2017-05

4・30(土)下野竜也指揮東京都交響楽団

   東京オペラシティコンサートホール  2時

 「作曲家の肖像」シリーズ。今回はリムスキー=コルサコフ・プログラムという、日本のオーケストラとしては珍しい演奏会。

 前半に交響組曲(交響曲第2番)「アンタール」、後半に「ピアノ協奏曲」、「スペイン奇想曲」、序曲「ロシアの復活祭」。
 曲の配列もちょっと変わっているが、これは「アンタール」のみが最後を静かに結ぶ曲なので、コンサートとしての効果を考えてのことだろう。

 とにかく、わが国では「ロシアの復活祭」などナマで聴ける機会はなかなか無いし、まして最初の2曲が演奏されることは稀有である(ここに「シェエラザード」なんかを入れるありきたりの選曲にしなかったところが、いかにも「下野の指揮」らしくて、面白い)。ロシア国民楽派の作品が好きな私としては、有難いプログラムだった。

 リムスキー=コルサコフの作品というのは、要するに極論すれば、楽器編成を変えて同じテーマを何度も繰り返して行くだけ(?)みたいなものだから、指揮者とオーケストラが如何にカラフルな音を出せるかということに成否がかかって来る。
 ロシアのオーケストラがこれをやると、本当にあのパレフやマトリューシカのように鮮やかな色彩感があたりを満たすという感じになるわけだが、今日の下野竜也と東京都響は、さすがにそこまでは行かぬものの、ダイナミックな力感と、エキゾティックな味と、壮麗なサウンドとで、なかなか見事な演奏をしてくれた。

 「ロシアの復活祭」など、とかく同じモティーフの繰り返しばかりで単調になりかねない曲だが、これほど「持って行き方の巧かった」演奏に聞こえたのは、マルケヴィッチの指揮した古いレコード以来のことであった。
 「ピアノ協奏曲」では、小川典子がソリストをつとめた。彼女の豪壮な演奏が、この曲を見違えるほど華麗なものに聴かせてくれたことも特筆すべきであろう。
 コンサートマスターは、今日は矢部達哉。「スペイン奇想曲」でのソロも、すこぶる良かった。

 かくのごとく、演奏はよかった―――のだが、冒頭にはまたもバッハの「アリア」の演奏と、起立黙祷が行われた。都響は4月の演奏会で、毎回これを行なったことになる。
 前回(24日)にも書いたことだが、犠牲者への追悼の祈りを捧げることは、少しも吝かではない。しかし、物事には何でも切り上げ時というものがあるのではないか?
 むしろ私が都響の姿勢に疑問を感じるのは、今ごろまで判で捺したように同じことを繰り返すほど誠意を示したいなら、なぜ震災直後から4月14日までの定期まで、演奏会を一切やらずに、音楽家としての責任を放棄してしまっていたのか、ということなのである。

 下野は3月19日には、早くも読響とのチャリティー・コンサートを行っていたが、その彼が今日はメインのプログラムの終了後にスピーチをして、「指揮者としての自分は、被災地に行ってスコップを握ることが出来ぬとすれば、音楽家としての責任を果たすのみです。ここにいる都響のみなさんも、同じ気持だろうと思います」という意味合いのことを述べていた。
 彼自身はごくまっとうなことを喋ったに過ぎないが、震災後1ヶ月も「職場放棄」同然だった都響にとっては、これほど痛烈な皮肉はなかったのではないか。

 そのバッハの「アリア」は、今日はストコフスキー編曲版が使われたのが、せめてもの趣向か。またアンコールには、リムスキー=コルサコフの「雪娘」からの「道化師(軽業師)の踊り」が賑やかに演奏された。

 客席はほぼ満員。土曜日のマチネーは、受けがいいのだろう。
 私の隣にいた老夫婦の奥さんは、演奏最中に咳込んだと思ったら、バッグからポット(というより魔法ビン)を出し、蓋をはずし、おもむろに中味を注いで、ゆっくりと飲みはじめた。パチャパチャと注ぐ音がしても、曲はドンチャカドンチャカ鳴っている「アンタール」だから、実害はない。何とも可笑しい光景であった。
 しかもその奥さんは、小川典子がアンコールをやらずに引っ込むと、「1曲くらいやってくれたっていいじゃないの、ケチねえ」とダンナにささやいたのであった。

4・29(金)東京二期会 モーツァルト:「フィガロの結婚」2日目

   東京文化会館大ホール  2時

 そのデニス・ラッセル・デイヴィス、昨日よりは一部テンポが速くなったところもあるが、やはり基本的に遅いし、パウゼの取り方も長めだ。要するに、演奏全体に生き生きした躍動といったものが感じられないのである。
 劇的緊張を保持したまま次のシーンへ追い込んで行くべきだと思われる個所で――拍手を待つわけでもあるまいが――大きく間を取ってしまうことがあるのも、解せない。
 もっとも彼の指揮には、叙情的な個所では美しいものがある(昔とは逆だ)から、音楽が本来遅いテンポを持っている個所――たとえば第3幕での「伯爵夫人のアリア」などでは、その良さは、生きて来る。

 第2幕での、スザンナとケルビーノとのアレグロ・アッサイの二重唱(第14番)でのオーケストラは、スコアでは確かにピアニシモとなってはいるが、東京文化会館の空間の大きさを考えた場合、果たしてあの音量を遵守するべきかどうか、もう少し弾力的に考えられないものか。1階席後方にいた私のところからは、音楽を知っているから見当はつくものの、実際にはオーケストラ・パートの大半はほとんど聞こえなかった。モーツァルトは、音楽は「聴かせるために」書いたはずではなかったか。

 今日の歌手陣は別キャストで、昨日に比べ、さらに若手が多かったかもしれない。溌剌とした雰囲気は大いに買える。ただし、舞台での人物相互のかみ合いなど、いわゆる「味」といったものが、どうしても希薄になってしまうだろう。主役陣が若いなら、脇役はベテランで固める、といったような配役の妙味ももう少しあったら如何。

 スザンナの嘉目真木子は本当によくやった。舞台姿も映えるし、歌唱も安定しているので、今後が楽しみな存在である。
 ケルビーノ役の下園理恵も熱演。「恋の悩み知る君は」などでのたっぷりした長さの音にはもっと安定を。恋の情感の表現などは、これからか。
 フィガロの山下浩司は既に経験充分の人で、誠実な歌唱は安心して聴けるものの、ただ昨日の久保和範と同様、舞台姿にもう少し明るさと派手さがあるといいのだが・・・・。

 伯爵役の与那城敬は、注目していただけに、出来栄えにはちょっと問題ありか。私はこの人のスター性を高く買っているのだが、惜しいことに、こういう権力者の役を演じた場合、凄味といったものに欠けるのである。今回の、常に冷笑――皮肉な薄笑いを浮かべるだけの演技では、この複雑な役柄をこなすには苦しいだろう。
 第3幕のアリアはしっかりしているし、フィガロを威嚇する「Anch’esso?」の一言などなかなか迫力があったから、演技の方でのさらなる工夫を期待したい。

 伯爵夫人役の増田のり子は、昨夜の澤畑恵美がいかにも「かつての可愛いロジーナ」の雰囲気を残す茶目なイメージの演技だったのに対し、こちらは大人の、もう若くはない人妻の複雑な心理を表現するといった演技で、渋い重みを発揮していた。第3幕のレチタティーヴォとアリアも良かった。

 と、ここまでは、個人的な好み。このあとは、昨日の項に同じ。
       音楽の友6月号 演奏会評

4・28(木)東京二期会 モーツァルト:「フィガロの結婚」初日

   東京文化会館大ホール  6時30分

 宮本亜門の演出で、このプロダクションは2002年2月、2006年9月に続く3度目の上演。

 第1回の際の日記をひっくり返してみると、宮本亜門の引き締まった演出、人間関係の構図が明確に生き生きと描き出されている舞台に感心した――というメモがある。多田羅迪夫が演じたスキンヘッドのアルマヴィーヴァ伯爵が迫力満点だった、とも書いてあるが、そうだったっけ? 

