2017-11

5・30(水)クリスティアン・テツラフ・ヴァイオリン・リサイタル

    トッパンホール  7時

 2日続きのコンチェルトの翌日にリサイタルとは、タフな人である。

 プログラムは、シマノフスキの「神話」、イザイの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番」、パガニーニの「24の奇想曲」から4曲、クルタークの「サイン、ゲーム、メッセージ」から6曲、エネスクの「ヴァイオリン・ソナタ第2番」。
 シマノフスキとエネスクの作品では、ピアノの児玉桃が協演した。アンコールもデュオで、ドヴォルジャークの「ソナチネ」から「フィナーレ」、次いで「ラルゲット」が演奏された。

 児玉桃の良さは言うまでもないが、この日は何よりもテツラフがその多彩な本領を余す所なく発揮するべくプログラミングされたコンサートと言っていいだろう。
 このヴァイオリニストは、やはりナマで聴いた方が、自由奔放なエネルギーと感性が噴出して、とてつもなくスリリングで面白い。たとえ昨日のメンコンでのような、本人も舞台上で苦笑するような珍事があったとしても、である(NHK-FMの放送では、あそこは多分編集されるだろう・・・・私だったら、そうする)。

 甘美な官能の音色から精神の暗部まで抉り出すような激烈な表現まで、ヴァイオリンの持つあらゆる力を使い切るような演奏の「神話」に始まり、懐かしい曲想をも挑戦的なイメージに変えてしまう「ソナチネ」にいたる2時間は、それこそ息もつかせぬほどの緊迫感にあふれる。

 その中に、イザイのソナタとエネスクのソナタが毅然と屹立するのが圧巻だ。そして、普通ならひときわ華麗に聞こえるはずのパガニーニの「カプリッチョ」さえもが、テツラフの強靭なテクニックによる演奏では、ごく当たり前の作品のように聞こえてしまうのである・・・・。

 これも、本当に実演ならではの醍醐味だ。

5・29(火)トーマス・ヘンゲルブロック指揮北ドイツ放送交響楽団(続)

   サントリーホール  7時

 昨夜のアンコールで演奏された「フィガロの結婚」序曲で今夜のコンサートは開始されたが、こちらは残響の豊かなサントリーホールだけあって、演奏の印象にも、より豊麗さが加わる。弦14型での演奏は、ピリオド系指揮者が手がけるモーツァルトにしては、随分と厚みと重みを感じさせた。

 ヘンゲルブロックは、レパートリーに応じて多様なスタイルを採るとは聞いていたが、ハイドンとベートーヴェンの作品をあのようなアプローチで演奏する一方、モーツァルトでこのようなスタイルを採るとは、これは何というか、もはや千変万化の類だ。

 そのあとにおかれたロマン派の作品では、予想通りヴィブラート奏法も取り入れた、かなりオーソドックスな手法が採られる。というより、北ドイツ放送響の昔ながらの持ち味に、ヘンゲルブロックの味を注入した、というタイプの演奏と言えるかもしれない。

 メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」では、昨日に続きクリスティアン・テツラフがソリストを務めたが、これが猛烈な高速テンポのアレグロで――スリル感はあったけれども――別の意味で些か面食らった。
 スコアには「モルト・アパッショナート」(第1楽章)と「モルト・ヴィヴァーチェ」(第3楽章)と指定があるのは事実だけれども、しかしあれではまるで、パガニーニの協奏曲か何かを弾いているようではないか? だいいち、飛ばし過ぎて音を外し(それはご愛敬としても)、音楽が雑になってしまっては何にもなるまい。
 オーケストラの方は、それでも何とか大人の度量(?)で合わせて行った。

 その点、プログラム後半に演奏されたブラームスの「第1交響曲ハ短調」では、現在の彼らの姿勢が、もう少しはっきり出る。
 弦は16型編成の対向配置で、下手側にヴィオラを、上手側にチェロを置くが、コントラバスを4本ずつ上手側と下手側に分割して配置していたのが興味深い。2階席正面からではその音響効果が万全な形で聞き取れたとは言い難いが、聴く位置によっては、低音がオーケストラ全体を包み込むように感じられたであろう。

 曲の冒頭、下行する木管群とホルンとヴィオラに対し、上行するヴァイオリン群を初めのうち少し弱めに設定して、高く上昇するに従って次第に強めて行くという「聞き慣れないバランス効果」が――以前にも誰かの指揮で聴いた記憶があるが、誰だったっけ? 上岡敏之か、それとも?――まず耳をそばだたせる。
 ただ、そのあとは、たまさかにテンポを大きく制御することはあったとしても、比較的まっとうなスタイルの指揮だ。少なくともハーディングやパーヴォ・ヤルヴィが気心知れたオケ相手にやるような、個性的で大胆な試みは無い。

 今のところは、前述のように、北ドイツ放送響の良さを尊重しつつ――といったヘンゲルブロックの指揮であろう。全曲最後のハ長調の堂々たる和音に、今も残るこのオーケストラの本領を聴いたような気がする。

 アンコールは、意外にもドヴォルジャークの「チェコ組曲」からの第5曲「フリアント」。変な言い方だが、これが一番ドイツのオーケストラらしい響きを出していた。

 前夜もそうだったが、ステージのお別れは、オケ全員が一斉に最敬礼する「日本フィル方式」。少し違うのは、指揮者も楽員の真ん中に入って答礼するということか。今夜はこれが御丁寧に2回も繰り返され、大拍手もそれでやっと収まった。

5・28(月)トーマス・ヘンゲルブロック指揮北ドイツ放送交響楽団 「英雄」他

    東京文化会館大ホール  7時

 ピリオド楽器奏法の指揮者ヘンゲルブロックが昨秋から首席指揮者に就任して、あの北ドイツ放送響が、ガラリと変身した。
 見事に変貌――とは未だ言い難い。かなり無理している感じが強い。まあ、あと2、3年もすれば、楽々とこのスタイルで音楽できる体質になるのだろう。

 ピリオド楽器オケは他にも山ほどあるのだから、あのNDRまでが何もここまで・・・・と思わないでもないが、そこが時代の変遷ゆえ、致し方あるまい。
 もちろん、オーケストラというものは多芸多才だから、次の演奏会に重厚壮大系の指揮者が客演に来れば、あっという間にそれなりに音を変えてみせることなど、アサメシマエのことであろう。

 今日は都民劇場サークルの定期公演で、プログラムはハイドンの「交響曲第70番二長調」、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調」、ベートーヴェンの「英雄交響曲」。

 ハイドンでのアンサンブルはちょっと荒く、響きも乾燥していて、そのあたりが未だこのオケと指揮者の呼吸は今一つ、と思わせた所以でもある。ただ、ヘンゲルブロックが引き出そうとしている音楽は、緻密だし、しかも洒落っ気があるので、ある程度の面白さは発揮されていただろう。

 一方モーツァルトの協奏曲では、ノン・ヴィブラートで押すオケに対し、ソリストのクリスティアン・テツラフがヴィブラートをこれ見よがしに誇示して、濃厚な音色を披露したかと思えば次の瞬間に凄味を利かせるという千変万化のソロで応戦、これもまたコンチェルトの面白さを味わわせるものであった。

 「英雄交響曲」は、――この路線の指揮ならまあこうなるだろう、と想定されたとおりの、それ以上でも以下でもない、ごく常識的範囲での演奏が繰り広げられた。
 もちろん、悪い演奏ではない。ただ、この演奏を聴きながらずっと脳裡をめぐっていたのは、天下の北ドイツ放送響がこういう路線に挑戦するのはいいとしても、「これが俺たちのベートーヴェンだ」と主張できるステイタスを何処に求めようとしているのだろう、という素朴な疑問であった。
 それが明確に見えて来るには、未だ時間がかかるだろう。

 アンコールはモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲。これは、柔らかくて気持のいい演奏だった。

5・27(日)佐渡裕指揮日本フィルハーモニー交響楽団
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

     サントリーホール  2時30分

 サントリーホール前のアークヒルズ・カラヤン広場では、この数日間、太平洋フェスティバルのようなものが開催されていて、ハワイアンの歌や踊りが繰り広げられて大賑わい。一方、ホールの中では「悲劇的」が。

 しかし、佐渡人気のおかげか、チケットは完売、客席はほぼ満員だ。公益財団法人認定に向け懸命の努力を続ける日本フィルにとっては、助けになることだろう。超大編成の交響曲ゆえエキストラをも加えていたものの、最近のこのオーケストラの好調ぶりを反映して、極めて安定した演奏を聴くことができた。

 使用楽譜はもちろん国際マーラー協会版だが、第4楽章では佐渡の意向で、旧版にあった3回目のハンマー打撃が復活され、旧版の指定と同じ第783小節1拍目に一撃が加えられた(※追記)。
 この「ハンマー台」は、ステージ奥に階段をつけた形で設えられ――ある人が運動場の「朝礼台」みたいだと評したが、巧い表現だ――打楽器奏者が宗教儀式のようなものものしい身振りでハンマーを打ち下ろしていた。

 至近距離にあったP席のお客さんの中には、肝を冷やした人もいたことだろう。1人、最初のハンマー打撃の際にびっくりして飛び上がった人がいたのが遠くからも見え、思わず笑ってしまったが、――まあそんなことはどうでもよい。
 スケルツォ楽章は、スコアの指定に従い、第2楽章として置かれていた。

