2017-08

9・30(金)バイエルン州立管弦楽団特別演奏会 ブルックナー・プログラム

   東京文化会館大ホール  7時

 これは都民劇場音楽サークルの公演。ブルックナーの「交響曲第9番」と「テ・デウム」を組み合わせるという、すこぶる魅力的なプログラムだ。
 演奏はケント・ナガノ指揮するバイエルン州立管弦楽団と、同歌劇場合唱団、アンナ・ヴィロフランスキー(ソプラノ)、オッカ・フォン・デア・ダメラウ(メゾ・ソプラノ)、ロバート・ディーン・スミス(テノール)、スティーヴン・ヒュームズ(バス)という顔ぶれ。

 2曲は休憩無しで演奏されたが、合唱団も声楽ソリストも冒頭からステージ後方に並ぶという形。交響曲は3つの楽章とはいえ65分ほどかかるし、その間身動きせずに待っているのは――ベートーヴェンの「第9」よりも長いわけだから――さぞやしんどいだろう。

 ケント・ナガノは、交響曲の第1楽章を極めて遅いテンポで進めたが、各主題の有機的な結合に些か隙間が生じているように感じられてならなかったのは、そのテンポを保ち切れないオーケストラのせいもあるのではないか。
 畳み込んで行った第2楽章、寄せては返す大波のような起伏の設計が比較的上手く行っていた第3楽章では、その不満もかなり改善されてはいたが、――しかしこのオーケストラ、本来はこんなにガサガサした散漫な音ではないはずなのに、と、改めて今回の楽員の構成についての問題が頭の中をよぎる。

 「テ・デウム」での合唱は、今日はあまり人数も多くなく、比較的均衡を保った音色で量感のある響きが愉しめた。演奏としては、この曲のほうがまとまっていたように思う。

9・27(火)マーティン・ブラビンス指揮東京都交響楽団

  サントリーホール  7時

 プロコフィエフの「戦争と平和」序曲で開始された。珍しい曲をやるものだ。
 後半に置かれた彼の「第5交響曲」への巧みな伏線という意味合いもあったことは理解できる。短いが、いい曲である。
 一頃、このオペラに凝ったことを思い出す。あれはMETで観た、ゲルギエフとノセダがそれぞれ指揮した公演の時だった。しばらくはクトゥーゾフのアリアのフシが頭の中で鳴り続け、マンハッタンの夜景まで連想されるということもあったが・・・・。
 いい曲だが、残念ながら、演奏会の幕開きとしては、何となくあまり効果が上らない曲のようだ。

 2曲目は、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第2番」。これもナマでは滅多に聴く機会がない。先日、誰だったか来日ピアニストのプログラムで予告されながら直前になって変更され、がっかりしたことがあったが・・・・。
 私はどちらかというと「1番」よりも、この単純素朴な「2番」の方が好きなのである。だから、この曲を上原彩子のソロで聴けるというのは大いなる期待だったし、それは裏切られなかった。

 彼女のストレートな推進力に満ちたソロと、ブラビンス&都響の張り切った良さが、この曲の持つエネルギー感を率直に浮かび上がらせる。第3楽章の二つ目の主題など、ピアニストによっては照れるのか、変な洒落っ気を効かせて弾く人もいるが、上原彩子はあくまで正面切って弾く。これでこそ、この楽章の「アレグロ・コン・フォーコ」が生きるというものだ。欲を言えば、ピアノの音色にもう少し色彩感があったら、というところだが。
 第2楽章でのヴァイオリン(矢部達哉)とチェロ(古川展生)のソロは、素晴らしい。
 今回は、もちろん長いオリジナル版の方。久しぶりでこの曲をナマで聴けて、愉しかった。

 最後は、プロコフィエフの「交響曲第5番」。マーティン・ブラビンスの指揮の本領が発揮されるのは、この曲においてである。
 これも衒いのない、きっちりとした指揮だ。隅々まで神経を行き届かせ、いかなる怒号の個所においても音楽の形を崩さずに、整然と構築する。最初の「戦争と平和」序曲での演奏と同じく、少し堅苦しいところもあって、プロコフィエフ特有のしなやかさや華麗さに不足する傾向なきにしもあらずだが、エネルギーは充分。都響もバランスのいい演奏だった。弦の柔らかい美しさも不変。

   音楽の友11月号演奏会評

9・25(日)バイエルン州立歌劇場 ワーグナー「ローエングリン」(東京初日)

   NHKホール  3時

 カウフマンに代わるタイトルロールはヨハン・ボータ、シュトルックマンに代わるテルラムント役はエフゲニー・ニキーチン。
 招聘元NBSは、このくらいの歌手変更は物の数ではないと見たか、ジャパン・アーツ(MET)とフジテレビ(ボローニャ)がお詫びの意味で実施したような公式プログラム無料配布サービスなどはせず、しかも3千円そのままで販売していた。いかにもNBSらしい。

 そのヨハン・ボータだが、「白鳥の騎士」ならぬ「白鳥の力士」などと巷で綽名される巨体はともかく、歌唱は良かった。第3幕の「聖杯の物語」での表現力に富む歌いぶりも、高音域のソット・ヴォーチェも、なかなか見事なものである。昨年ウィーン国立歌劇場で彼が「タンホイザー」を歌うのを聴いて、この人のワーグナーも結構良いじゃないかと感心したことがあるが、今回も期待を裏切らない出来栄えだった。
 但し、演技の方は相変わらずである・・・・。そこだけは、カウフマンのあの精悍なローエングリンが見られないのが残念だと思った点である。

 一方ニキーチンは、阿修羅の如き大奮闘で、敢闘賞もの。ロシア的発声でボリス・ゴドゥノフを堂々と歌う一方で、インターナショナルなスタイルでこういうワーグナーものを見事にこなすのだから、当節のロシア人歌手は器用なものだ。これで歌唱に多彩さが加わればいいのだが。
 来春の新国立劇場と、来夏のバイロイトでの「さまよえるオランダ人」のタイトルロールを、どう歌ってくれるだろう?

 しかし何といっても今回は、ワルトラウト・マイヤーが予定通り来日してオルトルートを歌ってくれたのが有難い。
 さすがに声は往年の輝きを薄れさせているものの、全曲最後の大見得をあれだけ破綻なく決められるのはたいしたものだし、だいいちこの複雑な性格の役柄をこれだけ巧みに表現できる歌手はそうそう居るものではない。この舞台を引き締めた最大の功績は、彼女のものである。今夜随一の拍手を浴びたのも当然であろう。

 エルザのエミリー・マギーと、ハインリヒ王のクリスティン・シグムンドソン、伝令のマーティン・ガントナーは、まあそれなりの出来。

 ケント・ナガノの指揮はいつも通り、端整で落ち着いて、羽目を外さない。このオペラの中では最後に書かれた第2幕での、ワーグナーの作曲技法の成熟を示す「緩・急・緩」を巧みに交錯させた構成の起伏感もよく再現されているし、何処と言って破綻はない。演奏には滔々たる大河の如き趣きもあった。だが私の好みから言えば、すべてにもっと引き締まった劇的緊迫感が欲しいところだ。
 音楽のカットに関しては、第2幕中ほどの合唱個所でのそれは最小限に留まっていたが、第3幕後半でのカットは、慣習的なものとはいえ、腹立たしくなるほど大きい。とはいえ、今回のような合唱団の水準では、スコア通り全部演奏されなくてもさほど残念ではないという気はしたが・・・・。

 その合唱(一応、バイエルン州立歌劇場合唱団)だが、エキストラらしい東洋人の顔が随分多数見られたのはともかくとしても、コーラス全体の音色やバランスが非常に粗く、響きにひどく隙間が感じられたのは落胆の極みである。合唱に並外れた雄弁さが求められるこの「ローエングリン」の場合、これは致命的と言わなくてはならぬ。特に細かいパートの動きが多い第3幕後半など、そのあまりの密度の薄さには、本当に情けなくなったほどである。

 オーケストラ(バイエルン州立管弦楽団)の方に、トラがどのくらい入っていたかは、私は知らない。ただ聴いた範囲で言えば、木管群の一部に頼りないところがあった以外は――全体にあのミュンヘンの劇場で聴くオーケストラの水準とはかなりの差が感じられるにせよ――こちらはまずまずの出来だったのではないか? 

