2017-06

10・29(土)内田光子&ハーゲン・クァルテット 第2夜

 サントリーホール  6時

 第2夜は、前半にベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第14番」、後半にブラームスの「ピアノ五重奏曲」というプログラム。
 前夜は重心がどちらかというと四重奏曲に置かれていた趣だったが、今日はそれが五重奏曲に移っていたような。しかし、いずれの曲の演奏にも大変な重量感がある。

 「第14番」は、冒頭のアダージョからしてハーゲン四重奏団の恐るべき集中力が発揮された演奏で、それは聴き手を息もつまるような緊張感に包み込む。
 第5楽章(プレスト)での、ウェーベルンみたいなピチカートの交錯などもなかなかの迫力だったが、チェロが強い低音で煽り立てるタイプの演奏にはならず、荒々しさを抑制して軽やかに飛び行くかのような演奏に聞こえたのは、サントリーホールの大きな空間と、聴いた席が2階という、音源から少し遠めの位置だったせいかもしれない。終楽章でコーダに向かって昂揚させて行く緊迫力は、素晴しい。

 一方、内田光子が加わったブラームスの「五重奏曲」は、昨夜のシューマンのそれとは一転して、極度に重々しく沈潜した、これまた凄みのある演奏となった。こちらをもし昨夜聴いたとしたら、重圧に押し潰されるような気分になったかもしれない?

 2日間ともほぼ満席。人気の的は、ハーゲンか、内田光子か、その両者か?

10・28(金)内田光子&ハーゲン・クァルテット 第1夜

 サントリーホール  7時

 2夜連続のうちの初日は、前半にハーゲン・クァルテットがベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第13番」+「大フーガ」、後半に内田光子が加わってシューマンの「ピアノ五重奏曲」というプログラム構成。
 ずっしりと重い手応えを感じさせたのは、もちろん作品自体の性格にもよるが、演奏に漲る卓越した求心力、沈潜した緊迫感、といったものにも因るところが大きいだろう。

 結成30年を迎えているハーゲン四重奏団の近年の円熟ぶりはめざましく、もう昔のような楽観的な音楽は影も形も見えない。演奏のいたるところに突き詰めたような緊張感があふれていて、時には切り込むように鋭い魔性が閃く。
 「大フーガ」の、十数分に及ぶフーガの展開のあと、あの跳躍する最初の主題がいよいよ大詰めと言う感じで登場して来るくだりで、何か身の毛のよだつような戦慄を感じてしまったのは、――実はこの1週間、会津若松の飯盛山麓にあった藩政時代の先祖の墓を東京に改葬する作業にかかり切りになっていて、それが漸くこの日の昼に完了したばかりだったので、何か精神的に昂ぶっていたせいもあったかもしれないが、――とにかく、これはやはりほんとに物凄い曲だ、という思いを改めて強くしたものであった。
 
 それゆえ、後半のシューマンの曲に入った途端、はっと気が安らぐような気持になったとしても、無理もないだろう。こちらはこちらで、何といい曲だろうと、心が暖かいものに包まれる思いになった。
 内田光子のピアノはいつもながら燃え上がるような激しさを持っており、強豪ハーゲン四重奏団をもリードしてしまう勢いに満ちてはいるが、第4楽章後半などでは、若手たちがよくやるような、終結に向かって殊更に煽り立てるようなことは一切やらない。むしろテンポを引き締めつつ、叙情的な性格を守りつつ結んで行った。ちょっと物足りないところだが、しかしこれはこれで、実に風格のある立派な演奏だったことはもちろんである。

10・24(月)下野竜也指揮読売日本交響楽団

    サントリーホール  7時

 ジョン・アダムズ作曲の「ドクター・アトミック・シンフォニー」と、團伊玖磨の交響曲第6番「HIROSHIMA」という、下野&読響でなければやらないような意欲的なプログラム。よくぞこういうものを取上げたものだと、まず賛辞から申し上げたい。

 「ドクター・アトミック」というオペラは、オランダでのライヴがDVDでも出ている。
 ピーター・セラーズの台本による、原爆を題材にした作品だが、原爆が爆発する模様を描くオペラではない。1945年夏、原爆が開発され、その最初の実験が行なわれる瞬間までを描くものだ。
 なにしろ原爆とはどんなものかも、その効果と影響がどのくらいのものかもよく解らなかった時期の話である。科学者の苦悩、その家族の不安、軍幹部の焦燥などが交錯しつつ進む。上演時間3時間弱、やや冗長な部分があるにしても、ある程度はよく出来ているストーリーと言えよう。

 だが、こういう内容の作品を平静な気持で観られる日本人は、まず居ないだろう。とりわけラストシーン、緊張の秒読みから、スウィッチが押され、息を呑んで「その瞬間」を待つ関係者たちの顔に、白い、次いで赤い光が当たり始め、やがて突然女性の日本語で「水ヲ下サイ・・・・助ケテ下サイ」という声が聞こえて溶暗して行くあたり、何とも暗鬱な感情に落ち込まざるを得ない。ストーリーの点だけからみれば、日本人としては実に後味の悪いオペラであることは事実である。

 さて、そのオペラから作曲者自身が編んだシンフォニーは、30分弱の長さだ。視覚を伴わないその音楽からは、特に説明されない限り、オペラの物語を想像することは出来まい。「交響曲第○番」でも、「交響的断章」でも、どんな名前をつけても通用するであろう絶対音楽的なオーケストラ作品と化している。
 彼の以前のオペラ「中国のニクソン」とは異なり、ミニマル系の音楽はほとんど姿を見せないが、3管編成の大オーケストラを駆使した強靭な響きにはすこぶる威力があり、音楽の推進性も豊かで、それ自体としては聴き応え充分だ。これは、下野と読響の気魄充分の演奏のおかげでもある。この作品をこれほど面白く聴けたのは、今回が初めてである。

