2017-11

2・29(水)ワレリー・ゲルギエフ指揮東京交響楽団の「復興音楽祭」

   オーチャードホール  7時

 「東日本大震災復興支援」のチャリティ演奏会に行ってみる。
 主催は「復興音楽祭実行委員会」だが、共催には農水省も加わり、その他復興庁、外務省、文科省、経産省、国交省なども後援として名を連ねる。協賛社もきわめて多数、概して食品関係が多い。

 プログラムは、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」、プロコフィエフの「古典交響曲」、シューベルトの「未完成交響曲」。
 全部合わせても、演奏時間は1時間に足りない。「ラ・フォル・ジュルネ」並みの軽量だ。アンコールにはチャイコフスキーの「花のワルツ」も演奏されたが、20分の休憩を加えても、8時35分にはすべて終ってしまった。
 これで1階席のチケットは1万5千円。コスト(?)は甚だ悪いが、――とにかく、チャリティ・コンサートなのである。客席は、全体で7割くらいの入りか?

 その上、復興支援の演奏会にしてはこのプログラム、題名も曲も何となくイメージが薄暗い。死せる王女と未完成――では、あまり気分高揚とは行かないのじゃないか?
 加太こうじさんのように、「未完成交響曲を、私は青春の賛歌と感じている。寒い軽井沢で、私はこのレコードをかけては、春の到来を待つのである」(軽井沢のエッセイ)という素晴らしい感じ方をする人もいたにはいたけれど・・・・。

 もっとも、今回はシューベルトの明るい「ザ・グレイト」をやるという案もあったらしいが、練習時間がないために「ちょっと無理だ」となったらしい。
 何しろゲルギエフは、ロンドン響との韓国ツァーの合間を縫って午後東京に飛んで来て、リハーサルを2時間やり、すぐ本番に入ったという例の如くの猛烈スケジュール。これでは安全パイを採るしかなかったのだろう。
 古の独墺の某大指揮者とオケのように――リハーサルで顔を合わせるや「皆さんはこの曲を知ってますね? 私も知っています。では本番でお会いしましょう」と言って解散してしまったという伝説にならって、ツワモノ同士が丁々発止と行けば格好よかったのだろうが・・・・。

 で、演奏のこと。残念ながら、「亡き王女」は重く、さながら昔ラヴェル自身が誰かの演奏を嘆いて言ったとかいう「死せる王女のためのパヴァーヌでなく、王女のための死せるパヴァーヌ」のよう。「古典交響曲」も、随分重くて切れ味の悪い演奏だった。
 やっと音楽がまとまって手応えが出て来たのは、「未完成交響曲」の第1楽章の展開部に入って以降で、特に第2楽章では弦楽器群の各声部の魅力的な交錯がはっきりと出て、そこだけは良い演奏だったと思う。「花のワルツ」も、それほど華麗な演奏ではなかったが、ハープのソロは美しかった。

 まあ、敢えて歯に衣着せずに言わせていただければ、ゲルギエフにしても東響にしても、総じて日頃では考えられないような活気のない演奏に終始してしまった、ということになろうか。失礼。

2・28(火)横山幸雄の「3大ピアノ協奏曲の夕べ」

   サントリーホール  7時

 昨夜は「4大」、今夜は「3大」。
 演奏されたその「3大ピアノ協奏曲」なるものは、チャイコフスキーの「第1番変ロ短調」、ラヴェルの「ト長調」、ラフマニノフの「第3番ニ短調」。
 「これが3大?」とツッコミを入れたくないこともないが、それはやはり野暮と心得る。

 とにかく、さすが「完全奏破」にかけては実績と定評のある横山幸雄教授、小泉和裕が指揮する東京都交響楽団をバックに、今夜も疲れを知らぬトライアスロン選手の如く、弾くこと、弾くこと。
 1曲目ではやや走り気味のところもないではなかったが、休憩後のラフマニノフの終楽章大詰めにかけての煽りと追い込みなどになると、まさにダメ押しともいうべき勢い。その間、ラヴェルのアダージョ楽章などでは、率直な叙情性が聴き手を惹きつける。

 敢えて言えば、それら目くるめくエネルギーのピアノの音色に、色彩感と陰翳の変化が加われば、いっそう音楽が多彩になることだろう。

 客席は「横山幸雄ファン」で埋め尽くされた感。これは彼のデビュー20周年記念シリーズ演奏会の一環。

2・27(月)「4大ピアノ・トリオを聴く」第1夜

   紀尾井ホール  7時

 「4大って?」などと揚げ足を取る野暮は止めにして、とにかく「4大」を2回に分けて演奏するこのシリーズ。
 第1回には、ベートーヴェンの「三重奏曲第7番変ロ長調 大公」とメンデルスゾーンの「三重奏曲第1番ニ短調」が組まれた。

 演奏は、フォルテピアノがクリスティーネ・ショルンスハイム、ヴァイオリンが佐藤俊介、チェロが鈴木秀美。
 楽器は、フォルテピアノがヨハン・ゲオルク・グレーバー製作(1820年頃)、ヴァイオリンがオーギュスト・ベルナルデル(1846年)、チェロがバルト・フィッサー(1759年のガダニーニをモデルとするズトフェン、1998年)とクレジットされている。
 ブランドで褒めるわけではないけれど、どの楽器の音も、本当に、こよなく美しい。

 フォルテピアノは位置の所為か、1階席で聴くと少し遠くて小さいようにも感じられたが、上階席で聴けばまた違うバランスで聞こえたかもしれない。いずれにせよ明晰にして玲瓏たる音色だ。

 それら楽器の音色の良さと相まって、演奏者のショルンスハイム(プログラム掲載の写真とは随分違いますね)が実に不思議な滋味を湛えた音楽をつくる人だし、佐藤俊介は爽やかで瑞々しい演奏を、鈴木秀美は人間味あふれる温かい演奏を聴かせてくれる人だし、――まさにこれは至福のひととき、と言っていいコンサートであった。
 特にメンデルスゾーン! 第2楽章での、フォルテピアノの呼びかけに2本の弦が艶やかに答えるロマンティックな優美さは絶品。また第3楽章での妖精の躍動のような色気に富んだ軽快さも素晴らしい。ピリオド楽器ならではの魅力だ。

 なお、あとの「2大」は、3月12日、ドヴォルジャークの「ドゥムキー」とチャイコフスキーの「偉大な芸術家の思い出に」。その日は佐藤俊介、堤剛、河村尚子が出る。

2・25(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

   サントリーホール  6時

 オペラシティの読響の演奏会は4時に終演。サントリーホールの開演時刻には充分すぎるほどに間に合う。

 こちら東京交響楽団は、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番 トルコ風」とシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」を組み合わせたプログラムの定期。

 ステージの東響の楽員たちの顔が何か打ち沈んだ表情で、カーテンコールでも異様に暗い雰囲気が感じられたので不思議に思っていたのだが、聞けば楽員の一人であるチェロ奏者の鷹栖光昭さんがガンのために53歳で今朝他界したということなのであった。事務局に訊くと、「腰が痛い」と言って1月に入院したが、それがガンと判明したあとは、既に手の施しようがなかったとのことである。個人的には存じ上げないが、ご冥福を祈る。

 終演後に楽屋で会ったスダーンも、演奏の話などそっちのけで「ショックだ、ショックだ」と繰り返していた。
 彼は「ペレアスとメリザンド」のあとのカーテンコールでの拍手を途中で制止して聴衆にそれを告げ、シェーンベルクの初期の美しい小品「ノットゥルノ」を最後に演奏した。ただ、マイクを使わずに話したため、私の座っていた2階正面からも話は半分しか聞き取れず、それゆえその演奏に対し2階席後方からブラヴォーの声が飛んでしまったのも仕方のないことだろう。

 そういうことのあった定期だったが、しかし「ペレアスとメリザンド」の演奏は、立派だった。
 いつぞやカンブルランと読響が聴かせた演奏も、この曲の官能性を引き出した快演だったが、今夜のスダーン=東響のそれは、むしろ作品の堅固な構築性を核としたアプローチで、その厳しい剛直な組み立てを通じて精神の内的構造を探り出すといったタイプの演奏である。スダーンがこれまで指揮した一連のシェーンベルクは、多かれ少なかれそのような特徴を備えていたが、この曲のような大編成で長大で大掛かりな作品では、それが最大限に発揮されるだろう。
 最初から最後まで、重苦しいほど隙のない形式感が演奏に満ちていて、聴き手はシェーンベルクの強面な個性を否応なしに受け入れざるを得ない――という気持にしてしまうスダーンの、相変わらず見事な指揮であった。

