2017-10

6・30(木)川瀬賢太郎指揮東京フィルハーモニー交響楽団

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 創立100周年記念として、日本人アーティストばかりを集中的に起用している今シーズンの東京フィル――大震災後の来日演奏家キャンセル多発の中、これが図らずも幸いしていることは周知の通りだ。6月の定期は注目の若手指揮者2人の競演となっていて、これもいいアイディアだと思う。
 今日は川瀬賢太郎が指揮。武満徹の「3つの映画音楽」、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは前橋汀子)、ショスタコーヴィチの「交響曲第5番」。

 この種のプログラムでは、川瀬の若者らしい気魄がモロに打ち出された演奏になっているのが面白く、嬉しい。
 最初の武満作品の、特に1曲目の「ホゼー・トレス」の冒頭では予想外にメリハリが強く、鋭角的な響きになっていたのが興味深い。
 また協奏曲では、迫力だけで押し切った感のある前橋汀子のソロに対抗してか、オーケストラのテュッティ部分では轟然たるフォルティシモを叩きつけていて、これには少々びっくり。

 本領発揮は、交響曲においてである。第1楽章前半は念入りに過ぎて、ややもって回った感もなくはなかったものの、後半の怒号と絶叫には、若手指揮者ならではの傍若無人な勢いがあった。第3楽章の叙情にも、張りつめたものがある。
 第4楽章前半では、アッチェルランドが早い時期に頂点に達してしまい、あとはひたすら馬力で押し切ってしまった感もあったが、このあたりはもう少しテンポの制御の呼吸を綿密に考慮しては如何かと思う。

 熱狂怒号とはいっても、その底流には、どこか醒めた意識と端整さが漂っているように感じられてならないのが彼の指揮だが、それらが名実ともに均衡を保つようになるのは、これからの経験と修行次第だろう。

 しかし、感心させられたのは第4楽章の最後だ。すでに最高潮に達している金管をさらに一瞬グイと強め、単に音量だけということでなく、音楽全体の力感を瞬間的に増大させるという手法を聴かせていた。
 これは、昔カラヤンとベルリン・フィルがモーツァルトの「リンツ」の大詰め個所や、ブルックナーの「7番」第2楽章頂点、ベートーヴェンの「2番」の幕切れなどで聴かせたこともある大技で、いつも必ず成功するというものではない。その点、今回の演奏での川瀬の体当たり的盛り上げも良かったが、東京フィルのトランペットの奮闘も特筆すべきだろう。

 東京フィルは、その他の細かい部分ではかなり粗さもあり、フォルティシモの音色に歯止めの利かなくなるようなところもあった。だが、先頃の三ツ橋敬子の時と同様、若手指揮者を熱心にサポートする姿勢が感じられたのは、快かった。

6・28(火)ソンドハイム作曲 宮本亜門演出:ミュージカル「太平洋序曲」

    神奈川芸術劇場 ホール  7時

 昔は私も、アメリカのミュージカル映画が来れば、欠かさず観たものだ。レコードも集めた。そして「ファンタスティックス」や「ラ・マンチャの男」や「屋根の上のヴァイオリン弾き」など、国内上演のプレミエにも繁く足を運んだ時代もあった。最近ではせいぜい、昨年の佐渡裕指揮の「キャンディード」を観に行った程度だが・・・・。

 今回は、評判の良い宮本亜門演出版の再演であり、竣工したばかりの「神奈川芸術劇場」での上演でもあり――ということもあって、久しぶりに出かけて行った次第。

 「黒船来航」時における日本の狼狽ぶりを描いたこのミュージカル、ジョン・ワイドマンの台本が意外に良く出来ていて笑えるし、それを巧みに料理した宮本亜門の演出も例の如く要を得てスピーディで、諷刺も皮肉もたっぷりと効いていて、面白い。
 ラストナンバー「NEXT!」で、その後の日本の――文明開化、軍事大国化、敗戦、復興、繁栄、混乱、模索といった歴史を瞬時に描き出して見せたことなども、当を得た手法だ。

 ちなみに、この亜門演出版による日本版初演は2000年(新国立劇場)。同じく彼の演出による米国上演が02年(リンカーンセンター)と04年(ブロードウェイ)だった。
 したがってオペラファンとしては、2004年7月に彼が二期会公演「ドン・ジョヴァンニ」で試みた、徹底的にアメリカを諷刺した「読み替え」演出は、いわばこの「太平洋序曲」と表裏一体を成すコンセプトだったことを認識しておく必要があろう(註)。

 出演者では、田山涼成(阿部老中)や桂米團治(将軍、明治天皇、ナレーターなど)が活躍を見せた一方、何といっても存在感を示して面白かったのは八嶋智人(浦賀奉行所与力・香山弥左衛門)だった。この人はTVで見ても巧い人だなと感心していたのだが、喜劇的雰囲気の中にもペーソスを感じさせて、得難い個性だ。
 ジョン万次郎を演じた山本太郎にも期待していたのだが、今回は役回りの所為か演出のせいか、ややおとなしい存在に終った。この八嶋と山本が大立ち回りを演じるところなど、何となく「新撰組」を連想させるが・・・・流石に2人ともお見事。

 作曲はスティーヴン・ソンドハイムだが、この作品を聴いた限りでは、みんなが騒ぐほどには、私には興味が湧かない。
 しかしそれは、演奏のせいだろう。デイヴィッド・チャールズ・アベル指揮するオーケストラ(上手と下手の高い位置に在る)は無難に演奏をこなしていたが、問題は出演者の歌唱力にある。
 あの歌いぶりでは、音楽の魅力を伝えるのは、とても無理だろう。

 私が国内ミュージカル公演を聴きに行くことから遠のいた理由は、ひとえにその歌い方の問題にある。こればかりは、残念ながら今でも全く解決されていないようだ。
 オペラでの歌手の歌唱力と、ミュージカルでの役者の演技力・・・・その良いところだけが合体したオペラなり、ミュージカルなりが、わが国で実現するのは、いつの「NEXT!」のことだろうか?

 なお、この「神奈川芸術劇場(KAAT)」のホールは、フルに客が入れば1300人程度を収容でき、客席も「可動式」である由。演劇専門のホールで、なかなか観易く、椅子の座り具合もかなりよろしい。

(註)あの「ドン・ジョヴァンニ」では、魅力的な自由主義者だった主人公が米国の軍隊と警察に殺害され、そのあとで他の登場人物たちが星条旗を手に踊り狂うという設定だった。
 

6・27(月)ベルリン・フィル八重奏団

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 モーツァルトの「ホルン五重奏曲」と「クラリネット五重奏曲」、ベートーヴェンの「七重奏曲」という名曲プログラム。

 メンバーのうち、ロレンツ・ナストゥリカ=ヘルシュコヴィチ(第1ヴァイオリン)やラデク・バボラーク(ホルン)ら3人が来日しなかったため、顔ぶれが一部変更になった。
 代役として参加したのは、ホルンのシュテファン・イェジェルスキと、ベルリン・フィル以外からラティツァ・ホンダ=ローゼンベルク(第1ヴァイオリン)およびヤッコ・ルオーマ(ファゴット)。

 ホンダ=ローゼンベルク(ベルリンとフライブルクで教鞭を執る女性で、父はクロアチア人、母は日本人の由)はよく弾いていたが、音色や表情の点では、他のメンバーに対し、やはり少し異質な個性が感じられるだろう。オクテットの最古参であるヴィルフリート・シュトレーレ(ヴィオラ)が、「七重奏曲」の間、彼女の隣で、盛んに彼女を気遣うようにしていた光景が印象に残る。

 とはいえ、アンサンブル全体から出て来た音は、紛れもないベルリン・フィルそのものの音である。ウィーン・フィルの洒脱な音とは全く異なる、生真面目で実直で、色彩的な変化よりは強固な組み立てを優先した音色と表情だ。これはこれで手応えがある。
 だがひとりその中で、オーストリア出身の、ウィーンで学んでからベルリン・フィルに入った異色の(?)名手ヴェンツェル・フックスが吹く、硬軟両様の表情を備えたクラリネットの、何という官能的な輝き。

6・26(日)三ツ橋敬子指揮東京フィルハーモニー交響楽団

   オーチャードホール  3時

 昨年のトスカニーニ国際指揮者コンクール準優勝(つまり第2位)で話題をまいた三ツ橋敬子が、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」と「英雄交響曲」を指揮する。期待の女性新人指揮者、2日前のサントリーホール公演と併せ、今回が東京フィル定期初登場である。

 一昨日の協演ピアニストは横山幸雄だった(私は聴いていない)が、今日は何と、楽界の怖~い(?)大御所、中村紘子だ。
 舞台に出て来た時からこの2人、どう見ても、大先生とその付き人――といった恰好である。威風堂々闊歩する大ベテランのうしろを、三歩下がって影を踏まず、ひたすら恐悦恐縮、畏まってチョコチョコとついて歩く指揮者。
 演奏が終ってからも、中村紘子が彼女を盛り立てようとしているのに、「イエ、とてもわたくしなど」といった調子で、遠慮しまくって逃げ腰である。客席からは、温かい苦笑。

 随分謙虚な方と思われ、人間的には大変結構ではあるが、舞台にいる限りは既にプロの指揮者なのだから、そんな動作ではサマにならぬ。もっと悪びれず、図々しく、堂々と、颯爽としていて貰わないと、示しがつかぬ。それに、あのヘア・スタイルもメイクも、遠目に見てさえもう少しアーティストっぽくして欲しいではないか?