 亜門先生モノとしては、「ドン・ジョヴァンニ」や「コジ・ファン・トゥッテ」に比べると随分マットウでおとなしい演出だ。が、演技の微細さという点では、日本人演出家の中でも群を抜いて徹底していると言っていいだろう。
 たとえば「もう飛ぶまいぞこの蝶々」での、ケルビーノを揶揄していると見せながら実は伯爵への当てこすりをやっているフィガロと、それに気づいて激怒しそうになる伯爵との駆け引きの細かい表情。
 そして、「恋の悩み知る君は」で、ケルビーノと伯爵夫人の間にメラメラと妖しい雰囲気が立ち昇って来る描写ときたら、照明(大島祐夫)効果もあって、呆気に取られるほど見事だ。

 何より今回は、主役たち――特に女性歌手たち――がみんな魅力的なのが好い。登場人物を魅力的に見せるのは、ひとえに演出家の力量なのである。

 歌手陣はダブルキャストで、前回・前々回に比べ、若手がかなり進出していて、ここでも二期会の歌手の層の厚さが証明されているだろう。
 今日はAキャスト。どこまでを若手と呼んでいいかは微妙なところだが、とにかくまず、スザンナの菊地美奈。冒頭こそやや硬かったが、ちょっと意志の強い性格の侍女を演じて、歌唱とともに後半にかけ調子を上げた。
 すこぶる映えたのはケルビーノの杣友惠子、音程にもう少し安定が欲しいが、舞台姿に華がある。

 この上なく魅力的だったのは伯爵夫人役の澤畑恵美で、まろやかな声もさることながら、演技の巧さ、特に顔の表情の演技、眼の動きの巧みさには、感嘆させられた。第2幕での伯爵との応酬場面など、見事というほかはない。

 これらに対し、男声歌手陣は、伯爵役の鹿又透、フィガロの久保和範ら、破綻はないものの、個性という点では女声3人に一歩を譲ったかもしれぬ。ドン・バルトロ役の池田直樹がベテランの味を出していて、よかった。

 今回の指揮は、老練デニス・ラッセル・デイヴィス。
 現代音楽に強いこの指揮者に、実は大変期待していたのだが、落胆させられること甚だしい。いまどき、あんなのんびりした「フィガロ」をつくる人もいるのかと驚いた。テンポがやたら遅く、パウゼも長く、劇的な盛り上がりと緊迫感にも不足する。第1幕などイライラさせられてしまったが、歌手たちも最初のうちはこのテンポを持ちきれなかったようで、スザンナが走り、フィガロも走り、伯爵も走り、オケと合わなくなって仕方なくスピードを落すといったところも少なからず聞かれたのである。
 こういうスタイルのモーツァルトは、今の私の好みには全く合わない。
 20分の休憩を1回挟んで、演奏終了は10時3分頃。テンポが遅いから、このくらいの長さになる。

 とまあ、――ここまでは私個人の嗜好による日記である。だが、これを批評としてまとめるとなると、もっと客観的に記述しなければならない。で、ここから先は、「音楽の友」の6月号の演奏会評に。

   音楽の友6月号 演奏会評

4・27(水)ロジャー・ノリントン指揮NHK交響楽団のベートーヴェン

   サントリーホール  7時

 弦10-8-6-6-6で演奏された「プロメテウスの創造物」序曲、交響曲第2番、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」というプログラム。当節の演奏会としてはユニークな配列で、しかも短い。

 がっちりと構築された造型の裡に、スコアから自由に発想して展開させたクレッシェンドやデクレッシェンド、強烈なスフォルツァンドやアクセントが大きな起伏をつくる演奏は、すべてノリントン・スタイルによるものだ。
 堀コンマス率いるN響がおとなしくついて行ったのは感心だが、もし上岡敏之なり誰なり日本人指揮者がこういう演奏をしようなどと言ったら、たちどころに叛旗を翻すのでは?

 それはともかく、演奏はいろいろな意味でスリリングで、面白い。
 ホルンがピリオド楽器のスタイルに近く、ひときわアクセント豊かに吹かれるのもお馴染みだろう。ただ、私の席(1階18列やや左)から、このホルンだけがホールの下手側の壁に乱反射(?)して、下手側の舞台一杯に音が拡がって響いて聞こえるのだけは、どうにも気になった。3曲とも同様である。

 最初の序曲の最後の思い切りのいい和音と同時に指揮者が客席を向いてしまい、「終わりでござい」とにこやかに両手を拡げて見せるのは、ロジェストヴェンスキーばりの大芝居。カーテンコールで聴衆に向かい軍隊式の敬礼をしてみせたことさえあるノリントンだから、このくらいのユーモアは珍しくもないが、N響楽員のあくまで真面目くさった顔(全員が、というわけではない)とは、何ともアンバランスな対照を為していた。

 「皇帝」のソロは、ベルリン生れの若いマルティン・ヘルムヒェン。あたかもフォルテピアノを思わせる、明晰で硬質な音色で弾く。ノリントンのスタイルに呼応した「皇帝」であったが、冒頭のカデンツァをはじめ、時々、いわゆるヴィルトゥオーゾ風な勢いで弾き飛ばす傾向、なきにしもあらず。
 8時40分頃には演奏が終る。

4・25(月)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

   サントリーホール  7時

 冒頭に大震災の犠牲者への追悼のための曲として、今日はメシアンの「忘れられし捧げもの」が演奏された。
 この日は読響が、赤坂プリンスホテルに疎開中の被災者たちを無料招待していたとのことで、その関係もあって特別に追加された企画なのだそうである。もちろん、起立しての黙祷などは、もはや行われず。

 本番のプロは、モーツァルトの「プラハ交響曲」で開始、ヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」、スメタナの「モルダウ」、最後に再びヤナーチェクの「シンフォニエッタ」で結ぶという「チェコ関連もの」。

 「プラハ」は、優麗ながらもやや平凡な演奏か。「モルダウ」は、ニュアンスはかなり細かいけれど、山中の水源から既に急流が迸るといったような一風変わった演奏で、何かおそろしく忙しいヴルタヴァ河になった。

 結局、今日の演奏のハイライトは、やはりヤナーチェクの二つの作品であろう。
 この作曲家特有の語法の一つ――弦楽器群の美しいざわめきと沸き立ちと、それを底流として全管弦楽を呼応させつつクライマックスに追い込んで行く手法などにおける、カンブルランの指揮の呼吸の、鮮やかでエキサイティングなこと!
 読響も、適度のメリハリと、バランスの良い響きでこれに応えた。なにより、演奏に燃え立つような気魄が感じられるのが好い。今までにナマのステージで聴いたこの2曲の演奏の中で、最も見事なものであったと言って過言ではなかろう。
 カンブルランと読響、好調だ。

4・24(日)ハンヌ・リントゥ指揮東京都交響楽団のシベリウス

   サントリーホール  2時

 8時半のANA52便で帰京。乗客が数十人しか乗っていないのに驚く。いくら日曜の朝とはいえ、気がかりな世相だ。
 腰はかなりの程度まで回復し、日常生活ではさほどの苦痛は感じなくなっているが、飛行機のエコノミークラスの椅子だけは、硬くてどうにもダメだ。ちょっと座っているだけで痛みに耐え切れなくなる。こんな調子では、外国取材旅行など、当分は諦めなくてはならぬ。

 都響への客演指揮は、今日はフィンランドの若手ハンヌ・リントゥ。
 現在タンペレ・フィルの芸術監督・首席指揮者で、2013年からはフィンランド放送響の首席指揮者就任が決まっているという。
 08年来日の際には聴いていなかったので、今回はシベリウスの作品中心のプログラムでもあり、楽しみにしていたところだ。
 同じフィンランド人でも、インキネンと違い、リントゥは予定通り来てくれた。フィンランド外務省や大使館による渡航自粛要請云々より、要するに本人個人の考え次第というわけだろう。

 プログラムは、シベリウスの「タピオラ」で開始され、コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」を挟んで、後半にシベリウスの「第5交響曲」があり、「フィンランディア」で結ばれる。ちょっと変わった構成である。

 そのリントゥ、長身を縦横無尽に翻して大暴れ。ノセダさながらに獅子奮迅の指揮ぶりで、音楽にも豪快な力感がある。
 1曲目のシベリウスの「タピオラ」は、荒々しい咆哮(というより怒号)も交えた激烈な演奏で、まさに怒れるスオミ(フィンランド)の魂の発露といった感。「第5交響曲」第1楽章幕切れでのひた押しに押す昂揚も目覚しい。
 このフォルティシモの和音の歯切れよさもリントゥの特徴らしく、「ヴァイオリン協奏曲」第1楽章の最後といい、「第5交響曲」第1楽章の最後といい、最強音で叩きつけるようにスパッと音を切る演奏は、なんとも鮮やかで、痛快無類というべきものであった。

 しかしその一方、非常に細かく神経の行き届いた音楽づくりをするのもリントゥの特質だ。
 たとえば「第5交響曲」第3楽章前半での細やかで緊迫度の高いトレモロ、その大詰めでの息の長い高揚と、断続する和音の間の緊張感など、出色の出来だった。
 「フィンランディア」での完璧な均衡を保った金管の咆哮も、綿密な強弱の変化(楽譜にはない)も、中間の有名な主題でぐっとテンポを落しながら神秘的なほどに歌わせた劇的な演出も、いずれもリントゥの力量の見事さを示すものだろう。

 都響も、曲を追うごとに復調して行ったようだ。
 最初の「タピオラ」では、いくら激しい荒々しさを求めた演奏だったとはいえ、オーケストラのあまりの音の粗さと汚さには失望させられたが、協奏曲以降は次第にバランスが整い始め、最後の「フィンランディア」では、震災前の都響の水準を――といってもオケが打撃を蒙ったわけではなく、1ヶ月間も無為無策に演奏会を中止していただけの話だけだったが――ほぼ全面的に取り戻した感がある。
 この曲でのような演奏の水準であれば、文句はない。この調子で行ってくれることを願いたいものだが・・・・。

 協奏曲のソロは、ゾフィア・ヤッフェに代わって豊嶋泰嗣が弾いた。
 ライバル・オケのコンマスがソリストとして登場するのも面白いが、もちろん彼もソロ活動では有名だし、この曲を弾く人として些かも遜色はない。黄金時代のハリウッドの映画音楽を思わせる管弦楽の音色に呼応する意味で、もう少し色気があってもいいのでは、と思わせるところもあったが。

 なお、この日も演奏前に指揮者のスピーチがあり、また照明を半明かりにしてバッハの「アリア」の演奏と、全員起立しての黙祷があった。先週の定期でも同じことをやったばかりだ。犠牲者へ祈りを捧げること自体は、吝かではない。しかし都響は今頃になって、これをいつまで同じパターンで続ける気か?