 リチャード・ジョーンズの演出は、DVDで出たバイエルン上演ライヴでも観ることができる。が、実際のステージを観れば、ここの人物の演技と舞台全体との関連が理解できて面白さを増すのは当然である。映像で観ると、小細工がやたら目立ち、また例の如くやっておるわい、という印象も生じるが、ナマで観ればそこまでの違和感はない。

 ローエングリンとエルザは、一所懸命、小さな家を建てる。第3幕の初め、出来上がった別荘風の家に新婚として入居した2人の嬉しそうな表情! 私はどうも、この演出を最初に観た時から、小坂明子の歌「あなた」を連想してならなかったのだが・・・・あたかもこれは、「小市民の幸福」の物語に思える。
 幸せな家庭を夢見る女性エルザに、何が起こったのか? 新婚生活が男と女の性(さが)ともいうべきものにより瓦解した時、ローエングリンが採った行動は、マイホームに放火することだった――などと書けば、テレビドラマの番組案内であろう。
 もちろん、このジョーンズの演出コンセプトは、もっといろいろな要素を含んだ複雑なもので、それ自体はすこぶる興味深い。ただ、私もそれに関しては、今の段階ではまだ完全に整理が出来ていない。ひところ話題になった、学校のイジメを舞台にしたコンヴィチュニーの「学校ローエングリン」に対し、こちらは「市民ローエングリン」か、などという発想も、あれこれ去来する。

 一つだけ。今日の上演では、前記マイヤーのオルトルートがあまりに存在感があるために、終場面では「お前たちが古来の美徳に背くから、こういう悲しい結果になるのだよ」と、彼女が今日の世界に警告しているように思えてしまった・・・・。これが演出の意図に沿った解釈かどうかは別だが。
 ともあれ、歌詞内容と、実際の光景との甚だしい乖離は相変わらずだ。といって中世の騎士の軍団や、ネズミの大群を見せられるよりは、この演出、まだマシであろう。

 35分の休憩2回を挟み、7時40分頃終演。

9・23(金)あらかわバイロイト ワーグナー:「神々の黄昏」

    サンパール荒川大ホール  1時

 TIAA(東京国際芸術協会)主催の「あらかわバイロイト」シリーズ。ワーグナーものの全曲舞台上演は、「パルジファル」(09年5月)と「ヴァルキューレ」(10年4月)に次ぐこれが3作目で、長大な「神々の黄昏」が取り上げられた。今日は、3回公演のうちの初日。

 とにかく、よくここまでやったものである。いわば「国立」に対する「私立」のような、もしくは「愛好家協会」の自主制作――のような立場の上演だが、水準は既にそれを超える域にまで達していると言っていい。
 だが、毎年上演で3作目ともなれば、もはやプロ並みのペース。観客の要求水準も高くなりつつあるのは当然だ。甘えは許されなくなって来る時期だろう。

 何はともあれ、このシリーズおなじみの指揮者、クリスティアン・ハンマーのまとめの巧さを賞賛したい。
 TIAAフィルハーモニー管弦楽団(特別編成)から引き出した音は、本当にワーグナーの雰囲気――曖昧な表現だが――を湛えていた。序幕冒頭の音を聴いた瞬間、これはいけるぞ、と誰もが思ったに違いない。
 編成の大きくないオケを率いて、ここまで密度の濃い音楽をつくり出した彼の職人的手腕は、今やこのシリーズには欠かせぬ存在である。

 オーケストラも健闘した。全体としては賞賛されて良い演奏であった。ただし管のソロに頻々と生じる不安定さは、どう贔屓目に見ても、許容範囲を超えるものと言われても仕方あるまい。聴衆の方も、そういつまでも「頑張っているんだからまあいいでしょう」とは思ってくれなくなるだろう。

 配役は、トリプルキャスト。
 初日の今日、舞台と演奏を引き締める筆頭となったのは、やはりハーゲンを演じた木川田澄であった。悠揚迫らざる紳士的なハーゲンといった演技と、悪人ぶりを抑えた歌唱表現とで、ドラマの黒幕的なキャラクターとしての存在感を見事に発揮していた。第2幕の「ホイホー!」でオーケストラを衝いて聴かせた底力のある歌の凄味は、彼ならではのものであろう。

 次いでグンター役の田辺とおる。特に第2幕中盤以降、恥辱に打ち拉がれ、自棄的になってからの役柄表現は絶品、演技賞ものとさえ言っていい。
 ジークフリート役の角田和弘は、演技の面では時に様式的なスタイルに陥ることもあったが、歌唱の素晴らしさで、この役を成功に導いた。
 ブリュンヒルデの及川睦子は、最後まで実によくやったし、健闘を称えたいが、この人はやはりドラマティック・ソプラノではなく、この役にはあまり向いていないのではないか? 何か良家のお嬢様のようなブリュンヒルデで、大詰めの場など、声質・容姿ともにとても世界を救済するべきキャラクターに見えないのである・・・・。
 グートルーネを歌った山本真由美は、可愛らしさを出そうとした第1幕の演技は、むしろ裏目に出たように感じられる。他に女声陣では、ヴァルトラウテを歌った小畑朱美と、第1のノルンを歌った諸田広美が、個性を感じさせる声と表現で印象に残った。

 佐藤美晴の演出は、奇を衒ったところはなく、ストレートな表現に徹していたが、主役たちの演技には、細かいニュアンスも比較的よく出されていたように思う。もっとも、ベテラン歌手の演技の中に演出家の目指すものがどこまで正確に反映されていたかは、知るよしもないが。
 しかし、第1幕の最後、「崩折れたブリュンヒルデの眼が変装したジークフリートの眼を一瞬かすめる」というオリジナルのト書の指定が、少し異なった方法であるとはいえ、忠実に再現されていたことは好ましい手法であると言えよう。
 またハーゲンが、当初は槍を持っておらず、第2幕冒頭で幻影の如く現れたアルベリヒ(筒井修平)から初めてそれを受け取るという設定も、当を得ているだろう。

 一方、要所に炎の神ローゲ(ダンサーの岩渕貞太)をモティーフのように登場させるのはいいアイディアだが、「ラインの黄金」が未だ制作されていない段階としては、少々意味が解りにくいかもしれない。
 だがそのローゲも舞うラストシーンでは、松村あやの舞台美術および望月太介の照明とともに、赤と黒の色調が、舞台奥に妖しく光る樹木や花と相まって、すこぶる怪奇な幻想的光景をつくり出していた。それは非常に印象深いものがあった。
 ただし今日は、何の手違いか、赤い火の粉のようなものを降らせるための揺れるバー装置(あれは何と呼ぶのだっけ?)の位置が下がりすぎて、客席から全部見えてしまっていたのは興醒めだった。あれさえなければ、大詰めの場はさらに妖艶怪奇になったであろうと、惜しんでも余りある。

