2017-08

1・28(土)沼尻竜典指揮群馬交響楽団のマーラー「3番」

    群馬音楽センター(高崎)  6時45分

 例の如く潤いのない、ドライなアコースティックのホールのために、冒頭のホルンの強奏からして裸の響きになってしまう。
 もしここが響きのいいホールであったなら、群響も、それを支える熱心な満席のお客さんたちも、どれだけ幸せであろうかと、――ホールは楽器の一部であるとよく言われるだけに、このホールへ聴きに来るたびに、慨嘆せずにはいられない。

 しかし、今日のマーラーの「第3交響曲」の演奏には、そういうホールの欠点を時に忘れさせるだけのものがあった。
 長大な第1楽章では、沼尻のリズムの歯切れ良さもあって、たたみかけるような緊迫感があふれる。マーラーのあの行進曲調の楽想が弾み、愉しい歌謡的なリズムが存分に躍動して、稀にしか聞けないほどの活気とエネルギーが演奏に漲った。

 ホールの残響がほとんど無いので、そのぶん内声部の動きが手に取るように聞こえ、沼尻が群響から引き出す明晰な音の動きがむしろスリリングな面白さを感じさせる。この第1楽章であまり長さを感じなかった、という経験は滅多にないが、――今日の演奏はその数少ない新鮮な体験の一つになった。これはお世辞ではない。

 この第1楽章があまりにリキの入った演奏だったので、いったいこの勢いが終りまで保つのかと心配になったほどだ。案の定、コーラスが入場するなど若干の「間」が採られたあとの第2楽章以降では――曲想の解放感という要素ももちろんあったけれども――やはりそれまでの気魄が少々薄らいだかな、という感がなくもない。
 それは、管楽器のソロに細かい破綻がいくつも生じて行ったためもあるだろう。

 だが、それを救ったのは、沼尻が採る快適に弾むリズム感である。特に第3楽章の主題では、その良さが生かされていた。
 そして、群響の弦の良さは、最終楽章(第6楽章)で存分に発揮される。楽章冒頭における清澄でしっとりした響き、あるいは大詰めのクライマックスへ登り行く個所での、緊迫度の強い張りのある音など、なかなか魅力的なものがあった。

 ポストホルン・ソロを含めた金管群、あるいは木管群なども健闘していたことは事実だが、細かい個所でポロポロとミスが出るのは、やはり困る。群響を聴いた機会は、東京での演奏を含め、これまで数知れずあったが、こんなに目立ったのは初めてだ。明日の桐生市民文化会館での「東毛定期」では、緊張から解放されてうまく行くだろうか・・・・。

 なお合唱は、群馬大学附属小学校合唱団と、東京から参加した東京音楽大学。アルトのソロは竹本節子。

 夜9時17分の「あさま」で帰京。10時12分東京着。10時45分帰宅。

    モーストリー・クラシック4月号 演奏会レビュー

1・28(土)山田和樹指揮東京都交響楽団

    サントリーホール  2時

 チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」からの「ポロネーズ」で幕を開け、マティアス・ヘフスをソリストに迎えたアルチュニアンの「トランペット協奏曲変イ長調」と続き、最後がラフマニノフの「交響曲第2番」というプログラム。

 注目はラフマノニフ。重厚な音の組み立ては、いつも通りの山田和樹だ。
 都響の響きには、インバルやフルシャが指揮した時のしっとりしたまとまりとは違い、今回はやや開放的なラフさも感じられたが、それでもラフマニノフのこの曲らしい陰翳には事欠かない。

 山田の本領が発揮されたのは予想通り、「第2交響曲」の中の最高傑作ともいうべき第3楽章である。あの哀愁の叙情を見事にたっぷりと濃厚に表わして見せた。これだけ躊躇なくトロリとした味を利かせることができるのは、若手指揮者多しといえども彼くらいのものだろう。
 楽章の最後を神秘的に消え入るように終結させた神経の行き届いた指揮もなかなかいい。ただし、第4楽章最後を、あまりテンポを煽らずに整然と締め括った点だけは、こちらの予想が外れた。

 アルチュニアンを吹いたマティアス・ヘフス(元ハンブルク州立歌劇場管首席、現ジャーマン・ブラスのメンバー)は、聴衆の人気も圧倒的だ。華麗な音色の鮮やかさ。

 終演後、ただちに東京駅に向かい、4時44分発の新幹線「あさま」で高崎へ。僅か50分の距離である。

1・27(金)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

    サントリーホール  7時15分

 前半にラルス・フォークトをソリストに迎えたチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」を、後半にストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を置いたプログラム。つまりこれは、ハーディングのロシアもの――。

 チャイコフスキーでの演奏が、意外に面白かった。
 意外に、というのは、私がふだんからこの曲にあまり共感を抱いていなかったせいもあるが、今回のラルス・フォークトのアプローチは、この協奏曲のこれまでのイメージをかなり変えるものだったからだ。

 よくありがちの闘争的な、バリバリとぶっ叩く演奏ではない――もちろんff にはダイナミックな趣きはあるけれども、それとてさほど攻撃的な演奏ではない。
 そして、第1楽章でのいくつかのリリカルな個所などでは、テンポを極度に落し、神経を行き届かせた最弱音を美しく響かせるのだが、それはまるで、シューマンのピアノ曲のようなイメージさえ生んでいた――あたかもチャイコフスキーが、尊敬していたドイツ・ロマン派の先輩ロベルト・シューマンへのオマージュとして書いた音楽のようにさえ感じられたのである。

 「ピアノとオーケストラの決闘」とまで評されたことのあるこの協奏曲からこのようなイメージを引き出して見せたフォークトの感性は、確かに面白い。
 彼はいわゆるヴィルトゥオーゾ的なピアニストではないから、こういう解釈の方がぴったり来るだろう。
 第1楽章冒頭など、その和音の柔らかさに、一瞬オリジナル稿で始めたのかとさえ錯覚しそうになったくらいである。

 このフォークトの演奏に、ハーディング指揮の新日本フィルもよく合わせたが、いつもとは違うスタイルに少々勝手が違ったか、と思わせたところもないでもない。
 出だしからホルンの1本が音を外したのにはガクッと来たが(珍しいですね、こんな曲で)――先日のマーラーの「9番」の時といい、私が新日本フィルを聴きに行く時には、ホルンにはどうもツイていないのか――曲全体は叙情的なニュアンスを基本にまとまっていた。
 演奏時間も40分ほどかかっていたから、テンポはやはり遅い方である。

