2017-03

7・31(日)仙台オペラ協会東京公演  岡崎光治作曲「鳴砂」

   新国立劇場中劇場  3時

 仙台オペラ協会が総力を挙げた東京公演。この時期、よく頑張ったものだと思う。新国立劇場の地域招聘公演の一環として今回実現したもの。
 演出は作曲者自身、指揮は山下一史、オケは仙台フィル。仙台オペラ協会合唱団や、佐藤淳一(船乗り・ミナジ)、佐藤順子(ミナジに想いを寄せるイサゴ)ら、多数の歌手陣が出演。宮城県での初演は1986年、再演(改訂版)は2010年。

 率直に言う。ストーリイ(原作・菅原頑)自体はいいものなのだから、ドラマの進行をもっと切り詰めて要を得るようにし、音楽の構築にもっと劇的な変化と起伏を与えれば、いいオペラになるだろう。
 現在の構成では、ドラマも音楽も、平板でまだるっこしい。最後の25分間は、ドラマのエンディングとしては、緊迫感と昂揚感を著しく欠いている。演出にしても、登場人物たちが常に拡がって客席を向いて歌うような安易なスタイルでなく、もっと「芝居」の演技を行なう本格的な演出で上演したなら、舞台の印象も随分違ったのではないか? 

 地方オペラだからといってわれわれが真剣に向き合うことをせず、「よくやった、よかった」とお世辞を言うだけだったら、むしろそれこそが「上からの目線」的で、失礼に当るだろう。
 最近の地方オペラは、どこもかなり水準を上げて来ている。それゆえ、実力の充分ある仙台オペラ協会なら、更なる上の段階へと脱皮を試みて欲しいものだ。

7・30(土)大野和士指揮群馬交響楽団のブラームス他

   ベイシア文化ホール  6時45分

 JR前橋駅からタクシーで10分。正式名称は群馬県民会館。1971年に開館したこのホールは、収容人数約2000という大規模な会場だ。
 クラシック音楽専門の会場ではないので、アコースティックはかなりドライである。

 残響のほとんどないこのホールを、群響と客演指揮の大野和士がどう鳴らすか。しかしそこはプロの腕、それなりに巧く形を整えていた。
 私が聴いたのは1階17列の席だったが、群響の音は思ったよりもしっとりしていて、時には瑞々しさも感じられた。ホールに拡がる響きのない分、むしろ室内楽的なイメージで聞こえるという瞬間もあったのである。

 思うに、どうも最近、自分の耳が残響のないホールにもやっと慣れて来たようである。このところ、テアトロ・ジーリオ・ショウワや、NEC玉川ルネッサンスホールや、群馬音楽センターといった、ドライな響きのホールでオーケストラを聴く機会がとみに多くなっているからだ。

 で、今夜のプログラムは、西村朗の「桜人(さくらびと)」、渡辺玲子をソリストに迎えてのブリテンの「ヴァイオリン協奏曲」、ブラームスの「交響曲第4番」の3曲。
 「桜人」は、日本の叙情が洋楽器の響きの中に美しく溶け合った佳品であり、大詰めの個所で「さくらさくら」の旋律が変容されて顔を覗かせるあたりも泣かせるところ。
 協奏曲では渡辺玲子が見事な集中力でソロを展開、一昨日のイザベル・ファウストのそれとはまた異なるタイプの、緊迫したブリテンを聴かせてくれた。大野のサポートも美しかったが、最後の最後、肝心カナメの管楽器群の和声の中でフルートが崩れたのは、それまでの演奏全体が良かっただけに、惜しんでも余りある・・・・。

 ブラームスでも管の一部には気になる点もあったものの、これらの瑕疵は翌日の太田市での演奏では問題なく解決されると思われる程度のものである。こういうドライなホールでは、管のソロの僅かなミスも目立ってしまう。
 それよりも、ブラームスの第2楽章での弦楽器群が素晴らしかったので、満足することにしよう。

 出がけの東京は晴れていたし、高崎も前橋も曇っていただけだったが、やはり豪雨は、帰りの高崎までのクルマと、新幹線に乗っている間に、所々で猛烈に襲って来た。
  音楽の友9月号演奏会評

7・29(金)サントリーホール「やってみなはれプロジェクト」参加企画
室内楽と人形舞の饗宴「黄泉比良坂」

    サントリーホール ブルーローズ(小ホール) 2時

 河村典子(ヴァイオリン)、白土文雄(コントラバス)、安江佐和子(パーカッション)というクラシック音楽側の実力派アーティストに、ホリ・ヒロシ他(人形舞)と梅若紀彰(観世流シテ方)が組んだステージということで、さぞや音楽と人形舞との豪華なコラボレーションが観られるだろうと期待していたのだが、それはプログラム後半の「黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)」(前田智子作曲)という作品においてのみだった。

 「黄泉比良坂」は、男が海辺で亡き妻の霊に出会うという「永遠の愛」を描くオリジナル物語。堀舞位子の人形舞演出による。独特の美しさはあるのだが、ちょっと舞台が殺風景過ぎたのではなかろうかという気もする。

 プログラム前半に演奏された4曲、杉山洋一の「Tree-nation」、ヴァルター・ギーガーの「そして石だけが残った」、アルベニスの「伝説」、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番」は、3曲目に僅かな舞が付いただけで、あとは単なる演奏だけ。したがってクラシック側の聴き手からすると、なあんだ折角の機会なのに、という感がないでもない。もちろん、演奏そのものは良かったのであるが。

 客席は満員。しかしこのシリーズ、どうしてどれもこう、遅刻して入って来る客が多いのだろう。

7・28(木)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

  サントリーホール  7時15分

 ウォルトンの「ヒンデミットの主題による変奏曲」、ブリテンの「ヴァイオリン協奏曲」、ヒンデミットの「ウェーバーの主題による交響的変容」という、なかなか巧い構成のプログラムだ。

 この中での圧巻の演奏は、なんといっても、イザベル・ファウストをソリストに迎えたブリテンの協奏曲であったろう。ブリリアントでありながら強烈無比の陰翳にあふれた彼女のソロが息を呑ませる。これだけ集中力にあふれて劇的で、凄味のあるブリテンの世界は、そう滅多に聞けない類いの演奏である。

 しかし、アルミンクと新日本フィルの演奏も、今日はすこぶる精妙だった。
 協奏曲では、たとえば大詰めで長く余韻を響かせる和音一つとってみても、実に緻密で美しい均衡を以って仕上げられている。

 最後の「ウェーバーの主題による交響的変容」は、ヒンデミットの作品の中では結構華やかな面白い曲で、私は好きなのだが、しかし今夜のアルミンクが採った音づくり――複雑に入り組んだテクスチュアを艶やかでまろやかな音色に包み込んでしまう指揮(2階LC席での印象)は、音楽をむしろ不明瞭にしてしまう傾向なきにしもあらずで、個人的には、あまり好きではない。

 かなり前に、パーヴォ・ヤルヴィが東京交響楽団とこの曲を演奏した時には、各声部を明晰に際立たせ対立させて、驚くほど先鋭的な響きを作り出していた。私はあの鮮烈な衝撃が今でも忘れられないのだ。

 しかし、好みを度外視して言えば、今夜のこの曲の演奏の水準は、驚異的なほどに高い。アルミンクは終始一貫した音色でオーケストラをまとめ、新日本フィルはそれに完璧に応えていた。
 第2楽章での、低音から起こったモティーフがみるみる全管弦楽に拡がって行くあたりの色彩の変化など、これほど徹底した音色のバランスと、ダイナミックな音の動きは、かつて聴いたことがなかったほどである。
 アルミンクと新日本フィルの音楽的な共同作業は――内幕はどうなのかは知らないけれども――少なくともこの作品の演奏に示されたものにおいては、再び最高水準に復帰した、と私は思っている。

 プログラムが渋いせいか、お客の入りがよろしくないのが残念だが、しかしこれは最近のこのコンビの演奏会のうちでも、最良のものであった。

7・27(水)サントリーホール「やってみなはれプロジェクト」参加企画
無声映画鑑賞会スペシャル「剣聖 荒木又右衛門」他

   サントリーホール ブルーローズ(小ホール) 7時

 無声映画――今風に言えば「サイレント・シネマ」だそうだが――の鑑賞会がこれほどあちこちで盛んに行なわれているとは、この方面に全く疎い私には、驚きであった。今夜の公演で配布されたチラシを見て、その数の多さを初めて知った次第である。

