2017-03

6・29(金)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時15分

 「タンホイザー」の「序曲とヴェヌスベルクの音楽」に、エルガーの「第2交響曲」というのが今夜のプログラム。

 前者は予想通り、毒気を全て抜き去った「あっさり味」の演奏で、テンポを抑制した序曲部分でも、音響的に盛り上げた「バッカナール」でも、官能などという性格からは遠い音楽をつくる。
 まあ、アルミンクのワーグナーもそうだが、当節ではこういうタイプのワーグナーは、珍しいものではない。

 エルガーの作品を指揮するハーディング聴いたのは、私は今回が初めてだ。同国人の作品ということもあってか、こちらはもう少し作品への「のめり込み」のようなものも聞き取れる。
 第2楽章のように叙情的な個所では、あのハーディングでもこんなにカンタービレを利かせた音楽をつくることもあるのかと、ちょっと驚いたり、感心したり。第1楽章真ん中あたりの幻想的な曲想が織り成される個所でも、極めて精妙に、ミステリアスな雰囲気を溢れさせていた。

 その一方、最強奏の個所になると、おしなべて音が厚ぼったくなり、混濁してしまい、力任せになって、何かエルガーらしからぬ表情になることがある。これは、新日本フィルの現在の状態と関連があるのかもしれないが・・・・。
 しかし新日本フィル、今日はホルンも復調していて、祝着。コンサートマスター席には豊嶋泰嗣が座り、弦楽器群の威力も充分。

6・28(木)レオシュ・スワロフスキー指揮スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団  

    サントリーホール  7時

 昨日と同じオーケストラを、今度は常任客演指揮者のレオシュ・スワロフスキーの指揮で聴いてみる。同オケの今回の日本公演で彼が振るのは、今夜が初めて。残り2回の公演も彼が指揮する。
 プログラムは、スメタナの「売られた花嫁」序曲、ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」(ソロはガブリエル・リプキン)と「第8交響曲」、アンコールとして同「スラヴ舞曲」の「作品72の7」と「46の1」。

 1曲目が始まった途端に、前夜とはオーケストラのアンサンブルや音色がガラリ一変しているのに驚いたり、やっぱりそうだろうなと思ったり。
 響きが緻密になり、均衡が備わり、指揮者がオケを完全に掌握しているのが明確に解る。音楽づくりも老練で要を得ている。その点では、当然ながら若い三ツ橋敬子とは格段の差がある。

 ただ、贔屓目ではないけれども、スリル感や解放感、オーケストラの自由で生き生きした感興――といった点では、前夜の、彼女が指揮した演奏の方が遥かに面白かったな、という気もしたのであった。
 老練スワロフスキーの指揮は、破綻のない立派なものであることは確かなのだが、些か真面目できちんとしていて、渋いのである――特に「売られた花嫁」序曲では。

 「第8交響曲」では、もう少し面白くなった。第2楽章までは未ださっきと同様な感触を得たが、第3楽章からは、音楽に温かい情感が溢れ始めた。このアレグレットは、すこぶる艶やかな演奏だった。
 フィナーレは――この楽章は、あの「ドライ・ボーンズ」みたいな個所をはじめ、何度聴いても可笑しな曲だが、今夜の演奏もリズミカルで痛快で勢いもあって、愉しめた。スワロフスキーはかなり精密に音のバランスをつくっており、第4楽章【D】のソロ・フルートの背後でフォルテピアノからピアニッシモに消えて行くトランペットの絶妙な音量、あるいは【N】でチェロの背後に音を刻む2番ファゴットの明確な響き、また【O】での第1ヴァイオリンとチェロ&コントラバスの声部の美しい対比など、作曲者の筆致の巧さを再認識させてくれる演奏を聴かせてくれたのである。

 「作品72の7」でも、急速なコロ舞曲における主題の浮き沈みや音色の明暗の変化の妙、木管の精妙なバランスなど、いや巧いの何の、お見事。
 「46の1」冒頭で弦の主題よりも管を強く出す解釈にはちょっと驚いたが、これは以前ソヒエフがトゥールーズと来た時にもやっていた手だ――あの時は「やり過ぎか、洒落か?」と思ったが、スロヴァキアのオーケストラまでがそんなことをやるとは、意外だった。

 コンチェルト。
 リプキンは例の如く個性的なソロで、荒々しく奔放な表情も交え、しばしば極度に遅く誇張したテンポを採って、この協奏曲を時に解体の一歩手前まで追いつめて行く。それは非常に興味深いが、一面煩わしく感じられることもある。
 スワロフスキーは、その面妖なテンポにも、よく合わせていた。演奏終了後、楽員の半数近くがソリストへの拍手に参加していなかったが、その理由にまで言及するのは控えよう。
 リプキンは、アンコールにはリゲティの「無伴奏ソナタ」からの猛烈な「カプリッチョ」を弾いたが、こういう作品は流石に堂に入っている。

 なお、この協奏曲の演奏で、木管がしばしば強く浮き出て、時にはソリストの音を掻き消すほどになり――つまりそこは「聞き慣れない曲になる」。こういうケースは前夜の演奏でも何度か聞かれたので、特にスワロフスキーの癖というわけではないらしいが・・・・オーケストラの癖なのか? ちょっと変わっている。

 前夜も今夜も、客席は満杯に近い。若い聴衆が多かった。

6・27(水)三ツ橋敬子指揮スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団

    サントリーホール  7時

 19日から日本各地での公演を行なっていた三ツ橋敬子とスロヴァキア・フィルが、やっと東京に登場した。そして今夜が、彼女が指揮する公演の最終日でもある。

 スロヴァキア・フィル――1990年代にオンドレイ・レナルドが首席指揮者を務めたあとはシェフが頻々と替わり、現在は確かエマニュエル・ヴィヨームがシェフだと聞いているが――プログラムには記載されていない。
 とにかく聴いた感じでは、これは、良い意味での鄙びたローカルな味を未だに残しているオーケストラである。アンサンブルにも技術にも、多少大らかではあるけれども素朴な良さがあり、何か人間のぬくもりのようなものを感じさせる。こういうオーケストラは、今では貴重な存在になった。出来得れば、この味をずっと残しておいて貰いたいものだが・・・・。

 三ツ橋敬子が指揮した今夜のプログラムは、スメタナの「モルダウ」、ドヴォルジャークの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはエリック・シューマン)と「新世界交響曲」、アンコールは同「スラヴ舞曲 作品72-2」であった。

 これらの演奏を聴いた印象では、概して彼女としては、プログラムがボヘミアのものであるだけに、若い客演指揮者として敬意を払いつつ(あるいは多少の遠慮をしつつ)、オケの個性を尊重して指揮したのでは、とも感じられる。
 だが、メリハリの強いリズム感や、剛直に構築されたハーモニー、ここぞという個所でぐっと力感を増して行く押しの強さなどは、紛れもなく彼女のものだったと思われる。

 ただ「新世界交響曲」では、第1楽章の序奏をはじめ、いくつかの主題の扱いでテンポをかなり抑制した部分があって、――しかもそれがやや無理に抑え込んだテンポという感がなくもなく、結果として部分的に音楽の緊迫感を失わせたり、全曲を些か「重い」イメージにしてしまったりしたとも感じられたのだが、――どうであろう。

 コンチェルトでソロを弾いたエリック・シューマンは、フレッシュな爽やかさの、清涼なドヴォルジャーク像。オケが醸し出す味とは個性を異にするが、これはこれでいいだろう。アンコールにはバッハの「無伴奏ソナタ第2番」の第3楽章を弾いたが、自ら流暢な日本語でこれを紹介していた。

6・24(日)下野竜也指揮読売日本交響楽団~コリリアーノとHKグルーバー~

    横浜みなとみらいホール  2時

 夏風邪にやられたらしく、昨日は悪寒が酷くて「小山実稚恵リサイタル」と「林美智子の90分のコジ」の2本を、棒に振った。残念だ。
 今日も具合は良くなかったのだが、少し持ち直したので、強引に出かけてみる。たしかに、聴いている間は身体の調子のことなど忘れていたし、帰宅して熱を計ってみたら、出かける前より下がっていた。音楽療法、まずは成功か。

