2017-07

3・31(土)大阪フィル 「大植英次スペシャルコンサート」

   ザ・シンフォニーホール(大阪)  3時

 かねてから噂のあった、この「ザ・シンフォニーホール」の身売りが、ついに決まってしまった。今秋9月末を以って、朝日放送から(株)滋慶(滋慶学園グループの関連会社)にホールの所有権が移る(但し2013年末までは朝日放送が管理運営)。
 わが国屈指のこの名コンサートホールは、今後どうなるのか。主婦の友社から日本大学へ移されたあのカザルスホールの二の舞にならぬことを願うばかりである。

 もろもろの激動が続く大阪の地で、同市のオーケストラ界の雄、大阪フィルハーモニー交響楽団では、大植英次がこの日を以って音楽監督を退任した。在任最後のコンサートのプログラムは、何とブルックナーの「交響曲第8番」(ハース版)――前任者・朝比奈隆がオハコとした、あの大曲である。

 大植は、音楽監督就任の年の翌年、2004年7月8日と9日に、大阪フィルでこの曲を、同じハース版で指揮したことがある。私が聴いたのは9日だったが――それは故・朝比奈氏の誕生日に当っていた――大植はカーテンコールで故・朝比奈氏の写真を掲げ、氏を偲ぶ意図を明らかにした。
 だが、その時の演奏そのものは、敢えて「偉大な前任者」の影を振り払おうとするような、テンポの変化の大きな、激烈な気魄にあふれたもので、大阪フィルを強引に振り回して自らのペースに引き込もうとする姿勢がありありと感じられたものであったことを記憶している。演奏時間も計80分弱、正味75~76分、という速いテンポだった。

 それにあの時は、第1楽章途中のピアニッシモのさなか、屋外から雷鳴らしき物音が響いて来た想い出がある。実は当日、大阪には雷雨が頻発していたのだが、その物音はまるで、朝比奈さんが「わしもちゃんと聴いておるぞ」と威嚇しているかのように思えたものだ・・・・。

 それから8年。大植と大阪フィルのブルックナーの「8番」は、同じハース版使用ながら、ガラリとその性格を変えた。
 何より、彼らの音楽が、以前には聴かれなかったような落ち着きと風格を滲ませるようになった。
 テンポもぐっと遅めになり、ゲネラル・パウゼも大きく息を整えるように長いものとなった。その結果、演奏時間も計90分、正味87分ほどに達していたのである。

 第4楽章など、8年前の演奏では急加速と急制動を頻繁に繰り返し、慌しい印象を与えたものだが、今回は随分と控え目になり、安定した構築が試みられている。せいぜい、最強奏の大行進曲調の【N】の個所と、コーダの【Ww】から【Yy】の終りにかけての個所などに、以前の名残が聞かれた程度だろう。
 その反対に、「心をこめて荘重厳粛に」と指定された【L】の8小節間で、あたかも立ち止まって詠嘆するかのように大きくテンポを落したり、また弦楽器群のピチカートの上に4本のホルンが寂寥感のある息の長い動機を吹く【P】の個所では、それぞれの最後を極度にリタルダンドしたり――いずれも無理なく、演出くさくなく――したことなどが印象的であった。

 また第2楽章のスケルツォの、ダ・カーポも含めた計4度のエンディングでの力感は物凄かったが、このあたりでも8年前のそれのような強引さと慌しさは消え、どっしりとした意志の強さを感じさせるようになっていたのだ。

 何より圧巻は第3楽章のアダージョで――ここは8年前にも叙情的な美しさを示していたと記憶しているが、今回の演奏の出来は、それを遥かに凌ぐ、まさに傑出したものであった。
 弦楽器群の澄み切った音色、管楽器群の均衡豊かな響き、楽章全体に及ぶ張りつめた緊張感など、見事というほかはない。
 私はこの演奏を聴きながら、大植英次と大阪フィルは、その9年間の共同作業の末に、ついにこの境地にまで到達したのか、という感慨を抑え切れなかった。

 この「第8交響曲」の象徴的存在ともいうべきアダージョ楽章でこのような演奏が実現できたのなら、もうそれだけで大植と大フィルのコンビには、大成功を収めたのだと自ら誇る権利があるだろう。
 大植も、朝比奈が得意としたこの作品において、全く己のやり方を以って成功を収め、かつ大阪フィルを全く己のやり方で自らの手中に収めたと言っていいだろう。

 カーテンコールは20分以上続いたが、そのうち最初の10分間は、大植と楽員との交流を含む挨拶。そのあとは大植のソロ・カーテンコールだ。彼はまた客席に降りて来て聴衆との握手を繰り広げたが、驚くべきことに、ホールの聴衆1700人のほとんどが最後まで残って彼に拍手を贈っていたのだった。
 思えば、あの音楽監督就任後最初の定期(2003年9月18日)のカーテンコールで、彼がタイガースのハッピを羽織って飛び出して来た光景など、つい昨日の出来事のようである。

 大阪フィルにおける「Age of Eiji」は、こうして華やかに終りを告げた。

3・29(木)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団のマーラー

    サントリーホール  7時

 「亡き子をしのぶ歌」と、交響曲「大地の歌」を組み合わせたプログラム。インバルの定番、マーラー。
 今秋からまた始まる交響曲ツィクルスに先立つこの日の「都響のマーラー」は、コンサートミストレスが四方恭子、トップサイドに矢部達哉が座る総力戦。
 イリス・フェルミリオン(メゾ・ソプラノ)が両者を歌い、ロバート・ギャンビル(テノール)が後者で加わった。

 都響は、引続き快調だ。柔らかく拡がる弦楽器群の良さもさることながら、今日はとりわけ管楽器群が魅力的な演奏を聴かせてくれた。滋味あふれるオーボエをはじめ、フルートもクラリネットもファゴットもホルンも、ソロでもアンサンブルでも、ふくよかに、豊潤に響く。
 インバルも例の如く、音楽をがっしりと隙なく構築しながら、漸強・漸弱の起伏をきわめて微細なニュアンスで表情づけた。都響もまた見事にそれへ応える。

 昔、インバルと都響のマーラーを聴いた時には、ここまで芳醇な音は感じられなかったような気がする。それぞれ好ましく変貌した指揮者とオーケストラが手がける作品は、たとえそれらが旧いレパートリーではあっても、新鮮さを感じさせるものだ。

 ただ、それでは今日の演奏が全て完璧だったかということになると、――たとえば「大地の歌」の場合、急速なテンポの楽章では、凝縮度などの面に、多少まとまりを欠いたところがないでもなかった。しかしこれらは、明日の第2回の演奏の際には、うまく解決されるだろう。
 その点、遅いテンポで現世への別れが惻々と語られる全曲の頂点――第6楽章「告別」では、声楽ソロを含めたあらゆるものが結集して、きわめて印象的な演奏が繰り広げられていた。これは、特筆すべき演奏であった。

 フェルミリオンのソロが、最初の歌曲も含めて素晴らしい。この人、中高音はともかく、低音域になると、俄然凄味のある声になる。そのギャップがちょっと不思議ではある。

 ギャンビルの方は、――大体この「大地の歌」は、テノールにとっては非常に損な曲だから、気の毒だ。第1楽章など、ナマ演奏ではだれが歌ってもオーケストラに声が消されてしまうだろう。
 オペラのベテラン指揮者だったマーラーが、最晩年になって、なぜこんな「声を打ち消すような鋭角的な響きの管弦楽」で作曲したのか。もし彼がすぐ他界せず、自分で指揮して上演していたら、多分あちこち改訂したのではなかろうか? 
 ――というわけで、ギャンビルに文句をいう人がいたら、それは少々酷であろう。ただ彼、少し粘っこい歌い方をしていたのには、あまり共感できないけれども。
     モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

3・28(水)小澤征爾音楽塾 プッチーニ:「蝶々夫人」(非公開上演)

    東京文化会館大ホール  6時30分

 小澤征爾(小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト音楽監督)の指揮降板により、結局は「公演中止」となった今年の「蝶々夫人」だが、せっかく何ヶ月も一所懸命に練習して来たものをホゴにしてしまうのはもったいない、として、せめて出演者の関係者(家族親戚・知人友人・恋人、etc.)と、それに評論・マスコミ関係者のみを客席に入れて、その成果を見てもらおう、ということになったそうな。

 それでも客席は超満員、補助席まで出ているという盛況なのにはびっくりした。ただし場内あげて、関係者それぞれのグループが賑やかにひしめき合うという状況で、何となく音楽学校の同窓会のような雰囲気もあったが・・・・。
 いくら内輪の公演でも、制作費は同じようにかかるはず。大変な持ち出しではないのか? 例年通り立派なプログラムも出来ていたが、それすらカウンターに「ご自由にお持ち下さい」と並べられていたのが、痛々しく目に映った。

 今回の上演はセミ・ステージ形式だが、障子と居間のセットは体裁の整ったつくりで、「シンプルな舞台装置」と言っても通用する水準のものだろう。
 その手前からオケ・ピットにかけ、かなり大編成のオーケストラ(オーディションで選ばれた若手からなる「小澤征爾音楽塾オーケストラ」)が配置されている。

 歌手の演技はそれなりに行なわれているが、演出が相変わらずあのデイヴィッド・ニースだから、いまさら多くを期待するのは無理だ。
 蝶々さん(アディーナ・ニテスク)が派手に泣きわめいたり、スズキ(エリザベス・デション)が怒ってゴローを殴る蹴るの目に遭わせたりする演技も、いかにもアメリカ人的感覚の演出である。特にスズキを荒っぽく描くのには驚いた。そりゃあ、日本の女性にだってそういうのもいるだろうが、「蝶々夫人」の舞台には合わない。

 指揮はピエール・ヴァレー。小澤のアシスタントをやっている指揮者だ。昨年もサイトウ・キネン・フェスティバルの「青ひげ公の城」を代役で指揮したのを聴いたことがある。その時は、いかにも真面目に正直(?)に「きれいにまとめる」人だという印象にとどまったが、――今回も似たようなものである。

 若手のオーケストラは技術的にも非常に優れており、よく「鳴っていた」ものの、いかんせん表情の変化に乏しく平板に流れるのみで、ただちゃんと演奏しているという段階にとどまる。
 ほんの一例だが、僧侶ボンゾの威嚇のモティーフが愛の二重唱の中や第2幕冒頭の静かな音楽の流れの中に一瞬甦り、蝶々さんの宿命を暗示する個所など、あまりに淡々と無造作に、一本調子に演奏されてしまう。その音楽の意味するところを指揮者や楽員が理解していれば、こんな演奏にはならないはずである。
 もし小澤征爾が指揮していたなら、そのあたり、本能的に音楽に起伏が生れ、もっと劇的になるだろうに――言っても詮無いことだが。

 歌手陣は、ピンカートン役のアレクセイ・ドルゴフ、領事シャープレス役のアンソニー・マイケルズ=ムーア、ゴロー役のデニス・ピーターセン、ボンゾ役のデニス・ビシュニアら、男声の方がサマになっていた。