 衣装デザイン(小山花絵)の趣旨は、私には少々解りにくい。冒頭、3人のノルンが、零落した花魁みたいな格好で舞台にいるのを見た時には、もしや今回は日本的舞台かと興味をそそられたのだが、そうでもなかった。しかし、ヴァルトラウテが短いドテラみたいなのを着ていたり、ギービヒ家に拉致されて来たブリュンヒルデが派手なキモノを羽織っていたりしたのは、面白いけれど、この舞台の構図の中では、どうも違和感を抑え切れない。当然、何かの意図があるのだろうけれど。

(付記)
 それならいっそ思い切って、歌舞伎や能の手法を取り入れた舞台にしてみた方が納得が行くかもしれない。故・若杉弘氏は、かつてゲッツ・フリードリヒやヴォルフガング・ワーグナーから、「日本には歌舞伎という素晴らしい独自の芸術があるのに、何故その手法を活用しないのだ」とか、「私にテクニックがあったら、歌舞伎の手法を取り入れてみたいね」と盛んにアドヴァイスされた、と語っていたのだ。
 新国立劇場や二期会がそんな冒険をやるとはとても思えないが、「あらかわ」のような私的集団だったら、外国の歌劇場の後追いをせず、そういうゲリラ的(?)実験が出来る立場にもあるだろう・・・・。

 45分の休憩2回を含み、6時45分終演。

    ⇒音楽の友11月号演奏会評

9・22(木)三ツ橋敬子指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

  ティアラこうとう大ホール  7時

 チラシには、「江東区から世界に羽ばたく女性指揮者」と麗々しい文字。
 三ツ橋敬子さんは、東京都江東区の生れだそうな。江東区のホールを本拠地とする東京シティ・フィルは「江東区出身の音楽家を応援しましょう」と、この「三ツ橋敬子特別演奏会」を主催。東京にしては、いまどきローカルなジョークで、微笑ましいが・・・・。

 今日のプログラムは、ブラームスだ。「大学祝典序曲」「ハイドンの主題による変奏曲」「交響曲第1番」と、バランスよく構成されている。

 三ツ橋敬子の指揮は、先日の東京フィルを指揮した「英雄交響曲」では、引き締まった歯切れのいいリズム感で颯爽と押していたが、今日のブラームスでは、低音域に重心を置いた厚みのある響きをつくり出した。
 それはきわめてオーソドックスなスタイルで、音楽全体のつくりもまた、全く衒いのないストレートなものだ。最近流行の手練手管を弄する(?)演奏スタイルに狎れた耳には拍子抜けの印象を与えるが、一方、いわば原点に戻るかのようなこういう演奏には、心の休まる人も多いだろう。

 さすがに圧巻だったのは交響曲の終楽章で、比較的遅めのテンポで開始された有名な主題の落ち着いた風格は見事だったし、それが次第に興奮を高めて行く個所での呼吸の良さも、最終のコーダでの見事な昂揚感も、いずれも彼女の指揮の力量を示すに充分であった。
 シティ・フィルも、この若手指揮者をよく盛り上げたと思う。

 ただ一つ、「ハイドンの主題による変奏曲」で、変奏の間にあるパウゼを殊更大きくとり、時には一息入れたりして、それぞれ独立したものとして扱っていたことには、些か賛意を表し難い。これは誰かも昔やっていたのを聞いた記憶があり、しかるべき根拠もあるということだが、やはり全曲の統一感を弱める結果を招くだろう。

 台風のあとながら、まだ強い雨。しかしお客さんは、かなりよく入っていた。

9・21(水)アイヴォー・ボルトン指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール  7時15分

 台風15号の直撃を受け、周辺の電車もみんな止まってしまった今日の夕方。
 それでも「どうにかして会場まで来る」という人々も少なくなく、開演を15分遅らせて演奏会が始められた時には、聴衆は200人くらいいたろうか。途中から来た人たちも多かったらしく、終演時には思いのほか人数が増えていた。

 演奏開始前にボルトンが客席に向かい、「こんな大変な天候の中を聴きに来てくれてありがとう」と礼を述べ、聴衆も大きな拍手で応じるという具合で、そのあと始まった演奏も熱が入って見事。
 このような「非常事態」の時には、演奏者と聴衆の気持が通い合うというケースが多い。大震災のあとの演奏会でもこういうことがあった。

 さて、今夜のプログラムは全モーツァルトで、「ピアノ協奏曲第21番」を中に挟み、初めに「交響曲第39番」、休憩後に「第40番」を置いた魅力的なもの。

 協奏曲でのソリストは、ミュンヘン生れでドイツ人と日本人の両親を持つモナ=飛鳥・オット(20歳)で、容姿も演奏も、いかにも清純派といった感じで、いろいろな意味で初々しい。
 面白かったのは、彼女のソロが、ボルトンの引き出す雄弁で強烈な表情のオーケストラに対し、美しいほどに均衡を保った対話を繰り広げていること。この人は室内楽を演奏したらとてつもなく上手いのではないかと思わせる。

 オーケストラの弦は8・6・5・4・3だが、ノン・ヴィブラート奏法を生かした響きは強大で激しく、気宇も大きい。デュナミークの対比やアクセントの付与へのボルトンの手法は相変わらず徹底していて、これが二つの交響曲からきわめて多彩な表情を引き出している。

 「39番」の第3楽章のメヌエット主題では、4小節単位で各々にクレッシェンドとデクレッシェンドを組み合わせ、あたかも寄せては返す波のような息づきを与え、この計8小節を起伏豊かなものにしていて面白い。
 また「40番」の第3楽章では、ホルンはじめ木管群に強いアクセントを与え、モーツァルトの天才的な複音楽の要素をいっそう強調して、目も眩むばかりの複雑なリズムの交錯を作り出してくれた。
 聴きに来てよかった、という気持になるのは、こういう新鮮な演奏に触れた瞬間である。

 なお、この「40番」(クラリネット入りの版使用)の時には、チェロを除く全員が立ったまま演奏するというスタイルが採られていた。こうして演奏すると、明らかに「39番」とは響きが異なり、一種の劇的な音響的な迫力が出る。
 作品の性格をそれぞれ際立たせるための興味深い方法だ・・・・と勝手に解釈して納得していたのだが、翌日招聘元に確認してみたら、ボルトンの語る真相(?)はこうだった――オペラシティのアコースティックからすると、立ったまま演奏した方が、響きが良いし、アンサンブルも良くなると考える。ただ前半は、コンチェルトが含まれていたので、便宜上着席して演奏する方法を採ったのだ、と。

   モーストリークラシック12月号

9・18(日)ボローニャ歌劇場 ヴェルディ:「エルナーニ」(初日)

   東京文化会館大ホール  3時

 来日直前に惜しくも急逝したサルヴァトーレ・リチートラに代わり、タイトルロールのエルナーニを歌ったのは、ロベルト・アロニカ。

 馬力充分の大声で、いかにも「山賊の首領」にふさわしく荒々しい歌いぶりだが、この主人公の正体は「アラゴンの貴族ドン・ジョヴァンニ」でもある。もう少し気品を持たせた歌唱もあってよかったのでは。
 時にあまりに吼えすぎて、共演者との重唱でも、ひとり声が飛び出してしまうことがある。さしものベテラン歌手アロニカも、やや歯止めが利かなくなったか? 