 「療法」にふさわしいかどうかは怪しいけれども、プログラムは珍しい。ジョン・コリリアーノの「音楽に寄せて」とヴァイオリン協奏曲「レッド・ヴァイオリン」(いずれも日本初演)、HK(ハインツ・カール)グルーバーの「フランケンシュタイン!!」の3曲。・・・・「名曲シリーズ」には、少し酷か? 
 本番前には、この演奏会のため来日したというコリリアーノ自身が、かなり詳細な作品解説を行なった。

 「音楽に寄せて」は、シューベルトの同名の歌曲に因む小品(6分程度)で、私にはさほど興味を惹かれる曲でもなかったが、「レッド・ヴァイオリン」の方は、なかなかに多彩で、愉しく感じられた。
 元となっている映画は、楽器製作者が妻の遺体の血を塗料に混ぜて赤い色に染めたヴァイオリンが300年にわたって数奇な運命を辿るとかいう物語だったか? その後ヴァイオリン協奏曲に仕上げられたこの版は、もちろん私は今回初めてナマで聴くものである。

 ソロ・ヴァイオリンの超絶的技巧、管弦楽が繰り広げる千変万化の音色、ソロとテュッティの壮烈な(協奏というより)競奏・応酬・激闘ともいうべきやり取りなど、実に華麗な曲だ。
 40分近いこの長大な作品を、ソリストのララ・セント・ジョンという女性が、極めて激しく情熱的に弾く。この人、写真とはだいぶ違うイメージだが、舞台で弾く姿はきっぷのいいオバサンという感じで、迫力もあるし、威勢がいい。
 下野と読響が、ここでも全曲を巧く構築した。客席で聴いていた作曲者も、これなら満足しただろう。

 後半の「フランケンシュタイン!!」は、「シャンソニエ」という役割を持った宮本益光の、洒落っ気たっぷり、ナレーションとも歌ともつかぬ語り(英語、字幕あり)を交えた30分ほどの作品だ。
 内容は、あの「フランケンシュタイン」の物語とは直接の関係はなく、さまざまなエピソードを織り込んだ一種の詩集みたいなものである。

 それにしても、宮本益光は、本当に多芸多才な人である! 演劇俳優というか、音楽噺家というか。お見事。
 管弦楽パートにはさほどの新味は感じられないけれども、楽員たちは、プラスチックホースを振り回したり、十字架を掲げたり、ハモったりと、これまたいろいろお芝居を見せる。

 下野の事前の解説によれば、この「フランケンシュタイン!!」のスコアには、「演奏者はいかなることがあっても笑い顔を見せてはならぬ」という但し書きがついているとのこと。
 本番では、下野と宮本が、物凄い顔をして、物々しい足取りで舞台中央に進み出た・・・・。
 

6・22(金)アルベルト・ゼッダ指揮東京フィルハーモニー交響楽団

    サントリーホール  7時

 パーセルの「アブデラザール」組曲(7曲)、ケルビーニの「交響曲ニ長調」、ベリオの「フォーク・ソングズ」――という、日本のオケの定期としては世にも珍しい選曲があって、最後がメンデルスゾーンの交響曲「イタリア」で締められるというプログラム。

 ヘンリー・パーセルの「アブデラザール」など、その中の1曲をブリテンがあの「青少年のための管弦楽入門」の別名で知られる「パーセルの主題による変奏曲とフーガ」に使っていることは承知していたけれども、組曲(の大半)をナマで聴けたのは、私は今回が初めてだった。6・5・4・3・2の小編成の弦楽合奏による今回の演奏は、大らかなものだったが、なかなか好い味を出している。

 ケルビーニの交響曲も珍しい。これもナマで聴くと、管弦楽法が結構緻密に出来ていることが判って愉しいものだ。第4楽章のアタマは、何かの曲に似ているが、まだ思い出せない。

 ベリオの「フォーク・ソングズ」は、アメリカやフランス、イタリアの歌だけでなくアルメニア、アゼルバイジャンなどの歌の編曲も含まれて、計11曲。ベリオらしく一捻りしたオーケストレーションをバックに、しかも各国語で歌い分けるのだから、歌手としてはなかなか大変だろう。富岡明子(Ms)がふくよかな声で歌っていた。

 こういう曲のあとに華々しく「イタリア交響曲」が始まると、いっぺんに開放的な雰囲気がホール全体に溢れる。効果的だ。それがすなわち、プログラミングの巧妙さ、醍醐味というものだろう。
 ゼッダの指揮は、精密なアンサンブルを求めるタイプではないが、全曲における緊密なバランスづくりや、ここぞという個所で巧みな盛り上がりを利かせて見せる術などには、すこぶる卓越したものがある。音楽に人間的なぬくもりを常に感じさせるのも、彼ゼッダの魅力だ。 
 フィナーレは、驚くほどたくましい力感と緊迫感に富んでいた。それはアンコールで繰り返された。

 東京フィル定期のプログラムに掲載されている野本由紀夫氏の解説は、詳細で、教えられるところも多い。「アブデラザール」の原作が英国の女流作家アフラ・ベーンによる悲劇であることに関し、夏目漱石の「三四郎」をも引き合いに出すあたり、面白い。聴衆にこの曲を、より親しみやすいものに感じさせたかもしれない。

 「アフラ、ベーンなら僕も讀んだ」
 廣田先生の此一言には三四郎も驚いた。
 「驚いたな。先生は何でも人の讀まないものを讀む癖がある」と與次郎が云った。
                         ――「三四郎」第4章

6・20(水)エド・デ・ワールト指揮ロイヤル・フランダース・フィルハーモニー

    すみだトリフォニーホール  7時

 ベルギーはフランダースのアントワープに本拠を置くオーケストラ、昨秋から首席指揮者に就任しているエド・デ・ワールトに率いられて来日。エルガーの「チェロ協奏曲」とマーラーの第1交響曲「巨人」をプログラムに乗せた。

 エド・デ・ワールト(1941年生)は、どちらかというと地味な存在の名指揮者だが、私は好きなタイプだ。特にマーラーは、以前オランダ放送フィルを指揮した全集のCDが絶品で、誠実で人間味に溢れ、しかも強靭な力を備えた演奏だったと記憶している。

 予想通り、今日の「巨人」は良かった。これほど自然な起伏と感興をたたえ、しかも味のある「巨人」の演奏は、滅多に聴けるものではあるまい。
 第1楽章最後の頂点に盛り上がる個所における音楽の自然な流れは快いものだったし、第2楽章での主題の流れの良さにも舌を巻くばかり。第3楽章のあのカノン風の民謡調の主題が、これほど瑞々しくて好いフシだと思えたのは今日が初めてである・・・・。第4楽章における激烈なダイナミックスの対比さえも、大波のごとく自然な起伏を以って構成されているのが面白い。

 こういう、躁鬱症的でないマーラー像、という解釈も面白い。何かホッとする気分に誘われるような演奏である。大見得切った刺激的な演奏ではないので、あまり話題にならないタイプかもしれないが・・・・。

 オーケストラも、強大なホルン群をはじめ、すこぶる力がある。以前ヘレヴェッヘと来日してブルックナーを聴かせた時とは、当然ながらまったく別の顔を示している。

 エルガーの方は、英国の中堅ポール・ワトキンスが来てソロを弾いた(この人は指揮者としても活動、4年ほど前に東京都響を指揮しに来たとのことだが、私は聴いていなかった)。よく響く明晰な、ふくらみと張りのある音を聴かせるチェロだ。デ・ワールトとフランダース・フィルの優しい演奏とともに、たっぷりと「エルガーの情感」を溢れさせてくれた。

6・19(火)ペーター・ダイクストラ指揮スウェーデン放送合唱団

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 首席指揮者ペーター・ダイクストラに率いられて2年ぶり来日。メンバーは前回より1人ずつ減って、男声17人、女声16人の編成で登場。
 プログラムは第1部でヤン・サンドストレムの「ヘラジカの歌」と「山風の歌」、マントゥヤルヴィの「太陽」と「北極星」、アルヴェーンの「夕べ」と「そして乙女は輪になって踊る」、ヴィカンデルの「春の夕べ」。第2部ではラフマニノフの「晩祷」第1~9曲――というもの。

 多彩な音色の素晴らしさ、各声部の完璧な均衡の見事さ。本当の合唱とは、こういうものを謂うのだろう。
 「北極星」や「夕べ」における秘めやかな最弱音の美しさもさることながら、それが遠く奥深く、エコーのような響きになって空間に拡がり、消えて行くという幻想的な効果を以って歌われるのには、本当に感服した。これらが少しの揺れも乱れもなく歌われて行くのだから、いつもながら凄い合唱団である。