 私自身は、昔の映画に特に興味があるわけではないけれども、私が昔住んでいた家の庭が、目黒の、日本最初のグラスステージがあった撮影所の跡地で、その遺跡が数多く残っていた場所だったので――そこは朝日建物の「雅叙苑マンション」に無惨にも蹂躙されてしまい、今はもう跡形もない――何となく親近感があることは事実だ。

 今夜のスペシャルは、生演奏と活動弁士が付いての上映。
 第1部が「剣聖 荒木又右衛門」(昭和10年極東キネマ作品 仁科熊彦監督 羅門光三郎主演)。
 第2部が「アントニーとクレオパトラ」(1913年イタリア・チネス社作品 大正3年3月・浅草電気館封切 エンリコ・グァッツォーニ監督 ジャンナ・テリービリ・ゴンザレス主演)。

 カラード・モノトーンという和洋楽器の合奏団が演奏し、2作それぞれを坂本頼光と澤登翠の2人の活動弁士が担当する。
 この弁士たちの語りの巧いのなんの、私はただもう、感服して聴き入っていた。ドラマティックで物々しくて、しかも凄い迫力がある。
 「三大仇討ち」の一つ、鍵屋の辻で有名な「荒木又右衛門」のチャンバラ場面での、三味線を交えた「いかにもそれっぽい」音楽など、なるほどこういうものかと思い当たるし、羅門光三郎の眼の力の凄さも、当時の剣戟俳優の気魄を感じさせる。「アントニーとクレオパトラ」の人海戦術的なスペクタクルにも、当時こんなに豪華な映画が出来ていたのかと感心させられる。

 一見レトロなものが、実に新鮮に感じられる。素晴らしい。オーケストラと弁士による、血の通ったナマの音響表現も、スリリングだ。
 こういう文化が昔はあったのだ、という事実にも感動するが、それらが今なお生命を失なっていないというのも、やはり感動的なことである。

7・27(水)フェスタサマーミューザKAWASAKI開幕
ユベール・スダーン指揮東京交響楽団、檀ふみ他

    昭和音大テアトロ・ジーリオ・ショウワ  2時

 紺野美沙子に、檀ふみ・・・・2日続けて人気女優さんの朗読とナレーションを続けて聴くことになったが、しかし今日のは、ベートーヴェンの「エグモント」の音楽をナレーション入りで演奏するというプログラムだ。

 このナレーションは、一般のディスクなどで聴くものとは全く異なっていて、アルバ公の息子――彼は自由の志士エグモント伯を敬愛する一方、民衆を抑圧する暴虐な総督たる父親を憎悪している――が父親宛に書いた非難の手紙文、という形を採っている。
 誰が構成した台本かよく判らないが、何でも以前ザルツブルクで演奏された台本をスダーンが所持していて、それを翻訳したものだそうだ。

 これを女性に読ませるという手法も、今回スダーン自身が「音楽」と「声の音色」との性格の調和を考えて選択したものらしい。
 檀ふみは、宝塚みたいなカッコいい男装で登場、素晴らしく見事な、明晰でドラマティックなナレーションを聴かせてくれた。

 音楽の配列は、普通聴く順序とはかなり違っている。また「勝利の交響曲」直前の、小太鼓の行進リズムに乗ったエグモントの劇的なモノローグ(メロドラマ)も、今回はやや異なる構成が採られていた。なお、クレールヒェン役のソプラノは新垣有希子。

 スダーン指揮する東京響。今日も引き締まった快演が聴けた。
 前半に演奏されたベートーヴェンの「第1交響曲」の出だしを聴いた瞬間には、このホールのドライな、しかも音があまり前面に出て来ないようなアコースティックは、音の構築のみならず音色と響きとに強い個性を示すスダーンの指揮には不利に働くのではないか――という危惧を感じたのだが、そこはさすが、ホールを巧く鳴らす術を心得ているプロのオーケストラ。提示部の反復までの間に、音はみるみる変わって行った。
 結局は、これだけ凝縮して密度の濃い、完璧な均衡を保った「第1交響曲」は滅多に聴ける類いのものではない、という印象が残ったのである。

 「エグモント」でも同様であった。強いて注文をつけるとすれば、ナレーションから演奏に移る部分の間が少し空き過ぎることか? まあ、これはいろいろな点で、仕方がないだろう。

 「フェスタサマーミューザ」は、これが開幕コンサート。本拠地のミューザ川崎シンフォニーホールが使用できない状態ゆえ、今年の開催も一時は危ぶまれたというが、市内のいくつかの会場を使ってともかく開催できたことは幸いであろう。8月14日まで続けられる。
 終演後、赤坂のサントリーホールへ移動。首都高が混んでいて、1時間を要す。

7・26(火)サントリーホール「やってみなはれプロジェクト」参加企画
紺野美沙子の朗読座「ベルベットのうさぎ」

   サントリーホール ブルーローズ(小ホール)  7時

 「やってみなはれ、やらせてみなはれ」は、サントリーの故・佐治敬三氏のポリシーだったと聞く。面白いタイトルをつけたものである。今週行なわれているこの一連の企画は、ちょっと風変わりで面白い。

 朗読会というのは、これまで数えるほどしか聴きに行ったことがないのだが、行ってみると愉しい。語り手が上手ければ「言葉」の素晴らしさが堪能できるし、それに音楽が巧みに組み合わされていれば――こじつけになるかもしれないが――「音楽か言葉か」の原点にさえ立ち還ることもできるというわけである。

 「紺野美沙子の朗読座」というのは、定評のある人気シリーズだ、ということを誰かから聞いたことがある。さすが女優さん、巧い語りである。
 今日はDiVa(ディーヴァ)という3人グループのミュージシャンとの共演で、第1部が谷川俊太郎及びまど・みちおの詩の朗読に演奏を組み合わせたステージ。ここでは、朗読と演奏とが対等の地位にあるといった構成である。
 第2部は、ジャック・リー・ランダル構成・演出とマオ・カンパニーのメンバーによる影絵が加わった「ベルベットのうさぎ」という、哀しくも温かい物語。こちらは朗読が主役として構成されていた。
 なおDiVaのピアニスト・谷川賢作は、谷川俊太郎のご子息である由。

7・24(日)大野和士指揮京都市交響楽団

   京都コンサートホール  2時半

 前夜は大阪に泊り、昼頃京都に移動。

 大野和士と京響の演奏は、2年前の夏にもこのホールで聴いたことがある。あの時はラヴェルとショスタコーヴィチ(5番)だったが、今回はマーラーの「交響曲第3番」だ。
 最近絶好調の大野和士が指揮するコンサートとなると、やはり聴き逃せない。今回も是非と思って駆けつけた次第だが、その期待は充分に報いられた。

 実に見事な演奏である。京響も輝かしく瑞々しい活力にあふれた良さがあり、これを制御する大野和士の指揮も、並外れて卓越したものであった。
 立派だった個所の一つは、長大な第1楽章。豪壮かつ重量感豊かで、あの混然と入り乱れるさまざまな楽想群が決して散漫にならず、一つの滔々たる大河の如き流れを形づくる演奏になっていたのには感嘆させられた。

 また第6楽章でも、ゆっくりとした主題を徐々に昂揚させ、ついに壮大なクライマックスに導いて行く呼吸が素晴らしい。巧い指揮者とオーケストラの演奏で聴いた時には、このフィナーレの堂々たる頂点に来ると、私は涙が出るほどの陶酔感に浸ってしまう。今日は久しぶりにそういう体験をさせてもらった。

 ここでの網の目のように織り成される京響の弦楽器群の精妙さもなかなかのものだったが、全曲にわたっての金管群の良さも、特筆すべきものであった。
 第3楽章での舞台裏からのポストホルンのパートも美しく完璧に演奏されたように思うが、ただ少し遠かったのではないか? 私の聴いた席は1階15列という比較的舞台に近い位置だったにもかかわらず、夢幻的に聴くというより、耳をすませて音を捜すという感があった。まして舞台上のホルンなどが鳴り出すと、舞台裏の音は完全に消されてしまう。