 小澤音楽監督は、演奏開始直前に1階の客席に入って来て、場内の大拍手を浴びていた。カーテンコールの時には、豊嶋泰嗣らオーケストラ・コーチたちと共に、客席から舞台前に移動し、前列の楽員たちとハイタッチを繰り返していた。
 何しろ小澤さんが出て来れば、観客の目はすべてそちらに集中し、舞台上の指揮者や歌手たちさえ霞んでしまう。彼の存在が如何に大きいか。
 しかし聞くところによると、彼は今回もリハーサルに立ち会って、5分間だか10分間だか指揮してオケを鼓舞したという。これではちっとも「静養」になるまい・・・・。

 カーテンコールの時、私の隣に座って熱烈に拍手をしていた一人の年輩の女性に、あなたはどの出演者の「関係者」でいらっしゃいますか、と尋ねたら、「いえ、私は一般の客なんです」と言う。一般の客?
 詳しく話を聞いたらこうだ――「主催者の方から中止の連絡はいただいていたらしいんですが、なぜか私の電話と繋がらなかったので、中止とは全然知らないでここに来てしまったんです。切符の払戻しはしていただきましたけど、オペラが好きで楽しみにしていたので、がっかりして帰りかけたら、主催者の方がよほど気の毒に思ったらしくて、それならせっかくだから観ていらっしゃい、と言って、この席を下さったんです。何だか宝くじに当ったような気分。すごく愉しかったわ」。
 年輩の女性の顔が、幸せそうに輝いて見えた。よかったですね。これからもオペラに来て下さい。

3・27(火)地方都市オーケストラ・フェスティバル 秋山和慶指揮広島交響楽団

    すみだトリフォニーホール  7時

 地方都市オーケストラ・フェスティバル最終日。
 広響はエルガーの「チェロ協奏曲」、ブリテンのイギリス民謡組曲「過ぎ去りし時・・」および「シンフォニア・ダ・レクイエム」という、渋くマニアックな、しかし意欲的かつ個性的なプログラムを持って乗り込んで来た。

 広響の演奏は、このところ広島で聴く機会がいくつかあったものの、トリフォニーホールで聴くのは、何年ぶりだろうか。もともと目覚しく腕を上げている広響だが、広島のホールよりはこちらの方が音響効果も良いので、オーケストラの音も残響を伴っていっそう壮麗に聞こえる。

 「チェロ協奏曲」など、いかにも美しい。マーティン・スタンツェライト(広響首席奏者)のソロも陶然たる趣きで流れて行ったが、ただもう一つ自由な感興と歌に物足りぬところも感じられたのは、この人のオーケストラ首席としての体質ゆえか。
 後半のブリテン2曲と、アンコールでのエルガーの「威風堂々第5番」では、秋山和慶のきわめて整然たる指揮が、曲想に合致したところもあり、生真面目になりすぎたところもあり・・・・。

 ロビーでは、もみじ饅頭やらバッケンモーツァルトのザッハトルテやら、広島の名物を販売中。山形交響楽団もこのテをよく使っているが、ほんのりした雰囲気があって好いだろう。「どうぞお買い下さい、この日のために用意して来ましたよ」という、マニュアル的でない売り文句はいい。
 といって、プンプン匂う煮干の袋を買って客席に入るのも気が引ける。そこでトリフォニーホールの知人の女性に頼んで買っておいてもらい、終演後に受け取るということに。

3・26(月)井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢 東京公演

    サントリーホール  7時

 ハイドンの「交響曲第94番 驚愕」、モーツァルト(伝)の「協奏交響曲変ホ長調 K.297b」、ベートーヴェンの「交響曲第7番」、アンコールに武満徹の「他人の顔」の「ワルツ」というプログラム。

 フォルティシモの一撃の代わりに、オーケストラの楽員全員が「ワッ」と叫ぶという奇手を用いたのは、ミンコフスキ指揮のルーヴル宮音楽隊(東京公演もCDも同様)。
 まさかその二番煎じはやるまいが、井上道義のことだから何か仕掛けを考えているんじゃないか、と思っていたら案の定。オーケストラは楽譜どおりに最強音で一撃したが、同時に客電を一瞬上げ(失礼、これは業界語。つまり客席の照明を一瞬明るくしてみせ)、指揮者も客席を振り向きニヤリとする、という演出になっていた――「驚愕」の第2楽章。

 その「驚愕」は、8型(弦8・6・4・4・2)のスリム編成だったが、たっぷりした音で鳴らしているので、サントリーホールのよく響くアコースティックも手伝って、かなり分厚い音のハイドンに聞こえた――意外に重かった、という意味もあるのだが。

 「協奏交響曲」のソリストには、バンベルク交響楽団のメンバーが迎えられていた。カイ・フレンゲン(オーボエ)、ギュンター・フォルストマイヤー(クラリネット)、アレクセイ・トカチャク(ファゴット)、ザボルクス・ツェンプレーニ(ホルン)という顔ぶれである。ここでは井上とOEKがなかなか洒落たクレッシェンドを聴かせたりするのに対して、ソリストたちはごく生真面目に手堅く応える。

 ベートーヴェンでは、コントラバスが1本増やされての演奏。ハイドンよりも歯切れ良く押す。編成が小さいので、内声部の動きなども手に取るように聞こえて面白い。
 その代わり快速の第4楽章などでは、管楽器のちょっとしたズレや飛ばしや揺れも露呈してしまう。そんなことが気にならないくらいの凝縮した演奏であればいいのだが・・・・。
 先日の尾高&札響の時といい、――この曲は難しい。

 一方、「他人の顔」は、弦が繰り広げる自在の表情で、これは見事な「決め」であった。

 開演前のホールの正面広場やホワイエニは、黒のスーツを着た無数の男たちが、あふれんばかりに通路の両側に並んで、一般客を監視するようにじっと立っている。音楽を聴きに来た人々をぎょっとさせるような雰囲気だ。これは秘密警察のSPではなく、スポンサー関係。それも今夜は、異様なほど数が多い。
 お金を出してくれる企業は重々有難いけれども、こういう野暮ったい「お偉方出迎え」のセレモニーは、最近ではもう廃れているだろう。誇り高い石川県ともあろうものが、ほどほどになさいませ。
 札響も以前は「ロビーにずらり」だったが、今はもう止めて、帰りに出口で客にテンサイ糖を一袋贈呈するという洒落たことだけを続けている。

3・25(日)ワーグナー:「タンホイザー」

   神奈川県民ホール  2時

 昨日とは別キャスト――つまり3月10日のびわ湖ホール上演と同一のキャスト(オーケストラだけは昨日と同様、こちら地元の神奈川フィル)で、福井敬、安藤赴美子、黒田博、小山由美、妻屋秀和らが主役陣の組。

 今日は、福井と黒田の眼の演技を含めた細かい舞台表現が素晴らしい。
 特に黒田博のヴォルフラムは、第2幕の「歌合戦の場」で、親友タンホイザーの常軌を逸した言動に困惑顰蹙する表情を実に細かく見事に表現し、この役を吟遊詩人たちのリーダーにふさわしいものとしていた。このように、「歌っていない時」の演技が精緻に行なわれていれば、それだけで舞台全体がぴりりと引き締まるものである。

 一方、妻屋のヘルマン役も、タンホイザーへの怒りをほとんど罵倒に近い身振りであからさまに表現するあたり、すこぶる迫力がある。
 この組の歌手たちは概して演技も細密で、むやみに手を前方に差し延べることも少なく、タンホイザーの言動にいきり立つ表情なども細かく描き出していたことは好ましい。

 安藤赴美子は、演技の面でこそ昨日の佐々木典子に及ばぬとはいえ、清純清澄な声の伸びは最大の魅力で、びわ湖ホール公演を更に上回る出来であったろう。新時代のプリマの登場を喜びたい。
 他にヴァルター役の松浦健の、第1幕フィナーレの重唱個所での声の伸びが印象に残り、また牧童役の森季子も、昨日の組の福永修子とともに愛らしいキャラクターで成功していた。

 嬉しい驚きは、神奈川フィルの健闘である。
 緻密な響きと音色は、昨日の公演をさらに上回っていた。この日の演奏の水準は、東京の某オペラのオーケストラの水準をさえ凌ぐだろう。
 メリハリに不足するとか、全曲最後の和音のそのまた最後の4分音符での木管の一部が締まらなかったとか、細かいところを論えばきりがない。しかしとにかく、深刻な経済的窮状に陥っている神奈川フィルがオペラでこのような優れた演奏を行ない、存在をアピールできたのは、有意義なことに違いないのである。

 だが、それより何より、指揮の沼尻竜典が、よくぞここまでオーケストラをまとめたものだと感心する。
 びわ湖での京都市響、横浜での神奈川フィル、いずれも予想を遥かに超える快演が聴けたのは、やはり彼の力量によるものであろう。
 なまじ新国立劇場で手を抜いた惨憺たる指揮をする外来指揮者連よりも、ずっと真摯に充実した音楽をつくる指揮者が身近に活動しているのだということを、オペラ・ファンも批評界も、もっと意識すべきではなかろうか?

 最後に、超トラディショナルなミヒャエル・ハンペの演出と、シュナイダー=ジームッセンの舞台装置。
 当節の流行を知るオペラのすれっからしのファンから見れば、照れ臭くなってモジモジするような舞台だが、何度か観ているうちに、何となく、これも悪くないなと思うようになる。何より、余計なことに気を散らされずに、音楽そのものを聴いていられる。
 大詰めのシーンは、緑の葉の生えた杖をヴォルフラムが高く掲げ、群集がその周囲に膝まづくという大団円的光景だが、むしろこういう単純な舞台の方が、ワーグナーがここで「巡礼の合唱」を雄渾壮大に再現させて泣かせようとした音楽的効果――この種の「もって行き方」がワーグナーは実に巧い――を、観客もストレートに味わえて、率直に感動しやすいのでは。
 まあ、とにかく、いろいろな舞台があることは、好いことだ。
 

3・24(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   横浜みなとみらいホール  6時

 「タンホイザー」の第3幕の成功を祈りつつ、神奈川県民ホールからクルマで約10分、みなとみらいホールに移動する。好調ラザレフと日本フィルがどんなブラームスをやるか、ぜひとも聴いてみたかったからだ。

 プログラムは、そのブラームスの「ピアノ協奏曲第1番ニ短調」(ソロは河村尚子)と「交響曲第3番へ短調」の2曲だったが、これには感服した。
 ラザレフと日本フィルはただ咆哮するだけが取り柄だと思っている人がいたら、何としてもこの演奏を聴いてもらいたかったところである。

 ロシアものを演奏する時のあの豪快なサウンドとは全く異なる、弦のしっとりした柔らかさ、木管群の夢幻的な音色、厚みを以前より増したテュッティの響きなど、――ブラームスなどの場合にはこういうスタイルで決められるのだよ、と言わんばかりのラザレフの指揮、日本フィルの演奏であった。
 ラザレフが首席指揮者に就任する頃の日本フィルのあの音を考えれば、変われば変わるものなりき、よくここまで回復したものだ・・・・と思わずにはいられない。

 協奏曲での弦の響きは、とりわけ瑞々しく、美しかった。
 河村尚子のソロも素晴らしい。この曲の演奏によくある闘争的、戦闘的なニュアンスは全くなく、スケールの大きなフォルティッシモにさえ、ふくよかな温かさがあふれていた。それらは、ブラームスがこの第1楽章を決して力みかえった、おどろおどろしい曲想としては考えていなかったのだ――という解釈に感じられたのである。

