2017-10

3・27(日)高橋多佳子リサイタル~ショパン

   浜離宮朝日ホール  3時

 演奏会活動もCD録音も活発な高橋多佳子。このところナマのリサイタルを聴く機会が無かったが、「ショパンの旅路」と題されたCD集はすでに馴染みのものである。
 今回のリサイタルは「デビュー20周年&ショパン生誕200年記念シリーズⅢ ショパンwithフレンズ~奇跡の年~第3回 ポーランドを愛したショパン」という長い副題の付いた演奏会で、ショパンのポロネーズとマズルカを組み合わせたプログラム。

 ポロネーズからは「作品71の2(遺作)」と「作品44」「英雄」「幻想ポロネーズ」。マズルカからは、「作品17の4曲」「作品30の4曲」「作品59の3曲」が選ばれていた。

 「こういう時期、リサイタルをやるべきかどうか迷いましたが、自分に出来ることはやはりピアノを弾くことです」という主旨のスピーチ、次いで今回の選曲に関する話があってから始められた演奏。
 第1部では何か一つ淡彩な表情に留まっていたように感じられたが、第2部に入ると俄然、音色にも輝きが増し、瑞々しい演奏が躍動し始めた。「英雄ポロネーズ」「作品59のマズルカ」「幻想ポロネーズ」は、そうした中で演奏された曲である。アンコールには「ノクターン 作品9の2」。

 ロビーでは、ここでも募金の呼びかけ。コンサートごとに毎回寸志を献じているわけにも行かないので今日は失礼してしまったが、これからも献金の機会はますます多くなるだろう。クラシック音楽界においても、国内では募金活動やチャリティ・コンサートが盛んに行なわれているのである――TVや新聞ではあまり紹介されないけれど。

3・26(土)小林研一郎指揮東京交響楽団定期

   サントリーホール  6時

 「ミューザ川崎シンフォニーホール」が地震による天井崩落のため、向う半年以上にわたり使用できなくなったことは、同ホールを本拠地とする東京交響楽団にとっては大変な打撃であろう。

 自主運営のオーケストラは、演奏会をやらなければ収入の道が途絶えてしまう。何とか代替のホールを見つけて、頑張って切り抜けて欲しいものだ。
 せっかく決まった秋のミューザ川崎でのロリン・マゼール客演指揮演奏会という大物企画も、公式発表は未だ見送られたままになっている。団側では、何としても計画通り実現したいと方策を練っているようだが、――それまでにホールが修復できればいいのだが。
 ともあれここは、苦境に陥っている東京響を激励したいところだ(マゼール・ファンとしても、である)。

 その東京響が、サントリーホール3月定期を、予定通りに実施した。
 ただし、音楽監督ユベール・スダーンは来日できていない。そのため、彼の指揮で演奏されるはずだったリストの「オルフェウス」、フランクの「交響変奏曲」、ベルリオーズの「テ・デウム」という、国内オケとしては千載一遇、優曇華の花(!)ともいうべきプログラムが流れてしまったのは、まさに痛恨の極みである。

 代わりに小林研一郎が指揮を執り、プログラムも変更して、モーツァルトの「レクイエム」(「ラクリモーザ(涙の日)まで)と、ベートーヴェンの「英雄交響曲」を演奏した。
 「テ・デウム」を歌うはずだった合唱(東響コーラス)と福井敬(T)もそのまま「レクイエム」に参加、他に森麻季(S)竹本節子(Ms)三原剛(Br)が同曲のソリストとして出演した。

 そういえば、小林研一郎氏は、たしか福島県いわき市の小名浜の出身ではなかったか? 委細は承知していないが、この場を借りてお見舞申し上げる。
 ほかにも演奏者の中には、ご親族が被災されたという方も居られるかもしれない。ご心痛のことと思う。

 「レクイエム」でP席をぎっしり埋めたコーラスは、260人前後か。いかにも大編成に過ぎたが、ずっと「テ・デウム」を練習して来たメンバーを一部削るわけにも行かぬという事情もあったのかもしれない。しかしコーラスは、全員が暗譜での見事な歌唱。いつ練習したのだろう? 
 「涙の日」の最後を漸弱で終らせつつも、コーラスの男声部をオーケストラのあとに僅かに残し、余韻を響かせて結んだところなどは小林の指示か、極めて美しい。犠牲者を悼むために「涙の日」はもう一度繰り返されたが、そこでも同じ手法の見事さが目立った。

 「英雄」は、同じく16型で、フルートとオーボエ各3本(クラリネットとファゴットはスコア指定通り各2本)、ホルン4(+アシスタント)という大編成。遅めのテンポ、旧版(ブライトコップ版のような)の使用なども含め、久しぶりに聴く重量級の「英雄」である。こういう壮烈なベートーヴェンも、奇数番の交響曲においては的を得ているだろう。とはいっても、あの粘った表情の演奏は、私にはもう共感できないのだが。
 

