2017-07

12・28(水)宮本文昭指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の「第9」

     東京文化会館大ホール  7時半

 声楽ソロには澤畑恵美(S)坂本朱(A)大槻孝志(T)河野克典(B)、合唱には東京シティ・フィル・コーアが協演。(私の席からは明確には見えなかったが)弦14型、オリジナル2管編成、といったところだろう。

 宮本文昭の「第9」を聴くのは、私はこれが初めてだ。
 衒いなく丁寧に、まとまりのいい音楽をつくる。第1楽章展開部冒頭のppでの管楽器群のバランスの良さ、あるいは第3楽章の最初の方でアダージョから初めてアンダンテのニ長調に変わる直前の個所で、コントラバスがそっとニ音で滑り込んで来るあたりの細やかな響きなど、その例と言えよう。
 その一方、感情を思い切り爆発させる個所もあるのはもちろんだが、しかし想像するところ、彼が自分の頭の中で鳴り響いている音楽と同じように現実のオーケストラを鳴らすというところまでは、行かなかったのではないか? 

 第2楽章などはかなり立派な音楽になっていたと思うけれど、第3楽章中盤以降になると、音楽の表情の変化や色合いが薄れて来て、何か単調に感じられて来てしまうのだ。とりわけフィナーレは大熱演で、力がこもっていたことは事実だが、残念ながら形のみにとどまり、しかも乾いた演奏に聞こえたという印象を拭いきれない。
 それは、「第9」という難物中の難物、音楽史上の巨大な城砦に対する彼の指揮者としての経験から来る問題なのか、あるいはシティ・フィルの現在の実力水準から生じる問題なのか? いずれにせよ、将来解決されることを信じたいところである。

12・26(月)大野和士指揮東京都交響楽団の「第9」

    サントリーホール  7時

 「第9」の前に、ブラームスの「アルト・ラプソディ」がおかれていた。
 この組み合わせが最良かどうかは別として、私はこの曲が大好きなので(特に第3部!)、実は楽しみにしていたのである。今回は、「第9」をも歌う小山由美(メゾ・ソプラノ)と東京オペラシンガーズが協演した。

 演奏が始まった瞬間から、都響は今日もいい音を出しているな、と感じる。都響を聴くのは今月に入ってこれが3度目だが、このところ、悉く快調な演奏である。
 大野和士の、この曲の叙情的な陰翳を直裁に浮彫りにした指揮もいい。小山由美の声は、この曲には少し明るいかなという感もあるのだが、それはこちらの好みに過ぎぬ。第2部までの暗鬱さと、第3部での愁眉を開くような感情との対比は、彼女の歌唱はよくそれらを伝えていたように思う。

 ベートーヴェンの「第9」では、天羽明惠(S)、市原多朗(T)、堀内康雄(B)が加わった。この独唱陣は、なかなか豪華な顔ぶれだ。
 東京オペラシンガーズはかなりの大編成だったが、響きに透徹した美しさがあって、これも爽快な歌唱を聴かせてくれた。

 そして大野と都響――弦楽器群にふわりとしたふくらみと拡がり感があるのは最近の都響の特徴だが、今日の演奏ではとりわけテュッティの際に内声部の交錯をあまりリアルに出すことなく、まろやかに一体となった響きになっていたのが目立った(これは、悲劇的な性格を持つ第1楽章では綺麗に聞こえ過ぎる感もあったが)。
 しかし、それでいながら第4楽章冒頭のレシタティーフにおけるように、チェロやコントラバスが前面に躍り出た時には、実に艶やかで抜けの良い音色を聞かせる。これがまた面白い魅力である。

 弦は16型で、木管も倍管(4本)編成を採っているので、量感は極めて豊かである。こういう「第9」も、久しぶりに聴くといいものだ。特に第3楽章の豊麗さ、第4楽章の昂揚感という点では、私は大編成の演奏の方に大きな魅力を感じている。もちろん、演奏によりけりだが――。

 大野和士の指揮も、強靭なエネルギーを備えたものだ。楽曲全体をバランスよく隙なく弛緩なく構築できる力量という点では、今やわが国随一であろう。いや、世界でも屈指ではないかとさえ思えるほどである。
 第4楽章のテンポは速めで、息もつかせぬほどの勢いで押す。終り近くのプレスト(ブライトコップ旧版ではプレスティシモ)の個所など、フルトヴェングラーもかくやの猛速で、オーケストラもコーラスも時に追いつけなくなるような感もあったが、この大曲の最後の忘我的熱狂は、やはりこういうテンポであって欲しいものである。

