2017-03

9・29(土)モーシェ・アツモン指揮NHK交響楽団

 NHKホール

 アツモンは、これがN響初登場。彼の特徴が演奏の随所に出ていた・・・・というより、初顔合わせのアツモンが振るとN響はこういう音を出すのか、ということ。「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」冒頭の弦の3小節にはアツモンらしい端正で澄んだ表情が感じられたものの、全体にやはり呼吸が合わないのか、あまり融通の利かぬ演奏で、「愉快ないたずら」ではなく「真面目ないたずら」の雰囲気。

 その点からも、次のモーツァルトのヴァイオリン協奏曲「トルコ風」の方にアツモンの個性が出やすいと思われたが、控えめだったその演奏のため、むしろセルゲイ・クリーロフの濃厚で色っぽい、よく歌うソロに、ステージを攫われた感がある。
 このソリストは丁寧に音楽をつくる人で、たとえば下行する二つの音符の二つ目で常にすっと力を抜いたり、第2楽章のカデンツァではホ音に落ち着くまでの個所を色濃い表情で歌い、それを艶めかしくオーケストラに渡すといった芸の細かさも示す。こうした手法は別に彼独特のものではないが、そこに色彩的で骨太な音色が加わると、何か不思議に官能的な音楽になるのである。こういうモーツァルトも面白い。いいヴァイオリニストだ。

 最後のブラームスの「交響曲第1番」は、冒頭は予想に反して柔らかいしっとりした味で開始された。アツモンが変貌したかと思われたが、これはどうも、頑固なN響が己れのスタイルで押したのではないかという気がしないでもない。しかし、第3楽章中程から音楽の響きががらりと変わり、端正で引き締まった勢いのある表情になって行き、終楽章大詰にかけては気迫満々、きりっとしたリズムで追い込み、壮絶な高揚を示すにいたった。これがアツモンの音楽であろう。結局、川中島の合戦ではないけれど、前半2楽章はN響の勝ち、後半2楽章はアツモンの勝ちというところか。最後は熱烈なブラヴォーの歓声が沸き起こった。

 この日はNHK-FMの生中継番組でゲスト解説を担当、1階最後列の席と中継室とを慌ただしく往復したが、演奏そのものはナマでじっくりと聴くことができた。

9・28(金)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

 サントリーホール

 ハイドンの第2交響曲、ブラームスの第3交響曲、樫本大進をソリストに迎えてのベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、という順序で演奏された定期。

 ハイドンは、今シーズンのスダーン指揮によるシリーズ。チェンバロを含めての小編成で、歯切れのいい演奏だ。ハイドンの初期の交響曲は、概して傍若無人なほどの大胆な作風を示しているが、スダーンのこの演奏は、古典派の先駆という位置づけを前面に出しているように感じられる。第2楽章は低音部が古典派、上声部はバロックというような構築が面白い。ただ、この曲の演奏を聴きながら、サントリーホールは改修後、少し響きがドライになったかなという印象を初めて持った。いくら満席に近いとはいえ、以前ならこの規模の演奏でも、もう少し瑞々しい音がしたように思うのだが・・・・。

 ブラームスの第1楽章は、同じ「アレグロ・コン・ブリオ」でも、ベートーヴェンの「アレグロ・コン・ブリオ」とは全く性格を異にするものだ、ということを証明するようなスダーンの指揮。抑制されたテンポで、非常に翳りの濃い響であり、全曲を通じてその特徴が貫かれる。午後に行なわれたゲネプロでは、なかなかに滋味ある美しい演奏だったが、本番では残念なことにトランペットやクラリネットにめずらしくミスが出て、やや感興を削いだ。

 休憩後はヴァイオリン協奏曲。第1楽章で多用される上行音階はベートーヴェンの気迫を示す特徴の一つでもあるが、樫本はこれに強い推進性も加えて、すばらしい緊迫度に満ちた演奏を繰り広げた。カデンツァでも同様。第3楽章ではこの緊張が解れて、少し寛いだ表情になった。客席はこの曲で大いに盛り上がる。
「音楽の友」12月号演奏会評

9・25(火)スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団

 サントリーホール

 シューマンの「第4交響曲」は、ザールブリュッケンのオーケストラを指揮した演奏がCDで出たばかり。それに対し、ナマで聴く演奏はさすがに大きな拡がりを感じさせるけれども、リズムはCDと同様に明晰そのもの、たたきつけるような鋭角的シューマンといったイメージに変わりはない。
 84歳近くにしてこのようなスタイルを保持できるスクロヴァチェフスキは、本当に若い。しかも常に暗譜で指揮する。ショスタコーヴィチの「第10交響曲」でも、暗譜指揮だった。