 「交響曲第3番」では、特に木管楽器群が、何処か遠い彼方からエコーのように響いて来るといった驚くべき夢幻的な音色を聴かせてくれた。
 ラザレフは、この交響曲を物凄く激しい情熱的な身振りで指揮した。それを受け止めながらも、表向きはあくまで抑制した表情を続けて来たオーケストラは、第4楽章にいたってついに情熱を噴出させ、激して怒号する――という設計である。

 ラザレフのステージ姿は、相変わらず賑やかだ。演奏会冒頭、ソリストの河村のあとから拍手しながら入って来たラザレフは、彼女がコンマスと握手したり拍手に答礼したりしているさなか、指揮台上からホルン奏者たちに「行くぞ」と合図を送り、ソリストが座るか座らないかのうちに、猛然と第1楽章を開始してしまった。
 周知のようにこの曲では、ピアニストは最初の数分間は出番がなく、黙って座っているだけだからそれでも大丈夫なのだが、――極端に言えば、ソリストはオケの演奏が始まったあとから悠々と入って来てもいいようなもので? まさか――とにかくラザレフらしい、何とも吹き出したくなる場面であった。

 この光景は、あの語り継がれているメータとバレンボイムの傑作なエピソードを思い出させたが、その話はまたいずれ。

3・24(土)ワーグナー:「タンホイザー」

   神奈川県民ホール  2時

 また「タンホイザー」を観る。
 もっともこれは、3月11日にびわ湖ホールで観たのと同一のプロダクションだ。つまりびわ湖ホール、神奈川県民ホール、東京二期会、京都市響、神奈川フィルとの共同制作公演である。
 今回の出演者で3月11日の公演と異なるのは、オーケストラが神奈川フィル(ゲスト・コンサートミストレスは鈴木裕子)であること。

 その神奈川フィルだが、――今日は都合で第2幕までしか聴けなかったが、かなり頑張っていた。特に弦楽器群の響きは良く、第2幕の大アンサンブルのアダージョの個所でのふくらみのある音など、なかなか好い。
 ただ、びわ湖ホール公演での、京都市響の濃密で完璧な均衡を備えた演奏と比較すると、どうしても音の力にひ弱なところがあるのは蔽いがたい。金管や木管のバランスにも物足りぬところがある。
 とはいえ、この比較は、ちょっと酷かもしれぬ。そもそも、あの時の京都市響が見事すぎたのである。今日の神奈川フィルだって、新国立劇場の東京フィルよりも遥かに出来が良かったことは、疑う余地は無いのである。

 歌手陣では、佐々木典子のエリーザベトが11日の上演と同様、「嘆願」の場面では圧倒的な存在感を示していた。声の調子もあの時より良かったのではないだろうか。
 他の人たちについても11日の公演の時より流れが好くなっていたような印象を得たが、領主へルマンだけは、タンホイザーを追放する宣言を下す最も威厳の必要な個所において、11日と同様に声がふらつき、それを身体で拍子を取って整えるという領主とは思えぬ動作をし、また前回と全く同じ個所でテンポが走りすぎる、という不思議な状況にあった。

 沼尻竜典の指揮は、前回公演の時よりも、ちょっとテンポが遅くなったような気がしたし、また緊迫感も前回より薄められていた印象だが、これは、オーケストラとの相性の問題から生れていることかもしれない。
 今日は残念ながら、第2幕が終ったところで辞す。

3・23(金)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

   東京文化会館大ホール  7時

 ショスタコーヴィチの「交響曲第4番ハ短調」が、この日の呼び物だった。

 冒頭からただならぬ緊張感が演奏にも客席にもみなぎる。当時先鋭的な作曲家だったショスタコーヴィチの、荒々しい怒りのような感情が大胆不敵に炸裂するといったこの開始部を、インバルと都響は非常に鋭角的な、耳を劈くようなサウンドで響かせはじめた。
 これは凄まじい演奏になりそうだ、という予感がしたし、事実そのあともきわめて立派な演奏が続いたのだが、――やはり最近のインバルは、どこかに醒めた感覚・・・・と言って語弊があれば、没我的に狂乱することなく、まず楽曲に厳しい構築性を優先させ、隙のない、決して乱れない音楽づくりを遂行する指揮者である。

 フィナーレ後半での、ティンパニの轟きの上に全管弦楽の怒号が何度も襲いかかるように爆発するあの凄愴な頂点の個所、その余波のようにチェレスタの哀愁に満ちたモティーフが何度も繰り返されながら消え去って行くところなど、都響の充実振りを示す均衡豊かな素晴らしい演奏ではあったものの、どうしてもまず整然として立派過ぎる音楽に聞こえてしまい、作曲者の「やり場のない精神的葛藤と絶望感と微かな光明」はその陰に隠れた印象になってしまうのである。
 しかしまあ、これは実に贅沢な不満ではある・・・・もしゲルギエフが指揮した、あの身の毛もよだつような凄絶な演奏さえ聴いていなければ、このインバルの指揮も充分感激できるものだったろう。

 前半には、宮田大をソリストに迎えての、チャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」(フィッツェンハーゲン版)。これも所謂チャイコフスキー節など感じさせない、整った生真面目な演奏。宮田は若々しく瑞々しいソロ。

3・22(木)ピーター・ブルックの「魔笛」

   さいたま芸術劇場大ホール  7時30分

 フランスなどで世評の高い「ピーター・ブルックの魔笛」。

 これを、「ピーター・ブルックが演出したモーツァルトのオペラ《魔笛》」だと思ったら、それはとんでもない見当違いになるだろう。モーツァルトの「魔笛」の音楽はたしかに使われており、基本ストーリーもそれに共通しているが、それらはあくまでも素材としてであって、内容はほとんど別ものである。

 登場するのは、タミーノ、パパゲーノ、パミーナ、パパゲーナ、ザラストロ、夜の女王、モノスタトス、それに「俳優」と称される2人の男。
 ドイツ語の歌に、フランス語の台詞が入る。

 オーケストラはなく、舞台上手に置かれたピアノ1台のみ。
 このピアノは、ほとんど終始「爪弾き」同様の演奏で、常に静かに歌に寄り添う。「夜の女王のアリア」や「タミーノのアリア」などはちゃんと歌われるが、ピアノの演奏には「旋律」も「和声」も、劇的な起伏も緊張も、ほとんど無いので、音楽としてはむしろ単調だ。
 したがってこれは、モーツァルトのオペラ「魔笛」ではなく、そのエッセンスでもなく、単にその音楽を使った全く別種の芝居――とでもいうものだろう。

 舞台には、長い割り箸みたいな棒が無数に林立、それらは登場人物により様々に移動させられて、牢獄となり、門となり、壁にもなる。
 登場人物の動きには美しさがあり、舞台には独特の個性が感じられるが、しかしこの構成では、上演時間90分(休憩なし)さえ少々長く感じさせる。

3・21(水)尾高忠明指揮札幌交響楽団の東京公演

   サントリーホール  午後7時

 私が全国のオーケストラを聴き歩いたこれまでの経験(とは口幅ったい言い方だが)だと、たいていの日本各都市のオケは、地元での演奏よりも、東京で演奏する時の方が凄い馬力を出す。
 しかし、たった一つ、明らかに逆の傾向を示すオーケストラがある――それが札響である。

 どうも東京公演での札響は、札幌のKitaraで聴く札響とは、何か違う。
 緊張しているのか? まさか。かつて尾高忠明の指揮で、英国のバーミンガムやエディンバラであれほど圧倒的な演奏を行なったことのある札響ではないか。
 それとも東京の汚い空気に馴染まないのか? もしかしたら札響のメンバーは、東京公演を地方公演と見做して、手を抜いているンでないかい、などという冗談ともつかぬ野次もあるくらいだが・・・・。

 理屈では解らない類の話をしていてもどうにもならぬ。
 とにかく今日はベートーヴェン・プロで、前半に「交響曲第7番」、後半に「交響曲第5番」という組み合わせ。

 いかにも尾高らしく、一切の誇張を排し、何のけれんもない直裁的な表現でひたすら作曲者の心に迫ろうとする姿勢がはっきりと感じられる演奏だ。
 弦は基本14型で、それほど大きな音は出さず、「5番」の大詰めでさえ、節度を弁えた音量のまま押し切る。激しい情熱は、古典的な均衡の範囲で燃え滾る。
 こういうスタイルによるベートーヴェンの交響曲を聴くのは、最近ではむしろ珍しいだろう。拍子抜けするか、耳が洗われる思いになるか。それは聞き手の好み次第だが、私としては、正直に言えば――その両方の印象を得た。

 だが、決して淡々と一瀉千里に演奏されたなどと言っているのではない。「7番」のアレグレットや「5番」のアンダンテ楽章における沈潜した緊張感は印象的だったし、とりわけ「5番」の第3楽章でハ短調が再現したあと――第230小節前後の個所でのクラリネットとファゴットの動きなどには、不気味で神秘的な雰囲気さえ漂い、この楽章の魔性的な特徴が見事に打ち出されていて、非常に感動的だった。

 札響の弦は、いつものようにしっとりとして瑞々しい。だが今日は木管に所々で不安定なものがあり、特にそれぞれの第1楽章でホルンが不調だったのは痛かった。当節、ベートーヴェンの交響曲でこういうケースがあると、ことさらに目立ってしまう。

 アンコールは、シベリウスの「悲しきワルツ」。1年前の東日本大震災の犠牲者の冥福を祈って、と尾高みずからアナウンスした。
 実は、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」――これは尾高と札響の最近の「名作」である――が聴けるかと大いに楽しみにしていたのだが。しかし追悼の演奏とあっては、「フェスティーヴォ」というわけにも・・・・。
 

3・21(水)METライブビューイング ヴェルディ:「エルナーニ」

    新宿ピカデリー  午前10時

 2月25日MET上演の映像。
 指揮がマルコ・アルミリアート、演出と舞台装置デザインがピエール・ルイジ・サマリターニ、舞台監督がピーター・マクリントック(METシーズンブックによる)。

 主役歌手陣は充実していて、スペイン国王ドン・カルロをディミトリ・フヴォロストフスキー、スペインの老大公ドン・ルイ・ゴメス・デ・シルヴァをフェルッチョ・フルラネット、山賊の首領エルナーニをマルチェッロ・ジョルダーニ、この3人の愛の狭間で苦悩するドンナ・エルヴィーラをアンジェラ・ミード、という顔ぶれ。

 このうち、数年前のMETオーディションに合格して頭角を現わして来たアンジェラ・ミードに注目が集まっているらしい。この日の観客も、ひときわ盛大な拍手と歓声を贈っていた――自前のニュースターに大声援を送るあたり、METのいいところではなかろうか。
 事実、彼女の声は張りと明るさがあって、なかなか魅力的である。体躯からいうと、あまり細かい舞台演技が出来るタイプとは思えないが、若いにもかかわらず歌唱には意外に豊かな表現力も備わっているので、イタリア・オペラの分野では今後活躍できるだろう。

