2017-06

4・30(月)ロシア・ピアニズムの継承者たち第6回 リリヤ・ジルベルシュタイン

    すみだトリフォニーホール  3時

 ロシア人なら「シュタイン」でなく「シテイン」と表記するべきではないかと思うが、90年からハンブルクに移住しているというから、ドイツ読みで通しているのか、それとも国籍をドイツに移したのか。

 トリフォニーホール開催の「ロシア・ピアニズム~」第6回、今日はまず彼女がソロで「展覧会の絵」を弾き、次にヴァシリス・クリストプロス指揮する新日本フィルがストラヴィンスキーの「火の鳥」(1919年版)を演奏、最後に3者がチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」を協演した。
 演奏会タイトルからすれば主役はピアニストのはずだが、何か指揮者とオケの顔も立てたプログラムという感がなくもない。

 ジルベルシュタインのピアノは「展覧会の絵」では至極素っ気なく、絵の標題などにこだわらず淡々と弾いて行くといった演奏で、さっぱり面白くない。むしろあとの協奏曲の方に、強靭なピアニズムと凛然たる表情が漲っていて、余程愉しめた。

 一方、指揮者とオーケストラは、呼吸が合わないのか何なのか、たとえば「火の鳥」の「魔王カスチェイの凶悪な踊り」の後半などでオヤオヤと首を傾げるような楽器のバランスになったりして、もう少し軽い曲を選んでおけば無難に済んだろうにと思う。

 それに、協奏曲冒頭のホルンがまた音を外したのは何ともいただけない。
 新日本フィル、つい先日もハーディング&ラルス・フォークトとの協演のチャイコフスキーで同じことがあったのでは? その前のマーラーの「9番」の時といい、最近の新日本フィルのホルンは、何か変である。いや、オケそのものの音が、あの大震災後のアルミンクとの確執を境として、まとまりを失っているように感じられるのだ。奮起されたい。

4・29(日)オーギュスタン・デュメイ指揮関西フィルハーモニー管弦楽団

   ザ・シンフォニーホール(大阪)  3時

 指揮者デュメイは、しばしばユニークなプログラムを組む。
 今日のは、メンデルスゾーンのシェーナとアリア「不幸な女」(ロンドン初演版)で開始したあと、ブラームスの「セレナード第1番」を演奏、第2部はモーツァルトのアリア「私は行く、でも何処へ?」で始め、結びはラロの「スペイン交響曲」――という曲目編成。オーケストラの定期としては一風変った構成と言えよう。

 「ガラ・コンサート」とチラシにも書いてあったが、別の面から見れば、旧き良き時代の演奏会のスタイルを少し織り込んだもの、と言えるかもしれない。しかし、こうしたプログラミングでそのオーケストラの特色を出そうという姿勢は、面白い。

 メンデルスゾーンのアリアを日本のオケが定期で取り上げることはまず無いと思われるし、私も初めて聴いたのだが、いかにもこの作曲家らしい、軽快で推進力のある美しい曲だ。何よりデュメイのテンポが好く、関西フィルも軽やかに進む。
 ソプラノはオランダの若手ソーニャ・ヴォルテンで、美貌だし、声も清純で伸びがいいし、聴いていて快い。
 ヴァイオリンのソロ・パートはデュメイ自ら受け持ったが、これまた艶然華麗な音色で、ソプラノ・ソロを圧倒するほどの音量を発揮する。

 健在なりデュメイ、いっそ「スペイン交響曲」も自分で弾き振りしてくれればいいのに、と思ったほどだが、そちらの方にはニキータ・ボリソ=グレブスキーがソリストとして登場した。もちろんこのボリソ=グレブスキーとて、2007年のチャイコフスキー国際コンクールでこそ神尾真由子に次ぐ第2位だったものの、ヨアヒム、オイストラフ、クライスラー、シベリウスなどの国際コンクールでは悉く優勝を重ねて来た青年であり、若々しく鮮やかなテクニックと、盛り上げの巧さでは人後に落ちない。
 
 ただ、第3楽章(インテルメッツォ)を割愛したのは――彼のアイディアか、デュメイの勧めかは定かでないが――今の演奏家がやるべきことではなかろう。
 楽器のせいか(あるいはこちらの聴いた席のせいか?)曲の前半では音が「鳴ら」ず、色彩感にも不足して、もどかしさを感じた。しかし、後半では勢いを盛り返して聴衆を沸かせ、さらにアンコールで弾いたイザイの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番」のフィナーレ「復讐の女神たち」では奔放な華やかさを聞かせて、いっそう会場を盛り上げた。

 演奏会はこれで終わったため、最後は指揮者が現われず、ソリストだけが何度もカーテンコールに応じて、コンマスの合図でオケが引き揚げる――という図でお開きとなった。これも珍しかろう。

 なお、モーツァルトのアリアでは、前述のヴォルテンが再び登場して美声を聞かせた。
 またブラームスの「セレナード第1番」は、この日のプログラムの中でオーケストラが主役になる唯一の作品で、ここでは関西フィルが好演を展開。デュメイの個性を反映して、重々しくならず、好い意味での軽やかですっきりしたブラームスが創り出された。理屈っぽい構築性を感じさせない、寛いだブラームス像である。私はこの曲が好きだから、結構愉しんだのだけれど。

 デュメイが関西フィルの音楽監督に就任してから、まだ1年と3ヶ月。演奏のはしはしに彼のカラーが反映されてはいても、シェフとオケとの個性が確立されるのには、どんなに早くても数年はかかる。そして、彼がもっとしばしば定期で振ることが必要であろう。

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4・25(水)ロジャー・ノリントン指揮NHK交響楽団のベートーヴェンとブラームス

   サントリーホール  7時

 前半は弦10型編成によるベートーヴェン2曲。

 冒頭、「コリオラン」序曲が、強靭なティンパニの一撃を交えて炸裂する。この曲は、こういうダイナミックな開始の演奏でこそ、悲劇的な曲想が生きるというもの。あのフルトヴェングラーとベルリン・フィルの大戦中の凄愴なライヴ録音を聴いて震撼させられて以来、最初の全管弦楽の5つのフォルティシモは絶対このように激しくあるべきだ、と思っている。もっとも今夜は、その2つ目は何か不思議な音になっていたが・・・・。

 肝心のノリントン節の方は、先日の「エグモント」序曲に比べれば控え目だったが、それでも118小節からのヴィオラとチェロが上下に波打ちつつ進んで行くくだりに大きな音量的起伏を組み合わせるといった趣向は、ノリントンならではのものであろう。

 「ピアノ協奏曲第4番」では、ノリントンは、先日の「三重奏曲」の時と同じように、またピアノの鍵盤側を客席中央に向けるという配置を行なった。
 この配置で、しかも蓋を取り去っていると、上階席でならともかく、1階席で聴く限り、ピアノの音は上方に散ってしまい、非常に遠い音に聞こえてしまう。サントリーホールで、こんなにピアノが遠く彼方に聞こえることは決してない。

 ノリントンはここで、ピアノをコンチェルトとしてではなく、オーケストラの楽器の一つとして、あるいは室内アンサンブルとして位置づけたつもりだったのか? 仮にそうだとしても、このバランスには断じて賛同しかねる。
 しかしそんな中でも、今夜のソリストの河村尚子の演奏は、それを克服して、強い存在感を以って浮き上がって来たのであった。もし楽器が「まともな」配置であったなら、彼女の今日の演奏は、さらにスケール大きく客席に伝わって来たのではなかろうか。

