2017-02

11・30(水)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

    サントリーホール  7時

 25日の演奏でもそうだったが、カンブルランの指揮で演奏する読売日響の音色は、本当に綺麗になった。

 今夜の1曲目、ベルリオーズの序曲「リア王」の最初の部分の弦など、まるでフランスのオーケストラのような、見事な艶と輝きがあった。日本の交響楽団の音色を聴いて――嫌味な言い方と取られたら申し訳ないが――これぞオーケストラの醍醐味だなどと心から感じられるのは、実に嬉しいことではないか? 
 2曲目はチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」、そして最後が同「悲愴交響曲」。

 この「悲愴」を聴くと、カンブルランはやはりフランスの指揮者だな、とつくづく思う。均整のとれたバランス感覚、洗練された音、節度をわきまえた昂揚――もしくは、あっさり味の「悲愴」というか、美しい「悲愴」というか。

 半世紀以上も昔、私が初めてレコードで「悲愴交響曲」を聴いたのは、親戚の音楽教師から借りた古いフィリップ・ゴーベール指揮パリ音楽院管弦楽団のSPレコードによってだった。
 このレコードは、あらえびす氏の名著「名曲決定盤」では「美しくはあるが盛り上がりが足らぬ。所謂チャイコフスキーの泥臭さが無くて、ただの綺麗なシンフォニーに過ぎない」とクソミソに貶されているが、子供の私は、このレコードをすり切れるほどに繰り返し聴いて、夢中になっていた。「悲愴交響曲」とはこういう音楽なのだ、と長いこと信じ切っていた。そのため、フルトヴェングラーやメンゲルベルクの暗鬱で濃厚な表情の「悲愴」を聴いても全然ピンと来なかった時期さえあったくらいなのである。

 今夜、カンブルランのこの指揮を聴いて、昔のことを何となく思い出していた。
 もちろん、ゴーベールとカンブルランが同じではないことは、改めて言うまでもない。

11・29(火)新国立劇場 ドヴォルジャーク:「ルサルカ」

     新国立劇場オペラパレス  6時

 おそらく、ここ2年ばかりの間に上演された新国立劇場のニュー・プロダクションの中では、最もまとまりのいい、しかも美しい舞台ではなかろうか。
 ただし残念ながら、これは新国立劇場のオリジナルではなく、ノルウェー国立オペラ・バレエ制作のプロダクション(2009年)だとのことである。とはいえ、これを「取り寄せて」上演したという企画姿勢は評価されるべきであろう。

 人物の動きや視覚的効果も含め、舞台の展開には隙が無く、流れもいい。湾曲した壁にデザインされる照明も、水のイメージを想像させる青色の光の変化も、幻想的で美しい。演出はポール・カラン、美術・衣装がケヴィン・ナイト、照明がデイヴィッド・ジャック。

 冒頭、前奏曲に乗せて、小さな屋根裏部屋で玩具や人形を手に夢見がちにしている少女(ルサルカ)が登場するので、このオペラは彼女が夢見るメルヘンとして展開され、結末は夢から覚めた彼女がまたこの部屋の場面に戻るのだなという組み立てがすぐ解ってしまうのだが、そう言ってしまってはミもフタもない(演出家自身がプログラムですでにネタバレさせてはいるのだが)。
 しかし、人間の王子に恋するあまり、自分も人間になりたいと魔法使い(イェジババ)に願う水の精の少女ルサルカを描くには、この設定も大いに筋が通っているだろう。

 本編=「夢と幻想の世界」の舞台は、劇場の舞台機構を活用して、最初は舞台奥から滑るように前方に現われて来て、全曲の幕切れではまた舞台奥に遠ざかって行くが、これもすこぶる効果的である。
 第2幕の王子の館で、ルサルカが宮廷の人々に馬鹿にされ、無視されるあたりの光景など、メルヘンチックに、象徴的に、ある意味では論理的に巧く描き出されていて、観客としても解り易く納得が行く。ここでの群集はすべて日本人(新国立劇場合唱団と黙役の助演者)だが、この動きが完璧で、実に見事で、主役の外国人勢を食ってしまっているほどだ。

 一つだけ言わせて貰うなら、幻想の世界から再び現実に戻って来たルサルカが、少しは精神的に成長しているのかと思いきや、あまりそのようにも見えない演出への疑問。ルサルカが元の木阿弥では、進歩が無いのじゃあないか?
 ――私は、昔のヨアヒム・ヘルツ監督のオペラ映画「さまよえるオランダ人」の大詰めで、夢から覚めたゼンタが海辺に立ち、周囲の光景がすべてそれまでとは違って明るく見えていることで彼女の成長を暗示する、というシーンを私は思い出しているのだが。

 タイトルロールは、ロシア出身のオリガ・グリャコーワ。チャイコフスキーのオペラなどで、もう何本も出演作を観て来た。だが、いつからこんなにヴィブラートが大きく、きつくなったのか? 
 特に第1幕では、時に旋律線が判らなくなるほど物凄いヴィブラートを多用していたのには、辟易させられた。美人だからいいようなものの(?)、以前はこんな歌い方ではなかったという気がするが・・・・。

 もっとも、魔法使イェジババを歌ったビルギット・レンメルトも、ワーグナーなどを歌う時に比べ、異様にヴィブラートが大きい。王子役のペーター・ベルガーにしても同様だった。
 しかし3人とも、幕が進むに従ってその癖が薄らいで行ったのも不思議だ。何か狙いでもあったのかしらん。

 その他、老いた水の精にミッシャ・シェロミアンスキー、公女にブリギッテ・ピンター。
 脇役は日本人勢だが、森番(この演出では給仕のチーフ)の井ノ上了吏と、「料理人の少年」(と配役表にはあるが、これは皿洗いのはずだ)の加納悦子だけが、常に客席を向いて――その間、演技は中断する――歌っていたのには興醒め。3人の森の精(安藤赴美子、池田香織、清水華澄)は、もう少しメイクを上手くつくれなかったものか?

 指揮は、ブルノ生れのヤロスラフ・キズリンク。初めて聴いたが、たいへんいい音楽をつくる。東京フィルが――弦が薄いのが相変わらずの欠点ではあるが――夢幻的な音楽のところでは、柔らかくロマンティックな音色を出していた。
 9時20分頃終演。

11・27(日)パーヴォ・ヤルヴィ指揮パリ管弦楽団

    サントリーホール  2時

 いいオーケストラは、チューニングの音色から既にそれと判る。

 ラヴェルのピアノ協奏曲(ト長調)では、ソリストのダヴィッド・フレイの透き通るような音色も快いが、オーケストラのキラキラ輝くような音色と、洒落っ気のある表情が何より素晴しい。

 もちろん本領は、1曲目のメシアンの「忘れられた捧げもの」と、3曲目のストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」で発揮される。前者での豊麗な昂揚と叙情、後者での華麗で自在な躍動など、まさにこれは至福の音楽を聴く思いだ。
 曲想の変幻相次ぐ「ペトルーシュカ」を、パーヴォは何と巧みに見通しよく構築し、パリ管は何と輝かしく多彩に響かせることか。一つの主題が他のモティーフに覆われても、もとの主題がそのまま明晰に聞こえ続けるという演奏は、そうたびたびはナマで聴けるものではないだろう。

 パリ管の金管、木管、弦――その壮麗さは見事の一語に尽きる。一番クラリネットや一番ファゴットが、まるで踊るようなジェスチュアで鮮やかに吹きまくっている光景を見るのも愉しい。

 フレイはアンコールにシューマンとバッハを弾いたが、パーヴォとオーケストラはアンコールにビゼーの「子供の遊び」からの小品と、シベリウスの「悲しきワルツ」(また!)、そしてビゼーの「ファランドール」を演奏した。

 パーヴォは、本当に大きな指揮者になった。

11・26(土)ギュンター・ノイホルト指揮群馬交響楽団

    群馬音楽センター(高崎)  6時45分

 群馬音楽センターが古いホールだということを知りながら、座席用のクッションを忘れて行って大失敗した。
 1年前からの坐骨神経痛は半年かかってどうやら治っているが、乗り物やホールの硬い椅子に座って姿勢を動かさないでいると、たちどころに激しい痛みが再発して来る。この群馬音楽センターの古い椅子は狭い上に硬く、しかもデコボコした(バネではないと思うが)ものがシートの下にあって、体にギシギシと当たるのである。今日は本当に辛かった。演奏が良かったので、気は紛れたが。

 プログラムは、最初にワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」、次がモーツァルトの「オーボエ協奏曲」(ソロは渡辺克也)、最後がブルックナーの「交響曲第9番」(コールス校訂版)。

 オーストリアの指揮者ノイホルトが客演している。おそろしく直截な指揮である。速めのイン・テンポで、矯めも誇張も一切なしに淡々と押して行くのは、彼の本性か、今日のオーケストラとの相性の所為か、あるいはこのホールのアコースティックへの解決策か。

 「9番」の場合には、こういうイン・テンポの演奏は、悪いものではない。「ブルックナーを指揮する時にはテンポを勝手にあれこれ動かしてはいけません」というシューリヒトの言葉を思い出す。しんねりむっつりと手練手管を弄されるより、余程好ましい。
 多分55分を切ったくらいの演奏時間だったから、テンポも相当な速さである。かといって、慌しいという印象は全くない。よく言えば古典派的な端正さを持ったブルックナーと言えようか。素っ気ない表情ながらも強い集中力が感じられる演奏だ。

