2017-03

8・31(水)ピーター・ゼルキン・ピアノ・リサイタル

  東京オペラシティコンサートホール  7時

 第2部の「ディアベッリ変奏曲」と、アンコールの「ゴルトベルク変奏曲」からの「アリア」は、松本でのリサイタルと同じ。
 第1部では、武満徹の「フォー・アウェイ」と、ベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第31番 作品110」が演奏された。1曲目は、当初予定されていたシェーンベルクの作品から変更になったものだ。

 ピアノは松本のそれと同じ調律だとのことだが、楽器の違いか、あるいはホールのアコースティックの違いか、かなり音色が異なっているように感じられる。
 松本ではゼルキンの弾き出す音の一つ一つが透明に輝き、爽やかさに満ちていたのに対し、今夜のそれは、何か靄がかかったような音に聞こえる。
 ただこれは、あくまで比較の上での話である。当然、演奏の印象も少し変わって来る。

 とはいえ、ピーター・ゼルキンの音楽の魅力は些かも損なわれていない。
 武満作品での清澄な叙情、ベートーヴェンの「作品110」でのテンポを落した瞑想的な表情。
 そして「ディアベッリ」では、沈潜と躍動の対照の強烈さに、改めて魅了される。とりわけ、決然たる低音の進行と、その上にハラハラと崩れ落ちる音のゆらめきとが交錯する変奏個所では、息を呑ませるほどの緊張が生れていた・・・・。

8・30(火)アフィニス夏の音楽祭最終日

   JTアートホール(虎の門)  7時

 8月22日から広島で開催されていた「アフィニス夏の音楽祭2011広島」のしめくくりは、東京の本拠地ホール「JTアートホールアフィニス」での演奏会。

 四方恭子を音楽監督とするこの音楽祭は教育アカデミーで、国内オーケストラの向上・発展に寄与することがその目的。各オケの楽員が受講者として参加、外国人演奏家の講師とともに室内楽などを学ぶという形だ。私も以前、このアカデミーが長野県飯田市で例年開催されていた頃に、取材に行ったことがある。

 今日のプログラムは、ハイドンの「弦楽四重奏曲ヘ短調Op.20-5 Hob.Ⅲ-35」、モーツァルトの「セレナード変ホ長調K.375」、シューベルトの「八重奏曲ヘ長調D.803」。

 ほとんど国内オーケストラの楽員だけで演奏された最初の2曲が、技術的には正確であるにもかかわらず生気の感じられない演奏だったので、いったい1週間何を勉強して来たのかと落胆させられたが、ジェシカ・リネバッハ(前ズーカーマン・チェンバー・プレイヤーズのヴァイオリン奏者)やルカ・ベヌッチ(フィレンツェ歌劇場管首席ホルン奏者)、ウェン=シン・ヤン(ミュンヘン音大副学長、先頃日本でハーディングやスダーンと協演した素晴らしいチェリスト)ら講師も加わった「八重奏曲」の演奏は、さすがに直截な躍動感にあふれ、大きな起伏と劇的な昂揚を創り出した。

 聴衆も、ここで初めて沸いた。
 いわば先生の模範演技みたいなものだが、本来なら、受講生たちがこういう演奏をやり、先生連中に一泡吹かせて恩返しをするべきなのに・・・・。

8・29(月)大野和士指揮東京フィル マーラー「復活」

  サントリーホール  7時

 大野和士が指揮するマーラーの第2交響曲「復活」。
 これは大野和士の「サントリー音楽賞」受賞記念コンサートで、「サントリー・サマーフェスティバル」の公演の一つとして組み込まれたもの。
 東京フィル、国立音大と東京オペラシンガーズによる大編成の合唱団、並河寿美(ソプラノ)、坂本朱(アルト)が出演した。

 この夏、大野和士は、京都市響との「3番」(7月24日)と併せ、マーラーの交響曲を2曲、日本のオケを指揮して取り上げたことになる。
 あの「3番」ではしなやかな叙情美も含めた壮麗な演奏が印象的だったが、今回の「2番」は曲想の違いもあって――それにおそらく、オーケストラの違いという要素もあろう――きわめて剛直な、毅然たる力感にあふれた豪演となっていた。

 作品全体をがっしりとバランスよく統一する大野の手腕は卓越しており、一歩誤まれば破綻にも陥りかねない構成のこの長大な交響曲さえ、些かも奇矯的にならず、実に起承転結のはっきりした、堅固な構築を備えるにいたる。
 そのためもあろうが、「青年作曲家が問いかける生と死」ともいうべきこの作品は、今日の演奏では、あくまで生を肯定する強靭な意志に貫かれたものとして再現されていたように、私には感じられたのであった。

 もちろんそれは、終始楽観的な感覚で押しまくった演奏だということではない。
 たとえば両端楽章。混沌の中に光明が見え隠れするような演奏の表情の変化は、絶妙なものがあった。
 そして、気がつけばその光明があたりを支配しているといったような終楽章での起伏などもまた、大野の巧みな設計の一例だろうと思う。

 なお今回、場外のバンダは、P席オルガン横の両側のドアをその都度開放し、客席からはその存在が見えぬ位置から響かせる方法が採られた。音響は非常に明快で、そのため所謂「荒野の彼方から」というイメージにはならず、この世のものならざる神秘性や恐怖感といったものからも遠くなる。
 それは、この日の演奏がロマン的なスタイルから遠く離れ、情感的な美よりも、構築上の力と美が優先されたものであったこととも結びつくかもしれない。

 プログラムに掲載されていた松平あかねさんの解説が、新鮮な視点から交響曲「復活」を捉えていて、面白かった。

8・27(土)サントリー・サマーフェスティバル2011
無声映画「瀧の白糸」と、望月京により作曲された音楽

   サントリーホール小ホール ブルーローズ  4時

 泉鏡花原作の「瀧の白糸」は何度も映画化されているが、これは1933年(昭和8年)に製作された溝口健二監督による無声映画。

 映画史などを読んで知ってはいたけれど、初めてこのフィルムを観て、あの時代に溝口は凄い映画を作っていたのだなと、改めて驚嘆させられる。
 特に後半、白糸(入江たか子)と検事代理・村越欣彌(岡田時彦)の対決からカタストローフに到るクライマックス場面など、息を呑ませる緊迫感だ。この2人の眼の演技が凄絶である。

