2017-07

7・30(月)ファビオ・ルイジ指揮PMFオーケストラ東京公演

    サントリーホール  7時

 PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)芸術監督3年目のファビオ・ルイジの指揮で、ブラームスの「二重協奏曲」と、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」が演奏された。
 協奏曲でのソリストは、デイヴィッド・チャン(ヴァイオリン)とラファエル・フィゲロア(チェロ)で、もちろん今年の教授陣に加わっている人たちである。

 PMFといえば、以前は十数年間にわたり、ウィーン・フィルを中心としたウィーンの演奏家たちによって指導が行なわれていたものだが、最近は大きく様変わりしたようだ。時代の変化と見れば、それはそれでいいだろう。
 もっとも、会場で配布されたプログラムには、PMF音楽祭そのものに関する紹介はほんの1ページ(半分は写真)しかない。日本全国にPMFの存在を知らしめようとアピールに努めた姿勢も、ここに至ってまた後退し始めたような雰囲気が感じられる。

 余談ながら、このプログラムの7ページ目は何故か、まっさらの白紙。広告か記事がマルマル抜け落ちたような眺めで、甚だ投げやり、おざなりな感じだ。いまどきこんな気の抜けた演奏会プログラムも珍しい。まさにこれは、PMFに「(北海道)地域のみなさん」以外はどうでもいい、という旧弊な意識が復活したことを感じさせるようなページである。

 オーケストラそのものは、ファビオ・ルイジの念入りな指導の甲斐あって、特にブラームスの協奏曲ではバランスよく保たれていた。美感を重視しすぎた演奏という感はあったものの、これはルイジの個性の反映ゆえに仕方がない。
 「アルプス交響曲」ではかなり煽った指揮が繰り広げられ、勢いはあった反面、シュトラウスの管弦楽が織り成す精妙な響きの方は些か犠牲にされたようである。ただ、「頂上近く」で石が転げ落ち、登山者が冷や冷やするあたりの音楽には、いかにもオペラ指揮者らしい描写も加わってはいたが。

7・27(金)会津の新作オペラ「白虎」初演

    會津風雅堂  7時

 1868年8月23日、「戊辰の役」における会津籠城開始の日、飯盛山上で自刃した白虎隊士20人のうち、ただ1人生き残った飯沼貞吉を主人公とする新作オペラ。

 宮本益光の台本、加藤昌則の作曲で、佐藤正浩が指揮、岩田達宗が演出。飯沼貞吉役を経種廉彦、その改名後の貞雄役を高橋啓三、家老の西郷頼母を黒田博、その妻・千恵子を腰越満美という配役。その他、舞台に登場するのは白虎隊士数人と、コロスの役割をする合唱団のみである。

 かように、コンパクトな規模に作られている。
 物語も、白虎隊士・貞吉の出征から生還までを、西郷の妻・千恵子の壮烈な自刃を交えて全2幕形式で描いているが、これを休憩なしの70分ほどの長さにまとめ、象徴的に、かつ集約した形にしている。
 だが、たとえ短くても小規模でも、必要なことは過不足なく語り尽されている。その意味ではよく出来たオペラといえるだろう。

 実際、宮本益光の台本が、うまくまとめられているのには感心した。
 当時の会津藩にも、徹底抗戦派、非戦派、悩みながらも戦争に巻き込まれて行く人々など、さまざまな立場があったことは周知の事実だ。
 オペラでは、非戦派の代表格として有名な家老・西郷頼母を一方の極に、また純粋に会津藩の武士として名誉に殉じようとする白虎隊士・飯沼貞吉を対極に置き、特に2人の口論の場面で、その葛藤と対立を明確に象徴する。
 さらに、非戦派の夫に理解を示しながらも、貞吉には会津武士の心得を説き、籠城の日に「戦の足手まといになるゆえ」と娘たちを道連れに壮烈な自刃を遂げてしまう千恵子を一方の極に置き、かたや自刃に失敗して生還し苦悩する貞吉を対極に配して、おのおのの立場と矛盾を描き出す。

 このように、会津藩内部における葛藤を簡略かつ明確な形で浮彫りにしながらも、歌詞のあらゆるところに「会津の苦悩」のキーワードとなる表現を実に巧く織り込んでいる――これは、会津の歴史を知悉している人々でないと解らないものだ――ことに、私は驚き、舌を巻いた。台本作家・宮本は、戦記集から「燃える白虎隊」のような読み物にいたるまで、よほど詳しく研究したのだろう。
 また、会津藩をことさら自虐的に描いたり、取って付けたような平和論や反戦論を織り込んだり、貞吉に恋人を作って恋愛場面を折り込んだりするような陳腐な手法を全く採らずに、ただ率直に悲劇を描写している点も好ましいと思った。

 音楽と演出との絡みの面から言えば、まず舞台後方に白装束の女声合唱が並び、「虚言(うそ)をついてはなりませぬ。卑怯なことをしてはなりませぬ。・・・・ならぬことはならぬものです」という、会津藩の少年たちへの家訓を歌う。貞吉を支える「精神」の象徴である。
 それに対して、舞台の上手と下手の紗幕の中に配置された男声合唱が、「宮さん宮さん、お馬の前に・・・・」を執拗に反復する。これは西軍――会津では「官軍」という言い方はご法度だ――を象徴する歌である。
 この2つの合唱の対比は、シンプルな手法ながら、ドラマの構図を解りやすくするだろう。

 個人のドラマは、中央のスペースで展開される。この構図は、終始一貫して保たれる。岩田達宗の演出は一貫して極めて簡略明快で、理解しやすい。

 加藤昌則の音楽は、伝統的手法に基づいてはいるが、安易に民謡などを取り入れることなく、また言葉を一音ずつ引き延ばして歌わせるような方法も採らず、どちらかといえばレチタティーヴォに近い――といって誤りならば、言葉のリズムやアクセントを大切にした音楽づくりで歯切れよく畳み込む。オーケストラの編成も比較的大きいので、ダイナミズムには事欠かないだろう。この音楽の逞しさが、オペラを引き締めていたことは事実だ。
 ただ、「会津」のアクセントを「合図」と同じものにしていたのは、昔の会津人にはそぐわないのではないか? それと終結近く、音楽に総休止がだんだん増えて行くが、これは日本のオペラに多い「長すぎるエピローグ」の感を強くしてしまいかねない手法だろう。

 佐藤正浩が率いた「オペラ白虎特別編成オーケストラ」は、プロのメンバーを集めたものとの話だが、すこぶる優秀である。
 それにもう一つ驚異的な素晴らしさだったのは、「オペラ白虎合唱団」と名づけられた合唱だ。プログラムには、福島県立会津高校合唱部、会津若松市立第四中学校合唱部に、一般参加の混声合唱、東京音大からの賛助出演者7人、男声合唱8人(これは白虎隊士役か?)がクレジットされていた。福島県といえば合唱が盛んなところと聞いているが、これは見事というほかはないアンサンブルと力感であった。合唱指揮と、上演での副指揮は、辻博之がつとめていた。

 そして、粒ぞろいのソロ歌手陣4人には、文句のつけようがない。腰越満美は本当に日本女性の鑑みたいな雰囲気で、自決の場面など凄味充分なものがあったし、経種廉彦は、いちずな白虎隊の少年をストレートに表現していた。
 貞雄役の高橋啓三も滋味充分で当り役といった感だが、ただこの「のちの時代の老人役」が、戊辰戦争の現場に「若き日の自分」と交錯する設定は、ちょっと解りにくい。この時間と空間の扱いについては、再演の日までに一工夫あらんことを。

 同様に、西郷頼母を演じた黒田博も、押し出しといい、説得力のある歌唱といい、立派なものだが、「命を捨てて何になる・・・・生きることこそ肝要」と説く非戦派の領袖としての存在感を出すには、もう一つ演出の上で明確な手法が欲しい・・・・これも岩田達宗の手腕に期待しよう。

 会場の「會津風雅堂」は、鶴ヶ城の近くにある、日本風の「蔵」のイメージも出した大きな建物である。ホールは1・2階併せて1700ほどの客席があり、残響はそれほど長くないようだが聴きやすい音で、1階客席も傾斜が大きく取ってあるので舞台も見やすい。
 今回は「もぎり」に小学生のヴォランティアも参加していた。この女の子たちが一所懸命チケットを切っている姿を見れば、誰しもが顔をほころばせるだろう。