   モーストリー・クラシック3月号 公演レビュー

12・26(月)オペラ映画「魔弾の射手」

   シネマート六本木試写室  3時半

 ウェーバーの名作「魔弾の射手」を、演出家イェンス・ノイベルト(ドレスデン生れ)が監督して製作した映画。
 ライブ・ビューイング式のものではなく、完全な映画のスタイルで作られ、音響効果もサラウンドになっているので迫力があり、なかなか面白い。

 この演出では、舞台が1813年のドレスデン――ナポレオン軍とプロシア軍とのドレスデン攻防戦直後の時代(諸国民戦争の直前)――に設定されているところに特徴があり、戦死者の散乱する光景があちこちに織り込まれている。主人公の「気の弱い青年軍人」マックスがこの戦争による心理的後遺症に陥っているという設定も、このオペラの演出としては異色のものだろう。

 特にこの作品におけるロマンティック・オペラの真髄ともいうべき場面――魔弾が製造される深夜の「狼谷」の場面では、累々たる戦死者の山が不気味な雰囲気を作り出す。少々気持の悪いところもあるけれど、オカルト的な情景と音響演出がさすが映画らしく効果満点で、こればかりはとても舞台の及ぶところではない。
 第3幕最終場面で、射撃競技の弊害を諌め、武力の無意味さを説きに現れる「森の隠者」が、うしろに農民を含む一般の家族たち――現在なら「一般国民たち」という存在だろう――を従えているあたりも、ノイベルトのメッセージを感じさせて、興味深い。

 出演はもちろん本職のオペラ歌手たち。エンヒェン役の新人レグラ・ミューレマン(初々しい)以外は、すべて錚々たるベテランばかり。
 ミヒャエル・フォッレが歌い演じる「悪狩人」カスパルよりも、ミヒャエル・ケーニヒ演じるマックスの方がよほど薄汚い悪人ヅラに見えたり、ルネ・パーペ演じる「森の隠者」が何か堂々として強そうだったり、という変わったところもあるけれど、とにかくみんな演技が巧い! 
 カメラワークはアップが多く、とりわけ狼谷でのフォッレとケーニヒは、音楽に合わせて激しく動き回るカメラに連続してアップで捉えられる。だが2人とも、それに堪え得る演技力の持主なのである。外国のオペラ歌手は本当に演技が巧い。日本の歌手たちも、見習っていただきたいものである。

 他に、フランツ・グルントヘーバーが領主オットカール役で、オラフ・ベーアが農夫キリアン役で健在なところを見せていた。「清純な少女」アガーテはユリアーネ・バンゼで、この人だけはちょっと表現力不足か?

 演奏は、ダニエル・ハーディング指揮のロンドン交響楽団。
 序曲の後半あたりにはテンポの誇張があって、またかと思わされたが、オペラ本体は珍しく率直ないいテンポで押していた。「狼谷の場面」など、極めて迫力ある演奏である。第3幕の「すみれ色の冠」「狩人の合唱」の2つの合唱曲は、いつ聞いてもいい曲だ(私の小学校時代には、これらは日本語の歌詞をつけて歌わされたものだが・・・・)。

 この映画で最も好ましいのは、原作の音楽が大切にされていることだ。この種の映画にありがちな、原曲を切り刻んだり順序を入れ替えたりということが、全くといっていいほど行われていない。したがって、原曲のよさを存分に味わうことができる。

 上映時間2時間24分。3月公開予定とのこと。

12・25(日)劇団四季の「オペラ座の怪人」

    電通四季劇場・海  1時

 ちょうど20年前の夏、ブロードウェイでこのアンドリュー・ロイド=ウェッバーの有名なミュージカルを観て、ラストシーンではガラにもなく(?)涙が止まらなくなったものだったが・・・・。

 今回の上演は、原演出がブロードウェイと同じハロルド・プリンス、日本版演出が浅利慶太だが、なんせ再演を重ねたプロダクションだから、舞台に隙が多くなっているのも無理はなかろう。
 それにしても、日本のミュージカル、もう少し歌が上手くならないものだろうか? いつまでもこの水準に甘んじていたのでは・・・・。

12・24(土)バッハ・コレギウム・ジャパンの「メサイア」

   サントリーホール  3時

 ヘンデルの「メサイア」のナマを聴きに行ったのは、本当に久しぶり。十数年ぶりかもしれない。世界に名の轟く鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏だから、耳の垢を落すにはこれ以上のものはないだろう。ホールは満席である。

 「ハレルヤ・コーラス」で起立するなどという習慣は、もうとっくに廃れたのかと思っていたが、やはり20人ほどのお客さんが立ち上がっていた。まあ、起立したければ、するがいいだろう。
 60年代あたりまでは、まだ起立するのがマナーだ、などと言われていたと記憶する。私は生意気だった学生時代から、この曲で立ち上がるのが嫌でたまらなかった。初演の時に英国王ジョージ2世が感動して立ち上がったとかいう伝説があるからといって、英国人ならともかく、何も日本人が真似しなくてもいいだろうに、と思っていた。しかし、そうすると周囲には必ず「この曲にまつわる有名な話を知らんとは無知な奴だ、起立すべきルールを知らんとは」という顔でジロリと見る人がいるのである。
 それが嫌だから、「メサイア」なんか聞きに行くものか、などと突っ張っていたこともあるくらいなのだ。――今はいい時代になったものである(?)。みんなで座ってれば怖くない。