3・26(土)沼尻竜典指揮群馬交響楽団 東京公演

   すみだトリフォニーホール  3時

 「地方都市オーケストラ・フェスティバル」は中止されたが、「特別参加」だった群馬交響楽団は、これを単独の東京公演に切り替え、「震災復興支援」として、同じホールで同じ時間に演奏会を開催した。
 指揮は、当初予定されていたカール=ハインツ・シュテフェンスが来られなくなったため、首席指揮者&芸術アドヴァイザーの沼尻竜典が急遽受け持つことになった。

 最近注目されているシュテフェンスを聴けないのは残念ではあるが、しかし沼尻が指揮してくれたことは、これはこれで僥倖であった。昨年から群響のポストに就いている彼が、東京でこのオケとの協演を聴かせるのは、多分これが初めてではないかと思われるからである。

 プログラムは当初の予定と変らず、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、小菅優をソリストに迎えてのベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」、それにブラームスの「交響曲第2番」。

 一聴して強く印象づけられたのは、特にブラームスの交響曲において、この群響が既に沼尻のカラーを明確に反映していることであった。
 それはかつての音楽監督・高関健の時代に群響が聴かせていたような、がっしりと堅固に構築されたシリアスな音楽とは違って、もう少しのびやかで初々しい表情を感じさせる演奏である。沼尻らしく端整で精密な音楽づくりではあるものの、そこにはある種の爽やかさがあり、弦の音色などにはすっきりした透明な感覚も漂っていて、ブラームスの音楽の中にある若々しい息づきのようなものが浮彫りにされているように思える。
 とりわけ第2楽章は、緻密かつ瑞々しい音の交錯が美しい叙情を織りなしていて、絶品であった。音たちが精妙に揺れ動く第3楽章も、それに次ぐだろう。

 高関が去ったあとの群響がどのような方向をたどるのか、一時はちょっと気になることもあったが、新たにこのような新鮮な個性を備えるにいたっているのなら、今後に大きな楽しみを抱かせるというものだ。

 小菅のベートーヴェンの「4番」を聴くのは、これでたしか3度目だ(何でこればかり?)。ノリントン指揮シュトゥットガルト放送響との協演では、ノリントンに付き合ってか、大胆な即興性をも交えた演奏を聴かせてくれた。山田和樹指揮サイトウ・キネン・オーケストラとの協演では、非常に沈潜したスタイルの演奏だった。
 今日の沼尻=群響との協演は、その中間を行くオーソドックスな、しかし強い意志力を備えた演奏と言ったらいいか。

 コンサートの冒頭には、大震災の犠牲者を偲んでバッハの「アリア」が演奏され、黙祷も行なわれた。このため終演時刻は、5時15分頃まで延びた。ただちに次の演奏会、東京響を聴くために、サントリーホールに向かう。

3・25(金)井上道義指揮オーケストラアンサンブル金沢

   東京オペラシティコンサートホール  2時

 先にも書いたことだが、命を与えられているわれわれが今やるべきことは、被災した人々と亡くなった人々に思いを馳せつつも、己自身の仕事を遂行することである、と私は思う。
 演奏を始める前、井上道義氏も同様の趣旨のことを聴衆に語り、ともに黙祷をと呼びかけた。

 今日の演奏会は、東京オペラシティのマチネー「ウィークデイ・ティータイム・コンサート」だ。
 井上道義とオーケストラアンサンブル金沢が、予定通り東京に来て、出演した。
 どうせ東京に来られるなら、前日の東京定期公演(於サントリーホール)を中止にしたのはなぜか?と思うのは当然だろう。だが、聞くところによると、昨日の中止はオケ側の意向ではなく、東京定期を支援するはずの大スポンサーの都合によるものだったそうな。
 それに対し今日の主催者である東京オペラシティ文化財団は、欣然として――主催者側は「淡々と」と言っていたが――予定通りの開催を選んだというわけだ。

 プログラムは、一見軽めのようだが、実はなかなか洒落ていて、意欲的でもある。
 ロッシーニの「アルジェのイタリア女」序曲に始まり、ピアソラの「エスクアロ」「オブリヴィオン」「リベルタンゴ」、ファリャの「火祭りの踊り」、ポンセの「エストレリータ」、ララの「グラナダ」と続いたが、特に第2部の曲目――ルーセルの「小組曲」とミヨーの「スカラムーシュ」などは、ナマでは滅多に聴けない曲であり、聴く側としても貴重な体験であった。
 サクソフォンのソロは須川展也。

 演奏は、いわゆる「マチネー」的なものにはならず、すこぶる気合が入っていた。特にピアソラの作品3曲や「グラナダ」などは、須川の天馬空を行く演奏とともに、OEKの本領発揮ともいうべき鮮やかで華麗なものであった。