 撮影の翌年に早世したという岡田時彦については本でしか知らなかったし、入江たか子の方も60年代になってからの黒澤明監督「椿三十郎」でのおっとりした奥方くらいしか印象に残っていなかったが、それぞれ若い時期の映像を今回じっくりと観て、その「水も滴る」美男・美女ぶりに、なるほど当時一世を風靡したほどのことはあると、これまた感嘆させられた次第であった。

 この無声映画に、望月京が音楽を付けたのが、2007年。
 フランスではもう何度も上映・演奏されて来たとのことだが、音楽の方は今回が日本での初演(8月24日に第1回が行なわれた)の由。望月らしい現代音楽のスタイルで書かれている。演奏の量は映画全篇のうちかなりの部分を占め、描写的なものもあれば、イメージ的なものもあり、ドラマに応じてスリリングな効果を上げるところも多い。

 杉山洋一の指揮するアンサンブルが、この音楽を上映に合わせて演奏した。このアンサンブルは、尺八(藤原道山)、筝(後藤真起子)、三味線(辻英明)、野口千代光(ヴァイオリン)、篠崎和子(ハープ)、池上英樹(打楽器)、有馬純寿(エレクトロニクス)ら、錚々たる顔ぶれの編成である。

 この映像は、音楽なしで観ても、充分感動的だろう。また望月の音楽も、単独で聞いたとしてもすこぶる魅力的だろう。
 しかし、両者が合体して作り出す劇的な迫力も、凄まじい。

 こういう古い映画が、新しいスタイルの音楽を付けられることによって、新しいイメージで甦る、というのは素晴らしいことだ。昔のオペラが新しいスタイルの演出によって新しい感覚で甦るというのと、ある意味では似ているだろう。

 かように上映と生演奏を一体化させた「シネ・コンセール」なる公演形式は、この十数年来、フランスでは非常に盛んになっている(プログラム解説による)のだそうだが、面白い試みだ。
 先月のサントリーホールでの「やってみなはれプロジェクト」における「無声映画と弁士と生演奏」も別の意味で面白かったし、この夏は新鮮な愉しい体験をさせてもらった。

8・26(金)サイトウ・キネン・フェスティバル松本 オーケストラ・コンサート

    長野県松本文化会館大ホール  7時

 今年の「オーケストラ・コンサート」は、ベネズエラ出身、27歳の新鋭、ディエゴ・マテウスが客演指揮した。

 アバドの引き立てを受けてモーツァルト管弦楽団の首席客演指揮者を務め(2009年から)、近々フェニーチェ劇場の首席指揮者就任も決まっているというから、これも注目の若手ということになる。今夜が日本への公式デビューとのことで、私も彼の指揮を聴くのはこれが初めてだ。

 若さに似合わず端整で正確な指揮をする人だと噂に聞いていたが、なるほど、チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」では、がっちりと骨太に音楽を構築する。激しい曲想の個所で、轟然とオーケストラを鳴らしながらも決して均衡を失わないところが、噂通りというわけだろう。

 その一方、次のバルトークの「ピアノ協奏曲第3番」では、ピーター・ゼルキンの透明清澄な、しかもしなやかで生気あふれるソロに呼応した美しい世界を創り出した。ティンパニが少々突出気味だったのは、マテウスの情熱の致すところなのかしらん。

 そして最後のチャイコフスキーの「第4交響曲」では、ここぞとばかりオーケストラのエネルギーを解放する。
 両端楽章での壮烈な咆哮――怒号といってもいいほどだったが――は、サイトウ・キネン・オーケストラの底知れぬ猛烈な馬力を見せつけたものだろう。
 しかしここでも、オケが野放図にならず、あくまでバランスを保っていたのが興味深い。
 第2楽章の瞑想的な主題も、作曲者が語ったような「深夜に疲れきった人が椅子に体を埋めて物思いに沈む」というイメージからは遠く、「考えながらも歩き回る」者を見ているような感覚に引き込まれる。

 総じてこのマテウス、オーケストラ統率力はなかなかのものだ。豊麗な音色と骨太な力感が、その身上だろう。それを受けたサイトウ・キネン・オーケストラも、相変わらずタフだし、おそろしく上手い。
 ただ、こういっては何だが、――壮麗で空虚な音の饗宴、という言葉が、演奏を聴きながらふと脳裡をかすめたのも事実だったのである・・・・。

 今年の「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」取材は、これで完了。
 例年に比べ、不満を感じるところもなくはなかったが、本質的にはやはり素晴らしいフェスティバルであることに些かも変りはない。

 終演後、クルマで帰京の途につく。9時50分頃には長野自動車道に入ったものの、中央高速では局地的な豪雨やら、事故による一部通行止めなどに遭遇、小淵沢ー韮崎間を甲州街道に迂回したりして時間を要す。都内の車の流れに乗ったのは、午前1時を少し過ぎた頃だった。

     音楽の友 10月号

8・25(木)サイトウ・キネン・フェスティバル松本
バルトーク:「中国の不思議な役人」「青ひげ公の城」

   まつもと市民芸術館 主ホール 7時

 結局、小澤さんは、今夜も「青ひげ公の城」を指揮することが出来なかった。

 発表によれば、5時半の時点で医者から指揮OKという診断を受けたものの、6時10分、ベッドから起き上がることが出来ず、出演を断念したとのことだ。6時20分になってロビーの客へアナウンスによる告知があり、さらにそのあとになってやっと「お詫び告知」の紙が手書きでロビーに貼り出されるという慌しさ。
 開演前には、一昨日と同様、栗田泰幸GMがお詫びの挨拶を行なった。会場にも、重苦しい憂慮の空気が漂う。
 だが、それでも、「The Show Must Go On」。

 今日は、客席で聴く。
 プログラムの第1部に置かれたバレエ「中国の不思議な役人」――昔は「不思議な宦官」と言ったものだが――は、もちろん当初の予定通り、沼尻竜典の指揮で上演される。
 彼らしく、ややクールな表情のものではあったが、荒々しく躍動するバルトークの音楽の良さを手堅く伝えてくれた。

 もっとも、演奏が冷静であるのは、必ずしも指揮者のせいだけでもなかろう。
 このサイトウ・キネン・オーケストラは、小澤征爾以外の客演指揮者を迎えて演奏する時には、何かこう、指揮者との一体感というものを感じさせないという傾向がある。今夜の演奏もまあ、その例に漏れぬと言ってもいいかもしれない。
 これは、このフェスティバルの今後にとって、決して好ましいこととは思えないのだが。