 休憩後には、團伊玖磨の最後の交響曲、第6番「HIROSHIMA」が演奏された。これは長い。50分以上かかる。フルート5、ホルン6という大編成だが、その他の管は2~3本にとどめられ、その代わり能管と篠笛(一噌幸弘)およびソプラノ(天羽明惠)が加わる。
 いかにも團らしい豊麗壮大、かつ重厚な音響の裡に、リストやニールセンなど多くの先人たちの音楽の断片も流れ込んでいるが、團自身の「夕鶴」の中の「与ひょうの動機」のエコーも第3楽章の重要なモティーフとして生きているといったように、音楽全体の語法はあらゆる意味で團伊玖磨のものだろう。
 これも広島の悲劇を音で描く作品ではなく、むしろ「広島の復興と祈り」といったような性格を備えた大作である。

 ここでも下野と読響は大熱演で、團の色彩的なオーケストレーションがよく再現されていた。P席後方の高所で歌った天羽も好演であり、指揮者の横で鮮烈な笛を聞かせた一噌も迫力充分。
 興味深かったのは第2楽章で民謡が引用される個所や、能管・篠笛とオーケストラが対話を行なう個所などが、かつて作曲者自身がウィーン交響楽団を指揮したCDでの演奏に比べ、いかにも「日本的情緒」を感じさせる点だ。当たり前と言えばそれまでだが、ウィーン響の演奏で聴いた時には――たとえ日本の民謡を使っていても――團の作風がインターナショナルな性格に傾斜して行ったように感じられたのであった。だが、日本のオーケストラが演奏すると、やはりそこに民族的性格が鮮やかに出るものだ。

10・24(月)中嶋彰子ソプラノ・リサイタル

    HAKUJU HALL  3時

 これはHAKUJU HALL売りものの「リクライニング・コンサート」の一つとして行なわれたもの。

 リクライニング・コンサートとは、以前は「聴きますか、眠りますか」とかいったPR文句で、後方の席のみをリクライニングにして「眠ってもいいよ」としていたコンサートである――福井敬(テノール)がリサイタルをやった時には、1曲目に「だれも寝てはならぬ」を歌うという洒落たプログラムにしていたが。
 最近では、リクライニング・シートはそのまま設置されているものの、そういうキャッチフレーズは止め、内容の上でも、コンサートとして本格的なものとし、1時間ほどのプログラムで昼夜公演――というシリーズ企画が発表されている。

 今日の中嶋彰子と、ピアノのニルス・ムースとの協演では、歌曲、オペラ、オペレッタなど幅広いジャンルから10曲前後の作品が組まれた。
 ウィーンで活躍する中嶋彰子の、この上なくドラマティックな表現に富む強靭な声が、客席の最後列のリクライニング・シートに寛いでいた私の所までビリビリと飛んで来て、もちろん眠るどころではなく、大いに堪能させてもらった次第である。

 彼女の声は、単に張りがあって美しいだけでなく、いわゆるドラマトゥルギーを備えていて、歌詞と音楽とが肉離れを起こさず、密接に一体となって結びついているという特徴を持っている。
 特に面白かったのは、シューベルトの「野ばら」やトスティの「4月」を、歌詞の内容を劇的に表現して、オペラ的に歌い表現してみるという試みだった。

 この手法で歌われた場合、歌詞は強調されて劇的な要素を強める一方、音楽は単なる甘美さや流麗さから少し距離を置き、レチタティーヴォ的な性格を感じさせる。聴き慣れた曲に新鮮さが導入されることは確かだ。
 その他、ベルリーニの「清教徒」、ヴェルディの「マクベス」、スッペの「ボッカッチョ」、中山晋平の「ゴンドラの歌」なども歌われた、すべて歌詞の内容の表現が巧みだが、とりわけ日本の歌曲がこのようなアプローチで歌われた時には実に面白い効果が生まれるので、私は気に入っている。

10・22(土)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  2時

 何年か前までの日本フィルからは想像もつかぬほどの、緻密で精妙な、均衡の豊かな快演が今日も聴かれたのは、祝着の極みである。
 広上淳一が客演して指揮したプログラムは、シューベルトの「交響曲第3番」、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはボリス・ベルキン)、R・シュトラウスの「町人貴族」組曲だった。

 とりわけ感心させられたのは、あとの2曲である。ブラームスがこれほど堅固で隙のないアンサンブルを以って緊迫感を失わずに演奏されたのは、広上の制御の巧さもさることながら、日本フィルの最近の演奏水準向上への努力のたまものであろう。
 もちろんこの曲では、ソリストのボリス・ベルキンの骨太で剛直な、並外れた集中力に富む真摯そのものの演奏がまさに圧巻というにふさわしかった。だが、それに拮抗してシンフォニックな世界を繰り広げた日本フィルの演奏もまた見事だったのである。第2楽章でのオーボエのソロも良かった。

 さらに愉しかったのは、「町人貴族」だ。小編成で各パートの奏者がソロを競い合うこの曲は、ほんのちょっとしたアラも丸見えになる危険性を孕んでいるが、ここでのオーケストラの演奏は、驚くほど完璧なものだった。
 ホルン、トロンボーン、トランペット(オッタビアーノ青年の、ただ1回の華麗なソロが見事に映えた)、オーボエをはじめとする木管群、ヴァイオリン(江口有香)、チェロなど、ソロがことごとく見事だったし、それらのバランスも非の打ち所がなかったと言っていいだろう。

