2017-08

2・27(日)大友直人指揮東京交響楽団 新潟定期演奏会

  りゅーとぴあコンサートホール  5時

 19年にわたり107回も続いた「大友直人プロデュース 東京芸術劇場シリーズ」が、去る25日の演奏会を以って幕を下ろした。エルガーの大曲の日本初演をはじめ、数々のレパートリーを開拓して来たこのシリーズに、改めて大きな賛辞を贈りたい。

 25日のその演奏会では、アンジェイ・パヌフニクの交響曲第3番「祭典交響曲」、ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調(ソロは上原彩子)、チャールズ・V・スタンフォードの交響曲第3番ヘ短調「アイリッシュ」が演奏されていた。
 私は、その日は読響のシュポーアを聴きに行っていたのだが、それは東京響が同じプログラムを27日の新潟定期演奏会でも取り上げると知っていたからである。ナマではまず聴ける機会のない珍しい交響曲が二つも含まれているので、逃すのはもったいない。

 そこで、まだ腰と足の痛みは残るが、リハビリかたがた気分転換の意味も含めての数ヶ月ぶりの旅行を試みた。幸い新潟市内には雪も皆無で、しかも予想外に寒くない。「ときMAX325」で15時14分に着き、コンサートを聴いて、21時32分発の最終「ときMAX352」に乗り、23時40分に東京駅に着くというスケジュール。

 実際に聴いてみて、やはり新潟まで行ったことも無駄ではなかったという気がする。
 パヌフニクの作品は、以前に「カチンの墓碑銘」を聴いたことがあったが――それがどこで誰の指揮だったか思い出せないが――今回の「第3交響曲 シンフォニア・サクラ」(1963年作曲)は初めての体験だった。
 冒頭、ステージの4隅に配置された4本のトランペットが呼応して奏するファンファーレが祝典的な雰囲気をまず醸し出すが、そのあとには宗教的な曲想が続き、幻想的な、ミステリアスなイメージが拡がる。最後のクライマックスはスクリャービンのそれを連想させる法悦と陶酔の坩堝で、ヤナーチェク的な金管の高鳴りの裡に終結する。演奏は難しいという話だが、極めて印象深い曲だ。

 一方のスタンフォードの第3交響曲「アイリッシュ」(1887年)は、副題が示すようにアイルランドに縁のある作品で、特に第2楽章と第4楽章では民謡も多数引用されているようである。前者における舞曲的な曲想は、「緑の衣」とかいう民謡にもそっくりだ。
 だが更に面白いのは、アイルランドとは別に、第3楽章に「ブラームスへのオマージュ」とでもいった曲想が多数登場することだろう。彼のこの交響曲が書かれるわずか2年前に初演され、間もなく出版されたブラームスの「第4交響曲」が、盛んに引用される。最後にはとどめをさすように、第2楽章のホルン主題の動機がそのまま現われて聴き手をギョッとさせる。
 スタンフォードは1870年代にドイツに留学してブラームスと知己になっていたそうだから、このドイツの大作曲家に人間的な魅力を感じていたのかもしれない。

 大友直人と東京交響楽団は、この2曲をこの上なく明確に、魅力的に聴かせてくれた。こういう曲を振ると、大友は独特の良さを発揮する。オーケストラの演奏にも伸びやかで闊達な雰囲気があふれていたのは、東京で既に一度公演を行っていた所為もあるのだろう。

 この2曲の間には、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」が演奏され、上原彩子がソロを弾いた。彼女のラヴェルは初めて聴いたが、正面切ったストレートな演奏という感。もう少し艶麗な趣きがあってもいいと思うけれども、近年快調な彼女のことだから、遠からず色合いを深めるだろう。

2・26(土)ブリュッヘン指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
バッハ:「ロ短調ミサ」

  すみだトリフォニーホール  7時15分

 ティアラこうとうのホールからトリフォニーホールまでは、地下鉄で一駅、クルマで数分。歩いても20分程度の距離だろう。この範囲に、二つのオーケストラが本拠地を構えているという現象は面白い。

 そのトリフォニーホールでは、ブリュッヘンの一連の客演の大詰め、バッハの「ミサ曲ロ短調」の公演が行なわれた。ソロはリーサ・ラーション(S)、ヨハネッテ・ゾーマー(S)、パトリック・ファン・グーテム(CT)、ヤン・コボウ(T)、デイヴィッド・ウィルソン・ジョンソン(Bs)。合唱が栗友会合唱団。

 この日の合唱は、何故か少々座りが悪い。ソリストの一部も同様であった。調子が出てきたのは、休憩を摂ったあとの、第2部(クレド)の途中あたりからではなかろうか。2回目の上演(明日)では、おそらくもっと良くなるだろう。
 ブリュッヘンの指揮を眺めていると、コーラスが、慣れない大合唱曲で、しかもバッハの作品であの指揮に合わせるのは結構大変ではないかという気もするのだが・・・・。

 しかし、豊嶋泰嗣をリーダーとした新日本フィルは充実した演奏を聴かせてくれたので、演奏会全体としてはすこぶる印象深いものになった。
 全曲冒頭、「キリエ」が演奏され始めた瞬間の音楽の響きの透き通るような美しさはたとえようもなく、それだけで陶酔に引き込まれて行ってしまう。

 こうして、ベートーヴェンの交響曲ツィクルスとバッハの大声楽曲で組まれたフランス・ブリュッヘンの今回のプロジェクトは、前回のハイドン・ツィクルスに勝るとも劣らぬ存在感を示した。彼の解釈に賛否は感じても、このように印象的な演奏であるならば、少しくらいの技術的な綻びなど何であろう? 是非また来て下さい。

2・26(土)川瀬賢太郎指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

   ティアラこうとう大ホール  3時

 今年27歳になる若手指揮者。既にあちこちのオーケストラを指揮して話題になっている。ところがどういうわけか私は、これまで彼が大きなシンフォニーを指揮するのを聴く機会がなかった。
 なので、今日のブラームスの「第4交響曲」を楽しみにして出かけて行った次第。プログラムには他に、デュカの「魔法使いの弟子」と、伊藤康英の交響詩「ぐるりよざ」が含まれていた。

 実に真面目な、几帳面な指揮をする人だ。礼儀正しすぎる演奏というべきか。
 ブラームスの交響曲では、大詰めでの追い込みには勢いもあったし、第1楽章の展開部の最初で弦の第1主題がホ短調で出て来る個所(第145小節)――あたかも提示部の反復かと思わせる個所である――にはハッとさせられるようなためらいがちの美しさがあふれていて、この人は素晴らしいセンスを持っているなと嬉しくなったのだが、演奏全体としてはやはり端整そのものだ。

 「魔法使いの弟子」でも、序奏ではただ遅いテンポが印象づけられるのみで、魔術の世界への導入といったミステリアスな雰囲気が感じられない。そのあとのホウキが動き始めるあたりのリズムにも、正確さを重視する指揮のためか、ワクワクさせるような躍動感に不足するという傾向がある。

 真摯なところは好感が持てるし、またそれは無くてはならないものではある。が、若い指揮者としては、演奏にもっと傍若無人な乱暴者――とまでは行かずとも、若さの特権たる気魄と輝きがあっていいのではないかという気がする。若いうちからあまり分別臭い音楽をつくって、その範囲の中でちんまりと纏まってしまうような指揮者になってもらいたくないものである。

 だが、彼の指揮には、清涼な、一種の日本美術的な――とでも言っていいような美しさも感じられて、これが私を不思議に惹きつける。もう少しいろいろなレパートリーを聴いて行ってみよう。彼はこの4月から名古屋フィルの指揮者にも就任する。

2・25(金)ゲルト・アルブレヒト指揮読売日本交響楽団のシュポーア

  サントリーホール  7時

 かつての常任指揮者、意欲的な選曲で読響に新風を吹き込んだ指揮者、懐かしのゲルト・アルブレヒトが客演として久しぶりに登場。第501回にあたる今夜の定期でも珍しいプログラムを指揮した。
 最初にシューマンの「ファウストからの情景」序曲。そのあとはすべてシュポーアの作品で、歌劇「ファウスト」序曲、ヴァイオリン協奏曲第8番イ短調Op.47「劇唱の形式で」、交響曲第3番ハ短調Op.78――と並ぶ。

 アルブレヒト自らトークで述べていた通り、日本のオーケストラの定期演奏会においてはまず例のないようなプログラミングだ。その意味では、実に貴重な体験をさせてもらえたと言える。
 暗鬱な気分が支配的なシューマンの「ファウスト」のあとに、活気のある性格をかなり残しているファウスト像を描くシュポーアの「ファウスト」――この聴き比べも面白い。

 協奏曲では、成長した神尾真由子がこの上なく瑞々しい演奏を聴かせてくれた。これがおそらく今夜随一の聴きものであり、最も会場を盛り上げた曲であったろう。
 彼女はアンコールとしてパガニーニの「奇想曲」から第21番を弾いたが、これも爽やかで美しい。1727年製ストラディヴァリウスの音色も絶品である。

 休憩後には「第3交響曲」。
 綺麗な曲ではあったが、こういう曲想の交響曲を聴くと、シュポーアが今日「半ば忘れられた」存在になってしまったのも無理からぬことかな、とも思ってしまう。
 正直なところ私にはあまり興味をそそられぬ曲だったが、しかしこういう曲は、一方で熱烈なファンを呼び寄せることもあるかもしれない。ちょうど私が、一般にはあまり人気のないドヴォルジャークの中期の交響曲(3~6番)に惚れ込んでいるのと同じように・・・・。