 ただ、その範囲内でも、バルトークはよくこんな物凄い音楽を書いたものだ、という感慨を与えてくれる演奏だったことは事実である。
 金森穣の演出と振付と照明が、不思議な宦官と娼婦の少女の葛藤を明確に描いていたし、中川賢(宦官)、櫛田祥光(宦官の影)、井関佐和子(娼婦)ら「Noism」のメンバーによるダンスも激しく力動的で、音楽の不気味さと均衡を保った舞台を創り出す。
 私にとっては、きわめて手応えのある40分間であった。

 なお、この「Noism」は、金森が芸術監督を務めるりゅーとぴあ(新潟市民芸術文化会館)の専属のダンス・カンパニーである。見事だ。

 後半の「青ひげ公の城」は、一昨日同様、アーティスティック・アシスタントのピエール・ヴァレーが指揮した。
 この人の指揮を今日は客席で聴いて、一昨日に舞台袖で漏れ聞いた印象とやはり一致していた、と言わねばなるまい。
 実にきちんとした、丁寧な指揮である。テュッティの最強奏も、このオーケストラにしては珍しく(?)美しく、しかも見事に均衡が取れていて、破綻を感じさせない。「第5の扉」でのバンダを入れてフォルテ3つまで高まる最強奏の個所も、あるいは終結近くユーディトが「第4の過去の女」にされる悲劇的な頂点個所も、オーケストラのバランスは極めて良い。「涙の湖」のハープや管楽器群の音色も、なかなか陰翳が濃い。

 だけれども、――それ以上のものが何にも無いのだ。音楽そのものに含まれている生々しい情感の激しい起伏といったものが、ヴァレーの指揮では、ほとんど再現されないのである。
 たとえば、青ひげ公とユーディトの間に忍び寄って来る感情の危機を、バルトークはもっと、場面ごとに微妙に変化させ、微細なニュアンスで描写しているのではなかったか? 
 演奏にその表情の変化が精妙に再現されなければ、このオペラの音楽は単調な、だらだらと流れるものに堕してしまいかねないのだ。

 客席の拍手は至って物静かで、今日はブラヴォーの声が一つも聞こえない(後述の演出のせいもあったか?)。

 青ひげ公はマティアス・ゲルネ、ユーディトはエレーナ・ツィトコーワ。両者とも、歌唱の面ではベストを発揮していたであろう。陰マイクによる吟遊詩人の前口上はアンドラーシュ・パレルディだった。

 演出・振付・照明は、第1部と同じ金森穣。
 2人の主役は簡単な演技を行なうのみ。ほかに、背景の紗幕やスクリーンにダンスがシルエットなどで浮かび上がり、青ひげの「過去の3人の女」も動きを抑制したダンサーにより演じられる、という舞台である。
 そのアイディア自体は、珍しくはなく、悪くもない。しかし今回、実際に出来上がった舞台は、オペラのそれとしては、視覚的に些か貧しく、要領を欠き、単調な感を否めない。当フェスティバルで上演されたオペラの中では、残念ながら感銘の薄い演出だったと言えよう。
 これはフィレンツェ歌劇場との共同制作による新作なのだそうだが、・・・・・・。

     音楽の友 10月号
 

8・24(水)サイトウ・キネン・フェスティバル松本
武満徹メモリアルコンサートⅩⅥ ピーター・ゼルキン・ピアノ・リサイタル

   長野県松本文化会館大ホール  7時15分

 前半は武満徹プログラムで、「遮られない休息」「フォー・アウェイ」「閉じた眼~瀧口修造の追憶に~」「雨の樹素描」「閉じた眼Ⅱ」が約45分間にわたり続けて演奏され、後半にベートーヴェンの「ディアベッリの主題による33の変奏曲」が演奏された。

 演奏会場として当初予定されていた「ハーモニーホール」が、先頃の松本の地震により建物の一部が損傷したため、場所を長野県松本文化会館大ホールに移して開催される運びとなったもの。
 こちらのホールは、もちろんハーモニーホールの3倍以上もキャパが大きいので、聴衆は中央ブロックの前方から席を詰めて座るように案内される。結局、通路の後方の席も、十数列までは埋まっていたろうか。

 しかし、ピアノの調律の良さ(ミーン・トーン)もあって、ピーター・ゼルキンの引き出す音色の美しさは、たとえようもないほどであった。
 武満徹の、これ以上はあり得ないほどの長い静謐の世界を、いささかの弛緩もない美しさで、紡ぎ出す。ホールの広大さから来る一種の落ち着きのなさをさえ、完全に忘れさせてくれる。
 聴衆は、魔法にかけられたように聴き入っていた。こんな光景は、ここ「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」以外には見られまい。

 後半の「ディアベッリ変奏曲」は、昔のピーター・ゼルキンからは想像できなかったような、変幻自在のデュナーミクを駆使しての演奏となった。ピアノの音色の素晴しさもあって、その演奏の表情の多彩さは限りない。これほどしなやかに身をくねらすような音楽の「ディアベッリ変奏曲」は、ほかには一寸聴けないであろう類のものである。
 私はこういうスタイルの演奏はあまり好きではないのだが、この作品の思いがけない側面を見せられたような気がして、興味深く聴かせてもらった。

 アンコールに彼は、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」からの「アリア」を弾いた。これまた、自ら美の中に沈潜しきったような演奏である。かくて再び、冒頭の武満の世界と結び付いた、ということになろうか。

 そういえば、リサイタルのアンコールとしてこの「ゴルトベルク変奏曲」の50分以上にわたる長い全曲を、全部弾いたとか(思い直して途中で止めたとか?)いうエピソードの持主は、彼の父親である大ピアニスト、ルドルフ・ゼルキンではなかったろうか?
 若い頃、大拍手の中でアンコールを何か弾けとマネージャーからせっつかれ、興奮しきっていたルドルフは、何を弾いたらいいか思い浮かばず、とっさに弾き始めたのがこの曲で、そのまま何処まで行っても止まらなくなってしまった、という話を、昔何かの本で読んだような気がする。お客もさぞ面食らったことだろう。

    音楽の友10月号

8・24(水)サイトウ・キネン・フェスティバル松本
ストラヴィンスキー:「兵士の物語」

   まつもと市民芸術館 実験劇場  2時

 これは、フェスティバルとまつもと市民芸術館との共同制作。
 7人の演奏者と4人の演技者(語り手を含む)が同一平面上の舞台に配置され、演技はかなり動きが激しく、演奏者も簡単ながら演技に参加するという形が採られる。演出はロラン・レヴィ。