 蛇足として告白すると、私の父方の先祖は、代々会津藩の松平侯の御典医だった。
 籠城の日、曾祖父は藩に殉じる覚悟で医者として城内に留まり、若年で徹底した合理主義者の、非戦派だった祖父は、城から出た(結局領内からは出られず、榎本武揚らに合流して函館五稜郭に赴き、敗れて東京で榎本や大鳥圭介らと同じ牢に入り、許されてのち外務省に入るという妙な経歴を辿るのだが)。
 私の家はこれを境に、飯盛山麓の先祖の墓地との関わりを持つ以外には、会津とは訣別している。だが30年ほど前、父と同世代の会津の親戚を訪ねた際、「あんたのお祖父さんは、会津を捨てて薩長の政府に入った」と言われ、その歴史体験の凄まじさに、衝撃を受けたものである。
 飯盛山にあった藩政時代の墓は、背後の崖崩れがひどくなったため、昨年秋に東京に移した。

7・26(木)マルク・ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢

    サントリーホール  7時

 フランスの名匠ミンコフスキが単身来日し、初めて日本のオーケストラを振る。
 その最初の栄誉を担ったオケは、東京のそれではなく、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)だった。しかも金沢だけでひっそりとやるのではなく、東京と横浜でも公演してみせるという大デモをやるのだから、OEKも相当なシタタカモノだ。

 それは大変結構なのだが、しかし、今夜の東京公演は、なぜか入りが寂しい。特に2階センター席の前列に座って、うしろを振り向いてみると・・・・。
 プログラムが、実に斬新であった(この曲目が入りに関係したのか? だとしたら、ますます寂しい)。
 クルト・ヴァイルの「第2交響曲」で幕を開け、プーランクの「2台のピアのための協奏曲」があり、最後がラヴェルの「マ・メール・ロワ」(全曲版)で締められる。

 ヴァイルの「2番」がこれほど清澄な音色で明晰に、爽やかに響いたのを、私は初めて聴いた。まるで「パリのヴァイル」という雰囲気の演奏だったが、事実この曲がパリで書かれたことを思い起こせば、筋道は完璧に通る。
 各楽器の音がきらきらして、しかも内声部が、あたかも明るい光を当てられたような明快さで動いて行く。それでいながら第2楽章では、いかにもヴァイルらしい、一種不気味な翳りを帯びた表情が見え隠れする。
 そのニュアンス、ミンコフスキも巧みだが、OEKもなかなかに表現力が豊かである。快演であった。

 プーランクの協奏曲は、曲想にふさわしく、才気たっぷりの演奏が繰り広げられた。日本のオーケストラがこれだけ洗練された躍動を聴かせたのも珍しいだろう。ソリストはギョーム・ヴァンサンと田島睦子が務めた。
 唯一つ惜しむらくは、2階正面で聴いた印象では、ピアノの音が散り気味になってしまい、――よく響くこのホールで、しかも客の数が多くないために、ますます響きすぎて、2台のピアノの音の焦点がぼやけ、プーランクのあの洒落た音の一つ一つが判然としなくなってしまったこと。

 後半の「マ・メール・ロワ」は、特に前半は、何かしら慎重な、構えたような雰囲気が感じられて、少し堅苦しかった。しかし音色の方はやはり艶やかで、アンコールでも演奏された「パゴダの女王レドロネット」など、すこぶる愉しめた。

7・25(水)佐渡裕プロデュース プッチーニ:「トスカ」

  兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール  2時

 久しぶりに西宮の兵庫県芸術文化センターを訪れる。阪急電車の西宮北口の南口は、来るたびに大きな建物が建ち、駅からの回廊も整備され増設されているように見える。ぼんやり歩いていると、とんでもない方面に向かっていることに気がついて慌てたりする。

 8~9回の公演すべてを満席にすることで全国に名を轟かせるこのホール売り物の、おなじみ佐渡裕プロデュースによるオペラ。
 今回の「トスカ」(28日までの8回公演)も「やっぱり完売?」と訊いたら、事業部のNさんが胸を張って「はい、完売です」と答えた。凄いものである。
 全公演がマチネーというのも、好評を呼ぶ原因の一つらしい。半分以上を占める女性客にとっては、帰りが夜遅くになる公演時間は苦手の由。勤め客は土日の公演を利用するから支障はない、という話も聞いた。今日も文字通り満杯、補助席ズラリという盛況である。

 今回の公演は、主役陣を外人組と邦人組に分けてのダブルキャストだ。
 私の方は、並河寿美(歌姫トスカ)、福井敬(画家カヴァラドッシ)、斉木健詞(警視総監スカルピア)、大沼徹(逃亡国事犯アンジェロッティ)らの主役陣が聴きたくて、今日の公演を選んで出かけた次第である。

 並河&福井のコンビは予想通り力感充分、第1幕では両者ともヴィブラートがちょっと強いかな、と感じさせたりしたが、第2幕以降は劇的迫力に富む歌唱を聴かせてくれた。
 並河はつい最近「さまよえるオランダ人」のゼンタ役を聴いたばかりだが、こちらトスカの方が伸び伸びと歌えているという印象を受けた(ご本人もそういう意味のことを語っていた)。
 福井は第2幕、「Vittoria!Vittoria!」をクライマックスとする壮絶な劇的表現が、全曲中最高の出来。この種の悲劇的でドラマティックな場面での緊迫感豊かな歌唱にかけては、日本人歌手の中でも彼の右に出る人はいないだろう。

 斉木は押し出しの良さを生かしてのスカルピア役だが、悪役としてはもう少し歌唱にアクの強さとメリハリが欲しい。トスカを襲う肝心な場面で、高音域を決められなかったのも惜しい。
 先日のオランダ人ですばらしい出来を聴かせた大沼は、今回は出番の少ない役柄だったので、本領発揮というところまでは行かなかったろう。
 佐渡裕は、予想外に抑制した音楽づくりというか、ヴェリズモ・オペラの扇情的な迫力をむしろサラリとかわして、沈潜的な個所ではテンポも落とし、叙情的な色合いを強くしていたようであった。兵庫芸術文化センター管弦楽団もあまりガンガン鳴ることはなく、演奏も手堅い。ただ今日は、第3幕冒頭での弦のソロが、何ともお粗末でいただけなかった。

 演出はダニエレ・アバド。先日の東京での「ナブッコ」と同様、凡庸極まる演出で、締まりのないこと夥しい。この人は所詮、この程度の人なのだろう。この演出がもう少しちゃんとしていたら、福井も並河も斉木も更に生き生きした舞台を創れたろうし、スカルピア刺殺の場も、大詰めのカタストローフも、もっとドラマティックな迫力が出たはずである。

 むしろルイジ・ペレゴのモダンな舞台装置が、シンプルながらなかなか洒落ていた。中央に円形の回転舞台を置き、これが第2幕では白色の冷たい光に照らされたスカルピアの居間となり、第3幕では大天使の像のある屋上場面となる。
 これはトリノで製作されたものだそうで、完全に今回の上演のためのオリジナルなものとのことである。独自にこれだけの水準の舞台装置を製作するとは、たいしたものだ。国内各地の上演にレンタルすれば喜ばれるのでは?