 しかし、パワーは無いよりはあった方がいいのはもちろんだ。
 そもそもこのオペラ、最初から最後まで主役たちが「復讐だ! 復讐だ!」と憤っているヘンなストーリーだし、音楽構成も初期のヴェルディらしく少々まとまりを欠いているから、ともかく力強い声の饗宴を聞かせてもらえばありがたいのである。

 共演者たちもいい。
 フェルッチョ・フルラネット(スペイン大公ドン・ルイ・ゴメス・デ・シルヴァ)はベテランの味たっぷりの歌唱で、出て来ただけで舞台に重みが感じられる。相変わらず貴重な存在の名歌手だ。
 ロベルト・フロンターリ(スペイン国王ドン・カルロ=カルロス1世)も、恋愛騒動に現を抜かす前半での横柄な歌唱を、神聖ローマ皇帝カール5世となった第3幕後半では威厳のある歌唱に変貌させるといったワザをも聞かせ、これも存在感充分。

 ディミトラ・テオドッシュウ(エルヴィーラ)は、歌は良かったものの、3人の男から争われるという幸せとも不幸ともつかぬこの役柄を演じる上ではさっぱり解らない演技で、――必ずしもこれは演出のせいだけではなかろう。

 ペッペ・デ・トマージの演出は、フランチェスコ・ジートの舞台美術ともども、トラディショナルな路線なりに安定したスタイルで、まあイタリア・オペラとしてはそれなりに安らかな心持で観ていられるといった舞台。辻褄の合わぬストーリーは、辻褄の合わぬままで構わないのだ、ということか。しかし、もう一つ何か工夫があってもいいのでは。

 指揮はレナート・パルンボ。今回観て来た3つの上演の中では、初めてこのボローニャ歌劇場管弦楽団がリズミカルに、ストレッタ豊かに躍動したかな、と感じさせる指揮になった。
 もちろん、これでもまだ微温的な演奏と言えないことも無いが、少なくとも前2作でのマリオッティの燃えない指揮と比べれば、余程「雰囲気」が出ていたことは事実である。

 これで、今回のボローニャ歌劇場来日公演の3作の東京初日を続けて観たわけだが、上演内容と演奏水準については、尻上がりに印象が良くなったと言える。
 来なかった歌手たちもいたが、しかしちゃんと来てくれた主役歌手たちもいたわけだから、そのあたりは冷静に見る必要があろう。――しかし、スター歌手の相次ぐ来日キャンセル、それに対するチケット購入者の不満など、このような不穏な事態が続くと、今後は大手主催者もリスクを恐れ、メジャーなオペラの招聘を控えることにもなるのではないか。

 終演は6時10分。

9・17(土)ボローニャ歌劇場 ベルリーニ:「清教徒」(東京初日)

   東京文化会館大ホール  3時

 王党派の騎士アルトゥーロを歌うはずだった超人テナー、ファン・ディエゴ・フローレスは来なかったが、代役で登場したセルソ・アルベロは、それなりによくやった。
 残念ながらフローレスが持っている気品、洗練、まっすぐに伸びる明るい声、といったような個性は望むべくもなく、例の高音も精一杯という感もあったものの、それでもあそこまでの声を出せるというのは、テノール一般として考えてみれば、立派なことに違いないのである。

 応援と期待と、それにおそらく若干の底意地悪い静観と――が交錯する中で第1幕の最初のアリアを緊張の裡に歌い切ったアルベロには、万雷の拍手とブラヴォーが贈られた。
 寄り添っていたエルヴィーラ役のデジレ・ランカトーレが「おめでとう」というようにそっと微笑むと、アルベロが初めてホッとしたような表情を見せ、客席に向かって微かに顔を和ませた光景が実に印象的であった。
 こういう顔を見てしまうと、いくらフローレスのようには行かなくても、「いいじゃないの、一所懸命やってるんだから」という気になってしまう。とにかく、あまり声に無理を課さずに、いっそう伸びてもらいたい人だ。

 もうひとり、アルベロの恋敵たる清教徒の大佐リッカルドを歌うはずながら来日しなかったアルベルト・ガザーレの代役として登場したのは、ルカ・サルシ。この人もなかなかいい。若いが安定して力がある。これからいっそう活躍する人だろう。
 その他、森雅史(清教徒の総司令官ヴァルトン)、ニコラ・ウリヴィエーリ(その弟)ら、男性陣は手堅い。

 エルヴィーラ(ヴァルトンの娘、アルトゥーロの恋人)役のデジレ・ランカトーレは、最も安心して聴けるはずの人だったが、今日は余程調子が悪かったか、第1幕では高音の音程がひどく不安定で、ハラハラさせられた。
 幕が進むに連れて次第に調子を取り戻して行ったのは幸いだったが、それでも低音域の特定の音域では力が入りすぎるのか、終始そこだけ妙な声質になってしまうのが気にかかる。次回以降の公演を聴いた方の感想を待ちたい。

 指揮のミケーレ・マリオッティは、「カルメン」の時とは大違いの、まとまりのある指揮。叙情的なカンタービレが主流のベルリーニの音楽のためもあろう。
 ただし、持って行き方はある程度上手いものの、熱っぽい興奮とは程遠い指揮で、ベルリーニのあの素晴らしい音楽が、全然沸き立たない。このへん、私の好みとは些か異なる。

 演出は・・・・演技も含めてごく様式的で静的なもので、豪華な舞台装飾(?)付のセミステージ上演、あるいはオペラ・コンチェルタンテ上演に似た類のものだ。しかし、それなりにまとまりは良い。気が散らず、音楽に没頭できるという良さはあるだろう(イヤミで言っているのではない)。
 プログラムには「演出:ジョヴァンナ・マレスタ、原演出:ピエラッリ」とクレジットされ、「ピエラッリのオリジナル演出から自由に着想を得ている」但し書がついていた。だが見たところこの演出は、「ピエラッリ演出」と帯に書いてあるユニバーサルの「ボローニャ・ライヴ」のDVDとほとんど同一である。

 念のため、そのDVDのエンド・タイトルをもう一度確認してみたら、そちらには「演出:ピエラッリ、演出アシスタント:ジョヴァンナ・マレスタ」とクレジットされていた。カーテンコールにもピエラッリ本人とおぼしき人が堂々と挨拶に出ている。つまりマレスタは、正しくはいわゆる「演出補」という立場なのであろう。

 6時45分頃終演。

9・16(金)パスカル・ヴェロ指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団

  仙台市青年文化センター・コンサートホール  7時

 仙台フィル、復旧成った本拠地に戻ってのこれが2回目の定期。応援のつもりで聴きに行く。
 コンサートホールそのものはさほど被害を受けなかったと聞く。が、中に入ったとたんに鼻をつくコンクリート工事のようなにおい(空調の風か?)から、やはり建物全体の修復作業も大きかったのだろうな、という印象を受ける。

 今回の定期は、常任指揮者パスカル・ヴェロの指揮。
 モーツァルトの「交響曲第40番」を挟んで、前後にサリエリの歌劇「トロフォーニオの洞窟」序曲およびチャイコフスキーの「組曲第3番作品55」という、大変珍しい作品が取り上げられていた。このプログラムも、聴きに行ってみたいなと思った理由の一つである。

 最初のサリエリ、物々しい序奏と軽快な主部からなる5分足らずの作品だが、冒頭の弦の厚みのある響き、いい音だなと思う。大震災によるさまざまな危機を克服した仙台フィルの瑞々しい意欲がこの一瞬に感じ取れたと言っても、決して誇張にはなるまい。