 「ペトルーシュカ」は、これも意外に整然とした音楽づくり。目まぐるしく移り変わる曲想を、イン・テンポのイメージで、スタティックに、整然と構築する。
 これは、ロシア・バレエの音楽というよりむしろ、のちの新古典主義時代の方向にやや顔を向けているストラヴィンスキーといったイメージだろうか。以前、ブーレーズがこういう傾向のアプローチを行なっていたことがあるが、あれよりはもっと軽く、明るい。新日本フィルも、この曲では調子を取り戻したようであった。
 なお、ラルス・フォークトがこの曲でも友情出演(?)のピアノを受け持っていた。

    音楽の友3月号 演奏会評

1・25(水)上岡敏之指揮読売日本交響楽団のマーラー「4番」他

    サントリーホール  7時

 上岡のマーラーは、先年の「アダージョ」(第10交響曲)での鮮烈な演奏の記憶がいまだに生々しいが、今回の「4番」のように「さほど悲劇的ではない」作品では、さすがにそこまであざといことはやらない。

 しかし、声部の一部を強調して浮彫りにしたり、ハーモニーのバランスを変えたり、ソロ楽器の音色を殊更ユニークに強調したりして、聞き慣れない響きをオーケストラから引き出すといった個性的な解釈は、相変わらずだ。

 とはいえ、第1楽章は、予想外に端整なつくりだった。
 いわゆる変幻自在のテンポによる揺れ動く世界といったイメージでなく、何かブロックごとにがっちりと音楽を構築し、それを大きなリタルダンドで一つずつ終結させながら、各部分を有機的に接続して行くといったような――何とも要を得ない言い方で申し訳ないが――そんな印象を得た。
 これは、別に悪い意味で言っているわけではない。ただ、私が好きな、音楽が揺れながらしなやかに流れて行くというような感じの第1楽章ではなかったのは確かである(昔、クーベリックがこういうタイプの演奏をしていたのではないかしらん? 一寸記憶が曖昧だが)。

 圧巻だったのは、全曲の頂点ともいうべき第3楽章。たっぷりとして耽美的で、濃厚である。
 しかもマーラーの譜面に基づき、ポルタメントやグリッサンドの域を遥かに超えた時間の長さで弦の音をずり上げたり下げたりして行く手法を、上岡はこの曲でいやが上にも強調して目立たせていた。少々作為的にやりすぎという感はしたけれども、それは他にここまでやる指揮者は滅多にいないからである。かのメンゲルベルクでさえ、これほどあからさまにはやっていなかった。マーラーのエクセントリックな音楽を象徴させるという意味では、それも悪くなかろう。

 第4楽章でのソプラノはキルステン・ブランクという人。欧州では大活躍らしいが、この日はかなり不安定。

 なおプログラムの前半には、モーツァルトの「交響曲第34番ト長調K.338」が組まれていた。こちらはいっそう端然とした演奏。

    音楽の友3月号 演奏会評

1・22(日)細川俊夫:オペラ「班女」広島初演

     アステールプラザ(広島)中ホール能舞台  3時

 広島へ日帰り。細川俊夫のオペラ「班女」を観る。
 エクサン・プロヴァンス音楽祭の委嘱で2004年に初演された作品だが、その後のモネ劇場での上演も、サントリーホールでの東京初演も観る機会を逸していたので、広島初演を待ちかねて出かけた次第。
 今回は平田オリザ演出による能舞台を使用した上演で、しかも川瀬賢太郎指揮の広島交響楽団の演奏となれば、いっそう興味が湧くというものである。

 「班女(はんじょ)」とは、中国の故事に基づく「男に捨てられた女」の意。
 能の原作を三島由紀夫が文学作品としたものをドナルド・キーンが英訳、それに基づき細川が脚本化した。今回の上演ではその英語の歌詞が使用され(字幕付)、時に挟まる台詞部分に日本語が使われている。ただ、この2ヶ国語の交替はかなり唐突で、些か違和感を呼ぶ。

 吉雄(小島克正)に捨てられ、哀れにも狂気となった花子(半田美和子)は、今は実子(藤井美雪)の保護の下にある。そこに彼女の居場所を探し当てた吉雄が訪ねて来るが、花子にはもはや彼を認識できる精神は残っていなかった――というのが物語の大筋である。

 平田オリザの演出は、静的だが極めて巧みな心理描写にあふれ、魅力的だ。
 特に実子が花子に抱く妖しい気持が赤裸々に描かれるあたり、藤井美雪の精妙微細な演技もあって、ぞっとするほど不気味な雰囲気を醸し出す。
 自らの狂気の世界に浸りきり、純粋な美しい表情を見せる花子に対し、生々しい感情に揺れる実子もまた、異なった意味での狂気の世界に陥っている女なのであろう。

 この演出での最大の見ものは、かようにこの2人の女の微妙な関係と、それを演じる2人の女声歌手の演技とにあると言えるだろう。
 吉雄が立ち去ったあとに、花子が浮かべる怖しいばかりの美しい狂気の微笑――これを演じた半田美和子の演技が素晴らしい。
 そしてそれ以上に実子の――花子を連れ出そうとする吉雄との口論のさなかに見せる嫉妬の感情の入り交じった苦悩の表情、あるいはそのあとの、花子と吉雄の哀しい不毛の対話を傍で聞く実子の顔に次第に拡がり行く、鬼気迫るような満足の薄笑い、また最後に花子の狂気の哀れさに対して見せる、愛と同情が交錯する暗澹たる表情など、藤井美雪の演技の見事さには全く魅了された。こんな芝居の巧いメゾ・ソプラノが日本にいたとは! 慶賀の至りだ。 

 こうした性格描写は、平田オリザが、これまでオペラを演出したことのない、演劇畑の人であるがゆえに可能だったとも言えよう。
 この2人の女に比べると「吉雄」はやや曖昧な存在に陥りかねない。が、彼はここでは少しヤクザっぽく、実子への敵意を剥き出しにするキャラクターとして描かれていた。それはそれで筋の通った解釈であろう。

 能舞台を使用したのは平田のアイディアだとのことである。客席から見て上手側に本舞台、下手側奥に橋掛り、その前に小編成のオーケストラ、という配置。私の印象としては、能舞台そのものは、視覚的な美しさと、日本人として精神的な安らぎを感じさせる役割という程度に留まったようにも思われたが、もちろんそれもそれで良かったであろう。
 実子や吉雄が橋掛りをゆっくりと歩いて登場して来るのは、悪くない。ただ、吉雄が登場する際の音楽の表情が、彼が常座に着いた瞬間に劇的に変化するという形を採っているので、これはむしろ普通の演劇舞台で行なわれるような「突然の登場」の方がショッキングな効果を与えるのではないかな、などと思ったりした。
 吉雄と花子が取り交した「扇」は、今回はさほど重要な意味を持たされていなかったようである。