 余談はともかく、今日の演奏は、ソリストがミリアム・アラン(S)、クリント・ファン・デア・リンデ(CT)、中嶋克彦(T)、ステファン・マクラウド(B)。コンサート・ミストレスは若松夏美。それに鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン。

 正味2時間半の長丁場を緩みなく押して行く演奏は、見事である。強いて言えば、もう少し全体の演奏構築に起伏があってもいいのではないかという気もするし、山場を越した後の第3部では、エピローグ的なイメージが出て来てしまった感もある。だが、その山場を作る第2部締め括りの「ハレルヤ・コーラス」での昂揚感はやはり立派なものだった。

 何より、オーケストラの安定感――トランペットのみはやはり「ちょっと」ではあったけれども、これは触れないことにしよう――と、それにコーラスの素晴らしさ、特に女声の透明な美しさが、この曲の良さを浮彫りにしていた。
 小編成ながら、この大ホールを満たす力感も充分だったが、それは単なる音量的な問題でなく、演奏そのものの密度と量感によるものなのである。爽やかな「メサイア」であった。

 第1部あとの20分の休憩1回を挟み、5時55分終演。

12・20(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団のショスタコーヴィチ

   サントリーホール  7時

 定期のBシリーズで、ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」と、交響曲第12番「1917年」が演奏された。

 おそろしくヴォルテージの高い演奏である。両曲ともに火を吐くような気魄が漲った演奏で、その緊張感には息苦しくなるほどだ。
 協奏曲でソロを弾いたジュリアン・ラクリンの、フィナーレでの忘我的な昂揚と追い込みは凄まじく、彼の最近の好調ぶりを窺わせる。もちろん、インバルと都響の煽りも猛烈で、これほどソリストと指揮者とオーケストラが三者一体となって燃えた演奏は、そうそうは聴けない類いのものではなかろうか。

 交響曲でも、近年のインバルの厳しい造型力と、都響の安定した実力とが相まって、極めて密度の濃い演奏となった。
 宏大なスケールを感じさせる演奏というよりは、むしろ逆にぎっしりと凝縮したイメージであり、それが恰も怒れるハリネズミのように全身をケバ立たせて怒号するのだから、聴いていると息が詰まるような思いになるのも当然だろう。些かも長さを感じさせなかったという点で、やはりこれは非凡な演奏と言えよう。

 このプログラムで、会場はほぼ満席。インバルと都響への期待が高まっている証拠であろう。先頃のフルシャ、今回のインバル、こういう好い演奏が都響に続けば、聴衆は自然について行くものである。

12・14(水)シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団

   サントリーホール  7時

 ヒンデミットの「ウェーバーの主題による交響的変容」に始まり、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロはニコライ・ルガンスキー)と続き、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」で閉じられるプログラム。

 1階18列あたりの席で聴くことはほとんどないので、今日のデュトワとN響が創り出した柔らかくスリムな、内声部が透けて見えるような響きの演奏が、もともとそういう特徴を持っていたものか、音がやや拡散して聞こえる位置ゆえにそう感じられたのかは、即断はし難い。だが、前者であることは、多分間違いないだろう。

 バルトークの第3楽章や第4楽章で奏でられた弦楽器群の音色など、N響がここまでやるかと思わせるほど、清澄で透明で、しかも輝きがあって美しい。
 いや、この個所だけではない。この曲全体にそういう音色があふれていた。それは所謂民族色には乏しく、むしろフランスの印象派的なイメージを感じさせてしまうものの、この曲の多彩な音色の変化の醍醐味を充分に愉しませてくれる演奏だったのである。

 これはプロコフィエフでも同様だったが、ただ最初のヒンデミットは、さまざまに入り乱れる声部があまり際立たず、単に豊麗な響きの中に混然と包み込まれてしまう印象もなくはなかった・・・・。
 だがこれこそ、聴く位置によって大きく印象が変わるかもしれない。

 前半の2曲では、エネルギー性というか、勢いのよさが驚異的だ。ヒンデミットでは、最初から最後までテンポよく快速に、一気に驀進した。またプロコフィエフでは、ルガンスキーの生き生きと躍動するピアノを包み込み、煽りたて、特に第3楽章では猛進に次ぐ猛進を重ね、熱狂の裡に鮮やかな終結を作る。
 デュトワの鮮やかな指揮もさることながら、何しろN響の巧いこと。最後の決めに持って行く追い込みでのオケの呼吸、テクニック、アンサンブルのバランスなどの見事さたるや、さすがのものと言うべきであろう。