 ・・・・などと、のっけから言いたい放題のことを並べてしまったが、その三ツ橋敬子がいざ指揮台に上り、指揮をし始めると、実に歯切れのよい、小気味よいほどの引き締まった音楽が流れ出すのである。
 協奏曲では、指揮姿はピアノのふたの陰に隠れて見えなかったが、中村紘子の豪快なソロ(もっとも日頃に似合わず、少し遠慮がちだった雰囲気もある)に対して、生真面目に几帳面に、整然とオーケストラを響かせる。

 後半の「英雄」にいたるや、彼女は、登場や答礼を含め、人が変わったように、生き生きとした表情で指揮をし始めた。速めのテンポと引き締まったリズムで、快調にたたみかける。
 第2楽章の「マジョーレ」の頂点へのクレッシェンド、第4楽章終り近くの「ポーコ・アンダンテ」の頂点など、緩徐個所においても、胸のすくようなエネルギー感に満ちた演奏であった。

 あまり細かく振らずに、イメージで音楽をつくろうとするタイプの人のようだが、東京フィルの演奏に伸び伸びした雰囲気が感じられたのも、そのせいだろうか。小柄ながら、腕だけで指揮をするのではなく、下半身を安定させ、体の重心をしっかり決めて指揮している。それが、オーケストラから確固としたリズムを引き出すのかもしれない。

 東京フィルは、本当にいい演奏をした。若い指揮者を盛り立ててやろうという熱意が楽員たちの中に感じられたのも、好感を呼ぶ。だが、海山千年のオーケストラをしてそのような気にさせた若い指揮者の個性と情熱も、並みのものではないだろう。

 ともあれ、溌剌として快く、魅力的な「英雄交響曲」の演奏であった。
 面白い若手が出て来たものだ。期待充分である。

    音楽の友8月号演奏会評

6・25(土)沼尻竜典指揮群馬交響楽団

   群馬音楽センター(高崎市)  6時45分

 「ベト7」のあとは、「タコ7」である。
 サントリーホールの新日本フィルの演奏会が終ってから東京駅へ向かい、上越でも長野でも適当な新幹線を見つけて乗れば、ほぼ50分で高崎に着く。6時45分の群馬交響楽団定期の開演時間には悠々間に合う、という寸法だ。

 このところ天下無敵の勢い(?)にある沼尻竜典が、首席指揮者兼芸術アドヴァイザーを務める群響を振ってショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」を取り上げる。彼の指揮するショスタコーヴィチは、私はこれまで1、2曲しか聴く機会が無かったので、どうしても聴いてみたいと思ったのである。
 この古いホールのアコースティック(残響が無く、響きもドライで潤いに欠ける)では、こういう巨大な編成による演奏の真価が掴めるかどうかという問題もあるが、本質の一端には触れられるであろう。

 かように、いわば期待と危惧とが相半ばしていたわけだが、結果も同様であった。
 第1楽章で「戦争の主題」がスネア・ドラムのリズムに乗って近づいて来る個所などでは、ホールの響きに奥行感がないのが災いして、ミステリアスな雰囲気も感じられず、ただの散発的な最弱音にしかならない。何とも残念だ。

 しかしその一方、舞台下手の高い山台の上にずらり並んだ金管群が参加して息の長い最強音を持続する全曲大詰めの高揚個所では、このホールなりの響きの中に、一種の法悦的な音響の坩堝が実現されていた。そこで沼尻と群響がつくり出した大音響のバランスの良さは、驚異的なものだったのである。
 このホールで、これだけの音が聴けたのなら、何を不満を言うことがあろう?
 なお1曲目には、須川展也をソリストに、グラズノフの「サクソフォン協奏曲」が演奏された。
 
     音楽の友8月号演奏会評

 客席は、文字通り満杯である。現地の聴衆の方の話では、最近の定期はこのように客席も盛況であるとのこと。喜ばしいことだ。
 終演後には、慣例となっている演奏家と聴衆との交流会がロビーで行なわれる。マエストロ沼尻と、チェロのレオニード・グルチンが出席、いい話をしていた。

 21時57分の「あさま」で、M誌のH記者と車内販売の「峠の釜飯」を食べながら帰京。普通車はガラガラだ。22時48分東京駅着。

6・25(土)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  2時

 これはサントリーホール定期。
 エルガーの「チェロ協奏曲」(ソロはウェン=シン・ヤン、若いが味があって素晴らしい)に、ベートーヴェンの「交響曲第7番」。ハーディング人気か、しかも「ベト7」ゆえか、ほぼ満席である。

 今日の「ベト7」は14型編成で、ホールいっぱいに響きわたる美音の世界だ。
 第1楽章の提示部に入って間もなくの、フェルマータから音を全く切らずにそのままフォルティシモの第1主題に突入するという解釈に象徴されるように、この曲でのハーディングの指揮は、実に流れがいい。
 リズム感も、新日本フィルにしては粒立っている方だが、ハーディングにしては鋭角的ではなく、むしろ流麗な部類に属するだろう。

 これほどリズミカルにエネルギッシュに、かつ快適に突き進む「ベト7」は、決して多くはなかろう。
 テクスチュアも豊麗でありながら要所で明晰なところがあり、第2楽章【B】で波打ちながら盛り上って行くヴィオラとチェロの動きや、第4楽章最後のクライマックスの、フォルテ3つの轟音の中で下行するヴィオラとチェロの動きなどがはっきりと聞こえたのは面白く、この曲の管弦楽法の多彩さを浮彫りにしてくれた。

 協奏曲でも、耽美的なほどの叙情感が見事であった。こういう、愛情と共感にあふれた演奏を聴くと、そういえばハーディングはエルガーと同じ国の音楽家だったのだ、などということを改めて想起してしまう(ハーディングのような個性的な指揮者の場合、彼の国籍のことなどあまりわれわれの念頭にはないものだが)。

 結局、新日本フィルとの3つの演奏会で示されたのは、ハーディングはこのオーケストラに対しては、マッスとしての豊麗さ、重量感、ストレートに驀進するエネルギー感、叙情性、といったものに比重を置いて、比較的自然なバランス感覚を求めて指揮した、ということであろう。
 したがってこれはもう、彼が今月初めに手兵マーラー・チェンバー・オーケストラ相手に繰り広げた変幻自在、手練手管(?)の前衛的な「ハーディング流」解釈とは全く路線を異にする。
 指揮するオケによってスタイルを変えるという、この才人指揮者の多様な側面が聴けたという点でも、すこぶる面白い3週間の体験であった。

6・24(金)パスカル・ヴェロ指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団「復興定期」

    常盤木学園高校シュトラウスホール(仙台市青葉区) 7時

 本拠地の仙台市青年文化センターが地震災害により使用不可能となっている間、仙台フィルは、常盤木学園のホールを借りて定期公演の臨時会場とした。
 JR仙台駅からクルマで10分ほどの場所にある同高校は、音楽学校ではないものの音楽教育が盛んであるとのことで、300席のホールを備えている。外から見れば普通の講堂然とした建物だが、内部はすこぶる美しく、落ち着いた雰囲気の「音楽小ホール」である。

 仙台フィルがここで演奏会をやるのは、4月11日以降これが4回目、うち「復興定期」と題した定期公演は3回目とのこと。来月からは幸い青年文化センターのコンサートホールが再開できるので、定期は再び元の会場に戻って開くそうである。