 それに、残響のないホールでは、「間」を長く採ってもあまり意味を成さない。このような率直な演奏の方が聴き易いだろう。その代わり、ブルックナーの後期の交響曲が持つ独特の神秘性、高貴さ、壮大さなどは薄められてしまうが、これは致し方ない。
 第1楽章あたりでは演奏にもアンサンブルにもまだ何かぎこちなさが感じられていたのだが、第2楽章(スケルツォ)の後半から見違えるほど演奏の密度が濃くなり、凄まじい気魄が加わって来た。
 ワーグナー・テューバ群にもう少し丁寧さが欲しいのと、第3楽章冒頭のヴァイオリンの動きに今ひとつの厚みと安定感が欲しかったことを除けば、群響は好演だったと思う。

 「トリスタンとイゾルデ」も、冒頭のチェロが一寸無雑作なくらいあっさりと開始されたのにはびっくりしたが、この曲特有の神秘的な最弱音を念入りに彫琢するなどという興味は、この指揮者にはないのかもしれない。いわゆる官能美というものにはあまり縁のない演奏で、簡明直裁と言う所以だが、しかし悪くはない。

 残るモーツァルトは、渡辺克也のソロが実にスケール大きく、強靭な力を噴出する挑戦的な演奏で、その硬質で剛直なエネルギー感には少々たじろがされたけれど、残響のないホールだから、余計にその印象が強かったのかもしれない。これはこれで、たいへん面白かった。

 ホールはほぼ満席。お客さんの反応も素晴しく温かい。ここのお客さんたちを見るたびに、新しい、良い音のホールが高崎に早く出来たらな、と思う。

    →音楽の友新年号 演奏会評

11・25(金)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団の「海」特集

 サントリーホール  7時

 「海」に因んだ作品が4つ。メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」、ショーソンの「愛と海の詩」、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲、ドビュッシーの交響詩「海」。

 この中で「海」は、カンブルランと読売日響の今年の演奏の中でも、ベストに挙げていいものだろう。昨年春のシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」に匹敵するか、あるいはそれを凌ぐ演奏かもしれない。
 特に今夜は、金管群(特にトランペット)の快調さが光る。それだけでなく、オーケストラ全体が見事な均整美を示していた。

 それに次ぐのは、ショーソンの「愛と海の詩」である。
 メゾ・ソプラノのソロ(林美智子)については、このようなまろやかな声よりも、透き通った声質で歌詞も明晰に聞こえる歌手の方が作品の性格と今夜のオケには合っているのではないかという気もするのだが、まあそれはそれ。
 だが、カンブルランが読響から引き出した音はまさにショーソンそのもの、昔レコードで聴いてはうっとりしたショーソンの、あるいは海の雰囲気がモロに伝わって来るような演奏で、私自身は懐かしい記憶が蘇るような陶酔感を味わった。彼の指揮で、ショーソンの「交響曲」を聴いてみたい。

 他の2曲は、弦の内声の交錯が実に美しかったし、最強奏での力感などもなかなかのものだったが、テンポがやや重たかったような気もする。カンブルランは時々こういうテンポを採ることがあるが・・・・。

 それにしてもこれらは、カンブルランと読響の好調な証を如実に示した演奏だったといえよう。昔は奔馬のようだったあの読響が、フランスものをこのようにニュアンス細かく演奏できるようになったのだから、めでたいことである。
 なお今夜はゲスト・コンマスとして長原幸太がリーダーを務めた。そのせいか、コンマスがあとからもったいぶって出て来るのが1曲目の前だけで済んでいたのはありがたい(読響はいつも休憩後の第2部の開始時にもそれをやるが、いちいちごたいそうなことである)。

11・24(木)東京二期会 モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」

   日生劇場  6時半

 カロリーネ・グルーバーの演出だから、どうせただでは済むまいと思っていたが、予想通り、かなり捻りまくった「ドン・ジョヴァンニ」になった。

 これまで日本で上演した彼女の演出――二期会の「フィレンツェの悲劇」と「ジャンニ・スキッキ」の組み合わせ(2005年)は意外にストレートだったし、びわ湖ホールの「サロメ」(2008年)も「読み替え」でありながらストーリー的には至極解り易いものだったが、今回はいよいよ本性を現したという感か。

 「謎解き」には場数も修練も積んでいるつもりだけれど、正直言って今回のは、説明を聞かなければ意味が解らない個所が沢山ある。
 当てずっぽに解釈したところで「あなたの目は節穴でございますか」と言われるのがオチだから、もう少し時間をかけて考えてみることにする。

 雷鳴轟く嵐の夜に、ある大邸宅(さながら歴史の亡霊たちが住む永遠の愛欲の館という雰囲気)に紛れ込んで来た、ごく普通の若い男女――マゼットとツェルリーナが「奇怪な事件」に巻き込まれて行く冒頭シーンを見て、さてはこの現代人2人がドラマの中心に据えられ、その目から見た人物模様が描かれて行く設定なのかな、と大いに期待したのだが、そうではなかった。

 結局、ドン・ジョヴァンニが不死身であり、永遠に女たちを(男をも!)幻惑させ翻弄し続ける存在だというのは明らかだが、そのコンセプトをかように手の込んだ手法で描くには、歌手陣がもう少し経験を積み、舞台姿からしてキャラクターが滲み出て来るようなレベルにまでなっていないと、少々苦しいのではないか?

 宮本益光のジョヴァンニも「GTO」の反町隆史ばりのヨタった大熱演ではあったものの、演技のパターンが1種類だけなので、第2幕になると些か飽きて来る(その点、以前の二期会プロダクションの宮本亜門演出によるキムタク風演技の方が断然良かった)。

 他には、法王風騎士長の斉木健詞、現代風青年マゼットの近藤圭が気を吐いた。その他の人たちもよくやってはいたが、聞かせどころのアリアの歌唱には、もっと正確さが欲しい――。
 
 聴きものだったのは、沼尻竜典の指揮と、トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズの演奏だ。
 第2幕では演奏がやや散漫に聞こえたとはいえ、第1幕での完成度は見事なもので、弦の張り切った瑞々しさと、木管の透明なハーモニーが魅力であった。このところ続いた「ドン・ジョヴァンニ」を、音楽だけはやはり何度聴いてもいいものだと感じたのは、このコンビの演奏ゆえである。

11・23(水)黛敏郎のオペラ「古事記」 日本舞台初演

    東京文化会館  2時

 オーケストラ・スコア完成が1993年、リンツ州立劇場での初演が1996年、日本での演奏会形式初演が2001年。そしてやっと今回、日本での舞台初演が実現したわけだ。
 日本人の手による注目作でありながら、これまで国内で一度も舞台上演されていなかったという事実は、やはり日本のオペラ界がどこかいびつな状態にあることを示すものだろう。
 ドイツ語台本は中島悠爾。今回もドイツ語上演で、字幕がつく。

 「古事記」といっても、原典は膨大な内容だが、このオペラではこうなる――第1幕がイザナギ、イザナミの「国生み」の話。第2幕では、スサノヲの狼藉から、天岩戸の場面と、スサノヲの追放までが描かれる。第3幕が、八岐大蛇を退治してクシナダ姫と結ばれるスサノヲの物語。第4幕がスサノヲから使者を通してのアマテラスへの「むらくもの剣(草薙の剣)」献上と天孫降臨の場。

 ストーリーに少し飛躍はあるが、正味1時間45分ほどの演奏時間の範囲で、コンパクトによくまとめられている。
 とかくだらだらと長くなることの多い日本のオペラの中で、こうした要領のいい作劇法は、貴重な存在である。

 黛の音楽は、特にオーケストラは、どちらかと言えばシンプルで率直で、映画音楽的なスペクタクル性にあふれた、分厚い響きの強靭な力感に富んだものだ。
 神秘的な不気味さを描く時には、低音域でのリズムのオスティナートが効果を発揮するが、これはあの「金閣寺」でも聞かれた手法ではなかったか? 嵐のような同一音型で煽る手法は、クルト・ヴァイルが「7つの大罪」の「怠惰」で試みたものからの影響もあるように思われる。

 合唱のパートがこれまた見事で、それは時にコロス的な役割となり、時に八百万の神々の騒ぎとなり、実に表情豊かに活躍する。このあたり、黛の手法は驚嘆すべきものだ。
 これを指揮する大友直人の要を得た音楽づくりも素晴しい。東京都響が充実した演奏を聴かせ、新国立劇場合唱団と日本オペラ協会合唱団も特筆すべき見事な出来を示した。

 岩田達宗の演出も、これは彼のヒット作の一つに数えられるだろう。円形の回転舞台(舞台美術は島次郎)も効果的で、照明(沢田祐二)を活用した八岐大蛇退治の場面も、象徴的だが巧く出来ている。その中でも私が感銘を受けたのは、群衆の扱いだ。特に天岩戸の場面での八百万の神々(にしては大衆的な衣装だったが)の熱狂ぶりなど、極めて巧妙な動きに作られていたのであった。

