での自然なテンポの扱い、第1幕最後の嵐とゲルマンのモノローグでの盛り上がりなど、久しぶりに生き生きとした小澤の音楽を聴いた思いであった。
 ただ、第2幕以降、音楽のヴォルテージが少し下がったように感じられたのは気のせいか。小澤はこの日、非常に体調が悪かったそうだが。

 今回は、合唱(東京オペラシンガーズ)の素晴らしさを第一に挙げなければならない。第2幕第1場の舞踏会の場面では、圧倒的な力強さを発揮していた。特に女声の充実が目覚ましい。同第2場の夜の伯爵夫人の部屋における侍女たちの合唱など、このオペラの上演でこれだけの厚みと力と表情のある、しかも整然たる女声合唱は、かつて聴いたことがないほどである。一方、男声合唱も、第3幕第3場の賭博場では力を発揮した(演技がもう少し巧ければ文句ないのだが)。かつて小澤は、この合唱団の実力に惚れ込み、「ファウストの劫罰」を同音楽祭で取り上げたほどだった。その力量は、今も変わらず見事である。

 歌手では何といっても、3枚のカードの秘密に魅入られた若い士官ゲルマンを歌い演じたウラジーミル・ガルージンがすばらしい。そのやや暗めの色調をもつ声は、この役を歌って最右翼の存在であろう。以前のマリインスキー劇場来日公演におけるゲルマンの時に比べてさえ、声に陰影を増した。演技の上でも、思い詰めた表情に凄味と迫力がある。
 同等にすばらしかったのは、伯爵夫人役のラリッサ・ジャジコーワ(西欧式発音表記ならディアドコーヴァ)で、声楽表現といい演技といい、いかにも気位の高い権柄づくの老夫人にふさわしい。周囲の人間を横柄に睨みつける恐い表情など、さすがの貫禄である。この人は本当に何をやっても巧いが、特にこういう「怖い役」は天下一品だ。
 リーザを歌ったオリガ・グリャコーワは美女で、声もいい。演技と歌唱にはまだ不器用なところもあるけれど、新世代のスターにふさわしい力量を備えたソプラノであることは間違いなかろう。

 新味が全く感じられなかったのは、予想されたとおり、演出だ。
 今回のプロダクションはメトロポリタン・オペラ(MET)のもので、イライジャ・モシンスキーの原演出、マーク・トンプソンの装置と衣装による舞台だが、音楽祭の公式プログラムには、演出担当としてデイヴィッド・ニースの名が最初にクレジットされている。つまり、彼が再構築したということなのだろうが、それならそれで、もう少し彼なりに工夫して新鮮味を出してもらいたいものである。
 いずれにせよこの演出は、ごく無難な、単なる交通整理的なものにとどまっており、ドラマとしての緊迫感にも悲劇性にも不足している。しかも、伯爵夫人の亡霊が地下から床板をバリバリと破って現われ、ベッドに寝ているゲルマンに襲いかかる場面は、METの舞台でもおそろしく趣味の悪い個所だったが、これもニースはそのまま再現してしまっていた。「生前」には威厳に満ちていた老伯爵夫人が、亡霊となってからは妙に軽く安っぽい存在と化してしまい、ドラマそのものも安手のオカルト趣味におとしめられてしまうのは、まさにこの場面の演出のゆえである。

 また第3幕で、真夜中に、しかも運河の岸辺にゲルマンを呼び出した当のリーザが、パジャマ同様の薄着にケープを羽織った姿のままでいるのは筋が通るまい。以前、マリア・グレギーナが演出家にクレームをつけたというのは、もしかしたらMETのこの演出に対してではなかったかと思う。彼女曰く、リーザがこんな時間に自分から男を呼び出すのなら必死の覚悟があるはずであり、それならパジャマ姿などもってのほか、旅行服に身を固め、旅行鞄の一つも持っているのがふつうだろうが、というわけだ。
 さらに、賭博場へ向おうとするゲルマンと、それを押し止めるリーザとの争いも、ドラマの大転換の瞬間にふさわしく、もっと迫真に富んだものであってもよかったろう(何年か前に白夜祭で観たガルージンとゴルチャコーワの凄まじい演技が今でも忘れられない)。