 最初の協奏曲の方は、スダーンの歯切れのいいリズム感が快い。
 ソロは韓国出身の若手美女パク・ヘユン。2009年にミュンヘン国際音楽コンクールに史上最年少優勝を飾ったヴァイオリニストだが、――今日の演奏を聴く限りでは、アンコールでのバッハを含め、まだ音楽が形だけに留まるといった感だ。大変な売れっ子のようだが、勉強する時間をたくさん持って貰いたいもの。

 なお前記の「ハープと弦楽器のためのノットゥルノ」の楽譜は、作曲者の子息から東響に贈与寄付されたものの由。

     ⇒モーストリークラシック5月号 公演Reviews
 

2・25(土)オスモ・ヴァンスカ指揮読売日本交響楽団

   東京オペラシティコンサートホール  2時

 朝6時47分の新幹線で広島を発ち、東京に戻る。車中では1時間ほど睡眠を取ったものの、まだ少々眠い。が、良いコンサートが目を覚ましてくれるだろう。

 ヴァンスカと読響、先日(15日)、咳のため聴けなかったシベリウスの「第2交響曲」が「読響屈指の名演」だったという人が周囲に多く、口惜しい思いをした。
 そこで今日の「悲愴」は如何に・・・・と出かけて行ったわけだが、むしろ面白かったのはプログラム前半の2曲だった。

 まずシベリウスの「森の精」(作品15)。
 1895年に初演されて以来楽譜が散逸していた「幻の曲」を、100年ぶりにヴァンスカ指揮ラハティ響が初演したという曰くつきの曲で、ナマで聴くのは私も今日が初めてである。
 20分強の長さだが、前半はまさにシベリウスの語法そのもの、「クレルヴォ交響曲」や「レミンカイネン」などと共通する曲想が随所にあふれていて、シベリウス・オタクの私としては陶酔に引き込まれる。とはいえ、曲の後半になると、緊迫感がやや薄らいだ感があって、申し訳ないがちょっと長すぎるのではないか・・・・などと不埒なことも考えたりした。だがさすがヴァンスカ、よくこんな珍しい曲を紹介してくれたものだ。

 次に演奏されたフィンランドの現代作曲家カレヴィ・アホの「テューバ協奏曲」(日本初演)が、これまた面白い。
 第2楽章、フィンランドの自然を連想させる爽やかな楽想で始まった曲が、ソロ・テューバとホルン、トロンボーンとの応酬を繰り返しつつ猛烈な音塊の攻勢に転じて行くスリリングな迫力。第3楽章でもミステリアスな雰囲気から威圧的な曲想への転換といった起伏の変化が、劇的だ。
 終結近く、普段オーケストラの楽器の一員としてのテューバからは聞けないような奏法によるユニークな音色が次々に披露され、テューバがかくも多彩な楽器であることを聴き手に印象づける。読響の巨体のテューバ奏者・次田心平の妙技は天晴れとしか言いようがなく、約30分もの長丁場を息を呑ませる快演で埋め尽くした。これは聴きものだった。

 今回のヴァンスカ=読響の「アホ3部作」(2つめの「ミネア」日本初演は聴けなかったが)は大成功だったのではないかと思う。

 最後がチャイコフスキーの「悲愴交響曲」で、ヴァンスカの速めのテンポと読響の集中力で、火を吐くような起伏の熱演だったが、どういうわけか舞台上でも客席でも思いがけない雑音が多発、私の方は何となく落ち着かぬ雰囲気に終始してしまった。

2・24(金)沼尻竜典指揮広島交響楽団の「タンホイザー」演奏会形式抜粋

    広島市文化交流会館(旧広島厚生年金会) 6時45分

 品川駅から広島駅までは、新幹線で約4時間。
 駅弁を食べたり、ちょっと仕事をしたり、眠ったりと、道中ずっとのんびりしていられるのが、飛行機ルートより遥かに楽な点である。
 今日は広島交響楽団が沼尻竜典の客演指揮でワーグナーの「タンホイザー」を演奏会形式で抜粋上演するというので、聴きに行った。まあ、プログラムに解説を書いた関係もあったのだが・・・・。

 今年は3月に、びわ湖ホール(10、11日)と神奈川県民ホール(24、25日)で、共同制作による「タンホイザー」全曲舞台上演がある。この広響の演奏会は、それらとの「提携協力公演」の形を採っている。
 沼尻竜典はもちろんそれら舞台上演を指揮する人だし、今回迎えたソリスト――福井敬(タンホイザー)、安藤赴美子(エリーザベト)、小山由美(ヴェーヌス)、黒田博(ヴォルフラム)も、舞台上演のAキャストに入っている4人である。
 但しこの日の合唱は、地元のひろしまオペラルネッサンス合唱団だ。

 演奏されたのは、ドレスデン版による序曲、「タンホイザーとヴェーヌスの場」後半、「歌の殿堂」、「エリーザベトとタンホイザーの再会」、「大行進曲」、ヴォルフラムの「この高貴な集いを見渡せば」、「タンホイザーのヴェーヌス賛歌」と「エリーザベトの嘆願」、「エリーザベトの祈り」、「夕星の歌」、「ローマ語りと終曲」。休憩20分を挟んでおよそ2時間の構成。
 沼尻がこれらの曲のいくつかに施した、「つなぎ」の手法が実に巧い。

 オペラルネッサンス公演などでしばしばピットに入っている広響だが、ワーグナーのオペラを――抜粋にせよ、演奏会形式にせよ――手がけるのはこれが初めてだそうな。意外である。
 ホールがデッドな音響なのは些か苦しいところだが、とにかく広響は頑張って、張りのある音で熱演を展開した。ホルンを含めた木管群を下手側に、金管群と打楽器を上手側に、コントラバスを正面奥に――という、オペラのピットと同じ配置で、これが音響を柔らかく豊麗に拡げるのに役立っていたであろう。
 合唱団も善戦敢闘、「大行進曲」ではよく力を出したが、第3幕終結近くでの、特に男声にはもっと厳密なバランスが欲しい。

 ソリスト陣は前述の通り強力で、これだけの豪華なメンバーは東京でも滅多に揃わないかもしれない。
 タイトルロールの福井敬は常にピタリと決める実力の持主だし、まして悲劇的な役柄を歌っては、今日の日本では右に出る者はいないほどのテナーである。
 小山由美の卓越した巧さは既に定評のあるところ、この日はいつもよりヴィブラートが大きいような気もしたが、「ドレスデン版」でのヴェーヌスの出番の短さを考えれば、このくらいの強烈な存在感があってこそ「女の魔性的な面」が浮彫りにされるというものだろう。

 黒田博は、今回は人間味あふれるヴォルフラム役(全曲版が楽しみ)。
 そして最大の嬉しい驚きは、安藤赴美子の清純なイメージと清澄でよく通る声の、その昔のアニア・シリアを思わせるようなエリーザベトであった。この新しいスターの登場も、来月の舞台上演をいっそう楽しみにさせるというものである。

 沼尻竜典の指揮は、何よりテンポの良さが光る。
 どちらかといえば、かつてのサヴァリッシュのそれを思わせる快適なテンポである。大詰めの恩寵を称える合唱部分をはじめ、今回の演奏個所すべてにおいて、完璧な均衡を感じさせるテンポが見事だ。
 ただ今日の演奏では、剣を閃かせつつ殺到する騎士たちの前でタンホイザーをかばうエリーザベトの一言「Haltet ein!」(待って下さい!)のあとのLange Pauseが異様に短かく、これでは彼女の予想外の行動に愕然、唖然とする騎士たちの感情がよく描かれないのではないかと思ったが、・・・・演奏会形式と舞台上演との違いもあることだし、これは来月の上演を聴いてからにしよう。