 休憩2回を挟み、4時45分終演。6時過ぎの新幹線で東京に引返す。

7・24(火)バーンスタイン:「ウェストサイド・ストーリー」

    渋谷ヒカリエ 東急シアターオーブ  1時半

 その昔、渋谷駅前の東急文化会館といえば、渋谷パンテオン、渋谷東急、東急名画座、それに何とか言った小さなニュース映画専門の劇場まであって、私も学生の頃には毎週のように入り浸っていたものだ。プラネタリウムだけは結局入らぬままだったが、――とにかく懐かしい建物だった。
 それが解体されたあとに新しく竣工した「ヒカリエ」なる建物――その最上階に出来たのが、「東急シアターオーブ」という劇場である。

 オープニング記念公演として上演されているのが、あのバーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」。映画ではもちろん、ライヴ上演でも、もう何度も観た名作である。
 プロダクションは基本的にアーサー・ローレンツ演出、ジェローム・ロビンズ振付によるスタンダードのものだが、今回のツァー用の演出はデイヴィッド・セイント、振付はジョーイ・マクニーリーによるものとクレジットされている。音楽監督(指揮)はジョン・オニールの由。
 ロス・リカイツ(トニー)、ジャーマン・サンティアゴ(ベルナルド)らの出演者たちはみんなスピーディな熱演だし、あの決闘シーンでの敏速な体の動きには毎度感心するほかないし、よく出来ていることは事実だ。

 ただ、――昔、初めて映画で観た時には、それまでのリチャード・ロジャースなどの平和なミュージカルとあまりに異なるその鋭さに度肝を抜かれはしたものの、それから半世紀の間、同じオリジナルの形でばかり何度も観ていると、だんだん飽きが来る・・・・それは、異なる解釈、異なる演出で見ることを常に欲求したくなる「すれっからし」(?)のオペラ・ファンの習性かしらん。
 まあ、オペラの客だって「19○○年の舞台と同じ舞台で一生観ていたい」という人もいるわけだからさまざまだが。

 ミュージカルの場合には、「新演出」とか言って読み替え、時代の変更設定などをやることはないのだろうか? 
 トニーとマリアの悲恋が、実は警察権力によって仕組まれたものだったとか、オペラ座の怪人が、実は硬直化した現代の歌劇場組織の改革者だったとかいったような・・・。

7・21(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

  サントリーホール  6時

 前半にマーラーの「さすらう若人の歌」、後半にリストの「ファウスト交響曲」。
 聴感上でも極めて良いバランスのプログラムだ。また前者の謎めいた終結と、後者における調性の不安定な第1楽章とが、精神的にさすらう人間を描く作品としての関連性を暗示するような選曲でもある。

 ただ、「さすらう若人の歌」を歌ったヴォルフガング・ホルツマイアー(Br)の、いまどき珍しいほど極度に粘った歌い方には、どうにも共感しかねる。そういう個人的な好みを別にしても、声が非常に不安定で、音程がしばしばずり落ち気味になるのは困る。これではまるで、失恋した心の痛みを酔っ払って紛らせながらふらふら歩く男――といった感じの歌唱ではなかろうか。「純な若者の愛の苦悩」ともいうべきこの作品の性格が、根底から崩れてしまう。
 一方、スダーン指揮の東響の演奏は、室内楽的な精緻さも湛え、端整な美しさを聴かせていた。

 「ファウスト交響曲」は、スダーンと東響の、現在の最良の水準を披露した演奏というべく、すばらしく聴き応えのあるものとなった。この厳しく鋭い求心性を備えた表現は、以前のブルックナーの「第8交響曲」や、シェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」などと並ぶだろう。

 明快そのものの組み立て、引き締まったアンサンブル、歯切れのいいリズム、内声部まで明晰な音色――このようなアプローチで演奏された「ファウスト交響曲」は、とかくこの作品につきまとう鬱陶しく晦渋なイメージが一掃され、極めて見通しのいい構築の曲に一変する。
 ファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレスの3人のキャラクターをそれぞれ第1楽章から第3楽章に当てはめたこの交響曲が、アレグロ――アンダンテ――アレグロ(スケルツォ)という急―緩―急の形式を明確に備えているものであることを、これほどはっきりと印象づけてくれた演奏は、決して多くないだろう。

 こういうアプローチの演奏だと、第1楽章でのファウスト像も、しんねりむっつり思索する学者ではなく、決然として人生を探求しつづける人間、という印象になるだろう。第2楽章でのグレートヒェンは端正で、何か生真面目すぎる女性というイメージになっていたが、メフィストフェレスを描く第3楽章では、整然たるアンサンブルの裡に荒々しいアイロニーを湛え、小気味よいスケルツォとしての性格を鮮やかに打ち出し、いかにも頭脳的な皮肉家のメフィスト――という解釈を感じさせた。

 第3楽章、ファウストの主題がメフィストフェレスにより歪められる中で、突如として再現するグレートヒェンの主題だけが清純さを保っているというあの個所――そこで曲想がぱっと変わる個所でのスダーンの呼吸も、すこぶる見事なもの。
 そして最終部分にはテナー・ソロと男声合唱が参加する版が使われ、救済を感じさせる盛り上がりとなった。チャールズ・キムの強靭なソロが輝かしい賛歌を作り出し、東響コーラス(合唱指揮・安藤常光)も手堅く安定した力を出した。

 今日の東響コーラスは「創立25周年記念」シリーズの演奏の第1回という立場の由。この合唱団の優秀さは、これまでの演奏で夙に知られるところである。
 今夜は、歌い始めるぎりぎり直前でのステージ入場という方法が採られ、これがまたピタリとタイミングが合って、並び終わるや歌が開始されるという見事な演出効果になっていた。あとで事務局から聞いた話によると、出始めから並び終わりまでジャスト40秒間で――という、その練習を2回やったそうである。

 それにしても、スダーンと東響の好調さが引続き保たれているというのは、うれしいことだ。大震災以来使えなかった本拠地ミューザ川崎シンフォニーホールも、再開まで残るところ半年と少し。頑張ってと申し上げたい。
     ⇒音楽の友9月号 演奏会評

7・19(木)沼尻竜典指揮群馬交響楽団 東京公演

   すみだトリフォニーホール  7時

 ヨハネス・フリッチェが客演指揮することになっていたが、ある事情で来日中止となり、代わりに沼尻竜典が指揮した。
 ――といっても彼はもともとこのオケの首席指揮者兼芸術アドヴァイザーだ。群響の「華の東京公演」での「代役指揮者」をシェフが出て来て務める、なんてケースは、昨年3月の大震災の影響で客演指揮者が来られなくなった時に次いで2度目だが、なんだかちょっと、おかしな話ではある。

 まあ、裏の事情に口は挟むまい。プログラムは当初の通りで、ウェーバーの「オベロン」序曲、ワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」(ソロは小川明子)、ブルックナーの「第3交響曲」。

 前半の2曲を3階バルコン席で聴いてみたが、昔はそのあたりでは音響が飽和して柔らかく聞こえた記憶があるのに、今回はどういうわけか、何かガサガサした感じの音で聞こえてしまった。
 こちらの耳が慣れなくなったのかもしれず、とも思うので、あやふやなことを述べるのは避ける。

 ブルックナーの「3番」は、1階に席を移して(これは仕事上の行動なので請御諒解)聴いた。曲の冒頭はやはり少し粗い感もあったが、第1楽章途中あたりから音も溶け合って来た。終楽章最後の決めのクライマックスへの持って行き方も、あのトランペット主題を支える内声部のバランスも、頂点にふさわしい構築だったと思う。
 但し演奏には、総じて何かしら素っ気なさのようなものが感じられ、無味乾燥のブルックナーというイメージがなかったとは言えまい。沼尻=群響の水準としても、高崎で何度か聴いた演奏でのそれには及ばなかったのでは。

7・17(火)渡邊順生指揮 モンテヴェルディ:「聖母マリアの夕べの祈り」

   サントリーホール  7時

 ほぼ1週間、身も心もワーグナーに浸りきったあとに、モンテヴェルディの「聖母マリアの夕べの祈り」の第1音を耳にした時の新鮮な感動たるや、筆舌に尽しがたい。こんな爽やかな、清澄な、晴れやかな音楽が、世の中には未だあったのだ!と。
 聴きなれたこの作品が、今夜ほど新鮮に聴けたことは、かつてなかった。これだから、たとえ時差ボケが残っていても、良いコンサートは聴き逃せないのだ。

 これは、サントリー音楽賞受賞記念コンサート。第42回音楽賞を受賞した渡邊順生の演奏会である。
 但し彼のチェンバロ・リサイタルではなく、モンテヴェルディ・アンサンブル(声楽)とザ・バロックバンド(管弦楽)とを、彼が「弾き振り」するコンサートであった。

 合唱にはセリーヌ・シェーン(S)、鈴木美登里(S)、櫻田亮(T)、セルジョ・フォレスティ(Bs)も参加して時にはソロも受け持ち、オーケストラには伊佐治道生をコンサートマスターとして、宮下宣子(トロンボーン)、江崎浩司(ドゥルツィアン)、西山まりえ(ハープ)、崎川晶子(リュートチェンバロ)、今井奈緒子(オルガン)といった人々も加わっていた。