 腰をくねらせながら表情豊かな音楽を求めて指揮をする広上淳一の狙いからすれば、もう少しエロティックなニュアンスが実現できてもいいのではないかという気もするが、ここまで「綺麗な」響きの「町人貴族」が聴けたのだから、満足することにしよう。
 とにかく今日は、広上のセンスの鮮やかさと、日本フィル近来の美演とが、われわれへの最大の贈り物。
 

10・20(木)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 昨日に続く東京公演、今夜はシューマンの「第4交響曲」とブルックナーの「第9交響曲」で、ニ短調の作品が二つ組み合わされた。

 スクロヴァチェフスキは、今夜も凄い。シューマンの冒頭の一撃からして、ぶちかまされたという感。単なる音量的な次元の話ではなく、音に籠められた気魄がただものではない、ということである。
 その後に続く弦楽器のフレーズにあふれるニュアンスの細かさも素晴しく、強弱自在で起伏の大きい、実に表情豊かなカンタービレが展開して行く。この見事なエスプレッシーヴォは、この交響曲の演奏全体に共通する特徴でもあった。

 そしてまた特に印象深かったのは、第3楽章の最後、音楽が次第に沈み込んで行く個所でスクロヴァチェフスキが各パートに施した微細な表情と、緊張感あふれる「間」の雄弁さだ。
 上昇・漸強の中に緊迫感が生まれるのは珍しくないけれど、下降・漸弱の中にそれを与えるのは、ただ名匠の演奏のみに可能なことだろう。そのあとの第4楽章冒頭のクレッシェンドが思ったよりあっさりしていたためもあって、この第3楽章最後の「沈潜への下降」の面白さがいっそう印象に残ったわけである。

 ブルックナーの「9番」でも、第1楽章と第3楽章にこの大ワザはしばしば聴かれたが、それ以上にこの「9番」の演奏全体には、何か一種のデモーニッシュな力があふれていたと言ってもいいのではないか。それは第1楽章の途中あたりから次第に力を増し、壮烈な終結部で全開し、速めのテンポで激烈にたたみかける第2楽章のスケルツォ部分で頂点に達した。
 故あらえびすの表現を借りて言えば、「管弦楽団の張り切った良さと、それを制御するスクロヴァチェフスキの気力が、壮烈を極めて見事というも愚かである」ということになるか。

 第3楽章では、何度も大波のように反復される起伏もニュアンス豊かで、大詰めの個所では浄化に向かって流れ行く弦楽器群の動きもとりわけ美しかった(特に【Ⅹ】の2小節目のヴィオラ!)。

 オーケストラは金管が時に粗いこともあったが、なまじ洗練された完璧な均衡のオーケストラが演奏する場合と違い、その荒削りな響きが、むしろブルックナーがこの作品(特に第2楽章以降)で示した大胆な和声を浮き彫りにする結果を生み、もし彼がもっと長生きしていればどんなことをやっただろうかと想像を逞しくさせられる基にもなるだろう。
 今日はホルンとワーグナー・テューバ群も健闘、昨日の「4番」で良いソロを聴かせてくれた東洋人奏者も引き続きトップを吹いていた。

 客席はほぼ満員。聴衆の殆どが男性であるという光景は、朝比奈隆のブルックナー演奏会以来、久しぶりに見るものだ。
 昨夜も今夜も、スクロヴァチェフスキが完全に指揮棒を降ろすまで息詰まる静寂が保たれ、それから拍手が沸き起こるという形に――理想的とは言えぬまでも――近くなっていた。
 今夜の指揮者へのソロ・カーテンコールは4回という聴衆の熱狂ぶり。彼は昨夜と同様、舞台に再登場する際にときどき何人かの奏者をも一緒に引っ張り出していたが、しかし、その奏者はせっかく一緒に出て来ても、聴衆の本音は・・・・。

10・19(水)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団

    東京オペラシティコンサートホール  7時

 よりにもよって(おそらく)一番長い名前の指揮者と、一番長い名前のオーケストラが結びついた。
 
 これまで2度(2003年、2006年)来日しているザールブリュッケン放送響(1936年創立)と、カイザースラウテルンSWR管(1951年創立)が4年前に合併した結果、こういう寿限無みたいな長い名前になってしまったという(三菱東京UFJ銀行のようなものだ)。
 活字メディアや放送メディアは、苦労するだろう。
 今秋からの首席指揮者はカレル・マーク・チチョンという人で、おなじみスクロヴァチェフスキの方は今「首席客演指揮者」の由。

 合併により、両者のうちのどのくらいのメンバーが残留し、どのくらいが辞めたのかは定かでないが、とにかくかつてザールブリュッケン放送響として来日した時よりも、オーケストラ全体の技量的水準は上がっているようだ。
 いわゆるインターナショナルな響きを持つヴィルトゥオーゾ・オーケストラではないけれど、いい意味での「その町のオーケストラ」というような――ちょっとローカル的な雰囲気も残る手づくり的な個性が、不思議な親しみやすさを感じさせる。

 今年88歳になるスクロヴァチェフスキが、相変わらず若々しい。歩行もこの年齢にしては颯爽たるものだし、長大なプログラムを立ち続けたままで、しかも暗譜で指揮する。カーテンコールにも元気で応え、おまけに終演後には延々長蛇のファン相手にサイン会までするのだから凄い。