 男声陣はベテラン揃いだから、安心して聴いて、観ていられる。
 フヴォロストフスキーは国王を横柄に、フルラネットは頑固な老大公を滋味豊かに演じた。またジョルダーニは山賊の首領を、その正体の貴族の雰囲気を巧みに滲ませて演じていた。

 何より、アルミリアートのイタリア・オペラを知り尽くした感のある絶妙なテンポと、それに乗った歌手たちの迫力たっぷりの歌唱が見事だった。こういう熱っぽい演奏があれば、舞台装置や演出が伝統的で古臭いなどという問題は、二の次、三の次になるだろう。

 新宿ピカデリーは、結構お客さんが入っていた。中高年の男女客が多い。歌手たちについて話す女性客たちの声が聞くともなしに耳に入って来るが、なかなかお詳しい人たちのようである。頼もしい。

3・20(火)地方都市オーケストラ・フェスティバル
ニコラス・ミルトン指揮群馬交響楽団 

   すみだトリフォニーホール  3時

 トリフォニーホール恒例の「地方都市オーケストラ・フェスティバル」、今年は18日から27日までで、参加オケは大阪交響楽団、群馬交響楽団、セントラル愛知交響楽団、広島交響楽団。
 ただしその間を縫って札幌交響楽団とオーケストラ・アンサンブル金沢もサントリーホールで東京公演を行なうので、10日の間に各地のオケ計6団体を居ながらにして東京で聴くことができるというわけである。

 群響の今年の東京公演の指揮は、ニコラス・ミルトン。両親はハンガリー人とフランス人で、オーストラリア生まれ。現在キャンベラ響の芸術監督・首席指揮者を務めているという。

 本来は、群響の首席指揮者は沼尻竜典だが、彼は毎年3月にはびわ湖ホール(芸術監督)と神奈川県民ホール等の共同制作オペラの指揮にかかりきりなので、群響が他の時期にでも東京公演をやらない限り、「沼尻と群響」を東京で聴く機会は無い、ということになって、これは残念である。たまたま昨年は大震災のため横浜でのオペラ上演が中止になり、群響東京公演に予定していた外来指揮者も来られなくなったので、彼が急遽トリフォニーホールの指揮台に立つ、ということもあったのだが・・・・。

 今回のプログラムは、ボロディンの「イーゴリ公」からの「ポロヴェッツ人の踊り」(「だったん人」は間違い)、ラヴェルの歌曲「シェエラザード」(ソロは中嶋彰子)、ベルリオーズの「幻想交響曲」というもの。

 冒頭の「ポロヴェッツ人の踊り」は、非常に勢いよく演奏され、力一杯の最強音で閉じられた。
 「幻想交響曲」の第4楽章と第5楽章でも、最後はホールが崩れ落ちんばかりの大音響が強調されて締め括られた。
 このニコラス・ミルトンという人、なかなか演出を心得た指揮者である。

 ただ彼は、本来はやはり、きっちりと隙なく楽曲を構築し、几帳面なほど丁寧に音楽をつくる人なのだろうと思う。
 「幻想」は、全体としては本当に生真面目な演奏になっていた。作曲者ベルリオーズがこの作品に託した「狂気の幻想」――ディオニュソス的な狂乱を描くには、これはちょっとコリン・デイヴィス的な、「ネクタイをきちんと締めた」演奏と言えるかもしれない。だがそれはそれで、この曲に備わっている古典的で構築的な面を浮彫りにするという意味では、面白いアプローチとも言えよう。
 それに群響は、実に堂々とした演奏を聴かせてくれたのである。

 しかし私の印象では、この日の最も優れた演奏は、ラヴェルの「シェエラザード」であったと思う。ここで披露されたミルトンの叙情的感性は、彼の中に流れるフランス人の血ゆえのものかもしれない。群響も整然とした佇まいながら、極めて柔らかく詩的な表情にあふれていた。
 とりわけソロを歌った中嶋彰子の、低音域への妖艶な声の伸び(1曲目の「アジア」など見事)を含めた官能的な表情が素晴らしく、ドビュッシーの叙情的朗読のスタイルの影響下にあった時代のラヴェルの作品の特徴を美しく描き出してくれた――彼女、この声なら、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」を歌ったら素敵なのではなかろうか?

   音楽の友5月号 演奏会評

3・18(日)山田和樹指揮東京フィルハーモニー交響楽団

   オーチャードホール  3時

 伊福部昭の「交響譚詩」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」(ソロは小山実稚恵)、ベルリオーズの「幻想交響曲」というプログラム。

 オペラのピットではあんなに頼りない演奏をするにもかかわらず、ステージでの大編成の演奏では俄然良いオーケストラになるという、いつもの東フィルの癖で、――この勢いがピットにも持ち込まれてくれればどんなにいいかといつも思うのだが――今日も大いに壮麗な演奏を繰り広げてくれた。

 指揮は山田和樹。演奏の設計は相変わらず上手い。
 「幻想交響曲」では、第1楽章の序奏部でのテンポを極度に遅く採って開始したので、もしやまた何か凝ったことを?・・・・と思ったが、そのあとは思いのほかストレートな表現で全曲をまとめていた。
 ちょっと拍子抜けの感はあったものの、近年の欧州の若手系(?)指揮者がよくやるごつごつした畸形的なバランスによる音づくり(それはそれで面白いが)と違い、豊麗でシンフォニックな構築だったので、比較的心静かに聴けたのもたしかである。
 「交響譚詩」は、この曲にしてはシンフォニックで大掛かりなアプローチ。協奏曲は小山実稚恵の鮮やかなソロで引き立った。

 1階24列の真ん中あたりで聴いたが、音は極めてよく響く。ホール全体に響くというより、ステージの中で既に響いた音が出て来る、という印象である。そのため、オーケストラは豊満な感じの音になるが、その一方、細部のパートなどの明晰さは、やや失われる傾向にあるだろう。このホールは最近内部が改装されたはずだが、そのためかどうかまでは、定かでない。

3・17(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団
「ラザレフが刻むロシアの魂」

    サントリーホール  2時

 前半にエルガーの「チェロ協奏曲ホ短調」(ソロは横坂源)、後半にラフマニノフの「交響曲第2番ホ短調」。

 俺でもこういうレパートリーをこのように叙情的に、しっとりと振れるんだぜ、と言わんばかりの指揮を聴かせたラザレフ――横坂源の見事なソロとともに、美しいエルガーの協奏曲が前半を飾った。

 そのあとには、いよいよラザレフの本領が爆発する。先日のラフマニノフの「第1交響曲」で聴かせた豪演が、今日も再現されることになる。
 果たしてこの「第2交響曲」も、全曲、強烈なデュナーミクとエスプレッシオーネに満たされ、嵐のような凄まじい演奏になった。ff の音色はあまり綺麗ではないが、それにもかかわらず、音楽にはきらきらとひかるものが散りばめられている。とりわけ、アダージョ(第3楽章)は絶品であった。

 大詰め、最後の和音の一撃を振り終わると同時にラザレフは、例の如く腕を大きく上げたまま客席を向いてしまう。ラフマニノフが巧妙に仕組んだコーダの迫力と、ラザレフの豪快で派手な指揮姿とに煽られ、満席に近い聴衆はワッと沸く。
 アンコール曲は、同じラフマニノフの「ヴォカリーズ」だった。

 今シーズンから日本フィルは、楽員と聴衆との「ホワイエ交流会」を始めた。場所は終演後のホールのホワイエ(ロビー)で、30分間ほど。定期ごとに毎回開催するのではなく、シーズンの開幕と閉幕あたりに行なうらしい。今日は坪池泉美(オーボエ)の司会進行により、ラザレフも出席、満足げにスピーチも行なった。
 CDが当選する福引もあったが、その「抽選券」が番号札などでなく、楽員ひとりひとりの手書きメッセージが載っている紙片だというのが、いかにも日本フィルらしい。演奏旅行先から楽員たちが支持会員に「お便り」を出すのが常だった日本フィルの良き伝統は、受け継がれているようだ。こういう自主運営のオケの精神など、「親方日の丸」のオーケストラからは、想像もできないものだろう。
 今日は楽員と聴衆との交歓会とまでは行かなかったようだが、ホワイエに残った客はおよそ300人。いい雰囲気であった。

3・16(金)飯守泰次郎、東京シティ・フィル常任指揮者最後の定期

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 1997年9月より常任指揮者を務めて来た飯守泰次郎は、今夜の定期を以ってそのポストから退く(4月からは桂冠名誉指揮者)。ホールは、満席の盛況である。

 この定期は、昨年6月から4回に及んだ飯守の「チャイコフスキー交響曲全曲シリーズ」の最終回にも当っていた。
 今夜演奏されたのは、交響曲第2番「小ロシア」(今は「ウクライナ」と呼ぶ方が無難らしい)、「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは渡辺玲子)、祝典序曲「1812年」(合唱入り)。重量感たっぷりのプログラムである。

 演奏は相当荒っぽかったが、その一方、情熱的でもあり、その意味では聴き応えがあった。
 「第2交響曲」など、飯守の熱血がそのままぶつけられた感がある。シティ・フィルの後継シェフが既に決まっているので気が楽になったのか、今はもう、己のやりたい音楽を何の気兼ねもなく発散させてみたい――という気持があふれているようにも聞こえる。
 オーケストラに充分な容量があれば、この猛烈な気魄をがっちりと受け止め、それなりにバランスのいい演奏をつくることができるのだろう。だが、残念ながら今のシティ・フィル――特に管楽器群には、どうもその余裕は無いようにみえる・・・・。このオーケストラ、近年とみに荒れているのではないか? 

 何か騒々しく終った「第2交響曲」の印象を救ったのは、協奏曲のソリストとして登場した渡辺玲子の、強靭な求心力をもった見事な演奏であった。
 所謂美音ではなく、むしろごつごつした造型と荒々しいエネルギーを備えた演奏だが、第1楽章冒頭のソロからして「これぞチャイコフスキー!」と感じさせるような濃厚さ、温かさ、哀愁に満ちながらも毅然とした叙情性――といったものをあふれさせていたのである。
 彼女の演奏を聴いたのは久しぶりだが、以前よりも更に凄いヴァイオリニストになったものだと舌を巻いた次第だ。彼女の猛烈自在なアゴーギクやストレッタにオーケストラがついて行けないきらいもあったが、とにかくステージを席巻した彼女のおかげで、「ヴァイオリン協奏曲」は、この日随一の聴きものとなったのであった。

 なお、今日の演奏では久しぶりに第3楽章で、――あれはアウアー版というのか? たとえば69小節目から80小節目まで(同様に259~270小節も)をカットするという、要するに昔ハイフェッツらがやっていたあの形が聞けた。その方が流れもいいことはたしかだが、しかし・・・・。

 最後は「1812年」。
 合唱団(東京シティ・フィル・コーア)はオルガンの下に並び、曲冒頭の「聖歌」と途中の舞曲風の民謡主題2箇所、及び最後の「帝政ロシア国歌」の個所を歌った。パート間のバランスがあまりよろしくないのと、歌詞が全然ロシア語みたいに聞こえなかったのは疑問だろう。
 だが最もいけなかったのは、PAで出された電子音(?)によるオルガン、大砲、鐘の音だ。不自然な音質と音量で、せっかく熱演していたオーケストラの音を覆ってしまった。ステージ上手側では、バンダとして出演した東海大学附属高輪台高校の吹奏楽部メンバーが一所懸命演奏していたが、その音も大部分かき消された。