 あの地震以来、仙台フィルは、精力的に「復興コンサート」に取り組んで来た。
 資料によれば、3月26日の見瑞寺での演奏を皮切りとして、6月21日までの間に、仙台市内外での12回のオーケストラ公演の他、被災地・避難所での演奏32回、仙台市内と街なかでの演奏108回などを含め、延べ165回の演奏活動を行なっているとのことだ。
 これは、オーケストラとして、いかなる状況の中にあっても、あくまで「演奏したい」という欲求と、「誰かのために演奏したい」という使命感とを反映するものであろうかと思う。プロとしては当然のことではあるものの、実際にはなかなか出来ないことであろう。

 積まれた布団の間に座り、演奏に聴き入っている避難所の人々の姿は、私も新聞やTVの報道でしばしば見る機会があり、そのたびに心を打たれたものである。
 だがそれ以上に今日、事務局から聞いて感動したのは、避難所のダンボールの仕切り壁の陰にじっと座ったまま音楽に耳を傾けていたというお年寄りについての話であった。・・・・その光景を思い浮かべただけでも、涙が滲んで来る。

 今日の「復興定期」は、午後5時からと7時からの2回公演。私が聴きに行ったのは7時からの方だ。
 チケットを買おうと思っていたが、これは事前申込制による無料公演だという(つまり仙台フィルはこの3ヶ月間、定期公演を無料で開催していたのである)。
 こちらとしては何にも出来ないけれども、せめて東京からそれを聴きに行くということが、苦境にあるオーケストラを応援する行動の一つになり得るのではないか、とも思う。

 コンサートは、常任指揮者パスカル・ヴェロの指揮で、フォーレの「ペレアスとメリザンド」組曲から3曲(「メリザンドの死」は省かれていた)と、「エレジー」(チェロは原田哲男)、ベートーヴェンの「第7交響曲」の3曲。
 休憩無しで75分のプログラムだが、「今の状況では、2時間もやったら、その間に余震が来ないという保証はない」(事務局)とのことであった。
 弦編成は8-6-4-4-3。熱演である。小さなホールの音響効果がどうだとかいうことは、もはや愚であろう。どうしても演奏したいと思っているオーケストラに、どうしても聴きたいと思って集まって来た聴衆。それで充分だ。

 東京14時56分発・17時03分仙台着、仙台21時発・23時03分東京着の「はやて」で往復。いずれも混んでいる。

6・22(水)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
マーラーの「5番」

   すみだトリフォニーホール  7時15分

 あの「3・11」の夜、この同じ曲によるハーディング指揮の定期を、私も聴きに行くつもりでいたが、交通が途絶して叶わなかった。演奏会そのものは、徒歩や自転車で集まって来た100人程度の聴衆を前に、予定通り行なわれたと聞く。せめて翌日の演奏会にでもと思ったが、それは中止になった。

 ハーディングがその後も日本に留まり、ただちにチャリティー演奏会を開催しようと提案したこと、しかし交通の混乱や余震の警戒などにより実現できなかったことなど、一連のエピソードは、すでに知られるとおりである。

 今回は同じマーラーの「第5交響曲」が3日連続で演奏され、初日(20日)が「チャリティーコンサート 3・11東日本大震災、明日への希望をこめて」と銘打たれ、あとの2回が「3月定期演奏会の代替公演」となっている。
 したがって今日の会場では、3月定期のプログラム(パンフレット)が配布されていた。表紙に大きく印刷された「3」の字を見るたび、心が痛み、気持も平静でいられなくなってしまう。

 ハーディングは、今夜も終演後に、着替えもしないまま、いち早くロビーに出て来て、募金活動の先頭に立った。
 彼の持つ募金箱に向かって列を為す人々と、サイン会のために列を為す人々などが入り乱れ、トリフォニーホールの狭いロビーは立錐の余地もない。時に彼への拍手も起こり、また出口から外にも暫し立ち去らぬ人々が群を為して、異様な熱気が渦巻く。
 「(ハーディングは)毎回あれをやっているんだから、偉いよな」という声も、出口周辺で聞こえる。

 演奏会の方では、震災の犠牲者に捧げる曲として、エルガーの「ニムロッド」が冒頭に演奏された。3月定期にあった「パルジファル」第1幕前奏曲は今回プログラムに入っておらず、本編はマーラー1曲のみである。
 MCOとの「第4交響曲」の時にはあれほど微に入り細に亘って趣向を凝らしたハーディングだが、こちら「5番」では、意外なほどストレートな解釈だ。
 彼が作品ごとにアプローチを変える指揮者であることは、これまでにもいくつかの例で判っている。だが、それだけでなく、指揮するオーケストラにもよって・・・・ということもあるとみえる。

 今夜の演奏では、強いて言えば、第3楽章に多少なりとも彼らしい個性が聴かれたであろう。私の印象では、第4楽章の「アダージェット」が、新日本フィルの弦の豊麗さを存分に発揮した演奏で、全曲の白眉だったと思う。
 第2・3・5楽章でのエネルギー感も目覚しかったが、響きの豊満さはいいとしても、やや混濁した団子状態に聞こえてしまうのは、こちらの聴く位置(1階中央下手寄り)のせいか・・・・ホールのアコースティックのせいもあるだろう。サントリーホールで聴いたなら、またイメージは違ったかもしれない。

6・21(火)工藤あかね ソプラノ・リサイタル

  杉並公会堂小ホール  7時15分

 工藤あかね――現姓・松平あかねさんについては、これまで読売新聞のレギュラー演奏会評執筆などを含む評論家としての姿しか知らなかったのだが、その彼女が、シュトックハウゼンの長大な歌曲集「ディアクライス(十二宮)」をダンス入りで「演奏」するのを初めて聴き、観て、ただもう驚き、舌を巻くのみであった。

 このダンスは、彼女自ら振付したものだそうで、ドイツでの「シュトックハウゼン講習会」でも「革命的な解釈」と絶賛されたという。
 それも歌の合間に踊るというものではなく、歌とダンスを完璧に一体化させた形を採り、全曲30分以上にわたり、全く切れ目なしに演じるのだから見事である(よく息が上らないものだ)。
 歌唱がしっかりしていて、しかもダンスと巧く融合しているので、この歌曲集が意外に官能的な色彩感を持った音楽だという印象になる。
 これは、思いがけぬ貴重な体験であった。

 この他、フランス語歌詞によるワーグナーの珍しい歌曲3つ(眠れわが子よ、かわいい人よ、期待)と、テューバとのデュオによるヤン・クーツィール(1911~2006)の「絞首台の歌」が歌われた。

 いずれも歌詞の内容に応じて、まるでオペラのように、顔の表情に劇的な演技を加えているのが印象的だ。これも歌唱と身体的表現との融合を狙うという試みの一つであろう。
 「期待」の最後、「地平線の霧の中に、恋人が戻って来るのが見える?」というくだりで、顔を覆い、喜びの感激を抑え切れなくなる演技を加えたりしていたのもその一例である(期待を裏切られた主人公の絶望の表情とも見えないこともなかったが・・・・)。

 ともあれ、歌唱と身体的表現の融合を試みるこのような手法は面白く、私は強く支持したい。
 以前、ベルント・ヴァイクルが「冬の旅」で、やはりオペラのようにドラマティックな顔の演技を見せつつ歌っていたのを聴いて、大いに感心したことを思い出す。

 考えてみると、クラシック以外のジャンルではこういう手法は当然のことになっているのであって――昔は歌謡曲でもアメリカのポップスでも、ほとんどの歌手が直立不動の姿勢で歌っていたものだが、今ではそんな人はまずいないだろう。
 だから、シューベルトやシューマンの歌曲に、すべからくアクションを交えて歌うべきだ、などと言っているのではもちろんない。しかし、作品によってはそういう試みがもっと多く行なわれてもいいのではなかろうか、とも思う。礼儀正しくかしこまった姿勢で歌うばかりがクラシックの歌曲ではあるまい、と思うのだが・・・・。

 申し遅れたが、協演のピアノは福崎由香、テューバは北畑葉佑のみなさん。

6・20(月)小泉和裕指揮東京都交響楽団

   東京文化会館大ホール  7時

 生誕200年にあたる作曲家リストの特集で、「ピアノ協奏曲第2番」と「ファウスト交響曲」が演奏された(小泉和裕は4月に大阪センチュリー響定期でも同じプロを指揮したはずである)。

 協奏曲での今日のソロは、ドイツ生れのマルクス・グローだ。豪快強靭なピアニズムだが、決して怒号しているといった演奏ではなく、自然な流れの中にメリハリを利かせ、スケールの大きなヴィルトゥオージティをつくり出して、痛快で気持のいいリストを聴かせてくれる。
 この人、エリーザベト・コンクールにも優勝した41歳の中堅で、結構幅広く活躍しているのだが、そのわりに日本では知る人ぞ知る的存在なのがもったいない。アンコールは、同じリストの「ワレンシュタットの湖畔で」。

 後半は「ファウスト交響曲」。東京のオケが定期でこれを取り上げるのは、今年1月の下野竜也と読売日響以来であろう。
 長大な上に手が混んでいて渋い曲で、そうそう取っ付き易いものではない。もっとも、半世紀前までのわが国では、ブルックナーの交響曲も似たようなイメージで受け取られていたものだ。この「ファウスト」も、いつか人気曲になる時代が来るだろうか?