 細川俊夫の音楽には、邦楽器は一切使われていないが、いつものように精緻なテクスチュアに富み、清澄な美にあふれている。漸強・漸弱を多用したニュアンス豊かなオーケストラの語り口は、まさに日本人ならではの筆致であろう。
 全曲を支配する「静」と「間」の中に、物語の劇的な展開に応じて時に打楽器が炸裂し、強烈なインパクトをつくる。最弱音による弦楽器群のざわめきと管楽器群の微かな風のような音で開始されたオペラは、ラストシーンで再び微かな音となって次第に消え去って行く。あたかもこの浮世の愛憎劇が、一片の風と化して幻想的に遠ざかり行くかのようでさえある。

 アフタートークでは、吉雄と実子の議論口論の場面(第4場)が長すぎるのではないか、という質問が観客の1人から出ていた。だが私は、むしろその場面にこそ、細川の音楽の魔性と緊迫感が発揮され、彼がオペラの作曲家として十分な地位を確立するにふさわしい力量が示されていたのではないかと思う。
 とりわけ暗い音色の和音が長く持続されたままになる個所など、実子の執念を象徴するかのような凄味があり、背筋が寒くなるような効果を上げている。全曲6場の中央に位置するこの第4場こそ、このオペラの音楽的クライマックスとして位置づけられるのではなかろうか。

 こうした音楽を、川瀬賢太郎は、驚くほど見事に指揮していた。透明な音色を保持した広島交響楽団の鮮やかな演奏もさることながら、若い川瀬のこの感性には目を見張るものがある。この指揮者は、伸びること疑いなしだ。

 上演時間は、正味90分。

     →モーストリークラシック4月号 演奏会レビュー

1・21(土)池辺晋一郎の最新作オペラ 「高野聖」東京初演

    新国立劇場中劇場  3時

 泉鏡花の原作(明治33年)を小田健也が脚本・演出、池辺晋一郎が作曲、大勝秀也が指揮、オーケストラ・アンサンブル金沢が演奏。
 12月9日に金沢歌劇座で初演され、同12日に高岡で上演されたあと、今回21日・22日の東京での上演となった。主催は日本オペラ振興会および金沢芸術創造財団――とクレジットされている。

 ある修行僧が飛騨の山奥の天生(あもう)峠の孤家(ひとつや)で遭遇した怪奇な美女との相克ともいうべき物語だが、小田の演出と倉本政典の舞台美術が如何にも日本の民話的で耽美的な怪談らしい雰囲気を感じさせ、愉しめる。
 美女の魔力により獣に化身させられながらもなお彼女の胸に絡みつこうとする猿や蝙蝠――ここは原作でも有名な場面の一つだ――などは、小道具として、舞台上に並ぶ魑魅魍魎の合唱の動きの助けを借りて巧みに活用される。こういうところも日本のオペラらしくて、悪くない。

 歌手陣では、上人(僧)役の大間知寛がほぼ出ずっぱりで活躍、沢崎恵美も日本女性らしい所作で妖艶な美女としての責任を果たした。親爺役の井上白葉、薬売り役の和下田大典といった歌手たちも、日本のオペラを演じ歌う時にはすべてサマになっている。

 池辺晋一郎にとっては、これが「鹿鳴館」に続く10作目のオペラに当るそうだ。
 彼のオペラによくある叙情的な色合いにあふれた作風で、怪談だからといって怪奇な雰囲気を出そうというのではなく、むしろ耽美的で幻想的な要素を浮彫りにした音楽である。
 オーケストラは2管編成だが、もし弦楽器の数がもっと多ければ、更に官能的な色彩が増すのではなかろうか? 

 20分の休憩1回を挟んで終演は6時。音楽に殊更大きな起伏がないので、後半はやや長さを感じさせ(これは演奏にもよるだろう)、もう少し端折ってもいいのではないのかと思わせるけれど、――さりとてものの哀れを滲み出させる上人や美女のモノローグ、それにエピローグなど、いずれも必要なもので、カットするわけには行かないだろう。

1・20(金)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィル マーラー「9番」

    すみだトリフォニーホール  7時15分

 ハーディングが新日本フィルへの客演の際にいつも示すストレートなアプローチ。
 だが同じストレートでも、これまでとはもはや全く別の様相を呈している。

 過去何回かの客演での演奏は、彼がマーラー・チェンバーを振る時とは正反対の――冒険を避けた安全運転の、むしろ平凡な演奏というに等しいものであった。あたかも、新日本フィル相手ではあまり凝った細工をしても無理だろうと――まさかそうは思っていなかったろうが、そんなことをこちらに勘繰らせるくらい、「何もしない」タイプの演奏だったのである。

 だが、そのハーディングと新日本フィルも既に客演を重ねて、今やついに両者の呼吸がぴったり合致する段階に到達したのかもしれない。
 今日のマーラーの「第9交響曲」での、全曲に満ちあふれた堅固で見通しのいい構築、強烈な緊張感、精妙に織り上げられた緻密な音の均衡は、ただものではなかった。これまではついぞこの両者の演奏からは聴けなかったものであった。
 楽曲の構造を殊更に細工したり誇張したりしなくても、ハーディングはこれほど強靭な音楽を創れるのだ――ということを見事に証明した指揮だったと言ってよかろう。

 新日本フィルの演奏も傑出していた。この日はホルンが不調で、再三にわたり高貴な瞬間に水を差したという残念なことはあったけれども、それを別とすれば、絶好調の時に聴かせる水準の演奏だった。
 特に、豊嶋泰嗣をリーダーとする弦楽器群の音色は素晴らしい。第1楽章冒頭から清澄な音だなと惚れ惚れするくらいだったが、あの全曲最後の長い最弱音の個所では、澄み切った明晰な音色が最後まで途切れることなく、限りなく透明な美しさの裡に結ばれて行ったのであった。

 ハーディングと新日本フィルの共同作業について、私にはこれまで多少の疑問や不安もあったのだが、今回の見事な演奏を聴いて、どうやらそれも雲散霧消したような気がする。

1・19(木)中嶋彰子の「北欧のロマンス」

   JTアートホール(東京・虎の門) 7時

 JTアートホールの室内楽シリーズの一環、「中嶋彰子セレクションⅡ 北欧のロマンス」と題された演奏会だが、ソロ歌曲あり、合唱曲あり、ピアノ・ソロ曲あり、ヴァイオリン曲もありの(しかも照明を加えての)、この「室内楽シリーズ」の中では異色ともいえる凝ったプログラムである。

 出演者は中嶋彰子(ソプラノ)の他、ニルス・ムース(ピアノ)、長原幸太(ヴァイオリン)、それに東京混声合唱団の男声四重唱といった人たち。
 グリーグやシベリウス、ニールセン、スヴェンセンらおなじみの作曲家の他、オーレ・ブル、ヤコブ・ゲーゼ(タンゴ「ジェラシー」)、ニルス・ゲーゼらの作品、あるいは北欧の民謡なども歌われ、かつ演奏されていた。
 ふだん聴けないような曲も多く、なかなか興味深いコンサートであった。