 もちろん、音楽づくりも若々しい。
 1曲目のモーツァルトの「ジュピター交響曲」も驚くほど引き締まった演奏で、第1音が鳴り出した途端に、ミスターS健在なり、という喜びが湧き上がったほどである。オーケストラから少し丸みのある柔らかい響きを引き出し、しかも剛直さを失わせることなく、緊迫感を保ち続けながら終楽章の頂点に向け楽曲を構築して行く。

 一方、ブルックナーの第4交響曲「ロマンティック」は、緩徐個所で時折音楽の密度が薄くなり、両端楽章で時に利かせるアッチェレランドの追い込みも以前より淡白な表情になった感もある(読売日響だったらこのへんはもっと自ら巧くやってみせるだろう)。しかし、大きな起伏を持たせつつ楽曲を見通しよく構築して行くスクロヴァチェフスキの手腕は、いつもながらのものだ。
 彼は、この曲でも頂点を終楽章に置き、そこでエネルギーを一気に解放する。金管群の音量も第4楽章に至るや突然2倍に達する、といった感である。

 大詰めの壮大な9小節間で、普通はトランペットなどにマスクされてしまうホルンの3連音符が微かながらはっきりと聞こえるあたりなど、いかにもスクロヴァチェフスキらしい緻密なバランス設計が示されていて、私は大いに気に入った。

 なお第4楽章第1主題群が頂点に達した個所で、スクロヴァチェフスキは「改訂版」から引用したシンバルを追加している。これは以前に録音したCDでも同様であった。全管弦楽が爆発する瞬間に一段と高くシンバルが打ち鳴らされる効果は――たとえブルックナーの原典楽譜にはなくても――何か胸のすくような趣があるだろう。

 アルプス山脈的な壮麗雄大さはないにしても、一種の生々しく人間くさい息づきのようなものが感じられる。それが、スクロヴァチェフスキの指揮するブルックナーなのである。

10・17(月)クリストフ・エッシェンバッハ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

  サントリーホール  7時

 モーツァルトの「交響曲第34番」と、ブルックナーの「交響曲第4番」を組み合わせたプログラム。

 いわゆる「来日メンバーの構成」については、あれこれ巷の噂は聞くけれども、詳細は一切知らないし、敢えて首を突っ込みたくもない。とにかくこんなご時世、よくおいで下さいましたとだけ申し上げて、あとは演奏を聴いた印象のみを記すことにする。

 いずれにせよ今回は、おなじみライナー・キュッヒルがリーダーを務めていたにせよ、何かいつものウィーン・フィルらしからぬ音色に感じられたことは事実だ。
 モーツァルトは少々無造作で粗いし、ブルックナーでも、いつになく硬質で高音域の勝った音が響く。
 ただ、そのブルックナーの第4楽章もそろそろ大詰めに近づこうかという頃、にわかに弦楽器群が厚みのある緻密な響きを取り戻し、最後の雄大な頂点個所では全管弦楽が極めて見事な均衡に達したことも確かであった。終わり良ければすべて好し、ということになるか? 満員の客席は拍手で沸騰した。

 エッシェンバッハの指揮については、私はどうやら昔から相性が悪いらしい。PMFでも何度も聴いているが、マーラーにせよブルックナーにせよ、彼の指揮する演奏は、これまで一度も心の琴線に触れたことがないのだ。
 今回も聴く前までは、彼がウィーン・フィルを強引に引きずり回すのではなく、このオケの長所を引き立てるような形で――たとえばハイティンクのように――伸び伸びと演奏させるスタイルを採るのかと思っていたのだが、実際は逆で、むしろ非常に几帳面に、ごつごつした型をつくって、音楽の流れを無理矢理それに当て嵌めてしまっていたように感じられる。
 そのため、演奏は切り立つように鋭い力感を備えてはいたものの(ブルックナーの第3楽章など、それはそれで痛快ではあったが)、一方では音楽にしなやかな流動性を欠き、それが楽曲全体の見通しを些か不明瞭にしてしまう傾向もあった。

 アンコールは無し。

    モーストリークラシック新年号 公演レビュー

10・16(日) マティアス・ゲルネ バリトン・リサイタル

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 つい先日、サイトウ・キネン・フェスティバルで「青ひげ公の城」を歌ったマティアス・ゲルネが、今度はマーラーとシューマンの歌曲を集めたリサイタルを開いた。

 並みのプログラミングなら、前半にシューマン、後半にマーラー、とかいった構成にするところだろうが、ゲルネはそうではなく、3つに分けたパートそれぞれにおいて2人の作曲家の歌曲を交互に――時には2曲、3曲ごとに――配列するという洒落た手法を採る。その配列は、曲の内容に応じて行なわれており、なかなか巧みなものである。

 ただ、第1部(愛)と第2部(死、別れ)それぞれに並べられた各7曲は、些か遅いテンポの沈潜した雰囲気の作品が多く並んでしまったという印象は否めまい。ゲルネのダイナミックな起伏に富んだ劇的な歌唱が、それらに緊張感を与えていたのであった。
 第3部(兵士)に至ってその抑制されたテンポは解放され、いっそうドラマティックな悲劇性が強調される――シューマンの「兵士」、マーラーの「死んだ鼓手」、シューマンの「2人の擲弾兵」、マーラーの「少年鼓手」の4曲、といった具合に、これもすこぶる見事な選曲である。ここでは、ゲルネの強靭なオペラ的な声の迫力が、凄みたっぷり、噴出していた。
 