 もう一つ、この協奏曲の演奏では、上手側に配置された第2ヴァイオリン群が、ピアノを囲むように、背を少し客席に向けるように座っていた。その音響的な是非については一概に言えないが、「あの堀コンマス率いるN響」が――たとえ嫌々ながらにしても――よくそこまで従うようになったものだと、それが驚き。ノリントンはよほどN響を煽るのが巧いらしい。

 後半は、弦16型、木管倍加の編成による、ブラームスの「交響曲第2番」だった。
 私は、以前からノリントンのブラームスはどうも好きになれないのだが、それは彼が創り出すブラームスの音が甚だ硬質で、ごつごつと角張っていて、しかも低音をあまり響かせないスタイルのせいだろうと思う。ただ、ブラームスの音楽の中の「調和的でないもの」を引き出し、その前衛性を探ろうという彼の意図には、賛意を表したい。フィナーレのコーダなどは目覚しい昂揚を示していた。

4・24(火)諏訪内晶子ヴァイオリン・リサイタル 壮絶なブロッホとエネスコ

   彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール  7時

 銘器の音色は惚れ惚れするほど美しいが、それがひとたび激情を迸らせて歌い、叫ぶ時には、凄絶な音楽となる。
 今夜の諏訪内晶子と、ピアノのイタマール・ゴランの協演は、聴き手が息を呑むほどの緊迫感に満ちた演奏となった。

 演奏されたのは、シューベルトの「ソナチネ第2番」、ブロッホの「ニーグン」、ファリャの「スペイン民謡組曲」(コハンスキ編曲)、バルトークの「ルーマニア民族舞曲」(セーケイ編曲)、エネスク(エネスコ)のヴァイオリン・ソナタ第3番「ルーマニア民族風に」。
 アンコールはシャミナードの「スペインのセレナード」(クライスラー編曲)、クライスラーの「シンコペーション」、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」(ハルトマン編曲)。

 このうち、ファリャ以降の6曲は、今年1月に録音されたCD(デッカ UCCD-9861)にも収められているが、ナマで聴くそれらの演奏の印象はかなり違う。
 特にエネスクのソナタには、切れば血の出るように激しい情熱的な演奏に加え、並外れて巨大で奔放なスケール感が漲る。ゴランの、これも非常に激しい、普通なら協演の楽器を霞ませてしまいかねないような強靭なアタック音に対し、諏訪内晶子のヴァイオリンはさらにその上を行くような気魄を以って、あたかも大空間で切り結ぶかのような壮絶な演奏を繰り広げる、といった感になる。

 ブロッホの「ニーグン」でも同様だ。彼女のヴァイオリンは濃厚にうねり、絡みつき、苦悩し、激しい感情を吐露する。この粘りのある官能性は実に物凄く、それは昔の彼女の演奏には聞けなかったものであろう。そして、楽器の音の表面的な豊麗さに身をゆだねることなく、時には生々しい荒さをふりかざして、作品の本質に迫ろうとする姿勢にも圧倒される。
 こうした凄味は、自由さが許されるナマのステージでの演奏でこそ、生きるだろう。

4・23(月)チャイコフスキー国際コンクール優勝者ガラ・コンサート

   サントリーホール  7時

 昨年9月8日にこのホールで行われた「ガラ・コンサート」での出演者から、ソプラノのエレーナ・グーセワを除いた3人が集まっての室内楽コンサート。

 「去年聴いたから」ということなのだろうか、演奏者たちには気の毒なくらいガラガラの入りだ。ダニール・トリフォノフ(ピアノ、2011年チャイコフスキー・コンクール優勝、10年ショパン・コンクール第3位)など、昨年は大変な人気で、聴衆の動員力もあったはずなのだが、どうしたわけだろう? 

 今日のコンサートは、そのトリフォノフが終始出ずっぱりで弾き、「トリフォノフとその仲間たち」といったようなプログラムになっていた。
 最初にヴァイオリンのセルゲイ・ドガージン(ヴァイオリン部門1位なしの2位)が協演して、チャイコフスキーの「懐かしい土地の思い出」からの2曲と「ワルツ・スケルツォ」、及びアンコールでマスネの「タイースの瞑想曲」を演奏。
 次にチェロのナレク・アフナジャリャン(チェロ部門優勝)が協演して、シューマンの「幻想小曲集」、ラフマニノフの「ヴォカリーズ作品34-14」、パガニーニの「(ロッシーニの)モーゼの主題による変奏曲」、及びアンコールでエルガーの「愛の挨拶」を演奏する。
 そして後半にはトリフォノフの独り舞台で、ドビュッシーの「映像第1集」とショパンの「練習曲作品10」が演奏される、という具合。

 しかし、3人の中で、今夜最も光ったのは、チェロのナレク・アフナジャリャンであったろう。
 このアルメニア出身の23歳の若者は、昨年の来日時にも素晴らしい演奏を聴かせてわれわれの度肝を抜いたが、今夜も強靭な放射力を備えた個性で、大器の迫力を感じさせた。

 もちろんトリフォノフも素晴らしく、特にドビュッシーでの瑞々しさは、この若者の感性の幅の広さを思わせて魅力的である。ただし「練習曲」の最後の方は、演奏の緊迫度がやや薄れ、締まりを欠いたきらいもあったが・・・・。
 このあと、3人がいっぺんに出て来て、ドヴォルジャークの「ユモレスク」を三重奏版で弾いたので、この分ではまた若手のパワーは止まる所を知らず、になるかもしれないと思い、失礼した。ロビーに出た途端に「こうもり」が聞こえて来たが、これは例のトリフォノフが編曲したものだった由。

4・21(土)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団 フランクの交響曲

   サントリーホール  6時

 「彩の国」での「レ・ヴァン・フランセ」のコンサートは終演が5時20分頃まで延びた上に、駐車場から道路に出るまで実に30分を要し(ゲートが1つしかないのと、精算機器が鈍重で作動が遅いのと、目の前の道路が渋滞しているのと・・・・)、かつ首都高浦和のランプまでの国道17号も渋滞と来ては、サントリーホールの開演時刻に間に合うわけはない(もともと無理だろうとは思っていたが)。

 それでも7時前にはホールに着いた。プログラム前半のメシアンとイベールの作品こそ聴けなかったが、後半のフランクの「交響曲ニ短調」だけでも聴けたのは幸いである。
 今回は珍しくRB席で聴いたが、ここではオーケストラの内声部がまるでスコアを見るようにすべて聞こえるという面白さが味わえる。

 カンブルランは、あたかもドイツ音楽に対峙するように、この交響曲を重厚壮大に、がっしりと組み立てる。もともとこの曲にはそれにふさわしい性格が備わっているから、そのアプローチが成功するのは当然だろう。好調の読響も、豊潤で恰幅のいい演奏を繰り広げてくれた。

 カンブルランと読響は、ますます快調である。インバルと都響、ラザレフと日本フィル、それに以前からのスダーンと東響――シェフがしっかりしていれば、そのオーケストラの演奏の水準も高くなるものだ。

4・21(土)レ・ヴァン・フランセ 来日演奏会

   彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール  3時

 エマニュエル・パユ(フルート)、フランソワ・ルルー(オーボエ)、ポール・メイエ(クラリネット)、ラドヴァン・ヴラトコヴィチ(ホルン)、ジルベール・オダン(バソン)、エリック・ル・サージュ(ピアノ)――全く、素晴らしい顔ぶれ。