 そんなことはあったものの、飯守とシティ・フィルの演奏はがっちりとしていて、この曲の構成をすこぶる見通しよく組み立てていたことは認めてよかろう。少なくとも、ゲルギエフや、テミルカーノフが日本で演奏したものより、各主題はずっと明確に組み上げられていたのである・・・・。

3・15(木)トーマス・ダウスゴー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時15分

 デンマークの指揮者、トーマス・ダウスゴーが客演。
 たった1回の演奏会だが、これは面白い。この人は、録音で聴くより、ナマで聴いた方がその真価が解りやすいといったタイプの指揮者ではないかと思われる。

 今日はチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」、シベリウスの「第7交響曲」、ニールセンの第4交響曲「不滅」を指揮したが、いずれも骨太な力感と、分厚い響きと、強烈なデュナーミクの対比を備えた演奏だ。
 細かいアンサンブルを整えるという指揮ではないけれど、この豪壮な音楽づくりの美点の前には、そんなことはたいした問題ではなくなるだろう。

 シベリウスの「7番」でのダウスゴーの重厚なアプローチは、CDで聴く彼の指揮からいっても予想外ではなかったろうか。思いがけない新鮮な魅力が、この曲から引き出されている。
 最後の瞬間にハ長調に戻るこの曲の終結は、普通の演奏では、あっけない感を与えることが多いものだが、今日の演奏では、重厚な低音部のクレッシェンドに凄味のある力感がこもっていて、みるみるうちにハ長調による解決に向かって行くといったカタルシスを感じさせた。

 「名曲解説全集」(音楽之友社)の、遠山一行氏のこの曲の解説文にある「・・・・すでに低音が主音(ハ音)上に安定しているのに対して、上声はニ音、ハ音、ロ音、ハ音と、一種の繋留のような動きを見せ、その怒濤のような全管弦楽器の咆哮のなかに、ティンパニも加わって雄大に曲を閉じる」というニュアンスは、――今夜の演奏で初めて「体感」できたような気がする。

 ニールセンの「不滅」は、ダウスゴーの、長身を弓なりに屈曲させ、さながら猛然と獲物に飛びかかるが如き身振りの指揮で、劇的に開始される。この曲の凄まじいダイナミックスと振幅の魅力をオーケストラから引き出すには、彼が見せる猛獣のようなジェスチュアは、たしかに効果的であろう。
 野生的で荒々しく、勢い込んだ演奏ではあったが、痛快な印象を与えてくれたのは事実である。

 ただ今回ティンパニは、中央奥と、上手の前方寄りとに配置されたが、後者は――客席中央で聴いた場合には――どうしてもオーケストラをマスクしてしまうことになったであろう。
 むしろ以前ヴァンスカ(と読響)が東京芸術劇場で行なった演奏会の時のように、舞台後方の下手側端と上手側端とに大きく距離をとって配置した方が、やはりバランスがいいのではないという気がする。

 それにしても、ハーディング、スピノジ、このダウスゴーと、所謂モダン系の客演指揮者が続く新日本フィルの定期は、快調である。在京8団体の中にあって、そうした客演指揮者陣を構築し、個性と傾向とを最も明確に出しているオーケストラは、この新日本フィルである。
 それは結局、音楽監督クリスティアン・アルミンクの功績に由るところ大であろう。震災後の例の事件以来、あれこれ批判されたアルミンクだが、彼の業績はやはり大きいと言わねばならない。

3・14(水)新国立劇場 ワーグナー:「さまよえるオランダ人」 3日目

   新国立劇場オペラパレス  6時30分

 第3幕の中頃、ちょうどノルウェー船の水夫たちが踊りまくっている時に、かなり強い地震が来た。客席は少しざわめいたが、上演は中断することなく続いた。そのすぐあとには幽霊船の水夫たちの合唱が爆発するという次第で、ますます不気味な雰囲気になった。

 今回のプロダクションは、マティアス・フォン・シュテークマン演出によるもので、2007年2月にプレミエされたものだ。
 序曲には「救済の動機」のない版(原典版とも少し違う。昔バイロイトで演奏されていた版に似ているが・・・・)を使っているのに、全曲の最後は「救済の動機」ありの改訂版使用という、あまり一貫性のない形になっている。
 また第2幕と第3幕は連続する版で演奏されたが、第1幕だけはエンディング付のヴァージョンが使用されて一度休憩に入った。こちらはまあ、便宜的な方法と言えるかもしれない。

 ラストシーンでは、幽霊船の舳先に屹立したゼンタが、船とともに沈んで行く。
 陸に残されたのはオランダ人船長の方である。
 何もなくなった舞台に、白色の光に照らされて彼がただ1人茫然と地に伏す時、オーケストラには「救済の動機」が現われる。オランダ人は救済されたのか、それとも長い妄想か悪夢から醒めただけだったのか? 

 この場面のシュテークマンの演出は前回同様に印象的なものだったが、その場面以外は、なんとも平凡で締まりのない舞台だ。所在なく動き回るだけの水夫たち、リアルな動きと様式的なポーズが中途半端に混在する水夫たちと娘たち、音楽とは妙にチグハグな人物の動き。

 だが一番のチグハグは、ゼンタ(ジェニファー・ウィルソン)の無表情な顔と動作だ。
 第3幕大詰め、悲劇的な緊迫した場面なのに悠然と歩いて出て来たり、船の舳先へノタノタと登ってやっとこさ姿勢を整えたりするそのダイコンぶりたるや――およそドラマトゥルギーと程遠いその無神経な動作には、見ていてなさけなくなり、腹が立ったほどである。演技ができないのか、それとも演技をやる気がないのか?

 今回の期待は、最近欧州の音楽界では日の出の勢いにあるチェコの指揮者トマーシュ・ネトピルと、マリインスキー出身の、今夏バイロイトでもオランダ人を歌うエフゲニー・ニキーチンの登場にあった。
 だがネトピルの方は、――どういうわけか期待を大きく裏切って、えらく生気のない指揮に終始してしまっていて、大いなる失望落胆である。もってまわった遅いテンポ、硬直した音づくり、緊張感を欠くゲネラル・パウゼなど、まるで十数年前の(日本公演での)ティーレマンを真似したかのようだ。
 多用される弱音によるティンパニのリズムやトレモロなど、たとえpでもppでも、客席にもはっきり聞こえるような音量にさせなくては意味がないだろう。

 ミュンヘンで「ファウスト博士」を振った時をはじめ、明晰で溌剌とした指揮が彼の身上なのに、この暗さは、いったいどうしたことなのだろう? 
 はっきり言うが、彼は、本来はこんな指揮者ではない。理由は分からないが、とにかく今回は、どうかしている。

 一方ニキーチンも、前半は何かうわべだけの歌唱表現と演技になっていて期待はずれだったが、ただこちらの方は、第3幕最後に大見得を切るあたりにかけて歌にも猛烈な気魄を示して、とりあえずはきちんと締め括った。しかるべき状況におかれれば、良いオランダ人が歌える人だろうと思う。

 他の歌手たちは、ダーラントをディオゲネス・ランデス、エリックにトミスラフ・ムツェック、マリーに竹本節子、舵手に望月哲也。
 ランデスは、ダーラント役には声がちょっと軽いのではないか? 下のF音も伸びないし、オランダ人との声の対比も明確にならない。第1幕のあと、体調不良との発表があって、アンダーの長谷川顕に替わったが、彼の方が声に重厚さがあって、ずっと父親ダーラントらしかった。
 ムツェックは荒っぽいが、一本気な狩人としてのこの役にはまあ合っているだろう。竹本節子は前回の上演から引続きの登場だが、手慣れたものだ。望月哲也は良かったが、歌唱をやや崩し過ぎか?

 東京交響楽団は、前回ミヒャエル・ボーダーの指揮でこの曲を演奏した時よりはまとまっていたと言えるかもしれないが、それでもやはり硬質で硬直気味の演奏であり、「総譜のどの頁からも海の風が吹いて来る」といわれるこの音楽を再現するにはしなやかさを欠いていた。
 弦の響きが薄いのは致命的で、ドイツ・ロマン派オペラの最大の特徴たる弦のトレモロの迫力がもっとたっぷりと出ていなければ、第1幕における海のざわめきや波の盛り上がりや、不気味な雰囲気を描き出すことは不可能なのである・・・・。

 このあたりはしかし、指揮者との呼吸が合っていなかったからなのかもしれない。アインザッツが妙に思い切り悪く、第2幕の序奏の入りなど座りが悪かったし、第3幕の「エリックのカヴァティーナ」の序奏でオーボエがためらい気味に(?)吹き始めるミスをしたのも、もしかしたら指揮のせいだったのか、それとも? 

 字幕は、至極解りやすかった。とはいえ、水夫の「Ho! He! He! Ja! Hal-lo-jo!」などの掛け声までいちいち細かく日本語訳で字幕に出すことはないんじゃないかと思うが如何に? 「へいへいほう!」なんて、「与作」みたいで。

3・13(火)スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団のベートーヴェン

   サントリーホール  7時

 スタニスラフ・スクロヴァチェフスキと読響、今夜はベートーヴェン・プロである。「レオノーレ」序曲第3番、交響曲第4番と第5番「運命」が演奏された。

 88歳の「ミスターS」――本当に「老い」とか「枯れ」とかいったイメージからは遠い人だ。常に若々しい芸風を保っている。

 たとえば「5番」。この曲の演奏での、些かも弛緩なく前へ前へと進み続ける旺盛なエネルギー感など、そのほんの一例だろう。畳み込むように進軍する第1楽章もいいし、第4楽章の再現部からコーダにかけての押しに押す強靭な力感など、感嘆せずにはいられない。特に今夜は、最後のプレストの見事さ。

 随所にスクロヴァチェフスキらしい緻密な音の構築が施されていて、楽譜ではすべての楽器がフォルティシモになるべき個所でも金管群を抑制して弦楽器群のみをクローズアップさせたり、逆にホルンやトランペットに強いアクセントを部分的に施して音をケバ立たせてみたりと、音楽に刺激的な動きを与え続ける。
 この手法はミスターSの昔からの得意技だが、手の混んだその音づくりを、高齢の今でも、少しも手を緩めず続けているのが彼の豪さではなかろうか?