 清澄透明な美しい世界を堪能させてくれた、素晴らしい2時間であった。
 しかし、これを聴きながら、ふと思ってしまった。これが作曲されたのが400年前。ワーグナーが「指環」を作曲したのは約150年前。その間にも、前後にも、ヨーロッパは数世紀にわたり、無数の優れた音楽を生み出している。何という巨大な音楽文化。その恐るべき圧力の前に、身の竦むような感情に襲われる。

7・15(日)ミュンヘン・オペラ・フェスティヴァル ワーグナー:「神々の黄昏」

     バイエルン州立歌劇場  5時

 冒頭、3人のノルン(運命の女神)が来し方行末を語る場面で、最初に映し出されたのが日本の津波の映像だ。「気仙沼市」とテロップが入った映像まで混じっている。

 さらに序奏が始まれば、避難民らしき暗い表情の集団がいて、防護服を着た3人の男がガイガーカウンターで全員を検査して回り、除染の作業をもやっている。やりきれないな、という気持。現実に引き戻されると、この「ノルンの場」の素晴しい音楽さえ、耳に入らなくなってしまう。

 案の定、これが伏線になる。全曲最終の「世界の没落」場面、壮麗なオフィスに設定されたギビフングの広間が猛火と洪水で破壊されたあとの場面は、まるで原発事故後の建屋の内部を思わせる光景だ。大勢の男女が、ハンカチで鼻と口を押さえて逃げ惑う。われわれ日本人にとっては、すこぶる気の重くなるような舞台の「神々の黄昏」である。

 最後に「救済の動機」が奏される時、背景の明りの中から若者の集団が現われる(よく使われるテだ)のが、未来への希望という意味になるのだろう。――客観的に見れば、このクリーゲンブルク演出の「神々の黄昏」は、かように時事的要素を取り入れているだけ「季節モノ」の色合いを強くする。

 しかし、これに関連し、現代ビジネス界への風刺もユーモアを以って取り入れられていた。
 「ラインへの旅」の音楽後半、都会に到着し、マゴマゴしているジークフリートが、多忙に行き交うビジネスマン集団に邪魔者扱いされ、あちこちで突き飛ばされるのは笑えるだろう。
 ギビフング家の場では、背景の「ガラス張り」多層階フロアで上司の裁可を待つ社員たちは画一化された服装。覇気なく疲れ切った様子で歩く。

 「ホイホー・ハーゲン」の場で、集まった社員たちが気勢を上げつつ手に掲げるのは「携帯電話」だ。そして歌っていない時には、ハーゲンが何を言っているかなど全然聞かず、勝手にそれぞれケータイをいじくっている。ブリュンヒルデたちが到着すれば全員がケータイで撮影に夢中になるという仕組。いずれも現代の典型的な世情を巧く皮肉っている。ただしこれらが延々と続くのは、如何にも能がなく、見ていても飽きて来る。
 ハーゲンまでブリュンヒルデの到着をケータイで確かめる、という具合だ。まあ、このテは、今ならこのクリーゲンブルクに限らず、どこかの「指環」でもやっているかもしれない。

 前3作で見られたような、肉体集団によるオブジェやダンスは、この作品では一切取り入れられていなかった。超自然的な世界が舞台の「ジークフリート」までと、人間社会が舞台となる「神々の黄昏」とでは、コンセプトを明確に分けているのだろう。これは納得が行く。
 第3幕の「ライン河畔」の場では大勢の男女が転がっていたので、彼らがまた岩だか河だか何かを表わすのかと思ったら、ハーゲンたちが角笛の音と一緒に到着した途端に、カプル同士、起き上がって眠そうに退場して行ってしまった・・・・。

 主役たちの演技はすこぶる細かく、音楽とドラマに即した心理状況をよく表わしていて、それだけは大いに歓迎したい。
 が、例えばブリュンヒルデが松明を投げて火をつける行動とか、ヴァルトラウテが登場して来るくだりとかは、ト書きの指定個所よりずっと前の個所で行なわれるので、音楽の動きと全く合致しなくなる。また「葬送行進曲」の立派な演奏の最中に、何十人もの男がオフィス中を駆けずり回り、書類を破り捨て、音楽が聞こえなくなるほど騒々しく雑音を立てるのも、音楽を大切にしない演出の典型的な例だ。

 ただ、ラストシーンでは建物の彼方で本物の猛火が上がり(火炎を放射しているだけだが、物凄かった)、建物の「ガラス」に反射してすべてが炎上しているように見え、それから阿鼻叫喚の大混乱が始まるのだが、幸いそちらではほとんど雑音は出ていなかったので、音楽への弊害は生まれないだろう。光景に気を盗られて耳が疎かになるかどうかは、また別の問題だが。

 歌手陣は、すべて最高の出来であった!
 今夜はジークフリートがスティーヴン(シュテファン)・グールド、ブリュンヒルデがニーナ・ステンメ。いずれもこれ以上は望めないといえるほどの完璧な舞台で観客を酔わせたが、特に後者は圧倒的な歌唱で、「自己犠牲」の最後まで些かの不安定さもなく悲劇感を表出して行ったのは見事の極みだ。
 今回の「日替わりブリュンヒルデ」と、ジークムントを含む3人の主役テナーは、すべて最高の水準を発揮していた。それを聴けただけでも、ミュンヘンまで来ただけのことはあると思う。

 ギビフング家の主グンターは「遊び人の御曹司社長」、グートルーネは「蓮っ葉なその妹」という設定だが、それぞれイアイン・パターソンとアンナ・ガブラーが――少し線は細いけれども――熱演していた。
 そのおかげで、悪役のはずのハーゲンが、逆にしっかり者の支配人のように見える。彼を歌い演じたのはエリック・ハルフヴァーソン。底力のある声と手堅い演技で存在感を示す。

 ヴォルフガング・コッホ演じるアルベリヒは、今日も良い(姿を消す時に「オフィス」の酒壜やら女の下着やら、いろいろなものを持ち逃げするのがユーモラスだ)。
 さらにヴァルトラウテ役にミヒャエラ・シュスターが登場したことは、第1幕後半を更に引き締めるのに貢献しただろう。
 ヴォークリンデ役は今日も中村恵理が歌って成功。ジル・グローヴも「第1のノルン」を歌っていた。

 今夜は劇場の外でライヴビューイングが実施されていた所為か、ケント・ナガノ率いるバイエルン州立管弦楽団(プログラム記載の名称)の演奏には殊の外リキが入っていて、第3幕冒頭の少しの部分を除き、すこぶる充実した演奏を聴かせてくれた。
 ただし、整然と纏まってはいるもののデモーニッシュな味に不足するのはいつもの通りで、第2幕後半の3重唱の部分など、ジークフリート暗殺を謀るという、ドラマの展開予告としての凄味がオーケストラの演奏にはほとんど感じられないのである。
 序幕と第1幕のテンポは例のごとく遅く聞こえたが、時計を見ると2時間7分くらいで、それほど長いわけではなかった・・・・。第2幕は70分、第3幕は85分だったから、やや遅め、ということになろうか。

 40分の休憩2回を含み、演奏終了は11時12分。
 これで今回の「ミュンヘン・リング」取材はおしまい。翌朝の便で帰国。

7・14(土)ミュンヘン・オペラ・フェスティヴァル
    ジョイス・ディドナート リーダーアーベント

   プリンツレゲンテン劇場  8時

 今年はバイロイトに行かないので、せめてこの、バイロイト祝祭劇場そっくりの内装を備えたプリンツレゲンテン劇場で気分的な埋め合わせを――というわけでもないが、暫しホール内を見回していると、見れば見るほどあのバイロイトが思い出され、何となくしんみりと物思いに耽ってしまう。
 会場内のカビ臭い香りまで似ているから面白い。

 今回の席は、何と最前列(やや上手寄り)だった。幸いステージが低めにセットされているので、手を伸ばせば届くくらいの位置にいる演奏者でも、聴感上のバランスが不自然になるというほどでもない。むしろアットホームな雰囲気で愉しめた。

 ジョイス・ディドナートは、前述の通り水曜日の「ラ・チェネレントラ」で具合が悪かったわけだが、今夜はトークを交え(きれいな声で話す)、自ら盛んにそれをネタにしていた。
 「今夜は、悪いお知らせと良いお知らせがあります。まず悪いお知らせは、今週の初めに喉の具合を悪くしまったことです。良いお知らせは、しかし私は今ここにいる、ということです」(聴衆大拍手)。