 佐渡裕が後期ロマン派の交響曲を指揮したのを聴いたのは実に久しぶりだが、意外にあっさりした音楽づくりになっていたのは予想外であった。昔だったらもっと力まかせにオーケストラを怒号咆哮させたろうが、今回は、彼としては意外に落ち着いた、均衡を重視した演奏をつくっていた。それはそれで結構であろう。
 しかし、それはあまりに「淡々と」してはいなかったか? ダイナミックな流動性はあっても、感情の最も深いところから湧き起こって来るものが、この演奏からは、残念ながら感じられなかったのである。

 【追記】3度目のハンマーが挿入された個所は、旧版スコア指定の第783小節でなく、第773小節だったとコメントをいただきました。私の記憶違いでした。ありがとうございました。

5・26(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団 マーラー「大地の歌」他

   サントリーホール  6時

 前半にはモーツァルトの「ハフナー交響曲」が演奏されたが、スダーンも昔とは随分変わって来たな、という感。

 90年代に彼は東響を指揮してモーツァルトの交響曲を盛んに取り上げていたが、その頃のかっちりと仕上げられた歯切れのいい演奏に比べると、今回のは、すっと肩の力を抜いた、柔らかい豊麗なスタイルの「ハフナー」になっている。デュナーミクの綿密な設定はいつもながらだが、それを除けば、「これがスダーンのモーツァルト?」と訝りたくなるほどだ。プログラム後半に置かれているマーラーへの先導としたわけでもないだろうが、些か意外ではあった。
 ただ、この演奏は、以前のそれに比べ、余裕感においては勝るが、緊張感においては一歩を譲るだろう。

 一方マーラーの「大地の歌」は、スダーンがモーツァルトやブルックナーにおいてだけでなく、マーラーの作品においても卓越した解釈を示す指揮者であることを如実に証明した演奏であった。
 それは如何にもスダーンらしく、がっしりと強固に構築された、均衡の豊かな演奏である。オーケストラの響きも明晰で、第1楽章など、これほど各声部が混濁せずに聴き取れたのは珍しい。

 第6楽章(告別)では、抑制したテンポによる、深淵を思わせるような重々しい暗さも印象的であったが、最後の「春が廻り来ればまた花が咲き、緑が萌え出ることもあろう」の個所をはじめ、スダーンの指揮には常にある種の節度のようなものがあって、過度の感情にのめりこむことはない。これが演奏に良い意味での重心と均衡を生み出している。

 それにしても、この「告別」楽章での、オーケストラの精緻さ、スケールの大きさ、緊迫感、それに美しさは、出色のものであった。これは、スダーンの指揮によることももちろんだが、それとともに東京交響楽団の総力を挙げた演奏のたまものでもある。フルートとオーボエの各1番奏者も素晴らしい。ホームグラウンドのホール(ミューザ川崎)が使えないという苦境にありながらも、このオーケストラがなお快調さを維持しているのは、嬉しいことである。

 「大地の歌」のソリストは、ビルギット・レンメルト(Ms)とイシュトヴァーン・コヴァーチハージ(T)。
 おなじみの名歌手レンメルトは、「告別」では流石に深みを示した。テノールはもちろん頑張っていたが、この曲は、そもそもテノールに損な役回りを強いる管弦楽編成である・・・・。

5・26(土)ル・ポエム・アルモニーク

   神奈川県立音楽堂  3時

 フランスの古楽アンサンブル「ル・ポエム・アルモニーク」が、6人の器楽奏者、3人の男声歌手、1人の女声歌手という編成で来日した。音楽監督はヴァンサン・デュメストル(テオルボ他)。
 レパートリーによって編成をさまざまに変えるそうだが、今回のこれが、コア・メンバーといってもいいメンバーなのだそうである。

 プログラムは「ヴェネツィア~謝肉祭の街のざわめき」と題し、モンテヴェルディ、マリーニ、マネッリ、フェラーリなど16~17世紀の作曲家たちの作品を集め、ある一つの愛のストーリーを構成するように配列してまとめたものだ。

 歌もこの上なく表情豊かで雄弁なものだが、古い楽器の織り成す響きの、何と典雅で豊饒なこと! 清涼にして官能的、静謐にして劇的。それはもう陶酔的な心地良さの極みである。休憩なしの約70分が、あっという間に過ぎ去った。
 こんなに快いコンサートなのに、客席の後方3分の1ほどが空席だったというのは、何とももったいない話であった。

5・25(金)マリア・フォシュストローム・アルト・リサイタル

     洗足学園音楽大学 講堂(2400教室)  7時

 名前も顔も、どこかで一度出会ったような記憶が・・・・と思ったら、昨年9月(10日)に名古屋で川瀬賢太郎指揮名古屋フィルを聴いた時に、マーラーの「亡き子をしのぶ歌」を歌った人だった。
 スウェーデンのアルト歌手で、リサイタル等のため来日しているのだが、今日は学内演奏ということで、特別無料公演である。しかし2時間、たっぷりと本格的な歌唱を聴かせてくれた。

 最初のシューベルトの「ます」「糸を紡ぐグレートヒェン」「魔王」など5曲は少しぎこちない歌唱だったが、そのあとのペッテション=ベリル(スウェーデンの作曲家)の歌曲3曲と、グリーグの歌曲6曲になると、人が変ったように、底力のあるスケールの大きな歌唱を繰り広げて行く。さすが北欧ものは、圧巻である。
 プログラム最後の長大なマーラーの「告別」も、やや大味なところもあるとはいえ、陰翳の濃い歌いぶりで聴き応えがあった。

 ピアノは、マッティ・ヒルポネンという人。ラップランド出身だそうだ。

【追記】
 「魔王」を歌う時に、こういう方法もあるんだな、と面白く思ったところがある。
 終り近く、魔王の「来ないなら力づくでも連れて行くぞ so brauch ich Gewalt!」の最後の一言を、彼女は威嚇するように上半身を激しく前方に突き出して叩きつけるように歌い、次いでピアノの近くまでのけぞりながら片手で恐怖を防ぐようにしつつ子供の歌詞「お父さん、お父さん、魔王が僕を捕まえた Mein Vater, mein Vater,」を歌った。
 かなり「濃い顔」の人だから、「Gewalt!」をそのような身振りを交えて歌われると、聴衆もギョッとさせられる。

 歌曲リサイタルだから、歌唱の表情だけで全てを表現できれば「演技」など不要だとする考えはもちろんあろう。が、聴衆に歌の意味を詳しく解らせるようにするには、時にはこういう手法もあっていいのかな、という気もしたのだった。

 それにしても、この「Gewalt!」の言葉と同時に、ピアノがそれまでのppから突然fffに爆発するという、シューベルトのその見事な劇的感覚には、ただ感嘆するしかない。

5・24(木)コンポージアム2012 細川俊夫の音楽

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 宮田まゆみの笙による「光に満ちた息のように」(02年初演曲)で幕を開けた細川俊夫の作品集コンサートは、準・メルクル指揮NHK交響楽団による「夢を織る」(10年)、再び宮田まゆみのソロによる「さくら~オットー・トーメック博士の80歳の誕生日に」(08年)と続き、最後はまたN響の「星のない夜~四季へのレクイエム」(10年)で閉じられた。

 この最後の曲は50分ほどの長さの、1945年のドレスデン大空襲とヒロシマの悲劇が題材として織り込まれた大規模な作品で、半田美和子(S)、藤村実穂子(Ms)、東京音楽大学合唱団、2人の語り手(名はクレジットされていない)が参加している。オーケストラ作品2曲は、いずれも日本初演とのこと。

 細川さんの音楽――特にオーケストラ曲は私の好きなタイプのものだから、今回も楽しみにしていた。
 最後の「星のない夜」は、細川さんの作品としては珍しくカオス的な咆哮もある音楽で、そこに乗せて語られる「ドレスデン空襲体験者の回想」が怖ろしく生々しい効果を発揮しているのには慄然とさせられたが、ただ、楽曲全体としては、――力作には違いないのだが――緊密な構成には今一歩、という印象もなくはない。

 その点では私は、「夢を織る」での、彼らしい静謐な曲想でまとめられた十数分の作品の方に魅力を感じる。この曲でも、作曲コンセプトは「月夜の蓮」に共通したものがあり、また風の音のような響きで遠く溶解して行く手法は、以前の「循環する海」など「海」シリーズに共通したものがある。

5・23(水)ダン・エッティンガー指揮東京フィルハーモニー交響楽団 
ショハット:オペラ「アルファとオメガ」

       サントリーホール  7時

 イスラエルの作曲家ギル・ショハット(1973~)が2001年に発表したオペラ「アルファとオメガ」の、コンサートスタイルによる日本初演(一部カットあり)。ヘブライ語歌詞による原語上演である。
 但し今日は2日目だから、本当の日本初演は5月20日の定期公演(オーチャードホール)でということになる。