 電力節減のため、ロビーもホール内も、空調は「自動切換え」とのこと。
 照明もすべて極度に落されていたが、舞台上の照度は別として、客席もホワイエも、むしろ普段からこの程度でも充分ではないかという気がする(そもそも日本のホールの灯は眩しすぎる)。
 幸いなことに、このホールの天井には大きな窓があり、そこから自然光が入る仕組になっているので、今日のようなマチネーの場合には、ちょうど良かろう。サンクトペテルブルクのフィルハーモニーのように、ガラス張りの高窓がずらりと並んでいるホールならなおさら電力節減に便利だろうが――もっともあのホールは、夏など本番中に西日がカンカン差し込んで来るので暑くてたまらない、という欠点はあるが。

 「地方都市オーケストラ・フェスティバル」は中止され、インバルの来ない都響の演奏会もすべて中止され、「東京・春・音楽祭」でも目玉商品のネルソンス指揮「ローエングリン」をはじめ、多くの公演が中止されてしまった。
 外国人演奏家が来日できないのは、この際、致し方ない。となれば、こういう時こそ日本人演奏家たちに意地を示してもらわなければならぬ。

   ⇒モーストリークラシック 6月号

3・23(水)METライブビューイング グルック:「タウリスのイフィゲニア」

   東劇(銀座) 7時

 「タウリスのイフィゲニア(トーリドのイフィジェニー)」は、本当に素晴らしい曲である。私は1960年代にプレートルがパリ音楽院管弦楽団を指揮した抜粋のレコードを聴いて以来、この曲の熱烈な支持者になっているのだが、――映画のせいもあるのだろうが、このところの気の重い状況では、やはり100%精神を集中して没頭できるというわけには行かない。

 しかし、悲劇的、英雄的な性格を備えたオペラの音楽として、これは古今屈指のものではなかろうか。嵐のような激しさで押して行く音楽の劇的な迫力という点においても、ベートーヴェンのそれに匹敵する物凄さがある。
 今回のパトリック・サマーズの指揮はやや温厚端整だが、METのオーケストラが実に巧いので、グルックの音楽のこの見事な特徴が発揮されるには充分であったろう。

 上映されたのは2月26日のMET上演ライヴ映像で、スティーヴン・ワズワースの演出。
 アガメムノン王の娘イフィゲニアにスーザン・グラハム、その弟オレストにプラシド・ドミンゴ、彼の親友ピラードにポール・グローヴス、スキタイ人の長トーアにゴードン・ホーキンズ、その他。

 一般にはバリトンが歌うオレスト役をドミンゴが歌っているため、主役の男声2人がテノールということになったが、実際に聴いてみるとさほどの違和感はない。
 ただしこの2人の歌い方には、古典オペラ的な切れ味のいいリズム感に少々欠けるところがあり、その点サマーズの指揮とチグハグになる部分が出る。ドミンゴはそれでも貫禄と雰囲気とで何とかサマにしてしまうから、さすがに巧妙だ。
 が、グローヴスの方は、オレストを救おうという決意を歌う劇的なアリアなどでは、リズムとテンポがオーケストラと合わずに流れてしまい、どうにも締まらない――とはいえ、これも雰囲気で纏めてしまう巧さはある。

 グラハムは、悲劇的な性格を巧みに出した表情豊かな歌唱で、グルックのオペラのヒロインとして異論のない存在を示していた。

 舞台は、厚い壁を境にして2つに分けられ、場面によってそのどちらかで演技が行なわれる仕組だったが、あれで両サイドの観客が本当に両方を観ることができたのかどうか・・・・。
 今回の進行役は、ナタリー・デセイ。

3・22(火)二期会ロシア東欧オペラ研究会
ドヴォルジャーク:「ルサルカ」抜粋
リムスキー=コルサコフ:「サルタン王物語」抜粋

  東京文化会館小ホール  7時

 「このような時、私たちが出来ることは、歌うことです」と開演前に挨拶し黙祷を捧げたのは、主催者・二期会ロシア東欧研究会代表の岸本力氏。
 私はこれを支持したい。良質の文化は、いかなる状態にあっても守られなければならない。音楽家には音楽を守り、人々の心を豊かにして行く責任があるし、われわれ音楽愛好者にはそれを盛り立てて行く責任があるだろう。
 ただ「自粛」しているだけでは、何一つ出来ない。

 思えば第2次大戦末期、半年におよぶ空襲で東京が壊滅状態になっていた昭和20年の5月と6月にも、日本交響楽団(現N響)は定期公演を止めることなく、余燼燻る焼け跡に残る日比谷公会堂で、ベートーヴェンの交響曲などを演奏し続けていたのではなかったか。
 そして終戦直後の9月半ばにはその日響がいち早く定期を再開、翌年1月には藤原歌劇団もオペラ上演(椿姫)を再開して、文化を守り続け、人々の心に慰めを与えたのではなかったか。先人たちもそのようにして、日本に復興をもたらして行ったのだ。※(註)