 自ら歌った曲の数は半数に満たなかったものの、舞台の中心はやはり中嶋彰子であることに変りはない。明るく温かく、実に美しく強靭な声がホールの空気をビリビリと揺るがせる。欲を言えば、もう少し彼女の素晴らしい歌をたくさん聴かせてもらいたかったところだが・・・・。
 ただ、昨年彼女が歌ったアメリカの歌曲集がかなり凄味のある表現を示していたのに比べると、今回の北欧ものは、何か美しさにのみ重点を置いた歌唱にとどまったかな、という印象がなくもない――。

1・18(水)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルのチャイコフスキー「1番」「6番」

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 飯守泰次郎と東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の「チャイコフスキー交響曲全曲シリーズ」の第3回。
 第1交響曲「冬の日の幻想」と第6交響曲「悲愴」が取り上げられた。

 全篇これ飯守の気魄が迸る指揮で、「悲愴」の第1楽章再現部や第3楽章後半、第4楽章中盤以降などは、あたかも何かに憑かれたような、狂気じみた入魂の演奏となった。
 これほど激情的な飯守の指揮はこれまで聴いたことがなく、またこれほど激情的な「悲愴交響曲」の演奏も滅多に聴いたことはない。
 もちろん「冬の日の幻想」の方も、特に終楽章など厳しい構築感を備え、仁王のような力感を漲らせた快演であった。

 シティ・フィルも渾身の演奏で、その熱演は称えられていいと思うが、しかしトランペットとトロンボーンは、技術面でもバランス面でも、早く改善されるべきではなかろうか? 特に第1楽章最後のトロンボーン3本とテューバによる4小節間の長く引き延ばされる神秘的な和音のさなかに、1本が息継ぎで音が途切れてしまうなどというのは・・・・。
 

1・17(火)上岡敏之指揮読売日本交響楽団のR・シュトラウス・プロ

   サントリーホール  7時

 「死と変容(浄化)」に始まり、「4つの最後の歌」に続き、後半は「ドン・ファン」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」が演奏された。

 この中で私が最も期待していたのが、「4つの最後の歌」だ。
 上岡ならきっとやってくれるだろう、と思っていたのだが、まさに期待通りの素晴らしい音づくりである。空気の如く柔らかく浮遊するような感覚を備えたふくらみのある響きと、夢幻的で彼岸的な音楽の表情とが見事に再現されていた。
 日本や欧州のオーケストラによるナマ演奏でこの曲を聴いたのはこれまでにも何度かあるが、今回のような軽やかな拡がりのある音色が聴けたのは、初めてである。

 特に第4曲「夕映えの中に」が絶品。また第3曲「眠りにつく時」でのヴァイオリン・ソロでは、コンマスのデイヴィッド・ノーランが本領を発揮、甘美なカンタービレを聴かせてくれた。
 ただ、上岡と読響の演奏はこの通り夢幻的だったのだが、ソリストのアンナ=カタリーナ・ベーンケがえらくリアリスティックに歌うので、何ともアンバランスな感を抑えきれない。この曲でのソプラノは、何故みんなこうフォルテで歌いすぎるのだろう?

 その他の交響詩3曲の演奏は、一長一短というところか。
 「ドン・ファン」でのホルン群は素晴らしかったけれども、トランペットの音色がこの曲だけ何故か演歌的で(昔の園まりの「逢いたくて逢いたくて」のレコードでの華麗なトランペットの音色そっくり!)、そのパートだけが浮いてしまう。ホルンは「ティル」でも良かった。
 だがこの3曲に関する限り、上岡&読響の演奏にしては、総じていつもとは違って、何となくガサガサしていた感もないではない。練習が足りなかったか? 3日間だけの練習にしてはよくここまでまとまったとも言えるが、まとまらなかった部分もやはりあるようで。

1・17(火)METライブ・ビューイング グノー:「ファウスト」

    新宿ピカデリー  10時

 今シーズンのメトロポリタン・オペラ(MET)のニュー・プロダクション、グノーの「ファウスト」。12月10日上演のライヴ映像。

 今回のデス・マッカナフ演出の舞台は、かなりよく出来ていると思う。少なくとも、過去にMETで観た2種類の演出――ピーター・マックリントックの伝統的な古色蒼然たるプロダクションや、アンドレイ・セルバンのお伽噺的で天下泰平な舞台に比べれば、よほどまとまりがいいだろう。
 この舞台では、ファウスト博士を原爆開発に関わった物理学者とし、原爆ドームやキノコ雲の映像なども交じって(先日の「ドクター・アトミック」同様、われわれには心穏やかならざる光景である)、物語を現代化して設定している。

 ただ問題は、冒頭に白衣を着て並んでいた物理学研究所のスタッフとおぼしき者たちが最後に神キリストを讃えて合唱する役割を担うことや、キノコ雲の映像の前で打ちひしがれるファウスト博士の前をよろめきつつ横切って行く異形の者たちが「ワルプルギスの場」で醜い亡者として登場する(これが最初から「難民」や「被爆者」でなく、悪の魔物として設定されていたのならどうということはないのだが・・・・)という2点。それが、どうも納得の行かぬところではある。

 ラストシーンでは、青年ファウストが、再び以前の老いたファウスト博士の姿に戻るという形になる。すべては自殺しようとして飲んだ毒酒の為せる幻想だったというわけか。哀れファウスト、覚めれば槿花一朝の夢――。しかしこの手法は、以前ヘニング・ブロックハウスが使った設定でもあった(1995年・藤原歌劇団公演)。

 主演の3人が素晴らしい。ファウスト役のヨナス・カウフマンは、まさに惚れ惚れするほどの歌唱と舞台姿と演技だ。メフィストフェレスのルネ・パーペは、前回のセルバン演出での尻尾を生やしたマンガチックな悪魔と違って、今回は正装姿の堂々たる魔人として迫力を出す。マルグリート役のマリーナ・ポプラフスカヤも今回は予想外に良く、彼女の成長を示していた。
 他にヴァレンティンをラッセル・ブローン、シーベルをミシェル・ロズィエ、といった歌手たち。

 だが何といっても驚異的に素晴らしいのは、私の贔屓若手指揮者の1人、ヤニク・ネゼ=セガン(セギャン)である。
 音楽の流れが本当に自然で瑞々しく、終始緊迫感を失わず、グノーの音楽の良さを最大限に発揮させて聴き手を惹きつける。この指揮を聴いただけでも、今回の「ファウスト」に接した甲斐があったというものだ。彼は大物になるだろう。

 なお、バレエ音楽は省かれていた。如何に原則ノーカット主義のMETでも、さすがにそこまでは上演時間を引き延ばせなかったとみえる。とはいえ、あの取って付けたようなバレエ場面をやらず、本体の音楽をカット無しで演奏した今回の姿勢は、評価できよう。
 午後2時終映。

1・16(月)チョン・ミョンフン指揮ソウル・フィルハーモニー管弦楽団

   サントリーホール  7時

 昨年5月に続く2度目の来日。今後は日本定期公演という形にでも発展するのかしらん?