 ラフマニノフの「晩祷」は、ダイクストラが前回の来日時から「次はこれ」と決めていたプログラムだとのこと。
 先日聴いたカペラ・サンクトペテルブルクのようなロシアの合唱団が醸し出す民族色といったものはないけれども、いちぶの隙もなく構築された、洗練された祈りの音楽というイメージで、また異なるタイプの深い感動を与えてくれる。

 3曲歌われたアンコール曲のうち、武満徹編曲になる「さくら」の豊潤なエコーのような音色も大拍手を浴びた。
 台風4号来襲のさなかにもかかわらず、客席はよく埋まっていた。

6・18(月)大野和士指揮東京都交響楽団&庄司紗矢香

   サントリーホール  7時

 シェーンベルクの「浄められた夜」、シマノフスキの「ヴァイオリン協奏曲第1番」、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」というプログラム。
 快調な3者が一堂に会せばこのような演奏会になる、という実例。

 何と言っても圧巻は、シマノフスキであった。
 庄司の強靭な求心性、寸分の隙もない構築力、多彩な音色――そうした形容も物足りないほど卓越したソロが縦横に躍動する。これを囲む大野と都響が、また実に色彩的な音を出す。大編成のオーケストラを轟くばかりに鳴らしつつも、庄司のソロを些かもかき消すことなく明晰に浮かび上がらせる大野の巧みな指揮には、舌を巻いてしまう。

 「浄められた夜」も今回は弦14型、この曲としてはかなり大きな編成で演奏されたが、都響の弦の艶やかな音色と量感は素晴らしく、それを大野がここぞとばかりに歌わせる。こういう後期ロマン派的な、むせ返るような官能的色彩で押したタイプの演奏の「浄夜」が好きな私には、これは至福の30分間だ。

 しかし、これら2曲を、このような濃厚な演奏で聴いてしまうと、たとえ休憩を挟んだあとであっても、「管弦楽のための協奏曲」が如何に精緻精妙に演奏されようと、些か美食に飽いたという感になってしまうのは、最近の私のスタミナ不足ゆえだろう・・・・演奏者には申し訳ない限りだが。
 それにしても、大野と都響の演奏のニュアンスの細かさには感服させられる(ま、第1楽章の最後はちょっと、というところもあったが、そんなことは取るに足りないことだ)。

 今月は、10日ほど前のコチシュと東京響の演奏と併せ、良い演奏の「オケコン」を2つも聴けて幸せだった。

6・17(日)サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン フィナーレ

    サントリーホール ブルーローズ  1時30分

 ヘンシェル・クァルテットのツィクルス(昨日まで)をはじめ、6月2日からさまざまな室内楽の演奏会が開催されて来た「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン」、今日は最終日とあって、3時間近くに及ぶプログラムが組まれた。

 前半はサントリーホール室内楽アカデミーのメンバーを中心に、デュオ・リノスによるベートーヴェンの「スプリング・ソナタ」と、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第14番K.449」が演奏される。
 後者での「CMGアンサンブル」なるオーケストラは、今日は弦楽器のみの編成だった(オーボエとホルンは無くてもいいという作曲者の指定になっている)が、クァルテット・エクセルシオのメンバーが参加しているにもかかわらず、単に譜面をなぞっているような平板な演奏に終始。いっそ管楽器が参加していれば、もう少し表情のある演奏になったのかなあ、と、不満を募らせながら聞いていた。
 ピアノのソロと指揮は、若林顕。

 演奏会にプロフェッショナルな充実感が出て来たのは、漸く後半になってからである。
 まずブラームスの「弦楽六重奏曲第1番」が、ヘンシェル・クァルテットに、ヴィオラの吉田有紀子(クァルテット・エクセルシオ)およびチェロの堤剛が加わって演奏されたが、この日本勢2人が「おいしい」パートを受け持っていたこともあり、面白さが倍増する。

 この曲の第2楽章は、私の世代だと、どうしてもあのルイ・マル監督の映画「恋人たち」の愛の場面に延々と流れ続けていたこの曲の陶酔的な呪縛から、未だに逃れられないものがある。今日は演奏が良かったこともあって、充分にそういった感情に浸らせてもらった次第。
 なお今日は、このクァルテットは、クリストフ・ヘンシェルに替わってダニエル・ベルが第1ヴァイオリンを受け持っていた。

 最後のプログラムは、ヘンシェル・クァルテットとクァルテット・エクセルシオが一緒に演奏するメンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」。
 開始前に、チェロ2人が先にステージに座り、他のメンバー6人がボッケリーニの「マドリードの帰営」を演奏しながら客席を行進して来るという洒落た趣向で聴衆を愉しませる。

 かくて大拍手の裡に始まった「弦楽八重奏曲」では、同じくダニエル・ベルがリーダーをつとめて鮮やかな演奏を繰り広げた。ほとんどコンチェルトのソロといった力量を要求されるこの曲の第1ヴァイオリンのパートだから、ヘンシェルよりも彼の方が安定感において勝ると言えるかもしれない。
 西野ゆかをリーダーとするクァルテット・エクセルシオも、ヘンシェル・クァルテットに一歩も譲らず、いい演奏をした。ソリスト同士が集まっての演奏だと、必ず「オレがオレが」と言わんばかりの熱戦になるこの曲だが(それはそれで痛快だが)、今日はさすがにクァルテット同士、アイ・コンタクトで心を通わせた室内楽としての、まとまりの良い演奏が成立していたのであった。

6・16(土)ヘンシェル・クァルテットのベートーヴェンの弦楽四重奏曲サイクル

   サントリーホール ブルーローズ  7時

 5回にわたり開催されて来たヘンシェル・クァルテットのベートーヴェンの弦楽四重奏曲サイクル、最終回の今夜は、「第3番」に始まり、「第7番《ラズモフスキー第1番》」と続き、「第14番」で閉じられた。

 初期、中期、後期の作品からそれぞれ選んで一夜を構成するというのが今回の彼らの巧みなプログラミングだが、これは演奏会として聴くと、非常に強いインパクトがある。
 今夜の3曲だけ聴いても、ベートーヴェンの作風のダイナミックな変化と、おのおのが持つ並外れた巨大な気宇には、文字通り圧倒されるのではなかろうか。

 第1ヴァイオリンのクリストフ・ヘンシェルの音が時折雑になるという欠点があるのは事実だが、弦楽四重奏団としての音楽を聴いてみれば、やはり優れた団体の一つであることに間違いはない。
 彼らの演奏には、強い推進性と集中性、白熱した瑞々しさといったものが備わっていて、今夜の作品の中では、「第3番」の第2楽章以降と、「ラズモフスキー第1番」の後半とに、それが最も良い形であふれ出ていた。

 ただ、ベートーヴェン晩年の巨大で深遠な「作品131」となると、いかに彼らの若々しい気魄と雖も、その魔窟の牙城への攻略は未だ及ばぬ、という感は否めまい。それは、かのブダペスト四重奏団やスメタナ四重奏団でさえ、年輪を積まなくては出来なかったものなのだ。ヘンシェル・クァルテットがそれに成功する日を、楽しみに待とう。

6・15(金)ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 グラズノフの組曲「中世より」から4曲、樫本大進のソロでベートーヴェンの「ロマンス第2番」とチャイコフスキーの「憂鬱なセレナーデ」「ワルツ・スケルツォ」「メロディ(「懐かしい土地の思い出」より)」、「白鳥の湖」抜粋――という、ちょっと変ったプログラムが興味を惹く。

 今夜、このホールの2階正面上手側の席で聴いたこのオーケストラの音は、総体的にかなり重々しく感じられた。以前はもっと引き締まった、いかにもニュー・ロシアのイメージを思わせる、洗練された颯爽たるサウンドを誇っていたプレトニョフとロシア・ナショナル管だったのに・・・・プレトニョフ自身も変貌していることは明らかだ。

 それに、最弱音では陰翳豊かでふくよかな美しさを聴かせる(これは、昔より良くなった)が、最強奏になると、天地鳴動、そのかみのコンスタンチン・イワノフもかくやの荒っぽい音を出す。
 不思議なほどの両極端だが、思い出してみると、プレトニョフの演奏には、ピアノにせよ指揮にせよ、これまでにもそういう双極性が時々聞かれたような気がする。