 第2部の最初にも、「大丈夫です。まだ私はここにいます」と、両手の親指を立ててみせるといった具合だったし、アンコールの際にも「ロッシーニの(何か)を歌いたかったんですけどごめんなさい。まだそこまではちょっとここが」と喉の下を押さえながら言っていたくらいだから、やはり本当に「だましだまし」歌っていたのだろう。

 しかし、そんなことを全く感じさせない、美しく伸びのある声に聞こえた。
 この人の歌には、聴き手を快い、幸せな気持に引き込んでしまうものがある。それさえあれば、充分だ。

 プログラムは、ヴィヴァルディのオペラ「テルモドンテのエルコレ」からのイッポリタのアリア2曲で開始され、そのあとはフォーレの「5つのヴェネツィアの歌」、ロッシーニの「老いの過ち」から「競艇前・中・後(3曲)のアンゾレタ」、シューベルトの「ゴンドラ乗り」、シューマンの「2つのヴェネツィアの歌」、マイケル・ヘッド(米)の「3つのヴェニスの歌」、レイナルド・アーンの「ヴェネツィア」と続いた。

 大部分は彼女のCD「ヴェネツィアの旅」(ウィグモアホール・ライヴ)に入っている曲で、何かCDのプロモーション・コンサートという雰囲気もないでもないが、とにかく一つのテーマに基づいたプログラミングであり、説得性もある。

 彼女はアメリカのカンサス出身である。今夜のトークでもそこでの少女時代の思い出などを語っていたが、アンコールの最後に「キャンサスといえばこの歌を」と言って、ハロルド・アーレンの「虹の彼方」をしみじみと歌ってくれた。そういえばあの映画「オズの魔法使」のヒロイン、ドロシーは、カンサスの農場の少女でしたねえ。
 それにしてもこの歌、ミュンヘンの古式ゆかしいプリンツレゲンテン劇場なんかで聴くと、妙に心に染みて来る。
 ピアノはダヴィット・ツォーベル。
 10時終演。

7・13(金)ミュンヘン・オペラ・フェスティヴァル ワーグナー:「ジークフリート」

    バイエルン州立歌劇場  5時

 男声歌手2人ずつと、音楽だけでは退屈するでしょうから、いろいろ趣向を凝らして御覧に入れます――とばかり、まあ必要なことから余計なことまで、ありとあらゆることをやること、やること。それがクリーゲンブルク演出の第1幕だ。

 ジークフリートとミーメ、ヴォータンとミーメのそれぞれ長い問答のさなか、歌詞に応じて過去の出来事を悉く舞台上に再現してみせる。それが背景で幻想的に繰り広げられるのならともかく、「亡きジークリンデ」の出産場面から、彼女が現実のジークフリートにキスを贈って去る場面、巨人たちの争闘場面、という具合に、数十人のダンサーたち(舞台裏方まで出て来る)が、ダンスでなく、リアルな動作で行なうのである。

 彼らが人間の肉体を以って草原になり、花畑になり、森になる、などのアイディアはいいだろう。だがいちいち大道具を運んでミーメの小屋を組み立て、分解し、また組み立てるといったように、文字通り舞台設営の作業として終始右往左往されては、視覚的にうるさくてたまらない。

 最悪だったのは「鍛冶の場」だ。いったい舞台上には何十人がいたろうか。巨大なふいご(を模した大道具)を動かし、火花を散らすための空気入れを大勢で押し、照明器具を運んで騒々しく走り回りながらミーメとジークフリートにライトを当て、ミーメにペットボトルを渡して水を飲ませ、嬉々として顔を見合わせながら笑ったり飛び跳ねたり、・・・・思い出すのも不愉快だからこの辺で止めておくが、これはもはやダンスではなく、雑然たる騒ぎ以外の何物でもない。

 ここの音楽が持つ野性的な暴力性を視覚に表わせばこうなるのだ、などという擁護派の詭弁などには、耳を貸したくない。本当にうんざりした。もう舞台を観るのも厭になったほどだ。幕が閉まった途端、客席からは猛然たるブーイングが炸裂した。

 これまで読み替え演出とは、いわば作品をいっそう掘り下げるための止むに止まれぬ衝動の産物だ、と解釈していた。だが、この第1幕は読み替えどころか、もう、観光客(?)相手のグランド・ショーともいうべきレベルのシロモノではなかろうか。

 休憩時間にロビーで、憤然たる表情の同好の士たちと憤懣を口にし合い、ストレスを僅かながらも解消する。ただ、「なかなか愉しかった」と満足げに話す知人もいたことは、確かである。

 幸いにも第2幕以降では、その騒ぎも少し、沈静化した。
 例のごとく木々とか、岩山とかを人間集団が演じるが、それらが一つの完璧なバランスを以って、流れるように、かつ幻想的に展開されるのなら、ダンスであろうと何だろうと、些かも拒否するものではない。

 第2幕での、宙に動く大蛇ファーフナーの鬼の如き面を模した巨大で真っ赤な物体、あるいはジークフリートとミーメを威嚇する森の不気味で醜悪なモンスターツリーなど、ダンサーたちによる蠢きは、実に巧みに出来ていた。また第3幕でエルダの周辺に屯し、ヴォータンを寄せつけぬ「大地の悪霊」といった集団も、数十の人間の肉体が表現する魔性感として、すこぶる効果的なものだったと思う。

 それでも、他にあれこれお節介でうるさい動きが無かったわけではない。が、思い出すだけ腹が立つので、もう止める。

 いっぽう、音楽面は、極めて充実していた。
 ジークフリート役はランス・ライアン。この人は観るたび、聴くたびに巧くなっているのを感じる。やんちゃな若者を生き生きと闊達に演じ、強靭無比な声で最後の2重唱まで小気味よく歌い切った。演技もかなり微細で、終幕でブリュンヒルデとベッドの上で照れながらいちゃつくあたり、こんな細かい芸当も出来る人だったのかと、改めて感心する。

 そのブリュンヒルデは、今夜はキャサリン・ネイグルスタッドが歌ったが、これも清澄でのびやかな美しさだ。
 ミーメのヴォルフガング・アプリンガー=シュペルハッケ、アルベリヒのヴォルフガング・コッホも巧味充分、ファーフナーのラファル・シヴェクの底力あるバスは凄味がある。さすらい人(ヴォータン)のトーマス・J・マイヤーは前作同様に安定しているが、何となく地味だ。

 エルダ役のジル・グローヴも決して悪くないと思ったのだが、どういうわけか、この人にだけはブラーヴァがほとんどないのは気の毒。森の小鳥役は可愛らしいロシア女性エレーナ・ツァラゴーワという人で、高音の音程もすこぶる正確、舞台上を軽快に動いて拍手を集めていた。

 ケント・ナガノの指揮は、今夜はいっそうテンポが遅い。第1幕だけでも90分を要するといったように、並みの演奏時間よりも、各幕それぞれ10分くらいは長かったであろう。全曲すべて遅いというのではなく、叙情的に歌う個所や、沈潜した個所で極度にテンポを落すのは、「ヴァルキューレ」の時と同じである。
 しかし、その叙情的な個所でのオーケストラの響きの美しさは――「森のささやき」や、第3幕のあの「ジークフリート牧歌」でおなじみの旋律など、弦のふくよかな音色は――素晴しい。叙情性を重視するタイプの「指環」の演奏としては、それなりに筋が通っているだろう。

 今夜は第3幕だけ知人と席を交換し、パルケット(1階)席8列目やや上手側で聴いてみたが、予想通りオケの音はやや硬質になり、ティンパニの響きも鈍く聞こえ、アンサンブルのアラまで目立つ(失礼)傾向なしとしない。パルケット後方や上階席では、また別の印象を受けるだろう。こういう具合に、位置によって全然音が違うのだから、迂闊に短絡的な批評などするべきでない、という好例だ。
 だがケント・ナガノへに贈る観客の拍手は、非常に大きい。祝着である。