    音楽の友2月号 演奏会評

12・13(火)ゲルハルト・オピッツのシューベルト・ピアノ作品集

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 久しぶりに、たっぷりとした響きのシューベルトが聴けた。

 「ピアノ・ソナタ(第1番) ホ長調 D157」「12のドイツ舞曲D790」「3つのピアノ曲D459A」「ピアノ・ソナタ(第5番)変イ長調 D557」「4つの即興曲D899(Op.90)」という、比較的珍しい構成のプログラム。
 どの曲にもオピッツ独特の重厚な風格と温かい情感があふれている。

 彼の演奏にかかると、シューベルトの若書きの作品にさえも「堂々たるおとなの風格」が導入されてしまい、それは面白いけれども、ある種のアンバランスを意識させられるのも確かだろう。
 しかし、晩年の名作「4つの即興曲」ともなれば、オピッツが紡ぎ出す厚みのある和声の豊麗さ、転調の響きの多彩さが、何と素晴しく生きることか! 
 どっしりした低音に支えられた和音群が、ゆっくりと揺らぎながらうつろいで行くのに浸っていると、これはもう何と言ったらいいか、至上の快感といった境地に引き込まれてしまう。

 こういう、分厚く落ち着いたシューベルトも、実に好いものである。

12・10(土)METライブビューイング フィリップ・グラス:「サティアグラハ」

   東劇  6時半
 
 サントリーホールから、銀座の東劇へ向かう。
 こちらはインド独立運動の指導者ガンディーの、南アフリカ滞在時代を描いたオペラ。

 私がMETの現場で観たのは初日公演(11月4日)だが、この映像は11月19日に録られたもの。
 改めて映像でじっくり観ると、ナマで観た時には分らなかった細かい部分がもう一度確認できる。出演者や作曲家へのインタビューがいつも面白く、参考になる。

 但し不思議なことに、こちらは第1幕の最初が、初日に比べ、ちょっと違うような気もする。あの時は時差ボケもあったから、あまり自信は無いが・・・・。
 しかし、どこかカットがあるのではなかろうか? 初日は30分の休憩が1回だったが、こちらは30分の休憩2回、にもかかわらず上演時間は初日に比べ15分しか伸びてないし・・・・。

 METでの上演と同様、歌詞の字幕は、やはり付いていない。
 METでの上演の際、若干の説明文が時々舞台後方に映写されることがあって、その訳は今回日本語字幕として入れられていたが、これは「歌詞の字幕」とは少しニュアンスが違う。ただし今回はそれとは別に、各場の最初に場面や時代についての簡単な説明が字幕で挿入されており、これは、ある程度参考になる。

 ――字幕が無いことについてのMETの説明は、「サンスクリット語によるヒンドゥー教の聖典《バガヴァッド・ギーター》の言葉が使われ・・・・そのため歌詞と舞台上の出来事には関連性が無い。これは、意味にとらわれず音として体験される歌詞と、歌詞の影響を受けずに語られる物語という作曲家フィリップ・グラスの意図を尊重したためだ」とのこと。

 解ったような解らないような説明で、はあ左様でございますか、と言うしかないが、「歌詞の影響を受けずに語られる物語」とは何か? 
 そもそもフィリップ・グラスは、作曲した時にその言葉の意味を知っていたのか、どうなのか? 
 古代インドの聖典の中に、マハトマ・ガンディーの南アフリカ時代の出来事など語られているはずもなかろうから、聖典の「教え」を引用する部分はありとしても、その他の大部分は、物語とは関係の無いお経みたいな言葉、ということになるのだろうか? 
 そのあたりの説明は、挿入インタビューでもほとんど触れられていなかった。

 だがそれはともかくとして、このオペラ、音楽と演出はやはり面白い。
 フィリップ・グラスのお家芸たるミニマル・ミュージックの、執拗な音の反復から生まれる迫力が異様に物凄く、底知れぬ不思議な陶酔感を呼ぶ。繰り返しが延々と続くので、短気な人には我慢できないかもしれないが、嵌まると実に良い気持になる。
 無窮の青空を背景にガンディーが歌うラストシーンは、美しさと、白々とした寂寥感と、指導者としての彼の孤独感が交錯し、この上なく感動的だ。
 滅多に観られない、滅多に聞けないオペラだし、話の種に観ておいても損はなかろう。

 10時25分頃終映。
 帰宅した頃には、皆既月食(月蝕)がたけなわ。壮大な天体ショーには違いないが、やはり不気味だ。昔の人があれこれ不吉な想像をしたのもむべなるかな、という感じがする。