 読響の管楽器群は、時々この細かい技に追いつかないこともあったが、それでもミスターSが昔指揮していたザールブリュッケン放送響よりも、ずっと綺麗な音色とバランスとで、彼の要求に応えていた。16型(5番以外は14型)の弦も力まず、ガリガリ弾くこともなく、たっぷりと瑞々しい音で響いた。何か爽快な感覚に浸らせてくれる「5番」だった。

3・12(月)「4大ピアノ・トリオを聴く」第2夜

   紀尾井ホール  7時

 2月27日に演奏された「2大」に続く今夜の「2大」は、ドヴォルジャークの「ドゥムキー」と、チャイコフスキーの「偉大な芸術家の思い出のために」だった。
 今夜の演奏は、ピアノが河村尚子、ヴァイオリンが佐藤俊介、チェロが堤剛。

 2階席正面で聴くと、河村のピアノが猛烈な気魄で湧き上がって来る。佐藤は持ち前のピンと張った、鮮烈な音色で切り込んで来る。若い2人のこの当るべからざる勢いを、堤の分別ある大人の表情が落ち着いて受け止める、といった感じに聞こえる。
 たしかに、チャイコフスキーの冒頭など、堤が弾き出す堂々たる音楽は流石の風格であり、それはあたかも若い河村のピアノを温かく包み込み、演奏とはこういうものなのだよ、と言い聞かせているような感もあって、ちょっと微笑ましい雰囲気にも思えた。

 しかし、概して、今回はヴァイオリンとチェロの音色が、あまりに違い過ぎる。
 世代の違い、個性の違いはともかく、どちらがいいかとかいう問題でもなく、音色も音量も表情も違い過ぎる。あからさまに言えば、2階席で聴くと、テュッティではヴァイオリンとピアノばかりガンガン響き、チェロはよほど耳をそばだてないとそのパートが明瞭に浮かび上がって来ないのだ。

 やはりこれは、むしろ1階席で聴いた方が、もう少し適正なバランスで愉しめたのではなかったかと思う。前回は1階席で聴いたが、あの時の楽器はフォルテピアノだったから、やや遠く聞こえたきらいもあったけれど。
 それにしても、この2曲、いい曲だ。

3・11(日)びわ湖ホールプロデュースオペラ ワーグナー:「タンホイザー」2日目

    滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール  2時

 演奏前に芸術監督・沼尻竜典が舞台に現われ、「東日本大震災1年」の日に際し、「祈りをこめて演奏します」という趣旨をスピーチ。

 今日はBキャスト。主役陣は、水口聡(タンホイザー)、佐々木典子(エリーザベト)、並河寿美(ヴェーヌス)、大島幾雄(ヴォルフラム)、大澤建(領主へルマン)という顔ぶれ。
 共演は、岡田尚之(ヴァルター)、大野光彦(ハインリヒ)、加賀清孝(ビテロルフ)、鹿野由之(ラインマル)、福永修子(牧童)らの人々。

 最も光ったのは、やはりエリーザベト役の佐々木典子であろう。
 ふくよかでありながら凛然とした気品のある声は素晴しい。昨夜の安藤赴美子とはまた異なったタイプの、分別ある女性像としての解釈によって、この役柄を見事に歌い演じた。
 「歌の殿堂」での第一声は少し力みすぎかなと思われたが、続くタンホイザーとの2重唱では、一寸躊躇ったような個所で声の表情をふっと変えてみせた個所など、聴き手をハッとさせるものがある。
 とりわけ、剣を閃かせて迫る騎士たちからタンホイザーを必死でかばう場面は、まさに迫真の演技だった。ここでは、舞台上の求心力を独り占めにしてしまった。さすがに演技力では若い安藤よりも一日の、いや二日以上の長がある。ベテランの貫禄を充分に示したというところであろう。この場面は、横浜でもう一度観たいと思うくらいだ。

 ヴェーヌスの並河寿美も、力のある歌唱を示した。この人、以前の「トゥーランドット」でもそうだったが、劇的で個性の強い役柄を歌い演じると、なかなかいい。
 ただ、今回のハンペ演出では、このヴェーヌスは両手を拡げる以外にほとんど演技がないので――他にやりようがないのかもしれないが――その範囲でもう少し多様な動きが出ていればもっと面白かったろうに、とも思う。これは前日の小山由美のヴェーヌスでも同様。

 かように、このオペラの重要な2人の女性像――あるいは1人の女性の2つの側面――を歌い演じた女性歌手2人は、前日の2人とともにそれぞれの良さを示していた。

 だが、男性歌手陣のほうは? 
 昨日の組に比べ、言っては何だが、気になるところが少なくない。演技の上でも、ただ手を前方に出すだけの類型的な動きが、前日の組よりずっと多い。指揮者の方ばかり見ながら歌う人もいるし、歌唱面でも、声がふらついたり、やたら走り気味になる人もいる。

 それに今日は、昨日よりプロンプターの声がやたら大きく、客席真ん中あたりでもガンガン聞こえて来た。そんなにセリフが――いや歌詞が入っていなかったのか? タンホイザーが歌っている時のことである。

 そもそもプロンプターの声というのは、普通は客席にまではそんなに聞こえないものである。仮に聞こえたとしても、普通はセリフのように聞こえるものだ。今日のような大きな声で、楽譜にない歌声のようにオーケストラに交じって聞こえるなどということは、通常はないし、あってはならないことだろう。
 ただ、ここで言いたいのは、プロンプター氏がそこまでやらなければならなかったのは何故か、ということなのである。
 
 沼尻竜典の指揮する京都市交響楽団は、今日も序曲から最後の幕切れまで、引き締まって均衡を保った、素晴しい演奏を聴かせてくれた。これは絶賛したい。
 合唱団の出来は昨日とほぼ同様。「大行進曲」のようにパワーで押す個所はいいとしても、第1幕と第3幕の巡礼の合唱(男声)は、粗さがかなり露呈していた。

 沼尻のテンポは、第3幕後半のヴェーヌスベルク出現からタンホイザー、ヴェーヌス、ヴォルフラムの応酬、タンホイザーの死にいたるあたりの個所ではやはり少し遅すぎるかな、と思わないでもなかったが、まあ、それはそれ。そのテンポを、今日のタンホイザーとヴォルフラムは持ち切れなかった、ということかも。
 しかしいずれにせよ、オーケストラの演奏そのものは立派であった!
 

3・10(土)びわ湖ホールプロデュースオペラ ワーグナー:「タンホイザー」初日

    滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール  2時
 
 びわ湖ホール芸術監督・沼尻竜典の指揮、ミヒャエル・ハンペの演出。「ドレスデン版」による「タンホイザー」上演。
 これは神奈川県民ホール、東京二期会、京都市交響楽団、神奈川フィルとの共同制作。

 今日は初日公演で、先日広島交響楽団定期(2月24日)で抜粋演奏された際のキャスト――福井敬(タンホイザー)、安藤赴美子(エリーザベト)、小山由美(ヴェーヌス)、黒田博(ヴォルフラム)が主役陣(Aキャスト)を構成。
 共演は、妻屋秀和(領主へルマン)、松浦健(ヴァルター)、萩原潤(ビテロルフ)、二塚直紀(ハインリヒ)、山下浩司(ハインマル)、森季子(牧童)。
 合唱にはびわ湖ホール声楽アンサンブル(13人)と二期会合唱団((70人近く)が、またオーケストラには京都市交響楽団が出演した。

 結論から言うと、これは予想を遥かに超えた水準の上演であった。最後の幕が降りたあとの、満席の観客の10分を越すカーテンコールも、それを裏づけているだろう。
 第一に挙げるべきは、沼尻竜典の、端整なつくりながら劇的な起伏に事欠かない、極めて適正なテンポによる指揮である。陶酔や熱狂というタイプではなく、むしろクールな表情の指揮ではあるが、全曲は緩みのない均衡で構築されていた。これが演奏をどれほど聴きやすくしていたかは言うまでもない。

 次には京都市交響楽団の、見事に引き締まった、バランスのいい演奏を挙げなくてはならない。ピットの中でこれだけしっかりした演奏を聴かせるオーケストラは、東京のオペラ界にも稀なほどである。ワーグナーものは、何よりオケががっしりしていないとしまらないのだ。

 そして、歌手陣の充実である。主役4人については先日(2月24日)の広響定期の項で記したとおりだが、特に舞台上演たる今日は、みんな本領を発揮していた。
 とりわけ、「ローマ語り」を含む長丁場を強靭なエネルギーと情熱的な歌唱で押し切った福井敬のタイトルロールは、絶賛されてよい。悲劇的な役柄を演じてはわが国随一のテナーと言ってもいい個性が、ここでも全開していたのである。

 安藤赴美子のエリーザベトは、歌唱の面では「待ち望んでいた新しいエリーザベトが出現した」と称賛するに値するだろう。まっすぐ伸びてよく透る、若々しい清純な声質が素晴しく、若い頃のアニア・シリアを髣髴とさせる。これで演技力が備わり、舞台姿に「雰囲気」が加われば、それこそ名実ともに「理想的なエリーザベト」になるだろう。

 小山由美のヴェーヌスは、パリ版に比べると出番の長くないドレスデン版においてさえも、その存在感を誇示している。黒田博のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハも、吟遊詩人のリーダー格としての貫禄充分だ。妻屋秀和は、持ち前の巨躯と底力のある低音を生かし、威風堂々たる領主へルマンを歌い演じていた。
 その他の歌手陣もすこぶるバランスがよく、安心して聴いていられる。萩原潤のビテロルフも、タンホイザーが歌合戦の際に罵ったような「狂える狼ビテロルフ」の粗暴な雰囲気を上手く表現していた。
 
 ミヒャエル・ハンペの演出は、予想通り。
 今では珍しいトラディショナルな――もしくはレトロな――舞台である。それゆえ、あれこれ考えずに観ていることができ、視覚に煩わされずに音楽を聴いていられるというわけだ。ラストシーンで、タンホイザーの救済を象徴する「葉の生じた杖」がヴォルフラムによって高々と掲げられ、一同が膝まづく場面など、観客にカタルシスを与える演出として、極めて伝統的な手法ではある。
 ただ、この人の舞台は、昔はもっと理詰めで論理的で、演技ももう少し細かいものであったはずで、ましてご本人が来日して立ち会っているからには、それが徹底されていると思ったのだが、――おトシの所為でその威令も緩んだか、あるいはセンスがズレたか? 