 これは、アダムとイヴの物語のヴァリエーションともいうべきもの。あのエドヴァルド・ムンクが画いたリトグラフ集(20枚近い)に基づいたストーリーだというのも面白い。

 物語は、ある島に住む「最初の男と女」アルファとオメガに訪れた悲劇で、オメガは蛇の誘惑がもとで獣愛に陥り、半人半獣の子を次々と生む。
 従って、われわれ人類は彼らの子孫なのであり、「人」と「獣」との両性を備えた存在なのである――という、少々やり切れない自虐的な象徴的内容だ。
 オメガの母親としての苦悩や、裏切られたアルファの絶望と怒りと復讐なども、詳細に描かれる。大詰めでは、怒りに駆られて母オメガを殺した父親アルファを、今度は子供たちが殺す。人間の性(さが)の暗部を抉り出した物語である。

 それゆえ、プログラムに掲載されている翻訳解説も、「この世に残るのは、屈折した欲情、禁じられた行為により出現した新しい人類」(アルデン)、「獣との混血児の心に真実の愛が芽生えることがあるのだろうか」(ヘルマン)といったように、このドラマに悲観的な現世と未来とを見る。

 ただし、ショハットの音楽は、最後の最後にいたって、「それでもまだ希望は残されている」といった雰囲気の音調をも感じさせる。――といっても、それが映画「博士の異常な愛情」ラストシーンと同じような逆説的音楽効果なのだと解釈されるなら、何をかいわんやだが・・・・。
 (この大詰めの音楽が、何となく一時代前のミュージカル――たとえばR・ロジャースの「回転木馬」終場や、バーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」終場――のような趣きを呈しているのが笑える)。

 音楽は、ポスト・モダニズムの範疇というか、その中でもごく中庸を得たスタイルと言えようか。
 シェーンベルクの「グレの歌」冒頭にも似た官能的な開始部を除けば、ほぼ全篇、阿鼻叫喚、怒号咆哮の、分厚い響層の連鎖だ。ダン・エッティンガー指揮する東京フィルが、終始轟々と鳴り渡る。オケ自体は、いい演奏だった。

 このオケの大音響は、舞台前方に位置した歌手陣――ヨタム・コーエン(アルファ、T)、メラヴ・バルネア(オメガ、S)、エドナ・プロフニック(蛇、Ms)の声の大半をかき消してしまう。P席に配置された新国立劇場合唱団も、聞こえない個所が多い。
 ところが一方では、脇役の邦人歌手たち――青山貴(虎)、児玉和弘(ロバ)、原田圭(豚)、畠山茂(熊)、大久保光哉(ハイエナ)らのうち、特に最初の4人の声は、えらくよく響いていたのだ――。
 もしや、日本人勢にはPAが使われたのかと思って、終演後の楽屋で制作スタッフに問い合わせたところ、むしろ逆で、日本人歌手の「ほうには」PAは使っていない、との返事なのであった。現場でのこの聴感上のアンバランスは実に不思議で、今でも合点が行かないのだが・・・・。

 ともあれ、面白いオペラを日本初演してくれたものである。この姿勢と、演奏者たちすべての力演を讃えたいと思う。

5・22(火)アレクサンダー・ロマノフスキー・ピアノ・リサイタル

    紀尾井ホール  7時

 ウクライナ生まれだから、「アレクサンドル」ではないかと思うのだが・・・・招聘元(ジャパン・アーツ)やレコード会社(ユニバーサル)の表記は「アレクサンダー」と英語読み。国籍が移っていれば別だが。
 今年28歳の若手で、17歳の時にブゾーニ国際コンクール優勝を飾り、昨年のチャイコフスキー国際コンクールでは4位に入賞、かつ「クライネフ賞」を受賞している。

 今日のプログラムは、ハイドンの「ソナタ変ホ長調Hob.ⅩⅤⅠ-52」、ブラームスの「パガニーニの主題による変奏曲」、ラフマニノフの「音の絵 作品39」抜粋と「ソナタ第2番」(1913年版)。アンコールではショパンの「ノクターン嬰ハ短調 遺作」とスクリャービンの「エチュード作品8-12」、ユシュケヴィッチ編曲のバッハの「バディネリ」などを弾いた。

 最近出たCD(ユニバーサル)で聴いた時にも同じような印象を得たのだが、どちらかといえば几帳面で端整な音楽をつくる若者だ。
 テクニックもあるし、音色もなかなかに豊麗ではあるものの、それが小奇麗な段階に留まっているのが物足りない。それぞれの作品に対しては彼なりに深い共感を抱いていても、それを魂の奥底から吐露するといったタイプではないのかもしれない。クライネフ賞を得ただけあって、ラフマニノフの作品の方に良さが聞かれる。

5・20(日)二期会ニューウェーブ・オペラ劇場 「スペイン時間」「子供と魔法」

     新国立劇場中劇場  2時

 ラヴェルのオペラ2本立て上演。加藤直の演出と、ジェローム・カルタンバックが指揮する東京交響楽団の演奏。二期会の若手たちがダブルキャストで出演している。今日は2日目である。

 「スペイン時間」での増田寿子による時計が並ぶ舞台装置は可愛いし、「子供と魔法」での太田雅公による衣装も趣向が凝らされている。若い歌手たちも一所懸命やっていて、それはそれでいいのだが、――何と言ったらいいのか、フランス語の発音も含めて、わが日本人がフランスものの、洒落たコミカルな味の舞台をやるというのは、つくづく難しいものだなあと改めて思わされてしまう。
 シリアスな舞台(「火刑台上のジャンヌ・ダルク」とか「カルメル会修道女の対話」とか)ならサマになるだろうけれど・・・・。

 カルタンバックの指揮は、「子供と魔法」では、ラヴェルのしなやかで幻想的な音楽の良さを何故か全く生かしきっていないことに不満を抱かせる。このオペラの音楽がこれほどまとまりなく聞こえたのは、初めてであった。

5・19(土)沼尻竜典指揮群馬交響楽団 ショスタコーヴィチ「交響曲第4番」他

   群馬音楽センター  6時45分

 4時半頃の新幹線に乗り、5時半頃に高崎に着く。丁度いい時間だ。

 群馬交響楽団の定期演奏会、今日は首席指揮者兼芸術アドヴァイザー・沼尻竜典の指揮で、三善晃の「祝典序曲」、バルトークの「ヴィオラ協奏曲」(ソロは今井信子)、ショスタコーヴィチの「交響曲第4番」という、これまた極めて意欲的なプログラムである。 

 しかも演奏内容はすこぶる充実していて、在京オーケストラも顔色なしといえるほどの水準なのである。地方都市オーケストラがこんなに気を吐いているのだということをもっと広く知らしめるために、われわれジャーナリズムも努力しなければならない。

 このドライな、バサバサした響きのホールで、群響は本当に良くやっていると思うが、こちらの耳が慣れたのか、それとも今日の演奏が図抜けてバランスが良かったのか、超大編成の「祝典序曲」も「第4交響曲」も、極めてまとまりの好い演奏だったのには感服した。

 前者はたった4分ほどの長さながら、後者に匹敵するほどの大編成を要するという、おそろしく演奏コストの高い(?)作品である。1970年万博のために書かれて以来、これまでどのくらい演奏される機会があったのだろう。
 プレトークでのマエストロ沼尻の話によれば、「エキストラを大量に呼ばなければならないこんな小品は普段なら取り上げることはまずないが、たまたま《4番》のような大編成の曲を手がけたので、これ幸いと一緒に演奏することにした」のだそうである(これは、彼の発言そのままではなく、多少アレンジしてある)。ちょっとガシャガシャした、騒々しい曲だ。

 ショスタコーヴィチの「4番」は、以前ここで聴いた「7番」を遥かに凌ぐ演奏であった。
 作品のレベルにも雲泥の差があるから当然だろうが、聴いていてつくづく凄い音楽だと思わされたことが、その演奏の良さの証明である。こういう演奏に出くわすと、東京からわざわざ聴きに来た甲斐があったと思う。
 オーケストラの音に奥行感や空間的な拡がりが不足するのは、ここのホールのアコースティックのせいだから致し方ないが、その代わり、ギュッと凝縮した密度の濃さが感じられ、これはこれで効果的である。
 第1楽章での大強奏などには、デモーニッシュな雰囲気が満ち溢れていた。ただ、フィナーレでの最後の爆発個所は、コーダの音楽における白々とした廃墟の如き恐怖感の前触れとして、更に破壊的で自己破滅的な狂乱になってもいいかと思ったのだが・・・・。

 これら2曲の間に演奏されたバルトークの「ヴィオラ協奏曲」は、オーケストラそのものは前後2曲の大曲の中に埋没しかけたような感もあったが、それを救ったのが今井信子の、並外れて官能的で、しかも人間的な温かみを感じさせ、刻々と色合いを変えて歌われて行くソロであった。この人もまた、年齢を重ねるに従っていよいよ素晴らしい音楽を創ることのできる、素晴らしいヴィオリストである。
    音楽の友7月号 演奏会評

5・19(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団
ラフマニノフ「協奏曲3番」とチャイコフスキー「ポーランド」

    サントリーホール  2時

 日本フィルが目覚しい上昇線を辿っていることは、これまでにも繁く述べた通り。
 首席指揮者アレクサンドル・ラザレフの厳しい指導の成果は、就任以来4シーズン目を迎えている今、極めて良い形で花開いているように思われる。