 アルブレヒトは、「何かといえばベートーヴェンばかり繰り返している」オーケストラのプログラム編成の現状に、今でも非常に腹を立てているようだ。常任時代に珍しい作品を数多く取り上げた彼のこと、それも当然であろう。以前にも彼は読売日響演奏会でのプレトークで、同じ主旨のことを語っていた記憶がある。
 今夜のトークでは、そのマンネリ現象を非難するのに「stupid」という、異様に強い言葉を数回も使っていた。

 アルブレヒトは、公式の場でも常に自己の考えを歯に衣着せず、はっきりと言う人のようである。以前にもTVで、彼が日本公演で指揮した「タンホイザー」に関し、その演出ではワルトブルクが東ドイツを、ヴェヌスブルクが西ドイツを表わしているに違いないという誰かの評に対して「ナンセンス! ナンセンス!」と、怒気も顕わに否定していたのを思い出す。
 それゆえ、「stupid」も、いかにもアルブレヒトらしい率直な表現であるとも感じられたのだが、――通訳がそのニュアンスを忠実に伝えなかったのは・・・・もったいない。

2・23(水)東京二期会 R・シュトラウス:「サロメ」2日目

   東京文化会館大ホール  2時

 2日目の公演で、昨日の初日とは別のキャストによる上演。
 大隅智佳子(サロメ)、片寄純也(ヘロデ)、山下牧子(ヘロディアス)、友清崇(ヨカナーン)、大川信之(ナラボート)、田村由貴絵(小姓)ほか。
 つまり、一昨日に観たGPと同一の顔ぶれだろう。

 全体としては、昨日の組より声がよく出ていたように思う。題名役の大隅智佳子は有望で、期待できる。
 歌手たちの声が比較的よく伸びていたせいか、ショルテスと東京都響も、今日はある程度安心して「鳴らせた」ようである。特に全曲の大詰めでは、あたかも鬱憤を晴らすように、豪快に咆哮して締め括った。――本来ならこのくらいの音量が「通常」であるべきなのだが、まあ致し方あるまい。

 上演についての細かい出来栄えについては、「グランドオペラ」誌に掲載する手前、ここではここまで。

 今日はマチネーのため、客層の所為か、ブーイングがほとんど出ない。しかし、ブラヴォーもさほど大きくない。拍手が続くだけである。予想通りだ。
 コン氏は、昨日のブラヴォーとブーイングが交錯する嵐の中で、客の反応の大きさに至極満足だったという話だ。とすれば、今日はさぞかし拍子抜けだったことだろう。

 しかし終演後には、彼のアフタートークが1時間におよび開催され、そこで彼の演出についてのいつもの持論が披露された。最後に聴衆からの質疑応答が行われたが、こういう場所にありがちな、質問の前に自己の所論を長々と述べる人や、感動だけを叫ぶ人の発言に時間を占められてしまい、もっと多くの聴衆からの疑問や質問が聞けなかったのは残念であった。

 一昨日の舞台写真とは別にもう一つ、例のヨカナーンの生首が宙に上って行く場面の写真を入れておく。舞台前方にサロメと、「預言者としては死んだが、サロメを愛する男としては生きた」ヨカナーン。2人はこのあと手を携えて、この閉塞された世界から脱出して行く(少なくとも、そう夢見る)。舞台後方には、「夫婦としての平和をとりあえず取り戻した」ヘロデとヘロディアスがいる。

           Photo: M.Terashi

      グランドオペラ2011年春号

2・22(火)東京二期会 R・シュトラウス:「サロメ」初日

  東京文化会館大ホール  7時

 東京二期会と、ネーデルランド・オペラおよびエーテボリ・オペラの共同制作(プレミエは2009年11月10日アムステルダムの由)による「サロメ」の東京初日が幕を開けた。

 今日は、昨日のGPとは別キャストで、林正子(サロメ)、高橋淳(ヘロデ)、板波利加(ヘロディアス)、大沼徹(ヨカナーン)、水船桂太郎(ナラボート)、栗林朋子(小姓)ほか。
 歌手陣が脇役にいたるまでダブル・キャストにより組まれたというのは珍しい。二期会歌手の層の厚さを物語る――ともいえるが、その代わり若手も多いので、舞台にやや乾いた雰囲気があるのも事実である。
 だが、こういうレジー・テアター系の舞台と演技に若手歌手たちが経験を積んでくれれば、わが国のオペラにも、いずれもっと演劇的な面白さが生まれるようになるだろう。

 もっとも今日は、ベテランの中にも客席を向いて歌う人が何人かいた。声がちっともこちらに響いて来ないのである。特に前半はそれが顕著で、もどかしい思いにさせられた。オーケストラも、「本当はもっとガンガンやりたいのだが、(声を聞かせるために音量を)抑えられ、欲求不満になっていた」とかいう噂だったが・・・・。
 しかしその東京都響は、ショルテスの歯切れのいい指揮のもと、昨日と同様にがっしりとした演奏を聴かせてくれた。今回の一連の公演で最良だったのはオーケストラだった、ということになるかも。

 演出に対するブーイングは少なからず出た。カーテンコールに出て来たコンヴィチュニーも、してやったりとばかり、にこやかな表情。

   グランドオペラ 2011年春号

2・21(月)フランス・ブリュッヘン指揮新日本フィルのベートーヴェン

  サントリーホール  7時

 コンヴィチュニー演出の禍々しい「サロメ」の毒気にあてられたあとに、ベートーヴェンの「第9」があった――。これぞ救済にあらずして何ぞや。「第8番」との組み合わせで、「ベートーヴェン・ツィクルス」最終回と同一のプロによる定期である。

 「第3回」の「6番」「7番」の日だけはマリインスキーとかち合って聴けなかったが、聴けた回の中では、今日の演奏がいちばんよくまとまっていたのではないかと思う。引き締まったリズムの謹厳なブリュッヘンの音楽に、新日本フィルもよく応えていた。サントリーホールの響きのいいアコースティックも影響して、オーケストラの音色にも明るさが感じられたようである。
 特に編成を大きくした「第9」には、整然たる構築の中にも壮大な気宇が冒頭から漲っていた。ブリュッヘンが考える音楽が、この日は充分に実現できたのではないかと思うのだが、どうだったであろう。

 随所でフワリと力を抜いてディミニュエンドもしくは弱音にし、次の音に備える、というのがブリュッヘンの癖だが、この日もしばしばそれが現われた。「8番」第1楽章提示部反復に入る直前の1小節しかり、「9番」第1楽章再現部直前しかり、同第1楽章最後と第2楽章最後の一撃しかり。
 小細工にはあたるまい。昔ワルターも時々こういうことをやっていたことを思い出す。

 「9番」では、スケルツォ前半はいずれも反復を行っていた。
 その他、譜面の上では、ベーレンライター版と旧慣習版(たとえばブライトコップ版)との折衷版といったところか。メトロノーム指定に近いテンポで演奏された第3楽章は美しく絶品であった。第4楽章では、「歓喜の歌」の全容が合唱で歌われる個所において弾むようなリズムが付けられ、著しくメリハリが強められていたのが面白い(栗友会合唱団)。

 声楽ソリストは、リーサ・ラーション(S)、ウィルケ・テ・ブルメルストゥルーテ(A)、ベンジャミン・ヒューレット(T)、デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(B)。
 4人はぎりぎりまでステージに登場しなかったので、どうしたどうしたと気を揉んで、演奏を聴いているどころじゃなかった――という人も多かったのでは? 

 今回の変わった趣向は、直前のファンファーレの瞬間にバスが上手から登場、中央に進みながら合唱団をはじめ会場の一同へ呼びかけるような身振りで「このような音ではない、もっと新しい歌を・・・・」とレシタティーフを歌い始める。すると、彼を見つめていた(つまり、横を向いていた)合唱団員が「なるほどその通りだ」という表情になって彼の歌を聴き、和し始める、という段取り。
 そして合唱による第1連の最後と間奏が流れている間に、他のソリスト3人が下手から登場して定位置に着く――ということになる。

 わざとらしい、と言ってしまえばそれまでだが、実は私は以前から、もしこの「第9」をオペラとして上演するならこのテもありかな、と思っていたのである。そもそもレシタティーフ部分はシラーの歌詞ではなくベートーヴェン自身の作であり、彼がアジテーターとして人々に呼びかけていると考えれば、オペラ的にやるなら充分理屈が立つわけであろう。
 しかし、まさかシリアスなコンサートで、それをやる指揮者がいるとは予想しなかった。ブリュッヘンも畏れ入った芝居気の持主だ――と感心した次第である。

 私が勝手に思い描いていたのは、バスが歌いながら歩いて出て来て、更に他のソリストを差し招く、というやり方だが・・・・もしかして誰かが既に試みたかもしれない。
 ちなみに、何年か前に尾高忠明指揮札幌交響楽団が「第9」をkitaraで演奏した際に、ロバート・ハニーサッカーというバリトンが、ここだけ大きく手を拡げて場内を見渡し、合唱団や聴衆などに呼びかけるという派手な身振りで歌ったのを見たことがあった。それは大変面白かったが・・・・。

2・21(月)東京二期会 R・シュトラウス:「サロメ」ゲネプロ

  東京文化会館大ホール  2時

 本番ではどのくらいブーイングが出るか。興味津々。
 ペーター・コンヴィチュニーの演出だ。
 もしブーイングが盛大に出なければ、コン氏はさぞかし拍子抜けするだろう。観客を刺激し、観客に挑戦するのが、彼の信条のはずだからだ。