 ピアノの協演は、アレクサンダー・シュマルツ。第1部の「愛」を描くシューマンの歌曲などでは、ふくよかな柔らかい音色で、拡がりを以ってゲルネの声を包み込むような演奏を聞かせていた。
 とはいえ、第3部の「死んだ鼓手」での激しい行進曲調になると、何かやけっぱちで叩きまくるような感がないでもなく、それは内容通りの「乱軍」を想像させたことは事実だが、もう少し細かいニュアンスが欲しい。

 ピアノではもう一つ、「2人の擲弾兵」が「ラ・マルセイエーズ」の旋律で昂揚したあと、現実の悲劇に戻るように音楽が突然暗く落ち込んで行き、ただちに次の処刑を待つ少年兵士の独白「少年鼓手」に移行するあたり。
 ここは最後の頂点のあとにカタストロフを置くという意味で、実に見事な選曲のセンスだと感心したのだが――その変化を描き出すべきピアノがあんなに素っ気なくては、せっかくの配列も生きて来ない。

 このホール、歌曲のリサイタルを1階席中央あたりで聴くと、おかしなアコースティックがいつも気になる。歌手が少しでも斜めの方向に顔を向けると、声が壁に反響してエコーがかかったような音になり、正面を向いた時だけストレートな音になる。動きの激しい歌手の場合には、音像がのべつ変化するといった具合だ。
 何とか音響上で改善の方法を講じてもらえないものだろうか? どこかに屏風を立てるとか?

10・15(土)インゴ・メッツマッハー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

    サントリーホール  2時

 メッツマッハー、新日本フィルへの2度目の客演指揮。
 昨年11月の初客演で指揮した「悲愴交響曲」は演奏が腑に落ちず、マーラーの第6番「悲劇的」でも強引さと強烈さに辟易させられたものだが、今日の演奏はそれに比べると遥かに多彩で、しかも一貫性が感じられ、納得が行くものであった。
 プログラムは、ベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番、アイヴズの「ニュー・イングランドの3つの場所」、ショスタコーヴィチの第5交響曲。

 メッツマッハーの指揮で特に強く印象付けられるのは、オーケストラの楽器のバランスづくりの巧みさと、鋭角的なリズムに支えられる引き締まった強固な構築性だ。
 それらは、「レオノーレ」では端整で正確で毅然とした音となり、次の「ニュー・イングランドの3つの場所」では、いろいろな旋律や動機を一緒に鳴り響かせるあのアイヴズ独特の管弦楽手法が鮮やかに整理されて再現されるという形になる。

 後者は、私はナマで聴いたのはこれが2回目だが、聞こえるべき楽器のパートがまさしく聞こえるように浮かび上がる今回の演奏を聴いて、今度こそこの曲の魅力が堪能できたような思いになった。
 本番がもう1回あれば、さらに明晰な構成の演奏になるのかもしれないが、これだけでも充分満足できる演奏である。

 ショスタコーヴィチの「5番」は、もともと私はあまり好きな曲ではないのだが、この指揮者ならどう料理してくれるだろうか、と、事前の興味は津々。
 実際の演奏は特に奇抜なところはなかったけれど、ここでもオーケストラの音色のバランスには細心の注意が払われ、緻密につくられた最弱音と強靭な轟音との対比が際立つ。鋭い音色とリズムを駆使し、全曲を凄まじい緊迫感で押し包むのは前回のマーラーの「6番」でも同様だったが、それは私を息苦しいほどの気持にさせることもある(一方ではある種の快感にもなるのだが)。

 メッツマッハーは、両端楽章のテンポを著しく遅めに採った。とりわけ第4楽章は遅いテンポで重々しく開始し、狂気じみたアッチェレランドを重ねることなく進み、最後の頂点でも遅いテンポを保持したまま激しい気魄のうちに結んでいた。このようなテンポの設定は、明らかにこの曲の悲劇的要素を浮き彫りにしているだろう。

 新日本フィルの演奏も、実に鮮やかだった。前回よりもメッツマッハーとの呼吸がより良く合うようになって来ているのだろう。ただ咆哮するだけでなく、いっそう細かいニュアンスを感じさせるようになっている。アルミンクやハーディング、メッツマッハーといった指揮者との協演で実績を重ねた新日本フィルは、こういう「現代傾向」指揮者相手に良さを聞かせるという点では、現在の日本のオケの中でおそらく第一の存在かもしれない。

    ⇒音楽の友12月号 演奏会評

10・9(日)新国立劇場 R・シュトラウス「サロメ」

   新国立劇場オペラパレス  3時

 新国立劇場オペラ芸術監督の尾高忠明が「やっと」新国での指揮デビューをする公演とあって期待していたのだが、やはり降板してしまった。
 「やはり」というのは、オケ・ピットから舞台上を見るために頸をそらした姿勢で指揮をすることが、頚椎かどこかの持病の関係で無理、という話を以前から聞いていたからである。やっと快癒されたのかな、と思っていたのだが・・・・。

 代役として登場したオーストリアの指揮者ラルフ・ヴァイケルトは、さすがオペラ指揮のベテランらしく、後期ロマン派的な色合いを其処此処に感じさせつつ、手際よくまとめてみせた。東京フィルの演奏も、初日にしては安定していたと言えよう。

 タイトルロールを歌ったのはエリカ・スンネガルドゥだが、これまでに聴いたMETでのレオノーレ(フィデリオ)、ウィーンでのマクベス夫人(ヴェルディの「マクベス」の方)に比べれば、一応無難にこなしたと評していいのかもしれない。
 しかしそれでも、彼女の以前からの癖である、低音域の声に力と凄味がなく、歌唱にもニュアンスと表現力に不足して単調に陥る傾向は、如何ともし難い。このプロダクション(2000年プレミエ)で歌ったシンシア・マークリス、エファ・ヨハンソン、ナターリャ・ウシャコワらと比較してみても、最も存在感の希薄なサロメとしか言いようがあるまい。残念ながらこれは、予め予想された通りである。