 郷古廉(ヴァイオリン)只友佑季(トランペット)中谷孝哉(打楽器)らプレイヤーたちも巧いし、福井貴一(語り手)石丸幹二(兵士)串田和美(悪魔)麻生花帆(王女=黙役、バレエのみ)らも芸達者で、愉しませてくれた。
 日本語をこの音楽に乗せることはもともと至難の業だが、かなりの程度まで解決できていたように思う。強いて注文をつければ、語り手のナレーション等に「間延びする」ところが何ヶ所かあったことくらいだろうか。
 上演時間約は75分。

 このホールの「実験劇場」という場所に入ったのは、私はこれが初めてだったが、なかなかうまく出来ているのに感心した。
 要するにそれは、この主劇場の「舞台裏」に特設される「場」なのである。舞台裏の背後の壁面一杯に取り付けられているセットを手前に倒すと、それが階段状の座席(360席ほど)になる。舞台には、主舞台の奥の部分が使われる。つまり観客は、主舞台を、いつもとは逆の方向から見る位置に座っている、というわけだ。

 この位置関係が効果的に活用されるのは、「兵士の物語」のラストシーンである。
 背景の幕が取り除かれると、そこに出現する「舞台奥の背景」は、主劇場の、真っ赤なカラの客席だ。
 その客席の中央に悪魔が立ち、兵士を差し招く。照明によって、その悪魔のシルエットが上階席にまで巨大に拡がり聳え立ち、何とも物凄い、不気味な光景を作り出している。兵士は、魔物と化した王女をあとに、よろめきつつ彼方の悪魔のもとに吸寄せられて行く。
 この瞬間、観客のはずのわれわれは、いつの間にか舞台上の兵士の仲間としての立場に変わり、彼が客席の悪魔に屈服して行く光景を、背後から呆然と見送っている、ということになるのである。

   音楽の友10月号 

8・23(火)サイトウ・キネン・フェスティバル松本 番外篇
バルトーク:「中国の不思議な役人」「青ひげ公の城」

    まつもと市民芸術館・主ホール 7時

 客席で聴くのは明日のコンサートからなのだが、今年はバルトークのオペラをジョナサン・ストークス(有名な録音エンジニア)ら、デッカのチームがライヴ収録しているというので、前日に入って見学してみようと思った次第。本番は終始、舞台袖や舞台裏から覗き見ながら、音を聴く。

 今年の「サイトウ・キネン」は、「小澤征爾の見事な完全復活」が話題のはずだったし、事実2日前のオペラ初日では彼も元気で指揮して、新聞にも報道されていた。
 だが、聞くところによると、体調にはかなり苦しいものがあったそうである。
 結局、今夜の2日目の公演では、彼は「青ひげ公の城」を指揮できず、代役の指揮者が立った。お客さんの落胆も大きかっただろう。

 それにしても、こういう状態が続くと、小澤さんの今後の活動については、些か危惧されるところがある。彼にはまだまだやるべきことがたくさんあるはずだ。今はもう、何が何でも、元気になっていただきたいと願うしかない。

 公演の前半は、沼尻竜典が指揮するバルトークのバレエ「中国の不思議な役人」。
 今回は「小澤征爾の復帰」ばかりが焦点になって、せっかくの沼尻の「13年ぶりのサイトウ・キネン・フェスティバル松本再登場」も、前座扱いになって霞んでしまう傾向があったのは気の毒である。袖で聴いた限りでは――この舞台袖で聞くと、オーケストラが結構良い音で聞こえるのである――音楽も躍動していて、いい演奏に聞こえていた。明後日(3日目)が楽しみだ。

 後半の「青ひげ公の城」では、今夜は代役としてピエール・ヴァレーというフランスの指揮者が振った。
 この人は、小澤征爾音楽塾にも副指揮者としてタッチしているというし、今回の「青ひげ」でも「アーティスティック・アシスタント」としてスタッフに名を連ねているから、緊急の場合に振れるとすれば、やはりこの人以外にはいなかったのであろう。
 袖でモニター・テレビを見ながら聴く限り、きちんと指揮し、几帳面に音楽をつくる人だとは思うけれども、・・・・。しかし、客席で聴いていた何人かの知人の同業者は、「悪くなかった」という感想を述べていた。
 明後日の上演で、もし彼が指揮することになるなら、客席でじっくり聴かせていただこう。

 もちろん、小澤征爾が復帰して振ってくれれば、それに越したことはない。
 ちなみに、わが国の有名指揮者で、ほかに最近この「青ひげ公の城」で名演を聞かせてくれた人といえば、飯守泰次郎か、井上道義ということになるが・・・・。

 結局、今日の演奏は、デッカ・チームとしては、公式的には「収録しなかった」由。

8・22(月)「サントリー・サマーフェスティバル2011」初日
「映像と音楽」(1)秋山和慶指揮東京交響楽団

  サントリーホール大ホール  7時

 恒例のサントリー芸術財団主催「サマーフェスティバル」の初日は、「映像と音楽の関わり」として、相互に関わりのある映像作品と音楽作品とを同時に上映・演奏するという面白い企画で幕を開けた。この中には、世界初公開のものもある。企画担当のアイディアを賞賛したい。

 第1部は、シェーンベルクの「映画の一場面の伴奏音楽」で開始された。秋山と東響の演奏は悪くなかったが、客席は何となく薄い拍手で、今一つ乗らず。

 漸く会場が活気づいたのは、2曲目の「グラス・ハーモニカ」(1968年)という作品から。
 これは、アンドレイ・フルジャノフスキー監督のアニメ映画と、それに付けたシュニトケの音楽からなるもので、今回はフルジャノフスキー自身が舞台に登場して製作当時の内幕などを語る。この趣向もいい。
 政治・社会への風刺に満ちたこの映像は、当然検閲に引っ掛かり、大きな改訂を余儀なくされたそうで、今回上映されたのはその改訂版だという(この辺、通訳に多少不鮮明なところがあったが)。

 字幕が付けられていればベターだったと思うが、内容そのものは理解しやすい。シュニトケ独特の多種多様なスタイルが入り乱れる音楽も愉しめたが、秋山和慶の指揮の巧いこと、テンポを映像の変化にピタリと合わせる見事さは、彼ならではのものであろう。
 なお、この演奏と上映がこのような形で公開されたのは、今夜が世界初とのことである。