 ともあれ、小澤がなぜこのようにニースを偏重し、さかんに起用するのか、理解に苦しむところではある。ニースの悪口ばかり並べているようで申し訳ないけれども、彼が日本で制作したたくさんの舞台の中で、これはと思ったものは、せいぜい93年の「ファルスタッフ」と、96年の「ティレジアスの乳房」くらい、それもまあまあの出来、といった程度なので。
(音楽祭プログラムのプロフィール紹介欄には、ニースは「メットの首席演出家」と記載されているが、正しくは「エクゼクティヴ・ステージ・ディレクター=舞台監督」である)。
 
 結論としてこの「スペードの女王」は、プロダクション全体の総合的な出来としては、これまでこの音楽祭で取り上げられた作品の中では「イェヌーファ」(02年)「エディプス王」(92年)「ヴォツェック」(04年)に一歩を譲るが、「道楽者のなりゆき」「カルメル会修道女の対話」と並ぶものといえようか。
 音楽の面についてのみ言えば、これは「イェヌーファ」「エディプス王」「ファウストの劫罰」に並ぶ水準であり、小澤の良さが存分に発揮されたものであることは疑いない。
「グランド・オペラ」2007Autumn

8・30(金)サイトウ・キネン・フェスティバル
広上淳一指揮サイトウ・キネン・オーケストラ 

長野県松本文化会館

 2階正面最前列で聴いたせいか、金管と弦のバランスが少々粗く、またオーケストラ全体にあまり美しくない響きも感じられたのは事実だが、演奏はすこぶる燃えたものであった。ハイドンの交響曲第60番「うかつ者」でのリズムの歯切れよさと明晰さは、このオーケストラとしては、久しぶりのものではなかろうか。ラフマニノフの「交響曲第2番」も活力にあふれていた。
 しかし結局このオーケストラは、技術は抜群でも、「色」というものに乏しいのが不満を残す。ラフマニノフのほの暗い哀愁などは、彼らには無縁なのだろうか。とはいえ、広上のこのオケへのデビューは、成功したと思われる。

8・25(土)阪哲朗指揮 山形交響楽団定期

山形県民会館

 阪哲朗が首席客演指揮者に就任して最初の定期。シェーンベルクの「浄夜」、ベートーヴェンの「田園交響曲」、アンコールにヨハン&ヨーゼフ・シュトラウスの「ピチカート・ポルカ」という興味深いプログラムだったが・・・・。
 このホールは、オーケストラにとってなんとも酷いアコースティックだ。音楽の流れを全く生かすことができない。「浄夜」など、阪の遅いテンポが裏目に出て、この曲にこめられた不安な愛の情感や緊迫感を持ち堪えることができなかった。それに響きがないものだから、オケのアラも全部出る。管には、今日はなぜか不安定な演奏が頻発していた。最近は好調で、上昇指向の山形響ではあるが、こういう状態で聴くと、まだこれからやるべきことがたくさんあるという気がする。もう一つの定期会場である山形テルサホールで聴けば、もっと潤いのある演奏に聞こえたかもしれない。
 約1500の客席を持つこのホールに、お客の入りは90%近くを示し、拍手も温かく盛大。山形響は、地元の聴衆に強く支えられているようだ。

8・21(火) ザルツブルク音楽祭
 ベルリオーズ:歌劇「ベンヴェヌート・チェルリーニ」

7時 ザルツブルク祝祭大劇場

 実はこれが今年のお目当てだったのだが、予想に反して大暴落株。これまでザルツブルクで観てきた数十本のオペラの中でも、これは最も騒然・雑然たる演出のプロダクションである。演出と舞台美術はフィリップ・シュテルツル。

 こういう娯楽スペクタクル超大作も一つくらいはあってもいいが、全編にわたって騒々しい舞台では、観る方もだんだんうんざりして来るというものだ。
 謝肉祭の喧騒と乱痴気騒ぎは確かにこのオペラの重要なモティーフであり、それを主要な背景とした意図そのものは、間違いではない。
 ただ、第1幕フィナーレはそれでもいいとしても、第2幕大詰の「ペルセウス像鋳造の場」はもっとシリアスであるべきだろう。せめて出来上がった「像」でも見せればドラマとして引き締まったのではないかと思うがそれも無く、大窯から金属(スモーク)が吹きこぼれ、大群衆が喜び騒ぐだけという、ストーリイをよく知らない人にとっては訳がわからないであろうフィナーレ。ただ大仰な舞台装置と、人々のひしめき合う光景だけが目に残った。