 他に、ジョン・ヴェーグナー(預言者ヨハナーン)、スコット・マックアリスター(ヘロデ王)、ハンナ・シュヴァルツ(王妃ヘロディアス)、望月哲也(ナラボート)、山下牧子(小姓)らが出演。

 演出はアウグスト・エファーディング。装置も含めてもう何度も観た舞台で、プレミエ以来の当り役である原純の「儀典長」も以前と変わらぬ。今回も、踊るサロメを好奇の目で見る周囲の人物群の演技など、ちゃんと行き届いていたのは好ましい。
 舞台の両端で背を向けて立っている「警護の兵士たち」が、サロメが踊っているうちにだんだんと振り向き、見とれはじめるという演技には、今回初めて気がついたが、なかなか細かい仕上げである。

10・7(金)ペーター・レーゼルのベートーヴェン「皇帝」

   紀尾井ホール  7時

 4年がかりで進められて来たペーター・レーゼルのベートーヴェンのピアノ・ソナタ・ツィクルスが大詰めに近づく一方、その関連企画たるこのピアノ協奏曲のツィクルスも、最終回を迎えた。
 今日は第1番と、第5番「皇帝」の2曲。協演はシュテファン・ザンデルリンク指揮の紀尾井シンフォニエッタ東京。

 何の虚飾も誇張もない、ただひたすら真摯に語りかける演奏のベートーヴェンである。温かい語り口が、強い説得力を持つ。

10・6(木)ラドミル・エリシュカ指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

   ザ・シンフォニーホール  7時

 大阪フィルと出会ってからもう40年か、それ以上になるが、この間に聴いた指揮者は、ほとんどが朝比奈隆と大植英次だった。他には小澤征爾1回、手塚幸紀1回があるのみ。もちろんエリシュカの指揮で聴くのは、これが最初だ。

 今回はスメタナの「わが祖国」全曲。
 前半の3曲では、大阪フィルも今夜は珍しく鄙びた音を響かせるものだなと思い、これもエリシュカの狙いなのかと、それなりに感心して聴いていた。アンサンブルはあまり密でなく、音色も少し粗いが、ダイナミズムは強烈で、荒々しく活力にあふれる。
 エリシュカは時々こういう指揮を聞かせることがある――その最たる例は、彼が日本で有名になり始めた頃、芸大奏楽堂(上野)で東京都響(あまり相性がいいとは感じられなかった)を指揮したチャイコフスキーの「5番」だろう、何しろあれは往年のケンペン=コンセルトヘボウのレコードもかくやの豪快奔放な演奏だった。

 それゆえ、今回も大阪フィルに対してはそういうタッチで臨んでいるのかな、と、半分は理解、半分は首をひねりながら聴いていたわけである。
 ところが、休憩後の3曲になると、オーケストラのアンサンブルは俄然緻密になる。特に「ボヘミアの森と草原より」での弦のしっとりした音色は、これぞチェコ国民楽派の醍醐味と思わせるような見事さになって行った。また「ターボル」や「ブラニーク」での金管と弦も、かなり均衡のある響きを保持するにいたっていた。

 というわけで、大阪フィルの演奏としては、後半の3曲の方がずっとまとまりが良かったと言えよう。
 ただ私としては、前半での演奏の方に、よきスリルを覚えたのは事実である。特に「モルダウ」での、非常にメリハリの利いた演奏は愉しかった――冒頭の静かな「水源」の個所でさえも、あるいは月の光に輝きながら流れ行く河の場面でさえも、リズムが鋭さを保ったままであるのは面白く、また農民の踊りの最後で弦が明確なリズムの上に波打ちながら遠ざかって行くのも快いものだった。
 「シャールカ」でも、兵士たちが酔いつぶれて行く個所での弾む弦など、エリシュカはいいリズム感を持っている人だな、と感じ入ったものである。

 全体的にごつごつした音楽づくりで、どちらかといえば強面の「わが祖国」ではあり、それはそれでいいのだが、欲を言えばクライマックスへ追い上げるアッチェルランドにもう少し柔軟性があっても良かったろう――「シャールカ」の最後、「ブラニーク」の大詰めのようなところで。
 だが、演奏全体に満ち溢れていたあの独特の滋味は、不思議な懐かしさを呼ぶ。それは、やはりエリシュカならではのものであった・・・・。

      ⇒モーストリークラシック1月号

10・5(水)アントニオ・パッパーノ指揮ローマ・サンタ・チェチーリア管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 正式名称はサンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団。
 日本では昔「サンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団」などと呼ばれていたが、「国立アカデミー Accademia Nazionale」と「音楽院 Conservatorio」とは別組織である。

 14年ほど前、アカデミーのブルーノ・カッリ総裁にインタビューした際に「日本の皆さんは、昔からこの2つを混同しておられるようですな。音楽院のオーケストラは、単なる学生のオケですよ。しかし国立アカデミーに属する有名なオケは、れっきとした伝統あるプロの団体です」と笑顔で言われたことがある。だが今回のプログラム・パンフレットのカッリ総裁の挨拶文の中に、またも「音楽院」という訳語が使われているのには驚いた。