 なお、メゾ・ソプラノのソロは、当初予定されていた小山由美に代わって手嶋眞佐子。まろやかな声が美しくニーチェの詩を響かせた。とはいえ、小山由美だったら、もう少し悲劇的で神秘的な情感を表現したのではないかと思う。合唱には、京響市民合唱団と京都市少年合唱団が出演した。

 ともあれ、この演奏に大いに満足して、夕方の新幹線で帰京。

  モーストリークラシック10月号 公演レビュー

7・23(土)佐渡裕プロデュース ヨハン・シュトラウスⅡ:「こうもり」

   兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール  2時

 再び朝の新幹線で、大阪へ。

 阪急電車「西宮北口駅」の南口に直結するこのホールで開催される「佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ」を観に来たのは、これで何回目か。
 とにかくいつも、凄い人気だ。今回の「こうもり」も8回公演(全回マチネー)がすべて満席というから、東京ではとても考えられない快挙である。事務局の話では、客の80%が兵庫県在住の人だとか。

 この「こうもり」は、あの評判を取った「メリー・ウィドウ」と同様、佐渡裕の指揮、広渡勲の演出、サイモン・ホルズワースの舞台装置(なかなか豪華だ)によるもの。

 今日のキャストは塩田美奈子(ロザリンデ)、黒田博(アイゼンシュタイン)、森麻季(アデーレ)、井ノ上了吏(アルフレード)、久保和範(ファルケ博士)、泉良平(刑務所長フランク)、晴雅彦(弁護士ブリント)というかなり強力な布陣で、それにヨッヘン・コヴァルスキー(オルロフスキー公爵)、桂ざこば(牢番フロッシュ)、剣幸(イーダ)といった特別出演の個性的な人たちが舞台を引き立てる。
 ひょうごプロデュースオペラ合唱団と同ダンスアンサンブル、兵庫芸術文化センター管弦楽団が出演。なおオーケストラにはゲスト・プレイヤーとして、ウェルナー・ヒンクらウィーンのベテランたちも何人か参加していたとのことである。

 今回は字幕付き日本語上演だ。歌とセリフをはっきり聞き取れる発音をしてくれる人もいるが、そうでない人もいる。
 最も明晰な発音だったのは晴雅彦で、これは実に驚異的な素晴しさだった。出番が少なかったのが残念だが、皆が皆あのように明快な発音と発声をしてくれれば、日本のオペレッタも随分と楽しくなるであろうと思う。
 塩田美奈子のようにセリフを頭の天辺から出るような声で歌うように発声するのは、わが国のソプラノ歌手に多い癖だが、あのスタイルはもう時代遅れだ。若い世代の森麻季や、宝塚出身の剣幸の方が、もう少し自然に近い声でセリフを喋っていたような気がしたが・・・・。

 コヴァルスキーは、クープレなどメインの歌は原語で歌っていたものの、その他はセリフを含めて片言の日本語とチャンポンでこなしていた。なかなか巧い。
 しかし、歌も演技も、残念ながらもう随分穏やかになってしまった。昔、全盛期の彼のこの役を初めて観て聴いた時には、あの怪奇なド迫力に、しんそこ肝を潰したものだったが・・・・。
 プログラムには彼自身がエッセイを寄せており、今回のこの出演が自分の最後のオルロフスキーになる、と述べている。今日も本当によくこの演出に合わせてくれていた。

 広渡演出は、今回も親しみやすいものだった。名人・桂ざこばに、フロッシュとしてだけでなく、切り回し役としての存在感を発揮させ、これも成功を収めていた。
 ただ、上演全体の出来としては、「メリー・ウィドウ」のあの卓抜な舞台に比べると、些か隙間が感じられたようである。つまり今回はあの時ほど、全体の流れがスイスイと畳み掛けるように進んだとは言いがたい。これは、セリフ回しと演技に原因があろう。  
 「グランド・フィナーレ」は、前回はこれぞ関西のノリともいうべき凄まじい盛り上がりで、こちらも度肝を抜かれたものだったが、今日はあれに比べると何か東京的(?)な雰囲気で、おとなしいものであった。作品の性格にもよるだろうが。

 佐渡裕が指揮するオーケストラは、もう少し軽快だったら、と思う。
 しかし彼は、ここではまさに「郷土の英雄」的存在である。カーテンコールで彼が登場した時の熱狂的な客席の反応も、物凄い。
 こういう人気指揮者に牽引され、地元のファンの絶大な支持を集める劇場が、ここに存在するのだ。これは、一種の理想郷ではなかろうか?
 20分程度の休憩1回を含み、5時半終演。

7・22(金)上岡敏之指揮東京フィルハーモニー交響楽団のシューベルト

   サントリーホール  7時

 大阪に一泊して、昼過ぎに帰京。上岡敏之の客演指揮を聴く。

 また何か変わったことをやるんじゃないか、という期待感(?)が、彼のコンサートにはすっかり定着してしまったようだ。
 それがいいか悪いかは別として、とにかく彼が指揮する音楽は私を退屈させないし、また作品から常に何か新しいもの、聴き慣れないものを引き出し、目からウロコの状態にしてくれることもたしかである。

 今回の定期は、シューベルトの交響曲「未完成」と「ザ・グレイト」。
 両曲とも、ただの1小節たりとも神経の行き届いていない個所はない。オーケストラの響きと音色への上岡敏之のこだわりが、細部にまで徹底されている。練習は大変だったろうし、東京フィルも、よくあそこまで指揮者の細かい要求をこなして精妙なニュアンスをつくり上げたものだと感心する。
 いずれも変幻自在な音の動きを持ちつつも、「未完成」の方は造型的な面に重点が置かれ、また「ザ・グレイト」の方はロマン的な感情の爆発といった面に重点が置かれていたようにも感じられたが、これはあくまで比較の上で、の話である。

 「ザ・グレイト」では、冒頭のホルンの主題が、まるでアルペン・ホルンのような趣で開始されたのには微苦笑させられ、このあとはいったいどうなることかと身構えさせられたが・・・・。
 第1楽章ではテンポの動かし方がフルトヴェングラーのそれを連想させたり、トロンボーンの経過句に「彼岸的なもの」が見え隠れしたり、といったような、いまどき珍しい特徴は感じられたものの、総じて言えば、思ったほど奇抜な解釈は無かったであろう。
 アレグロ・マ・ノン・トロッポの主題は飽和的な柔らかい響きで(恰もレガートのように)聞こえたが、これらの大部分の音符にはスタッカートは付けられていないのだ、ということを思い出させてくれた演奏でもあった。

 全曲にわたり、上岡としては常に似ず速いテンポを採り、嵐のごとくワイルドなエネルギーで押して行く演奏になっていた。両端楽章リピート無しで、演奏時間は47分くらいだったか? 
 リズミカルな勢いがあって面白かったことは事実だが、いつもの上岡の指揮に聴かれるような精妙なコントロールは、この「ザ・グレイト」では些か薄かったようにも思われる。

 だが第2楽章、フォルテ3つ(【I】)を経過したあとに戻って来る主題が、あたかも激動の後に訪れるしみじみとした感慨のように聞こえて、こういうところの上岡は巧いなと思わせた――もちろん、シューベルトの音楽そのものに秘められていた情感を見事に再現してくれた、ということも含めてだが。

7・21(木)70年大阪万博の生き残り、鉄鋼館のいま

 大阪は万博記念公園の中に唯一つ現存する往時のパビリオン、「鉄鋼館」。
 実に40年近くの間、蔦に覆われて、廃墟同然の姿をさらしていた。それが最近リニューアルされ、「EXPO'70パビリオン」として生まれ変わった。

 この鉄鋼館の中で、あの万博期間中、どんなことが行なわれていたか。
 ここは、武満徹氏の音楽プロデュースのもと、当時の現代音楽の最先端を行く試みとしての、1千個を超えるスピーカー群や巨大なレーザー光線装置がフルに活用される音響劇場だったのだ。そして、クセナキスの「ヒビキ・ハナ・マ」、武満の「クロッシング」、高橋悠治の「エゲン」などの作品が、連日ごうごうと鳴り響いていたのである。