 今日は前半に上原彩子をソリストに迎えてのラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」、後半にチャイコフスキーの第3交響曲「ポーランド」というプログラムだったが、いずれも激烈なエネルギーの裡に引き締まった構築を示した快演だった。
 オーケストラの技術的な水準とか、ニュアンス豊富な表情とかいう面では、必ずしも完璧とは言い難いけれども、楽員すべてにある種の燃えたぎる熱情といったものが感じられる――という点こそ、何より好ましいものなのである。

 ラフマニノフでは、コンチェルトにしては珍しいほど、オーケストラが仁王の如く強靭そのものの鳴りっぷり。さしもの上原彩子のソロさえ霞みかけて聞こえたが、これは此方の聴いた席(RC上方)の位置のせいかもしれぬ。ただ今日は、彼女にしては少し力んでいたのか、珍しく少々生硬な演奏に聞こえたのだが如何に。
 第3楽章大詰めでのラザレフの煽りはなかなか壮烈だったが、日本フィルが実に勢いよく、しかも音楽の形を些かも崩さず、完璧に決めて見せたのは立派であった。この曲は最後がこのように鮮やかに決まると、聴衆もワッと沸くという具合に相場がきまっている。

 「ポーランド」では、両端楽章が猛烈な演奏だったが、最強音が硬質で、あまり美しい音とは言えないために、もう少し余裕のようなものが欲しいところ。その点では、弱音が妖精のように飛び交う第4楽章(スケルツォ)に、ラザレフらしい色彩感があふれていた。

 第5楽章大詰めの「プレスト」は、6年前に読響を指揮した演奏と同様、猛然たる加速のプレスティシモと化す。他の指揮者の2倍か3倍のテンポといえようか。「第4交響曲」に通じる解釈でもある。最後のフォルテ3つのフェルマータを振り終りつつ、ラザレフはいつものように猛烈な勢いで客席に半身を振り向け、大拍手とともに終演。

 今日はそのまま東京駅に向かい、新幹線で高崎へ、群響の定期を聴きに行く。

5・18(金)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
「金の紡ぎ車」「嘆きの歌」

   トリフォニーホール  7時15分

 前半にドヴォルジャークの交響詩「金の紡ぎ車」、後半にマーラーの初期の大作「嘆きの歌」(初稿版)。

 まず何よりも、定期にこのような珍しいレパートリーを果敢に取り入れたことを讃えたい。
 アルミンクと新日本フィルの9年にわたる活動の中でも、レパートリーの拡大は、その大きな業績の一つであった。これは、わが国のオーケストラの歴史を語る中で、先年のゲルト・アルブレヒト=読売日響のそれとともに、高く評価されて然るべきものである。

 特にドヴォルジャークの交響詩など、わが国のオーケストラの定期ではほとんど聞けないものだ。中には長いばかりで面白くない曲もあるけれど、この「金の紡ぎ車(作品109)」は、「水の精(作品107)」とともに、親しみやすい曲の一つだろう。どこかで聞いたような、日本の何かの唱歌に似たようなフシもたくさん出てくるし、所謂ドヴォルジャーク節満載の音楽である。
 今回は大幅カットのある演奏だった(この根拠は私には解らない)が、「いいとこ取り」のナマで聴けたのはマシと言うべきか。

 「嘆きの歌」も、初稿版(3部構成)で演奏されたのは、大いに結構なことである。
 第1部の「森のメルヒェン」は、マーラー自身の改訂版ではカットされている部分で、マーラーの若書きの音楽は確かに冗長で要領が悪い(悪過ぎる?)し、長く感じさせることも事実だが、この部分がないと物語の辻褄が合わないので、やはり復活させて演奏されなければならない。

 アルミンクと新日本フィルは、大熱演だった。協演は栗友会合唱団、ソリストは天羽明惠(S)、アネリー・ペーボ(A)、望月哲也(T)、イシュトヴァーン・コヴァーチ(Br)、東京少年少女合唱隊メンバーのソロ4人、といった顔ぶれで、いずれもそれなりに熱演していた。ただ、ボーイ・ソプラノとボーイ・アルトは、声の安定度を改善する必要があるだろう。栗友会合唱団の中のソリは、良かった。

 さて、そうした努力は素晴らしかったけれども、演奏の細部となると、疑問のところが少なくない。
 まず、オーケストラ全体の、何となく締まりのない演奏と、その響きである。一昨年あたりまでの、新日本フィルのあの引き締まって透徹した音色の美しさは、何処へ行ったのか? 
 オーケストラは生き物だし、日によって出来栄えが違うことは重々承知の上だが、大震災以降の演奏を聴くと、2000年代にはあれほど輝いていた鉄桶のアンサンブルの密度が著しく薄められていることに、愕然とせざるを得ないのだ。ホルンは相変わらず不安定で、「金の紡ぎ車」冒頭から音を外しっ放しだったし(今年に入ってから聞いた演奏会ではもう4度目だ。明らかに重症だろう)、トランペットも、またかつてはあんなにしっとりしていた木管群でさえも、何か気の乗らない演奏に聞こえてならないのである。

 2曲とも、以前だったらこの指揮者のもとで、もっと弾力のある躍動的な演奏をしたであろう。
 ともに不気味な要素を秘めた音楽なのに――ほんの一例だが、たとえば「金の紡ぎ車」では前半部分の木管の不安の表情個所、「嘆きの歌」では第2部最初の怪奇なクレッシェンド個所などだ――いずれも単調で素っ気ない、平板な演奏に留まっていたのは、本当に残念である。

 なお、これは解釈の問題だが、「嘆きの歌」第3部での大編成のバンダの音は、非常に遠すぎて、緊迫感を失わせた。ここは明らかに「ローエングリン」第2幕冒頭の影響を受けた個所で、いわば舞台が反転し、王と女王の婚礼を噂する民衆のいる場面から王宮の賑わいを聞くような効果を生むところだが、そこで「彼方の祝祭の音」が明確に聞こえなくては、作品本来の狙いが生きて来ないだろう。明日の演奏では、改善されるだろうか?
    音楽の友7月号 演奏会評

5・17(木)アネッテ・ダッシュ・ソプラノ・リサイタル

   トッパンホール  7時

 近年好調のソプラノ、アネッテ・ダッシュのオペラのステージは既にいくつか観ているが、リートのリサイタルをナマで聴くのは、これが初めてだ。「シューベルティアーデ」にも毎年出演している彼女の歌曲は如何に。
 トッパンホールという、歌曲には最適のキャパシティで、それをたっぷりと味わうことができた(このホールが主催するシリーズには、このところ良いアーティストが目白押しである)。

 今日のプログラムは、第1部にシューベルトの歌曲が13曲、第2部にブラームスが同じく13曲。不思議な数合わせだ。
 前半でも後半でも、それぞれ13曲を続けて――つまりその間一度も袖に引っ込んだりせずに――約40分間、歌ってしまうのだから、凄いエネルギーである。

 シューベルト篇には比較的沈んだ曲想の歌が、ブラームス篇には比較的開放的または劇的な曲想の歌が多く組まれていたが、彼女の歌唱からいうと、叙情的なものより、むしろ劇的な曲想の歌曲の方に良さがあったように感じられる。やはりオペラ歌手としての特性が強い人だからであろう。
 ブラームスの「サロメ」や「乙女の呪い」といった曲でのドラマティックな表現はすこぶる迫力があったし、シューベルトのおなじみ「ます」でも、鱒が捕えられるあたりの音楽への表情づけなど、まさにオペラ的な盛り上げ充分なものがあった――しかもそういう個所では、ピアノのヴォルフラム・リーガーが、すこぶるドラマティックな演奏で煽り立てるのだから面白い。

 アンコールは、ブラームスの「49のドイツ民謡集」から2曲と、シューベルトの「至福」及び「音楽に寄す」。

 客席は満杯。前半のシューベルトでは曲間に拍手はせず、全13曲の流れに集中して聴いていた客席だったが、何故か第2部に入ってから突然、1曲ごとに拍手をしたり――それはまだいいとしても、後奏のピアノの音が未だ消えぬうちに手を叩き始める人(2人?)が出て来たりしたのは、どうしたことだろう。周囲の顰蹙と制止に遇ってそれは収まり、4曲目以降は再び強い集中力が客席に戻った。

5・16(水)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィル ブルックナー「4番」

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 東京シティ・フィルと、その桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎による新しいブルックナー交響曲ツィクルスは、毎シーズンに1回の割りで進められて行くという。
 今日はその第1回で、まず第4番「ロマンティック」が取り上げられた。

 これは疑いなく、新しいツィクルスの劈頭を飾るにふさわしい力演である。
 飯守の音楽づくりは、堅固な構築の中に、明確な形式感と均衡とを備え、素朴ながら毅然たる力と風格を漲らせだものだが、その一方で、ヒューマンな温かさをも感じさせる。近年ますます円熟の度を深めつつある飯守の本領が発揮された演奏ということができよう。

 第1楽章ではオーケストラに足を引っ張られたような気配もあって、激しい気魄こそ感じさせたものの、演奏そのものは少しまとまりに不足する感もなくはない。が、第1楽章コーダで全身全霊をこめた昂揚をつくり出すのに成功したあとは、オーケストラの不備をも乗り切って、すこぶる剛直なブルックナー像を打ち建てて行く。