 グラズノフの作品が暗い音調の裡に終って、ゲスト・ソリストの樫本大進を加えた数曲が明るい叙情を聞かせてくれるかと思いきや、「ロマンス」が「グラーヴェ」と言った方がいいほどの遅いテンポと沈潜した情感で演奏され、次いで「憂鬱なセレナーデ」が「沈鬱なセレナーデ」になって演奏され、気分的に落ち込む。
 しかし、この4曲での樫本も、オケも、演奏は極めて美しい。

 「白鳥の湖」の音楽を演奏会で聴く機会は、最近では滅多にないだろう。
 今回は、プレトニョフが選んだ12曲、「導入曲」から最後の「嵐」とフィナーレまで、ほぼ幕順に沿って40分間、独自の組曲としてまとめられていた。さすが個性派の彼の構成だけあって、一般に知られる「組曲」にある「ワルツ」も「チャールダシュ」も「4羽の白鳥の踊り」も出て来ない。
 ハープの華麗なソロなどは愉しく聴けたが、最後のダイナミックなクライマックスは、ホールも崩れ落ちんばかりの打楽器群の怒号で、こういう力任せの荒っぽい演奏は、私は苦手だ。
 アンコールでの「眠りの森の美女」の「ワルツ」が、漸く中庸を得た演奏に。

6・14(木)飯守泰次郎指揮関西フィルハーモニー管弦楽団
ワーグナー:「ヴァルキューレ」第3幕 演奏会形式上演

    ザ・シンフォニーホール  7時

 日曜日に「オランダ人」全曲を振り終ったばかりのマエストロ飯守、今度は大阪に現われて「ヴァルキューレ」。
 これは、飯守と関西フィルとの「ワーグナー演奏会形式上演シリーズ」の一環である。これまでに「ヴァルキューレ」第1幕(09年3月)、「トリスタンとイゾルデ」第2幕(10年7月)、「ジークフリート」第1幕(11年5月)と続いて来たが、どれも聴き応えのある演奏であった。

 飯守泰次郎が指揮した「ヴァルキューレ」全曲の方は、これまでに何度も聴いた。最初は1972年の二期会公演。次が2001年の東京シティ・フィル公演、それから08年の東京二期会公演。
 第3幕のみの演奏会形式では、09年9月の東京フィルとの演奏(オーチャードホール)が記憶に新しい。

 そして今回の関西フィル定期での「第3幕」だが、前半は4年前の演奏に比べ、かなりテンポが速くなった。これは多分、歌手の問題とか、ホールの残響の問題とかも関係しているのだろう。ヴォータンがブリュンヒルデを追って登場する直前などの個所など、煽りに煽ったテンポで、確かに劇的な迫力は充分であった。
 ただ、ヴァルキューレたちの場面も含め、総じて何か慌しい演奏という印象があり、詩趣が失われた感も否めないようである。

 その代わり後半、ヴォータンとブリュンヒルデの場面での音楽では、叙情味も充分に表出されて美しい。「ヴォータンの告別」での中間のクライマックスで「眠りの動機」が高鳴るくだりは、昔から飯守が見事な滋味を聴かせる個所なのだが、今回も壮大な美しさを堪能できた。

 歌手陣は、今回はオーケストラの前方に位置した。ホールがあまり大きくない所為もあって、声はみんな生々しく聞きとれたが、いわゆる「響かせる声」を聴くためには、われわれの聴く位置は若干近すぎるということもあるかもしれない。
 ヴァルキューレたち(佐竹しのぶ、橋爪万里子、他)は――ちょっとピッチが高い人もいたようだが――おしなべて健闘した。

 雑賀美可は、悲劇の女ジークリンデにしては声がまろやか過ぎるのに違和感がなくもないが、力はある。
 ブリュンヒルデを歌った畑田弘美も同様で、こういうドラマティック・ソプラノの役には、どうも声が軽くて柔らかすぎるのではないかという気もする。「優しい娘」のブリュンヒルデ、というイメージも悪いものではないが、むしろ大神ヴォータンを命がけで説得する切羽詰った悲劇性――というものが、この幕のこの役柄には、欲しいのである。

 その点、ヴォータンを歌った片桐直樹は、若々しい声ながら、この役に欠かせない風格、力強さと明晰さ、苦悩する神としての激しい表現力など、素晴らしいものがあった。彼のこの役を聴いたのは「ジークフリート」第1幕以来だが、わが国でもトップクラスのヴォータンと言って間違いないだろう。

 最後になったが、関西フィル。
 このワーグナー・シリーズでは毎回感じていたことなのだが、もうそろそろ、「緻密な演奏」という問題に、本気で取り組んでもいい頃ではないか? いくら飯守が「アンサンブルに拘泥せず、味で聴かせるタイプの指揮者」でも、アンサンブルは、オケ自らがきっちりとまとめるべきだろう。
 正直言って、この日の演奏は、勢いはあったが、かなり雑然たるものであった。「魔の炎の音楽」にしても、ピッコロのバランスや、最終小節での弦の終わり方など、もう少し丁寧で、神経の行き届いた演奏を願いたいものだが・・・・。

 「ヴァルキューレ」ばかりに気をとられていて書き忘れたが、この日は前半に「ローエングリン」からの「第1幕への前奏曲」「エルザの大聖堂への行進の音楽」「第3幕への前奏曲」も演奏されていた。
 「第1幕への前奏曲」の、クライマックスから下行し終わった後のヴァイオリンのターンが、普通とは違った形で演奏されていたのが面白かったが、あれは一頃のバイロイト流なのかしらん? シュナイダーがそれで指揮していたことがある。但し、同じバイロイト上演でも、カイルベルトも、サヴァリッシュも、最近のネルソンスも、それはやっていなかった。今度マエストロ飯守に訊いてみよう。

6・13(水)宮本文昭プロデュース 口語体訳詞による邦楽「古事記」

   JTアートホール アフィニス  7時

 室内楽専門ホールとして知られるJTアートホールだが、緋毛氈を敷いた舞台もよく似合う。いい雰囲気だ。

 今回は邦楽で、藤舎貴生(笛)、今藤政貴ら3人の唄、杵屋栄八郎ら3人の三味線、藤舎円秀ら4人の囃子、中川敏裕と高畠一郎の筝、田代誠の太鼓といった顔ぶれが出演。企画担当の宮本文昭が案内役となり、藤舎貴生にインタヴューする形で、楽器や作品の解説(面白かったがチト長い)を交えつつ演奏が行なわれた。

 第1部で演奏されたのは純邦楽で、「吉原雀」(初代杵屋作十郎他作曲)と「舌出し三番叟」(二世杵屋正治郎作曲)の2曲。
 そして第2部では、「古事記」から題材を採り、松本隆が現代語訳歌詞を、藤舎貴生が作曲を受け持った新作が紹介された。演奏されたのは「天の岩屋戸」(あめのいわやと)、「沼河比売」(ぬなかわひめ)、「八俣の大蛇」(やまたのおろち)、アンコールとして「幸魂奇魂」(さきみたま・くしみたま)の計4曲で、これらには一色采子によるナレーションも加わっていた。

 伝統の様式や枠組みを打ち破り、さまざまな実験を行なおうとする姿勢には、私も大賛成だ。第2部のこれは大変な力作で、ダイナミックな音響が噴出、邦楽器特有のエネルギーを存分に感じさせる。
 その意味で私も愉しませていただいたことは事実だが、ただ、伝統への挑戦的な実験というには、これはまだ単にエンタテインメントの域に留まるものだろう。いや、終演後に見たこの「幸魂奇魂」のCD(2枚組、ビクターから出ている)のチラシには「日本音楽の新しいエンタテインメントが誕生」と銘打ってあったから、初めからそのつもりで聴けばよかったのだ。

 ラヴ・ソングたる「沼河比売」では古賀政男と美空ひばりをイメージし、「八俣の大蛇」では「マジンガーZ」をイメージして作曲した、と藤舎貴生は自ら語っていて、これは吹き出したくなるほど「その通りの」音楽で、――長唄の人が古賀メロディ風の曲を陰々滅々と歌ってくれると、なるほどこういう人は演歌も見事にこなせるのだなと感心させられたり、アニメのテーマ(みたいな曲)を邦楽器で演奏すればこうなるのだなと妙に納得させられたり。
 それはそれで結構なのだが、――しかし、もう一つ、「何か」が欲しい。