 彼の演出したオペラは、これまでざっと15~6本ほどは観た勘定になるが、「サロメ」は今回が初めて。
 とにかくこの演出は、このオペラの尋常ならざる内容――狂気、暴力、殺人、淫乱、人間冒涜といった要素を抉り出し、遠慮会釈なく誇張した形で舞台上に具現し続ける。まさに乱雑、猥雑、騒乱、グロテスクの極みであり、精神的SMもいいところだ。

 しかし、幕切れ近くに至って、突如として、あまりにも頽廃的な、かつ美しい場面が開けて来る。サロメの官能的なモノローグの裡に、血塗れのヨカナーンの首が宙高く昇って行く光景の、何という怪奇で妖艶な美しさ。サロメと、死ななかったヨカナーンとの静かな愛の場面。
 そして、いかにもコンヴィチュニーらしい最後の決定打は、大詰めのヘロデ王による「その女を殺せ!」のセリフを、「この物語の内容に激怒した観客」のものとして解釈してしまう突飛な読み替え手法である。

 この一連の流れは、非常に気の利いたアイディアであり、私はすこぶる気に入った。あまりのくどさに馬鹿馬鹿しくて観ていられるか、とまで一時は思ったこの舞台も、終り好ければすべて善し。明日から、ダブル・キャストの上演をじっくりと観てみよう。

 演奏はシュテファン・ショルテス指揮の東京都交響楽団で、これがなかなか素晴らしい。緻密で重厚だが歯切れがいい。演奏時間は95分だったから、やはりショルテスらしく、テンポは速いといえるだろう(2月6日の項参照)。
 この公演評は「グランドオペラ」誌に載せる予定なので、ここではこれ以上詳しく書けないのが残念だが・・・・。

 下の写真。中央仮面の男がヨカナーン、後方にサロメ。右寄り裸の男がヘロデ王、その左が王妃ヘロディアス。その他はユダヤ人たちなど。このテーブルは「最後の晩餐」を模したものだという。

     Photo: M.Terashi


 

2・20(日)大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団
東京定期演奏会

   サントリーホール  2時

 このところ久しく聴く機会のなかった大植英次の指揮。――ひところ、テンポを猛烈に遅くしたり、曲のバランスを変えたりと、ユニーク路線を邁進(?)していたようにみえた大植だが、今日のショスタコーヴィチとブルックナーの「第9交響曲」を聴く範囲では、そういう時期も既に過ぎつつあるようだ。
 その代わり、登場した時や、カーテンコールにおける彼の一挙一動が、何故か異様に厳めしく、物々しくなっていた・・・・。

 嬉しい驚きは、オーケストラの充実である。
 大植が音楽監督に就任した直後の頃、大阪へ出向いてしばしば聴いたこのオーケストラの演奏は、明るい活気こそあったものの、暴れ馬のようなアンサンブルで、各パートのソロも粗いことが多かった。
 だが、今日の演奏を聴いてみると、その頃とはもう、別の団体かと思えるほど、格段の相違が生じている。特に今日の2曲で示された合奏のバランスの良さ、緻密な音の構築などは、数年前のこのオーケストラからはあまり聴かれなかった類いのものだろう。
 大阪フィルは、やはり関西オーケストラの雄と呼ばれるにふさわしい力量を備えているのだ、というのが、今日の演奏会を聴いて得られた印象である。

 もっとも本来、こういうサウンドは、大植がかつてミネソタ管弦楽団やハノーファー北ドイツ放送フィルでつくり上げたのと同じものではなかったか。その意味では、大植英次はこの8年に及ぶ共同作業を通じて、大阪フィルを彼の個性に合致させるのに成功した――と見ていいのかもしれない。

 ショスタコーヴィチの「9番」では、リズムは少し重く、全体に重厚な響きとなり、この作曲家のアイロニーと才気などは、かなりシリアスなものとして描かれたようだ。ファゴットをはじめ各パートのソロが冴えていて、すこぶる手応えのある演奏が繰り広げられたのは嬉しい。

 ブルックナーの「9番」は、Solemnis(荘厳)という喩えがぴったり来そうな演奏であった。特に両端楽章では遅めのテンポが採られていたが、これはあたかも祈りにも似た雰囲気を生み出していただろう。
 第2楽章を含め、ゲネラル・パウゼはいかなる演奏と比較しても非常に長く設定されていた。このあたりには、大植の近年の、いわゆる「凝りよう」がまだ色濃く残っていると感じられるのだが如何。
 ただし、疑問が一つ。第1楽章のコーダでテンポを極度に速める――アッチェルランドではなく、基本テンポとして設定された――のは、それまでの荘厳な趣きを一変させる結果を生んでしまうと思われ、個人的には共感しかねる。

 オーケストラのバランスは整っていたが、金管群がすべて舞台上手側に斜めに集結されていた所為か、2階席正面で聴いていると、時にはそれらの音色が弦の響きの中に包まれてしまうこともあった。だがこれは当然、大植の狙いでもあったのだろう。聴く位置によっては、全く異なった印象が得られたことだろうと思う。

 トランペットを除く金管の長い和音(2、3回揺れたのは惜しいが)とともに第3楽章が消えて行ったあとには、長い静寂が保たれた。好い演奏会だった。
 大植英次は、来年3月で大阪フィルの音楽監督としての任期を終える。となると、この両者が、再び東京定期公演を一緒に行なうことはあるのだろうか? 
 もし今日が最後の機会だったのなら、このブルックナーの「9番」は、告別を飾るにふさわしい見事な演奏だったと言われることになるだろう。
 

2・19(土)ルネ・パーペ・バス・リサイタル

  トッパンホール  5時

 「ご贔屓歌手」の一人、ルネ・パーペの歌曲リサイタルがやっと聴けた。
 オペラの舞台における彼については、これまでハインリヒ王からマルケ王、ボリス・ゴドゥノフ、あるいはメフィストフェレスにいたるまで数多く聴いて来ていたのだが、歌曲リサイタルとなると、ついぞ聴く機会がなかったのである。

 今日のリサイタルで歌われたのは、シューベルトの歌曲5曲(音楽に寄す、笑いと涙、夕映えの中で、野ばら、ミューズの子)、シューマンの「詩人の恋」、後半にヴォルフの「ミケランジェロの3つの詩」、ムソルグスキーの「死の歌と踊り」。アンコールはR・シュトラウスの「献呈」とシューマンの「子どものお守」。

 どの歌においても、重厚なバスが轟々と雄大に、かつ劇的に響きわたる。
 「詩人の恋」など、むしろ「魔人の恋」か「魔王の恋」といった趣きの迫力。
 物凄い内容と曲想を持つ「死の歌と踊り」では、さらに超弩級のドラマティックな歌唱になった。本場のロシア人歌手でもここまでは行くまいと思えるほどである。あの歌唱の前には、トッパンホールは狭すぎたであろう。

 このムソルグスキーの歌曲が始まる直前、NHKホールでの「トゥーランドット」の指揮を終えたゲルギエフが駆けつけて来て、客席に滑り込んだ。パーペはこの曲だけ譜面を見ながら歌っていたが、ゲルギエフ出現を目の前にして、弥が上にも気合が入ったか。

 それにしてもこの曲は、やはり管弦楽編曲による伴奏よりもピアノの伴奏の方がずっと迫力がある。そのピアノを演奏したのは、カミロ・ラディッケという人。
     音楽の友4月号演奏会評

2・18(金)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー・オペラ
プッチーニ:「トゥーランドット」

      NHKホール  6時30分

 主役3人の組み合わせが日替わりになる3回上演だが、初日の今日は、中国の姫トゥーランドットがイリーナ・ゴルディ、タタールの王子カラフがウラジーミル・ガルージン、奴隷娘リューがヒブラ・ゲルズマーワ。

 このうちゴルディという人は、私は今回初めて聴いた(と思う)が、声の馬力はあるが絶叫し過ぎで歌詞も音程も不明確なだけでなく、最高音を出す時にしばしば勢い余って、さらに上り気味になってしまうのはいただけない。
 「謎解きの場」のあとの休憩時間に、ロビーで見知らぬ女性に呼び止められ、「あれ、本当にグレギーナなんですかあ?」と訊ねられたのには可笑しくなった。ダブル・キャストの配役表を示し、「違いますよォ今日は」と説明したのだが・・・・。

 ガルージンは、今回も安定してよく声も伸びる。ただ、10年前頃のような、ピンと張った緊迫感のある声はもう聴けないのかもしれない。少し声質が丸くなり、柔らかくなったので、大オーケストラを突き抜けて来る響きは残念ながら薄れてしまった。

 絶好調なのは、ゲルズマーワだ。あの1994年のチャイコフスキー・コンクール優勝の際に現地でインタビューなどして以来、3、4回程度しか聴く機会が無かったが、いい歌手になった。第1幕の終結に近い「お聞き下さい王子様」など、声の美しさとともに深い情感があふれて、何かジンと来るような思いにさせられた。

 ゲルギエフは、「影のない女」の時と同様、打楽器を強大に響かせ、力感たっぷりの指揮ではあったが、その一方、第1幕終結でのリューの歌から「泣くなリュー」にかけての柔らかい弱音の美しさは絶品。彼のこういう指揮ぶりや、「持って行き方の巧さ」は、もっと注目されても良いだろう。ただ今回は、特に第3幕など、やや抑制気味の指揮ではなかったかという気もする。