 特に第3楽章は、私が最近ナマで聴いたこの曲の演奏の中でも、最も優れたものであったと言ってよい。デモーニッシュなエネルギー感は並外れて強烈だったし、それはトリオの牧歌的な美しさと絶妙な対比を為していた。
 フィナーレのコーダでも、テンポをぐっと落して、一段また一段と高みへ盛り上げて行く。その呼吸が見事。

 シティ・フィルも、ホルンには終始ハラハラしたけれど、とにかく渾身の大熱演であった。弦は14型編成ながら、量感に不足はない。その健闘は称えられていい。

 プログラムの前半には、モーツァルトの美しい「協奏交響曲変ホ長調K.364」がおかれていた。演奏会全体としては少し長いものになったが、飯守とシティ・フィルの演奏は美しく、温かい。
 ソリストはヴァイオリンのジェニファー・ギルバートと、ヴィオラのハーヴィ・デ・スーザ。この曲は得てしてヴァイオリンのみが映えて、ヴィオラはよほど上手くないと目立たなくなってしまうものだが、今回は両者とも爽やかな演奏を聴かせてくれた。

 ジェニファーは、あのNYフィル音楽監督アラン・ギルバートの妹さんである。既に日本にはおなじみの存在となっている名手だ。
 現在はフランス国立リヨン管弦楽団のコンサートミストレスの要職を務めるかたわら(?)、大野和士の肝煎りにより、同市で何とラーメン店(!)を経営し始めているそうである。知人のレコード・プロデューサーは、その店で彼女が作った美味しいギョウザを食べさせてもらったと、羨ましい話をしていた。

     ⇒音楽の友7月号 演奏会評

5・15(火)下野竜也指揮読売日本交響楽団のライマン&シューマン

   サントリーホール  7時

 シューマンの「ヴァイオリン協奏曲」と「交響曲第2番」を核とするプログラムだが、その前に演奏されたのが、ドイツの作曲家アリベルト・ライマン(1936~)の「管弦楽のための7つの断章~ロベルト・シューマンを追悼して」という作品。

 この曲には、シューマンの遺作「天使の主題による変奏曲」と「ヴァイオリン協奏曲」第2楽章とに共通して現われる主題の一部が引用されているので、この日のプログラムは統一されたコンセプトを持つことになる。
 しかも下野竜也と読売日響は、今秋と来秋の日生劇場の特別公演で、ライマンのオペラ「メデア」と「リア」をそれぞれ日本初演することになっているため、その予告編を兼ねての――という意味にもなるわけだろう。いつもながら下野のプログラミングは、凝ったものである。

 そのライマンの「断章」は、15分程度の作品。シューマンのモティーフは冒頭から微かに姿を見せ、中程では明確な形を取って登場するが、作品全体ではやはり暗く重々しい、強面な響きが支配的で、その歯応えの強さが形容しがたい魅力を呼ぶ(秋に聴けるオペラは、さぞ強烈だろう)。

 シューマンの2曲では、弦楽器群を柔らかくたっぷりと量感豊かに響かせた演奏が特徴的だった。読響の弦の良さが際立つ。
 「ヴァイオリン協奏曲」では、シューマンがこの曲で見せる不思議に白々とした叙情感が、ロマン的な柔らかい色合いのオーケストラと、若き三浦文彰の引き締まった瑞々しいソロとによって描き出され、美しい演奏となっていた。

 「第2交響曲」の方では、第1楽章コーダや第2楽章での、下野の巧みなテンポの煽りが、とりわけ強く印象に残る。
 特に第2楽章は、昔シノーポリが精神病理学とかいう観点から「苛立たしく痙攣的な」凄まじいアッチェルランドを行なった演奏と、バーンスタインが感情の激するままに加速して行った疾風の如き演奏とが、今でも私の頭の中にこびりついて離れないのだが、今日の下野の指揮にも、なりふり構わず突き進むという情熱的なものが感じられて、私には大いに好ましかった。この楽章の演奏には、やはりこういう忘我的な要素があってしかるべきなのである。

 なお三浦文彰は、コンチェルトのあとで、パガニーニの「パイシェッロの《わが心もはやうつろになりて》による変奏曲」を猛烈な勢いを以って弾きまくり、弾き切った。その鮮やかさに、客席からはどよめきが起こる。
 彼は未だ20歳そこそこ(16歳でハノーファー国際コンクール史上最年少優勝)。傍若無人なほどのエネルギーがよく似合う精鋭だ。

5・13(日)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルの「悲愴」と「ライモンダ」

   杉並公会堂(荻窪)  3時

 東銀座から荻窪までは、地下鉄とJR中央快速(四谷から)を利用すれば30分強で行ける。杉並公会堂は荻窪駅西口から徒歩10分ほど、そう大きなホールではないが、音響効果はなかなか良い。

 今日は珍しくもラザレフがプレトークを行ない、「チャイコフスキーがもっと長生きしていたら、ストラヴィンスキーらの新しい傾向の音楽の形成にも重要な関わりを果たしたことだろう」などの見解を披露した。

 プログラムは、グラズノフのバレエ音楽「ライモンダ」の抜粋(45分ほど)と、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」。
 「ライモンダ」の音楽など、アンコールで演奏される何曲かを除いては滅多にナマで聴ける作品ではないが、色彩的な響きをオーケストラから引き出すのに長けたラザレフの指揮で聴けば、結構愉しめる曲である。

 だがラザレフと日本フィルの良さが発揮されたのは、やはり「悲愴」であった。
 何より、オーケストラの音色が明晰になっているのが好い。量感のある響きの中にも、各声部の動きがはっきりと聞き取れる。これは、日本フィルとしては、ラザレフ着任以前にはおそらく、90年代の広上淳一の指揮で聴けて以来のものだろう。
 今回は管楽器群――特に金管楽器群を浮き立たせて特別な効果を生み出させたラザレフの設計が面白かった。ただ、その金管が今一つ緻密だったら、ということもあったが。

 激しい動きの第3楽章をむしろ抑制気味にして、その他の3つの緩徐楽章――第1楽章にも緩徐部分は多い――を緻密な構築で際立たせた解釈にも、納得が行く。
 そういえばラザレフはプレ・トークで、「中間2楽章は、両端楽章に対しての間奏曲ともいうべき存在である」(つまり頂点は第1楽章と第4楽章にある)と語っていたのである。興味深い見解だ。

 第1楽章序奏のアダージョの終りからアレグロの第1主題にかけてのヴィオラの音色には、以前の日本フィルにはなかったような艶と色彩があふれていた。ここにも、最近のこのオケの昂揚が感じ取れるだろう。

5・13(日)METライブビューイング ヴェルディ:「椿姫」

   東劇(銀座)  11時

 あのザルツブルク音楽祭で話題になった、ウィリー・デッカー演出のプロダクション。

 ヴィオレッタに残された命の時間を示す大時計が舞台に置かれ、ト書では第3幕にほんの僅か姿を見せるだけの医師グランヴィルが、ここではドラマ冒頭から登場してヴィオレッタを見守る(もしくは死神の如くヴィオレッタに重圧をかける)という、よく知られたあのプロダクションである。
 私はそう好きな舞台ではないので、興味はむしろ歌手陣にあった。

 今回のMET公演では、ナタリー・デセイ(ヴィオレッタ)、マシュー・ポレンザーニ(アルフレード・ジェルモン)、ディミトリ・フヴォロストフスキー(ジョルジョ・ジェルモン)が主演している。

 デセイのヴィオレッタは、われわれ日本のファンには、2010年7月のトリノ・オペラ来日公演で既におなじみだ。その演技の微細な巧さは、ザルツブルクでのネトレプコに比べ些かも遜色ないどころか、それを凌ぐところさえあるだろう。もっとも、この映像収録の日(4月14日)は、どうも少し声の調子が悪かったようだが・・・・。
 フヴォロストフスキーのジェルモンは彼の当り役の一つ。演出により演技のニュアンスをさまざまに変える人だが、今回は横柄で尊大で冷然とした、不気味な重圧感を漂わせる父親像という演技を披露して、これも見もの。

 指揮は、またまた首席指揮者ファビオ・ルイジだ。今シーズンのMETではいったい何回の公演を指揮しているのかと思わせるほどの獅子奮迅の活躍である。ワーグナーはともかく、イタリア・オペラを振ると、流石にいい。
 1時45分終映。

5・10(木)下野竜也指揮読売日本交響楽団
ドヴォルジャーク交響曲シリーズ完結篇

    サントリーホール  7時

 前半は、ドヴォルジャークの面倒をよく見たブラームスの作品から、「ヴァイオリン協奏曲」。
 ソリストのクリストフ・バラーティという青年はハンガリー出身だが、演奏はきわめて正面切った、手堅いものであった。

 アンコールで弾いたエルンストの「シューベルトの《魔王》による大奇想曲」も、全く形を崩さぬしっかりした構築の演奏だったが、その中にも父親・魔王・子供の表情をはっきり描き分けるという、なかなか芸の細かいところをも披露していた。興味深いヴァイオリニストである。

 後半が、ドヴォルジャークの「第2交響曲変ロ長調作品4」。
 下野=読響のドヴォルジャーク交響曲シリーズ(全9曲)がこれで完結。お疲れ様でした・・・・と同時に、珍しい曲も聴かせてくれて、感謝したい。何せ日本では、この作曲家の「1番」から「6番」までの交響曲は、ほとんど演奏されることがないのだから。