 ただ、水をさすようで申し訳ないが、全管弦楽のフォルティシモになるとこのホール、音響的に飽和して大音塊となり、内声部など明晰度を全く欠いてしまうのは相変わらずで・・・・。
 しかしヴェロは些かも妥協せず、デュナミークの幅を極度に大きく設定して、激しい起伏の音楽をつくり出す。チャイコフスキーの組曲でも同様、第4曲で「怒りの日」の旋律が登場するあたりなどホールが揺らぐような威圧感だったし、最後の頂点個所でのポロネーズでは体当たり的な熱狂が繰り広げられた。

 このポロネーズは、少々歯止めの利かない感をも与える大熱演だったが、チャイコフスキー特有の「終結部の熱狂」(第4交響曲の最後のようなまとめの巧さには欠けるが)をためらいなく率直に再現してくれたものとして、好意は持てる。
 だが最も良かったのは中間2楽章――不思議な不安感を掻き立てる第2楽章の「憂鬱なワルツ」、鮮やかなリズム感を発揮させた第3楽章(スケルツォ)――で、これらはいくつかのディスクと比較した上でも、非常に魅力的な演奏であった。

 モーツァルトの「40番」は、楽器の編成の規模からして、このホールには最適だろう。ヴェロと仙台フィルは、その前のサリエリの作品とはガラリ語調を変え、ややくぐもった音色でト短調を開始した。これが実にいい。
 第1楽章はモルト・アレグロ、第4楽章はアレグロ・アッサイ、いずれも楽譜の指定どおり極めて速いテンポの演奏になっていたが、単に速いだけでなく、アジタート(激して)あるいはエネルジーコ(精力的に)といった要素が加味されていたのが今回のヴェロの指揮の特徴だろう。
 その速いテンポの中で、厚みのある弦が時にリズムの明晰さを失うこともあった(第4楽章)。しかし、全体に強い主張を感じさせる演奏であった。私は堪能した。

 今夜の仙台フィル、特に弦楽器群の好調さが印象に残る。コンサートミストレスは神谷未穂。チャイコフスキーの第4曲での彼女のソロはとりわけ見事だった!

9・13(火)ボローニャ歌劇場東京初日 ビゼー:「カルメン」

   東京文化会館大ホール  6時30分

 今回のボローニャ・オペラ来日公演ほど、主役歌手の交替が相次いだ事件は稀ではないか? 
 サルヴァトーレ・リチートラの交通事故による急逝は何ともいたましく、心から哀悼の意を奉げたい。

 だが、その他の有名歌手の来日中止については、これほど多くの歌手が時を同じくして病気に罹ることなど、普通は考えられまい。しかもうち3人には2~3週間の加療期間とかいう、いかにもその後の欧米での活動再開に支障のない(?)理由が付いているとあっては、何とも見え透いた言い訳と受け取られかねず、むしろ不快な印象をわれわれに与えてしまう因になる。

 まあしかし、そこはそれ、お詫びコメントなどというものは、概して一種の腹芸のようなもの。ここではこうとしか申し上げられませんが、ウラの事情はおわかりでございましょう、何卒よろしくお察し下さい、ということか。
 いずれにせよ、招聘元と主催者の心労は、並みのものではなかったろうと思う。

 さて、この「カルメン」では、当初予定されていたドン・ホセ役のヨナス・カウフマン、エスカミーリョ役のパオロ・ショット、ミカエラ役のアレッサンドラ・マリアネッリが来日しなかった。
 カウフマンはどうせ来ないだろう、というのが業界の予想だったし、さして驚くには当るまい。事実それは早めに発表されていて、フジテレビの公式プログラムにも既に彼の名は載っていなかった。

 それより、代役とはいえマルセロ・アルバレスがホセに登場してくれたことはむしろ歓迎すべきことで、この数年来評判をあげ始めた彼のホセ役をじっくりと観られたことは幸いであった。演出上の打合せがあまりよく出来ていなかったのではないか、と思われるところがいくつかあったものの、とりあえずはまず文句のない舞台といえたであろう。

 一方、最近売り出し中のパオロ・ショットは、昨年のMETデビューたる「鼻」(3月)のコワリョーフ少佐での才気あふれる舞台を見て感心、どんなエスカミーリョを演じてくれるか楽しみにしていたので、これは少々残念。
 代わりに歌ってくれたカイル・ケテルセンは、どこかで聞いた名だと思ったが、ノートをひっくり返してみたら、昨年7月にエクサン・プロヴァンス音楽祭で観た「ドン・ジョヴァンニ」で、レポレッロを歌っていた人だった。
 手堅い人だと思った以外、特に印象はなかったのだが、今回もまず無難な出来である。

 また、ミカエラに代役として登場したヴァレンティーナ・コッラデッティも、少々生硬な歌いぶりだったものの、一所懸命やっていた。

 カルメンを歌ったニーノ・スルグラーゼは、なかなか愛らしい舞台姿だ。
 演出イメージによれば、その場限りの情熱に生きる奔放な悪女でなく、男の力をも借りていっそうの自由を夢見る女性像(プログラム掲載インタビュー)だそうで、それ自体は大変結構である。が、それが的確に表現出来ていたかどうかとなると、未だもう少し、というところか。
 歌も良く歌っており、これに強い個性が加われば、いいカルメンになるだろう。ただ、こういう解釈によるカルメン像は、得てして舞台では地味に見えがちになるケースが多い。

 はからずもそのカルメン像に、ミケーレ・マリオッティ(首席指揮者)の指揮が合致していたとも言える。
 彼のこの作品における解釈は、「暴力的でなく叙情的」(同)な面を浮彫りにすることだというが、それも一つの考え方に違いない。ただ、コンサート上演か、あるいはオペラ映画でならともかく、さまざまな条件が絡む舞台上演で、それで果たしてこの作品の面白さが多くの観客に伝わるかというと、さてどんなものか? 
 第3幕前の間奏曲や、全曲大詰めのカルメンとホセとの対決の場での極度に遅いテンポ、カルメンを殺したあとでのホセの慟哭場面における長い最弱音と大きなリタルダンド、そして全曲における抑制された音楽の表情などを聴いていると、これは全く燃えない、クールな「カルメン」の音楽に聞こえる。
 そして、叙情的な美しさを全面的に発揮するにしても、オーケストラに些か活気と緻密さが乏しい、という問題も絡まって来るのではないか。

 演出はアンドレイ・ジャガルス。
 物語をスペインでなく、1990年代のキューバに読み替えた。第1幕ではカストロのポスターが見え、第2幕のバー「セビリャ」の壁にはゲバラの肖像画が見える。第3幕は、遠景にビル街を望む波止場。エスカミーリョは闘牛士でなくボクサー(!)であり、このため第4幕はスタジアム前の広場ということになる。ミカエラのお仕事は、看護婦のようだ。
 この程度のものは、当節では別に珍しい設定ではないが、要するに問題はその先だ。このキューバ設定が、ホセとカルメンのドラマにおいてどのように生かされているのか、それが明確に描かれていなければ、この読み替えも、単なる目新しさをねらっただけの意味しか持たなくなるだろう。

 興味深かったのは、モニカ・ポルマーレの舞台美術と、ケヴィン・ウィン=ジョーンズ/ジュゼッペ・ディ・イオーリオの照明だ。
 第1幕と第4幕は晴朗な青空の下の場面でありながら、建物も含めて、不思議に白々とした、異様に打ち沈んだ雰囲気を感じさせる色彩である。これはラトヴィア国立オペラの舞台装置だというが、翳りのある色彩はそのためとも思われぬ。偶然かも知れぬが、何か、悲劇的な様相を感じさせるところがミソだろう。
 