 そういえば、都響とは正反対に、定期をやる気があってもホールが使えずに苦しい状況に追い込まれていた仙台フィルの方は、仙台市内の私立学校(常盤木学園)の300人収容のホールを借りて、4~6月にもオーケストラ公演を開催することが決まったそうである。
 「オーケストラとしての演奏を私たちの仙台で継続できることは、何物にも代えがたい喜びです」と事務局は言う。それが、音楽家の心というものだろう。こちらの方は、事務局と楽員たちとの気持が、どうやらぴったり合っているようだ。

4・23(土)ラドミル・エリシュカ指揮札幌交響楽団 「スターバト・マーテル」

   札幌コンサートホールkitara  3時

 あのエリシュカが、気心知れた札響を指揮してドヴォルジャークの「スターバト・マーテル」を演奏する。
 日本中のオケから引っ張りダコのエリシュカだが、こういう大曲を日本のオケで指揮する機会は、今回が最初ではないかと思う。
 これはもう、聴きに行かずにはいられない。土砂降りの雨に閉口しつつ、とにかく朝8時半発のANA59便で札幌へ向かう。

 協演は、半田美和子(S)手嶋眞佐子(A)小原啓楼(T)青山貴(Bs)、札響合唱団、札幌アカデミー合唱団、札幌放送合唱団(オルガン奏者の名はプログラムにクレジットされていない)。今日は定期の2日目である。

 心より出でて心に入る、とは、このような演奏を指して言うのだろうか。深く沈思するような曲想に満たされたこの曲を、エリシュカはこの上なく誠実に滋味をあふれさせつつ指揮し、札響もこれに応えて真摯な演奏を行なった。
 合唱、声楽ソリストも同様で、すべての人たちが力まず、自然に、しかも感情豊かに演奏し歌っていたために、音楽には実に温かい情感が漲っていたのである。

 全曲1時間半、すべてアンダンテあるいはラルゴ、ラルゲットといった遅いテンポで悲しみを歌い続けていた音楽が、最後の第10曲の後半で初めてアレグロに変わって高潮する瞬間の素晴しさもこの曲の特徴の一つだが、そこでのエリシュカは、音楽の流れを適度に解放しつつ、しかも静かな祈りを以って曲を結んで行った。

 アンサンブルの点で言えば、この最後の部分だけ、レコーディングに喩えればちょっと「録り直し」(?)したくなるような感じもなくはなかったが、しかし総体的に立派な演奏であったことは、どこから見ても疑いはない。
 特に後半、第6曲の後半や第9曲で、陰翳豊かな音色と静かな力に富んだリズムで進んで行くあたりの札響、実に好かった。また、このあたりでの声楽ソリストたちが本当に美しく気品高く歌っていたのにも嬉しくなった。わざわざ札幌まで聴きに来た甲斐があったというものである。

 夜7時半から、打ち上げを兼ねてエリシュカの80歳を祝うパーティが、楽員と事務局の有志で行なわれると聞いたが、私は翌朝の帰京に備えて新千歳空港内のホテルに泊まるため、残念ながらお誘いを失礼した。エリシュカ、とにかく元気で、めでたい。

 (追記)タイトル・ページには載っていなかったオルガン奏者は、巻末の札響メンバー表の中に載っている米山浩子さんだそうです。札響定期会員の方から教えていただきました。

4・22(金)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

  サントリーホール  7時

 インキネンに代って急遽客演に登場したのが、話題の若手・山田和樹。
 昨年のサイトウ・キネン・フェスティバル以来、メジャー・オケで聴く機会がなかったので、今回の代演はむしろ幸いだったか。
 ただ、人気の割には、客席があまり埋まっていなかったのは意外。いわゆる応援団がもう少し来るかと思っていたのだが・・・・。

 サイトウ・キネン・オーケストラで「ベト7」を聴いた時にも感じたことだが、この山田和樹という人、いまどきの若手には珍しくロマンティックな傾向の音楽を持っている指揮者のようである。

 1曲目のマーラーの「花の章」での嫋々たる耽美的な味については、多分こうなるだろうと予想していたタイプの演奏だ。
 が、次のモーツァルトの「クラリネット協奏曲」で、極度に柔らかく弦を響かせ、優麗なカンタービレを効かせたのには、なるほどやっぱりこれが山田和樹のスタイルなのか、と感嘆したり、複雑な思いになったり。
 まるで1960年代頃によく聴いたような、あるいは今日なら長老指揮者あたりがやるようなスタイルだが、とにかくそれが彼の美学であるからには、こちらもそれに正面から向き合う必要がある。

 第2部でのマーラーの「第4交響曲」は、曲想からして豊麗になるのは当然だが、それでも当節の演奏としては、かなり濃厚な表現のタイプに属するだろう。
 こういうタイプの指揮は、特にマーラーなどロマン派後期の作品において、最近の指揮者があまり持っていない耽美的なもの、官能的なものを注入してみせるといったように、面白い味を発揮しそうである(彼の指揮する大編成の弦でシェーンベルクの「浄夜」など聴いてみたいものだ)。

 いずれにせよ、今日の演奏では、山田和樹の非常に念入りに仕上げる指揮が強く印象づけられた。「4番」の第3楽章でのたっぷりと歌いこんだ表情しかり。また「クラリネット協奏曲」の第2楽章冒頭、主題が最初にオーケストラで繰り返される個所で、フルート2本のロマン的なハーモニー(第14小節)をちょっと浮き出させ、陶酔を呼び起こして見せるセンスしかり。

 何よりも日本フィルの弦をこれだけふんわりと響かせたのは――ふだんあまりそういう音を出さないオーケストラだけに――オーケストラを把握する彼の力量が既に並々ならぬものであることを示しているだろう。これは、昨年のサイトウ・キネン・オーケストラを指揮したコンサートでも感嘆させられたことだ。ユニークな若手が出てきたものである。

 ただその一方、今日の「4番」のような複雑な曲では、まだオケとの呼吸が合っていなかったのか、特に前半2楽章では手探り状態で、もどかしいほど起伏に乏しい演奏だったという印象は拭えない。漸くオーケストラの演奏の勢いが全開したのは、第3楽章の緊張から解放されたあとの、第4楽章に入ってからではなかろうか。

 今回に限らず日本フィルの2日連続の定期では、概して初日は少々手探り、本調子は2日目になって、というケースが多い。これでは、初日を聴きに来ているお客さんに対して申し訳ないだろう。

 補足するが、今日のソリスト2人に関しては、疑問が多い。「クラリネット協奏曲」のソロは、ただ几帳面に吹くだけではだめで、もっと表情豊かに生命感と躍動感を持って音楽を歌い上げなければ、「コンチェルト」にならない。
 また「4番」のソプラノのソロは、オーケストラのテンポやリズムとのずれが夥しく、音楽がバラバラに聞こえるのには困った。愛想よく歌うだけでは、この曲のアイロニーを伝えるのには不足である。もっと研究を、と申し上げたい。

 ついでにもう一つ苦情を言えば、冒頭で事務局と楽員とが実情や決意についてスピーチをやったが、プレトークでもないのに13分間も喋るのは、チト長すぎた。新国立劇場の「ばらの騎士」のマチネーが6時15分に終ってから慌ててこちらに駆けつけた人は、赤坂の演奏が7時15分まで始まらないのなら、もう少し初台で拍手を続けていてもよかった、と思ったのでは?