 後半は、エドガー・ヴァレーズ作曲の「砂漠」(1949~54年)と、それをビル・ヴィオラが視覚化した映像(1994年)の組み合わせだ。
 音楽自体は、もう昔からレコードで親しんでいたものだ。1960年前後、入り浸っていた新宿の有名な名曲喫茶「風月堂」で、われわれ生意気な学生どもは、この「砂漠」をはじめ、「アルカナ」「イオニゼーション」といった、当時の前衛的なヴァレーズの音楽にどれほど夢中になったことか。
 「イオニゼーション」のレコードがかかると、初めて聴くお客さんは、「何だ?」という表情でスピーカーの方を振り向く。それが面白くて、仲間同士、顔を見合わせてニヤリとしたものであった。

 ビル・ヴィオラといえば、先頃パリ・オペラ座が日本にも持って来た「トリスタンとイゾルデ」の舞台で終始映写されていた映像でもおなじみの人である。
 「砂漠」も、文字通りの砂漠の光景だけでなく、乾燥、荒涼、孤独、絶望、といったイメージを組み合わせた映像であった。ちょっと単調なところもあり、映像単独では緊張を保てないようにも感じられるが、しかし秋山=東響の巧みな演奏により、これも興味深く聴き、観ることができたのは嬉しい。

8・16(火)山田和樹指揮読売日本交響楽団「三大交響曲」

   サントリーホール  6時30分

 「運命・未完成はもう古い。これからの名曲は・・・・」などとFM誌が書きたて、レパートリーを拡げようではないかと煽っていたのは、1970年代のこと。だがどうやら、それらの曲の人気は今でも衰えていないらしい。

 はるか昔、私が初めてプレイガイドで切符を買い、胸躍らせながら聴きに行ったオーケストラ・コンサートが、当時の山田和男(のち一雄。夏精と称したこともあった)指揮する東京フィルの「三大交響曲演奏会」(「未完成」「新世界」「運命」)だった。
 あの頃は、そういうコンサートが多かった。「新世界」の代わりに「悲愴」が出て来ることもあったが、「運命・未完成」は不動の存在だったのである。

 その山田和男、つまり往年のヤマカズの指揮で聴いた同じ「未完成・運命・新世界」を、今はニュー・ヤマカズ――人気抜群の若手・山田和樹の指揮で聴く。
 この演奏がまた、すこぶる面白い。3曲ともに弦16型の大編成を使い、分厚くどっしりした響きをつくる。特にベートーヴェンは、小編成でノン・ヴィブラートの鋭角的な響きをつくる当節の流行に敢然と背を向けた、彼の信念に基づくスタイルというべきか。

 鋭さよりも壮大な風格を優先させ、クライマックスに至るや体当たり的な力感を注入するといった手法も彼の指揮の特徴と思われるが、このあたりの呼吸が実に巧みなのには、まさに舌を巻かされる。それに、仕掛けも細かい。

 たとえば「運命」。
 第4楽章展開部の頂点にかけての盛り上げ方など、息を呑むほどの迫力に満ちたエネルギーだし、そのさなか【D】からの主題を吹く木管群と渦巻く弦楽器群とのバランスの取り方もなかなか見事だ。終結部の頂点へ追い込んで行く呼吸も痛快そのもの。
 第3楽章からのブリッジ・パッセージでのクレッシェンドの方法など、一風変わったやり方で(これは文章では説明しにくい)、読響相手によくあんな凝った方法を押し通したものだと感嘆させられる。第4楽章再現部直前の短いクレッシェンドにしても同様。
 また、全曲最後の小節におけるティンパニを、スコア通りに32分音符とトレモロとに(実際はともかく、一応その狙いに従って)分けて叩かせたのにも感心したが、ここは何よりも読響のティンパニ奏者に讃辞を贈るべきであろう。

 この勢いなら、「新世界交響曲」でも何かアッと言わせるような仕掛けを聴かされるのではないかと期待(?)したのだが、それほどでもなかった。
 しかし、全曲いたるところに細かい趣向が施されていた点では、前2曲と同様だ。第3楽章第2トリオにおける木管の主題の、レガート気味に演奏された後半部分の、何とまあ甘美な民謡のように聞こえたこと! 同楽章第285小節あたりのトランペットとホルンのバランスにも一寸した工夫が凝らされていて、耳をそばだたせる。

 第4楽章での弦の情感とスケール感、頂点へ追い込むテンポの調整など、いずれも特徴的だ。前半の2楽章を抑制して伏線とし、後半のクライマックスに全力をぶつけるというのが、ここでの山田和樹のねらいなのだろうが、その持って行き方が極めて巧いのである。

 今夜の読響は、トランペットとホルンが些か雑であり、アンサンブルも少々緩かった(指揮者の所為にしてはいけません)ため、やや締まりの無い個所もあったけれども、全体としてはすこぶる個性的な「三大交響曲」の演奏であったと言えよう。
 「ニュー・ヤマカズ」も、その凝った指揮が今日はまだ「策士」的な色合いを感じさせるが、いずれそれらを「自然な演奏」としてつくり出せる日が来るだろう。妙に修まり返ったりすることなく、目指すところをひたすら追求して行って欲しいものである。

    ⇒モーストリークラシック11月号 公演レビュー

8・12(金)ペーター・コンヴィチュニーの演出アカデミー 最終日

   滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール リハーサル室

 ついに最終日。
 午後2時半から、「発表会」と題する仕上げの本番上演。

 沼尻竜典も、松本からトンボがえりして来て指揮を執った(さすがに若い人は精力的です)。
 昨日の副指揮者もよくやっていたので、こう言っては彼女に申し訳ないけれども、やはり沼尻が振ると、ピアニスト(西聡美)の演奏にしても、歌手たちの歌唱にしても、俄然生き生きした流れを取り戻すのである。その結果、音楽には魅惑的な力が生れて来る。全曲1時間40分、音楽は滔々と流れた。

 その指揮に乗って歌手たちは、まさに総ての力を出した、と言ってもいいだろう。
 前から良かった人たちはいっそう良くなったし、どうかなと危惧された人たちも全力で乗り切って良い結果を出した。
 第4幕では少し緊張が薄れたのか、オヤと思われる瞬間もなくはなかったが、舞台は水もの、とにかくここまで一丸となって見事な舞台を創り上げた人たちの情熱と努力には、惜しまぬ讃辞を捧げたい。