 私は単なる放送記者として、期間中に3回ほど取材に訪れたに過ぎないが、あの古代のコロッセウムのような円形の「スペース・シアター」で繰り広げられていた刺激的な音響の世界を、今なお忘れることが出来ない。

 テープ音楽だけではなく、生のコンサートやシンポジウムも行なわれていた。
 8月のある夜、日本初演されたテリー・ライリーの「イン・C」は、15人の奏者が「ハ」の音を中心とした短いフレーズを順に自由に反復して行く面白い曲だった。果てしなく続くモワレ効果の響きに聴衆は驚き、呆れ、ざわめき、ゲラゲラと笑い、やがて陶酔に引き込まれ、最後は笑いの交じった大喝采になる。
 演奏は30分ほど続いただろうか。ピアノの「C」を叩き続ける女性が途中で疲れると、すかさず隣から作曲家・指揮者のルーカス・フォスが取って代わり、暫くするとまた女性に代わる、という光景も印象に残っている。

 このスペース・シアターは、今は単なる遺跡として、回廊の外側からガラス越しにしか見られない。残念だ。
 今回一緒に鉄鋼館の現場を訪れた仲間は、当時そこで音響スタッフとして、故・若林駿介氏の下で活躍していた及川公生氏(現フリー)と、松田賢一氏(元エフエム東京)の2人。些かセンチメンタル・ジャーニー的な視察ではあったが、3人が一致したのは、あの頃の日本のパワーはほんとに凄かったなあ、という感慨であった。

 日本鉄鋼連盟が作ったこの鉄の建物――鉄鋼館=「EXPO'70パビリオン」は、今も全く当時と同じように、飾り気ない佇まいを以って、揺るぎなく厳然と聳えている。
 そこから400メートルほど離れた広い芝生の中に黙然と立つのが、巨大な「太陽の塔」である。あの「太陽の塔」の周囲を、41年前には大鉄傘が囲み、隣接して「お祭り広場」があり、数十万の群集がひしめいていたのだった。今、初めて訪れる人たちは、その光景を想像できようか?

7・19(火)下野竜也指揮読売日本交響楽団のヒンデミットとブルックナー

   サントリーホール  7時

 よくまあ、こんな奇抜な面白い曲を紹介してくれたものだ。下野=読響ならではの快挙(怪挙?)というべきか。

 曲は、ヒンデミット作曲(?)の「下手くそな宮廷楽団が朝7時に湯治場で初見をしたワーグナーの《さまよえるオランダ人》序曲」というもので、要は「さまよえるオランダ人」序曲の滅茶苦茶なパロディ化である。モーツァルトの「音楽の冗談」における手法を、さらにえげつなく徹底させたものと言ってよかろう。
 移調、転調、乱調、ズッコケが全曲(8分ほど)にわたって続くので、次第に手の内が見えて来て単調に感じられて来る傾向がなくもないが、とにかく吹き出さずにいられない音楽であることは事実だ。

 ヒンデミットの原曲は弦楽四重奏(ナクソスからCDも出ている)だが、今回演奏されたのは下野竜也自身がコントラバスのパートを加えるなどした、小編成弦楽合奏への編曲版(世界初演)である。
 「読響温泉」と書いた看板が飾られ、何やら温泉地ムードの衣装を着けた楽員たちと下野の、ちょっとしたお芝居も折り込まれた演奏。とはいえ例の如く、どうしても演技に生真面目さ(もしくは照れか?)が抜け切れないのが惜しい。

 次に演奏されたのが、ヒンデミットの「管弦楽のための協奏曲 作品38」という15分弱の長さの曲。
 彼が表現主義的作風から新即物主義的作風に転換した直後のもので、堅固かつ綿密に構築されているが、多彩で活力がある。下野と読響の強靭な音づくりのお陰で、非常に面白く聴けた。今回の演奏が日本初演だったとは、意外である。
 ともあれ、これら珍しいレパートリーをこのように良い演奏で聴かせてくれるのは、当節ではただ下野竜也と読響あるのみであろう。

 そして休憩後には、ブルックナーの第4交響曲「ロマンティック」。
 第1楽章が予想に反してフワリとした感じの演奏だったので、これはヒンデミットとの対比を考えてのことかと思ったが、そうでもなく、第2楽章後半からは次第に強固で豪壮な世界となった。第3楽章のスケルツォの頂点個所、あるいは第4楽章大詰めの最高潮の個所などでは、金管と弦との絶妙なバランスの裡に剛直な迫力を感じさせて、稀有なほどの見事さ。

7・18(月)アルミンクと新日本フィルの ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」
(セミ・ステージ形式上演)

   すみだトリフォニーホール  2時

 多分こういう演奏になるんじゃないかな、と予想した通りの演奏になっていたので、些か冷静な気持で全曲を聴き終えた、というところ。

 アルミンクが指揮する「トリスタン」は、以前に新日本フィルの定期で「前奏曲と愛の死」を聴き、極端に官能性が排除された端整な演奏に、なるほどこの人の美学ではこういう音楽になるのが当然なのだろう、と納得済みだった。
 従って今日の演奏でも、官能的要素が皆無とは言わぬまでも、少なくともこの作品にあふれているはずのエロティックな陶酔感といったものは、ほとんど浮彫りにされなかったように思われる。

 しかしその一方、音響上の盛り上がりもあり(第2幕の大詰めなど)、クライマックスへの持って行き方にもそれなりのものがあり、また音のつくり方にも神経を行き届かせた個所(トリスタンの死の場面や、全曲最後の個所など)も少なからず聴かれていた。
 それゆえ、アルミンクとしては、彼なりの美学に基づく「トリスタン」を、充分な段階にまでつくり上げたのではなかろうか。新日本フィルもそれに応えて、全力を傾注した演奏を行なったと思われる。

 ただ、私の聴いた1階席中頃の上手寄りの席からは、オーケストラがやや遠く聞こえ、音が柔らかく飽和しすぎて明晰さが感じられない。そのため、ワーグナー特有のオーケストラの雄弁な魅力を味わうには何とも物足りなかったことは、残念ながらたしかであった。第2幕冒頭の舞台裏からの角笛のファンファーレも、もう少しはっきりと聞こえてもよかったのではないか。

 この「禁欲的」な「トリスタン」の演奏に、生々しく血の通った、しかも劇的な人間像を注入したのは、ブランゲーネを歌った藤村実穂子だった。
 歌唱の安定度と力感、表情の豊かさ、強靭な存在感など、どこを取っても完璧なブランゲーネである。舞台に佇立する姿といい、必要充分な程度に折り込む演技といい、あたかもこのドラマの主役と言ってもいいほどの貫禄を示していた。
 この十年来、ドイツの歌劇場で絶賛を浴びている藤村実穂子だが、彼女こそはわが国が誇り得る最高の歌手である。

 クルヴェナルを歌った石野繁生も、豊かな伸びのある声で、見事な進境を示していた。メーロトの枡貴志、牧童及び船乗りの与儀巧、舵手の吉川健一らも安定していた。
 かように脇役陣がしっかり固められていたことが、この演奏を盛り立てていたと言えようか。

 これに対し、外来組の主役3人はどうか。――マルケ王のビャルニ・トール・クリスティンソンは、時々グラリとしながらもパッと立ち直る呼吸が独特のヒューマンな味(昔の名バス、ヨーゼフ・グラインドルを連想させる)を出しており、「苦悩する老王」のイメージには合っている。
 トリスタンのリチャード・デッカーは、声そのものは悪くないのだが、声量に不足し、前述の「遠いオーケストラ」にさえも掻き消される傾向がある。馬力抜群のイゾルデのエヴァ・ヨハンソン相手では、何とも分の悪いこと甚だしい。

 そのヨハンソン、弱音のコントロールが以前より粗っぽくなったような気配もある――「愛の死」冒頭など、ギョッとさせられるほど大きな声だったが、もう少しミステリアスにならないものかと思う。
 それにしても・・・・近年は、なかなか理想的なトリスタン歌手とイゾルデ歌手に巡り会えないものである。