 それにしても、最近のえげつない滅茶苦茶な演出の舞台(必ずしも嫌いではないが)に煩わされることなく、音楽そのものに没頭できる「演奏会形式上演」が如何にいいものであるか、今夜はまたもそれを再認識する機会となった。
 ワーグナーの音楽が如何に美しく劇的で、素晴らしいものであるか! 全曲大詰めの合唱から締め括りの「巡礼の合唱」に盛り上がる個所での、ワーグナーの「持って行き方」の巧さ(ここは断じてパリ版の方が好きだが)など、まさに涙モノである。
 まあ、3月上演のプロダクションはミヒャエル・ハンペ演出で、多分トラディショナルで理詰めの、辻褄の合った演出だろうから、そう煩わされることも無いだろうけれど。

 広島駅直結の、「ヴィアイン広島」というホテルに一泊。

2・23(木)ダニエル・ホープ・ヴァイオリン・リサイタル

   トッパンホール  7時

 近年いよいよ好調のダニエル・ホープが来日。先日グラモフォンから出たCDが極めて興味深かったし、これは聴き逃せないリサイタルである。協演のピアノはセバスティアン・クナウアー。

 プログラムはまずブラームスの「スケルツォ」(F.A.Eソナタ第3楽章)で開始されたが、これが非常にラプソディックで、切り込むような鋭い音色の演奏だったのに強い印象を受ける。
 ホールの空間性の影響でヴァイオリンもかなりリアルでシャープな音色になるが、この強靭な気魄がリサイタルの全体を支配していたといってもいいかもしれない――ちょっと予想外ではあったが。

 そのあとはクララ・シューマンの「ロマンス」、ブラームスのソナタ「雨の歌」、メンデルスゾーンの「歌の翼に」と「魔女の歌」、ヨアヒムの「ロマンス」、ブラームス~ヨアヒム編の「ハンガリー舞曲第5番」、グリーグのソナタ、と続く。
 いずれも直接、間接にヨーゼフ・ヨアヒムと関連づけられる曲目で、例のCDの選曲と同様だ。

 「ハンガリー舞曲」のラプソディ風の奔放な荒々しさと来たら、そう度々は聴けない類のものだろう。
 そして圧巻はグリーグのソナタ。およそグリーグのイメージから想像できぬほど情熱的でダイナミックで、ラプソディックな演奏に驚いたり、感心したり。グリーグらしさは、辛うじて第2楽章に顔を覗かせる。

2・22(水)ジャナンドレア・ノセダ指揮NHK交響楽団

   サントリーホール  7時

 ミラノ生れのジャナンドレア・ノセダが、マリインスキー仕込みの感性で、ロシアものを鮮やかに指揮。今回のN響への客演での2種類のプログラム計4曲のうち、3曲がロシアの作品だった。
 今夜はBプロで、ショスタコーヴィチの「チェロ協奏曲第2番」と、ラフマニノフの「交響曲第3番イ短調」。

 このラフマニノフ! まあこれほどカンタービレの利いた、エスプレッシーヴォな「第3番」の演奏には、滅多に出会えないだろう。
 第1楽章で最初にチェロに出てヴァイオリンに引き継がれる、あの歌謡調の主題のふくらませ方の、何とロマンティックなこと! まるでオペラのアリアを聴くかのようである。
 第2楽章での、ハープの調べに乗って歌う木管やヴァイオリン・ソロの表情も美しく、甘美な神秘性をさえ漂わせる。

 全曲を通じ、音色も艶やかでまろやかで明るい。いわゆるロシア的な憂鬱さや哀愁や叙情性とはおよそかけ離れた演奏だが、しかしここまで立派に徹底されると、むしろラフマニノフの音楽に備わる別の側面が浮彫りにされたような、興味深さと面白さが感じられるだろう。
 ノセダの感性のしたたかさと、N響の巧さとが存分に発揮された、見事な演奏であった。愉しめた。

 前半に演奏された協奏曲のソリストは、これもイタリア生れ――トリノ出身のエンリコ・ディンド。素晴らしいチェリストである。磊落でありながら丁重な語り口をもった、スケールの大きな、人間味を感じさせる演奏だ。もともと内省的で思索的な曲想の作品が、温かいモノローグのような趣きで再現されている。

    音楽の友4月号 演奏会評

2・19(日)大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 東京公演

   サントリーホール  2時

 大阪フィル、音楽監督のポストから退く大植英次とはこれが最後の東京公演。
 満席の聴衆の拍手はもちろん盛んだったが、特に大植への拍手は、多分これまでの彼の東京におけるコンサートの中でも最大のものだったであろう。それは、この10年近く大阪に本拠を置き続けた大植に対する、東京の聴衆からのラヴ・コールのようにも感じられた。

 ソロ・カーテンコールでは、大植は暫し舞台のあちこちで拍手に応えたのち、何と客席に飛び降りて1階前方の客たち大勢と、賑やかに握手をして廻った。彼独特のノリでもあるが、客たちもまた、一種照れながらの様子ではあるけれど、その雰囲気に呑み込まれていた。東京の聴衆がこういう雰囲気に巻き込まれるケースは、極度に珍しい。
 しかし、カーテンコールで客席に降りて握手をして廻る指揮者は、これまで見たことがない。奇想天外なノリという点ではおそらく、パリ・オペラ座での「優雅なインドの国々」のアンコールの際に舞台上で歌手たちと一緒に踊りまくった、かのウィリアム・クリスティ(DVDが出ている)と双璧ではなかろうか。

 プログラムは、ベートーヴェンの「田園交響曲」と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」であった。
 「田園」の第1楽章が開始された時、弦楽器群の響きが柔らかく、ふくらみが感じられて、大阪フィルの弦もいい音になったなと思った。こういう音色は、大植がシェフを務めていた9年間のうち、最近2~3年の間に生れて来たものである。ハノーファー北ドイツ放送フィルにおけると同じく、大植はシェフの任期中に、自分の求める音を見事つくり上げるのに成功した、と言えるだろう。
 ともあれ「田園」は、抑制された音量の裡に、ゆっくりしたテンポで――とりわけ第5楽章は遅かった――しなやかに歌い上げられた。

 「春の祭典」は、これに対し、極めて剛直な、安定して揺るぎのない構築を以って演奏された。複雑なはずのリズム感が、あまり複雑に感じられず、むしろイン・テンポの古典的な端整さというイメージで演奏されるのには些か驚かされた。また旋律やフレーズのつくり方が、いつも聴き慣れているのと少し異なるのにも、驚かされた。
 もしや・・・・と終演後にマエストロをつかまえ、確認してみると、案の定、これは作曲者自ら作った、例の「改訂稿」を基にしての演奏だったという。
 事前に判っていれば、スコアを持参するとかして、もう少し慎重に聴いたものをとホゾを噛む。もう一度聴いてみたい。

2・17(金)二期会制作 ヴェルディ:「ナブッコ」初日

   東京文化会館大ホール  6時30分

 アンドレア・バッティストーニの指揮、ダニエレ・アバドの演出、ルイージ・ペレーゴの舞台美術、パルマ王立歌劇場所有の舞台装置による上演。
 二期会が「ナブッコ」を手がけるのは、創立以来、これが初めての由。

 今回の舞台は、おそろしく頑丈そうな、立派な舞台装置の前で行なわれたセミ・ステージ形式上演――と言ったところか。
 主役も群集も、ほとんどすべて棒立ち姿勢で客席を向いて歌う。構図としてはまとまってはいるが、著しくスタティックな舞台になる。
 有名な「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」の合唱は慣習に従い繰り返されたが、合唱団は、1回目は半円形にかたまった位置で、2回目には舞台一杯に拡がった位置で客席を向いて歌ったのであった・・・・。
 演出家はまさかこのオペラを、舞台装置付きオラトリオとして扱ったわけでもなかろうに。

 そんなわけで、演出面ではさっぱりスリルのない、面白くない上演だったが、しかし大きな収穫が、日本デビューの指揮者アンドレア・バッティストーニにあった。
 この個性的な眼をした若手、ヴェローナ生れの24歳の指揮は、並外れてイキがいい。
 若い頃のムーティにも似た、速い、激しい、大きな、小気味よい腕の動きが印象的で、全身を躍動させつつ、活気に満ちて引き締まった音楽をつくる。歯切れのいいリズム感にあふれた速目のテンポは痛快無類だし、特に最初のザッカーリアの登場のアリアでの、ハーモニーの動きとカンタービレとを完璧に調和させた音楽づくりなど、ヴェルディの音楽の魅力はこれだ、と愉しませてくれる効果を発揮していた。
 これは、「ほりだしもの」である。また1人、素晴らしい若手指揮者に巡り会えたのがうれしい。