 しかし、この若書きの「第2番」、これまで何人かの指揮者のレコードを聴いたが、面白いと感じたことはかつて一度もなかった。何が何だか解らない曲、というのが正直なところだったのである。
 今日の下野=読響の演奏を聴いて、その印象も少し変わった。やはりナマで聴くと、音楽のつくりや、主題の動きなどが明確に理解できるというものだ。

 もっとも、楽屋でマエストロ下野から話を聞くと、「ある程度いじらないと、ごちゃごちゃのまま聞こえてしまう曲だから」だそうで、――つまり、声部のバランスなどにかなり匙加減が必要だということなのだろう。
 たしかに今日の演奏は、その点、実に巧くまとめられていた。第2楽章では、美しい個所も際立っていた。特にフィナーレのコーダで、アレグロ・コン・フォーコからみるみるテンポを速めてヴィヴァーチェへ盛り上がり、それが頂点に達して終結するまでの個所など、下野という人は本当に手際が良く、設計が巧いな、と感心させられる。読響の演奏もいい。

 おかげでこの「2番」、悪くない曲だと思った。――さりとて、これから何度も聞いてみようと思うまでにはならなかったが・・・・。

5・9(水)イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル

    サントリーホール  7時

 一昨年5月(2006年の時も)の来日の際の演奏があまりにユニークだったために、今回も覚悟して聴きに出かけたのだが、こちらが「武装」しすぎていたせいか、思いのほか「まとも」だった・・・・いや、彼の演奏としては「まともに近かった」ように感じられたと言ってもいい。

 第1部のショパンの「葬送ソナタ」の第1楽章主部が、まさに「アジタート」の指定どおりに激しいテンポで弾かれ始めたのは意外だったし、第2部1曲目のショパンの「ノクターン 作品48の1」(普通6~7分かかる)が、僅か9分で済んでしまった(!)のも、前回のポゴレリッチからすれば、予想外と言えよう。

 彼に近い人々から話を聞くと、一昨年の彼と、今年の彼とでは、随分(仕事場での)雰囲気が違うという。
 一昨年は「ひとの話をちゃんと聞いているのかどうか分らないような」ことも多く、練習にも5時間くらい遅れて来たり、フィラデルフィア管とのリハーサルの時間を強引に変えさせたりするなど、かなり滅茶苦茶な雰囲気だったそうである(夏のザルツブルク音楽祭出演をドタキャンしたのもあの年だった)。
 それが今回は、「受け答えもきちんと真面目にしてくれる」し、練習時間にもピタリと会場入りして、「さあ仕事だ!」という雰囲気を漲わせるようになっていたという。「やはりあの頃は、その数年前に夫人を喪ったことも影響していたのかもしれないな」と、関係者は語っていたが・・・・。

 とはいえ、そういうバックステージの雰囲気の変化が、すべて直接その演奏解釈の変化に結びついているとは言い難いだろう。
 今回も、第1部の「葬送ソナタ」とリストの「メフィスト・ワルツ第1番」は、2曲合わせて50分(くらいか? 正確に測り損ねた。普通なら35分くらいだろう)もかかっていたし、第2部2曲目のリストの「ソナタ」は、何と50分(普通なら30分程度)を要していた。やはり、ポゴレリッチはポゴレリッチ、なのである。
 ただ、前回の時のように、原曲の形さえ定かでなくなるような解釈は、今回は概ね影を潜めていたのではないかと思う。

 彼の演奏の特徴についての拙見は、2年前にも書いたから、繰り返すのは止める。
 だが今回、つくづく強く印象づけられたことは、その強靭なピアニズムから生れる、音楽の形容し難い物凄さである。
 特にリストのソナタ! あの分厚い強烈な音塊が地を揺るがすばかりに炸裂する瞬間、眼を閉じて聴いていると、まるで暗黒の中から何か魔性的な巨大なものが猛烈な勢いで噴き上がって来るようなイメージに囚われ、空恐ろしいような感情に襲われる。しかも、あれだけ強靭な最強音を含むデュナーミクの対比の中にあって、その音色には、濁りも、刺激的なものも、全くない。むしろ清々しさまで感じさせるというのは、驚異的でさえある。

 この独特な音色こそは、ポゴレリッチの音楽がもつ最大の魅力の一つであろう。そして全曲にぴんと張りつめた凄まじいばかりの緊張力、叙情的な個所における旋律と和声との明晰な区別の面白さも――。

 このリストのソナタ、正直言って、これまではどんな演奏を聴いても、ヴィルトゥオーゾ的な力の誇示ばかりが耳について、少々煩わしくなるのが常だった。だが、この日のポゴレリッチの演奏を聴いて、初めてこの曲がもつ悪魔的な側面を垣間見たような気がしたのであった。
 これは、やはり、ある意味で一つの見事な解釈なのである。――ただし、しばしば聴きたくなるタイプの演奏ではないが。

5・7(月)新日本フィル創立40周年記念特別演奏会

   すみだトリフォニーホール  7時15分

 この日の午後、新日本フィル創立40周年記念と、音楽監督クリスティアン・アルミンクの最後のシーズン(13年夏まで)企画の説明、トリフォニーホール開館15周年記念などを含めた記者発表会が行なわれた。

 アルミンクは、来年8月にマーラーの「第3交響曲」を指揮して、10シーズンにわたる任期を終えることになる。
 ともあれ、アルミンクがこれまで果たして来ている役割は――たとえ昨年の大震災の直後にあれこれあったにしても――非常に大きい。
 90年代には目標を失い、あれほど荒廃していた新日本フィルを、着任以降見事に復活させ、独特の透徹した音色を確立させて演奏水準を高め、レパートリーを大胆に拡大して近代・現代の作品を積極的にプログラムに乗せ、さらには先鋭的な傾向を持つ売れっ子ハーディングやメッツマッハーを定期的な客演指揮者として招聘し、このオーケストラの路線とイメージと個性を明確にしてみせ、――等々、その功績は数え切れないほどある。

 席上では、ダニエル・ハーディング(Music Partner of NJP)の2013年秋以降2年間の契約延長が発表され、またアルミンクのあとにはインゴ・メッツマッハーが「Conductor in Residence」という肩書でシェフの役割を務めることが発表された。
 これは、新日本フィルにとっても、小澤征爾や井上道義、アルミンクら歴代のシェフ(もしくはそれに等しい指揮者)により脈々と継承されて来た「モダンな傾向のオケ」というべき路線を、さらに発展させる意味を持つだろう。
 この40年間、現場でずっとこのオケを聴いて来た私には、それは創立以来の「ブレない路線」に思えて興味深い。

 記者発表の最中、大ホールでこれからリハーサルに入るというハーディングが突然現われ、アルミンクと一緒に賑やかに記者連中へ短い挨拶を行なった。
 ハーディングの言うところでは、アルミンクとは昔からの知り合いで、自分は昔チビだったが、アルミンクはその頃から「スラリと背の高いいい男」だったとか。また席上では、2人が弟子だった頃についての小澤征爾による印象も紹介されたが、それによれば、ハーディングは昔から「大変なやんちゃ坊や」、アルミンクはその頃から「いい男」だった、とのことである。

 さて、「創立40周年記念特別演奏会」の方は、そのハーディングの指揮で行なわれた(もともとは当然、小澤征爾の予定だったらしいが)。
 プログラムはR・シュトラウスの「町人貴族」組曲、ワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」、マーラーの第1交響曲「巨人」という、後期ロマン派の香りにあふれるもの。しかも長大である。「巨人」の第1楽章提示部の反復もやったため、終演も9時50分近くになった。
 しかしこれはどれも力演、快演で、ハーディングと新日本フィルがベストの関係にあることを如実に証明していたと言って間違いなかろう。

 圧巻はやはり、藤村実穂子をソリストに迎えた「ヴェーゼンドンク歌曲集」であった。彼女の強靭で深みのある声と、ややストイックながら毅然たる風格を感じさせる表情による歌唱もさることながら、ハーディングと新日本フィルがつくり出した豊かなふくらみのある最弱音が見事の一語に尽きる。
 ともにあまり粘った表現でないだけに、作品の美しさがむしろストレートに出ていた。久しぶりに「ワーグナーの官能の世界」に酔う。

 「町人貴族」も、最初のうちはこういうしなやかな洒落っ気はやはり日本のオケには難しいのかなと感じられたものの、後半は調子も出て、小編成の弦楽器群の軽やかな響きも発揮された。

 そして「巨人」は、――第1楽章あたりではホルンがまたしても(!)頼りない音を出し、これは相当重症かなとヒヤヒヤさせられたが、何とかその後は切り抜けたようだ。
 演奏は第1楽章から第2楽章にかけエネルギッシュな昂揚を示したものの、ハーディングにしてはやはり未だストレートなタッチであり、フィナーレの狂乱も、むしろ音の均衡に配慮した構築のように感じられる。

 しかし、この曲でも、優れていたのはやはりピアニッシモの美しさだった。第4楽章の狂乱の合間にフッと訪れる、静寂の沈潜――今夜のハーディングと新日本フィルの最良のものは、こうした緻密な音づくりの瞬間にこそあったと言えるだろう。