 演出はシャルル・ルボー、舞台美術はイザベル・パルティオ=ピエリ。
 総じて比較的簡素な装置で、中央に回転する円盤型の舞台を設定して人物の動きに変化を与える趣向が為されている。
 群衆の動きは常道的だが、ダンス的な要素も加えられている(振付はディミトリー・コルネーエフ)、第2幕の前半でピン、パン、ポンらが「姫への求婚者は片っ端から死刑になる」と嘆く場面での群集のダンス的な動きなどは、なかなかアイディアに富むものだった。
 しかし、こういうタイプの舞台だと、主要人物の動きがかなり様式的なものに留まってしまうことは――個人的には不満だが――止むを得ないのかもしれない。

 合唱団は、人数はそれほど多くはないが、相変わらず強力。ゲストの杉並児童合唱団は歌い方が粗く、これではこの合唱の、平和な時代への憧れを表わすエピソードとしての役割を果たせまい。

 休憩1回を挟み、終演は9時を少し過ぎた。

2・17(木)ウラディーミル・フェドセーエフ指揮
東京フィルハーモニー交響楽団

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 ダブルヘッダーといえど、隣の建物(同じ建物とも言えるか?)に在るホール。こういうダブルは楽だ。

 懐かしやウラディーミル・フェドセーエフ、5年ぶりの東京フィル客演。今年で79歳を迎えるはずだが、相変わらず元気な様子。祝着である。
 今日のプログラムは、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲、チャイコフスキーの「組曲第3番」、後半にリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェラザード」。

 フェドセーエフは昔から、ウィーン響を指揮する時は別として、程度の差こそあれ骨太で豪快な、意志力の強靭な音楽で聴かせる人だった。首席客演指揮者のポストに在る東京フィルとの演奏でも、彼らしい豪壮なアプローチを押し通す。それがまた魅力でもある。

 今夜も、モーツァルトの序曲は、分厚い音だった。チャイコフスキーのはもともとあまり面白くない曲だが、それをあれだけ多彩に聴かせるところがフェドセーエフの巧みなところ。

 「シェラザード」は、そのフェドセーエフの持ち味が最大限に発揮された指揮であったろう。
 第1楽章の「海とシンドバッドの冒険」は極度に遅いテンポで、悠然たる航海という趣きであり、フェドセーエフも流石に老境に・・・・と思わせたが、第4楽章の「バグダッドの祭、海、青銅の騎士のある岩での難破」に至るや、それまでの抑制したテンポを一気に解放し、昔よりもさらに速いテンポで、音楽を猛然と驀進させた。煽りに煽られた細かいリズムの音楽が頂点に達し、ついに幅広く壮大な「海の主題」に戻るあたり――まことに心憎い演出で、壮絶極まる演奏であった。

 東京フィルも、全力を出し切ったのではないか。弦楽器奏者たちが全身を激しく揺らせつつ、時には腰を浮かせんばかりの姿勢で、音楽に没入して弾いていた光景も印象的だった。

   ⇒モーストリークラシック5月号

2・17(木)新国立劇場 ヴェルディ:「椿姫」

   新国立劇場  2時

 2002年に制作されたルカ・ロンコーニ演出による舞台。指揮は広上淳一、オーケストラは東京交響楽団。

 言っちゃ何だけれど、今日はオーケストラが随分軽く、細く聞こえてしまった・・・・。
 しかし、比較しても意味はない。東京響も、それはそれなりにしっとりと纏まっていた。音色も綺麗だし、響きのバランスも実に良い。このピットで聴いて来た国内オーケストラの演奏の中では、上の部類に入るだろう。

 それは大変結構なのだが、肝心の演奏に、燃えたぎる人間のドラマといったものが全く感じられないのである。あまりにも正確で几帳面で、劇的なたたみかけのない、落ち着きはらった「椿姫」の音楽なのだ。
 広上はいつからオペラを、このような遅いテンポで、しかも大きな「間」を採って指揮するようになったのだろう? 私は彼のデビュー以来の熱烈なファンだし、もちろん今でもそれに変わりはないし、これまでにも数え切れないほど彼の指揮を聴いて来ているが、今回のこのテンポの指揮だけは、どうにも納得しかねる。
 終演後にある関係筋から聞いたところによれば、あのテンポは歌手の希望に従ったものらしいとのこと・・・・。彼はこれが新国立劇場へのデビューだったから、周囲に気兼ねしたのか?

 歌手陣は、ヴィオレッタにパトリツィア・チョーフィ。相変わらず巧い。第2幕でのジョルジョ・ジェルモンに追い詰められ絶望に陥る場面や、第3幕で重病に伏している場面などでは、悲劇的な歌唱表現と演技力とで、これぞヴィオレッタともいうべき女性を創り出していた。当り役である。
 恋人役アルフレードは、韓国出身の若いキム・ウーキュン。丸っこい体格で、声の質はなかなか美しく伸びがある。今後に期待しよう。
 その父ジョルジョを演じたのは、大ベテランのルチオ・ガッロ。演技はそれほど微細ではなかったものの、家の体面ばかり重視する父親役を威圧的に歌い演じ、存在感を発揮していた。

 演出そのものは、以前とは特に変わったところはないように見える。ごくごくオーソドックスな安定路線の舞台で、この作品から新しい何かを浮彫りにしてみせるといった類のものではない。しかし、マルゲリータ・バッリによる舞台装置は重厚な感じがあり、なかなか立派なものである。

 休憩2回を含み、終演は5時になった。

2・16(水)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー・オペラ
ロシア音楽の夕べ 

   横浜みなとみらいホール  7時

 他にしかるべき場所がないので、とりあえずここを謝罪の場とする。
 チャイコフスキーの「1812年」は合唱入りで演奏される――と、招聘元からの情報に基づきプログラムに解説を書いたのは私だが、実際には、合唱なしのオリジナル版で演奏されてしまったのだ。
 招聘元も、マリインスキー側の情報を直前まで確認しつつ、「今回は滅多にナマで聴けない合唱入りの1812年」と鳴り物入りでPRしており、今日も実際に演奏されるまでは、合唱が入ると了解していたのだそうである(しかも合唱団はこの時舞台に並んでいたのだから)。
 「合唱入り」を楽しみにして聴きに来た人たちも少なくなかったのでは、と思う(私もその一人だった)。
 招聘元も手の打ちようがなかったらしく、仕方なく「変更」の告知をロビーに張り出していた。私も結果的には「誤情報」の片棒を担いでしまったわけで、まことに申し訳なく、頓首している次第である。

 余談だが、ゲルギエフのコンサートでこのような「突如無断変更」にぶつかり、解説を書いていた私も誤情報の責任の一半を持たされる羽目になったのは、これで2回目だ。前回は、ショスタコーヴィチの「鼻」からの抜粋曲の時だった。
 今後、こういう解説を書くことがあったら、「――の版により演奏される」とか「――が抜粋して演奏される」と言い切るのではなく、「――とのことである」とか「――の予定である」としておいた方が安全かもしれない・・・・やれやれ。

 しかし、あちらの人は、そういう細かいことなどには頓着しないのかもしれない。
 今はどうか知らないけれど、以前マリインスキーの「白夜祭」を何度か取材しに行った頃には、「変更」が日常茶飯事だったのを思い出す。
 曲目の一部や演奏者が変わるなどは未だいい方で、甚だしきは、オペラのその日の演目が変わる、開演時間が変わる、会場が変わる・・・・。
 それでも客が主催者に怒鳴り込んでいる光景には、ついぞお目にかかることがなかったのは不思議であった。

 閑話休題。ところで今夜のプログラムは、第1部はその問題の「1812年」に始まり、リムスキー=コルサコフの「ムラーダ」から「貴族たちの行進」、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」から「戴冠式の場」、ボロディンの「イーゴリ公」から「コンチャーク汗のアリア」と「ポロヴェッツ人の踊り」。1曲目を除き(!)合唱が入る。休憩後はガラリ変わってショスタコーヴィチの「交響曲第5番」。アンコール曲はなし。

 ゲルギエフは、第1部では前夜から一転して野性的な指揮に戻ったが、後半の交響曲では、どちらかといえば節度と均衡を重視したアプローチを守っていた。
 何となくいつもよりオーケストラの演奏の表情がおとなしいように感じられたのは、このホールの音響の所為か、それとも本当に楽員たちに疲れが出て来たのか。他の追随を許さぬはずのロシア音楽のレパートリーでありながら、演奏の感銘度としては、どうやら昨日までの公演のそれには及ばないような。

 それよりも今夜は、ロシアものとあって、歌手が水を得た魚のよう。
 皇帝ボリスを歌ったエデム・ウメーロフは、バラクやアムフォルタスの時とは別人のごとき迫力を示し、完璧なロシアン・スタイルの重厚なバスで、豪快な歌唱を聴かせてくれた。さすがである。これで彼の株は一気に上る。
 コンチャーク汗を歌ったユーリ・ヴォロビエフも、この役には少し若くて軽いけれども、「トロイアの人々」でのナルバルなどの時とはこれも別人のよう。当たり前の話だが、やはりロシアの歌手は、ロシア・オペラを歌うと、発声からして凄味を出すものだ。
 なおウメーロフは、ほんの少しだがイーゴリ公のパートも歌った。「戴冠式の場」では、オレグ・バラショフもシュイスキー公の役をチラリと歌って顔を見せていた。