 その装置は、とにかくカネのかかったものだろう。凝った箇所もある。冒頭の屋上テラスの場面では、夜の大都会にネオンが輝き、ヘリが飛び、花火が上がり、大雷雨もあるという映像演出が繰り広げられ、前景の煙突からはのべつ濛々たる煙が吹き出す。大爆発もあり(いくつかはオリジナルの台本にも大砲音や窯の爆発として指定されてはいるものだが)乱闘もある。映像上のヘリが屋上に近づき、いったん下へ姿を消すと、入れ替わりに本物のヘリ(にそっくりの装置)が上がって来て、そこからチェルリーニが降りて来るシーンでは、客席からどよめきが起こったほどだった。

 タイトルロールの、破天荒な性格をもつ親分肌の彫金師ベンヴェヌート・チェルリーニを歌ったのは、ブルクハルト・フリッツ。ニール・シコフがキャンセルしたあと全公演を引き受けたが、力演だ。テレーザ役はマイヤ・コヴァレフスカで、歌は普通だが、すこぶる可愛い。
 仇役ともいうべきフィエラモスカを演じたローラン・ナウリは、ふだんは凄味のあるいかつい顔つきの性格派バスだが、今回は意外な3枚目を熱演。歌も演技もすばらしく達者だったが、客の拍手はそれほどでもないのが解せない。
 教皇クレメンス7世にはミハイル・ペトレンコが出ていたが、これもこの喧騒の舞台では特に存在感を示すことはできなかった。チェルリーニの弟子アスカーニオ(ケート・アルドリッチ)は何とロボットという設定で、ギクシャクと歩き(他にも召使やら軍人やらにロボットが多数登場する)、第2幕ではバラバラにされたあげく、生首の姿でアリアを歌う。当初この役に予定されていたのはヴェッセリーナ・カサロヴァだが、ドタキャンしたそうな。「腰痛のため」と伝えられたが、本当の理由かどうかは知らない。

 指揮はワレリー・ゲルギエフ。序曲では例のごとく大風呂敷を拡げたような演奏だったが、ベルリオーズの場合にはそれも悪くはあるまい。だが、この騒々しい舞台を前にしては、演奏の出来がどうだったかという問題すら吹っ飛んでしまい、どんな美しい箇所さえ雑然たる印象の中に巻き込まれてしまう。
 この翌朝、ザルツブルクの空港で、次の公演までの合間を縫ってロンドンへ行くというゲルギエフに偶然出会った。讃めようがないので、「ずいぶんゴージャスなオペラで」と当たり障りのないことを言ったら、彼は苦笑いして「クレイジー・オペラだ」と呟いた。おそらく指揮しながら、内心いやでたまらなかったのでないかと推測する。客演指揮だと文句も言えないのだから、気の毒だ。以前の「トゥーランドット」の時もそうだったが、どうもゲルギエフはザルツブルクでは、このようなスペクタクルものに引っ張り出されることが多いようである。
東京新聞9月15日

8・20(月) ザルツブルク音楽祭
 ダニエル・ハーディング指揮ウィーン・フィル

8時30分 ザルツブルク祝祭大劇場

 ウィーン・フィルが、俊英ハーディングの指揮によく合わせている。ワーグナーの「ジークフリート牧歌」も、R・シュトラウスの「4つの最後の歌」も、オーケストラの編成は比較的大きいにもかかわらず、まるで室内オーケストラの編成のように、音の粒立ちが強調されていた。コンサートマスターのライナー・キュッヒルも、日頃とは違い、妙にガリガリした音色で「4つの最後の歌」のソロを弾いてみせる。プロ根性は偉いが、こういう音でこの曲は聴きたくないものだ。ソロを歌ったルネ・フレミングが、なぜか声が荒れ気味で、細かいヴィブラートが目立つようになってしまった。
 同じくシュトラウスの「死と変容」も、音が硬めで、最強奏の箇所など耳障りな響きに聞こえる部分もある。ふつうなら音が柔らかく聞こえるはずの1階席でこのような響きになるのだから、相当なものだ。その点、ウェーベルンの「6つの小品」が最もハーディングの良さが発揮されたように思うのだが、客席の高齢の聴衆らの反応は低い。
 「牧歌」の最中にケータイが鳴るわ、エンディングのところで場外から女の不気味な悲鳴が聞こえて客席がざわつくわ、なにか落ち着かない演奏会であった。