 40分の休憩2回を含み、演奏終了は10時40分頃。

7・12(木)ミュンヘン・オペラ・フェスティヴァル ロッシーニ:「ラ・チェネレントラ」

   バイエルン州立歌劇場  7時

 「指環」の中休みの日に、全く異なった傾向のオペラを観たり、コンサートを聴いたりするのは、いい気分転換になる。

 筋金入りのワグネリアンを気取る私でも、ワーグナーばかり毎日聴き続けるのは、あまり好きじゃない。
 だからバイロイトでワーグナーばかり7本観ていると、途中でやたらモーツァルトやシューベルトを聴きたくなってしまう。以前ベルリン・フェストターゲで、バレンボイム指揮とクプファー演出の「ワーグナー10連発」を観た時には、その間にR・シュトラウスの「エレクトラ」やヴェルディの「リゴレット」(ノイエンフェルスのとんでもない演出)や、ブラームスの交響曲コンサートやバロックコンサートを交えていたので、気分的にも全く疲れず、毎日を非常に新鮮な気分で送ることができたのであった。――これじゃ「筋金入りのワグネリアン」とはとても言えんぞ、おこがましい、と叱られるかもしれないが。

 そこで今日は、ロッシーニの「チェネレントラ」(シンデレラ)。
 指揮はアントネッロ・アッレマンディ。演出・装置・衣装は、日本でも上演された懐かしいジャン=ピエール・ポネルのものである。ごくごくトラディショナルなスタイルの舞台と演出だが、何となくほのぼのとしていて、「意味など考えずに」気楽に観られるところが好い。

 タイトルロールを、このところ日の出の勢いにあるアメリカ出身のメゾ・ソプラノ、ジョイス・ディドナートが歌うのが目玉だった。
 ところが開演直前、今日は彼女が調子が悪いので了承されたい、というアナウンスがあり、客席は落胆の溜息に包まれる。事実、第1幕では最初のうち声が伸びず、細かいヴィブラートが多かったりして、どうなることかと思わせた。が、これはもちろん、第2幕最後のために調子を整え、声をセーヴしていたためもあるのだろう。
 その第2幕。聴かせどころのクライマックスのアリアは、やや慎重な雰囲気を感じさせたとはいえ、美しく輝かしく、しかも正確に歌われた。調子が良かろうと悪かろうと、これだけ歌ってくれれば、文句を言う方がどうかしている。

 姉娘クロリンダを、中村恵理が軽快に歌っていた。よく踊り、飛び跳ね、茶目っ気をいっぱいにあふれさせての好演である。彼女の欧州での活躍ぶりは、日本にはそれほど知られていないが、ドイツ最高峰の歌劇場でこれだけ歌い演じ、好評を受けている日本人歌手がいるというのは、嬉しいことだ。

 他に良かったのは、脇役だがアリドーロを歌ったアレクス・エスポジート。力強く説得力のあるバスで、この哲学者役を「黒幕」という地位にまで高めさせるのに成功していた。
 強欲親父のドン・マニフィコはアレッサンドロ・コルベッリが歌ったが、今回はちょっとおとなしかった(?)という印象。もう少しえげつない存在感を見せて欲しかったところだ。

 ただ、この日の舞台と演奏は――指揮とオーケストラも含めて――全体にあまり燃えない、躍動感と明るさにも不足した、何かルーティン的な雰囲気の出来に留まっていたのではなかろうか。最近ドン・ラミーロ王子をしばしば歌っているローレンス・ブラウンリーにしても同様で、破綻なく歌ってはいるが、どうしても華やかさに不足するのである。

 他に、次女ティスベにパオラ・ガルディーナ、従者ダンディーニにニコライ・ボルチェフ(この人は背が高くて見栄えはするが、歌はあまり上手くない)。
 30分の休憩を含め、演奏終了は10時17分。カーテンコールは盛大だった。

7・11(水)ミュンヘン・オペラ・フェスティヴァル ワーグナー:「ヴァルキューレ」

     バイエルン州立歌劇場  5時

 まず何よりも、主役陣の充実の歌唱を愉しんだ。
 あのクラウス・フローリアン・フォークトが、爽やかで純な青年像のジークムントを熱唱した。
 アニヤ・カンペも若々しくジークリンデを歌い演じ、特に第3幕では見事な情熱の高まりを聴かせてくれた。
 イレーネ・テオリンのブリュンヒルデと来たら、これはもう清涼明晰そのもの、第2幕冒頭の「ヴァルキューレの叫び」をあれほど爽やかに正確に、充分な力を以って歌えるソプラノは決して多くないだろう。メイクも今日はすこぶる可愛い。

 フリッカは前日同様ソフィー・コッホで、女傑でも猛妻でも冷妻でもない、要するに「ラインの黄金」での姿をそのまま引き継いだような女神ぶりが好い。
 フンディングのアイン・アンガーは阿部寛そっくり、粗暴な若い戦士といった表現だ。そして、今夜のヴォータンはトーマス・J・マイヤー。やや渋くて地味だが、手堅く安定した歌いぶりと演技で主神像を受け持っていた。

 ケント・ナガノの指揮は、今夜もやっぱりテンポが遅い。
 第1幕70分は、演奏時間としては極端に長いものではないが、沈潜した叙情的な個所になると誇張されたテンポになるために、感覚的には全体に遅く聞こえてしまう。そして、第2幕97分、第3幕75分は、どうみても遅いだろう。
 遅いなら遅いでいいのだが、緊迫感が必ずしも充分とは言えぬところに(いくら好きな曲でも!)苛立たしさが時に生じる所以である。

 だがオーケストラの響きは、4列目で聴いている限りではこの上なく美しく、弱音のふくよかさ、弦や木管のあふれんばかりのふくらみ、金管群の豊麗さなどに浸ることができる。
 第1幕大詰め近く、「ヴェルズングの子、ジークムントをごらん!」での木管群の陶酔的な響き、あるいは「ヴォータンの告別」での弦楽器群の夢のような拡がりなど、例を挙げればきりがない。「魔の炎の音楽」の木管の動きも、ワーグナーが本来意図した幻想的な音色はこのようなものだったのではないかと思わせるほどだ。
 ただ繰り返すが、これはこの席の位置で聴いてのこと。1階客席後方で聴いたらどのような音になるかは、分らない。

 ダンスは、第3幕冒頭のシーンで、初めて本格的なものが取り入れられた。
 演奏開始前、20以上の死体(人形)が引っかかっている柱が林立する中に、十数人の女性ダンサーたちが足を踏み鳴らし、髪を振り乱し、かけ声も交え、猛烈にリズミカルで激しいダンスを、音楽なしのまま繰り広げる。
 これは実に4~5分の長さに及ぶもので、その迫力に客席から拍手が起こったが、同時に「もういい加減にせい」と言わんばかりの大きなブーイングや野次、それを制止する叱声まで飛び始め、場内は一時騒然となった。拍手も、「もう結構だ」という意味だったのかもしれない。長すぎてくどいことは確かだったが、「歌手陣では出せない」女戦士たちのイメージを表わすアイディアとしては悪くないダンスだろうと思う。

 それよりも、やっと始まった「ヴァルキューレの騎行」の音楽の最中、歌手の戦士たちが、歌いながら長い手綱のようなものを盛んに床に叩きつけるその音のうるささたるや、音楽を妨害すること甚だしく、そちらの方に余程辟易させられた――ヴァルキューレたちの歌が上手ければまだよかったのかもしれないが。

 この他にも、第1幕のフンディングの家の場面で、十数人の若い女性たちが終始舞台上にいて、いちいちジークムントとジークリンデの「意思を代行し」て見せたり、背景で死体処理が行なわれていたり、第2幕第1場ではグラスを捧げた大勢のウェイターたちがヴォータンとフリッカにかしづき、時には「人間椅子」の役割を務めたりするなど、たいしてやらなくてもいいような余計な人海戦術を展開するのが、このクリーゲンブルク演出の「指環」の特徴のようである。
 その是非は、観る方の好みにもよるだろう。

 私も、第1幕序奏のさなか、荒野でジークムントと敵軍との大立ち回りが行なわれ、それを何とか撃退した彼が疲労困憊してフンディングの家に辿り着くという場面でドラマが開始される手法などは、物語の伏線から言っても悪くないと思う(前述の「死体」はその戦死者だろう)。
 ともあれ、前日の「ラインの黄金」冒頭で現出された「肉風呂」ならぬ「肉大河」に象徴された如く、この演出では歌手たちとは別に「人間の肉体」を最大限に活用し、何か一種の「人間的なもの」を強調しようと試みているのかもしれない。まあ、それに自分が共感できるかどうかは、「指環」全部を見終わったあとの話だ。