 その「10番」では、読売日響の超強力な低弦群をはじめ、おそろしく哀切な表情のオーボエ(第4楽章冒頭)、バランスの良いデュオを聴かせたピッコロ(第1楽章コーダ)、「謎の恋人」を想起させるにふさわしい夢幻的なホルン(第3楽章)などもあいまって、すこぶる充実した、スケールの大きな演奏となった。第3楽章中ほどでホルンのソロを支える弦楽器群のピチカートが譜面の指定と異なり、すべて骨太のフォルテという感じで弾かれたあたりも、この演奏を剛直なイメージにした要素の一つであろう。
 ただ、全曲大詰で、オーケストラのいろいろなパートがショスタコーヴィチの名のモノグラム「D-Es-C-H」を反復しつつ追い込んで行く部分がやや平板にとどまり、怒涛の終結感を創り出すには至らなかったのが、残念といえば残念である。だがこれは、無いものねだりというべきかもしれない。
 ともあれマエストロ・スクロヴァチェフスキ、演奏の分野では立派に常任指揮者としての責任を果たしてくれている。

 それにしても、この交響曲は面白い。第2楽章がスターリンを描いたものだとかいうヴォルコフの怪しげな説をいまさら鵜呑みにする気はないが、むしろ作曲者が他の場所で述べた「人間の感情と情熱を描いた作品」というコメントの方が、はるかに興味深い。
 その線に沿って、私はどうもこの曲を、ショスタコーヴィチの私小説として聴きたくなってしまうのである。第3楽章でのホルンによる「E-A-D-E-A」が、若い女性ピアニスト、エルミーラ・ナジローワ Elmira Nazirova のE、La、Mi、Re、Aをもとにしており(彼が当人に手紙で打ち明けたそうである)、このモティーフと呼応しながら自らのモノグラムが高揚して行くあたり、何となく標題音楽的で暗示的で、うまくできているではないか。
 ショスタコーヴィチの音楽といえば、とかく反体制的な苦悩の姿勢と関連づけて語られることが多いので、たまにはこんな解釈もしてみたくなるというものだ。

9・24(月)マティアス・ゲルネ/シューベルト:白鳥の歌

  東京オペラシティコンサートホール

 ベートーヴェンの「遥かなる恋人に寄す」を導入として「白鳥の歌」に移り、レルシュターブの詩による歌曲8曲(第5曲のあとに「秋」を挿入)が歌われて休憩、というめずらしい構成。そして後半が「アトラス」から「影法師」までの、ハイネの詩による6曲。ザイドルの「鳩の使い」は、予想どおりアンコール曲として扱われた。

 ゲルネは、シューベルトでは今日はやや抑制気味に歌い、かつ各曲それぞれの異なった性格を浮き彫りにした。明らかにこれは、一貫したストーリイを持つ二つの歌曲集との対比を描き出すためである。めずらしく正面を向いて歌うこともあったが、それは「セレナード」のような落ち着いた曲想の時だ。「遠い地で」のようにゆっくりしたテンポの曲で示される彼の最強音は凄味をさえ感じさせるし、ベートーヴェンの第6曲でのように気分が明るく高揚する個所などは、まさにその圧倒的な声が迫力をみなぎらせる。「春の憧れ」と「別れ」では各2節を省略したが、これは要するに譜面上ではリピートを省略して歌ったということ。

 シュマルツのピアノは前2回と同様、和声を柔らかく溶け合うように響かせ、ゲルネの声楽パートに添う。歌を浮かび上がらせる一方で歌と調和するところなど、巧いものだとは思うが、シューベルトの歌曲では、それだけでは役目を果たせない。特にピアノが最弱音で音楽を進める個所での緊迫感の希少さは覆うべくもなく、「海辺にて」と「影法師」ではその弱点が露呈した。ゲルネの力唱にもかかわらず、感銘を半減させてしまったのは、そのためである。惜しまれる幕切れであった。
 「音楽の友」11月号演奏会評

9・23(日)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル「こうもり」

 すみだトリフォニーホール

 セミ・ステージ形式というよりは、小規模な舞台でのオペラ上演と言ったほうがいいくらいに凝った作りだ。制作費も馬鹿にならなかったのではないかと心配になる。

 オーケストラ後方に櫓で組み上げられた仮設舞台と、セットされた小道具(ポスター等)は、演劇サークルの部室かアングラ劇場の舞台か何かみたいに見え、普通の「こうもり」のイメージとはほど遠い(美術・鈴木俊朗)。主役と合唱(栗友会)とオーケストラも自由でカラフル衣装なので、ステージはすこぶる雑然として騒々しい印象だ。 
 客席通路を利用する手法は、前回の「ローエングリン」のようなシリアスなものでは雰囲気が散漫になって逆効果だったが、今回のようなオペレッタなら違和感はない。ドイツ語上演で、日本語でのセリフのやりとりも挿入されていたが、シャレとして効果が上がるよりも、理屈に合わない印象が先に立ってしまった。加納悦子がパンク・ファッション系オルロフスキーで意外な跳ねぶりを示し、アルミンク自身も時には役者の仲間入りをしていた(演出・三浦安浩)。