 ゲルギエフは、今夜も引続き終演後にサイン会。ホワイエは延々長蛇の列。

2・15(火)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー・オペラ
「ワーグナーの夕べ」

   サントリーホール  7時

 「ローエングリン」から第1幕と第3幕の前奏曲、「タンホイザー」の序曲、休憩後に「パルジファル」第3幕全曲というプログラム。

 呼びものは、演奏会形式とはいえ、もちろん「パルジファル」である。
 今回は題名役をセルゲイ・セミシュクール、グルネマンツをルネ・パーペ、アムフォルタスをエデム・ウメーロフ、クンドリをナデージダ・ハドジェーワが歌った。

 歌手陣の中では、何といってもパーペが風格充分、明晰な歌唱でドラマに重心を与える役割を果たしていた。
 男声歌手3人は舞台最前面に立って歌ったが、パーペがほぼ正面を向いた姿で声を良く響かせていたのに対し、セミシュクールとウメーロフはあたかも「譜面に顔を突っ込む」というさまで、譜面と指揮者を見続けた姿で――つまり下手側を向いた姿勢で歌い続けていたので、下手側席の皆さんには好都合だったろうが、正面で聴く限りでは、どうも迫力を欠いたきらいがある。
 クンドリは、この幕では呻き声3つと歌詞2言だけの出番なので、合唱団員の一人が合唱席の中から声を聞かせていた。

 ゲルギエフは、今夜は前日から一転して、持ち前の遅いテンポを発揮、たっぷりと「パルジファル」第3幕を響かせた。2009年にマリインスキー・コンサートホールでライヴ・レコーディングした演奏よりも、さらに格段に遅いテンポだったはずである。「アプローチを変えてみたんだ」と、終演後に楽屋で語ってくれたのは、このことを指していたらしい。
 それでも、この超遅テンポが緊張感を失わせず、作品本来の良さをじっくりと引き出すことに成功していたのは事実である。それにはマリインスキー劇場管弦楽団の豊麗でしっとりした弦の音色の力も役立っていただろう。

 ゲルギエフは、聖杯の間への場面転換の音楽のところでもオーケストラをあまり咆哮させなかった。全体に抑制した表現を求めていたように思われる。
 特に合唱が加わった大詰めの浄化の音楽は、実に柔らかく豊かに飽和して、夢と陶酔に浸るような美しさを生み出していた。このエンディングはまさに絶品であった。ゲルギエフがただの力業一辺倒ではなく、色彩と叙情の面でも卓越した感覚を持った指揮者であることが、ここで遺憾なく証明されたのではなかろうか。

 この「パルジファル」の音楽、私にとっては最近は、ワーグナーの作品の中では一番好きなものになってしまっている。
 慌しい舞台演出に気を散らされることなく、音楽だけに精神を集中できる演奏会形式で聴くと、不思議な陶酔感に浸ってしまう。第3幕の序奏しかり、最後の数分間の音楽しかり。今夜もそうだった――たとえ早すぎる拍手と、騒々しい奇声に余韻をぶち壊されたとしても。・・・・それにしても、「パルジファル」の音楽のあとにあんな反応をする人は、どういう感性の持主なのだろう? あれはもう、音楽に対するテロ行為である。

2・14(月)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー・オペラ
ベルリオーズ:「トロイアの人々」演奏会形式上演

  サントリーホール  6時30分

 演奏会形式で、第1部「トロイアの陥落」90分、第2部「カルタゴのトロイア人」2時間05分。その間に休憩20分を挟んだだけで、それぞれは続けて演奏された。終演が10時30分頃。
 第2部での最初のバレエ曲は省略されていたが、「ディドン(ディドー)の庭園の場」での3つのバレエ曲は全部演奏されるという具合に、ほぼノーカットに近い上演である。それがこの程度の時間枠に納まったのは、ゲルギエフが比較的速いテンポを採り、しかも彼独特の劇場的感覚で、各幕の間隔をほとんど空けずに演奏して行ったからであろう。

 ゲルギエフの指揮したベルリオーズの舞台音楽は、これまでにもマリインスキー劇場で「ファウストの劫罰」を、ザルツブルクで「ベンヴェヌート・チェッリーニ」を聴いたことがあるが、今回の「トロイアの人々」は、それを遥かに上回る出来だ。これは、作品の持つ並外れたスペクタクル的要素がゲルギエフの特質(の一つ)に合っていたことはもちろんだが、手勢のマリインスキー劇場管弦楽団が非常に良いまとまりを示していたためもある。

 終演後の楽屋でゲルギエフに「オーケストラが良い状態にあるのでは?」と訊いたら、「新しい、若い世代が育って来たんだ。5年前から(このメンバーを)育てていた。それがここまで来た」と語っていた。
 5年前――と言えば、あの「指環」を日本で上演した時期だ。なるほど、思い当たるフシも多々ある。

 ともあれ、この劇場のオーケストラが――170人近くのいろいろな水準の楽員がいるのは事実としても――ひところの「荒れ」を解消し、かつての輝きを取り戻していることは喜ばしい。90年代前半における、まろやかで艶やかな、深い陰翳のある「キーロフ・サウンド」こそもう聴かれないが、それは時代の変遷と、ゲルギエフ自身の変貌とに因るものであろうから致し方あるまい。

 今回の来日では、「影のない女」の初日当日の朝4時に着いたとかいう話。それで昼間リハーサルをやり、夜にあれだけの長丁場をこなすとは、さすがロシア人、畏れ入った体力である。あの第1幕が少しガサガサした演奏になっていたのはその所為かとも思うが、それでも第2幕以降はアンサンブルもバランスも音色も均衡を取り戻していたのだった。昨日の2日目はさらにまとまりが良かったとのことだから、オーケストラの水準が平均して上っているのは、間違いないところだろう。

 ただ、今夜の演奏では、第1部が極めてメリハリの強い演奏だったのに対し、第2部ではややおとなしい演奏になっていた感がある。戦艦みたいなゲルギエフとオケのことだから、疲れたわけではあるまい。戦乱の世界を描く第1部と、平和と繁栄のカルタゴを描く第2部との違いを強調したのかもしれない。

 今回は、主役の女性歌手2人が素晴らしい。第1部でトロイアの女予言者カサンドル(カサンドラー)を歌ったムラーダ・フドレイは、声の伸びも劇的な表現力も卓越しており、「影のない女」の皇后役の時よりも遥かに生き生きしていた。中1日おいただけでこの90分の長丁場をほぼ出ずっぱりで、しかも最後まで疲れも見せずに歌ったのはお見事である。
 第2部でのカルタゴの女王ディドンを歌ったエカテリーナ・セメンチュクも、張りのあるスケール豊かな声でこの劇的な役柄を完璧にこなしていた。
 両者とも、ついこの数年の間に頭角を現わして来た、パリパリの若手である。マリインスキー・オペラというところは、何とまあ、あとからあとから座付きの優秀な歌手を輩出するところだろうと、改めてゲルギエフの指導力に感服する次第である。

 ただし、今夜の「英雄」は、どうもあまり適役ではなかったようだ。エネ(アエネアース)を歌ったセルゲイ・セミシュクールは、容姿はいいとしても、声の上ではリリック・テナーで、とてもトロイアの勇士にしてローマ建国の(伝説上の)祖たる英雄という柄ではない。ゲルギエフが彼を起用したのは、何かそれなりの意図があったのだろうが、こればかりはあまり納得が行かない。
 この役が「強く」ないと、英雄譚としてのドラマの性格が弱められてしまうのである。デビューしてまだ数年という若手だそうだから、彼自身に関しては今後に期待しよう。

 その他の歌手では、ディドンの妹アンナ役のズラータ・ブリチョーワ、カサンドルの婚約者コレーブ(コロエブス婚約者)役のアレクセイ・マルコフ、詩人イオパス役のダニール・シトーダ、水夫ヒュラス役のディミートリー・ヴォロバエフが光っていた。
 なお、P席に配置されたマリインスキー劇場合唱団は、男女それぞれ30数人という数でありながら、その質感量感ともに充分。

 この曲は、昔シェルヘン指揮のLPで聴いた時以来の、私の大好きな曲でもあるが、今夜演奏会形式で聴いてみると、もう少し字幕による補助があった方が、初めて聴く人にも解り易かったのではないかという気がする。
 たとえば、「第2幕」「トロイアの平原」「トロイア兵士たちの幕舎が並ぶ海岸」など場面の説明をそれぞれ冒頭に出すとか、歌っている役柄の名を出す(なんせ、登場人物が多いのだ!)とか、「王の狩と嵐」「奴隷たちの踊り」など場面に結びついた曲名を表示するとか――。就中、「王の狩と嵐」の中で女声合唱が短く叫ぶ「イタリアへ!」の歌詞が字幕から無視されたのは、ドラマの進行上、非常に疑問のあるところであった。

 深夜の東京、珍しく「大雪」。幹線道路は渋滞。業を煮やして、クルマの全然いない裏通りをスイスイ抜ける。予め履いていたスタッドレス・タイヤが役に立つ。

2・12(土)ワレリー・ゲルギエフ&マリインスキー・オペラ
 来日初日公演  R・シュトラウス:「影のない女」

  東京文化会館大ホール  4時

 私のすぐ前の席に座っていた外国人の男は、本番中にペットボトルの水を飲んだり、足を組んで通路に突き出したり、頻繁に頭や体を左右に動かしたり、はては見せ場に来ると両腕を上げたり拡げたり、肩をすくめたり、腰を浮かせたり、とにかく無作法で騒々しく、迷惑極まりない。
 ところがどうもコイツが、このプロダクションの演出家ジョナサン・ケント本人だ、と途中で判明。自分の狙い通りに行かないので口惜しがっていたのか、それとも出来栄えに自ら酔っていたのか、――どっちでもいいけど、演出家が本番中に客席でそんな傍迷惑なことやるな、っての。