 演出は田尾下哲で、このシリーズの前作「ペレアスとメリザンド」で成功したスクリーンによる映像手法を今回も活用した。前回よりも徹底した映像活用で、海、森、宇宙といったモティーフが使われていたが、前作からの転用も少なからずあったようである。
 字幕も彼が制作していたようだが、これは訳語のニュアンスや言葉の使い方などの点で、どうも疑問点が多かった。

   音楽の友9月号演奏会評

7・17(日)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

   サントリーホール  2時

 こんな猛暑の真昼間に、熱したフライパンのような街を通って音楽会を聴きに行くのは大変なことのはずだが、嬉しい驚きというか、ホールの客席はぎっしり埋まっている。
 昨夜の東京響の定期もほぼ満席だったし、先週水曜日の東京シティ・フィルもよく入っていた。理由はあれこれ考えられるが、いずれにせよこのところ、日本のオーケストラの演奏会へのお客さんの入りが良くなっているということは、慶ぶべき現象ではある。

 今日の都響は、定期ではなく、「都響スペシャル」。2日連続公演のうちの初日だ。アラン・ギルバートが客演指揮、フランク・ペーター・ツィンマーマンがソリストに登場した。そのツィンマーマンが弾くベルクの「ヴァイオリン協奏曲」を挟み、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」と「交響曲第1番ハ短調」というプログラムである。

 アラン・(タケシ)・ギルバートといえば、人も知る日系米国人。父がニューヨーク・フィルのヴァイオリン奏者、母が日本人という。ニューヨーク生れの指揮者がニューヨーク・フィルの音楽監督に就任(09年)したのは史上初とのことで、随分と話題になったものであった。

 久しぶりに彼を聴いて、少々驚いたのは、その音楽が以前に比べ別人かと思われるくらい、重厚でスケールが大きくなっていること。
 ブラームスの2曲では、豊かな低音を基盤とした濃密な音が組み立てられ、それに都響のしなやかで厚みのある弦の音色と、均衡の取れた管の響きとが加味されて、まるで昔のドイツのオーケストラが演奏するような、深々とした響きのブラームスになっていた。
 「ハイドン・ヴァリエーション」の冒頭の木管など、何と温かい音色で、しかも流麗な演奏なのかと、そこからまずハッとさせられてしまう。また交響曲の第1楽章で、音楽が激しく高揚したまま再現部になだれ込む個所など、あんなに物凄い気魄にあふれた演奏は、なかなか聴けないものだ。

 ギルバートの指揮はこれまでにもニューヨーク・フィルや北ドイツ放送響、日本のオーケストラなどとの演奏で何度も聴いたことはあり、いい指揮者だとは思っていたものの、概して几帳面で端然として淡白な演奏が多かったので、正直言ってあまり関心が湧かなかった。だが、今回のように陰翳豊かで味の濃いブラームスを聴かせる人だとなると、俄然興味が湧き起こって来る。
 都響との相性も、ひときわ良かったのだろう。多忙な若手(44歳)だが、将来への布石として、今のうちに首席客演指揮者に迎えておいた方がいいのでは・・・・と、余計なことまで考えた次第。

 ツィンマーマンとの協奏曲の演奏が、これまた思いがけぬ「情の濃さ」(?)と微細極まる表情で、素晴らしかった。他の方はどうか知らないけれども、私自身、この曲をこれほどベルクの晦渋な重圧から解放された気分で聴けたのは、多分初めてである。
 そして、彼がアンコールで弾いたバッハの「ソナタ第2番」のアンダンテの、じわりと沁み込んで来るような深い情感。

7・16(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

  サントリーホール  6時

 一晩の演奏会でコンサートマスターが3人登場するとは――フェスティバル・オーケストラなら別だが――豪華なことだ。
 最初のモーツァルトの「交響曲第25番ト短調」はグレブ・ニキティン、次のモーツァルトの「協奏交響曲変ホ長調」は高木和弘。そして、そこでゲスト・ソリストだったライナー・キュッヒルが、最後のシェーンベルクの「浄夜」ではコンマスとして登場、というわけである。

 16型の大編成が採られた弦楽合奏版「浄夜」は、キュッヒル大先生の貫禄とカリスマ性も影響してか、東京響の弦の威力が遺憾なく発揮された演奏となった。
 キュッヒルはじめ各パートのソリも充実していたし、正面後方にずらり並んだコントラバスが響かせる低音の力感もなかなか凄い。これだけ音響的にがっちりとまとめられた「浄夜」の演奏は、滅多に聞けない類いのものだろう。

 ただ、日頃スダーン贔屓の私も、この「浄夜」での彼の指揮には、些か納得の行かぬものを感じる。
 予想されたこととはいえ、あまりに整然としすぎていて、標題音楽的な要素と官能的な色合いとに不足しているのである。「場面」ごとに刻々と移り変わるはずの男女の心理状態――つまり音楽の情感にほとんど変化が感じられず、全曲が単彩なものに聞こえてしまったところが、一番の問題ではなかろうか? 
 とはいえこうした一種の即物的な解釈は、スダーンは多分意図的に行なっていたのではないかという気もする。

 その点、前半のモーツァルト2曲は、いつものスダーン&東京響の鋭い切れ味が存分に愉しめた演奏だった。「ト短調」では思ったほど激烈でなく、むしろ抑制されたバランスのいい演奏という感があったが、これは次の「協奏交響曲」との対比を考えたスダーンの設計だったかもしれない。

 その「協奏交響曲」では、鋭角的なリズムとアクセントをはじめ、ニュアンスを細かく設定した低弦のピチカートなど、闘争的なスダーン節があらゆる場所に発揮された。私はこれが好きだ。しかもキュッヒルがこの日は珍しく、「そっちがそう来るなら、こっちも遠慮せずお返しするぞ」といった調子で、おそろしく攻撃的な鋭いソロを聴かせたのが、実に面白かった。

 この丁々発止と切り結んだ両者の間では、ヴィオラ・ソロの西村真紀(東京響首席)はきれいな演奏を聴かせたものの、どうしても生真面目で地味に聞こえてしまう。
 もともとこの曲では、華やかなヴァイオリン・ソロに比してヴィオラ・ソロの分が悪いため、致し方ないかもしれない。私の聴いた範囲では、この曲のヴィオラ・ソロで例外的に全曲の主導権を握ってしまった奏者は、ザルツブルクで聴いた時のユーリ・バシュメットだけである。 

  モーストリークラシック10月号 公演レビュー

7・15(金)アルミンク、「トリスタン」を語る~日本ワーグナー協会例会

    OAGドイツ東洋文化研究協会ホール  7時

 クリスティアン・アルミンクが講師として登場、明日から公演が始まる「トリスタンとイゾルデ」について語るという企画。

 ワーグナーのオペラについての講演というと、大方は作品の哲学・思想についての話ばかりで、――それはそれでいいのだけれども、肝心の音楽についての話が等閑にされることが多い。しかし今回は、指揮者としてのアルミンクが、スコアに基づき、ワーグナーの音楽の特徴について解説する。
 常々「オーケストラには《語る力》がある」と主張し、声楽パート以上に管弦楽を雄弁に語らせたワーグナーが、どのような楽器の響きを以って、どのような心理や情景を表現させているか――。

 その部分のスコアのコピーを配布し、CDで音を例示しつつ、それぞれの楽器別に説明して行く講演だったから、面白い。例示個所については若干の異論もなくはないが、ワーグナーのオーケストラが汲めども尽きせぬ魅力を備えていることを再認識させてくれるこういう話は、大いに興味深い。
 蔵原順子さんの明晰で要を得た通訳が、アルミンクの話をさらに明解に伝えてくれた。

 今回の「トリスタン」に限ったことではないけれども、ワーグナーが、歌詞だけでは描ききれない、その裏側にある登場人物の感情というものを、オーケストラで如何に見事に表現しているか。彼の音楽をじっくりと聴く習慣を持つ人なら、等しく感銘を受けるところであろう。
 私も昔、「ヴァルキューレ」の中でそういう瞬間に遭遇し、感動のあまり暫くはその部分の音楽が頭から離れなくなる体験があった。