 今回も弦18型の編成。チョン・ミョンフン(鄭明勲)は本当に大編成が好きなようだ。コンサートマスターをはじめ、金管などにはかなり「西洋人奏者」が多い。

 この大編成だから、マーラーの第1交響曲「巨人」が量感たっぷり、壮大な構築になったのも当然であろう。第2楽章以降は密度の濃い響きになっていた。
 しかし、プログラムの前半に組んだドビュッシーの「海」をもこの18型で、しかもその弦楽器群をガリガリと硬質な音で弾かせ、全管弦楽を咆哮させたのには、どうにも賛意を表しかねる。「波のたわむれ」冒頭のチェロとコントラバスのうごめきなど、あまりに物々しく演奏しすぎて、まるで海の怪物が頭をもたげるかのようなイメージになってしまった。フランス印象派の作品をこのようなアプローチで演奏するのは、いくら何でも「新解釈」の域を超えているのではないか? 

 その点、アンコールで演奏したラヴェルの「ラ・ヴァルス」の方は、タッチを一変させ、柔らかくフワリとした弦の響きで軽やかなイメージが求められていた。ただ、所詮これも音が分厚くなりすぎてしまう。

 昨年の「悲愴」などもそうだったが、このコンビ、エネルギー感充分の演奏であることは結構としても、何か心に響く味といったものがもっと欲しいところである。
 チョン・ミョンフン、昨年のアジア・フィルとの来日公演でのブラームスの第1交響曲などでは、もっと深々とした味のある音楽をつくっていたものだったが・・・・。

1・15(日)東京オペラ・プロデュース プロコフィエフ「修道院での結婚」日本初演

     新国立劇場中劇場  3時

 親の薦める男とは違う相手と結婚したいばかりに家出し、替え玉作戦を採る娘たちと、それが巻き起こすさまざまな騒動を描くコミカルなオペラ。ユーモアとペーソスにも事欠かない。

 欧州では少しずつ上演の機会が増えているとかいう話だが、まだまだ一生に一度観られるかどうかのマイナー(?)なオペラであることには変わりなく、その意味でもよくぞ日本初演してくれたと言いたいほどである。
 しかも、思いがけず面白い舞台と、手堅い演奏とが実現されていたのが嬉しい。

 舞台装置こそ質素なものだが、回転舞台を使った八木清市の演出が要を得ていて、登場人物たちのコミカルな演技が極めて自然な形で展開されていた。

 歌手陣はダブルキャスト。前日の方に有名な歌手たちの名前が見られたものの、今日の組にもなかなかの役者が揃っていて、愉しい舞台を見せてくれた――岩崎由美恵(ルイーザ)・勝倉小百合(ドゥエンナ)・橋爪ゆか(クララ)の3人の女声たちに、村田孝高(メンドーザ)、笠井仁(ドン・カルロス)、和田ひでき(フェルディナンド)、高野二郎(アントニオ)、塚田裕之(ドン・ジェローム)、工藤博(アウグスティン神父)といった男声たちが活躍。特にメンドーザ役の村田孝高の芝居巧者ぶりが目立ち、四股を踏んだり大見得を切ったりする余興の演技も自然で、観客を楽しませた。
 慣れぬロシア語での歌唱は大変だっただろう。発音については私には云々できないけれども、みんなしっかりした歌いぶりだったと思う。

 東京オペラ・プロデュース合唱団、バレエ団芸術座も愛らしくまとまっており、舞台上の出来栄えは手応充分。 東京オペラ・フィルハーモニック管弦楽団は些か荒いところがあり、トランペットなども少々粗雑ではあったが、全体としてはこれも手堅い出来と言ってよかろう。
 指揮は飯坂純。クライマックスや終結への持って行き方にもう少し芝居気というか演出というか、工夫が欲しいところだ。すべて最後があっけなく終るといった演奏では、盛り上がりに不足する。

 それにしても、バレエまで盛り込まれたこの大掛かりなオペラを、よくぞここまで仕上げたものである。特殊なレパートリーゆえに成功を収めたということもあろうが、いずれにせよ東京オペラ・プロデュース、渾身のプロダクションと言えよう。ほぼ満員近いお客が入っていて、良かった。

1・14(土)ウクライナ国立オデッサ歌劇場 ボロディン:「イーゴリ公」

    オーチャードホール  4時

 ウクライナ国立のオペラと言っても、先頃来日したキエフのオペラとは別の、こちらはオデッサのオペラ。来日プログラムの表紙に掲載の英字タイトルは、Odessa National Academic Theaterとなっていた。今回は「トゥーランドット」と、このボロディンの「イーゴリ公」を携えて来ている。

 上演に使用されたのはリムスキー=コルサコフとグラズノフがまとめた版で、つまり伝来のスタンダードな版ともいうべく――プチーヴリの広場(イーゴリ公の出征)、ガリツキー公の館、ヤロスラーヴナの居室の場、ポロヴェッツ軍の野営の陣地、プチーヴリの町(イーゴリ公の帰還)――という5場面からなる構成である。

 「ポロヴェッツ陣地からのイーゴリ公の脱走」は通例によりカットされているが、その他にもあちこちカットは行なわれており、たとえば最終場面でのヤロスラーヴナのアリアはほとんどカット同然の状態、といった具合だ。
 まあ、ボロディンの作曲した部分が断片にとどまっているため、原作というものはあって無きが如きオペラだから、10の上演があれば10の異なった版が出来るというのは、ある意味では仕方がない。

 演出は、意外にもスタニスラフ・ガウダシンスキーだった。彼はミハイロフスキー劇場(旧マールイ・オペラ)に来る前、短期間だがこのオデッサ・オペラの芸術監督を勤めていたことがある。ただ、この舞台を見る限り、彼の演出に必ず備わっている詩的なイメージがあまり感じられず、彼の意図がどの程度まで正確に反映されていたかは、疑問ではある。
 さしあたり大雑把に言えば、ロシア・オペラの伝統的な演出に属する、ごくありふれたスタイル、と言ってもいいだろう。舞台装置もシンプルな書き割を使ったものだが、そこそこの雰囲気は出ている。

 イーゴリ公を歌ったアレクサンドル・ブラゴダールヌイも強力だったが、コンチャク汗のあの超低音をはっきりと響かせたウラジーミル・グラシェンコも、なかなかの声だった。ガリツキー公のセルゲイ・ザムィツキーも馬力がある。イーゴリ公夫人ヤロスラーヴナを歌ったアーラ・ミシャコワも、明晰な声で男声陣と張り合っていた。
 この4人さえしっかりしていれば、まずこのオペラの歌手陣は安泰といってもいい。