9・12(月)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団
ベルリオーズ:劇的交響曲「ロメオとジュリエット」

   サントリーホール  7時

 熱烈なベルリオーズ愛好家たる私としては、この秋のシーズンで最も楽しみにしていたコンサートの一つ。その期待が裏切られなかったのは嬉しい。

 10年ほど前にザルツブルク音楽祭で聴いた頃のカンブルラン指揮のベルリオーズは、巨大志向と叙情美志向の狭間でどちらとも決めかねている、といった傾向の音楽だった。だが、今やカンブルランも、自らの個性をはっきりと見極めた時期に入ったのではないか。相手が読売日響だったため、己の意思を余すところなく演奏に投入できたのかもしれない。

 今回のカンブルランは、音量を全体に抑制し、冒頭の争いの音楽をも、兇暴に劇的に怒号させるといったものでなく、叙情的な色合いの濃い音楽に仕上げている。
 キャピュレット家の夜会場面の頂点個所も、かつてのバーンスタインの録音のように豪華絢爛たる音の絵巻にはならず、終始柔らかい響きに満ちる。それでいながら、打楽器が参加して来るあたりの緊迫感(ここは何度聴いてもワクワクさせられるところだ)は全く失われていない。
 「トリスタン」の先取りとも言える「愛の情景」は、まさに聴かせどころにふさわしい美しさの演奏だ。ベルリオーズがやや独りよがりの描写手法で書いた「墓地の場面」でも音楽を弛緩させずに持って行くカンブルランの巧さには、感心させられる。

 読売日響も、今やカンブルランとの呼吸が合い、彼の狙いを完璧に受け止められる段階に入ったのだろう。
 「マブの女王のスケルツォ」など、あたかも水晶がきらきら輝きながら流れて行く幻影を見るような音色になっていたのは素晴らしい。このあたり、最近の読売日響の好調さを証明する演奏であった。

 歌手陣には、メゾ・ソプラノにカタリーナ・カルネウス、テノールにジャン=ポール・フシェクール、バス(ローレンス神父)にロラン・ナウリ。
 特にナウリの威厳豊かな歌唱は、この曲のラストシーンの締め括りに大きな役割を果たしていた。この人は、本当に表現の幅が広い。「ベンヴェヌート・チェッリーニ」での度外れた3枚目役、「椿姫」での悩める父親役、シャルパンティエの「ダビデとヨナタス」の風格に富んだサウル役、そして今回と――未だ40代後半とはとても思えない巧さだ。
 合唱は新国立劇場合唱団。

 カンブルランには、ベルリオーズをもっとたくさん取り上げてもらいたいと思うことしきりである。

        ⇒モーストリークラシック 12月号

9・10(土)川瀬賢太郎指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団

  愛知県芸術劇場コンサートホール  4時

 期待の若手の1人、川瀬賢太郎が名古屋フィルの「指揮者」に就任して、今回が最初の定期にあたるということなので、聴きに行ってみた。

 名古屋駅前から乗ったタクシーの運転手氏が、こちらからは何も言わないうちに「26歳であのオーケストラの指揮者になるなんて、凄い人なんですね」と、いきなり話しかけて来たのには驚き、嬉しくなる。
 時々こういうタクシー運転手がいるから面白い。先日など、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院に留学して歌の勉強をしたことがある、と話す運転手殿に出会ってびっくりしたことがあるが・・・・それはまた別の話。

 今日の定期のプログラムは、伊藤康英の交響詩「ぐるりよざ」、マーラーの「亡き子をしのぶ歌」(アルトのソロはマリア・フォシュストローム)、ニールセンの交響曲第4番「不滅」。2日公演の2日目である。

 入魂の指揮と、手ごたえ充分の演奏は、やはりニールセンだ。
 川瀬賢太郎らしく丁寧かつ端整な指揮で、いかなる激烈な個所においても音楽の形を崩さず、剛直なほどしっかりした構築を守り抜こうとする。音色づくりが非常に明晰なので、重要ないくつかのモティーフがはっきりと浮かび上がり、曲の構成が実に見通しのいいものになる。
 ただ、その響きは弱音の個所では極めて清澄で美しいのだが、最強奏の個所に来ると非常に硬く鋭い音塊と化し、内声の動きも何も判別し難くなるという傾向もある。これがホールのアコースティックの所為なのか、あるいはこちらが座った席(2階正面)の所為でそう聞こえるのかは断じ難いが。

 とはいえ、総体的には聴き応えのある「不滅」であった。
 名古屋フィルも起伏の大きな演奏を繰り広げてくれた。第3楽章での木管――特にクラリネットとファゴットは絶品であり、フィナーレでの2人のティンパニ奏者も――今回も上手側と下手側に対向するように配置されていた――もちろん大活躍であった。但しこのティンパニ、もう少し響きに奥行感を持たせ、オーケストラを打ち消さぬよう、バランスに工夫を凝らしてもよかったろう(2階席で聴いた範囲で、だが)。

 1曲目の「ぐるりよざ」も、先日彼が東京の別のオーケストラを指揮した時よりもダイナミックな流動感を備えた演奏で、多彩な面白さを感じさせた。
 かようにオーケストラを巧くまとめるという点では、彼の指揮は、聴くたびに成長が感じられる――といってもまだそれほどたくさん聴いていないから、口幅ったいことは言えないのだが。

 しかし、問題は歌曲だ。
 オケと歌が表向きは合っているように見えても、音楽の深層ではチグハグな印象を免れないのである。なるほどオーケストラは叙情的でふくよかで美しい。が、歌の息づきに呼応する柔軟で伸縮自在の呼吸に不足するというか、歌詞における感情の起伏とは無関係に終始イン・テンポの演奏が続けられたというか、――要するにすこぶる単調な「亡き子をしのぶ歌」に聞こえたというのが、偽らざるところである。アンコールとして歌われた「われはこの世に忘れられ」でも同様であった。

 そういう問題を別とすれば、川瀬の名古屋フィル定期への「指揮者」就任後の初登場は、まず大成功を収めたようだ。カーテンコールでの楽員の反応も、好意に満ち満ちていたように見えた。

      ⇒モーストリー・クラシック12月号

9・9(金)藤原歌劇団 ロッシーニ:「セビリャの理髪師」

   新国立劇場  6時30分

 演出が松本重孝、指揮がアルベルト・ゼッダ、歌手陣にはアントニーノ・シラグーザ(アルマヴィーヴァ伯爵)、高橋薫子(ロジーナ)、谷友博(フィガロ)、三浦克次(バルトロ)らが出演。

 今回は、名曲レパートリーをなぞるような並みの上演ではなく、アルベルト・ゼッダの有名な「新(批判)校訂版」を使用しての演奏である。
 それゆえ、聞き慣れない歌が入っているなとか、やはりこれを此処に入れたか、などと感心しながら聴かせてもらった次第だ。プログラムに掲載されている小畑恒夫氏や水谷彰良氏の解説を含め、大いに教えられるところが多い。
 特に第2幕後半、「ベルタのアリア」と「嵐の音楽」の間におかれたロジーナのアリアは、今夜がオペラとしての日本初演(小畑氏)の由。意義ある上演と言えよう。