4・21(木)ロジェ・ムラロ・ピアノ・リサイタル 「たった一人の幻想交響曲」

東京文化会館小ホール  7時

 センスの良いプログラム構成だ。
 前半にリストの「ウィリアム・テルの聖堂」「泉のほとりで」、次いでドビュッシーの「水に映る影」「ラモーを讃えて」「運動」の計5曲が切れ目なしに演奏され、後半にリスト編曲によるベルリオーズの「幻想交響曲」が演奏される。
 「リスト&ドビュッシー」「リスト=ベルリオーズ」という具合に、リストとフランス音楽とを巧みに結び合わせた選曲である。

 先日のラヴェルでも感じ入ったことだが、この人のピアノは、本当に清澄な音だ。
 古くはレコードで聴いたロベール・カサドジュやイーヴ・ナット、たった1度しかナマで聴けなかったサンソン・フランソワなどから今日の若手に至るまで、フランス系のピアニストがつくり出す透き通った美しい音には、私はふだんからたまらない魅力を感じているのだが、今夜のムラロも同様。

 リストの作品では、あのよくある大仰でおどろおどろしく厚ぼったい響きなどとは程遠く、曲の性格にふさわしく、官能的なほどの叙情性が鮮やかに再現されていた。
 ドビュッシーの前に、ドビュッシーを先取りしたようなリストを配する――というこのプログラム構成も、実際の演奏も、いずれもムラロの洒落た感覚をうかがわせて面白い。

 そして、「水に映る影」に移った瞬間の、鮮明でありながら蕩けるような感覚に引き込まれる不思議な陶酔感。たとえようもない快感である。
 ただこの第1部、そのあとは何か少し演奏に手応えのある集中力が薄れ、隙のようなものが感じられなくもなかったのは、どういうわけか? 

 後半の「幻想交響曲」は、この日の目玉プロだ。リストの編曲の腕は何とも巧妙極まる凄いものだと感心しながら、またこんな複雑な曲を弾くピアニストも凄いものだと呆気にとられながら、聴いていた。
 しかしこの曲、オリジナルの管弦楽曲版をよく知っていて、それと比較しながら聴く場合には実に興味津々で面白いが、原曲を(詳しく)知らない人には、どのくらい愉しめるのだろうか? 要するに純粋なピアノ作品としての自立性は果たしてどのくらいあるのだろうか、という疑い(心配?)のようなものが、折々チラリと脳裡をかすめてしまうのである。

 だがしかし、55分もかかる大曲(第1楽章の提示部をご丁寧にリピートしたのにも驚いた)、それも後半になるにしたがっていよいよ「大変な」ものになるこんな曲を、よくまあこんなに、面白く弾いて聴かせて下さった。ムラロもさぞやお疲れになったことだろう。アンコールはなかった。

4・19(火)新国立劇場 R・シュトラウス:「ばらの騎士」

  新国立劇場  6時

 崖っぷちから生まれた快演、というべきか。

 指揮者や主役歌手の一部交替という混乱を乗り切って、よくぞここまでやったものだと思う。これは、予想を遥かに上回る出来栄えであった。今夜は、5回公演のうちの4日目。
 4年前の6月6日にプレミエされたジョナサン・ミラー演出のプロダクションの再演だが、今回はこのオペラの「初演100年記念」という触れ込みが付いている。

 鳴り物入りで今回の上演への期待を盛り上げていたはずのアルミンクが、原発騒ぎで突然来日を中止(それでいながら欧州で別の仕事を入れたという噂だから、道義的に理解しかねるが)、新国立劇場が苦心惨憺して招いた代役は、同じオーストリアの指揮者マンフレッド・マイヤーホーファーという人。
 日本には未知の存在だったが、中堅として手堅い活動をしている指揮者のようだ。

 この人が思いがけず、好い。新日本フィルとの相性もすこぶる良かったようで、両者の呼吸も合って、期待以上の演奏を聴かせてくれた。
 第1幕の序奏部分はガサついた音だったけれど、第2幕最初のオクタヴィアン登場のあとの優美な個所では、あの夢幻的な「シュトラウス節」が存分に再現されていて、ハッとさせられた。
 そして第3幕大詰めの三重唱と二重唱の個所でのオーケストラの、何とも豊麗で柔らかい、甘美に流れ行く官能の美しさ! シュトラウスならではの、こういう叙情的な場面の音楽を雰囲気豊かに響かせた点においては、今夜の演奏は出色のものだったと言っていいだろう。

 元帥夫人は、当初予定されていたカミッラ・ニールントに代わって、アンナ=カタリーナ・ベーンケが歌った。ニールントは4年前のプレミエでも歌っていたから、今回の変更は、私にはむしろ幸いだった。
 前回の激しい気性を持つ表現による元帥夫人と異なり、ベーンケのそれは優しく落ち着いた気品があって、第3幕でオクタヴィアンを諦めるくだりの歌唱と演技にも、驚くほど細かいニュアンスがこめられていたのには感心した。その一方で、余計な詮索は無用とばかりオックス男爵を牽制する時の眼光など、あのニールントほどではないけれども、なかなかの凄味がある。
 正直言って、ベーンケがここまで見事な元帥夫人を歌い演じるとは予想していなかっただけに、今回は実に貴重な収穫であったと言える。

 オックス男爵には、予定通り来日してくれたフランツ・ハヴラタ。この人も千軍万馬の巧者だから、歌唱も芝居も、舞台を引き締めリードするに充分の力量を備えている。
 彼のオックスは、行儀は悪いが過剰に野卑でなく、ちっとも悪人ではなく、ちょっとコミカルで、愛すべき人物として表現されていた。だから、彼が第3幕で全員の指弾を浴びる場面など、単なる女好きのこの男、何もそこまでされなくても・・・・と気の毒になる。

 オクタヴィアンとゾフィーは、日本勢が代役を務めたが、この2人は本当に良くやったと思う。
 オクタヴィアンには井坂恵。時たま声がくぐもるような印象になるが、ベーンケを向うに回して一歩も譲らず健闘していたのは嬉しいことだ。
 ゾフィーの安井陽子も、期待通りの歌唱と演技。「平民の娘」としてのゾフィーの性格を上手く出していたし、声も良く伸びていた。

 ただ、惜しむらくはこの2役、メイクがあまりよろしくない。――といっても、プレミエの時のエレーナ・ツィトコーワとオフェリア・サラの時も同様だったのだが――何だかエライ老け顔メイクなのだ。
 特にオクタヴィアンは、髪の色に問題があるんじゃあないか? だから彼(彼女か?)は「女中」に「化けた」時の方が、ずっと愛らしく見える。
 いずれにせよ、井坂も安井も、代役で良いチャンスを掴んだと言えるだろう。これをステップにして、いっそう頑張っていただきたい。

 脇役では、小林由樹(ファーニナル)をはじめ、晴雅彦(公証人)、黒澤明子(マリアンネ)、加納悦子(アンニーナ)、高橋淳(ヴァルツァッキ)、長谷川顕(警部)ら、日本勢が実に好い演技で、手堅く歌っていた。
 プレミエ時に比べ、こうした脇役や助演者たち――テノール歌手(水口聡)の高音がうるさいと顔を顰めながら元帥夫人の髪をセットする理容師の原純の、いつに変わらぬ名演技を含めて――が今回は巧く、しっかり舞台を固めていたのも好かった。

 ジョナサン・ミラーの演出については、今回は省略するが、前回同様に私が非常に気に入ったのは、第1幕幕切れの場面だ。窓に雨が打ちつけ、煙草を手に窓外を見やる元帥夫人の孤独な姿と相まって、人生の流転を描くような雰囲気が創り出されていた。

 終演は10時15分頃。カーテンコールは10分近くに及んだ。成功だろう。

 なお、この上演のためのリハーサル(オケの下振り)は、沼尻竜典がスケジュールを調整しつつ受け持ったとのこと。彼もびわ湖でこの曲の快演を聴かせた人だから、いっそ彼が本番も振ったらいいのにと思わないでもなかったが、マイヤーホーファーが意外に良かったので、まあそれはそれ。沼尻には、未だ時間がたっぷりある。

4・18(月)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団定期

   サントリーホール  7時

 予定通り、約束通り、来日を果たしてくれた常任指揮者シルヴァン・カンブルラン。
 ちょうど1年前、火山の噴火で欧州の航空路線が大混乱した時にも、彼はパリからマドリードまで車で走り、南回りルートに乗ってテル・アヴィヴ(トランジット・ビザの不都合のため空港で14時間も過ごした由)と香港で乗り継ぎながら、2日以上もかけて日本へやって来てくれたのだった。そして今回も・・・・。
 これはもう、彼の誠実さのしからしむるところであろう。

 冒頭に追悼曲として彼が指揮したのは、メシアンの「聖体」という弦楽器のみの静謐な小品だった。さすがフランス人指揮者、という感。
 本番のプログラムは、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」抜粋に始まり、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」と「左手のためのピアノ協奏曲」、そして「ボレロ」という構成で、これも大変な重量級選曲である。

 「ロメオ」も「ボレロ」も、滑らかな響きを基本とした、どちらかというと流麗な仕上がりで、オーケストラにはもう少し色彩感が欲しいところではあったが、読売日響もかなり良く彼の指揮に応えていたと思う。
 特に「ボレロ」は最後まで均衡と緊張を失わず、テンポもクレッシェンドも、極めてまとまりの良い構築になっていて、愉しめた。
 協演を重ねれば、さらに精妙なニュアンスに富む演奏が可能になるだろう。昨年の横浜での「クープランの墓」でのように。