 だがこの曲、標題音楽的にもよく出来ていることは事実だ。たとえば第3楽章「メフィストフェレス」など、ファウスト(第1楽章)の主題を嘲笑して弄ぶような変奏や、その悪魔の諧謔の音楽が清純なグレートヒェン(第2楽章)の主題の再現により力を失って行くくだりなど、実に巧く描かれているのである。

 今日の小泉=都響の演奏は、あまり重くもなく、晦渋でもなく、明晰な響きで、この大交響詩を描き出した。第1楽章でのファウストは、思索のみでなく行動の昂揚にも燃えていたし、第3楽章での悪魔もスケルツァンドの雰囲気豊かに、皮肉な笑いを浮かべていた。

 高貴な性格を備えたテノール・ソロは福井敬、男声合唱は二期会合唱団。全曲最後の出番まで1時間近くもじっと舞台の奥の高い場所で待っているのは、さぞや疲れるだろうと心配になる。といって、その間、お茶を飲みながら待っているわけにも行かないだろうし。

6・18(土)沼尻竜典指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  2時

 ラザレフが腰の故障(先月手術をした由)で来日できなかったため、沼尻竜典が指揮台に立つ。
 当初の予定プログラムのうち、チャイコフスキーの「ピアノと管弦楽のための幻想曲(協奏的幻想曲)」のみはそのままとして、ストラヴィンスキーの「ディヴェルティメント」とプロコフィエフの「第6交響曲」はラザレフが指揮する時まで延期となり、代わりにストラヴィンスキーの「花火」と、ショスタコーヴィチの「交響曲第10番」が演奏された。

 チャイコフスキーのこの曲は、私はナマでは初めて聴いた。何とも珍しい曲を引っ張り出しものだ。
 これは「マゼッパ」の直後、「マンフレッド交響曲」の直前(1884年)の作品である。彼のスランプ時代といわれる頃のものだけあって少々雑然とした曲だが、彼の作品のいろいろなスタイルが混在する不思議な雰囲気も感じられて面白い。
 それにしても、こういう難曲をソリストの小川典子が、よく鮮やかに弾いてくれた。貴重な体験で、大いに愉しめた。

 ショスタコーヴィチの「交響曲第10番」は、沼尻の巧みな制御のもと、日本フィルが総力を挙げた演奏という印象。
 第1楽章は沼尻らしく明晰でエネルギー感があり、先日ウルバンスキが指揮したような、明晰で鋭角的ではあるものの何処か重々しく暗鬱な気分の漂う演奏とは趣を異にする。

 第2楽章は猛烈に速いテンポで突進する演奏となり、追い立てられるような緊迫感にあふれて、デモーニッシュな物凄さを生んでいた。
 この楽章が「スターリンの肖像」であるという説は、ヴォルコフ編の「ショスタコーヴィチの証言」以来有名になってしまったが、そう解釈できるとも言えるし、そうではないとも言えるだろう。

 ガラリ雰囲気が変わる後半2楽章に関しては、私はどうしても、第3楽章に初めて登場するショスタコーヴィチ自身の名のモノグラム「D-Es-C-H」(独語表記D.Sch)と、彼が秘かに想いを寄せたという女性エリミーラ・ナジーロワのモノグラム「E-A-E-D-A」(E、La、Mi、Re、A)の絡みが、作曲者の一種の私小説的な秘密を描いている、という考えに取り付かれてしまう。
 全曲の最後に自らのモノグラムを何度も熱狂的に歓呼して終る――などという手法も、それを裏づけるものだろう。

 今日の演奏がそれを具現していた、などと言うつもりはもちろんない。だが、後半2楽章における沼尻と日本フィルの演奏は、かなり明るく、楽観主義的な色合いを感じさせて面白かった。張りのある、ヴィヴィッドな音楽があふれた今日の定期公演であった。

6・17(金)ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
ブルックナーの「8番」

   すみだトリフォニーホール  7時15分

 ハーディングが、あの3・11の地震に東京で遭遇した後もなお1週間踏みとどまり、すぐにでもチャリティー・コンサートを開催しようとオーケストラに働きかけていたこと(建物の危険度、交通混乱などの事情から実現できなかったが)は、すでに聴衆の間にも広く伝わっているのだろうと思う。

 今日は彼がステージに登場した時から、早くもブラヴォーの声が飛んだ。そしてカーテンコールでは、何度も聴衆と楽員たちから彼への拍手が贈られた。
 終演後には、ハーディングは先日のMCOとの演奏会の時と同様、ロビーで募金箱を持ち、義援金募集活動の先頭に立った。ホールから出て来た多くの聴衆が、彼を取り巻く。指揮者と楽員・聴衆とが、これほど温かい気持で結びついた例は、かつてなかったことであろう。

 今日の定期は、ブルックナーの「交響曲第8番」(1890年稿ノーヴァク版)。
 ハーディングとしては驚くほどストレートな指揮で、いわゆる「ハーディング節」を予想(警戒?)していた向きには、些か予想外でもあったろう。
 彼がこの曲に取り組むのは今回が初めてである、とかいう話をどこかで聞いたような気もするけれど(定かではない)、もしそうだとしたら、とりあえずは慎重に構えたということか?

 ハーディングは、全曲をほぼイン・テンポで押し切った。また、特定の楽器を刺激的に強調して曲のバランスを変えるようなことも避けた。これはブルックナーの交響曲の場合、すこぶる好ましい姿勢である。
 ちょっと変わった趣向といえば、せいぜいスケルツォ(第2楽章)でのモティーフのたたみかけの頂点で音量を一瞬和らげ、クレッシェンドさせる手法を使っていたことくらいだろうか――このテは他にも使う指揮者もいるが、ハーディングのそれは、音量全体をメゾ・フォルテに落すのではなく、フワッと柔らかい音にしておいてからクレッシェンドさせるというところが特徴と言えよう。

 しかし、遅めのテンポで保たれた今夜の演奏は、全曲にわたり、些かも弛緩するところはなかった。とりわけ遅いテンポの第3楽章で保たれた緊迫感は、圧巻であった。この楽章では、弦も管も素晴らしかった。私の好きな、ワーグナー・テューバを中心とするあの4小節のコラール――その1回目(第67~70小節)など、特に美しかった・・・・。
 新日本フィルの、渾身の快演を讃えたい。

6・16(木)メナヘム・プレスラー・ピアノ・リサイタル

  サントリーホール ブルーローズ(小ホール)  7時

 つい数年前までボザール・トリオのメンバーとして不動の地位を誇っていた名ピアニスト、メナヘム・プレスラーは、今年の暮には88歳になるが、相変わらず矍鑠として演奏活動を続けている。
 今日のリサイタルは、「サントリーホール チェンバー ミュージック・ガーデン」の一環として行なわれたもの。

 前半にベートーヴェンとショパンとドビュッシーが演奏されていたが、これは当然聴けず。休憩後のシューベルトの「ソナタ変ロ長調D.960」と、アンコールに演奏されたショパンの「夜想曲嬰ハ短調(遺作)」とブラームスの「子守歌」とを聴く。

 高齢ゆえに技術的な制約はもちろんあるにしても、演奏に満ち溢れる温かさと滋味は喩えようもなく、永年にわたり音楽して来た人の素晴らしさをしみじみと聴き手に伝えてくれる。熱狂的な拍手に応える笑顔の、何と和やかなこと。
 19日にも室内楽のコンサートがあるが、また来て欲しいと願わずにはいられない。

6・16(木)パオロ・カリニャーニ指揮読売日本交響楽団のモーツァルト

   サントリーホール大ホール  7時

 「交響曲第39番」と「レクイエム」を組み合わせたプロで、皆さんお目当ては当然後者だろうが、こちらは都合で前半の交響曲のみ聴く。
 中庸を得てオーソドックスな演奏だが、整然とまとめられていて、快い。

 それにつけても、カリニャーニがあの新国立劇場の「コジ・ファン・トゥッテ」を当初の予定通り指揮してくれていたら、どんなにか音楽が引き締まって歯切れよく劇的に、舞台との肉離れを起こさずに演奏されたことであろうのに、とつくづく思う。