 新日本フィルは、日本人演奏家が苦手とするウィーンのオペレッタを、とにかくよくやった方だろう。音色はあまりきれいではなかったが、勢いと活気で押し通した。アルミンクも熱意で全員を引っ張ったという感。歌唱ではカルステン・ジュス(アルフレード)が出色の出来で、ベッティーナ・イェンセン(ロザリンデ)とヘルベルト・リッペルト(アイゼンシュタイン)が安定。松田奈緒美(アデーレ)は有望だが、ムキになったような熱演から肩の力が抜ければなお良くなるだろう。

 なお、第1幕でアルフレードが「乾杯の歌」を余興に歌う趣向はめずらしいものでもないが、第2幕の宴会場面にヴォルフガンク・リームの「憧れのワルツ」を取り入れたところが、いかにも現代音楽を得意とする若いアルミンクの姿勢を感じさせて面白い。聞けば、ここにアバの「ダンシング・クィーン」を入れようという案もあったそうな。実現していればそれも面白かったと思う。
 「音楽の友」11月号演奏会評

9・21(金)マティアス・ゲルネ/シューベルト「冬の旅」

 東京オペラシティコンサートホール

 一昨日より肩の力を抜いた歌い方、という言い方が正しくなければ、向う見ずで純真すぎる若者の世界を過ぎて、やや人生経験を積んだ複雑な青年の心理の世界に入った表現になっている、という感じだろうか。
 全曲を通じ、怒りに燃える激しい感情と、立ち止まって思い悩む感情とが交錯する。この、音楽の上では強烈なデュナミークの対比、詩の上では感情の起伏の激しい対比、という表現は、彼の師フィッシャー=ディースカウとシュワルツコップから受け継いだものであろう。
 が、ゲルネの特徴は、それらを詩の発音で際立たせるのでなく、たとえば一つの旋律線、一つのフレーズの起伏で行なうところにある。詩を語る名手であった2人の師に対し、ゲルネはその精神を包括しつつ、あくまで歌手としての立場を貫く。第20曲の「道しるべ」以降、主人公の心はいよいよ深淵に沈んで行くが、詩が沈むのではなく、音楽が沈む。声とピアノ(シュマルツ)とは、ここでも完璧な和声的調和を形づくっていた。ただしピアノは、今夜は少々調子が悪かったようだ。
 「音楽の友」11月号演奏会評

9・20(木)アンドレ・プレヴィン指揮NHK交響楽団

サントリーホール

 武満徹の「セレモニアル」(笙:宮田まゆみ)で始まり、コープランドの「アパラチアの春」に続く。この組合せの流れが、実にいい。かりにこの2曲が切れ目なしに演奏されたとしても全く不自然には感じられなかったであろう。それはちょうど、「セレモニアル」の曲想が形を変えてどこか異なる次元へ展開して行き、いつしか「アパラチアの春」の第1曲へ流れこむ、という感じなのである。このあたりが、プログラミングの妙味というものだ。

 前記2曲におけるやや硬めの、しかも明るい弦の響きから一転して、後半のラフマニノフの「第2交響曲」では、極度に翳りの濃い、くぐもった響きの、しかも重厚で巨大なスケール感にあふれる音楽が展開した。
 プレヴィンという指揮者は、もともとオーケストラに豊かな美しいふくらみをもたせる美点をもつ人だったが、年令を加え、そこにいっそう巧味を増したようである。この「第2番」の演奏で彼が創り出した拡がりと奥行感をたたえた響きは、かつて日本のオーケストラからは聴いた記憶がないといっていいくらい、圧倒的なものがあった。
 たとえば、第1楽章でホルンがひときわ高くモティーフを吹く個所。ここは最強奏の管弦楽の遥か奥の方から巨大な咆哮が轟いて来るといったイメージになっていて、私は我にもあらず、ぞっとさせられたほどである。また両端楽章で多用されているデクレッシェンドの個所では、沸き立っていた潮が急激に彼方へ引いて行くような趣で、それはラフマニノフ特有のデュナミークの対比を十全に生かすものであった。