 指揮はユーリイ・ヤコヴェンコという人で、たんたんと、委細構わず(?)素っ気なく振る。各幕の最後の音を、幕が降り切るタイミングに合わせて引き延ばすくらいのことはやってもいいと思ったのだが・・・・。
 しかし、オーケストラもかなり優秀なので、このオペラの音楽の野性味を堪能するには過不足の無い演奏ではあった。
 「ポロヴェッツ人の踊り」の場面も、ダイナミックな雰囲気は充分。これなら楽しめる。

1・13(金)ラドミル・エリシュカ指揮NHK交響楽団のチェコ・プログラム

    NHKホール  7時

 1931年生れの名匠ラドミル・エリシュカ。いっそうパワーアップしたかのような、元気なステージ。
 今回は、スメタナの交響詩「ワレンシュタインの陣営」、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」、ドヴォルジャークの「交響曲第6番」を指揮した。

 N響の揺るぎない良さと、それを堅固な構築性を以って制御するエリシュカの年齢を感じさせない気魄は、見事としか言いようがない。実際、各作品ともに、これだけ明晰で「見通しの良い」形式感を抱かせた演奏は、そうたびたびは聴かれないだろう。

 ドヴォルジャークの「6番」など、下手をすれば地味な主題ばかりがダラダラと流れるような危険性をはらんだ曲になりかねないところだが、今日のエリシュカの指揮を聴くと、まるで作品の構築図がはっきりと目の前に拡げられたような印象を受ける。
 「シンフォニエッタ」のフィナーレにしても、大ファンファーレが参加する最後の頂点に向かって音楽の色合いを次第に変化させながら緊迫度を加えて行くヤナーチェクの巧みな設計を、エリシュカはこの上なく鮮やかに再現していたのであった。

 N響が繰り広げた響きの均衡感も素晴らしい。
 「シンフォニエッタ」の終了直前、金管のファンファーレを支える弦楽器群の和声的な拡がりにもう少し豊麗さがあれば、最後は更に壮大な響きになったのではないかと思うが、そういえば今夜はこちらの席(1階18列ほぼ中央)のせいか、特に1曲目のように金管が硬質で耳を劈くように聞こえた個所が多かったのは事実だ。
 しかし、特に交響曲での響きのバランスの良さは絶品で、今夜ほどこのホールのアコースティックを気にしなかったことは、かつてなかった。もちろんそれは、単に響きの問題だけでなく、演奏にあふれていたヒューマンな音楽性に由るところなのだろう。
 

1・11(水)フライブルク・バロック・オーケストラのバッハ「管弦楽組曲」

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 意外や意外、このフライブルク・バロック・オーケストラ(1987年創立)は、これが初めての来日になるそうな。音楽監督ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツをリーダー(コンサートマスター)に総勢23人、今夜はバッハの管弦楽組曲全4曲をプログラムに組んでの演奏会となった。

 演奏順は第3番、第2番、休憩を挟んで第1番、第4番。
 有名な2曲を早々と前半でやってしまうとは・・・・とは言っても、実はこの配列はなかなか機微に富んだものであることが解る。

 最初のニ長調(第3番)から3度下がってロ短調(第2番)、それから1度ずつ上って、ハ長調(第1番)、最後に再びニ長調(第4番)に戻るという形になる。
 しかも、わずか6人による演奏の「第2番ロ短調」と、18人編成による「第1番ハ長調」を中央に置き、両翼の「ニ長調」の曲がいずれも3本のトランペットと1対のティンパニを含む大編成――という、均斉のとれた並べ方になっている。巧いプログラム編成だ。
 なお「第4番」で採られていた最大編成(23人編成)は次の通りであった――オーボエ3、ファゴット1、トランペット3、ティンパニ、チェンバロ、弦5部(チェロ2、コントラバス1を含む)。

 各作品の第1曲(序曲)では、彼らのCDにおける演奏とは違って、リピートは行なわれなかった。このため演奏時間は予想より短くなり、休憩15分を挟んで全4曲が終ったのは、8時45分だった。そのあとにアンコールとして、「第4番」と同じ編成で「復活祭オラトリオ」からの「シンフォニア」が演奏され、終演は何とか9時に近くなった。

 演奏は、一言で言えば、実に気持がいい。最初の「第3番」冒頭だけは、客が入ったホールのアコースティックに慣れなかったのか、オーケストラのバランスに明快さがちょっと足りず、響きが混濁するような気もしたけれど、間もなく軽やかで艶やかな音を取り戻し、そのあとは天馬空を行く感の演奏になって行った。
 その音の細部にはおそらく精密な考証に基づく構築がなされているのだろうが、それは私の知識の及ぶところではないから措くとして、とにかくこの演奏は、一種の至福のひとときといったようなものを体験させてくれたのである。

 後半の2曲における木管と弦との対比の鮮やかさなど、これはもうナマでしか味わえない響きの面白さであろう。その一方、フルートと弦5人で演奏された「第2番」の清澄な音色は、出だしからしてハッとさせられるような美しさであり、何か心身もろとも快い深みに引きこまれるような感覚に浸らせてくれたのであった。聴いた席は2階正面。 

1・10(火)イアン・ボストリッジ(T)のシューベルト歌曲集

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 このホールでは、ほぼ3年ぶりに聴くボストリッジ。前回マーラーなどを聴いた時にはどうもあまりしっくり来なかったが、今度のシューベルトは、良かった。

 彼の癖である左を向いたり右を向いたりしながら歌う忙しい動作が今回はやや抑制されていたためか、それともホールの響きが少し変わったか、左右の壁への音の跳ね返りが以前に比べ不思議なほど感じられなかったので、ピアノと彼との声が纏まって聞こえたということもあろう。
 だがもちろん、素晴らしさの基は、彼の歌唱表現の精妙さにある。それは非常に感情の振幅の激しい、強烈な表現にあふれたものだ。

 プログラムは、シューベルトの歌曲集「白鳥の歌」を中心に、その前にシュレヒタ詩の「水鏡」、ライトナー詩の「冬の夕べ」と「星」を置き、これらを休憩なしに続けるという構成が採られた。そして「白鳥の歌」は、レルシュターブとハイネの詩による13曲のみ――最後は「影法師」で終るという形になっていた。
 まあこれは、リサイタルでもCDでも、近年よくある形の一つだろう。