5・6(日)METライブビューイング マスネ:「マノン」

   東劇(銀座)  1時30分

 ロラン・ペリーの演出で、コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラ、ミラノ・スカラ座、トゥールーズ・カピトール・オペラとの共同制作によるレパートリー・プロダクション。
 4月7日上演の映像で、指揮はまたファビオ・ルイジだ。

 今回は、アンナ・ネトレプコがタイトル・ロールを歌うのが売り物。
 たしかにここでも、彼女の華麗な姿はずば抜けた存在感である。彼女より歌の上手いマノン役は他にもいるが、彼女ほど演技の巧みなマノンは、他に例を見ないだろう。
 田舎娘が貴婦人に、やがて情欲に駆られる女に、そして落ちぶれた女に――と変身して行くさまを一つのオペラの中で演じ分けるというのは大変なことに違いないが、それをネトレプコは、ものの見事に果たして見せる。
 物語の最初の方での、茶目っ気のある愛らしい田舎娘のマノンと、「女」になってからのマノンとの、あの別人のような違いを、彼女は何と鮮やかに演じ分けていることか。

 共演は、ピョートル・ベチャワ(騎士デ・グリュー)、パウロ・ショット(レスコー)、デイヴィッド・ピッツィンガー(デ・グリュー伯爵)、クリストフ・モルターニュ(ギヨー)ほか。
 脇役にいたるまでがっちりと固められ、群集の動きも隙なくまとめられていて、舞台の雰囲気も熱い。

 ショット(ゾット? Szot)の歌の上手いのには感心した。一昨年3月のショスタコーヴィチの「鼻」では、「ミュージカル《南太平洋》で2008年にトニー賞を受け注目されている歌手がMETデビュー!」と騒がれていたので、何か「ミュージカル歌手がオペラに出て」話題になっているような雰囲気だったけれど、実は「オペラ歌手がミュージカルの舞台に出ていた」ということだったようである。あの時のコワリョーフ少佐役は絶品だったが、今回のレスコーもなかなか良かった。

5・5(土)ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(8)
ヤーン=エイク・トゥルヴェ指揮ヴォックス・クラマンティス+勅使河原三郎

   東京国際フォーラム ホールC(ドストエフスキー) 8時

 昨日と同一プログラムだが、今日は勅使河原三郎、佐東利穂子らのダンスが加わっているのが呼びもの。
 ダンサーは勅使河原を含め計6人。「カノン・ポカヤネン」(抜粋)の曲が進むにつれ数を増やし、痛悔の祈りとともに動きの激しさを増して行くあたりは圧巻であった。

 今日は会場が大きいので、1階後方からは合唱の響きが遠く聞こえ、あの清澄で深々としたハーモニーの美しさも昨日ほど伝わって来ないというもどかしさがある。次第に耳が慣れて来れば、それなりに感動はできるけれど。

 最後の「カノンの後の祈り」で、他のパートがフレーズとフレーズの合間に長い静寂を置いている時にも、ソプラノの高い最弱音だけがエコーのように切れ目なく響き続ける個所がいくつかある。あたかも、この世ならざる世界からの音を聴く思いだ。歌手たちの巧さ!
 そして、昨日もそうだったが、最終の「アーメン」の、壮大な静寂ともいうべきハーモニーの響きの美しさ。 
 私はキリスト教徒ではないが、純粋な音楽としてのその力には魅了されずにはいられない。

 8時の開演は、何故か15分近く遅れた。そのため、9時から「ホールA」のファイナル・コンサートに行きたいお客さんだろうか、演奏の最中から席を立って急ぎ足で出口に向かう人が続出。その出口が後方1個所に限られているため、通路をウロウロし、係員に慌しい囁き声で指示されるというケースが多く、ただでさえピアニシモの多いこの合唱と、まさにクライマックスに向かわんとするダンスへの集中力がかき乱されること夥しい。

 だが、もちろん大多数の聴衆は最後まで残り、カーテンコールを4回も繰り返し、ついにスタンディング・オヴェーションにまで至った。合唱団には、昨日の埋め合わせを果たしたということになるだろう。熱烈な拍手を送っている聴衆に、圧倒的に若い人たちが多いのはうれしい。ただ拍手は、どうも合唱団よりも、勅使河原三郎たちに対して強かったような・・・・。

 終演は9時過ぎ。ガラス棟ロビーで同業者たちと立ち話をしているうちに、時間はいつの間にか10時をまわる。
 この時間に行なわれているのは、もう「ホールA」のベレゾフスキーやウラル・フィルによるファイナル・コンサートのみである。コンコースにはお客さんもほとんどいなくなった。目に入るのは、あちこちで片づけをしているスタッフの姿だけ。祭りの終りは、いつも寂しい。

5・4(金)ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(7)
ヤーン=エイク・トゥルヴェ指揮ヴォックス・クラマンティス

   東京国際フォーラム ホールB5(ツルゲーネフ) 3時

 エストニアの混声合唱団。16人編成で、そのハーモニーの透明な美しさと完璧な均衡は、驚異的でさえある。

 プログラムはシリウス・クレークの「夜の典礼」、作曲者不明の聖歌、アルヴォ・ペルトの「カノン・ポカヤネン」からの抜粋。何といってもペルトの作品がこの合唱団のトレードマーク的存在だ。

 ゆっくりしたテンポで進み続ける「悔恨のカノン」の沈潜した雰囲気は独特のものだが、その最弱音で続くハーモニーに些かも不安定な揺れが感じられず、清澄な音色の中に息詰まる緊張感が終始保たれているところ、この合唱団の実力は恐るべきものである。

 最後に最弱音で「アーメン」が断続的に反復されて結ばれる個所など、各声部の完璧な均衡もさることながら、特に高音域のソプラノの音色の清らかさには、思わず居住まいを正したくなる。この最後の1分間を聴いただけでも、この「ヴォックス・クラマンティス」のコンサートを聴きに来てよかったという気がする。

 今回来日した3つの合唱団は、それぞれ最高水準にある団体ばかり。ちょっと渋めではあるものの、今年のLFJの中でも、最も良心的な企画と言えるだろう。

 お客さんの中には、欲張って次に聴く公演の予定をぎりぎりに組んでいるのか、脱兎の如く飛び出して行く人が毎回必ず20~30人いる。
 だが、演奏が終ってすぐ、カーテンコールでの答礼が始まるか始まらないかのうちに、アーティストのすぐ前を、荷物を抱え、列を為してドドドドと走って行くというのは、どうみても演奏者に対して礼を失した態度ではないか? 
 このコンサートでも、合唱団員たちは、目の前を物凄い勢いで横切って行く人々を見て苦笑していた。もっとも、直前まで人間業とは思えぬほどの完璧な美しい音楽を聴かせていた女声歌手たちが、走り去る人々を見て、互いに顔を見合わせ、口に手を当てて笑っている様子は、妙に人間的なものに見えたことはたしかだが。

5・4(金)ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(6)
モディリアーニ弦楽四重奏団とプラジャーク弦楽四重奏団メンバーの協演

   よみうりホール(トルストイ)  11時30分

 国際フォーラムから通りを隔てた読売会館の中にあるよみうりホール――今年は「トルストイ」という名が付されているが、東京のLFJコンサート会場の中では、アコースティックはここが一番マシだろう。

 フランスのモディリアーニ弦楽四重奏団がまずショスタコーヴィチの「弦楽四重奏曲第1番」を演奏し、次いでプラジャーク弦楽四重奏団のヴィオラとチェロが参加して、チャイコフスキーの「フィレンツェの思い出」を演奏するという趣向。
 すっきりした味のロシア音楽だが、演奏自体は活力があって、密度も濃い。

5・4(金)ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(5)
シネ・コンセール プロコフィエフ:「ピーターと狼」

   東京国際フォーラム ホールA(プーシキン) 午前10時

 ナントでは取材陣のみんなが絶賛していた「映画と生演奏によるピーターと狼」――私はその時には見られなかったのだが、今回初めて観て、なるほどこれは良く出来ているし、面白いものだと感心した。

 映画の方は、スージー・テンプルトン監督によるアニメだ。
 主人公のピーターは少し目付きが悪く、屈折した感じの子供に見えたが、それより猫と狼の表情が実にリアルで生き生きしているのが面白い。最後はピーターが狼を逃がしてやり、「自然の保護、和解の精神」を謳うといったストーリーがミソであろう。
 ナレーションは一切無く、映像上映と演奏だけで構成する仕組。狼が小鳥やアヒルや猫を追い回す場面など、さすがに映像はナレーションよりも迫力がある。

 演奏していたのは、LFJ来日オーケストラ軍団の中核をなす、ドミトリー・リス指揮が指揮するウラル・フィルハーモニー管弦楽団。今日の演奏は珍しくまとまりが良かった。

 この5000人収容の「ホールA」、PAを使わないとうしろまで聞こえないとか何とか、評判があまりよろしくないが、1階席前方10列あたりまではナマの音が意外と良い音質で聞こえることが判明。今日は初めて8列目で聴いたのだが、ウラル・フィルの弦がすこぶる柔らかく、きれいに聞こえたのであった。

5・3(木)ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(4)
ウラディスラフ・チェルヌチェンコ指揮カペラ・サンクトペテルブルク