 今夜のもう一人の立役者は、言うまでもなく、ラヴェルの2曲のピアノ協奏曲を弾いたフランスの名手ロジェ・ムラロである。
 メシアンとラヴェルを弾けば今や第一人者――という紹介文はともかく、ラヴェルのピアノ協奏曲がこれほど鮮やかに輝いた演奏で聴いたことは、これまでになかった。
 音の光沢、粒立ち、洗練された感覚、生き生きとした躍動などをはじめ、あらゆる面で、否応なしに納得させられてしまう。「ト長調」第2楽章における明晰な叙情、「左手」での凄まじいエネルギー感など、驚くべき集中力がこのピアニストの演奏を貫いている(こうなると、21日のリサイタルでのピアノ版「幻想交響曲」がますます楽しみになる)。

4・17(日)ギドン・クレーメル・トリオ

  サントリーホール  7時

 当初は8日に予定されていたギドン・クレーメルの演奏会が、日程を変更して実施の運びになった。彼もまた、あれこれの問題を克服して訪日を決行してくれたらしい。
 来日が延びたのは、協演の女性ピアニストが故国グルジア政府による渡航自粛勧告および周囲の猛反対に遭って訪日を取り止めたため、代わりにワレリー・アファナシエフへ依頼して快諾を得たものの、彼のスケジュールの関係で当初の日程を変更せざるを得なかったからだとのこと。
 しかし、アファナシエフも、よく来てくれたものだ。

 で、要するに今回の出演者は、ヴァイオリンにクレーメル、ピアノにアファナシエフ、チェロにリトアニア出身の女性ギードゥレ・ディルバナウスカイテという顔ぶれである。
 プログラムは、前半にシュニトケの「ショスタコーヴィチ追悼の前奏曲」、バッハの「シャコンヌ」、ブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ第3番」。後半にヴィクトリア・ポリェーファの「ガルフ・ストリーム」とショスタコーヴィチの「ピアノ三重奏曲第2番ホ短調」。

 1曲目のシュニトケは、曲を聞いて思い出したが、1977年にクレーメルが初来日した際、初めてのリサイタル(6月10日)で弾いた曲だった。私がFM放送のために収録した時である。「前奏曲 ショスタコーヴィチの想い出に」と呼んだ方が正しいだろう。
 あの日は雨で、しかも音の悪い日比谷公会堂での演奏会だったから、音も湿気てしまって、何だかあまりよく解らなかったという記憶がある。今日、改めて聴いて、バックのスピーカーからエコーのように流れてナマ音とかぶるテープの音ともども、結構美しい曲だという印象を得ることができた。

 もう一つ、今夜の中でユニークな曲は、「ガルフ・ストリーム」という小品である。グノーの「アヴェ・マリア」がバッハの「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の第1曲の前奏曲に乗せた旋律だというのは周知の事実だが、こちらの曲では、あのフシを同じバッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」の第1楽章の分散和音に乗せるという面白いアイディアになっている。なるほど、してやられた、という印象だ。

 その他の名曲も含めて、クレーメルの超人的なほどに凝縮された集中力には、やはり圧倒される。アファナシエフの切り込むように鋭いピアノも、強靭な迫真力を噴出させている。
 この2人の猛者に挟まれて「三重奏曲」では初めのうち若干分の悪かったディルバナウスカイテだったが、しかし第2楽章以降では、丁々発止と応酬していた。

 結局、聴き応えのあったのは、やはりこのショスタコーヴィチと、それからバッハとブラームス、といったところだろう。

4・17(日)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団

  サントリーホール  2時半

 山形空港を9時半のJAL臨時便で発ち、フライト時間正味45分で羽田に着く。
 山形新幹線は12日から運転を再開しているが、いつまた停まるか判らない状況の中で、飛行機の方が確実と思った次第。他にバックアップのため、庄内空港からのANA便をも予約していたのだが、JALが山形空港から引続き臨時便を飛ばすことが判明した時点で、これはキャンセルした。

 一度帰宅してから、サントリーホールでのマチネー、日本フィル名曲コンサートを聴きに行く。

 当初これを振るはずだった首席客演指揮者ピエタリ・インキネンは来日不可能(何しろ彼の故国フィンランドは、その在日大使館がいちはやく広島まで逃げたくらい腰が引けているから、渡航回避勧告も厳しいらしい)となったが、急遽代役を依頼された広上淳一が、当初予定のプログラムを全く変更することなしに、素晴しい指揮を聴かせてくれた。

 広上のオーケストラ把握術もいよいよ冴えて来たようだ。今日の演奏は、あらゆる意味で、最近聴いた彼の指揮の中でも最も感心させられたものの一つである。
 小細工を弄したり、妙に凝ったテンポを採ったりすることなく、音楽を自然な流れの裡に感興豊かに盛り上げて行く広上の指揮は、聴き手にとっても快い。

 今日のプログラムは、前半にドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」(小菅優のソロが見事)、後半にドビュッシーの「海」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲――と、重量感たっぷりである。特に第2部はオーケストラにとっても大変だっただろう。
 しかし、今日の日本フィルは、先日の「お座敷」公演とは別のオケのよう。瑞々しく均衡のとれた表情で、見事な快演を展開した。1番フルートや1番オーボエも輝いた。

 アンコールの前に、広上は「自粛などと称して何もやらなければ、倒れた人を助けなければいけない人たちまでが倒れてしまう」と、音楽の力と意義をアピールした。そして「インキネンさんが予定していた曲をそのまま」とのことで、ドビュッシーの「ゴリウォーグのケークウォーク」を躍動的に演奏。これも、なかなか好かった。
 4時45分終演。

4.16(土)飯森範親指揮山形交響楽団

   山形テルサホール  7時

 10時15分発のJALで、伊丹から山形へ飛ぶ。
 飯森と山形響がブルックナーの「交響曲第6番」を演奏するというので――これまで彼らが「3番」「4番」「5番」を取上げた時にもすべて聴いて来ているので、その進境を見届けたいと思ったからである。

 弦の編成は、これまでと同様に10-8-6―6-4。
 管は、もともとブルックナーの交響曲の場合、「第6番」までは基本的に2管編成(但しこの曲の場合、金管はトランペット3、ホルン4、トロンボーン3にバステューバ1)だから、ほとんどトラを入れないでも済むわけだ。

 今日は金管が非常に力強く、特にトランペットは強靭に吹きまくっていたが、10型編成の弦がそれに些かも遜色なく響いていたのは立派であった。飯森も山響も、この編成でブルックナーを既に何曲も取上げているので、音のつくり方の呼吸を今や完全に会得しているのだろう。
 確かに16型で演奏されるブルックナーに比較すれば、ややスリムで筋肉質的で、鋭角的な響きではあるが、しかし音楽の量感という面では、充分たっぷりしたものを備えるにいたっている。最初の頃の「4番」などと比べると、もはや格段の差である。

 山響は、本当に上手くなった。飯森が常任指揮者に就任した直後から私はこのオーケストラを定期的に聴きに来ているが、以前にはいかにも「地方のオケ」という鄙びた雰囲気があったのに対し、今や「都市オーケストラ」の一つとしての余裕のようなものが、舞台全体に感じられる。
 これは言うまでもなく、飯森の音楽監督としての努力、事務局の奮闘、優秀な楽員の補強など、いろいろな力が結集した成果であろう。喜ばしいことだ。

 ブルックナーに先立つプログラムの第1部では、小川典子をソリストに、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第2番」が演奏された。ソロもオーケストラも、シャープで歯切れの良い、引き締まった明晰なアプローチである。極めてアクセントの強いメリハリのある演奏が、端整な構築の裡に闘争的なベートーヴェン像を描き出して、すこぶる聴き応えがあった。

 ロビーでは、募金活動。開演前には、ポッパーの「チェロによるレクイエム」という珍しい曲が演奏されていた。飯森もプレトークやアフタートークで、仙台フィル――6月まで定期演奏会の開催が不可能になり、苦境と闘っている――への支援を、繰り返し語っていた。

4・15(金) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団&小曽根真

   ザ・シンフォニーホール(大阪)  7時

 新幹線で、夕方大阪に入る。

 冒頭に大震災犠牲者を追悼して演奏された曲は、バッハの「アリア」でなく、何と賛美歌「主よみもとに近づかん」であった。

 大植のプレトークによれば、タイタニック号が99年前(1912年)の4月14日深夜に氷山と衝突、翌15日早暁に沈没した出来事に因み、その船上で専属楽団が最後に演奏したと伝えられるこの曲を、昨夜と今夜の演奏会において、大震災の犠牲者に捧げたかった、とのこと。
 意表を衝いた発想だが、このように他の人がやらないようなアイディアを打ち出す人は、私は好きである。