 今夜のコンサートは、「二期会ロシア東欧オペラ研究会」の創立10周年記念公演と題されていた。
 上手側隅にピアノを1台置き、若干の照明の変化を施しただけの簡素な舞台だが、登場人物は一応衣装を着け、演技を行ないながら歌う。

 プログラムは、2つのオペラから数曲ずつの抜粋。要所に物語紹介のナレーションが挿入される。
 ドヴォルジャークの「ルサルカ」では、津山恵(ルサルカ)、石井真弓(魔女)らが歌い、一方リムスキー=コルサコフの「サルタン王物語」(一般には「皇帝サルタンの物語」と呼ばれることが多い)では、岸本力(サルタン)、筧聰子(ババリーハ)、小林大作(グヴィドン王子)らが歌った。また、いくつかの役はダブルで歌われていた。
 指揮は長田雅人、演出は大島尚志。

 全体として、歌唱の面にはムラはあったものの、岸本氏の言うとおり、みんな「一所懸命」やっていたことは事実である。滅多に聴けないオペラの音楽が、たとえ断片的にでも演奏されたことには意義があるだろう。
 ピアノは「ルサルカ」が稲葉和歌子で、なかなかきれいに弾いてくれた。「サルタン」での小笠原貞宗は少し荒っぽいが、例の「熊蜂の飛行」もちゃんと弾いてくれたのは有難い。

 夜の上野駅公園口周辺は、この東京文化会館とJR駅のぼんやりした灯りがあるのみ。小雨の中、人影もまばらで、打ち沈んだ寂しい雰囲気である。

※聞くところによると、仙台フィルは26日(土)午後2時から見瑞寺で開くコンサートを手始めに、「鎮魂、そして希望」と題する「復興コンサート」を街角や被災地で開催して行く由。

3・19(土)下野竜也指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場大ホール  2時

 「音楽家として何が出来るか?・・・・音楽で人々を癒し、勇気づけ、明日への活力をもっていただくことだと信じています」
 正指揮者・下野竜也氏のこのようなメッセージも配られ、読売日響の「東京芸術劇場マチネー・シリーズ」は開催された。照明を全体に落し気味にし、会場の暖房も切っての公演である。

 この時期、コンサートを開催することについては、さまざまな論議があろう。10人の人がいれば、最少でも2種類の、多ければ10種類の異なった意見が出るだろう。どれか一つの意見だけが絶対的に正しいということなどありえない。
 それゆえ私たちとしては、言い古されたことではあるが、それぞれ自分の信念に従って行動するしかない。

 私自身は、現地へ行って救援活動に参加することができないなら、遠隔地から出来る範囲のことを行ない、かつ、亡くなった人たちや苦難の道を歩む人たちに思いを馳せつつ、自分が人間として生きるために選んだ仕事を真摯に忠実に貫徹する――それこそがわれわれに課せられた使命と責任である、と信じる。
 下野氏と読響も、その信念に基づいて演奏会を行なったはずである。

 今日のコンサートの初めには、大震災犠牲者の追悼のため、半明りのままで、バッハの「管弦楽組曲第3番」からの「アリア」が演奏された。
 また終演後には、下野竜也氏ほか読響の多数の楽員がホワイエに整列し、募金箱を抱えて義捐金を集めていた。聞くところによると、これは演奏家たちの自主的な行動であった由。
 私も、下野氏の持つ箱の中に「貧者の一灯」を。
 今日は1050名強の入場者があったと聞くが(見た感じでは6~7割の客が入っていたように感じられたが)少なからぬ数の聴衆が募金に応じていたようである。

 コンサートの方は、「トランスクリプション名曲集」と題したプログラムが組まれていた。
 曲は、バッハ~エルガーの「幻想曲とフーガ BWV.537」、ブラームス~ベリオの「クラリネット・ソナタ第1番」、グルック~ワーグナーの「アウリスのイフィゲニア」序曲、ウェーバー~ベルリオーズの「舞踏への勧誘」、ドビュッシー~ビュッセルの「小組曲」、バッハ~シェーンベルクの「前奏曲とフーガ BWV.552」。

 このうち「クラリネット・ソナタ」では、今日と明日(横浜みなとみらいホール)の演奏会を最後に定年退職する首席奏者・四戸世紀がソロを吹き、更にアンコールとしてモーツァルトの「アダージョ」K.580c(KA.94、原曲は未完)を演奏して、温かい拍手を浴びていた。
 「アウリスのイフィゲニア」序曲が演奏会で取り上げられるのは、国内では珍しいだろう。いい曲だ。ここでの下野の組み立ては、なかなか巧い。
 ただし今日の読売日響の演奏全体は、いわゆる「マチネー・コンサートの水準」といったところで、それより上でも下でもなかったが・・・・。