8・20(月) ザルツブルク音楽祭
 ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」

3時 モーツァルトハウス

 今回のザルツブルク音楽祭における出色のプロダクションの一つ。

 ファルク・リヒターによるこの新演出では、悪魔ザミエル(イグナツ・キルヒナー)が重要な役割を持ち、手下(助手)2人と共にしばしば舞台に登場して、長いセリフをも喋る。ザミエルは、夜の帳が降りればたちまち悪魔の本性を現わす男でありながら、日常は白服でステッキを携えた粋なオヤジの姿で、一般の人々の中に紛れ込んでいる。クーノー(ロランド・ブラハト)の「射撃大会の由来」の説明をさえ、途中で引き取って喋り出すという知恵者でもあるのだ。真の悪役は思いがけず大衆の中に潜んでいるものだ、という現代的な寓話なのであろう。
 しかもこのザミエルは、狂言回し的な役割をも受け持つ。第3幕では突然英語で「それでは皆さん、ドイツ・クラシックが誇る名曲、狩人の合唱をどうぞ!」と派手にアナウンスして観客を笑わせ、終ると「この世の喜びはこれで充分。ではまた少しシリアスなものに戻りますかな」といった調子だ。
 
 ザミエルの手下2人も、同様に通常人の姿で動き回る(うち1人はカッコいいパンク・ファッションで、冒頭からすこぶる目立つ存在だった)。彼らはカスパル(ジョン・レリア)やマックス(ペーター・ザイフェルト)やエンヒェン(アレクサンドラ・クルツァク)に対し、さかんに「悪魔の囁き」を繰り返す。ただしこれは、悪魔に魂を売り渡した人間だけに聞こえるものらしい。
 第1幕最初の場の群衆は、村人でなく、軍隊の射撃大会を見物にきた観光客という設定だ。

 舞台装置はアレックス・ハーブ。序曲の間、舞台はオフィスか病院の待合室みたいな殺風景な光景だったが、実はこれは、内舞台の幕の役目。左右にドアが開いてみると、奥はすこぶる深い。
 深夜の狼谷の場面では、奥の方で、静的なワルプルギスの夜ともいうべき光景が展開される。バーナーで放射される本当の「炎」が終始活用され、7つの弾丸が出来上がるクライマックスの瞬間には、巨大な炎が舞台にあふれる。客席にさえその物凄い熱気が吹きつけてくるほどだから、炎に囲まれて芝居をし続けるカスパルらは、さぞや熱かったのではないかと心配になってくる。
 照明によるマジックは第3幕、少女たちが魔力に襲われる場面などで使われるが、これが実に不気味で、巧妙だ。第3幕第1場では映像も使用され、その中でカスパルの運転するクルマに同乗したマックスが「もう一発タマを俺にくれ」とゴネるシーンなど笑いを誘う。こういう場面での欧州のオペラ歌手の芝居の巧さは、羨ましくなるほどである。

 リヒターにより追加されたセリフは多く長く、こちらはなるべく早く音楽を聴きたいと思うのだが、マルクス・シュテンツの指揮はいつもながらに味も素っ気もない音楽だから善し悪しだ。もっとも、ドイツ・ロマン派の神秘的な雰囲気を一切取り払ったこの演出には合うといえるのかもしれない。
 演奏はロマンティックな性格を極力排除、むしろグロテスクな面を強調している。弦の硬めの音色、ピッコロの強奏などがそれだ。ウィーン・フィルにしては随分・・・・と思わせるような響きも少なからず聴かれるが、もちろんこれは意図的なものであろう。
 主役歌手陣は男声が強力で、ザイフェルトは相変わらず絶好調だし、レリアの悪役ぶりはその演技といい、声の迫力といい、屈指の存在だろう。アガーテ(ペトラ・マリア・シュニッツァー)とエンヒェンは無難な出来だ。4人の少女のうちの一人にウエノ・ヨウコという人がいたが、容姿も歌もよく、踊りも愛らしい。
東京新聞9月15日