 ところで、邦楽にも「字幕」を使えないものだろうか? 今夜の演奏会でも、長唄にせよ、口語訳の「古事記」にせよ、たとえ日本語と雖も言葉は全く聞き取り難い。オペラは字幕使用によって飛躍的にファンを増やしたが・・・・。

6・12(火)ヘルムート・ヴィンシャーマン指揮のバッハ:「ヨハネ受難曲」

   サントリーホール  7時

 ヴィンシャーマン翁、92歳。まだまだ元気だ。
 正味2時間05分の大曲を休憩なしに指揮し、カーテンコールでは女性奏者たちを抱いたり、オーボエ奏者の楽器を取り上げて一声聞かせてみたり(彼がオーボエを持つと、われわれの胸も懐かしさに躍る)、茶目な行動をしてみせる。

 一昨年来日時の「マタイ」や「ロ短調ミサ」では立ちっ放しで指揮、カーテンコールの際には舞台を飛び跳ねてみせるといった調子だったが、今年は時々指揮用の椅子に腰を下したり、ゆっくり俯き加減に歩いたりすることもあって、さすがに少し年齢を・・・・と思わせる。しかし、それでもやはり超人的であることには変わりない。
 
 今回の「ヨハネ受難曲」の演奏は、東京シティ・フィルと成城合唱団、マルティン・ペッツォルト(エヴァンゲリスト)、三原剛(Br、イエス)、秦茂子(S)、福原寿美枝(A)、鈴木准(T)、青山貴(Br)、淡野太郎(Br、ペテロ/ピラト)。
 字幕付原語上演で、使用楽譜はスタンダードなベーレンライター版。ただし通奏低音にはチェンバロも使用されている。

 細かいところはともかく、総じて心温まる演奏であった。
 ヴィンシャーマンの創り出す音楽は、常に温かい。円熟と滋味とヒューマニティが指揮をしている、と言ってもいいだろう。
 彼は、穏やかに淡々と、イエス処刑の悲劇を語る。特に激しく畳み込んだり、殊更に音楽を慟哭させたりすることなく、ゆったりと間を取りながら演奏を進めて行く。それが実に温かい雰囲気を生むのである。

 長丁場の中で、演奏が全く弛緩しなかった、とは言いがたい。だが、そこに鋭い緊張感を注入してドラマを引き締めていたのが、エヴァンゲリスト(福音史家)役のマルティン・ペッツォルトだった。
 「鞭打ち」の3連音符の個所のように、劇的な表現を優先するあまり雑な歌い方をするところもあったけれども、彼のおかげでこの演奏に悲劇感が保たれていた、ということは間違いないことであろう。
 しかも彼は、歌いながらその都度、合唱団の中のソロ役(ペテロ、ピラト、下僕、下女など)にキューを送っていた。まるで副指揮者のような役割をもつとめて、高齢のヴィンシャーマンを手助けする――という存在にも見えたのであった。

 日本勢ソロ歌手陣はいずれも健闘。
 三原剛にはもう少し強いイエス表現を期待したかったが、福原寿美枝の張りつめた悲劇性を感じさせるアリアをはじめとして、聴き応えはあったと言っていい。
 ただ、ドイツ語の発音に関しては、・・・・いや、私はその方面ではあまり口幅ったいことは言えないのだが、珍しく原語で歌った成城合唱団も含め、音楽にメリハリがあまり感じられず、全体になだらかな「ヨハネ」になっていたのは、ひとえにそのドイツ語の発音のせいだったのではなかろうか。
 特に合唱は、各声部がカノン風に引継がれて行く部分など、明晰さを欠いていた。これなら、一昨年の日本語で歌った「マタイ受難曲」の方が、よほど明快で、しかもメリハリに富んでいたと思う。

 ソプラノ・パートは大活躍だったが、バスのパートにもう少し力強さが欲しい個所もある。ただし、ヴィンシャーマンが求める――音楽の柔らかさ、軽やかさ、温かさを出すには、このくらいのバランスで良かったのかもしれないが。
 もう一つ、合唱団の中のソリストは、前回の「マタイ」と違い、今回はピラトとペテロ役の淡野太郎をはじめ、みんな安心して聴いていられる歌唱だった。

 冒頭では合唱もオーケストラも、ヴィンシャーマンのテンポを持ち堪えられなかったのか(決して遅い方ではなかったが)、何とも不安定で自信なげな演奏にハラハラさせられたものの、次第に立ち直って行った。コラールも、曲を追うごとにまとまって行き・・・・。
 そして、最後のコラールでの高まり。終り良ければすべて好し。
 9時10分終演。
   音楽の友8月号 演奏会評

6・10(日)飯守泰次郎指揮東京アカデミッシェカペレ
ワーグナー:「さまよえるオランダ人」演奏会形式上演

  トリフォニーホール  1時30分

 飯守泰次郎が「さまよえるオランダ人」を日本で指揮するのは、意外にもこれが最初。
 それだけにこの公演は、「飯守のワーグナー」愛好者には、聴き逃せないものだったことだろう。

 「東京アカデミッシェカペレ」はアマチュア・オーケストラだが、飯守がそこから引き出した音は紛れもなくワーグナーのそれであり、飯守がかつて音楽助手を務めていた「良き時代のバイロイト」の潮流を引き継いでいるはずの響きである。
 彼のワーグナーは、殺伐としたところが全くなく、力感優先でもなく、全ての音符にヒューマンな温かい情感をこめた演奏であるところに、最大の特徴があるだろう。重厚で陰翳の濃い音でありながらも、混濁したところは些かもなく、しかもふくよかな響きを持っている。

 今回の演奏で最も讃えられるべきは、「総譜の全ての頁から海風が吹きつけてくる」と評される「海の雰囲気」を、しなやかに波打つ弦の響きを以って見事に再現させた指揮という点にあろう。アマ・オケの東京アカデミッシェカペレが、よくそれに応えたものだと思う。
 しかもこれは、「3幕切れ目なし」版による、ノーカット演奏だったのである。

 ソロ歌手陣は、大沼徹(オランダ人)、小鉄和広(ダーラント)、並河寿美(ゼンタ)、片寄純也(エリック)、小川明子(マリー)、高野二郎(舵手)という顔ぶれ。
 この中で最も光ったのは、若々しく張りのある声で、「いつかは訪れる救済を信じつつ毅然として生きる青年船長」とでもいったイメージのオランダ人を歌った大沼徹であった。
 この役を歌ったのは初めてということだが、素晴らしく良い。この歌唱力に、苦悩や、陰翳のある表情といったものが更に加われば、理想的な「オランダ人」になることだろう。

 このところ快調な活躍を続ける並河寿美も、持ち前の馬力で、ドラマティックなゼンタを歌った。レガートの高音域に出がちなある種の癖さえ解決できれば、という気もするが、叙情的な個所での美しさを含め、声の輝かしさは魅力だ。

 ダーラント役の小鉄和広は、やや崩し気味ではあったものの、「滋味あふれる好人物」的なノルウェー船長を巧く演じていた。
 エリックの片寄純也も大熱演だったが、もう少しリズムとテンポを正確に歌ってくれたらと思う。
 舵手の高野二郎は、終始オーケストラの後方、合唱団の前での立ち位置ながら、極めて明快な歌唱で、特に第3幕では合唱団のリーダー的な役割をも演じて演奏を引き締めていた。

 好演した東京アカデミッシェカペレは、オーケストラと合唱団が一組となっている団体だ。従って定期公演(年2回)のプログラムには、必ず声楽曲が含まれ、もしくはそれが中心となる。

 1989年に、ある目的で押さえておいたウィーンのムジークフェラインで演奏するために、以前組織しかけた合唱団を再編、だが合唱団だけではもったいないからついでにオーケストラを作って一緒に行かせちまえ――という具合に、「先に合唱団、あとからオーケストラ」が出来たと聞く。
 しかもその創設時、最初に「英雄の生涯」をやろうと言っているのに、リハーサルに集まったのがたったの17人。そこで旅行会社勤務の荒井宣之・東京アカデミッシェカペレ代表責任者が、「ヨーロッパに行けるよ、安くしとくよ」という釣りでメンバーを集めて行ったとか。