 私が勝手に、独断と偏見に基づいた賞を受講生に贈るとすれば、まあ、こういうところか。
 ――男性歌唱賞は、第1幕・2幕でロドルフォを熱演した山本康寛。女性歌唱賞は、第3幕で3人目のミミを歌った佐藤路子。
 男性演技賞は、家主ベノワを歌った服部英生。女性演技賞は、第4幕でムゼッタを歌った端山梨奈(なお彼女は、歌唱面でも9日の模擬オーディションで表情豊かな歌を聴かせていた)。
 助演賞は、給仕長として強烈に微細な演技を示した原純と、群衆の中でひときわ派手に野次馬オヤジを怪演(?)していた山崎太郎教授。
 
 カーテンコールに沸き立つさなか、この演出アカデミーが来年も引続き開催されることが決定したむね、コンヴィチュニーの口を借りて発表された。会場はいっそう盛り上がる。彼を真ん中に、握手や抱擁や写真撮影が続く。
 こちらは、帰京の新幹線に乗るため、そっと失礼した。

 この10日間に及ぶ貴重なアカデミーで体験したことが、参加者全員にとって有益に生かされますように。

     ⇒音楽の友10月号 イヴェントレポート
 

8・11(木)ペーター・コンヴィチュニーのオペラ演出アカデミー第9日

   滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール リハーサル室
 
 アカデミーも、いよいよ仕上げの段階に近づいている。
 明日の本番「発表会」を前にして、今日は午後2時半からゲネプロ。受講者のほぼ全員が出演、全曲を切れ目なしに歌い、演じた。

 嘉田由紀子・滋賀県知事も駆けつけて来て、客席最前列で熱心に終演まで観ていた。びわ湖ホールといえども「公益財団法人」だから、知事の出席は、今後の継続開催にいい影響を与えるだろう。

 沼尻竜典・びわ湖ホール芸術監督は、今日は松本のサイトウ・キネン・フェスティバルのリハーサルのため留守にしており、副指揮者の森香織が指揮を執った。
 照明効果が初めて加えられての完全な全曲通し演奏である上に、指揮者が替わったことも影響してか、演奏にも演技にも、昨日とは多少の異なった雰囲気が感じられたのは事実であろう。

 第2幕での群集のノリは、昨日のそれよりも少しおとなしくなっていた。「冷たき手を」でのロドルフォ(山本康寛)の歌唱も、今日はやや抑え気味になっていたが、ただこれは、明日の本番に備えてということもあったかもしれぬ。
 その一方、第4幕でのムゼッタ(端山梨奈)のように、一昨日の練習時に比べて演技に長足の進歩を遂げていた人も多かった。

 いずれにせよ、ゼロからスタートして、ついにここまで細密なドラマの舞台を創り上げて来た演出指導者をはじめ、受講者および制作スタッフの意気込み、情熱、努力、忍耐、根気、感性は、称賛すべきものと言わなくてはならない。
 ゲネプロは4時20分に終了したが、そのあとも明日の本番に備え、コンヴィチュニーによる更なるダメ出しや、演出グループの打ち合わせ、歌手たちの練習などもあったようである。

 前回のアカデミーの時にも書いたことだが、音楽と歌詞とドラマに基づいた演技を入念に掘り下げ、実地に生かして会得するこのような「演出アカデミー」は、わが国のオペラ界において、いま最も必要とされるものの一つではないかと思われる。
 本来は、日本の各音楽大学でこのようなテーマに関する本格的な講座が常設されて然るべきなのであろう。
 単に両手を拡げて歌ったり、片手を差し延べて歌ったりするようなありきたりのジェスチュアではなく、もっと人間のドラマを表現する演技を学ぶアカデミーが、何故日本のオペラ界には常設されないのか?
 教える側も学ぶ側も旧弊のスタイルに囚われて、なかなかそれ以上の段階には進めないと嘆く良心的な関係者もいる。

 そういう状況の中でのこの演出アカデミーの存在は、甚だ貴重である。
 学生だけでなく、すぐに実戦に臨む立場にいる現役歌手たちも、こういうセミナーを積極的に受講すれば、いっそう有益なのではなかろうか? 音楽大学の先生たちにも参考にしてもらいたい、とわれわれは思うのだが、こちらの方はプライドや、面倒な学閥や対抗意識などが障害になるのかもしれない・・・・。

 今回は歌手たちの指導が主なる目的のアカデミーだったが、行く行くは演出家を育成するための本格的な組織も欲しいところである。

8・10(水)ペーター・コンヴィチュニーのオペラ演出アカデミー第8日

    滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール リハーサル室
 
 午前のセッション(10~13時)では、第4幕の続き、ミミが息を引き取る大詰めの場面が指導されていた。
 ただでさえ暗いシーンなのに、コンヴィチュニー先生は全く手を緩めず妥協せず、細部までぎりぎりと詰めて教え込むので、われわれ観ている方もヘトヘトになる。僅かな休憩時間にロビーで休んでいる人たちも、「屋根裏のボヘミアンたち」の悲嘆の演技に呑み込まれたかの如く、何となく落ち込んだ表情だ。しかし、演技の流れは、昨日よりは良くなっている。

 午後のセッション(2時半から)は、第1幕からの全曲通し稽古。
 ソリストの受講生は、ミミ役が8人、ムゼッタ役が6人、ロドルフォ役が3人、マルチェッロとショナールとコッリーネは各2人、という数なので、演じる歌手は幕ごとに、あるいは場面の途中で巧みにすり替わるという仕組になる。
 勘のいい歌手もいれば、そうとも言えない人もいる。彼らをまとめて指導するコンヴィチュニーの根気と忍耐強さは、大したものというべきだろう。

 それは、指揮している沼尻竜典にも言えることかもしれぬ。これは演出指導のアカデミーだから、止めたり、やり直したりする指示は、すべてコンヴィチュニーから出る。指揮者は、棒でのみ、歌手たちに演奏上の指示を与えるだけだ。
 しかし、普通は練習指揮者の役割であるこの仕事を、どうやら沼尻はすこぶる愉しみながらこなしているようであった。おそらく、優れた演出家のドラマトゥルグを吸収したいという熱意や、受講生の中に自らが芸術監督として率いるびわ湖ホールの所属声楽アンサンブルのメンバーも何人か含まれていることへの責任感――なども加わっているのだろう。いずれにせよこれも、見上げた姿勢と言わねばならぬ。