 今回のギュンター&アレクサンダー・シュナイダー=ジームッセンによる舞台装置は、「サンディエゴ・オペラのためにデザインされた」とクレジットされているが、しかしどこかで観たような舞台だと思えたのは、かつてMETで上演されたものと同じものだからだ(あの演出はオットー・シェンク。私はレーザーディスクで観ただけだが)。舞台装置が同じであれば、演出が似てしまうのも仕方なかろう。

 舞台の光景は、至極リアルで写実的だ。ヴァルトブルク山麓の場面など、蓼科か八ヶ岳の峠の中腹みたいな眺めで、ほのぼのとした味が出ている。当世のオペラの舞台ではほとんど見られなくなった光景だが、たまにはこういうのも悪くなかろう。
 紗幕の活用と照明(マリー・バレット)により、それがヴェーヌスベルクの魔の光景に変化するくだりなど、すこぶる解りやすい。

 先ほど、沼尻の指揮を絶賛したが、実は抗議したいところもある。
 第2幕のタンホイザーとエリーザベトの2重唱の一部カットもその一つだが、それよりも第2幕の大アンサンブルの後半の大幅カット(ドーヴァー版総譜314頁5小節目から332頁4小節目まで)については、どうしても共感できない。巧く繋いではあるけれども・・・・。
 なんせこの何年か、聴く上演、聴く上演、小節数は違えど、例外なく大幅カットが為されているのばかり。もう憤慨する気力も失せてしまったが、しかし今回、特にそこを聴きたかったのは、男声アンサンブルの上に朗々と響くはずのエリーザベトの清純な声を期待していたからである。そこのタンホイザーのパートはずっと休ませてもいいから、このアンサンブルは演奏してもらいたかった。

 とはいうものの、これは極めて満足すべき上演。
 横浜では今月24・25日に上演されるが、オケの神奈川フィルには、京響に負けぬよう頑張ってもらいたいところだ。6時終演。

3・9(金)広上淳一指揮東京フィルの「黛敏郎作品」定期

   サントリーホール  7時

 黛敏郎の作品集。「トーンプレロマス55」(1955年作曲)、「饗宴」(53~54年作曲)、「BUGAKU」(62年作曲)、「涅槃交響曲」(58年作曲)が演奏された。

 それこそ滅多に聞けない意欲的な曲目の定期である。東京フィル事務局のF氏に「2度と聞けないようなプログラム」と言ったら、「2度とできないようなプログラム」と返された。たしかに、よくこういうものをやってくれたものだと思う。
 演奏も見事。オペラのピットに入った時の東京フィルに対しては私も随分毒づいているが、ステージでの定期の演奏に関しては、概ね賛辞を贈りたい(それにしても、演奏のそのギャップは何だ?)。

 「トーンプレロマス55」は、エドガー・ヴァレーズに触発された作品の由だが、なるほど打楽器の使用法など、あの「イオニゼーション」そっくり。1955年に黛は既にこういう傾向の既に書いていたのか・・・・と、今更ながら驚かされる。
 「饗宴」も「BUGAKU」も、前者はジャズの手法まで取り入れた「洋風」の、後者は「左方の舞と右方の舞」による「和風」の傾向を示すとも言えるが、いずれ劣らず、今聴いても極めて新鮮に感じられる。私もたしか60年代に放送か何かでそれらの曲を聞いたはずなのだが、しかし、やっぱりあの頃は・・・・。

 最も有名な「涅槃交響曲」は、かなり大きな編成の男声合唱(東京混声合唱団、さすがの実力!)と、2階客席の2箇所(LC席後方とRC席後方)に配置されたバンダ(かたや高音、かたや低音主体)の演奏も加わっての、非常に大がかりな作品だ。
 サントリーホールの音響の良さもあって、大伽藍に木魂する梵鐘の如く、巨大な重量感あふれる音が轟々と続くさまは壮烈である。
 これも久しぶりに聴くと実に新鮮ではあるが、しかし延々と同じ音が続くのだなあ、と昔N響の演奏などを聴きながら仲間たちと文句を言い合っていたことを、今日も聴いているうちに突然思い出してしまった。

 しかしともあれ、これは素晴らしい体験。このような、往年の邦人の作曲家の優れた作品がもっとしばしば演奏される音楽界でありたいものである。

3・8(木)樫本大進&コンスタンチン・リフシッツ

   サントリーホール  7時

 真正面から正確無比に生真面目に、しかし瑞々しく音楽を歌い上げる樫本大進(ベルリン・フィル第1コンサートマスター)と、変幻自在に音楽をうねらせる個性派ピアニストのコンスタンチン・リフシッツとのデュオは、対決の美と謂うか、不均衡ゆえの妙なる調和と言うか、とにかくスリリングな趣きがあって面白い。

 この2人によるベートーヴェンのソナタ・チクルス、1年4ヶ月ぶりの「第2回」にあたる今夜は、「第2番」に始まり、「第6番」「第7番」「第8番」と並ぶプログラムである。
 「第2番」の冒頭、まるで両者がまず礼儀正しく挨拶を交わすかのように、替わりばんこに前面に出て来て主題を奏するくだりなど、2人のいかにも室内楽の呼吸を心得た呼吸の良さにニヤリとさせられたほどだが、やはり演奏に見事な緊張を増したのは――曲の性格のせいもあろうが――「第7番」以降であろう。

 樫本は相変わらず端整な表情を崩さずに押すが、リフシッツの方は音楽にいよいよ精妙なうねりを増し、時には低音部の轟きに凄味を利かせ、前面に浮き出るが早いか次の瞬間にはヴァイオリンの陰に身を潜めるといった具合に、起伏にも激しさを加えて行く。
 それはあたかも、大波(ピアノ)の上に毅然と進む船(ヴァイオリン)、もしくは、自らは端整な表情を崩さぬままに自在なピアノを触発してみせるヴァイオリン、という趣きも・・・・。
 特に曲想の豪快な「第8番」では、両者の異なったスタイルが雄弁にぶつかり合って、聴き応えのある演奏となった。

 アンコールでは、クライスラーの「シンコペーション」が演奏されたが、この曲では樫本の独り舞台という感。

3・7(水)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団

   サントリーホール  7時

 巨匠スクロヴァチェフスキ、いま88歳。
 相変わらず若々しい。ステージへ出入りする際など、以前よりも姿勢がシャンとしているように見えるし、歩き方も流れるようにスムースだ(ただ、ソロ・カーテンコールのあと、最後に袖へ引き揚げる時にはやや疲れたような、もつれた足取りだったが、緊張が緩んだせいか?)。

 指揮は常に暗譜であり、身体の動きも敏捷で速い。何より、オーケストラから引き出す音楽のエネルギーは物凄く、演奏に寸毫も緊迫感を失わせない気魄の指揮たるや、実に恐るべきものである。
 読響も、持ち前の圧倒的な重量感を漲らせた音で、見事にこの指揮に応えていた。

 前半のショスタコーヴィチの「交響曲第1番」では、たっぷりした厚みのあるシンフォニックな表現が強い感銘を与えてくれる。この作曲家のアンファン・テリブル的な衝撃に満ちた音楽も、ここではすでに古典の交響曲の歴史の中に溶け込んだ存在であるかのように響く。
 極度にスケールの大きな、豊麗なショスタコーヴィチ像が創られていて、これは非常に面白かった。

 後半は、この日の人気の的ともいえる曲、ブルックナーの「交響曲第3番」だった。
 基本的には1889年版使用だが、激情的なアッチェルランドや極端なデュナーミクの対比など、スクロヴァチェフスキ特有の激しい感情の盛り上がりを示す指揮が随所に聴かれて、これもスリリングな演奏だ。
 全曲最後の7ページ(計45小節)は、常に胸が躍るクライマックス。まさに壮大な大団円である。

 こうした素晴らしい作品、見事な演奏を体験できれば、満ち足りた気持でホールを出ることができたはずなのだが、・・・・どこかに「あれさえなければ」という引っかかりが瑕疵のように残って、気分的に邪魔になる。
 一つは、トランペットとホルンの不安定さだ。
 とりわけ最弱音で出る際に繰り返されたホルンのミスは痛い。1回や2回なら、人間だからそういうことも、で済むだろうが、3回、4回、5回・・・・、となると、頼むから何とか頑張って下さいよ、と言いたくなってしまう。山岸博の抜けた穴はこんなにも大きいのか? 
 そしてもう一つは、ショスタコーヴィチの時にもブルックナーの時にも、残響も消えぬうちに騒々しい勢いで手を叩き始めてはすぐ止めるという変な癖を持ったP席前方の御仁のせいだ。全く、どういう神経の持主なのだろう。――訂正。P席でなく、1階1列目の御仁だったそうです(コメントありがとうございました)。

3・6(火)コルネリウス・マイスター指揮ウィーン放送交響楽団

    ホクト文化ホール(長野市)  6時30分

 ベルトラン・ド・ビリーの後任として、2010~11年のシーズンからウィーン放送響の首席指揮者を務めるコルネリウス・マイスターは、まだ32歳の若さ。
 6年前には新国立劇場で「フィデリオ」を指揮していたが、世評はあまり芳しくなかった(私は聴かなかった)ので、その後の成長は如何にと思っていた。

 今回は、首都圏での演奏会はスケジュールが合わないので、それではと長野まで聴きに行った次第。もともと旅行が好きだし、それに国の内外を問わず、旅先で演奏会を聴くとすべてが新鮮に聞こえる――という良さを感じているので、移動は苦にならない。

 会場のホクト文化ホール(長野県県民文化会館)は、長野駅東口から歩いて約10分の距離にある。区画整理中の、道路も未完成の新興住宅地を抜けると、忽然と姿を現わす巨大な建物がそれだ。テレビ信州や県立長野図書館の筋向いにある。目の前は広い公園である。信州の澄んだ空気が清々しい。
 客席2173を擁する大きなホールだが、1階席で聴く限り、アコースティックは思いのほか悪くない(少なくとも広島の旧厚生年金会館や、高崎の群馬音楽センターなどよりはずっと良い)。ただ、舞台の中で鳴っている音は良いが、それが客席にはあまり出て来ない(響いて来ない)という傾向が感じられる。これは、客席の床が布(マット?)張りであるせいかもしれぬ。

 さて今日は、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲、ベートーヴェンの「皇帝」(ソロはシュテファン・ヴラダー)、ブラームスの「第1交響曲」という、超名曲プログラム。
 序曲が始まった瞬間、弦がいい音を出しているな、と感じる。このオケの昔からの音は、未だ残っていたようだ。それほど個性的ではないが、一種地味で中性的なカラーの、良くも悪くも中庸を得た音――それが以前からのこのオケの特徴である。全プログラムを通じて、それが感じられる。
 ただ今回、管のバランスはあまり良いとは言えない。クラリネットの1番が少し頼りないのと、フルートの1番がやたら目立ちたがり屋なのが、難といえば難だ。

 マイスターの指揮も、まあ可もなく不可も無し、というところか。
 時々、持って回ったようなテンポを採ることがあるのが気になる。「ブラ1」は、リピートなしであったにもかかわらず、演奏時間は50分近くかかるという遅さであった。オケに対する統率力や演奏の緊迫度などの上でも、世界にひしめくライジング・スター指揮者に伍して存在感を主張するには、未だ一歩及ばぬところがあるだろう。
 しかし、「皇帝」第2楽章や、「ブラ1」第2楽章などのような、最弱音による緩徐楽章での美しさには聴くべきものがあった。こういう点には、優れた感性を示す指揮者と思われる。

 ヴラダーは、ピアノの鳴りがあまり好くなかったせいもあるのか、「皇帝」第1楽章では、些か雑な演奏もないではなかった。
 しかし、第1楽章が終わると、客席から大きな拍手が起こった・・・・。
 この現象、いつかの日記でも触れたように、「クラシックを聴きに来てくれる新しい客が増えている」からか、それとも「思わず拍手をしてしまうくらい素晴しい演奏だった」からか――は、些か微妙である。とにかくヴラダーは客席を見て微笑し、うなづいたあと、オケのメンバーと顔を見合わせ、何か言って笑った。
 彼らがこの「途中での拍手」をどう思ったかは、判らない。ただ意外にも、彼もオケも、そのあとの演奏が数段引き締まって熱が入ったものになっていたことは、紛れもない事実だったのである。

 いずれにせよ、特にコンチェルトの場合には、楽章間での拍手は、ソリストにとっては、それほど悪い気はしないという場合もあろう。誤解のないように付け加えておくが、長野のお客さんは、スタンディング・オヴェーションもすれば、ブラヴォーも叫ぶ。熱心な聴衆なのだ。