 この話は、私が90年代半ばに「音楽の友」の「全国アマチュア・オーケストラ訪問」シリーズの記事を書いていた時に聞いたものだが、実は私もこのオケと合唱の演奏を聴くのは、それ以来のことなのである。
 それにしても、驚異的に素晴らしい演奏だった。
 序曲冒頭は異様に力みかえった感だったが、少し落ち着いてからは、飯守ワールドを反映した快演を繰り広げてくれた。アンサンブルのみならず、その上に、更にそれを包み込むべき溶け合った響きと余情――に不足するのは、プロのオケではないから仕方がないが、それもいつの間にか気にならなくなるほどの演奏であった。

 合唱も、力があり、しかも情熱的な表情にあふれて好ましい。快演である。
 ただし第3幕での、ノルウェー船の水夫と幽霊船の水夫の合唱の対比の個所は、よくあることだが、やはりゴチャゴチャした感じになってしまった。
 もしや合唱団がこの二つを分けて歌ったのか? それは「偉業」ではあるものの、苦しいだろう――とその時は思ったのだが、あとから聞いたところでは、「幽霊船」の方は、やっぱり最近流行の「録音出し」だったとのこと。本当にここは、どうやっても、難しい個所だ。
 もう一つ、合唱団の出入りが音楽の進行に間に合わず、第2幕の最初で女声合唱団員たちが「糸紡ぎの合唱」を歌いながら慌てて舞台に駆け込んで来るというのは、なんともはや、段取りが悪い。しかしこの光景は、実に可笑しかった。
(後記 註)この段落部分は、「幽霊船の合唱」が「録音出し」だったと聞いて、代表に確認してから後日書き替えました。失礼しました。

 聞けばこの本番の前、オケと合唱は、朝10時からほぼ全曲を通してゲネプロをやり、しかも前夜に全曲通しのリハをやって――つまり「24時間内に、切れ目なしの2時間半のオペラを3回演奏」したのだそうな。その意気や善し。

6・9(土)ヘンシェル・クァルテットのベートーヴェンの弦楽四重奏曲サイクル

   サントリーホール ブルーローズ  7時 (後半のみ)

 大ホールの演奏会が8時少し前に終ってロビーに出ると、隣の「ブルーローズ」(小ホール)では「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン」シリーズの一環として、ヘンシェル・クァルテットによるベートーヴェンの弦楽四重奏曲サイクルの第2夜が開催されている。折しも休憩時間。で、その第2部のみを聴く。

 既に第1部では「第2番」と「第16番」が演奏されており、第2部には「第4番」と「第9番(ラズモフスキー第3番)」が組まれるのだから、これは大変な重量感と長さだ。歯切れのいい、壮年期のベートーヴェンの強靭な意志力を映し出したような、しかも瑞々しい演奏が繰り広げられて、終演は9時半頃になった。

 なお今回は、ステージの位置をこれまでとは90度変え、入り口の正面に設置して、それを客席が半円形に取り囲むような形になっていた。これは、すこぶる感じが好い。演奏家が身近に感じられて親近感が生まれるし、照明を含めホール全体が温かい雰囲気になる。

6・9(土)ゾルタン・コチシュ指揮東京交響楽団

    サントリーホール大ホール  6時

 コチシュの指揮歴はすでに25年に及ぶそうであり、その中にはハンガリー国立響音楽監督というキャリアも含まれているわけだが、私にはどうも彼の指揮の印象がほとんどない。事実上、今回が初めて彼の指揮を聴くようなものである。

 で、言っては何だが、あまり期待度は高くなかった。ところが、やはり聴いてみるものだ。なかなかの手腕である。
 特にバルトークの「管弦楽のための協奏曲」は、「お国もの」ということを差し引いてみても、初めての客演である東京交響楽団からこれほどの個性的な音を引き出したという点で、立派なものであった。好調の東響が自ら音を創って行ったという面ももちろんあるだろうけれど。

 プログラムの1曲目は、R・シュトラウスの「マクベス」だった。これを暗譜で指揮していたのには感心したが、スピーディな感じでよくまとめているとはいえ、曲もあまり面白いものでもないし、特にコチシュの個性を打ち出した演奏というほどでもない。

 次のモーツァルトの「ピアノ協奏曲第17番」では弦編成を6・6・4・3・1という小規模なものにし、コチシュはP席の方を向いて座り、蓋を取り去ったピアノで弾き振り。この日のプログラムでの人気の的だ。室内楽的な溶け合いを聴かせるアンサンブルとの対話が快い。

 後半が前述のバルトーク。もちろん暗譜での指揮。5つの楽章をほとんど切れ目なく構成して有機的な展開を狙い、自然な起伏感で曲をクライマックスに導き、各楽器を明晰に浮かび上がらせて対比させるあたり、コチシュの指揮は堂に入ったものだ。
 弦楽器群にはさすがにハンガリーの弦の音色が反映され・・・・となるかと思ったが、これはちょっと期待が過ぎたか。

 第1楽章ではやや気負ったような、硬質な音も感じられたが、第2楽章に入ると、オーケストラにはみるみる空間的な拡がりと、ミステリアスなイメージさえ湛えた響きが増して行く。
 第2楽章での微細な強弱の変化も見事だったファゴット群(第165小節以降)をはじめ、同楽章最後で幻想的な響きを出した木管群、豊潤なふくらみをいっぱいにあふれさせた弦楽器群など、東響が実にいい音を出す。これほど温かい音色のバルトークのオケコンは、そうそう数多く聞かれるものではなかったろう。

 カーテンコールでコチシュは、ホルン奏者たちを起立させるのを忘れてしまったのを、高木和弘コンマスから注意されたのか・・・・2人の陽気なジェスチュアによる「内緒のやりとり」は、その内容を想像する聴衆の笑いを誘った。そうした明るいステージの雰囲気も、コチシュの人柄を反映したものかもしれない。
    音楽の友8月号 演奏会評

6・8(金)エフゲニ・ボジャノフ・ピアノ・リサイタル

   サントリーホール  7時

 ブルガリア生れ、2010年エリーザベト国際コンクール第2位、同ショパン国際コンクール第4位、今年28歳の若手。
 来日歴は2回くらいなのに、大変な人気である。特に女性の聴衆が多い。

 プログラムは、前半にショパンの「舟歌」と「ソナタ第3番」が置かれていた。後半にはシューベルトの「12のドイツ舞曲」とドビュッシーの「レントより遅く」「喜びの島」が続けて演奏され、最後にスクリャービンの「作品38のワルツ」とリストの「メフィストワルツ第1番」が演奏された。アンコールはショパンの「華麗なる大円舞曲」、シューベルトの「セレナード」(リスト編)、ショパンの「英雄ポロネーズ」。

 ヤマハのピアノをかなり明るい音で響かせていたが、ショパン・コンクールの際にスタインウェイを使って弾いた彼の演奏を聴いた人は、「あの時はもっとキラキラする音だったのに」と言う。

 それはともかくとしても今夜、「舟歌」や「ソナタ」が、割り切った明晰な音色と表情で開始され、いかにも若者らしい勢いのよさを感じさせた点は、決して悪いものではない。
 ただ、その勢いがそのうち単調になり、音楽が一本調子になってしまう傾向があるのが問題だ。だから、シューベルトやドビュッシーの作品になると、演奏がいっそう淡彩で単調なものに聞こえてしまうのである。そして、緻密さがもう一つ欲しいところであろう。スクリャービンとリストでは、多少は盛り返していたが・・・・。

6・7(木)パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送響のブルックナー「8番」他

    サントリーホール  7時

 今回の来日では、マーラーの「5番」とブルックナーの「8番」が目玉だったが、――私は、マーラーの方は聴いていない。

 重度のブルックナー・マニアを自認する私としては、好きな「8番」が、パーヴォの手でどのように料理(?)されるか、それをとにかく聴いておきたいと思ったので、こちらを選んだ次第であった。
 だが、マーラーを聴いた人々が演奏を絶賛、興奮を口々に伝えてくれるのを聞くと、そちらも聴いておけばよかったなと、内心シャクに障っているのは事実である。

 といって、その「ブル8」が、悪い演奏だったというのでは決してない。
 ブルックナーでは、パーヴォがウィーン古典派の作曲家やシューマンの作品を指揮する時に見せるあの大胆不敵な解釈が、抑制されていた。テンポの振幅にも極度の誇張はなく、彼としては著しくストレートなアプローチだ。
 オーケストラの力感は、ある程度引き締められながらも充分に発揮されており、厚みのある巨大な音塊が豪壮にうねりながら進んで行く。