 そういうヘンなヤツだが、しかし、このジョナサン・ケントの演出は、思いのほか面白い。ポール・ブラウンの舞台美術およびティム・ミッチェルの照明ともども、なかなか好く出来ている。

 カイコバートが君臨する冥界の場面は怪奇で幻想的な光景として造られる一方、人間の世界たる染物屋バラクの家は冷蔵庫や洗濯機や乾燥機やオンボロのライトバンが(食卓の上にはヴォルヴィックのペットボトルが!)並ぶ現代の作業場になっていて、この対照も面白い。
 特に第2幕の幕切れでは、その場面のセットが舞台奥に移動して行き、前方の紗幕に巨大な波が投映されて、バラクの家が超自然的な力に呑みこまれて行く光景が効果的に暗示される(新国立劇場のような舞台機構の完備した劇場だったら、ここはもっとスペクタクルに造れたのではないかという気もする)。

 紗幕と映像が活用されるのは、最近流行の手法だろう。生命の意味とか、子供の誕生の意味などを考えさせるというほど哲学的な演出には見えないが、総じて悪くはない。
 大詰めでは、新しき時代を担う「生まれ来る者達」が登場するが、彼らに不思議に暗い表情と影を持たせているのも、近年の流行か。その中には軍人も(多分2人)いた。皮肉めいた光景である。

 歌手陣では、皇后を歌ったムラーダ・フドレイと、バラクの妻を歌ったオリガ・セルゲーエワが、やや絶叫気味だったものの、怒涛のごとく押し寄せる大管弦楽の波に対抗して気を吐いた。
 フドレイは「マリインスキー・リング」でのジークリンデや、「東京のオペラの森」の「タンホイザー」でのエリーザベトでもお馴染みの若手だが、芸域も広くなっているし、進歩も著しいようである。
 セルゲーエワも日本でブリュンヒルデを聴かせたことがあり、METにも同役で進出した馬力のある人だ。第2幕の幕切れでヒステリー状態になるところなど、大変な迫力を示していた。この作品における事実上の主役たるキャラクターを、精一杯演じていたと言えるだろう。この人の持ち味は、とにかく一所懸命歌い、演じるというところにもある。

 一方、乳母を歌ったオリガ・サヴォーワも日本でブリュンヒルデを演じたことのある人だが、今回はあまり冴えない。
 皇后に「影」を得させようと策動する乳母は、このオペラでは要ともいうべき役柄なのだが、それが残念ながら弱かった。この舞台がドラマトゥルギーの上でインパクトを欠いていたとすれば、最大の原因は、そこにあるだろう。しかしこれは、歌手ではなく、演出家の責任である。
 皇帝のヴィクトル・リュツクと、バラクのエデム・ウメーロフは、演技も歌唱も存在感も、未だしという段階のようだ。

 さて、ゲルギエフの指揮。
 まさに強力無双の趣きだ。こういう大編成でドラマティックな音楽の場合には、とりわけ凄まじい。
 冒頭に炸裂する「カイコバートの動機」があまりに粗っぽい怒号だったので、もしかしたら今夜も・・・・と一瞬不安が頭をかすめたが、幸いオーケストラは曲が進むにしたがってバランスを取り戻して行った。
 鳴らし過ぎとの感もなくはないが、音響に均衡さえ取れていれば、それも良かろう。豪壮な音づくりは、この指揮者の持ち味でもあるのだ。

 第2幕最後のスペクタクル場面では、ホールが崩れ落ちるかと思われるような大音響が悲劇的な光景を描き出した。
 第3幕での、皇后が石と化した皇帝の姿に気づく個所においても、「ヴォツェック」(ベルク)のあのシーンもかくやとばかりの強烈なクレッシェンドが恐怖の感情を描写して余すところがない。

 とはいえ、第1幕でバラク夫妻が言い争いの最中にわずかの間ながらそれぞれの思いにふける音楽や、同幕最後の「夜警の声」などでは、やはりもっと作品本来の叙情性が重要視されるべきではなかろうか。
 第3幕大詰めの大団円の場面にしても同様だ。今回はオーケストラの大音響と、女性歌手2人の叫び過ぎと、合唱団の位置から生じる音のアンバランスとのために、音楽が全体に著しく混濁してしまっていた。ただしこれは、こちらの聴いた席の位置にもよるだろう。
 いずれにせよ、「生命の泉」の場面などでのように、ゲルギエフは官能的で神秘的な響きを作ることでも天下一品の人なのだから、このフィナーレは、もう少し力を矯めた演奏でも良かったのではないか?

 8時半過ぎに上演が終った後、ジョナサン・ケントによるアフタートークが9時過ぎまで行われ、少なからぬ数の聴衆が客席にとどまって、彼の話に耳を傾けていた。終りの方で彼が、ゲルギエフの「野性的な指揮」に魅力を感じる、という意味のことを語っていたのには、こちらもついニヤリとさせられた。

     ⇒モーストリークラシック5月号

2・11(金)チョン・ミョンフン指揮NHK交響楽団
 マーラー「交響曲3番」

  NHKホール  7時

 墨田区は錦糸町のトリフォニーホールから、渋谷のNHKホールまで――今日は天候のせいもあってか首都高はガラガラで、わずか20分足らずで着く。
 こちらN響はC定期。チョン・ミョンフンの客演指揮に、新国立劇場合唱団と東京少年少女合唱隊、藤村実穂子(アルト)を迎え、マーラーの「第3交響曲」が演奏された。

 何と言っても圧倒的な存在感を示していたのは、第4楽章と第5楽章にしか出番のない藤村実穂子である。
 これだけ濃厚な陰翳を備えた深みのある声で、聴き手の心を深淵に引き込むような歌唱を聴かせてくれる人は、世界にも決して多くはあるまい。これを聴けただけでも、ホールに来た甲斐があったというものだ。

 もちろん今夜の演奏は、基本的には、聴き応え充分。
 チョンの指揮には、何となくかつてのような強靭な集中力を欠いている気配も感じられたものの、第2楽章と第3楽章では引き締めたテンポにより、長さを全く感じさせなかった。
 N響もトランペットのソロやホルン群の最弱音個所に些かの乱れがあったとはいえ、ここぞという部分での豪壮な量感は、このオケならではのものだろう。第6楽章での弦楽器群のしっとりとした分厚い響きは見事だったし、その上に初めてフルート、オーボエ、クラリネットが乗って来る個所(ユニバーサル版スコアでは【11】の所)での明るい空が開けて行くような伸びやかな雰囲気は、たとえようもないものであった。

 ただし、「作戦」上の疑問も少々。
 舞台外で吹かれるポストホルン(札響からの客演奏者とのこと)は、きわめて美しかったが、1階席後方で聴いた限りでは、どうも「遠すぎた」感がある。遠方から夢のように響くという点ではよかったろうが、音が聴き取りにくくては意味がない。舞台上で管楽器群が吹き始めると、ポストホルンは完全に消えてしまう。
 それにもう一つ、全曲大詰めではティンパニを4人(4対)に増やして――2組は舞台後方、あとの2組は舞台下手側、というように、大きく距離を置いて配置――いたけれども、テンポが落されて行くにつれ、各奏者のリズムが微妙に合わなくなり、まるで前打音を加えたような音になってしまっていた。これでは、どう見ても具合が悪い。

 全曲終了後に上階席から飛ぶブラヴォーの声は盛大を極めた。藤村実穂子を含め、それぞれのパートや首席奏者たちに飛ぶブラヴォーの大きさが、演奏の水準に応じて実に微細に増減していたのが面白い。
 天井桟敷(?)の熱心な聴衆のこのような反応は、素適だ。コンサートの雰囲気がさらに盛り上がる。

2・11(金)ブリュッヘンの「ベートーヴェン・プロジェクト」第2回

  すみだトリフォニーホール  3時

 珍しくも都心に雪。とはいえ、いくら降っても、ちっとも積もらない。
 フランス・ブリュッヘンと新日本フィルのベートーヴェン交響曲連続演奏、第2回の今日は「第4番」と「第5番」。

 初日の演奏の際にも木管群の意外なふらつきと粗さがチラホラあったが、異なる楽員(客員奏者も若干加わっていた)が出ていた今日は、さらに多い。
 こういう編成と演奏スタイルを採ると、何故それが目立つのやら。理由(らしきもの)は推測できないこともないが、やはりそれでは困る。新日本フィルらしからぬこと。アンサンブルについては、もともとブリュッヘン自身がさほど厳密さを求めていないようだから、それは一向構わないのだが。

 それらを別にすれば、演奏の音楽性それ自体は、真摯で毅然たるものだ。
 特に「第5番」では、第4楽章の提示部リピート直後から展開部全体にかけての剛直な昂揚感が、息を呑むほど素晴らしい。
 展開部の終り近く、第3楽章主題の再現に向かって全管弦楽がなだれ落ちてゆく劇的な個所で、ブリュッヘンは急激なデクレッシェンドを施しており、普通このテの方法は小細工じみて聞こえてしまうものだが、今日はあまりにも弦と木管のバランスや音色が鮮やかだったため、曰く謂い難い幻想的な感覚に引き込まれる。
 いろいろあったとしても、この一連の体験で、すべて善し、ということに。

 なお「第4番」第1楽章最後の和音を、スコア指定のフォルティシモでなくメゾフォルテに落して演奏しているのは、当然ブリュッヘンなりの根拠があるのだろう。理屈の上では不自然だが、不思議な面白さはある。