 出演は、甲斐栄次郎(イザナギ)、福原寿美枝(イザナミ)、高橋淳(スサノヲ)、浜田理恵(アマテラス)ら、手堅い顔ぶれがそろう。歌を浮き立たせるための管弦楽の扱いが巧い黛の作曲技法と、大友直人の響かせ方の巧さで、少し弱いかなと思われる歌手の声も明晰に聞き取れて、そのあたりも愉しめるものだった。4時10分終演。

 これは、意義ある上演と言えるだろう。
 神話と歴史とは事実上は別ものであるという考え方は、もはや今ではオーセンティックなものであるはずだ。それを意図的に歪めて混同させながら攻撃を加える人など、もういないだろうとは思うのだが・・・・。

     ⇒モーストリークラシック 2月号演奏会レビュー

11・22(火)サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル マーラー「9番」

     サントリーホール  7時

 ラトルもこのところ変貌した――と言っている方もいるが、この日の演奏を聴いた範囲では、やはりラトルはラトル、彼の個性は昔から一貫しているだろう。

 ただ、どんな指揮者でも多かれ少なかれそうだが、ラトルもまたその時々の演奏によって、同じ曲にも異なった性格を注入することがある。
 数年前に彼が指揮した「ワルキューレ」など、たった半年の違いでありながら、エクサン・プロヴァンス音楽祭での叙情的でふっくらした音楽づくりと、ザルツブルク・イースター音楽祭での巨巌のような強面のつくりとの違いに驚かされたくらいだ。

 今夜のマーラーの「交響曲第9番」にしても、CD(EMI TOCE-90031~2)で聴く4年前のベルリンのフィルハーモニー・ライヴとでは、特に第4楽章などは随分違う。
 CDで聴く演奏では、フレーズの流れの中にアクセントをぐいぐいと叩きつけるようにして、マーラー晩年の諦観的雰囲気どころか、彼が最後まで捨てなかった凄まじい挑戦的な意志を浮き彫りにするような性格を感じさせていたものだ。だが今夜の第4楽章では、そこまでの激しさは薄れており、少しなだらかな(ラトルにしてはだが)音の響かせ方に変っていたように感じられる。
 とはいえ、他の多くの指揮者のそれに比べれば、随分尖った、戦闘的で刺激的なマーラー演奏であるということは、たしかであろう。

 樫本大進を先頭とするベルリン・フィルの弦楽セクションの響きも、内声部が明晰に区分けされているためか、第4楽章の主題も、弦が一体となって大河の如く滔々と流れるような趣きにはなっていない。――私など、41年前に聴いたバーンスタインとニューヨーク・フィルのあの濃厚な演奏の呪縛から未だに解き放たれていないせいで、どうしても第4楽章冒頭から音響的なカタルシスを求めてしまうので、今夜のような演奏を聴くと妙に落ち着かない気分になってしまうのだが・・・・。

 しかし、第1楽章や第4楽章最後でラトルが創り出したあの弦楽器群の極度の最弱音の美しさは凄く、そのほか全曲を通じて金管も木管も並外れて巧いことこの上なく、「不滅のベルリン・フィル」の凄さと威圧感を予想通り存分に感じさせる演奏であったことは間違いない。
 私個人としては、感嘆はしたものの、感動にまでは至らない演奏ではあったのだが、しかし全曲最後の弦楽器群の、虚空に溶解して行くような美しさはやはり最高だったので、その音を頭の中でエコーのように響かせつつ席を立ったのだった。

11・21(月)METライブビューイング
モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」

    東劇(銀座) 7時

 先日、ニューヨークで観たばかりだが、近接撮影の映像なら演技の詳細が分るだろうという楽しみもあり、しかも私が観た日と違って指揮がファビオ・ルイージなので、これはやはり観ておかねば、と。

 METの広大な客席からはほとんど分らなかった登場人物の細かい表情の演技は、さすがに満喫できる。これが、映像で観るオペラの強みというものだ。
 普段はおっとり型のヴァルガス(ドン・オッターヴィオ)が、意外に凄みを利かせる表情を見せていたのに感心。フリットリも可愛い。
 その一方、ナマで聴いて声が綺麗だったエルトマン(ツェルリーナ)が、マイク収録では声が遠く聞こえ、顔の表情の演技もさほど巧くなかったのは予想外だった。

 マリーナ・レベカ(Rebeka、kが一つなのでとりあえずこう書く)のドンナ・アンナが不思議に冷たい女に見えるのはナマで観た時も同様だったが、今日の幕間のインタビューで彼女が「アンナは本心ではジョヴァンニを愛しているが、自らはそれを認めたくないと思う理知的な女なのです」と語っているのを聞いて、なるほどあの演技はその解釈に裏づけられているのか、と思い当たり、これにも感心した。

 ルイージの指揮は――録音で聴く範囲でだが――「ジークフリート」の時とは比較にならぬほど引き締まり、音色も明快で、テンポの起伏も大きく、すこぶる劇的である。彼がつくる音色のオーケストラに、フリットリもヴァルガスもレベカもピタリと嵌まっていて、ラングレーの指揮の時に聞かれたような違和感は皆無であった。
 その代わり、ラングレーのピリオド楽器的な音づくりで特徴的だった管楽器群の透明で清澄な音色は、ここには聞かれない。それぞれの良さがある、というところであろう。

 終映は10時半過ぎ。

11・20(日)タン・ドゥンの「マーシャルアーツ」3部作~映像付演奏会

   サントリーホール  6時半

 「サントリーホール フェスティバル ファイナルコンサート」としての開催で、映像上映とオーケストラ・コンサートとを合体させた大規模な演奏会となった。

 「マーシャルアーツ」とは、プログラム掲載の林田直樹さんの解説によれば「武侠」のことだという。「武術」や「任侠」とは違う、もっと深い精神的な意味を持つ言葉のようである。
 ともあれ、演奏された3つの協奏曲は、いずれも彼が作曲した映画音楽にもとにした作品で、タン・ドゥンらしくダイナミックな曲想にあふれたものばかり。

 最初にチャン・イーモウ監督の「英雄(HER)」に基づくヴァイオリン協奏曲。
 次に、アン・リー監督「グリーン・デスティニー」に基づくチェロ協奏曲。
 そして最後に、ファン・シアオカン監督「女帝(エンペラー)」に基づくピアノ協奏曲。
 各曲でソロを弾くのが、五嶋龍、アメデオ・チッケーゼ、リ・ユンディという錚々たる若手だ。この顔ぶれだけでも、集客には充分だったことだろう。
 指揮がタン・ドゥン自身、管弦楽は東京フィル(掛け声や小演技も含む大熱演で、特に打楽器陣は御苦労様!)。最後の曲のみサントリーホール・フェスティバル合唱団(明治学院バッハ・アカデミー、聖心女子大グリークラブ、早大グリークラブ)が入る。

 映像はもちろん当該映画からの「女性の愛」を主眼としたイメージ的抜粋だが、オーケストラの生演奏とのマッチングは完璧で、迫力充分であった。
 今回のこれは、映像を伴奏する演奏ではない。あくまで演奏が主体であり、映像はそのパートの一つとして活用され、全体の均衡が保たれていた――と見るべきであろう。
 演奏会の形状の一種として考えてみると、この手法は、実に無限の面白い可能性を秘めているように思われる。
 9時終演。

11・20(日)ピエール=ロラン・エマールの「コラージュ――モンタージュ」

     トッパンホール  3時

 人気ピアニスト、ピエール=ロラン・エマールの注目のプロジェクト、「コラージュ――モンタージュ2011」というユニークなリサイタル。

 「ありきたりのプログラムに対して反旗を翻すための今回のプログラム」と、彼自身が語る。
 一つのソナタや組曲を全曲弾くのではなく、さまざまな作品から断片的に曲想を選択し、純粋に音楽的に有機的な接続を行ない、一つの統一された曲に創り上げるという、途方もなく面白い試みだ。

 もちろん、昔のオペラの序曲にあるような「接続曲」とは違う。ましてや、30年前に流行った「フックト・オン・クラシック」のような、リズムボックスに乗せていろいろな名曲からの有名なフシを繋いで行く手法などとは桁が違う。

 引用する部分においては、オリジナルの形を全く変えないという鉄則があるらしい。
 それゆえ、素材としてはベートーヴェン、シューマン、シューベルト、スクリャービン、ヤナーチェクなどの作品からも選ばれているが、やはりシュトックハウゼンやリゲティ、クルターク、シェーンベルク、ジョン・ケージをはじめとする現代音楽からの方が繋ぎやすい、ということになり、そのレパートリーの方が多くなっているようである。

 エマール自身が解説しながら――「この繋がり方は実に巧く行っていると思うのでぜひ気をつけて聴いていただきたい」などと予め説明しながら、5つにまとめた「作品」を弾いて行くのだが、やや自己満足的なものが感じられることや、5つの「作品」(計1時間強)がどれも同じような曲想にまとまってしまっていることが若干気にはなる。
 だがそれにしても、これだけ多くの作品から、よくこれだけ巧く組み合わせたものだと感嘆させられる。大詰めの個所で登場したラヴェルの「夜のガスパール」(絞首台)からムソルグスキーの「展覧会の絵」(キエフの大門)への移行の仕方などは、思わず唸らされるほどの見事なアイディアを感じさせた。