 そういえば、「コロンブスの月蝕物語」とか、ソロモン王の秘宝ナントカとか、昔の本には西洋人がこの月蝕を己の魔術と見せかけて「未開の土人、蛮人」を威嚇する場面が良く出て来たものだった。しかし、あれも畢竟、西欧人種の思い上がり、優越感から生まれた話ではなかろうか? まあ日本にも、「冒険ダン吉」のような本があったのは事実だが。
 英国の人種的偏見と弾圧に立ち向かったガンディーのオペラなんかを観たあとでは、月食を見てさえ、いろいろな連想が生まれて来る。

12・10(土)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  2時

 ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、モーツァルトの交響曲第31番「パリ」、ベルクの「ルル」組曲、最後にラヴェルの「ラ・ヴァルス」というプログラム。

 最近いよいよ調子を上げている山田和樹のいろいろな側面が聴かれて、すこぶる興味深いコンサートだった。
 日本フィルも、先月のラザレフ指揮に続いて好調の水準を保った定期。これだけ豊麗な音を出す日本フィルは――先頃広上淳一が指揮した時にも聴けたものだが――数年前には考えられなかっただろう。

 最初の「牧神」は、柔らかく美しかったが、分厚い音で濃厚で、やや重々しい。官能美にもロマン派的な色合いを感じさせるというか。
 最後の「ラ・ヴァルス」にいたっては更に豪壮雄大で、ドイツ後期ロマン派的な、重厚な音詩となった。幕切れは雷鳴轟くがごとく、演奏効果は上々だが、フランスものとしては、さて・・・・? 
 だが解釈の問題は別として、若い山田和樹の意気込みを示すという点では、非常に興味深い演奏である。もし彼がフランスのオーケストラをこのように指揮したなら、あの国のオケ特有の個性が加味されて、明るい音色の豪華壮麗な演奏が創られるのではないかという気もする。

 その点、今日の演奏の中で最も印象深かったのは、「ルル」の組曲だ。
 これも20世紀の近代音楽としての尖った演奏ではなく、既にドイツ後期ロマン派の流れを汲む古典に属する作品としての響きにあふれた演奏だったが、極めてスケールが大きく、特に大詰めの場面の音楽には魔性的な不気味さ、破滅的な力感が聴き取れて、山田の力量を感じさせる。

 声楽ソリストとして林正子が協演、ルルの歌と幕切れのゲシュヴィッツ伯爵令嬢の歌とを受け持った。
 ただ、後者はもともと伯爵令嬢の断末魔の歌ともいうべきものなのだから、あのような派手な歌い方でなく、もっと悲劇的かつ詠嘆的に歌われるべきだと思うのだが、どうだろう? 
 彼女は今日が誕生日だったそうで、カーテンコールの時には山田和樹から花束が贈られ、客席もろとも盛り上がっていた。

 2曲目のモーツァルトも、ノン・ヴィブラート奏法と、大きめの編成による厚い音と、エネルギー感のある演奏により、特に第1楽章では押しの強い華やかさが出ていて、楽しめた。
 この指揮者は、これまで私が聴いた演奏の中では、やはりドイツ系の壮大な音楽の方に強みを発揮するように思われるが――即断は禁物。

12・9(金)クリスティアン・ゲアハーアーのマーラー歌曲集

   トッパンホール  7時

 バリトンのChristian Gerhaher――日本での公式表記はどうやら「ゲルハーヘル」に落ち着いてしまったようだが、ドイツのジャーナリスト筋からは「ゲアハーアーがオリジナルに一番近い」と言われているので、それに従うことにする(ORFのアナウンサーの発音でも「ゲアハー(そのあとは呑み込み気味)」と聞こえるくらいだし)。

 そのゲアハーアーが、ピアノのゲロルト・フーバーと協演して、マーラーの歌曲集を歌ってくれた。
 冒頭に「さすらう若人の歌」、最後に「亡き子をしのぶ歌」。その間に「子供の魔法の角笛」から休憩を挟んで合計10曲。アンコールには「原光」。

 ゲアハーアーは、かつて出て来た頃には、声から歌い方から師のフィッシャー=ディースカウに生き写しで、こうも似るものかと驚かされたものだ。
 最近はだいぶその気も薄れて来たようだが、それでも「さすらう若人の歌」など、目を閉じて聴いていると、昔エンジェル・レコードで擦り切れるほど聴いたフィッシャー=ディースカウの表現を髣髴とさせるところがいくつもある。