 各キャラクターに付せられたコンヴィチュニーの解釈の中で面白かった一つの例は、第1幕における詩人ロドルフォの性格だ。
 「冷たき手を」のアリアは、ミミを相手に甘く歌われるのではなく、モノローグ風な演技と激しい表現により「青年詩人の怒り」として表現されるのである。己の才能が正しく評価されぬことへの怒り、あるいは世の中への怒り含まれているのだろう。
 これで、ロドルフォが単なる甘いテナーの主人公でなく、ある種の気魄を持った人間であることが示されることになる。山本康寛(びわ湖ホール声楽アンサンブル所属)が、このアリアを激しく、ピアニストや観客に向かって噛みつくように歌い、見事な迫力を創り出していた。この解釈は面白い。

 第2幕では、コンヴィチュニーらしく、群集の精密な動きにもかなりの比重が置かれている。演出受講者のうちの何人かも「助演者」として、群衆に交じって出演する。
 その中には、助演者としても定評のある演出家の原純がいて、今回も「カフェの給仕長」を演じ、凝りに凝った演技を披露していた。こういう脇役がいると、舞台が引き締まるものである。

 合唱団を含む群集の一人一人が細かい演技に徹底しているのも流石だが、しかし今回はなんとその中に、ドイツ文学やワーグナー研究で有名な、しかも日本ワーグナー協会理事でもある某TK大学教授が黙役で加わり、ムゼッタの媚態を覗き見るなど馬鹿騒ぎを繰り広げるオヤジを嬉々として演じているのを発見、肝をつぶした次第。
 ともあれ、この場面での群集の、自らの役割を完全に会得した演技には、教えた当人のコンヴィチュニー先生も、絶賛を惜しまなかった。

 第4幕の幕切れになると、御大はまたもや徹底したダメ出しや手直しやらを含む指導を繰り返す。終了時刻は、予定を30分も越えて、6時になってしまった。

8・9(火)ペーター・コンヴィチュニーのオペラ演出アカデミー第7日

    滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール リハーサル室
 
 早朝に東京を発ち、午前9時半、びわ湖ホールに着く。

 昭和音楽大学が3年前から主催しているこのアカデミーは、鬼才演出家ペーター・コンヴィチュニーが若手アカデミー生を相手に演出指導を行なうシリーズだ。私も最初の年から連続して見学しているのだが、なかなか面白いし、勉強になる。
 昨年からはびわ湖ホールが共同主催者となり、同ホールのリハーサル室でワークショップが開催されている。今年は8月3日~12日。連日10時から17時までみっちりと演技指導が行なわれるというヘヴィなスケジュール。

 受講者はソリスト歌手26人、合唱23人、演出家13人。びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーもいれば、オーディションを受けて参加した歌手たちもいる。熱心なファンも、聴講生としてリハーサルを観ることができる。
 なお今年は「東日本大震災被災地学生招待プロジェクト」として、合唱受講者の中に福島大学の声楽専攻生9人が、ドイツ大使館等からの協賛金を含む寄付金により招かれていた。これは時節柄、非常に意義あることである。

 昨年の教材は「蝶々夫人」だったが、今年は「ラ・ボエーム」だ。
 今日は、大詰めの第4幕(セミナーでの呼称は第4景)に達したところ。
 コンヴィチュニーの演技指導も過去2回のそれに劣らず入念で、微に入り細にわたる。
 さすがに彼もこういうアカデミーの場では、あまり奔放な読み替え演出ではなく、比較的ストレートな解釈の演出を採る。ただし、掘り下げ方が徹底していて、登場人物一人一人についてその場の状況や心理状態を詳しく説明し、音楽と歌詞に基づいた演技を、根気よく要求して行く。

 たとえば第4幕での彼らしい解釈は、ラストシーンにおける「危篤に陥ったミミを囲んで、仲間全員の心が再び優しく結ばれる」とコンセプトであろう。マルチェッロとムゼッタの愛も蘇る。つまりミミという女性は、みんなの心を一つにするという不思議な力の持主なのであり、この幕では若者たちの温かい真心が描かれることに舞台が集約される、というのが彼の考え方だ。

 ワークショップの全体の進行は、今年はいいテンポで進められているようであった。
 これには、畏れ多くも(?)びわ湖ホール芸術監督殿の沼尻竜典が、なんと自ら練習指揮者を買って出ていることも大きく影響しているように思われる。
 つまり彼が指揮していることにより、演奏の方が既にその場で流れよく出来上がってしまうので、その音楽に自然に乗って、あとは演技に集中すればいい・・・・という雰囲気が会場に生まれているように感じられるのである。

 それに、彼の指揮で演奏しているピアニストの西聡美が、驚異的に巧い。オペラの練習のピアノで、こんな巧い人を聞いたことがない。技術的な上手さというだけでなく、演奏にエスプレッシーヴォとドラマトゥルギーが備わっていて、音楽が生き生きしているのである。レーゲンスブルクなどで実地に仕事をして来た人だそうだが、出色の存在だ。

 それにもう一人、このシリーズの第1回からずっと通訳を務めている蔵原順子の存在も大きい。コンヴィチュニーの指示を、単に正確に訳すだけでなく、さらに解りやすく補足して歌手たちに伝えているはずだが、彼女の明晰極まる通訳が、セミナーの場を明るく盛り上げるのに決定的な役割を果たしていることは疑いない。

 第4幕の最後の部分を積み残して、ワークショップは5時半にようやく終った。
 続いて6時からは特別講座企画のような形で、シュトゥットガルト州立歌劇場の次期オペラ監督エファ・クライニッツ女史を招き、「ヨーロッパの歌劇場のオーディションを受ける時の心構え」ともいうべき「模擬オーディション」が小ホールで開催された。
 今日は女声歌手7人、男声歌手3人が参加、それぞれアリアを2曲ずつ。

 クライニッツ女史は会場で、舞台に登場した際の挨拶の仕方、自信に満ちた態度ではっきりと聞こえるように自己紹介すること、現在の自分を最もアピールできる曲を選ぶこと・・・・などをまず指示していたが、終了後には一人ずつ個別に、詳しい適切な講評を行ったとのことである。
 歌手たちはすべて今回「ラ・ボエーム」に出演している人ばかりだが、みんな、かなりの力量の持主だ。ただその反面、歌詞の発音にメリハリが不足したり、力が入りすぎて叫びすぎたり、ヴェルディとモーツァルトを同じ勢いで歌ったりする人もいたが・・・・。
 この模擬オーディションは、2日間にわたり行なわれる。