2・10(木)ラン・ラン(郎朗)ピアノ・リサイタル

  サントリーホール  7時

 満席のサントリーホール。しかし、いわゆる「花束娘」たちが思いのほか少なかったのは、今夜のプログラムの所為かしらん? 
 以前のキーシンのリサイタルなどでは、花束贈呈の他にも客席で写真を撮るオンナノコたちが物凄く、レセプショニストたちが必死で駆け回って制止していたし、ロビーでそのコたちが「なんで今日に限って写真撮ると怒られるのよ!」といきまいていたのに仰天したこともあったが、もちろん今夜はそんな光景は見られない。
 それでも、終演後のロビーを、クロークに行列する大人たちの呆気にとられた顔を尻目に、サイン会の場所に向かって殺到して行くコたちも多い。その勢いの良さたるや、羨ましいほどである。

 プログラムは、前半にベートーヴェンのソナタ第3番と第23番「熱情」、後半にアルベニスの「イベリア」第1集と、プロコフィエフのソナタ第7番(戦争ソナタ)。先頃のウィーン・ライヴと同じ構成だ。

 体調のせいで、座る姿勢をのべつ変えなければならないため、後ろのお客さんに迷惑をかけぬようにと、今日も最後列の席にしてもらう。が、サントリーホールと雖も1階最後列の端の方は屋根の下に深く覆われたような形になっているので、音がやや遠く聞こえ、このホールでいつも聴き慣れた音とは若干違った印象になる。
 聴く席の位置によってその演奏の特徴が違って聞こえるのは当然のことだが、自分が慣れていない位置で聴いた時には、演奏について云々するのは差し控えた方がいい。
 ベートーヴェンの「第3ソナタ」の冒頭で、ラン・ランはこの音楽を何と愉しそうに表現するのだろう、と感嘆させられたことだけを挙げておこう。

2・8(火)ブリュッヘン&新日本フィルのベートーヴェン 第1回

   すみだトリフォニーホール  7時15分

 フランス・ブリュッヘンを客演指揮に迎えた新日本フィルの「ベートーヴェン・プロジェクト」――交響曲全9曲連続演奏会がスタート。
 初日は「第1番」から「第3番」までを一気に取り上げたので、演奏終了も9時45分になった。編成は基本10型だが、もちろん音のエネルギー感は充分。

 「第1番」の序奏が始まった瞬間、遅いテンポの裡にも音楽にキラキラした光があふれているように感じられ、このツィクルスへの期待に胸が躍るような思いになったのだが、その後の演奏からは何故か生気があまり伝わって来ない。練習のし過ぎか何かで疲れが出たのか? 

 パワーが全開したのは「第2番」からだろう。第1楽章の主部では本当に「コン・ブリオ」が爆発、第2楽章では表情の変化も大きく、【C】のあとから【D】の前にかけての最弱音の個所では神秘的な緊迫感さえ生まれていた。
 さらに第4楽章大詰め、ひた押しに押す力感は壮絶を極めた。この嵐のような演奏を聴きながら私は、かつて朝比奈隆氏が新日本フィルとのリハーサルの際に「いきなり悪魔が出て来るようなフォルティシモで! ここが本当のクライマックスだ!」と気合をかけていた時のことをふと思い出した・・・・。

 「第1番」が終わった後、ブリュッヘンは一礼しただけで袖に引っ込まず、ただちに指揮台の椅子に座り直して、「第2番」の演奏に移った。ところが休憩後の「第3番 英雄」のために登場した際には、拍手に答礼しないまま指揮台に上るや、椅子にも座らぬうちにいきなり右手で開始の合図をオーケストラに送った。したがって最初の和音には拍手がかぶってしまったはずで、――録音の方はどうするのか、などと余計な心配をしてしまうのは放送屋出身の哀しき性である。

 この「英雄」も、なかなか良かった。テンポの変化とデュナーミクの起伏はきわめて大きかったが、全曲を一つの不抜な意志が貫いているという感を与える演奏である。
 とりわけ、ホルン群の量感は素晴らしい。コントラバスも3本ながら力強く、強力な低音がオーケストラを支えているという趣をも示していた――たとえば第4楽章後半のポーコ・アンダンテの、木管の主題を弦が引き継ぐ個所ではコントラバスがひときわ強く響き、重心豊かな演奏を生み出す、といったように。

 ただ、こういう微に入り細にわたり設計された指揮には新日本フィルも慣れているはずだろうに、――先頃のブリュッヘンとのハイドン・ツィクルスの時と同じように、時々オヤと思わせられるところがあったのは不思議で、惜しい。
 ともあれ、11日マチネーの「第2回」が楽しみ。
 

2・6(日)シュテファン・ショルテス指揮東京都交響楽団のロッシーニ
作曲家の肖像Vol.81「ロッシーニ篇」

   東京芸術劇場  2時

 ドイツで長く活躍している指揮者だからということで、都響や二期会ではドイツ語読みで「ゾルテス」と表記している。
 が、ハンガリー人だから、「ショルティ」と同じように「ショルテス」の方がいいのではないかと思い、昨年エッセンで聴いて以来、私はこの日記でもショルテスと書いていた。案の定、彼ご本人が来日してから都響事務局が確認したところ、「ショルテスです」だったそうである。

 このショルテスという指揮者、昨年エッセンのアールト音楽劇場で「ラインの黄金」を聴いた時には、演奏時間2時間15分という超高速テンポに度肝を抜かれたものだ。しかしリズム感が抜群なのと、音楽が歯切れよく生き生きしているので、それが決して滅茶苦茶に聞こえない、という良さもあったのである。
 今日の演奏でも、「ウィリアム・テル」序曲の行進曲で弦が飛び跳ねるところなど、すこぶる気持のいいリズムであった。

 演奏されたのは、他に「クラリネットと管弦楽のための序奏、主題と変奏」と「スターバト・マーテル」。クラリネット・ソロは三界秀実。声楽陣は半田美和子(S)小川明子(Ms)望月哲也(T)久保和範(Bs)、晋友会合唱団。

 聴きものはやはり「スターバト・マーテル」。最終曲での直線的で剛毅な演奏の高揚は、実に見事だった。
 それにしても、この曲の最後の個所でのオーケストラの動きは、宗教曲の終結というよりは、まるでオペラの幕切れで「かくてこの主人公は、その数奇で劇的な生涯を閉じたのでありました」と言っているような雰囲気に感じられて、何度聴いても面白い。

 演奏については 音楽の友4月号演奏会評

2・5(土)新国立劇場 團伊玖磨:「夕鶴」

  新国立劇場 オペラパレス  2時

 栗山民也の演出で、2000年12月にプレミエされたもの。雪が猛烈に降る光景が強く印象に残っている。
 あの雪は悲劇的な迫力があって、なかなかよかったが、今回の上演では何故か量がだいぶ減ったようだ。芸術的な理由なのか、経済的理由なのかは知らない。しかし、装置(堀尾幸男)も照明(勝柴次朗)も、相変わらず美しい。

 今日は3日間公演の2日目で、出演は腰越満美(つう)、小原啓楼(与ひょう)、谷友博(運ず)、島村武男(惣ど)、世田谷ジュニア合唱団(子供たち)。
 ヒロインはなにせ美女だし、顔の表情の演技もすこぶる細かいので、舞台映えがする。高音域にもう少し柔らかさがあれば理想的だが、魅力的な「つう」である。どちらかといえば、音楽的にも演技的にも、悲劇的な部分に良さがあるだろう。

 「与ひょう」はまさにどうしようもない、「お前は本当に馬鹿だよ」と言いたくなるようなキャラクターだが、それゆえ演じるのはむしろ至難の業ではなかろうか。今回の小原には、まっとうな芝居の他にも、もう少し心理の複雑な綾の表現が欲しいところだ。

 演奏は、高関健指揮の東京交響楽団。
 高関のオペラは久しぶりだ。いわゆる劇場的な芝居気のない、やや渋くシリアスに沈潜した傾向の指揮という印象だが、それが彼の持ち味でもあろう。
 東京響は、メンバー表によると、高木和弘をコンサートマスターに、すべてのパートに首席奏者が顔をそろえているとのこと。確かに、コンサート並みの手堅い演奏が聴けた。こういう演奏なら有難い。

 今回演奏されているのは、1956年改訂以来広く使われている管楽器の一部縮小版である。
 プログラムの解説によれば、作曲者は「簡素で澄んだ音にした」と語ったそうだが、私はどうしても、オリジナルの編成版――現行版と異なるのはオーボエ、クラリネット各2、ホルン4、トロンボーン3、テューバ1という編成の大きさ――の分厚い、ミステリアスで不気味な音色(特に第2部ではそれが凄味を発揮する)に魅力を感じてしまう。
 高関氏の話によれば、このオリジナル・スコアは現在入手不可能とのこと。

 かつて1970年にビクター・レコードに録音された若杉弘指揮、伊藤京子主演の演奏がその版を使用したものではないかと思われるのだが、以前若杉氏に直接尋ねた時には「何使ったかなあ、覚えてないよ」と言われてしまった上、関係者に当ってもあやふやな返事しか得られなかったので、定かではない。
 しかしあのディスクを聴いてみると、この「夕鶴」の音楽が、今日演奏されるのと異なり、非常にロマンティックでデモーニッシュで、陰翳の濃い、劇的で色彩的な音楽に聞こえるのだ。そういう魔性の「夕鶴」も魅力的だろう・・・・。