 プレヴィンは、歩く姿を見た印象では、やはり齢をとった・・・・。50歳を超えた頃から穏やかさを増した顔の表情も、さらに年齢相応になったようである。だが、このラフマニノフの交響曲でN響から引き出した音は、以前にも増してすばらしいものだった。今後、彼の指揮を聴ける機会がどのくらいあるかわからないけれど、やはりまた、何度でも聴きたい。

9・19(水)マティアス・ゲルネ/シューベルト「美しき水車小屋の娘」

 東京オペラシティコンサートホール

 「シューベルト3大歌曲集」ツィクルスの初日。

 ゲルネは、正面を向いて歌うということがほとんどない。首振り扇風機のごとく、間断なく左から右へ、右から左へと向きを変え、大きな身振りで歌う(このホールは壁のはねかえりの音が大きいため、目を閉じて聴いていると、彼が舞台上で左右に動き回って歌っているような錯覚に陥る)。
 顔の表情の変化も大きく、視覚的に大変劇的な表現という印象を受けるが、事実、歌唱もこの上なくドラマティックである。主人公の若者は意気揚々と旅に出て、少女と恋に落ちたかと思うと、ただちに恋敵が出現する・・・・という具合に、曲の間もあまりとらずに一気に頂点へもっていくという構築を、彼は選ぶ。強いテンションに満ちた歌いぶりで、いささかも感傷的に立ち止まったり悩んだりする表情を見せない。ゲルネは、この主人公の若者を、どのようなイメージで捉えているのだろう。少なくともこの歌を聴く限り、若者は特に自ら命を断つような必要はなく、このあとも立派に一人でやって行ける男のように感じられてしまうのだが。

 だが最後の「小川の子守歌」に至って、ゲルネはすばらしいソット・ヴォーチェで若者を悼んだ。アレクサンダー・シュマルツのピアノも、最後の曲ではその和音をゲルネの声と見事に調和させ、シューベルトの歌曲がもつ和声的な美しさ、転調のこまやかさを再現していた。ゲルネの歌い方が、歌詞を強調するのではなく、歌の旋律線を重んじたものであるため、なおそれが際立っていた。
 「音楽の友」11月号演奏会評

9・18(火)スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団

 サントリーホール

 スタニスラフ・スクロヴァチェフスキは、この10月で84歳になるはずだが、相変わらず元気いっぱいだ。彼の指揮から噴出する音楽も、歯切れがよくて若々しい。今夜のメインはブルックナーの「第3交響曲」。しかし前半には、一捻りした曲目を入れた。レパートリーに新鮮さを導入するものとして、大いに歓迎されるべき姿勢である。

 その前半のプログラムの1曲目はモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲だったが、めずらしくもブゾーニによる編曲版が取り上げられた。
 これは、序曲の最後の個所、つまりオリジナル版では第1幕に入る直前の個所に、石像が出現する場面の劇的なアタック(序曲冒頭とは些か違う)が取り入れられ、それが全曲フィナーレの6重唱の音楽に変わって、そのエンディングの引用で曲を終る、という編曲である。早い話、「序曲」の最後に「オペラの最後の部分」をもって来てつけたというわけだが、なんとなくこの序曲がポプリ(接続曲)的な性格を帯びてしまい、下世話な感じになったのは否めまい。アイディアとしては面白く、ニヤリとさせられるけれども、もう一度聴いてみたいというほどのものでもない。

 2曲目はルトスワフスキの「第4交響曲」。これが今夜最大の収穫だった。他界の前年(1993年)に完成された、事実上2楽章からなる20分強の長さの曲だ。暗鬱な響きを基調としながらも多彩な音色の変化に富み、余裕の境地に達した名人の手による凝縮された音楽、という印象である。これはすこぶる強烈な印象を残す作品である。休憩時間を挿んだとはいえ、そのあとのブルックナーの「3番」が、妙に軽く感じられてしまったほどだ。

 軽く、などとはブルックナーの交響曲に対して不謹慎な表現だが、スクロヴァチェフスキのブルックナーは、ナマで聴くと、決して重くは感じられないタイプの演奏である。だが第2楽章の弦の厚みは魅力的だったし、第4楽章のコーダはトランペット群も見事に決まっていた。この指揮者はもともと合奏を緻密に整える人ではないため、読売日響がずいぶん自由なアンサンブルになってしまっているのが気になるが、それを別にすれば、演奏にあふれる滋味の快さは、やはり天下一品の趣があった。

9・15(土)小泉和裕指揮東京都交響楽団

   サントリーホール

 サントリーホールの前広場は、東京音頭が鳴り、屋台店が並ぶ、賑やかな夏祭り。一方、ホールの中で演奏されたのは、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。指揮は都響の現・首席客演指揮者で、来年4月からはレジデント・コンダクターの肩書となる小泉和裕。