 来日したこの名手揃いのグループ「レ・ヴァン・フランセ」の今日のプログラムは、バーバーの「夏の音楽」に始まり、ルイーズ・ファランク(1804~75)の「六重奏曲 作品40」、モーツァルトの「ピアノと管楽器のための五重奏曲」、ヴェレシュの「オーボエ、クラリネット、バソンのためのソナタ」、プーランクの「六重奏曲」と続き、アンコールでのルーセルの「ディヴェルティスマン」およびルートヴィヒ・テュイレの「六重奏曲」からの「ガヴォット」で結ばれた。

 まさに彼らならではのエスプリにあふれた演奏で、その洒落た感覚は、他のいかなる室内アンサンブルからも聴けないものだろう。モーツァルトが何か重く、生気に今一つ不足したのは意外だったが、フランスものに関しては文句のつけようがない。
 特にファランクとルーセルの作品では、ル・サージュの柔らかく優雅な弱音のピアノと、パユのフルートとの和声が陶酔的な美しさを醸し出していた。この音色は、快感。

4・20(金)庄司祐美メゾ・ソプラノ・リサイタル

   北とぴあ つつじホール  7時

 東京藝大を卒業し、シュトゥットガルト音大でも学んだ庄司祐美(二期会)のメゾ・ソプラノ・リサイタルを聴く。

 この人の歌唱は、オペラの舞台ではヘンデルの「エジプトのジュリオ・チェザーレ」のニレーノ役(鈴木雅明指揮・平尾力哉演出、2005年10月16日・北とぴあ)や、ワーグナーの「ワルキューレ」のジークルーネ役(飯守泰次郎指揮・ジョエル・ローウェルス演出、2008年2月20日・東京文化会館)など、いずれも二期会公演で聴いたことがあり、また後者は飯守泰次郎指揮の第3幕演奏会形式上演(2009年9月3日・オーチャードホール)でも聴いた。
 歌曲リサイタルの方は、2006年の「シューマン・リサイタル」を録音で聴いたことがあるが、伸びのいい声による叙情的な美しさに富んだ歌唱に感心したものだ。

 今回のリサイタルは、ピアノの居福健太郎との協演。ハイドンの「ナクソス島のアリアンナ」に始まり、シューベルトの「楽に寄せて」「魔王」など5曲、リストの「トゥーレの王」など3曲、シューマンの「ケルナーの12の詩」(作品35)という、かなり重量感のあるプログラムが組まれている。

 こちらの体調の関係で、リストまで聴いて失礼したが、私の気に入ったのはやはりシューベルト。一方リストの歌曲はなかなか聴く機会のないもので、その意味では興味深かったけれども、彼女の声の音色の明るさと、これらの曲の沈鬱さとの間のギャップを、多少ではあるが意識せざるを得なかったのが正直なところ。おそらく最後のシューマンが最良ではなかったかと思うのだが、聴けなくて残念。

 なお、プログラムに掲載の解説や対訳一切は彼女自身の手によるもの。博学な人だ。試みに彼女のブログを覗いてみたら、演奏会評など実に論理的で、面白い。

4・19(木)新国立劇場 モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」

   新国立劇場オペラパレス  6時30分

 2008年12月にプレミエされたグリシャ・アサガロフ演出、ルイジ・ペレゴ美術によるプロダクションの再演(再演演出は田尾下哲)。
 プレミエの時にはルチオ・ガッロが歌ったドン・ジョヴァンニ役に、今回はマリウシュ・クヴィエチェンを迎えたのが呼び物だった。

 クヴィエチェンは、ドン・ジョヴァンニの歌い手として今や屈指の存在と言っていい。
 歌唱も演技も、すべてがスピーディな感じで切れ味が良い。明晰な声で急速なテンポとリズムを完璧に保って、胸のすくような歌唱を聴かせるのがクヴィエチェンの魅力的な個性だ。昨年11月にMETで聴いた時にも惚れ惚れするような痛快な歌いぶりだったが、今回もそれが際立っていた。

 指揮のエンリケ・マッツォーラが東京フィルをシャープな「ノン・ヴィブラート系」の音色で煽り気味に鳴らすだけに、クヴィエチェンのような明快な声でないと、オケと歌とのスタイルの一体化が難しいだろう。

 ところが残念ながら、今回は、その他の歌手陣があまり冴えない。
 レポレッロの平野和は声がこもり気味で、主従がそれぞれ向き合って――つまり横を向いて歌う時に、ジョヴァンニの声はビンビン客席に響いて来るにもかかわらず、レポレッロの声はほとんど来ないという状況なのだ。
 この、主従の声のバランスの悪さが――つまり声楽的性格のギャップが大きすぎたことが、ドラマのバランスをも壊してしまったといえよう。これがまず一つ。

 そして、ドンナ・エルヴィーラ役のニコル・キャベルも、声も発音も「丸過ぎ」て、オケの音色に対し水と油だ。ただしこれはそれぞれの個性の違いだから、善し悪しとはまた別の問題であろう。
 それより、ドン・オッターヴィオを歌ったダニール・シトーダの不調が致命的だった。声はまっすぐ出ないし、歌い方も耳を覆いたくなるほど雑で、――何年か前にはマリインスキー劇場期待の俊英として「オネーギン」のレンスキー役などで溌剌たる歌を聞かせていたあのシトーダは、いったいどこへ行ったのか・・・・と暗澹たる気持になる。

 そんな中で、ドンナ・アンナのアガ・ミコライが明晰な強い声で意志の強い女性像を描き出したのと、騎士長の妻屋秀和が持ち前の低音でドン・ジョヴァンニと互角に渡り合ったのが救いだったといえようか。
 ツェルリーナの九嶋香奈枝と、マゼットの久保和範は健闘していた。

 指揮のエンリケ・マッツォーラは、「地獄落ち」の個所以外は比較的速めのテンポで、オーケストラを明晰なリズムで響かせ、適度の煽りも聞かせる。少し下世話な(?)雰囲気もあるが、なかなか面白い。
 全曲最後のアレグロ・アッサイの重唱に飛び込む前、「地獄落ち」の最後のフェルマータ付の和音をクレッシェンドさせ(!!)、矯めをつくるという指揮は私も初めて聞いたが、思わず吹き出しそうになった。まあ、こういう芝居気も、悪くないだろう。

 舞台については、以前に書いた。装置そのものは中庸を得て、落ち着いた雰囲気もあって美しい。ただし歌手たちは客席を向いて歌うことも多く、ごく安泰なスタイルで、何か新しい視点を教えられるというような舞台ではない。
 それに、登場人物の動きに、どうも「冷めた」雰囲気がある。クヴィエチェンも宴会の場ではエルヴィーラに料理を投げつけるという荒々しい演技を見せたものの、自らのスピーディな動きを空回りさせているという感もあった。

 今回に限ったことではないが、この新国立劇場では、世界の歌手も、指揮者も、演出家までも、いや日本人の演奏家たちさえ、何か一つ燃えず、冷えた空気の中に陥ってしまう。「神々の黄昏」の一節ではないが、「どんな魔物がここに棲んでいるのだろう?」

4・19(木)インバル指揮東京都響のショスタコーヴィチ「第10交響曲」リハーサル

    東京文化会館リハーサル室  10時30分

 これも20日の定期は聴きに行けないので、都響事務局に頼んでリハーサルを取材させてもらった。約2時間、第1楽章、第2楽章、第4楽章のリハーサル。

 インバルは、例の如くがっしりとした音楽づくり。隙のない、安定した重心をもった構築は、この「第10番」には適しているだろう。フィナーレのクライマックスは、かなりエキサイティングなものになりそう。

 都響の音も相変わらず良い。第1ヴァイオリン群の後方で聴いていてさえ、弦の緻密な響きが堪能できる。――とはいえ、狭いリハーサル室の中で強烈に渦巻き怒号する木管群のフォルティシモは、自分も一緒に吹いている時ならともかく、間近で黙ってじっと聴いていると、耳にはかなりヘヴィだが・・・・。