 前半の2楽章と、後半の2楽章とがそれぞれ、ほとんど切れ目なしに演奏され、「静」から「動」へという有機的な関連性がつくられていたが、この発想は、この曲の場合、珍しいだろう。
 なおアダージョ楽章は極度に遅いテンポだったが、他の3つの楽章が比較的速いテンポで構築されていたため、演奏時間はほぼ75分という短いものになっていた。こういった特徴は、先頃CDで彼の指揮する「5番」を聴いた時、ある程度予想はされたものではあったのだが――。

 では、何が気に入らなかったのか。これも、単なる私の好みで言っているに過ぎないのだが、第一に、エネルギー性優先のスタイルで演奏されたために、この交響曲の持つ荘重な高貴さ、静寂の美しさ、並外れた巨大な風格がほぼ失われてしまっていたこと。
 第二には、これも力感優先の所為だろうが、響きと音色が著しく混濁してしまい、作品に本来備わっている透明さと清澄な美しさとを欠く結果になったこと。
 つまり、ありていに言えば、何だか騒々しくて落ち着きのない「ブル8」だったな、ということなのである。

 といって私は、どんな曲でも、固定のイメージに当てはめて聴くという姿勢は持っていない。
 所謂「宗教性」から解放されたブルックナー受容という考え方には大賛成だし、しんねりむっつりのブルックナー演奏がいいと言っているのでもない。シューリヒトが言った「ブルックナー演奏では、テンポを大きく変えてはいけません」というアドヴァイスを信奉しているわけでもない。この「8番」から――「9番」のような――何か魔性的な激しさを引き出そうとする試みも、悪くはないだろう。

 だがいずれにせよ、情熱一本槍の演奏は、この「8番」には似合わない。パーヴォはプログラム掲載のインタビューの中で、「8番はブルックナーの性格からは遠くかけ離れています」と述べているが、これは私には全く共感しかねる見解である。

 客席は満員だったが、いつも飛ぶべきブラヴォーの声は、かなり少なかった。ピアニストのOさんから聞いた話だが、このオケに参加して来日した友人の奏者は「今日(ブルックナー)のあとの拍手の量は、一昨日(マーラー)の時とはちょっと違っていたね」(つまり、あまり熱狂的ではなかった)と言っていたそうである。首をひねったのは、私だけではなかったらしい。

 この日のプログラムの前半は、ヒラリー・ハーンがソロを弾いた、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」だった。この曲で風格を感じさせる演奏を聴くなどということは滅多にない。が、今のヒラリーは、それをやってのけるのである。
 第3楽章の最後、第232小節のフォルティシモの最高音にいたるあたりのクライマックスで、かつてチョン・キョンファが渾身の情熱の高まりを聴かせた演奏が今でも脳裡に刻まれているが、今夜のヒラリー・ハーンは、そこで並外れたスケールの大きな演奏を繰り広げ、「圧倒的なメンデルスゾーン」を聴かせてくれたのだった。この人は、聴くたびにますます凄いヴァイオリニストになって行く。

 ソロ・アンコールに彼女はバッハの「無伴奏ソナタ第2番」から2曲を弾いたが、リサイタルならともかく、オケのコンサートでソリストが2つもアンコールを演奏するのは、いくらなんでも多すぎる。ただしこの日のヒラリーの場合は、その演奏が驚異的な求心性と放射力を兼ね備えた凄いものだったので、聴衆も楽員も息を止めて聴き入ってしまい、否応なしに呪縛されてしまったわけで。しかしやはり、オケを待たせたままの2曲というのは、基本的には「やり過ぎ」である。
 あとから考えると、彼女に贈られたブラヴォー(ブラーヴァ)の声は、ブルックナーのあとのそれより、遥かに多かった・・・・。

6・6(水)新国立劇場 オスカー・ワイルド「サロメ」

   新国立劇場中劇場  2時

 新国立劇場の「サロメ」――といっても、R・シュトラウスの楽劇ではなく、演劇の方の「サロメ」だ。
 翻訳が平野啓一郎、演出が宮本亜門、舞台美術が伊藤雅子、照明が西川園代。
 主演は、サロメが多部未華子、ヨカナーンが成河、ヘロデ王が奥田瑛二、ヘロディアス王妃が麻美れい。

 これを観に行ったのは、宮本亜門の演出ということもあったが、少女っぽく可愛いキャラクターの多部未華子(私とて「デカワンコ」とか「ジウ」くらいは見ている)がサロメを演じるという、その演出のコンセプトに興味を持ったからである。
 私は常日頃から、サロメを猛女でなく、もっと複雑な性格を持った少女として描き出す演出はないかと思っていた。だが、オペラとなると、声楽面の制約から、どうしても威風堂々たる女史然としたサロメにならざるを得ないし、また見るからに怪女妖女に設定されてしまう演出も少なくない。

 私の観た中で唯一彼女を「普通の女の子」として描き出すのに成功したオペラは、2008年にびわ湖ホールで制作されたカロリーネ・グルーバーの演出ではなかったかと思う。
 あれは、ヌイグルミを持って遊ぶ普通の女の子サロメが、両親の淫乱な生活を目のあたり見て、次第に異常な性格に追い込まれて行くという設定で――「7つのヴェールの踊り」は彼女が両親との平和な愉しい家庭の暮らしを幻想の中で見る場面となっていた――私は非常に面白い解釈だと思ったものである。

 ただやはり、そういう性格のサロメを完璧に描き出すという面では、いくら巧いオペラ歌手といえども、舞台女優には一歩も二歩も譲らざるを得まい。
 今回の多部未華子は、さすがにその点、アイドルっぽいサロメを可愛く軽快に演じて、ヌイグルミを抱いて登場する冒頭から、血の海の中にヨカナーンの首を抱いて陶酔するラストシーンまでを出ずっぱりで、演劇ならではのサロメ解釈を熱演していた。

 ただ欲を言えば、大詰めの長いモノローグでのセリフまわしがやや「無理をしたような」絶叫調になって凄味を欠いたこと、また95分の戯曲の流れの中における演技表現の上で性格の変化に乏しく、些か単調な印象を与えたことが、ちょっと惜しかった点であろう。
 それゆえ、ベテランの奥田瑛二と麻美れいの巧さが光る。この舞台に重心を与える存在となっていた。

6・4(月)リーズ・ドゥ・ラ・サール ピアノ・リサイタル

   紀尾井ホール  7時

 昨年(5月17日)のリスト・プロがあまりに素晴らしかったので、いっぺんに熱烈なファンになってしまった。

 今回はシューマンの「子供の情景」と「幻想曲」、ショパンの「前奏曲集」というプログラムだったが、明晰な隈取りを備えた強靭で鮮烈なピアニズムには変わりない。
 しかし、「子供の情景」の優しい叙情味のあとに、切り込むように鋭い表情で「幻想曲」が開始され、さらに一転してくぐもった沈潜する音色で「前奏曲集」が演奏され始める――といった多彩さは、昨年にも増して印象深いものがあった。

 一昨年ナントで彼女のショパン――たしか「バラード」と「葬送ソナタ」だったか――を聴いた時には、随分まあ割り切った怒号調のショパンだなという気がして引いてしまったものだが、あれから2年もたっているわけだし、また、作品によって大きくアプローチを変える彼女の姿勢がいっそう深化して来たということもあろう。

 アンコールは、ドビュッシーの「音と香りは夕べの大気の中に漂う」と「パックの踊り」。後者は昨年のアンコールでも弾いたのではなかったっけ? 
 このドビュッシーが、流石フランスのピアニストだけあって、すこぶる好い。来年はドビュッシー・プロをやってくれないかな。
 終演後にはサイン会。長蛇の列だが、今回はほとんどが男性客!