 休憩時間に、隣の小ホールへ移動。

6・15(水)ジョセフ・ウォルフ指揮東京都交響楽団

   サントリーホール  7時

 ジョセフ・ウォルフは、名指揮者コリン・デイヴィスの子息。そういう紹介をされるのは、本人はおそらくいやだろう。まだ30代半ば。

 しかし、今日のシベリウスの「第7交響曲」などを聴くと、この青年指揮者もなかなかのものだと思う。寸分隙なく音楽を構築し、作品全体の均衡を重視して堅固に演奏をつくり上げる。大詰めの個所での持って行き方など、引き締まって、すこぶる見事であった。
 その反面、几帳面に過ぎて、伸びやかさに欠ける傾向なしとしないが、まあ、それは若い彼のこと、これから解決して行けばいい問題である。

 シベリウスの前には、英国の近代作曲家ウィリアム・オルウィン(アルウィン)の「秋の伝説」という、弦楽合奏とイングリッシュ・ホルン・ソロのための小品が取り上げられ、都響の奏者・南方総子がソロを吹いた。シベリウスやマーラーやドビュッシーのいろいろな曲の一部を思い出させるような曲だが、終始沈潜した美しさを備えている。
 また前半には、若林顕をソリストに、ブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」が演奏された。

 都響は、好演。若手指揮者の長所も短所もすべて呑み込み、彼の特徴を如実に反映する演奏を聴かせてくれた。

6・14(火)メトロポリタン歌劇場管弦楽団特別コンサート

   サントリーホール  7時

 前の「METライブビューイングは、4時15分に終映。引き続き今度は、ナマのMETのオケを聴きに、サントリーホールへ向かう。

 ほぼ満席の盛況で、ノセダや歌手たち何人かも客席で聴いていたりして、すこぶる華やかな雰囲気になっていた。
 ネトレプコが来日をキャンセルしたためプログラムの大半にも変化を生じたのは事実だが、代わりにディアナ・ダムラウとバルバラ・フリットリの2人の人気ソプラノが出て華麗に歌ってくれたのだから、よほどのネトレプコ・ファンは別として、まず文句はないところであろう。

 ただし、私の最大の興味は、むしろMETのオーケストラにあった。

 プログラムは、イタリア・オペラから序曲を2つとアリアを4つ。それにR・シュトラウスの交響詩2つである。
 序曲はベルリーニの「ノルマ」とヴェルディの「運命の力」、アリアはベルリーニの「清教徒」から2曲(それぞれマリウシュ・クヴィエチェン、ダムラウ)、ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」(フリットリ)と「仮面舞踏会」(ピオトル・ベチャワ)。
 交響詩は「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」と「ドン・ファン」というもの。指揮は、ファビオ・ルイジ。

 METのオーケストラの音色の明るさ、艶やかさ、まろやかさ、そして18型の弦の音量の豊かさは、独特の良さであろう。本拠地METで聴いたピットからの音、あるいはライブビューイングの録音で聴いた音――などでのイメージそのものだ。
 こういう艶やかな音色は、昔スタインバーグと初来日した時のピッツバーグ響や、メータと来日した時のロザンゼルス・フィルなどからも聴いた記憶がある。よきアメリカのオケの音色、というものなのだろうか。

 ルイジは、その音色を存分に生かしつつ、比較的遅めのテンポで、このオケを鳴らした。「ノルマ」序曲後半の叙情的な部分でのテンポは異常に遅く、主題の形が見失われるほどだったし、交響詩2曲では標題音楽的な描写がほとんど聞かれない上に、楽曲全体の統一的な緊迫度も薄かったし、しかも声楽との協演でも18型そのままだったため声を覆ってしまう傾向もあって、演奏の解釈そのものには疑問も多かったのだが、オケの美音が聴けたことで、是としよう。
 アンコールで演奏した「マノン・レスコー」間奏曲(プッチーニ)は情熱的な昂揚感も聴かれて、これは大変結構。

6・14(火)METライブビューイング  ワーグナー:「ヴァルキューレ」

   東劇(銀座)  11時

 5月14日にMETで上演されたもののライヴ映像。
 今回はドミンゴが滋味あふれる案内役を務め、一部分はジョイス・ディドナート(S)が、これも手慣れたインタビューアーぶりを見せていた。

 これは、ロベール・ルパージュ新演出の「ニーベルングの指環」第2作。
 とにかく舞台美術(カール・フィリオン)が凄い。
 基本的には「ラインの黄金」と同じ装置で、素材(たくさんの板みたいなもの)そのものはシンプルに見えるが、おそろしく精妙に、変幻自在に動き、組み合わされ、角度を変えて、巧みな照明(エティエンヌ・ブシェ)により森や岩山や騎馬のイメージなど、さまざまな景観を創り出す。映像で見てもすこぶる迫力がある。
 こんな大掛かりな舞台装置を作れる歌劇場は、今日では、METを措いて他になかろう。

 ルパージュの演出自体は、ト書に忠実である。ヴォータンとジークムント、ヴォータンとブリュンヒルデの、それぞれの親子の惜別の哀情といったものが、音楽とト書にぴったり合った形で描き出されているため、実に感動的に、ヒューマンに伝わって来る。
 最近の読み替え演出を観る時のように、「おかしいじゃないの」という疑問を自分で整理し、論理的に分析して理解しようとする手順は、此処では全く必要ないのだ。
 それゆえこちらは、ストレートに登場人物の感情に同化しつつ、併せて音楽に没頭できることになる。こういう演出も、なかなかいい。

 歌手陣では、ジークムントを歌うヨナス・カウフマンがやはり素晴らしい。水も滴るというか、颯爽たる若々しい好青年のジークムントだ。続いてはジークリンデのエファ=マリア・ヴェストブロックだろう。この2人、今や絶好調である。

 ヴォータンのブリン・ターフェルは、威圧感は充分だ。
 ブリュンヒルデはデボラ・ヴォイト。愛らしさはあるから、所謂女傑的なヴァルキューレでない点がいいだろう。そういえば、他の8人のヴァルキューレたちも、オペラとしては――ドミンゴの呼びかけに従えば――「ガールズ」の雰囲気であり、本来の性格に合っている。
 フンディングのハンス=ペーター・ケーニヒは、巨大な体躯と威圧的な声で、文句ない。フリッカのステファニー・ブライズはマツコ・デラックスばりの巨体と顔で凄みを利かせ、自ら「道徳の規範」的存在とは称しているものの、やはり悪役的イメージの恐妻そのものだ。

 指揮は、ジェイムズ・レヴァイン。この時期には元気で指揮していたが、やはりあの巨体を扱いかねているように見える。カーテンコールでも彼は舞台には登場せず、ピットの指揮台にそのまま座ったきりで、歌手たちや観客の拍手に応えていたのだった。

 だがこの「ヴァルキューレ」でのレヴァイン、昔と違ってテンポが猛烈に速くなった。第3幕前半のヴァルキューレの岩山と嵐の場面など、煽りが凄まじく、やや歯止めが利かなくなったように感じられたくらいである。だが、本来の緩徐個所では、ちょうどいいテンポといえるだろう。
 いずれにせよ彼のもと、METのオーケストラが非常に上手いので、音楽が極めて豊麗に聞こえる。上映時間5時間15分の長丁場だったが、「ヴァルキューレ」の音楽の魅力と迫力が余すところなく味わえて、陶酔的な気分に引き込まれたのであった。

6・12(日)クシシュトフ・ウルバンスキ指揮東京交響楽団

   テアトロ・ジーリオ・ショウワ  2時

 小田急線の新百合ヶ丘から徒歩で数分。昭和音楽大学のホール、テアトロ・ジーリオ・ショウワは、本来はオペラの劇場である。

 東京交響楽団は「川崎定期演奏会」をここに移して開催し始めており、それは現状ではベストな選択ではあるものの、オーケストラ・コンサートの会場としては、音響効果の上で不安がないでもない。
 私も、このホールで大編成のオーケストラを聴くのは、今回が初めてだ。
 今日のプログラムは、ルトスワフスキの「小組曲」、シマノフスキの「ヴァイオリン協奏曲第2番」(ソリストは諏訪内晶子)、ショスタコーヴィチの「交響曲第10番」。難物である。

 前半の2曲は2階正面最前列で聴いたが、オーケストラは何となく、音が箱の中で響いてから客席に出て来る――といった印象であった。
 最近のコンサートホールは、オーケストラの音がそのまま空間全体に噴き上げ、拡がって行くというイメージになっているため、この違いには些か戸惑う。
 後半は事務局と打ち合わせ、1階ほぼ中央の通路側に席を移して聴いてみた。ここでは、2階席よりは音がダイレクトに、リアルに響いて来るように感じられる。