 この人の指揮を初めて聴いてから、もう32年になる。
 厚みのある響きの弦楽器群を基調にして、ぎっしりと中身のつまった音楽を創る彼の指揮は、あの頃も今も全く変わっていない。「春の祭典」もこのスタイルに則ったアプローチで、強力な重心の上に展開する壮大な絵巻といった演奏である。30年ほど前の新日本フィルとの演奏と比較すると、むしろテンポが速くなり、最後の修羅場では猛烈な突進型の演奏になった趣といえようか。矢部達哉をコンサートマスターとする都響の弦は瑞々しく、「敵対する町の遊戯」で一斉に咆哮する8本のホルン群も見事な迫力を示していた。

 前半には、ゲルハルト・オピッツを迎えてのブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」。
 このドイツの名匠が演奏するドイツの作品には、有無を言わせぬ説得力がある。細部にいたるまで疎かにせず、これまた強い重心の上にがっちりと組み立てた音楽なのだが、それが決して武骨なものでなく、常に温かい表情をたたえているところに、彼の本領があるだろう。こうしたオピッツの演奏は、小泉のそれと実にうまく調和するのである。満席に近い会場も、大いに沸いた。

 小泉の指揮を「見て」いるうちに、彼が1976年夏のザルツブルク音楽祭にウィーン・フィルを指揮してデビューしたときのことを思い出した。
 そのとき、小泉は27歳。ウィーン・フィルを振った指揮者としては、当時の最年少記録だったそうである。場所はフェルゼンライトシューレ。舞台下手の袖からやや緊張した表情で小走りに現われ、チャイコフスキーの第5交響曲などを指揮した。その時の振り方も腕の動かし方も、今夜のサントリーホールでの指揮姿とそっくり同じだったことを思い出す。彼も齢をとらない指揮者の一人だ。
 ちなみに、小泉がそのウィーン・フィルを振った前日には、祝祭大劇場で小澤征爾がシュターツカペレ・ドレスデンを指揮、ブラームスの第1交響曲などですばらしい演奏を聴かせ、客席を沸かせていた。小泉はなぜか盛んにそのことを気にして、
 「よりにもよって、小澤さんの翌日に、何も僕に振らせなくたって・・・・。どうしたってまわりは比較するじゃないか」と、おそろしく落ち込んでいた。
 しかし、小泉の演奏会も会場は満席だったし、若い指揮者のデビューに惜しみない盛大な拍手が贈られていたのである。私の隣に座っていたドイツ人の中年女性は、彼の年齢を私から聞いて、「27歳であれだけの指揮を・・・・信じられない、信じられません!」と叫んでいたほどなのだ。私は彼に向かい、「小澤さんが27歳のときにウィーン・フィルなんて指揮できた? それに比べれば・・・・」と、妙な慰め方をしたのだが、どうも彼の気持は治まらなかったようである。これは、小泉の若き日のエピソード。
産経新聞9月30日

9・13(木)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル

 サントリーホール

 このコンビのマーラー交響曲チクルスも回を重ねて、今日は第7番「夜の歌」。

 氷の炎のようなマーラーがアルミンクの本領とも言えようが、この「夜の歌」の演奏もなかなか面白い。
 全演奏時間約83分、ということは、楽章間を別としても、かなりの遅いテンポを採ったことになる。しかもアルミンクは中間3楽章における音量も抑制気味にして、じっくりと精妙な、かつ豊麗な響きを創り、この曲の叙情的な側面を浮き彫りにした。両端楽章でも、決して殊更に音楽を煽りたてたりはしない。むしろ余裕をもって、たっぷりと歌いあげていくという音楽だ。

 狂暴な第6交響曲「悲劇的」と、不自然に昂揚した第8交響曲「千人の交響曲」との間に位置するこの「夜の歌」が、いかに謎めいた作品であるかは、昔から夙に指摘されてきた通りである。事実、演奏によっては、最終楽章を除く4つの楽章には不思議に怪奇な、ミステリアスな雰囲気があふれることが多い。
 しかし、この日のアルミンクと新日本フィルの演奏には、そんな神秘的で怪奇なイメージは、全く備わっていない。それよりもこの演奏は、まるであの「6番」の怒号と絶叫を書いたあとにすっかり疲れ切ってしまったマーラーが、求めて白夜的な静寂の中に逍遥しているかのようなイメージさえ創り出す。そのどこか醒めたような、感傷的でない叙情性が、逆にマーラーが突然陥った虚無的な精神状態のようなものを想像させ、白々とした凄味を感じさせるのである。フィナーレでマーラーは夢から覚めたように気を取り直すことになるわけだが、今回の演奏は、そこにも夢の名残が感じられるようであった。