 電力節減のために会場の暖房が切られていたことは前述した。開演前にクロークへコートを預けようとしたら、「寒いかもしれませんので、中へお持ちになってはいかがでしょうか?」と言われる。なるほど、たしかに少し冷えるようだが、1950年代中盤頃に暖房のない会場でコンサートを聴いた経験のある世代にとっては、このくらいは痛くも痒くもない。
 灯りなども、日本のホールは普段から何か眩しすぎる傾向があるから、欧米のそれに倣って、もっと電力節減のためにも照明を落としてもいいのでは?と考えていた次第だ。

3・8(火)mmm... Circle of Friends vol.2

   中目黒GTプラザホール  7時

 「mmm...」というのは一種の満足語(?)みたいなものらしいが、ここでは「エムエムエム・スリードッツ」と読ませる由。
 これは、大須賀かおり(ピアノ)、間部令子(フルート)、三瀬俊吾(ヴァイオリン)の3人からなる若手グループの名称だ。現代音楽の初演に力を入れている。

 演奏された7つの作品のうち、4曲が世界初演、3曲が日本初演。実に意欲的なムーヴメントである。
 それぞれの作品、楽譜も見ずに、それも一度だけしか聴かずに云々するなどおこがましいので、ただ一言。活発なフルートと冷静なピアノとの対比が特徴的なエヴァン・ジョンソンの「クラヴサン奏法」、ドビュッシー的な雰囲気も濃いエクトール・パラの「4つのミニチュア」(ピアノ・ソロ)がまず面白い。
 また、一つのラインから常に浮き上がろうとしてはまた戻る音の動きも印象的な「ホヴァー・イン・ザ・ホライズン」は、ヴァイオリン・ソロの雄弁さもあって聴き応えがあり、聴衆の大きな拍手を浴びた。

 トリオで演奏されたネッド・マックガウエンの「アーバン・ターバン」という曲は平明で、メシアン風の曲想も時に顔を覗かせ、律動的なアンサンブルが急激に高揚して行く面白さもあって、締め括りにふさわしい。
 なおプログラムの第1部で、これもトリオで演奏されたパブロ・オーティスの「スピニング・イズ・ハッピネス」は、細かい音型が休みなく続く舞曲風の小品だったが、あとで解説を読んでみるとこれが自転車に乗る喜びを描いたものだと判り、へぇと思う。これは、この3人のグループのために書かれたものだそうだ。
 若い演奏家たちの意欲と熱意に敬意。

3・6(日)びわ湖ホール プロデュースオペラ 
ヴェルディ:「アイーダ」

  滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール  2時

 芸術監督・沼尻竜典が指揮するびわ湖ホールのプロデュースオペラ、今年はヴェルディの「アイーダ」だった。
 これは「ばらの騎士」や「トゥーランドット」「ラ・ボエーム」などに続くシリーズであり、あの「サロメ」や「ルル」「トリスタンとイゾルデ」などの「沼尻竜典オペラ・セレクション」とはまた別のシリーズに属するものだ。
 いずれにせよ、このような大作を、地方都市の歌劇場が主導権を執って毎年定期的に制作し、しかも非常な高水準を示して成功を収めているというのは、日本オペラ界における一つの偉業である。前芸術監督の故・若杉弘によって築かれた基盤は、立派に受け継がれ発展させられているといえよう。

 今回の「アイーダ」は、粟國淳の演出、アレッサンドロ・チャンマルーギの装置・衣装、笠原俊幸の照明等によるプロダクション。
 舞台は比較的シンプルながらも要を得て、立派な雰囲気を持ったものである。各場面にそれぞれ全く異なった構図を与えているのにも感心させられる。輝かしい黄金色を基本にした前半2幕に対し、暗い色調で後半2幕を構成したことも、ドラマの本質を的確に表わしているだろう。

 アムネリスの居室(第2幕第1場)では、カーテンに美しい光が当てられ、「アイーダ」の舞台としては珍しいような宮殿的な光景が創られて、ここはドラマ全体の流れの中で異彩を放つ効果を生んでいた。
 また第1幕では、柱や壁面や小道具の眩い黄金色と、女性たちの漆黒の髪とが異様に鋭いコントラストを作り出していたが、これはかつて映画の中でよく使われた「異国的表現」の手法にも共通して、非常に印象的な視覚効果を醸し出していた。

 演技の上では、いわゆるイタリア・オペラ的な、様式的なスタイルが優先され、それほど心理ドラマ的な表現は見られない。ごくオーソドックスな安定路線というべきものであろう。
 唯一、一風変わった設定といえば、祭司長ラムフィスの人格設定だろうか。普通なら冷然として動じず、威厳を備えたこの役が、今回は不思議に軽い。ラダメス(第2幕第2場)やアムネリス(第4幕第1場)の大胆な発言に対して妙に動揺し、配下の祭司たちの同意を求めるような仕草を行なうといった、頼りない政治家じみた動きをする。面白いけれども、この役に特有の不気味な威圧感が無く、主人公たちの生命を左右する存在としての迫力に不足するので、何かピリリと来ない・・・・。