4・18(水)宮本文昭の東京シティ・フィル音楽監督就任披露定期

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 再びオペラシティに戻り、宮本文昭が東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の初代音楽監督に就任した、そのお披露目の定期を聴く。
 会場は、賑やかな雰囲気。

 プログラムは、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番」(ソリストは小山実稚恵)、ブラームスの「交響曲第2番」。
 指揮者、オーケストラ、ともに全身全霊をこめた演奏といった感で、特にブラームスの終楽章ではシティ・フィルにしては珍しいほど豊麗な響きが聴かれ、盛り上がりもなかなかのものであった。

 オーボエ奏者として世界屈指の存在だった宮本文昭さんについては、個人的にもよく存じ上げているし、談論風発のその人柄は実に魅力的である。ただ、指揮者としての彼の芸風については、私はこれまでに昨年の「第9」と今回の定期との僅か2つの演奏会を聴いただけであり、未だとても全貌を掴むところまで行っていない。
 いずれも体当たり的な大熱演で、少しの衒いもなく丁寧に演奏をつくりあげる指揮者であるのはたしかだと思うが、その一方で表情に多彩な変化が不足し、音楽の流れが一本調子になる傾向なしとしない。そのあたり、彼の魅力的なキャラクターの力で今後どのように解決されて行くか、だろう。

 シティ・フィルの演奏も今日は良かったとはいえ、川本嘉子がヴィオラのトップに座っていたのをはじめ、他オケの腕利きOBが何人か応援に駆けつけ、友情出演していたようで、こういう「御祝儀相場」では、シティ・フィルの真価を測るわけには行くまい。

 それだけに、小山実稚恵のピアノの温かい表情が強く印象に残った。アンコールで弾いた「トロイメライ」の優しい美しさは、私がこれまで聴いたこの曲の演奏の中で最高のものであった。

4・18(水)リクライニング・コンサート 「IL DEVU」

   HAKUJU HALL  3時

 リハーサルの途中で失礼して、西新宿のオペラシティからタクシーで10分ほど、代々木公園近くのHAKUJU HALLへ向かう。こちらは二期会の男声クァルテットによる「リクライニング・コンサート」だ。

 「リクライニング・コンサート」は、このホールの名物シリーズである。
 客席後方の数列は椅子の背凭れが傾斜するように出来ており、演奏の間、聴いても眠ってもいい、というのが趣旨だ。この椅子にのけぞって聞いていると実に良い気持になる。これでは、眠るな、という方が無理だろう。
 いつだったか、テノールの福井敬さんがこのコンサートに出演した際、1曲目に例の「トゥーランドット」の「だれも寝てはならぬ」を歌っておどかした(?)そうだが、効果のほどはどうだったろうか。

 今日の出演は、望月哲也・大槻孝志(テノール)、青山貴(バリトン)、山下浩司(バス・バリトン)、河原忠之(ピアノ)の5人からなる「イル・デーヴ」。
 5人の総体重500キロということでこのグループ名称がついた(とか言う)。

 とにかく「5人の(イケメンならぬ)フトメンによる重量級の感動」と銘打たれたこの日の演奏会、モーツァルトからロイド=ウェッバー、アイルランド民謡、岡野貞一、木下牧子、モリコーネなど、そして最後の「マイ・ウェイ」までの75分ほどのプログラムで、後半に向けてパワーを全開して行くという構成。
 小さなホールだから、フル・ヴォイスで歌った時には物凄い。オーケストラを凌ぐ音量感だ。

 前半こそ「お奨めに従い」いい気持になってうとうとしたが、後半のプログラムにいたり、プロレスラーかボクサーみたいなアタマ(その昔のグレート東郷を思い出した)をした河原忠之のピアノも冴え、違う意味で快い気持になり、リクライニングながら眠るどころではなくなった。音量のせいだけではない。

4・18(水)垣内悠希と東京フィルのブラームス「第2交響曲」リハーサル

    東京オペラシティ リハーサル室  正午

 その垣内悠希の次の定期(20日)は都合で聴けないので、東京フィル事務局の了解を得て、リハーサルの一部を取材させてもらった。約2時間、ブラームスの「2番」の第1楽章から第3楽章までの練習を聞く。
 事務局の話では、彼はブラームスにとりわけ愛着を感じている由。今日はちらりと聞いただけだが、15日のチャイコフスキーよりもいい演奏になりそうな気がする。

4・15(日)垣内悠希、東京フィルで国内プロ・オケ定期デビュー

    オーチャードホール  3時

 東京芸大楽理科およびウィーン国立音大指揮科に学び、2011年ブザンソン国際指揮者コンクールに優勝した垣内悠希が、ついに東京フィル定期に初登場。

 プロ・デビューは2006年ルーマニアのブラショフ響だったそうだが、「日本では大阪響を振った経験があるだけで、在京オケの指揮は全く初めて」(プログラム掲載インタビューから)だとのこと。記念すべき演奏会である。今年34歳。
 指揮したのは、ベートーヴェンの「エグモント」序曲、シューマンの「ピアノ協奏曲イ短調」(ソロは21歳のソフィー・パチーニ)、チャイコフスキーの「交響曲第5番」である。

 振り方がどうだとか、指揮の技術がどうだとかいう話は、その方面に詳しい方が多いだろうから、私はただ、彼の今日の音楽が私にはどう聴こえたか、ということだけについて、正直に書く。

 総じて、良くも悪くも熱血的な指揮というか。特にチャイコフスキーなど、金管群を一杯に鳴らし、音楽の力感を強調して、ひたすらエネルギッシュに押す。
 若いうちはこのくらいの勢いがあって好いだろう。というより、欧米のオーケストラならフォルティシモにおけるこの程度の大音響とエネルギー感は当然のこと、決して鳴らし過ぎではない。垣内がなまじ日本のオーケストラを振ったことがほとんど無かったのがむしろ幸いだったかもしれず、このパワーは大切にして欲しい。

 ただ、それはいいのだけれど、3曲の演奏で、いずれもひどく気になった彼の癖がある。
 これは、――うまい言い方が見つからないのだが、たとえばある楽器が一つのフレーズを演奏し終わるか終わらないかのうちに、別の楽器が次のフレーズを強引に突っ込んで来るかのように聞こえる・・・・要するにイン・テンポで押すあまりに、モティーフが移り変わって行く時の音楽の流れに「息継ぎ」のようなものがなく、音楽が常に先へ先へと非常に慌しく進んでしまうという印象なのである。

 これは、テンポが速いということとか、ホールの残響のせいで次のフレーズの頭の一音が聞き取れないとかいうこととは違う。
 協奏曲でのオーケストラとピアノとの入れ替わりの瞬間の慌しさ、「第5交響曲」第2楽章最初のホルン主題をオーボエが受ける瞬間(コン・モートに変る個所)の唐突さなども、その一例だ。
 演奏が、元気はいいけれども一本調子に聞こえる、というのも、その忙しいリズム運びに原因があるかもしれない。初めのうちは力感があるのに、次第に単調になって緊迫度が薄くなり、空虚感が増す(「エグモント」の再現部以降)という印象も拭いがたい。

 その代わり、たとえば「エグモント」の序奏や、「第5交響曲」第1楽章序奏のような、遅いテンポで「間をとって」じっくりと進める部分での音楽づくりなどでは、その力感がものを言って、聴き手の期待を煽るような、何かを生み出す。