 ただ、それはたいへん結構なのだが、かんじんの演奏面では、もう少し引き締まっていただかないと。
 光っていた高橋薫子、無難にまとめたシラグーザは別として、3人の主役のバス・バリトンが、早口のイタリア語で歌う個所になると、途端に歌詞も声も明確に聞こえなくなってしまうのはいただけない。特にフィガロは、リズムとテンポをもっと正確に歌って欲しいもの。
 何より困るのは、東フィルの音が非常にか細く不安定なため――序曲からしてなさけない音だった――ロッシーニの音楽が全く沸き立たないということなのだ・・・・。

9・8(木)第14回(2011年)チャイコフスキー国際コンクール優勝者ガラ・コンサート

   サントリーホール  7時

 厳密に言えば、第3位の人も入っているし、1位なしの2位(最高位)の人もいるので、「上位入賞者」ガラということになるが、それではPRになるまいから、まあ何でもよい。全チャイコフスキー・プログラムで、協演は高関健指揮東京交響楽団。

 まず登場したのが声楽部門・女声第3位のエレ-ナ・グーセワ(ソプラノ、25歳)で、「エフゲニー・オネーギン」から「手紙の場」を歌った。
 ふくらみのある美しい声で、ロシアの歌手がロシア・オペラを歌う時特有の粘り気のある音程の動きによりタチヤーナの揺れ動く感情を歌い上げる・・・・のだが、その感情の変化を表現するあたりが未だ未だという点で、3位に留まったのだろうか? 容姿がいいから、間もなくロシア・オペラ団のどれかに加わって来日することになるかもしれない。

 2番目は、ヴァイオリン部門で1位なしの2位になったセルゲイ・ドガージン(23歳)。
 まあ実に明るい音色の流麗なレガートで、柔らかく弾く人だ。こういう草食系のチャイコフスキーを若いロシア人男性が弾くとは、興味深い。
 「ヴァイオリン協奏曲」の第3楽章では、トレパークの主題が戻って来る直前で毎回テンポを大きく落し、思い入れたっぷりに「矯め」をつくって、なかなかテーマに入って行かない。その代わり、第2楽章はその遅いテンポが効果を発揮、この上ない叙情美を作り出す。
 私個人の好みとしては少々もたれてしまう演奏だったが、客席は大いに沸いていた。

 次がチェロ部門第1位のナレク・アフナジャリャン(22歳)。
 前々日の記者会見席上では、今日の状況下における来日の是非を問われて「災害や不幸に顔をそむけてどうなるというのでしょう? われわれは団結すべきです。われわれが日本に来ることで、日本の人たちの力になれれば」と答え、また「自分はコンクールの前からキャリアを積んでいるので、コンクールはいわばトランポリンのようなもの」と面白いコメントを述べていた青年だ。
 その良い意味での才気が反映したような「ロココ風主題による変奏曲」の演奏で、明晰で歯切れ良く、引き締まって知的な表情の素晴らしいソロを繰り広げた。

 最後は、すでに1月の「ショパン・コンクール・ガラ」などで日本でもお馴染み、人気沸騰しているダニール・トリフォノフ(20歳)。ピアノ部門堂々優勝の、話題の逸材だ。
 1月に弾いたショパンの「1番」の時にはソフトで自然な演奏だったが、今日のチャイコフスキーの「1番」となると、さすがに大きくアプローチを変え、堂々たる風格を備えた、くっきりとした構成とダイナミックな流動感に富む演奏に仕上げる。
 そういえば彼は、「ぶらあぼ」編のメモリアル・ブック掲載のインタビューで、「チャイコフスキーは、ロマンティックな作曲家というより、むしろドラマティックな魂を持った写実主義的な作曲家・・・・現実的で厳格な人」という意味のことを語っていた。この演奏と照らし合わせ、なるほどと思う。
 なお、1月の「ショパン」の時と同様、今回も彼はファツィオリのピアノを使用して演奏していた。モスクワのチャイコフスキー・コンクールでは、スタインウェイを使用していたそうである。

   音楽の友 11月号

9・7(水)3D映像による「ラトルとベルリン・フィルの《巨人》」試写会

    ソニーPCL 本社/SPセンター(目黒) 1時

 昨年(2010年)シンガポールのエスプラネード劇場で行なわれた、サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルの演奏会のライヴ映像。これは秋に映画館で上映される予定とのことだが、今日はそれに先立つマスコミ試写会。

 コンサートのライヴ映像は当節では珍しくはないが、3Dで見ると、ちょっと目新しくて面白い。舞台上に並んでいるオーケストラがおそろしく立体的に奥行感を以って見られるし、時にはラトルやホルン奏者が、試写室の最前列席に座っている人より「こっち側」にいるように見えたりしてびっくりすることもある。

 マーラーの交響曲「巨人」が前半に置かれて、これは完全なコンサート・スタイルの映像だ。
 後半はラフマニノフの「交響的舞曲」で、こちらには、時々シンガポール(だろう)の街の光景が折り込まれる。冒頭、巨大な高層ビルを地上からアングルした映像でスタートするが、これがこの曲の物々しい劇的な出だしとぴったり合い、異様なほど威圧的な感覚を与える。これも面白い。
 もっともそのあとの音楽と街の光景との組み合わせは、NHKの某番組と似たような手法になる。したがって、映像と音楽のイメージが「合っている」か「合っていない」かは、見る人それぞれの感覚により判断が異なるだろう。

 なお、主催スタッフの話では、この「街の映像」の挿入は映画館上映版のみであり、今後家庭用DVDとして発売されるものは、2曲ともコンサート映像だけになる、とのことであった。
 たしかに、映画館で1回だけ観る映像と、自宅で繰り返し見る映像とは性格が異なるから、それも一理ある。ただこれも、人によって意見は分かれるだろう。

 このようなメディアで聴き、観るラトルとベルリン・フィルの音楽は、すこぶる迫力がある。豪壮雄大な音響の渦が襲いかかって来る。
 樫本大進がコンマスとして活躍しているが、収録カメラの位置のせいで、彼が正面から撮られている映像がほとんどないのは残念であった。

 音質は硬くてやや鋭く、あまり好い音とも思えないが、これは試写室の装置のせいかもしれないから、断定的なことは言えない。ソニーのスピーカーを使っているのかと思ってよく見たら、BOSEだった。

9・4(日)ミラン・トゥルコヴィッチ指揮東京都交響楽団

   東京オペラシティコンサートホール  2時

 日曜日のマチネー、しかもモーツァルトとなると、さすがに客席も満員だ。
 今日は、交響曲「プラハ」と「第39番」、その間に「ファゴット協奏曲」を挟んだプログラム構成。ファゴットのソロは岡本正之。

 交響曲では弦編成を14・14・10・8・6とし(と見えたが・・・・第2ヴァイオリンの数については席の位置の関係で自信なし)、しっとりした厚みのある音で響かせる。ピリオド楽器的演奏からは対極の位置にある、所謂「オーソドックスなスタイル」による演奏だ。
 殊更の細工はないけれども、ニュアンスはすこぶる細かく、隅々まで神経を行き届かせた指揮である。とりわけ木管のパートが驚くほど精妙に聞こえたのは、トゥルコヴィッチがファゴットの名奏者でもあるからか? 