 全体としては、試みとしては奇想天外で興味津々たるものがあるが、実際の手法にもう一工夫、多彩な変化があったらな、というのが率直な印象。4時半終演。

11・19(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

    サントリーホール  6時

 前半にシェーンベルクのモノドラマ「期待」、後半にフォーレの「レクイエム」というプログラム。

 これは実に巧い組合せだ――女のどろどろした情念が描かれる「期待」のあとに、清純で天国的な「レクイエム」が来る。楽屋で会ったスダーンも、「どうだ、よく出来たプログラムだろう」と自画自賛。
 演奏の出来も、スダーンと東京響の最近の演奏の中ではトップに置かれるべきものであろう。

 「期待」は、シェーンベルク・シリーズの一環として演奏されたものだが、曲想から言っても先日の「浄夜」より遥かにスダーンの個性に合った作品のように思える。
 演奏も切れ味鋭く劇的で、「月が揺れている」の歌詞の背後にゆらめく幻想的な木管の動き、大詰めでめらめらと燃え上がる管弦楽の不気味な響き、「私は探したの・・・・」のあとに上昇して虚空に消えるような管弦楽の音色など、すべて緊迫感に満ちた見事な表現だった。かようにオーケストラが雄弁でなかったら、この曲は締まらないのである。

 一方、主人公の女性を歌ったサンクトペテルブルク音楽院出身のエレーナ・ネベラは、この曲を既に何度も手がけているそうで、劇的な身振りもさることながら、愛人の死体に取り縋って激しい情念を吐露する女の迫力を、凄まじく熱演して見せてくれた。

 「レクイエム」は、いわゆる第3稿――1900年版による演奏だが、弦はヴァイオリン12、ヴィオラ12、チェロ10、コントラバス8という編成が採られていた。
 ヴィオラの音色が、こんなにもラヴェルやドビュッシーと共通するフランス印象派的な色彩を感じさせるとは、やはりナマで聴くことの利点だろう。
 東響コーラスも、ソプラノパートにほんの僅かの粗さが感じられたものの美しく、東京響の演奏と併せて端正清澄な「レクイエム」を聴かせてくれた。声楽ソリストは森麻季と青山貴。

      ⇒モーストリークラシック2月号 演奏会レビュー

11・18(金)ダン・エッティンガー指揮東京フィルハーモニー交響楽団
11月定期公演「マンフレート・グルリットを偲ぶ」

    サントリーホール  7時

 第2次大戦前後の時代、わが国の指揮界に大きな功績を残した故マンフレート・グルリットが日本初演したオペラから何曲かを集め、彼自身の作によるオペラからも一つ選んでプログラムを組んだ大規模な「グルリット記念ガラコンサート」。
 終演も9時50分頃になったが、これはステージ転換に時間を要したせいもある。

 演奏されたのは、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲、「ローエングリン」から「エルザの大聖堂への入場」、「タンホイザー」から「大行進曲」。
 次にR・シュトラウスの「サロメ」から「7つのヴェールの踊り」、「ばらの騎士」の第2幕と第3幕の抜粋、「アイーダ」から第2幕の二重唱以降最後までの全部。
 これらはすべて、グルリットが指揮して日本初演したオペラである。
 そしてその「アイーダ」の前に、グルリット自身のオペラ「ナナ」の第1幕の抜粋が演奏された。相当な重量感だ。

 演奏者陣も、横山恵子、吉原圭子、井坂惠、中島郁子、児玉和弘、高田正人、福井敬、萩原潤、村林徹也、山下浩司、ジョン・ハオ、東京オペラシンガーズ――と賑やかなもの。

 エッティンガーの指揮はむしろ几帳面で手堅いもので、ワーグナーの3曲など、もう少しハッタリを利かせたエンディングを使えばいいんじゃないかと思ったくらいだ――「大行進曲」では、せっかく見事に盛り上げて行きながら、最後の決めの高音の前にあんなに思い切りパウゼを作ったのでは、聴いている方もガクンと来てしまう。
 その点、やはりR・シュトラウスとグルリットの作品が、音楽のロマン的な叙情味を巧みに出した雰囲気のある演奏だったといえよう。

 グルリットのオペラは、かつてゲルト・アルブレヒトが読響を指揮して日本初演(演奏会形式)した「ヴォツェック」がわれわれに強烈な印象を与えたものだ。今回の「ナナ」はそれに比べると若干甘い(ところだけ聴いたのかもしれないから、迂闊な事は言えない)が、パリの劇場の洒落た世界を重々しく厚い管弦楽法で描くあたりには意外な面白さがあり、断片なりとも彼の芸風を聴けたことは大いなる喜びであった。

 グルリットの指揮を私がナマで聴けたのは、オペラでは「マイスタージンガー」(日本初演1960年)と「サロメ」(同62年)、「タンホイザー」(66年)など、またラジオで聞いて記憶に残っているのはベートーヴェンの「第7交響曲」など、ほんの僅かに過ぎない。
 「ベト7」など度外れた超遅テンポで、当時のわれわれ悪ガキどもは罵倒したものだが、今思えば微笑ましい。
 「マイスタージンガー」などはカットに次ぐカットがありながら、6時開演で11時半過ぎ終演という、当時としては物凄い上演だった。お客は途中でゾロゾロ帰ってしまい、われわれは最初に買った安い天井桟敷の席から次第に降りて来て、最後の頃には2階前列正面の最高価格席に座って愉しんだものであった。

 なお今日はプレトークで、岩野裕一・片山杜秀両氏による「浅草オペラ隆盛期」についての話があった。なかなか興味深かった。
 古い掘り出し音源の紹介も面白かったが、藤山一郎が歌っている「ローエングリン」の「王の布告官」役など、なかなか聞けないものだろう。彼は東京音楽学校出のクラシック畑出身だが、「ローエングリン」と雖も、歌のスタイルは「青い山脈」や「丘を越えて」とやはり共通しているのは否めない。
 余談だが、かつてテレビのバラエティ番組で植木等が「第9」のバリトンのパートを歌っているのを聞き、その上手さに仰天したことがあるが・・・・。
 

11・18(金)朗読会「風をあつめて」第8章

 ムジカーサ  2時半

 久しぶりで「朗読会」を聴きに行く。

 主宰は朗読の松浦このみ(紀尾井ホールの開演アナウンスで聞ける声の、あの人である)で、ピアノの西村由紀江が定期的に協演するシリーズ。
 森絵都の「ラストシーン」、辰巳滴子の「音楽の神に愛されて」、アンディ・アンドルーズの「バタフライ・エフェクト」(弓場隆訳)の3作が朗読された。
 松浦このみのナレーションは、彼女がかつて放送局時代の若い同僚だった時代からよく聞いていたが、最近はとみに味と深みと拡がりを増した。今日はかなり芝居気を加えていて、巧い。彼女の朗読を彩り、時には前面に出てシーン(情景)を描く西村由紀江のピアノも温かくて、美しい。

 飛行機のエコノミークラスでの出来事を語る「ラストシーン」で、演奏に「ミスター・ロンリー」が登場して来たのに思わずニヤリとしてしまったのは、私がFM東京に在籍した者としての内幕的感覚ゆえか。あの曲をピアノで聴くのも、なかなかいい。

 西村が中国語を巧みに話してみせる(最近訪問の機会が多いという)のには感心させられたが、2種のナマリによる挨拶語を紹介し、「相当違うでしょう?」と言ったところへ松浦が「同じように聞こえますけど」と突っ込むあたりも、女性2人のライヴの面白さの一つか(実は私にも同じように聞こえたのだが)。
 宮沢賢治の「セロひきのゴーシュ」の中で、かっこうが「たとえば、かっこう とこうなくのと、かっこう とこうなくのとでは、聞いていてもよほどちがうでしょう」と言うと、ゴーシュが「ちがわないね」とにべもなく答えるあのシーンを思い出した。
 4時35分終演。

11・17(木)ウラジーミル・ミーニン指揮国立モスクワ合唱団

 東京オペラシティコンサートホール  7時

 話題の新人ピアニスト萩原麻未のリサイタル(紀尾井ホール)を聴くか、それとも名門モスクワ合唱団を聴くか、ぎりぎりまで迷ったが、萩原麻未はこれからも聴けるだろう、しかしロシアの合唱団が歌うギア・カンチェリの「無意味な戦争」やラフマニノフの「晩祷」(抜粋4曲)は、今後いつまた聴けるか分らない――という結論に達し、オペラシティの方へ向かう。

 ともあれ、これはこれで、聴いてよかったと思う。
 ミーニンのこの国立モスクワ合唱団はしばしば来日しているけれども、私は聴くのが久しぶりだったし、ロシアのコーラスの圧倒的な量感も、独特の凄みのある発声も、やっぱりいいものである。

 プログラム冒頭では、スヴィリドフの「哀歌」が東日本大震災の犠牲者に捧げられ、次いで前述の2曲が歌われた。「晩祷」でのバス歌手アレクサンドル・ビレツキーは――遠目には何となく佐藤浩市に似ていて愉快だったが――いかにもロシア独特の豪壮な超低音で、流石の迫力だ。
 「無意味な戦争」(2005年)は、日本のサクソフォン四重奏団「カルテット・スピリタス」との協演。デュナーミクの対比の鋭さとともに、導音やドミナントには何度も達するもののなかなかトニカに解決されない音楽の流れが、一種の苛立たしさと不安感を誘う。