 まあしかし、とにかくこれが彼の事実上の国内デビュー。もろもろの問題点はこれから解決されるだろう。あまり多忙な仕事を入れることなく、じっくりと研鑽を積んで行って欲しい。
 次の東京フィルとの定期は今月20日。ブラームスの「第2交響曲」でどんな指揮を聴かせてくれるか。7月末には都響をも振る。

4・14(土)ロジャー・ノリントン指揮NHK交響楽団のベートーヴェン

   NHKホール  6時

 「フィデリオ」序曲、三重協奏曲、「英雄交響曲」というプログラム。

 このうち「三重協奏曲ハ長調」は、去る月曜日にトッパンホールで気を吐いた気鋭の3人――マルティン・ヘルムヒェン(ピアノ)、ヴェロニカ・エーベルレ(ヴァイオリン)、石坂団十郎(チェロ)――が弾いた。
 予想通り、実に爽やかな息吹にあふれた演奏だった。エーベルレと石坂は、ヴィブラートを伸び伸びと(!)使っていた。1階中央後方席での印象では、NHKホールでこれだけ軽快かつ澄み切った音色の弦のソロを聴いたのは久しぶりのような気がする。ノン・ヴィブラートが売り物のあのノリントンも、この曲では若者たちに合わせたという感。
 ピアノは今回、ピアニストが客席に背を向けて座るという位置に置かれたため、やや遠慮がちなバランスで聞こえたが、もともとこの曲でのピアノは分が悪い役回りだから、ヘルムヒェンには些かお気の毒というところ。

 ノリントンの本領は、やはり後半の「英雄」だ。
 この曲のみ、彼としては珍しく16型編成の弦、倍加(4本)した木管群(但しホルン3、トランペット2はスコア指定通り)を採っていたが、これは巨大なこのホールに対応しての作戦だったのだろうか? 
 練習場から運んで来たとかいう特設反響版を背にして正面にずらり並んだ8本のコントラバスはよく響き、力強い重心感を生み出していたのが印象的だった。

 全曲いたるところにノリントン特有の、手の混んだ細かい趣向が目まぐるしいほどにあふれていて、たとえば第1楽章では、第2主題(【C】)での木管や弦を1小節ごとに漸強・漸弱で奏させ、フワフワした流れの音楽を創ってみせたり、何度も叩きつけられる全管弦楽の和音(【E】の前)を一つのクレッシェンドに構成したり、また第3楽章でもリズミカルに進む弦の随所に柔らかい(!)アクセントをつけたり、という具合である。
 もしかしたらノリントンは、所謂伝統的な3拍子の拍節感を根本から覆し、変拍子を多く導入し、ベートーヴェンがこの曲で試みている大胆な革命的手法を、いっそう極端な形で証明してみせようとしているのかも知れない。
 彼は2002年にシュトゥットガルト放響を指揮した録音でもこのやり方を多用していたが、今回は、さらに激しく、極端だ。

 それにしてもN響が、よくあそこまで応えたものだ(今回は堀正文コンマスだった!)。弦、管、ティンパニとも明晰で歯切れが良く、ノリントンのアクの強い音楽をそのまま再現していた。先日の、ぬるま湯の如き演奏の「タンホイザー」の時とは、別のオケのようである。

4・13(金)ガーボル・タカーチ=ナジ指揮紀尾井シンフォニエッタ東京

   紀尾井ホール  7時

 ガーボル・タカーチ=ナジは、一世を風靡したタカーチ弦楽四重奏団のメンバーでもあった。その後ブダペスト祝祭管弦楽団のコンマスをも務めたが、近年は指揮に多忙らしく、ヴェルビエ音楽祭室内管弦楽団音楽監督、マンチェスター・カメラータ音楽監督、ブダペスト祝祭管弦楽団首席客演指揮者などを兼任している由。

 今回は、コダーイの「夏の夕べ」、ヨアヒムのヴァイオリン協奏曲第2番「ハンガリー風」(ソロはブダペスト生まれのバルナバーシュ・ケレメン)、リストの「夕べの鐘、守護天使への祈り」、バルトークの「弦楽のためのディヴェルティメント」という、骨の髄までの(?)ハンガリー・プログラムを指揮した。

 この人、いかにもヴァイオリニスト出身らしい指揮ぶりで、常にしなやかなカンタービレを要求するような左手の動きが目立つ。
 この日の演奏を聴いた範囲で言えばだが、作品を見通しよく構築するということはどうやらあまり得意ではないように思われる。が、その代わり音楽に独特の民族的雰囲気を醸し出させるという点では、さすがお国ものの手腕だ。

 圧巻は、やはり「ディヴェルティメント」だ。この曲でのリズムの刻み方やアクセントのつけ方、和声のふくらませ方などは、西欧の指揮者のそれとは随分感じが違う。これが所謂「ハンガリー訛り」なのかと感心しながら、私は大いに愉しんだ。
 特に第2楽章、最弱音を重視した音づくりや、みるみるうちに音色を変えて響きを膨らませつつ、テンポを急激に速めてクレッシェンドさせて行くあたりのタカーチ=ナジの呼吸の巧さは、流石のものである。

 ヨアヒムのこのコンチェルトを聴いたのは、私は初めてだったのだが、34歳の若いケレメンのエネルギッシュな演奏のせいもあってか、全曲にわたり、ハンガリー舞曲の「チャールダシュ」の雰囲気横溢に感じられてしまった。快速の第3楽章など、まさにその「フリシュ」に相当する部分といった感で、ジプシー(ロマ)音楽の熱狂を思わせるだろう。
 ケレメンの演奏の、また情熱的で鮮やかなこと!
 それにオーケストラのパートも、コーダのクライマックスでは、何かもう滅茶苦茶な追い込みで、ドッタンバッタン突進して行くような趣きがあり、たまらない可笑しみを誘う。

 さらにケレメンは、ソロのアンコールでバッハの「無伴奏パルティータ第2番」からの「ジーグ」と「サラバンド」の2曲を弾いた。バルトークでもやってくれればいいのに、何もここでバッハを、と思ったが、この「ジーグ」がまたロマ風のバッハというか、おそろしく自由奔放な躍動感にあふれて面白かったので、なるほどと納得した次第である。
 といって、なにも「サラバンド」まで弾くことはなかろう。オケの演奏会で、ソリストがアンコール2曲というのは多すぎる。
 しかも指揮者の方も、最後の「ディヴェルティメント」のあとに、その第3楽章をもう一度マルマル全部繰り返すというサービスのよさ(くどいというか?)だったから、かなり濃密なコンサートになっていた。

 紀尾井シンフォニエッタの今日のコンサート・ミストレスは玉井菜採。ヴァイオリンとヴィオラは、ほとんどが女性だ。弦楽器群の張りのある音色が、快い。前半の2曲に登場した管楽器奏者たちも含めて今や錚々たる腕利きが揃っており、以前のような重ったるい雰囲気の音は一掃されている。今月末からは、米国東海岸の大都市へのツァーを行なう由。

4・12(木)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団のブルックナー「7番」

   サントリーホール  7時

 最初に演奏されたのはモーツァルトの「ピアノ協奏曲第8番 リュッツォウ」だったが、10型編成の弦楽器群によって弾むように開始される第1主題を聴いた瞬間、久しぶりに耳にする艶やかな、快いモーツァルトだなと、うっとりさせられた。

 あのインバルにしてはめずらしく開放的な表情で、まさにこれはモーツァルトが指定した「アレグロ・アペルト(快速に、自由に)」に従ったのかな、という気もする。
 都響が、今日もまた好い音を出す。そしてソリストの児玉桃が、オーケストラの第1主題の表情を見事に引き継いだ感じで、軽やかに弾き始めるが、これがまた天馬空を行くような快調さだ。彼女のモーツァルトは洒落ていて、しかも温かさを感じさせるところが何より好い。