 それはともかく、音楽監督アントニオ・パッパーノの指揮で演奏されたプログラムは、第1部がプッチーニの「交響的前奏曲」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはボリス・ベレゾフスキー)、コンチェルトのアンコールとして同曲第3楽章の後半。
 第2部がリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」で、さらにアンコールとしてヴェルディの「運命の力」序曲と、ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲からの「スイス軍隊の行進」が演奏されるという盛り沢山。

 何しろまあ、当るを幸い薙ぎ倒すといった感じの、凄まじい勢いの演奏である。1階13列中央あたりで聴いたから、いっそうその印象が強かったのかもしれないが、痛快無類ともいうべき大音響の饗宴だ。音色が明るく晴れやかなので、その開放的なパワーがさらに引き立つ。
 指揮者もオーケストラも、そしてピアニストも、音楽を精いっぱい愉しんで演奏しているという雰囲気である。

10・4(火)下野竜也指揮読売日本交響楽団のドヴォルジャーク

   サントリーホール大ホール  7時

 これは「名曲シリーズ」だが、ドヴォルジャークの「夜想曲Op.40」や「第5交響曲」などという珍しい曲が取り上げられているので聴きに行く。

 この2曲の間には「チェロ協奏曲」が演奏され、ルイジ・ピオヴァノ(サンタ・チェチーリア管第1ソロ・チェロ奏者と紹介されているが、来日中の同管弦楽団のメンバー表には彼の名は乗っていない)が、野性的な、力動感あふれるソロを聴かせてくれた。
 アンコールで彼はメモを見ながら日本語で挨拶、東北大震災の被災者や犠牲者に捧げると言って「赤とんぼ」を演奏した。これはRoberto Granciなる人が2008年にチェロ四重奏のために編曲したものの由で、今回は読響のチェロ・セクションと一緒に演奏。泣かせる趣向ではある。

 この協奏曲での下野竜也と読響の演奏もすこぶる豪快なものだったが、もちろん前後の2曲における演奏も素晴らしい。弦楽合奏でしっとりと演奏された「夜想曲」も良かったが、下野の力量を今まで以上に鮮やかに感じさせたのは、やはり「第5番」だ。凡庸な指揮なら訳が解らなくなるようなこの「5番」を、彼は実に手際よく指揮してみせた。

 あの風変わり(?)な第1主題が転調しながら進んで行く第1楽章を、かくも多彩に、旋律美を存分に浮彫りにして演奏した例は稀であろう。
 また、何となく愉快な曲想をもつ第4楽章――特に第395~401小節でドヴォルジャークが稚気満々(?)、臆面もなく畳み込んで行った可笑しな個所でも、下野は何の衒いも小細工もなく、ごうごうと押す。
 全身を躍動させての彼の指揮に、読売日響がダイナミックに反応しながら熱狂的な演奏を展開する様子を見ながら、この人は本当に凄い指揮者になって来たな、と感嘆してしまう。

 大詰めの【Q】で、トランペットのリズム・モティーフの方を浮かび上がらせるか、それともトロンボーンによる全曲統一モティーフの方を浮かび上がらせるか、それにより音楽のイメージも全く変わってしまうものだが(私は後者の方が好きだが)、下野はその両者をすこぶる巧みなバランスで構築していた。読響も上手い。

10・4(火)譚盾プロジェクト「中国古代楽器『曾侯乙編鐘』」

   サントリーホール ブルーローズ(小ホール)  2時

 こういうのは、滅多に聞けない。

 中国の戦国時代、紀元前430年頃に、曾の支配者だった乙という人――つまり曾侯乙の墓に副葬品として埋められていた大量の編鐘の音だ。
 これは1997年に発見され、翌年以降に発掘と復元研究が開始されたという曰くつきの鐘とのこと。

 但し今回、小ホールの舞台にずらりと並べられた暗銅色の鐘の大群が、中国3千年の歴史を刻んだ実物なのか、それともレプリカなのかは聞き漏らした。
 いずれにせよそれらは荘厳で美しい形をしており、また音色も底力がある。「一鐘双音」という、一つの鐘でありながら音程の異なる二つの音を出すのが特徴だそうだが、これは鐘の正面を叩いた時と、横を叩いた時とで、異なる音程の音が発せられる――という意味である。

 これをタン・ドゥン(譚盾)がユーモアを交えて解説しながら紹介する(通訳は毛淑華)。
 第1部では「楚巫六韻」と題して「楚の祈祷歌~曾侯乙墓出土楽器のための」6曲が演奏され、第2部では「周朝六舞図」と題して譚盾の作品「周の舞楽」(6曲)が演奏された。演奏者は中国の美女7人(プログラムには名前は載っていない)と、第2部ではファン・ドゥ・ドゥ(黄豆豆)が振付と舞踊で参加。特に後者は剣舞のような舞踊も見られ、時には歌も織り込まれて、なかなかの迫力を備えていた。

 鐘の音も凄いが、それと同等に、音と音の狭間にある「間」の雄弁さも凄い。これあるがゆえに、演奏は息を呑ませる緊張感を生み出す。貴重な体験で、面白かった。

10・3(月)サントリーホール オペラ・ガラ

   サントリーホール  7時

 サントリーホールフェスティバル(開館25年記念)が開幕したばかりとあって、客席内にも華やかな装飾が見られるが、このガラ・コンサートそのものは、三菱鉛筆の創業125周年スペシャルと銘打たれている。

 ベルリーニ、ロッシーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、プッチーニ、といったイタリア・オペラを集め、ジュゼッペ・サッバティーニが指揮する東京交響楽団と東響コーラスに、3人の若手歌手が出演。序曲(またはシンフォニア)やアリア、二重唱などをいっぱいに詰め込んだプログラムだ。