 映画「タイタニック」では、イ・サロニスティのメンバーが出演しており――「君たちと一緒に演奏できたことを誇りに思う」などとセリフを喋るので驚いたり感心したりしたが――リーダーが最後にこの賛美歌を独りで演奏し始めると、解散しかけていた他の楽員が戻って来て参加する、という感動的な場面になっていて・・・・。
 今夜も同じように、指揮者なしでまずコンサートマスターの長原幸太がソロで弾き始め、第2ヴァイオリンが「下の旋律」で加わり、次第に弦楽器奏者全員が参加して行くという形で演奏された。

 なにせ曲がリアルなので、少なからず気持もしめやかになるが、このところバッハのアリアばかり聞かされていた中、こういう「追悼曲」も悪くない、と改めて感じ入った次第である。

 定期公演としてのプログラムは、前半にバーンスタインの交響曲「不安の時代」。
 図らずも何か時宜を得た音楽になってしまったわけだが、大植としては、恩師バーンスタインの作品として、是非とも音楽監督の任期中に指揮したかったものであろう。
 ソリストに小曽根真を迎えたことも成功の一因で、彼の自発性に富んだピアノがどれほどこの曲を生き生きしたものに聴かせてくれたかは測り知れない。特に、あのパーカッション・セクションとの掛け合いによる長いカデンツァ風のソロなど、胸のすくような音楽であった。

 後半には、シベリウスの「交響曲第2番」。
 長めに採られたパウゼ、一段と激しい金管とティンパニの咆哮など、些か持って回った指揮ではあったが、終楽章後半の壮大な高揚は、なかなか見事だった。
 大阪フィルはかなり咆哮していたものの、先日の東京公演でも聴けたように、弦の瑞々しい音色という点でも、アンサンブルの均衡という点でも、明らかに昔のそれとは異なっていた。かつて大植が音楽監督を引き継いだ頃の粗かった響きも一掃され、彼がミネソタ管で創り出したあの精緻な音が、今や大阪フィルからも聞こえるようになっているのである。

 大植の任期は残り1年だそうだが、彼と大阪フィルとの共同作業がついに良き仕上げの段階にまで到達していることは、疑いのないところであろう。

    →モーストリー・クラシック7月号 演奏会評

4・14(木)モーシェ・アツモン指揮東京都交響楽団

   サントリーホール  7時

 かつて都響の首席指揮者だったこともあるアツモン。実に久しぶりの客演指揮。
 さすがに、昔聴いた時よりもずっと味のある指揮者になっていた。

 プログラムは、前半に竹澤恭子をソリストに迎えてのエルガーの「ヴァイオリン協奏曲」、後半にブラームスの「交響曲第2番」。
 竹澤恭子は、いつに変わらぬ鮮やかな安定ぶりで、骨太かつしなやかなソロが素晴らしい。第3楽章後半の、例のカデンツァの個所などでは、息を呑ませる演奏を聴かせてくれた。

 都響の方は、東京都の指令かオケ当局の意向かはともかく(少なくともあの時インバル自身は来る気があったそうだ)長期間オケとして何もやっていなかったせいか、以前の高い演奏水準はどこへやら、音色もアンサンブルも、演奏の覇気も錆びついてしまっていて、やれやれと落胆。
 しかし、交響曲の第2楽章あたりからは、少しずつ回復の兆し。後半2楽章では突然緻密さと均衡を取り戻し、滋味ある演奏の裡にブラームスを締め括った。

 その他に関しては「音楽の友」6月号の「演奏会評」にて(あそこに評を書く時には、ブログで事前に詳しく書くのは避けるという約束になっている)。

 演奏会の冒頭では、アツモンのスピーチと、舞台の照明を半明りにしてのバッハの「アリア」の演奏、そして黙祷。
 この「管弦楽組曲第3番」の「アリア」、いつ頃から誰が始めたのか、今ではすっかり「追悼の音楽」になってしまった。すでにこの1ヶ月来、何度聞いたことか。都響にしてみれば、これが初めて(今頃?)というわけなのだろうが。

 世の中には、定期をやりたくても出来ない状況に追い込まれている仙台フィルのようなオーケストラもあるのだ。恵まれた立場にいる都響には、自分たちの本来の責任というものを、もっとよく考えてもらいたいものである。

   音楽の友6月号 演奏会評

【追記】
 1954年12月4日、ハンブルクの聖霊教会で行われたフルトヴェングラーの葬儀では、オイゲン・ヨッフム指揮するベルリン・フィルが追悼としてこの「アリア」を演奏したという。また1955年1月14日と15日に行われたウィーン・フィルによるフルトヴェングラー追悼演奏会でも、冒頭にカール・シューリヒトの指揮でこの曲が奏されたという(「大指揮者カール・シューリヒト 生涯と芸術」アルファベータ刊)。ただしこれらがその慣わしの最初だったかどうかは、記されていない。

4・13(水)プラシド・ドミンゴ・コンサート・イン・ジャパン2011

   サントリーホール  7時

 ドミンゴもまた、こんな状況の中でよく来てくれた――と感謝されてしかるべき人だ。
 プログラム(冊子)には、「音楽を届けることで少しでも力になることができればと、日本に参ることにいたしました」というドミンゴのメッセージと、「ドミンゴ氏本人も義援金を寄付することを表明いたしました」と書かれた一葉が挟み込まれていた。このリサイタルは大震災の前から決まっていたものだから、「参ることにした」というのは、「予定通り訪日することにした」という意味であろう。

 協演は、ユージン・コーン指揮の日本フィル、それにアルゼンチン生れのソプラノ、ヴァージニア・トーラ。

 演奏曲目は大盛り。
 ドミンゴはソロで「トロヴァトーレ」「オテロ」「微笑みの国」「マリッツァ伯爵令嬢」「港の酒場女」からのアリアと「ウィーン、わが夢の街」を歌い、
 トーラは「エルナーニ」「オテロ」「メリー・ウィドウ」「ジュディッタ」「ラバビエスの理髪師」からのアリアを歌い、
 かつ2人で「シモン・ボッカネグラ」「リゴレット」「メリー・ウィドウ」からの二重唱を歌った。

 またオーケストラ単独の曲目としては、「シチリア島の夕べの祈り」序曲、「オテロ」のバレエ音楽(後半)、「詩人と農夫」序曲(途中から)が演奏された。

 メイン・プログラムが終了した時には既に9時15分になっていたが、更にアンコールとして、2人がデュオで「友人フリッツ」「あなたが私を好きになる日」「ふるさと」を歌ったほか、ドミンゴが「ベサメ・ムーチョ」を、トーラが「君と遠くに」を歌った。
 私はここまで聴いて失礼したが、あとから聞くと、そのあとにもう一つ「グラナダ」が歌われたとのこと。終演はおそらく10時頃になったであろう。

 ドミンゴは、今年70歳だ。とにもかくにも、あれだけ朗々と安定して歌えるというのは、もう驚異的というほかはない。声を巧くコントロールしているのは確かだが、しかしやはり昔ながらのドミンゴなのである。
 声は少し太くなり、今日はバリトンのレパートリーも多かった。「トロヴァトーレ」から歌われたのは、マンリーコのアリアでなく、ルーナ伯爵のアリアだったし、「リゴレット」から歌われたのも、マントヴァ公爵とジルダの二重唱ではなく、リゴレットとジルダの二重唱であった。

 しかし、「オテロ」では、最後の「オテロの死」の場面が歌われた――ここでの声は、まさにテノールの、何十年もわれわれが馴染んでいた、あの英雄的なドミンゴそのものだったのである。
 たとえ一部分でもドミンゴのオテロを日本で聴けるのは、もしかしたらこれが最後になるのかもしれないのだ――と思うと、何か胸にこみ上げるものを抑え切れない。ドミンゴの圧倒的な舞台には、これまでいくつ接したか数え切れないほどだが、今日ほど彼が素晴らしく思えたことはなく、これからも、いつまでも健在で歌い続けて下さい――と願ってやまない気持に駆られたのであった。
 今回は調子も良かったようで、つい先日ビューイングで観たばかりの「タウリスのイフィゲニア」でのオレスト役などとは、もちろん比較にならない(あの時は風邪気味だったそうだが)。

 協演したヴァージア・トーラも、声も容姿も、なかなか好い。まだ若い人で、輝かしく美しい声と、舞台映えする存在感を備えている。細かいテクニックやニュアンスはこれからだろうが、楽しみなソプラノだ。
 当初予定されていたアナ・マリア・マルティネスの代役として来日したという。しかしこのトーラも、これまでにも世界各地でドミンゴとのコンサート協演を重ねているのだそうである。

 指揮者とオーケストラに関しては、もう少し何とかならんのか、としか言いようがない。リズムは重いし、反応は鈍いし、アンサンブルは乱れる、終了和音の最後が合わない、など、歌い手の足を引っ張ること夥しい。オケのほうはいかに普段オペラを演奏したことがないとはいえ、あれではあまりにお粗末過ぎる。辛うじて良かったのは、「オテロ」のデズデーモナの「アヴェ・マリア」における柔らかい響きくらいのものか。