 それにしても都響の弦の緻密さには、この1、2年来、つくづく感じ入るばかりだが、ブルックナーの「第7交響曲」の冒頭など、その長所が十二分に発揮された個所ではなかろうか。
 最初の主題をチェロが始め、ヴィオラが加わり、次いでヴァイオリン群が他の弦のトレモロの上に天高くその主題を伸ばして行くあたり、その弦全体の空間的な音の拡がりの素晴らしさには、本当に感心した。こういう弦のサウンドを出せるオーケストラは、日本では滅多に聞けない類のものである。

 ただそのあと、全管弦楽がフォルティシモになるところでは金管群の音色が団子状態になってしまい、このあたりがやはり問題点なのかと思わされたが、――しかしこの金管群が、楽章を追うに従って素晴らしくなり、ついに第4楽章では音色もバランスも、すべてにおいて完璧に近い均衡で鳴り響くのだから、脱帽するほかはなかった。

 インバルは、ここでもいつものように音楽をがっちりと固める。
 第1楽章【D】からのコントラバスの4分音符群をはっきりと響かせ、オーケストラのクレッシェンドを低音部から明確に支えて構築感を出したり、コーダに入る【W】のコントラバスとティンパニの最弱音の頭をずしんとアクセントを強調して響かせたり、実に「けじめのはっきりした」解釈だ。

 そして第3楽章と第4楽章での、緊迫感にあふれた巨大な風格は、見事としか言いようがない。特に第4楽章、――時にバラバラで締まりのない演奏になることもあるこのフィナーレを、これほど剛直で毅然としたものに感じさせた演奏も稀だろう。

 テンポは、かなり速めだった。とりわけ第2楽章と第4楽章は速めで、全体の演奏時間は、もしかしたら60分を切っていたのではなかったか? 

 この3月と4月は、インバルはかなり長期間滞在して、比較的たくさんのプログラムを指揮し、都響の演奏を充実させて、プリンシパル・コンダクターとしての責任を完璧に果たしている。都響も随分しぼられているのではないか? 
 しかし、それだけの成果は充分に上っている。カーテンコールでの聴衆の反応を見れば、明らかだろう。

     音楽の友6月号 演奏会評

4・9(月)マーティン・ヘルムヘン&ヴェロニカ・エーベルレ&石坂団十郎

   トッパンホール  7時

 最年長の石坂団十郎(チェロ)が33歳、一番年下のヴェロニカ・エーベルレ(ヴァイオリン)が24歳、真ん中のマーティン・ヘルムヘン(ピアノ)が30歳。若い。
 いずれも既にキャリア充分の俊英たちだ。

 プログラムは、ハイドンの「ピアノ三重奏曲ハ長調Hob.ⅩⅤ-27」、ブラームスの「ピアノ三重奏曲第3番ハ短調Op.101」、シューベルトの「ピアノ三重奏曲第1番変ロ長調D.898」、アンコールはシューベルトの「ノットゥルノ 変ホ長調」というものだが、そのいずれの作品の演奏にも、若さの勢いが、これ以上はないほどに噴出していた。

 ハイドンでもブラームスでも、その湧き上がるエネルギーのままに、全力でぶつかり、疾走し、歓呼する、とでもいったような感である。しかし、これらの曲にはたしかにこういう特質もあったのだなと感じさせ、スポーツ的な快感を起こさせる点が、彼らのひたむきな姿勢のしからしむるところだろう。
 後半のシューベルトは、少し和らいだタッチだったが・・・・。

 常設の三重奏団ではなく、ソリスト同士の顔合わせだから、しっとりと溶け合った緻密なアンサンブルなどは求むべくもない。
 もし円熟した大家同士であれば、それぞれの強い個性を保ちつつ、演奏に強い求心性を与えることも可能であろう。だがこのような若き獅子たちのトリオでは、そこまでは行かない。勢い余って、時には音楽が拡散してしまうこともある。
 それでも、互いに遠慮しあって、この3つの楽器がつくり出すドラマティックな世界を妙におとなしいものにしてしまうよりは、若いなりに全身をぶつけて行く姿勢の方がはるかに尊いだろう。その意味でも、この3人の演奏、何か痛快であった。

4・7(土)東京・春・音楽祭「インバル&都響のストラヴィンスキー」

   東京文化会館大ホール  7時

 「ペトルーシュカ」(1947年版)と「火の鳥」(1910年版全曲)を組み合わせたプログラム。

 何年も前、あるジョーク好きの作曲家があるスピーチで、「どこまで行っても本題が出て来ない、これから何を言わんとしているのかがなかなか掴めないような話をする人がいるが、音楽でいえば『火の鳥』なんかがその好例だろう」と語っていたことがある。
 全面的に賛成はしかねるが、実に面白い比喩だと感心したものだ。

 今日、エリアフ・インバルと東京都交響楽団の演奏を聴きながら、何となくその話を思い出していた。
 この演奏、実に整然としたつくりで、情景の移り変わりさえもが一つ一つの場面ごとに画然と構築され、しかも極めて生真面目な表情の音楽になっていたからである。
 こういう一種の形式感が導入された演奏だと、むしろ「いったい本当の主題はいつ出て来るのだ?」などと、この作品の場合には考える必要のないことにまで気を回す心理状態になってしまう。

 もう少し流れるように、うねるように演奏をつくってくれた方が「火の鳥」全曲の面白味が出るんだけどな、などと、こちらは聴きながら勝手にあれこれと、――いや、しかしこれが、近年のインバルの指揮の個性なのだから仕方がない。
 あくまで毅然として剛直な、しかも直截な「火の鳥」であったが、私としてはどうも肩の凝る「火の鳥」でもあった。

 しかし都響は、沸騰するような豊満さをあふれさせる弦楽器群を中心に、適度の色彩感を備えた好い演奏だったと思う。
 「ペトルーシュカ」も、ほぼ同じような、几帳面な演奏であったと言っていいだろう。

 「火の鳥」では、バンダ(トランペット3、テノール・テューバ2、バス・テューバ2)が下手側2階の客席に配置された。出番は極度に少ない。何とも非効率的な曲(?)ではある。

 それはともかくとしても、カーテンコールで大きな拍手を浴び、舞台上のオーケストラの各パートの楽員を次々に起立させて答礼に応えさせたインバルが、なぜかそのバンダの方はついに一顧だにせず、というのは、何だか不自然だ。
 この巨匠、いつかもマーラーの「第3交響曲」の際に、少女合唱を全く無視して最後まで起立答礼させなかったことがあったが、・・・・今回、オケが引き揚げるより前にいつの間にか消え去っていた3人のトランペット奏者が何となく気の毒になった。

 今年の「東京・春・音楽祭」の出し物を聴くのは、私は今夜が最後。良いコンサートなのにスケジュールが合わず、聴きそこなったものも少なからずある。
 特に1日の「ドビュッシー・マラソン・コンサート」など、聴いた知人たちはみんな絶賛していた。夜の「第5部」まで残らず聴いておくべきだったと思う。惜しいことをした。

4・6(金)ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時

 コンサート・タイトルは「マーラー撰集Vol.3」で、「交響曲第5番」が取り上げられたが、前半に置かれたのはインキネンの祖国シベリウスの「死(クオレマ)」からの音楽。