8・19(日) ザルツブルク音楽祭
 チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」

7時 ザルツブルク祝祭大劇場

 ザルツブルク音楽祭でチェイコフスキーのオペラが、それもバレンボイムの指揮で上演されるという時代になった。このようなレパートリーの拡大は、好ましい現象である。

 今回のプロダクションは、アンドレア・ブレトによる新演出、マルティン・ツェートグルーバーの舞台装置。
 大きな回り舞台を多用し、光景に変化をもたせる。基本的には大邸宅の壁やドアが仕切りになっているが、場面によっては中庭や畑のイメージも付加されている。この廻り舞台により「手紙の場」の後半で場面が中庭に移動したり、第1幕最後の場でオネーギンがタチヤーナを放り出して独り庭を歩く、などという場面を作り出すというわけだが、悪くないアイディアであろう。ただ、オネーギンとレンスキーの決闘の場が、水溜まりがあちこちにあるにせよ、屋内のイメージが強かったのは少々解せないけれども。

 ここでのオネーギンは軽薄で傲慢で、感じの悪い若造として描き出される。もともとチャイコフスキーは音楽の上で彼をあまり好意的に描いておらず、むしろタチヤーナに同情と共感を寄せているくらいだが、ブレトはそれに輪をかけた形でオネーギンの性格設定をしている。もちろん、プーシキンの原作におけるような、ニヒリスティックで悩めるインテリというイメージはどこにもない。この役を演じたペーター・マッテイはすこぶる芝居巧者で、歌唱にも強い個性を示していた。
 タチヤーナ(アンナ・サムイル)は、かなり野暮ったい娘として演じられている。それはいいのだが、第3幕でグレーミン公爵夫人となり着飾ったときにも、やはり野暮ったさが残っているのは少々困る。「あれが、あの田舎娘だったタチヤーナだろうか」とオネーギンを驚倒させる女性からは、どうみてもほど遠いのである。歌手のせいなのか、衣装とメイクのせいなのかは定かでない。ラストシーンでオネーギンが惨めな敗北感と恥辱を味わう場面にいまひとつ迫力が無かったのは、もしかしたらそのためだったか。

 その他の配役では、エンマ・サルキッシアンのフィリッピエヴナばあやが、温かい味を出していた。一方グレーミン公爵は、この演出では、タチヤーナとのべつイチャイチャしている変な老軍人になっている。フェルッチョ・フルラネットが演じていたが、なんかこの役のガラではない。
 
 なお付記すれば、第2幕の舞踏会は、あまりガラのよくない現代のパーティとして設定されている。トリケ(ライランド・デイヴィス、巧い)が、せっかくの讃歌をタチヤーナにうるさがられ、しかも大尉(セルゲイ・コフニール)に口をふさがれてしまうという、ちょっとしたコミックな場面もある。第3幕の有名な「ポロネーズ」は、最近の上演でよく行なわれるように「間奏曲」として扱われていたが、そこでも回転舞台が活用され、豪華な宴会の光景を効果的に現出させていた。
 総じて言えば、セルジオ・モラビトがドラマトゥルグを担当していたにしては、そして人物がよく動く割りには、主人公の複雑な心理描写が思ったほど生きていない。きれいに作られてはいるが、あまり印象に残らないというタイプのプロダクションであった。
 
 指揮はダニエル・バレンボイム。ウィーン・フィルともども、この上なく美しい音色を出した。音楽のリリカルな性格をよく浮き彫りにしていただけでなく、ドラマティックな要素を出す面でも申し分ない。少し前にベルリンで聴いた「ボリス・ゴドゥノフ」もそうだったが、バレンボイムはこのところロシアのオペラにもいい味を出している。
東京新聞9月15日

8・19日(日) ザルツブルク音楽祭
 モーツァルト「劇場支配人」&「バスティアンとバスティエンヌ」

3時 ザルツブルク・マリオネット劇場

 2つのオペラのプログラムだが、2本立てに非ず。劇場監督(アルフレッド・クラインハインツ)が助手ブフと一緒に大汗をかきながら歌手たち(マリオネット=人形、歌は実際の歌手たち)をまとめ、「バスティアンとバスティエンヌ」のゲネプロをまとめていくという構成で、アイディアとしてもよくできている。指揮はエリザベス・フックス(女性)、演出はトーマス・ラインヒェルト。客には子供も多い。