 指揮はもちろん、沼尻竜典。彼のことだから、大スペクタクル・オペラとしての要素はあまり強調しないだろうと予測したが、事実その通り。派手な第2幕の「凱旋の場」よりも第3幕のアイーダ、アモナズロ、ラダメスの3人の心理を見事に描く音楽の方をクライマックスとしたのは、このドラマの本質を衝いたコンセプトで、納得が行く。
 それでもやはり、全体としては、極めて抑制した音楽づくりと言えるだろう。オーケストラ(京都市交響楽団)が実によい音を出すので、叙情的な美しさは確かに発揮されていたが、作品の性格からして、もう少し「最良の意味での劇場的な俗っぽさ」があってもいいのでは、という気もする。端正な沼尻――というイメージが久しぶりに甦ったのは、そのせいかもしれない。

 たとえばヴェルディは、アイーダやアムネリスが激情に任せて口走ったことをハッと自制して後悔する時、音楽が突然なだれ落ちるように激しく変化するといった手法を使っている(第2幕や第4幕)。
 そういう個所などでは、音楽が流れるように移行するのではなく、もう少し劇的な演奏が行なわれた方が、生き生きと緊迫した人間のドラマが描き出されるのではないかと思うのだが如何?

 主要歌手陣は、ダブル・キャストである。
 今日の横山恵子(アイーダ)と清水華澄(アムネリス)は熱演で、声もよく伸びる。が、旋律的な音階の動きにもっと明晰さがあればと思われるし、場面によって出来にムラがあるのが課題か? 横山は、アリアの時には不安定さが残るが、ベテラン男性歌手との二重唱になると俄然良くなる。清水は、今後が楽しみな大型新星だ。

 一方男声陣は、福井敬(ラダメス)と堀内康雄(アモナズロ)がさすがの貫禄だ。第3幕では、それぞれ自分の「決め所」を、ここぞとばかり鮮やかに、劇的に盛り上げて存在を誇示した。この第3幕が音楽的にも全曲の真のクライマックスたりえたのは、この2人のベテラン歌手の存在のおかげもあった、と言えようか。
 特にイタリア・オペラの分野で国際的にも年季を積んだ堀内の歌唱には、まさにイタリア・オペラそのものの雰囲気があふれていたのであった。

 その他、ラムフィスには小鉄和広、エジプト国王には斉木健詞、巫女に中嶋康子、伝令に二塚直紀。
 合唱(びわ湖ホール声楽アンサンブル、びわ湖県民合唱団、二期会合唱団)は、テノールに破綻があった(第2幕、凱旋の場)ものの、全体としては極めて出来がいい。特に女声合唱は優れていた。
 バレエは、谷桃子バレエ団の他に滋賀洋舞協会(子どもバレエ)が参加していたが、いずれもなかなか良かった。

 各幕のあとに休憩が入る。終演は5時45分頃。
 このプロダクションは、びわ湖ホール、神奈川県民ホール、東京二期会、谷桃子バレエ団、神奈川フィルの5者共同制作の由。

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3・5(土)リッカルド・シャイー指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

   サントリーホール  3時

 今日はドヴォルジャーク・プログラムで、序曲「謝肉祭」、ヴァイオリン協奏曲(ソロはレオニダス・カヴァコス)、交響曲第7番。アンコールは「スラヴ舞曲」から「作品72の2」および「作品72の7」。
 昨日の大咆哮の演奏とは打って変わって、オーケストラにはしなやかな流動性と、しっとりした味とが甦っていた。

 「謝肉祭」はダイナミックな力感で疾走した演奏だったが、それでも昨日のブルックナーよりは制御が効き、管と弦のバランスも整った構築になっていたであろう。
 協奏曲での音量を抑制した演奏はこのオーケストラの音色に陰翳を取り戻したが、さらに「第7交響曲」や「スラヴ舞曲」では、隅々まで神経の行き届いた、完璧に近いほど均衡のとれた演奏に展開して行った。

 バランスさえ良ければいいと言っているのではない。事実、「謝肉祭」後半で猛烈に追い上げ、クライマックスに持って行くくだりなど、シャイーの設計の上手さは、いかにもオペラの得意なシャイーらしい、劇的そのものといった組み立てではなかったか。
 そして交響曲では、変幻自在の表情を以ってテンポやデュナーミクを構築、管弦楽のバランスにも細密な工夫を凝らして主題の響きを様々に変え、音楽に多彩さを加えていたのである。

 私はこの「7番」を聴きながら、先年東京でマリス・ヤンソンスがコンセルトヘボウ管を指揮した、精緻極まるユニークな解釈と演奏によるドヴォルジャークの「第8交響曲」の演奏のことをふと思い出してしまった。この作曲家の交響曲は、スコアの内部に、予想外の大胆な解釈を可能にする要素を含んでいるのではなかろうか?