 後半は、おなじみのロシアの歌や民謡。
 1992年のモスクワ取材の際、ミーニンが「日本に行くとロシア民謡ばかり歌わされますからなあ」と苦笑していたのを思い出すが、今夜のプログラムもそれに応えざるを得なかったのか。
 しかし、やはりいいものである。特にロシアの底力ある凄い音圧の、しかも情感たっぷりのコーラスとソリストの歌で聴くと、何か懐かしい気持に引き込まれてしまう。
 曲は「カチューシャ」「赤いサラファン」(この2曲は民謡ではない)、「ステンカ・ラージン」「黒い瞳」ほか。中でも、アンドレイ・ボリセンコをソロにフィーチャーした「果てもなき荒野原」は圧巻だった。アンコールでは「ソーラン節」を日本語で歌うサービスも。
 9時15分終演。

 こういうロシア民謡を久しぶりに聴くと、昔「うたごえ運動」全盛の頃、喫茶店やキャンプで盛んにこの種の歌を歌ったことを思い出してしまう。その運動の背後にある種の政治的な動きがあったことなど、当時はほとんど意識しなかったが、われわれがあれだけ熱心に歌ったのは、やはり曲が良かったからではないか?
 はからずも今夜「ソーラン節」を聞きながら、たしか1956年の日ソ漁業交渉の時だったか、「この権利だけはソ連にやれぬ」というのをもじって「やーれん、ソーレン、ソーレン・・・・」と漁師が踊っているマンガを新聞で見て、子供心にも感心したのを思い出した。

11・16(水)フランツ・リスト室内管弦楽団

 東京オペラシティコンサートホール  7時

 室内管弦楽団とはいっても、今回は弦楽オーケストラとしての来日。
 5-4-3-3-1の編成だが、この弦楽器群の音色のしなやかで艶やかな、目の詰まった厚みのある織物のような温かい手触りは、素晴しい。「ハンガリーの弦」の良さを存分に感じさせてくれるオーケストラである。

 それゆえ、リストの「ハンガリー狂詩曲」の第2番と第6番(いずれもペテル・ヴォルフ編曲)およびブラームスの「ハンガリー舞曲」の第2、4、6番では、ロマ的でラプソディ的な表現も含めて、見事な演奏が愉しめた。またモーツァルトの「ディヴェルティメントK136」では音色と表情を一転させ、柔らかい端整な音楽づくりになる。この対比も鮮やかだ。

 この他、幸田浩子(S)をソリストに、リストの「おお、愛よ」(愛の夢第3番)など歌曲3曲およびラフマニノフの「ヴォカリーズ」、佐藤俊介をソリストにパガニーニの「ヴァイオリン協奏曲第2番」(弦楽合奏+トライアングル)が演奏されたが、レパートリー上の新鮮さという点でも興味深いプログラムだろう。
 ただ、佐藤のガット弦のノン・ヴィブラート奏法によるソロは、高音域の音色が刺激的になり、オーケストラの音色との違いが気になる。それが狙いの面白さだ、という意味もあるかもしれないが。

11・14(月)デイヴィッド・ジンマン指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団

    サントリーホール  7時

 ヨーヨー・マをソリストに迎えてのショスタコーヴィチの「チェロ協奏曲第1番」と、マーラーの「交響曲第5番」という、かなりアクの強いプログラム。

 先日CDで出た「未完成交響曲」では、嵐のような激しい演奏を聴かせ、この曲の既成イメージを此処まで変えるのかと驚かせたり感心させたりしたジンマンだが(以前ナマで聴いた時には、ここまで極端なことはやっていなかったように記憶するが・・・・)、今夜のマーラーの「第5交響曲」では、ことさらに意表を衝くようなことはやっていない。

 しかし、オーケストラの響きの造りに関しては、すこぶる精妙なものがある。
 上手くは言えないのだが、あたかも何層にもわたり積み重ねられた各声部のそれぞれの間に、名状しがたい僅かな空間のようなものが張りめぐらされ、それらが一体となって柔らかいクッションのような響きを生み、その響き全体が奥行感や空間的拡がりを生む――といった感じなのである。
 音色は落ち着きのある明るさで、粒立ちの良さと柔らかいスケール感を湛えている。オーディオ的に言えば、英国系のスピーカーによくこういう音がある、ということになろうか。

 とにかく、こういう「上質のオーディオ装置で聴く」かのようなマーラーは、狂暴にもヒステリックにもならず、鬼面人を驚かすといった表現にもならず、実に美しい。第4楽章の「アダージェット」などは、まさにその極致、極上の美感であろう。マーラーをいい音で聴いたという快さは確かにあったのだが、さて、それで、そのほかには・・・・?

 ショスタコーヴィチの「チェロ協奏曲第1番」でも、ほぼ同じようなことが言えたであろう。ヨーヨー・マの演奏は、開放的で、音も伸び伸びとして、胸のすくような勢いを持っている。今回は、ソロ・アンコールは、カタロニア民謡/カザルスの「鳥の歌」1曲のみで、演奏会をこれ以上に長くすることにはならなかった。

 なお、マーラーの第3楽章では、1番ホルンは指揮者の横に出て来て吹いていた。マーラー自身は、独立した形で吹けとは言っているものの、前に出て来いとまでは詳しく指示していないはずだが、最近はこのテを採る指揮者もが少なくないようだ。音響的には、あまり効果があるとも思えないが。
 前に出て来ずに、ホルン・セクションから少し離れて、下手側に立って吹かせるという形を採った指揮者もいたが、響きの点ではその方がバランスも良かったように思われる。

11・13(日)團伊玖磨:「夕鶴」

 日生劇場  2時

 大入り満員だそうである。
 日本のオペラでこれだけ客を集められる作品は、さしあたり、この「夕鶴」を措いて他になかろう。

  今回は鈴木敬介演出版の上演だが、氏が去る8月22日に他界したため、「鈴木敬介 追悼公演」と銘打たれ、飯塚励生が再演演出を担当しての上演となった。カーテンコールの際には彼が鈴木敬介の遺影を掲げて登場、この公演の意義を観客に印象づける。

 美術に若林茂煕、照明に吉井澄雄、舞台監督に小栗哲家、衣装に渡辺園子らベテラン・スタッフも参加し再現された鈴木敬介演出の舞台は、オーソドックスで美しい。シンプルながら、清澄な風格を感じさせる。いろいろな意味で、いかにも日本人らしい感性にあふれたもの――と言っていいだろう。
 この中に飯塚の手がどのくらい加えられたかは知らないけれども、つうの佇まいや仕草に、鶴の雰囲気を終始漂わせているのが、素晴しく印象深い。

 今日の公演でつうを演じた若手の田辺彩佳は、その鶴の雰囲気を、極めて巧く表現していた。
 つうが哀しく別れを告げて去り行く場面での演技も美しいし、与ひょうに悪の手が伸びぬよう必死に願う場面での目の演技もなかなかいい。日本語の発音が明晰で、歌詞がよく聞き取れる。高音域での細かいヴィブラートが気になるが、声質そのものは綺麗だ。

 出演はその他、与ひょうに大間知覚、運ずに青山貴、惣どに山下浩司。
 この3つのキャラクターの方は、演技はごく類型的なものにとどまっており、特に与ひょうの性格表現は、この演出でも、相変わらずまだるっこしい・・・・つまり、つうの苦悩への反応の演技が、常にボケッとしていて、曖昧なのである。愚か者は愚か者なりに、もう少し演技の細かさがあってもいいのではないか?
 子供たちはパピー・コーラスクラブというグループだが、演技はわざとらしく、特に幕切れ場面は、いくらなんでもわめき過ぎだ(これは指揮者の責任か?)。せっかくのしんみりした感動も吹っ飛ばされてしまう。

 それを除けば、今回の下野竜也の指揮は良かった。
 起伏豊かで、テンポやデュナーミクの変化にも劇的な迫力があり、このオペラの音楽に本来備わっている深い情感や激しさを、かなりの程度まで再現してくれた。読売日本交響楽団のしっかりした演奏と併せ、今回最大の収穫だろう。
 唯一つ、つうの別れの歌の個所だけは、田辺の歌とオーケストラのカンタービレとがもう少しぴったり合っていたら、いっそう感動も増したと思われるが。

 しかし、オーケストラにこれ以上の劇的でロマンティックな雄弁さと美しさを求めるとすれば、やはりオリジナルの、管の編成の大きな――木管各2、ホルン4、トロンボーン3といったような――版で聴いてみたいところだ。
 そのオリジナルのスコアは既に失われてしまったと伝えられていたが、最近になって、大阪の某音楽大学で発見されたという。近々、その「原典版」で演奏される時代が来るだろう。そうすれば「夕鶴」の音楽は――少しグランド・オペラ的な性格が強くなるかもしれないが――こんなにも色彩的で劇的で表現豊かだったのか、と、新しい魅力を感じさせるはずである。

 若杉弘指揮の古いビクター盤(1970年録音)が、聴いた感じでは多分その原典版で演奏されているのではないかという気がするのだが、かつて氏に確認してみたら、「どの版でやったか、もう忘れちゃったよ」という返事が返って来た。このことは、以前にもこの日記(2011年2月5日)でも書いた。