 ただし、序曲や第1部ではオーケストラ(東京フィル)も珍しく元気よく鳴り渡り、合唱(二期会合唱団)にもソロ歌手たちにも、一種の沸き立つような雰囲気が感じられていたのだが、これが後半にかけ、何となく生気が弱まり、しぼんで行くような雰囲気があったのが気にかかる。ガラにもなく張り切り過ぎて疲れたか? 
 終結近く、ナブッコが再起を宣言する個所でのカバレッタなど、もっと劇的に盛り上がるべきところだった。

 もっとも東京フィルは、いくら元気よく鳴っている時でも響きは薄手で頼りなく、技術的にも危なっかしく、今にも崩れそうな演奏をしていた。これは今回に限ったことではない。
 コンサートではいい演奏をするオケが、ピットに入ると何故このような・・・・ということも、あの合併後から既にさんざん言われていたことである。もういい加減に、抜本的な対策を講じるべきであろう。いつまでもこの程度の水準に止まっていては、わが国のオペラ運動の足を引っ張るにも等しい。

 歌手陣では、ザッカーリアを歌ったジョン・ハオと、フェネーナを歌った中島郁子が良かった。アビガイッレ役の板波利加は、高音はよく伸びるようだが、中高音域が妙にこもった声になり、歌い方にも大時代的なところがあって、少々異質なものを感じさせる。聴かせどころのアリアのカバレッタの部分は1度だけだったが、これはずるい(?)。
 ほか、ナブッコに上江隼人、イズマエーレに松村英行、アンナに江口順子ら。

 咳がまだ止まらないので、昨日の新国立劇場中劇場での「沈黙」と同様、1階の最後列の隅で観る。終演は9時。外は雪である。

2・16(木)新国立劇場制作 松村禎三:「沈黙」

   新国立劇場中劇場  6時30分

 日生劇場での初演(1993年)と再演(95年)、新国立劇場での2回の上演(2000年の二期会との共同制作および05年のカレッジ・オペラ東京公演)など、これまで何度も観る機会のあったオペラだ。

 いつ観ても気の滅入るような内容で、体調の良くない時などに観ようものなら、尚更落ち込む。休憩時間にロビーへ出て来る観客の顔が、一様に暗く、あるいは考え込むような表情と化しているようなオペラなど、この「沈黙」(原作・遠藤周作)を措いて、そうそうあるものではなかろう。
 切支丹への拷問と処刑、宣教師の苦悩、その極限状態において迸る「神はいないのか? 何もしてくれないのか? 何も言ってはくれないのか?」という切羽詰った問いかけ――宗教的な問題に限らず、今日の戦争、天災などにいたるまで、この命題はわれわれに重圧を強いる。

 これまでの鈴木敬介や中村敬一の演出に代わり、今回は宮田慶子(新国立劇場演劇芸術監督)の演出である。
 端的に言えば、さすが演劇畑の人の演出と感心させられる美点が多い。農民や役人などにいたるまで細かい演技が行き渡り、主人公と脇役・端役たちの演技が明確に関連づけられ、ドラマとしての核がしっかりしているからである。演技に隙がなければ、舞台にも緊迫感が生れる。暗鬱な色調に統一され、回り舞台が活用された池田ともゆきの舞台美術も、成功していたと言えよう。

 ラストシーンで、ついに踏み絵を「踏んだ」宣教師ロドリゴの姿をキチジローが物陰から窺うという演出は印象深いが、この設定は過去の2種の演出では、あったか、なかったか? 
 いずれにせよこの光景は、キチジローという百姓を、単なる気の弱い裏切者としてだけでなく、ロドリゴと表裏一体に苦悩する男として描くことになるだろう。

 自ら踏んだ踏み絵を抱き、うちひしがれるロドリゴには、定石通り(?)十字架からの光が当てられる。この設定は、宮田演出でも踏襲されている。
 ただ今回、いかにも彼が救済されたと言わんばかりの見え透いた光景になっていないのは、むしろ好ましい。

 以前、ある音楽学者が、この物語を「神の不在」と解釈するのは誤りであると言い切り、その根拠として遠藤周作自身がのちに「沈黙の声」という小論で「神は沈黙していたのではなく、実際は語っていた。今だったら『沈黙』という題名はつけない」と書いていたという点を挙げた。松村禎三の音楽でも、終場面には明らかにロドリゴへの「許し」を暗示するような曲想も姿を現わしているのは、確かであろう。
 だが、「神」がロドリゴだけを許したと解釈したところで、――逆にいえば、そのように「神」を弁護したところで――真の解決にはなるまい。死んだ者たちは、どうなるのか? 

 救済だとか、真の正義だとか、絶対的な神の存在だとかの価値観をそのまま楽天的に受け入れ難くなっている現代にあっては、それに疑問を呈するような演出解釈が非常に多くなっていることは周知の事実だ。
 とすれば、このオペラ「沈黙」にも、そろそろ異なった解釈の演出が生れてもいい頃なのではないかと思う。――しかし、いざ宗教問題となると、なかなか難しいのだろう。
 ウィーン国立歌劇場の「パルジファル」のように、聖杯を壊してしまうような大胆な反論的演出を試みるのは、日本では勇気の要るところかもしれない。

 この日の上演は、2日目にあたっていた。したがって第2キャストの受け持ちである。ロドリゴを小原啓楼、フェレイラを与那城敬、キチジローを枡貴志、モキチを鈴木准、オハルを石橋栄実、井上筑後守を三戸大休、そのほかの人々、といった顔ぶれだった。
 みんな良く熱演健闘したという感だったが、全体を引き締めたのは、やはり下野竜也の指揮と、東京交響楽団の演奏というべきであろう。
 舞台機構を巧みに使い、転換をスムースにしたおかげで、音楽がそれぞれの幕で切れ目なく演奏され、全曲の流れを見通しよく把握させてくれたことはもちろん、オーケストラのテクスチュアには明晰さが蘇り、このオペラの音楽的な魅力を再認識させてくれたのであった。新国立劇場合唱団もいつもながらの力強さである。

    音楽の友4月号 演奏会評

2・15(水)オスモ・ヴァンスカ指揮読売日本交響楽団

   サントリーホール  7時

 最初にグリーグの「ペール・ギュント」から8曲(第1組曲と第2組曲を、順序を変えて組み合わせたもの)。これはこれですこぶる味のある、しかも正面切った立派な演奏だった。

 だが最大の聴きものは、やはりカレヴィ・アホ作曲の「クラリネット協奏曲」(日本初演)だ。2006年ロンドン初演時に指揮したヴァンスカと、その時にソロを吹いたマルティン・フロストの協演だから、演奏の呼吸は既に充分であろう。
 とにかく激烈で目も眩むような作品である。変幻自在、縦横無尽、どこまでが楽譜通りで、どこまでが即興なのかと疑ってしまうくらい、目まぐるしく多彩な表情にあふれた協奏曲だ。躍動的に身体を動かしつつ吹くフロストの超絶技巧も物凄く、聴き手を息詰まるような緊張感に巻き込む。これに応酬するヴァンスカと読響の演奏もなかなかのものだった。
 これを聴くのは私は初めてだったが、もう一度じっくり研究してみたい作品である。

 アンコールで演奏されたのは、トラディショナルな曲をフロスト自ら編曲した「クレズマー舞曲」とかいうものだそうだが、これまた華麗で鮮やかな、愉しい演奏であった。

 咳がまだ治まっていない。2階最後部の席で聴いていたが、周囲のお客さんの迷惑になるといけないので、後半のシベリウスの「第2交響曲」は、残念だったが席をはずすことにした。