     ⇒音楽の友10月号 イヴェントレポート(以下4日間 同)

8・3(水)ファビオ・ルイジ指揮PMFオーケストラ

    サントリーホール  7時

 古い話だが。
 90年代後半の頃、PMFオーケストラの東京公演は、7月に札幌で開催したパシフィック・ミュージック・フェスティバルの「巡業公演」であり打ち上げとでもいうべき位置づけだった。そのため、演奏はたいていお祭り騒ぎのようなものになっていたので、PMFオーケストラの評判は、東京ではあまり芳しくなかった。私など札幌と東京とで聴いて、7月にあれほど勉強したものは何処へ行ったのか、と嘆いていたものである。

 これではよろしくなかろう、というわれわれの意見が容れられて、その後は芸術監督が「巡業公演」をも指揮する、シリアスな姿勢のものに変わった。
 芸術監督自らが札幌で何度か演奏したプログラムを大阪や名古屋などで繰り返し、最後に東京でやるのだから、東京公演がいっそう完成された演奏水準になっていたのも当然であろう。ゲルギエフが指揮したチャイコフスキーの「第5交響曲」などはその典型的な例で、プロ・オケをも凌ぐ演奏になっていたことをご承知の方も多いはずである。

 さて、今年である。
 マーラーの「リュッケルトの詩による歌曲」(4曲)と「亡き子をしのぶ歌」(バリトン・ソロはトーマス・ハンプソン)、それに第1交響曲「巨人」というプログラムだ。スケジュール表を見ると、このプログラムはこれまでに札幌で2回(うち1回は野外演奏会)演奏しただけだったことがわかる。
 その所為なのかどうか、例年に比べると、仕上げが些か粗っぽい。

 特に「巨人」がそうで、金管と木管の一部に雑な演奏が聞かれ、オーケストラ全体としても勢いに任せて押しまくるといった雰囲気もあった。
 個々のパートのテュッティは、金管群をはじめとして強力そのもので、いかにも腕利きの集合体であることを感じさせるが、しかしオーケストラ全体が最強奏で爆発した時には、すべての音が合体してそれ以上の膨らみや豊麗な余韻を生み出すという響きにはならず、ただそれぞれのパートが豪快に咆哮する、という演奏に留まるのである。

 とはいえ、ルイジの指揮がそもそも煽りに煽るスタイルであり、細かい精妙なアンサンブルよりも音楽のエネルギーを優先するという狙いらしいから、彼としては満足すべき出来と考えているのだろう。
 それにピアニッシモの方は、響きに陰翳もあって美しく、18型の弦のトレモロにも不気味なざわめきのようなものが感じられる。第3楽章の葬送行進曲など、傑出したものだった。なお、管の一部が・・・・などと言ったけれども、オーボエが非常に優れていたことは、称賛しておかなければならぬ。

 歌曲集2つに関しては、オーケストラが抑制気味に鳴らされることもあって、響きの美しさは充分に保たれていたと思う。
 ただし、歌詞のリズムと表情とに、オーケストラが些かそぐわないところもあって、すべてがぴったりという感にならない。何か座りの悪い演奏に思えたのはそのためだろう。これは練習不足の所為か? 
 しかし、トーマス・ハンプソンが今日は絶好調で、「真夜中に」における絶唱をはじめとして、スケールの大きな歌唱を聴かせてくれた。微細な悲劇的表情や陰翳などには不足するものの、詠嘆的な趣きはある。彼の本領は、今後はオペラよりも歌曲に発揮されるべきだろう。

   モーストリー・クラシック10月号 公演レビュー

8・2(火)チョン・ミョンフン指揮アジア・フィルハーモニー管弦楽団

    サントリーホール  7時

 「日本、韓国、中国、みんながここに一緒にいます」とチョン・ミョンフンがカーテンコールで挨拶すると、盛大な拍手が起きる。

 アジアの優秀な音楽家を集めて1997年に日本で旗揚げしたこのアジア・フィルは、2002年に一度活動を停止したものの、06年には韓国の仁川を本拠地にして復活したという歴史を持つ。
 今回はベートーヴェンの「第7番」とブラームスの「第1番」をメイン・プログラムに、アンコールではベートーヴェンの「第5番」終楽章の再現部以降を演奏してくれた。

 16型の弦、2管編成で演奏された「7番」では、極めてストレートな表情の裡に、壮大な力感が誇示される。
 鋭角的にケバ立ったり刺激的になったりせず、なんの衒いもなく、ひたすら滔々と押し流すタイプのこういう演奏は、最近ではむしろ珍しくなった趣きがあろう。ヒネクレた(?)聴き手には、少々スリルに乏しいものに聞こえることもある。

 私としてはむしろ、ブラームスの「第1交響曲」の方が面白かった。
 これとて、最初の3つの楽章は重厚雄大な、極めてマットウな演奏だったのだが、第4楽章に入るや、表情が俄然豊かになる。序奏ではぐっとテンポが落され、響きにも濃い陰翳が漂う。
 各パートが単にそれぞれ鳴るのではなく、それらが融合して、そこに豊かな倍音というか余韻といったものが生れ、まるで奥深い巨大な洞窟のような底知れぬ雰囲気の響きを漂わせるのだ。こういう演奏を聴くと、チョン・ミョンフンという人は、オーケストラの鳴らし方、もって行き方がやはり巧いな、と感心せずにはいられない。

 この序奏の雰囲気がそのまま主部に引き継がれ、あの有名な第1主題は遅めのテンポで、たっぷりと歌い出される。この主題がこれほど落ち着いた荘重な風格を以って演奏されるのを聴いたことは、滅多にない。
 コーダ前のストリンジェンドとクレッシェンドは猛烈を極め、最後のピウ・アレグロはプレスト同様のテンポとなり、雄大な熱狂で結ばれる。「7番」で抑制していた情熱を、すべてこちらに持って来たようなブラームスのフィナーレであった。チョン・ミョンフンの巧みな設計、と言うべきであろう。

 こういう演奏のあとでは、いかに「運命」の終曲がスリルに満ち、快速列車の如き演奏であったとしても、こちらの気分が追いついて行かぬかもしれぬ。お客さんの拍手とブラヴォーも、ブラームスのあとのそれらが、一番大きかった。

    音楽の友10月号 演奏会評

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」