11・12(土)ロリン・マゼール指揮東京交響楽団

   テアトロ・ジーリオ・ショウワ  6時

 これは、やはりあのミューザ川崎シンフォニーホールの、響きの良い大空間で聴きたかった――とは言っても今は詮無きこと。

 しかし今夜のマーラーの第1交響曲「巨人」では、マゼールと東響が、シンフォニー・コンサート向きではないこのテアトロ・ジーリオ・ショウワのアコースティックを巧く克服していたことは確かであろう。

 編成を小さくしてプロセニウムの内側にオーケストラを配置したベートーヴェンの「第1交響曲」は、客席にそのエネルギーがあまり伝わって来ない痩せた響きであったが、後半の「巨人」は、舞台前面までいっぱいに押し出した配置が成功してか、このホールにしては珍しくオーケストラが厚みと力を以って鳴り渡るという印象になっていたのである。

 マゼールの今日の指揮は、比較的端整なスタイルだった。
 コンサートによって演奏上の表現を変え、ある日は端整になったり、別の日には激しい劇的なスタイルになったり、あるいはスコア通り整然と演奏する日があるかと思えば、ティンパニの音程に趣向を凝らしたり(4拍子の全音符のトレモロを分散和音の4分音符に分けて叩かせる、といったごとく)する日もある、という彼の指揮を、われわれはこれまで何度も体験して来たものだ。
 今日のようにアンサンブルを重視し、テンポもあまり極端に動かさず、整然と古典的なスタイルで決める指揮を採ったのは、東響が事実上初めて指揮する――48年ぶりの顔合わせともなれば、初客演指揮にも等しいだろう――オーケストラだったせいだろうか?

 ベートーヴェンはあまりに端然とし過ぎていて、私はあまり楽しめなかったが、マーラーの方は、端然とした構築の裡にも厳しい力が満々と湛えられていて、特に第2楽章以降は聴き応えがあった。
 ホルン群の咆哮を狂暴にせず正確に吹かせ、時たま大きくパウゼを採って次の主題を際立たせる。普通なら狂瀾怒涛の爆発と昂揚が展開するはずの第4楽章にも、何か抑制された音調があって、一種のクールな造型感に支配されているようであった。

 東響は、緊張していたのか、「巨人」の第1楽章では、何か妙にぎこちなさと堅苦しさが演奏に感じられた。後半は次第に調子を上げていったようだったが・・・・。いずれにせよ、今夜の東響は、いつもの東響とはだいぶ違った。

 大太鼓とティンパニの巨大なトレモロ(それもしかし、普通よりは抑制気味のものだった)の裡にマゼールが最後の2つの終了和音を振り下ろして行く時、今年初め頃から「マゼール客演」と期待していた大イヴェントが、たった1回だけでこんなにあっけなく終わってしまうのか、という感慨に襲われる。「時よ停まれ、そんなに早く過ぎ去るな」という想いである・・・・。
 そんな気持になったのは、大震災のためミューザ川崎シンフォニーホールの内部が崩壊して、一時は「創立65周年記念」のこの演奏会そのものがどうなるかと危ぶまれた過程を見て来たからかもしれない。

 ともあれ、大マゼール様、丁寧に礼儀正しく(?)客演を仕上げた、という感。
 カーテンコールでは、彼に大拍手と大歓声が飛んだ。ソロ・カーテンコールも――1回だけだが――行なわれた。川崎でだったら、演奏の印象ももう少し違ったものになっていたろうから、あと1、2回は続いていたかもしれない・・・・。

11・11(金)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団
(ラフマニノフ・ツィクルス 第1回)

 サントリーホール  7時

 9日に行われた記者会見でラザレフは、ラフマニノフのあまり取上げられることのない「第1交響曲」の演奏について、自信満々の所信を述べたそうである。
 なるほど今夜の彼の指揮と、日本フィルの演奏を聴いて、たしかにそう公言しただけのことはある、と思った。

 何しろ、ラザレフ節の炸裂だ。音楽の力感が物凄い。22歳の青年ラフマニノフが持っていた荒々しい気魄と、傍若無人の覇気とを浮き彫りにし、それらを凶暴とも言えるほどのエネルギーで噴出させて行く。

 第4楽章における激烈な曲想と、放縦なほどの形式感――それが初演当時に先輩音楽家たちを呆れさせ、彼らをして「ラフマニノフこそは地獄の音楽院の優等生」と酷評せしめた一因であったことは想像に難くないが、ラザレフはそれをいやが上にも強調し、若き作曲家の「アンファン・テリブル(恐るべき子供)」的な特質を前面いっぱいに押し出した。

 しかし、その狂乱怒号の中にあっても、ラザレフはリズムを些かも崩さず、またアンサンブルにも厳しい均衡を保たせたまま、オーケストラを躍動させ、歌わせ、自在に制御して行く。このあたりはまさに、彼の近年の卓越した力量を示すものだろう。その一方、中間2楽章では、くぐもった音色の哀愁感に、ちょっとした軽快な諧謔を滲み出させる。

 ともあれここまで――多少強引ではあるけれども――オーケストラを鼓舞できる指揮者は、そうそういるわけではない。
 日本フィルも、よくぞあそこまでラザレフの要求に応えて鳴り渡ったものだと感心する。大音響はこのオケのお家芸だが、それが昔のように滅茶苦茶な「破れ太鼓」のようなものにならず、バランスのいいアンサンブルになっているのが有難い。何度も繰り返すようだが、3年ほど前までとは、今や別のオーケストラのようになっている日本フィルである。

 なおプログラムの前半には、ショパンの「ピアノ協奏曲第1番」が、岡田博美をソリストに迎えて演奏された。いろいろな意味で、手堅い演奏である。

     ⇒音楽の友新年号 演奏会評

11・5(土)MET ヴェルディ:「ナブッコ」

 メトロポリタン・オペラ  夜9時

 長い長い「ジークフリート」をたっぷり体験したあと、3時間半の空きがあるとはいえ、もう一つオペラを観るのは、体調が万全ならともかく、未だ時差ボケも完全に直っていない身には少々重い。
 しかし、この「ナブッコ」は、何年か前にここで観たことがあるイライジャ・モシンスキー演出の「娯楽的」なものだし、曲想も賑やかな作品だし、気は楽だ。

 このプロダクションは、ジョン・ネイピアの豪壮な回転舞台装置が売り物だ。
 以前観た時には、ナブッコ(ナブコドノザール、ネブカドネザル)率いるバビロニア軍がイェルサレムのソロモン神殿に攻め込んで来る場面で、巨大な戦車のようなものが神殿の扉をバリバリと押し破って突入して来る光景が凄いなと思ったものだが、今回はその趣向が無く、ただ兵士が行進して入って来るだけだった。あれだけぶち壊しては修理も大変だと、流石のMETも制作費の都合で仕掛けを変えたのかしらん。つまらない。
 しかし、そのあと神殿に火が放たれるところがあって、・・・・これは以前の上演でも行なわれていたか、それともなかったか。

 配役は、ナブッコにゼリコ・ルジッチ、奴隷女アビガイッレにマリアンネ・コルネッティ、ヘブライの高僧ザッカリアにドミトリー・ベレッセルスキー(METデビュー)、イェルサレム王の甥イズマエーレにアダム・ディーゲル、ナブッコの娘フェレーナにエリザベス・ビショップら。
 私にはあまり馴染みでない歌手たちも多かったのだが、みんな大変な実力派だ。力強く明晰に歌うし、表現力も豊かで、聴いていて手応えがあり、実に気持がいい。コルネッティはマリア・グレギーナに表情も少し似ていて(ただし彼女ほどの迫力はない)、第2部の至難なアリアも馬力充分に聴かせていた。

 しかし何よりも、演奏の成功の大半は、指揮者パオロ・カリニャーニに帰せられるのではないかと思う。
 この人の指揮には、胸のすくような歯切れよさと、引き締まった構築力と、畳み込みの巧さがある。「ナブッコ」の音楽があまり騒々しくなく、しかもドラマティックに、緊迫感豊かに聴けたのは久しぶりであった。疲れもいつしか吹き飛んだ。

 30分の休憩1回を含み、終演は午後11時45分。今回の席が通路際なので、内側から「早く立ち始めた」客を防ぎ切れず、こちらも早々に席を立ち、出口付近で拍手を継続。早く立ちたがるのは、大勢一緒になると実に時間がかかるからだと理解。「西洋人」たちは、ベラベラ話しながらのんびりゆっくり歩くから、ちっとも進まないのだ。

 ホテルに戻れば午前0時を過ぎる。翌日朝に空港に向かわなくてはならないスケジュールだと、これはかなりきつい。
 しかし偶然にも、翌6日は11月最初の日曜日に当たっており、午前2時を以ってサマータイムは終わり、冬時間に戻る。それゆえ、1時間は余計に眠れるので有難い。
 部屋には支配人からのメッセージがあり、「貴殿の部屋に備え付けの時計は午前2時を以って自動的に午前1時に戻るよう調整されている。したがって貴殿はご自分の時計のみを時間に合わせられたい」と親切に書いてあるので、ホホウ流石にサマータイムの権威USA、行き届いたものだと感心する。
 ところが実際には、翌朝になっても、ベッドサイドの時計は前日と同様、夏時間のままで動いているのであった。天下のヒルトン・ホテルにしては、抜けている。