8・18(土) ザルツブルク音楽祭
 内田光子リサイタル

8時 モーツァルト・ハウス

 シェーンベルクの「作品11のピアノ小品」を最初に置き、そのあとにベートーヴェンのソナタの第28番と第29番「ハンマークラヴィーア」で構成したプログラム。
 昨年新装改築されたモーツァルト・ハウス(旧ザルツブルク祝祭小劇場)の2階席ほぼ中央で聴いたが、ピアノの音はびっくりするほど間近にリアルに、大きな音で響く。そのせいもあってか、嵐のような勢いで音楽が迫ってくる。息詰まるほどだ。客席はもちろん満員、熱狂的な客も多い(日本人ではない)。
 だが、これはこちらだけの問題だが、1日にコンサートとオペラを3つも続けて聴くような真似は、このトシになったらもうあまりやるものじゃない。

 内田光子は、今年のザルツブルク音楽祭では今日と、もう1回、21日にもベートーヴェンの「最後の3つのソナタ」でリサイタルを開く。そちらは聴けないが、彼女の活躍はうれしいことである。

8・18(土) ザルツブルク音楽祭
ハイドン:歌劇「アルミーダ」

3時 フェルゼンライトシューレ

 前方上手よりの席で聴いたアイヴォー・ボルトンとザルツブルク・モーツァルテウム管の演奏はすばらしく、この曲の響きの豊かさと官能的な美しさを浮き彫りにしていた。アーノンクールのCDなどではゴツゴツした音ばかりが耳につき、やや抵抗感を抱いたものだが、こうしてナマで聴くと、ハイドンらしくしなやかで瑞々しい音楽さが愉しめる。

 歌手ではゼルミーラ役に予定されていたパトリシア・プティボンがモイカ・エルトマンに変更になったが、上演の性格からいって、さほど問題になることではない。十字軍の騎士リナルドは、音楽祭常連のミヒャエル・シャーデ。
 一方、彼を愛するサラセン側の魔女アルミーダはアネッテ・ダッシュで、数メートルもある高さのスロープから物凄い勢いで転げ落ちるような演技もやってのけ、観客の度胆を抜いた。コロラトゥーラの凄味ではバルトリに遠く及ばないが、バルトリだったらこんな演技はできないだろう。彼女に劣らずコーラス(実際には歌わない)も走ったりぶら下ったり転落したりと激しい動きをする。

 舞台装置(ダーク・ベッカー)は、中央やや上手寄りに巨大な材木の山、下手側に巨大なスロープがあるだけのシンプルなもの。衣装(ベッティーナ・ワルター)はすべて現代風で、十字軍兵士は青色、サラセン(シリア)軍兵士は赤色という衣装の色分けである。

 ダマスカスに侵攻した十字軍と、迎え撃つサラセン軍の戦闘を背景に、十字軍兵士たちとサラセンの女性たちとのひそかな愛を描いたこのオペラは、最も今日的な意味合いをもつドラマといえるかもしれない。
 クリストフ・ロイの新演出は、非常に微細な演技をともなう現代演劇風のもので、予想されたとおり現代の戦争に場面を置き換えた設定だ。戦争に圧し潰される個人の感情というものに大きな関心が寄せられ、リナルドが兵士としての意識を次第に失って行く過程も詳しく描かれる。オリジナルのオペラがせいぜい恋人たちの苦悩を描く程度のものであったのに対し、この演出では、戦争の中における個人の悲劇が描かれており、それ自体はすこぶる当を得た、魅力的な解釈ではある。

 だが結局ロイも、その悲劇の根幹をどう解釈するかにおいては、従来の西欧の歴史観から一歩も出ていないようだ。シリアの王イドレーノ(ヴィート・プリアンテ)を野卑で暴力的な人物に設定し、拷問された十字軍兵士クロタルコ(バーナード・リヒター)が己れの立場の正しさを誇らしげに歌って死ぬと、彼を愛するサラセンの女ゼルミーラが慟哭して彼に縋りついてイドレーノに非難の目を向け、サラセン軍兵士たちもそのリーダーから離反していくという、お定まりの構図にとどまっているのである。こうした欧米的倫理感を批判的に解釈し直してみせるような手法が、そろそろ生まれてこないものか。東洋人の演出家で、それを試みる人はいないだろうか。
 ラストシーンを妙な大団円にせずに、オリジナルの台本に従い、主人公たちの運命を未解決のままにしたのは、賢明な手法であろう。
東京新聞9月15日