2・12(日)METライブビューイング
「エンチャンテッド・アイランド(魔法の島)」

   東劇(銀座) 7時

 1月21日にMETで上演された舞台の映像。これはユニークなオペラで、面白い。

 いわゆるパスティーシュ――いろいろなオペラから音楽を抜いて来て、1本の新しいオペラとして組み合わせ構成するという手法によったものだ。
 今回のこれはヴィヴァルディとヘンデルの作品を中心に、ラモーやパーセル他の音楽も若干加えられている。その選曲も配列も全く違和感なく、完璧に繋がっていて、場面にもぴったりで、まるでこういう音楽のオペラが初めから存在していたかのような印象を与えるところが凄い。

 考案と台本制作はジェレミー・サムズという人だが、選曲と構成を本当はだれが中心になってやったのか、インタビューなどでもみんな「俺が俺が」という調子なので――いずれにせよ、複数の人々の協力によるものだろう。歌手(デイヴィッド・ダニエルズら)も参画して意見や希望を出して行った、というのも確からしい。

 ストーリーは、シェイクスピアの「テンペスト」を基本に、その人物設定を少し変え、さらに「夏の夜の夢」に登場する2組の夫婦を参加させ、いっそう騒ぎを大きくするというコミカルなもので、当然めでたしめでたしで終る。
 先日の「サティアグラハ」も手がけていたフェリム・マクダーモットの演出が解り易く秀逸だし、ウィリアム・クリスティの指揮が快調だし、歌手陣もいいし、というわけで、観ていて肩が凝らず、愉しい。

 その歌手陣では、最も生き生きして愛らしいのが、妖精アリエルを歌い演じたダニエル・ドゥ・ニース。彼女の躍動感がこの舞台を華やかにしている。インタビューでは、シェイクスピアの原作におけるアリエルと「夏の夜の夢」のパック、それに「ピーター・パン」のティンカーベルを参考にして役作りをした、と語っていたが、実に達者で魅力的である。

 プロスペローを歌ったデイヴィッド・ダニエルズも良かったが、魔女シコラクス(この物語では生きている設定)を歌ったジョイス・ディドナートが更に見事な役者ぶり。
 その息子で、ちょっと可哀相な役柄設定のキャリバンを歌い演じたルカ・ピザローニも、哀れさを見せて巧い。
 そしてネプチューン(海神)役はプラシド・ドミンゴ。ちょっと顔見せ的な感じにとどまった向きもあるが、まさに貫禄充分。

 ここでも咳が止まらないので、仕方なく第1幕が終ったところで失礼してしまった。この映像は、「朝日カルチャーセンター」での関連講演(9日)準備のため、事前にDVDで入手して詳しく見ていたからでもある。

2・12(日)井上道義指揮東京フィル マーラー「交響曲第9番」

   オーチャードホール  3時

 マエストロ井上も、札幌で「トゥーランガリラ」を弾いた児玉桃も、今年の「ラ・フォル・ジュルネ」出演者。私たちより1日早くナントを発って来たそうな。エール・フランスのストにぶつからず、幸いだった。

 ちなみにわれわれ取材班の方は、パリから乗るはずの6日のAF278便がストで欠航するため、半日早い便で帰国という仕儀となった。いつものような単独旅行なら、自分で代わりの便を探して大汗かくところだが、今回は勧進元にお任せしていたので、のほほんと構えていられたのは有難い。
 ただ、勧進元が旅行の手配を依頼していたJTBからは「スト勃発」の連絡が何一つなく、しかも週末で担当者とも連絡つかず・・・・の状態だったそうで、勧進元も大変だったに違いない。

 余談はともかく、その帰りの飛行機の中の空気が乾燥していて、すっかりノドとハナを痛めてしまい、それがきっかけで、2、3日経つと咳が出始めた。かくして今日のコンサートでは、咳をこらえるのに死ぬ思い。
 これほど咳を我慢するのが苦しいとは、知らなかった。何度か途中で立とうと思ったが、そっと出るには席の位置が不都合すぎる。ついにもうだめだと思い、第3楽章が終った瞬間に出てしまおうと決心していたら、なんと井上サンは、ほとんど間を空けることなくあのアダージョの静謐な第4楽章を開始してしまったのだ・・・・。

 周囲のお客さんにも、随分迷惑をかけたのではないかと、身の縮む思いである。こういう状態では、申し訳ないが折角の「井上のマーラー」も上の空、ほとんど聴いていないに等しく、ここに書くべき材料は無い。

 この「9番」に先立って演奏されたのは、井上道義の自作の交響詩「鏡の眼(まなこ)」という15分ほどの長さのオーケストラ曲(この頃はまだ咳は酷くなかった)。
 予想外にロマン的な性格もあり、叙情的な個所は、マーラーの「9番」のフィナーレへの、あるいは「10番」の世界への憧れ、オマージュといったものさえ感じさせる。「ヴォツェック」にも似た、一つの音の激しいクレッシェンドも織り込まれ・・・・マーラーへの憧憬と、そこからの訣別を秘かに願う感情との葛藤のようでもあったが、これはあくまで聴き手側の印象。

2・11(土)高関健指揮札幌交響楽団の「トゥーランガリラ交響曲」2日目

   札幌コンサートホールkitara  3時

 昨夜も雪が降り、マイナス7~10度と冷え込んだ札幌――雪祭りも今や酣で、大通公園やすすきの界隈は明るく華やかだ。観に行きたかったが、靴と足捌きに自信がないので止めにする。
 札響定期は昨日と同じプログラム。マチネーを聴いてから帰京しても時間的にさほど変りない。ならばいっそ、マエストロ高関の札響在任最後の定期を祝ってから、と思った次第。

 さすがに2日目の演奏となると、いっそうまとまりが良くなっている。
 初日より2日目の公演の方が出来が良くなるとは限らないが、このように初めて手がけるレパートリーの場合には、手探り状態の初日よりは、2回目の演奏の方に柔軟性が生じることが多いものだ。

 事実、「愛の歌第1」では昨日より造型的な構築性が増した。また「愛の展開」でも、バランスの良いつくりの裡に見事な盛り上がりを見せていた。
 昨日の演奏では、後半は一寸息切れしたのか、テンポの遅い個所では緊張感が不足する印象無きにしも非ずだったが、今日は「トゥーランガリラ第2」といい、「愛の展開」といい、「トゥーランガリラ第3」といい、音楽の弛緩は全くない。「終曲」での昂揚感も、昨日よりはずっと強く感じられる。

 もちろん中盤での「星たちの血の喜び」での熱狂も昨日と同様に見事だったし、トロンボーンとテューバとホルンのモティーフでの響きの素晴らしい均衡、全体の響きの柔らかさ、刺激的にも攻撃的にもならぬ叙情的な表情など、申し分ない。札響の演奏、見事だった。

 児玉桃のピアノも、原田節のオンド・マルトノも、昨日よりも更に主張の強いものに聞こえたが、特に児玉のピアノはオケを牽引するかのよう。音色に今一つ華麗な色彩感があれば、目も眩むような幻想を与えられたかもしれぬ。

 ただ、そうした造型的な構築が増した一方、演奏の表情は、昨日の演奏よりも些か真面目な――たとえば「愛の歌第2」など――ものに変わっていたようにも感じられる。
 これは、やはり高関健の個性のしからしむるところだろうか? 
 ベルリンで学び、カラヤンのもとで研鑽を積んだ彼は、日頃からどんな作品でもがっちりと隙なく論理的に構築して行く指揮に秀でた人だ。それゆえ、野性的な血の歓喜と法悦の表現ともいうべきこのメシアンの「トウーランガリラ交響曲」を指揮しても、やはり彼のその個性が出て来てしまっているのかもしれない。
 どこかに理性と論理性を備えた法悦の歌――? これはしかし、非難すべきことではなく、むしろ興味深い解釈のように私には思える。

 夜8時30分のANA便で帰京。さすがに満席である。

2・10(金)高関健指揮札幌交響楽団 メシアン:「トゥーランガリラ交響曲」

    札幌コンサートホールkitara  7時

 2003年から札響正指揮者を務めて来た高関健の、在任中のこれが最後の定期公演。

 全く意外なことに、彼がオリヴィエ・メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」を指揮するのはこれが初めてだという。彼の日頃のレパートリーを思えば、信じられないような話だ。
 そして札響にとっても、「トゥーランガリラ」は今回が初めての由。但しこの曲の札幌初演は、4年前に準・メルクルの指揮とPMFオーケストラによって行われている。
 今回の協演は児玉桃(ピアノ)と原田節(オンド・マルトノ)。今夜は2回公演のうちの初日である。