 2曲の「スラヴ舞曲」も、この上なく力と変化に満ちて、面白かった。このオーケストラの精妙なニュアンスに富んだ個性は、今日の演奏で余すところなく発揮されていたのではないかと思う。

 カヴァコスの演奏を久しぶりに聴けたのは嬉しい。3年前の夏にエディンバラでゲルギエフと協演したプロコフィエフの協奏曲を聴いた時以来かもしれない。
 この人のヴァイオリンは骨太で強靭な精神力を持ち、野太い音色の裡に激しい緊張感をあふれさせる。しかもその演奏における陰翳の濃い表情は、並外れているだろう。ドヴォルジャークの協奏曲も見事だったが、アンコールで弾いたイザイの「ソナタ第4番」からの「アルマンド」は、実に暗い凄味を持ったものであった。

3・4(金)リッカルド・シャイー指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

   サントリーホール  7時

 このコンビ2度目の来日は、僅か2日間の東京公演のみ。
 今日はその初日で、ブルックナーの「交響曲第8番」(ノーヴァク版)が演奏された。

 コントラバスは下手側に10本並んでいたが、そのわりにさほど低音が強調されるというほどでもなく、響きの重心はむしろ高い位置にあったように感じられる。そのあたりがやはりシャイー、いわゆる独墺系のブルックナーとはかなり性格を異にするゆえんだ。
 そして、オーケストラの分厚い音圧を、明るめの音色を以って客席へ開放的に響かせるところや、楽章中に何度か現われるクライマックス個所で劇的にテンポを速めるところなども、シャイーならではの個性であろう。

 ゲヴァントハウス管弦楽団の弦楽器には、昔ながらのしっとりした音色も残されてはいたものの、全体としては、今夜はシャイー色に染められたブルックナーが演奏された、と言えるかもしれない。

 それはそれでいいのだが、最大の疑問は、シャイーがあまりに開放的にオーケストラを鳴らしすぎるため、ブルックナーの管弦楽法に備わっている数々の美しい魅力――たとえば管楽器群と弦楽器群の精妙極まりないバランスや、それらが交錯する内声部の神秘的な響き、清澄で透明な音色といったものを含めて――を、著しく犠牲にしてしまい、単なるエネルギッシュな音塊として構築してしまったのではないか、という点にある。

 音響的な小気味よさを好む人は多いだろうが、残念ながらこういうブルックナーは、私の好みとは違う。もちろん、ゲヴァントハウス管弦楽団の良さは別としての話だけれど。

3・3(木)METライブ・ビューイング
ジョン・アダムズ:「中国のニクソン」

   銀座東劇  6時30分

 1987年にヒューストンで初演され、話題となっていたジョン・アダムズのオペラ「NIXON IN CHINA(中国のニクソン)」が、METで初めて上演された。今回上映されたのは、今年2月12日午後の公演の模様である。

 1972年2月、時の米国大統領ニクソンが電撃的に中国を訪問し世界を驚倒させた出来事をもとにしたオペラだから、私の世代にとっても、まだ記憶は生々しい。
 それゆえ、どうしても「実物」と比較してしまうことになるのだが、この上演では登場する歌手たちにもかなり当人とよく似たメイクや演技が付与されているので、興味は倍加する。

 ニクソン大統領役のジェイムズ・マッダレーナ、その夫人パット役のジャニス・ケリー、毛沢東役のロバート・ブルーベイカー、周恩来役のラッセル・ブローンら、「顔」はもちろん似ていないけれども、全員が「実物」を連想させる演技を巧みに行なっているのには感心させられる。キッシンジャー役のリチャード・ポール・フィンクと来たら、まさに生き写しである。
 最大傑作は、毛沢東夫人の江青を演じた韓国のソプラノ、キャスリーン・キムだ。素顔は可愛い人なのだが、これが眼鏡をかけて表情を硬くし、権勢丸出しの演技で紅い「毛沢東語録」を振りかざし、高いD音を連発する激烈な歌唱で人々を威圧する迫力たるや物凄い。実に巧い。昔TVで見た、あの江青夫人の恐ろしい猛女のイメージが見事に再現されていて、思わず生つばを飲み込むような緊張に誘われてしまった。

 このオペラの台本は、アリス・グッドマンによるもの。
 第1幕では、北京に着いたニクソン大統領と、毛沢東主席および周恩来首相との会談が行われるが、ここで実務的な話をしようとするニクソンと、専ら哲学的な話ばかりする毛沢東とがさっぱりかみ合わない場面がある(イライラするのはもちろんニクソンの方である)。
 幕間のゲストに登場した元駐中のロード米国大使によれば、これは実際にあったことだそうだ。
 「キッシンジャー秘録」においても、同様の光景が描かれている。

 そう言えば、同年9月、田中角栄首相と大平正芳外相が日中国交正常化のため北京を訪問した際、毛沢東が「(周恩来との)喧嘩はもう済みましたか? 喧嘩をしなくては仲良くなれませんよ」と語ったという記事を読んだことがある――なかなか哲学じみたことを言う政治家だと話題になったものだが・・・・。