8・18(土)ザルツブルク音楽祭
 ゾルタン・コチシュ指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団

11時 ザルツブルク・モーツァルテウム大ホール

 交響曲の第25番と第40番、ピアノ協奏曲のK.453、アイネ・クライネ・ナハトムジークという、要するにト短調とト長調の作品を集めたプログラムだ。
 コチシュは相変わらずイタズラ坊や的な風貌だが、演奏にもその雰囲気が反映されていて、すべて勢いがいい。そのかわり、少々乱暴な演奏でもある。協奏曲は彼自身がソロを弾いているので、この一種ラディカルな演奏が面白いという面もある。ただ冒頭、オーケストラの中にソロアドリブで入ってくる場合、モダン・ピアノの音色ではどうしても違和感が生じるのは致し方ない。
 「アイネ・クライネ」は、いろいろな意味で、特に無くてもよかったろう。

8・17(金)ザルツブルク音楽祭
 マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団

9時 ザルツブルク祝祭大劇場

 3年連続でバイロイト音楽祭に行くのも些か気が重い、というわけで、今年はザルツブルク音楽祭にした。ネットの天気予報では連日30度の猛暑晴天とあったので覚悟してやって来たのだが、幸か不幸か大外れ。雨で、寒い。それでも、東京の超猛暑に比べれば申し訳ないほどの過ごしやすい天気である。

 ベートーヴェンの「第9」の前に、オネゲルの第3交響曲「典礼風」が演奏された。近頃のコンサートとしてはヘビーなプログラムだ。聴く方は閑人ばかりだからいいが、演奏する方はたいへんだろう。
 「典礼風」はすこぶる生真面目な演奏で、あたかもヒンデミットの音楽みたいに聞こえる堅固なアプローチだったが、第3楽章はすこぶるスリリングであり、ヤンソンスの音楽のエネルギーの見事さを示していた。
 「第9」は、久しぶりに大編成の良さを味わわせる。分厚い響きが天地を鳴動させるといった感。このような巨大なホールで演奏されるときには、やはりこのようなスタイルの演奏が適しているだろう。ヤンソンスの指揮は特にデモーニッシュではないけれど、その真摯な語り口のために、独特の説得力を感じさせる。バイエルン放送合唱団のすばらしさも印象的であった。ソリストはカリッシミラ・ストヤノーヴァ、リオナ・ブラウン、ヨハン・ボータ、トーマス・クヴァストホフ。

8・10(金)大野和士指揮東京フィル

東京オペラシティコンサートホール

 久しぶりの大野和士を迎えて、客席は満員である。彼に寄せられる拍手と歓声の大きさは、すでに小澤征爾を凌ぐほどだ。国際的には、彼はいわゆる「実力派」的存在で、かつての小澤のようなアイドル的・スーパースター的な人気指揮者ではないが、今日の演奏などを聴くと、そんなことは大した問題ではないという気持になる。
 「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(R・シュトラウス)での、ストーリイの語り口の巧さは、さすがオペラで世界に名を馳せる大野の力量だ。また、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」の冒頭などを聴くと、彼が世界で良いオケを数多く指揮していることが理解できる。あの東フィルが、まるでヨーロッパのオケ(但し地方マイナーオケという雰囲気だが)のように、良い意味でケバ立った響きを出していたのである。ベルリオーズの「幻想交響曲」でも、オーケストラは非常に劇的かつ表情豊かに轟いた。この「持って行き方の巧さ」は、明らかにオペラを知っている指揮者のセンスである。
 東フィルは、トランペットの音色にもっと美しさが欲しいところだ。「幻想」ではコルネットのパートが復活されていたが、使われていた楽器はトランペットではなかったろうか。いずれにせよ、舞踏会の華麗な煌めきを描くという音色には些か遠かった。ピアノのソロは小山実稚恵。

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