 ダヴィニア・ロドリゲス(スペイン)は、第1部で歌った「ルチア」などでは未だ緊張が解けていなかったのかもしれないが、第2部で歌った「椿姫」の「ああ、そはかの人か~花より花へ」で実力を全開、「ラ・ボエーム」の「私の名はミミ」でベストを発揮した。容姿も声も張りがあって実に美しく、このまま伸びれば素晴らしいプリマになるだろう。

 デヤン・ヴァチコフ(ブルガリア)は、第1部で歌った「セビリャの理髪師」のバジリオのアリアより、第2部での「マクベス」や「シモン・ボッカネグラ」などヴェルディの悲劇的なアリアの方に迫真力を示した。凄みを利かせた声がいいのは、さすがブルガリア出身だけのことはあるか。長身だし(ちょっと細身だが)舞台映えするだろう。

 イタリアのテノール、フランチェスコ・デムーロは、第1部のトリを飾った「連隊の娘」の例のハイC連発で大健闘、これはなかなかやるぞと思わせたが、その疲れが出たのか、第2部での「女心の歌」や「冷たき手を」では少々雑な発声になってしまった。

 サッバティーニの指揮は今回初めて聴いたが、歌い手に対しては、たしかにいいサポートかもしれない。しかし、「ナブッコ」の「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」などでは遅いテンポを全く保ち切れずに緊迫感を欠く指揮になったかと思えば、「シチリア島の夕べの祈り」序曲では結構劇的に煽り立てるなどあったりして、何だかよく解らない。ただ、こう言っちゃ何だが、この人の指揮する演奏は、どうも単調である。

 東京交響楽団は、長いプログラムを無難にこなした。予想以上の良さを聴かせたのは、東響コーラスだ。特に前出の「ナブッコ」の合唱の最後の長い美しい最弱音は、歌劇場の専門の合唱団に匹敵する見事さだった。

10・2(日)新国立劇場「イル・トロヴァトーレ」初日

   新国立劇場オペラパレス  2時

 新国立劇場の新シーズン開幕は、ヴェルディの「トロヴァトーレ」。

 冒頭から東京フィルが活気に満ちた音で鳴り出した。先日の「セビリャの理髪師」での貧相な音とはえらい違いだ。
 このオーケストラは出来不出来が極端だが、何が原因なのか? コンサートマスターの違いか? 今回は荒井英治の名がクレジットされていた。彼がコンマスを務める時には、たいてい演奏が良い。今日くらい劇的な演奏(東京フィルとしてはだが)をしてくれれば、新国のオペラも映えるというものだろう。

 指揮はローマ生れの中堅で、新国立劇場デビューのピエトロ・リッツォという人。テンポの遅い弱音個所では緊張感が薄れる傾向もあるが、全曲最後の悲劇的場面では轟々とドラマティックに、鮮やかに決めていた。

 主役歌手4人は、さほど著名な人はいなかったが、まず手堅い出来と言ってもよかったであろう。概してみんな最初は少し硬かったが、次第に調子を上げて行ったという感である。
 ヴィットリオ・ヴィテッリ(ルーナ伯爵)が安定した個性の強い歌唱を聴かせ、将来を期待させる。ヴァルテル・フラッカーロ(マンリーコ)も「見よ、恐ろしき炎を」では大見得を切り、大拍手を集めた。
 タマール・イヴェーリ(レオノーラ)は、最初はちょっと硬かったが、段々と本領を発揮して行った。ただこの人、この役には少しおとなしいという印象を与える。もう少しヒロインとしての華やかさが欲しいところだ。

 アンドレア・ウルブリヒ(アズチェーナ)は、声はよく伸びるのだが、リズムのメリハリに不足する傾向があり、第3幕第1場幕切れの激しい怒りのリズムを要求される歌などでは、歌詞の発音がすべて平板に流れてしまうのが問題だろう。
 脇役では、フェランドを歌った妻屋秀和が、底力のある声と、外人勢を凌ぐ体躯で存在感を出した。
 合唱はもちろん新国立劇場合唱団で、特に男声合唱は威力があって見事だ。

 演出は、ミュンヘンのゲルトナー・プラッツ劇場総裁でもあるウルリヒ・ペータースが担当した。この物語を支配するのは「死」であるとし、「死神」を重要なモティーフとして各所に登場させるのが新機軸だろう。
 その死神(古賀豊)は、最初からマンリーコとレオノーラに「取り付き」、マンリーコが伯爵を戦いで殺すのを妨害するだけでなく、最後はみずから手を下してマンリーコを処刑する役割まで演じてしまう(ついでにカーテンコールを仕切るということまでやる)。
 死はあらゆる者に平等に訪れるという論理から考えれば、そもそも死神がルーナ伯爵を守ったり、彼の手助けをしたりする行動を採るのは奇怪しいとも言えるが、もともとこのオペラ自体が滅茶苦茶なストーリーなのだから、あまり理屈っぽく考えても仕方があるまい。
 ただ、その「死神」が連れている幼い少年の顔と、アズチェーナの顔とに共通して「血」の色が出ているのは、物語の以前の経緯を考えれば、面白いアイディアと言えるだろう。

 全体に所謂ドラマの「演技」には乏しく、人物の動きは極めて「イタリア・オペラ的」な、様式的なスタイルだ。とてもドイツ人演出家の手によるものとは思えない舞台である。

 新国立劇場の新シーズン開幕公演、やや地味な印象を与えるプロダクションだったといえようか。
 休憩1回を含み、6時頃終演。

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