 たとえば第3幕、激怒したヴォータンが娘ブリュンヒルデの追放を宣言する個所、「あどけないその唇に わしが口づけしてやることももはやないのだ nicht kos' ich dir mehr den kindischen Mund;」という歌詞の背景に、1本のオーボエが哀愁をこめて浮き上がり、荒々しい言葉とは裏腹にヴォータンの心を苛む深い悲しみを、如実に描き出す。
 此処の美しさは、筆舌に尽しがたい。私はそれを、当時発売されたばかりのカラヤン指揮のレコードを聴いていた時に気づかされた(多分あのオーボエは、ローター・コッホだろう)。

 そういう発見の悦びは、今でもやむことがない。どたばたと動き回る騒々しい演出に気を取られるより、音楽そのものから新鮮さを感じ取る方がよほど愉しくなっているこのごろである。

7・13(水)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルのベートーヴェン・ツィクルス最終回

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の創立35周年記念、常任指揮者・飯守泰次郎とのプロジェクト「イーゴリ・マルケヴィッチ版によるベートーヴェン交響曲全曲シリーズ」が、めでたく最終回を迎えた。これはもともと3月17日に行われるはずの演奏会であった。
 プログラムは、「コリオラン」序曲を導入として、交響曲第2番と、交響曲第5番「運命」。

 指揮者マルケヴィッチが心血を注いで校訂したこの全集の出版スコアは、旅行エージェント「オペラツァーズ」の鈴木氏から全巻を長期間拝借してじっくりと調べる機会に恵まれた。
 たしかに、そのボウイングやスタッカートなどの問題を含む書き込みは凄まじい量ではある。しかし飯守氏も指摘する通り、スコアとしてはブライトコップフ&ヘルテル版をいわば底本としているようなところが多い。したがってベーレンライターの批判校訂版におけるような、オヤと驚かされるような変更個所は、ほとんど聴かれない。

 それゆえ、今回のように分厚い響きの、どっしりした低音を基盤に組み立てられた「良き時代のドイツ」のスタイルを思わせる演奏で行なわれた場合には、「上げ弓」の多用によるアクセントの強さが音楽に鋭角的なものを感じさせる点を除けば、マルケヴィッチ版とかブライトコップフ版とかいうことなど別として、とにかく飯守泰次郎独特の個性を発揮したベートーヴェン――と言うべき印象になるだろう。
 弦は14型編成だが、ホールいっぱい、あふれんばかりに重厚な、強固な音が響きわたる。つまり、最近の演奏からは影を潜めてしまった、英雄的なベートーヴェン像の復活なのである。これはこれで、久しぶりの快感だ。

 「5番」のあと、ほぼ満席の聴衆は、飯守とシティ・フィルに、長い拍手を贈っていた。ベートーヴェン・ツィクルスの完成への祝福の意味もあるだろう。
 特に指揮者への拍手とブラヴォーは熱烈なものがあった。演奏への称賛もあるだろうし、間もなく常任のポストから退く飯守泰次郎へのねぎらいと惜別の念も含まれているだろう。すこぶる盛り上がった演奏会であった。

7・10(日)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団の「モーツァルト・マチネー」

    NEC玉川ルネッサンスシティホール  11時

 何か久しぶりに、ナマのコンサートでモーツァルトをじっくりと聴けたような気がする。多分、ブルックナーやマーラーや、シューマンやチャイコフスキーといったものの前座で聴くのではなく、最初から最後までモーツァルト――というプログラムだったからであろう。

 今日は最初が「ヴァイオリン協奏曲第4番」で、ソロがライナー・キュッヒル。
 味が深くて鷹揚な彼のソロは、スダーンの畳み込むような指揮とは必ずしも呼吸が合っているとも言い難いが、それなりにこの曲の良さを聴かせてくれた。

 次が「交響曲第39番変ホ長調」。これはもうスダーン節全開というところか。
 全曲、何処をとってもニュアンスが細かい。とりわけ第2楽章での主題の息づきは魅力的である。

 第3楽章などは少々凝り過ぎという感も抱かされたが、これがアンコールでもう一度繰り返された時には、トリオでの2番クラリネットおよび第2ヴァイオリンの動きが、主旋律を支えるというよりむしろそれに挑戦する役割を果たしているかのような――そんなニュアンスを感じ取ることも出来たのであった。こういう新しい発見をさせてくれる指揮は面白い。

 このホールには、今回初めて訪れた。JR南武線の向河原駅に隣接した「NEC街」(?)の中にある。800人くらいは入るか。定かではないが。
 開演前に廊下で出会ったスダーンは「ナイスホールだぜ」と言っていたが、音響的には講演会場に近く、残響もゼロに等しいので、やはり苦しいところもある。が、東京響は巧く音を響かせた。スダーンの指揮が歯切れいい上に、東京響のアンサンブルが良く、編成も大きくないので、響きが貧しいという印象は全くといっていいほど受けなかったのは幸いであった。

7・9(土)ソンドハイム作曲 宮本亜門演出 「スウィーニー・トッド」

    神奈川芸術劇場ホール  6時

 「太平洋序曲」より格段にいいぜ、と何人かの知人から煽られたし、また劇場からも段取りをつけてもらえたので、1週間前には予定に入れていなかったこのミュージカルを観に出かけた。満員の盛況である。

 なるほど確かに、音楽のつくりといい、ドラマとしての内容の濃さといい、手応え充分だ。強面のスティーヴン・ソンドハイムが、此処にいる。

 「スウィーニー・トッド(Sweeney Todd)~フリート街の悪魔の理髪師」と題されるこのミュージカルは、ブラックユーモアを通り越して、本当の悲劇ともいうべき内容である。
 ストーリイは、悪辣な判事の横恋慕のため冤罪を蒙り流刑にされていた理髪師が帰還し、妻と娘を奪った者たちへの復讐を開始するというものだが、「モンテ・クリスト伯爵」のエドモン・ダンテスとは異なって、こちらの主人公は殺人鬼と化す。
 しかもパートナーとなったパイ店の女主人は、殺した者の体を挽肉にしてミートパイとして売り出し、これがまた美味だと評判が立ち、大儲け。
 文字通り、人を食った話だ。
 当然その行き着くところは、陰惨極まりない幕切れである。

 したがって宮本亜門の演出も、「太平洋序曲」とは比較にならぬほど緊迫感もあり、ドラマティックな迫力を備えている。舞台全体のスピーディさや、「死体」を含めた人物の要を得た動きなど、ドラマ後半の凄惨なカタストローフに向けての盛り上げ方も見事なものであった。
 その演出の枠の中で、市村正親(スウィーニー・トッド)と大竹しのぶ(パイ店の女主人)が、これも素晴らしい役者ぶりを見せ、舞台に圧倒的な重量感を生み出していた。こういう名優の芝居となると、歌がどうとかいうことも問題にならないくらい、観客を惹きつけてしまうものがあるだろう。

 ミュージカルだから、時事ネタもどこかに入るだろうと思っていたが、それは第2幕冒頭に折り込まれていた。主人公2人が「パイにする人肉の品定め」をやるブラックユーモアの場面だ。
 大竹「小説家(の肉)は?」 市村「スジが多すぎる」 大竹「評論家は?」 市村(客席を指さして)「辛口だ」といったものの中に、「復興大臣(の肉)は?」「10日と保(も)たない」「総理大臣は?」「噛んでも噛んでも××××」という調子であり、爆笑と拍手を買っていた。

 かように、音楽も演出も演技もセリフ回しも大いに良かったのだが、惜しむらくは――それも致命的な欠陥とさえ思えたのが、歌唱テクニックの拙さは別としても、主役も脇役も歌詞の発音(早口と絶叫による)がおよそ不明瞭なことであり、それに輪をかけたのが、PAの音質と、そのバランスの悪さであった。
 登場人物のシャウトが、高音域のキンキンするイコライザーのかかったスピーカーで増幅され、音が割れてしまい、何を歌い、何を喋っているのかも解らないというPAほど、耳を覆いたくなるものはない。特に合唱団の高音域たるや、酷いものであった。

 こういうPAの音質が当たり前なのだと思っている音響スタッフの感覚は、全くどうかしている。あたら音楽の佳さも台無しだ。
 ちなみに、先日の同じ劇場での「太平洋序曲」ではこんなことはなかったし、また先日の西宮の「キャンディード」でも、もちろん無かった。
 20分の休憩1回を含み、9時終演。