 一般のマーラー演奏とは大きく傾向を異にするアルミンクのこのアプローチは、すこぶる興味深い。金管の演奏がいつものように引き締まっていたら、もっと印象も強くなっただろう。優しいけれども一種の緊張をともなう第4楽章までの間に、ほぼ満員の若い聴衆が示していた集中力も、また驚くべきものがあった。

9・12(水)ロリン・マゼール指揮トスカニーニ交響楽団

 サントリーホール

 マゼールの最近の指揮ぶりをもう少し詳しく知っておきたいと思い、またホールに足を運ぶ。
 ロッシーニの「絹のはしご」序曲も17型という大編成だったが、音を柔らかくして音量を抑制し、厚みと豊麗さを残して演奏するという方法が採られていた。ロッシーニのオペラの序曲の演奏方法としては風変わりだが、純然たるコンサートにおけるスタイルとしては、こういう解釈も成り立つかもしれない。
 次のパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番(ソロは五嶋龍、成長した!)も同じコンセプトによる演奏。後半の「ローマの噴水」「ローマの松」も豊麗かつ壮大なアプローチで、これが結局マゼールの最近の音楽なのだ。アンコールは「運命の力」序曲。

9・11(火)キエフ・オペラ来日公演
チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」

  新国立劇場

 キエフ・オペラ(ウクライナ国立歌劇場)の今回のだしものの中では、唯一のロシア・オペラ。地方色豊かなプロダクションだが、しっかりと几帳面に創られており、お国ものという強みに支えられている。
 旅程の関係でゲネプロなし、ぶっつけ本番の上演(来日オペラ公演ではそういう例はめずらしくない)だったそうだが、アッラ・クルババ指揮のウクライナ国立歌劇場管弦楽団には、たしかに経験だけで演奏しているような雰囲気があった。しかし舞台上の動きと歌唱面は、これがぶっつけ本番の公演とはとても思えないような仕上がりだ。これが、常設の歌劇場の強みというものだろう。

 そのように呼吸の合った歌唱と演技を展開している歌手陣は、当然ながらこの歌劇場所属の歌手たちを中心に構成されている。
 タチヤーナ役のテチヤナ・ハニナは舞台姿も映え、歌唱も堅実だ。ラーリン家時代から清純派的ないいイメージが出ており、公爵夫人となってからの舞台にもう少し風格が欲しい気もするが、先日のザルツブルク音楽祭でのタチヤーナよりはずっといいオンナだ。
 オネーギン役のヴォロディミル・オペンコは最初のうち調子が出なかったようだが、第2幕になって声が出始めた。ニヒリスティックな雰囲気のオネーギンではないが、安定しており、悪くない。
 レンスキー役のドミィトロ・ポポウは真面目で一本気な青年の性格を地で出しているという印象。グレーミンのボフダン・タラスは、あまり上手くない。

 アッラ・クルババという小柄な女性指揮者は、イン・テンポで真面目に音楽を持って行くが、「手紙の場」でのタチヤーナのこみあげる感情、オネーギンとレンスキーの口論が激して行く過程、決闘場面での緊張、全曲大詰での2人の葛藤などでは、音楽がそれにふさわしく盛り上がらず、もどかしい思いに駆られた。ただこれも、2日目の上演では解決されるのかもしれない。
 演出(イリーナ・モロストーワ)はごくオーソドックスで、舞台美術(フェージル・ニロド)もきわめて伝統的なロシアの民族色に富んだものである。かように、トラディショナルなスタイルを自然体で進めて行くプロダクションだが、それがまたピタリと決まっているところが本場ならではの強みだろう。
「音楽の友」11月号演奏会評

9・8(土)サイトウ・キネン・フェスティバル
小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ

  長野県松本文化会館

 サイトウ・キネン・フェスティバルのオーケストラ・コンサートのBプログラムで、3回公演のうちの2日目。全フランス・プロだから、これはもう小澤の自家薬篭中のレパートリーだ。

 予想どおり、彼の最良のものが生き生きと浮かび上がっていた。ただ、これも予想どおり、それらは玲瓏たる美しさではなく、贅肉の一切無い、輪郭の非常に明確な歌なのである。指揮者は70歳を超えればテンポも遅くなるとか、音楽も軟らかくなるとかいう例が多いものだが、今夜演奏されたラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」も、ベルリオーズの「幻想交響曲」も、昔に変わらぬ歯切れの良い明晰な小澤のスタイルであった。彼は本当にいつまでも若い。彼の得意のレパートリーなら殊更そうである。
 