 といってそれは決して物真似の類には聞こえず、あくまで「師譲りの手法」と感じられる段階にまで至っているのだから、結構だろう。
 歌詞のひとつひとつを明晰に表現し、激しい感情の爆発の個所では声をまっすぐに伸ばして盛り上げて行き、苦悩や悲しみの個所ではあたかも呻くようなモノローグのごとく声を沈潜させるが、その対比と幅が非常に大きいため、歌唱は素晴しく劇的なものになる。1曲1曲に強い緊張感があふれ、ただの1ヶ所たりとも弛緩するところが無いというあたりにも、ゲアハーアーの力量を感じさせる。
 ――まあ、これらもすべて、先生譲りの美点と言えるべきものだろうが。

 「この歌をつくったのはだれ?」や「塔の囚人の歌」や「浮世の暮らし」の最後の決めの鮮やかさなど、胸のすくような感を、もしくは強烈な悲劇性を与えるものだった。

 ゲロルト・フーバーのピアノが、これまた強い自己主張を押し出している。あたかもオーケストラをピアノで描き出そうとするかのように、激烈な起伏を盛り込む。
 「夏の歌い手交替」の最後といい、「いたずらっ子をしつけるには」といい、「ラインの伝説」といい、歌よりもピアノが主役だ、と言わんばかりの物凄さだ。たしかに、「番兵の夜の歌」での高潮個所など、あの激したバリトン・ソロと渡り合うには、たしかにあのくらいの凄まじいピアノでなければならないだろう。

 とはいえ、「さすらう若人の歌」の1曲目など、いくら何でもやり過ぎではないのか? 
 「いとしいひとがお嫁に行く日は・・・・ぼくはひとり部屋にこもって泣きぬれる」とバリトンが静かに歌う時、何故ピアノがあのように激しく跳ねなければならないのか、理解に苦しむ。心の奥底に燃える火をピアノが表現しているのだ、という解釈は、穿ちすぎだろう。それに、歌との座りも悪くなるし。

 だがフーバーは、ゲアハーアーとは何度も協演して気の合った仲だ。それなりの意図があるのだろう。
 とにかく、そのピアノの巧いのは事実だ。「塔の囚人の歌」での乙女の歌詞のバックに流れるまろやかな音色と、沸き起こる恋心を暗示する上行音階の動き、あるいは「シュトラスブルクの砦」での角笛のエコーの描写など、見事なものである。

      ⇒音楽の友2月号 演奏会評
 

12・7(水)ヤクブ・フルシャ指揮東京都交響楽団

   サントリーホール  7時

 ただ1回の演奏会ではもったいないくらいだ。

 首席客演指揮者のヤクブ・フルシャがドヴォルジャークの「スターバト・マーテル」を振ったが、これが素晴しい出来。
 最初の滑り出しこそ少し生硬だったものの、次第に音楽がしっとりと温かくまとまり始め、中盤以降は今年の都響の定期の中でも屈指の演奏となって行った。

 転回点となったのは、合唱とオーケストラのみで演奏される第5曲あたりからだったろうか。第6曲以降は、端正なつくりの裡に柔らかく愛と悲しみを紡ぎ上げるといった演奏が展開され、ドヴォルジャークの音楽の美しさが背に迫るものを感じさせる。
 最後の第10曲、初めて出現する壮大な昂揚のあと、あたかも魂が静かに天に昇って行くかのような終結個所で、フルシャと都響が聴かせた演奏の――温かい安らぎと慰めに満たされた演奏の見事さ。この一瞬に、今夜の演奏のすべてが集約された、と言っていいかもしれない。

 もし第2回の演奏があったら、その時は冒頭から完璧な演奏が繰り広げられることは、間違いない。1回ではもったいない、と思わせられた所以である。

 フルシャはチェコ生れ、未だ30歳の若さだが、昨年12月定期でのマルティヌーの「第3交響曲」とといい、今回の「スターバト・マーテル」といい、素晴しい感性を持った指揮である。
 都響も、近年とみに好調さを示す弦を中心に、今回も良い響きの音楽を聴かせてくれた。嬉しい驚きは、久しぶりに聴いた晋友会合唱団(清水敬一指揮)の充実ぶり。チェコから招いた声楽ソリストたちよりも、むしろこちらの方が主役といってもいいほどの存在感を示していた。

 そのソリストたちというのは、シモナ・シャトゥロヴァー(ソプラノ)、ヤナ・ヴァリンゲロヴァー(メゾ・ソプラノ)、トマシュ・ユハース(テノール)、ペテル・ミクラーシュ(バス)。――このうち、テノールだけは、どうも情緒過多というか、聞かせどころの第6曲などでは「感極まった」スタイルの歌いぶりで(これは癖だろう)、一人だけ浮いた感があった。

 それにしても、都響がフルシャを首席客演指揮者に選んだのは卓見と言って然るべきだろう。惜しむらくは、都響を振りに来るのが年1回。次は来年12月のバルトークまで待たなくてはならぬ。
 せめて来年3月のプラハ・フィルハーモニア管との来日(プログラムが平凡なのが残念だが)を楽しみにするか。