 さて、その高関と札響の「初めてのトゥーランガリラ」は、一言で言えば、充分な成功を収めたと言っていいだろう。
 第1楽章最初のトロンボーン他による豪壮なモティーフ――プレトークで高関はこれを「偉そうに出て来る」と評したが、巧い表現だ――からしてバランスの好い音だと感心させられた。が、この楽章では、まだちょっと手探り的な演奏という印象もないではない。しかし、続く「愛の歌第1」からは、演奏に勢いが生まれて来る。細部はともかく、終結にかけての煽りは、なかなかのものであった。

 概して言えば、高関と札響は、この個性的な大曲を、押しつけがましさのない叙情性を以って演奏していたと思う。私には、それがむしろ快かった。
 「愛の眠りの園」での陶酔的な世界や、「トゥーランガリラ第3」における管とオンド・マルトノの均衡の取れた美しさなどはもちろんだが、その一方、中盤の頂点を成す「星たちの血の喜び」でも、オーケストラはむやみに咆哮することなく、よくありがちなヒステリックな絶叫型演奏にすることもなく、むしろ節度と均整を保った構築の音楽をつくっていた。
 にもかかわらず聴き手を巻き込むエネルギーは充分あったし、まぎれもないメシアン・サウンドでもあったのである。

 ただ、こういう「アクの強くない」演奏の、あるいはまた「良い意味での傍若無人さ」のない「トゥーランガリラ」には、快さはあるものの、その一方で、「終曲」における大団円的な法悦を表現するという面では、ちょっと物足りなさもあるだろう。

 児玉桃の自発的で躍動的なピアノ・ソロが素晴しく、オーケストラをリードするかのような趣を呈していた。原田節のオンド・マルトノは音量的にややおとなしいような印象だったが、演奏についてはさすがこの曲における百戦錬磨の名手といった雰囲気である。

 ともあれ、初めてこの大曲に取り組んだ指揮者とオーケストラ、その熱演ぶりは立派なものであった。終演後のロビーで、後ろから来る若いカプルが「チョー面白かった」と語り合っているのが耳に入ったが、この言葉に勝る讃辞があろうか?

2・5(日)ナントのラ・フォル・ジュルネ(15) ファイナル・コンサート

   オーディトリウム・プーシキン  7時

 慣例の、フィナーレを飾るコンサート。
 例年なら何人・何組かのアーティストが登場する華やかなガラになることが多いが、今年はアナトリー・グリンデンコが指揮するモスクワ大司教座合唱団と、ドミトリー・リスが指揮するウラル・フィル&ウラル交響合唱団、それにボリス・ベレゾフスキーが登場するに留まった。あまり変わり映えがしない。
 同時刻には他のホールでも、もちろんそれぞれコンサートが行なわれている。

 プログラムの前半はモスクワ大司教座合唱団で、プログラムには典礼歌やラフマニノフの作品等3曲を歌うと書かれていたが、2曲しか歌わず引き上げた。こんな残響のほとんどない大きな会場では、如何に12人のツワモノといえど、残念ながらその真価を発揮できまい。

 後半には、ボロディンの「イーゴリ公」から「ポロヴェッツ人の踊りと合唱」、チャイコフスキーの「雪娘」からの「道化師の踊り」、それにベレゾフスキーが入ってチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(また!)が演奏された。
 最初の2曲はすこぶる威勢のいい演奏で、会場は沸く。協奏曲は、このコンビとしてはやっと雑なところがない「ちゃんとした」演奏になった。一番きちんとした演奏になったのは、アンコールとして演奏したコーダ部分であったろう。

 8時15分終演。フェスティバルも終わりに近づいている。広場ではもう片づけが始まり、テーブルを囲んで打ち上げに入っているどこかのスタッフもいる。「祭りのあと」に特有の、ちょっと感傷的な、索漠たる光景である。

2・5(日)ラ・フォル・ジュルネ(14) 
エカテリーナ・デルジャヴィナ(ピアノ)のスクリャービン

    サル・マヤコフスキー  午後4時45分

 取材スタッフの間で評判が高かった女性ピアニスト、デルジャヴィナの演奏を初めて聴いたが、これは本当に注目株だ。ホリダシモノというほど若手ではないようだが、ラ・フォル・ジュルネには初登場だという。

 プログラムは、ゲオルギー・カトワール(1861~1926、初めて聴いた)と、スクリャービン、プロコフィエフ、メトネルの作品。
 たった120席の「マヤコフスキー」という会場のピアノが――こういう音響の芳しくない小さな会場に置かれたピアノは、普通なら鳴り切らない寸詰まりの音になるものだが――驚異的なほど豊かなスケール感で鳴り響く。音楽の風格が大きく、瑞々しく、しかも温かさを感じさせるのである。日本にも来るらしい。

2・5(日)ラ・フォル・ジュルネ(13)ベレゾフスキーのチャイコフスキー「2番」

  オーディトリウム・プーシキン  12時30分

 ボリス・ベレゾフスキーと、ジャン=ジャック・カントロフ指揮するシンフォニア・ヴァルソヴィアが協演したコンサート。
 これも満席だが、チケットを貰うことができたので悠々とパルテレ席に座って聴く。但し時差ボケから来る眠気を堪えるのに多少の努力を要す。

 プログラムは前半にグリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、後半にチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第2番」。
 この協奏曲を聴きたいばかりに来たようなものだが、ベレゾフスキーはまたしても勢いに任せて弾き飛ばす癖を出し、特に第3楽章ではかなり粗雑なところを見せていた。譜面を目の前に置き、譜めくりも侍らせていたところを見ると、レパートリーに入っていないのか? しかし、LFJ2012の「ブログ隊」のサイトを読むと、ベレゾフスキーは昨年からこの曲を弾きたいと言っていたとのことだし、・・・・。

 カントロフは、予想外にといっては何だけれど、なかなかいい指揮をする。そのおかげで、シンフォニア・ヴァルソヴィアも、一昨日のセムコフの指揮の時とは大違い。張りがあって瑞々しく、明晰で均衡の取れた演奏を聴かせてくれた。
 なお協奏曲の第2楽章では、チェロのトップがヴァイオリンのトップサイドに移動して、コンマスと並んでソロを弾いていた(この間、ヴァイオリンのトップサイドの奏者は第1ヴァイオリンの最後部に移動した)。

2・5(日)ナントのラ・フォル・ジュルネ(12)  カペラ・サンクトペテルブルク

   オーディトリウム・プーシキン  朝9時15分

 雪は止んだが、道はかなり凍結している。
 朝早いコンサートにもかかわらず、1900の大ホールはほぼ満席だ。プレスが入場を認められて客席に入った頃には、もう演奏は始まっている。危うく立ち見になりかかったが、どうやら空いた席を見つけて割り込む。

 これはマルタンのイチオシのコーラス団体の一つ。ウラディスラフ・チェルノシェンコが指揮する60人近くの混声合唱である。既に500年の歴史を持つ団体だという。

 ロシア正教典礼合唱曲と、「カリンカ」などロシアのポピュラーな合唱曲によるプログラム。豊麗でふくらみのある響きが実に快い。ロシアの合唱の神髄ともいうべき世界であろう。

2・4(土)ラ・フォル・ジュルネ(11)
マキシム・パスカル指揮アンサンブル・ル・バルコン

   サル・チェーホフ  夜10時15分

 権代敦彦の委嘱新作も初演されるコンサートということで、われわれ日本人取材班はどっと押しかけたのだが、――コンサートの中で良かったのは彼の作品のみ。

 その「新作」は、ラ・フォル・ジュルネからの委嘱で、公式プログラムには「チェルノブイリ及びフクシマの悲劇に云々」と記載されているが、その後「クロノス~時の裂け目」というタイトルに決定している由。静謐で清澄な美をもつ落ち着いた小品である。
 音楽の性格もさることながら、その作品のコンセプトからして、特に5月の日本での「ラ・フォル・ジュルネ」では、ロシアと日本に共通する悲劇をテーマにした作品ということで、ある意味での象徴的な存在になり得るだろう。