 その2曲の間に演奏されたのは、デュティユーの作品「瞬間の神秘」と「時間 大時計」の2曲だった。後者はサイトウ・キネン・フェスティバルとボストン響、フランス国立管の共同委嘱による、3曲からなる短い作品。
 こうした現代フランス音楽でも、小澤の指揮は瑞々しい。そこには余計な装飾も演出も全くないが、作品そのものをはっきりと聴き手に意識させる集中力が備わっている。小澤のベストは、まさにこうしたプログラムにある。ロシア、東欧、日本の作品などもそうだ。彼はこれらの路線で超一流の力量をもっているのだから、それをもっと前面に押し出して活動して欲しいものである。
 
 なお「時間 大時計」ではルネ・フレミングがソロを歌った。ザルツブルクで聴いた時よりも声はずっと良くなっていたのは喜ばしい。 

9・6(木)ロリン・マゼール指揮トスカニーニ交響楽団

 サントリーホール

 Symphonica Toscaniniというのがこのオケの名称だ。年間80回の公演(うち外国公演が50回)を行なうプロ・オケとのこと。ステージの雰囲気はなかなか陽気で、アカデミー生のオケみたいに見えるが、腕利き集団らしく、技術的な力量は相当なものである。音楽監督はロリン・マゼール。

 演奏は徹底的にマゼール色に染められたものといえよう。リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」は豪快かつ雄大に開始され、厚みのある豪華な、地を揺るがすような響きが展開していく。いかにも大艦巨砲主義的な音楽で、その物々しさに反発する聴き手もいるかもしれないが、とにかくこれが現在のマゼールの指揮のスタイルなのだ。
 第1楽章で3連音符の主題を奏する木管を取り囲む全管弦楽の豊満な拡がりなども見事なもの。マゼールという人は何と巧くオーケストラを制御する指揮者なのだろうと、あらためて感心してしまう。情熱的なソロを弾くコンサートミストレスは大仰な語り口のシェエラザードという感じだが、マゼールのスタイルに合っているかもしれない。4つの楽章は、ほとんど切れ目なしに演奏された。
 
 そのあと陰アナが入り、今日71歳で世を去ったパヴァロッティを追悼する名目でヴェルディの「運命の力」序曲が演奏された。これも壮大な演奏である。

 休憩後はまずルーセルの「バッカスとアリアーヌ」第2組曲。この曲をナマで聴く機会は滅多にない。スペクタクルで面白いが、オーケストラの声部はやや放縦な響きに聞こえる。カットなしで演奏してくれたのはうれしい。

 最後はR・シュトラウスの「サロメ」の最終場面。演奏前の陰アナによるストーリイ説明は語尾が明確でなく(このようなよく響くホールでPAを利用する時には、普通以上に明確な発音が必要なのだ)しかも長すぎる。
 ソロはナンシー・グスタフソンだったが、この人はあまり大きなビンビン響く声のソプラノではないので、18型に近い編成のオーケストラにほとんどの歌唱パートが消されてしまった。といって、オーケストラの編成を縮小したり、無理に音量を抑制したら、シュトラウスの魅力が失われてしまう。
 数年前にルツェルン音楽祭で聴いた「4つの最後の歌」のときも、クラウディオ・アバドはルネ・フレミングの声がかき消されるのもかまわず、18型のオーケストラをふつうに鳴らしていった。指揮者には、妥協できないこともあるらしい。
「音楽の友」11月号演奏会評

9・6(木)サマーフェスティバル20周年記念特別演奏会
ジョン・ケージ:ユーロペラ5(日本初演)

 サントリーホール小ホール

 ジョン・ケージの偶然性音楽のスタイルによるオペラ。昼夜2回公演のうちの、これは昼間の部で、1時間程度の上演時間。

 舞台裏から聞こえるラジオの音、舞台上の旧いラッパ式蓄音機から流れるオペラのアリア、ピアノのナマ演奏、天羽明恵と小山由美がア・カペラで歌うアリアなどが交錯。不思議な世界である。よくできた演奏だと感心したが、しかしチャンス・オペレーションであるというイメージがどうしてもつかめない。なぜか、すべて巧妙に、綿密に計算された構成という印象を受けてしまうのである。

 ずいぶん昔のことだが、まだ若かったジョン・ケージが来日して、草月会館などで「演奏」を聴かせてくれたのを、おぼろげに記憶している。曲名は忘れたが、舞台上でピアニストが鍵盤をたたいたり、ピアノの中に物を挟んだりしながらアクションをやっていると、突然客席の通路をケージ自身が長い棒のようなものを持ち、それで床の上をガーガーと音をたてて擦りながら、ゆっくりと通りすぎていった。そのときの、若干の可笑しさを含んだ不思議な緊張感を、今でも忘れることはできない。