 なおオペラの物語は、実際の出来事の再現に始まり、それに幻想的な要素が次第に加わり、最後は登場人物たちが過去の苦渋の出来事を回想して懐疑的になって行く、という流れをとる。
 毛沢東が革命の維持の困難さを嘆くくだりや、周恩来が「これまでやって来たのはのは一体何だったのだろうか」と独白するあたりなど、一見創作のように感じられるが、これもキッシンジャーの回顧録に彼の観察として記述されている内容とほぼ一致しているのである。突飛なように見えても、意外に掘り下げの深い台本であることが解る。

 演出は、初演時と同じピーター・セラーズである。初演の時以降、その後判った新しい情報や最近の中国の情勢などを加味し、多少は手直しした、とインタビューで語っていたが、どの部分をどうしたかについては触れなかった。
 しかし、紅衛兵を思わせる若い中国人の服装や、教師が毛沢東個人崇拝思想を子供達に教え込む場面などは、オペラ初演時にも既に盛り込まれていたのではなかろうか。江青が「語録」をかざして周恩来を威嚇する場面についても同様であろう――「周恩来は病になり、死去したからこそ、のちの『4人組』から攻撃を受けずに済んだに違いない。中国ではナンバーツーの地位は、自殺に等しいほどあやふやだったのである」(キッシンジャー)。

 第2幕以降には、地主に搾取され虐待される娘や、紅色娘子軍の蜂起などを描くバレエの場面も織り込まれていたが、ここでソロ・バレエを披露したのは、瀬河寛司および山崎晴野という日本人の由。

 作曲者ジョン・アダムズは、今回の上演では、自ら指揮も執った。このミニマリズム系の音楽には、快い陶酔に引き込むものがある。しかし音色の変化は多彩だし、登場人物によってそれぞれ歌の個性が精妙に際立たせられているところなど、なかなかのものだ。

 それにしてもこの舞台は、昔の中国と米国、現在の中国と米国、そして現在の世界の情勢などについて複雑な思いを呼び起こすものがある。上演を観ている間ずっとそれらが混然として頭の中に交錯し、くらくらするほどの混乱した気持に襲われた。39年前と今と、世界は果たして変わっているのか、いないのか? 
 演奏時間は正味2時間40分。

3・1(火)尾高忠明指揮札幌交響楽団東京公演

   サントリーホール  7時

 今回の東京公演のプログラムは「英国系」ではなく、ショスタコーヴィチの「チェロ協奏曲第2番」と「第5交響曲」に武満徹の「ハウ・スロー・ザ・ウィンド」を組み合わせたもの。後者の2曲は5月の札響の欧州演奏旅行(英、伊、独)にも携えて行く作品だから、それとの関連で選曲されたのだろう。

 札響の音色は――札幌コンサートホールとサントリーホールのアコースティックの違い、あるいは聴く位置の違いなども関係するので断定的なことはもちろん言えないけれども、少なくともこのホールで過去に聴いて来たものと比較しての印象で言えば――特に弦の音色は以前より明るくなり、響きにも強い張りと、デュナーミクの明晰なコントラストが生じて来ているようである。
 楽員の世代交代が進みつつあるという話をチラリ聞いたような気もするが、その関係もあるのだろうか。
 いずれにせよ、メリハリがはっきりして来たのは、良いことだ。最強奏での響きには少々生硬なものがあり、混濁も皆無ではないけれども、音楽に勢いがあることこそ、何より好ましい。

 「第5交響曲」では、最初のうちはアンサンブルに少し力みかえったような落ち着きのなさが感じられたが、木管群が先に調子を出し、第2楽章後半あたりから合奏に均衡が復活し、第3楽章では前述のように弦が冴えた。フィナーレは渾身の盛り上がりで、この演奏は札響のベストのうちに含まれるだろう。

 その余勢を駆って弦楽器群は、アンコールとしてシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」を聴かせた。これは先日札幌で聴いた演奏よりも格段に張りと厚みと熱気が感じられ、魅力的であった。この小品は、尾高と札響の「名刺」の一つに成り得るのではなかろうか?

 武満作品は、日本の演奏家ならば、良く出来て当然のもの。尾高と札響にとっても得意のレパートリーのはず。それゆえもう少し座りのいい、しっとりとした叙情があってもいいのではないかと思ったが、しかし木管に現われる主題(動機)の旋律的な美しさがこれほど浮彫りにされた演奏に出会ったのは、私は初めてであった。
 「チェロ協奏曲」では、ゲスト・ソリストのミクローシュ・ペレーニがすこぶる良い味を聴かせた。野性的な荒々しさでなく、このようにじっくりと沈潜した表現で演奏された方が、この曲の良さが出る。

    ⇒モーストリークラシック5月号

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