7・8(金)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時

 このコンビの演奏は先週聴いたばかりだが、今度は独墺系硬派のプログラムなので、また聴きに行ってみる。最近の広上の指揮は、聴いてみたくなるだけの充実ぶりを示しているからでもある。

 冒頭は、ハイドンの交響曲第60番「うつけ者」だ。
 弦14型で演奏され、かなり壮麗な響きになっていたが、瑞々しさの中に引き締まった造型を示して、小気味良い。こういう演奏で聴くと、ハイドンの交響曲は実に生命力にあふれて、魅力的に感じられる。
 終楽章での「チューニング」の悪戯の場面では、指揮者と奏者がもみ合うなどのちょっとしたギャグが織り込まれていたけれども、残念ながらわが同胞たちがこの種のお芝居をやると、何かわざとらしくなって、爆笑ジョークにならない・・・・のが残念である。

 2曲目は、ヒンデミットの「画家マティス」。強面で渋い曲だが、これはきわめて構築性に富む、壮大で立派な演奏になっていた。
 日本フィルというと、指揮者陣のせいなのか、未だに粗っぽいオーケストラという世評が抜け切れないが、こういうがっちりと隙のない演奏もやればできるのだ、ということが実証されて行けば喜ばしい。

 しかし、そういうシリアスな音楽では良い演奏になるのだが、次のR・シュトラウスの「ばらの騎士」組曲のような、優雅な作品となると――。
 これも演奏としては、実に立派で堂々たる構築ではあったものの、あまりに力感たっぷり剛直にとどろきすぎて、エレガントなはずの騎士が、何か甲冑に身を固めた豪傑のごとき無骨な姿に感じられてしまう。「ばらの騎士」というより「円卓の騎士」か? 
 とにかく、演奏に洒落っ気が無いのが惜しまれるところだ。たとえばあのオクタヴィアンとゾフィーが出会う場面(第2幕)の音楽にも、もっと甘美さがあったなら・・・・。

7・6(水)東京二期会 プッチーニ:「トゥーランドット」初日

   東京文化会館大ホール  6時半

 幕が開いた途端に、巨大な歯車の回転するメカニックな機械工場のような光景が目に入る。
 なんだ、これは一昨年びわ湖ホールと横浜で上演されたあの舞台じゃないか、と驚いたのは、こちらが忙しさと不勉強のため事前の情報をしっかり把握していなかったため。粟国淳の演出、横田あつみの舞台装置によるあのプロダクションの再演であることは、上演前から発表されていたことだった。
 私はそのプロダクションが結構気に入っていたから、今回も寛いで愉しむことができた。

 ただし装置は、以前のはもう残っていないので(もったいない)、新たに作り直したものだそうである。なるほど、そう言われれば、前のとは少し違うような気もする。
 それに、前回の時の方が、もう少しあの巨大なメトロポリス的な装置がドラマ全体に対して、より威圧的な迫力をもって生かされていたような記憶もあるのだが・・・・定かではない。

 演出は、前回に観た時にも様式優先の印象があって、演技もさっぱり演劇的でなく、いかにも(良くない意味での)オペラ的であることに落胆したものだが、今回も同様だ。
 メトロポリスに働く作業員、軍隊がロボットのように動く光景は卓抜のアイディアだったが、今回はそこに人間味のようなものが強く加わった印象がある。したがってあのメカニズムの威圧感や恐怖ともいうべき要素が、ドラマ全体に意味を以って有効に働いているとは言い難くなってしまったように見える。
 ただ、非常に大掛かりでスペクタクル性に富んだ舞台装置なので、見た目には大いに楽しめることは事実だろう。

 今日はAキャストで、中国の姫トゥーランドットに横山恵子、韃靼の王子カラフに福井敬、その父ティムールに佐藤泰弘、奴隷娘リューに日比野幸、中国皇帝アルトゥムに田口興輔、3人の大臣に萩原淳・大川信之・村上公太、役人に小林昭裕。

 指揮は、2年前の上演の時には沼尻竜典だったが、今回はジャンルイジ・ジェルメッティだ。
 このベテラン指揮者のテンポの、まあ速いのなんの。音楽が恐るべき勢いで驀進する。読売日響も大音響で豪快にとどろきわたる。痛快というか、胸がすくというか。
 20分の休憩2回を含み、8時58分頃には終ってしまった。つまり、演奏時間は、正味たった1時間50分だったことになる。アルファーノ補作版で、カットがあったわけではない。
 だらだら指揮されるよりは余程よく、またこのメカニックな舞台装置にも雰囲気はぴったりだが、その反面、プッチーニの音楽の中の精妙なニュアンスと詩情は等閑にされ、勢いで押しまくられた演奏という印象は免れないだろう。

 比較的ソフトな表情の演技を見せる横山恵子のトゥーランドット(優しい高畑淳子といった感だ)など、前回の沼尻の叙情的な指揮の中ではよく合っていたが、今回のジェルメッティのラフな音楽づくりの中では、ややおとなしい存在と化してしまう。一方、福井敬は、どんな状況でも巧く役柄を生かせるという力を持っているが、ジェルメッティのこの慌しい指揮の中では、ややヘヴィだったか? あまり無理をしないでくれるよう祈る。

 リューの日比野幸には注目していた。ちょっとヴィブラートの強いところが気になるが、よく通る美しい声である。3人の大臣ピン、パン、ポンも、今回は良かった。

7・5(火)大植英次指揮東京フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時

 大植英次が東京のオーケストラを指揮したのは何年ぶりか。
 以前、読売日響とN響を指揮したのを私も聴いたことがある。東京フィルに客演するのは、彼もこれが初めてだろう。

 東京フィルの定期は、これで3週連続して聴いたわけだが、若手指揮者2人が振った演奏のあとにこの大植英次の指揮を聴くと、オーケストラが一挙に「おとなになった」という感を受ける。オーケストラは生き物だな、とつくづく思う。

 最初に演奏された小倉朗の「管弦楽のための舞踊組曲」は、面白い。
 4楽章からなる10数分の作品で、手拍子や掛け声も交じるリズム的要素の勝った曲だが、それほど日本風の曲想という印象は与えない。初演されたのは1954年(ニューグローヴ世界音楽大事典)とのことで、――そういえば、あの圧倒的な人気を呼んだNHKのTVドラマ「事件記者」での「テーマ音楽 小倉朗」のタイトルで彼の名前が一般家庭にも知られたのは、それから間もなくだった・・・・。
 ここでの大植英次の指揮と東京フィルの演奏は、すこぶる鮮やか。
 「創立100周年」シリーズのプログラムにこの種の作品が織り込まれるのも、意義あることだ。

 2曲目は、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番」。ソリストが小曽根真である。
 おそらく大部分の聴衆が、先年の「第9番」におけるような、ジャズのアドリブなどを含めた彼の大胆新鮮な解釈を期待していたのではなかろうか。だが今日の演奏は――相変わらず見事ではあったが――予想外にストレートなもの。
 楽屋でご本人に訊いて見ると、「27番は晩年の作品だから、9番のようにやるべきではないと思う」とのこと。様式としてはたしかにその通りだが、ジャズ・ピアニストの第1人者としての彼がモーツァルトをやるからには、やはり彼ならではの思い切った解釈を聴きたかった。ソロ・アンコールに、ビル・エバンスの何とか言う小品を弾いてくれたが、そういうスタイルがコンチェルトのカデンツァにでも織り込まれていたなら・・・・。

 休憩後は、ブラームスの「第1交響曲」。
 第1楽章の序奏(フォルティシモでなくフォルテと指定されている)を柔らかい音色で抑制気味に開始しておき、全曲最後の頂点に向かって次第に昂揚させて行くのが大植の解釈と思われる。管の一部に少々気になる点もあったものの、厚みのあるしなやかな、濃密なブラームスが展開されていた。

 大植英次の指揮も、最近ではすでに均衡を保った造型を優先するスタイルに戻っている。しかも、昔よりも遥かに深みを増していると言えるだろう。
 カーテンコールでの挙止も、大阪フィルとのステージで見せたものほど、物々しくはなくなったので、些か安堵。