 1曲目にこれが演奏された時には、感動的でいいコンサートになりそうな感じだったのだが、そのあとがいけなかった――。

 2曲目に演奏されたのは、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」で、小編成のオーケストラのために編曲されたもの。
 アレンジ自体はすこぶるよく出来ていると思うし――音色の変化で勝負する傾向の強いこの曲から、よくそのエッセンスを抽出したものだと感心したが――全曲ノーカットで演奏するとは思わなかった。そのあとにストラヴィンスキーの「きつね」が置かれている長いプログラムだったから、尚更である。
 しかし、アンサンブル・・ル・バルコンという室内オケの演奏もしっかりしているし、若いコンサートミストレスのソロも安定して、それなりにいい演奏で、聴きやすかったことは事実である。

 さて、そのあとの「きつね」の上演が、愚劣極まる。狐の尻尾をつけたり、雄鶏や猫の扮装をした男女数人が騒々しい奇声を発しながらプロレス(ごっこ?)を延々とやるだけ、という読み替え演出だ。その発想の貧困さにうんざりしているところへ、最後は歌手やオーケストラのメンバーも加わっての大乱闘と来る。
 歌手の声に使われたPAの大音量はオーケストラの演奏をも掻き消し、堪えられないほどうるさい。こんなグロテスクな上演の前では、われらの権代敦彦の新作の存在も何処へか吹っ飛んでしまった。

 後半のプログラムに唯一意味があったとすれば、まずストラヴィンスキーの師匠だったリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」を格調高く演奏し、休憩後にその曲のヴァイオリン・ソロの冒頭2小節ほどをコンミスがグロテスクに演奏し始めた途端、客席後方からけたたましく乱入したプロレス・グループが「新時代の」弟子ストラヴィンスキーを猥雑に標榜する――といった、歴史の流れを浮き彫りにしようというコンセプト(らしいが)だろう。

 これに比べれば、去る年にエクサン・プロヴァンス音楽祭でロベール・ルパージュが演出した「指芝居の影絵」による「きつね」の舞台の、なんと詩的で幻想的なユーモアに飛んでいたことであろう!
 
 倉庫だか工場だかを利用した会場の暑さもあって(但し、音響効果は意外と良い)いっそ来なければよかった、とさえ思えるようなコンサートになった。
 終演は夜中の12時。ほうほうのていで会場を逃げ出せば、外は降り積もる雪。

2・4(土)ラ・フォル・ジュルネ(10)
「スクリャービンが行なった最後のリサイタルの再現」

   サル・パステルナーク  4時45分

 ジャン=クロード・ペヌティエが演奏する。前奏曲、練習曲、第3ソナタなど盛りだくさんの選曲。
 全篇これスクリャービン・ワールド、濃厚でありながら清澄な神秘的叙情の世界にどっぷりと浸る。

2・4(土)ラ・フォル・ジュルネ(9)
フェイサル・カルイ指揮ベアルン地方ポー管弦楽団

  サル・ドストエフスキー  午後3時半

 初めてナマで聞く指揮者とオーケストラ。

 この「ドストエフスキー」なるホールは800席だが、会場の音響は、オーケストラにとっては劣悪きわまる。それゆえ、彼らの真価がいかなるものかについては、即断は避けたほうがよかろう。女性ティンパニ奏者のドタンバタン叩きつける打音が何とも野暮ったいことを除けば、そこそこの実力を持っているのではないかという気はする。

 ショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」は、やや正面切った演奏で、もう少しウィットが欲しい感もあった。その最後の音を演奏し終わった瞬間に、オーケストラ全員がにこやかな顔で起立するというのがチト風変わり。
 このフェイサル・カルイという指揮者が、バレエのように踊るような格好の指揮をして面白い、という事前評を聞いて、どれどれと思っていたのだが、まあたしかにしなやかな体の動きを示すけれども、評判ほどではない。若い頃の井上道義の方がよほどダンサー的だったろう。

 後半は、ブリジット・エンゲラー(という表記が日本では一般的だが、フランス人だからアンジェラーでは?)がソロを弾くチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」。
 人の良いオバチャンが強引に、力づくでダイナミックな野生的演奏をやってのける、といった感の雰囲気だったが、聞いた話では、音楽院などでのレッスンなどの時には、煙草をプカプカふかしながらの凄味のある指導で、おっそろしく怖い人なんだそうな。

2・4(土)ラ・フォル・ジュルネ(8) 
アンヌ・ケフェレックとプラジャーク弦楽四重奏団

  サル・トルストイ  午後1時45分

 満席で、座れない。しかし演奏の素晴しさが、立ち聴きの疲れを忘れさせてくれる。
 プラジャーク四重奏団が最初に演奏したボロディンの「ノクターン」の、何と詩情豊かなこと。中間でチェロのピチカートの上にヴィオラがトレモロで動くくだりが、これほど幻想的に聞こえたことはない。これでまずうっとり。

 そして後半、ピアノのアンヌ・ケフェレックとコントラバスのペネロープ・ポワンシュヴァルが加わって演奏されたグリンカの「大六重奏曲」が、これまた見事の一語に尽きた。ケフェレックがこんな洒落たタッチでグリンカを弾くとは思わなかったが、その明晰な音色と、プラジャーク四重奏団のしっとりした音色とが不思議な融合を示し、かつて聞いたことがないほどの私的な美しさを生み出していた。
 これは実に、快いコンサートであった。

2・4(土)ラ・フォル・ジュルネ(7) 井上道義指揮のスクリャービン「火の詩」

    オーディトリウム・プーシキン  12時30分

 スクリャービンの第5交響曲「プロメテウス~火の詩」が、井上道義が指揮するウラル・フィルとウラル交響合唱団、およびアンドレイ・コロベイニコフのピアノで演奏された。

 作曲者自身の原案の一つだった「色光」(照明演出)が付いた上演というのがポイントだったが、その「色光ピアノ」が使用されたのかどうかは聞き漏らした。が、聴いたところと観たところでは、とてもそこまで行っていたとは思えない。
 つまり今回は、ステージ上方から吊るされた3枚の幕(?)に、曲想に応じて様々な色の照明が当てられ、その余波でステージ全体にも若干の色合いの変化が生じる、という程度のものである。

 だがそれも、どうやら単なる趣向に留まったという印象だ。カネと手間をかけた割には、スクリャービンが意図した「音と光が交錯するスペクタクルな舞台芸術として聴き手を法悦状態に導く――」という効果を生むほどのものにはなっていないのである。惜しい。
 日本でやったら、もう少し技術的に巧い効果を作れるかもしれないが・・・・。

 結局、聴くべきは音楽そのものであった。
 井上道義が指揮すると、いつもは頼りないウラル・フィルが、俄然引き締まった演奏をする。
 この音響の悪いホールでは、ウラル・フィルの弦の音は概してこもり気味で冴えないのだが、今日はがらり異なって、明晰さがかなりの程度まで出ていたのだ。なんだ、このオケも、やれば出来るんじゃないか、と。

 しかも、われらのミッキーの風貌が、ステージに登場して来た時から、モロにロシア人みたいな雰囲気なのである。ロシア人ばかりの演奏家たちの中にあって、実にぴったりはまった光景になっているのが、たまらなく愉快であった。

 舞台設営に手間取ったのだろう、開場も遅れ、開演も30分くらい遅れたが、別に文句を言う人もいなかったようである。このへんが、日本と違う。

2・4(土)ナントのラ・フォル・ジュルネ(6) モスクワ大司教座合唱団

    サル・パステルナーク  9時15分

 アナトリー・グリンデンコが指揮するモスクワ大司教座合唱団を聴く。
 昨日のコンサートは満席で聴けなかったので、今日の朝早いコンサートなら入れるだろうと目星をつけて駆けつけた。

 これはマルタンのイチオシの合唱団の一つで、ロシア正教の正統派合唱団というふれこみである。こんな朝早くから声が出るのかと心配したが、さすがの底力、いかにもロシア人といった面魂の12人の男たちが響かせる豪壮な声は圧倒的な迫力だ。
 プログラムは、16~18世紀のロシア正教典礼の合唱曲に、ラフマニノフ、ボルトニャンスキー、チャイコフスキーの合唱曲、それにロシアの「ポピュラーな歌の数々」。