 ヴラダーは、アンコールとしてリストの「コンソレーション第3番」を弾いた。
 またマイスターとオーケストラは、「ブラ1」のあとに、ブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」と、ヨーゼフ・シュトラウスの「スポーツ・ポルカ」及び「休暇旅行で」をアンコールとして演奏してくれた。このヨーゼフ・シュトラウスが、この日の演奏では、最も良かった。

3・5(月)METライブビューイング ワーグナー「神々の黄昏」

    東劇(銀座)  4時30分

 午後4時半に上映が開始され、終映は10時。
 序幕と第1幕だけで2時間4分、ヴェルディのオペラだったら、これだけでマルマル1作すっぽり納まっている長さだろう。
 だが、長いとは思っても退屈しないのが、ワーグナーの音楽の凄さなのだ。
 しかも映画館で観れば、その間どんな姿勢でいようが、食べようが飲もうが天下御免、というのがありがたい。椅子の作りもいいから、楽だし。

 この「神々の黄昏」は、2月11日の上演の録画である。
 前作「ジークフリート」同様、MET首席指揮者ファビオ・ルイージが指揮している。前作をMETでナマで聴き、そのあと録画上映で聴いた時と同様、ルイージの相変わらずメリハリのない指揮に、聴いていると欲求不満になって来る。
 演奏はたしかに綺麗なつくりになっているし、歌とオーケストラの呼吸も合っているし、それなりの長所も少なくない。
 が、ワーグナー特有のライト・モティーフの交錯の妙味が無視され、ただのまろやかな優しい音響と化していたり、彼の音楽に不可欠な「魔性的なもの」――「巨大で底知れぬ闇」のデモーニッシュな物凄さがほとんど失われているような演奏では、とても「ワーグナーの毒」にどっぷり浸ることは難しかろう。

 近年はとかくこの種の「草食系」か、でなければ極度に体育会系のようなワーグナー演奏が多いが、どっちもあまりいただけない。
 もっとも、今回の演奏にワーグナーの良さが全く出ていなかったかといえば、決してそうではない。ワーグナーの想像を絶した音楽の本来の力は、そのままあふれ出ていた。第2幕のすべて、そして第3幕の後半など――それらは本当に、とてつもない凄まじい音楽である! 何度も聴いている曲にもかかわらず、涙が滲み出るほどの興奮を味わった。

 歌手陣には中堅が多いが、ルイージの歌わせ方も巧いのだろう、総じてバランスのいい歌唱だ。
 ジェイ・ハンター・モリスは、前作におけるよりも格段に進境を示しており、これなら世界のジークフリート役の仲間入りが出来ること確実だろう。
 ハンス=ペーター・ケーニヒのハーゲンはそれほど悪役的なカラーは出していなかったが、歌唱は安定している。またイアン・パターソンは、気の弱い、気の毒なグンターのキャラクターを見事に歌い演じた。ウェンディ・ブリン・ハーマーも、グートルーネ役としてはぴったりだろう。

 ブリュンヒルデ役のデボラ・ヴォイトは、予想を遥かに超えたノリと出来だ。生のステージでは最後の「自己犠牲」にいたって声がへたってしまう歌手が往々にして見られるものだが、この日のヴォイトは声のコントロールが巧いのか、ルイージのオペラ指揮者としての歌手への煽り方が巧みなのか、とにかく最後まで立派に乗り切っていた。

 そして何よりのハイライトは、ヴァルトラウテ役としてヴァルトラウト・マイヤーが登場していたことであった。この人が出て来るだけで、舞台に一種の劇的な緊迫感が漂う。歌唱表現は相変わらず巧みだし、ブリュンヒルデの手にある指環に秘かな執念を燃やす表情など、ちょっとした演技でもドラマに多彩さを注入する力量を備えた歌手なのである。

 ロベール・ルパージュの演出は、前作を観た時までは、単に感覚的な手法の舞台だけかという気もしていたのだが、今回はじっくり見ると、なかなか細かい演技が使われていて楽しめた。音楽のライト・モティーフと演技との密接な関連は、こうした近接の映像で見ると、いっそうその妙味が解る。
 カール・フィリヨンのハイテク舞台装置とエティエンヌ・ブッシェの照明の鮮やかさも、この「神々の黄昏」でついに完成の段階に到達したといえるだろう――とにかく見事だった。映写されるライン河の流れる水、その上に戯れる乙女たちの姿との映像のマジック、グンターがジークフリート暗殺の血に塗れた手を洗うと河の水が真っ赤な血の色に染まる光景――すべからく芸が細かい。

 なお、今回の「案内役」は、パトリシア・ラセット。この人、以前にも何かの作品で案内役を務めたことがあるけれど、インタビューの際の話の切り上げ方がいつも唐突でぶっきら棒で、感じが悪い。
 それに質問が皮相的であり、ルパージュがせっかく、ヴァルトラウテ自身も内心では魔の指環に執着しているのだ――という、ドラマの核心に触れる話をしているのに、全くそれに興味を示さないというお粗末さである。フレミングやヴォイトだったら、もう少し上手いインタビューをやるだろう。

3・4(日)ヤクブ・フルシャ指揮プラハ・フィルハーモニア管弦楽団

    横浜みなとみらいホール  2時

 チェコの若手ヤクブ・フルシャは、まだ31歳だが、実に良い指揮者だ。
 ナマのステージとしては、これまでに首席客演指揮者を務める東京都交響楽団との演奏を聴いただけだが、すっかりファンになってしまった。

 その彼が、今回はプラハ・フィルハーモニアを率いて来日。2008年秋からこのオーケストラの音楽監督・首席指揮者の地位にある。今日は来日2日目の公演。

 最初のモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲冒頭の一撃からして、切り込むような鋭さだ。胸のすくような、歯切れのいい響きである。こういう溌溂たるモーツァルトを聴くと、わくわくして来る。

 オーケストラは12型で、弦の音色が清澄透明で美しい。これまでのチェコのオーケストラの弦の音色といえば、しっとりした落ち着きを感じさせるものが多かったが、このプラハ・フィルハーモニアのそれはやはり「新時代」を象徴するというわけか、もっときりりと引き締まった趣を備えている。
 続くモーツァルトのホルン協奏曲「第1番」と「第3番」(ソロはラデク・バボラク)では、一歩下がって柔らかい控え目な音に転じたが、ここでの弦の美しさもまた絶品であった。

 休憩後は、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」。
 これも、昔のチェコのオケなら、もって生れた独特のお国ものの香りを漂わせたものだったが、新時代のオケはそこまで甘くはないらしい。一昨日のスピノジ=新日本フィルのようなインターナショナル的な性格のものではないけれど、どちらかというと割り切った演奏のように感じられたのだが、如何に。

 むしろアンコールで演奏された、同じドヴォルジャークの「第8交響曲」の第3楽章に、夕暮れの田園風景のような懐かしさが滲み出ていた。
 なおアンコールはもう1曲、賑やか過ぎる(?)「スラヴ舞曲第1番」。低音域が薄く、高音域が勝って鋭く聞こえたのは、ホールの音響のせいか、こちらの席の位置(1階真ん中あたり)のせいか。

 協奏曲のソロを吹いたバボラクの巧さは、改めて言うまでもない。のびのびと完璧な、超人的な名技を繰り広げる。いくらでも、何曲でも吹けるといった雰囲気である。
 アンコールでは「狩の角笛の音楽」や「アルプス・ファンタジー」とかいう名の小品を吹いてくれたが、その鮮やかなこと! 日本語でのお礼の挨拶が何となくベランメエ調だったのも可笑しかった。
   音楽の友5月号 演奏会評

3・3(土)藤原歌劇団 モーツァルト:「フィガロの結婚」

   東京文化会館大ホール  2時

 今回は、名匠アルベルト・ゼッダが指揮した。
 問題の東京フィルが久しぶりにまとまった演奏をしてくれたので、胸をなでおろす。欲を言えば、もう少し響きにメリハリが出て、音楽に躍動的な活気が漲ればいいのだが、まあとりあえずは・・・・。

 それにしても、ゼッダの指揮の流れの良いこと。ふくよかな音の動きで、全曲を自然な感興の裡に歌わせて行く。
 近年流行の、妙にテンポを誇張して音楽をぎくしゃくと動かすような演奏にはもううんざりしているので、こういうストレートな指揮によるモーツァルトを聴くと、何となくホッとする。

 演出はマルコ・ガンディーニ。先年の藤原オペラの「愛の妙薬」では、ショッピング・モールの店内を舞台にするという面白いアイディアを見せてくれたが、今回は特に突飛な設定はない。シンプルな舞台美術(イタロ・グラッシ)の中で、穏健な人物描写が繰り広げられる。
 それゆえ、領主と平民との対立葛藤や革命思想といった要素などはきれいさっぱり棚上げにされ、1日の騒動とその大団円という、肩の凝らない物語に「戻されて」いる――少なくともそういう舞台に見えた。そのへんはやや拍子抜けだが、見方によっては、ゼッダが創り出す音楽と程よく合致した舞台だったのかもしれない。

 歌手陣は、久保田真澄(フィガロ)、川越塔子(スザンナ)、須藤慎吾(アルマヴィーヴァ伯爵)、砂川涼子(伯爵夫人)、向野由美子(ケルビーノ)、三浦克次(バルトロ)、牧野真由美(マルチェリーナ)、小田切一恵(バルバリーナ)ら。
 演出に従ってみんな穏健な動きだが、その中では砂川の演技が細かく、特に第3幕でのアリアの場面は、歌唱も含めて優れていた。他に、向野のケルビーノと小田切のバルバリーナの生き生きとした表情が印象に残る。川越のスザンナは、後半にいたって調子を取り戻したようだ。

3・2(金)ジャン=クリストフ・スピノジ指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

   すみだトリフォニーホール  7時15分

 スピノジのわが国における人気も、今や確立されたようだ。
 前回新日本フィルへ客演した時の演奏会は、私は野暮用のために聞けなかったのだが、聴いた人はみんな一様に絶賛していたので、しめしめと勝手にほくそ笑んでいた次第である。

 今回のプログラムは、前半にモーツァルトの「魔笛」序曲と「ハフナー交響曲」、後半にドヴォルジャークの「新世界交響曲」だった。

 正直言って、スピノジがどうして「新世界」なんかを振るんだろう、と思っていたのだが、いざ本番を聴いてみると、これがやはり面白い。
 特に奇を衒ったところはないけれども、ヴィオラのトレモロなど内声部をさり気なく浮き上がらせたり、木管群をちょっと凝ったバランスで響かせたり、清澄な音色の裡に透明な叙情性をあふれさせたりと、神経を細かく行き渡らせ、民族主義的なものとは全く異なった「新世界」像を描き出した指揮は、さすが曲者スピノジの本領発揮というところだろう。ただ、新日本フィルとの呼吸は、おそらく第2回の演奏会(明日)になれば、さらにうまく合うのではないかと思われる。

 前半のモーツァルトでは、もう少し大胆不敵で衝撃的なアプローチを期待していたのだが、案外まとも(?)なスタイルに終始した。悪いというのではないが、スピノジならではの「何か」がもう少しあってもよかったのに。

 新日本フィルは、相変わらず好演である。この9年来、アルミンクの明晰で怜悧な音楽性に率いられて来たこのオーケストラは、そういうモダン系の個性を備えた指揮者とはとりわけ相性がいい。

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