 チャンス・オペレーションの演奏というのは、それを本来の意味にふさわしい形ではっきりと聴衆に印象づけるのは、思えば至難の業かもしれない。楽譜どおりに演奏することより、よほど難しいことなのかもしれない。

9・2(日)チューリヒ歌劇場来日公演
 R・シュトラウス:楽劇「ばらの騎士」

 オーチャードホール

 最近日の出の勢いにあるニーナ・ステンメは、やや神経質そうに見える元帥夫人=マルシャリンを歌い演じ、絶好調のヴェッセリーナ・カサロヴァは表情豊かなオクタヴィアンを絶妙に演じる。アルフレッド・ムフのオックス男爵は実に好人物で憎めず、マリン・ハルテリウスのゾフィーは純真である。
 いずれもDVDでも出ているチューリヒ上演のプロダクションと同一の配役による優れた主役陣。これらの名手たちが、完璧に呼吸の合った歌唱と演技を展開するのだから、最良の舞台ができあがるのも当然だろう。

 特にカサロヴァの存在感はすばらしい。このオペラの中心人物はマルシャリンであるというイメージもあるが、かのシュワルツコップくらいの気品を備えたソプラノならそれもあり得るだろう。だがステンメには気の毒だが、今回の舞台は完全にカサロヴァによって支配されていた。それはまさに、このオペラのタイトル「ばらの騎士」どおりだったのである。
 そういえばカサロヴァ、ザルツブルクの「ベンヴェヌート・チェルリーニ」をキャンセルした理由は腰痛だとか何とか現地で発表されていたが、東京での舞台では、そんな気配を全く感じさせなかった。いろいろ裏の事情もあるのだろう。
 
 フランツ・ウェルザー=メストは、本当にすばらしい指揮者になった。1992年にロンドン・フィルと初来日したとき、この人は一見地味だが悪くないぞ、と思ったものだが、その後の成長は予想以上に著しい。オペラ指揮者としての力量が日本で示されたのは今回が最初だが、これ一つで彼の人気は不動のものとなるだろう。

 ともあれこの日は、チューリヒ歌劇場管弦楽団の見事な演奏とあいまって、R・シュトラウスの音楽の豊麗さは余すところなく浮き彫りにされたのであった。冒頭のホルンは決して大きな音量ではないが欣然としており、テノール歌手役の歌を受けて豊満に歌い上げるセンスもしゃれている。終幕の三重唱と二重唱にいたっては、オーケストラの甘美な響きとともに、これぞシュトラウス節というべき聴かせどころを存分に発揮させた。この作品でこれだけ音楽そのものを堪能させてくれたのは、かつてのカルロス・クライバーが指揮した公演以来かもしれない。

 ロルフ・グリテンベルクによる比較的簡素な、不思議に透明感のある舞台装置もチューリヒ上演そのまま。スヴェン=エリック・ベヒトルフの演出は、様式感とリアリズムをミックスさせたタイプといったらいいか。愛の葛藤がさり気ないタッチで描かれていく手法は、この舞台装置の雰囲気と実によく合致している。チューリヒ歌劇場は、その初来日公演を評判どおりの卓越した水準の上演で飾った。
「グランド・オペラ」2007Autumn

9・1(土)サマーフェスティバル20周年記念特別演奏会

 サントリーホール

 改修されたサントリーホール。床と壁が白っぽくなった。若々しく明るく、というコンセプトか。それよりも、トイレが狭くなり、便器や個室の数が少なくなったのは、結構由々しき問題になりそうだ。高齢者は対策を考える必要に迫られよう。

 権代敦彦の「母」は、笙(宮田まゆみ)とオルガン(松居直美)が、暗い中で延々と対話を交わす。
 以下はピエール=アンドレ・ヴァラド指揮東京フィルの演奏。ノーノの有名な「進むべき道はない、だが進まねばならない・・・・アンドレイ・タルコフスキー」は、舞台上の弦楽器群とホール2階の5方に配置された金管や打楽器との交唱で、一度たりとも持続的な時間はなく、おおかた断片的に音楽が進む。それゆえ、そのあとに演奏された武満徹の「ノスタルジア」が、何と美しい官能と陶酔の世界を感じさせることか。これはまさしく「トリスタンとイゾルデ」第3幕前奏曲の遠いエコーである。

 グリゼーの「エピローグ」はホルン4本の咆哮(同じことばかりやっているような)が大太鼓の怒号で突然遮られるのは何か可笑しみがある。最後は同じく大編成だが、短いリンドベルイの「キネティクス」。演奏コストの悪い曲だ。楽器の並べかえに時間がかかり、終演は9時20分。

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