 ロシア特有の迫力ある発声、大地から湧き出るような低音。野性的な祈りの合唱が、強靭な力感で聴き手を引き込んでしまう。このような強烈な個性を備えた音楽や演奏には、聴き手を鼓舞する魔術的な力があるのだと改めて痛感する。最後はスタンディング・オヴェーションも出る。こちらの眠気も疲れも吹き飛んだ。

2.3(金)ラ・フォル・ジュルネ(5) ウラル・フィルとベレゾフスキー  

  オーディトリウム・プーシキン  8時

 ドミトリー・リスが指揮するウラル・フィルはこのフェスティバルの常連だが、どうもいつも演奏が雑である。ホスト役ともいうべきオーケストラがこういう演奏をしていては困る。「初めてクラシックを聞くお客さん」にとっては別に問題にはならないかもしれないが、ちょっと耳の肥えた聴き手はすぐソッポを向いてしまうだろう。

 この音楽祭は、聴衆の底辺拡大という使命だけでなく、いい演奏で熱心なファンをも喜ばせる役割も担っているはずだ。ソリストたちやカルテットのほとんど全部が熱の入った演奏をしている一方で、オーケストラだけが水準の低い演奏をしていては、申し訳が立つまい。

 前半のリムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」でも、指揮者もオーケストラも相変わらず粗くていい加減だし、コンマスはヨレヨレのソロを弾くし、聴いていると疲れがどっと増して来る。
 後半のラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」でも、人気だけは凄いベレゾフスキーがまたもや粗っぽい演奏をしている(ソリストの中にもこういうのがいるわけで・・・・)。第1楽章が終った所で、うんざりして出て来てしまった。

2・3(金)ラ・フォル・ジュルネ(4) 
ルノー・カピュソン他の「偉大な芸術家の思い出」

   サル・トルストイ  午後6時

 4時45分からの「パステルナーク」で、「モスクワ大司教座合唱団」によるロシア正教典礼音楽」を聴こうと思っていたのだが、満席だと言って入れてくれないので(若い女性の整理係は融通が利かないのが多い)、時間をつぶし、6時から「トルストイ」(450席)でこの室内楽を聴く。但しここも満席で座ることが出来ず、後方の壁際で立ったまま聴くことになる。

 演奏はヴァイオリンがルノー・カピュソン、チェロがヤン・ルヴィオンノワ、ピアノがカーティア・ブニアティシヴィリ。張りのある、洗練された演奏で、ロシア的な雰囲気はないが、聴き応えは充分。曲が良く、演奏が良ければ、立ったまま聴いていてもあまり疲れは感じないものだ。

2・3(金)ラ・フォル・ジュルネ(3) ヴェラ・ダヴィドワ指揮ウラル交響合唱団

   サル・パステルナーク  午後3時15分

 取材陣に秘かに配布されたマルタンの「要注目リスト」にはこの合唱団の名が入っていなかったので、それほど個性的ではないのかなと思ったが、やはり「普通の」合唱団であった。
 但し60人近い大編成によるパワー豊かな合唱で、たしかに「シンフォニック・コーラス」と称するだけのことはある。

 ディミトリ・ボルトニャンスキー、マキシム・ベレゾフスキー、チャイコフスキー、ボロディンらの合唱曲に、「ロシアのポピュラーな歌」というプログラムが当初は発表されていたが、一部は歌われなかったのではないかと思う――少なくともボロディンの「イーゴリ公」の中の合唱曲は入っていなかった。

 ホールはどれもこれも満員。この「パステルナーク」は300席だが、もちろんこれも満席。幸いに座れる。

2・3(金)ラ・フォル・ジュルネ(2) 
シンフォニア・ヴァルソヴィアのチャイコフスキー:「第5交響曲」

   オーディトリウム・プーシキン  正午

 プレス・カードを所有している取材班は、どのホールにも入れるけれども、一般の有料入場者の着席が終わった頃に入場が認められるというシステムになっている。したがって、このコンサートのような人気プログラムでは、満席のために立ち見を強いられるというようなこともある。
 今回も結局、最上階で立ち見ということになったが、周囲は幼児がぎっしり。退屈して騒ぐ。そもそもこんな曲では、長さも含め、キッズには無理ではないかという気もするが・・・・。

 ジェルジ・セムコフという指揮者は、ナマで聴くのは初めてだが、何かギクシャクした指揮ぶりで、しかも音楽が平板で、あまり面白くない。シンフォニア・ヴァルソヴィアの演奏もすこぶる粗い。
 前回もそうだったが、概してこのフェスティバルでは、参加ソリストたちは真剣に演奏するものの、出演するオーケストラは何となく手を抜いたり、あるいは水準が低かったり、というケースが多く見られるようである。

 第4楽章序奏部分までは退屈していた子供たちも、第4楽章の主部のアレグロに入ると、音楽の景気のよさに喜ぶこと、喜ぶこと。一緒に指揮者の真似をしながら踊り出す子供もいるのが、何とも愉快な光景ではある。
 東京でこんなことが起こったら、たちどころに主催者にクレームが行くだろうが、こちらナントでは、客も寛容だ。
 子供たちは、音楽が一寸でも休止すれば、途端に拍手を始める。第2楽章真ん中のパウゼの個所や、第4楽章の序奏が終わった所でも手をたたき始める。子供だけでなく、少なからぬ数のおとなたちまで手をたたく。
 例の第4楽章コーダの前ではどんなに大きな拍手が起きるかと、演奏がつまらない分、楽しみにしていたのだが、案に相違してセムコフは、そのゲネラル・パウゼでは殆ど間をおかずにコーダに突入してしまったので、2、3人程度の拍手しか起きなかった。

 「チャイコの5番」での「第4楽章コーダの前の拍手」については、繰り返すが、藤岡幸夫さんがブログで書いていたエピソードが未だに私の脳裏にこびり付いている。
 それは彼が英国滞在時代にオーケストラのメンバーから聞いたという話で――もしあそこで拍手が起こったら、それは「新しいお客さんが増えたという証拠で、むしろ喜ぶべきこと」なのであり、かつ「そこで皆が思わず拍手をしてしまうくらいの素晴しい演奏をしなくちゃいけないのだ」と考えるべきだ、と。
 
 今日のコンサートの場合はどうだろう? 第1点は、確かに当たっているだろう。但し第2点の方には、あまり当てはまらぬようだが・・・・。

2・3(金)ナントのラ・フォル・ジュルネ(1)
ヤーン=エイク・トゥルヴェ指揮ヴォックス・クラマンティス

     サル・ゴーゴリ  午前10時45分

 パリ経由で昨夜ナントに着く。雪はないが、かなりの冷えである。

 恒例の「ラ・フォル・ジュルネ」、本拠地ナントでの開催。水曜日から始まっているので、音楽祭としては「第3日」になる。
 今年は、ロシアがテーマだ。タイトルが「Le Sacre Russe」だから、「ロシアの祭典」とでも言ったらいいのか? 

 ここCITE INTERNATIONAL DES CONGRESSの各ホールには、今回のロシア特集に応じてプーシキン、ドストエフスキー、トルストイ、パステルナーク、ゴーゴリ、チェーホフ、ツルゲーネフ、ゴーリキー、チェーホフ、マヤコフスキー、といったようにロシアの作家の名前が付せられている。その他、「グランドホール・ディアギレフ」という番外編のような名称のホールもある。
 最も大きい1900人収容のホールが「プーシキン」だ。「トルストイ」は、意外にも「ドストエフスキー」(800席)に次ぐ450席のホールに付せられていた。

 「サル・ゴーゴリ」は200席、本来は会議室であろう。ここで聴いたヴォックス・クラマンティスは、音楽祭の総帥ルネ・マルタンのイチオシのコーラスの一つである由。男8人、女8人の編成で、プログラムはシリウス・クリーク(1889~1962)による典礼音楽と、アルヴォ・ペルト(1935~)の「カノン・ポカヤネン」という組み合わせ。

 清澄な声の響きが流石に素晴らしい。時差ボケによる睡眠不足も吹き飛ばされるような美しさである。もし大聖堂のような大伽藍で、長い残響を伴った拡がりのあるアコースティックで聴いたなら、さらに魅力的になるだろう。まあ、作品のうちの、ある側面だけを味わうという意味では悪くないけれども。

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