2・4(金)東京室内歌劇場 シューマン:「ゲノフェーファ」舞台日本初演

  新国立劇場・中劇場  6時30分

 幻のオペラ、シューマンの「ゲノフェーファ」が、ついに日本で舞台上演された。山下一史指揮、ペーター・ゲスナー演出で、このカンパニーらしく、丁寧に造ってある。これは意義のある、貴重な公演であった。

 しかし、上演の模様を記す前に、ほとほと困ったことを書いておきたい。
 終演後、痛む腰と足を引き摺りながらやっと地下駐車場に通じるエレベーター前に辿り着くと、セコムの警備員と東京室内歌劇場の女性スタッフが立っていて、「皇族がこれからエレベーターを利用するので、あっちの階段で降りてくれ」と言う。しかしそちらのルートはかなりの大回りの距離があり、足には辛いので、こちらの事情を話し、何とかエレベーターを使わせてもらいたい(おそらく1分とかかるまい)と頼んだが、頑として応じない。では乗れるまでに何分待てばいいのかと訊ねると、「20分待っていただきます」と言う。恐れ入った規制だ。

 私は決して皇室反対論者でもないし、まして自分の身体の状態をひけらかして我儘を言うタイプの人間でもないが、抗議をも一切受け付けぬこの融通の利かなさには唖然とした。
 この「番人」たちは、松葉杖を使っている人や、地下2階駐車場にクルマを置いている足の悪い人――地下2階まで行くには、エレベーターを使わなければ車両通行路でも通るしかない――が来た場合でも、同じように大回りのコースを歩かせるのだろうか? 何か手だては、と相談する気配も全く見せず、関係者に連絡してエレベーターの使用のタイミングを問い合わせる素振りもせず、況や相手の身体の状態を訊ねることもせず、ただ一方的に紋切り型口調ではねつけるのだろうか?
 「こういう管理は新国立劇場?」と訊ねたら、セコムの警備員は平然と「今日は貸しホールですから、新国立劇場は関係ありません。主催は東京室内歌劇場です」と答えた。なるほど、それでその主催者の女性が一緒にいて断っていたのか、と気がついた。

 自分が体調を崩してみると、身体に障害を持つ人々の苦しみが、身に沁みて感じられるようになる。私など、たかが神経痛程度だから、我慢して時間をかけて歩こうと思えば出来ないことはないけれども、もっと重い障害を持つ人がこのような規制に遭遇したら、その不便さは如何ばかりであろう? 主催者の見識を問いたいところだ。

 さて、その東京室内歌劇場制作の「ゲノフェーファ」である。場外乱闘(?)の話はともかくとして、こういうレパートリーを取り上げる意欲は偉としたい。
 これは、シューマンが珍しくもオペラに手を出した、晩年の作品だ。ゲノフェーファとは中世の領主の貞淑な人妻の名で、夫ジークフリート伯爵が戦地に赴いたその留守中に、陰謀者により不倫の疑惑をかけられ、あわや処刑されそうになるが、間一髪そこへ――という具合に、最後は大団円になる。これが、オリジナルの筋書である。

 今回のペーター・ゲスナーの演出では、予想通り、ただのハッピーエンドにはならないという設定にしてある。それはそれでいいが、もともと話の展開に少々無理があるところへ持って来て、登場人物の動きにも何か腑に落ちないところがある演出になっているので、ストーリーがどこか辻褄の合わないものに思えて来る。演出家にはもう少し多くブーイングが出るかと思ったが、それほどでもなかった・・・・。

 シューマンのこの音楽は、昔から必ずしも評判は良くなかったようだが、なかなか美しい。いたるところにシューマンの語法が出て来る。歌の部分には彼の歌曲の手法がしばしば顔を見せるし、オーケストラにも彼の交響曲や協奏曲でおなじみの音楽が見え隠れする。
 それが魅力の一つでもあるのだが、その反面、どこまで行っても音楽が同じような雰囲気で、ドラマティックに追い込んだり、色彩を変化させたり、キャラクターごとに音楽の描き方を変化させたり、という手法に不足する(これらは既に先人たちが指摘しているところだ)。

 かの有名なハンスリックはこの曲を「叙事詩」と評したそうだが、私はむしろ、オペラというよりは「叙情詩的音楽物語」とでもいった性格が強いのではないか、と感じる。シューマンの才能を以ってすれば歌曲でも充分物語ることが出来るのに、やはりオペラを書きたかったのだなあ、と微笑ましい気持にさせられる作品である。

 山下一史の指揮は、しかし、こういう音楽の長所をも欠点をも巧みにまとめて、盛り上げるところは盛り上げ、しかるべく起伏をつくり上げて作品の美しい魅力を引き出すことに成功していた。
 弦6型編成のオーケストラ(東京室内歌劇場管弦楽団)も、冒頭はいかにも貧弱な音色だったのでどうなることかと危惧されたが、さすがに序曲の途中からみるみる音のバランスが整い、本幕では充分にふくらみのある演奏が展開されて行った。シューマン得意のホルン(角笛)の扱いなどにもっと冴えが欲しいところではあったが、2日目の公演では、何とかなるだろう。

 歌手陣では、ヒロインの天羽明恵が光った。夫ジークフリート伯爵の今尾滋、魔女マルガレータの星野恵理も歌唱が安定している。いずれも演技は少々類型的で、まだるっこしいところも多いが、これは演出のせいで、仕方あるまい。
 ゴーロを歌い演じたクリスチャン・シュライヒャーは、リリカルな声だ。この役柄は優柔不断を絵に描いたようなもので、その行動がもともと滅茶苦茶な上に、演出も一貫性を欠くため、かなり損な役回りにされているが、実は一番細かい表情と演技を見せ、存在感を明確にして舞台を引き締めていたのが、この人だった。
 共演は、大澤建(ドラーゴ)、小島聖史(ヒドゥルフス)、大澤恒夫(バルタザール)ほかの人たち。合唱は東京室内歌劇場合唱団。

 休憩1回(20分)を含み、終演は9時少し過ぎ。
 

2・1(火)METライブビューイング プッチーニ:「西部の娘」

   東劇(銀座)  7時

 今年1月8日上演のライヴ映像。ニコラ・ルイゾッティ指揮、ジャンカルロ・デル・モナコ演出、デボラ・ヴォイト主演。
 新演出ではないが、このオペラのMET世界初演100年を記念する上演として大々的にPRされていたものだ。

 これは映像で見ても、実によく出来ていて面白い。
 デル・モナコの演出は完全に写実的で、しかもマイケル・スコットの舞台美術が奥行感を強調した装置であるため、スクリーン上ではあたかもリアルな映画かTVドラマを見ているような気になる。写実性もここまで行くと、説得力がある。

 第1幕での酒場、第3幕での街路の造りなど特に巧みで、普通の舞台なら登場人物は基本的に左右平面の配置になるものだが、ここでは視覚的に奥に向かって深く配置される形に見えるので、群集が乱闘したり気勢を上げたりする場面では、たっぷりと厚みのある光景が現出されるのだ。

 それにイタリア・オペラといえど、物語の舞台はカリフォニルニアの鉱山の町だから、アメリカの歌劇場にとってはまさに地で行く趣きがあろう。人物の演技も、ことごとくサマになっている。
 登場人物の99%は男声歌手。カウボーイの扮装ではないが、「西部の男」スタイルがピシリと決まる。主役の男性歌手2人はイタリア人だが、「子供の時から西部劇の映画を見ていて憧れていた」と、インタビューで語っていた。
 そういえば、昔「イタリア歌劇団」で日本の合唱団員が共演した際に、誰か女性スタッフだかが「男の人って、いくつになってもピストル抜いて撃ち合いをする真似が好きなのね」と笑っていたのを思い出す。

 デボラ・ヴォイトが、声は流石に少し硬くなったものの、人好きのする鉄火女ミニーをなかなか可愛く演じていた。
 ディック・ジョンソン役のマルチェッロ・ジョルダーニは、温厚で愛嬌のある顔立ゆえに、どうみても盗賊団の親分という雰囲気でないのが惜しい(?)が、声楽的にはもちろん文句ない。
 最高の当り役は、もちろんジャック・ランス役のルチオ・ガッロだ。彼の風貌が、如何にも西部の、それもややひねくれた保安官にぴったりというせいもあるだろう。歌唱にも味がある。
 この3人の主役が並ぶと、ジョルダーニがいやが上にも巨大に見え、ガッロはおそろしく細身に、ヴォイトは小柄に見える。何となく可笑しい。
 脇役では、ドウェイン・クロフトがソノーラ役で意外に渋いところを見せていた。

 ルイゾッティの指揮は、いわゆるプッチーニ節を強調したりハッタリを利かせるといったものではなく、すっきりと引き締めてまとめて行くといったものに聞こえる。
 もっとも私たちは、彼が東京で東京響を指揮した「ドン・ジョヴァンニ」などでの歯切れのいい、胸のすくような音楽づくりを知っている。あれに比べると、この録音からは彼の本領はあまり伝わって来ないようだが・・・・。

 今回の案内役はソプラノのソンドラ・ラドヴァノフスキーで、体格はジョルダーニに匹敵するくらい雄大だ。インタビューも進行も、意外に巧い。みなさん、本当に達者である。

 あまり馴染みのないオペラなので、今回は客席も少々寂しく、一種の粛々たる(?)雰囲気に支配されているのが残念。
 だが、それでも面白いのは事実だ。今月末には、ジョン・アダムズ作曲、ピーター・セラーズ新演出による「中国のニクソン」が上映されるそうな。これは観てみたい。
 

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