 全曲大詰めの「魔の炎」の場面では、中央の台の上に横たわったブリュンヒルデを、十数人のダンサーたち――彼女らがヴァルキューレたちの分身、もしくはその深層心理を具現する存在であったことが意味を持つだろう――が、長い蛇かガス管のようなものを捧げて取り囲み、そこから猛烈な炎を噴出させる(みなさん熱いでしょうねえ)。
 この炎がやがて舞台3方の壁面にシルエットのように反映し、ヴォータンの姿もシルエットとなって浮かび上がって行く光景は、なかなかよかった。

 各35分、45分の休憩を挟み、演奏終了は10時38分(予告では10時15分)。
 最後のカーテンコールには、アンガーとコッホを除く人々が現われていたが、とりわけ圧倒的な拍手と歓声を享けたのは、クラウス・フローリアン・フォークト。次いでアニヤ・カンペ、イレーネ・テオリン、ケント・ナガノ、という感じだったろうか。

7・10(火)ミュンヘン・オペラ・フェスティヴァル ワーグナー:「ラインの黄金」

   バイエルン州立歌劇場  7時30分

 アンドレアス・クリーゲンブルクのこの「指環」演出は、大方の評判はすこぶる良いようである。

 とはいっても実際は――この「ラインの黄金」では、開演前から舞台上には白衣(男の衣装はいわばシャツとステテコみたいな形状だ)の若い男女が数十人、飲んだり食べたり雑談したり、舞台スタッフらと打ち合わせをしたりしながらたむろし、それが突如として全裸に近い姿となって体に青い染料を擦りつけ、舞台一杯に拡がり倒れて絡み合うシーンに変わる。それと同時に演奏が始まる、という仕組である。

 こういった光景は、「モーゼとアロン」などのような近・現代オペラでなら違和感はないが、「ラインの黄金」のような、あの神秘的な序奏の音楽に対しては、およそ不釣合いな舞台でしかない。これで評判がいいかねえ、と、途端に拒否反応に近い心理状態に陥る。しかしその印象も、ドラマが進むにつれ、・・・・。

 その前に、何よりもまず、音楽に敬意を表しておきたい。
 今回入手した席は1階4列目だったが、この位置からは、オーケストラをこの上なく明晰に、しかも柔らかいふくらみのある響きで聴くことができる。「指環」の精緻かつ壮大な音楽を、内声部までクリアに聴き取るのに、これは絶好の位置かもしれない。そして、バイエルン州立歌劇場管弦楽団の、何と音が良く、しかも上手いこと! 

 ただし、ケント・ナガノの今夜の指揮は、異常なほどにテンポが遅い。演奏時間も、おそらく2時間35分くらいか、それ以上かかったのではなかろうか。「ローゲの物語」をはじめ、ピアニッシモや叙情的な個所では流石に美しかったが、このテンポでは少々もたれる。しかも彼のは、「草食系」のワーグナーである。いずれにせよ、今夜ほどこの曲の長さを感じてしまったことは、かつてなかった。

 歌手陣はやや地味ながら、全員手堅く、安定していたのは良かった。ヨハン・ロイター(ヴォータン)、ヴォルフガング・コッホ(アルベリヒ)、ウルリヒ・レス(ミーメ)、ステファン・マルギータ(ローゲ)、ソフィー・コッホ(フリッカ)、キャサリン・ウィン・ロジャース(エルダ)、トルステン・グリュンベル(ファーゾルト)、フィリップ・エンス(ファーフナー)・・・・他といった顔ぶれ。
 特にヴォークリンデ役で出ている中村恵理が、他の2人のラインの乙女とともに素晴しい歌唱を示していたのは嬉しい。

 話は演出に戻る。
 最初のシーンでは、煩わしいねこういう舞台は、と私が思ったのと同時に、私の後ろの女性客が不満そうな唸り声を上げていた。
 ただ、「ラインの川底」の場面で、その絡み合う肉体群が、あたかも河の波のようにうねり、盛り上がり、アルベリヒを揶揄するかのように押し寄せたりしてドラマを彩って行くのを見ているうちに、そういうダンスの使い方も悪くないなと思うようになる。しかもその動きが、音楽の動きと極めてよく合致しているのが好ましく、これで抵抗感も多少は減衰する、というわけだ。

 これなら、同じダンスでも、スカラ座のカシアス演出のような、オペラの登場人物の横でダンサーが終始ウロチョロ踊りまくっている煩わしい舞台よりは余程マシであろうと思う。
 10年以上前に、ゲルギエフとマリインスキー劇場の「指環」が舞台上にダンスを取り入れた時には、ドイツ哲学指向(?)のワグネリアンたちからはクソミソに叩かれたものだが、今ではあちこちの「指環」が堂々とダンスを取り入れる風潮になった。

 このダンサー群は、「山上の場面」になると、舞台後方に後向きに整列し、あたかもヴァルハルの城壁か何かを連想させるような形状になる。あのラ・フラ・デルス・バウス演出のようなアクロバット的壮大さはないとはいえ、人間の肉体というものをオブジェとして扱う手法として、これはこれで一つの考え方だろう。

 もっとも、巨人ファーフナーとファーゾルトが乗って出て来る巨大なサイコロの如き正方形の物体が、その2人と全く同じ顔、同じ服装の者たちを、フログネル公園の人体群彫像をもっとグロテスクに押し固めたような形状をしていて、これは何とも不気味極まるものだ。
 これは、一将功成って万骨枯る――とでもいうか、ヴァルハル城建設に際し如何に多くの巨人たち(労働者)が犠牲になっていたかを暗示しているようにも見える。この巨大な正方形物体を力一杯(キャスターが付いていないので、御苦労様だ)あちこち押して回る「黒子」も、実は巨人たちと同じ服装をしているので、ファーフナーたちに従う――つまり報酬の恩恵に授かることもない――奴隷的な存在と解釈することも可能なのだろう。

 奴隷といえば、ニーベルハイムの場面では背景に重労働に従事するニーベルンゲン族の姿が終始見えているが、その中の「疲れて死んだ者」たちが穴に蹴落とされ、たちどころに火葬にされるという光景もある。
 何ともどぎつく、胸の悪くなるような場面ではあるが、演出意図の一環としては、充分に理解できるものだろう。

 なおラストシーンでは、例のダンサーたちによる「ライン河」が舞台前面に展開し、ラインの乙女たちも舞台上で歌う。何かごちゃごちゃした場面で、これはどうもあまりピンと来ない光景だ。
 ところでこの「ダンサーたち」は、言っちゃ何だが、その体つきから見て、必ずしも専門のバレエ・ダンサーではないらしい。公式プログラムには河に寝そべる「普通の」ヌーディスト軍団みたいな写真が載っていたが、舞台上でそれを見せつけられなかったのは幸いでもあった。

 各キャラクターの演技について記録すれば長くなる。クリーゲンブルクの演出はかなり細かい方に属するだろう。人物の動きにも活力が感じられて好ましい。
 ファーゾルトが殺されたあとのフライアの絶望ぶりを強く描くのは別に珍しい演出ではないが、ファーフナーが彼を殺す時に、ローゲから手渡された仕込杖の刃物で刺殺するという解釈は、ローゲの悪辣ぶりを暗示する点で、面白い。
 またエルダから「神々の終焉」を予言されたヴォータンの衝撃が一般の演出よりも非常に強く描かれているのも、このあとの物語の伏線として、いいアイディアであろう。幕切れでローゲが神々を揶揄する独白をヴォータンが聞き咎め、怒りを爆発しかけるのを、ドンナーにより制止される――という解釈の演出も行われている。

 演奏終了は10時17分。

7・9(月) 取材旅行予告

 ミュンヘン(バイエルン州立歌劇場)の「指環」(第2ツィクルス)取材のため、1週間ほど東京を留守に致します。
 

7・7(土)第8回イマジン七夕コンサート2012歌の饗宴

   サントリーホール  6時

 続いてサントリーホールへ赴く。
 こちらはコンサートイマジン主催による七夕ガラ・コンサートで、今回はオペラだ。

 出演者が多彩を極めており、3テナーズ(中鉢聡、オトカール・クレイン、タンゼル・アクゼイベック)+1ソプラノ(中嶋彰子)の声楽陣に、ヴァイオリンが奥村愛・西江辰郎、ピアノが山田武彦・森相佳子・小柳美奈子、それに須川展也・彦坂眞一郎らのトルヴェール・クヮルテットも加わるといった顔ぶれ。オペラからイタリア民謡まで、概してイタリア系の名曲が演奏されていた。