 その中に含まれる「悲しきワルツ」は日本でも定番だが、「クオレマ」として演奏される機会は滅多にないだろう。今回は作品62となっている「カンツォネッタ」と「ロマンティックなワルツ」、そして作品44の「鶴のいる風景」と「悲しきワルツ」の計4曲が演奏された。静謐で、美しい曲想である。
 これらの曲でインキネンが日本フィルから引き出した清澄な弦の音色はすこぶる快い。いかにもシベリウスらしい透き通った叙情が感じられる。

 後半のマーラーの「5番」は、この弦とともに管楽器群も好調で、胸のすくような快演。
 オッタビアーノ・クリストーフォリのソロ・トランペットがブリリアントな表情で発進し、勢いづいた全管弦楽が朗々と爆発すれば、これでこの日の演奏はもう決まった、という気分になってしまう。彼は第2楽章でも痛快に吹きまくったが、これだけ輝かしい音色を聞かせるトランペット奏者は、わが国のオーケストラには稀だろう。オッタビアーノ君、まさに本領発揮である。

 第3楽章では、客演首席ホルンの丸山勉が見事なソロを繰り広げ、あとに続くホルン群も安定した演奏を聴かせてくれた。第4楽章での弦の清澄さはいうまでもない。その他のセクションもすべて、今日はきわめて聴き応えがあったと思う。

 インキネンの「マーラー撰集」は、若手らしくすっきりとした、贅肉を落した音楽づくりだが、表情が極めて瑞々しく、見通しの良さをも緊迫感をも充分に備えた指揮だ。
 第1楽章の葬送行進曲主題にしても、スコアに指定されている微細な強弱の変化を遵守しつつ、まるで上下にスウィングするように音楽を進めて行く呼吸の鮮やかさに感服する。第5楽章では無理に急がず、沈潜個所でもじっくりと叙情的に音楽を固めて、それから再び爆発点へ怒涛のように盛り上げる。

 彼のマーラー・ツィクルスは、とりあえずここまでらしいが、大成功を収めたと言っていいだろう。来年春にはシベリウスの交響曲全曲ツィクルスをやるという。
 それにしても日本フィルは、いい若手を首席客演指揮者に選んだものである。
        音楽の友6月号 演奏会評

4・5(木)東京・春・音楽祭 ワーグナー「タンホイザー」(演奏会形式)

   東京文化会館大ホール  5時

 アダム・フィッシャーがN響を指揮。流石にオーケストラは立派な風格だ。

 主役歌手陣もステファン・グールド(タンホイザー)、ペトラ=マリア・シュニッツァー(エリーザベト)、マルクス・アイヒェ(ヴォルフラム)、ナディア・クラスティーヴァ(ヴェーヌス)、アイン・アンガー(領主へルマン)といった顔ぶれで、これも流石にパワー充分。
 日本勢としては、高橋淳(ハインリヒ)、山下浩司(ラインマル)、藤田美奈子(牧童)および東京オペラシンガーズが参加していた。

【オーケストラ】
 N響を立派な風格――と言ったけれども、演奏が感動的だったかどうかは、また別である。
 端的に言えばこれは、一種の優等生的な演奏であり、湧き上がる熱気とか、劇的な推進力とか、色合いの変化とかいったものは甚だしく希薄な「タンホイザー」の演奏であった。
 上手いけれど、その割に聴き手の心に訴えかける何かが不足しているという、――N響の良いところと悪いところとがそのまま出たような演奏なのである。

 しかしこれはもちろん、指揮のアダム・フィッシャーの責任でもある。たとえば序曲や第3幕序奏、第3幕後半でのドラマが急展開して行く個所などで彼が採る遅めのテンポが、演奏の緊張感を充分にリードできなかった、ということなども影響しているだろう。
 いずれにせよこれなら、たとえ技術的には及ばずとも、また量感に不足していたとしても、京都市響や神奈川フィルが一所懸命に演奏した「タンホイザー」の方が、よほど燃焼が感じられたという気がする。

【歌手陣】
 ステファン(シュテファン、スティーヴン)・グールドのタンホイザーを聴くのは、2007年のあの小澤征爾指揮、ロバート・カーセン演出の「画家タンホイザー」(3月・東京、12月・パリ)以来になる。
 当時は未だ「ワグネリアン・テナーのニュースター」的存在だった彼も、今や威風堂々のヘルデン・テナーだ。適度の野性味も加えたマッチョマン・タンホイザーの馬力は、なかなかのものである。

 シュニッツァーも、エリーザベト・クールマンの代役として登場したクラスティーヴァも、アンガーも、ウィーン国立歌劇場その他で場数を踏んでいる歌手たちだけに、手堅い歌唱を聴かせてくれた。アイヒェのヴォルフラムがいかにも生真面目な知識人という表現だったのも面白い。

【映像と字幕】
 今回は「映像付」上演と銘打たれていた。オーケストラ後方に高く設えられたソロ歌手と合唱団の席の、その背景全部をスクリーンにして、映像を映し出すという仕組だ。

 ただこの「映像」なるものは、ヴァルトブルク山麓の場面では山と湖の、歌合戦の場面では広間の光景というようなリアルな「写真」を写しっぱなしにしておくという、あまり洗練されているとは言いがたい色づけ程度のものである。
 それゆえ以前の、新日本フィルの「ペレアス」のような、ましてやパリ・オペラ座の「トリスタン」のような映像演出を期待してはならない。

 字幕はこの映像の中に投射されていたが、言葉のニュアンスに適切さを欠くところが多く、かつドラマ全体のニュアンスを正確に描き出していないところもあるのが気になった。エリーザベトが騎士たちを押し止め、嘆願するくだりで妙に強引な命令口調(の訳)になるのはおかしいし、また騎士たちがエリーザベトの言動を訝る場面での「(なぜそのように)血迷って」という訳は、明らかに言葉の使い方を誤まっている。

 総じて字幕を出すタイミングも含め、「体裁」に拘り過ぎ、ドラマの全体像を観客に伝えるのに失敗していたといえよう。字幕は演出の一種なのであり、観客を乗せるのもまごつかせるのも、字幕のサジ加減で決まるのだということを忘れてはならない。

【楽譜】
 今回の演奏もまたドレスデン版使用。
 第2幕はじめの二重唱におけるヴォルフラムの一言のカットは相変わらず。後半の大アンサンブルにおける【H】から【K】のカットはあったものの、314頁以降、エリーザベトが加わるアンサンブルを、タンホイザーのパートまで含めて(!)ノーカットで演奏してくれたのは、先頃のびわ湖&横浜上演に比べれば、まだマシというべきか。テンポを速めて追い上げ、頂点を築いた直後に舞台裏の女声合唱へスパッと切り替わる、という対比が聞かれるからだ。

     ⇒モーストリークラシック6月号 公演Reviews

4・4(水)東京・春・音楽祭 若手によるクインテットとオクテット

   上野学園石橋メモリアルホール  7時

 良くも悪くも、若さの爆発・噴出という演奏だったが、しかし何によらず若いエネルギーというのは好いものだ。
 メンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」などまさにそれで、しかもメンバーが相互にアイ・コンタクトを交わしつつ、いかにも愉しそうに、ノリに乗ってアンサンブルを繰り広げて行く光景は、微笑ましくもある。

 若いソリスト級の腕利きたちが集まってこの曲を演奏すると、たいてい暴走的な大熱演になることが多く、――40年近く前、東京クァルテットと前橋汀子や岩崎洸ら、当時の若い気鋭が集まって都市センターホールで協演した時には、それはもう全員「オレがオレが」という調子で弾きまくったものだ。その猛烈な演奏に、当時は若かった私など大喜びしたのだが、某先輩評論家は苦笑し、「そもそも室内楽ってのはだなあ」と苦言を呈していたことを思い出す。
 今回の演奏にもその傾向がなくもなかったが、私はこういうのが好きだから、とても苦言など・・・・。