      ⇒3日~5日分 音楽の友新年号

11・5(土)MET ワーグナー:「ジークフリート」

 メトロポリタン・オペラ  正午

 土曜日午後のマチネー。恒例のMETライブ・ビューイングの中継があり(日本では11月26日より録画公開)上下両側に設置されたクレーンを含め、TVカメラが無数に見える。

 このMETの新しい「ニーベルングの指環」は、ロベール・ルパージュの演出が話題を呼んでいるが、哲学的解釈や演技の面ではさほどの新味も見られないので、結局は舞台上の効果のみで特色を出したプロダクション――ということになろう。
 これは、ルパージュのセンスもさることながら、アシスタント演出のネイルソン・ヴィニョール、舞台装置のカール・フィリヨン、照明デザイナーのエティエンヌ・ブシェら、制作スタッフの感性の勝利ともいうべきものである。

 何しろ4部作を通じて(残るは一つだが、多分同じだろう)舞台装置はただ1種類、舞台一杯に並ぶ無数の白い鍵盤のような、コンクリート板のようなものだけだ。
 ところが、これが変幻自在、千変万化、位置を変え角度を変え、巧みな照明効果により岩山になり、洞窟になり、森になる。投影される炎や森や水の映像はリアルで美しい。「森の小鳥」もそこに映写されるが、その動きや表情の生き生きした精巧さと来たら、全く感心させられるほどである。
 この光景は、すでにMETライブ・ビューイングで観た「ラインの黄金」「ヴァルキューレ」でも堪能できたものだが、やはりナマで間近に見ると、その壮烈な巨大感に呑まれてしまう。

 しかし、こういう視覚的効果で勝負した舞台は、ドイツの――また日本の、哲学思想優先万能のワグネリアンたちからは、冷笑されるタイプのものであるかもしれない。先年、日本でも上演されたマリインスキー劇場版「指環」の時の反応を考えれば尚更である。ただ、最近はそういうタイプの舞台のほうが多いことは確かだ。それに、舞台としては、このMET版は完璧に出来ている。
 なお、第2幕に現われる大蛇は、いかにも絵に描いたような蛇で、些かマンガチックな愛嬌のある姿だ。

 さて、指揮は、総帥ジェイムズ・レヴァインが降板したので、ファビオ・ルイージが代ってピットに立った。
 歌劇場で彼の指揮するワーグナーを聴くのは、私はこれが最初だが、とにかく音楽が柔らかい。
 あらゆるモティーフがまろやかで豊麗な響きの中に包まれて、一つ一つを意識させることなく、美しく流れて行く。
 ワーグナーの音楽特有の、巨大感も威圧感もない。
 第3幕前奏曲では、嵐の音楽でさえなだらかな流れになり、内声部でホルン群などが不気味にとどろかせているはずの「ヴァルキューレの動機」のリズムも、微かにそれと聞き取れる程度だ。ブリュンヒルデの目覚めの個所でも、オーケストラはソフトにクレッシェンドするだけで、新しい世界が開けるような壮絶な昂揚は感じられない。

 これは、いわゆる魔性的なものの皆無な、優麗で平和な「指環」だ。こういうワーグナーも現代ではあり得るのか?
 その代わり、彼女の心にジークフリートへの愛が芽生え始めるあたりの叙情的な音楽は、きわめて優しく美しい演奏になっている。

 歌手陣。
 ジークフリート役はギャリー・レーマンからジェイ・ハンター・モリスに変わった。よく頑張って、少年っぽい性格は出ていたが、「鍛冶の歌」や最後の二重唱などでは、ヘルデン・テナーとしては少し無理が感じられるところもある。
 デボラ・ヴォイト(ブリュンヒルデ)も、やはり高音は明らかに苦しくなって来たようだ。ブリン・ターフェル(さすらい人=ヴォータン)は少し影が薄いが、最近の彼の声からすれば仕方のないところもあるだろう。
 エリック・オーウェンス(アルベリヒ)とハンス=ペーター・ケーニヒ(ファーフナー)はまず無難な安定。

 良かったのは、明晰な声で智の女神エルダを歌ったパトリシア・バードン(上手くなった!)、儲け役と言っては気の毒だがミーメを巧く歌ったゲルハルト・ジーゲル。
 それに大成功だったのは、清涼な声で「森の小鳥」を爽やかに歌ったモイツァ・エルトマンだった。

 30分の休憩2回を挟み、終演は5時20分頃。これだけでも重量感充分だが、今日は未だもう一つ残っている。とりあえず食事をして、一度ホテルに戻り、瞬時の休息。

11・4(金)MET フィリップ・グラス:「サティアグラハ」

 メトロポリタン・オペラ  7時半

 フィリップ・グラスのオペラ「サティアグラハ」は、1980年にロッテルダムで世界初演されたものだから、最新作というほどのものではない。METでは3年ぶりの再演で、今日がその初日だ。

 昨日と違って、流石に「好きな客」が多いらしく、終演後は殆どの客がスタンディング・オヴェーション。
 ブラヴォーよりは奇声と歓声、口笛が盛んで、若い客が圧倒的に多い。若い観客を開拓するには現代ものをレパートリーに取り入れるが良い、とはよく言われることだが、METも最近ジョン・アダムズやこのフィリップ・グラスなどの定評ある現代オペラを――委嘱新作ものはあてにならぬと見てのことだろう――再演も含めて取上げることが少しずつ増えているようである。

 ストーリーは、第2次大戦後に暗殺されたインドの聖者ガンディーの若い頃――南アフリカ滞在時代(1893~1914)の出来事を描く。
 英国のインド人差別や弾圧に対し、非暴力主義という真実の力または把握(サティアグラハ)で立ち向かい、インド民衆のリーダーとしての道を開いて行くガンディーが主人公になる。

 とは言っても、歌詞は全篇サンスクリット語(だそうである)で歌われ、しかも字幕が全くつかないので、事前の解説資料や、舞台装置の背景に投影される象徴的なキーワードのようなもので内容を理解するしかない(METライブ・ビューイング――12月10日より公開――では字幕が付くのでしょうね?)。
 それでも今日の観客は熱狂していた。ガンディー役のリチャード・クロフトが登場しただけで拍手が起こるのは、前回の上演を観た人々も大勢来ているという証拠だろう。特に最後のカーテンコールでフィリップ・グラス自身が姿を見せた時には、場内総立ちの大歓声となった。彼への信奉者は相変わらず多いようである。

 音楽は、もちろん典型的なフィリップ・グラスの語法によるものだ。同じ音型が少しずつ形を変えながら延々と続くミニマル系の音楽が、聴き手を一種の陶酔感に引き込んで行くことは、周知の通りである。
 その音型の反復の上に、息の長い歌の旋律が乗せられて行く個所もあるのだが、それを耳にしながら、もしかしたらこれに別の旋律を乗せて置き換えてみても面白いかな、と妙なことを考えてしまった。その昔、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」第1巻の最初のプレリュードの分散和音に、グノーが別の旋律を乗せて「アヴェ・マリア」という曲に仕立てた、あのテである。

 こんなことを書くと、見当違いのくだらんことを言うな、お前はグラスのことなど全く解っていない、と怒鳴られるかもしれない。が、ことほど左様に「繰り返しの恍惚」はさまざまな感覚や連想を惹起させて魅力的である、ということを言いたいのである。しかし、長いオペラとしての作劇法の上では、特に最後の場面では、やや冗長に感じられるところがある、というのも事実であろう。

 指揮は、3年前にもMETでの公演を指揮したアルゼンチン出身のダンテ・アンゾリーニ。欧州の歌劇場では現代ものだけでなくロマン派、イタリア・オペラなども指揮しているそうだが、私は彼を聴いたのはこれが初めてである。
 METのオーケストラの音色はこういう作品においても更に美しさを発揮するが、奏者たちの気の使いようも大変だろう。

 歌手陣では、ガンディー役のリチャード・クロフトが、もちろん見事な歌唱と演技力だ。その他、第2幕最後で西欧人から迫害されるガンジーをかばうアレクサンダー夫人役のマリー・フィリップスら、共演者たちもしっかりしていて聴き応えがある。第2幕冒頭でガンジーを嘲笑・罵倒するかのような、いかにもグラス的なリズムを完璧に刻んで行く男声合唱をはじめ、METの合唱団の充実ぶりも素晴しい。

 演出は、フェリム・マクダーモット。アシスタント・ディレクターおよび舞台装置はジュリアン・クローチ。
 演技と劇的な展開は、第1幕ではむしろ象徴的なスタイルに抑えられて動きは少ないが、抵抗運動をアピールしつつインドから南アフリカへ戻ったガンディーが迫害される第2幕から激しい動きが出る。第3幕大詰めで、ガンディーの指導するインド人の集団が一斉に「居住登録証」を燃やして抵抗の意を示すくだりなど、なかなかの迫力だ。
 絆のテープや新聞が、群集の手によってさまざまに形を変えて行ったり、人間が宙に浮かんでは消えて行ったりする象徴的な光景の数々も、幻想的で美しい。