  東京国際フォーラム ホールB7(チェーホフ) 8時

 500年の歴史を誇り、現在は60人近い編成を採る素晴らしい混声合唱団。

 満員の大ホールのあまり良くない席に押し込められて聴いたナントにくらべ、今日は800席程度の手頃な広さの会場だったため、豊麗でふくらみのあるハーモニーが存分に楽しめたような気がする。
 今日のプログラムには宗教的な作品はほとんどなく、スヴィリドフやガヴリーリンの劇付随音楽やカンタータなどからの抜粋合唱曲、それにロシア民謡3曲といったプログラムだった。

 中でも「12人の盗賊」という民謡のソロを歌ったバス歌手の気品ある雄大な、しかも温かい人間味を湛えた堂々たる深みのある低音がずば抜けて素晴らしい。これを支える合唱の美しいハーモニーと相まって、曲が終って拍手が起こるまでのほんの僅かの間には、客席から嘆声と軽いどよめきさえ聞こえたほどである。
 「鐘の音は単調に鳴り響く」でのテノール・ソロを囲む合唱のハーモニーの豊かさも忘れがたい。

 これも、「ロシアの合唱」の厚み、壮大さ、温かさを満喫させてくれた演奏会。

5・3(木)ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(3)
アナトリー・グリンデンコ指揮モスクワ大司教座合唱団

   東京国際フォーラム ホールB5(ツルゲーネフ) 6時30分

 これは、ナントでも聴いた12人編成の迫力ある男声合唱団(LFJの「ブログ隊」が「男祭り」と評した)。ルネ・マルタン(音楽祭総合プロデューサー)の謂う「ロシア正教の正統派合唱団」である。

 今回のコンサートでは、16~17世紀のロシア典礼合唱計4曲に、ラフマニノフ、グレチャニノフの合唱曲1曲ずつ、ロシア民謡2曲。ナントよりは軽いプログラム編成だ。
 今日は、何故かアンサンブルがあの時ほど完璧とは思えなかった。だが、大地から湧き出るような、重厚な声のパワーはやはり凄い。これこそ、ロシアの男声合唱の真髄というものだろう。

5・3(木)佐藤久成ヴァイオリン・リサイタル

   東京文化会館小ホール  2時

 東京国際フォーラムでのLFJから一寸抜け出して、有楽町から山手線で10分、上野に向かう。着いた時には、ここも土砂降り。だが、それにもめげず人が出ている。

 超個性派ヴァイオリニストと謂われる佐藤久成の演奏は、以前にCDで「トリスタンとイゾルデ」の編曲版などを聴いたことがあるけれども、ナマのリサイタルを聴く機会がなかなか無かった。今回はプログラムも個性的だし、ということで駆けつけてみた次第。
 会場で配られたチラシ(7月のリサイタル予告)に、「(宇野)功芳を熱狂させた男・佐藤久成」という字があったのには、何故か少々たじろいだが・・・・。

 今回のプログラムは、前半にフランティセク・オンドジーチェク編曲によるワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲、ハンス・ジット編曲によるワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲、オスカル・ネドバルの「ヴァイオリン・ソナタ ロ短調」。後半にヘルマン・ゲルトナー編曲によるワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」(佐藤自身の編曲も入っているという)、R・シュトラウスの「ヴァイオリン・ソナタ変ホ長調」というもの。

 意欲的なレパートリーだが、なるほど演奏も非常に個性的だ。所謂美音に囚われず、あらゆるフレーズ、あらゆるリズムを噛み締めるように、激しい情熱をこめて弾く。時に余韻嫋々と、時に激情を吐露するが如く、その演奏姿もまるで聴衆に挑みかかるような形相を見せることがある。
 今日のプログラムの中では、ワーグナー編曲ものが流石に面白かった。構造は原曲と同一ながら、「ワーグナーの○○によるカプリース」のような趣きを呈している。だが、最も「心に響いた」のは、ジプシー的な情緒も交えて演奏されたネドバルのソナタだった。
 ピアノは田中良茂。

 4時終演、再び有楽町の国際フォーラムに戻る。

5・3(木)ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(2)
フェイサル・カルイ指揮ベアルン地方ポー管弦楽団&ペレス

   東京国際フォーラム ホールC(ドストエフスキー)  12時

 ナントでも聴いた指揮者とオーケストラで、あの時はまあまあの出来だと思ったが、今日の演奏は何ともはや・・・・。
 チャイコフスキーの「胡桃割り人形」組曲など、「小さい序曲」では管楽器が音を外しっ放し。それでもプロですか、いくら何でももう少し真面目にちゃんと演奏しなさいよ、さっきのOEKを見習い給え、と言いたくなるほどの雑な出来だ。

 たとえ家族連れの多いコンサートでも、手を抜いた演奏ではいけない。例年LFJで来日するオーケストラは、どうも雑な演奏をするのが多いのが問題だ。少しくらい雑でも、演奏に濃い味があるというのなら結構なのだが・・・・。

 2曲目のラフマニノフの「パガニーニの主題によるラプソディー」では、ご贔屓のルイス・フェルナンド・ペレスがソリストとして登場。彼も何故か出だしは全く冴えない。中盤からは、ソリストもオーケストラも、どうやら持ち直した。

5・3(木)ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(1)
井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢

   東京国際フォーラム ホールC(ドストエフスキー) 10時15分

 土砂降りの中で開幕した東京のラ・フォル・ジュルネ(以下LFJ)、さすがに午前中は「展示ホール」や「地上広場」への出足は鈍かったようだが、前以てチケットを買っている人たちは、雨でも何でも、予定通りコンサート会場にやって来る。地下駐車場では、子供と一緒の家族連れが多く見られた。

 私が最初に入ったのは「ホールC」(今年はロシアがテーマだから、ドストエフスキーと名付けられている。約1500席)で、井上道義とオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)が出演していた。
 金沢でもLFJが行なわれているのに、よくまあ遠路遙々、たった1公演のためにわざわざ来てくれたものである。

 プログラムはシュニトケの「モーツァルト・ア・ラ・ハイドン」と、プロコフィエフの「ピーターと狼」。OEKは、良い音で、しっかしりした良い演奏を聴かせてくれた。
 シュニトケでは、動き回りながら演奏する弦楽器奏者たちの制御に手を焼く指揮者――といった構図を、井上道義が例の如く大芝居で演じて、客を愉しませる。
 一方「ピーターと狼」では、語り手も受け持ちつつ、舞台上から客席まで暴れ回る井上の八面六臂の活躍が見もの。自宅で飼っているというアヒル(まひるという名だそうな)まで連れて来て舞台を歩かせ、客席を大いに盛り上げていた。このアヒル、実に美しくて可愛くて、しかも愛想がいい。

 かくも一所懸命にサービスして家族連れの客を笑わせ、愉しませようとする井上道義の姿勢は、実に見上げたものと言うべきであろう。

5・2(水)東京フィルハーモニー交響楽団創立100周年特別演奏会

   サントリーホール  4時

 1911年(明治44年)に誕生した名古屋の「いとう呉服店(現大丸松坂屋)少年音楽隊」がルーツとなる東京フィル――本来は昨年が創立100周年に当っていたが、予定していた大規模な記念演奏会が大震災の影響で中止となったため、内容を簡略化した形で今年開催されたもの。
 桂冠名誉指揮者チョン・ミョンフンの指揮で、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」とラヴェルの「ボレロ」がプログラムに組まれた。

 2曲ともチョン好みの超大編成による演奏だったが、今日は一種の祭典だから、どうこう言わずに、気軽に愉しむに如くはない。
 「新世界」は18型(但しコントラバスは12本)の木管倍加編成で、ごくごくストレートな手堅い演奏。この超大編成の弦の威力が最大限に発揮されたのは第4楽章である。

 また「ボレロ」は、当初から「150人編成の」と銘打たれており、事務局によれば第1ヴァイオリンが21本とかに増やされているという話だった(各楽器の数をかぞえようかと思ったが、目がチラチラするので止めた)。
 P席にもバンダのような形で金管・木管・小太鼓を配置し、曲の後半に参加させるという方法が採られた。とにかく最後の数小節では、物凄い大音量になったのは事実である。

 ただし、この大規模な「バンダ」が参加すると、明らかに管楽器群全体の音色が濁り、オーケストラのバランスと音色も一変して、何ともカオス的な音になってしまったのも事実なのであった。
 はからずもこれは、ラヴェルの管弦楽法がもともと如何に完璧に出来ているか――つまり彼の総譜では、すべての楽器はまさに適正な数で書かれているのだということを再認識出来る絶好の機会となったのである。
 が、これも、あれこれ言うのは野暮であろう。

 そのあとは、チョンの祝賀スピーチと、聴衆全員の「Happy Birthday、TPO!」の声を受け、「ウィリアム・テル」序曲の「スイス軍隊の行進」が威勢よく愉しく演奏(ここではハープなど、もともとスコアにない楽器まで演奏に参加していた!)される。最後の十数小節ではオケ全員が立ち上がるという「のだめ」さながらの演出。

 終演後は小ホールとホワイエに招待客を集めて記念パーティ。東京フィル楽員たちの隠し芸大会が秀逸。
 しかし、さらに秀逸なのは、ここで2111年の東京フィルの演奏会への招待状が配布されたことだろう。ロマンと夢とシャレがあって好い。
 

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