 ボストリッジの本領は、やはり「白鳥の歌」に入った瞬間から発揮されて来る。
 猛烈に速いテンポで歌われた「春のあこがれ」のあとに来る有名な「セレナード」が、あたかも孤独な人間のモノローグのように歌われたその解釈の大胆さに、まず魅力を感じてしまう。
 続く「わが宿」も、苦悩を絞り出すような表現が見事に強調されている。「遠い国で」の「きらめく夕星は 希望もなく沈んでゆく」(西野茂雄訳)の最後の「sinkender!」にこめられた声とピアノの表情の凄さ。

 「別れ」の歌の途中に2、3回織り込まれた、ためらうようなリタルダンドも、ただ転調を強調するためだけのものではおそらくなく、主人公の感情が揺れ動いているさまを表わすものだろう。
 昔、フィッシャー=ディースカウがこの軽快な歌の途中で突然微笑を浮かべるような声の表情を聞かせ、そこで音楽の色がガラリと一変したのに驚いたり感心したりしたことがあるが、それと同じような表現の巧みさである。

 「影法師」が暗く劇的に終結し、カーテンコールの拍手が盛り上がったあとに、アンコールとして予想通り――出版された歌曲集「白鳥の歌」の最終曲たる――「鳩の使い」(ザイドル詩)が歌われた。これがまた見事に「本編」とは一線を画すような、全く別の曲だという性格を強調するように、自由な雰囲気で描き出されたのにも感心させられる。
 そのあとにもう1曲、「月に寄す(D.296)」も歌われたが、これは王子ホールでのリサイタルで歌う「ゲーテの詩による歌曲集」との絡みで選ばれたものか?

 グレアム・ジョンソンのピアノが、出すぎず、しかし必要なことはすべて語り、安定して温かくボストリッジの歌を支えていた。先頃聴いたティル・フェルナー(パドモア・リサイタル)やゲロルト・フーバー(ゲルハーヘル・リサイタル)のピアノに比べ、余程安心して聴いていられる。

 休憩無しで、8時15分頃終演。

1・8(日)下野竜也指揮読売日本交響楽団のドヴォルジャーク

    東京オペラシティコンサートホール  2時

 下野竜也と読売日響のドヴォルジャーク・シリーズ、これが第7回の由。「スラヴ舞曲第1番(作品46-1)」に始まり、交響曲の「第3番」と「新世界より」が演奏された。

 「第3番」は私の大好きな曲だ。ドヴォルジャーク特有の愉しい曲想であふれているし、第2楽章にはワーグナーの「ローエングリン」そっくりの音楽も出て来て面白い。昔スメターチェクの指揮したLPを聴いてすっかりファンになってしまったのだが、しかしどうもそれ以降、あれに匹敵する演奏にはなかなか出会えない・・・・。

 今日は定期でなく、マチネーのニューイヤーコンサートのようなものだったせいか、演奏が、これまでのシリーズでのものとは、ちょっと雰囲気が違う。
 1曲目の「スラヴ舞曲」も「第3番」も――少々粗いというか、気魄と密度においてやや隙間が感じられるというか。
 だが後半の「新世界交響曲」は――下野としては珍しく第1楽章提示部のリピートをしないという、些か簡略化(?)の演奏ではあったが――第1楽章の最後や第4楽章の大詰めでの、全身をぶつけるような力感は壮烈であった。

 音の響きが硬質で、潤いに欠けるように聞こえたのは、私が聴いていた2階正面の席のアコースティックの癖であろう。1階席後方の両翼側あたりでは、もっと飽和して量感を以って響いていたのではないかと思う。

 下野の指揮はもちろん先日の「ニューイヤー」とは大違いで、いつものように元気が良くて活気にあふれる。これが彼の身上だ。
 「新世界」のカーテンコールのさなか、例の甲高い声で「みなさーん、あけましておめでとうございまーす」と始め、場内をどっと沸かせる。「このあと、ロビーで鏡開きがあります。クルマでいらっしゃってる方以外の方は是非」とスピーチして客席を爆笑させ、再び威勢良く「スラヴ舞曲作品72の7」を演奏した。
 コンサートはそれでおしまい。終演後の鏡開きには、黒山のように人が集まっていた。

1・7(土)山下洋輔プロデュース~アン・アキコ・マイヤース

    東京オペラシティコンサートホール  6時

 「東京オペラシティ ニューイヤー・ジャズ・コンサート2012」の「山下洋輔プロデュース アン・アキコ・マイヤース初夢ヴァイオリン」と題されたコンサートを聴く。

 山下洋輔のピアノをナマで聴くのは、本当に久しぶりである。
 第1部でまず彼がソロで演奏し始めた瞬間、何といい音だろうかと思う。低音域をたっぷり響かせた豊麗でスケールの大きな和声感が素晴らしい。だがそれも束の間、次第に彼らしいダイナミックな大暴れが演奏に拡がって来る。
 しかし、どんなに激しいパッセージを演奏する時でも、昔と違ってやはり今の彼の演奏の表情には、丸みと、温かさと、余裕のようなものが溢れているようである。彼ももう70歳近いわけだから、ある意味ではそれも当然かもしれない。

 実は30年ほど昔、私はFM東京で、彼を主人公にしたドラマをプロデュースして制作したことがあった――ある男が、ピアノのある特定の一つの音の鍵盤に爆薬発火装置の電線を接続し、その一つの音だけを一切使わずにアドリブ演奏を十数分出来るか?と、山下洋輔に挑戦状を送る。山下はプロ根性でこの挑戦を受けて立ち、見事その音だけを使わずに、豪快華麗で長大なアドリブをやってのける――と、たしかそんなストーリーを、彼の演奏入りで構成したドラマだった。
 もちろんその話自体はフィクションだが、当時の彼は、そういう物語を発想させるにふさわしい、切れば血の出るような鮮烈な演奏をするピアニストとして評判だったのだ。

 で、今夜のコンサートだが、2曲目は、山下洋輔プロデュースによるこのシリーズの今年のゲストであるアン・アキコ・マイヤースが「荒城の月」を主題にしたソロを弾く。そして3曲目に2人の協演で、山下のオリジナル曲「エコー・オブ・グレイ」が演奏される。――と、第1部はそれだけで終る。
 正直言って、もっと山下の大暴れが聴きたかったし、アンとのデュオでも丁々発止たるアドリブの応酬が聞けるのかと楽しみにしていたのだが・・・・。2人の協演は演奏会の最後のアンコールでも「虹の彼方」が聴かれたが、これも美しい演奏ではあった(が、・・・・)。