6・2(土)日本ワーグナー協会例会 クラウス・フローリアン・フォークト講演

    ドイツ文化会館OAGホール(赤坂)  7時

 前夜の新国立劇場ロビーで、日本ワーグナー協会(公演協力)が「フォークト来たる!」と麗々しくポスターに書いてPRしていたのが効いたか、200以上並べられた椅子はほとんど全部埋まった。

 何しろイケメン・フォークトとあって、前夜も女性観客たちは夢中になっていたし、イケメンには興味のない男性観客たちも彼の見事なローエングリンには感服していた。それゆえ、協会員以外にも、この講演を聞きに来た人も多かったようである。
 舞台に近い椅子席はほとんど女性たちが占め、休憩時間にはサインを求める女性客が長蛇の列。
 4月の例会には、「タンホイザー」出演中のスティーヴン・グールドも講演に来ている(私は都合で聞けなかったが)。まあ、こういうイケメン・テナーに人気が集まり、入りが良くなるというのは、何にせよ悪くない現象ではある。

 フォークトは、15分の休憩を含めて約2時間、愉しそうに喋ってくれたが、ホルン奏者としてハンブルク州立歌劇場管弦楽団及びハンブルク・フィルで演奏していた時代に、エキストラで北ドイツ放送響にも参加し、ヴァントの指揮でブルックナーの交響曲を吹いたこと、またその頃余興で女性(現在の妻)とデュエットしていた時に彼女の母から声の良さを認められ、これがそもそも歌手転向の発端となったことなど、意外なエピソードなども語られた。
 蔵原順子さんの通訳が明快なので、会場も大いに盛り上がる。

 なお聴衆の一人からの質問で、前夜の地震の話も出た。フォークト曰く、舞台監督からは予め「地震が来た時にはどのように対応するか」というインストラクションがあったそうで、「日本人の皆さんは地震には慣れているから、それに倣っておけば心配ないだろう」と初めから落ち着いて構えていた、とのこと。
 ただし「数分前には自分は他の場所にいたので(つまり吊り装置に乗るため舞台の天井近くにいたということ)その時に地震が起こっていたら、私の行動も変わっていたはず。とにかく、地震の中で《禁問の動機》を歌うなんて経験は、初めてだったし、これからもまずないでしょう」と客席を笑わせる。

 ワーグナーを歌う時の心構え、歌劇場のキャパの違いにどう対応するか、役柄の解釈についてなど、本題の話は長くなるので、ここでは省略。

6・1(金)新国立劇場の新制作 ワーグナー:「ローエングリン」初日

   新国立劇場  5時

 開場時に上演されたヴォルフガング・ワーグナー演出版以来の、15年ぶり2本目のプロダクション。大成功。

【卓越したロザリエの舞台美術】
 何よりもまず、ロザリエの舞台美術(および光メディア造形)を讃えたい。
 これは、新国立劇場のオリジナル制作の中でも、最も美しい舞台の一つであろう。いや、美しさの点では、もしかしたらベストの存在と言っていいかもしれない。
 現代アートを思わせる舞台装置は、一見シンプルながら細緻精微を凝らしたもので、その華麗さは幕を追うごとに増す。第3幕では花を模った3つの巨大なオブジェが輝くばかりの視覚的効果を生む。吊り装置やセリもいろいろな場面で活用されるので、スペクタクル性にも事欠かない。

 第2幕の最初でエルザが佇むバルコニーが、輝きつつ宙に浮いた形で舞台上手側から出現する効果にも感心した(実際は吊り装置だそうだ)が、そういえば1994年のバイロイトで彼女が美術を担当した「指環」でも、「ヴァルキューレ」第2幕ではヴォータンが空中高く浮かぶ虹のような橋の上に立っていた。ロザリエはそういうのが好きなのかもしれない。
 第1幕最後の場面で背景に花火のような光デザインが投影されるのだけは少々野暮ったいが、眩さと暗鬱さとが交錯する照明演出は、極めて美しい。

 なおロザリエは「衣装」も担当している。こちらは、悪くはないが、多少変なところもある。第1幕でのエルザの衣装について「スカートが短いッ」と言った人もいたが、これはエルザ様の体型に由るところもあるだろう。ブラバント貴族のいでたちも、第2幕では討入り義士か特攻隊みたいに見えてしまうところもあった(日本人合唱団員だと尚更だ)。

【演出】
 ロザリエの舞台美術はしばしば演出を食ってしまう、とまで言われるほど、感性と個性の豊かなものだ。それゆえ、演出担当のマティアス・フォン・シュテークマンの領域に属する演劇的要素も、今回は、かなり霞んでいた。
 というよりむしろ、シュテークマンは、初めから演出は交通整理程度にとどめ、ドラマとしての展開はロザリエの「光とオブジェ」にお任せしてしまった、としか見えない。
 何もネズミの大群を登場させたり、家を建てたり燃やしたりするような煩わしい演出などやらなくてもいいが、心理表現的な演技はもっと導入してもよかったのではないか。

 ただし、良かったところもある。第2幕の最後でオーケストラが雄弁に響かせる「禁問の動機」の際にオルトルートを登場させず、むしろそのモティーフのトラウマに耐えられなくなったエルザが独りヴァージン・ロードに卒倒する場面。
 また第3幕幕切れで、独り残されたゴットフリート少年が、ローエングリンが托していった剣を前に、ブラバント国の指導者となるべき責任の重圧に打ちひしがれ、崩折れる場面。
 この二つは、充分に心理描写的で巧みな演出と言えよう。強い印象を残した。

 総じて今回の舞台には、新国立劇場の舞台についてまわる「冷え」た雰囲気が全くなく、きわめて良いバランスが感じられた。シュテークマンの功績は、そこにあるだろう。
 そして、このような感覚的演出には、音楽をじっくり聴けるという利点があることはたしかである。

【充実の演奏】
 その音楽だが、ベテランのペーター・シュナイダーが、見事に東京フィルを制御して、豊かな低音を基盤とした剛直な音楽を引き出していた。
 第1幕の終結が最後までゆっくりしたイン・テンポだったこと、全体にテンポが硬直気味だったことなど、千軍万馬のシュナイダーもやはりトシをとったのかなと思わせるところもあったが、東京フィルをこれだけがっしりと鳴らし、新国立劇場合唱団を巧みにリードしたのは、流石の手腕と言えよう。
 東京フィルも、管楽器の一部に頼りないところもあったものの、このピットの中の演奏としては、かなり良い方に属する出来だったろう。

 歌手では、まずはクラウス・フローリアン・フォークトのタイトルロールに最高の讃辞を贈ろう。
 白鳥の騎士と呼ばれるにふさわしい容姿と上品な風格もさることながら、微細な表現力に富んだ歌唱も素晴らしい。以前、ウィーンで「死の都」を聴いた頃よりも声質が太くなって重みを増し、ワグネリアン・テノールとしての資質をいよいよ強めているようである。英雄的な力強い歌唱の部分と、第3幕の「聖杯の物語」における見事なソット・ヴォーチェの対比は非常に印象深いものがあった。当り役である。

 他に、巧みを増したリカルダ・メルベートが清純な張りのある声でエルザを好ましく歌い、ギュンター・グロイスベックが底力のある声で国王ハインリヒを滋味豊かに歌い、萩原潤も朗々たる伸びのある声で王の伝令を歌って外人勢相手に一歩も退かなかった。
 ゲルト・グロホフスキーは、妻オルトルートに乗じられ破滅する真面目な男といった性格描写でテルラムント伯を巧みに演じている。
 そのオルトルートを歌ったのはスサネ・レースマークという人で、悪くはないが、ちょっと苦しかったか? もっとも第3幕最後の大見得を楽々と歌えるオルトルート役など、そうは沢山いるものではない。

 ともあれ、総体的には、声楽陣も充実していて、これも今回のプロダクションを成功に導いた要素の一つと言えよう。10時頃終演。

【地震】
 強い地震があったのは、第1幕の中ほど、ローエングリンが「禁問の動機」に乗せて「私の名や素性について、断じて質問してはならぬ」とエルザに言い聞かせていた瞬間である。

 建物も揺れたし、舞台装置もかなりギシギシと音を立てて揺れた。劇場内は一瞬不安に包まれたが、舞台上の合唱団も、客席の人々も、微動だにしなかった。さすが日本人は、ちょっとやそっとのことではもう動揺しないくらい、度胸がすわって来ているんだな、と、何となく胸を打たれるような気持になる。
 日本人たちがあくまで冷静に構えているので、シュナイダーも指揮を止めず、演奏も停まらず、フォークトをはじめとする外人歌手たちも落ち着いていられたのであろう。ただ1人、エルザのメルベートだけがちょっとうろたえた様子で、ローエングリンの傍に走り寄ったが、何しろそこは、愛する救い主から「私の名を訊いてはならんぞ」と脅かされているところから、それが驚きの演技であったと説明されても通用するだろう。

 だが、この地震がもし数分早く起こっていたら、ローエングリンが吊り装置に乗って降りて来る場面にぶつかっていたはずで、――そうしたら、上演はめちゃくちゃになっていたかもしれない。危機一髪。

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