 いずれにせよ、オペラハウスのステージでオーケストラが演奏した場合には、多かれ少なかれ、こうした響きになるらしい。
 私の数少ない体験から言っても、ウィーン国立歌劇場、ベルリン州立歌劇場、あるいはマリインスキー劇場などでもそうだったが、コンサートホールに比べ、あまりに響きが違う。それでも彼の地では、みんなさほど気にはしていないようである。

 それに早い話、日本の地方の「会館」や「公会堂」には、もっと変わった音のするところが山ほどある。いや、あのフィラデルフィア管弦楽団の昔の本拠地アカデミーだって、まるで宴会場みたいな音響効果だった・・・・。

 東響は、演奏しているうちに、ホールに適合するよう、自ら響きのバランスを整えて行った。ショスタコーヴィチでは、第4楽章に入った頃には、音色はすでに第1楽章とはかなり異なっていた。さすがプロである。
 これで今後、反響版などを調整し、オーケストラの配置や位置に工夫を凝らして行けば、11月のマゼール客演指揮の「巨人」までには、いい音になっているのではなかろうか。

 ウルバンスキ、未だ28歳。少年のような表情の残る青年指揮者だが、なかなか良い。
 まるでスコアが目に見えるような、明晰で鋭利な音を東響から引き出し、かっちりと音楽をつくる。表情は怜悧で冷徹で、激しくティンパニを叩かせるものの、熱狂的興奮からはかなり距離を置いている指揮だ。
 レパートリーによって向き不向きがある、というタイプだろうが、それはそれで良いだろう。 
 事務局から聞くところによると、ウルバンスキはレパートリーの拡大に非常に慎重で、自分の中で一つ一つ納得行くまで音楽を研究してから行なうタイプなのだとか。
 なるほどそう聞けば、7月に代役でPMFオーケストラを指揮する際にも同じ「タコ10」を取り上げる、という理由も解らないでもない。

 諏訪内晶子のソロ。朗々と美しく、スケール大きく歌う。ただ感嘆するのみである。

 それにしてもこの「タコ10」、以前、筋肉痛だか肘の関節痛だかに悩まされていた時にも、この曲にぶつかったような気がする・・・・。この湿気の季節、神経にビリビリ響く曲だ・・・・。
 今月と来月、何故かこの曲が流行る。

6・11(土)アレクサンダー・ガヴリリュク・ピアノ・リサイタル

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 代々木にあるパブで3時から開催された、「松浦このみ&源馬ちか子・朗読会」を愉しんだあと、すぐ近くにあるオペラシティに回り、このリサイタルを聴く。

 浜松国際コンクールに16歳で優勝してからもう11年もたつのかと感無量だが、本当にスケールの大きなピアニストになった。
 プログラム前半のベートーヴェンの「月光」と、ショパンの「幻想即興曲」「作品48の夜想曲(2曲)」「スケルツォ第1番」は、達者ではあるけれども心に響くものが感じられず落胆させられたが、後半のラフマニノフの「楽興の時 作品16」と、プロコフィエフのソナタ第7番「戦争ソナタ」の方は、さすがに圧巻である。
 強靭そのもののフォルティシモだ。しかし、いかなる時でも音楽が崩れず、凄まじい重量感と威圧感を以って、嵐のように迫って来る。その力感がデモーニッシュな性格を備え、作品と肉離れを起こしていないところに、ガヴリリュクの非凡さがあるだろう。

 坐骨神経痛再発の痛みに耐えかね、アンコールは聴かずに失礼した。この湿気も悪影響を及ぼすのだ、と周囲の人たちの同情とも冷やかしともつかぬコメント。

6・10(金)メトロポリタン・オペラ来日公演
ヴェルディ:「ドン・カルロ」東京初日

   NHKホール  6時

 カウフマン、フリットリ、ボロディナ、ホロストフスキー、パーペ・・・・と当初は予定されていた豪華主役陣。私は「モーストリー・クラシック」の「特選館」コラムで、どうかなあという予感がして、「もしこの配役が予定通り実現すればだが」と書いておいたのだが、まさか5人のうち3人も出なくなるとは思わなかった。

 もし本当に実現していれば、1976年にザルツブルク音楽祭でカラヤンが指揮した時の、カレーラス、フレーニ、コソット、カプッチッリ、ギャウロフと並んだあの配役に迫るものとなったであろうのに・・・・(ちなみにザルツのその上演には、バスタン、グルベローヴァ、ファン・ダムも出ていて、凄かった。さすがカラヤン)。

 ただ今回は、代役にも、それなりの歌手が動員されていた。そのへんがさすがMET、というべきだろう。

 特に今日のタイトル・ロール、ドン・カルロを歌った韓国人テナーのヨンフン・リー。
 この人の声は魅力的だ。若々しく張りがあり、小気味よいほどにまっすぐ伸びて来る清澄な声質である。未だ若いから歌唱に一本調子のところもあるが、経験を積んで歌唱表現に多彩さが加われば、スターになり得る力量を備えている。韓国は世界的に優秀な歌手を何人も生んでいるが、羨ましいことだ。

 エリザベッタにはマリーナ・ポプラフスカヤ(先のMETのシーズンでも同じ役を歌っていた)、エボーリ公女にはエカテリーナ・グバノヴァが出演した。
 この2人、実力もあるし、歌唱も安定していて、決して悪くはないのだが、何故かゆっくりしたテンポを持ち堪えられないところがあり、後半の聴かせどころのアリアでも全体像を掴みきれず、緊迫感を欠く傾向がある。演技も、表情が薄く、硬い。 

 その点、ディミトリ・ホロストフスキー(ロドリーゴ)とルネ・パーペ(フィリッポ2世)は、さすがの役者ぶりである。2人の対決場面での、皮肉な冷笑を浮かべて国王に「暴君と呼ばれてもいいのですか」と迫るホロストフスキーの表情など、何とも凄味があった。
 宗教裁判長の「ドン・カルロのやっていることなど児戯に過ぎぬ。最も危険なのはポーザ侯爵ロドリーゴだ」という指摘に表れているように、このドラマの背景となっている政治的対立を描き出す上でも、2人が予定通り出演してくれたことは幸いであった。
 それにドン・カルロ役のリーが、一本気のやんちゃな「児戯」の王子を演じるにはちょうどいいキャラだった・・・・。この3人の主役男声歌手陣に関しては、成功といってもよかったであろう。

 宗教裁判長はステファン・コーツァン。声のパワーは充分だったが、この得体の知れぬ権力者の役にしては、声が若々しくて凄味を欠く。彼と国王の応酬はこのドラマの最も重要な場面の一つなのだが、ここで不気味な重量感と威圧感が生れなかったのは、少々惜しかった。

 演出はジョン・デクスター。先日METライブビューイングで紹介された現在のハイトナーの演出とは異なる、旧い方のプロダクションである。
 伝統的な舞台装置(デイヴィッド・レッパ)とともに、古色蒼然として、ドラマ的な面白味には欠ける演出だ。群衆の動きなどに全く締まりがないので、第3幕第2場など緊張感を欠くこと夥しい。古い演出を引っ張り出して上演した時には、よくこういう舞台になる。

 指揮はファビオ・ルイジ。METのオーケストラを壮大に響かせたが、基本的にはこの作品の音楽の叙情的な側面を浮彫りにしたアプローチであろう。

 25分間の休憩2回を含み、終演は10時46分。カーテンコールが終ったのは10時55分頃。今夜のNHKホールのロビーは、賑やかで熱気に溢れていた。みんな、あの配役を楽しみにしてチケットを買った人たちであろう・・・・。

6・8(水)ダニエル・ハーディング指揮
マーラー・チェンバー・オーケストラ

   オーチャードホール  7時

 続いてブラームス交響曲プロ。最初に「第3番」、休憩後に「第1番」、アンコールは「第2番」の第3楽章という構成。

 ブラームスの交響曲では、ハーディングも、ベートーヴェンやマーラーのそれに対するのとは異なって、曲をあちこちいじりまわすことはしていない。
 今夜の演奏でも、唯一アンコール曲で1ヶ所、木管の一閃を極端に強調して、昨夜のマーラーのように扱った所はあったが、――概してブラームスを「感情の安定した」作曲家と見なして指揮しているように思われる。