7・4(月)岡田将ピアノ・リサイタル リスト・シリーズ第1回

   東京文化会館小ホール  7時

 リスト国際コンクール(1999年)に優勝した経歴を持つ岡田将が、リスト生誕200年を記念して連続リサイタルを開始。
 今日は「3回シリーズ」の第1回「情熱・天上の響き」と題され、「バラード第2番」「6つのコンソレーション」「メフィスト・ワルツ第1番」「葬送」「ため息」「スペイン狂詩曲」がプログラムに組まれた。アンコールは「愛の夢」と「ラ・カンパネッラ」。

 私は不勉強にして彼のナマ演奏をこれまで聴く機会を持たなかったので、知人から勧められたのを幸い聴きに行ったわけだが、素晴らしいピアニストだ。
 音楽の構築も実にしっかりしていて、演奏も揺るぎなく安定している。リスト特有の激烈な昂揚と華麗な叙情の対比も見事だ。これで音楽にもう少し多彩な変化が加われば、と思うが、いずれにせよこれほど爽やかなリストを聴かせてもらったのは滅多にないことである。

 楽器にはこだわりを持っている人なのだそうで、今回は関西から運んで来た「ART-VINTAGE STEINWAY」なるピアノを使用していた。
 これは1922年製作とのことだが、普通のスタインウェイと異なり、やや軽い響きで、少し透明な音色を持っている。そのためリストの激しい曲想がおどろおどろしい力感になることなく、一種透徹した、白色の光を浴びたような華やかさになって再現されていた。それも、この演奏が爽やかな印象を生んだ原因の一つかと思う。

7・2(土)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   横浜みなとみらいホール  6時

 首都高の環状線経由で横浜へ向かい、開演に間に合う。
 こちらは日本フィルの横浜定期の今シーズンのファイナル・コンサートで、広上淳一が客演、ドビュッシーの「小組曲」(ビュッセール編)、カントルーブの「オーヴェルニュの歌」(6曲)、ホルストの「惑星」、アンコールにシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」を指揮した。

 予想外・・・・と言っては何だが、これは日本フィルの近年における出色の快演ではなかろうか。広上淳一の巧みな指揮が生み出した成功である。
 「小組曲」のような夢幻的な作品で、このオーケストラがこれだけエレガントな表情を出すとは予想していなかった。「オーヴェルニュの歌」でも、田園的な楽趣に満ちた柔らかい響きが美しい。
 この2つの作品では日本フィルの木管が見事で、特に1番オーボエの杉原由希子と、1番フルート(首席)の真鍋恵子が、いつもながらの魅力的なソロを聴かせてくれた。

 後者でソプラノ・ソロを歌った谷村由美子は――私は彼女の長いソロを聴いたのはこれが初めてなのだが――明るい、ふくらみのある声と、コケティッシュな軽快さも備えた歌いぶりで、大いに感心させられた。
 彼女は京都出身で、10年前にはびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーだったこともある由。パリ国立高等音楽院などに学んだ後、フランス他で幅広い活躍をしている人だ。「オーヴェルニュの歌」は滅多にナマで聴けぬ曲だが、このような曲想に合った歌唱をするソプラノによって聴くことができ、幸いであった。

 後半の「惑星」も、奇を衒わずにダイナミックな起伏をつくる広上淳一の「持って行き方」の巧さが聴きものだ。「火星」の後半など、すこぶるスペクタクル性があったし、最近人気の「木星」中間部の主題など、やはりこれはいいフシだ、という思いを新たにさせられる。
 オーケストラのバランスも、各パートのソロも、今日は並外れて良く、特に1番トランペットのオッタビアーノ・クリストーフォリ(客演首席)が、一段と力のある輝かしい音を響かせ、さながらオケの進軍の先頭に立つ若武者という感をも抱かせた。

 たった一つ、私が疑問を持ったのは、女声合唱(東京音大)をステージ後方の上、オルガンの横に配置したこと。私の席(1階23列あたり)から聴くとなかなかいい響きではあったものの、最後のフェイド・アウトの瞬間が、予想通りリアルな、即物的な音になりすぎるのである。これはやはり、舞台裏あたりから遠く神秘的に、夢幻的に響かせて消えて行く方がいいのではないのか? 
 しかもこの曲で――宇宙の彼方(もしくは深海の神秘のような)のイメージで流れる美しいオーケストラの音に浸りたいと思っているのに、入場する合唱団の動きに気をとられ、一瞬注意を削がれるというのも、私はあまり好きではない。

 もっとも、終演後にロビーで会ったマエストロ広上が、「今日は、あそこは狙った通りにすべてうまく行った!」と喜んでいたので、私としては何も言えなくなってしまったが・・・・。
 アンコールでのシベリウス。これが良かった! 彼のアプローチも、日本フィルの弦も、これまでに聴いた演奏の中で最高の部類に属するものだった。

7・2(土)ラ・プティット・バンド

   東京オペラシティコンサートホール  3時

 バッハの「ブランデンブルク協奏曲」の「第2番」「第6番」「第5番」「第3番」に、「三重協奏曲(BWV.1044)」を組み合わせたプログラムで公演。
 シギスヴァルト・クイケン、バルトルド・クイケン、サラ・クイケン、赤津真言らが今回もステージに顔を見せてくれた。

 「第2番」でのトランペットだけは何とも苦しかったが、爽やかな弦の響きを中心とするヒューマンなバッハ像は素晴らしい。
 ただそれにしても、この編成に対してはこのホールの空間はやはり大き過ぎる・・・・という印象は拭えない。しかし一方、小さいホールでは、これだけの多数の聴衆(ほぼ満席)を満足させることは出来ないだろうから、苦しいところだろう。

 今日は演奏中に奏者の弦が切れ、中断してまた最初から演奏し直す、などという出来事があったりして、思いのほか第1部が延びてしまった。
 実はそのあとの横浜でのコンサートの取材が予め決まっていたこともあって、何とかギリギリまで・・・・と思っていたのだが、結局、中座のやむなきにいたる。

7・1(金)沼尻竜典指揮のレオンカヴァッロ:「道化師」

   横浜みなとみらいホール  7時

 「池辺晋一郎プロデュース・オペラの音符たち」と題するコンサートで、おなじみダジャレを交えた彼のトークが入り、沼尻竜典指揮トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズが演奏する。

 懐かしい大河ドラマの「黄金の日日」のテーマ音楽(池辺作曲)で開始された第1部は、「オペラ序曲集」と題して、「ルスランとリュドミラ」序曲(グリンカ)、「魔弾の射手」序曲(ウェーバー)、「カルメン」第3幕への前奏曲(ビゼー)、「運命の力」序曲(ヴェルディ)。
 第2部がメインのプログラムで、「道化師」(レオンカヴァッロ)全曲が水口聡(カニオ)、北原瑠美(ネッダ)、牧野正人(トニオ)、渡邉公威(ペッペ)、大山大輔(シルヴィオ)、栗友会合唱団、小田原少年少女合唱隊が出演。

 第1部のオーケストラものは、どうもあまり練習していなかったんじゃないかと思われ、「魔弾の射手」のコーダを除いてはいかにも前座的な雰囲気の演奏だったが、流石に「道化師」はいい演奏だった。
 これは完全な演奏会形式上演(字幕付原語演奏)で、ソロ歌手たちは舞台前方に位置し、若干の演技的な身振りを交えて歌う。

 水口はカニオにふさわしく力と張りがあり、牧野はこういうイタリア・オペラの悪役を歌っては以前から天下一品だ。北原は、この役には少し細身のように感じられるところがなくもないが、清涼な声である。

 沼尻の指揮もテンポ運びが快適で、有名なコーラスの個所などいいリズムだった――とはいえ、ヴェリズモ・オペラの狂乱を描くには、やや品が良すぎるところもある。
 オーケストラも同様だ。特に第2幕大詰め、カニオが狂乱し、殺し場に盛り上がる個所などでは、トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ――名称に印象が左右されるわけではもちろんないのだが――の演奏に「下世話的」な油っ気が無いことが、今一つ劇的迫力に不足する原因になっていただろう。

   音楽の友9月号 演奏会評

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