      →モーストリークラシック3月号 公演レビュー

12・6(火)マーク・パドモアのシューベルト(3)「白鳥の歌」

   トッパンホール  7時

 前2回のリサイタルで、ティル・フェルナーは、パドモアの伴奏者として――いや、シューベルトの歌曲の場合にはピアノは「伴奏」どころではなく、歌と同等の存在であるはずなのだが、フェルナーは些か几帳面に端正に、控えめに過ぎていたかもしれない。
 パドモアがあまりに激情的に主人公の性格を表出するので、フェルナーはそれを引き締める役割を狙っていたのかも――という見方は、穿ち過ぎだろう。

 とにかく最後にそのフェルナーの見せ場もひとつ設けようということか、今日は最初に彼がソロでシューマンの「子供の情景」を弾いた。
 いかにも彼らしく、すっきりとした演奏である。淡白というわけではないのだが、何かしら覚めた生真面目さのようなものが演奏全体を支配している。馥郁と香るようなシューマンとは程遠い。

 こういうタイプのシューマンは、あまり私の好みではないが、たぶん手練手管の演奏に食傷したあとでこういう演奏を聴けば、極めて新鮮に感じられるだろう。
 いずれにせよ、休憩なしにシューベルトの「白鳥の歌」に移ったわりには、この2つの曲の相互の関連性といったものは、あまり明確には感じ取ることは出来なかった。

 「白鳥の歌」は、前2作と違って特定のストーリー性はない歌曲集だが、それでもすべての歌手が秘術を尽くして全14曲の流れをさまざまに構築する。
 パドモアは、多くの歌手が行なうように第8曲「アトラス」に全曲の頂点を置き、第13曲「影法師」で最後の暗い昂揚を築いた。

 それはそれで成功していたが、彼の歌唱スタイルがどれも共通したパターンの連続であるため、やや多彩さに不足するきらいもある。それにこの人、やはり基本的に「叫び過ぎ」ではないか? リサイタルを3回連続して聴くと、少々食傷気味になる。
 「影法師」が不気味な緊張で終わったあとに突如として出現する明るい曲想の「鳩の使い」など、浄化されたエンディングの性格か、あるいは解放感を持ったエピローグ的な性格を持って歌われたなら、全曲の――同時に「3大歌曲集」の締め括りとしていっそう感動的になっただろうと思うのだが・・・・。

 フェルナーも「アトラス」ではパワーを全開、パドモアの声を掻き消さんばかりのフォルティシモを叩きつけたが、些か唐突な感もある。

12・5(月)クリスマス・コンサート

   東京カテドラル関口教会聖マリア大聖堂(目白)  7時

 齋藤千夏(ソプラノ、どちらかといえばメゾ・ソプラノ的な音色だが)、アレクセイ・トカレフ(トランペット)ほか、弦楽四重奏やオルガンも加わったコンサート。

 知己の人も出ているし、知己のジャーマネも絡んでいるから、久しぶりでクリスマス・キャロルでも聴いてみようか、と出かけたのだが――演奏者のみなさんには悪いが、あの教会の木の堅いベンチは、クッションを敷いて腰掛けたとしても、たとえ30分でも今の私の腰には痛くて耐えられないことが分った・・・・。

12・4(日)マーク・パドモアのシューベルト(2)「冬の旅」

   トッパンホール  5時

 斬新な表現の「冬の旅」だ。

 パドモアが描き出すのは、感情の起伏の非常に激しい主人公である。
 怒り、激情、空しさ、優しさ、詠嘆、絶望といった心の動きが、ソット・ヴォーチェから絶叫に近いフォルティシモにいたる振幅の大きな歌唱により、劇的に表現されて行く。

 第1曲の「お休み」は基本的にソット・ヴォーチェで歌われ、恋人に秘かに別れを告げて去ろうとする主人公の挨拶がきわめて優しく、いとおしむような感情に満ちて表現されているのが非常に印象的だが、ここから物語が始められたあと、主人公の気持がみるみる激して行くという歌唱表現が面白い。

 第6曲「あふれる水」の最後「僕の涙が熱く燃えたら、そこに僕の恋人の家がある」は怒りの爆発のように表現されるし、第7曲「川の上」の最後の「氷の下で激しい流れがたぎっているのではないか?」も、こみあげる激情を抑え切れなくなったように歌われる。
 第11曲「春の夢」も、冒頭は明るく出ながら、「だが雄鶏が鳴き」で突然激し、次の節では突然再び深い詠嘆に沈む。もちろんこれらは譜面と歌詞に忠実に従った演奏には違いないが、これほど感情の変化を激しく対比させた歌唱は、そうたくさんは聞かれないだろう。