4・12(火)METライブビューイング
ドニゼッティ 「ランメルモールのルチア」

   東劇(銀座)

 案内役はルネ・フレミング。いつもながら手慣れたものである。
 第3幕の前に彼女は「日本でこれをご覧になっている皆様、心からのお見舞を申し上げます。METはみんなで応援をしています」というメッセージを入れていた。
 これを言うからには、METは6月の東京公演を予定通りやってくれるということだろう。3月19日の収録映像だが、折も折とて、何か気持が温かくなる。

 今回の「ルチア」は、メアリー・ジマーマンの演出によるもので、これは2年前の3月5日にライブビューイングで上映されたのと同じプロダクションだ。
 あの時はルチアをアンナ・ネトレプコが歌い、案内役をナタリー・デセイが担当していたが、今回はそのデセイがタイトルロールを歌っている。

 さすがにデセイ、そこはかとない寂しい表情、ひ弱な女性としての性格表現など、演技の巧味という点でも、実に見事なものだ。
 そのような性格に合わせ、第1幕と第2幕では歌唱も少し抑制気味にし、第3幕の「狂乱の場」では表現力を全開にして凄みを出す。パワーで押すのではなく、じっくりと悲劇性を表わして行くというのがデセイの最近のスタイルだが、いたずらに声を誇示する歌手よりも遥かに説得力に富むルチアであることは疑いない。

 恋人エドガルド役はジョセフ・カレーヤで、もちろん悪くはない。
 が、それよりも、リュドヴィク・テジエがエンリーコ役で登場したのを観られたのは、大いなる喜びだった。歌もいいが、映画「リチャード3世」におけるローレンス・オリヴィエにそっくりの厳ついメイクで、堂々たる悪役ぶりを披露していた。デセイとの二重唱の場面など、息詰まるばかりの迫力である。
 ユン・クヮンチュルがライモンドを歌ったが、彼がワーグナーでなくイタリアものを歌うのを聴いたのは、実はこれが初めて。渋いところを見せていた。

 指揮はパトリック・サマーズ。この人も、渋い音楽づくりだ。渋いけれども、その一方、第3幕第1場のエンリーコとエドガルドの対決場面は、えらくテンポが速く粗い指揮である。せっかく此処をノーカットでやってくれているのに、もったいない。――この場面、古今の批評家先生たちの間では、冗長だ、蛇足だ、とか評判が悪いが、私は大好きなのである。

 このジマーマンの演出では、亡霊が盛んに登場する。
 ルチアの最初のアリアの時にも、実際に女の亡霊が現われ、古井戸(?)ならぬ泉の中へ姿を消す。ジマーマンはこの亡霊を「呪いの象徴」と言っていた。
 大詰め、エドガルドが自殺する場面でルチアが亡霊となって出て来るのも前回同様だが、あの時はルチアがエドガルドの前で微笑を浮かべつつ手招きしてみせるのが何か滑稽に感じられ、白けたものだ。
 今回のデセイはそのような不自然な演技はせず、恋人の周囲を廻り、最後には彼が短剣を胸に突き刺すように仕向ける。この間、デセイのやつれた面影のメイクと表情、いかにも幽霊といった雰囲気が全身にあふれて、すこぶる不気味である。やはり彼女は巧い。

4・10(日)東京・春・音楽祭 チャリティー・コンサート
ズービン・メータ指揮NHK交響楽団の「第9」

  東京文化会館大ホール  4時

 こんな状況の中、よく来てくれたマエストロ・メータ!――という聴衆の気持が沸騰したような会場の雰囲気。
 当初は予定も無かったのに、わざわざ1回のチャリティー・コンサートを指揮しに飛んで来てくれたとあれば、なおさらである。

 メータが登場した時から、すでに上階席からはいくつかのブラヴォーが飛んだ。最後のソロ・カーテンコールも、2回繰り返されたのはめずらしいことではないけれど、雰囲気そのものが普通の演奏会とは全く違っていた。
 彼が日本でこれほど熱狂的に迎えられたことも、おそらく初めてだろう。

 来日を取り止める外国人演奏家の多さに対し、先方の心理を考えれば仕方がない――と理屈では解っていても、なぜもっと外国が冷静に日本の状況を判断してくれないのか、という口惜しさは、だれもが内心で抱いているだろう。今日の客席の反応は、その本音が別の形をとって噴き出た一例と言えるかもしれない。

 コンサートでは、メータの提案で全員が黙祷したあと、犠牲者追悼のためにバッハの「アリア」(管弦楽組曲第3番より)が演奏され、次いでベートーヴェンの「第9交響曲」が演奏された。

 この「第9」は、「アリア」のあとの拍手が無いままに、しかもメータが指揮台に留まったまま、沈痛な雰囲気に包まれた中で演奏が開始されたので、音楽にも通常とは違ったイメージが生れたのは確かである。
 いつもなら、冒頭から一種の祝典的な雰囲気が感じられるところだろう。が、今日はこの第1楽章は、異様にデモーニッシュなものに聞こえたのであった。

 ・・・・しかし、「ニ短調」のこの楽章は、本来はこうした性格のものであろうと思う。
 私はかつて――「第9」のことなど全く知らなかった子供の頃だが――この第1楽章を初めてラジオで聴いた時、言い知れぬ恐怖感を抱いたのを記憶している。まっさらな感性にとっては、第1主題や展開部の音楽は、恐ろしいほど悪魔的である。スケルツォだって、そうだ。

 その魔性が、フィナーレにいたって卓越したポジティヴなエネルギーに変換されるところに「第9」の凄さがあるのは事実だが、・・・・そもそも「歓喜への頌歌」だけに重点を置いてこの「第9」を聴くのは如何にもイージーではないか、ということを、はからずも今日は問い直されたような気がする。

 といってもメータの指揮は、殊更に悲劇的な要素を押し出したものではない。だが、すこぶる集中力に富んだ堅固なもので、第4楽章での推進力は強靭なものがあった(ティンパニのパートが面白い)。
 東京オペラシンガーズの合唱は非常に強力で、NHK交響楽団もこれに煽られたか、第4楽章では演奏にもいっそう気合が入ったようだ。

 声楽ソロは並河寿美、藤村実穂子、福井敬、アッティラ・ユン。
 バスは少々大味だったが、ほかの3人は素晴らしい。特に藤村が出演してくれたのは、嬉しい驚きだった。アルトのパートが今回ほど明晰に、しかも揺るぎない安定感を以って聞こえたのは、初めてである。しかも彼女が、合唱が歌っているさなか、まるで一緒に歌っているように口を動かしていたのも印象に残った。
 

4・9(土)東京・春・音楽祭 室内楽マラソン・コンサート  ~音の絆~第3部

   東京文化会館大ホール  4時15分

 こちらはチャリティー・コンサートとして急遽開催が決まったもの。正午から5時半頃まで、30分ほどの休憩2回を含めた3部構成がとられ、邦人演奏家40数名が出演していた。
 ちょっとしたガラ・コンサートという趣きもある。アンサンブルも、速成ながらちゃんとしている。チケット代5000円のチャリティーとしては悪くない。
 ただ残念ながら、客の入りは、小ホールだったなら超満員――という程度か。

 第3部では、林美智子(S)と野平一郎(pf)が武満徹の歌曲3曲、田崎悦子(pf)がバッハの「平均律」第1巻第8番の「プレリュード」とガーシュウィンの「3つのプレリュード」、広田智之(ob)と野平一郎がR・シュトラウスの歌曲4曲を演奏し、最後に加藤知子、川田知子、漆原啓子、井上静香、川本嘉子、大島亮、工藤すみれ、山崎伸子がメンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」を弾いた。

 いずれも錚々たる顔ぶれである。
 「八重奏曲」は比較的優しく柔らかい表情の演奏に聞こえ、もう少しアタックの強い情熱的な要素が欲しいとも感じられたが、もし小さなホールで聴けばまた違った印象を得たかもしれぬ。
 音楽的に圧倒的な存在感だったのは、野平一郎だ。伴奏的立場にいながら、実際は○○のオブリガート付きのピアノ曲――といった感のある演奏。さすがである。

4・7(木)東京・春・音楽祭  河村尚子ピアノ・リサイタル

  東京文化会館小ホール  7時

 これはチャリティコンサートではなく、音楽祭の公演として当初から組まれていたもの。さすが人気ピアニスト、チケットは完売されてぎっしりと満席。

 プログラムは、前半に、ブゾーニが編曲したバッハのコラール前奏曲「主イエス・キリスト、われ汝を呼ぶ」BWV639と、有名な「シャコンヌ」。そしてR・シュトラウスの「5つの小品」作品3というめずらしい曲。
 後半はリストの作品集で、彼の編曲になる「イゾルデの愛の死」(ワーグナー)、「糸を紡ぐグレートヒェン」と「水車小屋と小川」(シューベルト)、「献呈」(シューマン)。そして自作の「愛の夢」第3番と、「ダンテを読んで」。