 美しい演奏だとは思ったけれど、本音を言うと、最近はこのようなスタイルのモーツァルトには、あまり刺激を感じなくなっていたのだ。
 しかし、プログラム最後の「第39番」のような演奏を聴けば、このようなスタイルに、心底から敬意を払わずにはいられなくなるだろう。
 第4楽章、第16小節からの弾むような進行は私の最も好きな個所なのだが、弦楽器群が柔らかくしなやかに波打ちながらリズミカルに快走して行く今日の演奏の、いやもう素晴らしかったこと! 再現部の同一個所でも同様である。

 ここを、これほど美しくふくよかな均衡をもった響きで快く聴けたのは、ナマでは初めてである。レコードからは、もしかしたらカラヤンがウィーン・フィルを指揮した演奏(1949年録音)をビニール製SP盤で聴いた時以来か? 
 都響の弦(今日のトップは四方恭子)の充実ぶりが、余すところなく発揮された演奏だった。
 大いに満足して、ホールを出る。

   モーストリークラシック11月号 公演レビュー

9・3(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル マーラーの「3番」

  サントリーホール  7時

 つい2年半ほど前まであんなに荒れた音を出していたその同じオーケストラとはとても思えないほど、引き締まった演奏を繰り広げた今日の日本フィル。
 もちろんこういう演奏は一朝一夕に成るわけではなく、ラザレフやインキネンをはじめ、何人かの客演指揮者たちにより整備されてきた結果に違いないが、とにかく定期公演での演奏が安定して来ているのは喜ばしいことである。

 今日のマーラーの「第3交響曲」は、このオーケストラが総力を挙げた演奏と言っていいだろう。
 見事なソロを聴かせる江口有香をコンサートミストレスとする弦楽器群の充実は、第6楽章でその最大の良さを発揮した。また、楽器を高く上げる例の「吹き矢スタイル」でフォルティシモを吹き上げたオーボエやクラリネットを含む木管楽器群も強力だった。第1楽章でのトロンボーンもいい。

 ホルンとトランペットは、第1楽章では快調だったのだが、そのうち息が切れたか? フォルティシモの個所では実にパワフルだが、ピアニッシモの個所がどうも不可ない・・・・。
 しかし、第3楽章での舞台外からのポストホルン(客演首席トランペット奏者のオッタビアーノ・クリストーフォリが吹いた)は、おそろしく上手かった。このパートがこれだけ流れるように美しく完璧に吹かれたのを、これまで聴いたことがないほどである。彼を擁する日本フィルは誇ってよいだろう。距離感と音量もおそらくベストで、舞台上の楽器群と重なる個所においてもすべてのパートを明確に聴き取ることができた。

 インキネンの指揮は、予想通り、明晰で端整な剛直さを備えた構築で全曲を押し通す。すっきりして切れ味のいい表現で、内向的な翳りなどといった要素は全くなく、一種の快さにあふれる。どちらかと言えばクールなタッチだが、決して無機的ではない。第1楽章の終結など、みるみるテンポを速めて高揚に導くところ、呼吸は鮮やかだ。

 とはいえ、前半の3つの楽章など、それぞれの楽章に音色の変化がもう一つ明確に出れば、いっそう多彩なものになっただろうが、このあたりが彼の若さだろうか。
 一方、終楽章最後の壮大な盛り上がりの個所も力感にあふれていたが、ここで金管楽器群の音色がもっと美しく均衡を保っていれば、インキネンの求めたであろう清廉な法悦感といったものが更にはっきり出たのではないか。このあたり、オケとして解決が求められるところだろう。
 ――だが、このフィナーレの最後の昂揚は、何度聴いてもいいものである。

 メゾ・ソプラノのソロは、エストニア出身のアンネリー・ペーポという大柄な人。たっぷりした声で夜の無限の深さを歌い上げた。
 合唱は栗友会合唱団の女声と、杉並児童合唱団。女声合唱にはもう少しリズム感とメリハリが欲しいところ。
 しかし、第4楽章に入った時に起立した合唱全員が、そのまま全曲が終るまでずっと立ちっ放しだったのは、さぞ大変だったろうと思う。誰か貧血を起こして倒れはしないか、どのタイミングで座るだろうかと、長い第6楽章の間じゅう気になって仕方がなかった。何しろこの曲の合唱では、気分が悪くなって座り込んだり、居眠りして立ち遅れたりする人がいたのを見たこともあるので。

 日本フィルの秋のシーズン、成功裡に幕を開けたといえよう。

9・2(金)山田和樹指揮セントラル愛知交響楽団

   三井住友海上しらかわホール(名古屋)  6時45分

 別に追っかけではないけれども、山田和樹が小編成(弦10・8・6・6・4)のオケをどのように制御して「未完成・英雄」を演奏するかを聴いてみたかったので、台風の前をかすめて名古屋まで往復。
 それに、セントラル愛知響をナマで聴くのも久しぶりだし、しらかわホールに行くのも十数年ぶりだし、ということもあって。

 編成の小さいオケだろうと、小さいホール(700席前後)だろうと、オーケストラをダイナミックに全力で響かせる、というのが、彼ニュー・ヤマカズの身上のようだ。
 シューベルトの「未完成交響曲」においても、ティンパニを豪打させ、トランペットを鋭く一閃させ、厚みのある音で壮大な音楽をつくる。この曲であれだけのフォルティシモを作るのは少々行き過ぎではないか、と感じられるところもあったが、セントラル愛知響がなかなか巧く鳴るので、これはこれで面白い、という気持にさせられる。

 このオーケストラ、今夜の低音域の力強さは立派なもので、特にコントラバスが4本でありながら明晰かつ清澄によく響く音を聴かせるのには感嘆させられた。「未完成」冒頭など、低弦群の確信に満ちた響きには、ハッとさせられるほど衝撃的なインパクトがあったのである。

 山田和樹の指揮も、先ごろ大編成の読響との演奏を聴いた時には、今日では珍しいロマン的なアプローチかな、と思った部分もあったのだが、今夜の小編成のセントラル愛知響との演奏を聴いて、その印象はかなり薄れた。
 ここでは、夢幻的な要素などからは遠く、むしろ切り立つような荒々しさと、敢えて言えば怒りの感情の爆発のごときものを感じてしまう。第2楽章の最後は、カタルシスというよりも、一つのドラマが思い切りよく終結した、といった雰囲気か。

 後半の「英雄交響曲」も、壮大志向の演奏である。デュナミークの対比は強烈で、叩きつける和音は、荒々しく鋭い。
 久しぶりでこういう雄大な気宇の演奏を聴いた気がする。当節の風潮からすれば反逆児的なスタイルの演奏ともいえるが、不思議な説得力を持つ演奏であり、聴き手はそれを時に斜めに見ながらも、何かを激しく意識させられてしまう、という心理に誘い込まれる。
 第2楽章最後は、すこぶる情感豊かに音楽が組み上げられていた。

 セントラル愛知響も大熱演だ。ヴァイオリン群には些か不安定なところが少なくなかったが、コントラバスはここでも見事な存在感を示していた。
 第2楽章第135小節からのホルンは、オリジナルの譜面通り3番ホルンが1人で吹いており、1小節ごとにフレーズが途切れるのが惜しかったものの、テュッティの中でのそのパワーは立派なものと言ってよかろう。

 第2楽章を除く3つの楽章でのエンディングの和音も、所謂「決めのいい」鳴り方だったが、全曲最後の和音(譜面では4分音符だが、事実上は2分音符ほどの長さを与えられていた)は、それが未だ完全に終らぬうちに騒々しくブラヴォーを絶叫した男によって破壊された。これは実に悪質極まる。

 なおプログラムの最初に演奏されたのは、野平一郎の「弦楽オーケストラのためのグリーティング・プレリュード」という佳品。
 「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー」を音階として少しずつちらつかせ、点滅させつつ、最後にヴァイオリン・ソロがそのフシを完全な形で奏して種明かしするという仕組だが、有名なフシなのだから、プログラムの解説でネタバレさせないで置いた方が、謎解きとしては面白かったのではなかろうか。

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