 第18曲「嵐の朝」が絶叫といえるほどの激烈な歌唱でつくられたあと、次第に沈潜に転じて行くパドモアの設定が巧い。
 第21曲「旅籠屋」ではどうしようもない悲しみの表現を強調、次の「勇気」では半ば自棄的な興奮を告白、「幻の太陽」は終始抑制した表情で、最後の「辻音楽師」の寂寥感への伏線をつくる。

 これは歌詞の内容を精妙に歌唱に反映させ、感情の動きを極度に強調した「冬の旅」の演奏だ。いかにもエヴァンゲリスト役として定評あるパドモアの面目躍如というところであろう。――それにしても、この「冬の旅」は、何度聴いても、どんなスタイルの演奏で聴いても、全く物凄い音楽だ・・・・。
 協演ピアニストは、もちろん一昨日と同じティル・フェルナー。

12・2(金)マーク・パドモアのシューベルト(1)「美しき水車屋の娘」

   トッパンホール  7時

 トッパンホールでは「水車屋の美しい娘」と表記。理屈ではその方が的確だろう。
 マーク・パドモア(テノール)がティル・フェルナー(ピアノ)と協演してのリサイタル、シューベルトの「3大歌曲集」の初日である。

 バロック・オペラの諸役、あるいはバッハの「受難曲」のエヴァンゲリスト役として名高いパドモアの声と歌い方には、独特のスタイルがある。シューベルトの歌曲集ではそれがどう出るか。
 だがこの「美しき水車屋の娘」では、パドモアのあの透明なほどの声質は、ウブな若者の愛の悩みをうまく描き出すのに適していただろう。そしてまた、恋敵が出現する「狩人」から、嫉妬に苦しむ「嫉妬と誇り」あたりの感情の激しい盛り上がりの表現など、きわめてドラマティックだった。

12・1(木)METライブビューイング ワーグナー「ジークフリート」

   東劇(銀座)  4時半

 これも先月5日、この映像収録と同じ日に現場で観たものだ。しかし、映像で観れば歌手の演技の微細な部分が愉しめるし、幕間に織り込まれている演奏者たちへのインタビューも大いに参考になる。

 事実、第3幕でエルダやジークフリートを相手に繰り広げるブリン・ターフェル(さすらい人)の凄味を利かせた顔の表情は、とても歌劇場の客席からは窺い知れぬものだった。また、そのジークフリートを歌ったジェイ・ハンター・モリスも、あのMETの客席から観たよりも遥かに爽やかな表情の演技をしていた。

 ルネ・フレミングの手慣れたインタビューで引き出される話も面白い。急遽起用されたその「シンデレラ・ボーイ」モリスが、最近までセントラルパークその他でスポーツ用品を売ったりチラシを配ったり(というバイトを)していた、なんていう話は微笑ましいし、先輩の忠告に従い「無理に大きな声では歌わない」ことにしているという話も、彼のジークフリート表現の一端を理解させてくれる。
 別に舞台スタッフからは、例の物凄い舞台装置のマジックについての説明があったが、これも信じられぬほど高度なテクニックの活用であることが解って参考になる。

 ファビオ・ルイージの指揮は、録音で聴いてもやっぱり微温的でもどかしい。だが、第3幕からの――厳密に言えば第2幕の終わりの部分からの――ワーグナーの神髄が詰まった音楽は、演奏の如何にかかわらず、何度聴いても素晴しいものだ。

 何人かの方から「お前の顔が開演前の客席で映っていたぞ」と冷やかされ、あれほどカメラの位置には注意していたのに不覚を取ったかとホゾを噛んだのだが、ナニ、今日恐る恐る見たら、顔の上半分がチラリと映っていただけではないか。あれに気がつくなんて人は、相当な慧眼(?)だ。
 ドイツのさる音楽ジャーナリストのように、コンヴィチュニー演出の「神々の黄昏」終場でカメラが客席を舐めた時に、感動のあまり涙を流している顔を大写しにされ、そのビデオをラッシュで観て慌てたという人よりは、はるかにマシであろう(ただしそのテイクは最終的には使われなかった)。それにしても、危ない危ない。

 なお、今日の映像で見ると、開演前のルネ・フレミングによる案内は、後方のパルテレ(2階)かグラン・ティア(3階)の客席で行なわれていたらしい。
 実は当日、開演直前に後ろの方でペラペラと何か喋り続けている女の声が耳に入り、オペラが始まるというのにまだお喋りをしているのか、うるさいぞ、という調子で観客の何人かが振り向いた。私も気になったのだが、ただその声の最後が「Here is SIEGFRIED」と非常にテンポよくタイミングよく結ばれたので、ははァこれは放送の音声が漏れたか、あるいはその放送をだれかが客席で受信していたのかな、と思っていたのである。まさかあれがフレミングのナマの声だったとは知らなかった。

 9時40分終映。長い。
 

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