 プログラムの組み方が巧いことは事実だが、その流れの中で彼女がつくり出す演奏の起伏も絶妙だ。
 第1部は、落ち着いた情感豊かなコラールで始まり、厳しい「シャコンヌ」に変り、ロマン派の軽やかな小品集で結ばれる。そして第2部は、激しい「愛の死」から、叙情的な小品集を経て、再び激烈な地獄篇の音楽で終る。アンコールはまたバッハに戻って「羊は安らかに草を食み」で静かに結ばれる――という趣向。

 こうした曲想の変化を、彼女は実に多彩に描き出してくれた。プログラムに密度の濃さを感じさせ、しかも長さを感じさせない、という印象は、そこからも生れるのだろう。
 特に編曲ものの――「愛の死」はわざとらしい編曲でもともと好きになれないが――シューベルトとシューマンにおける流れるような詩的な美しさは、陶酔的でさえあった。

 最後の「ダンテを読んで」は没入の演奏で、リストへの彼女のアプローチに多大の興味を抱かせる。確か昨年あたりまでは、リストのソロ曲は、彼女のメイン・レパートリーには入っていなかったのでは? 急速に進む彼女のレパートリー開拓が楽しみだ。

4・3(日)東京・春・音楽祭 マラソン・コンサート第5部
「新ウィーン楽派、誕生~音楽の新しい可能性を求めて」

   東京文化会館小ホール  7時

 前半にクァルテット・アルモニコがウェーベルンの「弦楽四重奏のための緩徐楽章」と、ベルクの「叙情組曲」からの2つの楽章を演奏。
 次に、ピアノの青柳晋がツェムリンスキーの「リヒャルト・デーメルの詩による幻想曲集」を弾き、最後に松原勝也(ヴァイオリン)と河野文昭(チェロ)が参加してシェーンベルクの「浄められた夜」のピアノ三重奏版(シュトイアーマン編曲)を演奏した。

 3人の作曲家の、それぞれ初期のロマン的な色合いを持つ作品を集めている。マラソン・コンサートという音楽会の性格を考慮したものとも思えるが、しかしそれはそれで面白い。

 「浄められた夜」という曲は、このようなピアノ三重奏編曲で聴くと、なぜか不思議に「室内楽っぽい」(?)即物的な雰囲気が濃くなる。――作曲者による弦楽六重奏版あるいは弦楽合奏版の、あのむせ返るような官能的な性格が薄れてしまうので張り合いが無いが、しかし滅多に聞けないヴァージョンなので、聴きに来た甲斐はあった。

 この日のマラソン・コンサートは、これにて了。
 いずれも客席は満員とは行かなかったが、それでも熱心なお客さんが集まっていたように感じられる。

4・3(日)東京・春・音楽祭 マラソン・コンサート第4部
「マーラーの周りにいた作曲家たち」

   東京文化会館小ホール  5時

 ヴォルフ、R・シュトラウス、シェーンベルク、ツェムリンスキー、コルンゴルトといった作曲家たちの歌曲が歌われる。ソプラノは天羽明惠、ピアノが山田武彦。
 アンコール曲として、このシリーズのタイトルになっているジーツィンスキーの「ウィーン、わが夢の街」が歌われたが、ここでの山田のピアノには実に多彩な音楽があった。

4・3(日)東京・春・音楽祭 マラソン・コンサート第3部「マーラー」

   東京文化会館小ホール  3時

 来日演奏家総崩れの様相を呈している当今、日本の演奏家たちには大いに気を吐いていただきたいが、こちらが実際にその演奏を聴きに行かなければ、応援も口だけに終ってしまう。それもあって、「東京春祭マラソン・コンサート」(午前11時~夜8時)なるものを、せめて一部分なりともと思い、聴きに行く。

 このマラソン・コンサートは「ウィーン、わが夢の街」という総合タイトルで構成された各1時間のプログラムだ。

 第3部は「音楽家グスタフ・マーラー~私の時代が来るだろう」と題されていて、演奏された作品は「ピアノ四重奏曲(断片)」(クァルテット・アルモニコのメンバーおよびピアノの青柳晋)、ワルター編曲による4手ピアノ版「巨人」の第1楽章(青柳晋、伊藤恵)、「亡き子をしのぶ歌」(河野克典、伊藤恵)の3つ。

 このうち「ピアノ四重奏曲」は学生時代の作品で、ブラームスを思わせる旋律も出て来るロマンティックな曲想だが、ナマで聴くと、音の空間的な拡がりも影響してか、いっそう悲劇的な性格が強く感じられるようになる。
 ピアノ版「巨人」は、原曲を少し端折ったようなところもあり、4手にしては響きが薄く、あまり良い編曲とも思えないが・・・・。この版を基にして岡城千歳がピアノ・ソロに編曲したもの(CD)の方がよほど多彩な表現力を持っているのではないか、などと考えながら聴いていた。

4・2(土)東京・春・音楽祭 大震災被災者支援チャリティー・コンサート

   東京文化会館大ホール  6時

 坐骨神経痛はだいぶ良くなって来たとはいえ、まだ痛みは残るので、急いで歩くのは無理だ。多分間に合わないだろうと思いながら一所懸命歩いて行ったら、それでもぎりぎり開演時刻に滑り込めた(もう少しどちらかのコンサートの開演時間をずらしてくれていたなら、余裕を持って2つを聴くことが出来たはずなのだが・・・・)。

 チャリティだからチケットを買おうと思い窓口に並んだが、これが結構な行列で、私は最後尾。間に合わないと見てとった音楽祭のスタッフが中へ呼び入れてくれたので、手に持っていたチケット用の代金の方は、受付にあった募金箱に抛り込む。
 実際には、演奏開始までには、まだ少し時間はあったのである。

 今日のチャリティー・コンサートは、代替プロとして組まれたもの。当初予定の「大地の歌」を演奏するはずだった読売日本交響楽団がそのまま出演、指揮は急遽、尾高忠明が受け持った。

 プログラム前半におかれたのは、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」で、大震災の犠牲者追悼のための演奏として、照明は半明りにされ、拍手も控えられた。
 後半はマーラーの「交響曲第5番」。カーテンコールのあとに尾高がスピーチ、「僕たちの想いが天国に旅立った人たちの許に届くように、今日は特にもう1曲」として、エルガーの「エニグマ変奏曲」からの「ニムロッド」を指揮した。

 音楽的な面では、このエルガーと、1曲目のバーバーが、いかにも尾高らしく、しっとりとして気品のある演奏だったと思う。
 マーラーも読響らしくパワーがあって、悪くは無かったものの、ホルンとトランペットの1番の粗さが足を引っ張る。ホルン・セクションも、今日は何故かあまり映えないのが惜しい。最も美しかったのは、やはりこれも叙情的な第4楽章の「アダージェット」。

 全体としては、良いチャリティー・コンサートであった。

4・2(土)東京・春・音楽祭 シューベルトのピアノ三重奏

    旧東京音楽学校奏楽堂  4時

 動物園が昨日から再開したこともあってか、上野公園も活気を取り戻したようだ。美術館や博物館の前にも人が多くなった。
 都知事の一喝(?)で花見の饗宴は「自粛」されており、青いゴザを敷いて輪を作っているグループはいくつか見受けられるものの、酩酊して騒ぐ連中は――今日の午後に限っては――さほど見当たらない。少し落ち着いた雰囲気が感じられて、音楽を聴きに行くために公園内を横切る者にとっては、むしろ有難い。

 「東京・春・音楽祭」も、開幕がかなり遅れたけれど、とにかく始まっている。目玉の「ローエングリン」はじめ、来日演奏家を主力とする公演は軒並み中止になってしまったが、日本人演奏家たちが頑張って公演を続け、気を吐いているのは結構なことである。

 午後に行われたこのコンサートには、川田知子(ヴァイオリン)、奥泉貴圭(チェロ)、加藤洋行(ピアノ)が出演。「シューベルト ピアノ三重奏~夭折の作曲家、晩年の傑作」と題し、「ピアノ三重奏曲」の第1番と第2番が演奏された。
 特に「第2番」は加藤のピアノを核にして凄まじいほど気魄のこもった演奏となり、第2楽章や第4楽章ではその推進力に息を呑まされるほどであった。満席の聴衆が沸いたのも当然であろう。

 このホールは、小さいけれども、古式ゆかしい雰囲気がある。休憩時間に私のすぐ傍で威風堂々たるオバチャンが足を踏み鳴らしつつ体のバランスをとりながら狭い席に入って行くと、椅子や床がぐらぐらと震動した。なるほど、古い木造のホールはかくあるものか、と感動していたのだが、ふと見ると、周囲の客が何かキョロキョロしており、天井から下がっている吊り照明も少し左右に揺れていたのであった。どうやら床の震動は、オバチャンの所為だけではなかったらしい。

 「第2番」の素晴らしい演奏のあと、2回のカーテンコールに熱烈な拍手を贈って、とりあえず先に失礼する。時間は5時50分。数百メートル離れた東京文化会館に向かう。

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