 盛り沢山のプログラムのため、第1部だけでも1時間半を要した。仕事の都合でそこまでを聴いて失礼したが、あの分では優に3時間を超したのでは? 
 第1部はオペラのアリアや二重唱が中心だった。3人のテナーも健闘していたが、貫禄と安定感とパワーで光っていたのは、やはり中嶋彰子である。「ジャンニ・スキッキ」「ラ・ボエーム」「トスカ」「メリー・ウィドウ」「蝶々夫人」などからのアリアや重唱を歌い、メロディの美しさを聴き手にはっきりと印象づけるという点で際立っていた。

 惜しむらくは、山田武彦のピアノの音量があまりに控え目に過ぎ、歌とのハーモニーを形成していなかったこと、しかも「トスカ」でヒロインを脅かす低音域の「スカルピアの動機」などがほとんど聞こえず、オペラのアリアや重唱としての劇的な面白さを半減させていたことだ。オペラの伴奏という点では、森相佳子の方が上だったようである。

7・7(土)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

   すみだトリフォニーホール  2時

 トリフォニー定期の2日目で、シューベルトの「未完成交響曲」に、R・シュトラウスの「英雄の生涯」。

 ハーディングは、再びいつものようなオーソドックスなストレート路線に戻った。
 「未完成」など、もう少し何か新機軸を試みても良さそうなものだと思うのだが・・・・日本のオケを指揮して永く愛されるためには、ドイツ・カンマーフィル相手の時のようなあざとい(?)読み込みや解釈をやらぬ方が安全だ、とかなんとか、誰かに入れ知恵でもされているのだろうか? 

 レパートリーによって指揮(演奏)スタイルを変化させるのは誰でも多かれ少なかれやっている方法ではあるが、これまで随分たくさん聴いたハーディングと新日本フィルの演奏は、どんなレパートリーにおいても、マットウなスタイルだ。
 マットウがいけないというのではない。だが、ハーディングといえば、かつては怖いもの知らずの冒険児として異名(?)をはせた指揮者だったではないか? まだ37歳、今からあまり納まりかえってしまっては困る。

 と言って、今日の演奏が悪かったわけでは決してない。「英雄の生涯」も、なかなかに豪壮なものだった。
 崔文沫コンマスのソロは、「英雄の伴侶」としてのコケットな女性像を描くよりもむしろコンチェルト的な名技の披露に偏っていたように感じられたが、華麗さは充分に備わっている。ホルン軍団もどうやら復調したようである。
 「英雄の引退」に入ってから終結にかけてのオーケストラ――特に管楽器群には、均衡と調和の美が備わっていた、と讃辞を贈ってもいいだろう。

7・4(水)外山雄三の世界 NHK交響楽団

    サントリーホール  7時

 昨年傘寿を迎えた外山雄三のスペシャル。これはN響とNHKの主催。

 前半に広上淳一の指揮で、「ノールショピング交響楽団のためのプレリュード」、「ピアノ協奏曲」(ソロは中村紘子)、「管弦楽のためのラプソディー」。後半に作曲者自身の指揮で交響曲「帰国」というプログラム。
 多くは日本の民謡もしくは民族音楽に立脚点を置いた作品で、外山雄三の作風の一つの側面を如実に示すものだ。

 進行役に檀ふみ、トーク・ゲストにダジャレ連発の池辺晋一郎。この2人に外山、中村を加えたトーク・コーナーでは、1960年にN響が欧州旅行を実施した時の映像も紹介され、客席もこの時だけは堅苦しさから解放されていた。

7・1(日)軽井沢のダニエル・ハーディングと新日本フィル

     軽井沢大賀ホール  正午(記者会見) 4時(演奏会)

 ハーディングの軽井沢大賀ホール芸術監督就任記者会見を取材かたがた、このホールでの演奏をも聴いてみる。
 今日演奏されたのは、ヴェルディの「運命の力」序曲、ワーグナーの「タンホイザー」からの「序曲とヴェヌスベルクの音楽」、ベートーヴェンの「第7交響曲」、アンコールとしてエルガーの「エニグマ変奏曲」からの「ニムロッド」。

 軽井沢駅北口から徒歩7~8分、矢ケ崎公園に隣接する大賀ホール――ロビーから望む自然の光景の快さでは、札幌コンサートホール、びわ湖ホールと肩を並べるだろう。内部も木目調で、大変美しい。
 ここを訪れたのは、開場以来、実に8年ぶりのことだ。久しぶりに音響を聴くと、当時に比べ音が柔らかくなり、潤いが感じられるようになった。多くのホールと同様、建材がなじみ、「音の鳴りが良く」なったということだろう。

 但しこの会場は客席数800弱、五角形のセミ・アリーナ型構造というのか、正面客席は15列のスペースに止まるので、イメージとしてはやはり室内楽、ソロ、ピリオド楽器オーケストラ、せいぜい室内管弦楽団までの編成に適したホールと言えるだろう。
 大オーケストラも舞台には乗ることは乗るが、ワーグナーやブルックナーやマーラーをやるのは、響きの空間的な拡がりの点からみても、チト無理だ。

 と言っても、今日はそのワーグナーがプロに入っていた。一昨日のサントリーホールでは弦16型でやっていたが、さすがに今日は14型に減らしていた。
 なにしろクライマックスでは物凄い音量を出す「ヴェヌスベルクの音楽(バッカナール)」である。リハーサルの時にも、ハーディングが最強奏の個所をちょっと音出しして、「誰か聞いてる? 大丈夫かねェ」と、天井を見たり、客席を振り向いたりして笑っていたくらいである。
 しかし、本番では、悪くなかった。オケの音が少し抑制されていたのかもしれず、また客席が立錐の余地もないほど埋まっていたため「音が吸われた」所為もあろうが、予想していたよりもバランスは良く、「耳を聾する」こともなく、聴きやすかったのは事実であった。

 今日の演奏の中で最も印象的だったのは、「ニムロッド」だ。
 一昨日のエルガーの交響曲でも、ハーディングはこんなにも美しい叙情感をつくるのか、と驚かされたものである。だがこの「ニムロッド」の場合には、同じ叙情性でも、この曲の演奏によくある流麗壮大な美しさとは違う。
 彼はここで、弦よりも木管の動きを浮き立たせ、その管の低音域を強調して通奏低音のような重心を設定、クレッシェンドもフレーズごとに楽器群のバランスを変えつつ、ゴツゴツしたつくりで盛り上げて行くという、風変わりなスタイルを採った。
 こうなると、一種の強面で怪奇な美しさを備えた「ニムロッド」になる。この曲にはこんな側面もあったのか、と驚かされ、面白く思った次第だ。

 新日本フィルを指揮する時には、彼の本来の持ち味であるユニークな、先鋭的な尖った指揮をほとんど出さなかったハーディングだが、この曲の演奏でやっとその本性を現わした、と言っていいかもしれない。

 今日の軽井沢は、雨と霧に包まれていた。記者会見でハーディングは「これこそイギリスの天候と同じ。素敵です」と取材陣を笑わせていた。
 「親交のあったミスター大賀の、軽井沢を日本のザルツブルクに、という夢を実現できれば」と語りつつも、「具体的なことはこれから」と明言を避けたハーディングだったが、しかし彼がこの「大賀ホール」の規模について、「小さいなりに、聴衆にとって演奏家が身近に感じられる長所もある」と認識し、そのホールの個性を最大限に生かすつもりだと明確に述べたことには好感が持てる。

 ホールの芸術監督としては「自分の知識、経験、人脈を最大限に役立たせたい」と語る。そして、「夏の1、2週間だけ開催する音楽祭のようなものにこだわらず、まず年間を通してのコンセプトを重視する」と述べ、「東京の(音楽界の)コピーにはしたくない」とも言う。
 こういう抱負をハーディングが、ほかならぬこの軽井沢の現場で――窓外に緑と雨と霧があふれる、木目調の壁と床も美しいホワイエで明るく話すのを聞いていると、何だかその夢が既に現実のものに感じられ、胸が躍るような気分になってしまうから不思議である。

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