 ただそれでも、テンポの遅い部分では微に入り細を穿った音づくりをしたり、テンポを更に遅くして念入りに音楽をつくったりするハーディングの手法は、相変わらずだ。「1番」よりも「3番」でその手法がしばしば聴かれたのは、やはり作品自体がそれを許容する性格を持っているからだろう。
 とはいえ、昨夜のマーラーの「4番」でもそうだったのだが、あまりに細部に拘泥するあまり、作品の全体像を曖昧にさせてしまう傾向がなくもない。このあたりの均衡を完全に保てるようになったら、ハーディングは凄い指揮者になるだろう。

 MCOは、昨夜と同様、弦12型編成だ。しかし量感は極めてたっぷりしたもので、噴出させる音楽のエネルギーは壮烈である。最強奏での音色は決して綺麗とは言えず、むしろ刺激的な響きになるが、もちろんこれは彼らが意図的に出しているものだろう。
 今夜の演奏では、両端楽章の音色を、「3番」では硬質に、「1番」では比較的豊満に設定する、という対照が興味深かった。「3番」の方を激情的な演奏にしたのは、前出の性格からしても納得できるものだ。

 楽員たちはみんな達者な技術の持主だが、今回は特に木管群の冴えが目立った。とりわけクラリネットの1番と、首席オーボエの吉井瑞穂が、表情豊かな快演を聴かせてくれた。
 この2回の公演、面白い演奏だった。

6・7(火)ダニエル・ハーディング指揮
マーラー・チェンバー・オーケストラ

    オーチャードホール  7時

 今夜はマーラー・プロ。
 「花の章」で開始、モイツァ・エルトマンのソプラノ・ソロが加わって「子供の魔法の角笛」から「むだな骨折り」「この世の生活」「ラインの伝説」「美しいトランペットの鳴り響く所」「誰がこの歌を作ったのだろう」の5曲、後半に「交響曲第4番」(ソロはこれもエルトマン)。

 まさにハーディング節全開といった趣き。気心知れたMCOを相手に、彼のやりたいことすべてをやっている、という感。
 交響曲の第1・2楽章では、スコアの指定を遥かに凌ぐ猛烈なアクセントとポルタメント、木管楽器の壮烈極まるスフォルツァンドやフォルツァートなどが駆使され、音楽は時に畸形とも言えるほど、けば立ち、ギザギザになり、グロテスクになり、牙をむく。楽員すべてがそれぞれ自主的に音楽を主張しながらアンサンブルをつくり上げて行くというスタイルが素晴らしい。
 これほど細部まで入り組んだ演奏による、前衛的で刺激的なマーラーは、そう多くはないだろう。些か疲れるが、面白いという意味では極上だ。

 しかしその一方、テンポの遅い弱音の個所では、柔らかく囁くような、思索的に沈潜する音楽がつくられる。交響曲の第3楽章や、「花の章」がそれだ。
 特に前半、「花の章」での爽やかな清涼さをも交えた音色は美しさの極みであった。この演奏からは、この曲がかつては「巨人」の第2楽章であったことなど、とても思い浮かばない。むしろまさしく「子供の魔法の角笛」の世界に属する曲であることを聴き手は感じてしまうだろうし、事実ハーディングは、この曲から切れ目なしにその歌曲集に移って行ったのであった。

 声楽ソロのエルトマンは清澄可憐ながら知的な歌いぶりで、ハーディングとMCOの繰り出すあざとい刺激的な音楽の中に一抹の清涼な雰囲気を主張していた。ただ、彼女の声には、このホールはあまりに大きすぎるかもしれない。

 休憩時間(!)にハーディングはロビーに出て来て、自ら募金箱を抱え、大震災被災者救援のための活動をしていた。見上げたものである。

   音楽の友8月号 演奏会評

6・6(月)メトロポリタン・オペラ来日記者会見
ドニゼッティ:「ランメルモールのルチア」GP

    ホテルオークラ  2時、  東京文化会館大ホール  5時

 来日アーティストの記者会見なるもの、最近はトンとご無沙汰だ。かつて、インタビューやレポートなど、放送や雑誌の取材に走り回っていた時代には常連で顔を出していたものだが、現場引退にも等しい今となっては・・・・。
 それでも、あの大震災と原発事件があったにもかかわらず予定通り来日してくれたMETゆえ、どんな感じかと覗いてみた次第。

 今日の出席はピーター・ゲルブ総裁に、ファビオ・ルイジとジャナンドレア・ノセダの両指揮者、歌手はバルバラ・フリットリ、マリーナ・ポプラフスカヤ、エカテリーナ・グバノヴァ、マリウシュ・クヴィエチェン、ピオトル・ペチャワ、ディミトリ・ホロストフスキー、ルネ・パーペ、ヨンフン・リーという顔ぶれ。壮観だ。

 席上でゲルブが、「世界中で情報が混乱し、訪日は危ないという噂が飛び交う中で、予定通りわれわれが訪日したことにより、日本は安全だというアピールの一助になったのではないかと思う」と述べたことは、当を得ているだろう。

 何人かの主役歌手がキャンセルしたことの裏幕については、流石に彼も公の席上で語ることは避けていた。が、ぎりぎりの段階でフリットリをエリザベッタ(ドン・カルロ)からミミ(ラ・ボエーム)にスライドしたことは苦渋の決断であること、また代わりにポプラフスカヤが日本でエリザベッタを歌うことを僅か4日前に依頼されて急遽飛んで来たことなどの話は、何となく出た。
 これは即ち、当初ミミを歌うはずだったネトレプコが土壇場になって訪日を拒否、今頃言われても困るとゲルブが電話で1時間も説得したが無駄に終わり、MET側も大混乱に陥った、という裏事情を裏書することになろう。

 「ランメルモールのルチア」のゲネラル・プローベ(総試演)は5時から、東京文化会館大ホールで。
 ゲネプロというのは、演奏者やスタッフの打合せの声も混じり、カメラのシャッター音もせわしなく響くという、現場独特の雰囲気があって、私は好きだ。特に、治ったと思った坐骨神経痛が再発してしまった今(札幌往復の飛行機の椅子がいけなかった)、姿勢をいくら変えても文句は言われないから、便利である。

 今回はダムラウが赤ん坊を連れて来ていて――彼女も最初訪日をためらっていたが、いったん安全を確認したあとは、子供を連れて来ることも厭わなかったそうな――その子はオケ・ピットの傍に置かれた乳母車の中で、ママの声を聞ききながら、時々キャーキャー騒いでいた。ゲネプロの時には、そんなことも起こるのである。

 この日は全曲(ほぼノーカット)を、途中で2、3回止めただけで、通して上演した。
 ジャナンドレア・ノセダのテンポ運びの見事なこと! 音楽がヴィヴィッドに躍動しており、少しの弛緩も感じられない。10年以上前、マリインスキー劇場の首席客演指揮者に抜擢された頃から聴いているが、本当にいい指揮者になったものだと嬉しくなる。
 そして、彼が指揮するMETのオーケストラのふくよかで豊麗な響きも素晴らしい。このオーケストラは、ニューヨークでのルーティン公演の時にさえ良い音を出す(今のウィーン国立歌劇場管弦楽団などとはえらい違いだ)という、不思議な団体である。

 ルチア役のディアナ・ダムラウは、リハーサルながらほぼ全開に近い歌唱。「狂乱の場」も本番同様の大熱演で、カメラのシャッター音が一段と盛んになったのはいうまでもない。ほかに、ライモンド役のイルダール・アブドラザコフが、素晴らしく張りのあるバリトンを聴かせていた。
 演出はメアリー・ジマーマンで、先ごろ日本でもMETライブビューイングで上映されたプロダクションと全く同じ舞台である。ラストシーンでのダムラウの演技は、METライブビューイングで紹介されたネトレプコのそれとも、デセイのそれともかなり違う。やはり歌手によって、ある程度の裁量が認められているのであろう。

6・4(土)尾高忠明指揮札幌交響楽団 欧州公演帰国記念演奏会

   札幌コンサートホールkitara   3時

 ミュンヘン、ロンドン、サレルノ、ミラノ、シュトゥットガルトへの演奏旅行を打ち上げて帰国した尾高忠明と札響が、記念演奏会を行なった。
 今日のプログラムは、武満徹の「ハウ・スロー・ザ・ウィンド」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは諏訪内晶子)、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」。アンコールはエルガーの「ニムロッド」である。