 第2部では、アンが本名徹次指揮東京フィルと協演して、ガーシュウィンの「サマータイム」、デュークの「オータム・イン・ニューヨーク」、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」を弾く。
 このうち協奏曲のカデンツァはウィントン・マルサリス版とのことで、これを楽しみにしていた方も多かろう。私も実はそれがお目当ての一つだったのだが、案に相違して、さほどのこともございませんねえという程度のものに終った。
 ジャズ関係の音楽家がクラシックに手を出す時、妙に様式に遠慮してしまうことがあるようだが、もっと思い切って大胆不敵に、己のスタイルでクラシックに割って入って来てはくれないものだろうか? 
 これなら、ナイジェル・ケネディがCDに入れていたモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第4番」第1楽章でのカデンツァや、ヒラリー・ハーンが横浜で聴かせたベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」第2楽章最後でのカデンツァの方が、よほど斬新だった。
 なおソロとオケとのアンコール曲は、チャップリンの「スマイル」(挟間美帆編曲)。

 アン・アキコ・マイヤースも、80年代後半に初来日した時には初々しい少女だったが、今や堂々たる女史。体形は変わっていないが、3月にはおめでたとやら。茶目っ気のある片言の日本語は昔ながらのもの。演奏はカンタービレを利かせた流麗なスタイルで、どれも甘美な、時には耽美的な世界をも(モーツァルトの第2楽章でさえ!)感じさせる。
 彼女のお母さん(ヤスコさんだそうだ)の小学生時代の家が、山下家と隣同士だったという話は、今夜初めて聞いた。

2012・1・3(火)NHKニューイヤーオペラコンサート

    NHKホール  7時

 今年が第55回になる由。
 第1回は1958年、NHKの内幸町局舎時代の第1スタジオから、金子登指揮東京フィルと東京放送合唱団、砂原美智子、川崎静子、藤原義江、栗本正ら10人の歌手の出演で放送されたとのこと(プログラム掲載の資料による)。

 今年はソロ歌手21、合唱団4、バレエ団1、踊り手2、という規模だ。もっとも、出演するソロ歌手の数は、1960年代に入って以降は、大体この規模だろう。
 最近では、前年に出演した歌手のうち約半数は入れ替わるようだ。しかし中には、今年まで7年連続出場の福井敬(T)、6年連続出場の堀内康雄(Br)といった人たちもいる(以前には立川清登、五十嵐喜芳、佐藤しのぶなど、20年くらいの連続出場を果たしていた歌手たちも多かった――同資料)。

 今年も錚々たる顔ぶれだし、みんな一所懸命歌っていたことは確かだが、その中で私にとって特に印象の強かった人たちを挙げるとすれば――まず冒頭で「だれも寝てはならぬ」を歌った福井敬。
 この人は、やはり声の響かせ方が巧いなと思う。1階席で聴いていると、声が強靭に、まっすぐ伸びて来る。そのあとに続いた村上敏明、森麻季、林美智子、成田博之といった人たちの声がみんな舞台の中に引っ込んでしまったようなもどかしい響きで聞こえていた(変なPAで増幅されるよりはずっとマシだが)のに比べると――もちろん立ち位置が影響するのは事実だが――やはり迫力が違う、という感だ。

 そして、ソロで歌った歌手の中では何と言っても、大トリ的待遇で「サムソンとデリラ」の「君が御声にわが心開く」を歌った藤村実穂子。
 これはもう、歌唱にあふれる緊迫感からしてずば抜けたものだ。ホール全体を彼女の存在1点に集中させてしまい、聴衆が息を呑んで聴き入るという雰囲気を作り出す。バイロイトやウィーンなど世界の檜舞台で主役を歌い場数を踏んでいる人ならではのド迫力、というべきだろう。

 アンサンブルとともに歌った人の中ではまず、第2幕後半をオペラ形式で上演した「ラ・ボエーム」の中でムゼッタを歌った中嶋彰子の華やかな存在感が目立つ。もし演出がモダンなものだったら、彼女の演技力はもっと光ったであろう。
 また例年重鎮的な存在を示す堀内康雄は、今年は「トスカ」の第1幕幕切れの「テ・デウム」を歌ったが、ここはどんなスカルピアでも合唱にマスクされてしまう個所なので、ナマで聞く限りは、いつもほどには映えなかった。
 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のフィナーレでザックスを歌った妻屋秀和は、スケールの大きさを感じさせて好ましい。ただ、この3人とも、もし新国立劇場のようなまともなアコースティックのホールで歌ったなら、更に素晴らしかったはずである。

 なお「ラ・ボエーム」で、「ニューイヤー」には1970年以来の出演という平野忠彦がアルチンドロ役で「特別出演」し、すこぶる滋味豊かな歌と演技を見せていたのが懐かしかった。
 一方、人気者ゆえにあえて苦言を呈したいのが森麻季。「椿姫」のヴィオレッタを歌ったが、「ああ、そはかの人か」のパウゼの部分が全く生きた「間」になっておらず、歌がだれてしまうのだ。早いうちに修練をして欲しいものである。

 合唱には、新国立劇場合唱団、二期会合唱団、藤原歌劇団合唱部、NHK東京児童合唱団が出ていた。曲別に分担して歌ったのか、混合で歌ったのかは定かでないが、「カヴァレリア・ルスティカーナ」の合唱の音色に透明感があって、これが一番美しかった。

 バレエは「牧神の午後」で、後藤晴雄と上野水香と東京バレエ団が出演したが、ニジンスキーの振付ともども、何となく冴えない幕間劇のような扱いになっていて、せっかくの企画もあまり生きない印象である。しかもここだけ音楽に録音が使われ、しかもそれが比較的か細い音量で流れ続けたこともあって、ドビュッシーの美しいピアニッシモも遥か彼方の、生命のない機械的な音と化してしまった。これは失敗だろう。

 オペラでの演奏は、下野竜也指揮の東京フィル。
 言っちゃ何だが、こんなに生気のない、硬直した指揮をした下野は、初めて聞いた。およそ彼らしからぬ指揮である。歌手に合わせなければならないとか、生放送の進行に合わせなければとか、いろいろ慣れない裏の事情もあったのだろう。普段の彼の指揮を知るだけに、この場合は些か同情してしまった次第。まあ、できるだけ早くオペラに慣れて欲しいところだ。

 もう一つ、司会のこと。NHKらしく騒々しくないのはもちろん好ましいスタイルだが、2人の会話までが台本マル読み調になるのもNHKの悪しきスタイルだ。そのため、感動したとか何とかいうコメントまでもが、いかにも見え透いた作りものに感じられ、聞いていると照れ臭くなってムズムズして来る。これなら、1人語りの朗読調による紹介の方がよほどすっきりするだろう。
 また、野村正育アナが特定の歌手2人ほどに「日本を代表する」と紹介を付けていた(読んでいた?)が、これはあのような場では、明らかに他の歌手たちへの非礼になろう。
 そして更に、昨年の大震災で被災した人々への激励をこめるのはもちろん結構だが、といって作品や歌詞の内容を殊更に、無理に――時には本来の意味を曲げて――それに結びつけて紹介するのは、むしろわざとらしくて不自然であろう。

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」