 今日のプログラムは、前半にモーツァルトの「弦楽五重奏曲ト短調K.516」とブラームスの「弦楽五重奏曲第2番ト長調」、後半に前記のメンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲変ホ長調」、アンコールにシュポーアの「複弦楽四重奏曲第1番ニ短調」の第4楽章、というものだった。

 演奏者たちも一騎当千(?)の俊鋭たちで、前半2曲ではヴァイオリンが西江辰郎と長原幸太、ヴィオラが鈴木康浩と大島亮、チェロが上森祥平という顔ぶれであり、メンデルスゾーンではこれにヴァイオリンの佐久間聡一と三浦文彰、チェロの宮田大が加わる。この演奏会のために結集した人たちである。トップは、モーツァルトでは西江、ブラームスでは長原、メンデルスゾーンでは三浦がそれぞれ受け持った。

 優しさと美しさとが引き出されたモーツァルト、これに対比して激しい情熱が先行したブラームス――と、普通とは若干違ったアプローチによる演奏も新鮮味がある。
 「八重奏曲」を「1本のソロ・ヴァイオリンと7本の弦楽器による協奏曲」だと喝破したのは故ルイ・グレーラーだったが、三浦文彰はその華麗なソロを、まさに疾風の如く弾きまくった。
 彼も、その他のメンバーも、演奏がちょっと粗いかな、という印象もあったけれども、とにかく面白い。

 しかし、さらに面白かったのは、それが終ったあとに長原幸太が例の寛いだベランメエ調で「第2部になってから出て来た」3人をユーモアたっぷりに紹介した時だ。
 その挨拶がわりとして、佐久間はメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」の一節を美しくシャレを交えて演奏、三浦はチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」の一節を実に正確に清澄に弾き、「きれいに弾けばこの通り」と見得を切って見せる。
 最後には、宮田大が先輩たちにさんざん冷やかされつつドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」のソロの出だしを突然おそろしく壮大な音で轟かせると、長原が「スゲエ」と叫び、会場は大爆笑と拍手に包まれるという一場面もあった。

 春の音楽祭らしい、真剣だが陽気なコンサートだった。9時半終演。

4・3(火)新国立劇場 モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」(演奏会形式)

    新国立劇場中劇場  2時

 これは尾高忠明・新国立劇場芸術監督による特別企画で、同劇場本公演のいわゆる「アンダー」(代役、控え)歌手に陽の光をあてようというのが目的の由。
 石坂宏(同劇場音楽ヘッドコーチ)の指揮、同劇場オペラ研修所修了生5人を含む8人の歌手の出演、東京フィルによる弦楽アンサンブル(コンマスは荒井英治)とピアノ(石野真穂)による演奏(編曲は城谷正博)、合唱は無し、という形。

 オペラの演奏会形式上演はいいなと、最近思う。
 スキャンダル狙いの騒々しい演出の氾濫にはそろそろうんざりして来たし、といって博物館から引っ張り出して来たようなレトロな演出も(たまにはいいが)面白くないし、結局、「すべての基は音楽に在り」ということで、100%音楽に没頭できる演奏会形式にいよいよ魅力を感じているというわけである。

 今日のオケはフル編成でなく、管楽器と打楽器のパートをピアノに編曲した変則的なものだったが、弦(4・3・2・2・2)のパワーが予想外に強力だったため、モーツァルトの音楽は些かも損なわれず、その作品の素晴らしさは厳然として不動であった。そのあたりが、モーツァルトの凄さでもあろう。
 もっともこれには、石坂宏の指揮(チェンバロを含む)の、速めのテンポで小気味良く押して盛り上げるという流れの良い音楽のつくりが寄与していたことも事実である。

 歌手陣。
 アンダーとはいっても、既に一般公演で活躍している人ばかりである――与那城敬(ドン・ジョヴァンニ)、北川辰彦(レポレッロ)、吉田珠代(ドンナ・アンナ)、鈴木准(ドン・オッターヴィオ)、佐藤康子(ドンナ・エルヴィーラ)、町英和(マゼット)、鈴木愛美(ツェルリーナ)、大澤建(騎士長)という顔ぶれだ。

 与那城は本領発揮で、先日の舞台上演での曖昧なアルマヴィーヴァ伯爵よりも、こちらの方が遥かに生き生きして闊達な歌唱である。北川もこれに劣らず好演。
 鈴木愛美は、声に安定性が加われば、あのキュートな舞台姿もより生きるだろう。
 吉田と佐藤は、声は良いのだから、モーツァルトらしい歯切れの良さとメリハリがもっとあったらと思う。鈴木は第1幕ではアリアをはじめ快調だったが、第2幕でのアリアではテンポが速いため歌いにくかったのか?

 聞かせ場「ドン・ジョヴァンニの地獄落ち」では、小編成ながら強靭な弦楽器群の唸りが、合唱抜き編曲という欠点を、響きの上では充分に補った。
 ただし騎士長(石像)役の声がフラフラで(先日の領主へルマン役でも同様だったが)、音程も曖昧、歌詞「Si!」の一つが落ちる(少なくとも聞こえなかったのは確かだ)というありさまだったので、この場の音楽の迫力は壊滅状態、それまでの快演の印象をフイにしてしまったのが何とも残念である。

 ついでに、その場のあと、アレグロ・アッサイの重唱へ入る個所で、指揮者がおそろしく長い「間」を採って、音楽の転換の流れを止めてしまったことは納得できぬ。これでますます、緊迫感が失われてしまった。ここで終る「ウィーン版」じゃあるまいし、舞台転換のためでもあるまいし。
 聴衆もここで呆気に取られたようにしばし待っていたが、たまりかねて何人かが遠慮がちに拍手を始めてしまい、すぐ止めた。

 全曲終了は5時15分過ぎ。低気圧の接近で、外は既に暴風雨。夜まで荒れに荒れる。

4・1(日)東京・春・音楽祭「ドビュッシーとその時代」第1部

   東京文化会館小ホール  午前11時

 上野の各ホールや博物館・美術館等を会場として3月16日から始まっている今年の「東京・春・音楽祭」。

 今日は朝から夜までのドビュッシーを中心とするフランス音楽特集で、5部(入替制)からなり、各々60分程度の長さのプログラムが組まれている。
 第1部は工藤重典(フルート)山宮るり子(ハープ)藤井一興(ピアノ)ロジャー・チェイス(ヴィオラ)が出演する室内楽コンサート。

 ホール内が溶暗すると、下手側客席のドアから工藤が「シランクス」を吹きながら入って来る。響きのいいこの小ホールでは、その笛の音がいずこからともなく聞こえて来るという効果がよく出ていて、なかなか好い。
 彼は笛を吹きつつ、暗い客席の通路をゆっくりと歩き(何故か虚無僧を連想してしまった)、舞台へ上ってこの曲を終わり、そのまま切れ目なしに、明るくなった舞台で待ち構えていた山宮との「牧神の午後への前奏曲」に入る。この続き方も好い。ドビュッシーの香りが馥郁として、すこぶる快い気分になる。

 ――プログラムはそのあと、工藤と藤井のデュオによる「6つの古代エピグラフ」、山宮のソロによる「月の光」「夢」「アラベスク第2番」と続き、最後は工藤・山宮・チェイスによる「フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ」で締め括られた。

 4手ピアノ版の「海」や、「ビリティスの3つの歌」など、滅多に聞けないプログラムが含まれていたそのあとのコンサートも、できれば聞きたいところだったが・・・・。

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