 ヨーロッパから帰国した日本のオーケストラは、多かれ少なかれ、以前とは演奏の雰囲気がガラリと違う、というケースが多い。札響もその例に漏れない。10年前の旅行の際と同じように、全く別のオーケストラの顔を持って帰って来たのだ。
 今日の演奏に聴く、音のメリハリの強さ、演奏に迸る気魄――楽員たち自らが音楽をつくって行こうとする意欲が燃えたぎるような凄まじい熱気と激しさなどが、何より明確な特徴だろう。

 これはもう、平穏無事に調和を優先して音を合わせる――日本の国民性とも密接な関係があるが――といった演奏ではない。札響が身につけてきたのは、楽員各々が自ら音楽を主張しながらアンサンブルを創って行くという、欧米のオーケストラが持っている姿勢だ。
 たった数日、欧州の空気とホールの中で演奏しただけで、何かが違ってしまう――理屈では明確に解明できないあの不思議なクラシック音楽特有の現象が、予想された通り、札響にも生じていたのであった。

 武満の作品も、いつも聴くような、なだらかな美しさではない。一つ一つの音が粒立って煌くように並んでいるというイメージで、旋律(!)が際立つように各楽器に受け継がれて行くさまも鮮やかに聞きとれたのだった。欧州のオーケストラが演奏すると、よくこのようなイメージになることが多いのである。

 ブルッフの協奏曲では、諏訪内晶子のソロが圧倒的に素晴らしかった。第2楽章における壮大かつ濃厚な表情で構築された旋律をはじめ、両端楽章では激しいアクセントで叩きつけられるリズムが主題に強烈なメリハリをつけて、この曲を凄まじく劇的なものにしていた。
 ご本人は「今日はそれでも少し柔らかく弾いたつもりなのですけれど」と語っていたが、そう、ヨーロッパで聴けば、これでも未だ柔らかい演奏なのだろう。だが日本の空気の中で聴くと、やはりこれは凄まじくドラマティックで、スリリングで、胸のすくような演奏に思えるのである。近年の彼女の演奏が素晴らしく感じられる理由の一つは、多分ここにもあるだろう。
 札響も、それに影響されたか、あるいは彼の地で身につけて来たか、彼女のソロに呼応して、第3楽章では一音一音を明快に際立たせ、強靭な意志力を備えた演奏を繰り広げた。日本のオーケストラがこの曲をこれほど激しく演奏した例を、少なくとも私は知らない。

 「悲愴」も、極めて激烈な演奏になった。それだけでなく、感情の起伏も大きく激しく、まさに「パテティーク」の本来の意味――「感情豊かに」(悲壮でも悲劇的でもない)にふさわしい演奏だったのである。
 たとえば第2楽章での、主題におけるクレッシェンドとデクレッシェンドの精妙な息づきが生み出す情感の揺れの見事さ。また第1楽章の再現部での第2主題が、単なるソナタ形式の概念による再現でなく、展開部における壮烈な感情の揺れのあとに訪れる、疲れた慰めの心といった感じで響いていたのも、同じくその例であろう。

 ただ、ヴァイオリン・セクションの情熱的な感情移入の熱演は高く評価するものの、欲を言えば、最強奏になった時の音色の粗さは、課題ではなかろうか。
 それにこれは尾高の解釈とも関係するのかもしれないが、最強奏の個所ではコントラバスなど低音域がほとんど響かないので、第3楽章の行進曲などでは低音のリズムが聞こえず、そのためヴァイオリンを含む高音域ばかりが張り出して、極度に刺激的な音楽になってしまうという傾向もある。
 しかしこれは、単にバランスの問題である。第4楽章大詰めでは、チェロとコントラバスは情感をこめて歌い、全曲を感銘深く結んでいたのであった。

 弱音の個所では、オーケストラのバランスは完全に保たれていた。「ニムロッド」は、英国音楽の得意な尾高の本領でもあるが、札響の演奏にも、この上なく感動的な美しさがあふれていた。大震災の犠牲者への追悼という意味合いがかりになかったとしても、これは天下一品の名演だったといえよう。

   北海道新聞演奏会評

6・3(金)METライブビューイング ヴェルディ:「イル・トロヴァトーレ」

  東劇(銀座)  7時

 さすが有名演目、このシリーズにしては客がよく入っている。4月30日MET上演のライヴ映像だ。
 指揮がマルコ・アルミリアート、演出がデイヴィッド・マクヴィカー。
 主要歌手陣は、マルセロ・アルヴァレス(マンリーコ)、ソンドラ・ラドヴァノフスキ(レオノーラ)、ディミトリ・フヴォロストフスキー(ルーナ伯爵)、ドローラ・ザジック(アズチェーナ)。

 演出はごくごくスタンダードなものだが、回転舞台を効果的に使っているため、場面の転換が早く、物語展開もスピーディに感じられる。
 アルミリアートの指揮も特に個性的ではないけれど、要所では良いテンポで畳み掛けるので、全曲これ「歌」の連続と言ってもいいこのオペラがすこぶる愉しく聴けた。
 歌い手たちも概して安定しており、特にフヴォロストフスキー(ホロストフスキー)の伯爵は、演技の点でもなかなかの凄味だ。

 進行役は、例の如くプロの司会者並みのルネ・フレミング。今回はジェネラル・マネージャーのピーター・ゲルブ自ら次シーズンの演目を紹介するコーナーがあり、今回の名古屋と東京での公演開催にも触れ、「私たちみんなで、ガンバレ・ニッポンと申し上げます」と、これも例の如くサービス満点の対応である。
 フヴォロストフスキーもフレミングとのインタビューの中で「僕も日本に行ってロドリーゴを歌うのが楽しみです」などと語っていたが、こちらは何となく、ついでに言ったような感じがなくもないが。

6・2(木)ヴァディム・ホロデンコ・ピアノ・リサイタル

  浜離宮朝日ホール  7時

 彼も、昨年の仙台国際音楽コンクールで優勝した逸材である。昨日と合わせての「優勝記念演奏会」だ。
 しかし、昨日のクララのリサイタルに比べ、今日は残念ながら客の入りが寂しい。プログラムの渋さが影響したか? 
 前半にメトネルの「ソナタ作品11の3部作」と「6つのおとぎ話」、後半にプロコフィエフの「束の間の幻影」と「ソナタ第5番」という選曲。

 彼の演奏を聴いたのは、あのコンクール以来、ほぼ1年ぶりだ。
 メトネルにはあまり興味の湧かない私としてはやはりプロコの方に魅力を感じるし、特に「5番」第1楽章の何となくフランスっぽい旋律が面白いが、そのプロコにしても、昨年聴いた時のホロデンコの伸び伸びした息づきと色彩のようなものが、今回は不思議にあまり感じられなかった・・・・。
しかしこれは、聴いた席の位置のせいかもしれない。でなければ多分、自分の体調のせいかもしれない。

6・1(水)クララ・ジュミ・カン・ヴァイオリン・リサイタル

   浜離宮朝日ホール  7時

 先月7日の項で「韓国系ドイツ人ならジュミではなくユミではないのか」と書いたが、仙台国際音楽コンクールのスタッフに聞いたところによると、本人がさる理由で「ジュミにして下さい」と言ったとのこと。御本人の御意向なら仕方あるまい。

 今日のプログラムは、前半にブラームスの「ソナタ第1番」とイザイの「無伴奏ソナタ第3番」、後半にショーソンの「詩曲」、チャイコフスキーの「ワルツ・スケルツォ」と「感傷的なワルツ」、ヴィエニャフスキの「華麗なポロネーズ第2番」という構成。アンコールにはドヴォルジャークの「スラヴ舞曲ホ短調」、クライスラーの「中国の太鼓」、マスネの「タイースの瞑想曲」が演奏された。

 昨年の仙台優勝からあと、2、3回ほど聴いたコンサートにおける彼女の特徴がすべて集約されたようなリサイタルと言えようか。
 演奏のスケールは大きく、華麗でダイナミックで、きわめて濃厚な表情をもったヴァイオリンだ。低音域での太く色っぽい音色には、独特のものがある。若々しい情熱をいっぱいにぶつけるような演奏が好ましい。

 ただ、昨年秋だったかにメンデルスゾーンの協奏曲を聴いた時にも、どうもよく解らなかったのだが、時に細部の演奏がえらく雑になることがあり、また最高音や最弱音での不安定なところが多いのが気になる。このあたりを完璧に決められるようになれば、彼女は凄いヴァイオリニストになるだろう。
 華やかで軽快なパッセージの個所に来ると、弾きながら実に愉しそうな笑顔になるというのは珍しく、ステージ姿としても素晴らしい。

 協演のピアノは、津田裕也。彼もまた2007年に仙台で優勝した若者である。今日は全く控え目で、ひたすらクララを盛り立てることに徹していたようだ。

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