 特に感動的に美しい舞台は、全曲のラストシーンだ。背景に拡がる青空と雲、そこに浮かび上がるガンディーのかつての仲間たちの幻影など、涙を催させるほど夢幻的である。理想を追い求める彼の歌(同じ旋律モティーフが何度も反復される)が、不思議に白々とした寂寥感を滲ませて行く。

 かくして30分の休憩1回を挟み、終演は午後11時15分頃。ホテルへ戻ればまた午前0時近く、ヘトヘトに疲れる。

11・3(木)MET モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」

    メトロポリタン・オペラ  7時30分

 日本時間3日の朝11時のANAで成田を発ち、米国東部時間3日の朝10時半にJ.F.ケネディ空港に着く。まだサマータイムであり、日本との時差は13時間。マンハッタンのホテルには正午少し前に入る。リクエストしていたアーリー・チェックインが幸いに叶えられたので、少し午睡して夜の公演に備える。

 市内には、雪などすでに痕跡もない。夜でもコートなしで歩こうと思えば歩けるくらいの気温だ。ホテルよりMETまで、早足で歩いてもやはり15分~20分かかるが、運動のためにはいいだろう。坐骨神経痛が治っていなかったら、こうは行かない。

 「ドン・ジョヴァンニ」は、マイケル・グランデージによる新演出だが、期待したわりには、かなりトラディショナルなものに留まっていて、人物関係に何か新機軸の視点を取り入れるというほどの舞台ではない。
 「地獄落ち」の場面では、ジョヴァンニは舞台中央から奈落に落ちて行く。その周辺に噴き出す火炎の猛烈さが、ケレン味というところか。だがこの程度なら、先年のザルツブルク音楽祭での「魔弾の射手」でもやっていたものだ。

 指揮は、レヴァイン降板を受け、ファビオ・ルイージとルイ・ラングレーが振ると発表されていたが、今日はラングレーが指揮した。これが良かった。
 彼の指揮は、それほど個性的というほどではない。しかし、フルートの音色などには透き通って美しい響きが生まれる。あざとい誇張や飾り気は一切なく、快走するテンポ運びが爽快だ。

 序曲や第1幕前半あたりではMETのオーケストラとの呼吸も今一つという感で、粗さがなくはなかったが、第2幕後半にいたり、ラングレーの本領が発揮される。「ドン・オッターヴィオのアリア」での木管の透明な音色の美しさをはじめ、地獄落ちの場面での見事な緊迫感(これは出色の出来だった)と、最後のアンサンブルの確固としたオーケストラの構築(これも盛り上がりを示した)など、素晴しい締め括りを作り出していた。
 このあたりを聴いただけでも、今日の指揮がラングレーで愉しかった、と思うゆえんである。

 歌手陣は、マリウシュ・クヴィエチェン(ドン・ジョヴァンニ)、バルバラ・フリットリ(ドンナ・エルヴィーラ)、マリーナ・レベカ(ドンナ・アンナ)、ラモン・ヴァルガス(ドン・オッターヴィオ)、ルカ・ピザローニ(レポレッロ)、モイツァ・エルトマン(ツェルリーナ)、ジョシュア・ブルーム(マゼット)、ステファン・コチアン(騎士長)と、まずは人気歌手を揃えて、これはなかなかの顔ぶれと言えたであろう。

 特にタイトルロールのクヴィエチェンは、スピーディな感じで切れ味が良く、「シャンパンのアリア」でも急速なテンポとリズムを完璧に保ち、胸のすくような勢いの歌唱を聴かせた。このアリアがオーケストラと全くズレることなく正確に歌われたのは、録音でならともかく、ナマでは珍しいのでは?
 しかも大詰めの石像との対決場面では、音楽が進むにしたがって次第に声を強靭に盛り上げて行き、恐怖感と虚勢とを巧みに交錯させ、実に見事なクライマックスを創り出していた。遠めに見る舞台姿は、この役としては貫禄や色気といったものが未だ不足気味ではあるものの、このラストシーンの劇的な歌唱一つで、彼のドン・ジョヴァンニは大成功と讃えられてしかるべきだろうと思う。

 彼と同じく今シーズンがMETデビューとなったモイツァ・エルトマンは、予想通り清純清涼な声で――演技の表情の方は何せ遠くてよく分らないが――この役には合っていただろう。
 ピザローニとコチアンは安定していて、破綻がなく、好演。

 疑問があるとすれば、ヴァルガスと、フリットリと、レベカだ。
 特に前2者は大スターで、実力には全く不足ない。が、その歌唱スタイルが、ラングレーの指揮するピリオド楽器(的)スタイルに対しは、何とも水と油のような存在になってしまうのである。ルイージの指揮でだったら――もちろん当初の予定通りレヴァインの指揮でだったら、違和感は無かったのかもしれない。
 その点レベカは、透き通ってよく伸び、少し冷たいところもある声質が、ラングレーの指揮にも、少し冷たいドンナ・アンナという性格にも合致していたと思われる。
 それにしてもこの女声歌手2人の声は強力で、第1幕最後の大アンサンブルではひときわ小気味よく全体を突き抜け、朗々と響いていた。

 1階に座っているお客さんの一部(全体ではない!)は、実によく笑う。こんなところ、笑う個所ではないだろうにと思ってしまうのだが、まあ屈託なくよく笑う。ドン・ジョヴァンニの地獄落ち場面が終わると、盛大な拍手が巻き起こり、アタッカで入るはずのアンサンブルの音楽を止めてしまう。オペラを娯楽と思って楽しんでいるのだろう。むろん、己の生き様を壮烈に貫いたまま玉砕した主人公に感動したり、音楽の魔性に心を打たれたりしている人だっているはずだと思うのだが・・・・。

 30分の休憩を挟み、終演は10時50分頃。1階席の客のうち、3分の1は、演奏が終わるや否や席を立ちはじめた。カーテンコールはそこそこ熱烈だったが、幕が一度降りたら、それでおしまい。上演の出来からすれば、もっと長くてもよかったろうに。

11・1(火)ユーリー・テミルカーノフ指揮
サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団

 サントリーホール  7時

 ロッシーニの「セビリャの理髪師」序曲、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは庄司紗矢香)、ストラヴィンスキーの「春の祭典」という、硬軟取り混ぜのプログラム。

 テミルカーノフとサンクト・フィルのロッシーニを聴くのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。
 序奏での弦からして、弾むようなスタッカートではなく、少し長い音価を使った、粘着性のあるリズムになる。分厚く豊麗な響きで滔々と流れるシンフォニックなロッシーニだが、これはこれで一風変った面白さがある。
 通常とは少し異なる響きの個所があり、オヤと思ったが、不勉強にしてこの曲での版の違いは承知していない。テミルカーノフはパルマ王立歌劇場音楽監督を兼務しているから、そこで異版について研究する機会があったのかもしれないが。

 メンデルスゾーンも、これまたとろけるように柔らかい、ふくらみのある音と表情が印象に残る。昔のテミルカーノフとサンクト・フィルだったら、こんな穏やかな美しさは出せなかっただろう。このコンビも随分変ったな、と感慨が湧いてしまう。
 庄司紗矢香がこれまた珍しく嫋々たる音色の演奏を聴かせてくれたが、それが単なる甘美な音楽に留まることなく、繊細美麗な表情の裡にきりりと引き締まった、何か不思議に突き詰めた感情のようなものが演奏全体を貫いているところに、彼女の凄さがあるだろう。アンコールにバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」第2番からの「サラバンド」が弾かれたが、これも美しい緊迫感にあふれた演奏だった。

 「春の祭典」では、テミルカーノフは、テンポの振幅をあまり大きく採らないし、鮮烈なリズムで斬り込んだり煽り立てたりすることもしない。全曲をひたすら滔々と、大河の如く押し流す。鋭い切れ味の威力でなく、壮大豊麗な音の絵巻と化した「春の祭典」というべきか。
 原色的な色彩感は、豊富だ。かつてゲルギエフが「ストラヴィンスキーは、リムスキー=コルサコフ門下から生まれたロシアの作曲家だ、自分はそれを念頭において《春の祭典》を指揮する」と語っていたが、テミルカーノフの指揮にもまた、ある意味でそれに共通したものが聴かれるだろう。

 いずれにせよ、18型弦の巨大編成による強豪サンクトペテルブルク・フィルが、悠然たる力感を漲らせつつごうごうと響かせ、押して行く「春の祭典」は、やはりただならぬ物凄さといったものを感じさせないではおかない。テミルカーノフは、最小の身振りでこの大奔流を引き出す。サンクトペテルブルク・フィルを、既に完全に掌握していることを誇示しているかのようである。

 アンコールは、またもやエルガーの「ニムロッド」だった。他にないのかね、と思ってしまうが、このオケ特有の壮麗な響きで盛り上がる「ニムロッド」には、他の指揮者やオーケストラの演奏するそれとは全く違う、上等のコクのようなものがあることはたしかである。
 テミルカーノフには、ソロ・カーテンコール。これも、昔の彼の演奏会にはあまりなかったことだ。

 明後日から久しぶりにMET。僅か3日間だが、新演出「ドン・ジョヴァンニ」「ジークフリート」、再演の「サティアグラハ」「ナブッコ」を。

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